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minglingましょう

1名無しの神学さん:2012/01/12(木) 16:02:05
んでは神学しましょう

ご参考に
ttp://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/psy/1323911382/

192ニュッサ:2012/01/21(土) 12:39:13
>>187

いや、少なくとも、キリスト者ではないのですよね?

キリスト者ではないものが、誰か、あるいは教派を異端かどうかという判断をする
資格があるでしょうか?

常識的に考えて、私はないと思います。

193ニュッサ:2012/01/21(土) 12:45:30
>>186,190

あと、ストローマンの詭弁をまた用いておりますね。

いったい、どこで、リーは「なぜ聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えた」
とか、
「ある聖句を不完全と批判して、『完全な語』を創出」したとか言っているのでしょうか?

根拠をお示しください。

もう、あなたがたの詭弁だらけなのにはほとほと嫌になりました。

194ニュッサ:2012/01/21(土) 12:51:14
失礼、

193「なぜ聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えた」
→「聖句の結合を不完全と見なして、minglingが完全と考えた」

195ニュッサ:2012/01/21(土) 13:01:55
もうすでに、あなたがたの反則負けは決まっているのです。

なぜなら、あなたがたが今までこのスレッドで主張されていることで、
詭弁でないことがあったでしょうか?

ことごとく、詭弁です。

正当な論理を用いてなされた主張など全くない。

はっきり言って、お話になりません。

しかも、それらの詭弁をやめようとする気配は微塵もありません。

私も無限に時間があるわけではありませんから、適当なところで切り上げたく
思っております。

196ニュッサ:2012/01/21(土) 13:15:46
結論:山谷氏は、メッサリア派が「神の本質と信者の混合」を説いたために異端と
   されたという根拠を示せない。
   暇人氏は、詭弁の多用により、そもそも議論になっていない。
   
   2人とも、149から151に対する有効な反証は何ひとつあげられておりません。

   ですので、議論は終わりにします。

   なお、反証、ご自分たちの主張の根拠が提出された場合は、
   再び、議論することもあるかもしれませんが、
   それがなお、詭弁の場合は、詭弁の分析をして終わりにさせていただきます。

197ニュッサ:2012/01/21(土) 13:42:56
付加:あるいは、詭弁ということがありありと見て取れる場合は無視するかも
   しれません。

198暇人:2012/01/21(土) 17:52:00
詭弁はニュッサさんですね
マルーは、古代教父の専門家で、テキスト編集もされた方です。
ttp://fr.wikipedia.org/wiki/Henri-Ir%C3%A9n%C3%A9e_Marrou

さてニュッサの詭弁の本体です。
ニュッサさんが専門家だとする土橋氏自身が
>>171 註12で
1.メソポタミアのシメオンが、マカリオス文書の真の著者として最有力視されている
2.メソポタミアのシメオンこのいわば霊的複合体、デリースの表現を借りれば「マカリオス/シメオン」こそが、
擬マカリオスの正体と言い得るのかもしれない
と結論づけられております。
つまり専門家たちの中ではほぼ確定しており、土橋氏もこの最有力説に従われているのです。

そして
Aメソポタミアのシメオンとは、反メッサリア派文書が挙げるメッサリア派リストに挙げられている人物であり
B『五十の霊的講話集』のいくつかの写本の著者
です。
マルーを使わなくても
擬マカリオステキストが異端メッサリアのメソポタミアのシメオンが書いたという
最有力説は微塵も動かない事実なのです。

そして古代教会史の専門家であり権威であるマルーが
メソポタミアのシメオンを異端メッサリアの主要人物としているわけです。

以上が事実です。暇人は具体的資料を挙げ立証しました。
ニュッサさんは有効な反論をできずに人格攻撃に堕されているので
この項については有効な反論(実証)が無い限りスルーします。

199ニュッサ:2012/01/21(土) 18:03:20
>>198

だから、何度も言わせないで欲しいが、
土橋氏がどこで、メソポタミアのシメオンがメッサリア派の主要人物だと言っているのですか?

