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情報を発信することの価値

1藤原肇:2009/12/19(土) 09:38:09
今回の訪日を一週間で打ち切り早々に南行する理由は、連日のように終電車で戻りつくという生活が、七十を過ぎた身に応えて疲れたという理由で、後はより若い人や当事者たちに任せようと思ったからです。
問題は私自身ではなく日本にあって、本当は他の日本人たちが危機感を持ち行動すれば、私などが出る必要など全くないのだが、現実はそうでなかったということのせいでした。
今回の私の体験を参考にしてもらうことで、国内にいる日本の読者が新しい活動の場を見つけて、パブリックの次元で行動して欲しいと願い、問題提起をしたいと思い新しいスレッドを起こしました。
拙著の読者の人なら知っていると思いますが、私の流儀は説明することを嫌い、問題を提起して考えてもらうやり方なので、まずは問題提起として書いた記事を何回かに分けて、とりあえず如何に公開することにします。
第一回分
日本外国特派員クラブ(FCCJ)の混迷とその存在意義
藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト)。『さらば暴政』著者・台湾在住

***危機から立ち直ろうとする外国人記者クラブの現状
東京の有楽町駅前の「電気ビル」最上階には、「外国人記者クラブ」という愛称で呼ばれ、発足のとき以来65年の歴史と伝統を誇り、外国からの要人や時の人の記者会見で知られた、日本外国特派員協会(FCCJ)のクラブハウスがある。20階にはレストランと会議室が整っており、19階には図書室と事務局があって、日本に派遣された外国の報道機関の記者を中心に、自主的な運営をするクラブとして盛況である。
しかし、一見して盛況に見えるこの重要な組織が、数々の問題を抱えて危機に瀕している背景には、組織自体の混迷と日本の地盤沈下がある。FCCJが抱えた組織的な悩みは、幹部による運転資金の濫用であり、数年にわたる使い込みが財政破綻を招いて、有志会員による幹部の追放運動を生み、それが2009年夏の選挙結果として現われた。
投票によって古い執行部が追放されて、モンズルール・ハク会長による新執行部が誕生し、有楽町の「新聞通り1番地」に改革が誕生した。ハク会長はモスクワ国立大学を卒業しており、国連を始めBBCやNHKの仕事をこなし、記者として卓越した国際経験を持つので、自公政権の解体に先行する変化として、資金管理とクラブの掃除が始まった。

2藤原肇:2009/12/19(土) 09:39:58
第二回分
***外国人記者クラブ(FCCJ)に見る奇妙な日本人の間接支配
ところが、奇妙にも汚職を放置し続けたのに、財務の担当者が三選される椿事が起き、折角の大変革の試みが「画竜点睛」を欠いて、日本的な珍現象が暫し話題を賑わせた。その理由は財務問題を専門家に任せて、経済問題担当という肩書きに従い、日本の経済誌の記者を監査役に再選したのだ。普段は活動しない日本人正会員の多くは、汚職を放置し続けて来た監査責任を問わずに、外人記者は決算書が読めないと考えて、経済誌の記者が日本人という理由に基づき投票した。こんな非常識が罷り通ったのは、外国特派員の組織で外国人が少数派になり、組織活動には余り熱心に参加しないが、投票数で日本人が決定権を握ったせいだ。
現在のレギュラー会員はほぼ500名というが、純然とした外国人特派員は150人前後に減り、外国で3年以上の特派員をした者は、日本人も正会員になれる規約のせいで、300人ちかい日本人が正会員に属している。だが、その多くは若い頃に特派員を経験し、現在は幹部として自分で会費を払わずに、社用族として接待に使う正会員だ。しかも、社交のために時たまレストランやバーを利用したり、相互利用の特典を最大限に活用して、北米やアジア諸国のクラブ施設を利用する程度で、積極的に組織活動に参加しない会員である。
特派員クラブ(FCCJ)を財政的に支えているのは、投票権のない2000人余りの準会員であり、その多くが接待用にレストランを使い、社交の場として利用している日本人だ。準会員には銀座から五分の距離の社交の場として、利用価値が高い快適なクラブであるが、特派員として取材のために訪日する記者にとっては、自分たちの仕事場が俗化した印象も強い。
こんなことでは日本の現状に愛想を尽かし、東京から逃げ出す記者が増えても当然だが、それに加えて経済ポテンシアルが落ちて、情報的な魅力の衰退が進んでいるために、日本への関心までが加速度的な勢いで薄れている。

