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(続) 大石寺の歴史
75
:
志楽
:2002/05/03(金) 09:56
14.25世代、33世代には宗旨建立の御報恩日及び立宗報恩御講が行われていた記録もあるとのこと。日道上人もはたまた日興上人も3月、4月の宗旨建立がおわかりであったと文面から推察されますが、ではなぜ往時において二つの行事が行われていたのか、いないのか、そのあたりも御発言があってしかるべきではないかと思います。いかがでしょうか。
15.これはやや観点が異なりますが、59世日亨上人の年表にはこの記述がないのはどうでしょうか。確かに富士年表には内証宣旨が記載されていますが、これはのちに作成されたものですね。過ちをはばかるなかれと言いますからその点はよいとしても日亨上人は富士宗学全集百何十巻を編纂された方ですのでこのあたりの事情はおわかりになっていたと思うのですが。わたしは3月28日説をやみくもに荒唐無稽だとは必ずしも思いません。しかしこれは一宗門の問題ですむ事柄ではありませんので、主張されるのであれば少なくとも「三四会合抄」を天下に公表することが良心的ではないかと思います。そして3月28日説がなぜ発生したのか、また推測ではなくどこでなされたのか等についても考証を十分にいたされてほしいと思います。
16.真偽は定かではありませんが、ある説では立教開示は清澄寺山上ではなく、山をおりた里坊で里人をまねいて行われたのではないかとみる考えもある由です。また、持仏堂についても領家の持仏坊であり里にあったという考えもあるようです。当時清澄寺は女人禁制ではないでしょうか。これはわかりませんがかりに女人禁制であれば、父母のうち母、あるいは領家の尼などのかたがたは説法の席につらなることはできたでしょうか(このへんはよ
くわかりません)。また、南面にして説法されたとありますが、なぜ正面ではなかつたのでしょうか。
17.正宗では3月、4月二説を言いますが、日蓮宗他門流ではこのあたりはどうなのでしょうか。このような伝承は正宗だけが知っているはずはないはずです。当時のお弟子方等は少なからず蓮祖からお話を聞いていたはずであり、正宗に残っているのですからいわんや他門流でも残っているはずです。
以上愚見・偏見をかえりみず書きましたが是非とも正宗のみならず批正していただければと思います。まちがいがあればすみやかに訂正いたします。
76
:
独歩
:2002/05/04(土) 08:42
70〜75 志楽さん:
整理されたご指摘、なかなか読み応えがありました。
> 「三四会合抄」を天下に公表することが良心的
まったく同感です。
> 南面にして説法されたとありますが、なぜ正面ではなかつたのでしょうか
日本では古来から“天子南面”であるからではないでしょうか。いわゆる南面が正面ということになると私は考えていました。。平安京などもそのようになっています。
http://www.kyoto.isp.ntt-west.co.jp/wnn/rekishi/shijin/heian.html
石山も曼荼羅の安置は五重宝塔を除いてすべて南面になっているのは、その建造が風水の四神相応を意識し、なにより聖人の南面説法を意識したからでしょう。
当然、御影像(日蓮)は永遠に南面し続けることになっているわけでしょうね。
> 批正していただければと思います。まちがいがあればすみやかに訂正
このような姿勢がどんどん境地を高めるものであると思います。自らの考えを道理・証文によって改めてどんどん前へ上へと進んでいく、気持ちのよい学的な姿勢であると敬服します。
77
:
川蝉
:2002/05/10(金) 15:13
70 志楽 さん:
>「三四会合抄」を是非公表していただきたいと思います。
>また、どなたかこの点についておわかりであれば教えて下さい。
興風談所から平成十年に興風叢書として非売品三百部が出されています。
上巻に、開宗月日についての御書、各門流の古伝を引き終わって、<「私に云、精師は正しく諌暁八幡抄に依る故に爾か云うなり。然るに三月二十八日の御書等一文に非らず。具に上に挙る所の如し。
又御義口伝・安国論の御注、皆是大聖人の御説法、興師の御執筆、六老僧等の見聞する所なり。
又日道上人・日時上人御伝記等をは御失念有るかの故に会合無きなり。日因之を案ずるに、六老僧等の直聞の方々は多く三月二十八日を取るなり。故に鎌倉方・京都・池上・平賀等の寺々皆三月二十八日に依るなり。京都・西国・江戸等には多く四月二十八日に依るなり。もし会合せすんば御両筆一は虚妄なるべし云々。
第三に正しく三四の会合を明かさば、
一には啓蒙三十に諸文を引いて云、註画讃抄に三月閏月あるを以て三月四月の異説和合するは非なり。東鑑を以て考るに三月は閏月之無し。又愚案記三(六十二)一両所御自筆に四月二十八日、又建長五年夏の頃と遊ばされる事もあり、註画讃に云、三或は四に作る云々。註の意は或いは四に作するを正義と為ると見へたり云々。
二には、精師御年譜の上に或抄を引いて云く、一部通惣の妙法の題額を以て所行として神力の塔中付属の要法の妙法五字の首題、三七日道場に入て豁然として大悟し玉う云々。又宗要抄云、一七日入堂。此の二文は録内に文無し云々。
三には、日因私案して曰く、・・凡そ末法弘通の題目に二種有り。所謂る内証外用、方便真実なり。
第一に内証真実の題目とは法華経の本門寿量品の文底下種の三大秘法の南無妙法蓮華経是なり。
