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minglingましょう

27ニュッサ:2012/01/13(金) 15:28:11
>>25

正教の言う、テオーシスには、そういう操作はいっさいありません。
霊はもちろんのこと、魂もからだも、存在すべてが、神のエネルゲイアに与り、

生きたままで、この肉眼の目まで神化されて、神を生きたまま、肉眼の目で見る
ことができると言うのですから。

けれど、リーの言うテオーシスは、そういう「切り分け」が前提になっています。

御霊は人間の霊とひとつになっている神のいのちですが、

それは魂にすっぽり覆われていて外に出ることができないわけです。

この神のいのちは、霊と魂の切り分けという操作を通して初めて、
ヒビがはいり(魂が砕かれると言う言い方をしますね)、外に出て
くるわけです。

これについては、テオーシスという言葉は使っていませんが、ニー
も全く同じことです。

28ニュッサ:2012/01/13(金) 15:49:07
>>25

旧創造は完全に根絶されるというのは、ひとつの考え方ですね。

旧創造と新創造の断絶と連続については、3つ考え方があると思っています。

ひとつは、旧創造と新創造の断絶、
二つ目は、旧創造と新創造の連続、
三つ目は、旧創造と新創造の非連続(断絶)の連続

ニーやリーは、そしてほとんどの西方キリスト教はひとつめの立場を取ります。
ですから、それに合わせて、テオーシスを考えた場合、何らかの操作が当然、
必要になるわけですね。

ギリシャ教父や東方キリスト教は、二つ目の立場を取ります。ですから、この
生きた身のままで、神化されて、肉眼で神を見ても何の問題もないわけです。

最近のプロテスタントにも、こういう立場をとる人が出始めたのは興味深い
ことです。N.T.ライトがそうです。

それについては、知っているかもしれませんが、
このHPをご覧ください。
ttp://cwn.way-nifty.com/cwn/cat5918917/index.html

私自身は、3つ目の立場を取ります。

旧創造と新創造は断絶しているが、連続も同時にしている。
これは、西洋的な論理では単なる矛盾ですが、西田幾多郎の非連続の連続という
用語をお借りして、そう考えている次第です。

もしかしたら、ウェスレーはこの立場なのではありませんか。

「ウェスレーの救済論―西方と東方キリスト教思想の統合」を読むとそう思えます。


いったん、このニーの影響を保留して、東方キリスト教つまりギリシャ教父まで戻り、
そこから、また、東方と西方との統合ということを考え出して来たというのが、私の
たどってきた道です。

29山谷真少佐:2012/01/13(金) 16:12:38
魂が砕かれて内住のキリストの霊が現れ出る契機を、ホーリネス諸派ではよく「自我の磔殺」と言って、乃公にもなじみ深い概念です。

正教には「切り分け」の精神的操作は無いということですが、たとえば砂漠の隠修士マカリオスは、世から退く、孤独を過ごす、断食する、沈黙行に入る、迫害されても抵抗しないなど、「世からのハードな切り分け」は実践してますよね?

30名無しの神学さん:2012/01/13(金) 16:27:46
>>29
その「切り分け」はまた別だよ。知識をひけらかすのは止めよう。

31山谷真少佐:2012/01/13(金) 16:42:59
いや。ここは非常に重要だぜ?

「切り分け」という精神的操作無しで神化するなら、ニー派、リー派の「宗教」と正教は別物ということになるんだ。

32ニュッサ:2012/01/13(金) 16:48:52
そうですね。ただ、それは単に、祈りに集中するためであって、
根本的には、この世の生活が悪だという意識はないと思います。

しかも、そうやって、砂漠にひきこもって祈る修道者たちは、
ひとりでありながら、世界とつながっている意識があります。

むしろ、世界と真に連帯するため、砂漠でひとりで祈るわけです。

なぜなら、正教の救いとは、全被造物、全宇宙の救いであり、
変容だからです。

ですから、彼らは祈りの力の現実性を信じています。
祈りは、まさに神化の祈りであって、アトスの祈りがなければ、
世界は滅んでいただろうと。

その辺の事情は、「シルワンの手記」という本が詳しいです。

ただ、補足ですが、

もちろん、ネオプラトニズムに影響されている人たちは、
世や魂からの切り分けを言います。例えば、エヴァグリコスなどです。
でも、それは本来の東方にはないものです。

そう言えば、正教で終末について話されるのを聞いたことは一度もないです。

彼らにとっては、終末はすでに実現されたものであって、
ヨハネの現在的終末論を地でいっていると思います。

33ニュッサ:2012/01/13(金) 17:02:20
>>31

ある意味、別物です。

ですから、私は、こう言ったら、地方教会の人たちに叱られると思いますが、
リーは東方キリスト教のテオーシスの劣化版、あるいは歪んだかたちのテオーシス
だと思っているのです。

別物とも言えるのですが、
歪んだかたちにせよ、テオーシスというものを伝えているということにおいては、
意味があると。

実際、地方教会の兄弟に聞いたことですが、
リーは、アメリカで、アメリカ正教会の指導者であるカリストスウェアと交わりが
あったそうなのです。

何か確かめたいことがあったら、カリストスウェアの元に相談に人を行かせて、
それで、答えをもらっていたそうです。

ですから、その地方教会の人は否定すると思いますが、
私は、神化ということ自体、正教会からヒントを得たのではないかとさえ思って
います。

ところで、もし別物ということになると、
ニーやリーだけでなく、西方キリスト教の神秘主義のほとんどが別物です。

まあ、私は完全に別物とは思いませんが、

東方においては、十字架のヨハネがいう「霊の暗夜」がないという指摘を
ロースキィが「キリスト教東方の神秘思想」で行なっているので、お読みください。

この本は、まさに、量は比べ物になりませんが、
東方では、バルトの教会教義学と匹敵するほどの重要性を持つほどの本です。

これほど、感動した神学書は今までなく、数知れないほど繰り返し読みました。
未読でしたら、ぜひぜひお薦めします。

34山谷真少佐:2012/01/13(金) 17:11:33
ロースキィ、未読です。

エヴァグリコスというのは、二人のマカリオスに師事したポントのエヴァグリオスですか?

35ニュッサ:2012/01/13(金) 17:18:17
>>34

失礼、エヴァグリオスです。

そうです。東方では、グノーシス主義に引き続いて、ネオプラトニズムの超克が
問題でした。

36暇人:2012/01/13(金) 18:59:20
>>22
※ウイットネス・リー神学を考える※
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1143545295/

【命】のフットノート
この節と、10、18、21節、第6章4節、第8章2、6、10節の「命」は、神の永遠の、神聖な、非受
造の命(ゾーエzoe)を言っています。それは、わたしたちの命としてのキリストご自身です(ヨハ
ネ11:25.14:6.コロサイ3:4)。これは、わたしたちの肉体の命(ビオスbios・・ルカ8:14)とも、
魂の命(プシュケpsuche・・マタイ16:25−26.ヨハネ12:25)とも異なります。この神の永遠の命
は、わたしたちに与えられた神聖な恵みのおもな要素であり、この永遠の命の中で、わたしたち
は支配することができるのです。

ニーではなく、リーは、フットノートで
いのちを「ゾーエ(永遠の命)」と「プシュケー魂の命」と「ビオス(肉体の命)」に
切り分けているようですね。
ニーのテキストが確認できんですね

37山谷真少佐:2012/01/13(金) 19:17:11
ニーの『霊の人』において、三分説に基づいた肉の人、魂の人、霊の人、という聖化の行程が述べられていたと思いますよ。

38ニュッサ:2012/01/13(金) 19:35:19
そうですね。

そこにおいては、リーもニーと変わることはないです。

だから、決して、リーはニーと無関係に教えを組み立ているわけではないのです。

ニーという一階に二階を足しているわけです。

39暇人:2012/01/13(金) 19:47:10
ttp://www.dr-luke.org/Topics/denyself.html
唐沢氏「自己を否むことについて」

「人は創造された時、チリから体を構成され、神が命の息(霊)を吹き込むこと、
生きた魂になったとあります(創世記2:7;直訳、→「人間とは?」)。
すなわち物理的な構造体である体の中に神の霊が吹き込まれた時、
体と霊の相互作用によって、魂が誕生したのです。
魂は思い、意志、感情からなり、自己の存在の中核です。
魂はパーソナリティーの座であるのです。」

この解釈は山谷氏と同一線上ですね。
あとで創世記2:7のヘブライ語原文を確認してみましょう

40ニュッサ:2012/01/13(金) 19:52:06
>>39

問題は、その魂に、積極的な意義を認めるかどうかということですね。

ヴィオロンさんと同じく、K氏も、ニーに従って、魂に積極的な意義は認めない
と思います。

自分の信仰は、ニーの範囲に従っていると言っているわけですから。

41暇人:2012/01/13(金) 19:54:41
ttp://www.dr-luke.org/Topics/Manindepth.html
唐沢氏「霊の機能と魂・体の相互作用について」

ニーの『霊の人』に基づいて、"霊精神身体医学"論を構築されたようですね。
唐沢氏を媒介にすると
「① 霊の人(1コリ2:15)、② 魂の人(1コリ2:14;原語)、③ 肉の人(1コリ3:1)です。
霊の人は人の言葉によらず、自らの霊によって御霊の照明の下で神の事柄を判断します。
魂の人(新改訳では"生まれながらの人")は、自らの魂(知・情・意)を用いて、
神の事柄を知ろうとしますが、それは愚かに見え、結局は受け入れません。
肉の人は、自らの肉的性質によって物事を判断し、意思決定し、行動する人です。
霊的なことは霊によってのみ知り得るのです(1コリ2:14)。」

1コリも後ほどギリシア語原文を確認することにしましょう

42ニュッサ:2012/01/13(金) 19:57:37
霊と魂を対立的に見る見方については、

例えば、ペンルイスの「霊の力対魂の力」を参照。

ttp://www.geocities.jp/ogcclib/book6chap1.html

聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています。

43暇人:2012/01/13(金) 20:13:20
>>42
それの第六章がどうやら、ビオラさんの根拠のようですね。

「魂の力」対「霊の力」
第6章 魂と霊の区別 〜フォウセットの注解から〜
ttp://www.geocities.jp/ogcclib/book6chap6.html

>聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています
該当箇所が見当たりません

44ニュッサ:2012/01/13(金) 20:15:37
上記のペンルイスからの引用、

「「魂と霊さえもばらばらに切り離して」。すなわち、霊から動物的な魂を分離するまでに及ぶこと。魂は、人の非物質的性質の低次の部分であり、獣類と同じ動物的欲求の座である。同じギリシャ語が、コリント人への第一の手紙2章14節「生まれながらの(動物的な魂の)人」や、ユダの手紙19節で使われている。霊は人の高度な部分であり、神の霊を受け入れ、人を天的なものに結びつける。「関節と骨髄」。関節と骨髄の両方にまで達して切り離す。

キリストは「人の中にあるものを知って」おられる(ヨハネによる福音書2章25節)。それゆえ、彼の御言葉は、人の最も深い隠された部分、感情、思いにまで達して、霊的なものを肉的で動物的なものから分離し(区別し)、霊を魂から分離する。箴言20章27節も同じである。

レビ族の祭司たちは、ナイフを用いて、緊密に結合している四肢の関節を切り離し、最も深いところにある骨髄(ギリシャ語原文では複数)をも刺し通した。それと同じように、神の御言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在――魂と霊――を切り離し、霊のもろもろの深みをも刺し通す。」


問題は、引用の中の、魂は動物的な低次な部分であり、霊は神的な高次な部分である
とみなす見方です。

例えば、ルターにおいては、肉とは神に逆らう人間存在全体であり、霊とは神に従う
人間存在全体であり、そういう観点をもってパウロを解釈しているのであって、

決して、実体的な区別として、霊、魂、からだを考えているわけではありません。

そして、この実体として、霊、魂、からだを区別して、からだはもちろん、魂を低次と
考え、

霊を高次と考える見方こそ、グノーシス主義やネオプラトニズムの嫌疑がかかるところです。

つまり、東方におけるエヴァグリオスの位置と似ているわけです。

45ニュッサ:2012/01/13(金) 20:23:08
>>43

>聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています
>該当箇所が見当たりません

それについては、ウォッチマンニーが本を一冊書いているのです。
The Latent Power of the Soulという本です。

ttp://www.worldinvisible.com/library/nee/5f00.0634/5f00.0634.c.htm

また、ジェシーペンルイスの「聖徒の戦い」

これらの本の中で、その当時はまだ聖霊運動もカリスマ運動も始まっていませんが、
ウェールズで始まったリバイバルの聖霊的現象を、魂の力という観点から批判して
います。

46ニュッサ:2012/01/13(金) 20:27:43
失礼、「聖徒と戦い」でした。

この本は共著ですが、共著者であり、ウェールズリバイバル指導者のエバンロバーツ
の言葉もこのことを裏書します。

ttp://ogccl.blog10.fc2.com/blog-entry-42.html

特にこの箇所に注意。

「悪霊どもと彼らの方法を知る人なら誰でも、最近のリバイバルの動きを研究する時、すべてのリバイバルが神のものとサタンのものとの混合であること、また、(いわゆる)「異言運動」ほど悪霊どもの働きの割合が多いものはないことがわかるでしょう。」

47ニュッサ:2012/01/13(金) 20:33:25
簡単に言うと、

彼らは、悪霊は魂を通して働くと考えています。

ですから、どうしても、霊と魂を切り分けて分離しなければ、
神の務めにさえも、悪霊の影響が混ざってきてしまうのだと。

ここに至ると、
リーの言うような、魂におけるサタンの内在と50歩100歩の違いしかありません。

魂の外に、悪霊がいて、外から影響を及ぼすか、
それとも、魂の内側にいて、内から影響を及ぼすかの違いでしかありません。

48山谷真少佐:2012/01/13(金) 20:34:39
堕罪した人間の「魂」はサタンの内住の場所、というリー派の教説ですが、乃公的にこう考えてみました。

魂の機能は宇宙的な15の法領域(数学的、法的、音楽的、美的…)に沿って展開してると思われ。これら15の法領域を司っているのが「天使的諸力」(ストイケイア)だ、と乃公は考えます。

すると、魂の機能は、いつも天使的諸力の管理下、監督下、影響下に置かれてる、と見ることになる。

で、天使的諸力は潜在的に悪鬼的な性質を秘めていて、実際、悪鬼化する天使的諸力もいたわけです。こう考えるなら、人間の魂は非再生の状態において天使的諸力/悪鬼の影響下にある、と言えるんじゃないでしょうか。

そう考えて証拠聖句を挙げるとするなら

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、
 不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、
 肉や心の欲するままに行動していたのであり、
 ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」

以上はエフェソ2章の御神言が証拠聖句になるんじゃないでしょうか。

ただし、上記は「悪鬼の魂への内住」まで表現してませんので、リーの教説は行き過ぎかと。

続く2章6節の栄光に満ちた宣言、

「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし
 −あなたがたの救われたのは恵みによるのです−
 キリスト・イエスによって共に復活させ、
 天の王座に着かせてくださいました」

上記は、信者がキリストと結合されて、現状すでに信者は天の栄光の座(神の聖臨在)に参入させられている、と述べています。

信者はすでに神の栄光に参入している、と。ここから、

正教は、「切り分け」が無くても、すでに万物は神の栄光に引き上げられている、と解釈するのでしょう。

一方、リー派は、信者が自覚的に「切り分け」しない限り、信者の魂は占拠され続け、天的栄光を享受することは出来ないとして、「切り分け」を栄光の実体化の必須条件に立てるのでありましょう。

49ニュッサ:2012/01/13(金) 20:42:02
そうですね、ただ山谷さんの考えと異なるのは、

ニーにおいては、再生しても、魂自体が悪しきものであると考えており、
魂は、悪にも善にも働くのではなく、絶えず、悪の法にしか働かないと
考えるところなのです。

山谷さんの考えはどう考えても、グノーシス主義やネオプラトニズムと
無縁ですが、

(リーはもちろん)ニーの考え方は、
それらとの親近性を示しているように感じます。

50ニュッサ:2012/01/13(金) 20:43:16
失礼、悪の法ではなく、悪の方です。

ちょっとお休みしますね。

51暇人:2012/01/13(金) 22:05:20
>>39
>人は創造された時、チリから体を構成され、神が命の息(霊)を吹き込むこと、
>生きた魂になったとあります(創世記2:7)

ヘブライ語テキストでは
「ニシュマット(息を) ハイーム(命の)」=「プノーエン(息を) ゾーマス(命)の」(70人訳)
「レ・ネフェシュ(魂に) ハヤー(活ける)」=「プシュケーエン(魂に) ゾースアン(ザオー現在分詞 生きている)」(70人訳)

ふむ。なるほど。

52暇人:2012/01/13(金) 22:37:58
70人訳 創世記二章
ttp://www.septuagint.org/LXX/Genesis/2

聖霊派【その1:人間の創造】
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/shukaikowa/09kakikowa1.htm

53ニュッサ:2012/01/13(金) 22:53:58
>>52

聖霊派と書いてあるのは、私の師である私市先生の夏期集会での講話ですね。

先生は、異言は語られますが、いわゆる聖霊派ではなく、無教会の流れですので
一応、言っておきます。

54暇人:2012/01/13(金) 22:59:44
>>41
>「① 霊の人(1コリ2:15)、② 魂の人(1コリ2:14;原語)、③ 肉の人(1コリ3:1)

1コリを確認したが、文脈的には
2章でプシュキコスな人とプネウマティコス(霊的な人)が対比され、同じ対比が
3章ではプネウマティコイス(霊的な人々)とサルキノイス(肉的な人々)という対比となっており
意味的にプシュキコスな人=サルキノイス(肉的な人々)なので、
三者への切り分けは聖書的根拠がない唐沢氏の誤読です

55ニュッサ:2012/01/13(金) 23:11:13
>>54

K氏と言うより、ニーの誤読というべきだと思います。

ただ、ニーの教えは、聖書から演繹できないのです。

むしろ、教えが先にあって、それに当てはまる聖句が引用されている。

しかし、この教えにはまってしまうと、聖書がすべて、この教えを通してしか
読めなくなります。


ちなみに、フェヌロン、ガイオン夫人、ペンルイス、ウォッチマンニーという
流れですが、

フェヌロンやガイオン夫人は、カトリック教会によって、静寂主義(正教のヘシカスム)
とは別物)として異端にされています。

魂の働きを悪としてみなせば、受動的にならざるをえないので、その判断はある
意味、正しい判断と言えるでしょう。

56暇人:2012/01/13(金) 23:11:21
>>53
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/repreprofile.htm

無教会に参加される前に
フィンランド宣教グループの教会でバプステマ体験されるのです。
その後に、無教会派の小池辰雄門下となり独立されて集会を持たれるのです。

このフィンランドの宣教グループは関西を中心に足跡を残されるのですが
ルーテル派の中の聖霊派グループなのです。

57ニュッサ:2012/01/13(金) 23:19:03
>>56

その経緯については良く知っております。

また、小池先生も、無教会の中の聖霊派とも言ってもいいですしね。

ただ、先生の解釈は、特に聖書主義的聖霊派的な解釈ではなく、むしろ、文献批評学も
取り入れた無教会のメインの流れなので、そう申したわけです。

58暇人:2012/01/13(金) 23:25:28
暇人も聖霊派体験(異言)を持ちつつ文献批判を受容しています
同級生にも同志社神学部大学院を出て聖霊派牧師をしている者もいます。

聖霊派すべてが文献批判を無視しているわけではありません

59ニュッサ:2012/01/13(金) 23:30:05
>>58

暇人さんはキリスト者なのでしょうか?

