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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

1209サテ:2004/12/29(水) 02:08
別に医者には興味ないです。科学は好きですね。色々検索してたら件の文書に出会っただけです。知り合いの日蓮オタクの影響もありますが…。予言書とか胡散臭い古文書の類とか大好きですね。欧米では偽書贋作でも件の書のように露骨な嘘の天体事件は例が無いんですよ。あちらはBC600年には日食表が出来ていたし、古代ギリシャでは地球が太陽の周りを回っている事は数学から判明してましたからね。件の書画には贋作者の悪戯心を感じます。宗教的野心ではなく、ひかりもの日蓮に仮託した架空の天体ショーの講談のはしりのような痛快さが好きですね。

1210サテ:2004/12/29(水) 02:16
学者先生達の意外なドキュンさを知っただけでも得る物はあったのではないですか?それとも信じているものを失いましたか?

1211名無し@富士門流:2004/12/29(水) 03:12

>学者先生達の意外なドキュンさを知っただけでも得る物はあったのではないですか?

いいえ、全く。


>それとも信じているものを失いましたか?

いいえ、全く。

サテさんのおっしゃることは、こちらとしても当に認識していたことですので。
何も得るものはありませんでした。

それからですね、北林氏を知っているということは、それなりの創価学会員かそれなりに学会関係の研究をしている人でしょう。
いまさら「色々検索してたら件の文書に出会っただけです。知り合いの日蓮オタクの影響もありますが…。」なんていう貴方のほうが、最も胡散臭いですよ。

1212サテ:2004/12/29(水) 10:03
ヤフー検索で「日蓮 偽書」を検索してみてください。231件の中に4件目に既に北林氏のページが出て来ます。「不動愛染感見記」を検索すると、たった21件ヒットの中にそちらのリンクした先と北林氏のページは一発目に出て来ます。ついでに「北林芳典」で検索したら71件。少ない中にもなかなかニギヤカなネタが豊富に出て来ます。学会研究なら知り合いの日蓮オタクは詳しいですね。巨大掲示板からリンクを巡ってこちらも含めて、まともなのから怪しいのまで色んなHP知ってますよ。どちらかと言うと日蓮から否定出来るネタを集めてるみたいです。

1215犀角独歩:2004/12/29(水) 22:47

名無し@富士門流さん:

どこで問いかけてよいかわからないのでご投稿なさっている、このスレッドをお借りします。

本日、保田妙本寺が石山分離直後のお経本を手に取る機会がありました。
二座ですか、「人本尊・僧宝」とあったのですが、この人本尊とは日蓮聖人を指すと思えますが、日蓮本仏ではなく、単に本尊に留まるのでしょうか。また、この本尊とは四依の大士、未断惑の凡夫師の範疇に留まるものでしょうか。
保田の現教学がよくわからないので、ご教示いただきたくお願い申し上げます。

1216名無し@富士門流:2004/12/30(木) 11:40

犀角独歩さん、今日は。

保田の現教学は、日蓮本仏論です。

さらに客観的に申上げますと、「宗祖『人』本尊」というよりも「宗祖『御影』本尊」・・・人本尊ではなく人形本尊論です。

その意味では、袈裟姿の宗祖が本仏・本尊な訳ですから「未断惑の凡夫」であると思います。

保田の宗祖本仏論は、保田きっての情報収集家であった日要師にはじまり、中興日我師によって大成されたと伝承します。

しかし、日我師の論考も両巻血脈抄を背景にしていますので、今後見直されていくかもしれません。
大石寺の日寛師が、観心本尊抄文段の中で「唯房州の日我のみ独りその大要を得たり。」といわれているのが、日我師の宗祖本仏思想のことだと思います。

ところで、日寛師が「日我抄」と呼んでいるものは何なんでしょうね。
日寛師は、日我師の著作をよく引かれていますから、「六巻抄」や「御書文段集」には日我師のことが良くも悪くも多く出てきますね。

1217犀角独歩:2004/12/30(木) 12:14

名無し@富士門流さん:

ご教示、有り難うございました。

> 「宗祖『御影』本尊」・・・人本尊ではなく人形本尊論

なるほど。この点は、たぶん、有師『化儀抄』もそうなのではないのかとわたしは考えています。「当宗…本尊…日蓮聖人に限」という件です。

要師は、我師『申状見聞』が伝える目師最誕伝説の、その人でしたね。

血脉両抄は要山で、中興の祖も要師、なにか関連を感じますが、これは深読みのし過ぎでしょうか。

『日我抄』の特定はわたし自身は出来ていません。恐縮です。

1218名無し@富士門流:2004/12/31(金) 02:49

犀角独歩さん、私も日要師や日有師をはじめとするその年代の各山諸師達が、宗祖本仏思想の「仕掛け人」ではないかと考えています。

そこに行き着く過程には、日大直兼問答、日什派開宗・八品派開宗などが関連していると考えます。

富士門教学への中古天台法門の影響、新学派の脅威と六老門徒元祖本門派としてのプライドなどがあったのではないでしょうか。

全ては憶測の域を出ないものですが。

1219犀角独歩:2004/12/31(金) 16:13

1218 名無し@富士門流さん:

ここら辺のところになると、やはり、『日蓮宗教学史』執行海秀師著(平楽寺書店)は避けては通れませんね。また、この書は、基本的な教科書ですから、派祖教学教学について語る人で、この本を読んでない人はいないとは思いますが。この1冊をもってしても、わたしは執行師に敬意を表します。

1220雖念:2004/12/31(金) 19:43
大つごもりもあとわづか

管理者さま:

今年も、大変お世話になりました。

犀角独歩さん、顕正居士さん、問答迷人さんはじめ碩学諸兄姉の皆様:

数々のご教導を戴き本当にありがとうございました。

そして、すべての参加者の皆様に:

往く「災」の年を送り、家持ではありませんが、降る雪を見ながら、
来年こそは「いや重け 吉事(よごと)」と心から祈りたいと存じます。

みなさま、どうかよいお年をお迎えください。

1221名無し@富士門流:2005/01/01(土) 00:04

管理人さん、また犀角独歩さんはじめ掲示板参加者・閲覧者の皆様、本年も大変にお世話になりました。
どうぞ良いお年をおむかえくださいませ。

ちょっと前までプライドをみてました。
私は明日から新年の初仕事です。

明年も仕事の合間をみて、研鑚と実踏に少ない小遣いを注いでいこうと思います。
どうぞ皆様、明年も懲りずに御教示の程お願い申上げます。

1222問答迷人:2005/01/01(土) 09:16

皆様、明けましておめでとうございます。当掲示板の管理者を勤めさせていただいております問答迷人です。本年も又、活発且つ貴重な議論が展開されます事を楽しみに致しております。御参加の皆様方、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年の当掲示板のTOPニュースはなんといっても、犀角独歩さんの大石寺戒壇板本尊に対する鑑別と、その出版。富士門関係者にとって、一つの時代が終わり、新しい時代の開幕を告げる出来事で有ったと思います。

タイからのメールによれば、元旦の今日も、犠牲者の遺体が道路に累々と並べられ、30度の暑さの中、耐え難い腐臭を放っている様子が生々しく伝えられています。立正安国論の「牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨(がいこつ)路(みち)に充(み)てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半に超(こ)え、之(これ)を悲しまざるの族(やから)敢(あ)へて一人も無し。」に匹敵するか、或いは超える事態であると思います。

新春早々、胸が押しつぶされるような惨状をお伝えするべきかどうか、躊躇しましたが、何事も事実を直視するところからしか始まらないと思いますので転載させていただきました。

1224犀角独歩:2005/01/01(土) 12:55

管理者さんをはじめ、雖念さん、名無し@富士門流さん、ほか皆さん。
新年のご挨拶を申し上げます。
旧年は、日本におきましては新潟中越地震で、また世界に目を向ければ、スマトラ沖地震で多くの方々が罹災され、本当に胸が痛みました。なくなられた方々のご冥福をお祈り申し上げると共に、その家族には哀悼の意を表するものです。さらに被害に遇われた皆様には衷心よりお見舞い申し上げるものです。
このようなときこそ、自らの無力を思い知らされるときはありません。
単に「罰だ。謗法だ」と無責任な言説を吐く人々には、自らの浅はかさを顧みることも勧めるものです。

さてまた、問答名人さんには過分なお言葉を頂戴し、恐縮いたしました。
種々、ご教示を賜りましたこと、ご厚情を賜っていますことを改めて御礼申し上げるものです。

『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』は近く増補改訂版をお届け申し上げる所存です。
プレリリース版の段階で概ねご批正を賜った点につきましては、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について 』のスレッドに投稿させていただきました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1012

1225愚鈍凡夫:2005/01/01(土) 13:09

皆様、明けましておめでとうございます。 m(_ _)m

天災が荒れ狂う昨年の締めくくりが、インド洋地震による大津波でした。
たまたま地球の周期と国際情勢が重なった結果かも知れませんが、せめて、今年こそは人災による大量殺戮が終わってほしいと思います。