メソポタミアのシメオンが著者だとしても、
そのシメオンが反メッサリア派の文書が挙げるメッサリア派リストに挙げられている
人物だというだけでは、

シメオンがメッサリア派だということは確定できないではありませんか。

200暇人:2012/01/21(土) 18:06:24
マカリオスが聖霊派に似ているというニュッサ氏のご意見に私も賛同します。
私は
「ある種の聖霊派運動はマカリオスと霊性において類似を感じます」。

マカリオスに限らずですが、古代教父の悪魔の多用、
殊に驚いたのは、「霊的戦い」という概念がマカリオス文書にありました。
正教の教会内で安全に扱われると修道の中で静寂主義という祈りとなるが
一般信徒向けにマカリオスを制限なく宣伝すれば教会成長論などに
悪用される危険性があるのではないかという感想を持ちつつ読み進んでおります。

201ニュッサ:2012/01/21(土) 18:08:57
そのことは、ウェスレーやブースが、反フリーメーソンの挙げるフリーメーソンの
リストに挙げられているからと言って、
フリーメーソンと確定できないのと同じです。

それとも、あなたはウェスレーやブースがフリーメーソンだとでも言うのですか?

あなたの使っている詭弁のロジックを平等に当てはめればそういうことになるのですよ?

202ニュッサ:2012/01/21(土) 18:14:06
だからこそ、土橋氏は、「メッサリア派と何らかの繋がりがある」という
言い方をしているわけです。

メッサリア派だと断定はどこにもしていない。

結局、偽マカリオスが異端か、また同じように、ウェスレーやブースがメーソンか
どうかは、内容において判断すべきことだと言うことです。

そして、内容において偽マカリオスが異端だと言う人はいないし、ウェスレーや
ブースがメーソンと言う人もいない。

203山谷真少佐:2012/01/21(土) 18:15:46
ウェスレーとブースがフリーメーソンで、その影響が彼らの教えに見て取れる、と主張している教会史家は一人もいませんよ。

204ニュッサ:2012/01/21(土) 18:17:31
>>198

あと、マルーは古代教父、教会史の専門家かもしれないが、
少なくとも、偽マカリオスの専門家でもないし、東方の霊性についての専門家でも
ないわけです。

205ニュッサ:2012/01/21(土) 18:21:42
>>203

そうでしょう。山谷さん自身が、暇人さんの詭弁のロジックを見破ってくださったことに
なります。

反フリーメーソンの挙げるフリーメーソンのリストに、
ウェスレーやブースが載っているからと言って、
彼らがフリーメーソンでないならば、

反メッサリア文書の挙げるメッサリア派のリストに、
シメオンが載っているからと言って、
シメオンがメッサリア派とは言えないということになるのです。

206ニュッサ:2012/01/21(土) 18:28:33
>>200

しかし、もし、現代の聖霊派の一部に似ているから、危険で異端というならば、
ジェシーペンルイスやウォッチマンニーはもっとそうだということになります。

なにせ、「霊の戦い」という考え方は、ペンルイスの「聖徒と戦い」また、
ニーの「霊の人」の後半部分で、初めてはっきりと示されたものだからです。

207ニュッサ:2012/01/21(土) 18:33:03
205の続き

つまり、ウェスレーやブースがメーソンかどうかは、その内容により判断されるのであって
教会史家は誰もそんなことを肯定していない

のと全く同じように、

偽マカリオスが異端かどうかは、その内容により判断されるのであって、
土橋氏は異端的要素はないと断言し、またその内容を異端だと言った学者もないのです。

全く、同じロジックではありませんか?どこが詭弁ですか?

208山谷真少佐:2012/01/21(土) 19:08:24
反メッサリア派というのは、4世紀の主教たちでしょう。

現代の匿名ネット市民と主教を同列に置いて論じるのはどうかと思います。

主教が礼拝を導くとき、その場に宇宙教会が現臨する、と信じられているのですから。

209ニュッサ:2012/01/21(土) 19:25:31
>>208

1 反メッサリア派の文書を書いたのが4世紀の主教たちを指していると言うのは
根拠がありますか?
2 1の根拠があるとして、主教が書いたからと言って、その情報がどうして確か
だと言えますか?

