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科学と疑似科学とを判別する(2)

1diamonds8888x:2021/03/06(土) 19:44:21 ID:Qix9q/lA
「科学と疑似科学とを判別する」のバート2です。1000件越えたら、こちらにどうぞ。

2Ken:2021/04/03(土) 22:25:14 ID:l3c2r2bk
>[>>943]は全文その通りです。

そうであるなら、私の方から指摘したいことがあります。その中で、下の要請にも答えられると思います。

>[>>942]と[>>944]の「【重点項目】」以降の文章についても、合わせてのレスをいただけますか?

私からの問題提議は、この部分に関連します。

>「Pではない」という表現を「命題Pは正しくない」という意味で使って来ました

diamonds8888xさんの文意を私が正しく理解しているという前提で問いますが、このような意味で「P∧¬P」はありえないというのは、「基準」なのでしょうか? その切り口での問題提議なので、diamonds8888xさんの意図を理解してないように思える文章がしばらく続くかもしれませんが、忍耐をお願いします。

まず、私たちが議論している「基準」とは、具体的な科学理論を対象とし、ある理論は、例えば反証可能であるというような、正しいステップを踏んで構築されたが、別の理論はステップを踏み外した疑似科学と判定するもののはずです。そして、正しい科学理論であれ、疑似科学であれ、科学理論であるなら、なにかの具体的な事象を予測するはずです。たとえば、

光は粒子である ∧ 光は波動である

という理論を考えてみましょう。この理論がどういう具体事象を予測するかを考察するには、まず、なにをもって「粒子」とみなし、「波動」とみなすかの定義が必要になります。そこで、私は>>687で、

粒子とは離散的な「かたまり」
波動とは周期的な変化

と定義しました。あるいは、この定義に異論をもたれるかもしれませんが、今は、定義することの例に挙げているだけなので、お付き合いください。つまり、

光は粒子である ∧ 光は波動である

という命題は、ただちに、

光は離散的な「かたまり」である ∧ 光は周期的な変化である

という命題になり、そこから、

光は離散的な「かたまり」の事象を示す ∧ 光は周期的な変化の事象を示す

になります。つぎのステップは、それぞれの事象の例を挙げることですが、その事象の例が、古典力学と量子力学で異なります。今は、古典力学で話を進めましょう。

古典力学では、光が示す粒子性の例として、

A:回折しない / 真空中を伝わる / 質量移動を起こす

ことが挙げられ、波動性の例としては、

B:屈折する / 交差する / 質量移動を起こさない

が挙げられました。この場合とくに「質量移動を起こす」と「質量移動を起こさない」に注目すると、

(光は粒子である ∧ 光は波動である)

という理論から、

(光は質量移動を起こす ∧ 光は質量移動を起こさない)

という事象が予測されるのであり、その予測内容から、「光は粒子である∧光は波動である」という理論を検証できることになります。とくにこの場合には、基準05が違反とみなす「P∧¬P」に該当するかの検証が可能になります。

具体事象を予測できるのだから「光は粒子である∧光は波動である」は、疑似科学かどうかはともかくとして、すくなくとも科学理論であり、科学理論であるから基準の対象になります。

重要なことは、粒子と波動の定義が、

粒子とは離散的な「かたまり」
波動とは周期的な変化

であることで、そこに古典力学の知識体系を適用することで、

粒子は質量移動を起こす
波動は質量移動を起こさない

が導かれるわけです。

ところが、もし、粒子と波動のそもそもの定義が、

粒子とは質量移動を起こすもの
波動とは質量移動を起こさないもの

であったらどうでしょうか? その定義から出発して、

粒子は質量移動を起こす
波動は質量移動を起こさない

を導くのは、科学理論でしょうか? 私には、到底そうは思えません。そして、どう考えても、今回diamonds8888xさんが言われていることは、これの同類ではないかと思うのです。

「太陽が昇らない」の定義は、「太陽が昇る」の定義の補集合といわれるわけですね。でも、そこから「太陽が昇る∧太陽が昇らない」に該当するどんな具体事象を想定できますか? というよりも、具体事象は想定不可能だから、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は絶対に実現不可能、というのがdiamonds8888xさんの主張ではないのでしょうか?

ですが、具体事象を想定できないのなら、そもそも科学理論ではないし、基準の対象でもないでしょう。逆の言い方をするなら、判定対象がないのなら、基準05自体の存在理由がなくなりませんか?

結局、基準05とは、なんのために、そこにあるのですか?

3Ken:2021/04/03(土) 22:32:34 ID:l3c2r2bk
diamonds8888xさんの最後の投稿番号が947だったので、まだ同じスレッドでいけると思いましたが、強制的に新しいスレッドに入れられました。

4diamonds8888x:2021/04/04(日) 08:24:13 ID:Qix9q/lA
>>3
 了解です。
 なお新しいスレッドでは、[>>番号]の形で旧スレッドのコメントを直接参照することはできません。仕方ないですね。

5diamonds8888x:2021/04/04(日) 08:32:29 ID:Qix9q/lA
>>2
> 結局、基準05とは、なんのために、そこにあるのですか?