今年も当掲示板に参加させて頂こうと思いますので、皆様、宜しくお願いいたします。

1226れん:2005/01/01(土) 20:27
遅れ馳せながら、皆様新年明けましてお目出度うございます。本年も、碩学の皆様方のご投稿を通じて「真実」を学ばさせて戴きたく存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。

1227犀角独歩:2005/01/01(土) 21:15

個人的には、ずいぶんと古い記憶に属しますが、古代インド社会で、バラモンがなぜ支配を可能にしたのかを論理的に説明した名文に出会ったことがありました。誰の文章であったのか・なんと言う題名であったのかいまでは失念しましたが、その内容を覚えています。

古代インド社会では、もしバラモンが祈りをやめれば太陽も昇らなくなる・雨も降らなくなる、天災が起こり・国が滅ぶ、死んだときに祈ってもらわなければ地獄に堕ちる・先祖を供養してもらわなければ悪道から遁れられないと頑なに信じられていたので、その支配が可能であったというものでした。

いわば、人間の行為とはまったく関係のない自然現象を、あたかも自分の力によって左右でき、かつ予言して見せ、事実として受け入れられるようにさえすれば、個人のみならず社会全体を支配できるということです。

今回のような天災が起きるとき、悪しき宗教団体は、その自然現象を自分たちの教義が正しく守られていないからだと関連付けた挙句、あたかもその不幸から遁れる方途は自分たち、なかんずくその指導者しか有していないという“虚構のリアリティを構築”して人身の支配を可能にします。

このようば非科学的、文明開闢以前の愚論を信じしてしまう側は、やはり、かなり心理・精神の発達が幼稚なせいであろうと考えがちです。ところが実際には高学歴を有する人であっても容易に、この幼稚な手口に引っかかってしまいます。この点に、わたしは大きな疑問を抱いてきました。

先ごろ、とある精神科医と話したとき、この疑問を解く鍵を与えてもらえました。それは一過的心理・精神退行現象であるというのです。
一般的にとても信じがたいことを信者であるといとも当然のことのように受け入れ・決定してしまう、このときその人の判断に関する知的脳の動作はきわめて幼児的依存退行状態にあるといいます。R・チャルディーニはこのような心理現象を『影響力の武器』で説明し、また、その心理的状態の特徴が「無責任」であることを解析したのはS・ミルグラムでした。退行化の心理はきわめて依存的であると共に、暴力衝動をはらんでいるのであろうとも想像できます。実際、自分たちの教義を強要する様は、とても知的とは言えず、暴力的であることは、不快な勧誘に遭遇した経験のある人であれば誰しも知っていることです。

日蓮圏にいるわたしは、天災、その他の不幸が起き、悲嘆に暮れている人がいるなかで、その感情を悪用し、布教、自己肯定、指導者崇拝の具に処する野蛮に断固、抗議します。また、途方に暮れる人々が、その逆境を乗り越え、回復、復帰を向かうために、力を注ぎ・併せる実際の行動には深い敬意を表するものです。

1228雖念:2005/01/03(月) 09:01
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、寒い寒い朝にコタツの中から顔だけ出して、ディスプレイにむかって、つぶやいています。

一過的心理・精神退行現象であるというのです。
 一般的にとても信じがたいことを信者であるといとも当然のことのように受け入れ・決定してしまう、このときその人の判断に関する知的脳の動作はきわめて幼児的依存退行状態にあるといいます。(中略)退行化の心理はきわめて依存的であると共に、暴力衝動をはらんでいるのであろうとも想像できます

危機的な状況におかれると、私が今コタツにもぐりこんでいるように、生物は身体的にも精神的にも小さく縮こまるという特徴があります。団子虫やアルマジロがそうですね。
 
一個体の存続に関して言うと、たとえば哺乳類などの恒温動物は急激な寒冷にさらされると、末梢の血流を犠牲にすることで中心臓器の血流の確保を試みます。雪山での遭難者が手足を凍傷し、切断の憂き目に遭いながらも肝臓や腎臓の機能がきちんと保持されているのがその好例です。

「退行」という表現自体が否定的な概念であると感じられますが、とりあえず精神を犠牲にしても、個体の存続を図ることが種の存続に有利に働いてきたということなのでしょうか? 考えることに多くのエネルギーを費やすことは、個体の危急存亡に際しては、非効率として切り捨てざるを得ないわけです。

依存的であると共に、暴力的であるのは、こうしたエネルギー節約の過程から生じてくる性向かと存じます。

こうした過程に対して、「退行」というネガティブな表現を用いる精神医学のありかたにちょっとした違和感を感じました。治療者は確かに健常者として、それを退行と捉える高みに身をおく必要がありますが、危機と奮闘している当人にとっては、必要不可欠な防衛機制であり、生命の維持・発展といったより高い目的のためには有利に働いている機制を「退行」と呼ぶのは、???といった気持ちです。

ただ、こうしたスキをついて人々を利用しようとする勢力から無防備になるという点においては、確かに「退行」なのかもしれません。(ぶつぶつぶつ……………..)

1229犀角独歩:2005/01/03(月) 10:33

雖念さん、新年のご挨拶申し上げます。

> …「退行」というネガティブな表現を用いる精神医学

いや、表現を用いるのではなく、医科学的な分析でしょう。

> 「退行」という表現自体が否定的な概念

否定的な概念ではなく、状態を示したものでしょう。
おかしな言葉狩りのように感じますね。

> 退行と捉える高みに身をおく必要

別にこんな差別意識からの発言ではないでしょう。
風邪をひいている人に医師がそれを告げると「健常者の高みから」とならないのと一緒でしょう。

> 生命の維持・発展といったより高い目的のためには有利に働いている機制を「退行」

これはまるで意味を取り違えていらっしゃいますね。
たとえば歯にくっ付いている肉が生きているなんてことを信じることは生命維持発展という高い目的ではないでしょう(笑)
また、「○○先生を信じないと国が亡ぶ」などという場合、国家安泰を試行錯誤することは高い目的であるにせよ、それを御本仏に懺悔し国立戒壇を建てるのが唯一の方途などということは少しも高い目的とはなっていません。それをそのような短絡的な思い込みで済ませてしまう浅慮はまさに退行性を物語っているという話です。

なんだかとずいぶんと穿ったとらえ方しかされないものだとがっかりしました。

1230愚鈍凡夫:2005/01/03(月) 21:14

雖念さん、明けましておめでとうございます。

> とりあえず精神を犠牲にしても、個体の存続を図ることが種の存続に有利に働いてきたということなのでしょうか?

う〜ん。
人間って、個体の存続よりも精神の存続を希求するものではないでしょうか。小生はそのように感じます。
精神性にこそ人間の人間たる由縁が存在すると言うことではないかと思いますが、いかがなものでしょうか。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1231雖念:2005/01/04(火) 18:11
独歩さん、愚鈍凡夫さん あけましておめでとうございます。

個体が処理できないような大きなストレスにさらされると、防御反応としてアドレナリン、ノルアドレナリン、抗利尿ホルモンや内因性のステロイドホルモン、そしてエンドルフィンなど多くのホルモンが急激に放出されてストレスに対抗するわけですが、「退行」もそのような、ホルモンによる反応のひとつと理解されます。

かつては、ストレスが脳や神経系に及ぼす影響に関する情報が乏しかったために、ストレスに対する身体的な反応と、精神的な反応との関連がよく理解されていなかったということだろうと思います。

ショックに関する循環の中心化(centralization)は、大きな身体的なストレスに対する身体的な防御機制として有名ですが、強い精神的なストレスに関しても、同様の機制が働いているのではないのでしょうか。適当な総説の心当たりはありませんが、将来的には、「退行」の神経化学的な基礎が明らかにされ、「退行」の位置づけも明確になってくると思います。
http://www.insight-counseling.com/kizu/shousai/shousai_02_2.html

とりあえず、重要な機能に資源を集中させてということで、個体の存続に成功した上で「精神の永続性」を図ろうということで解決できるのではないでしょうか?