210ニュッサ:2012/01/21(土) 19:27:23
ちなみに
「主教が礼拝を導くとき、その場に宇宙教会が現臨する、と信じられているのですから。」
は、だから、情報が確かなことには全くならない。

211ニュッサ:2012/01/21(土) 19:42:06
>>208

むしろ、ネット社会では、情報の流通度が古代社会よりも高いから、その分、正確
とも言えるのである。

だから、208で山谷氏が述べていることは、私が205、207で述べているロジックを
根本的に覆すものとはならない。

212ニュッサ:2012/01/21(土) 20:01:03
更に、偽マカリオスが誰かということは、すでに確定した問題ではない。
そんなことをこの議論で取り上げること自体、おかしなことである。

以上、私はすべきことは全て果たし、相変わらず、私の結論に対する反証も、
詭弁でない議論も見られないので、

私はこの議論を降りることにする。

詭弁だらけのこの議論は明らかに時間の無駄である。

213ニュッサ:2012/01/21(土) 20:10:08
おそらく、彼らは、この後、どういう詭弁を用いても、偽マカリオスは異端だと
言い出し、
それと同方向、同質性を持つリーを異端であると言い出すのであろう。

もう、すでにシナリオは決まっていて、そのシナリオ通りの道筋を得るために、
資料をあさっているだけなのである。

だから、私がひとつひとつ、論理的矛盾を指摘したところで、
彼らは、自分のシナリオを裏書するために、また新たな詭弁をこねくり回すだけ
だろう。

まさにイタチごっこである。

そんなに、異端断罪ごっこをやりたければ、やるのを止めることはできない。

どうぞ、おやりなさい。

ただし、異端断罪というのは、遊びにしては、まことに罪が重い遊びだと自覚して
やるべきである。

なぜなら、それは自分を神の位置に置くものだからである。

以上、この議論をここまで、お読みいただければ、一体、どちらに論理性があるか
わかる人にはわかるだろう。

それで十分なのである。

私は去る、彼らのえんえんと続く詭弁に付き合う人生の時間はもう残されていないから。

どうぞ、ご自由に。

214山谷真少佐:2012/01/21(土) 20:24:58
アレキサンドリアのキュリロス、アンティオキアのフラウィアヌス、アンティオキアのテオドトゥス、メリテアのレトイウス、イコニウムのアンフィロキウス。

いずれも主教です。

当時の主教は、逸脱した信仰と実行に走る信者に関心を向け、近隣の主教に注意を喚起するため主教文書を回覧しました。

危機感を持った主教が390年にパンフィリアのシデで教会会議を開催し、逸脱した信者たちを「メッサリア派」として排斥しました。

しかし、メッサリア派の勢いは留まることなく、その後も数百年にわたって教会会議で何度も排斥されました。

神の本質を人間が肉体的器官で認識し得るという謬説に対して付けられた「メッサリア派」というレッテルは、14世紀にカラブリアのバルラアムによって、アトス山の修道士たちに貼り付けられました。

アトスの修道士たちは、神を肉体的器官で認識し得るという「ヘシュキスム」を実践していたからです。

メッサリア派のレッテルを貼られた「ヘシュキスム」を防衛するため、グレゴリオ・パラマスが論陣を展開し、ウーシアとエネルギアを峻別したテオーシスを弁証しました。

パラマスはメッサリア派として断罪され、免職、拘束されたこともありましたが、パラマスの弁証は徐々に受け入れられ、正教神学の本流として擁立されるに至りました。

すなわち「信者は、神のウーシアを認識し得ないが、神のエネルゲイアを認識し得る」という教理の確立。

この間、4世紀から14世紀まで千年にわたる主教たち、執事たち、長老(司祭)たちの労苦は、すべて「羊の群れを守る」ためでありました。

羊の群れを守るために、主教は主教杖を携えております。

リーの「神の本質が信者と混合する。その結果が団体のキリストである。団体のキリストはローカルチャーチだけだ。諸教会はすべて背教のバビロンである」という主張は、主教たちの千年の労苦を無にするものです。

