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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

173尾崎清之輔:2008/02/03(日) 00:48:21
(No.172に続きます)

自己の創造的破壊と高位の次元に向けたステップアップを通じて、自己のみならず、自己が直接的間接的に関わる様々な「場」が広がりを持つ系へ変革していくよう影響を与えていくことにより、自らの楽しみや喜びが、「社会」という「場」の楽しみや喜びへと繋がり、これが21世紀の理念創りの基礎となり、そこから理想を生かせる社会へと至り、また自らに何倍もの楽しみや喜びとして返ってくる循環的作用について、清水さんは以下の通り述べております。


◆私は社会を大きな劇場と見て、その動態を舞台で演じられる即興劇とみなす「社会の即興劇モデル」を考えてきた。社会という劇場の舞台の上で即興的な演技をする役者として人々は互いに関係し合いながら、それぞれの心の状態を表現していくことが人間の社会的活動であると考える。このモデルの特徴は、人間の集まりにおける人々の内面(身体化された心)の働きを重視して、その心の状態が外へ表現されて、社会的現象を引き起こし、その現象が再び人間の内面に影響を与えて次の現象を生み出す循環的変化が社会の動態の本質であると考えるところにある。一口に云えば、社会の動態とは、人間の心の状態と社会的現象の間を循環しながら生まれる即興的なドラマであると考えるのである。人々の社会的活動は、さまざまな社会的拘束の下で、それぞれの主体的な判断にしたがっておこなわれるシナリオのない即興劇的演技であり、その演技は身心の主体的な自己表現であるとしている。

◆この即興劇モデルの対極にある社会モデルが機械論的社会モデルである。これは、学習したプログラムを内側にもち、人間を指示情報と環境情報にしたがって自動的に動く一種の「知能機械」と見て、社会をその集まりによって構成されるシステムと見なす機械論的(システム)モデルである。機械論的モデルでは人間の心に刻々と生まれる生成的変化を取り扱わないために、人間の個性を平均値の周りの揺らぎという形で取り扱うが、即興劇モデルでは、人間を相互に置き換えたり、平均値をとったりすることができない個性(個物性)をもつ存在として取り扱う。

174尾崎清之輔:2008/02/03(日) 01:36:28
(No.173の続きです)

この即興劇モデルにおいては、日々に起こる様々なドラマ(出来事)に対して、自らが主体的即興的に進行させていくことが重要であり、これが延いては社会の健康な状態に繋がることを意味しております。

また、主体的即興的に進行させていくにあたり、自らがより良い未来へ向かって通るべき道を自己決定することを、清水さんは「自己ナビゲーション」と呼んでおられますが、これを更に『社会的な即興劇の場合でも、舞台の上のさまざまな状況を勘案して、役者が即興的に自分の行動のシナリオを決めることが自己ナビゲーションである。』と、広義の意味として用いることで、自己ナビゲーションが上手く出来ない理由を以下の3種類に分類されております。

1.舞台の上に自分の現在の状態をうまく位置づけられない。
2.最初に設定した目標の位置が誤っている。
3.自分の位置と目標との位置との間の空間が複雑であるために、なかなか目標に近づけない。

このうち3については、清水先生や藤井先生も仰せの通り、焦らず、諦めず、時間をかけて知恵を働かせ、勝てると思ったときに全力を尽くし、そして「継続は力なり」ということを信じていくことで、いずれは必ず目標へ到達することができますので、即興劇が進行しない閉塞的な状況へ陥ってしまうといったことはございません。

このあたりにも、先に申し上げた藤井先生の仰っておられる『大局観』を持つという、ものごとを鳥瞰することの重要性があり、自らがこうありたいという明確なイメージ創り(目標)を行いつつも、現在の自分の位置、すなわち真実はイメージでなく実体そのものであるとことを客観的に冷徹に見詰めて手探りで進み、たとえ間違ったとしても失敗したとしても、そしたらそれらの失敗から学んだり、単に道を引き返したりすればいいくらいの大らかさや心の余裕を常に持ち続けていけば良いだけのことであると思います。