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ  (拝借御免)

1232犀角独歩:2005/01/08(土) 12:43

雖念さん、どうも、わたしの文章の主意がご理解いただけないようなのですが、たとえば退行を心神耗弱状態といった犯罪実行時の状態の分析に適用できるのではないのかという考えがわたしにはあります。その場合、犯罪を犯すそのときの心の状態ということですが、「個体の存続に成功」の‘成功’などというポジティブな言説で説明される点にわたしは納得がいかないわけです。

また、退行下での決断・実行はその判断能力を大きな低下を伴いますから、これが「成功」などということはとてもいえないであろうと思います。

1233雖念:2005/01/10(月) 03:50
犀角独歩さん(その1):

つぶやきスレッドは、議論の応酬はなしということで、1228もいったん書き直してから投稿したのですが、どうも私が議論の原因を作ってしまったようで申し訳ありません。
さて、とりあえず行き違いになった原因(私が考えるところの)について整理してみたいと思います。
まず、冗長になりますが退行の定義について引用してみます。

耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程。
ある段階からもうひとつの段階への過程が耐え難い激変として体験されたときに、過去のある発達段階へと一時的に回帰することを記述するための概念。しかし、注目すべきことは、この用語は生物学的理論のモデルに基づいて作られた発達論的概念と密接な関係があることである。この用語の中に、幼児の生活のごく早期のシニフィアンの回帰だけを見るのなら別だが、治療の効果を記述するのにこの用語を使うのは適切でない。
(チャールズ、ライクロフト:精神分析学事典,pp211、河出書房新社、1992)

発達または進化の上で、前の状態、前の時期にかえること。文明人のおとなが、コドモや未開人や動物に見られるような態度をとること。脳の障害などに見られ、感情的ショックなどによる原始反応特にヒステリー反応などに見られる。精神分析では、人間の性欲生活は、コドモ時代から存在し,口唇に快感を感ずる時期、肛門―尿道の時期を経て性器期にいたると考えるが、大人になって後に欲求不満(フラストレーション)のために前の段階に用いた欲求満足の方法を再現すること、たとえば口腔性交のような異常性欲を示すことを退行という。また、ユングでは、リビドーが意識→無意識の方向をとる現象を言う。また、生活上の困難から逃れることを意味するのに用い、社会的・倫理的意味で、スポーツに熱中して仕事を怠るような場合も、発達した人間にとって原始的だというので(退行)ということもあるが、これは適当でない。
(宮城音弥編:心理学小事典、152-153、岩波書房、1979)

(続く)

1234雖念:2005/01/10(月) 03:51
犀角独歩さん:(続き)

私が1228で「『退行』というネガティブな表現を用いる精神医学のありかたにちょっとした違和感を感じました」と、書いたのは「生物学的理論のモデルに基づいて作られた発達論的概念」の生物学的理論のモデルを適用したことに対する違和感の表現であり、独歩さんの意見に対して異論や反論があったわけではありません。

また、1228で「ところが実際には高学歴を有する人であっても容易に、この幼稚な手口に引っかかってしまいます。」にたいして、「とある精神科医と話したとき、この疑問を解く鍵を与えてもらえました。それは一過的心理・精神退行現象であるというのです。」とのコメントを紹介されましたが、これは上記の「生活上の困難から逃れることを意味するのに用い、社会的・倫理的意味で、スポーツに熱中して仕事を怠るような場合も、発達した人間にとって原始的だというので(退行)ということもあるが、これは適当でない。」と、されています。一般的には「脳の障害などに見られ、感情的ショックなどによる原始反応特にヒステリー反応などに見られる。」と、いうことで高次の精神機能に関して用いられることはありません。
心理学の用語は、日常卑近に用いられるうちに意味が拡散して、双方が同じ言葉を使いながらまったく別のイメージについて語っているという厄介なことがしばしばおきがちです。
「個体の存続に成功」という表現の背後には、「仮設住宅生活の中で心不全で死亡しなかった」とか、車上生活を余儀なくされたが「血栓症での死亡を免れた」。あるいは、(強い精神的ショックにあい、免疫能が大幅に低下したが)「マラリアやコレラで死亡することはない」といった、意味内容があります。

ところで、独歩さんが1227,1232で提起された、いわゆる社会的「退行」と宗教活動や犯罪との接点の問題は、大変意義深い問題だと思います。

1232の「犯罪実行時」とは、たとえば「麻原の宗教性を信じきっていた当時の私には、私の大切なオウムが、つまり「仏、宝、僧」の三宝の存続がかかっているということだったのです。」(林郁夫:オウムと私、pp399、文芸春秋社、1998)のような、心的状態についてでしょうか?

1235犀角独歩:2005/01/10(月) 10:37

雖念さん:

わたしが書いた「退行」と犯罪に関する説明を支える脚をちゃんと示してくださっていますよ。

「耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程」

ですから、このことを言っているわけです。人格障害犯罪などに見られる実行時の心的(脳内的と言ってもよいかもしれませんが)上述の説明の如きにあるのではないのかということです。

また、「死ぬのが怖い」「幸せになりたい」「人より勝りたい」…、宗教入信の動機というのはさまざまであると思いますが、結局のところ、現状に対する「耐え難い欲求不満」にあるとは考えられませんか? また、「センセイと一緒にいる限り地獄に堕ちない」「この組織にいれば幸せになれる」「成長できる」なんていう組織・指導者への依存は、まさに「幻想的な満足」であり、それに「固着」することを信仰上では「強盛な信心」とか言いませんか。

> 1232の「犯罪実行時」…麻原の宗教性を信じきっていた当時の私…のような、心的状態についてでしょうか?

ええ、そういうことでもあります。

1236犀角独歩:2005/01/12(水) 01:13

今日は1日、電車で都内を歩き回っていました。
有楽町で、昼にお会いした方から最新の『AERA』('05.1.7号)を頂戴しました。
先の6回連載の創価学会特集もよかったのですが、今回もなかなかよくまとまっていました。取り分け、『過去の性癖と邪悪な行動』もよくまとまった文章で、それと関連させて世界のニュースとして『英米の実験と実績・常習者の足首にGPS』のリレー記事は興味深かいものがありました。

さらに、わたしが感激した記事は『ヨハネパウロ2世』、「即位以来、法王は認め、謝り、許しまくっている」という一節でした。ガリレオの名誉を360年ぶりに回復、進化論を認め、十字軍を謝罪、さらに自分に弾丸を2発撃ち込んだ狙撃犯を許したといい、パーキンソンでほとんど動かない指を上げ、「若者たち、覚えておきなさい」「わたしは第二次大戦を経験し、神のおかげで生き延びた世代に属する者だ。あなたたち若者にこう訴える義務がある。2度と、戦争を、してはいけない」、政治発言、絶対平和を訴えてきた10億人の信者の頂点からの言葉でした。

その記事に涙しそのあとに、国際フォーラムで開催されている『人体の不思議展』を見ました。わたしはプラストミックされているとはいえ、献体された人体にパフォーマンスのポーズをつけるこの製作と展示に、なかば怒りを感じました。殊に3箇月から10箇月時の胎児の全身体を展示箱の冷たい床に並べる展示には違和感を覚えました。
寒々しい気持ちで見入っていると、横で若い女の子たちが、「これ、赤ん坊じゃん。すごい!」と奇声を上げていました。その直後、小学生上級学年ぐらいの女の子が、「赤ちゃん、かわいそう…」、そう呟いたのです。それまでの喧騒はぴたりとやみ、水を打ったように静かになりました。…3箇月児と4箇月、4倍ほどの胎児の大きさの違いにわたしは息を呑みました。

会場を出ると三学無縁さんから電話。五反田でお会いしました。
「はい」と手渡されたのは『寺運興隆』に載る島田裕己師の『今にして創価学会とは何か』連載15『日蓮に背くと創価学会を謗る教団の急進』、内容は学会記事であるのにもかかわらず顕正会ネタでした。考えさせらる文章でした。

…… 左利きのわたしは、鉄道の自動改札が大の苦手です。いつになっても慣れません。ダーツの矢を、右手で的に向かって投げるように、真剣に狙いを定めるように、切符を差し込みます。その繰り返しで、神経をすり減らし、帰途に着きました。

有楽町の展示のおかげで、今日は肉を食する気になれませんでした。
プラストミックされた献体された方の肉は、冒涜を恐れながら、敢えて記せば…、一番に通っているのはビーフジャーキーのようでした。
…ご冥福をお祈りいたします。

1237犀角独歩:2005/01/13(木) 14:39

昨日から開催が始まった『唐招提寺展』に、取るものもとらず、駆けつけました。
1200年の風雪に耐えた脱活乾漆造の盧舎那坐像、そして、鑑真和上坐像ともに国宝にふさわしい素晴らしいものでした。3メートルを越すあの大きな仏像が、漆を沁み込ませた麻布でできた張子とはとても思えない重量感があります。そして、まるで生きて在わすごとき鑑真和上、その御影を置く御堂を荘厳するために画かれた絹本屏風図、東山魁夷が「日本の春の海の色」といった群青が見事に生える絶品でした。しばし呆然、感動に立ちすくむひと時を過ごしました。

唐招提寺金堂は平成大改修ということで2000年から2009年まで解体修理がなされており、それに併せて、本尊・盧舎那坐像が1200年にしてはじめて、寺の外に出たということでした。解説によれば今後2度と出ることはない、たった一度の展示がいま開催されているとのことでした。