第二に外用方便の題目は法華経一部八巻二十八品の肝心如是我聞の上の妙法蓮華経是なり。此を亦は法華経一部通惣の題目とも云うなり。又は迹仏所説の妙法なるが故に迹門の題目とも云うなり。
然るに今末法の大導師日蓮聖人の本意は則ち是れ内証真実寿量品の文底下種の南無妙法蓮華経なり。・・故に大聖思惟して建長五年三月二十八日子丑の終わり寅の砌りに朝日に向かって南無妙法蓮華経と唱へ内証真実久遠名字の最初妙覚の成道を示現したまう。
しかして後に道善坊の持仏堂の南面にして午の刻に始めて南無妙法蓮華経と唱え、浄円房並びに少々の大集の為に法華経本迹二門の大事を説きたまう。・・然るに浄円房並びに少々大衆は即法華経の本迹二門深義を得悟すと云へども、而も道善房・円智房・実成房・東条左衛門景信等の謗法逆悪の大衆旦那方は惑耳驚心して一向に之を信受せず、還って大悪心を起こして問註を作す。故に三月二十八日の御説法は只一日にして相止みぬ。
此に於いて蓮祖大慈大悲の心願を起こし思惟分別すること四七日、即ち四月二十八日に至って亦始めて外用方便の題目法華経一部八巻二十八品の惣要如是我聞の上の妙法蓮華経を唱へ諸仏房の持仏堂の南面にして午の時に法華経を以て禅・念仏等の諸宗謗法の逆罪之科を折伏したまう。・・故に浄顕房・義浄房等は之を信受すと云へども、その余の大衆旦方は弥々悪心強盛にして道善房は座を立ち走り去り、円智・実成等は悪口誹謗するかの故に地頭東条左衛門敵と為て蓮祖を襲ひ奉る。・・故に知んぬ三月二十八日は是始めて御内証真実の南無妙法蓮華経を唱え出し、午の刻の御説法には権実本迹の法門を以て禅・念仏・真言・天台の慈覚・弘法等を破責したまうなり。
四月二十八日には是始めて外用方便の南無妙法蓮華経を唱えて別して念仏の逆罪を破責し惣じては則ち禅・真言等の諸宗の謬を折伏したまうなり。・・・故に知んぬ三月・四月両度宗旨建立の御書判不同なり。」>
等と上巻に論じています。
まずは要所の紹介まで。
78
:
川蝉
:2002/05/10(金) 15:14
70 志楽 さん:
>3.「昭和定本日蓮聖人遺文」では、「大白牛車書」「清澄寺大
>衆中」の2書を改変する、と発言されていますが、この点は事実
>なのでしょうか。
「大白牛車書」は真蹟無です。刊本録外に三月とあったとすれば、幕末の小川泰堂居士が四月に変えたものでしょう。
(小川泰堂居士自筆の「高祖遺文録」最後の定本の原稿に依っている「類纂高祖遺文録」に、四月になっていますから。)
「清澄寺大衆中」も平賀本は三月となっているとの事ですが、「類纂高祖遺文録」には、四月(二を縦に重ねた四)になっています。「清澄寺大衆中」は身延曾存ですから、小川泰堂居士は真蹟と対照して、四月に改めたのでしょう。
昭和定本は、小川泰堂居士の「高祖遺文録」を底本とした「霊艮閣日蓮聖人遺文」を底本としているので、同じく四月としているのでしょう。
79
:
いちりん
:2002/05/10(金) 19:04
三月か四月かはともあれ、日蓮さんは、どうして二十八日に、立教開宗したのでしょうかね。
たとえば、五字七字の南無妙法蓮華経であれば、五月七日とか、七月五日とか。
二十八日というのは、一般的には、不動明王の縁日ですよね。
清澄寺には、お不動さんでも祀ってあって、その縁日に、地元の人が訪れるようになっていた。
そのことに合わせて、説法したとか。そんなことは、ないっすよね。
しかし、どうして二十八という日にしたのか、なにか日蓮さんは書いていますでしょうか?
80
:
菊水護国
:2002/05/11(土) 09:13
ほんとうの事は置いておきます。全く私の考えです。
28日というのは、昔の暦では最終の日ですね。
すなわち28日は、翌日に新しい月が来る前の日ですね。
たとえば、丑虎は夕の終わりでもある訳ですね。
28日には「にぜん経」の終わりを意味し、「法華経をこれからひろめる」意志があるように思います。
すいません。全くまとまりがありませんが、28日が昔の月末であった事に意味を感じます。
81
:
いちりん
:2002/05/12(日) 23:26
あれれ?
月の満ち欠けの周期ではかるから、旧暦には、二十九日も三十日もありますが。
日蓮さんの御遺文には、二十九日や三十日に書かれたものがたくさんあります。
さすがに三十一日は、存在しませんが。
82
:
菊水護国
:2002/05/13(月) 16:54
そうですね。
変な想像から月の満ち欠けは、28日と勝手に思ってしまった。
根拠は下品なので御想像にお任せします。
83
:
独歩
:2002/05/13(月) 17:02
> 82
いいなあ。こういう潔く訂正する姿勢。尊敬しますよ、私は。
84
:
ななし
:2002/06/01(土) 08:30
>>79-82
こんなのありますた。
ttp://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents40.html
86
:
菊水護国
:2002/06/05(水) 14:38
> 84
そこのホームページ見ましたが、バックが赤くて読みにくい。
目がチカチカするよ。管理人は直して欲しい。
87
:
ノンセクト
:2002/07/05(金) 14:27
ちょっとしたニュース
正信会内部でもこんなことが・・・・
「正信覚醒を取り戻せ」
http://isweb43.infoseek.co.jp/novel/syousin/index.htm
「正信会所属寺院内掲示板での内紛」
http://www.tt.rim.or.jp/~kodama/gyohoji/mii.cgi
みなさんのご意見は?