(この項、更に続く)

175尾崎清之輔:2008/02/03(日) 02:58:24
No.174から更に発展させて頂く前に、私事で恐縮ですが、若干述べさせて頂きたいと思います。

ここ数日で私の身の回りに起こっている大きな物事の発生や変動に対して、より良い方向へ運ぶことも出来れば、ミスリードしてしまうこともあるのが実状ですが、それらのミスに対しても、ここの掲示板で展開させて頂いている内容を瞬間的に思い出すことで、ミスした後も引きずること無く、逆にその失敗から学んだことでその後を思った通りの結論へ結び付かせることも少しずつ出来るようになってきております。

そんなとき、ほぼ同じ時期に似たような実状(=情報)について発信して頂いた方がいらっしゃったことから、このとても自然体に感じ取られた発信内容が私の琴線に触れ、私なりに思うところがございましたので、それら個々人の実状をもとにGeneralizeし、普遍的な概念の創出へ寄与していくことが出来るよう努めていくことで、個々人が素敵な人生を送ることが出来るよう、またそういった方がより良い「場」の形成に繋げられることや、そこから新たな楽しみが生まれる循環的作用にまで至ることが出来るよう、所見を述べさせて頂きたいと思ったことから、先述の「即興劇モデル」をベースに考察を続けていきたいと思った次第です。

176尾崎清之輔:2008/02/03(日) 23:05:20
No.174において、清水さんは自己ナビゲーションが上手く出来ない理由を3種類に分類されておりますが、3につきましては、先述の通り閉塞的な状態に陥ることはございません。
従って、1と2が閉塞的状態の起きる原因ということになりますが、この辺りについて清水さんの著書より引用しながら若干敷衍させて頂きます。

まず、1につきましては、『空間(舞台)を全体的に摑むことができないために、自分で自分を空間にうまく位置づけることができない状態』、すなわち『自己言及ができない状態』であり、『この状態で動き回るために、ますます迷路の中に入り込む−ますます自己言及ができなくなる−という状態に陥っている』ことが閉塞的状態であると述べております。
尚、ここで『自己言及』という言葉が出てきますが、これは『自分自身が舞台のどこでいま何をしているかを自覚して、それを舞台へ表現する』ことを意味しております。

そして、これを敷衍する形で、社会モデルにおける自己展開という一般化した問題として捉えるために、以下のように分かりやすい説明を加えつつ、こうした状態へ陥ってしまうことに対して、根本から克服していくことについても述べております。

◆即興劇にこの自己言及の問題をもち込むと次のようになる。まず、一人の個人としての役者と即興劇という劇をしているときの舞台における役者とは異なっている。これは私たちがひとりでいるときと、企業なり、大学なり、グループなりの場にいるときとでは、振る舞い(自己のあり方)が異なっているということを云っているのである。舞台の上にいるときとは、自分の存在を即興劇の舞台の上に位置づけているときのことである。もしもこの位置づけができないときには、即興劇の舞台の上には存在していないことになるから、舞台から外れて故人になっていることを意味している。したがって舞台の上での迷子の状態は、個人としての役者が舞台から外れて迷子になっている自分自身−個人になっている役者−に「お前はいまどこで何をしているか」と訊ねることになるから、自己言及のパラドックスがおきてしまう。当然、筋の通った答えは出てこない。いまなすべきことが自分に見えないから、存在の喪失状態ということになる。

◆存在の回復にとって重要なことは、これまでの経緯にとらわれる自分から離れて、いま自分が存在している舞台ではそのようなドラマが演じられようとしているのかを落ち着いて摑むこと、そしてその舞台そのものを知ることである。これは一歩高い観点に自分自身を上げることに相当する。

ちなみに、私はここでも藤井先生が仰せの『大局観』を持つことの重要性について、感じざるを得ませんでした。

177尾崎清之輔:2008/02/04(月) 00:06:39
(No.176の続きです)

