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minglingましょう

1名無しの神学さん:2012/01/12(木) 16:02:05
んでは神学しましょう

ご参考に
ttp://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/psy/1323911382/

2ニュッサ:2012/01/12(木) 16:19:23
ここは、懐かしいところですね。勝手知ったるところです。

ではゆっくりと。

訳については、intoを変化に捉えたのですが、目的語を間違いましたから、
私の間違いです。

申し訳ありません。

3名無しの神学さん:2012/01/12(木) 17:22:08
リー「"Mingling (混ざり合い)"」
ttp://localchurch.web.fc2.com/part2/mingling.html

SPCKが1921年に出したアーサー・ジェイムズ・メイスン訳『偽マカリオス大書簡』(五十説教集)がWebarchivesで無償公開されとります。
いわゆる「神性と人性のmingling」がホントに講述されてんのかどうか、精査しましょう。
ttp://www.archive.org/details/fiftyspiritualho00pseuuoft

>>2
どもども

4暇人:2012/01/12(木) 17:25:20
A man ought therefore rather to rejoice and be glad
because such wealth and such an inheritance is prepared
for Christians, that no one can utter it or reckon it up.
With all diligence and humility therefore we ought to set
ourselves to the Christian's contest and to receive that
wealth. For the inheritance and portion of Christians is
God Himself. The Lord Himself, it says, is the portion
of mine inheritance and of my cup.
Glory to Him who
gives Himself, and mingles His own holy nature with the
souls of Christians, for ever. Amen.

以下ニュッサ氏訳
「それゆえ、人はむしろ喜ぶべきだ、
 キリスト者のために、このような富と受け継ぐべき財産が用意されているのだから。
 それは、誰も、言い尽くすことも認識し尽くすこともできないほどのものなのだ。

 そういうわけで、あらゆる勤勉と謙遜をもって、私たちは、自分を、キリスト者の
 競争に参加させ、この富を受けるべきである。

 というのは、キリスト者の財産と分け前とは、神ご自身なのだから。
 主ご自身が、私の財産の分け前であり、私の与るべき文であると書いてある。
 
 ご自身を与え、ご自身の聖なる性質とキリスト者の魂を混ぜ合わせたもうお方に
 とこしえに栄光あれ。アーメン。」

 人間の魂と神性の混ざり合いを言っているのは、間違いないですね。

5暇人:2012/01/12(木) 17:29:38
p280
This was the purpose of the Lord's coming,
to alter and create our souls anew, and make them, as it is written,
partakers of the divine nature, and to give into our soul a heavenly soul,
that is the Spirit of Godhead leading us to all virtue,
that we might be enabled to live eternal life.
これが主が来たりました目的であり、
我々の魂を新たに変え創り、記されているのだが
我々を神性の参与者とし、我々の魂を天国の魂に与らせます。
それが、あらゆる美徳に我々を導き、我々を永遠のいのちに住ませ給うことのできる神の精神なのです。(暇人誤訳)

「主が来られたのはこの目的のためであり、
私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参与者とし、
私たちの魂を天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神格の御霊に変化するまで
与え尽くすためです。
私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」 (ニュッサ氏初期訳)

「御言葉に記されしごとく、我らの魂を神の性質に与らせるためである。
しかして、我らの魂に天的魂を注入したもう。
この天的魂とは神の御霊であって、我らを諸徳に導き、我らに永遠の生命を生くるを得さしめたもう」(山谷真少佐訳)

6ニュッサ:2012/01/12(木) 18:05:07
一部、訳を変更します。

「主が来られたのはこの目的のためであり、
その目的とは、私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参
与者とし、 私たちの魂の中に、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊を与えることです。
私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」

7山谷真少佐:2012/01/12(木) 21:50:15
ニー派もリー派も、人の三分説を金科玉条としてますけど、この英訳マカリオスが救済を「魂」という用語で考えてるのは、どう扱うんでしょうね?

特に、「魂という漢字はサタンの内住を暗示している」とすら説いているんだから、「天的な魂は神格の霊だ」という一文はどうなるのか。

8ニュッサ:2012/01/12(木) 22:15:19
>>7

まあ、マカリオスを例として持ってきたのは、彼らではなく、私なので、
彼らがマカリオスのこのテキストを見ても、最終的な啓示の権威である
ニーとリー以前のものとして、別に、そこに整合性は考えないのではな
いでしょうか。

(直接、関係ないですが、マカリオスは、確か、心を最重要視していた
ように思います。
そう言えば、ウェスレーが東方の霊性に触れて、神化を知ったのも、
マカリオスだと言われているようですね。)

私は、聖書も、それ以後の教父も、厳密な意味での三分説は成立しない
と考えていますが、

山谷さんはどう思われますか?

9山谷真少佐:2012/01/12(木) 22:30:05
確かに新約聖書は人の三分説を言いますが、これがニー派、リー派においては、もっぱら「魂への憎悪」として語られると、途端に辟易してしまいます。

魂への批判。そっから、教会の活動全般への「魂的である」という理由をもってしての教会活動の全否定。

こうなると、新約聖書から異質なものになっていると感じますね。

10ニュッサ:2012/01/12(木) 22:57:51
>>9

私も同じ意見です。

魂が人間の構成要素としてあるならば、当然、魂もある機能を果たしているわけで
それを憎悪して、魂と霊の区別を必要以上にすることによって、自我はかえって
膨張するのではないかと考えております。

だから、私は、リーの神学を決して健全なものであると考えているわけではないの
です。

ただ、それにも関わらず、異端とまで言っていいかどうかとなると、フェアでない
気がするわけです。

11暇人:2012/01/13(金) 01:50:07
一宮基督教研究所「Watchman Nee の神学の研究」
ttp://www.aguro.jp/d/file/j/jec_wn00.htm

2chログ「ウォッチマンニーとウィットネスリーの真実」05/01/30
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1107014205/
特に16以下で「人間の三部説」についての論究あり

12暇人:2012/01/13(金) 02:28:43
>>9

山谷少佐は意図されてないでしょうけど、私にはこの発言がビオラ神学批判と
聞こえます。
ttp://makotono.tou3.com/Category/30/
「キリストにあって、私達が受けたものは、永遠の命(ゾーエー)であり、
私達が生まれながらにして持っていたアダムの命、魂の命、動物的命(プシュケー)とは異なります。
しかし、主イエスを救い主として信じて受け入れ、永遠の命を得た後でも、
もしもキリストの十字架の御業をより深く実際として経験することがないならば、
私達の魂は、罪に汚染されたアダムの動物的な命、肉の強い影響下に置かれたままなのであり、
つまり、私達の魂はサタンの作業場となってしまいかねない危険性を持っているのです」

むしろ山谷少佐のお立場は「家族にレッテルを貼らないで」の
「信仰の目でもって、その人の未来を見ることであります。現
状においては、問題がたくさんあるでしょう。
未熟なところがたくさんあるでしょう。ため息が出るでしょう。
しかし、10年後、20年後、30年後、50年後の成長した姿を、
信仰の目で見て、信じて、信頼して、自分の大切なものをその人にゆだねて、
任せて行きたいのであります。」と言う視点でビオラ氏を見守っておられるのでありしょうけど
私がビオラ氏神学を読む時、氏の優れた探究心が【極端】に走り勝ちで
「バランスを取る」という認識が欠落しているように思います。