3藤原肇:2009/12/19(土) 09:45:13
***日本の地盤沈下と発信能力の低下
国際舞台における日本衰退の原因は、十数年も続いた自公体制によって、支離滅裂なゾンビ政治が続いたためである。その結果、ジャパン・パッシングからナッシングになって、日本は世界から取り残されただけでなく、日本の存在価値まで大暴落してしまった。
日本の政治的な状況が余りにもお粗末で、排他的で閉鎖性の強い記者クラブ制のために、公正な形で取材活動が出来ないだけでなく、取材するに値する情報がないということが、外国メディアが日本から撤退する時の理由だ。日本のニュースは大陸からの取材で済ませ、「ワシントンポスト」や「LA タイムス」が東京支局を縮小して、あるいは、閉鎖して上海や北京に事務所を移したので、優秀な特派員が続々と日本から立ち去った。
かつては東京特派員を体験してた後で、香港支局長や北京支局次長になったり、本社に戻り編集局長や国際部長になる記者や、中には編集長どころか社長になる人もいた。だが、最近は東京がドサ廻りで修業の場になり、やり甲斐のある場所で挑戦するために、優れた記者の多くは東京から立ち去って、駆け出しの人材がその穴を塞いでいる。
文部省のALT(外国語指導助手)プログラムで訪日し、日本語が喋れる程度の外国人たちが、パートタイムで特派員の仕事を引き受けて、現地採用の記者として低レベルの日本記事を書く。あるいは、ソウルや上海駐在の記者たちが書いた、取材抜きの浅薄な記事が世界に報道され始めたが、日本人による情報発信が劣悪なために、アジアでの日本の存在感は希薄の度合いを強めており、情報時代だのに日本の現状は鎖国状態に近い。
カンボジアやタイで衛星テレビを見れば、立ち遅れた日本の報道は悲劇的であり、国内に蔓延する幼稚なバラエティ番組が流れ、日本的な痴呆番組が嘲笑されている。それに較べて中国やロシアが作る英語番組を始め、アルジャーラやインドのテレビ番組さえもが、はるかに日本を凌駕しているので愕然とする。
北京製の映画がハリウッド作品を凌駕し、世界の注目を集める話題作を生む時代に、日本人はアニメをジャパネスクの復活と信じて、カラオケを日本文化の振興だと思い込む。だが、それは世相に現れた風俗現象に過ぎないし、かつては訓練された一流ジャーナリストの手で、優れた日本発の情報が世界に流れたのに、そんな状態は過去の夢になり果てている。

4藤原肇:2009/12/19(土) 09:46:42
***平成日本の「出島」である特派員クラブ((FCCJ)の役割
 FCCJでは日本の他の記者クラブのように、所属する記者クラブの担当記者が司会をして、安全な記者会見を試みるのとは違い、全方位の角度から自由に質問するので、権力者にとって危険な場所だと見なされている。田中首相が金脈問題の質問で立ち往生し、その後それが失脚に至る契機になったので、用心した中曽根首相はここを鬼門と考え、FCCJからの記者会見の招待を拒み続けて、遂に来訪しなかった話は有名である。
国賓や外国の要人が訪日した時には、多くの場合にFCCJで記者会見を行い、有楽町の「新聞通り1番地発」のニュースが、かつては世界に発信されたものだ。だが、最近では閉鎖的な日比谷の「日本記者クラブ」で、記者会見が行われるケースが増えており、外務省までが法人格を取り沙汰するほど、FCCJの相対的な地盤沈下が目立っている。
バブルの崩壊以来の失った20年のために、不況に陥った日本経済は低迷しており、多くの企業が生産設備を海外に移して、日本の空洞化が進んでしまったのと、自公体制による暴政支配の悪影響のせいで、魅力ある人材の枯渇が顕在化した。だから、FCCJで講演する財界や政界のトップの人物が、自己紹介まで同時通訳で済ますほど、支配層の鎖国精神が酷い状況が続いたので、北京やソウルに主導権を奪われて、東京の持つ情報力は低下してしまった。
世界に向けての情報発信基地としてのFCCJは、江戸時代の長崎の出島に相当しているし、受信以上に発信の役割は重要である。しかも、鎖国から文明開化に向けて「世界に開く窓」が、出島から横浜や東京へと移ったのに、現在では横浜や東京がソウルや北京になり、東京のFCCJが今以上に衰退し続ければ、日本の未来は「夜明け前」の薄明続きになる。
世界を情報革命の嵐が吹き荒れているのに、コップの中の安逸で「酔生夢死」に満足して、情報発信の衰退で世界から孤立すれば、日本の運命はカラパゴス島と同じになる。自公体制による独善的な暴政が終わり、アジア共同体の仲間として生きる上で、日本が世界と連帯意識で結びつくためにも、オンタイムでの情報発信が不可欠だし、それを担う東京のFCCJの役割の持つ意義は、想像以上に重要だと気づく必要がある。

5T.N.:2009/12/21(月) 00:22:42
 4回に分けた藤原氏の長文の投稿は、多くの問題提起を含むもので、1回の投稿で自分の考えを尽すことは、
できそうもありません。思い付いた事から順に書いていけたら、などと考えております。