88
:
犀角独歩
:2002/07/05(金) 16:20
内部紛争が顕在化するのはけっこうなことでしょう。ある程度の人が集まってくれば、違う意見が出てくるのも当然、異轍を論じたら破門して固めるほうが、かえって独裁主義的で不健全でしょうね。
正信会の坂井師、…いまでも宗会議長でしょうか、なかなかの人物ですね。
私は本年初頭に始めてあって、「いい坊さんだな」と思いました。
「まあ、うちもいろいろあるし、いろいろな考えの人が集まっています」と言っていました。「正信会には二箇相承真筆派、偽作派の両方がいます」と言っていました。当然、これでよいわけです。真筆がなければ、一つのグループでいくつもの意見があっていいわけですから。
日蓮聖人の世界展、御書検索システム、まじめな学究を感じられて、これらの点は私は高く評価しています。
89
:
五月雨
:2002/07/19(金) 12:44
過去ログを読ませて頂きました。戒壇の大御本尊様は楠の半丸太に彫られていて、重さが200キロ近くあるということですが、昔、下之坊に行った時に義足の僧侶のお話を聞きました。日興上人様が身延山を出られた時に、戒壇の大御本尊様を背負ってこられ(ご自身なのか弟子だったかは忘れました。)南條邸に到着されて、戒壇の大御本尊様をこの地に下ろす時、背中に括りつけていた蔦(だったと思います)を置いた所から、蔦の芽が生えてきてそれが立派に成長し、近年になってその僧侶が他の場所に、移植した折に破傷風に罹り両足切断をしたそうです。「足が無くなるという事は、御本尊様のご命令でここから動く事なく、お寺を守れと言われているのだろう」とお話されていました。そのお話から想像するに200キロもある重たい物を背負うなんて事ができるのかしらと不審に思います。
それとも、私の記憶違いでしょうか。下之坊で同じ話を聞かれた方はいませんか。正しいお話の内容を教えて下さい。又、このお話は何を意味するのでしょう。
90
:
犀角独歩
:2002/07/19(金) 13:04
> 戒壇の大御本尊様…背中に括りつけていた蔦の芽が生えてきてそれが立派に成長…
お弟子の一人、百貫房仙師が身延から背負ってきたという伝説から派生した物語ですね。以前は美談として、石山創建物語には必ずや語られていたことでしたが、いつの間にか公式の出版物から、その記載は姿を消してしまいました。
仰るとおり、200㎏もあろうかという戒壇之本尊を背負ってくるのは無理だとわかり、話をひそめてしまったのでしょうね。
91
:
五月雨
:2002/07/19(金) 15:31
詳しい解説を有難うございます。私の記憶は大体あっているという事でしょうか。印象深いのは名調子で事実の如くお話されていたことです。伝説だとは思いませんでした。少しの間違いもなく少しの嘘も無い、100%正直で正しい“日蓮正宗”にこんなお粗末な伝説話があったとは。勉強になりました。
92
:
犀角独歩
:2002/07/19(金) 17:30
> 名調子で事実の如くお話されていた…
以前も記しましたが確信ある言葉というのはたいがい嘘だ、というのが私の経験則です。
「講談師、見てきたような嘘を言う」なんて格言を引いても「講談師てなに?」と言われそうですが、こういう言葉もあるくらいですから。
93
:
現時点
:2002/07/20(土) 12:15
板御本尊が聖人であるという考え
言われてみればこんなあたりまえのおかしな話になんで長くだまされていたのかと
救われたい、助けてほしいという弱い心、依存した心が生む悲劇なんだと
宗教はその意味で非常にこわいと
そしてよくわかりもしないまま、あるいは原典にもあたらないまま人にすすめることは
いけないことだと
仏教がそんなにたやすくわかるものではないと
シャキャムニの教えは何かと
そこを探求することが大事だと現時点で思います
それは自分で求めていくしかないと
94
:
犀角独歩
:2002/07/28(日) 11:51
ワラシナさん:
問答名人さん:
過去ログで禅師授与曼荼羅、石北両山にある話題の時、ユーモアを交えて、ワラシナさんは以下のように指摘されました。
…大聖人様もお忙しい中よく二つも書いてくださいました。
だけど、ここで思い出されたのが、かって「徳明」氏に教えられた真跡紙幅本尊の
クローン複製法?です。和紙の表層をうまくはがせば、そっくりコピーさんがもう
一丁できあがる、というあの話です。
のり弁当ののりをはがせば、醤油に染みたおかかは均等ではない。しょうゆにしみ
だご飯と染みない白いご飯の部分が混ざった感じになっている。
表層一枚をはがして下に残った本尊の表面は、墨の汁が表層のやつほど濃くはない
だろう。こういうことがあるんじゃないかな、と考えています。
(大石寺の歴史 158
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/rekisi.htm
)
この方法を、『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
既読であろうかと思いますが、取りあえず、転載します。
剥離表層(これは主として御本尊に見られるものと云われる)、剥離すると本体と影本という両本が出来るが何れも偽物ではない。本体と影本と並べて見ると容易に判別できるが、殆ど所蔵が離れているので一箇処に並べてみることが出来ない(P14)
ロムの方々に少し説明を付せば、川辺メモで問題になった禅師授与曼荼羅は石山にあることになっているのに、実は北山にもあるという指摘をワラシナさんがしてくださった。
なぜ、二体あるのかを説明されたのが、上記のワラシナさんの投稿でした。
和紙が厚みがあるので、うまくすると表層をうまく剥がせ、2枚にすることができる、剥がしても墨は裏のほうまで染みているので、表層を取られても、墨痕・文字はしっかりと残る、そのために真筆の曼荼羅を二体(本体・影本)に分けられる。この方法を使って、二体に分けた禅師曼荼羅が石北両山にあるのではないのかという話です。