それはともかく、そういう人が増えることは望ましいです。

聖霊派全てが、文献批評学を無視しているわけではないと思いますが、
それでも、聖霊派のメインは、いわゆる聖書主義的な人たちだという
感覚を私は持っています。

ですから、聖霊派と書かれると、ちょっと私の感覚と違うだけで、
議論するほどのことではないと思います。

60暇人:2012/01/13(金) 23:49:10
>>7

For this body is a similitude of the soul,
and the soul is the image of the Spirit ;
and as the body without the soul is dead,
and unable to do anything at all,
so without the heavenly soul,
that is, without the Divine Spirit,
the soul is dead from the kingdom,
being unable to do any of the things of God without the Spirit.

マカリオス P224

61暇人:2012/01/13(金) 23:56:45
>>59
ニュッサさんの主観はどうあれ
「いわゆる聖霊派ではなく、無教会の流れです」は間違いであり
私市さんは聖霊派です。これはとても大切なことです

ご自身が
「ちなみに私の所属する集会は、無教会の流れを汲む、いわば「無教会聖霊派」とでも言うべき集会」
と書かれておられます。
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kowa/nikki.htm

62ニュッサ:2012/01/13(金) 23:58:13
「というのは、このからだは魂と相似しており、
 魂は御霊の像なのであるから。
 そして、魂なきからだが死んでいて、全く何もできないように、
 天的な魂、つまり、神の御霊がなければ、
 魂は王国から切り離されて死んでおり、
 御霊なしには、神に関することは何もできないのである。」

63ニュッサ:2012/01/14(土) 00:03:28
>>61

どうしてそこにそんなにこだわるのか理解できませんが、というのも、私市先生
ご自身のお言葉に「無教会」という文字がありますし、
私自身は、先生の弟子ですし(そうすると、私もまた聖霊派ということになるの
でしょうか?)
また、先生の集会には、リベラル、福音派、聖霊派、仏教の方、まったく何でも
ありなので、
いよいよ?です。

でも、さして大切なこととも思えないので、どうぞ、それで構いません。

64暇人:2012/01/14(土) 00:15:27
ご本人「無教会聖霊派」
自称弟子のニュッサさん「聖霊派ではなく無教会の流れです」

ご本人の無教会批判
「考えてみれば、キリストの教会そのものが、聖霊の降臨によって誕生したのだから、
み霊の働く場こそまさに「教会」そのものであって、
み霊のご臨在するところに「無」教会などということはおよそありえない。
それは会堂さえ建っていればそれが教会だと言えないのと同じくらいの真実である。
私は、このごくあたりまえのことに改めて気付かされた。
おそらくこれも、この聖霊刷新大会が期せずして証ししている大事な真実なのだろう。
そう思いながら私は帰路に就いた。」

65名無しの神学さん:2012/01/14(土) 00:22:52
>>62
魂について「天的な魂」=「神の霊」なのですから
「魂」=「霊」なわけです。
しかしいリーは「魂」と「霊」を切り分けるわけです。
こういう差があるのにmingleだけが一致するから
リーの言説は教父と同じだと主張されるのは無理があるのではないでしょうか

66ニュッサ:2012/01/14(土) 00:28:13
一応、自称ではないです。コイノニア会のメンバーの一員ですから。

まず、

無教会というものに誤解があると思います。

無教会は、教会があってはならないというものではなく、
元々の内村先生の考えによれば、
「全世界、全宇宙が教会であって、すべての人がそのメンバーである」という
のが本来の意味です。

ところが、内村門下の塚本ー関根という流れのなかで、
「教会があってはならない」という意味の無教会を打ち出し、それがメインに
なっていったのです。

ですから、私市先生の文章は、内村先生の元々の発想に立って考えると、そのまま
受け取れます。

また、先生自身、フィンランドのペンテコステ派で洗礼を受けられましが、
そこの狭量な考えにうんざりして、

何でもありの、仏教まで包括するという意味で聖霊的な小池先生のもとに
行って、今に至るわけですから、

私市先生の集会にはいろいろな人が来ているのも当然ですし、

あくまで、(内村の言った意味での)無教会かつ聖霊派と言われるのももっとも
なことです。

67ニュッサ:2012/01/14(土) 00:33:25
>>65

同じだと主張していません。私のコメントをよくお読みください。

リーは、歪んだ形にせよ、テオーシスを伝えるものだと言っているのであり、
テオーシスを主張するからと言って、またmingleという言葉を使うからと言って、
それで異端にはならないと言っているのです。

論理の流れを把握してください。

68暇人:2012/01/14(土) 00:36:31
>>65
暇人です。HNが抜けました。

「主が来られたのはこの目的のためであり、
その目的とは、私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参
与者とし、 私たちの魂の中に、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊を与えることです。私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」

give intoは従うというニュアンスと取れないでょうか?
つまり
「私たちの魂が、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊に従い、私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです」

とすると教父のmingleは、「永遠の命」までであり
神となるリーのmingleとはまったく異質です

69暇人:2012/01/14(土) 00:45:56
826 : ニュッサ: 2012/01/11(水) 10:33:35.08 ID:xEUvrHU5 [10/42回発言] >>825

載せてますね。

あそこを離れた後、彼の言っていることの根拠を徹底的に調べましたが、
神性と人性の混ざり合いについては、マカリオスも言っているし、
(私自身は、混ざり合いという立場はとらないにしても)
ニーとリーは、客観的に読む限り、内的に連関しているしね
(アメリカの研究者もそう言っています)。

827 : サロメ☆ボウディア ◆wHb3.gs/E2 : 2012/01/11(水) 10:34:46.05 ID:qdd5qUeD [7/36回発言] >>826
キリスト教神秘主義否定ですからねw

828 : ニュッサ: 2012/01/11(水) 10:42:30.68 ID:xEUvrHU5 [11/42回発言] >>827

そうですね。教父についても、神秘家についてもほとんど知らないし、
読んだこともないのだと思いますよ。

それで、自分が知っている教えの範疇から出れば、異端だと簡単に、
判断してしまうのでしょう。

マカリオスがmingleと言っているから異端ではない。
唐沢さんは教父がmingleと言っていることをしらない無知なんだ
という流れですけど。。。

70ニュッサ:2012/01/14(土) 00:50:05
>>65

「従う」という訳は、無理があります。

to give into our soul a heavenly soulの目的語はa heavenly soulな訳で

to give a heavenly soul into our soulなのですから。

東方キリスト教においては、はっきり神になると言っています。
ただ、それでも、人間が即神なのではありません。

この接近可能性と断絶が同時に成立しているわけです。

否定神学がありますから、「神になる」といいつつも、
「神ではない」という断絶が保たれます。

リーの場合、否定神学がありませんから、
危険はあるのですが、
さりとて、「神格において、神になるのではない」と言っていますから、
この危険を飛び越えて、異端になったということは無理です。

71ニュッサ:2012/01/14(土) 00:55:06
>>69

それは話をはしょっただけです。

マカリオスがリーと全く同じだとは、はなから思っていません。

ただ、K氏が、マカリオスも東方の神化についても知らないのは事実です。
彼の集会に行き始めたとき、尋ねましたが、スルーされましたので。

72ニュッサ:2012/01/14(土) 01:02:52
あと、曖昧で申し訳ないですが、同じか同じでないかというのも難しいのです。

というのは、

明らかに、表現という意味では、
東方の神化のスタンダードであるパラマスとは表現が違っている、
さらに、マカリオスとは用語が近似しているが、構成は同じではない。

だから、表現は違っているとは断言できる。

しかし、だからと言って、その表現が意味しているものが違うのかと言えば、
速断はできない。

なぜなら、ちらちら言っているように、
西方のキリスト教神秘主義一般も、神とひとつになることを言うわけですが、
そして、それに対して、ロスキーは違う点をあげるわけですが、

だからと言って、まったく違う別物かということは断言できないのです。

違う背景や前提から出発すれば、表現が違うのは当たり前な訳ですが、
表現が違えば、全く、違うものなのか、
それとも、同じものを違う表現で表しているのかそのあたりが難しいのです。

73ニュッサ:2012/01/14(土) 01:09:29
ただ、ひとつ言えるのは、K氏が東方の神化を知っており、
適切に判断しようとするならば、あんなに簡単に判断はできないはずだという
ことです。

たとえば、上に既にあげられているカルケドンを扱った文章の解説でも、
minglingを、神性と人性を物質化して、それが混ざり合っているのだという
解釈をつけて批判しているわけですが、

minglingというものが、そういう、まるで神性と人性をミキサーにかけて、
混ぜ合わせることであるとは思えません。

リーも地方教会の兄弟も、お茶と水の例を出していますが、これはもともと、
キリスト教神秘主義の伝統にある言い方で、異端でも何でもないのです。

74ニュッサ:2012/01/14(土) 01:14:33
アメリカのカルト監視機関であるCRIの所長であるハンクハネグラフが、
地方教会について、異端ではないと言っているのです。

これをK氏は政治的な問題としているようですが、

フラーもCRIもそう判断しているとすれば、

もう少し、熟考する余地はあると思うのですがね。

75ニュッサ:2012/01/14(土) 01:16:36
ちょっと、疲れましたので、今日はこの辺でおやすみすることといたします。

76ニュッサ:2012/01/14(土) 01:29:31
寝る前に、付け加えて言えば、

ルターは、神性と人性の交流というものを言っています。
つまり、キリストの人性はただの人なのですが、神性から人性に交流するために
、人性が神化された人性になるわけですね。

私は、神性と人性のminglingもこれと同じような表現であると考えています。

それが適切な表現であるかは別として、
東方教会の言う神のエネルギーの人性への浸透を、
ルターにしろ、リーにしろ、誤解されても仕方ないぎりぎりの言葉で言っている
だけであると思うわけです。

77名無しの神学さん:2012/01/14(土) 01:33:31
to give into our soul a heavenly soul

ちとタンマ。
これって中学英語の五文系で言うとどうなるの?
V+O+Oぢゃないの?
山谷訳では
「我らの魂に(O)+天的魂(O)+を注入したもう(V)」VOOになっているし
ニュッサ訳でも
「私たちの魂の中に(O)、天的な魂(O)を与える事です(V)」となっているけど。。。

>東方キリスト教においては、はっきり神になる
マカリオスは言ってないですよ。
東方の誰が神になると、どのテキストで言っているのですか?

78暇人:2012/01/14(土) 01:39:22
>>73
私はローカルチャーチやニュッサさんは何一つ論証することなしに
教父がmingleと言っているからリーはセーフだと言っているようにしか
思えません。
しかしマカリオスを確認しましたが「魂」についての認識がかくも違い
mingleという語があれどリーとはまったく別です。

またリーは我らと同様、所詮英訳で教父に接した過ぎません。
正教の司祭と文通したからリーが正しいわけでもありません。

結局のところローカルチャーチもニュッサさんも後だしで
教父も言っていると抽象的な主張をされているだけで
きちんとしたテキストの提示がございません

79暇人:2012/01/14(土) 01:43:42
>>76
これもまたまったく後付けでして
ルターは「人が神となる」というぶんみゃくで
「神性と人性の交流」を言ったのではなく
キリスト論の文脈で言っているのです。

くそみそごっちゃにして なぜリーを異端ぢゃないと擁護する必要が
あるのでしょうか

80ニュッサ:2012/01/14(土) 01:45:46
>>77

V+O+Oじゃありません。

into our soulは前置詞+名詞で副詞句です。

で、元の語順はto give a heavenly soul into our soul
つまり、V+O+副詞句だったのが、

副詞句を強調したいために、動詞の後に飛び出したわけです。

>東方キリスト教においては、はっきり神になる
>マカリオスは言ってないですよ。
>東方の誰が神になると、どのテキストで言っているのですか?

どなたかわかりませんが、前述した「キリスト教東方の神秘思想」を
お読みください。

東方では、神化なんて当たり前のことだとわかりますから。

例えば、

最も有名なのは、アタナシオスの「神が人になったのは、人が神になるためである」
という言葉です。

ちょっとは、勉強してください。ぷんぷん、いい加減寝ます(あっ、冗談です)。

81ニュッサ:2012/01/14(土) 01:58:34
>>78,79

いや、むしろ、言いたいのは、なぜ、そこまでリーを異端にしたいのかがわからないのです。

人を異端だと判断することは大変なことでしょう。

現代は、決して魔女狩りの時代ではありませんが、それでも異端だということは相手を相当、
傷つけることです。

しかも、地方教会をかつて異端だと判断したCRIはその判断を取り下げている。

それなのに、なぜ、そこまで異端にしたいのか?

そこまで、異端ということにこだわるということに、私は戦慄を覚えます。

ちょうど、異言ギライの福音派の議論と同じじゃないでしょうか?

ペンテコステ派やカリスマ派が、異言が聖書に書いてあると言っても、
「あなたがたが話している異言が、どうして同じものであるという確証があるのか?」

私が、東方キリスト教や教父を示しても、
「でも、どうして同じものであるという保証があるのか」とね。

同じロジックじゃありませんか?

私は別に、リーが異端でも異端じゃなくてもどちらでもいいんです。
けれど、良心が何かおかしいと思うわけです。

それに、言わせてもらえば、
つまり、マカリオスとの違いに、例えば魂ひとつの考え方の違いをおっしゃって
おりますね。

それで、異端ということになるなら、ニーも異端ということになるのじゃないで
しょうか?

なぜなら、マカリオスとの違いというのは、全て、ニーから来ているものですよ。

ということであれば、そういう結論にならざるを得ないんです。

82暇人:2012/01/14(土) 02:02:36
>>74
旧CRIはきちんとローカルチャーチの危険性を告発していました
ttp://localchurch.web.fc2.com/part2/article1.html#3

ハンク・ハネグラフの時代となっておかしくなったのでしょうね
フラーは統一教問題でもカルトロンダリングの温床となっています。

ちなみに韓国でローカルチャーチは異端です

83ニュッサ:2012/01/14(土) 02:03:39
ロジックが逆なんです、暇人さん。

普通は、異端だと主張するほうが、確たる証拠を示さなければならないんです。
それが、普通のロジックです。

ところが、異端ではないという方が、確たる証拠を示さなければならないと主張
されている。

これでは、中世の異端審問所と変わりません。

暇人さんほどの人なら、これが転倒したロジックであることがおわかりですよね?

84ニュッサ:2012/01/14(土) 02:08:13
>>82

そんなことはいいんです。
それは、本当かもしれませんし、本当でないかもしれません。

では、暇人さんが考える地方教会の異端であることの証拠は何ですか?