 一番簡単に言えば。我々が検討している基準は「科学理論ではない」ものを除くためのフィルターです。基準に反するものは「科学理論ではない」のは当然です。

> 粒子とは離散的な「かたまり」
> 波動とは周期的な変化
>    〜中略〜
> (光は質量移動を起こす ∧ 光は質量移動を起こさない)
> という事象が予測されるのであり、その予測内容から、「光は粒子である∧光は波動である」という理論を検証できることになります。

 ここまでは全くその通り。「とくにこの場合には、基準05が違反とみなす「P∧¬P」に該当するかの検証が可能になります。」というのが具体的に何をすることと想定しているのかわかりませんが、普通はこのあと次のように推論が続きます。

  ・「P∧¬P」と矛盾が生じたのだから、この理論は正しくない。つまり、ここまでの前提のどこかが正しくない。
  ・どこが正しくないのか検討する。

 これは基準05も何も、普通の科学理論研究そのものです。

>であったらどうでしょうか? その定義から出発して、

> 粒子は質量移動を起こす
> 波動は質量移動を起こさない

> を導くのは、科学理論でしょうか?

 論理的に間違いではありませんが、省略可能な推論ですよね。でもやったのはもっと複雑な推論でしたよね? やったのは次のような推論でしょう?

A:回折しない / 真空中を伝わる 
   =>故に光は粒子である =>粒子の定義により /(光は)質量移動を起こす

B:屈折する / 交差する
   =>故に光は波である =>波の定義により / 質量移動を起こさない

   =>故に 「(光は質量移動を起こす ∧ 光は質量移動を起こさない)」

 この後は上記と同様にして、この理論は正しくない。つまり、ここまでの前提のどこかが正しくない。

 以上のように、「これの同類ではないかと思う」というところの「これ」というのが何かが私にはわかりませんが、それ以降の文は独立して理解できますよ。


>ですが、具体事象を想定できないのなら、そもそも科学理論ではないし、基準の対象でもないでしょう。逆の言い方をするなら、判定対象がないのなら、基準05自体の存在理由がなくなりませんか?

 まともな科学理論と科学理論と自称していて実は科学理論ではないものとが判定対象です。その2種類を識別するのが基準の目的です。「そもそも科学理論ではない」というような判断をくだすための基準です。

 具体事象を想定できるか否かは基準には入れていません。Kenさんが独自基準として入れるのは勝手ですが、今はKenさんの基準をテーマにしてはいないでしょう? 入れてもよさそうにも思えますけど、それは基準01-06とは別の基準ですから、今の我々の議論で考慮すべきことではありません。

6diamonds8888x:2021/04/04(日) 09:03:22 ID:Qix9q/lA
>>2,>>5
> 結局、基準05とは、なんのために、そこにあるのですか?

 念を押せば、Kenさんが「科学理論ではない」とすぐにわかるから対象にするまでもない、と考えるような理論をも含めて判定するための基準です。トンデモさんはどんなとんでもない理論を「科学的だ」と自称してくるかは予測できませんからね。判定すべき対象は判定者が選べるわけではないので、条件は付けられないんですよ。

7Ken:2021/04/07(水) 23:04:56 ID:l3c2r2bk
はじめに、

>[>>番号]の形で旧スレッドのコメントを直接参照することはできません。

旧スレッドは、どうやら、

jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5329/1524257541/

というディレクトリにあるようなので、たとえば、これまで「>>800」のようにして参照してきた投稿は、

jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5329/1524257541/800

と、そのディレクトリの中の番号を指定すると呼び出せるようです。私が作ったプログラムではないので、保証はできませんが。

8Ken:2021/04/07(水) 23:05:45 ID:l3c2r2bk
さて、本題です。

>具体事象を想定できるか否かは基準には入れていません。

考えてみれば、そもそも、なぜ、特定の理論を「疑似科学」と判定して、人々の注意を喚起したり、教育の場から排除する必要があるのでしょうか? そのような「疑似科学」が、「正しい科学」の発展を妨げるからこそ、「基準」を設けて、ふるいにかけるわけですよね。

ですが、具体事象を出さない「疑似科学」に、いったい何ができますか? 具体性をもたない抽象論と、具体事象を追求する科学には、そもそも接点がなく、抽象論が具体論を妨げることなどできません。そして、今回、明らかになったのは、diamonds8888xさんが基準違反の例に挙げられた「太陽が昇る∧太陽が昇らない」も、その抽象論のたぐいということでした。私は、ここが分からなかったので、長い行き違いが生じたのです。

当初、私は、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」が意味するのは、同じ1つの太陽が「ω>0」と「ω≤0」という2つの速度を示すという具体事象と思っていました。だからこそ、これはまだ「東に昇る∧西に昇る」を論じていた時でしたが、コンピュータ・シミュレーションの話までして、それが実現可能と主張しました。

ところが、diamonds8888xさんの論点は、「ω>0」と「ω≤0」の並立は「太陽が昇る∧太陽が昇らない」そのものではなく、法則aが破れないことを前提にした場合の具体例にすぎないので、法則aが破れ、現実に「ω>0∧ω≤0」が観測されたら、「昇る」「昇らない」の定義が変わり、「ω>0∧ω≤0」(正確には「ω₁>0∧ω₂≤0」)は「昇る∧昇らない」ではなく、「昇る」か「昇らない」のどちらかに含める、というものですね。943で確認したのはそのことでした。

jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5329/1524257541/943

でも、それなら「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は、抽象論になります。そして、私の問題提議は、抽象論が科学の発展を妨げるか、というものです。