95
:
宮本
:2002/07/28(日) 12:29
独歩さんへ:
横レスごめんなさい。
これに関連してですが、たしか、以前、閉鎖になった
置時計さんのサイトで、
板御本尊の製作方法の二方法ってことで、どなたかの発言で見た
記憶があります。
板に御本尊様を書いた紙を貼り付け、彫る(謹刻)とかありました。
その時、張った紙の上側をはがす方法もあるとありました。
(ワラシナさんの発言だったかな)
紙幅本尊でもあったんですね。知らなかったです。
96
:
犀角独歩
:2002/07/28(日) 13:10
宮本さん:
> 板御本尊の製作方法の二方法
制作方法のことですか。板と紙幅のことでしょうか。
これは、近年になってから言われるようになったことと、古くから言われることと二つあるんですね。
近年では、久保川師当たりが、実は戒壇の本尊には紙幅の本体があると言い出したそうですが、この点は私は余り詳しくありません。また、創価学会では『日寛上人の御本尊下付の正義の証明』か『日顕宗の邪義を破す』のどちらかで
例えば、戒壇の大御本尊は、大聖人が弟子の日法に謹刻させたもので、大聖人の直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されています。
と記したわけです。それに対して石山側は
「直筆である紙幅の御本尊は、現在御宝蔵に保管されてる」と言っていますが、大石寺の御宝蔵はもちろんのこと、この世のいずこを探しても、彼等の言う「紙幅の戒壇の大御本尊」なるものは存在しません。このような前代未聞の珍説がどこから生まれたのか判りませんが、これも創価学会お得意の、ないものをあったが如く偽る、悪しき体質の一例です。
と反論しています。
古くは法師門の流れで戒壇の本尊は板に貼って彫ったから鉋屑はこちらにある、日蓮が魂は墨に染め流したのだから、戒壇の本尊の魂はこちらにあるという主張があったと読みました。
しかし、石山側のアナウンスでは、聖人は板に直接記し、それを彫ったというのが公式見解ですね。ただ、置時計さんの話では享師は暗黙に紙幅戒壇曼荼羅の存在を語っていたといいます。私は論拠を見ないので、この点は、なんとも決し得ません。
97
:
宮本
:2002/07/28(日) 14:29
独歩さん:
享師が、おっしゃたのでしたら、本当なのかもしれませんね。
ただ、楠木の板で、裏側は半丸太、今と違い表面を高精度の水平で
鉋(初期だとちょうなでしょうか)で削ることは、難しいでしょうから、
製作過程で紙幅のものを貼って,いったん上側をはがし、一方を保存し、
後、謹刻、後は、金箔、漆の重ね塗りってことかもしれしれません。
おそらく、何回か、てなおししているでしょうから、その都度、
保存状態を考えて、いろいろとやったのかもしれませんね。
98
:
ワラシナ
:2002/07/28(日) 15:38
no94の独歩さんへ
>『日蓮正宗史の研究』で山口師が記しているのを副次的に見つけました。
との事ですが、完全に読み落としていました。ご指摘ありがとうございます。
99
:
問答迷人
:2002/07/28(日) 21:44
犀角独歩さん
ワラシナさん
94について
やっぱり、そうなんですね。これで、やっと胸の支えがすっとしました(笑)。ありがとうございました。
大石寺の日禅授与本尊に、何時の時点で剥離コピーが実施されたかは、はっきりとはしませんが、大石寺の日禅授与本尊は、「本門寺に掛け奉るべし」と認められて、それが削除された跡がある、という日亨上人の言葉によれば、少なくとも、北山において、戒檀本尊としての意義付けが為されて以降という事ですから、日興上人が無くなられて以降の北山において、と言う事になるでしょうか。そして、そのコピーを元にして、大石寺戒壇板本尊が作られたとする、川辺メモの記述を採用すると、年代幅としては、1333年以降、1482年までの約150年間と言う事になりますね。
100
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 11:33
宮本さん:
> 享師が、おっしゃたのでしたら、本当なのかもしれませんね。
これはあくまで未確認情報ですから、本当とは言えませんね。
ただ、学会がなんで戒壇紙幅曼荼羅があるなどと言い出したかは、実に謎です。
> ただ、楠木の板で、裏側は半丸太、今と違い表面を高精度の水平で
> 鉋(初期だとちょうなでしょうか)で削ることは、難しいでしょう
みんな、そのように思ってしまうんですね。
私はこの鉋を使って大材を削るところを見たことがありますが、それこそ紙よりも薄い鉋屑が切れることもなく空に舞う見事な切れ味でした。
第一、聖徳太子の時代から日本は世界に誇る木造建築を造る技術があったのです。それが目で見てわかるほどごつごつにしか削れていないなどということはないでしょう。
また、仮に板曼荼羅が鎌倉期のものであっても、上に漆を塗り重ねれば、下地も整えるわけですから均一の平板にすることは難しいことでないはずです。
正面は以上のようなことで、論じられてきている鉋については、この正面ではなく、半丸太側の切削についてのことであろうと私は判断しています。
> 製作過程で紙幅のものを貼って,いったん上側をはがし、一方を保存し、
> 後、謹刻、後は、金箔、漆の重ね塗りってことかもしれしれません。
この想像は実際の制作とは全く違うでしょうね。
紙幅を板に改めるとき、紙幅の曼荼羅の上に薄く透けた浸透度のない和紙を起き、筆で輪郭を取って彫刻用の下書きを造るのでしょう。その下書きを板に貼り、彫るのです。
それに板に改めたものはあくまで第二転なのであって、いわば影本です。ですから、正本である紙幅曼荼羅が保存されていたのであれば、間違いなく虫払その他の保存は心がけられるでしょうし、なにより、正本に読経唱題供養をなさないなどということは、考えられないのです。