神化、それは少なくとも、ギリシャ教父や東方では異端だと思われていないことは
少なくとも示しました。

それが全く同じでないにしても、これで異端だということはできないはずです。

それでは、異端だという決定的な証拠となる教えは何だとお考えなんですか?

85ニュッサ:2012/01/14(土) 02:14:13
私はすぐ異端だという人には、辟易します。

カトリックから見れば、プロテスタントは異端。
プロテスタントから見れば、カトリックは異端。
メインラインから見れば、福音派は異端。
福音派から見れば、リベラルは異端。

きりがないです。

しかも、そのほとんどが誤解に基づいている。

なぜ、信仰のひとつのモデルだと見ることができないのでしょうか。

確たる根拠もなしに誰かを異端だと決めつけることこそ、私は人間の持つ最大の
罪だと考えます。

そして、イエスご自身、異端者の烙印を押されて十字架に死んだわけです。

86ニュッサ:2012/01/14(土) 02:20:16
とにかく、神化以外に、地方教会が異端だという決定的な証拠を示してください。

それが納得の行くものであれば、異端であると認めましょう。

しかし、そうでなければ、異端としない。

これが正常なロジックです。

いい加減、眠ります。おやすみなさい。

87暇人:2012/01/14(土) 02:23:07
>>77
失礼 ハンドルを一々いれないといかんみたいです トホホ
ほう。なるほど副詞句なんだ サンクスです。

「神が人となったのは、人が神になるためであった」を正教が運用しても
信徒は誰一人、自分が神となるんだと思ってませんよ。
ローカルチャーチと違って。
ちなみに親鸞の教行信証の証巻には、なんまんだぶぅの究極は
みんな真如となる。真如は一如である。故に弥陀如来は如より来生し
報・応・化種種の身を示し現わしたまうなりという様態論が展開されている
しかし念仏者のだれひとり自分が将来弥陀如来になるんて思っていない。
ところがリーは「神になる」と主張する。

重大な差があるんですけどねー

88ニュッサ:2012/01/14(土) 02:28:47
>>87

そうすると、異端かどうかは、信徒の意識ということになりますね。
それは、確たる異端の証拠とは言えませんね。

しかも、私が知っていた地方教会の兄弟は、別に、自分が神だと信じているとは
全く思えませんでした。

これは、暇人さんに対する皮肉ではなく、一般に対するものですが、
自分を神だと言わなくても、すぐに誰かを異端だと言うならば、まさに自分が、
すべての判断基準である神として振る舞っていることになりはしませんか?

私は単なることではなく、内実を取ります。

とにかく、異端だという客観的な証拠となる教えを示してください。

89ニュッサ:2012/01/14(土) 02:31:20
付け加えると、その兄弟が自分が神であると思っていないのは、
「神格において、神になるのではない」という歯止めがあるからでしょう。

この歯止めがなくて、自分が直接、神だと言えば、キリスト教的には異端でしょうが、
歯止めがある限り、どう異端にしたくても、異端とは言えないでしょう。

90ニュッサ:2012/01/14(土) 02:33:23
失礼、単なること→単なることばです。

いい加減寝ます。

鬱病持ちには睡眠不足は特にこたえるので。

91暇人:2012/01/14(土) 02:35:13
>>83,84
そこに異端の理由が論究されているでしょう。
それをまず読まれて考察されるべきなのでは?

私はあなたのリー擁護に付き合い、
よくわからない英語にもかかわらず
あなたと山谷氏の手助けを手掛かりにマカリオスのテキストを確認し
mingleという語があっても、使用方法がまつたく違うということを
確認しました。
「魂」についての考察についてあなたも差異を確認されました。
マカリオスはリー擁護の材料とはなりません。

ということは他の教父の「神になる」も同様であるという推定を私は持っています。

「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

>>85
ログをご確認くださいな
私はローカルチャーチの方たちと3スレ分議論してカルトと結論しています。

>>86
1.他教会を否定して自分たちの集まりだけを正しいと思っている
2.重訳にもかかわらず回復訳を原文に忠実と威張る
3.他教会の牧師が地方教会の説教を密に盗んでいると主張する
4.独自訳(回復訳)を信仰している
5.回復訳のフットノートを信仰している
6.回復訳フットノートの日本語訳が変だ
7.信徒さんらがカルトぽい

92暇人:2012/01/14(土) 02:40:39
それとニュッサさんはローカルチャーチを異端とされるとムキになられますが
他者を異端と呼ぶのは間違っている、と。

ところがニュッサさんは平気で唐沢グループをグノーシス主義と批判されます。
これはダブルスタンダードですよ。

それはともかくとしてニュッサさんのグノーシス定義を教えてください
私の定義は「神格化教義」です。
イエスを神としたヨハネ福音書は私の定義ではグノーシス文書です。
非グノーシス派キリスト教は、義人ヤコブの系統、ペラに移住し
イエスを神としなかったためユダヤ・キリスト教異端として排斥された人たちです

私の認識ではキリスト教もグノーシス派の一つなので
他のグノーシス派と激しくやりあったと思っています。
余談でした。

93暇人:2012/01/14(土) 02:57:01
>>81
統一教と同じくローカルチャーチを危険だと思っているんです。

聖霊派も福音派も危険ですが、
ローカルチャーチは一線を超えているという点で異端でありカルトなのです。

最近の動向として無根拠な異端解除の風潮がありますので
きちんとした論拠のない異端解除には信を置けません。

異言が聖書の異言と同じモノである必要がなぜあるのですか?
祈りや賛美は聖書と同じものでないといけないのですか?

ニュッサさんがマカリオスも「人性と神性のmingle」を言っている。
リーの「人性と神性のmingle」を批判するのは神学的無知だと主張されたので
マカリオスの英文テキストを確認したら、mingleは確かにあったが
リーのmingleとは別物だったという流れです。。
りー擁護の論拠が崩れたわけです

94暇人:2012/01/14(土) 03:30:21
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1141282723/

地方教会の信者さんが313以下で
原文をカトリックに難癖をつけている図だが
これもカルトぽかったです

95ニュッサ:2012/01/14(土) 04:22:51
暇人さん、遅くまでいろいろ書かれていますが、

まず、前提ですが、

私は、異端とカルトとは全く違うと思っています。

世間では、どうやら、異端と言っても名誉毀損にはならないが、
カルトと言うと名誉毀損になるようです。

しかし、正統であってもカルトはあり、誰でも内なるカルト性を抱えているので、
カルトは、正統であってもなくても、誰でもカルトになりうる訳です。

これに対して、異端というのは、ある教えについて、はっきりした根拠に基づいて
判断されるべきものです。

世間では逆でしょうが、教会史を知る私には、異端という言葉はカルトという
言葉より、はるかに重い言葉です。

カタリ派は異端として、歴史から完膚なきまでに根絶されましたし、
オリゲネスやエックハルトなど、異端として、歴史から抹殺されそうになった
人たちはあまたいます。

ですから、異端という言葉は、慎重の上にも慎重に使うべきです。

ところで、91で、暇人さんがあげている項目は、どれも異端だということの
要件は満たしておりません。

これらの項目から、主観的にカルト的ということは可能かもしれませんが、
客観的に異端だと言うことはできません。

ダブルスタンダードとおっしゃいますが、
私のなかで、グノーシス的であることは即、異端ではありません。

そして、私がK氏の教えを、はっきり異端だと行ったことがあるでしょうか?

96ニュッサ:2012/01/14(土) 04:28:49
グノーシスの定義ですが、

私は、グノーシス主義というのは、「人間存在を、分割して、そこに高低の順序をつけ、
分割した一部を救われるべきもの、また一部を滅ぶべきもの」と考えることだと思って
おります。

ただ、それが即、異端だとは思っておりません。

97ニュッサ:2012/01/14(土) 04:40:15
しかも、最初から、マカリオスは例示だと言ったわけです。
別に、そこが正しいと証明する論拠になるとは一切言っていない。
私が言っていないことを、勝手に読み込んで、違うと主張してもおかど違いという
ものです。

とにかく、項目としてあげておられる理由は、単なる実行に関することで、
教理ではありません。

それこそ、暇人さんが私に対して言った、狂気の沙汰です。

なぜなら、上げておられる項目をどう思うかは主観的なことで、
教理の間違いという客観的なものでは一切ないからです。

これでは、異端審問未満です。異端審問では、でっちあげにしろ、
教えが取り上げられるのですが、ここでは、単に実行が取り上げ
られているだけだからです。

これでは、魔女狩りと言わざるを得ないです。

もう、最初から結論は決まっているということになります。

結論は決まっていて、そのための理由でしかありません。

98ニュッサ:2012/01/14(土) 04:54:27
>>93

だから、なぜ、危険なのでしょう?
危険だから危険だとか、異端だから異端だとか、循環論法にすぎません。

今まで、異端だと、それも一部の人に言われていたから異端なのですか?

ナンセンスです。

教えの点でここが異端だとそちらが確証を提出されなければ、
時間の無駄ですからこの議論は打ち切ることにします。

99ニュッサ:2012/01/14(土) 05:14:27
最後に、もう1度、ロジックを確認しますよ。

私はリーが正しいかは知りません。
どちらかと言えば、リーは好きではありません。地方教会に行く気もしませんl。

むきになっているのは、あなたの方ですよ。
異端にしたくて、むきになっているわけです。それは、はっきり申しますが、
罪以外の何ものでもありません。

>「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

むしろ、全く逆です。

あなたがたは、リーは「神になる」と言って異端だと言っている。
しかし、教父も「神になる」と言っているのだから、「神になる」ということで
異端だと言うことは、根拠がなく、無効です。

あなたがたは、リーがmingleという用語をとりあげて異端だと言っている。
しかし、マカリオスもmingleという用語を使っているのだから、mingleという
用語をとりあげて異端だと言うことも、根拠がなく、無効です。

つまり、あなたの言っていることはまったくロジカルではないのです。

もう少し、暇人さんは、まともな議論が出来る人だと思っていましたが、
見当違いでした。哲学科にいるとしたら、相手にされないレベルです。

私が以前、知っていた方々と同じように、事や内容そのものの是非ではなく、
戦いをしていて、自分の陣営に有利なことをしたいだけのようです。

私は、馬鹿馬鹿しいし、そんな戦争に加わるつもりは、金輪際ありませんので、
少なくとも、この場からさっさと撤退します。



よく聞いてください。

100ニュッサ:2012/01/14(土) 06:08:30
ウェスレーは、神化を知っていたが、自身の聖化の教理を、異端だと言われることを
恐れて、神化ではなく、聖化と呼んだ。

しかし、ウェスレーが神化と呼んでいたらどうだろう。
リーと同じ嫌疑をかけられたのではあるまいか?

しかも、ウェスレーの聖化の教理は、教父たちの神化の教理と同じではない。

すると、暇人さんの言っていることに従うなら、

ウェスレーは正しくないし、異端の嫌疑を晴らすこともできないことになる。


人を異端ということはとても恐ろしいことである。
それは、人にアナテマというのと変わらない。

101山谷真少佐:2012/01/14(土) 10:09:42
乃公のロジックは、こうです。

正教は神化を言うが、それには、カルケドン、両意論、パラミズムの枠が付けられている。

アタナシウスの定式(神が人となりたるは人が神となるため)及びマカリオスのminglingは、上記の枠内で考えなければならない。

後期ルター派がケノーシス・キリスト論からクリプト・キリスト論を経て「属性の融通」に至ったのは、後期ルター派の全部でなく一部であるし、カルヴァン派から「エクストラ・カルヴィニスティクム」(人性と神性のminglingは絶対に無い)の抗弁でもって批判されているので、「属性の融通」によりカルケドンが解除されたことにはならない。

後期ルター派の「属性の融通」は、御子の位格的結合における神性と人性の融通に限定されており、これを「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者とのminglingを正当化するために使うことは出来ない。

ウェスレーは聖化を「信者が神の愛に化されること」と考えたが、これに正教の影響を認めるとしても、正教では「神の愛=エネルゲイアは神そのものではない」と考えているのだから、これを「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者とのminglingを正当化するために使うことは出来ない。

リー派は「手順を経た三一のパースンであるキリストの霊」と信者がminglingした結果が「団体のキリスト」だとするが、団体のキリストとは地方教会だけを指すのであり、諸教派の教会は「背教のバビロン」とするのだから、諸教派がリー派を危険視するのには合理性がある。

信者と神とのminglingを支持する証拠聖句は存在せず、聖書正典に示されているのは、信者と神との「結合」(union)である。

以上が乃公のロジックです。

102暇人:2012/01/14(土) 10:55:49
ニュッサさん 具体的な反論があればお聞きします。

きちんとマカリオスのテキストを読まれて下さい
リーのテキスト、二ーのテキストを読まれて下さい。
聖書を読まれて下さい。

103名無しの神学さん:2012/01/14(土) 11:04:45
>>102
人を馬鹿にするような言い方しか出来ないのか?無駄に年だけ食ってるよなぁ。

104暇人:2012/01/14(土) 11:21:51
>>103
ニュッサ氏の論は結局のところ

「他の人も神化を言っている、mingleを言っている
だからリーが言っても異端ではない」に戻ってしまってます。

ニュッサ氏、山谷氏、暇人が考究した結果は
マカリオスのmingleとリーのmingleが違うという証明だったにも関わらずです

105山谷真少佐:2012/01/14(土) 11:54:29
乃公的には

アタナシウス定式(神が人となりたるは人が神となるため)が取られたアタナシウス著『受肉論』が
エクストラ・カルヴィニスティクム定式(神性と人性の混合は絶対に無い)の主要な典拠の一つとなっている。

という事実でもって「おわった」感を抱いています。

106ニュッサ:2012/01/14(土) 14:01:33

山谷少佐のロジックは、欠陥があります。

それは、

ひとつには、アタナシオスとマカリオスの神化に関する理解を、それよりもずっと
後代の両意論、カルケドン、パラミズムの範囲内に限定していること。

リーの言うminglingが、カルケドンの言うcominglingと同じであることを示せない
こと。

危険視するのは個人の自由だが、だからと言って異端とすることはできないこと。

unionを支持する証拠聖句はないというが、そもそもminglingは神化を示す表現で
あるだろうことを無視していること。それなら、パラマスの本質とエネルゲイアの
区別も証拠聖句は示せないはず。

以上、人の生殺与奪となる異端という判断をするには、あまりに根拠希薄です。
最初に、結論ありきのロジックと言わざるを得ません。

107山谷真少佐:2012/01/14(土) 14:29:24
>>106
>unionを支持する証拠聖句はないというが

minglingを支持する証拠聖句はありません。が、unionを支持する証拠聖句は沢山ありますよ。

108山谷真少佐:2012/01/14(土) 15:05:37
>>106
>本質とエネルゲイアの区別を示す証拠聖句

これなど、どうでしょう?

出エジプト33:20
(主はモーセに言われた)
「あなたはわたしの顔を見ることはできない。
 人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」

同33:23
(主はモーセに言われた)
「わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」

ここに、「神の顔」(ウーシア)と「神の後ろ」(エネルギア)が示されているのではありませんか?

モーセは神のウーシアを見ることは出来なかったが、神の後ろ(エネルギア)を見た。それで、死なずに生きていることができた。

109ニュッサ:2012/01/14(土) 16:05:43
>>108

これがどうして、ウーシアとエネルゲイアの区別の証拠になるのでしょう。
ここから、ウーシアとエネルゲイアの区別が演繹できるのですか?

最初に、ウーシアとエネルゲイアの区別があって、それを単にこの聖句にあては
めただけではありませんか?

これと同程度なら、地方教会の人にも、レビ記の練り粉に油を混ぜるところとか
聞いたことがあります。

それも、私は単なるタイポロジーであって、証拠とは言えないと申しましたが。

つまり、本質とエネルゲイアの区別も、minglingも、聖書から演繹できないのです。
聖書から演繹できないのに、前者を正統、後者を異端とするのはおかしいのです。

そもそも、聖書から演繹できないものを、聖書を用いて異端かどうかを判断すること
はできないのです。

だから、ウーシアとエネルゲイアの区別も、minglingも、神化を表す表現と言っている
ではありませんか。

110山谷真少佐:2012/01/14(土) 17:24:21
粉と油は、粉と油に過ぎません。

しかし、神の顔と神の後ろは、どちらも神ですよ?