この一連の経過を見て、鑑別・鑑識、さらにその修繕、公開、保全の有様が、石山彫刻本尊の扱いと天地雲泥の相違であることに、改めて慨嘆の念を禁じえません。

唐招提寺の大改修と、仏像修繕の次第を見れば、石山の言い分なぞ、もう取るに足りないものであることは実感としてわかります。「仏像を見に」と勧めるわけではありませんが、真贋とはどういうことか・そのグローバルスタンダードとはいかなるものか実感するために彫刻本尊信奉者は特に行って見るとよいと思った次第です。

しかし、それとは別に、わたしは複雑な思いに駆られています。
それはその前日に見たプラトミックされた献体と鑑真和上像の対比ということです。
続けざまに観たためにその思いは膨らんだのかもしれません。
けれど、献体されたとはいえ、ほしいままに切り裂かれポーズをつけられたかつて生きていた方々の肉体。まるでセルロイドのように見える質感は生態からはたしかにかけ離れてはいます。しかし、たしかにかつて生きた方々の肉体そのものなのでしょう。
それに対して、鑑真和上像は、まるで生きて静かに結跏趺坐し長い瞑想に耽っているように見えます。しかし、麻布を漆で糊塗し彩色した、いわば張りぼてです。
それなのに、後者のほうが国宝として丁重に扱われ、人間以上に大切にされてきたわけです。それが悪いということではなく、人間というものの本質と、それが生み出した宗教のメカニズムが、この二つの展示の対比から垣間見えるような気がした2日間でした。

人体の不思議展
http://www.jintai.co.jp/main.html
唐招提寺展
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=1024

『おすすめ』スレッドに記すべきであったかもしれませんが、ほとんとつぶやきなので、こちらに投稿させていただきました。

1238犀角独歩:2005/01/17(月) 08:58

本日は、阪神淡路大震災から10年目に当たるのですね。
被災し亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

1239犀角独歩:2005/01/18(火) 00:36

敗北を感じるということは実は大切な経験です。
身の程がわかります。
強敵を伏してはじめて力士を知るということです。

1240松本:2005/01/18(火) 01:39
まるでアジ討論やね。勝った負けたは関係ないんちゃうんかいな。落ちにもならへんやんけ(-。-;)独り言独り言ブツブツ

1241松本:2005/01/18(火) 02:16
いきなり出て来てなんですけどちなみにウチは犀角独歩ファンですわ。毎度臭い曲者に切り返すんやけど結局最後に善導しますやん。独歩さんは。そのやり取りが好きなんやけど今回のはひどいわ。学会の肩は間違っても持たへんけどええ気味やと思われへん奴ちゃうやん。こう言うのもなんやけど、こう言う連中を救っていかないけない論が先違います?あんまり意味ないと違います?

1242松本:2005/01/18(火) 02:21
犀角独歩さん、勝敗なんか口にしたらあかんで。誰が見てもわかりますわ。ムキになる相手違いますわ。

1243犀角独歩:2005/01/18(火) 07:56

松本さん、はじめまして。

わたしは勝敗を言っているのではないですよ。
また、むきにもなっていませんよ。
勉強しなさいといっているのです。
勉強して出直してきなさいと言っているのです。

仏教は厳愛の二法を言うのです。
ただやさしく善導するばかり能ではありません。
この程度でへこたれて戻ってこなければ、真実は見えません。
叩かれても這い上がる。怨念とするのではなく、自身の不甲斐なさを嘆き、力をつける、まじめに真剣に学ぶ。戸田さんはいいことを言いました。教学は剣豪の修行だと。
自尊心が能力に見合わないとき、自尊心が蓋になって上に伸びなくなります。
そのとき、自分が以下に能力がないかを思い知り、ただプライドだけが肥大している「増上慢」になっていることを思い知るためには、敗北を味わってみることだという意味で書いたのです。

赤子の手を捻ることは容易いでしょう。しかし、それで勝ったという大人はいません。
捻られて大人の力を子供は知ります。大人なんかに負けないと思い上がっていた子供はそこで「身の程」を知るのです。その認知が必要だということです。

なお、わたしはここに、人の受け狙いで投稿しているわけではありません。
中世以降、石山で騙られてきた日蓮本仏、いつしか造られた彫刻本尊、その煽動にはまって人生を棒に振った多くの人々の過ちを繰り返さないために、徹底して真実をここに追究することだけを目的にしています。
宗教教団・指導者信仰と器物崇拝、ファンダメンタリズム、カリスマ信仰という悪しき習気から目を覚まさせることを目的にしているのです。
優しく揺さぶって目を覚まさなければ、時には厳しく起こすこともあります。
そのようなことです。ですから、感情が高ぶっているわけでもなく、怒っているわけでもありません。

1244大勇者:2005/01/18(火) 10:22
犀の生角は水を退ける。
法華経の題目を犀角に、我等の悪業を水に譬える。

厳愛二法に感謝します。

1245犀角独歩:2005/01/18(火) 11:09

大勇者さん、繰り返します。
ご健闘とご精進をお祈り申し上げます。

1246吉祥仙人:2005/01/22(土) 09:04
 過去の書き込みを大まかにしか読まないままツブヤクことをお許しくださ
い。
 多くの創価学会員は、荘厳された富士大石寺しか知らず、その戒壇の御本
尊が日蓮大聖人の出生の本懐であると信じきっています。それを後世の作と
言われれば、阿部管長から破門された現在でも激怒するでしょう。
 「当世の習い損ないの学者め」と
 私もいままでそうでした。
 上野村の大石寺にある板曼荼羅を含めて検証されている皆様の博識と真摯
な姿勢には、ただただ頭の下がる思いです。

1247卞氏:2005/01/25(火) 15:04
戒壇の件は、歴史認識を改めるだけに留まるよ。
中には激怒する人もいるかもしれないな。でも、そうでなくとも、確信を掴んでいるのが学会員だから、
ふうん、なんだ違うのか〜。くらいで終わりだと思いますよ。そのための研鑚は重ねている。
座談会や研修などで、御書に書かれている解釈について、何度も何度も「今までの教えは仮」というものを経験し、覚醒している。
学会員にとって見れば、単にこの経験の延長です。
「大石寺に詣でなければ成仏は叶わない」なんていうことなど明確に切棄てていますから、十分でしょう。
もうすでに宗門の時代は終わったのだな。

そうそう、日興上人が、えっちらおっちら背負って下山した、っていうのも、
寓話説話の世界のものなんですね。「大聖人のお心を携えて下山した日興上人」ということを
擬態的に表現したものと、よい方に解釈しておきますよ。ファンタジーの世界ね。
騙すつもりが無くてそう教えていた人は、そんなに責められるべきではないでしょうし。

ところで「人生を棒に振った多くの人々」って誰のことだろう?

1248一談家:2005/01/25(火) 16:27

>1247 「今までの教えは仮」というものを経験し、覚醒している。

やはり、池田さんは、戒壇本尊のからくりを知って、軌道修正してきたということですね。よきかな、と思います。それに比べて、日顕さんは、同じく戒壇本尊のからくりを知ったのに、何も手を打たずに、まだそれを利用して金儲けを企んでいるようです。情けない。

1249一談家:2005/01/25(火) 17:38

>1247 人生を棒に振った多くの人々

私もその一員です。学会活動を最優先にして、学業、仕事を第二、第三にして、青春を過ごしました。確かに指導は、仕事第一、と言われてましたが、役職を持って、責任をずっしりと感じると、活動第一になってしまいました。私が弱かったからなんでしょうが、私の周りの青年も、やはり活動第一で深夜まで活動してましたから、遅刻の常習犯でした。

本来ならば、もっと社会的にも活躍出来たかもしれないのに、という悔恨が今は有りますね。私のような人のことを、独歩さんは「 人生を棒に振った多くの人々」と書いたのだと思います。勿論、独歩さんご自身が、その「人生を棒に振った」なんだと。

1250一談家:2005/01/25(火) 17:39

訂正です

× その「人生を棒に振った」なんだと。

○ その「人生を棒に振った人」なんだと。

1251彰往考来:2005/01/25(火) 17:59
>1243
>「人生を棒に振った多くの人々」って誰のことだろう?