215ニュッサ:2012/01/21(土) 21:17:19
そうすると、山谷さん、あなたは偽マカリオスはメッサリア派の文書として
断じるわけですね。

ウェスレーにも影響を与えたこの東方霊性の精華とも言われるこの文書を。

その内容について、誰も異端と言ったことがなく、その著者問題にも確定した
答えなど出ていないこの文書を。

もう、そうであれば、言うことはないです。

あなたがたは、自分のシナリオを突き進まれるだけだ。

私がいくら論理矛盾を示そうが、あなたがたの結論は決まっている、
「私たちが異端だと言ったら、異端なのです」というトートロジーでしょう。

それには、馬鹿馬鹿しくて付き合ってはいられません。

なぜなら、理性を用いて論理では到底、納得することのできないものだからです。

どうぞ、ご自由にしてください。

216ニュッサ:2012/01/21(土) 21:23:01
ただ、もうあなたにはいくら言ってもむだでしょうが、

また、すり替えとストローマンの詭弁をしておられますよ。

「神の本質を人間が肉体的器官で認識し得るという謬説に対して付けられた『メッサリア派』」

メッサリア派の断罪理由は、明らかに違います。

それは、何度も言うように、「祈りを唯一の恵みを得る手段とし、秘蹟を無視したため」です。

あなたはどうして、言っていないことを言ったことにし、勝手に自分の主張に合わせようとする
のですか?

217ニュッサ:2012/01/21(土) 21:32:27
しかも、アトス山の修道者たちが、「メッサリア派」のレッテルを貼られたなんて
珍説中の珍説ですよ。

アトス山の修道者たちは、秘蹟を軽視されていなかったのだから、別に「メッサリア派」
のレッテルを貼られたわけではない。

そうではなく、それは、根本的には、トマス主義の神学と、東方の霊性との激突だった
わけです。

あなたの詭弁と、我田引水的な根拠なき推論には、ほとほと呆れ果てます。

もう、付き合っていられませんので、

どうぞ、ご自由に妄説、珍説をここでご開陳ください。

218ニュッサ:2012/01/21(土) 21:42:41
失礼。

「秘蹟を軽視されて」→「秘蹟を軽視して」

219ニュッサ:2012/01/21(土) 22:10:24
本当に、最後に、

ここでの議論と、私が地方教会のある兄弟とした議論を比べて見てください。
いったい、どちらが知的に誠実な議論なのか、百聞は一見にしかずです。

地方教会の兄弟とした議論→ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1107014205/

220山谷真少佐:2012/01/22(日) 00:17:59
カラブリアのバルラアムがアトス山のヘシュキストたちを「メッサリア派」と論難したので、アトス山を防戦するため立てられたのがグレゴリオ・パラマスです。

議論の争点は、ヘシュキストが「神のウーシアと信者の混合」を説くメッサリア派に相当するか否か、でした。

バルラアムとパラマスの三次に及ぶ論戦は「メッサリア論争」と呼ばれています。

221暇人:2012/01/23(月) 07:40:09
ttp://c-faculty.chuo-u.ac.jp/~tsuchi/gyoseki.article22.html
土橋氏の論考について、なぜニュッサ氏は冷静に読めないのであろうか。
自分の都合の良い土橋氏の一言に依拠し、その後は妄想と詭弁で
事実を見ない。前置きはともかく、
土橋氏の論考「ニュッサのグレゴリオスと擬マカリオス」からコピーする

「ところで、アンティオキアおよびシデの教会会議でのメッサリア派非難は、
何であれ書き物に対してなされたものではなかった。それに対し、異端と断
罪されたエフェソス公会議(四三一年)においては、メッサリア派の修道者
たちが携えていた書物自体に非難が向けられていた(だからこそ、そうした
メッサリア派的な文言の数々が記録されることになったのである)。もし、
三八〇年から三九〇年当時はまだ全体として無学であったメッサリア派の中
に、何らかの形で霊的指導書や修道手引書のようなものが入り込み、それが
四三一年の断罪に繋がったと仮定できるなら、そうした書物こそ擬マカリオ
スの説教集であり『大書簡』だったのではあるまいか。そうした仮定に立ち、
しかもイェーガー説に従う限り、『大書簡』の執筆年代は、ほぼ五世紀前半
ということになるだろう。しかし、そうなるとメッサリア派と擬マカリオス
との関係というものも極めて曖昧なものとなる。確かに、イェーガーのよう
にメッサリア派の実体をグレゴリオス修道思想の亜流へと解消することも、
擬マカリオスをメッサリア派とは一切無関係とみなすことも、多くの資料が
整った現在においては極めて困難ではある。しかし、だからと言って擬マカ
リオスを「改革的メッサリア派」(H・デリース)とか「萌芽的メッサリア
主義」(D・グリボモン)などと呼んで異端色の希薄化を図っても、実質的
な解決には決して到らないだろう。
 このようにメッサリア派問題では必ずしも説得的ではなかったものの、
イェーガー説は、『綱要』『大書簡』両書のまったく新しい校訂版の威力を
存分に発揮することによってこの両書に関する研究史を一挙に書き換え、い
わゆる「マカリオス問題」もほぼ解決されたかのような印象を強く与えるも
のであった32)。しかし、一九六〇年代の後半以降になると、イェーガー説を
真っ向から否定する研究が次々に登場し始め、現在においてもそうした動向
に対する有力な論駁は一つもなされていない。それは一体どのようなことを
意味しているのだろうか。もっとも精力的な活動で擬マカリオス研究をリー
ドするR・シュターツに即して考察してみたい。」