111名無しの神学さん:2012/01/14(土) 17:40:13
>>110
詭弁はいいですから、もっと大人な議論をして下さい。

112山谷真少佐:2012/01/14(土) 19:55:12
ウーシアとエネルギアでないとしても、神には、神の本質(神の顔)と神の非本質(神の後ろ)がある、という区別を、ほかならぬ神ご自身がなさっておられる証拠聖句になると思います。

ところで、「神の後ろ」が存在しなかった時、というのは考えられないのだから、「神の後ろ」は永遠に神から出て神と共にありしかも神の本質ではない「神の非本質」ということになります。

そうして、この「神の非本質」に最も近い概念がパラマスのエネルギアでしょう。

113名無しの神学さん:2012/01/14(土) 20:05:32
>>112
何を言ってるんですか?>>110では「神の顔と神の後ろは、どちらも神」と言っておいて、
ここでは「神の後ろ」は「神の非本質」?どこにもそんな聖句はないですよ。

114ニュッサ:2012/01/14(土) 20:27:58
>>112

非本質というのは、誰の用語でしょう。
そういったところで、非本質は、エネルゲイアと相似しておりません。

なぜなら、エネルゲイアは活動における神ご自身ですが、
非本質は、本質でないものということだから、本質でなければ、神ご自身では
ないからです。

まあ、何にしても、この聖句が直接、本質とエネルゲイアの証拠にならないのは
事実です。

それとも、山谷さん、正直なところ、以前は、パラマスの神学を聞いたこともなく、
あなたはこの聖句から、本質とエネルゲイアの区別を知ったのでしょうか

115ニュッサ:2012/01/14(土) 21:01:40
さらに、山谷さん、

「神のご性質にあずかるが、神格における神になるわけではない」ということでは
ずばり、何が問題なんでしょう。

神格における神になるわけではないと、ちゃんとストッパーがついていると思うの
ですが。

端的な答えをお願いします。

116名無しの神学さん:2012/01/14(土) 21:20:13
>>114

非本質とは、先の乃公の文脈では「神のウーシアではないもの」ですよ。

117名無しの神学さん:2012/01/14(土) 21:26:07
>>116
詭弁ですね。あなたは「神のウーシアではないもの」なるものを証明出来ない。

118ニュッサ:2012/01/14(土) 21:26:38
>>116

具体的には、何を指すわけですか?

119ニュッサ:2012/01/14(土) 21:31:37
普通に考えるとね、

神の本質(ウーシア)とは、「神であること」だから、
非本質は、「神ではないこと」になる。

そうすると、神のうしろというのは、神ではないものになる。

本質とエネルゲイアは両方とも神ご自身だから、まったく違うわけですよ。

120山谷真少佐:2012/01/14(土) 21:47:23
神はモーセに「神を見たら死ぬ」と言われました。

神は、神の顔をモーセにお見せになりませんでしたが、しかし、神の後ろをお見せになりました。

モーセは死にませんでした。

では、神の後ろとは、いったい何でしょう?

乃公はすでの乃公の考え方を示しました。

121暇人:2012/01/14(土) 21:49:07
>>115
ttp://localchurch.web.fc2.com/PDF/God-man.pdf

「神から生まれた存在として,私たち神-人(複数形)は単に神聖な命を持つだけでなく,神聖な性
質も持っています。神に感謝します。聖書の66巻において、一つの節があります−2ぺテロ1:4、す
なわち私たちは神聖な性質に与るものであり、それは神の御性質です。そのような節には印をつけて、
いつでも引用できるようにすべきです。私たちはカメではありません。私たちはカメの性質を持ってい
ないからです。私たちは人です。私たちは人の性質を持つからです。しかし私たちはまた神から生ま
れました。私たちは神の息子たちであり子供たちです。よって、私たちは神の性質を持っています。
私たちが神の御性質を持つのであれば,私たちは神ではないでしょうか?実際,私たちはその命と
性質において神なのです。しかし神格においてではありません。」

正確には
「実際,私たちはその命と性質において神なのです。しかし神格においてではありません。」

ここで私が疑問なのは
新生したキリスト者は神性において神だが、神格において神ではないと
神を神性と神格とにリーは分割されているが、これはどういう意味なのであろうか
ウーシアとエネルゲイアとの区別ではないのは明らかであるし。
単に神性=「いのち」と神格「存在者」との区別なのであろうか
だったら、「神になる」という強調のいみがわからない

122暇人:2012/01/14(土) 21:57:03
中世思想原典集成2収録のアタナシオス著『言の受肉』を今読んでいるのだが
「アタナシウス定式(神が人となりたるは人が神となるため)」はまだ出てこない。

今のところ、神が人となったのは、
人が自由意思で堕落したので「いのち」が「死」へと堕落した。
「死」を「いのち」へと救うために、総てを創ったロゴスが
肉をまとい「死」を経験することで、すべての死を滅ぼし
「いのち」に導くためだとある。
アタナシウスの論点は「死」を滅ぼして「永遠の命」を得せしめる為ですね

123山谷真少佐:2012/01/14(土) 21:59:54
ウーシアとは、それ自体で存在するもの。

エネルギアとは、ウーシアに依存するもの。

神の顔は、それ自体で存在しますが、神の後ろは、神に依存するものです。

よって、神の顔はウーシア、神の本質。

神の後ろはウーシアに依存するがウーシアそのものではないもの、つまり、エネルギア、神の非本質、ということになります。

124暇人:2012/01/14(土) 22:41:37
>>106
>ひとつには、アタナシオスとマカリオスの神化に関する理解を、それよりもずっと
>後代の両意論、カルケドン、パラミズムの範囲内に限定していること。

この論点の意味がわからない。
1.正教も神化を言っている、だからリーは異端ではないという論説に対して
 正教には「両意論、カルケドン、パラミズム」があるという限定を指摘することは大切だ
2.アタナシオスとマカリオスの神化が「両意論、カルケドン、パラミズム」から逸脱している
ということなのであろうか?

>リーの言うminglingが、カルケドンの言うcominglingと同じであることを示せないこと。

カルケドンはそもそも単性論というかキリストに於いて神性と人性が合一されて一体となる事に対して
「人性」と「神性」とが混合されないと説いたのだから、
リーの言うキリスト者における「神性」と「人性」の混合とは別テーマですよね
ただリー自身がカルケドンを意識して「合一」をさけ
「茶葉」と「御湯」の性質はそれぞれ独立したままと弁護しされたように
「人性」と「神性」のminglingと聞くと我々はただちにカルケドンを想起してしまう

125暇人:2012/01/14(土) 22:46:38
聖書に基づくならば、unionなのに
リーは、これを否定してunionをminglingと読み変え
これが真理であり神秘だとした。

なぜ聖句どおりのunionではダメであったのであろうか

126山谷真少佐:2012/01/14(土) 23:10:28
アタナシウス『受肉論』の中に、「ご在世当時のキリストの肉体に神性が全部収っていたわけではなく、キリストの肉体の外部、宇宙の外部にもキリストの神性が遍在していた」と言ってる箇所があって、そこは、エクストラ・カルヴィニスティクム(神性と人性の混合は絶対に無い)という立場の根拠にされていたと思います。

アタナシウスの「神が人となりたるは人が神となるため」の定式は、上記と照らし合わせて考えるのでなければなりません。

127ニュッサ:2012/01/15(日) 00:18:12
いっぱい書かれていますね。

私は、私のペースでゆっくり書く事にします。

神の後ろとは、ルターの言うように、すでに啓示された神でしょう。
神の御顔とは、まだ隠された神のことです。

128ニュッサ:2012/01/15(日) 00:31:24
あとは、後代のものを持って、その前の時代を説明するのはおかしいという
のはこういうことです。

つまり、神化というのは、まず経験であって、その説明というものは後からつけ
足されたものだ。

これは、パラマスの説明の経緯がそうです。

トマスの影響を受けたギリシャ人バルラムが聖山アトスを、「神を見る」という
ことで批判し始めた。

それに対し、パラマスはやむを得なく、論争することになり、そのなかで、
本質とエネルゲイアの区別を言い出したわけです。

だから、経験が先にあり、その説明は後から生まれたものだ。

そういう点から考えると、アタナシオスやマカリオスを、後代のものから、
説明を加えるのは、解釈の原則を犯していると言える。

はっきり、言って、読み込みということになるわけです。

そして、リーの神化についての説明自体、神学的になされていない。
非常に、プリミティブなものです。

だから、それを、彼と直接、関係のないものを持ってきて、異端だということ
は、これは解釈からはずれるわけです。

総じて、言うと、異端であるということを言うには、積極的な理由が必要です。

それなのに、異端でないことを証明せよとは、異端という結論ありきの馬鹿げた
論理です。

129ニュッサ:2012/01/15(日) 00:34:10
>「人性」と「神性」のminglingと聞くと我々はただちにカルケドンを想起してしまう

「想起してしまう」。なるほど、だからそれは主観に過ぎません。

客観的なものではありませんし、異端の証拠にもならない。

130ニュッサ:2012/01/15(日) 00:36:29
>>125

それは、神化を説明するためでしょう。

同じことです。unionでいいのに、パラマスは本質とエネルゲイアの区別を持ち出した。
リーはminglingを持ち出した。

神化を説明するためです、それ以上のものではありますまい。

131暇人:2012/01/15(日) 00:44:00
中世思想原典集成2 p134
アタナシオス著『言の受肉』54-(3)でようやく発見。
「実に、この方(ロゴス)が人となられたのは、我々を神とするためである」

私の読解力ではこの語がどういう意味でここに提出されたのか よくわからない。
唐突な印象を受けます。
49でギリシアの神であるヘラクレスやディオニュソスより、ロゴスの優位性を
色々と論証し、それが直前まで続き、53でロゴスの神性の証明は
十字架にかけられたイエスがギリシアで今や神として礼拝されており
かつてのギリシアの神々が捨てらているからだという。
これらは人間の業(わざ)ではなく神の業だという。この業とはエネルゲイアのことか?
そしていよいよ54で見えない神を観たいと思うならば、神の業によって
理解知るべきだという。
キリストの死に依って不死がすべてのものに及び、ロゴスの受肉において
万物に対する摂理と、その実践者であり形成者である神のロゴスとその方が知られたことを
讃嘆せよとあり、(4)と続く。

132暇人:2012/01/15(日) 00:52:57
「実に、この方(ロゴス)が人となられたのは、我々を神とするためである」
の続きは
・この方が肉体を通してご自分を現されたのは、
見えない父の認識(エンノイア)を我々が得るためである
・この方が人々の侮辱を耐え忍ばれたのは
われわれが不滅を受け継ぐためである
・この方は苦しみ得ぬ方、朽ちざる方、ロゴスそのもである神として
 いかなる点でも損なわれることのない方であったが
人々ためにこれらの苦悩を耐え忍ばれたのであり、
ご自分の受苦不能性によって人々を守り救われたのである

133暇人:2012/01/15(日) 01:08:19
野呂芳男「神の死の神学」で
ttp://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/1977kamikan.html
>>132k
「受苦不能性」を批判されておられる

今のところアタナシオスの「我々を神とするためである」から
「永遠の命」という意しか見いだせないのだが
それ以上の意味をアタナシオスは想定していたのであろうか

134ニュッサ:2012/01/15(日) 01:13:07
ちなみに、先に言っておきますが、
アタナシオスを上げたのは、神化について、東方では当然のこととなっている
例として、あげたわけです。

決して、リーと同じことを言っているという意味であげたのではありませんからね。

また、リーと同じことを言っていないと言いがかりをつけるのはやめてくださいね。

神化は経験です。そして、その経験を説明する説明はたくさんある。

西方では、その説明を、信条として、決まったかたちに決めますが、東方では、
最低限の信条を決めて、あとは、それぞれ、その説明は自由だ。

そういう意味では、むしろ、表現なのです。

まあ、だんだん、疲れてきました。
実りのある議論はできそうもないですし、一致した着地点も得られそうもないで
すし、そろそろ離脱することに致します。

ただ、繰り返しますが、
リーが異端であるという積極的な理由は提出されていないのです。
これと違う、あれとも違う、だから異端だという論理矛盾です。

それをいくら積み重ねても、異端だということにはならないです。

これ以上、知りたければ、
サロメさんの言うように、リーのテキストをもって、正教会の神父に尋ねて
ご覧になるのがよいです。

以上。

135暇人:2012/01/15(日) 01:24:12
アタナシウス『受肉論』の中に、
「ご在世当時のキリストの肉体に神性が全部収っていたわけではなく、
キリストの肉体の外部、宇宙の外部にもキリストの神性が遍在していた」と言ってる箇所

集成2 p121 アタナシオス著『言の受肉』42-(7)の後半にありますね
議論としては41あたりから続き、結論部分ですね

42-(7)
また人間全体にくまなくいき渡っている精神も、肉体の一肢体-私の言わんとするのは舌の事である-
によって知られるが、だからといって、それによって精神の実態が縮小されるとは誰も言わない。
同様に、万物に内在される言(ロゴス)が人間の[肉体]という道具を用いたとしても、
当を失したこととは思われないのである。上述のように、
まさしく肉体を道具として用いられたにせよ、
まさしくこの方(言ロゴス)は[宇宙]全体の内に存在しておられるのである。

136暇人:2012/01/15(日) 02:25:17
>>128
冗談ですが、「後代のものを持って、その前の時代を説明するのはおかしい」
のであればアタナシオスやマカリオスの件を千年後のパラマスから例示されている
ニュッサさんの立場からするとはどうなるのでありましょうか。
私の立場からすると「わりやすく」するためされている例示だから無問題ですが。

さてパラマス。
ttp://morfov.blog79.fc2.com/blog-date-201105.html
ここを参考にしますと、

「人間は、神の「ウーシア(本質)」には触れることができないが、
神の「エネルゲイア(活動)」には触れることができるというものです。」
にまったく違和感がありませんです。

ttp://www.mesogeia.net/orthodox/hesychasm.html
ttp://www.ozawa-katsuhiko.com/10christ_hikari/christ_hikari_text/christ_hikari09.html
このヘシュカズムを読んで想起したのは沈黙の祈りでインナーライトを体験される
クェーカー派に似ているなということと仏教の瞑想や聖霊派の祈りに類似しているということです。

カラブリア出身の修道士バルラームとありますので、イタリア出身ですね。
ギリシアにもおられたことがあるようですが。
バルラームの攻撃以前から、アトス修道院では「神の現れである神秘の光」と
考えていたので、バルラーム批判を受けてパラマスが
「ウーシア」と「エネルゲイア」という理論で反論されたわけですが
これはむしろ、批判があった為に、経験が理論化されたという進化だと思いますね。

それでこのことが
「アタナシオスやマカリオスを、後代のものから、
説明を加えるのは、解釈の原則を犯していると言える」とどうリンクするかわからないです。

例えば親鸞を理解にするにあって、蓮如や歴代の解釈に沿って説明を加えると
これは江戸教学(伝統教学)になりますが、学問にならないという意味での
学問的解釈の原則を犯しているということならば理解できますが
今やっているのは「伝統神学からの逸脱の確認」ですので
ニュッサさんの方向性は混同あるいは混乱があるように思います。

137名無しの神学さん:2012/01/15(日) 08:49:45
山谷先生

「神の顔」を見たら死んでしまい、「神の後ろ」を見たら死なないという根拠は何でしょうか?
「神の後ろ」は「神の非本質」などというのは、拡大解釈ではないでしょうか?
神学論争も結構ですが、神の御言葉を我田引水の道具に貶めてしまうのは感心しません。

士師記13章22節
マノアは妻に、「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言った。
士師記13章23節
だが妻は、「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物をお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです」と答えた。

138山谷真少佐:2012/01/15(日) 09:31:29
マノアに顕現したのは「不思議」という名前の天使ですよ。

天使は神のウーシアでも神のエネルギアでもなく、被造物です。

139名無しの神学さん:2012/01/15(日) 09:41:18
山谷先生

当時の人々は天使を見ただけでも死ぬと思っていたほどのようです。
「神の後ろなら見ても死なない」と言える根拠はどこにあるのでしょうか?
ウーシアやエネルギアという専門用語使って誤魔化すのではなく、日本語で回答願います。

140山谷真少佐:2012/01/15(日) 10:26:02
神の後ろを見たモーセが死ななかったから。

141暇人:2012/01/16(月) 17:51:45
中世思想原典集成3と4が到着。

3も4も金額がはるが、圧倒的なボリューム。
3はp975に及び、4はp1287もある。

ニュッサ氏は全訳ではないと言われていたが勘違いではないだろうか。
ちらっと見た限りでは書簡集は抄訳だったが、
大説教は全訳のようだった。

しかもこのマカリオス文書の大雑把な解説も興味深いものであった。

さて、まったりと目を通して、後日紹介します。

142山谷真少佐:2012/01/16(月) 18:37:08
"Through transformation the very essence of the Triune God is mingled with our soul, our very self." (Witness Lee, The Economy of God, chapter 13)

「変革を通して、三一の神の本質そのものが、われわれの魂、すなわち、われわれの自我そのものと混合される」

神の本質と信者の混合ですね。

143暇人:2012/01/16(月) 20:14:18
>>141
失礼 抄訳の方でした。

>SPCKが1921年に出したアーサー・ジェイムズ・メイスン訳『偽マカリオス大書簡』(五十説教集)がWebarchivesで無償公開されとります。
>いわゆる「神性と人性のmingling」がホントに講述されてんのかどうか、精査しましょう。

144暇人:2012/01/17(火) 08:32:36
>>142
これはニュッサさんの批判(言ってないことを言ったという批判)に対するものでしょうし
その限りでは、山谷氏の証拠提出の意義はありますが
我々のテーマとしては
魂とのmiglingですと、振り出しに戻るのではないでしょうか。
>>4においても
「聖なる性質とキリスト者の魂を混ぜ合わせ」が確認されております。