13ニュッサ:2012/01/13(金) 03:18:01
>>9

そのスレは立てたのは、通りすがり=私つまりニュッサです。

そのスレッドのなかで、969というHNで書いているのは、私が出会った地方教会の
兄弟です。

私が、自分の意見としては、リーの神学に反対にも関わらず、
それを異端とまでは考えないのは、彼の存在が大きいです。

私は、K氏の集会を出たあと、2ちゃんのあるスレッドを通して、
彼と出会いました。

K氏、まはそのHPを通じて、地方教会の人に対して、恐ろしいカルト
という先入観を抱いていたため、
戦々恐々として会ったわけです。

しかし、実際に会ってみると、本当に素朴な青年でした。

すでに、その時から、立場がかなり違うのにも関わらず、
私のために祈り続けてくれております。

これが、私が、彼とは全く違い、
むしろ、ニー及びリーの神学に、現在、決定的に批判的な
意見をもっているにもかかわらず、

それでも、それを異端とまでは思わない、
キリスト教のそういう形もありうるのだと考える個人的な
理由です。

14ニュッサ:2012/01/13(金) 03:24:16
ですから、

正直に言って、ヴィオロンさんにも、それとアナロジカルな感情を抱いており
ます。

ヴィオロンさんが書いているのは、まさにニーそのものと言って良いわけです。

しかし、それは、私が過去にどっぷり浸かっていたものであり、
まさに、過去の自分が書いてもおかしくない文章です。

ですから、一面で、私は、ヴィオロンさんに決定的な批判を持つ
訳ですが、

同時に、それは過去の自分と向き合うことであり、

それにもかかわらず、そういう形もありうるのではないかという
矛盾した気持ちを持っています。

15ニュッサ:2012/01/13(金) 03:46:02
暇人さんのおかげで、

「ウォッチマンニーとウィットネスリーの真実」で、自分が地方教会の兄弟と
対話したことを読み返してみた。

神化についての考えはその頃と変わっていないし、
また、私と対話した地方教会の兄弟が決して常軌を逸した人間では全くなく、
素朴かつ真摯な人間であるという印象も変わらない。

ただ、違うのは、
私は、今では、神化の神学ではなく、むしろ受肉の神学の立場をとっており、
アタナシオスの「神が人になったのは、人が神になるためである」ではなく、
「神が人になったのは、人が人になるためである」という自分なりの定式を
持っている。

それは、自分の内なるカルト思考を克服するためであり、
そこには、当然、他の神学への批判が伴うが、
しかし、それは唯一絶対の神学ではなく、単なるモデルとしての神学にすぎず、

他のモデルも有りうることを認めている。

16暇人:2012/01/13(金) 04:55:54
中世思想原典集成3と4を発注しましたので着次第読んでみます。

さて中世思想原典集成2は所持しているのですが
ニュッサのグレゴリオス「教理大講話」が収録されています。
第六章の最初の項
「悪の起源を解明する出発点として世界が二つの本性からなる事を説明する」の(4)
p528
(4)このために、人間における知性的なものと感性的なものとの混合が、
神的本性によって実現されいるが、それは創世記の話が教えるとおりである。
それによると、「神は土の塊を取って、人間を形づくった。そしてご自分の息を
その造られたものに吹きかけることによって、生命を植え付けられた」(創2:7)とある。
それは、土でできたものが神的なものと並ぶものとなり、より劣った本性が
この世界を超えた本性と混ぜ合わされることによって、同一の恵み(カリス※原文ギリシア語)が
創造された世界全体に等しくいきわたるためであった。」

このニュッサのグレゴリオスの
「より劣った本性がこの世界を超えた本性と混ぜ合わされること」の
混ぜ合わせは「人性と神性のmingling」かもですが、
(より厳密には土性と神性のminglingが人間ということか)
土でできた人間に、神の息を吹きかける事が既にminglingであり神化
なのではないでしょうか。

飛躍しますが、ビオラ氏の
「アダムの命、魂の命、動物的命を批判しての
「永遠の命(ゾーエー)」賛美は、
ニュッサのグレゴリオス的に言うと、
「神の息=アダムの命、魂の命(プシュケー)」という神性批判となります

17ニュッサ:2012/01/13(金) 06:19:09
>>16

おはようございます、暇人さん。

それは、良いところに目を付けられたと思います。

創世記の「神は、鼻の穴に、息を吹き込まれた。人は生きるものとなった。」
の「生きるもの」は、原語ではliving soulつまり「生きる魂」となったということ
です。

しかし、ここからが、
ニーとニュッサのグレゴリオスを初めとする教父では異なります。

ニー(その後継者としてのリーも)は、この魂を良くないものとして評価し、
(リーはさらに、魂をサタンの内在するところとしてみるが、ニーはそこまで
はしていないが、マイナス方向の評価には変わりない)

ニュッサのグレゴリオスを初めとする教父たちは、必ずしも、この魂をマイ
ナスには評価しない。むしろ、人間の構成の一部をなすものとして、プラス
に評価するのです。

さらに、三分説「霊・魂・からだ」のからだについても同様で、
ニーにおいてはからだの命は、バイオスという命で、それは旧創造の命と
してかろんじられています。

ところが、ギリシャ教父の影響を濃厚に受ける、東方キリスト教においては、
人はからだがなければ、メタノイアすることができず、からだなしの霊は、
不完全なものと考えられています。

18山谷真少佐:2012/01/13(金) 08:09:20
乃公の解釈では、体と霊をジョイントさせる機能が「魂」だと考えます。

それゆえ、魂という言葉は、魂の機能を単体で指すと同時に、霊と体の統合的存在としての人間をも指示する、と。

19山谷真少佐:2012/01/13(金) 08:12:12
罪とは、人の魂のへのサタンの内住である、という教説は、聖書から証拠聖句を引っ張って来れるのかしら?

20名無しの神学さん:2012/01/13(金) 09:57:41
>>18
>体と霊をジョイントさせる機能が「魂」
という教説は、聖書から証拠聖句を引っ張って来れるのかしら?

21暇人:2012/01/13(金) 10:06:16
>>17
ニュッサさん おはようございます。

>ニーにおいてはからだの命は、バイオスという命で、それは旧創造の命
このニーの主張を確認できるテキストはございますでしょうか

>>18
山谷さん おはようございます。
「体 霊 魂」という表記は確かに新約にありますが、これについて当方は
思索したことはありません。切り分ける必要がなぜあるのかと思っています。
ルーアハもプネウマもプシュケーもすべて神の息であり、いのちであると。

さて「魂」が「体」と「霊」の接着剤と解釈するならば、
ニュッサのグレゴリオスの論考とビオラ神学とは矛盾しないと思います。
というのはニュッサのグレゴリオスは、悪の起源を考察し、神=善なのに
なぜ悪が生じるか設問に対して、人間の自由意志から生じると考えているからです。
土に息(霊=神性)を吹き込こまれ、土(体=人性)と霊(神性)を接着統合し維持している
人間主体が「魂」なのだとすると、ここに自由意思があり、堕落もすれば善にもなりうる、と。

22ニュッサ:2012/01/13(金) 14:23:44
暇人さん、

ニーがどこを根拠にどう言っているかは、一応、全て、聖句に基づいていると
思います。

ただ、それが、私には読み込みすぎにしか思えないわけですが。

ニーの本はすべて処分してしまいましたし、ある意味、いろいろなことがあった
せいで、フラッシュバックが起きないように、記憶の中からも、努めて忘れるよ
うにしてしまいましたので、

聖書のどこというのは、不正確な記憶に頼るしかありません。

K氏に尋ねるのが、一番、早いと思います。

けれど、記憶の糸をたどってみましょう。

まず、ニーの聖書の読み方ですが、聖書はマニュアルのようなもので、違う用語
が使われていれば、違うものを意味しているのだと教えられました。

そして、聖書には、いのちは3つあり、ゾーエーが霊的ないのち、プシュケーが
魂のいのち、ビオスが動物的なからだのいのちです。

今、どこの聖句というのは、頭に浮かばないのですけれど、聖書のいたるところ
を示して、この3つを区別すると、こう読めるという形で教えられました。

魂が、霊とからだのジョイントというのは、まことにその通りで、私も同意です。

しかし、K氏やヴィオロンさんは、むしろ、魂を霊から切り離すことを強調すると
思います。

なぜなら、ニーに「霊と魂の切り分け」という教えがあるからです。

この聖句は、ヘブル書の「神の言葉は、関節と骨随、霊と魂を刺し通すほどに鋭く
」という箇所を、

「霊と魂を切り分ける」と読んで、霊と魂の切り分けを主張します。

魂の力は、肉の力と結びついた罪の力であり、御言葉によって、自分の内側が照ら
されることで、「これは、霊から来る思い、これは魂から来る思い」と判別でき
、霊と魂が切り分けられ、分離し、初めて、神の御霊がその人の中で自由に働くこ
とができるとするものです。

しかし、これはニーの論考の中で、安黒師も書いておられることですが、
明らかに読み込みすぎであって、元の聖句は、霊と魂の切り分けを意味している
わけではなく、御言葉が、関節と骨随、霊と魂といった本来、区別できないもの
を、刺し通すほどに鋭いものだと言っているのだと思います。