私です! 

by 彰往考来

1252真実 探求者:2005/01/25(火) 19:31:48
失礼します。「希望に満ちあふれているであろう、、人生、が、」、「、それに投資、? したような総ての努力が、水のアワの様に、」なれば「,棒に振る、」という事でしょうか、? と、すれば、それは、小生、です、、。 心底から悔しいです! 情けない、です、。 他方、庶民と「同苦、」と言いつつ、一人だけ、「、孤的な楽天、」を享受の方が独裁的に君臨する某団体様が存在のようです。 何とか、言論の力で「硬い壁」に向かいたいものです、、。

1253吉祥仙人:2005/01/25(火) 21:13:45
 真実 探求者様
 浅学なのでご教授ください
 「弧的な楽天」を享受するとは、どのようなことなのでしょうか

1254卞氏:2005/01/26(水) 09:38:25
>確かに指導は、仕事第一、と言われてましたが、

栄華を求めるのは創価の指導とは違う生き方だよ。
私が実感しているのは、

>責任をずっしりと感じると、活動第一

学会の活動でなんら成果がでなければ、
社会においても中途半端に終わるということ。
その生まれた責任感というものを学会だけでなく、社会にも向ければ、
それは仕事第一でもあるということにもなる。社会的地位として低いとしても、
人生を棒に振るなんてこととは違います。活動が社会に生かされてきます。
両立に悩んで乗り越えることが自身の勝利でもあります。
要は、組織活動をいかに有効に行えるか。その点がポイントと思います。

1255一談家:2005/01/26(水) 10:20:54

>学会の活動でなんら成果がでなければ、社会においても中途半端に終わるということ。

私も含めて、私の知っている大部分の学会員が、そのような姿で有ったと思います。それは、果たして個人の責任に帰する事なんでしょうか。

法華講に於いては、もう少し緩やかでしたが、所詮学会組織の焼き直しの組織ですから、事情は同じでしたね。役職を持つて、一生懸命に頑張った人は、私の知っている限りでは、生活が破綻してますね。お題目を一生懸命唱えていた人は、豊かな生活を楽しんでいますね。これが私は昔からの疑問なんですよ。卞氏さんの周りには、そんな姿は無いのでしょうか、不思議です。

1256愚鈍凡夫:2005/01/26(水) 11:03:07

> 栄華を求めるのは創価の指導とは違う生き方だよ。

う〜ん、信濃町を我が物顔に闊歩する宗教貴族達たちにぴったりのコトバかも。

> 両立に悩んで乗り越えることが自身の勝利でもあります。

小生の周りには、学会活動で成果を上げているにもかかわらず、いつまでたっても経済状態が好転しない学会員さん、また、家庭不和に悩む学会員さんが少なくないですよ(表向きは一家和楽を装っているようですが)。
必死になって題目をあげ、必死になって学会活動に励んでも現状が好転しない場合、不思議なことに、よりストイックな信仰へと突き進むものです。ここにマインドコントロールの恐ろしさの本質があるのでしょう。

1257卞氏:2005/01/27(木) 10:01:52
>私も含めて、私の知っている大部分の学会員が、そのような姿で有ったと思います。それは、果たして個人の責任に帰する事なんでしょうか。

仏法的に見れば、すべて個人の責任です。
なぜなら、自分で学会活動に責任を見出して、社会的地位を棄てたのであれば、
それは個人の選択であり、そう誓ったのも個人です。
あとになって、「あの時学会活動を程ほどにして、仕事優先にしていれば」などと
悔やむのは、惨めですし、悔やむくらいなら初めから学会活動などしなければ良い。
心のどこかに栄華を求めているという残っているのではないでしょうか。
「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです。

ただ、貴方の疑問は、組織からの立場として、そこのリーダーの責任とするものであるとおもいます。

学会活動を優先させ、仕事をおろそかにする。
これはいけないことだと、学会草創のころからの指導です。
仕事をおろそかにして会合に来て、戸田先生よりしかられたという話しも人間革命にありました。
こういったことが徹底されていないのではなかったのでしょうか。
「学会活動は一人前でよい。仕事は三人前やれ」が戸田第二代会長の指導でした。
その意味は人それぞれにあったでしょうが、疑問が生じたらすぐ幹部に相談しすっきりするまで指導を受けてくる、
そうしなさいといわれてきました。指導の意味を自分なりに咀嚼し、どういう信仰に起てばよいのか、
その都度軌道修正しながら鍛え、成長するようにせよと。
本来の組織とはそのために有ります。指導主義で学会はやってきました。
が、それに漏れている人も居るのでしょう。組織丸ごとそうなるケースもあるかもしれません。
もし、貴方の組織がそれを徹底するのであったなら、
そんなふうに苦しんでいる人はいなかったろうと思います。

>お題目を一生懸命唱えていた人は、豊かな生活を楽しんでいますね。
当たり前のことです。自分ひとりが幸福になるのは容易いことです。
お題目で幸せになります。ならなければお題目がウソになります。

人を救おうという立場になって、はじめて、その苦労と喜びがわかるというものですから。
私からしてみれば、不思議でもなんでもないです。
貧乏が不幸なのではなくて、貧乏に負けて押しつぶされて、希望の持てない情況になるのが不幸なのです。
外見ではそのひとが不幸なのか幸福なのかは分かりずらいかもしれません。

家庭不和は解決に向け、本人がそのことをいのらなければ治りません。
「一家和楽の信心」を<指針>としていた理由です。
和楽でない家庭が和楽になるために「信心」をしましょう。
それも指導ですから、家庭不和の原因というものを、本人にどうやって自覚させるか。
それに悩むのが組織のリーダーです。

1258一談家:2005/01/27(木) 12:57:23

>「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです。

信心すれば幸せになれるよ、と言われて信心した。

学会活動しなければ、自分だけの信心では功徳はもらえないよ、と言われて学会活動に参加した。

活動するようになつたら、嫌だ嫌だと言うのを説得されて、仕方なく班長という役職を受けた。

役職を受けたら、組織目標が無理やり割り当てられた。

目標は達成しなさいよ、と言われて、部員を説得して会合に連れ出すようになつた。

役職を受けたら、「後継者を育てなさい」と言われて、嫌がる部員を無理やり説得して班長にして、組織を分割した。

そうこうしていたら、グループ長に成れる様に、折伏をしなさい、と言われた。

懇意にしていた友達を誘ったら、入会すると言う。

それで、勤行とか教えて、御本尊を持たせて、折伏ができた。

暫くしたら、グループ長の面接を受けた。折伏一世帯では、足らないけれど、今回は大目に見て通すけど、しっかり折伏をしなさい、と言われてグループ長になつた。

暫くしたら、統監の仕事を任された。一杯、幽霊部員がいる事を知った。

まぁ、こんな風にして、私の大学生活は学会活動で塗りつぶされて経過して行った。最初から、「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです、って厳命されたいたら、学会活動にこんな風にのめりこんでゆく事は無かったと思います。ズルズルと引き釣り込まれて行った、というのが真相でしたよ。私は金輪際、もう、こういう宗教組織には入らない。

1259愚鈍凡夫:2005/01/27(木) 12:57:57

> 貧乏が不幸なのではなくて、貧乏に負けて押しつぶされて、希望の持てない情況になるのが不幸なのです。

幸不幸は勝ち負けの問題ではなく、感じ方の問題でしょう。言葉を換えれば、心が満ち足りているかどうかの問題とも言えるのではないでしょうか。
学会の理想論と現実の学会活動とのギャップ。組織というコミュニティの中だけの閉鎖的な活動と、そこから派生する馴れ合いの体質。一般社会との意識のずれが生じるのも無理からぬ事です。

もし、その人が貧乏から抜け出したいと思って入信したとしたら、状況が変わらないのはやはり不幸です。体が健康で、心がピュアで満ち足りていればそれでいいというのであれば、別なんですけどね。
わざわざ外敵を作って、阿修羅の如く口汚い罵声を浴びせる姿は、まるで不幸を絵に描いたようなものです。

> 外見ではそのひとが不幸なのか幸福なのかは分かりずらいかもしれません。

初めて意見が合いましたね。小生もその通りだと思います。
しかし、創価学会員であるが故に一家和楽の振りをして、外見を取り繕う姿を学会員時代から何家族も見てきました。本当に、人の家庭は外からは分からないものですよね。

1260:2005/01/27(木) 14:17:59
創価学会の組織に就いて、言われるとおりに、無疑曰信で学会活動に
励んでも、普通の無信仰の人たちとなんら変わらず、年老いて重い病気
になったり、歩けない生活を送っている会員の多いこと。

これは、信心のやり方がまずくて、宿命転換ができなかったからでしょうか?