そして、2につきましても、1と同様に「自己言及のパラドックス」を生成していることになるのですが、1との違い(実はそこには非常に重要な違いというか問題の背景があるのですが)を説明させて頂けますと、これまでの社会においては、大枠としての道筋が明確になっていたことから、その上で自己の道筋、すなわち目標が立てやすかったのですが、今世紀に入ってから(より正確には20世紀末あたりから)は、社会全体が不健康な状態(ハッキリ云ってしまうと既に病膏肓へ至っている状態)のため、これまでの目標設定の仕方や方法では通用しないため、「未知の空間」へ出て行かねばなりません。

この辺りにつきましては、以前も申し上げたように、正慶孝さんが『ジャパン・レボリューション』(清流出版)において『テレオクラート』という『遠い将来を見通すことのできる専門家』の存在が必須になると喝破しており、これは、今後いろいろと起こり得る多くの試練や現実的な問題に対して、これら全ては自らが高位の次元に上がるための過程であるくらいの(リラックスした)気構えとほんの少しの勇気と実行が肝要であると考えております。

実際、いまの社会が置かれた現状を正しく分析すると、私が今更申し上げるまでもなく、超国家的な存在である様々な組織体や機関などによる国際経済における寡占体制の確立、すなわち世界経済の実質的な支配と、それに応ずるが如く、各々の国家においては、公共部門の「民営化」という名の「私営化」により、営利企業の領域を広げられてしまったことで、公共的な存在や社会的な存在を解体していく過程が顕著に現れてきており、これが『グローバリゼーション』の特徴ということになりますが、そのようにして形成されたグローバルな秩序体系において、国家の役割は今や殆ど無きに等しく、逆にそのグローバルな秩序の下請け機関に貶められてしまったことで、現代の民主的国家における憲法の主軸のひとつである、「個人の生存権利の保護」より、「グローバルな秩序体系の維持のための管理と統制」が主な役割を果たすことになってしまったため、個々人が自らの判断のもとに決めた目標であったとしても、どこかで必ず「たった一つ」の体系に吸収されてしまいかねない問題が存在しております。

…とは云っても、このグローバルな秩序体系が生み出す「大いなる閉塞的状況」も、所詮は「天地人」の人の次元で作り出しているのに過ぎませんので、同じく人の手で創造的破壊を起こすことで、より良き未来を創り上げていくことは十分可能ということになると思います。

178尾崎清之輔:2008/02/04(月) 00:39:23
さて、若干固い話題を続けてまいりましたので、ここでリラックスして頂くために、前にもご紹介した、この正月に二夜連続で放送されたクラシックをテーマにしたコメディタッチのドラマにおいて、主人公の一人が欧州の指揮者コンクールで一度は失敗し、その失敗から過去の同様の出来事を思い出し、そこから立ち直ってもう一度同じ曲で挑戦して見事指揮者コンクールの優勝をさらった曲である、R・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」から、今夜はフルトヴェングラー指揮による「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」をお楽しみ下さい。

◆Furtwangler conducts R.Strauss Till Eulenspiegel PartⅠ
http://www.youtube.com/watch?v=QdljBugBiN4

◆Furtwangler conducts R.Strauss Till Eulenspiegel PartⅡ
http://www.youtube.com/watch?v=p9dB0Hy0Gp0

179尾崎清之輔:2008/02/04(月) 23:34:52
昨日2月3日は節分でしたが、田中さんが先述の投稿で仰せのように、ここ千数百年以上に渡る日本(延いてはアジア圏やユーラシア大陸)の歴史において、支配階級と被支配階級の位置づけが、長い時間の中でどのように形作られ、また変遷してきたかに思いを馳せつつ、それが現代に至って顕密の世界における曼荼羅を描いていることは、知る人ぞ知る話であり、その一端は『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)や、『朝日と読売の火ダルマ時代』(国際評論社)、また『夜明け前の朝日』(鹿砦社)などにも書かれており、暗示的には『KZP』や『JZP』でも触れられておりますが、このあたりをより深く見据えて包括的に捉え直していくにあたっては、やはり一度は喜田貞吉氏の書籍群を手にしてみる必要性を感じており、例の宮崎駿さんの作品群に対する深遠な世界への言及を行うにあたっても、前に野田さんからご紹介のあった書籍群以外に、同様のアプローチが必要であると思ったことから、このテーマに関しては当分の間かかってしまいそうです。