このさらに詳しい内容は、ニーの「霊の解放」とか、もっと詳しくは「霊の人」
に、詳述されています。

少佐の言われた、サタンの内住については、もちろん、ニーではなく、リーの言っ
ていることです。

これについては、「ウォッチマンニーとウィットネスリーの真実」の中でも、私と
地方教会の兄弟との間で、取り上げられていたと思いますが、

聖句としては、ロマ書7章の、「私は、自分の内に悪が住んでいるのを知っている」
という悪を、サタンとして捉えるのです。

23ニュッサ:2012/01/13(金) 14:38:35
加えて、ニュッサのグレゴリオスについては、自由意志は善悪どちらも生み出す
ことのできるものなのですが、

ニーやリーにおいては、魂は、及びその機能である意志・感情・理性、またそれ
らを通してある自我はすべて神に逆らう邪悪なものであり、

そういう魂と霊が切り離されて、聖霊とひとつになった人間の霊が解放されてのみ
初めて、人間は善=神のみこころにかなうことをなすことができると考えられている
のです。

ですから、魂をジョイントと考えても、両者の考えを包含することはできないと思い
ます。

なぜなら、魂をジョイントと考える考えは、霊と魂と体の統合を救いと見るという方向
(これには私も賛同します)ですが、

ニーは、霊と魂と体の区別、もしくは切り分けを救いと見るという方向だからです。

24山谷真少佐:2012/01/13(金) 14:51:44
「聖書から証拠聖句を引っ張れるのか?」という話を受けて、「魂」についてキッテル聖書神学事典で調べてみました。

魂は、人格的統体としての人間存在そのもの(いのち)を指す、というのが旧約から新約にかけての主要な概念のようです。

興味深いことに、われわれになじみの深い「善なる霊の支配の下になければ、魂そのものは邪悪である」という考え方は、「グノーシス主義」の見出しで扱われていました。その部分の執筆はK.W.トレーガーです。

乃公はニー著作全集の第1期と第2期を読んでいるのですが、ニーの考え方は自分に相当深く浸透している、と自覚した次第です。

われわれになじみ深い「三分説」というのは、ガイオン夫人が説いて、それがウェールズ・リバイバル運動〜ケズイック運動のジェシー・ペンルイス夫人などにより発展させられて、ニーに流れ込んでいるんでしょうね。

25山谷真少佐:2012/01/13(金) 15:08:42
「切り分け」は、新創造である再生された霊と、旧創造である魂を切り分けることによって、終末論的な「新創造の完成」に準備せよ、という勧告ですね。なぜなら、旧創造は根絶されちゃうんだから。

これに対してテオーシスは、霊はおろか肉体までも神化する、と考えるわけですが、神化の過程で「切り分け」のような精神的操作は求められるのでしょうか?

26ニュッサ:2012/01/13(金) 15:16:29
>>24

山谷さん、実は、私も過去に同じことをしました。

自分の思考をニーから脱却するために、キッテルの魂やその他の項目を調べました。

そうやって、初めて、聖書神学的には、ニーの「霊と魂の切り分け」などの教えは
根拠がないのだと納得することができました。

>興味深いことに、われわれになじみの深い「善なる霊の支配の下になければ、魂そのものは邪悪である」という考え方は、「グノーシス主義」の見出しで扱われていました。その部分の執筆はK.W.トレーガーです。

そうです。ですから、ニーの教え、特に「霊の人」に展開される霊的な心理学を
グノーシス的だと言っている人もいますし、

私自身も最初はそんなことはあるわけないと思いましたが、

いろいろ調べていくうちに、確かにそうだと確信し、ニーから教父に思考を
切り替えて来たのです。

27ニュッサ:2012/01/13(金) 15:28:11
>>25

正教の言う、テオーシスには、そういう操作はいっさいありません。
霊はもちろんのこと、魂もからだも、存在すべてが、神のエネルゲイアに与り、

生きたままで、この肉眼の目まで神化されて、神を生きたまま、肉眼の目で見る
ことができると言うのですから。

けれど、リーの言うテオーシスは、そういう「切り分け」が前提になっています。

御霊は人間の霊とひとつになっている神のいのちですが、

それは魂にすっぽり覆われていて外に出ることができないわけです。

この神のいのちは、霊と魂の切り分けという操作を通して初めて、
ヒビがはいり(魂が砕かれると言う言い方をしますね)、外に出て
くるわけです。

これについては、テオーシスという言葉は使っていませんが、ニー
も全く同じことです。

28ニュッサ:2012/01/13(金) 15:49:07
>>25

旧創造は完全に根絶されるというのは、ひとつの考え方ですね。

旧創造と新創造の断絶と連続については、3つ考え方があると思っています。

ひとつは、旧創造と新創造の断絶、
二つ目は、旧創造と新創造の連続、
三つ目は、旧創造と新創造の非連続(断絶)の連続

ニーやリーは、そしてほとんどの西方キリスト教はひとつめの立場を取ります。
ですから、それに合わせて、テオーシスを考えた場合、何らかの操作が当然、
必要になるわけですね。

ギリシャ教父や東方キリスト教は、二つ目の立場を取ります。ですから、この
生きた身のままで、神化されて、肉眼で神を見ても何の問題もないわけです。

最近のプロテスタントにも、こういう立場をとる人が出始めたのは興味深い
ことです。N.T.ライトがそうです。

それについては、知っているかもしれませんが、
このHPをご覧ください。
ttp://cwn.way-nifty.com/cwn/cat5918917/index.html

私自身は、3つ目の立場を取ります。

旧創造と新創造は断絶しているが、連続も同時にしている。
これは、西洋的な論理では単なる矛盾ですが、西田幾多郎の非連続の連続という
用語をお借りして、そう考えている次第です。

もしかしたら、ウェスレーはこの立場なのではありませんか。

「ウェスレーの救済論―西方と東方キリスト教思想の統合」を読むとそう思えます。


いったん、このニーの影響を保留して、東方キリスト教つまりギリシャ教父まで戻り、
そこから、また、東方と西方との統合ということを考え出して来たというのが、私の
たどってきた道です。

29山谷真少佐:2012/01/13(金) 16:12:38
魂が砕かれて内住のキリストの霊が現れ出る契機を、ホーリネス諸派ではよく「自我の磔殺」と言って、乃公にもなじみ深い概念です。

正教には「切り分け」の精神的操作は無いということですが、たとえば砂漠の隠修士マカリオスは、世から退く、孤独を過ごす、断食する、沈黙行に入る、迫害されても抵抗しないなど、「世からのハードな切り分け」は実践してますよね?

30名無しの神学さん:2012/01/13(金) 16:27:46
>>29
その「切り分け」はまた別だよ。知識をひけらかすのは止めよう。

31山谷真少佐:2012/01/13(金) 16:42:59
いや。ここは非常に重要だぜ?

「切り分け」という精神的操作無しで神化するなら、ニー派、リー派の「宗教」と正教は別物ということになるんだ。

32ニュッサ:2012/01/13(金) 16:48:52
そうですね。ただ、それは単に、祈りに集中するためであって、
根本的には、この世の生活が悪だという意識はないと思います。

しかも、そうやって、砂漠にひきこもって祈る修道者たちは、
ひとりでありながら、世界とつながっている意識があります。

むしろ、世界と真に連帯するため、砂漠でひとりで祈るわけです。

なぜなら、正教の救いとは、全被造物、全宇宙の救いであり、
変容だからです。

ですから、彼らは祈りの力の現実性を信じています。
祈りは、まさに神化の祈りであって、アトスの祈りがなければ、
世界は滅んでいただろうと。

その辺の事情は、「シルワンの手記」という本が詳しいです。

ただ、補足ですが、

もちろん、ネオプラトニズムに影響されている人たちは、
世や魂からの切り分けを言います。例えば、エヴァグリコスなどです。
でも、それは本来の東方にはないものです。

そう言えば、正教で終末について話されるのを聞いたことは一度もないです。

彼らにとっては、終末はすでに実現されたものであって、
ヨハネの現在的終末論を地でいっていると思います。

33ニュッサ:2012/01/13(金) 17:02:20
>>31

ある意味、別物です。

ですから、私は、こう言ったら、地方教会の人たちに叱られると思いますが、
リーは東方キリスト教のテオーシスの劣化版、あるいは歪んだかたちのテオーシス
だと思っているのです。