 ただ藤原氏の本の日本の読者として、まず書いておかなければならないのは、70代になられ目を患われてい
る藤原氏に、また現場の力仕事を任せることになってしまったということです。日本人として情け無いとともに、
申し訳ない気持ちです。ここで”また”と書きましたのは、例えば「さらば、暴政」のような仕事は、藤原氏よ
りも若い世代のジャーナリストによって、なされていなければならなかったことだと考えるからです。一体いつ
まで、藤原氏の孤軍奮闘に頼らなければ、肝心なことがわからない状態が続くのか。自分で書けないのなら、書
評で掩護射撃することもできるはずなのに、それさえも微々たるものなのは、どういう訳なのか。

6藤原肇:2009/12/21(月) 17:57:46
『政治診断学への招待』 の6でTNさんがチップス先生の話を引用したので、私はドゥリットル先生の物語を思い出して、思わずニヤリとしたことを書いておきます。まず、DL先生はジェントリーであり、生活のために仕事をしないことを誇りに思い、旅行や博物学などに忙しくしている点で、Do Littleの名にふさわしい生活パターンを持ち、これは私の学童時代からの理想生活をした人でした。チップス先生も似たような生き方をした人なのでしょう。
だが、DL先生のように鷹揚に構えられないので、FCCJのことは気になって仕方がないので、カンボジアで記事を書いたが日本にはメディアがないのです。「文芸春秋」は余りにもくだらない連中が書いているので、過去十五年ほど寄稿していないから今の編集長を知らないし、まともな総合誌はほとんどないことを知っており、編集長教育するのはうんざりしていたから、もっともまともと思われる「フォーサイト」に寄稿したのだが、興味がないということでボツになったという次第です。
今の日本には現代版の出島の重要性が分る人が皆無というのは、実に情けないことだと考えたので、新聞社の論説委員や特派員の経験者たちと会い、説得するのに疲れ果てたというのが正直な体験談です。

7T.N.:2009/12/23(水) 00:35:23
 昔、新聞でロベール・ギラン氏が「日本人の考え方には、地震が影響を与えていると思う」というようなこと
を語っていたのを読んだことがあります。地震が来れば全てちゃらというわけです。当時は外国人の突飛な思い
付きぐらいに受け取っていたものの、今になってみるとなるほどと思えます。住んでいる地域の自然に合わせた
生き方でしょうが、それを人間が作っている社会にまで適用してしまっている。過去の歴史をきちんと振り返ら
ないし、旧悪も追及しない。さらにそれが支配する側にとって都合がいいので、増幅されてしまっている。
 藤原氏の文章を読むと、FCCJを現代版の出島だというのは、単なる比喩や喩えではなく、そのものずばり出島
だと言われているように思えます(それ以上にぴったりする言葉が無い)。FCCJが出島なら、近代的な装いをし
ていても、日本の本質は江戸時代と同じことになります。21世紀に”出島を守れ”という議論をするのは、沙
汰の限りですが、代わるものが無い以上せざるを得ない。もし出島が無かったら、幕末の混乱がどれ程ひどいも
のになっていたことか(阿片戦争の起きた清を考えればわかる)。

8藤原肇:2009/12/24(木) 01:47:29
アメリカに住んでいたときに毎月読んでいたのは、25年前に正慶さんと対談して以来送ってきていた『ニューリーダー』と、定期購読していた『フォーサイト』と数年間購読した『選択』であり、『文芸春秋』は「蓋棺禄」と「赤坂太郎」の記事を読むために、ロスの本屋で月遅れの特売で断続的に買ったのと、「一行記事」を読むために買った『噂の真相』くらいのものでした。それに『財界にっぽん』はほぼ毎月のように記事が出ていたし、1980年代から1990年代にかけての『世界週報』を見ていました。
だから、引越し前に蔵書を整理したときに5000冊くらいの雑誌を捨てたが、30年分くらいの『文芸春秋』を廃棄処分したときには、鉄製のコンテナー一杯の分量だったので、1トンか2トンの雑誌を捨てたことになります。その時に捨てるのが惜しいと感じたのが『フォーサイト』だったので、寄稿した記事が『フォーサイト』の編集長から断られ、特に「テーマに興味なし」と言われて落胆したわけで、「フォーサイトでもか」と思わず愕然とした次第です。離日直前のその後になって、『フォーサイト』が休刊になると知り成程と感じました。
情報革命の動きに取り残されている現状と、編集長の問題意識のレベルが低下して批判精神を失い、人材枯渇が目立つ日本の紙のメディアが没落するのは、やむをえない事だと痛感したが、そんなテーマが『ニューリーダー』の次号で将基面さんとの対談で、取り上げているというのも因縁といえそうです。