例を挙げましょう。優れた業績を上げた科学者で、神を信じている人はいます。アインシュタインは難解な表現をするので判定が難しいのですが、それでも彼の語録を総合すれば、やはり神を信じていたと思います。ましてや、ガリレオやニュートンなどは、時代背景からして無神論者だったとは考えられません。それでも、原理主義者でもない限り、そこに矛盾はみないでしょう。「神が存在する」などは、抽象論だからです。

歴史を見ると、「疑似科学」が科学を妨げたと評価されるのは、抽象論の域を越えて、具体論を出した時なのです。

例えば、17世紀のアッシャー(James Ussher)という人は、旧約聖書を詳細に研究して、世界が誕生したのは、前4004年と算出しました。旧約聖書には、最初の人間アダムからの系譜と、父親が何歳のときに息子が生れたという記述があるので、年代が確定した時代から遡れば、算出は可能です。それでも研究者によって結論は異なり、同じ経典に拠りながら、ユダヤ教では創世は前3760年、ギリシャ正教では前5508年とされたと、アジモフは著書の「The Wellsprings of Life」の第3章で述べます。いずれにせよ、創世から数千年しか経っておらず、アッシャーの結論では、今年(2021年)は、世界ができてから6024年後になります。

問題は、世界が前4004年に誕生したというのは、抽象論ではなく、具体論であることです。そこから、自然科学との衝突が起こりました。

アジモフはアッシャーの結論を紹介した後、1世紀以上を経た18世紀末の歴史を語ります。この時代には地質学の研究が進み、岩がどういうプロセスで形成されるかが分かってきました。そこから、現存する地層が、たかだか数千年でできたはずがないという結論になり、創世が数千年前という理論と矛盾します。そこで、旧約聖書を字義通りに信じる人は、地質学の結論を否定しました。宗教と科学が対立した1事例で、原因は、「創世は前4004年」という具体論を出したことにあります。

また、旧約聖書では、神は創世の5日目に魚のような水中生物と鳥のような飛行生物を作り、6日目に人間を含む陸上生物を作ったとあります。ここから、それぞれの生物種は別々に作られたという具体論が生じ、人間を含むあらゆる生物は共通先祖をもつという進化論との対立が生じました。

どちらの例をみても、「疑似科学」が「正しい科学」を妨げるのは具体論を出す時で、抽象論にとどまる限りは、ことさら「疑似科学」などと称して、問題にする必要がないだろう、というのが私の考えなのです。

9Ken:2021/04/07(水) 23:06:17 ID:l3c2r2bk
では、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」という「疑似科学」はどうでしょうか? これが、正しい科学の発展を妨げることができるか、思考実験をやってみましょう。

今の私たちは法則aを支持してますから、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は実現しないと考えます。正確に言いますと、法則aが破れないのだから、これは、同じ太陽で「ω>0」と「ω≤0」という2つの速度が観測されることはない、という意味です。

そこに、それは起こりうるという主張が現れた場合を考えます。その場合、主張者に向けて「正しい科学」が発する最初の言葉は、

〜では、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」を表す事象を見せてください

になるはずです。もしも主張者の側が、「今は観測できないが、理論的にありうる」と主張するなら、今度は、

〜では、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」を具体事象として語ってください

になるでしょう。今回の議論で、diamonds8888xさんが私に求められたのは、これでしたね。普通はこれで決着がつくはずですが、もしも「具体事象」の定義が不明確で議論が混乱するなら、このように要求すればよいのです。

〜では、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」を、コンピュータ・シミュレーションで実現してください

もしも、具体事象として表せるのなら、たとえば法則aのように、現在支持されている法則と一致しようがしまいが、シミュレーションで実現できるはずです。シミュレーション結果を見れば、「ω>0」と「ω≤0」の並立が可能かどうかはすぐに分かり、論争は終わります。

慎重を期すため、今度はその逆。正しい科学が「太陽が昇る∧太陽が昇らない」がありうると主張し、「疑似科学」の側が、それを否定する場合を考えましょう。

もしも、正しい科学が「太陽が昇る∧太陽が昇らない」という主張をするなら、必ず具体事象を示すはずです。最初に「昇る」とはω>0が観測されること、「昇らない」とはω≤0が観測されることと定義し、その上で、ω>0とω≤0という速度を示す2つの太陽が、実は同じものであると示す事象を挙げることでしょう。私が何度も挙げたことです。

(1)2つの太陽の大きさ、等級、質量、スペクトル型等が同じ
(2)黒点やフレアが同じ形状で同じタイミングで現れる
(3)巨大天体が衝突してどちらか一方が破壊されたら他方も同時に破壊される

これに対して、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」を否定する側が、「太陽が昇らない」は「太陽が昇る」の補集合であるから、ω>0とω≤0の観測だけでは、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」の命題が成立していない、と言ったところでどうなりますか? 正しい科学の主張はあくまでも「ω>0∧ω≤0」の具体事象であって、抽象表現ではないのだから、関係のないことです。

「ω>0∧ω≤0」の状態を、ある人は「太陽が昇る」と表現するかもしれないし、別の人は「太陽が昇らない」と表現するかもしれません。「太陽が昇る∧太陽が昇らない」と表現する人だって現れるかもしれませんが、どうでもよいことで、言わせておけばよいのです。抽象論でだれが何を言っても、具体事象を否定することも、それが世に及ぼす影響を妨げることもできません。そういう人は仲間内で神学論争をしているだけです。