別物とも言えるのですが、
歪んだかたちにせよ、テオーシスというものを伝えているということにおいては、
意味があると。

実際、地方教会の兄弟に聞いたことですが、
リーは、アメリカで、アメリカ正教会の指導者であるカリストスウェアと交わりが
あったそうなのです。

何か確かめたいことがあったら、カリストスウェアの元に相談に人を行かせて、
それで、答えをもらっていたそうです。

ですから、その地方教会の人は否定すると思いますが、
私は、神化ということ自体、正教会からヒントを得たのではないかとさえ思って
います。

ところで、もし別物ということになると、
ニーやリーだけでなく、西方キリスト教の神秘主義のほとんどが別物です。

まあ、私は完全に別物とは思いませんが、

東方においては、十字架のヨハネがいう「霊の暗夜」がないという指摘を
ロースキィが「キリスト教東方の神秘思想」で行なっているので、お読みください。

この本は、まさに、量は比べ物になりませんが、
東方では、バルトの教会教義学と匹敵するほどの重要性を持つほどの本です。

これほど、感動した神学書は今までなく、数知れないほど繰り返し読みました。
未読でしたら、ぜひぜひお薦めします。

34山谷真少佐:2012/01/13(金) 17:11:33
ロースキィ、未読です。

エヴァグリコスというのは、二人のマカリオスに師事したポントのエヴァグリオスですか?

35ニュッサ:2012/01/13(金) 17:18:17
>>34

失礼、エヴァグリオスです。

そうです。東方では、グノーシス主義に引き続いて、ネオプラトニズムの超克が
問題でした。

36暇人:2012/01/13(金) 18:59:20
>>22
※ウイットネス・リー神学を考える※
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1143545295/

【命】のフットノート
この節と、10、18、21節、第6章4節、第8章2、6、10節の「命」は、神の永遠の、神聖な、非受
造の命(ゾーエzoe)を言っています。それは、わたしたちの命としてのキリストご自身です(ヨハ
ネ11:25.14:6.コロサイ3:4)。これは、わたしたちの肉体の命(ビオスbios・・ルカ8:14)とも、
魂の命(プシュケpsuche・・マタイ16:25−26.ヨハネ12:25)とも異なります。この神の永遠の命
は、わたしたちに与えられた神聖な恵みのおもな要素であり、この永遠の命の中で、わたしたち
は支配することができるのです。

ニーではなく、リーは、フットノートで
いのちを「ゾーエ(永遠の命)」と「プシュケー魂の命」と「ビオス(肉体の命)」に
切り分けているようですね。
ニーのテキストが確認できんですね

37山谷真少佐:2012/01/13(金) 19:17:11
ニーの『霊の人』において、三分説に基づいた肉の人、魂の人、霊の人、という聖化の行程が述べられていたと思いますよ。

38ニュッサ:2012/01/13(金) 19:35:19
そうですね。

そこにおいては、リーもニーと変わることはないです。

だから、決して、リーはニーと無関係に教えを組み立ているわけではないのです。

ニーという一階に二階を足しているわけです。

39暇人:2012/01/13(金) 19:47:10
ttp://www.dr-luke.org/Topics/denyself.html
唐沢氏「自己を否むことについて」

「人は創造された時、チリから体を構成され、神が命の息(霊)を吹き込むこと、
生きた魂になったとあります(創世記2:7;直訳、→「人間とは?」)。
すなわち物理的な構造体である体の中に神の霊が吹き込まれた時、
体と霊の相互作用によって、魂が誕生したのです。
魂は思い、意志、感情からなり、自己の存在の中核です。
魂はパーソナリティーの座であるのです。」

この解釈は山谷氏と同一線上ですね。
あとで創世記2:7のヘブライ語原文を確認してみましょう

40ニュッサ:2012/01/13(金) 19:52:06
>>39

問題は、その魂に、積極的な意義を認めるかどうかということですね。

ヴィオロンさんと同じく、K氏も、ニーに従って、魂に積極的な意義は認めない
と思います。

自分の信仰は、ニーの範囲に従っていると言っているわけですから。

41暇人:2012/01/13(金) 19:54:41
ttp://www.dr-luke.org/Topics/Manindepth.html
唐沢氏「霊の機能と魂・体の相互作用について」

ニーの『霊の人』に基づいて、"霊精神身体医学"論を構築されたようですね。
唐沢氏を媒介にすると
「① 霊の人(1コリ2:15)、② 魂の人(1コリ2:14;原語)、③ 肉の人(1コリ3:1)です。
霊の人は人の言葉によらず、自らの霊によって御霊の照明の下で神の事柄を判断します。
魂の人(新改訳では"生まれながらの人")は、自らの魂(知・情・意)を用いて、
神の事柄を知ろうとしますが、それは愚かに見え、結局は受け入れません。
肉の人は、自らの肉的性質によって物事を判断し、意思決定し、行動する人です。
霊的なことは霊によってのみ知り得るのです(1コリ2:14)。」

1コリも後ほどギリシア語原文を確認することにしましょう

42ニュッサ:2012/01/13(金) 19:57:37
霊と魂を対立的に見る見方については、

例えば、ペンルイスの「霊の力対魂の力」を参照。

ttp://www.geocities.jp/ogcclib/book6chap1.html

聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています。

43暇人:2012/01/13(金) 20:13:20
>>42
それの第六章がどうやら、ビオラさんの根拠のようですね。

「魂の力」対「霊の力」
第6章 魂と霊の区別 〜フォウセットの注解から〜
ttp://www.geocities.jp/ogcclib/book6chap6.html

>聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています
該当箇所が見当たりません

44ニュッサ:2012/01/13(金) 20:15:37
上記のペンルイスからの引用、

「「魂と霊さえもばらばらに切り離して」。すなわち、霊から動物的な魂を分離するまでに及ぶこと。魂は、人の非物質的性質の低次の部分であり、獣類と同じ動物的欲求の座である。同じギリシャ語が、コリント人への第一の手紙2章14節「生まれながらの(動物的な魂の)人」や、ユダの手紙19節で使われている。霊は人の高度な部分であり、神の霊を受け入れ、人を天的なものに結びつける。「関節と骨髄」。関節と骨髄の両方にまで達して切り離す。

キリストは「人の中にあるものを知って」おられる(ヨハネによる福音書2章25節)。それゆえ、彼の御言葉は、人の最も深い隠された部分、感情、思いにまで達して、霊的なものを肉的で動物的なものから分離し(区別し)、霊を魂から分離する。箴言20章27節も同じである。

レビ族の祭司たちは、ナイフを用いて、緊密に結合している四肢の関節を切り離し、最も深いところにある骨髄(ギリシャ語原文では複数)をも刺し通した。それと同じように、神の御言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在――魂と霊――を切り離し、霊のもろもろの深みをも刺し通す。」


問題は、引用の中の、魂は動物的な低次な部分であり、霊は神的な高次な部分である
とみなす見方です。

例えば、ルターにおいては、肉とは神に逆らう人間存在全体であり、霊とは神に従う
人間存在全体であり、そういう観点をもってパウロを解釈しているのであって、

決して、実体的な区別として、霊、魂、からだを考えているわけではありません。

そして、この実体として、霊、魂、からだを区別して、からだはもちろん、魂を低次と
考え、

霊を高次と考える見方こそ、グノーシス主義やネオプラトニズムの嫌疑がかかるところです。

つまり、東方におけるエヴァグリオスの位置と似ているわけです。

45ニュッサ:2012/01/13(金) 20:23:08
>>43

>聖霊派やカリスマ派の現象も、この魂の力だという批判を彼らはしています
>該当箇所が見当たりません

それについては、ウォッチマンニーが本を一冊書いているのです。
The Latent Power of the Soulという本です。

ttp://www.worldinvisible.com/library/nee/5f00.0634/5f00.0634.c.htm

また、ジェシーペンルイスの「聖徒の戦い」

これらの本の中で、その当時はまだ聖霊運動もカリスマ運動も始まっていませんが、
ウェールズで始まったリバイバルの聖霊的現象を、魂の力という観点から批判して
います。

