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minglingましょう
170
:
暇人
:2012/01/21(土) 09:16:09
この説の出発点にはきわめて遺憾な体験的事実がある。すなわち、人間は洗礼の
後でも、自分の内に罪の方へ押し流されていく悪い傾きを認める。西方では
一般にひろく認められている原罪と肉欲との区別を、メッサリア派は持たないために
この傾きを悪魔が人間の魂に住んでいるために起こるものと表現している。
そして悪魔を追放し、情欲に完全に打ち勝って至福の境地<アパティア>(不動心)に
達するためには厳格な禁欲生活に、特に祈りに、聖パウロが勧めている<絶えまない祈り>
(1テサ5:17)に頼らなければならないとする。悪が情欲おいて感覚的に体験される
のと同様に、聖霊が魂の中に入り、それを燃え立せ、清めて神化する事実も
彼らには同じように感覚を通して感じられ、それは光の現象、または恍惚の状態を
ともなうのである。そこからこの派対して<狂信者><歌う人>(あるいは<踊る人>)
という侮蔑的な呼称が起こっている。反対派は彼らに対して怠情、精神的緩み、
痛飲乱舞の宴などという非難とともにこの呼称を乱発している。しかしこの非難の中に
偽の神秘主義に特有の偏向と彼らの思想上の原理から事実に関係なく論理的に
引き出された中傷とを識別することは困難である。
メッサリア派の思想と習慣は慎重に緩和され、不安を与えないような形で、
教父たちの権威借りて東方の霊性の上にひろく行き渡った。すなわちその影響は
7世紀(649年頃)、シナイ山に没した聖ヨアンネス・クリマクス(570-649)とともに
現れ後年アトス山で発展する神秘的<神秘主義>(ヘシュカズム)の進展の中に
特に感じられる。それにしても神秘主義が存在論的なものから心理的なものに
滑り落ち、感覚的な錯覚に堕落するのは危険である
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