これはしかし、印刷曼荼羅と写真製版で造られた複製でしか、曼荼羅を制作できない創価学会に感覚的に理解できないかもしれません。もちろん、宮本さんが、ということではありません。
> おそらく、何回か、てなおししているでしょうから、その都度、
> 保存状態を考えて、いろいろとやったのかもしれませんね。
近年では正本堂へ遷座するとき、赤沢朝陽がお色直し(修繕)を行ったことは周知の事実です。
その際、聖教新聞社のHカメラマンが詳細に撮影したとのことでした。
実際の話かどうかわかりませんが、離間後、八王子牧口記念館に入れる曼荼羅は、この写真を元に戒壇之曼荼羅のレプリカを入れる計画があったとのことですが、会員の動揺を考慮して取りやめになったと聞いています。
余談ですが、牧口展、戸田展などで展示される学会重宝なるものも、そのほとんどがレプリカだそうです。
もっとも会員に配られる池田氏の直筆と云われる色紙も、その創作グループがあって書いているとのことですし、執筆も大作ならぬ、代作。
話はずれてしまいますが、このような体質の創価学会がいう「紙幅の戒壇の本尊」という話の信憑性は薄弱であると思うわけです。
101
:
犀角独歩
:2002/07/29(月) 19:57
問答名人さん:
板曼荼羅、創作はいつであったのか。以前も話題になったことですが、興師寂から有師寂までの150年のうち、どこら辺のことであるとお考えになりますか。
103
:
問答迷人
:2002/07/30(火) 14:27
犀角独歩さん こんにちは
大変難しい御質問ですね。
以前調べた宗学要集からは、日有上人の晩年には、大石寺戒壇板本尊の存在がほぼ、確認でき、それ以前には大石寺戒壇板本尊について述べた文献がありません。
また、北山の日浄記が、大石寺戒壇板本尊を日有上人が制作したことを示唆しています。
このふたつの事から、制作は日有上人の在座期間、1419年から1482年までの63年間と僕は考えています。
年代をさらに絞りこむには、資料が不足しています。
104
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 17:03
103 問答名人さん:
やはり、この辺りでしょうか。
資料の絶対的な不足は否めませんね。もっとも「これこそは、日蓮聖人直筆の大曼荼羅なり」と偽物を、本物のように示そうとするのに証拠を残しているはずもありませんが。
そうなると、結局、どこから固有名詞が出るかで見極めていく問答名人さんの方法論は当然のことと思います。
> 日有上人の晩年には、大石寺戒壇板本尊の存在がほぼ、確認でき…
これは何を指していらっしゃるのでしょうか。
105
:
問答迷人
:2002/07/30(火) 18:23
1484年の穆作抄(富士宗学要宗第二巻)に次の様にあります。
末法応時の大曼荼羅顕れて仏滅後二千二百二十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅の御本尊の後何ぞ造り書く可けんや(284頁)
例の左京阿日教師の記述です。ここで、『仏滅後二千二百二十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅の御本尊の後何ぞ造り書く可けんや』と書かれているのは、「大石寺戒壇板本尊をさしていると思われます。
106
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 19:04
105 問答名人さん:
なるほど、こんな教師の言葉があったのでしたっけ。
これは、たしかに重須文書に見られるような「二千二百三十余年」ではなく、「二十余年」を言う点でも注意が引かれますね。
ところで、以前も記したことなのですが、私は、有師というのは「当宗の本尊の事 日蓮聖人に限り奉るべし」などということから、どうも戒壇之曼荼羅(本尊)に力点が入っているように思えないのです。それに対して、教師は積極的に見えます。
たとえば、上述の文を挙げる教師とその周辺でこそ、戒壇之曼荼羅が造立された可能性は考えられないものでしょうか。
107
:
問答迷人
:2002/07/30(火) 19:32
犀角独歩さん
>上述の文を挙げる教師とその周辺でこそ、戒壇之曼荼羅が造立された可能性
教師は、後に、大石寺を去っていますね。そして、最終的に北山本門寺の僧となったのではなかったでしょうか。もし、教師が造立したのなら、大石寺に戒壇板本尊が現存する説明が難しいし、日浄師は、教師から、戒壇板本尊造立の顛末を聞いていたと思うのです。そうすると、日浄記の日有造立説は出て来ないのではないでしょうか。
ちなみに、日浄師の没年は1493年、日教師の没年は1489年以降。僕は、逆に、この二人の間で、大石寺戒壇板本尊が議論され、日浄記が書かれたのではないかと推理しています。年代的、内容的に、可能性が高いと思っています。もし、そうであれば、日浄記の信憑性はさらに増すと思います。
108
:
犀角独歩
:2002/07/30(火) 21:20
問答名人さん:
> 日浄師…日教師…この二人の間で、大石寺戒壇板本尊が議論され、日浄記が書かれた…
この推測は面白いですね。
教師は、有師の弟子などといわれますが、実際は指定などという関係にあったように思えませんね。教師が有師を慕ってきたのに、あまり相手にしなかったみたいな印象を私は懐いているんですが、それで、北山に赴く、浄師と接触ですか。
いやあ、こんな歴史的なドラマがあったとしたら…、なかなか現実味のある推理ですね。
109
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 00:09
問答名人さん:
先のも議論したことですが、興師の葬送録は、なんで西山にあるのでしたっけ?