46ニュッサ:2012/01/13(金) 20:27:43
失礼、「聖徒と戦い」でした。

この本は共著ですが、共著者であり、ウェールズリバイバル指導者のエバンロバーツ
の言葉もこのことを裏書します。

ttp://ogccl.blog10.fc2.com/blog-entry-42.html

特にこの箇所に注意。

「悪霊どもと彼らの方法を知る人なら誰でも、最近のリバイバルの動きを研究する時、すべてのリバイバルが神のものとサタンのものとの混合であること、また、(いわゆる)「異言運動」ほど悪霊どもの働きの割合が多いものはないことがわかるでしょう。」

47ニュッサ:2012/01/13(金) 20:33:25
簡単に言うと、

彼らは、悪霊は魂を通して働くと考えています。

ですから、どうしても、霊と魂を切り分けて分離しなければ、
神の務めにさえも、悪霊の影響が混ざってきてしまうのだと。

ここに至ると、
リーの言うような、魂におけるサタンの内在と50歩100歩の違いしかありません。

魂の外に、悪霊がいて、外から影響を及ぼすか、
それとも、魂の内側にいて、内から影響を及ぼすかの違いでしかありません。

48山谷真少佐:2012/01/13(金) 20:34:39
堕罪した人間の「魂」はサタンの内住の場所、というリー派の教説ですが、乃公的にこう考えてみました。

魂の機能は宇宙的な15の法領域(数学的、法的、音楽的、美的…)に沿って展開してると思われ。これら15の法領域を司っているのが「天使的諸力」(ストイケイア)だ、と乃公は考えます。

すると、魂の機能は、いつも天使的諸力の管理下、監督下、影響下に置かれてる、と見ることになる。

で、天使的諸力は潜在的に悪鬼的な性質を秘めていて、実際、悪鬼化する天使的諸力もいたわけです。こう考えるなら、人間の魂は非再生の状態において天使的諸力/悪鬼の影響下にある、と言えるんじゃないでしょうか。

そう考えて証拠聖句を挙げるとするなら

「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、
 不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、
 肉や心の欲するままに行動していたのであり、
 ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」

以上はエフェソ2章の御神言が証拠聖句になるんじゃないでしょうか。

ただし、上記は「悪鬼の魂への内住」まで表現してませんので、リーの教説は行き過ぎかと。

続く2章6節の栄光に満ちた宣言、

「罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし
 −あなたがたの救われたのは恵みによるのです−
 キリスト・イエスによって共に復活させ、
 天の王座に着かせてくださいました」

上記は、信者がキリストと結合されて、現状すでに信者は天の栄光の座(神の聖臨在)に参入させられている、と述べています。

信者はすでに神の栄光に参入している、と。ここから、

正教は、「切り分け」が無くても、すでに万物は神の栄光に引き上げられている、と解釈するのでしょう。

一方、リー派は、信者が自覚的に「切り分け」しない限り、信者の魂は占拠され続け、天的栄光を享受することは出来ないとして、「切り分け」を栄光の実体化の必須条件に立てるのでありましょう。

49ニュッサ:2012/01/13(金) 20:42:02
そうですね、ただ山谷さんの考えと異なるのは、

ニーにおいては、再生しても、魂自体が悪しきものであると考えており、
魂は、悪にも善にも働くのではなく、絶えず、悪の法にしか働かないと
考えるところなのです。

山谷さんの考えはどう考えても、グノーシス主義やネオプラトニズムと
無縁ですが、

(リーはもちろん)ニーの考え方は、
それらとの親近性を示しているように感じます。

50ニュッサ:2012/01/13(金) 20:43:16
失礼、悪の法ではなく、悪の方です。

ちょっとお休みしますね。

51暇人:2012/01/13(金) 22:05:20
>>39
>人は創造された時、チリから体を構成され、神が命の息(霊)を吹き込むこと、
>生きた魂になったとあります(創世記2:7)

ヘブライ語テキストでは
「ニシュマット(息を) ハイーム(命の)」=「プノーエン(息を) ゾーマス(命)の」(70人訳)
「レ・ネフェシュ(魂に) ハヤー(活ける)」=「プシュケーエン(魂に) ゾースアン(ザオー現在分詞 生きている)」(70人訳)

ふむ。なるほど。

52暇人:2012/01/13(金) 22:37:58
70人訳 創世記二章
ttp://www.septuagint.org/LXX/Genesis/2

聖霊派【その1:人間の創造】
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/shukaikowa/09kakikowa1.htm

53ニュッサ:2012/01/13(金) 22:53:58
>>52

聖霊派と書いてあるのは、私の師である私市先生の夏期集会での講話ですね。

先生は、異言は語られますが、いわゆる聖霊派ではなく、無教会の流れですので
一応、言っておきます。

54暇人:2012/01/13(金) 22:59:44
>>41
>「① 霊の人(1コリ2:15)、② 魂の人(1コリ2:14;原語)、③ 肉の人(1コリ3:1)

1コリを確認したが、文脈的には
2章でプシュキコスな人とプネウマティコス(霊的な人)が対比され、同じ対比が
3章ではプネウマティコイス(霊的な人々)とサルキノイス(肉的な人々)という対比となっており
意味的にプシュキコスな人=サルキノイス(肉的な人々)なので、
三者への切り分けは聖書的根拠がない唐沢氏の誤読です

55ニュッサ:2012/01/13(金) 23:11:13
>>54

K氏と言うより、ニーの誤読というべきだと思います。

ただ、ニーの教えは、聖書から演繹できないのです。

むしろ、教えが先にあって、それに当てはまる聖句が引用されている。

しかし、この教えにはまってしまうと、聖書がすべて、この教えを通してしか
読めなくなります。


ちなみに、フェヌロン、ガイオン夫人、ペンルイス、ウォッチマンニーという
流れですが、

フェヌロンやガイオン夫人は、カトリック教会によって、静寂主義(正教のヘシカスム)
とは別物)として異端にされています。

魂の働きを悪としてみなせば、受動的にならざるをえないので、その判断はある
意味、正しい判断と言えるでしょう。

56暇人:2012/01/13(金) 23:11:21
>>53
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/repreprofile.htm

無教会に参加される前に
フィンランド宣教グループの教会でバプステマ体験されるのです。
その後に、無教会派の小池辰雄門下となり独立されて集会を持たれるのです。

このフィンランドの宣教グループは関西を中心に足跡を残されるのですが
ルーテル派の中の聖霊派グループなのです。

57ニュッサ:2012/01/13(金) 23:19:03
>>56

その経緯については良く知っております。

また、小池先生も、無教会の中の聖霊派とも言ってもいいですしね。

ただ、先生の解釈は、特に聖書主義的聖霊派的な解釈ではなく、むしろ、文献批評学も
取り入れた無教会のメインの流れなので、そう申したわけです。

58暇人:2012/01/13(金) 23:25:28
暇人も聖霊派体験(異言)を持ちつつ文献批判を受容しています
同級生にも同志社神学部大学院を出て聖霊派牧師をしている者もいます。

聖霊派すべてが文献批判を無視しているわけではありません

59ニュッサ:2012/01/13(金) 23:30:05
>>58

暇人さんはキリスト者なのでしょうか?

それはともかく、そういう人が増えることは望ましいです。

聖霊派全てが、文献批評学を無視しているわけではないと思いますが、
それでも、聖霊派のメインは、いわゆる聖書主義的な人たちだという
感覚を私は持っています。

ですから、聖霊派と書かれると、ちょっと私の感覚と違うだけで、
議論するほどのことではないと思います。

60暇人:2012/01/13(金) 23:49:10
>>7

For this body is a similitude of the soul,
and the soul is the image of the Spirit ;
and as the body without the soul is dead,
and unable to do anything at all,
so without the heavenly soul,
that is, without the Divine Spirit,
the soul is dead from the kingdom,
being unable to do any of the things of God without the Spirit.