222暇人:2012/01/23(月) 07:44:09
(六)シュターツ説
 イェーガーの『大書簡』暫定的校訂版が刊行されてからちょうど十年後の
一九六四年、H・デリースからの委託を受け『大書簡』の批判校訂という労
多き仕事を引き継いだR・シュターツは、同年、ゲッティンゲン大学神学部
に提出した学位論文に基づいた『ニュッサのグレゴリオスとメッサリア派』
と題する著書をさらにその四年後に上梓した33)。「本質から逸れた押し付け
がましい仮説の一切を振り捨て、グレゴリオスの『綱要』と擬マカリオスの
『大書簡』の間で常々議論の絶えることのなかった、どちらが他に先行しそ
の原本となるかという問題を、能う限り厳密に文献学的原理に則って解くこ
と」34)を主眼とした同書において、ほぼ時を同じくしてイェーガー説への疑
念を表明したJ・グリボモン35)やM・カネヴェ36)らの主張を纏める形でシ
ュターツは以下のような明瞭な解釈を展開した。
まず、擬マカリオスの『大書簡』の方がより先にオリジナルとしてあった。
したがって、通常グレゴリオスに帰される『綱要』の方は、『大書簡』にお
いて擬マカリオス(ないしメソポタミアのシメオン)の説く修道生活に関わ
る様々な教説を、その表現方式に到るまで文字通り手本としつつ、哲学的語
彙を用いたより洗練された形に書きかえようとした試みに他ならない。その
ような『綱要』の企ての目的は、『大書簡』に含まれるメッサリア派的な表
現を和らげ、当時のギリシア語を解する知識人層により受容可能なように、
彼らに馴染みのある哲学的概念を『大書簡』の表現に溶け込ませるためであ
った。おおよそ以上のような解釈がシュターツら反イェーガー陣営の主張す
なわち『大書簡』オリジナル説である。この立場はその後、擬マカリオスの
テクスト集成としては現在もっともテクスト上の問題が少なく信頼できると
見られる第三集成の最新校訂版37)編者V・デプレの参入を得てますます勢
いを増し、さらにはシュターツ自身のほぼライフワークとさえ言い得る
『大書簡』の批判校訂版38)(彼自身による『綱要』の最新校訂版も見開きで
並置)が一九八四年についに完成するに到って、解釈上の大勢をほぼ決した観がある。」

223暇人:2012/01/23(月) 08:07:11
土橋氏に依ると擬マカリオスについて学者から

1.イェーガー説
2.メッサリアと無関係説
3.「改革的メッサリア派」(H・デリース)
4.「萌芽的メッサリア主義」(D・グリボモン)
など、擬マカリオスを異端メッサリア派と無関係としたり、
異端性の希薄化を図る説は資料が充実した現在では説得力が無い。
現在の最有力説であり土橋氏が支持されているのは
5.シュターツ説…擬マカリオスの『大書簡』がオリジナルであり、
        ニュッサのグレゴリオスに帰される『綱要』はマカリオスを下敷きにして
        『大書簡』に含まれるメッサリア派的な表現を和らげ、
        当時のギリシア語を解する知識人層により受容可能なように、
         彼らに馴染みのある哲学的概念を『大書簡』の表現に溶け込ませた。

つまり土橋氏は、マカリオス文書自体に異端メッサリア派的表現があるとの認識に立たれている
あるいは、シュターツの指摘を知悉されているのです。
にもかからわず土橋氏は説明なく擬マカリオスに異端的要素は無いとされていて
ニュッサ氏はその一言に依拠されているのだが、土橋氏の論考を読むと
甚だ疑問が残る。
むしろ土橋氏の論考に依っても擬マカリオス文書に異端メッサリア要素は明確なのだ。