非常に重要な点ですので、再度強調します。かつて地質学や進化論が反対されたのは、そこに旧約聖書の記述という具体論があったからです。

抽象論だから「疑似科学」ではない、とまで言い切るつもりはありませんが、具体事象を挙げないのなら、「神を信じる」と同列のものであり、科学が相手にするべきものではないだろう、というのが私の考えです。もしそれを問題にするのなら、科学的根拠に基づかないあらゆる信仰や思想まで問題にせねばなりません。

よって、やはり基準05の存在理由は私には見えません。

10diamonds8888x:2021/05/29(土) 07:51:48 ID:Qix9q/lA
>>8, >>9
 リンクの間違いでしばらくアクセスできずお待たせしたと思います。すみません。
 ただ、またしばらく忙しくて発言が途絶えると思いますので御了承のほどを。


 抽象と具象とを区別し過ぎていませんか? 抽象は具象から生まれたものであり、無関係ではありませんよ?

 典型的には、りんごの数、皿の数、人数、星の数、などから個別に異なる属性は捨ててしまって(つまり抽象して)得られたのが"個数"という抽象概念です。この抽象概念を使えば、「どんな具体的対象に関しても」4個の塊が3個集まれば総個数は3✕4で知ることができます。星は星で具体的に確認しないとだめだ、なんて言う人はいません。

 自然法則も抽象概念で、例えばニュートンの第1-第3法則は、様々の具体的な固体粒子の運動に共通する性質を抽象化したものです。論理法則もそうで、諸々の自然法則や数学定理、そこまでまとめられていなくても日常の正しい推測のパターンなどに共通するパターンを取り出した抽象概念です。

 ¬(P∧¬P)もその共通バターンのひとつであり、Pがどんな文でも成立するものです。具体的な文にしたら違うかも知れないなどというのは、星の数の場合は3✕4=12個にはならないかも知れない、というようなものです。

11名無しさん:2021/05/30(日) 23:33:56 ID:l3c2r2bk
問題は、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」などと表現する人を、

「あの人は疑似科学者ですよ。気をつけましょう」

と、注意を喚起しますか、ということです。具体論でないのなら、論理的整合などは、科学が知ったことではないのでは?

たとえば文学としてなら、「太陽が昇り昇らず」なんて表現が現れても、だれも問題にしないと思いますよ。あるいは、昔の軍歌に、

「見よ東海の空あけて、旭日高く輝けば」

という一節がありましたが、「旭日」とは日の出の直後の太陽だから、高く輝くはずがありません。水平線か地平線の近くの低い位置にあるはずです。でも、この歌のせいで、日の出の直後の太陽が高角座標に位置すると、そんな誤解が生じると思われますか?

結局、ただの文学表現なのか、それとも科学表現なのか。それを分けるのは、現実に起こる具体事象と主張するかではないのでしょうか?

>第1-第3法則は、様々の具体的な固体粒子の運動に共通する性質を抽象化したものです。

ニュートンの法則は、抽象化というよりも、具体論をまとめた一般化というべきでしょう。重要なのは、ニュートンの法則からは、物体がどう動くのか、個別の具体事象を導けますが、

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」

からは、それができないのです。(できるとするのが基準05だと、私は長く誤解してたのですが。)もしも、

同じ太陽で「ω>0∧ω≤0」という速度が観測される

という具体論にできるのなら話は別ですが、そうではないのですよね。

>星の数の場合は3✕4=12個にはならないかも知れない、というようなものです。

たとえば文学表現として、

3つ星の星団が4つで、星の数は11

というだけなら、科学の知ったことではありません。

具体事象として、11個の星があるというのなら、科学の対象になります。そして、その場合は、私が「東に昇る∧西に昇る」や「昇る∧昇らない」で行なったのと同様の考察が、つまり、3つ星の星団が4つあるという事象と、合計11の星があるという事象の並列が、絶対に起こりえないか、を考察することになるでしょう。

ただし、diamonds8888xさんの基準として、抽象表現でも、科学を妨げるからアウトだといわれるなら、本スレッドでは従いますが、そうなると、禅問答などは軒並みアウトになると思います。芸術や宗教などは、科学とは関係のないところで存在していると思うのですが、その存在も許されなくなるでしょう。

12Ken:2021/05/30(日) 23:35:23 ID:l3c2r2bk
>>11は私の投稿です。失礼しました。

13diamonds8888x:2021/06/06(日) 12:03:48 ID:Qix9q/lA
>>11
 論理法則は抽象的とは言えますが、文学ではなく、具体的事象と無関係でもありません。
 抽象的な万有引力の法則と同様にりっぱな科学の法則です。
  (科学ではなく数学だとかいう重箱の隅のツッコミは却下)

 抽象的ならば文学?? あんまりふざけないでください。

 言葉の使い方、というより概念の分類がおかしいですよ。次のものは抽象ですか具体的ですか? そして、それは文学ですか?
   万有引力の法則
   マクスウェルの方程式
   ピタゴラスの法則
   シュレジンガーの波動方程式
   熱力学第2法則
   エトセトラ