マカリオス P224

61暇人:2012/01/13(金) 23:56:45
>>59
ニュッサさんの主観はどうあれ
「いわゆる聖霊派ではなく、無教会の流れです」は間違いであり
私市さんは聖霊派です。これはとても大切なことです

ご自身が
「ちなみに私の所属する集会は、無教会の流れを汲む、いわば「無教会聖霊派」とでも言うべき集会」
と書かれておられます。
ttp://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/kowa/nikki.htm

62ニュッサ:2012/01/13(金) 23:58:13
「というのは、このからだは魂と相似しており、
 魂は御霊の像なのであるから。
 そして、魂なきからだが死んでいて、全く何もできないように、
 天的な魂、つまり、神の御霊がなければ、
 魂は王国から切り離されて死んでおり、
 御霊なしには、神に関することは何もできないのである。」

63ニュッサ:2012/01/14(土) 00:03:28
>>61

どうしてそこにそんなにこだわるのか理解できませんが、というのも、私市先生
ご自身のお言葉に「無教会」という文字がありますし、
私自身は、先生の弟子ですし(そうすると、私もまた聖霊派ということになるの
でしょうか?)
また、先生の集会には、リベラル、福音派、聖霊派、仏教の方、まったく何でも
ありなので、
いよいよ?です。

でも、さして大切なこととも思えないので、どうぞ、それで構いません。

64暇人:2012/01/14(土) 00:15:27
ご本人「無教会聖霊派」
自称弟子のニュッサさん「聖霊派ではなく無教会の流れです」

ご本人の無教会批判
「考えてみれば、キリストの教会そのものが、聖霊の降臨によって誕生したのだから、
み霊の働く場こそまさに「教会」そのものであって、
み霊のご臨在するところに「無」教会などということはおよそありえない。
それは会堂さえ建っていればそれが教会だと言えないのと同じくらいの真実である。
私は、このごくあたりまえのことに改めて気付かされた。
おそらくこれも、この聖霊刷新大会が期せずして証ししている大事な真実なのだろう。
そう思いながら私は帰路に就いた。」

65名無しの神学さん:2012/01/14(土) 00:22:52
>>62
魂について「天的な魂」=「神の霊」なのですから
「魂」=「霊」なわけです。
しかしいリーは「魂」と「霊」を切り分けるわけです。
こういう差があるのにmingleだけが一致するから
リーの言説は教父と同じだと主張されるのは無理があるのではないでしょうか

66ニュッサ:2012/01/14(土) 00:28:13
一応、自称ではないです。コイノニア会のメンバーの一員ですから。

まず、

無教会というものに誤解があると思います。

無教会は、教会があってはならないというものではなく、
元々の内村先生の考えによれば、
「全世界、全宇宙が教会であって、すべての人がそのメンバーである」という
のが本来の意味です。

ところが、内村門下の塚本ー関根という流れのなかで、
「教会があってはならない」という意味の無教会を打ち出し、それがメインに
なっていったのです。

ですから、私市先生の文章は、内村先生の元々の発想に立って考えると、そのまま
受け取れます。

また、先生自身、フィンランドのペンテコステ派で洗礼を受けられましが、
そこの狭量な考えにうんざりして、

何でもありの、仏教まで包括するという意味で聖霊的な小池先生のもとに
行って、今に至るわけですから、

私市先生の集会にはいろいろな人が来ているのも当然ですし、

あくまで、(内村の言った意味での)無教会かつ聖霊派と言われるのももっとも
なことです。

67ニュッサ:2012/01/14(土) 00:33:25
>>65

同じだと主張していません。私のコメントをよくお読みください。

リーは、歪んだ形にせよ、テオーシスを伝えるものだと言っているのであり、
テオーシスを主張するからと言って、またmingleという言葉を使うからと言って、
それで異端にはならないと言っているのです。

論理の流れを把握してください。

68暇人:2012/01/14(土) 00:36:31
>>65
暇人です。HNが抜けました。

「主が来られたのはこの目的のためであり、
その目的とは、私たちの魂を新しく作り変え、書かれているとおり、神性の参
与者とし、 私たちの魂の中に、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊を与えることです。私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです。」

give intoは従うというニュアンスと取れないでょうか?
つまり
「私たちの魂が、天的な魂、それは全ての徳に私たちを導く神
格の御霊に従い、私たちが永遠の生活を送ることができるようにするためです」

とすると教父のmingleは、「永遠の命」までであり
神となるリーのmingleとはまったく異質です

69暇人:2012/01/14(土) 00:45:56
826 : ニュッサ: 2012/01/11(水) 10:33:35.08 ID:xEUvrHU5 [10/42回発言] >>825

載せてますね。

あそこを離れた後、彼の言っていることの根拠を徹底的に調べましたが、
神性と人性の混ざり合いについては、マカリオスも言っているし、
(私自身は、混ざり合いという立場はとらないにしても)
ニーとリーは、客観的に読む限り、内的に連関しているしね
(アメリカの研究者もそう言っています)。

827 : サロメ☆ボウディア ◆wHb3.gs/E2 : 2012/01/11(水) 10:34:46.05 ID:qdd5qUeD [7/36回発言] >>826
キリスト教神秘主義否定ですからねw

828 : ニュッサ: 2012/01/11(水) 10:42:30.68 ID:xEUvrHU5 [11/42回発言] >>827

そうですね。教父についても、神秘家についてもほとんど知らないし、
読んだこともないのだと思いますよ。

それで、自分が知っている教えの範疇から出れば、異端だと簡単に、
判断してしまうのでしょう。

マカリオスがmingleと言っているから異端ではない。
唐沢さんは教父がmingleと言っていることをしらない無知なんだ
という流れですけど。。。

70ニュッサ:2012/01/14(土) 00:50:05
>>65

「従う」という訳は、無理があります。

to give into our soul a heavenly soulの目的語はa heavenly soulな訳で

to give a heavenly soul into our soulなのですから。

東方キリスト教においては、はっきり神になると言っています。
ただ、それでも、人間が即神なのではありません。

この接近可能性と断絶が同時に成立しているわけです。

否定神学がありますから、「神になる」といいつつも、
「神ではない」という断絶が保たれます。

リーの場合、否定神学がありませんから、
危険はあるのですが、
さりとて、「神格において、神になるのではない」と言っていますから、
この危険を飛び越えて、異端になったということは無理です。

71ニュッサ:2012/01/14(土) 00:55:06
>>69

それは話をはしょっただけです。

マカリオスがリーと全く同じだとは、はなから思っていません。

ただ、K氏が、マカリオスも東方の神化についても知らないのは事実です。
彼の集会に行き始めたとき、尋ねましたが、スルーされましたので。

72ニュッサ:2012/01/14(土) 01:02:52
あと、曖昧で申し訳ないですが、同じか同じでないかというのも難しいのです。

というのは、

明らかに、表現という意味では、
東方の神化のスタンダードであるパラマスとは表現が違っている、
さらに、マカリオスとは用語が近似しているが、構成は同じではない。

だから、表現は違っているとは断言できる。

しかし、だからと言って、その表現が意味しているものが違うのかと言えば、
速断はできない。

なぜなら、ちらちら言っているように、
西方のキリスト教神秘主義一般も、神とひとつになることを言うわけですが、
そして、それに対して、ロスキーは違う点をあげるわけですが、

だからと言って、まったく違う別物かということは断言できないのです。

違う背景や前提から出発すれば、表現が違うのは当たり前な訳ですが、
表現が違えば、全く、違うものなのか、
それとも、同じものを違う表現で表しているのかそのあたりが難しいのです。

73ニュッサ:2012/01/14(土) 01:09:29
ただ、ひとつ言えるのは、K氏が東方の神化を知っており、
適切に判断しようとするならば、あんなに簡単に判断はできないはずだという
ことです。

たとえば、上に既にあげられているカルケドンを扱った文章の解説でも、
minglingを、神性と人性を物質化して、それが混ざり合っているのだという
解釈をつけて批判しているわけですが、

minglingというものが、そういう、まるで神性と人性をミキサーにかけて、
混ぜ合わせることであるとは思えません。

リーも地方教会の兄弟も、お茶と水の例を出していますが、これはもともと、
キリスト教神秘主義の伝統にある言い方で、異端でも何でもないのです。

74ニュッサ:2012/01/14(土) 01:14:33
アメリカのカルト監視機関であるCRIの所長であるハンクハネグラフが、
地方教会について、異端ではないと言っているのです。

これをK氏は政治的な問題としているようですが、

フラーもCRIもそう判断しているとすれば、

もう少し、熟考する余地はあると思うのですがね。

75ニュッサ:2012/01/14(土) 01:16:36
ちょっと、疲れましたので、今日はこの辺でおやすみすることといたします。

76ニュッサ:2012/01/14(土) 01:29:31
寝る前に、付け加えて言えば、

ルターは、神性と人性の交流というものを言っています。
つまり、キリストの人性はただの人なのですが、神性から人性に交流するために
、人性が神化された人性になるわけですね。

私は、神性と人性のminglingもこれと同じような表現であると考えています。

それが適切な表現であるかは別として、
東方教会の言う神のエネルギーの人性への浸透を、
ルターにしろ、リーにしろ、誤解されても仕方ないぎりぎりの言葉で言っている
だけであると思うわけです。

77名無しの神学さん:2012/01/14(土) 01:33:31
to give into our soul a heavenly soul

ちとタンマ。
これって中学英語の五文系で言うとどうなるの?
V+O+Oぢゃないの?
山谷訳では
「我らの魂に(O)+天的魂(O)+を注入したもう(V)」VOOになっているし
ニュッサ訳でも
「私たちの魂の中に(O)、天的な魂(O)を与える事です(V)」となっているけど。。。

>東方キリスト教においては、はっきり神になる
マカリオスは言ってないですよ。
東方の誰が神になると、どのテキストで言っているのですか?