9T.N.:2009/12/25(金) 00:21:25
 ノーベル文学賞を受賞する前だったと思いますが、大江健三郎氏が新聞に以下のような話を寄せていました。
ドイツの作家だかに”戦後の日本文学と比べて、ドイツ文学は成果を挙げていないように思う”と問うと、ドイ
ツ人の答は”書き手より読み手の問題が大きい。ドイツ文学の最良の読み手は、しばしばユダヤ人であった。”
というものでした。よい読み手を大量に失った結果、ドイツ文学の質が大きく低下したというわけです。
 「ジャパン・レボリューション」は古書を含めて、市場には最大1000冊しか出回っていません。出版社の
宣伝・営業の限界もあるのでしょうが、たかだか3000〜4000冊の藤原氏の著書を受け入れられないのは、
日本の読者層の衰えを感じさせます。藤原氏の日本の雑誌・編集者への嘆きを読んでいると、編集者と読者が二人
三脚で堕ちて来てしまったのではないかと思えます。発信も受信を期待してこそです。

10プロジェクトラーニング:2009/12/29(火) 22:10:20
東京では松丸本舗が話題になっています。この中核は本殿と呼ばれていますが、ここに藤原肇さんの本はありません。日本の読者層は衰えていないと思います。松丸本舗では本の力を信じているとあります。知識人はこの空間を支持しています。ある本が読まれないとしたら本を著す側に問題があります。意味論の大事を知る人の著作なら日本の読者層が放っておくわけがありません。藤原肇さんの場合は内容は凄くても書き方や本の著し方がへたくそなのだと思います。この掲示板で誰もその本当の事を言わないから私が嫌われ者覚悟で率直に述べます。

11西條謙太郎:2009/12/30(水) 01:31:16
プロジェクトラーニングさんへ

著者が本を書く動機はさまざまである。

本というのは読み手を選ぶものである。

という2点を踏まえて熟考されることをお勧めします。

なお、ホーム・ページ「宇宙巡礼」の掲示板は、掲示板最下段に記してある
通り、藤原さんの読者や世界に散らばる知識人が、時空を越えて集うバーチ
ャルなサロンと位置付けて運営されています。

サロンとはマナーと教養が問われる場所であり、ディベート道場や2チャン
ネルではないことを申し添えておきます。

12プロジェクトラーニング:2009/12/30(水) 06:41:26
西條謙太郎さんへ
『12人の怒れる男』をご覧になられてはいかがでしょうか。
藤原肇さんに書く動機がありそれを支持する読者がいることは先日ご本人からよく伺っておりますし自身が長年の藤原ファンですから充分に心得ております。ですから売れる本を著して欲しいと(より多くの方が藤原肇さんを読んでみようと本を買う状態を)願っている次第です。やみくもに日本国民を愚弄しても何一つ生産的ではありません。藤原肇さんの知性をもっとPRする知恵の創造が大事なのではないでしょうか。なお半ば冗談ですが、ディベート道場と2チャンネルとを一緒にされては「具のない味噌汁」の松本道弘さんは怒り心頭でしょう。例の列挙に配慮が見当たりません。

13珪水:2009/12/30(水) 07:46:04
前々から藤原博士の著書に関して私の意見・受け止め方を口頭で何人かの人に伝えました、その触りを書きます。先ず 読もうとするな見れ 必ず自分自身の問題意識を持って活字を目で追え 何回、何十回と観ているうちに感じるから そうした時に初めて読めると。 私はそうでした、そして3年程かかって時間を割り出した。飯山一郎氏もそうであろうと推測します、間脳幻想を2.3冊潰すほどに読みまくった。宇野多美恵さんの著書と同列に考えています、少数者の本です。私も飯山さんも書評なんぞ先ずしないでしょう 役に立ちすぎる。

14珪水:2009/12/30(水) 07:50:13
追伸 皆さん 寅年 よいお歳になります様お祈りいたします。お元気で

15吉田:2009/12/30(水) 09:07:56
ある種の本は相応の年齢に達しない限りは、若いときに幾ら読んでも理解できないものであり、その代表的な本がモンテーニュの『随想録』である。
それを指摘していたのはシュテファン・ツヴァイクだったので、その見識に感心して彼の書評は心がけて読むことにした。若い頃に出来るのは珪水さんが言うように「見る」あるいは「観る」だけなのかも知れない。
同じように頭脳の問題意識があるレベルに達しない限り、読まないし読めない本というものが存在するようだ。その多くが古典と呼ばれる本だといえるが、古典になった本を書いた著者が生産的であることを考えたり、売れることを期待して書いたとは考えられない。
最近の日本の書店のほとんどは、知のサロンであるよりは大量生産した消費物のスーパーマーケットだから、そこにある種の本が無いのは当然であり、ダイエーが倒産したように量販店が長続きしないことは、「盛者必衰」の理からして祇園精舎の鐘の音であろう。