14diamonds8888x:2021/06/06(日) 12:10:56 ID:Qix9q/lA
>>11,>>8,>>9
 まず旧の942,944,については理解してもらえてますか?
[tps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5329/1524257541/942]
[tps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5329/1524257541/944]

 Kenさんの941の認識を追認しているだけですけどね。
[tps://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5329/1524257541/941]
> 太陽が昇る ∧ 太陽が昇らない
> 「太陽が昇る」が正しい ∧ 「太陽が昇る」は正しくない

> この2つが論理構造上、同じであるとは思えません。もっとも、


 まあでも、まずは「抽象論は科学には不要」みたいな偏見をまず正してもらうのが先ですね。
 このコメントはメモとして残します。

15diamonds8888x:2021/06/06(日) 12:26:39 ID:Qix9q/lA
>>11,>>13
 ああ、なるほど躓いたのはここですか?
 論理法則はまさしく、おっしゃる通りの一般化に他なりません。

>ニュートンの法則は、抽象化というよりも、具体論をまとめた一般化というべきでしょう。重要なのは、ニュートンの法則からは、物体がどう動くのか、個別の具体事象を導けますが、
>「太陽が昇る∧太陽が昇らない」
>からは、それができないのです。(できるとするのが基準05だと、私は長く誤解してたのですが。)もしも、

 基準05の論理規則は「¬(P∧¬P)」ですからね。個別の具体事象では、
 「(太陽が昇る∧太陽が昇らない)という事象は起きない」ですからね。

>同じ太陽で「ω>0∧ω≤0」という速度が観測される
>という具体論にできるのなら話は別ですが、そうではないのですよね。

 だから、具体的にはそんな現象が「起きない」という命題です。

 否定命題はすべて具体論ではないとでも言うのですか?

 以下の命題は抽象論であり科学ではないのでしょうか?
 ・エネルギー保存則に反する事象は起きない
 ・物質が理由もなく消滅することは起きない
 ・1+1は4ではない
 ・ エトセトラ

16Ken:2021/06/06(日) 19:05:09 ID:l3c2r2bk
どうも「抽象的」という言葉でひっかかってるようですが。

>抽象的ならば文学?? あんまりふざけないでください。

「抽象的」でなければ、何と表現すればよいのでしょうか?

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」が論理的にありえないことは分かってるつもりです。私が言いたいのは、論理的にありえない表現は、世にあふれているではないか。それをすべて「疑似科学」として問題にされますか、ということなのですが。

前回は軍歌を挙げましたが、今度は童謡の例を出しましょう。

春の小川は さらさら行くよ
岸のすみれや れんげの花に
姿やさしく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやきながら

この歌を字義通りに解するなら、「川」という無生物が、意思をもって語りかけてることになりますから、これも立派な「疑似科学」になりませんか? しかもこれは文部省唱歌だから、学校という教育の場に疑似科学を持ち込んだわけで、天地創造論を学校で教えるのと同列でしょう。

でも、そんな理由で、こういう歌を学校で教えることが問題視された話を聞いたことがありません。なぜでしょうか?

理由は簡単です。上記の歌は文学表現で、科学的表現ではないからです。では、文学表現と科学表現はどこが異なるのでしょうか?

私は、こう考えます。言葉で表現されることが、現実の具体事象であると主張するのが、科学表現であると。もしも、「川」が意思をもって語るという事象が現実に起こると主張するなら、それは科学表現であり、よって、科学として正しい形をとっているかが問題になるでしょう。でも、上記の歌は、そうではないのだから、問題にされないだけではありませんか?

さて、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」という表現ですが、ここからは、

同じ太陽で「ω>0∧ω≤0」という速度が観測される

のような具体論にならない、というのがdiamonds8888xさんの論点ですよね。それなら「旭日高く」や「川がささやく」とかわるところがなく、ことさら「疑似科学」などと問題視する必要がないのでは、と指摘してるのですが。

17Ken:2021/06/06(日) 19:42:42 ID:l3c2r2bk
たとえばニュートンの法則からは、どういう具体事象は起こりえて、どういうことは起こりえないか、が導けるのです。ニュートンの第2法則は、

F = ma

ですから、

1kgの質量に1Nの力が働けば1m/s²の加速度を生じる → 正しい
1kgの質量に1Nの力が働けば2m/s²の加速度を生じる → 正しくない

のように。

ですが、

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」

からは、具体事象が出てこないのです。それなら、この論理式が正しかろうが誤りであろうが、科学の知ったことではない、と私は思うのですが。

18diamonds8888x:2021/06/12(土) 17:07:01 ID:Qix9q/lA
>>16,>>17
 基準05の文章とはまるで質の違う歌やら文学やらの文章を長々と書くのは記憶容量の無駄使いです。そりゃまあテキストだし、ほぼゼロに等しい量だけど。

>どうも「抽象的」という言葉でひっかかってるようですが。

 「抽象的」の普通の意味を狭くして、ひっかかってるのはKenさんの方ですが、それはともかく。

>「抽象的」でなければ、何と表現すればよいのでしょうか?

 御自分で言ったでしょう?「具体論をまとめた一般化[>>11]」でいいですよ。

>「太陽が昇る∧太陽が昇らない」

>からは、具体事象が出てこないのです。

 >>15 参照。

 「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は抽象論だと考えるのですか?