幸せは見た目ではわからないといいますが、病気でも貧しくても、
『信仰があるから私は幸せ』と言う心に余裕のある創価学会員が巷に
あふれているとは思えません。

1261卞氏:2005/01/27(木) 15:29:00
>最初から、「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです、って厳命されたいたら

戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。
悔いのない生き方ができれば、そのひとの勝利です。本当に幸せです。
悔いが残るようなことをしたら、もう一度やり直してもよいではないですか。
目標が高ければ高いほど、苦しい目にあうのが当然のことだとおもいませんか。

貴方の場合、組織という「形態」を作るのが目的になってしまったかのように見受けます。
そうではなく、「会員を護り育てる組織作り」を考えなくてはなりません。
それは閉鎖的な活動ではありません。つねに外に目を向けていなければできないことです。
愚鈍さんが閉鎖性を感じさせると思われるのもそういった視点が欠けている文章であるためでしょう。

大きな目標を立てたときは、命令されたことをこなすのではなく、常に、「何のためにそれをするのか」を
考えなければならないでしょう。
命令されたことだけやるのでしたら、会社などでも下っ端かバイト扱いで終わります。
どんな組織に行っても、下で与えられた命令だけをやるようになってしまいます。
何処に行っても社会で活躍するなどということはできません。
そういう人は、そういったことを転換することをしなければ、社会での活躍はできないのです。
一体何処にあなたの目標をどこに置いているのか、そういった出発点というのは非常に大事です。

>創価学会員であるが故に一家和楽の振りをして、外見を取り繕う姿
もしかしたら、和楽の振りをしているように見えるだけかもしれませんよ。
そのときは満ち足りていて、また時々喧嘩して、反省したりもして・・・
家庭の事情はほんとにわかりません。

>幸せは見た目ではわからないといいますが、病気でも貧しくても、
>『信仰があるから私は幸せ』と言う心に余裕のある創価学会員が巷に
>あふれているとは思えません。

学会員は、『信仰があるから私は幸せ』のような考え方はしませんよ。
自らの使命を自覚できて、その使命を果たす自分がいて、なんともいえず幸福なのです。
で、余裕などありません。今でもどこかで苦しんでいる人がいたら、励ましに奔走します。
余裕も何もあったものじゃありません。
そういうふうになれたのは「信仰の力」というものですから、それは勝利です。
ただ、お金があってそこそこ健康で、幸せと感じていても、何のために生きているのか分からないのでは空虚です。

1262一談家:2005/01/27(木) 16:01:24

>戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。

一方的に決め付けられる辺り、いかにも創価学会員らしいなぁ、と思いました。事実は違っています。

私は、某大学会一期結成時の代表幹事です。その大学会結成時の池田さんの指導は、言論問題収集の言い訳に終始していました。あの時、あのような池田さんの肉声に触れていなければ、もう少し創価学会に居たかも知れません。国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳話は、私には全く説得力は無く、却って池田さんという人物に対する疑問を抱かせるものでした。

1263一談家:2005/01/27(木) 16:03:05

訂正です。

× 言論問題収集

○ 言論問題収拾

1264卞氏:2005/01/27(木) 16:51:01
>戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。

>一方的に決め付けられる辺り、いかにも創価学会員らしいなぁ、と思いました。
>事実は違っています。

違ってないとおもいます。
さきほど、ご自分で、<悔い無き生き方>を持つことができなかった話しをされていましたから。
というのは、「国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳話は、私には全く説得力は無く、」
とおっしゃるのは、あなたと池田名誉会長との関係でいえば、
<説得する側、される側。>でしかありません。
戸田先生、池田先生、両者を並べたのは、<師匠と弟子>という関係の意味です。
ここは舌足らずですみませんでした。

あなたは代表幹事という役職をやっていたのですか?
それとも先生という師匠を護って先生と一緒に戦っていたのですか?

あなたの言い分は常に、「前者」で多分に心において師匠とは距離をおいていたなわけでしょう?
学会は、師弟共戦ですよ。その時点で既に生き方が違っているのです。縁していないのです

1265一談家:2005/01/27(木) 16:57:48

>師弟共戦ですよ。その時点で既に生き方が違っているのです。縁していないのです

なるほど。

それにしても、「師弟共戦」ですか。良い言葉ですね。

1268愚鈍凡夫:2005/01/27(木) 21:52:42

「師弟共戦」「師弟不二」、誠に従える身にとっては都合のいい言葉ですね。弟子が必死になって師匠を守っても、果たして師匠は弟子を守ってくれるでしょうか?
義侠心旺盛のように見えて、実は池田さんのロボットに過ぎないように思います。

両親が家庭に必要な時、夜遅くまで学会活動に走り回っていたら、孤独な少年少女が非行に走るのは無理からぬ事です。新聞やテレビで報道された大阪市東淀川区の女子中学生のような子は、氷山の一角でしかないのじゃありませんか。

卞氏さんはどうやら「人間革命」という小説を現実の事として捉えてらっしゃるようですね。小生は、結果的に池田さんは、戸田さんや牧口さんを立身出世のために利用したのだと思います。

自らを「王者」と呼び、皇帝気取りの池田さんが何を言おうと、ノーベル平和賞の対象にはならないでしょう。メッセージというなら、ヨハネ・パウロ2世は、イラク戦争開始時から出し続けていますよ。ブッシュ大統領とも直接逢って説得されています。宗教指導者とはそういうものでしょう。

1269一字三礼:2005/01/28(金) 00:04:12
つぶやきです。
創価の方の書き込みが始まると、途端に掲示板から仏教色が無くなってしまう為、ロムしていてつまらなくなってしまいますね。
知ってて当然のように使われている「宿命転換」、「師弟不二」ってそもそも何用語なのでしょうね。法華経にもご遺文にも出てはこない言葉のようですが。
また、「論」の体裁をなしている蓮祖本仏の主張も未だに読んだ事ないし。

1270卞氏:2005/01/28(金) 09:16:19
ですから、証人喚問の件は、人権闘争として闘うことが肝要だったわけです。
詳細は省きますが、罪のない民間人を、一部の扇動により証人喚問するという
事態を、避けなければならない情況です。前例をつくることがいかに危険か。ということでした。

池田大作という一人の人物を護ることが、一般の人の人権を護ることに通じるのです。
それが目的です。誰を護るのかという点で、池田名誉会長と心をおなじにすれば,
<国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳>に聞こることはなく、
人権闘争としての戦いを共にする同士からの叱咤として捉えられるはずです。
ほんのすこしの、心のありようの違いです。

1271一談家:2005/01/28(金) 09:59:12

>罪のない民間人を、一部の扇動により証人喚問するという事態を、避けなければならない情況です。前例をつくることがいかに危険か。ということでした。

それでは、蓮祖は、竜ノ口や佐渡流罪という前例を作ってしまったから、人権闘争に失敗したわけですね。

それにしても、あの証人喚問は、確か、国立戒壇が憲法違反かどうかを問うものだったと記憶しています。なぜ、堂々と述べる事ができなかったのでしょうか、不可解です。

1272通りすがり:2005/01/28(金) 10:41:12
>蓮祖は、竜ノ口や佐渡流罪という前例を作ってしまったから 
作ったのは鎌倉幕府ですよ、念のため。

1273一談家:2005/01/28(金) 11:06:00

>作ったのは鎌倉幕府

あっ、すみません、そうですね。訂正します。

訂正

× 竜ノ口や佐渡流罪という前例を作ってしまったから、

○ 竜ノ口や佐渡流罪という前例を作らせてしまったから、

1274犀角独歩:2005/01/28(金) 11:32:36

証人喚問があれば、出ればよい。
ただ、それだけのことです。

1275卞氏:2005/01/28(金) 12:02:04


下記は別スレの、スレチガイより。
>なにが恥をかくのですか。

まあ、恥と思わないなら、構いませんが、
さっそく分量も知らずに、載せるべきとの発言をする。
sgi提言など、せいぜいコラム欄2回ぐらいだろうと思っていた。そんなところですね。
なんも考えなしに、載せろ載せろと意見を述べていた。

次に、ネットで検索すればこんなにでてくると今度は言い出した。
内容について話されるならともかく、それと同じようなものだろうと
断じてよいものでしょうかね。スレの無駄になるので、そういうことのないよう、
読む前には意見するべきではないと今一度申し上げておきます。

ともかく、分量が多く内容が多枝に渡っていますので、いろいろと参考になること間違いなしです。

1276犀角独歩:2005/01/28(金) 12:15:16

平和提言を言う人間のこんなレスは、まったく平和提言などという内容が生かされていないですね。

先にわたしは、御書全集、富士年表、富士宗学要集という大量の資料をデータ化した例を挙げているのです。それに比べれば、平和提言の分量など微々たるものでしょう。

何度も繰り返しますが、提言ではなく、実際行動は何かを問うているのですよ。

自分に反対するものであれば、こうやって軽蔑的な現時を繰り返す卞氏さん、あなたは平和提言を推薦しながら、やっていることは言葉の戦争、暴力、そして、精神は差別・侮辱に満ち満ちている、平和提言とは裏腹だといっているのですよ。

わかりませんかね。世界平和というだけなら、ヒットラーだっていったでしょう。
池田さんの平和提言の是非については、それに見合う実際行動はどのようなものかと、その具体性を問い、それを推薦するあなたの心の中の他社蔑視という戦争が平和提言推薦と矛盾していると言っているのです。

1277犀角独歩:2005/01/28(金) 12:18:07

なお、平和提言を、ここに投稿するには分量が多すぎるという考えにとらわれているようですが、HPでも何でも作って、そこにアップし、ジャンプ先として示せば、それで事足りるでしょう。