中世思想原典集成3 p249
「偽マカリオス 説教20」2-(3)にも
「それというのも、魂を天上の聖霊と混ぜ合わせ、
地上的なものと天上的なものとの混合(μιζισ※シグマは語尾の奴だが代用)
・混交(χοινωνια)をあらしめんがためであり、
ひいてはわれわれが互いに愛し合い、神を信仰せんがためである」
とあります。

我々はリーの
「変革を通して、三一の神の本質そのものが、われわれの魂、すなわち、われわれの自我そのものと混合される」

マカリオスの
「ご自身の聖なる性質とキリスト者の魂を混ぜ合わせた」
「魂を天上の聖霊と混ぜ合わせ」
とを引き続き考究する必要がありそうです。

145山谷真少佐:2012/01/17(火) 09:38:50
もうひとつ。

"His substance is increased in us and mingled with us."
(Witness Lee, The Experience of Life, p.162)

「神の本質がわれわれの内に増大し、われわれと混合する」

神の本質と信者の混合についてリーがsubstanceを使っている例です。

146暇人:2012/01/18(水) 22:16:43
中世思想原典集成3 p250
「偽マカリオス 説教21キリストを土台とした霊的構築」
1キリストを土台とした教会の構築-(1)

われわれの主イエス・キリストは、そもそも彼自身が(建物の)土台(1コリ3:11)であり、
満ち溢れる完成であり、要石(エフェ2:20)であられる。それというのも、主が天地とを
自らの出自とされているからである。実際、主は神として天から来たり、地から人間を
取り上げ、人間と一つに混ざり合われた。とりわけ「天から」、「地から」、「土台」、
「要石」という点に注目せよ、主はそのように働こうと心に決められたからこそ、
地から生まれた人々に天から聖霊をもたらされたのである。それはまさに上方からの
者たちと下方からの者たちとが、神性と人性が混ぜ合わされながら一つの教会(エレクシア)を
作らんがためにである。

偽マカリオスで「神性と人性が混ぜ合わさせ」を確認しました。

147暇人:2012/01/18(水) 23:13:04
「ニュッサのグレゴリオスと擬マカリオス」
『エイコーン』第28号(2003年、東方キリスト教学会)掲載 土橋 茂樹

ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.article22.html
ご参考に

148暇人:2012/01/19(木) 06:01:44
474 :ぱるるん ◆SuSYjvNEBI :2012/01/17(火) 10:20:51.60 ID:QwL3cRlk
>>470人間は神の似姿として創られてるけど、堕罪の状態にある。
そんなわたしが主イエスの十字架と復活の恵みにあずかり、神の似姿を完全回
復できたとしたら、どんなもんだろうかというのが、リーとかニーとか、神秘
主義クリスチャンの関心でしょ。

中世思想原典集成3 「偽マカリオス 説教」を読了。
全体的な感想は、ぱるぱるの言う
「神の似姿を完全回復できたとしたら、どんなもんだろうか」という方向性だった。
しかし善悪二元論、現世否定など質的なものはビオラ神学と同質であった。

また解説を読むと異端ではないと結論されていたが
異端のメッサリア派文書を砂漠修道士の大マカリオスの名を冠することで
ロンダリングして正統派文書にし、もつぱら東方正教の中で大切にされて
きたようだ。

149ニュッサ:2012/01/19(木) 14:32:27
書かないと思っていたが、ひとつだけ。

>偽マカリオスで「神性と人性が混ぜ合わさせ」を確認しました。

いみじくも、暇人さん自身が確認したのであれば、マカリオスのテキストの神化及びminglingの例示
としての役目は、果たされたのである。

つまり、マカリオス自身が、神性と人性のminglingを言うのであれば、それはリーのものと構成におい
て、異なるにしても、同方向、同質の共通性を持っていることになる。

>異端のメッサリア派文書を砂漠修道士の大マカリオスの名を冠することで
ロンダリングして正統派文書にし、もつぱら東方正教の中で大切にされて
きたようだ。

さらに、このマカリオスの文書を異端とするのは無理がある。
土橋氏のカトリック神学院の講義で(ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/lec02lec-mat1.html)
、「そうした異端の運動体であったメッサリア派と非常に近い存在であったため、異端として排斥
されることを恐れた修道者たちが、エジプトの修道院活動の父とも言うべき聖マカリオスという人
の名前をわざとその書物につけて、つまり、おそらくは本当はシメオンという名前のシリア人なの
に、マカリオスという偽名をつけて、その書物を守りました。あのお偉いマカリオス様のご本なら大
丈夫だ、という効果を狙ったわけです。確かに彼の書物が異端のメッサリア派のいわば霊的指導
書の役割を果たしたのは事実なのですが、彼自身の主張に異端的要素はありません。」
と言っている。

カトリック神学院(つまり神学校)で「異端的要素はありません」と断言しているのだから、何をどうし
ようとも、偽マカリオスは異端ではない。

しかも、偽マカリオス自体が、正教やカトリックだけでなく、聖公会などプロテスタントの
一部においてさえ、霊的書物として読まれてきたのであって、あのウェスレーにも影響を
与えた書物として言われているのである。

決して異端のロンダリングなどでないことは、それは上記の土橋氏の言葉からも明らか
である。

メッサリア派の霊的書物として使われたがために、異端の嫌疑を免れるために、「マカリオス」
の名前を冠したのである。内容的には、異端では全くない。むしろ、東西霊性において貴重な
書物であった。

さらに、メッサリア派の異端について、その異端断罪の理由は、上記にも多少あらわれている
が、彼らが、祈りだけで足りるとして、洗礼やミサなどの聖礼典を無視したことが大きいのであ
る。これは、特定の視点からの異端という味方であって、同じことならば、当然、クエィカーも、
やはり聖礼典を持たないのであるから、異端ということになる。

150ニュッサ:2012/01/19(木) 14:37:29
であるから、偽マカリオスが異端でないなら、同方向、同質の共通性を持つリーも
異端でないことになる。

リーを異端にするなら、同方向、同質の共通性を持つ偽マカリオスも異端である。

しかし、偽マカリオスを、その内実をもって異端であるという人は、今までの歴史上で
存在しなかったのである。

とすれば、偽マカリオスもリーも異端であることは難しい。

151ニュッサ:2012/01/19(木) 14:47:28
さらに、


>しかし(偽マカリオスは)善悪二元論、現世否定など質的なものはビオラ神学と同質であった。

この言葉には、内容的には、私も賛成する。
なぜなら、私が主張しているのは、神化の神学ではなく、受肉の神学だからだ。
ただ、だからと言って、神化の神学を異端だととは思っていないところが異なる。

ここは、正確に言い直させていただければ、ビオラ神学と同質なのではなく、
ニーと同質なのである。

なぜなら、ビオラ神学は、内容的に、ニーと異なるものがあるわけではなく、
ご自身、ニーに忠実であることを言っておられる。

だから、暇人さんご自身の口で、実は、偽マカリオスは、ニーと同質であると告白
されていることになる。

すると、どうなるのであろうか?

偽マカリオスは、リーと同質、同方向の共通性を持っており、
また、偽マカリオスは、ニーとも同質、同方向性の共通性を持っている。

そうであるならば、当然、ニーとリーは、同質、同方向性の共通性を持っている
ことになる。

つまり、当初の私の主張通り、ニーとリーは内的に連関しているという私の主張が
、この迂回路を通って、証明されたことになるのである。

以上が、この議論から、私が思うところの結論である。

152山谷真少佐:2012/01/20(金) 11:49:00
乃公の考えは、こうです。

1.メッサリア派は「神の本質と信者の混合」を説いて異端定罪された。

2.隠修士はメッサリア派異端定罪の巻き添えを食うのを恐れて「神性と人性の混合」の教えを偽マカリオス文書に避難させた。

3.リーは「神の本質と信者の混合」を説くんだから、現代メッサリア派とみなされる。

4.偽マカリオス文書に「神性と人性の混合」という表現があっても、メッサリア派異端定罪の事実は覆らない。何故なら、メッサリア派が異端定罪されたからこそ隠修士は偽マカリオスに避難したんだから。

5.同様に、偽マカリオス文書に「神性と人性の混合」という表現があっても、リー派が現代メッサリア派である事実は覆らない。

以上が乃公の考えです。

153名無しの神学さん:2012/01/20(金) 13:19:52
日曜日午前10時30分から始まる聖別会の直前も直前になってインターネットの掲示板に書き込みを行なわれたことについて、
山谷少佐のお考えをお聞かせ下さい。

140 :山谷真少佐:2012/01/15(日) 10:26:02

154名無しの神学さん:2012/01/20(金) 14:04:05
ttp://www.affcrit.com/acpress/index.html
ttp://www.affcrit.com/acpress/pdfs/Diviniz-Intro.pdf

ttp://en.wikipedia.org/wiki/Perichoresis
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Theosis
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%90_(%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A)

155ニュッサ:2012/01/20(金) 14:43:25
>>152

別に、あなたの考えがどうであっても構わないが、根拠がなければ有効な考えと
はみなされない。

メッサリア派が異端とされたのは、「自分たちが聖霊に満たされていて、そ
のしるしを身体的・感覚的にわかり、秘蹟の有効性を否定した」(つまり、現代の
聖霊派に似ている)と言われているのだが、
「神の本質と信者の混合」を説いて異端とされたという根拠は何か?
文書を示してください。

156ニュッサ:2012/01/20(金) 15:07:29
例えば、カトリック百科事典のメッサリアの項目
(ttp://www.newadvent.org/cathen/10212a.htm)を読んでも、

彼らが「神の本質と信者の混合」を説いて異端とされたとは書いていない。

そうではなく、秘蹟の有効性を否定した静寂主義ということを中心に書いてある。

秘蹟の有効性を否定した静寂主義が異端ということならば、
同じく、静寂主義ということで異端とされた、がイオン夫人の流れを汲むニーも
異端ということになってしまうだろう。

ニーとリーは、表現は違っているが、その内的連関は外せない。

リーが異端ならば、ニーも異端だろう。

ニーが異端でないならば、リーも異端でない。

157ニュッサ:2012/01/20(金) 15:08:51
失礼、ガイオン夫人です。

158ニュッサ:2012/01/20(金) 15:13:16
繰り返し、言うが、私はリー派でもなければ、個人的に、彼の神学に賛成するもの
でもない。むしろ、反対の神学に立つものである。

しかし、人を大した根拠もなしに異端だということはおかしいと思う。

何をどう捻じ曲げても、リー派を異端にしようというおぞましさをあなたがたに
感じるのだが、

私は、そのような、誰かを異端にしようということ自体を根源的な罪だと思って
いる。

159ニュッサ:2012/01/20(金) 15:28:24
Sacraments they held to be useless, though harmless, the only spiritual
power being prayer, by which one drove out the evil spirit which baptism
had not expelled, received the indwelling of the Holy Ghost, and arrived
at union with God, becoming so perfect that the passions ceased to trouble.
(カトリック百科事典より、メッサリア派の項目)

「秘跡を、無害だが、役に立たないものだと考え、祈りこそが唯一の霊的な力だと
考えた。人は、祈りによって、洗礼が追い払うことのできない悪霊を追い払い、
聖霊の内住を受け、神との一致に達し、感情がわずらわされることのないほど
完全になると考えたのである。」

中心点は、どう考えても、洗礼や聖体拝領などの秘蹟の有効性を否定した静寂主義
にある。

160ニュッサ:2012/01/20(金) 15:32:23
「祈りによって、洗礼が追い払うことのできない悪霊を追い払い、
聖霊の内住を受け、神との一致に達し、感情がわずらわされることのないほど
完全になると考えたのである。」

という部分は、むしろ、ウェスレーやその後のペンテコステ派や聖霊派に似ているではない
か?

だからと言って、ウェスレーやペンテコステ派や聖霊派を、私は異端だとは全く思わないが。

とにかく、リーを「現代のメッサリア派」だと言って異端にしようと言うのは、
全くの言いがかりであり、

何が何でも異端にしようという思いだけが透けて見えるだけである。

161名無しの神学さん:2012/01/20(金) 15:37:57
※救世軍はウェスレー派です。

162ニュッサ:2012/01/20(金) 15:48:22
しかも、救世軍は、洗礼(入隊式が洗礼に当たるとされているが)も聖餐もなく、
いわば、秘蹟もかろんじられているわけだから、
むしろ、当てはまると言えば、救世軍も現代のメッサリア派ということになって
しまうではないか?

私はそうは全然思わないが。

163ニュッサ:2012/01/20(金) 15:53:21
だから、メッサリア派が異端であることを利用して、リーを異端であるということは
根本的に無理があるのです。

「剣を持つものは、剣によって滅びる」というが、
返す刀が自分に返ってきてしまう。

メッサリア派が異端であることを用いて、
リーが異端であると言おうとするならば、

記述されている特徴にもっとよく当てはまる救世軍は、なおさら、異端ということ
になってしまうのだ。

私が異端にしているのではない、間違いのないように。

自分で自分の教派を異端ということにしてしまっているのだ。

164ニュッサ:2012/01/20(金) 16:10:18
ttp://orthodoxwiki.org/Messalianism

正教による「メッサリア派」についての解説。

ここでも、「神の本質と信者の混合」を説いたから異端などとはどこにも書いて
いない。

論旨は、カトリックのページと同じである。

秘蹟が恵みを与えることを否定し、祈りだけが聖霊を受けさせるものだというこ
とが、異端の根拠である。

165暇人:2012/01/20(金) 22:44:22
岩波キリスト教辞典p1104「メッサリア派」の項
担当の久松英二は竜大教授
ttp://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200901013982725936

「メソポタミアに起こり、シリアや小アジアなどに普及した敬虔主義的分派。
エフェソス公会議(431)で異端として断罪されたにもかかわらず7世紀まで
存続した。メッサリアとは「祈る人々」を意味するシリア語のギリシア語音訳で
その意味を取って「エウキタイ派」(Euchitai)とも呼ばれる。
人間の心には悪魔が巣くっているため、これを撃退するためにひたすら祈ることの
必要性のみを強調し、その代わりに教会的組織や秘跡を否定もしくは無視した。
特に秘跡の否定に関して、霊的体験と五感体験を同一視するあまり、恵みの有効性は
それが感覚されうるかどうかにかかっていると主張した」

久松の論文レジュメ
ttp://www.bun.kyoto-u.ac.jp/mdvphil/ksmp/rejume04.html
「動詞plerophoreo(pleres:充満した+phoreo:繰り返し運び・持つ)および名詞plerophoriaは、
元来、量的な規定を与える世俗的な言葉であったが、新約聖書においては、
霊的実在がもたらす「充溢、完全性、確実性」、また主観的な「確信」を表現するために、
ルカ、パウロなどによって用いられたギリシア語固有の術語である。
今回の発表では、(1)この術語を東方教父の中で際立って多用したバシレイオスと擬マカリオスの用法を比較することによって、
さらに(2)擬マカリオス『大書簡』と体系的な類似を示すニュッサのグレゴリオス『キリスト教綱要』の当該語にかかわる
平行箇所の考察によって、擬マカリオスが(他の二人に比して)この語によっていかに力動的な信仰概念を語り得たかを跡付け、
その上で(3)そのような革新的な信仰概念がメッサリア派という異端へと即反転せざるを得なかった所以を、
「感覚主義」という観点から考えてみたい。
その際、人間の知性把握を超絶した「語り得ぬ神」を、こともあろうに「感覚する」という逆説(およびその逆説の文脈)の
哲学的解明がポイントとなるはずである」

166ニュッサ:2012/01/20(金) 23:11:36
暇人さんの引用は、結局、感覚主義による秘蹟の否定であり、

この感覚主義は、現代のペンテコステ、聖霊派にもある。

しかし、山谷さんの言う、「神の本質と信者の混合」を説いたがゆえの異端という
ことはどこにも現れていない。

秘蹟よりもむしろ、祈りによって「聖霊を5感で感じられる」ことを重視したのが
メッサリア派ならば、
メッサリア派は、祈りによって、本人が感じられる形で聖霊のバプテスマを受ける
ことができると説く、ウェスレー以降の、メソジスト、ホーリネス、救世軍、ペンテコステ
、聖霊派に近いことになる。

167ニュッサ:2012/01/20(金) 23:52:14
結論:正教やカトリックにとって、秘蹟は教会の根幹であり、
メッサリア派を異端にしたのは、その秘蹟を否定もしくは無視したことによる。

決して、メッサリア派が「神の本質と信者の混合」を説いたから異端とされたの
ではない。

従って、>>152の山谷さんの主張は、根拠がない。

結局、>>149から151の私の結論は、未だ、有効である。

168ニュッサ:2012/01/20(金) 23:54:30
付加

「従って、従って、>>152の山谷さんの主張は、根拠がない。」
→「従って、>>152の山谷さんの主張は、根拠がなく、単に、リーをどうしても
異端にしようというための、こじつけにすぎないことが判明した。」

169暇人:2012/01/21(土) 09:15:03
アンリ・イレネ・マルー  上智大学中世思想研究所 訳・監修
「平凡社ライブラリー168 キリスト教史2 教父時代」P310-312