 「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は「決して実現しない具体事象」です。「実現しない具体事象」「存在しない具体事象」という概念が使えなければ背理法も使えず、論証というものが使えなくなります。ついでにゼロが発明だか発見だかされることもなかったでしょう。
 で、Kenさん好みの言葉を使うならば、「P∧¬P」というのが一般化された命題ですね。そして「決して正しい具体論はあり得ない一般論」というのがピッタリでしょう。

19Ken:2021/06/13(日) 00:51:28 ID:l3c2r2bk
問題はここですね。

>「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は「決して実現しない具体事象」です。

私がいう「具体事象」とは、どのような観測がなされたらそれが実現したといえるか、が明示的に定義されることをいいます。「ω>0∧ω≤0」が具体事象であるのは、それを成立させる観測事象が明らかであるからです。繰り返し挙げていますが、

--------------------------------------------------------------------------
2つの太陽が観測され、一方は ω > 0 の角速度を、他方は ω ≤ 0 の角速度を示す。また、この2つの太陽は、

(1)2つの太陽の大きさ、等級、質量、スペクトル型等が同じ
(2)黒点やフレアが同じ形状で同じタイミングで現れる
(3)巨大天体が衝突してどちらか一方が破壊されたら他方も同時に破壊される

という特徴を示す。
--------------------------------------------------------------------------

科学理論とは、このように事象を具体的に定義するものです。そして「疑似科学」が科学を妨げるものであるなら、少なくとも、科学と同じ土俵に登らねばなりません。事象の具体化は、疑似科学にもまた必要なのです。

私は、当初、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は、上記のような観測事象を意味するもので、diamonds8888xさんは、そういう観測事象が起こり得ないと主張されているものと思っていました。ところが、そうではないことが分かったのです。

上のように定義される「ω>0∧ω≤0」と、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」はイコールではない、という点が問題の根幹になります。「ω>0∧ω≤0」が現実に観測されたら、「昇る」「昇らない」の定義が変わり、「ω>0∧ω≤0」は「昇る」と「昇らない」のどちらかに含まれるわけですよね。旧スレッドの943でそれを確認しました。

でも、それなら、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は、具体事象として、どういう観測がなされるべきかという定義がないのです。それは「科学」でないのみか「疑似科学」にもならないのではありませんか? 

こう考えてみてはどうでしょうか。

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」という主張が現れたとして、それが「正しい科学」のどの部分を妨げるのでしょうか? どんな理論、どんな知見を否定しますか?

天動説は地動説を妨げたし、アッシャーの理論は地質学を妨げました。でも、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」にそんなことができますか?

ただし、「論理式として正しくないものは、それだけで疑似科学の要件をみたす」と言われるのなら、それは1つの見識ですから、本スレッドで反対することはありません。ただ、それなら、「旭日高く」や「川がささやく」のような文学表現も、多くの経典に現れる宗教表現も、すべて、科学を妨げる疑似科学として、排除の対象になりますが、それでよろしいですか、とお尋ねしています。

20Ken:2021/06/13(日) 07:10:19 ID:l3c2r2bk
「一般化」について、もう少し、語りましょう。

ニュートンの法則は、たしかに一般化です。それは個別事象をまとめたもので、法則から個別事象を予測することができます。第2法則(F=ma)からは、

1kgの質量に1Nの力が働けば1m/s²の加速度を生じる
1kgの質量に2Nの力が働けば2m/s²の加速度を生じる
2kgの質量に1Nの力が働けば0.5m/s²の加速度を生じる

のような具体事象が予測されますし、もし予測がはずれ、

1kgの質量に1Nの力が働けば2m/s²の加速度を生じる

のような具体事象が観測されたら、一般化された法則は否定されるのです。

ところが、

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は実現しない

という法則はどうでしょうか? ここから、なにかの個別事象を予測できますか?

当初、私は、予測できるのが当然の前提であり、予測される観測事象としては、

「同じ太陽がω>0とω≤0の2つの速度を示す」は実現しない

であると考えたのです。ここでは「昇る」の定義は「ω>0」、「昇らない」の定義は「ω≤0」としています。

ところがdiamonds8888xさんから、もしも現実に「ω>0∧ω≤0」が観測されたら、「昇る」「昇らない」の定義が変更され、「ω>0∧ω≤0」は「昇る」か「昇らない」かの、どちらか一方になる、という指摘がありました。

それなら、

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は実現しない

という法則は、予測に反する個別事象で否定されることはありえず、言い換えれば個別事象を予測してないことになりますから、一般化とはいえないでしょう。

「一般化」でないとすれば、何と表現すればよいのでしょうか? 私は「抽象論」「文学表現」「神学論争」という言葉で表現しようと試みてきました。「神学論争」と呼ぶのが適当かもしれません。個別事象を予測するのではなく、観測される事象をどういう言葉で表現するかを、問題にしてるのですから。

私の論点はお分かりでしょうか? 私は、

「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は実現しない

が間違いといってるのではありません。間違いではないが、具体的な観測事象を対象とする科学には応用することができず、そもそも科学と接点がないのだから、疑似科学の判別もできないのでは、と言っています。

21ゲジゲジ:2021/06/13(日) 12:47:18 ID:ceF1Bqvc
久しぶりにヨコから失礼します。

どうやら科学と疑似科学とを判別する「基準」を議論する以前の所、“「基準」を適用する対象は何か?”という所で食い違っているようですね。

私は単純に次のように考えていますし、そういう認識でお2人の議論を見守ってきたのですが、どうやらKen様は違っていたようです。
diamonds8888x様は如何でしょうか?