180尾崎清之輔:2008/02/04(月) 23:48:11
さて、昨日まで『場創り』に向けた重要なキーワードである「即興劇モデル」を中心に、少し論考を続けさせて頂きましたが、更にこの『場』を司る個々人という生命体と、それら生命体が自発的に働く(≒動く)ことで、お互いの間に共鳴場や共鳴力などが発生し、そこからより大きな広がりを持つ系としての『場』へと成長していくシナジー効果に着目する必要がございますが、これこそが非線形理論の基本を示していると考える意味では、何度か話題に出てきた奥義書『生命知としての場の論理』(清水博著:中公新書)はもちろんのこと、その原点とも云われる『生命を捉えなおす』(中公新書)の精読も必須であり、これらの書籍群に対する深い認識と洞察とを通じて、漸く100年後に残る名著である藤原博士と藤井博士の対談『間脳幻想』(東興書院)の世界へ入るキップを手にすることになると考えております。

これまで藤井先生の書籍から何度か引用させて頂いた理由のひとつは、まさしくそこにあり、このスレッド名に『教養』という用語を使っている以上、やはり「そこ」への道に至るまでの過程と歴史を十分考察すること抜きにして『教養』は語れないと思っており、他の奥義書にあたる書籍群を読みつつ、この『間脳幻想』を何度も読み返すことの必要性を感じているところです。

そういう意味で、珪水さんが『間脳幻想』を数年前の時点で既に80回以上も読まれていたことは誠に敬服しております。

また、先の投稿では久しぶりに『グローバリゼーション』の話題にも若干言及させて頂いたことから、私が何年も前からご紹介させて頂いている『ル・モンド・ディプロマティーク』のイグナシオ・ラモネ編集主幹の論説を思い出しましたので、まだまだ若輩者ではございますが、ミクロな生命体の世界とマクロな宇宙の世界を考察しながら、人の次元で発生している社会的事象に対しても論考を重ねつつ、例によって愚見ではございますが、私なりの観点から、皆様へ出来るだけ分かりやすく噛み砕いて書くことができるよう、頑張っていきたいと思います。

そのための一環として、まずは意味論への正しい理解が重要になると考えますので、『間脳幻想』の藤井先生のあとがきで触れられております、一般意味論の中興の祖であるサミュエル・ハヤカワ氏の『思考と行動における言語』(岩波書店)を精読し始めたところであると申し上げておきます。

◆間脳幻想(まえがき&目次&あとがき)
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/brain.html

181尾崎清之輔:2008/02/05(火) 00:14:58
ところで話は全く変わりますが、先日までのお片付けでスッキリした拙宅にガーベラを主としたフラワーアレンジメントを飾りました。

ご存知の方々もいらっしゃることと思いますが、ガーベラの花言葉は「希望」「常に前進」などがあり、拙宅の部屋にあるピンクのガーベラは「崇高美」という意味もございます。

ちなみに同じガーベラでも黄色は「究極美」だそうですが、「崇高美」の方が、これまで展開させて頂いている内容にも相応しいと思ったことから、こちらの言葉の方が私個人としては好みですね。

182尾崎清之輔:2008/02/06(水) 00:23:08
先に挙げたサミュエル・ハヤカワ氏の『思考と行動における言語』は、日曜から読み始めて3割程度のため、内容のご紹介や読後感などについては、まだ先にさせて頂きますが、今夜は『間脳幻想』の世界へ入るキップを得る手掛りの一つと考えております、『生命を捉えなおす』(中公新書)に関して、私の古い記憶を頼りに若干お話させて頂こうと思います。

清水博士は、「生きている状態」の「共通分母」を探す過程において、まずは遺伝子レベルからゲノム、そして細胞から各器官、そこから生命ないしは生物に至り、更には生物社会から生態系、といった各々の段階における要素には全く依存しない「グローバルな性質」があると仮定して、部分(個々の要素)の総和が全体(生命)になるとは限らないという意味から、生命という存在、つまり『生きている』ということの重要な性質をズバリと言い表しており、この生命という系こそ、『非線形』であると看破していたと思います。