異端ではあるが最も意義深いものは、メッサリア派あるいは<祈祷派>(エウケータイ)の
謬説である。(この二つは前者が古典シリア語、後者がギリシア語で、いづれも
<祈りの人>の意味がある)。というのはこれらの謬説の思弁的な謬説さえも
苦行や神秘生活と堅く結ばれているからである。メッサリア派は390年頃、
カッパドギアの綺羅星のごとき偉大な教父らのなかのより小さな星であるイコニオンの
アンフィロキオスに攻撃され、エフェソス公会議で排斥されたが、五世紀以降にも
ローマ帝国の東部諸州とササン朝王国のネストリオス派のなかに勢力をふるった。
この派のなかの主要人物としては、メソポタミア出身のシメオン(4c後半)の
ような人物があげられる。

170暇人:2012/01/21(土) 09:16:09
この説の出発点にはきわめて遺憾な体験的事実がある。すなわち、人間は洗礼の
後でも、自分の内に罪の方へ押し流されていく悪い傾きを認める。西方では
一般にひろく認められている原罪と肉欲との区別を、メッサリア派は持たないために
この傾きを悪魔が人間の魂に住んでいるために起こるものと表現している。
そして悪魔を追放し、情欲に完全に打ち勝って至福の境地<アパティア>(不動心)に
達するためには厳格な禁欲生活に、特に祈りに、聖パウロが勧めている<絶えまない祈り>
(1テサ5:17)に頼らなければならないとする。悪が情欲おいて感覚的に体験される
のと同様に、聖霊が魂の中に入り、それを燃え立せ、清めて神化する事実も
彼らには同じように感覚を通して感じられ、それは光の現象、または恍惚の状態を
ともなうのである。そこからこの派対して<狂信者><歌う人>(あるいは<踊る人>)
という侮蔑的な呼称が起こっている。反対派は彼らに対して怠情、精神的緩み、
痛飲乱舞の宴などという非難とともにこの呼称を乱発している。しかしこの非難の中に
偽の神秘主義に特有の偏向と彼らの思想上の原理から事実に関係なく論理的に
引き出された中傷とを識別することは困難である。
 メッサリア派の思想と習慣は慎重に緩和され、不安を与えないような形で、
教父たちの権威借りて東方の霊性の上にひろく行き渡った。すなわちその影響は
7世紀(649年頃)、シナイ山に没した聖ヨアンネス・クリマクス(570-649)とともに
現れ後年アトス山で発展する神秘的<神秘主義>(ヘシュカズム)の進展の中に
特に感じられる。それにしても神秘主義が存在論的なものから心理的なものに
滑り落ち、感覚的な錯覚に堕落するのは危険である

171暇人:2012/01/21(土) 09:44:53
>>149
土橋氏は擬マカリオス文書の本当の著者を
「シメオンという名前のシリア人」と推定されておられるが
(これは登塔者聖シメオンのことか?)
>>169アンリ・イレネ・マルーの論考によると、このシメオンは
メッサリア派の代表者であるメソポタミアのシメオンと断定されている。

土橋氏の論考「ニュッサのグレゴリオスと擬マカリオス」の註12)によると
ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.article22.html
「メッサリア派の中では、デリース(H. D嗷ries)以降、メソポタミアのシメオンが
マカリオス文書の真の著者(すなわち擬マカリオス)として最有力視されている。
メソポタミアのシメオンとは、反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト
(テオドーレートス〔Hist. eccl. 4, 11,2〕)の中に見出される名であり、
さらに『五十の霊的講話集』のいくつかの写本がその著者として掲げる名でもある。
シメオンの生涯については多くの部分が不明であるが、
おそらく三八〇年から四三〇年の間に小アジアあるいはシリア、メソポタミアで活動していたと思われる。
エジプトの誉れ高き霊的指導者マカリオスの名を冠し、彼の福音的霊性に満たされながらも、
シリア起源の「カルディア心の霊性」によってそれを一層深め、何らかのかたちでメッサリア派とも繋がる
メソポタミアのシメオン、このいわば霊的複合体、デリースの表現を借りれば「マカリオス/シメオン」こそが、
擬マカリオスの正体と言い得るのかもしれない。」

つまり「擬マカリオス」の著者の最有力説は
異端のメッサリア派のメソポタミアのシメオンである。
マルーは、神秘主義を危険視するカトリック的バイオスから議論しているきらいがあり
土橋氏は、対話を重視する第二バチカン会義視点から書いている差があるのではと思う。

172暇人:2012/01/21(土) 10:04:56
土橋は、なぜか
「確かに彼の書物が異端のメッサリア派のいわば霊的指導書の役割を果たしたのは事実なのですが、
彼自身の主張に異端的要素はありません。」
と言われるのであるが、カルケドンに抵触する「神性と人性の混じり合い」があるにもかかわらず
そのことについて一切触れずに「異端的要素は無い」と断定されても
土橋なぜそう主張できるか、私には理解できない。

但し、このスレッド的には、正教が大切にしているテキストであるから
無条件に正統派文書ということにしないと議論の前提が崩れることとなると思う。

スレッド的には場外に属するのであるが
事実の探求の観点からは
1.マカリオス文書は異端メッサリア派の代表者メソポタミアのシメオンが作成し
2.大マカリオスの名を冠してロンダリングして
3.正統派文書として東方で大切にされ
4.慎重に危険性が取り除かれて
5.東方の霊性そのものとなった
という事実はとても興味深い

173ニュッサ:2012/01/21(土) 10:44:53
暇人さんは、どうしてこうも我田引水的に資料を探して来て、ご自分の推定を
主張されるのかわかりません。

まず、アンリ・イレネ・マルーによる「メッサリア派の思想と習慣は慎重に緩和され、不安を与えないような形で、
教父たちの権威借りて東方の霊性の上にひろく行き渡った。すなわちその影響は
7世紀(649年頃)、シナイ山に没した聖ヨアンネス・クリマクス(570-649)とともに
現れ後年アトス山で発展する神秘的<神秘主義>(ヘシュカズム)の進展の中に
特に感じられる。」
という部分ですが、

この言い方は、東方の中心的な霊性であるアトスのヘシュカズムの否定となって
います。

実は、トマス神学とパラマス神学は相容れないのであって、現在のカトリックでも
ごりごりのトマス神学に立つどちらかと言えば保守派の人たちは、正教の霊性を認め
ません。

しかし、それはとりもなおさず、正教を否定することになります。

なぜなら、アトス山は正教の中心であって、さらに、ヘシュカズムはアトス山の根本的
な霊性だからです。

そういう流れに立って、メソポタミアのシメオンが異端メッサリア派の指導者
だと断じているわけです。

ですから、メソポタミアのシメオンが異端メッサリア派の指導者だと断じる事
は、正教に対するカトリック優位の偏向した考えであって、それを事実だと言う
ことは無理があります。

174暇人:2012/01/21(土) 10:52:09
>>173
私は冷静に
「マルーは、神秘主義を危険視するカトリック的バイオスから議論しているきらいがあり」
と解説しています。

正教の友人からヘシュカズムに否定的なカトリックの立場についてのレクチャーを
受けております。

175ニュッサ:2012/01/21(土) 10:52:41
土橋氏の論考によると、

「エジプトの誉れ高き霊的指導者マカリオスの名を冠し、彼の福音的霊性に満たされながらも、
シリア起源の「カルディア心の霊性」によってそれを一層深め、何らかのかたちでメッサリア派とも繋がる
メソポタミアのシメオン、このいわば霊的複合体、デリースの表現を借りれば「マカリオス/シメオン」こそが、
擬マカリオスの正体と言い得るのかもしれない。」

と書いてあるわけです。


正確に読むならば、

「何らかのかたちでメッサリア派と繋がる」と書いているわけで、
メッサリア派の代表者とはどこにも断じていません。

176暇人:2012/01/21(土) 10:57:10
>>171を確認して頂きますとわかりますように
対話主義立場に依って、正教に理解のある土橋氏の論考の註12を確認
した上で、その中の
1.反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト
2.『五十の霊的講話集』のいくつかの写本
という点から、なるほど
メソポタミアのシメオンが最有力説なのだと納得しているわけです。

メソポタミアのシメオンがメッサリア派なのは、土橋氏も資料も認めるところです。
つまりマローの説だけではなく裏を取ってます

177ニュッサ:2012/01/21(土) 10:58:44
つまり、ここまでで、暫定的な結論を申し上げると、

アンリ・イレネ・マルーのような、保守的なトマス主義者から見るならば、
そもそも、トマス神学からは、神化などは成立せず、正教の中心的霊性である
ヘシュカズムは間違いと言うことになるのです。

そのようなアンリ・イレネ・マルーの著書を持ってきて、メソポタミアのシメオン
がメッサリア派の代表者だと言ったところで、それは疑わしいと言うことです。

178暇人:2012/01/21(土) 11:02:38
「メッサリア派の代表者」という表現は、>>169
マルーの
「この派のなかの主要人物としては、メソポタミア出身のシメオン(4c後半)の
ような人物があげられる。」から暇人が翻訳した語です。

これと土橋氏の
「何らかのかたちでメッサリア派とも繋がるメソポタミアのシメオン」は矛盾しません。

なんとか土橋氏はマカリオス文書の正当化をしたいのですが
さの土橋に依ってもメッサリアとの関係を否定できないということです。
その種の配慮の気持ちの無いマルーはずばり異端と言っているわけです。

179ニュッサ:2012/01/21(土) 11:04:41
>>176

たとえ、メッサリア派のリストに挙げられており、メソポタミアのシメオンが
写本の著者だということが事実だとしても、

メソポタミアのシメオンが、メッサリア派の代表者ということにはなりません。

まず、メッサリア派リストにあるからと言って、それがメッサリア派であるという
確定的な証拠にはならない。

だから、土橋氏は、メソポタミアのシメオンが著者だとしつつも、
「メッサリア派と何らかの繋がりがある」と慎重に言っておられる訳です。

180ニュッサ:2012/01/21(土) 11:15:15
>>178

マルーの本は、単なる教会史ですよ。その教会史の本によって、偽マカリオスの
専門家の意見を修正するのは、無理があると思います。

しかも、今、異端とまで言い換えている。

偽マカリオスの文書の内容をはっきり異端だと言う人は、今までいないわけです。
そこは揺るがない。

それなのに、あなたはどうしても異端だと言いたいために、
異端が書いたんだから、異端なのだという循環論証の詭弁に持ち込もうとしている。

しかし、それは、今、論じているように、前提が成立するかどうかもわからないし、
ましてや、前提が成立しても、循環論証の詭弁な訳です。

なぜなら、異端かどうかは、内実によって判断される訳で。
今まで、偽マカリオスの文書を異端だと言う専門家はいなかったし、ましてや、
正教で正統的なものとして読み継がれ、カトリックやプロテスタントの一部でも
読まれてきたわけです。

正当な論理としては、内容が異端でないのだから、著者も異端では
ないということが正当な論理であって、

著書が異端だから内容も異端だとは、単に、循環論証にすぎないわけです。

181ニュッサ:2012/01/21(土) 11:36:56
また、

「カルケドンに抵触する『神性と人性の混じり合い』があるにもかかわらず
そのことについて一切触れずに『異端的要素は無い』と断定されても
土橋なぜそう主張できるか、私には理解できない。」

と暇人さんは言っているが、

当たり前です。

なぜなら、偽マカリオスの言う「神性と人性の混合」の混合と
カルケドンの言う「神性と人性は混合せず」の混合は
意味が全く違うのですから。

カルケドンの言っている混合は、二性が混合して、新しい第3の性質が生じること、
これは、エウティケスに対する否定です。

ところが、偽マカリオスは、二性が混合して、新しい第3の性質が生じるなど
とは、言っていない。混合しても、神性は神性のまま、人性は人性のままなのです。
だから、カルケドンに抵触などしていない。

それは、リーの混ざり合いでも同じことです。

あなたがたが挙げたttp://localchurch.web.fc2.com/part2/mingling.html
の文章をよくよく読んでください。

182暇人:2012/01/21(土) 11:43:03
>>179-180
事実はこういうことです

1.メッサリア派は、エフェソス公会議(431)で異端として断罪された
2.「反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト」にメソポタミアのシメオンの名が
 挙げられている
3.『五十の霊的講話集』のいくつかの写本がメソポタミアのシメオンを著者としている
4a.リベラルなキリスト教史の権威マルーは、メソポタミアのシメオンをメッサリア派の
 主要人物としている。根拠は反メッサリア文書がそう書いているからだ
4b.マカリオス文書を正当化したい土橋でさえ、古代資料からメッサリア派と
 メソポタミアのシメオンの関係を否定できない。

異端と言いたいわけではなく、事実探求です。
事実、異端文書がロンダリングされたのです。
誤解を避けるために事前に私は>>172
「但し、このスレッド的には、正教が大切にしているテキストであるから
無条件に正統派文書ということにしないと議論の前提が崩れることとなると思う」
と書いております。

183ニュッサ:2012/01/21(土) 11:45:16
とにかく、

あなたがたの議論は議論になっておらず、詭弁だらけです。

それは、最初から「リーは異端である」という結論が決まっていて、
異端であるという証拠を後付けで探しているからです。

なぜ、そんなに、地方教会を異端にしたいのでしょうか?

なぜ、そんなに、誰かを異端にしたくてたまらないのでしょうか?

もし、この異端にするということが神から出ているならば、
誰かを異端にするということは、悲しむべき痛みを伴うことではありませんか?
また、当然、人に「アナテマ(呪われよ)」ということが異端宣告なわけだから
慎重にも慎重を期した上でのことであるはずです。

ところが、あなたがたには、悲しみも痛みも、慎重さも感じられない。

あなたがたはリーを危険だと言うが、あなたがたは、実際のところ、自分たちを
神の位置において人を判断しようと言うのは、むしろ危険なのはあなたがたの方
ではありませんか?

184ニュッサ:2012/01/21(土) 11:49:35
しかも、暇人さんに至っては、自分がキリスト者でないことを認めておられる。
仏教徒だと言っていますね。

どうして、仏教徒のあなたが、キリスト教の中の異端問題を扱うのかわけがわかりません。

あなたが異端として採用しておられる基準を、仏教に当てはめれば、当然、仏教は異端と
いうことになってしまうでしょう。

だから、キリスト教徒でもないあなたが、地方教会が異端などと言うのは、明らかに、
おかしなことなのです。
議論から外れていただきたい。

185ニュッサ:2012/01/21(土) 11:58:00
>>182

だから、事実ではなく、推測です。しかも、権威論証による詭弁です。
マルーがリベラルとは到底、思えませんが、むしろトマス主義者であれば、保守
でしょうが、そんなことに関係なく、
専門家でもない人間の意見を、専門家の意見よりもどうして重視するのでしょうか?

それは、単に、あなたの意見に合うからでしょう。

その時点で、正当な論理から外れています。

しかも、正当な論理から外れている詭弁でしかない推測を事実と言うことなど、
単なる印象操作ではありませんか?

以前、私の意見を主観、狂気の沙汰と言いましたが、
これを主観、狂気の沙汰と言う以外、何と言えばいいのでしょうか?

ご自分でも、ご自分の詭弁を真実と思い込んでいらっしゃるのですか?

186暇人:2012/01/21(土) 12:11:38
>>181
ttp://localchurch.web.fc2.com/part2/mingling.html
このリーの詭弁と
>>146の「神性と人性が混ぜ合わされながら一つの教会(エレクシア)を
作らんがためにである。」
の同質性と差異についての考究が必要ですね

私は「リーが結合の言い換えだ」というのであれば、
「なぜ聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えたのか」と
問いたい。

187暇人:2012/01/21(土) 12:15:46
1.メッサリア派は、エフェソス公会議(431)で異端として断罪された
2.「反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リスト」にメソポタミアのシメオンの名が
 挙げられている
3.『五十の霊的講話集』のいくつかの写本がメソポタミアのシメオンを著者としている
4a.リベラルなキリスト教史の権威マルーは、メソポタミアのシメオンをメッサリア派の
 主要人物としている。根拠は反メッサリア文書がそう書いているからだ
4b.マカリオス文書を正当化したい土橋でさえ、古代資料からメッサリア派と
 メソポタミアのシメオンの関係を否定できない。

推測は一切なく「事実」のみですよ
これのどこを推測と思われておられるのですか?

暇人が仏教徒と言った覚えはないですよ。
仮に言ったとしてもスレッドと何の関係もないのでは?
マルーは専門家ですよ。なんで専門家ではないと思われているのですか?

188ニュッサ:2012/01/21(土) 12:21:23
>>186

リーの詭弁というが、そう言ったら、あの文章のどこが詭弁なのか示さなければ
なりません。

そうでなければ、印象操作の詭弁になってしまいますよ。

>私は「リーが結合の言い換えだ」というのであれば、
>「なぜ聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えたのか」と
>問いたい。

呑み込みが悪すぎます。
何ども言っているではありませんか?

神化を言うために決まっているでしょう?