単に打ち込むのが面倒なのか、出来ないのか、そんな程度で平和提言推薦もあったものではないでしょう。

1278犀角独歩:2005/01/28(金) 12:20:28

打ち間違えました。
判読は期待できませんので、訂正します。

> 1276

誤)現時
正)言辞

誤)他社蔑視
正)他者蔑視

1279愚鈍凡夫:2005/01/28(金) 13:31:44

>>1270:卞氏さん

> 池田大作という一人の人物を護ることが、一般の人の人権を護ることに通じるのです。

違うでしょう。逆に一般の人の人権を守ることが、池田さんを守ることにでもなるというんですか?
創価学会は人権闘争なんかしていないでしょう。自分たちの主張を通すために他人の人権を踏みにじっているだけです。
池田さんにほんの少しの勇気があれば、証人喚問なんか屁のカッパじゃなかったでしょうか。
証人喚問に出て、池田さん得意の「獅子吼」を全国に轟かせればよかったと思いますよ。

1280大勇者:2005/01/28(金) 13:51:40
つぶやきです。

>ほんのすこしの、心のありようの違いです

まさに信仰にとっての根源的な重要部分である考える。

信仰と人生が直結であるならば、価値が大なのか小なのか?
それが一番の問題だ・・・

1281犀角独歩:2005/01/28(金) 14:21:21

しかし「話し合いの力で」という提言を、手に取って、読まない人間は発言するな、恥をかくだけ…、こんなことを平気で書いて、どこが平和提言、どこが話し合いの力だというのでしょうか。

「雖讃法華経 還死法華心」という釈がありますが、まあ、言い換えれば「雖讃平和提言 還死平和提言心」と言ったところでしょう。

1282一談家:2005/01/28(金) 15:04:36

>1218

それは違うのではないでしょうか?

創価学会は師弟共戦ですから、当掲示板に御参加の創価学会員さん、なかんずく、自ら池田さんとの師弟共戦を声高らかに述べておられる卞氏さんの様な、熱心な学会員さんの有り様に、この池田さんの平和提言の心を読み取るべきであると存じます。「書は意を尽くさず」という事がありますから。

1283一談家:2005/01/28(金) 15:05:41

訂正です。

× >1218

○ >1281

1284祝8郎:2005/01/28(金) 15:56:54
池田さんであろうが庭野さんであろうが久保さんであろうが阿部さんであろうが、特定教団指導者の発言を考えることは良いことだと思います。
ただ、当該教団の所属しているひとが「うちのトップの発言は素晴らしいんだもんね」的に紹介するというのは、特定教団の宣伝とスレスレですから、注意が必要ですね。
池田さんや創価学会の公式発言、つまり聖教や大白などの機関誌紙・書籍で活字になっているものでもどんどん改変されてます。
これは、日蓮正宗や顕正会でも同様ですね。
その、改変について当該教団のひとは、「改訂」「進歩」「進展」などとというのですが、ほとんどの場合、なぜ「改訂」がなされたかの理由については明らかにされません。
御都合主義による「変更」は「改訂」とは言わず、「改変」「改竄」「変質」と言うべきです。
それがトップのものでなくても、当該教団の機関紙誌や書籍出版物に掲載されたものであれば、それは当該教団が認知許容によるものですから、その時点における当該教団の立場と差異が無いものということになります。
池田さんのいわゆる「提言」類は、けっして悪いものではないと思いますが、具体的な行動はこれまでほとんど見られませんね。
むかし「言うだけ番長」といわれたプロレスラーがいましたが、同轍でないことを願います。
ところで池田さんは、各国から叙勲・表彰・顕彰などされているそうですが、他の宗教者や宗教教団から評価されたことはあったのでしょうか。
宗教界から相手にされていないという事実を、創価学会のひとたちはよく考えるべきでしょう。
たんに、他宗教の「嫉妬」「偏見」「無理解」などといったレッテル貼りですますのではなく、事実はどうなのか。
ほんとうに、他宗教の「嫉妬」「偏見」「無理解」などなのか、もしそうであるならば、なぜそうなるのか。
原因をまず自分たちのなかに探って考えてみることから始めてはいがなものかと思うものです。

1285卞氏:2005/01/28(金) 16:41:08
>読まない人間は発言するな、恥をかくだけ…、

まだ言ってる。

そうじゃないでしょ。私の言っていることは。

1286犀角独歩:2005/01/28(金) 16:46:51

一談家さん:

ちょっと、仰っている意味がわからないのですが、もう少し、かみ砕いて書いていただけませんでしょうか。

わたしは「話し合いの力で平和を」という提言である、まあ、ガイダンスから仄聞したわけですが、その平和提言を進める熱心さは、読まないくせに、恥をかくだけ、といった類の、およそ、話し合いの力で平和の力とはかけ離れた対応であるというのが正直な印象です。全然、話し合いの余地などないつまり、「話し合いの力で平和を」という提言を讃めているのに、かえって、その精神は少しもくみ取れない、むしろ、殺してしまっているではないかというのが1281のわたしの投稿の趣旨です。

なにが、一檀家さんは、違うと仰っているわけですか。

1287犀角独歩:2005/01/28(金) 16:48:36

1285 卞氏さん、では、あなたはいったい、なにを言っているのですか。

1288一談家:2005/01/28(金) 17:05:54

犀角独歩さん

この提言をご紹介くださった卞氏は、提言の主、池田さんと師弟共戦の方ですから、卞氏さんは、師匠である池田さんの心を戴して当掲示板でも論戦を張っておられると私は思っています。
ですから、「話し合いの力で平和を」という池田さんの提言の心を、お弟子さん達のお姿に即して拝すれば、それが単なる美辞麗句に過ぎず、もともと、「平和提言の心」なるものは無く、無いものは殺す事すら出来ない。そう思うという意味です。

1289一談家:2005/01/28(金) 17:15:09

訂正です。敬称を抜かしてしまいました。謹んでお詫び申し上げます。

× この提言をご紹介くださった卞氏は、

○ この提言をご紹介くださった卞氏さんは、

1290犀角独歩:2005/01/28(金) 17:32:18

一談家さん、了解しました。
なかなかシニカルなご意見であると。

ただ、卞氏さんが尖らなければ、こちら側としては話し合う余地はあると思っています。
師弟共戦(話し合い? 平和? で戦?)というのであれば、その話し合いという在り方を積極的にここに開陳してくれれば、それでよいわけです。
まあ、それができないのであれば、まさに一檀家さんの仰るとおり、わたしがまた、絵に画いたもち餅といったところになります。

客観的には、学会員をここにエキジビションしている効果になっているわけで、自ら創価学会員というスタンスをコミットメントしている人は、わたしから見れば、社会に対して、というより、創価学会に対して、池田さんに対して、責任を負っているわけですから、いまのようなエクスポーズで、ほんとにいいんですか? と聞きたいというのも正直な本音です。まあ、わたしが心配するようなことでもないでしょうが。

1291通りすがり:2005/01/28(金) 20:27:56
龍の口と佐渡流罪のハメにさせたのは蓮祖ではなく良観では?

1292一談家:2005/01/28(金) 20:35:40

>龍の口と佐渡流罪のハメにさせたのは蓮祖ではなく良観では?

そういうことですね。そして、それを蓮祖は待ち望んでいた。流罪、死罪に及ぶ事によってしか、法華色読は有り得ないと考えておられたから。云わば、蓮祖の布教活動は、その中に流罪、死罪を予定していたわけです。

1293通りすがり:2005/01/28(金) 20:48:21
そんな予定調和的な読みは後世の発想ですね。あらかじめそんなことを蓮祖が読んでいた文書があるのでしたら教えてください。いずれ自分は流罪死罪に及ぶだろうという文書は聞いた事がありません。

1294無責・任:2005/01/28(金) 21:12:07
池田さんの証人喚問て確か二度話しありましたね?もし二度とも実現してたら、法華経を広めている人で世間の二度晒しものになったわけだから、日蓮に次ぐ受難?他に二度も罷免されたりしてるし。下半身スキャンダルも釈迦と同じく二度。あまつさえ破門されたり。
その都度以前よりパワフルに復活してますなー。何度致命傷受けてんでしょ。

1295通りすがり:2005/01/28(金) 21:38:31
なるほど一談家さんの発想なら証人喚問まで実現していたらそれこそ池田顕本になってしまいそうですね。