78暇人:2012/01/14(土) 01:39:22
>>73
私はローカルチャーチやニュッサさんは何一つ論証することなしに
教父がmingleと言っているからリーはセーフだと言っているようにしか
思えません。
しかしマカリオスを確認しましたが「魂」についての認識がかくも違い
mingleという語があれどリーとはまったく別です。

またリーは我らと同様、所詮英訳で教父に接した過ぎません。
正教の司祭と文通したからリーが正しいわけでもありません。

結局のところローカルチャーチもニュッサさんも後だしで
教父も言っていると抽象的な主張をされているだけで
きちんとしたテキストの提示がございません

79暇人:2012/01/14(土) 01:43:42
>>76
これもまたまったく後付けでして
ルターは「人が神となる」というぶんみゃくで
「神性と人性の交流」を言ったのではなく
キリスト論の文脈で言っているのです。

くそみそごっちゃにして なぜリーを異端ぢゃないと擁護する必要が
あるのでしょうか

80ニュッサ:2012/01/14(土) 01:45:46
>>77

V+O+Oじゃありません。

into our soulは前置詞+名詞で副詞句です。

で、元の語順はto give a heavenly soul into our soul
つまり、V+O+副詞句だったのが、

副詞句を強調したいために、動詞の後に飛び出したわけです。

>東方キリスト教においては、はっきり神になる
>マカリオスは言ってないですよ。
>東方の誰が神になると、どのテキストで言っているのですか?

どなたかわかりませんが、前述した「キリスト教東方の神秘思想」を
お読みください。

東方では、神化なんて当たり前のことだとわかりますから。

例えば、

最も有名なのは、アタナシオスの「神が人になったのは、人が神になるためである」
という言葉です。

ちょっとは、勉強してください。ぷんぷん、いい加減寝ます(あっ、冗談です)。

81ニュッサ:2012/01/14(土) 01:58:34
>>78,79

いや、むしろ、言いたいのは、なぜ、そこまでリーを異端にしたいのかがわからないのです。

人を異端だと判断することは大変なことでしょう。

現代は、決して魔女狩りの時代ではありませんが、それでも異端だということは相手を相当、
傷つけることです。

しかも、地方教会をかつて異端だと判断したCRIはその判断を取り下げている。

それなのに、なぜ、そこまで異端にしたいのか?

そこまで、異端ということにこだわるということに、私は戦慄を覚えます。

ちょうど、異言ギライの福音派の議論と同じじゃないでしょうか?

ペンテコステ派やカリスマ派が、異言が聖書に書いてあると言っても、
「あなたがたが話している異言が、どうして同じものであるという確証があるのか?」

私が、東方キリスト教や教父を示しても、
「でも、どうして同じものであるという保証があるのか」とね。

同じロジックじゃありませんか?

私は別に、リーが異端でも異端じゃなくてもどちらでもいいんです。
けれど、良心が何かおかしいと思うわけです。

それに、言わせてもらえば、
つまり、マカリオスとの違いに、例えば魂ひとつの考え方の違いをおっしゃって
おりますね。

それで、異端ということになるなら、ニーも異端ということになるのじゃないで
しょうか?

なぜなら、マカリオスとの違いというのは、全て、ニーから来ているものですよ。

ということであれば、そういう結論にならざるを得ないんです。

82暇人:2012/01/14(土) 02:02:36
>>74
旧CRIはきちんとローカルチャーチの危険性を告発していました
ttp://localchurch.web.fc2.com/part2/article1.html#3

ハンク・ハネグラフの時代となっておかしくなったのでしょうね
フラーは統一教問題でもカルトロンダリングの温床となっています。

ちなみに韓国でローカルチャーチは異端です

83ニュッサ:2012/01/14(土) 02:03:39
ロジックが逆なんです、暇人さん。

普通は、異端だと主張するほうが、確たる証拠を示さなければならないんです。
それが、普通のロジックです。

ところが、異端ではないという方が、確たる証拠を示さなければならないと主張
されている。

これでは、中世の異端審問所と変わりません。

暇人さんほどの人なら、これが転倒したロジックであることがおわかりですよね?

84ニュッサ:2012/01/14(土) 02:08:13
>>82

そんなことはいいんです。
それは、本当かもしれませんし、本当でないかもしれません。

では、暇人さんが考える地方教会の異端であることの証拠は何ですか?

神化、それは少なくとも、ギリシャ教父や東方では異端だと思われていないことは
少なくとも示しました。

それが全く同じでないにしても、これで異端だということはできないはずです。

それでは、異端だという決定的な証拠となる教えは何だとお考えなんですか?

85ニュッサ:2012/01/14(土) 02:14:13
私はすぐ異端だという人には、辟易します。

カトリックから見れば、プロテスタントは異端。
プロテスタントから見れば、カトリックは異端。
メインラインから見れば、福音派は異端。
福音派から見れば、リベラルは異端。

きりがないです。

しかも、そのほとんどが誤解に基づいている。

なぜ、信仰のひとつのモデルだと見ることができないのでしょうか。

確たる根拠もなしに誰かを異端だと決めつけることこそ、私は人間の持つ最大の
罪だと考えます。

そして、イエスご自身、異端者の烙印を押されて十字架に死んだわけです。

86ニュッサ:2012/01/14(土) 02:20:16
とにかく、神化以外に、地方教会が異端だという決定的な証拠を示してください。

それが納得の行くものであれば、異端であると認めましょう。

しかし、そうでなければ、異端としない。

これが正常なロジックです。

いい加減、眠ります。おやすみなさい。

87暇人:2012/01/14(土) 02:23:07
>>77
失礼 ハンドルを一々いれないといかんみたいです トホホ
ほう。なるほど副詞句なんだ サンクスです。

「神が人となったのは、人が神になるためであった」を正教が運用しても
信徒は誰一人、自分が神となるんだと思ってませんよ。
ローカルチャーチと違って。
ちなみに親鸞の教行信証の証巻には、なんまんだぶぅの究極は
みんな真如となる。真如は一如である。故に弥陀如来は如より来生し
報・応・化種種の身を示し現わしたまうなりという様態論が展開されている
しかし念仏者のだれひとり自分が将来弥陀如来になるんて思っていない。
ところがリーは「神になる」と主張する。

重大な差があるんですけどねー

88ニュッサ:2012/01/14(土) 02:28:47
>>87

そうすると、異端かどうかは、信徒の意識ということになりますね。
それは、確たる異端の証拠とは言えませんね。

しかも、私が知っていた地方教会の兄弟は、別に、自分が神だと信じているとは
全く思えませんでした。

これは、暇人さんに対する皮肉ではなく、一般に対するものですが、
自分を神だと言わなくても、すぐに誰かを異端だと言うならば、まさに自分が、
すべての判断基準である神として振る舞っていることになりはしませんか?

私は単なることではなく、内実を取ります。

とにかく、異端だという客観的な証拠となる教えを示してください。

89ニュッサ:2012/01/14(土) 02:31:20
付け加えると、その兄弟が自分が神であると思っていないのは、
「神格において、神になるのではない」という歯止めがあるからでしょう。

この歯止めがなくて、自分が直接、神だと言えば、キリスト教的には異端でしょうが、
歯止めがある限り、どう異端にしたくても、異端とは言えないでしょう。

90ニュッサ:2012/01/14(土) 02:33:23
失礼、単なること→単なることばです。

いい加減寝ます。

鬱病持ちには睡眠不足は特にこたえるので。

91暇人:2012/01/14(土) 02:35:13
>>83,84
そこに異端の理由が論究されているでしょう。
それをまず読まれて考察されるべきなのでは?