それなら、パラマスだって、わざわざ、自分の理論を持ち出さなかったでしょう?
神化を言うために、パラマスはエネルゲイアを持ち出し、リーは混ざりあいを
持ち出したのです。

189暇人:2012/01/21(土) 12:25:15
アンリ・イレネ・マルー

古代史家・教父学者。
マルセイユに生まれる。パリ高等師範学校、ローマのフランス学院に学んだ後に、
カイロ大学、リヨン大学、パリ大学ほかで教授を歴任した。
古代教会史研究の第一人者としてつとに知られ、古典古代の文化、
アウグスティヌス研究、歴史哲学など幅広い分野で優れた業績を残した

190暇人:2012/01/21(土) 12:31:16
>>188

パラマスは、ある聖句を不完全と批判して、「完全な語」を創出されて
言い換えられたのでしょうか?

そうそう中世原典集成3には、ちょうど
グレゴリオスパラマス『聖なるヘシュカスト(静寂主義者)のための弁護』『講話集』も掲載されています。
マカリオスを読了後、確認してみます。

まつたりとお待ちくださいませ

191ニュッサ:2012/01/21(土) 12:33:34
>>187

暇人さん、頭悪すぎです。頭悪すぎか、わざとやっているのか。
たぶん、わざとやっているのでしょうが。

すり替えの詭弁ばかりで本当に嫌になります。

いいですか?

マルーは教会史の専門家であって、偽マカリオスの専門家ではないのです。
しかも、そこには、カトリック保守派の護教的な見地から書かれていることが
濃厚だ。

比べて、土橋氏は、偽マカリオスの専門家なのです。

専門家の意見を重視すると言った場合、どちらの意見を重視すべきか明らかでしょう。

しかも、
あなたは事実というが、事実は、メソポタミアのシメオンが反メッサリア派の
文書のメッサリア派のリストに載っているというだけで、

他に、彼がメッサリア派かどうか、確定的な証拠はないのです。

しかも、主要人物だと載っているわけでもないわけです。

大体、それなら、ウェスレーや救世軍のウィリアムブースも、反フリーメーソンの
フリーメーソンのリストに載っているから、

ウェスレーやブースもフリーメーソンということが確定ということになりますよ。

同じことです。

詭弁です。

192ニュッサ:2012/01/21(土) 12:39:13
>>187

いや、少なくとも、キリスト者ではないのですよね?

キリスト者ではないものが、誰か、あるいは教派を異端かどうかという判断をする
資格があるでしょうか?

常識的に考えて、私はないと思います。

193ニュッサ:2012/01/21(土) 12:45:30
>>186,190

あと、ストローマンの詭弁をまた用いておりますね。

いったい、どこで、リーは「なぜ聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えた」
とか、
「ある聖句を不完全と批判して、『完全な語』を創出」したとか言っているのでしょうか?

根拠をお示しください。

もう、あなたがたの詭弁だらけなのにはほとほと嫌になりました。

194ニュッサ:2012/01/21(土) 12:51:14
失礼、

193「なぜ聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えた」
→「聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えた」

195ニュッサ:2012/01/21(土) 13:01:55
もうすでに、あなたがたの反則負けは決まっているのです。

なぜなら、あなたがたが今までこのスレッドで主張されていることで、
詭弁でないことがあったでしょうか?

ことごとく、詭弁です。

正当な論理を用いてなされた主張など全くない。

はっきり言って、お話になりません。

しかも、それらの詭弁をやめようとする気配は微塵もありません。

私も無限に時間があるわけではありませんから、適当なところで切り上げたく
思っております。

196ニュッサ:2012/01/21(土) 13:15:46
結論:山谷氏は、メッサリア派が「神の本質と信者の混合」を説いたために異端と
   されたという根拠を示せない。
   暇人氏は、詭弁の多用により、そもそも議論になっていない。
   
   2人とも、149から151に対する有効な反証は何ひとつあげられておりません。

   ですので、議論は終わりにします。

   なお、反証、ご自分たちの主張の根拠が提出された場合は、
   再び、議論することもあるかもしれませんが、
   それがなお、詭弁の場合は、詭弁の分析をして終わりにさせていただきます。

197ニュッサ:2012/01/21(土) 13:42:56
付加:あるいは、詭弁ということがありありと見て取れる場合は無視するかも
   しれません。

198暇人:2012/01/21(土) 17:52:00
詭弁はニュッサさんですね
マルーは、古代教父の専門家で、テキスト編集もされた方です。
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Henri-Ir%C3%A9n%C3%A9e_Marrou

さてニュッサの詭弁の本体です。
ニュッサさんが専門家だとする土橋氏自身が
>>171 註12で
1.メソポタミアのシメオンが、マカリオス文書の真の著者として最有力視されている
2.メソポタミアのシメオンこのいわば霊的複合体、デリースの表現を借りれば「マカリオス/シメオン」こそが、
擬マカリオスの正体と言い得るのかもしれない
と結論づけられております。
つまり専門家たちの中ではほぼ確定しており、土橋氏もこの最有力説に従われているのです。

そして
Aメソポタミアのシメオンとは、反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リストに挙げられている人物であり
B『五十の霊的講話集』のいくつかの写本の著者
です。
マルーを使わなくても
擬マカリオステキストが異端メッサリアのメソポタミアのシメオンが書いたという
最有力説は微塵も動かない事実なのです。

そして古代教会史の専門家であり権威であるマルーが
メソポタミアのシメオンを異端メッサリアの主要人物としているわけです。

以上が事実です。暇人は具体的資料を挙げ立証しました。
ニュッサさんは有効な反論をできずに人格攻撃に堕されているので
この項については有効な反論(実証)が無い限りスルーします。

199ニュッサ:2012/01/21(土) 18:03:20
>>198

だから、何度も言わせないで欲しいが、
土橋氏がどこで、メソポタミアのシメオンがメッサリア派の主要人物だと言っているのですか?

メソポタミアのシメオンが著者だとしても、
そのシメオンが反メッサリア派の文書が挙げるメッサリア派リストに挙げられている
人物だというだけでは、

シメオンがメッサリア派だということは確定できないではありませんか。

200暇人:2012/01/21(土) 18:06:24
マカリオスが聖霊派に似ているというニュッサ氏のご意見に私も賛同します。
私は
「ある種の聖霊派運動はマカリオスと霊性において類似を感じます」。

マカリオスに限らずですが、古代教父の悪魔の多用、
殊に驚いたのは、「霊的戦い」という概念がマカリオス文書にありました。
正教の教会内で安全に扱われると修道の中で静寂主義という祈りとなるが
一般信徒向けにマカリオスを制限なく宣伝すれば教会成長論などに
悪用される危険性があるのではないかという感想を持ちつつ読み進んでおります。

201ニュッサ:2012/01/21(土) 18:08:57
そのことは、ウェスレーやブースが、反フリーメーソンの挙げるフリーメーソンの
リストに挙げられているからと言って、
フリーメーソンと確定できないのと同じです。

それとも、あなたはウェスレーやブースがフリーメーソンだとでも言うのですか?

あなたの使っている詭弁のロジックを平等に当てはめればそういうことになるのですよ?

202ニュッサ:2012/01/21(土) 18:14:06
だからこそ、土橋氏は、「メッサリア派と何らかの繋がりがある」という
言い方をしているわけです。

メッサリア派だと断定はどこにもしていない。

結局、偽マカリオスが異端か、また同じように、ウェスレーやブースがメーソンか
どうかは、内容において判断すべきことだと言うことです。

そして、内容において偽マカリオスが異端だと言う人はいないし、ウェスレーや
ブースがメーソンと言う人もいない。

203山谷真少佐:2012/01/21(土) 18:15:46
ウェスレーとブースがフリーメーソンで、その影響が彼らの教えに見て取れる、と主張している教会史家は一人もいませんよ。

204ニュッサ:2012/01/21(土) 18:17:31
>>198

あと、マルーは古代教父、教会史の専門家かもしれないが、
少なくとも、偽マカリオスの専門家でもないし、東方の霊性についての専門家でも
ないわけです。

205ニュッサ:2012/01/21(土) 18:21:42
>>203

そうでしょう。山谷さん自身が、暇人さんの詭弁のロジックを見破ってくださったことに
なります。

反フリーメーソンの挙げるフリーメーソンのリストに、
ウェスレーやブースが載っているからと言って、
彼らがフリーメーソンでないならば、

反メッサリア文書の挙げるメッサリア派のリストに、
シメオンが載っているからと言って、
シメオンがメッサリア派とは言えないということになるのです。

206ニュッサ:2012/01/21(土) 18:28:33
>>200

しかし、もし、現代の聖霊派の一部に似ているから、危険で異端というならば、
ジェシーペンルイスやウォッチマンニーはもっとそうだということになります。

なにせ、「霊の戦い」という考え方は、ペンルイスの「聖徒と戦い」また、
ニーの「霊の人」の後半部分で、初めてはっきりと示されたものだからです。

207ニュッサ:2012/01/21(土) 18:33:03
205の続き

つまり、ウェスレーやブースがメーソンかどうかは、その内容により判断されるのであって
教会史家は誰もそんなことを肯定していない

のと全く同じように、

偽マカリオスが異端かどうかは、その内容により判断されるのであって、
土橋氏は異端的要素はないと断言し、またその内容を異端だと言った学者もないのです。

全く、同じロジックではありませんか?どこが詭弁ですか?

208山谷真少佐:2012/01/21(土) 19:08:24
反メッサリア派というのは、4世紀の主教たちでしょう。

現代の匿名ネット市民と主教を同列に置いて論じるのはどうかと思います。

主教が礼拝を導くとき、その場に宇宙教会が現臨する、と信じられているのですから。

209ニュッサ:2012/01/21(土) 19:25:31
>>208

1 反メッサリア派の文書を書いたのが4世紀の主教たちを指していると言うのは
根拠がありますか?
2 1の根拠があるとして、主教が書いたからと言って、その情報がどうして確か
だと言えますか?

210ニュッサ:2012/01/21(土) 19:27:23
ちなみに
「主教が礼拝を導くとき、その場に宇宙教会が現臨する、と信じられているのですから。」
は、だから、情報が確かなことには全くならない。

211ニュッサ:2012/01/21(土) 19:42:06
>>208

むしろ、ネット社会では、情報の流通度が古代社会よりも高いから、その分、正確
とも言えるのである。

だから、208で山谷氏が述べていることは、私が205、207で述べているロジックを
根本的に覆すものとはならない。

212ニュッサ:2012/01/21(土) 20:01:03
更に、偽マカリオスが誰かということは、すでに確定した問題ではない。
そんなことをこの議論で取り上げること自体、おかしなことである。

以上、私はすべきことは全て果たし、相変わらず、私の結論に対する反証も、
詭弁でない議論も見られないので、

私はこの議論を降りることにする。

詭弁だらけのこの議論は明らかに時間の無駄である。

213ニュッサ:2012/01/21(土) 20:10:08
おそらく、彼らは、この後、どういう詭弁を用いても、偽マカリオスは異端だと
言い出し、
それと同方向、同質性を持つリーを異端であると言い出すのであろう。

もう、すでにシナリオは決まっていて、そのシナリオ通りの道筋を得るために、
資料をあさっているだけなのである。

だから、私がひとつひとつ、論理的矛盾を指摘したところで、
彼らは、自分のシナリオを裏書するために、また新たな詭弁をこねくり回すだけ
だろう。

まさにイタチごっこである。

そんなに、異端断罪ごっこをやりたければ、やるのを止めることはできない。

どうぞ、おやりなさい。

ただし、異端断罪というのは、遊びにしては、まことに罪が重い遊びだと自覚して
やるべきである。

なぜなら、それは自分を神の位置に置くものだからである。

以上、この議論をここまで、お読みいただければ、一体、どちらに論理性があるか
わかる人にはわかるだろう。

それで十分なのである。

私は去る、彼らのえんえんと続く詭弁に付き合う人生の時間はもう残されていないから。

どうぞ、ご自由に。

214山谷真少佐:2012/01/21(土) 20:24:58
アレキサンドリアのキュリロス、アンティオキアのフラウィアヌス、アンティオキアのテオドトゥス、メリテアのレトイウス、イコニウムのアンフィロキウス。

いずれも主教です。

当時の主教は、逸脱した信仰と実行に走る信者に関心を向け、近隣の主教に注意を喚起するため主教文書を回覧しました。

危機感を持った主教が390年にパンフィリアのシデで教会会議を開催し、逸脱した信者たちを「メッサリア派」として排斥しました。

しかし、メッサリア派の勢いは留まることなく、その後も数百年にわたって教会会議で何度も排斥されました。

神の本質を人間が肉体的器官で認識し得るという謬説に対して付けられた「メッサリア派」というレッテルは、14世紀にカラブリアのバルラアムによって、アトス山の修道士たちに貼り付けられました。

アトスの修道士たちは、神を肉体的器官で認識し得るという「ヘシュキスム」を実践していたからです。

メッサリア派のレッテルを貼られた「ヘシュキスム」を防衛するため、グレゴリオ・パラマスが論陣を展開し、ウーシアとエネルギアを峻別したテオーシスを弁証しました。

パラマスはメッサリア派として断罪され、免職、拘束されたこともありましたが、パラマスの弁証は徐々に受け入れられ、正教神学の本流として擁立されるに至りました。

すなわち「信者は、神のウーシアを認識し得ないが、神のエネルゲイアを認識し得る」という教理の確立。

この間、4世紀から14世紀まで千年にわたる主教たち、執事たち、長老(司祭)たちの労苦は、すべて「羊の群れを守る」ためでありました。

羊の群れを守るために、主教は主教杖を携えております。

リーの「神の本質が信者と混合する。その結果が団体のキリストである。団体のキリストはローカルチャーチだけだ。諸教会はすべて背教のバビロンである」という主張は、主教たちの千年の労苦を無にするものです。

215ニュッサ:2012/01/21(土) 21:17:19
そうすると、山谷さん、あなたは偽マカリオスはメッサリア派の文書として
断じるわけですね。

ウェスレーにも影響を与えたこの東方霊性の精華とも言われるこの文書を。

その内容について、誰も異端と言ったことがなく、その著者問題にも確定した
答えなど出ていないこの文書を。

もう、そうであれば、言うことはないです。

あなたがたは、自分のシナリオを突き進まれるだけだ。

私がいくら論理矛盾を示そうが、あなたがたの結論は決まっている、
「私たちが異端だと言ったら、異端なのです」というトートロジーでしょう。

それには、馬鹿馬鹿しくて付き合ってはいられません。

なぜなら、理性を用いて論理では到底、納得することのできないものだからです。

どうぞ、ご自由にしてください。

216ニュッサ:2012/01/21(土) 21:23:01
ただ、もうあなたにはいくら言ってもむだでしょうが、

また、すり替えとストローマンの詭弁をしておられますよ。

「神の本質を人間が肉体的器官で認識し得るという謬説に対して付けられた『メッサリア派』」

メッサリア派の断罪理由は、明らかに違います。

それは、何度も言うように、「祈りを唯一の恵みを得る手段とし、秘蹟を無視したため」です。

あなたはどうして、言っていないことを言ったことにし、勝手に自分の主張に合わせようとする
のですか?