すなわち、【科学と疑似科学とを判別する「基準」は、「科学を称している理論」を判別するものである。】
具体論とか抽象論とかではなく・・・

私の考えをもう少し具体的に述べておきます。
ken様の投稿 >>8から

---以下引用---
例を挙げましょう。優れた業績を上げた科学者で、神を信じている人はいます。アインシュタインは難解な表現をするので判定が難しいのですが、それでも彼の語録を総合すれば、やはり神を信じていたと思います。ましてや、ガリレオやニュートンなどは、時代背景からして無神論者だったとは考えられません。それでも、原理主義者でもない限り、そこに矛盾はみないでしょう。「神が存在する」などは、抽象論だからです。
---ココまで---

「神は存在するという考えは科学的に正しい」とか
「神は存在することは科学的に証明されている」といった主張は疑似科学です。

「(私は)神は存在すると思う」とか、あるいは
「(科学では解明されていないが)神は存在するのが真実だ」という主張は疑似科学ではありません。


---以下引用---
また、旧約聖書では、神は創世の5日目に魚のような水中生物と鳥のような飛行生物を作り、6日目に人間を含む陸上生物を作ったとあります。ここから、それぞれの生物種は別々に作られたという具体論が生じ、人間を含むあらゆる生物は共通先祖をもつという進化論との対立が生じました。
---ココまで---

「神は創世の5日目に(略)陸上生物を作ったと考えるのが科学的だ」なら疑似科学、
「神は創世の5日目に(略)陸上生物を作ったと私は思う(信じる)」だったら疑似科学ではありません。


実際には「科学を称している」かどうかというのは、前後を含めた文脈で判断されるケースが多いと思います。

「旭日高く」や「川がささやく」のような文学表現は、文学表現として語られるのであれば疑似科学ではありません。
多くの経典に現れる宗教表現も、信仰の場で語られるなら疑似科学ではありません。
しかし科学の議論をする場で同じ事を言ったなら、疑似科学として批判されるでしょう。
これらは具体論であろうが抽象論であろうが、科学の議論の場からは排除されねばなりません。

そもそもの議論のきっかけになったID論も、ドーキンスが「疑似科学だ」と批判したのは、「科学的仮説の1つとして科学教育の場で教えよ」という主張だったからです。
もし「科学とは別の考え方として、宗教教育の場で教えよ」という主張だったなら、「疑似科学だ」という批判はできないはずなのです。
いや、もしそれでも「疑似科学だ」という批判があったとしたら、「科学が信仰に口を出すな」という反論ができるはずだし、そういった反論は妥当なものであるはずです。


(余談)
アメリカでのID論は、「公教育の場で科学的仮設の1つとして教えよ」と主張されました。
もし本当に「公教育の場で宗教教育として教えよ」という主張がなされたなら、「政教分離の原則に反する」という批判が起こりそうですが、科学か疑似科学かの議論とは関係のない事です。

23diamonds8888x:2021/06/20(日) 09:35:48 ID:Qix9q/lA
>>21
>すなわち、【科学と疑似科学とを判別する「基準」は、「科学を称している理論」を判別するものである。】

 うーん、その点ではKenさんも私も同じだとは思うのですが。
 むしろ抽象と具象との区別とか、概念上の分類の違いが微妙に食い違ってて唖然とすることがあるし、未だにわかりにくいんですよね。使う言葉の意味がずれちゃってるという感じなんですよ。

24diamonds8888x:2021/06/20(日) 10:03:47 ID:Qix9q/lA
>>19
>上のように定義される「ω>0∧ω≤0」と、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」はイコールではない、という点が問題の根幹になります。「ω>0∧ω≤0」が現実に観測されたら、「昇る」「昇らない」の定義が変わり、「ω>0∧ω≤0」は「昇る」と「昇らない」のどちらかに含まれるわけですよね。旧スレッドの943でそれを確認しました。

 定義が変わった(変えざるを得なかった)原因は「ω>0∧ω≤0」が現実に観測された」からではありませんでしたよ。Kenさんが角速度や位置というものの定義を変えたからです。同時に2つの値を持つ量である、とね。


>>20
>予測される観測事象としては、

> 「同じ太陽がω>0とω≤0の2つの速度を示す」は実現しない

> であると考えたのです。

 その通りですよ。それで問題ないのに。

>ところがdiamonds8888xさんから、もしも現実に「ω>0∧ω≤0」が観測されたら、

 それはKenさんの想定でしょう? そして、あたかも「ω>0∧ω≤0」が観測されたような事態において、「同じ物体が同時に2つの角速度や位置を持てる」という理論を提案したのはKenさんであって私ではありません。私はただ、そのKenさん提案の理論では定義を変えざるを得ないということを指摘したに過ぎません。

 ちなみに私なら「同じ物体が同時に2つの角速度や位置を持てる」という理論など提案しませんよ。観測されたのはあくまでも2つの太陽の視覚的像ですから、次の理論が有力と考えます。
  ・2つの像は別の天体のものである
  ・2つの像は同一天体の2つの像である