1296一談家:2005/01/28(金) 23:43:04

通りすがりさん

>あらかじめそんなことを蓮祖が読んでいた文書があるのでしたら教えてください。いずれ自分は流罪死罪に及ぶだろうという文書は聞いた事がありません。

それはそれは。有りますよ、開目抄に。引用してみますね。

「此に日蓮案じて云はく、世すでに末代に入って二百余年、辺土に生をうく。其の上下賤、其の上、貧道(びんどう)の身なり。輪回六趣(りんねろくしゅ)の間には人天の大王と生まれて、万民をなびかす事、大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず。大小乗経の外凡(げぼん)内凡の大菩薩と修しあがり、一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立て、すでに不退に入りぬべかりし時も、強盛の悪縁におとされて仏にもならず。しらず大通結縁(けちえん)の第三類の在世をもれたるか、久遠(くおん)五百の退転して今に来たるか。法華経を行ぜし程に、世間の悪縁・王難・外道の難・小乗経の難なんどは忍びし程に、権大乗・実大乗経を極めたるやうなる道綽(どうしゃく)・善導・法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ、機をあなが(強)ちに下し、理深解微(りじんげみ)と立て、未有一人得者(みういちにんとくしゃ)千中無一等とすかしゝものに、無量生が間、恒河沙(ごうがしゃ)の度(たび)すかされて権経に堕ちぬ。権経より小乗経に堕ちぬ。外道外典に堕ちぬ。結句(けっく)は悪道に堕ちけりと深く此をしれり。日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟(しゆい)するに、法華経・涅槃(ねはん)経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競(きそ)ひ起こるべしとし(知)りぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は、退転すべくば一度に思ひ止むべしと且(しばら)くやす(休)らいし程に、宝塔品の六難九易(い)これなり。我等程の小力の者、須弥山(しゅみせん)はな(投)ぐとも、我等程の無通の者、乾草(かれくさ)を負ふて劫火(ごうか)にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙(ごうじゃ)の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。今度、強盛の菩提心(ぼだいしん)ををこして退転せじと願じぬ。」

1297卞氏:2005/01/29(土) 10:27:09
今の時代日本に住んでいて、聖教新聞が入手困難な人って一体どんな人しょう?

1298愚鈍凡夫:2005/01/29(土) 10:35:27

昔、とある学会員と話した時、彼は
「池田先生は偉大な指導者として世界的に認められている。その証拠が沢山の勲章だ」
と、ぬかしました。

小生が、
「池田はんは、偉大な指導者として認められてるんとちゃう。認められてるんは池田はんの金や。池田はんの出す金が世界的に認められてるんや。綺麗な金も、汚い金も、世間に出回ったら金自体の価値に差はないからな」
とほざいたら、彼は黙って帰ってしまいました。

おそらく帰り道、彼の心中では藁人形に五寸釘が打たれていたのではないでしょうか。
(((( ;゚д゚)))アワワワワ

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1299犀角独歩:2005/01/29(土) 10:37:07

一般人は、早朝から仕事に出かけ、夜遅く返ります。
その往復で『聖教新聞』なんか、手に入るわけはありません。
キヨスク、駅の書店、公共図書館で入らないような出版物は「入手困難」というのは、当然のご意見です。
だいたい、知り合いに学会員がいても、そんな人に「『聖教新聞』を…」などと声をかけて、妙な期待や、誤解をされるリスキーなことを敢えて避けるのも、一般人。

1300一談家:2005/01/29(土) 10:40:56

>1297 今の時代日本に住んでいて、聖教新聞が入手困難な人って一体どんな人しょう?

答えは簡単です。聖教新聞は創価学会の機関紙で、コンビ二や駅の売店では売っていませんから、「聖教新聞の定期購読者以外の全ての人」が、入手困難な人だと思います。

1301通りすがり:2005/01/29(土) 11:42:18
開目抄は流罪中の文書ですね。つまり後から言っている訳ですね。
龍の口(直前を除く)以前の文書に流罪死罪を予測した文書の存在をお聞きしているのですが…。

1302卞氏:2005/01/29(土) 12:10:46
リスキー。
手に入れようと思えば、容易いことですよ。当人がリスクを避けようとしているだけであって、
入手困難な情況とはいえない。記事が見たいだけの旨を伝えればよいんだ。

コンビニや。
こちらは情況としてはそうかもしれないが、では資料としてコンビニや駅の売店に売っていないものは
全て入手困難と結論できるのだろうか?
販売店に言えば、残部もらえるとおもいますよ。

>一般人は、早朝から仕事に出かけ、夜遅く返ります。
>その往復で『聖教新聞』なんか、手に入るわけはありません。
休日が無く、コンビニや売店ぐらいしかよるところが無く、毎日仕事と寝るだけの人が、
この掲示板をたまたま見て、資料として聖教を手に入れたいと思うかどうか。
そういう人なら、困難と思えるかもしれないですね。
そういうひとは相談してくださいね。色々考えてさしあげましょう。


そうそう、談家さん。先生にはそこで直接行っとくべきだったね。
「何故言い訳なんかばかりするのですか!?みっともないじゃないですか!」ってね。
歴史に若しは無いけれど、そうすれば、今ごろは貴方が学会の中心で時代をリードしていたかもしれない。

1303卞氏:2005/01/29(土) 12:29:31
あちらでは、議論形式が身についている人ばかりなせいか、普通に質問ができそうもないので、こちらでつぶやきがてら、
問いかけをしておきましょう。答えられる人で構いません。談家さんは如何でしょう?
「対話をすることが大事」との観点から中東問題に絞ったお話です。どちらでもよいです。

『宗教団体の長が、イラクやイランの要人と会見する場合、
どのような点に留意したらよいと思いますか?』

『宗教団体の長が、イラクやイランの要人と会見する場合、
どういった方法で会見を実現するとよいと思いますか?』

どこが、下らない質問なのか良く分かりませんが、決して世界に目を向けようという
スレの趣旨を逸脱した質問じゃない。「貴方はどう思うのか?」という単純な質問ですし、
中東情勢などに詳しい人がいらっしゃったら、お願いしたいですね。
また別の観点から、こちらに来られている仏法者の方々のご意見も拝聴したいですね。

1304卞氏:2005/01/29(土) 12:31:18
あ、それから、全文の転載を検討していましたが、当面保留します。

なんだかルール違反の疑義が懸かっているようなので。

1305愚鈍凡夫:2005/01/29(土) 15:05:18

実弾(札束)抱えて訪問すれば、中東の要人も喜んで逢ってくれるでしょう。
それから、神崎さんのように防弾チョッキに身を包みイギリス軍の護衛の下、サマワは戦闘地域ではなかったなんて言うと、学会員には受けるかも・・・・・。 (-。-;)

1306一談家:2005/01/29(土) 15:54:05

>1301 通りすがりさん

勿論ありますよ

『金吾殿御返事』   文永六年一一月二八日  四八歳
 大師講(だいしこう)に鵞目(がもく)五連給(た)び候ひ了(おわ)んぬ。此の大師講三・四年に始めて候が、今年は第一にて候ひつるに候。
 抑(そもそも)此の法門の事、勘文の有無に依りて弘まるべきか、弘まらざるか。去年方々に申して候ひしかども、いなせ(否応)の返事候はず候。今年十一月の比(ころ)、方々へ申して候へば、少々返事あるかたも候。をほかた(大方)人の心もやわらぎて、さもやとをぼしたりげに候。又上のげざん(見参)にも入りて候やらむ。これほどの僻事(ひがごと)申して候へば、流死の二罪の内は一定と存ぜしが、いまゝでなにと申す事も候はぬは不思議とをぼ(覚)へ候。いたれる道理にて候やらむ。又自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)の経文も値(あ)ふべきにて候やらむ。山門なんどもいにしえにも百千万億倍すぎて動揺とうけ給はり候。それならず子細ども候やらん。震旦(しんだん)・高麗(こうらい)すでに禅門・念仏になりて、守護の善神の去るかの間、彼の蒙古に従(したが)ひ候ひぬ。我が朝又此の邪法弘まりて、天台法華宗を忽諸(こつしょ)のゆへに山門安穏ならず、師檀違叛の国と成り候ひぬれば、十が八・九はいかんがとみへ候。
 人身すでにうけぬ。邪師又まぬかれぬ。法華経のゆへに流罪に及びぬ。今死罪に行なはれぬこそ本意ならず候へ。あわれさる事の出来し候へかしとこそはげみ候ひて、方々に強言(ごうげん)をかきて挙げを(置)き候なり。すでに年五十に及びぬ。余命いくばくならず。
 いたずらに曠野(こうや)にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をお(追)ひ、仙予(せんよ)・有徳(うとく)の名を後代に留めて、法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり。南無妙法蓮華経。
十一月二十八日               日蓮花押
御返事

1307吉祥仙人:2005/01/29(土) 16:42:48
 誰に言うでもないツブヤキ 根性無しの壮年部の独り言

 私も過去に何度も陥りかけましたが、

 創価学会員は「学会正義が傷つけられた」と思うと、感情的に議論する傾向があります。
それが多くの方から「独善的」と受け取られるのでしょう。
 「学会正義の旗を高く掲げ」の心意気は信心をつらぬく上で必要です。しかし自己の
正義のみ声高に主張しても「顰蹙」を買うでしょう。
 
 「顔貌(かおばえ)に色を調えて閑(しずか)に言上すべし」と言う御書があった
ように思います。

 「われらは柔らかに法華経をひろむべし」と逃げては、大聖人からお叱りを受ける
ことになりますが。

 この辺がムズカシイですね

1308通りすがり:2005/01/29(土) 17:00:18
干支と年号が無いですね。


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