224暇人:2012/01/23(月) 08:26:58
以上は余談。

本論はあくまでニュッサ氏の提起通り
マカリオスにminglingがあった。
マカリオスは、正教で大切にしている文書なのであるから
マカリオスのminglingとリーのminglingの比較検討が必要となってくると思う。

ニュッサ氏の立場を代弁すれば
「古代と現代なのであるから表現や内容は違うが
同じ言葉が使われている。だからリーは正統なのだ」

私は同じ語だとしても内容が同質か異質なのかが大切であるので
ニュッサ氏の立場を支持できない。中味の検討が必要だ、です。

山谷氏はこの件についてどういう見解を持たれていますか?

225山谷真少佐:2012/01/23(月) 17:43:04
偽マカリオス文書がメッサリア派との関わりの中で成立した文書であること。

これが学問的見解の前提のようですね。その上で「関わり」の程度がどうか、諸説が現在進行形で議論されている、と。

乃公は偽マカリオス文書を、こう扱います。

1 偽マカリオス文書は砂漠の隠修士の「祈りの生活」の指導書として書かれた。ゆえにわれわれは同書を祈りの導きのために読むべきで、組織神学書、教理書、信仰箇条、教会論として読むべきではない。

2 砂漠の隠修士の「孤住型」の祈りの生活は不具合が多かったので、東西の教会で「共住型」の修道院が発展した。ゆえにわれわれは同書を教会の交わりの中で読むべきで、自分単独で読むべきではない。

3 砂漠の隠修士とその追従者に見られた熱狂的・体験主義的なメッサリア派は、数百年にわたって主教たちと教会会議の憂慮するところとなった。ゆえにわれわれは同書を主教たちの監督のもとで読むべきで、監督の権威が軽んじられ無視されている環境で読むべきではない。

4 偽マカリオスを祈りの導き手とするアトスの修道士たちの「神人合一」の経験は、その表現方法をめぐって第14世紀の東西の主教たちの憂慮するところとなった。これについてバルラアムとパラマスが「メッサリア論争」を行い、その結果「神のウーシアとエネルギアを峻別したテオーシス」の教義が、教会の交わりの中で確立された。ゆえにわれわれが同書を、祈りの導きのために、教会の交わりの中で、主教たちの監督のもとで読むとは、「神のウーシアとエネルギアを峻別したテオーシス」の線を越えずに読むということである。

5 リーは、地方にあって合一の立場の教会だけが宇宙教会たる「団体のキリスト」だと主張し、諸教会を背教のバビロンと断じて、教会の交わりを否定し、主教たちの監督を軽んじる。そのようなリーが説く「神の本質と信者の混合」の教説のために偽マカリオスを引用して正当化することは、危険な試みであって、乃公には到底受け容れられない。

6 なお、主教たちは教会史の中で、信仰と実行のあり方、特に義認論と教会論と聖餐論を巡って見解を異にし、その結果として歴史的諸信条と諸教会が形成された。乃公は、歴史的諸信条と諸教会に敬意を払うと共に、自分の属するメソジスト・ホーリネス・後期ホーリネスの信仰と生活に最大の敬意を払う。この立場の上で乃公は偽マカリオス文書を読む。

226名無しの神学さん:2012/01/24(火) 09:26:19
[乃公;だいこう]

漢文や日本語の場合には、
自分のことを指す一人称(書き言葉)です。

「乃(=汝、お前)」の「公(=主君)」ということで、
「俺様」とか「我が輩」といったニュアンスがあります。
偉そうな威張った言い方です。
普通、目上が目下に向かって使う言葉です。

「乃公出(いで)ずんば」で、「俺様が出ないで、他の者に何ができる
ものか→俺様が出てやることにしよう」の意味です。自信を表すときの
言い方です。

227山谷真少佐:2012/01/24(火) 10:16:02
ブログでは「小生」
2ちゃんでは「乃公」
と使いわけをしています。

2ちゃんの一人称代名詞は広く慣例的に「俺」となっていますけれど、それをそのまま使うのはシャクなので、「俺」の当て字である「乃公」を使っています。

書きながら、心の中では「ノコ」と発音しています。

228朝子:2012/01/24(火) 14:36:21
女子高生とあぶー、ばぶーと赤ちゃんプレイに耽溺する神学者ってかなりシュールと思われ。

229名無しの神学さん:2012/02/11(土) 21:04:31
ニュッサさんはもう来ないよ。
”掃き溜めに鶴”はそうは舞い降りて来ない。

230名無しの神学さん:2012/02/12(日) 11:18:13
ぷっ、鶴にも変態がいるのかい?