25diamonds8888x:2021/06/20(日) 10:19:44 ID:Qix9q/lA
>>19,>>20
 少し順を変えて話して見ましょうか。

>「ω>0∧ω≤0」が具体事象であるのは、それを成立させる観測事象が明らかであるからです。繰り返し挙げていますが、
> --------------------------------------------------------------------------
> (中略)
> --------------------------------------------------------------------------

  (中略)部分の3つの現象(角速度含めれば4つ)が具体事象でもあり観測事象でもあることには同意しますが、「ω>0∧ω≤0」すなわち「同じ太陽の角速度が同時に正値と負値とを持つ」は、これらの観測事象を説明しようとする理論であって、具体事象とは言えません。理論と言っても公理というよりは、「異なる位置にある2つの太陽が、実際にその位置にある同一物である」という公理から導かれる定理というべきでしょうね。
 今までの議論の流れではKenさんが、「上記1-3が観測されたら同一の太陽とみなす」と勝手に定義しただけです。

 ここで基準05に従えば、「異なる位置にある2つの太陽が、実際にその位置にある同一物である」という理論は疑似科学と判定されます。基準05に反する命題「ω>0∧ω≤0」が導かれたからです。

 ここで「同一質点が異なる2つの位置を取れる」という仮定を使えばどうか? というのがKenさんの理論でしたよね?
 この仮定自体も別の意味で疑似科学の匂いはしますが、これまでの基準01-06ではカバーしてない話ではあるので、そこは保留しておきます。

 しかしこの場合は昇ると昇らないの意味を明確にしないと「太陽が昇る∧太陽が昇らない」の意味が曖昧になることを私は指摘しました。そして明確にするならば基準05には反しないことも互いに了解できましたよね?
 あくまで反するというなら、それが証明できると言うなら、当然ながら「同一質点が異なる2つの位置を取れる」という仮定を含む理論は、基準05に従い疑似科学と判定されます。

 では基準05に反しない理論が考えうるかといえば、例えば[>>24]で示した理論です。
>  ・2つの像は別の天体のものである
>  ・2つの像は同一天体の2つの像である

26diamonds8888x:2021/06/20(日) 10:25:25 ID:Qix9q/lA
>>20
> 「太陽が昇る∧太陽が昇らない」は実現しない

> という法則は、予測に反する個別事象で否定されることはありえず、言い換えれば個別事象を予測してないことになりますから、一般化とはいえないでしょう。

 もしかして、基準05は(論理法則における矛盾の否定は)ポパーの反証可能性がないから科学理論ではない、と言いたいのでしょうか?

 Kenさんが反証可能性の意味をちゃんと理解したのかどうかも不明なのですが、きちんと答えてください。そんな意味とは考えてもいないとかなんとか。

27Ken:2021/06/20(日) 22:46:18 ID:l3c2r2bk
まず、問われたことに答えます。

>もしかして、基準05は(論理法則における矛盾の否定は)ポパーの反証可能性がないから科学理論ではない、と言いたいのでしょうか?

具体事象を出さないのなら、反証以前に、そもそも検証ができないから、科学/疑似科学の対象にもならないのでは、と言いたかったのです。

>使う言葉の意味がずれちゃってるという感じなんですよ。

その対策は1にも2にも具体化することです。この投稿も、徹頭徹尾、具体化の試みと思ってください。

3段階に分けて質問しましょう。すべて、これまでに論じたことですが、明示的な回答をいただいたという認識がありません。

まず、科学とは具体事象を扱うもので、疑似科学が科学を妨げるものであるなら、疑似科学も具体事象を扱わねばならない。そうでなければ、妨げるどころか科学との接点がない。この点には、同意をいただけますか?

天動説もアッシャー理論も具体事象を語ります。カール・セーガンは「Broca's Brain」という著書で、幽体離脱や算数ができる馬をpseudoscienceの例に挙げましたが、これも具体事象です。むろん、私が出した「ω>0∧ω≤0」の例も具体事象です。

これらが具体事象である証拠は、コンピュータ・シミュレーションで実現できることです。シミュレーションでは、私たちが知っている物理法則と矛盾する事象は実現できても、具体化されない事象は実現できません。私の「ω>0∧ω≤0」の例がシミュレーション可能と示すため、旧スレッドの840でstar_Xの変数構造を示しました。star_Xには、独立して変化できる2つの位置情報があるのです。

疑似科学理論であっても、シミュレーションで実現可能な、具体事象を語らねばならない。この点に同意をいただけますか?


同意をいただけるとして、ではdiamonds8888xさんが想定する「太陽が昇る∧太陽が昇らない」の具体事象とはどういうものですか? 私の例が、例として正しくないのなら、ご自身が考える具体事象をお示しください。その具体事象をコンピュータで実現するとして、どういう構造の変数を用いますか? これが第2の質問です。まずは、変数の構造定義からお願いします。


第3の質問は、上の前提が誤りである場合です。具体事象を出せなくても疑似科学は疑似科学と主張されるのなら、「旭日高く」のような、世にあふれる論理矛盾と、「太陽が昇る∧太陽が昇らない」はなにが異なるのですか? なぜ一方は基準05違反の疑似科学で、他方はそうではないのでしょうか?


まとめます。

(1)疑似科学も、具体事象を出さねばならないことに同意されるか?
(2)「太陽が昇る∧太陽が昇らない」の具体事象はどういうものか?
(3)「太陽が昇る∧太陽が昇らない」と「旭日高く」は何が異なるのか?


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