110
:
問答迷人
:2002/08/01(木) 12:10
犀角独歩さん
まず、前提として、大事な事は、御遷化記録は日興上人の晩年に、重須から盗まれて行方知れずになってしまったことです。そして、それが西山本門寺に現存しているという不思議です。
オフ会における、置時計さんのお話として、「保田妙本寺が重宝を売りに出したことがあって、その時、西山が購入したのではないか。」という事であったと思います。
保田に御遷化記録があった可能性を考えるのは、重須の御影堂に押し入って御遷化記録等を奪った盗人の張本人は、実は、大石寺関係者ではなかったか、という推測に基づくものです。
日郷師は、万年救護本尊と共に御遷化記録も手に入れていて、保田に持ち出したと考えると、辻褄があう訳です。
111
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 12:27
問答名人さん:
あ、そのようなお話の流れでしたか。
あの時のお話は面白かったですね。興師・目師不仲説まで出ていました。
郷師経由で西山に、ですか。なるほど。
有り難うございました。
112
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 13:01
重ねて問答名人さん:
戒壇之曼荼羅というのは達師の説法で「半丸太である」ということでした。
ところが一般的には「板曼荼羅」と、こう称されるわけですね。
精師の頃までは御影堂に安置され、特に内拝なんていう方法は採られていなかったという達師説法もあったわけで、まあ、そうなのであろうと私も思っています。そうなると、御影堂で拝された方は正面から見て「おや、板に刻まれているんだ」とびっくりして帰る、それが伝聞されて、「板だ」と言うことで板曼荼羅と他山が言うようになったとこんな流れなのかと思っていました。
ただ、この類推は一つ何点が宝冊の什宝の記載です。
一、本門戒壇の板大漫茶羅 一幅
…末代不朽の為に楠の板に書く厚さ二寸二分竪四尺七寸五分横二
尺一寸五分なり
量師によるとされるこの記述は、まず板に直接書いたこと、その厚さが「二寸二分」であることが明記されています。量師は石山48世ですから、当然、戒壇之曼荼羅を元に、こう記述したと思うのです。
まあ、確かに宝冊をして亨師は注して「量師の正本を見ず…此書は先師も曽て怪奇の書と貶せられた」という本で、その資料性は如何ばかりか疑うところもあるのですが、やはり、一般的には「厚さ二寸二分」の楠板と理解されています。
しかし、実際は半丸太であるという、この食い違いは、どのようなところから来ていると思われますか。
113
:
問答迷人
:2002/08/01(木) 16:20
犀角独歩さん
>しかし、実際は半丸太であるという、この食い違いは
推測ですが、実際は半丸太なんだけれども、前面部分は、板に見えるよう、加工されているのではないでしょうか。その一部分板になっている部分の厚さが二寸二分あるのではないでしょうか。写真で見る限りでは、四隅は面取りしてあり、板の様に見えます。
114
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 16:28
また、打ち間違えてしまいました。
> 112
誤)ただ、この類推は一つ何点が宝冊の什宝の記載です
正)ただ、この類推は一つ難点が宝冊の什宝の記載です
115
:
犀角独歩
:2002/08/01(木) 16:33
問答名人さん:
> 113
うーん。そうですか。
たとえば、板と半丸太の二体ある可能性はどうでしょうか。
あと、最近、一番前で内拝したから、「なんな薄い厨子で半丸太が収まるんでしょうか」という問いをいただいたのですが、なにせ最近、内拝などしていませんので、答えに窮しました。この点も何かご存じところがございましたら、ご教示ください。
116
:
五月雨
:2002/09/08(日) 22:12
今日ご開扉を受けながら、戒壇本尊を初めてまじまじと観察しました。見るからにお寺と同じような板本尊に見えましたが、半丸太だとすると、どのように納まっているのでしょう。もの凄く
不思議です。
117
:
犀角独歩
:2002/09/11(水) 07:33
以前、どなたかに私の記している内容は美濃周人さんと類似しているという指摘を受けておりました。そんなこともあって、この度、篤志の方が、私にその美濃さんの『日蓮正宗創価学会 謎の大暗黒史』を下さりました。
一瞥して、「この人と私が同意見!?」と、がっかり。
扱っている資料、提示した資料に重複はあるけれど、これはかなり違うという印象でした。
違っているところは、多々ありますが、一番の違いは美濃さんは二箇相承を大石寺文書のように扱っているけれど、私は二箇相承は北山文書であると思っている点。また百六箇抄についても同様で、私はこれを要山資料と思っています。
あと、この本を一瞥して思ったのは美濃さんという方は、たとえば富士宗学要集をすべて読み尽くし、その中から歴史を読みとったのであろうか?という疑問が残りました。自分で読んで出した結論と言うより、石山批判として、既に切り出されている資料・解説をわかりやすい言葉で書きまとめたのが、この本ではないのかと思った次第。まあ、外れていたら、美濃さんごめんなさい…会ったこともありませんけれど(笑)
実際、文中はジョージ左京氏と安永弁哲師の孫引きが大半を占めていました。
余談ですが、安永師の石山歴代管長批判の文章は『大石寺の正体』から引用していたけれど、初出は、むしろ『板本尊偽作論』のほうが先ではないのかと私は思います。また、この批判に対しては達師が精道師の名乗りの頃、宗務院として、この批判に答えているわけで、この点を何ら紹介しないで、悪口をそのまま、記すというのはどうかと思いました。
殊に恭師の葬式は焼けこげた腸(はらわた)だけみたいな悪口を鵜呑みにして、そのまま紹介する点は、私は「人間の善意を記す」本としては甚だ不可であるとも思いました。