16プロジェクトラーニング:2009/12/30(水) 09:40:44
仙人のような珪水さんのお言葉を胸に沁み入らせています。ありがとうございます。吉田さんと先の西條謙太郎さんの指摘は御託を並べているだけでアクチュアリティが感じられない。松丸本舗は知のサロンであり故に古典がある。「本というのは読み手を選ぶものである」とは不遜である。古典とは読み手が選んだ本である。私は大衆の書物を選び読む力を信じたいです。

17西條謙太郎:2009/12/30(水) 14:21:31

プロジェクトラーニングさんへ

>意味論の大事を知る人の著作なら日本の読者層が放っておくわけがありません。<
→意味論の大事を知る人ではないから売れないという意味でのご発言でしょうか?

>やみくもに日本国民を愚弄しても何一つ生産的ではありません。<
→藤原さんの著作の長年の読者としての貴兄の藤原さんに対する評価が、やみくもに日本国民を愚弄しているということなのでしょうか? 

>藤原肇さんの場合は内容は凄くても書き方や本の著し方がへたくそなのだと思います。<
→よろしければ藤原さんが書いているような内容の本で、内容が凄くて書き方や本の著し方が
上手な例をご教示お願いします。

>吉田さんと先の西條謙太郎さんの指摘は御託を並べているだけでアクチュアリティが感じられない。<
→御託を並べるというのは、広辞苑によれば、勝手な言い分をくどくど言いたてる という意味ですが、
 御託を並べているという表現はそういう意味でお使いなのでしょうか?

18千々松 健:2009/12/30(水) 16:55:44
以前「バカの壁」がベストセラーになった理由を読んだことがあります。詳しくは忘れましたが、
1)タイトルが刺激的かつ挑戦的だから
 2)養老さんが言っていることを、ゴーストライターが偏差値50レベルに合わせて大幅に書き直し編集したから
ということのようでした。読者に負担を掛けないように、何が言いたいのか、そして何がポイントなのかを丁寧に説明していたからなのでしょう。
 その他に養老さんの対談は編集者が手を入れているので読みやすくはなっていますが、ご本人が直接書かれたものは、やはりそれらとは違い売り上げもそれなりというのが事実のようです。
 要するに、一般大衆に売れるように本を書くということと、あるマーケットを狙って本を書くということの違い、及び、売文家として受動的に書くか、寄稿家として能動的に書くかの違いがあるということになりましょうか。

19プロジェクトラーニング:2009/12/30(水) 19:05:22
西條謙太郎さんへ

日本で藤原肇さんの本が売れないのは良識の書・教養の書だと思う人が少ないからではないでしょうか。私もうまく表現できませんが藤原肇さんの書き方のくせが原因だと思います。日本国民を愚弄すると申しましたのは藤原肇さんの本が売れない理由を国民の問題意識の低さに求めても、それは書き手の自惚れと茶坊主取り巻きの提灯持ちの繰り返しだと感じるからです。私は、藤原肇さんは新書をお書きになると良いと思います。中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波新書などが、私が思い浮かべるイメージです。広辞苑で調べなくても御託を並べるとはそういう意味です。

千々松健さんへ

ありがとうございます。『バカの壁』が400万部強も売れた理由を真剣に考える必要があると思います。ご指摘のことは参考になります。継続してご指導下さい。

20ひろいえ:2009/12/30(水) 21:31:11
ずいぶん前に、八重洲ブックセンターの開設に関係し、NYの書店(名前を失念しました)に調査にいった方と話す機会がありましたが、
当時、ない本はないというコピーでしたが、実際には、相当本を選んでおいていたとのことでした。
実際、藤原さんの本のほとんどは、その一角に常駐しており、入手しましたが、いつのころからかコンセプトが変わったのか
ほとんど、おかれることがなくなりました。
それでも、ほかの本屋に比べればましなほうですが
結局、書店が本置き場になって、本来差別化のためのマーケティングが
単なる売りの手段に成り下がってしまったわけで、、
買い手も考えていないわけで国としての没落は避けられなくなりました。
実際、KZPについても、あの日記に掲載されたからあわてて買った人が多く、
KZPを読んで、違和感を感じたか否かは、問題意識がありかないかで
大きく違うはずです。私には、ものすごい違和感があってその件はすでに
藤原さんから経緯が示されております。
さて、FCCJの件ですが、最後の砦かもしれませんが、その組織に対し、なにをすべきか
これについては、この数日考えることになると思いますが、
非常に厳しい問題と考えております。
ただ、私個人としては、小さなあなであっても見つけて、対応したいと考えております