231名無しの神学さん:2012/02/13(月) 07:18:14
>>230 おめえは掃き溜めの変態だよWwwww

232名無しの神学さん:2012/03/17(土) 19:19:28
一応、正教の最も権威的な神学者であるメイエンドルフによる見解。
やはり、マカリオスとメッサリア派をつなげるのは無理がある。それはマカリオス
を貶めたい、そもそも神化などないと考える一部の学者によるものだと言ってよい。

「人間の心の中における神とサタンの共在という観念と、恵みの自覚的体験への
呼びかけとは、現代の歴史家の何人かに、マカリオスの『講話集]とメッサリア主義
の指導者の文書とを同一視させることになった。

もしこの非難が正しいとしたら、それはマカリオスだけでなく、マカリオスが
疑問の余地のない権威を享受し、彼の思想、とりわけ自覚的な神体験という
観念が支配的でありつづけたビザンティンのその後の修道的霊性の多くを、
その非難に巻き込むことになろう。

しかし、メッサリア主義が意味することが実際には何であるかについての厳密
な定義と、メッサリア主義の基本的な立場のいくつかー例えば、反サクラメント
主義がマカリオスに存在しないことは、この仮説を非常に疑わしいものにする。」
(ビザンティン神学 p.112)

233ニュッサ:2012/03/17(土) 19:20:05
失礼、232はニュッサです。

234誰かを異端にしようとしてやまない人たち:2012/03/23(金) 08:08:01
ttp://megalodon.jp/2012-0314-1822-47/blog.livedoor.jp/gregoryofnyssa/lite/archives/51692438.html しばらく、論争に明け暮れていた。
今、考えると、実に愚かなことをしたものだと思う。
私が論争した人たちは、ある教派を異端と考えている。
私は、自分が直接、その教派に関係したことはないが、知り合いがその教派におり、
また、その教派を異端と考える理由は薄弱であり、
一番大切なことは、誰かを異端と言うことが許せないために、彼らと論争したのである。

初めは、彼らも話せばわかる人たちだろうと思っていた。
しかし、私は、それは自分の見込み違いであることを知らされた。
彼らは、詭弁を多用し、その教派の人たちを、何が何でも異端にしようという熱意に燃えていたのだ。
私は、彼らの詭弁の論理矛盾を指摘したが、彼らは、何度そうしようと引き下がらない。
もう、彼らのなかでは、その人たちが異端であることは決まっており、ただ、その結論に向けて、
自分たちに有利だと思える情報をかきあつめているだけだとわかった。

だが、しかし、人を異端にすることは、人に、「アナテマ(呪われよ)」ということであり、
その人を、もう人間ではなく、裁いて滅ぼしても構わないモノにすることである。
何とおぞましいことなのか、私はそこに感じられる巨大なマイナスエネルギーにぞっと背筋が凍り、吐き気さえももよおした。
もし、それが神という愛から出ているならば、痛みがあり、悲しみがあり、また異端という判断に対する慎重さがあるはずだが、
そのようなものは一片も感じられない。
むしろ、ある種の情熱があり、喜びさえあり、少しでも異端という判断を助けるものなら、ハイエナのように飛びつくのである。
人を異端と宣告することは、中世においては、即、死を意味した。
実際、アルビジョワ十字軍によって、カタリ派は、女も子供もすべて、殲滅されたのである。
今も、それは、相手に対する究極的な生殺与奪の暴力であることは変わらない。

相手を「神になる」という教えを持って異端と断じているが、
自分たちは、この相手を異端に断じるという究極の暴力をもって、彼ら自身が神になっているのである。
いったい、彼らがイエスを信じたとき、彼らは誰かを異端として究極の暴力を振るうために信じたのか?
まさに、宗教はおぞましい。宗教こそは、人間を悪魔に変えてしまう洗脳装置であると言わざるを得ない。

