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minglingましょう

22ニュッサ:2012/01/13(金) 14:23:44
暇人さん、

ニーがどこを根拠にどう言っているかは、一応、全て、聖句に基づいていると
思います。

ただ、それが、私には読み込みすぎにしか思えないわけですが。

ニーの本はすべて処分してしまいましたし、ある意味、いろいろなことがあった
せいで、フラッシュバックが起きないように、記憶の中からも、努めて忘れるよ
うにしてしまいましたので、

聖書のどこというのは、不正確な記憶に頼るしかありません。

K氏に尋ねるのが、一番、早いと思います。

けれど、記憶の糸をたどってみましょう。

まず、ニーの聖書の読み方ですが、聖書はマニュアルのようなもので、違う用語
が使われていれば、違うものを意味しているのだと教えられました。

そして、聖書には、いのちは3つあり、ゾーエーが霊的ないのち、プシュケーが
魂のいのち、ビオスが動物的なからだのいのちです。

今、どこの聖句というのは、頭に浮かばないのですけれど、聖書のいたるところ
を示して、この3つを区別すると、こう読めるという形で教えられました。

魂が、霊とからだのジョイントというのは、まことにその通りで、私も同意です。

しかし、K氏やヴィオロンさんは、むしろ、魂を霊から切り離すことを強調すると
思います。

なぜなら、ニーに「霊と魂の切り分け」という教えがあるからです。

この聖句は、ヘブル書の「神の言葉は、関節と骨随、霊と魂を刺し通すほどに鋭く
」という箇所を、

「霊と魂を切り分ける」と読んで、霊と魂の切り分けを主張します。

魂の力は、肉の力と結びついた罪の力であり、御言葉によって、自分の内側が照ら
されることで、「これは、霊から来る思い、これは魂から来る思い」と判別でき
、霊と魂が切り分けられ、分離し、初めて、神の御霊がその人の中で自由に働くこ
とができるとするものです。

しかし、これはニーの論考の中で、安黒師も書いておられることですが、
明らかに読み込みすぎであって、元の聖句は、霊と魂の切り分けを意味している
わけではなく、御言葉が、関節と骨随、霊と魂といった本来、区別できないもの
を、刺し通すほどに鋭いものだと言っているのだと思います。

このさらに詳しい内容は、ニーの「霊の解放」とか、もっと詳しくは「霊の人」
に、詳述されています。

少佐の言われた、サタンの内住については、もちろん、ニーではなく、リーの言っ
ていることです。

これについては、「ウォッチマンニーとウィットネスリーの真実」の中でも、私と
地方教会の兄弟との間で、取り上げられていたと思いますが、

聖句としては、ロマ書7章の、「私は、自分の内に悪が住んでいるのを知っている」
という悪を、サタンとして捉えるのです。


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