21プロジェクトラーニング:2009/12/31(木) 11:41:29
たったいまホーマー ヒッカム・ジュニア『ロケットボーイズ』を読み映画『遠い空の向こうに』を観終えたところです。またひろいえさんの記事で勇気づけられました。ありがとうございます。大衆と言えどもリベラル・アーツで人として成長でき社会の役に立てる。人文科学、自然科学、社会科学の良書をいかに多く読むべきかを自らはもちろんのこと少しでも広くこれからの若い人たちに薦めたいです。一人の個性ある知性にのみ信奉する時代ではないのではないでしょうか。

22T.N.:2010/01/07(木) 22:00:21
 asahi.comのニュース、”米大手誌の日本離れ加速 「タイム」東京支局を閉鎖”中の米紙ワシントン・ポスト
の記者経験がある石澤靖治・学習院女子大学教授(メディア関係論)のコメントが、的確に要点を纏めています
ので引用します。

 「米国の活字メディアの業績低迷、日本のニュース価値の低下、中国の台頭という三つの背景がある。日本に
深い理解を持つ在日経験のある記者が減ることは、日本にとっての損失だ」

23朝香隆彦:2010/01/25(月) 09:10:24
T.N.さんがこのスレッドの持つ重要な意味を基にした投稿を頂いたおかげで、再び議論が発展していく可能性がでてきた気がする。

長く在外にある者や、海外を足場に、アカデミズム、ジャーナリズム、またはビジネスの世界に勤しんでいる者(=この際、対日という狭い範囲のことではない)は勿論のこと、普段から海外メディアに良く触れていればすぐに気が付くことだが、暫く前から「ジャパン・ナッシング」になってしまっていることは今更申し上げるまでも無い事実である。

嘗てFCCJは日本から海外に向けて情報を発信する貴重な場であったはずだが、ここ十年強ほどの間に有力メディアやジャーナリスト達が、国際社会における日本の存在価値の低下と比例するが如くその地を離れてしまったことで衰退に向かっていることについては、私も前から幾度か小耳に挟んではいたものの、藤原博士が言及しているように、今や見る影も無いほどの体たらくに陥ってしまっているようだ。

せいぜい未だ日本をお客さん扱いしているガイジンさんから相手にされているようではあるが、彼らハイエナ、Swindler、解体屋、といった者達は、学者、ジャーナリスト、プロモーター(=興行師)、などという肩書で、また一部にはグローバル企業のエグゼクティブクラスのビジネスマンとして、日本の社会を跋扈しつつ、お人好しの方々に対するブレーンウォッシングや彼らの虎の子(=有形無形資産だけでなく、身も心も含めて)を掠め取っていることは、冴えても無く目の肥えていない私でも目に余るほどであり、事実として幾つか挙げられることができるものの、長くなりすぎることと、現存している方々への影響なども考慮して、とりあえずここでは割愛させて頂くことにする。

こういうお粗末極まりない状況に対して、国際社会で通用するレベルの情報を世界へ発信することの重要さと、そのための人材づくりが急務であることを改めて痛切に感じたであろう藤原博士からの提言として、このスレッドが立った(のではないかという)意味を深く考えていくことが肝要ではないであろうか。

24朝香隆彦:2010/01/25(月) 09:15:52
(前項から続く)

また、古典に値する書籍には秘伝に通ずる内容が多く含まれているため、自らの問題意識の高さに加えて時間をかけて何度も読み直し、時には別の古典にあたってみることも繰り返して、更には深遠なる場所にまで入り込み、しかもミイラ取りがミイラ取りにならないよう修養を重ねることでしか到達できない世界があることについては、他の投稿者の方が非常に鋭い指摘として言及している通りであると思う。

そのような問題提起において、国内の地域レベル云々の話を持ち出してみても、それは(言葉は悪いが)自慰行為や傷の舐めあい、せいぜい良くても昇華程度に等しい。
従って、この場では世界に向けた情報発信のあり方を視座に置きつつ、現状の問題点や課題などを炙り出し、適切な批判を加えていくことで、より発展させるべく議論を進めていくことが適切であると考える。

逆に、国内の地域レベルでのみ云々している話題については「蛸壺発想と大局観について」というスレッドが立っているので、そちらの方で続きを行なった方が議論に連続性と発展性が保てると考えたことから、今後その手の話については関連するテーマも含めて当該スレッドへ移していこうと思う。

25朝香隆彦:2010/01/25(月) 09:49:57
先に述べてきた現実を踏まえつつ、藤原博士がジャーナリストの立場から「Japan’s Zombie Politics」を刊行され、将其面博士がアカデミズムの立場から、オタゴ大学で教鞭を取りつつ「Ockham and Political Discourse In the Late Middle Ages」の刊行や数多くの英文での学術論文を発表されていることは、後に続く者たちへのエールとして考える必要があるのではないか。