しかし、美濃さんの記すことと、私が言うこと、そんなに似ていますか、突き当たった資料から考えて、やや類似した点がある程度ではないでしょうか。根本的な歴史の読み、教義の読み方がまるで違っています。第一、私は人の本を簡単に解説して、一冊本を書いてしまおうなんて乱暴なことはしませんよ。また、人のまとめた本を読んで、さも自分で考えたような素振りなんかしません。
いただいた本を読み、違いを確認できました。有り難うございました。
118
:
犀角独歩
:2002/09/11(水) 08:10
↑ 読み直すと、本をくださった方に文句を言っているようにも摂られかねないへたくそな文書。もちろん、まったく逆で本をくださった方には感謝。私と美濃さんの類似性を言う方は、どうか再考いただければ有り難いという意味です。ご判読いただければ、と思います。
119
:
いちりん
:2002/09/11(水) 10:07
美濃さんの本は「日蓮正宗・創価学会50の謎」(三一書房)というのを一冊だけ読みました。
とてもわかりやすくて、わたしには手ごろな本でした。
怨念が、さほどこもっていなくて、事実とか資料をあげて、素朴に「これはいったいどうしてだろうか?」「そんなことがあるのだろうか?」と、疑問を投げかけるような書き方がよいのかなあと思ったりしました。
なんというか、まあ、もしも学会批判とか宗門批判の本を書くとしたら、
──「けしからん」「とんでもない」「許せない」「目にもの見せてくれようぞ」──
というような、怨念とか怒りのエネルギーが入っていると、伝わりにくいかなあと思ってもみたりします。
120
:
犀角独歩
:2002/09/11(水) 10:32
> 119
私は過去には『家庭内宗教戦争』1冊を読んだだけであったので、怨念のエネルギーでここまでやってきたと見えてしまうのですね。
寺報に今東光のことを書いた、住職に「猊下を誹謗した人だ。その部分を切り取れ」と言われ、寺報の1部1部から切り取り作業をしているうちに怒りがこみ上げてきた、そして、法華講を離れた、そんな彼の怨念のエネルギーがようやく冷めてきたものの、しかし、奈辺で燻っていると思えてしまいます。つまり、そのような自分の怨念を肯定化するために集めに集めた資料をまとめたのが一連の出版かと。
美濃さんは奥さんが信者であったから引っ張られてやるようになり、ついには自尊心が傷付けられるような事件を経て怨念をもってやめていったのでしょうね。ひととき、奥さんへの愛情から石山信仰の“真似事”みたいなことをしたけれど、本心ではなかったのだろうと思えるわけです。
私は石山・学会の家に生まれて、日蓮・日興で育ってきました。石山の批判はするけれど、いまでもあの場所は懐かしい。思い出せる石山住職は達師と顕師だけ。2人に恨みと言うより、懐かしさが先行します。山も懐かしい。
私の石山批判は、かつて絶対であると思っていた自分の親父を、長じて、客観眼を得て見たら、間違いも多い一人の人間で、そのあとを継ぐ自分は親父の過ちごと相続しなければならない、間違った点は素直に謝り・是正を心がけるしかなかった、絶対であると思っていた親が、絶対でないとわかっても、でも親に対する憧憬と思いは残った――そんな親父に対する思いと日蓮・日興・石山に対する思いはどこか共通しています。
私の石山批判は、一種の自己否定であるけれど、美濃さんのそれは確実な他者否定なのですね。基本的なコンセプトの違いがあると思いました。
121
:
ワラシナ
:2002/09/12(木) 22:06
no117独歩様へ、、「美濃さん本に似ている」についての弁明とお詫び
>美濃さんの記すことと、私が言うこと、そんなに似ていますか、突き当たった資料から考えて、やや類似した点がある程度ではないでしょうか。
1、以前の私の指摘「似ている」語も上の括弧内のニュアンスで使いました。その際、質的な差異には触れませんでした。それは比較して読めば、誰にでも明らかな事だから。
長所も圧倒的で際立っていた場合には、一種の迫力であって、人を沈黙させることがある。その気分に影響されていたことも有った。
2、それと石山批判本として先に市場で知られていた美濃さんのお名前を出し、「(その或部分が)似ている」という指摘でこの方面に興味の有る読者の関心を独歩さんの石山批判論にむけさせる事ができたら、、という期待も預かっていた。
3、私が感じた「似ている」部分とは、「石山公式発表では何かがおかしい、と感じざるを得ない」素朴な疑問から問いを起こす、発想の部分です。それと「誰でも似たところに疑問を抱くものだ」という共通点の発見、と言ってもよい。
4、だだそれ以後の論考展開は異なっており、「その差異を補足して表現しておけばよかった」と自分の至らなさを今後悔しているところです。この部分ではご迷惑をお掛けしたようでお詫びします。
(5、美濃さん本はそれを読んだ高橋師がやはり怨念を感じた位だから感じ方次第では「怨念あり」で間違いではないのでしょう。ただ、いちりんさんご指摘の如く、ご自分の素人っぽさに居直って、どこか分限をわきまえているかのような素朴なタッチ
が面白いと思う。)
122
:
犀角独歩
:2002/09/13(金) 13:33
121 ワラシナさま:
わざわざ、お書き込みをくださり、有り難うございました。
大変有意義な弁明をいただきました。けれど「お詫び」などいただく必要はございません。
どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。
前回のミニオフではお会いできず残念でした。ぜひともこの次はご参加いただければと、勝手に念願いたしております。
123
:
みかん
:2002/10/01(火) 08:05
>>116
もともとの「戒壇本尊」は半丸太で、下のほうが腐ったため、
日達時代に仏具店・赤沢朝陽で板状のレプリカを作ったという
説が、美濃周人氏の本に載っていました。
つまり、現在使われている「戒壇本尊」は板状のレプリカであ
るという説を美濃氏は唱えているわけです。
124
:
犀角独歩
:2002/10/31(木) 06:40
昨日(02/10/30)、立正大学で『日蓮聖人―その行動と思想』と題した福神研究所が企画した講演とシンポジウムが開催されました。