217ニュッサ:2012/01/21(土) 21:32:27
しかも、アトス山の修道者たちが、「メッサリア派」のレッテルを貼られたなんて
珍説中の珍説ですよ。

アトス山の修道者たちは、秘蹟を軽視されていなかったのだから、別に「メッサリア派」
のレッテルを貼られたわけではない。

そうではなく、それは、根本的には、トマス主義の神学と、東方の霊性との激突だった
わけです。

あなたの詭弁と、我田引水的な根拠なき推論には、ほとほと呆れ果てます。

もう、付き合っていられませんので、

どうぞ、ご自由に妄説、珍説をここでご開陳ください。

218ニュッサ:2012/01/21(土) 21:42:41
失礼。

「秘蹟を軽視されて」→「秘蹟を軽視して」

219ニュッサ:2012/01/21(土) 22:10:24
本当に、最後に、

ここでの議論と、私が地方教会のある兄弟とした議論を比べて見てください。
いったい、どちらが知的に誠実な議論なのか、百聞は一見にしかずです。

地方教会の兄弟とした議論→ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1107014205/

220山谷真少佐:2012/01/22(日) 00:17:59
カラブリアのバルラアムがアトス山のヘシュキストたちを「メッサリア派」と論難したので、アトス山を防戦するため立てられたのがグレゴリオ・パラマスです。

議論の争点は、ヘシュキストが「神のウーシアと信者の混合」を説くメッサリア派に相当するか否か、でした。

バルラアムとパラマスの三次に及ぶ論戦は「メッサリア論争」と呼ばれています。

221暇人:2012/01/23(月) 07:40:09
ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.article22.html
土橋氏の論考について、なぜニュッサ氏は冷静に読めないのであろうか。
自分の都合の良い土橋氏の一言に依拠し、その後は妄想と詭弁で
事実を見ない。前置きはともかく、
土橋氏の論考「ニュッサのグレゴリオスと擬マカリオス」からコピーする

「ところで、アンティオキアおよびシデの教会会議でのメッサリア派非難は、
何であれ書き物に対してなされたものではなかった。それに対し、異端と断
罪されたエフェソス公会議(四三一年)においては、メッサリア派の修道者
たちが携えていた書物自体に非難が向けられていた(だからこそ、そうした
メッサリア派的な文言の数々が記録されることになったのである)。もし、
三八〇年から三九〇年当時はまだ全体として無学であったメッサリア派の中
に、何らかの形で霊的指導書や修道手引書のようなものが入り込み、それが
四三一年の断罪に繋がったと仮定できるなら、そうした書物こそ擬マカリオ
スの説教集であり『大書簡』だったのではあるまいか。そうした仮定に立ち、
しかもイェーガー説に従う限り、『大書簡』の執筆年代は、ほぼ五世紀前半
ということになるだろう。しかし、そうなるとメッサリア派と擬マカリオス
との関係というものも極めて曖昧なものとなる。確かに、イェーガーのよう
にメッサリア派の実体をグレゴリオス修道思想の亜流へと解消することも、
擬マカリオスをメッサリア派とは一切無関係とみなすことも、多くの資料が
整った現在においては極めて困難ではある。しかし、だからと言って擬マカ
リオスを「改革的メッサリア派」(H・デリース)とか「萌芽的メッサリア
主義」(D・グリボモン)などと呼んで異端色の希薄化を図っても、実質的
な解決には決して到らないだろう。
 このようにメッサリア派問題では必ずしも説得的ではなかったものの、
イェーガー説は、『綱要』『大書簡』両書のまったく新しい校訂版の威力を
存分に発揮することによってこの両書に関する研究史を一挙に書き換え、い
わゆる「マカリオス問題」もほぼ解決されたかのような印象を強く与えるも
のであった32)。しかし、一九六〇年代の後半以降になると、イェーガー説を
真っ向から否定する研究が次々に登場し始め、現在においてもそうした動向
に対する有力な論駁は一つもなされていない。それは一体どのようなことを
意味しているのだろうか。もっとも精力的な活動で擬マカリオス研究をリー
ドするR・シュターツに即して考察してみたい。」

222暇人:2012/01/23(月) 07:44:09
(六)シュターツ説
 イェーガーの『大書簡』暫定的校訂版が刊行されてからちょうど十年後の
一九六四年、H・デリースからの委託を受け『大書簡』の批判校訂という労
多き仕事を引き継いだR・シュターツは、同年、ゲッティンゲン大学神学部
に提出した学位論文に基づいた『ニュッサのグレゴリオスとメッサリア派』
と題する著書をさらにその四年後に上梓した33)。「本質から逸れた押し付け
がましい仮説の一切を振り捨て、グレゴリオスの『綱要』と擬マカリオスの
『大書簡』の間で常々議論の絶えることのなかった、どちらが他に先行しそ
の原本となるかという問題を、能う限り厳密に文献学的原理に則って解くこ
と」34)を主眼とした同書において、ほぼ時を同じくしてイェーガー説への疑
念を表明したJ・グリボモン35)やM・カネヴェ36)らの主張を纏める形でシ
ュターツは以下のような明瞭な解釈を展開した。
まず、擬マカリオスの『大書簡』の方がより先にオリジナルとしてあった。
したがって、通常グレゴリオスに帰される『綱要』の方は、『大書簡』にお
いて擬マカリオス(ないしメソポタミアのシメオン)の説く修道生活に関わ
る様々な教説を、その表現方式に到るまで文字通り手本としつつ、哲学的語
彙を用いたより洗練された形に書きかえようとした試みに他ならない。その
ような『綱要』の企ての目的は、『大書簡』に含まれるメッサリア派的な表
現を和らげ、当時のギリシア語を解する知識人層により受容可能なように、
彼らに馴染みのある哲学的概念を『大書簡』の表現に溶け込ませるためであ
った。おおよそ以上のような解釈がシュターツら反イェーガー陣営の主張す
なわち『大書簡』オリジナル説である。この立場はその後、擬マカリオスの
テクスト集成としては現在もっともテクスト上の問題が少なく信頼できると
見られる第三集成の最新校訂版37)編者V・デプレの参入を得てますます勢
いを増し、さらにはシュターツ自身のほぼライフワークとさえ言い得る
『大書簡』の批判校訂版38)(彼自身による『綱要』の最新校訂版も見開きで
並置)が一九八四年についに完成するに到って、解釈上の大勢をほぼ決した観がある。」

223暇人:2012/01/23(月) 08:07:11
土橋氏に依ると擬マカリオスについて学者から

1.イェーガー説
2.メッサリアと無関係説
3.「改革的メッサリア派」(H・デリース)
4.「萌芽的メッサリア主義」(D・グリボモン)
など、擬マカリオスを異端メッサリア派と無関係としたり、
異端性の希薄化を図る説は資料が充実した現在では説得力が無い。
現在の最有力説であり土橋氏が支持されているのは
5.シュターツ説…擬マカリオスの『大書簡』がオリジナルであり、
        ニュッサのグレゴリオスに帰される『綱要』はマカリオスを下敷きにして
        『大書簡』に含まれるメッサリア派的な表現を和らげ、
        当時のギリシア語を解する知識人層により受容可能なように、
         彼らに馴染みのある哲学的概念を『大書簡』の表現に溶け込ませた。

つまり土橋氏は、マカリオス文書自体に異端メッサリア派的表現があるとの認識に立たれている
あるいは、シュターツの指摘を知悉されているのです。
にもかからわず土橋氏は説明なく擬マカリオスに異端的要素は無いとされていて
ニュッサ氏はその一言に依拠されているのだが、土橋氏の論考を読むと
甚だ疑問が残る。
むしろ土橋氏の論考に依っても擬マカリオス文書に異端メッサリア要素は明確なのだ。

224暇人:2012/01/23(月) 08:26:58
以上は余談。

本論はあくまでニュッサ氏の提起通り
マカリオスにminglingがあった。
マカリオスは、正教で大切にしている文書なのであるから
マカリオスのminglingとリーのminglingの比較検討が必要となってくると思う。

ニュッサ氏の立場を代弁すれば
「古代と現代なのであるから表現や内容は違うが
同じ言葉が使われている。だからリーは正統なのだ」

私は同じ語だとしても内容が同質か異質なのかが大切であるので
ニュッサ氏の立場を支持できない。中味の検討が必要だ、です。

山谷氏はこの件についてどういう見解を持たれていますか?

225山谷真少佐:2012/01/23(月) 17:43:04
偽マカリオス文書がメッサリア派との関わりの中で成立した文書であること。

これが学問的見解の前提のようですね。その上で「関わり」の程度がどうか、諸説が現在進行形で議論されている、と。

乃公は偽マカリオス文書を、こう扱います。

1 偽マカリオス文書は砂漠の隠修士の「祈りの生活」の指導書として書かれた。ゆえにわれわれは同書を祈りの導きのために読むべきで、組織神学書、教理書、信仰箇条、教会論として読むべきではない。

2 砂漠の隠修士の「孤住型」の祈りの生活は不具合が多かったので、東西の教会で「共住型」の修道院が発展した。ゆえにわれわれは同書を教会の交わりの中で読むべきで、自分単独で読むべきではない。

3 砂漠の隠修士とその追従者に見られた熱狂的・体験主義的なメッサリア派は、数百年にわたって主教たちと教会会議の憂慮するところとなった。ゆえにわれわれは同書を主教たちの監督のもとで読むべきで、監督の権威が軽んじられ無視されている環境で読むべきではない。

4 偽マカリオスを祈りの導き手とするアトスの修道士たちの「神人合一」の経験は、その表現方法をめぐって第14世紀の東西の主教たちの憂慮するところとなった。これについてバルラアムとパラマスが「メッサリア論争」を行い、その結果「神のウーシアとエネルギアを峻別したテオーシス」の教義が、教会の交わりの中で確立された。ゆえにわれわれが同書を、祈りの導きのために、教会の交わりの中で、主教たちの監督のもとで読むとは、「神のウーシアとエネルギアを峻別したテオーシス」の線を越えずに読むということである。

5 リーは、地方にあって合一の立場の教会だけが宇宙教会たる「団体のキリスト」だと主張し、諸教会を背教のバビロンと断じて、教会の交わりを否定し、主教たちの監督を軽んじる。そのようなリーが説く「神の本質と信者の混合」の教説のために偽マカリオスを引用して正当化することは、危険な試みであって、乃公には到底受け容れられない。

6 なお、主教たちは教会史の中で、信仰と実行のあり方、特に義認論と教会論と聖餐論を巡って見解を異にし、その結果として歴史的諸信条と諸教会が形成された。乃公は、歴史的諸信条と諸教会に敬意を払うと共に、自分の属するメソジスト・ホーリネス・後期ホーリネスの信仰と生活に最大の敬意を払う。この立場の上で乃公は偽マカリオス文書を読む。

226名無しの神学さん:2012/01/24(火) 09:26:19
[乃公;だいこう]

漢文や日本語の場合には、
自分のことを指す一人称(書き言葉)です。

「乃(=汝、お前)」の「公(=主君)」ということで、
「俺様」とか「我が輩」といったニュアンスがあります。
偉そうな威張った言い方です。
普通、目上が目下に向かって使う言葉です。

「乃公出(いで)ずんば」で、「俺様が出ないで、他の者に何ができる
ものか→俺様が出てやることにしよう」の意味です。自信を表すときの
言い方です。

227山谷真少佐:2012/01/24(火) 10:16:02
ブログでは「小生」
2ちゃんでは「乃公」
と使いわけをしています。

2ちゃんの一人称代名詞は広く慣例的に「俺」となっていますけれど、それをそのまま使うのはシャクなので、「俺」の当て字である「乃公」を使っています。

書きながら、心の中では「ノコ」と発音しています。

228朝子:2012/01/24(火) 14:36:21
女子高生とあぶー、ばぶーと赤ちゃんプレイに耽溺する神学者ってかなりシュールと思われ。

229名無しの神学さん:2012/02/11(土) 21:04:31
ニュッサさんはもう来ないよ。
”掃き溜めに鶴”はそうは舞い降りて来ない。

230名無しの神学さん:2012/02/12(日) 11:18:13
ぷっ、鶴にも変態がいるのかい?

231名無しの神学さん:2012/02/13(月) 07:18:14
>>230 おめえは掃き溜めの変態だよWwwww

232名無しの神学さん:2012/03/17(土) 19:19:28
一応、正教の最も権威的な神学者であるメイエンドルフによる見解。
やはり、マカリオスとメッサリア派をつなげるのは無理がある。それはマカリオス
を貶めたい、そもそも神化などないと考える一部の学者によるものだと言ってよい。

「人間の心の中における神とサタンの共在という観念と、恵みの自覚的体験への
呼びかけとは、現代の歴史家の何人かに、マカリオスの『講話集]とメッサリア主義
の指導者の文書とを同一視させることになった。

もしこの非難が正しいとしたら、それはマカリオスだけでなく、マカリオスが
疑問の余地のない権威を享受し、彼の思想、とりわけ自覚的な神体験という
観念が支配的でありつづけたビザンティンのその後の修道的霊性の多くを、
その非難に巻き込むことになろう。

しかし、メッサリア主義が意味することが実際には何であるかについての厳密
な定義と、メッサリア主義の基本的な立場のいくつかー例えば、反サクラメント
主義がマカリオスに存在しないことは、この仮説を非常に疑わしいものにする。」
(ビザンティン神学 p.112)

233ニュッサ:2012/03/17(土) 19:20:05
失礼、232はニュッサです。

234誰かを異端にしようとしてやまない人たち:2012/03/23(金) 08:08:01
ttp://megalodon.jp/2012-0314-1822-47/blog.livedoor.jp/gregoryofnyssa/lite/archives/51692438.html しばらく、論争に明け暮れていた。
今、考えると、実に愚かなことをしたものだと思う。
私が論争した人たちは、ある教派を異端と考えている。
私は、自分が直接、その教派に関係したことはないが、知り合いがその教派におり、
また、その教派を異端と考える理由は薄弱であり、
一番大切なことは、誰かを異端と言うことが許せないために、彼らと論争したのである。

初めは、彼らも話せばわかる人たちだろうと思っていた。
しかし、私は、それは自分の見込み違いであることを知らされた。
彼らは、詭弁を多用し、その教派の人たちを、何が何でも異端にしようという熱意に燃えていたのだ。
私は、彼らの詭弁の論理矛盾を指摘したが、彼らは、何度そうしようと引き下がらない。
もう、彼らのなかでは、その人たちが異端であることは決まっており、ただ、その結論に向けて、
自分たちに有利だと思える情報をかきあつめているだけだとわかった。

だが、しかし、人を異端にすることは、人に、「アナテマ(呪われよ)」ということであり、
その人を、もう人間ではなく、裁いて滅ぼしても構わないモノにすることである。
何とおぞましいことなのか、私はそこに感じられる巨大なマイナスエネルギーにぞっと背筋が凍り、吐き気さえももよおした。
もし、それが神という愛から出ているならば、痛みがあり、悲しみがあり、また異端という判断に対する慎重さがあるはずだが、
そのようなものは一片も感じられない。
むしろ、ある種の情熱があり、喜びさえあり、少しでも異端という判断を助けるものなら、ハイエナのように飛びつくのである。
人を異端と宣告することは、中世においては、即、死を意味した。
実際、アルビジョワ十字軍によって、カタリ派は、女も子供もすべて、殲滅されたのである。
今も、それは、相手に対する究極的な生殺与奪の暴力であることは変わらない。

相手を「神になる」という教えを持って異端と断じているが、
自分たちは、この相手を異端に断じるという究極の暴力をもって、彼ら自身が神になっているのである。
いったい、彼らがイエスを信じたとき、彼らは誰かを異端として究極の暴力を振るうために信じたのか?
まさに、宗教はおぞましい。宗教こそは、人間を悪魔に変えてしまう洗脳装置であると言わざるを得ない。

235万人救済主義の異端:2012/03/26(月) 08:53:52
大体”異端”とか”正統”とか言うのが、時代錯誤じゃねえの?
随分前に本掲示板で、
「クリスチャンはなぜ”異端”という言葉を使って他人を差別するんでしょう?」
という疑問を呈した人がいて、ノンクリのTさんが、
「いやいや、”異端”は”正統の部分否定”という意味の分類語であって、
決して差別語ではない。差別語だからと言って使用を禁じたならば、
キリスト教の教理史が語れなくなってしまう。」
と言われて納得したもんだったが・・・・

236万人救済主義の異端:2012/03/26(月) 09:07:08
しっかし現実の教会では、”異端”はしっかり差別語として使われていて、
「ウチは正統、よそは異端!」「いやウチこそ正統!ああいうとこは異端!」
などと不毛な議論をしておるわな。

「全地公会議で、三位一体説のアタナシウス派が”正統とされ”
キリストを”限りなく神に近いが人であるホモ・イ・ウーシオス”」
と唱えたアリウス派が”異端とされた”」

・・・これは歴史的事実であるが、神ならぬ人間の開いた公会議で決まったことが、
それも何千年も前に決まったことを現代に持ち込む感覚がわからん!
だからクリスチャンはわが国では、”変わり者”なんだな。

自分とこの教理を”正統”、色々理屈をつけて他者を”異端”と言い張る人々には、
職業宗教者のイヤらしさを感じる。

万人救済主義・・・大いに結構じゃんか?なぜ万人救済が”異端”?
キリスト教はケツの穴が小さいね?
「クリスチャン以外は地獄に落ちる!」
って教えたいわけ???

歴史的事実として”異端審問”受けた人が、悪とは限らないよ。
ジョン・ウィクリフ、ヤン・フス、マルチン・ルター、ツヴィングリ、
カルヴァンetc.・・・

万人救済主義を異端という人は、どういう人が救われて、どういう人が裁かれるか?
どんな基準持ってるの?どうせ手前勝手な我田引水のリクツでしょ?

カルト教会を批判して自分が正義感ぶって、他を異端呼ばわりする人がいるけど、
そういう人自信がカルト思考に陥ってるんだよ。
偉大な宗教改革者マルチン・ルターが、ユダヤ人を虐殺したり、魔女裁判で
無実の人々を大勢殺したようにね・・・・

237万人救済主義の異端:2012/03/26(月) 09:11:39
だから”キリスト教の正統”が、なんぼのもんじゃい!ってことだわな。
”自分が正統、他が異端”などと言ってる人は、
それこそクリスチャンにあるべき”謙遜さ”を忘れてるんだよ。

238名無しの神学さん:2012/04/11(水) 18:40:05
「異端カルトと非難するやつこそ異端カルトだ!」と言うやつはだいたい異端カルトだよ。

239名無しの神学さん:2012/04/12(木) 06:39:43
>>238 異端とカルトは違うぞ
その違いがわかってから能書きたれろ

240名無しの神学さん:2017/05/27(土) 12:48:43
性なるかな 性なるかな 性なるかな アホ卜し
昔、8○3今、卜し
永遠に騙す主を騙り

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 | ィ ■  / ,ミ).■゜  r |  
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 \    _/      .| |       ♪♪(リピート)
   | ̄ ̄        ノ |
   /\_____/|v、、)
   |.    ■■    | ' ̄
   |   ヽミ■■ミノ |   ←生霊の盾(○ール入り)?? ? ? ? ? ? 禁ちゃん
   ト,.  ■■■■■ |   
   |    ノ  .i

241名無しの神学さん:2018/02/24(土) 15:59:11
作詞:聖イエス会教祖様

時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


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