そういう私も英文(フランス語でもドイツ語でもスペイン語でもラテン語でも構わないと思うが英語が情報発信に最も普及している言語であることは否定しようが無い)で情報発信することの大変さは身を持って感じている日々を送っている一人ではあるが、藤原博士が「地球発想の新時代」(東明社)で述べておられた以下の文章に啓発され、最近は英文をキーワードに概念図を幾つか書くことで、自らの思想の整理を行なっている最中であると申し上げておく。

(以下「地球発想の新時代」より引用)
 文章なら表現の仕方でいくらでもごまかせますが、図表や数式は真剣勝負と同じで、思想が赤裸々に出てしまうから、それをいかに寓意図化するかに工夫を凝らし、シンボライズしてしまうところに最後の勝負があります。「書は言を尽くさず、言は意を尽くさず」というとおりで、ものごとの極意は図面化されて伝わるのです。
 だから、寓意図や象徴体系は直感的に洞察するものであり、一般的には説明などついていません。この洞察力を磨き直感を鋭くするために、人は優れた師を求めて遍歴し、苦労を重ねて修業を続けるのであり、ことばでなんでも表現し尽くせるなら、芸術や修業は無用のものになるはずです。シンボライズすることによって、直感的な体験を通じて真理に出会い、秘伝を会得するようになっているんですね。

26千々松 健:2010/01/25(月) 13:58:13
<場の言語学について>
私は「日本文化の特徴は余白にあり」と考えています。
日本語には主語と述語の省略が多くみられるということも、日本間における床の間も、和歌や俳句にしても、日本画にしても、余白ないしは空間が多いのです。
清水博先生の「場の理論」を応用した「場の言語学」では、共通な情報や問題意識を持つ「場」に於いては、主語と述語などが省略され、しかも受動態的な表現が好まれるということは自然であるようです。
その意味では日本語は蛸壺的な分類になると思います。比較的異文化交流をしないで済んできた言語は「空気を読むことのできる場においては効率よく機能するのです」しかし、一旦、国際交流をする場面に入り交渉やディベートをするためのツールとしては「英語」が必要になるという訳です。
そして、美しい日本語をマスターすることはもちろんですが、これからは翻訳しやすい文脈表現で日本語を書いたり、語ったりすることが、国語教育には大切になるのではないでしょうか? 英語が国際標準語に成り得たのは「契約」に適した構造を持ち、ロジカルな言語であるからでしょう。
また、ネット社会において自動翻訳が進めば尚更に、そのような訓練がなされて、より良い情報発信が可能になると思うのです。
「閉ざされた社会」においてはたとえ効率的であっても、「オープンな社会」においては誤解や曲解が生じてしまっては損になるのです。それぞれの言語の特徴を認識して、使い分ける必要があるのです。言語はコミュニケーションの一つの道具(ツール)にしか過ぎないのですから。
それに加えて、私はコトバとカタチの両方を使用して物事を伝えることが大切になると考えています。「大局観」はまさにコトバではなくカタチをイメージして観察していくところからスタートすると考えています。

27千々松 健:2010/01/25(月) 14:02:04
>26の補足 <契約について>
“多民族の融合によって成る欧米社会にとって、社会的規範の存在は不可欠であり、その成立過程において西洋近代精神も育成されたと言える。実は「数学の論理」こそ、その根底にある。例えば欧米の「契約の精神」は、まさに数学の「集合論」そのものなのである。また「必要条件と十分条件」の基本が理解されていなければ、欧米社会の基盤である「キリスト教の精神」も理解しがたい。
要するに、数学の基本にある発想法を身につけなければ、西洋のメンタリティの骨子は克服できないと断言してよい”
以上が『超常識の方法』にて小室直樹氏の言いたかったことでしょう。
そして、付け加えるならば、長く単一民族と信じて疑わないで来た日本人が、この多民族社会の常識に欠けることを弱みとして自己認識した上で、事に当たることが大切であるということなのです。
「キリスト教の精神」と「契約の精神」との関係は多少の説明が必要かも知れません。キリスト教の「旧約聖書」はキリスト以前の古い時代での神との契約について書かれたもので、「新約聖書」はキリスト以降の神との契約の書と言えるからです。
決して旧訳・新訳ではなく、約は契約の意味なのです。(蛇足ですが)
そこで言う「契約」はまた、人間関係においても、企業関係においても、国際関係においても成立するものとなります。

28尾崎清之輔:2010/01/26(火) 00:37:26
小生のブログでも前から紹介させて頂いております若手フォトグラファーの岡原功祐さんは、ここ暫く欧州を拠点にして世界中を飛び回って情報発信を続けている優秀なジャーナリストの一人であると考えておりますが、それは端的には海外における幾つもの受賞にも表わされております。
しかも5〜6年前には彼を含めた若手フォトジャーナリストの方々が、日英併記の記事によるフォト雑誌を刊行していたことは、当時の様々な事情から休刊せざるを得ない状況になってしまったものの、その気概と実践はまさに敬服に値すると思いました。