235万人救済主義の異端:2012/03/26(月) 08:53:52
大体”異端”とか”正統”とか言うのが、時代錯誤じゃねえの?
随分前に本掲示板で、
「クリスチャンはなぜ”異端”という言葉を使って他人を差別するんでしょう?」
という疑問を呈した人がいて、ノンクリのTさんが、
「いやいや、”異端”は”正統の部分否定”という意味の分類語であって、
決して差別語ではない。差別語だからと言って使用を禁じたならば、
キリスト教の教理史が語れなくなってしまう。」
と言われて納得したもんだったが・・・・

236万人救済主義の異端:2012/03/26(月) 09:07:08
しっかし現実の教会では、”異端”はしっかり差別語として使われていて、
「ウチは正統、よそは異端!」「いやウチこそ正統!ああいうとこは異端!」
などと不毛な議論をしておるわな。

「全地公会議で、三位一体説のアタナシウス派が”正統とされ”
キリストを”限りなく神に近いが人であるホモ・イ・ウーシオス”」
と唱えたアリウス派が”異端とされた”」

・・・これは歴史的事実であるが、神ならぬ人間の開いた公会議で決まったことが、
それも何千年も前に決まったことを現代に持ち込む感覚がわからん!
だからクリスチャンはわが国では、”変わり者”なんだな。

自分とこの教理を”正統”、色々理屈をつけて他者を”異端”と言い張る人々には、
職業宗教者のイヤらしさを感じる。

万人救済主義・・・大いに結構じゃんか?なぜ万人救済が”異端”?
キリスト教はケツの穴が小さいね?
「クリスチャン以外は地獄に落ちる!」
って教えたいわけ???

歴史的事実として”異端審問”受けた人が、悪とは限らないよ。
ジョン・ウィクリフ、ヤン・フス、マルチン・ルター、ツヴィングリ、
カルヴァンetc.・・・

万人救済主義を異端という人は、どういう人が救われて、どういう人が裁かれるか?
どんな基準持ってるの?どうせ手前勝手な我田引水のリクツでしょ?

カルト教会を批判して自分が正義感ぶって、他を異端呼ばわりする人がいるけど、
そういう人自信がカルト思考に陥ってるんだよ。
偉大な宗教改革者マルチン・ルターが、ユダヤ人を虐殺したり、魔女裁判で
無実の人々を大勢殺したようにね・・・・

237万人救済主義の異端:2012/03/26(月) 09:11:39
だから”キリスト教の正統”が、なんぼのもんじゃい!ってことだわな。
”自分が正統、他が異端”などと言ってる人は、
それこそクリスチャンにあるべき”謙遜さ”を忘れてるんだよ。

238名無しの神学さん:2012/04/11(水) 18:40:05
「異端カルトと非難するやつこそ異端カルトだ!」と言うやつはだいたい異端カルトだよ。

239名無しの神学さん:2012/04/12(木) 06:39:43
>>238 異端とカルトは違うぞ
その違いがわかってから能書きたれろ

240名無しの神学さん:2017/05/27(土) 12:48:43
性なるかな 性なるかな 性なるかな アホ卜し
昔、8○3今、卜し
永遠に騙す主を騙り

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   ■       ■ヽ、ヽ
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  / ̄  (:::::)   ̄\
/  ■炭,-| |、.■炭   ヽ  ♪サタンが従順なオレさま卜しを攻撃してるだけさー
 | ィ ■  / ,ミ).■゜  r |  
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 \    _/      .| |       ♪♪(リピート)
   | ̄ ̄        ノ |
   /\_____/|v、、)
   |.    ■■    | ' ̄
   |   ヽミ■■ミノ |   ←生霊の盾(○ール入り)?? ? ? ? ? ? 禁ちゃん
   ト,.  ■■■■■ |   
   |    ノ  .i

241名無しの神学さん:2018/02/24(土) 15:59:11
作詞:聖イエス会教祖様

時の流れははやく 終末は迫り
しののめが近いと みな告げしめす
神の期待に われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


十字架の旗のもと 決意も新たに
いのちにはいのちを 愛には愛を
心燃えたち われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


新しいエルサレム ゴールをめざして
ハシッドの召命 神化の道を
ただひとすじに われらは こたえん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


神のビジョンを見つめ 聖霊に燃えて
新しい歴史と 輝く未来
メシヤの世紀 われらは 開かん。

メシヤの世紀を迎えるために
若いいのちを燃焼させよ
世界はわれらを待っている。


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