[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
素朴な疑問
2015
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 18:24:34
2012 愚鈍凡夫さん:
賢治にとって、臨死体験は、既に死の範疇だったという気がします。
ドーパミンの大量放出その他の分析はその通りだと思いますし、そのような機能も、死も、人間という種が、そのように進化したことを示すのでしょうね。
しかし、この問題は雖念さんの弁舌の冴える話題であると思いますが、脳内代謝、このキーワードは、やはり悟りとかその他の仏道修行に由来する思念・情動、心身変化と大きく拘わっているのでしょうね。もっと研究されてしかるべきです。
わたしの恩人であるとある日蓮宗僧侶の方に、「石山の人間は唱題の仕方を知らない」と、こう切り出されたことがありました。どういうことかというと、躁状態を作り出すような形しか知らない、彼岸へ行きっぱなしにするやり方だというのです。つまり、唱題中の、非日常から、日常へ。修行という特異状態から日常へ、復路が用意されていないやり方だと。
これは、たぶん、脳内代謝とも関連すると思います。覚醒はあっても鎮静の方法が欠如しているという分析です。
わたしは、この分析は当たっていると思います。
わたしは小学校6年から朝夕勤行1時間唱題、1年1度御書読了を欠かすことのない青春を過ごしたんですね。いわゆる信仰体験とか、神秘体験なんか、そんなことから山のようにあったわけです。ところが26歳の時に、鋭敏に研ぎ澄まされた絶頂にガラスがパリンと割れるように壊れました。石山義と学会義の狭間で苦悶が続いたことも、その原因でしたが、詰まるところ、往路(覚醒)の修行は知っていても、復路(沈静)の修行を知らなかったわけです。覚醒剤中毒者が何日も寝ないで躁状態が続くけれど、ある日ぼろぼろになってしまうような感じです。
あるカルト脱会支援者と話していたとき、「カルトメンバーは活動し続けているときは、すごく元気に見える。けれど、心身疲労感が麻痺しているだけで、ある時、壊れてしまう。壊れたとき、はじめて、どれだけ疲労していたかがわかる」というようなことを話してくれたことがあったんですね。まったく、その通りだと思ったわけです。
仏法というのは、元来、熱狂的な状態になることを目的にするよりも、禅定、瞑想という要素が強いわけです。ところが石山系は逆です。どうすれば元気が出るか、120パーセント力が出るかに気が向いています。瞑想ばかりでもなく、熱狂ばかりでもなく、その往復で、日常に返す構造がない教義・修行が結局のところ、人を壊してしまうでしょうね。
わたしは法華講に入る頃は、勤行は方便も長行、唱題後、安国論、申状捧読までするような勤行をしていました。長いときは1日3時間も4時間も仏壇の前に座っていました。神経障害を完治したいという思いは強くありました。それなりに得るものは勿論ありましたが、引き替えに浮き世の楽しみはすべて放擲していました。
わたしの母は、学会時代、1日4時間の唱題を欠かしたことがありませんでした。けれど、その間、極度の神経障害が治ることがありませんでした。わたしは、こんなときに、ハッサン師の
「過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている」
「 唱えごと(布告) メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる−−ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである」
という一節を読んだ愕然としたわけです。自分も、母も神経障害を直したいが故に夢中になって拝んでいたわけですが、それが逆効果であったことがわかったからです。しかし、それは、わたし(たち)のやり方が悪かったわけで、その失敗を、上述の体験を語ってもいないのに指摘された、先に記した僧侶の一言に、それ故、直ちに納得したわけです。この点は、適宜な唱題法でもちろん、解消される面もありますが、もう一面、ご指摘のような脳内代謝問題として考えることは、必要であると思うわけです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板