前にも触れたことがございましたが、その岡原さんが以前3年間ほど主たるテーマとしていた『IBASYO』(写真自体は自傷する現代の若者達の普段の生活ぶりを伝えているものの、海外メディアでは英文記事が添えられていることで敷衍されていることがネット上を良く探せば幾つも見つかることでしょう)こそが、現代の閉塞感に溢れて夢も希望を失いつつある日本の社会をメタファーとして捉えているというのが、彼の写真群を拝見して小生が最初に感じたことですが、当時も申し上げましたように、無論その感想は彼に伝えており、それに対する彼からの回答が『このテーマは日本でやらなければ全く意味が無いんだ』とのひと言で、宇宙巡礼に集まる賢明な諸兄でしたら岡原さんの言わんとすることがご理解頂けると思います。

http://www.kosukeokahara.com/

こういう人材の多くは既に日本(という場所と社会)に見切りをつけてしまっていることも悲劇の一つであると考えますが(…少なくともタコツボ社会に身を置いてしまうことで自分自身に空虚感が広がり、ともするとスポイルされてポテンシャルを失われてしまうのではないかと直感的に感じてしまっているようである…)、既にロートルの域に差し掛かった(笑)小生としては、まずはせめて彼らの後押しと、彼らのパフォーマンスやポテンシャルを、政官財学及びジャーナリズムに巣食う未だ駆逐され切っていないZombieや吸血鬼たちから守り抜きつつ、より良い場創りに寄与すべく努めることくらいでしょうか。
但し、彼はそういう連中を見極める目も相当出来上がってきたようなので今や殆ど心配無用かもしれませんね。

ところで今回の投稿は、本来「教養と場創り」のスレッドで展開したかったテーマではございましたが、このスレッドが最近活況を呈していると感じられたことから、当スレッドにおける藤原さんからの提言に対する愚見を披露させて頂ければと思ったことため、この場を使ってコメントを述べさせて頂きました。

29T.N.:2010/01/27(水) 01:32:25
 開闢以来、先進文明(かつては中国、近代以降は欧米)に学ぶことが重要な意味を持っていたため、日本は情報
の受信に比べ、発信についてほとんど無頓着だったように思います。

 林輝太郎/板垣浩 著「株式成功実践論」から
”(競争社会における)「情報の公理?」ともいわれているものを紹介しておく。
(1)中立な情報は存在しない(一方に有利なら一方に不利である)
(2)情報は発信者に有利である(したがって受信者に不利)
すなわち「ハレー彗星は76年毎に地球に近づく」というのは客観的中立な情報であるが、競争社会においては
中立な情報は存在しない。
 株の買い方に有利な情報は売り方に不利である。発信者は自分に不利な情報は発信しない。当然のことである。”

 ここに挙げられている2点を踏まえ、”情報を発信することの価値”からやや意味が狭くなりますが、”情報を
発信することの利”逆に言えば、”適切に情報を発信しないことの不利”の自覚から始める必要があるように思い
ます。

30千々松 健:2010/01/27(水) 11:27:53
 私は、過去のアメリカ大統領と補佐官との間に交わされた会話とされるものを企業研修で良く使用して来ました。
それば、「情報と事実」をはっきり分けて報告せよと大統領が補佐官へ注文したという内容です。
いわゆる情報(広い意味)には「客観的な事実」と「主観的な情報(狭い意味)」があるから、大統領の立場にある私には、先ず客観的な事実だけを伝えてほしい、そして、必要が有れば私の方から補佐官の意見としての情報(主観的な情報)を聞くから用意して置くようにということでした。
 その意味からすると
>29
>(1)中立な情報は存在しない(一方に有利なら一方に不利である)
>(2)情報は発信者に有利である(したがって受信者に不利)
ここに言う情報は狭い意味での情報のことであると思うし、事実と情報の差異をしっかりと把握して行かないと、例えば意図を持って「リーク」された情報が事実を越えて発信されてしまい、的確な判断を誤るという蓋然性が生じるわけです。
T.N.さんの“情報を発信することの利”逆に言えば、“適切に情報を発信しないことの不利”の自覚から始める必要がある。はその通りであると思います。

 また、理想はコマ切れの事実を積み重ねたり、検証したりして、ジャーナリストが苦労を掛けて出来る限り客観的な情報を構築することが望まれ訳ですが、
実際は多くの朝のTV番組のように、新聞記事の切り抜きの紹介が中心にされている時代ですから、さびしい限りです。
企業人として、自社関連の新聞記事情報と実際に起こっていること(事実)が如何に不整合であるかを知らされてきた者として、ジャーナリズムの怖さと限界を踏まえて行くことが大切であると思います。


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