私はあなたのリー擁護に付き合い、
よくわからない英語にもかかわらず
あなたと山谷氏の手助けを手掛かりにマカリオスのテキストを確認し
mingleという語があっても、使用方法がまつたく違うということを
確認しました。
「魂」についての考察についてあなたも差異を確認されました。
マカリオスはリー擁護の材料とはなりません。

ということは他の教父の「神になる」も同様であるという推定を私は持っています。

「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

>>85
ログをご確認くださいな
私はローカルチャーチの方たちと3スレ分議論してカルトと結論しています。

>>86
1.他教会を否定して自分たちの集まりだけを正しいと思っている
2.重訳にもかかわらず回復訳を原文に忠実と威張る
3.他教会の牧師が地方教会の説教を密に盗んでいると主張する
4.独自訳(回復訳)を信仰している
5.回復訳のフットノートを信仰している
6.回復訳フットノートの日本語訳が変だ
7.信徒さんらがカルトぽい

92暇人:2012/01/14(土) 02:40:39
それとニュッサさんはローカルチャーチを異端とされるとムキになられますが
他者を異端と呼ぶのは間違っている、と。

ところがニュッサさんは平気で唐沢グループをグノーシス主義と批判されます。
これはダブルスタンダードですよ。

それはともかくとしてニュッサさんのグノーシス定義を教えてください
私の定義は「神格化教義」です。
イエスを神としたヨハネ福音書は私の定義ではグノーシス文書です。
非グノーシス派キリスト教は、義人ヤコブの系統、ペラに移住し
イエスを神としなかったためユダヤ・キリスト教異端として排斥された人たちです

私の認識ではキリスト教もグノーシス派の一つなので
他のグノーシス派と激しくやりあったと思っています。
余談でした。

93暇人:2012/01/14(土) 02:57:01
>>81
統一教と同じくローカルチャーチを危険だと思っているんです。

聖霊派も福音派も危険ですが、
ローカルチャーチは一線を超えているという点で異端でありカルトなのです。

最近の動向として無根拠な異端解除の風潮がありますので
きちんとした論拠のない異端解除には信を置けません。

異言が聖書の異言と同じモノである必要がなぜあるのですか?
祈りや賛美は聖書と同じものでないといけないのですか?

ニュッサさんがマカリオスも「人性と神性のmingle」を言っている。
リーの「人性と神性のmingle」を批判するのは神学的無知だと主張されたので
マカリオスの英文テキストを確認したら、mingleは確かにあったが
リーのmingleとは別物だったという流れです。。
りー擁護の論拠が崩れたわけです

94暇人:2012/01/14(土) 03:30:21
ttp://mimizun.com/log/2ch/psy/1141282723/

地方教会の信者さんが313以下で
原文をカトリックに難癖をつけている図だが
これもカルトぽかったです

95ニュッサ:2012/01/14(土) 04:22:51
暇人さん、遅くまでいろいろ書かれていますが、

まず、前提ですが、

私は、異端とカルトとは全く違うと思っています。

世間では、どうやら、異端と言っても名誉毀損にはならないが、
カルトと言うと名誉毀損になるようです。

しかし、正統であってもカルトはあり、誰でも内なるカルト性を抱えているので、
カルトは、正統であってもなくても、誰でもカルトになりうる訳です。

これに対して、異端というのは、ある教えについて、はっきりした根拠に基づいて
判断されるべきものです。

世間では逆でしょうが、教会史を知る私には、異端という言葉はカルトという
言葉より、はるかに重い言葉です。

カタリ派は異端として、歴史から完膚なきまでに根絶されましたし、
オリゲネスやエックハルトなど、異端として、歴史から抹殺されそうになった
人たちはあまたいます。

ですから、異端という言葉は、慎重の上にも慎重に使うべきです。

ところで、91で、暇人さんがあげている項目は、どれも異端だということの
要件は満たしておりません。

これらの項目から、主観的にカルト的ということは可能かもしれませんが、
客観的に異端だと言うことはできません。

ダブルスタンダードとおっしゃいますが、
私のなかで、グノーシス的であることは即、異端ではありません。

そして、私がK氏の教えを、はっきり異端だと行ったことがあるでしょうか?

96ニュッサ:2012/01/14(土) 04:28:49
グノーシスの定義ですが、

私は、グノーシス主義というのは、「人間存在を、分割して、そこに高低の順序をつけ、
分割した一部を救われるべきもの、また一部を滅ぶべきもの」と考えることだと思って
おります。

ただ、それが即、異端だとは思っておりません。

97ニュッサ:2012/01/14(土) 04:40:15
しかも、最初から、マカリオスは例示だと言ったわけです。
別に、そこが正しいと証明する論拠になるとは一切言っていない。
私が言っていないことを、勝手に読み込んで、違うと主張してもおかど違いという
ものです。

とにかく、項目としてあげておられる理由は、単なる実行に関することで、
教理ではありません。

それこそ、暇人さんが私に対して言った、狂気の沙汰です。

なぜなら、上げておられる項目をどう思うかは主観的なことで、
教理の間違いという客観的なものでは一切ないからです。

これでは、異端審問未満です。異端審問では、でっちあげにしろ、
教えが取り上げられるのですが、ここでは、単に実行が取り上げ
られているだけだからです。

これでは、魔女狩りと言わざるを得ないです。

もう、最初から結論は決まっているということになります。

結論は決まっていて、そのための理由でしかありません。

98ニュッサ:2012/01/14(土) 04:54:27
>>93

だから、なぜ、危険なのでしょう?
危険だから危険だとか、異端だから異端だとか、循環論法にすぎません。

今まで、異端だと、それも一部の人に言われていたから異端なのですか?

ナンセンスです。

教えの点でここが異端だとそちらが確証を提出されなければ、
時間の無駄ですからこの議論は打ち切ることにします。

99ニュッサ:2012/01/14(土) 05:14:27
最後に、もう1度、ロジックを確認しますよ。

私はリーが正しいかは知りません。
どちらかと言えば、リーは好きではありません。地方教会に行く気もしませんl。

むきになっているのは、あなたの方ですよ。
異端にしたくて、むきになっているわけです。それは、はっきり申しますが、
罪以外の何ものでもありません。

>「神になる」と教父も言っている mingleと教父が言っている
だからリーは正しいとはならんのです。

むしろ、全く逆です。

あなたがたは、リーは「神になる」と言って異端だと言っている。
しかし、教父も「神になる」と言っているのだから、「神になる」ということで
異端だと言うことは、根拠がなく、無効です。

あなたがたは、リーがmingleという用語をとりあげて異端だと言っている。
しかし、マカリオスもmingleという用語を使っているのだから、mingleという
用語をとりあげて異端だと言うことも、根拠がなく、無効です。

つまり、あなたの言っていることはまったくロジカルではないのです。

もう少し、暇人さんは、まともな議論が出来る人だと思っていましたが、
見当違いでした。哲学科にいるとしたら、相手にされないレベルです。

私が以前、知っていた方々と同じように、事や内容そのものの是非ではなく、
戦いをしていて、自分の陣営に有利なことをしたいだけのようです。

私は、馬鹿馬鹿しいし、そんな戦争に加わるつもりは、金輪際ありませんので、
少なくとも、この場からさっさと撤退します。



よく聞いてください。

100ニュッサ:2012/01/14(土) 06:08:30
ウェスレーは、神化を知っていたが、自身の聖化の教理を、異端だと言われることを
恐れて、神化ではなく、聖化と呼んだ。

しかし、ウェスレーが神化と呼んでいたらどうだろう。
リーと同じ嫌疑をかけられたのではあるまいか?

しかも、ウェスレーの聖化の教理は、教父たちの神化の教理と同じではない。

すると、暇人さんの言っていることに従うなら、

ウェスレーは正しくないし、異端の嫌疑を晴らすこともできないことになる。


人を異端ということはとても恐ろしいことである。
それは、人にアナテマというのと変わらない。


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