この席で中尾堯師が「日興上人が筆録した『宗祖御遷化記録』は6通作成され、全員に配られた」とはっきりと明言していました。
そのうちの1通はたしかに身延山久遠寺にあったけれども、明治8年の大火で焼失したということでした。
そうなると、頂師が重須に居していたとき、富士には2通の『宗祖御遷化記録』があったことになると想像されます。
125
:
問答迷人
:2002/10/31(木) 07:10
独歩さん
>「日興上人が筆録した『宗祖御遷化記録』は6通作成され、全員に配られた」
やっぱり、そうだったのですね。そうすると、西山の『宗祖御遷化記録』は、誰のなんでしょうね。大変興味が湧きます。
126
:
犀角独歩
:2002/10/31(木) 08:10
この中尾師の話は、問答名人さんが、たぶん、興味を持ってくださると思いました。
基調講演のなかでさらっと話されたことであったのですが、わざわざ質問用紙に記入して、質問して確認しました。「興師は葬送記を6通作り、六老僧が、それぞれに花押し、それぞれに配られたのですか」という私の質問に「そうです」ときっぱりと答えていました。
「複数存在していると思う」と、そのご意見を聞いたのは、西山から北山にも行った日、天母山の頂上であったと記憶しています。あの時、私は1通しかなかったと思い込んでいましたから、その意味で、問答名人さんの推理が正しかったことが証明されたわけです。参りました(笑)
> 西山の『宗祖御遷化記録』は、誰のなんでしょうね
この点については、むしろお考えをご教示いただきたいと思います。
128
:
問答迷人
:2002/10/31(木) 09:12
独歩さん
やはり、日興上人の『宗祖御遷化記録』でしょうね。日頂師、日持師の分の『宗祖御遷化記録』は、本人に渡されたか、あるいは身延離山の時に、身延に残されたと思われます。なぜなら、日興上人の厳しい御性格からすれば、本来、自分の所有するべきでないものを富士に持ってきてしまうとは考えられませんから。
そして、重須の御影堂から盗まれて、大石寺の蓮蔵坊を経由して、日郷上人に渡り、保田妙本寺の所有するところとなり、さらに西山に後年に渡って、現在に至っているのだと思います。西山に渡った理由は、紛失した時の、日興文書に、出てきたら、日代に返すべきである、と有る事が拘わっているのではないかと思っています。
129
:
犀角独歩
:2002/10/31(木) 10:07
128 問答名人さん:
やはり、興師のもの、そして、経由も是の如きですか。
> さらに西山に後年に渡って、現在に至っている
ここの部分ですが、これはどのような経緯であったのでしょうか。
130
:
問答迷人
:2002/10/31(木) 10:20
独歩さん
これは、僕には良くわかりません。三学無縁さんのご専門かと存じます。
三学無縁さん
よろしくお願いいたします。
132
:
しゅんかん
:2006/12/29(金) 19:30:49
管理人さん、すいませんが下記を拝読する術を持合せておりません。
『大石寺の歴史について』スレッドが 300レス・・・
ご教示の程、宜しくお願いいたします。
133
:
管理者
:2006/12/29(金) 20:32:22
富士門掲示板が以前ダウンして使えなくなったことがありました。それで、新しいアドレスで再度立ち上げて現在に至っています。以前の掲示板の過去ログを再構成して、「富士門掲示板過去ログ」としてアップしてあります。そちらをご覧ください。
富士門掲示板過去ログ「富士大石寺の歴史」スレッド
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/rekisi.htm
134
:
しゅんかん
:2006/12/30(土) 00:36:47
管理人さん、ありがとうございます。
135
:
独学徒
:2006/12/30(土) 02:04:12
大仏師越前法橋快恵謹作の大石寺正御影が遷座されていたのですね。
http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/topix/20061128_j.htm
本格的に大改修するようですね。日精上人建立の「本門戒壇本堂」は、どの程度原型を残せるのでしょうか。
136
:
犀角独歩
:2006/12/30(土) 09:22:15
いっそのこと、建造当時のように、御影の後ろに「本門戒壇之大御本尊」を置いたら、どうでしょうか。
137
:
独学徒
:2006/12/30(土) 12:51:12
犀角独歩さん、
>建造当時のように、御影の後ろに「本門戒壇之大御本尊」を置いたら
これは良い案ですね。
御影の影に隠れて、余計なところが見えなくなりますので、願ったり叶ったりじゃないでしょうか。
談議所の方に、画質が悪くわかりにくいですが、在りし日の御影堂安置の彫刻をアップしてみました。
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html
138
:
天蓋真鏡
:2007/01/22(月) 12:22:04
石山等、派閥抗争的に教学体系が出来上がったのでしょうか。漫荼羅正意派、本門寺戒壇堂派等の派生は『法華一乗』の信学行の範囲内?
139
:
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講
:2007/09/18(火) 10:19:09
北山と石山の馬鹿な争い、主導権争いが今日の富士派混迷状態を招いた。
あの二山は今後・・・。
潰すべきじゃないだろうか。
140
:
ある興門派
:2010/02/26(金) 18:05:56
寛師会で相撲をやっていると聞いてへーと思いました
相撲って神社の奉納相撲を思い浮かべますが
寺に土俵かまえてるところって日本でも大石寺ぐらいでしょう
やっぱり正宗は異色というイメージです
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