…とここまで書いて、よく考えてみましたところ、藤原さんが前に『生命を捉えなおす』に関する書評を掲示板のどこかでご紹介して頂いたことがあり、それが松岡正剛さんの書評であったことを思い出し、「非線形」の部分が非常に分かりやすく書かれていると仰っておられましたので、ここでは松岡さんの書評から「非線形」に関するポイントのみご紹介させて頂くに留めて、詳細は松岡さんのサイトのURLを再掲させて頂きます。

◆非線形というのは、原因と結果のあいだに足し算が成り立たないような性質をいう。たとえば、aとbという原因がそれぞれ単独にはたらいたときにあらわれる結果をそれぞれAとBしたとき、原因a+bがA+Bという結果になるのが線形性で、A+B+XやCというまったく変わった結果になるのが非線形である。(…中略…)生命現象はこういう非線形的な性質を本来的にもっているのではないかということになる。

◆グローバルな状態をつくっている系には、いくつかの共通の性質がある。そのひとつは非線形ということだが、もうひとつは「相転移」をおこしているということである。その系では「相」が劇的に変わっていく。
 たとえば氷と水と水蒸気は成分は同じでも、まったく異なる「相」をつくっている。層状に流れていた雲がいつのまにかウロコ雲になっているのも、水道の蛇口を少しずつあけていくと、水が糸状から急にねじり状になり、さらに棒状になって、そのうえで突然にバッと開いていくのも、「相」が変わったせいだった。逆に、コーヒーにミルクを垂らしたばかりのときはまだミルクをスプーンで引き上げることは不可能ではないかもしれないが、これがいったん交ざってしまったらミルクは二度と引き上げられない。こうした「相」の変化はあるところを境にして不連続におこる。劇的でもある。それが相転移である。
 おそらく生命現象もこういう相転移をおこしているのではないか。

183尾崎清之輔:2008/02/06(水) 00:29:03
(No.182より続きます)

◆相転移をおこしている系には何がおこっているのかといえば、構成要素の変化では説明しきれない何かがそこに発現していると考えざるをえない。
このことを最初に考えたのは反磁性や超伝導体を研究したレフ・ダヴッイドヴィッチ・ランダウで、ランダウはその発生している何かを「秩序」とよんだ。たとえば磁石が強い磁力を発現するのは、構成要素が変わったからではなくて構成要素間の関係が変化したからである。原子磁石の並び方が変わったからなのである。ということは相転移では無秩序なものから秩序のある状態が形成されているということになる。そうならば、生命はまさしくこのような「秩序をつくっている系」なのではないか。


◆松岡正剛の千夜千冊『生命を捉えなおす』清水博
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1060.html

184尾崎清之輔:2008/02/06(水) 01:45:01
今夜は踊る識者として知られた、故カルロス・クライバーのベートーヴェン交響曲第七番の第一楽章から第四楽章までのライブ(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)をお楽しみ下さい。
このライブは1983年10月に行われた、クライバーにとって絶好調の頃の貴重な映像です。

尚、ご存知の通り、この曲は日本のクラシックブームの火付け役となった連続ドラマのテーマ曲でもあり、劇中でもコンサートシーンで何度か使われた曲ですが、そのあたりも対比しながら鑑賞しますと楽しみが一層増すことと思います。

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.1(1)
http://www.youtube.com/watch?v=s1qAWcd4rr0

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.1(2)
http://www.youtube.com/watch?v=MzHt-_i_FcE

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.2
http://www.youtube.com/watch?v=bqtPVEuAbzM

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.3
http://www.youtube.com/watch?v=OiEt9y_r-og

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.4
http://www.youtube.com/watch?v=VLkZvsp62iU


ちなみに、愛妻家としても知られたクライバーは、ある時期(90年代以降)から妻との生活を優先し、指揮台に立つことは滅多になくなってしまったことから、文字通り「冷蔵庫が空にならないと」指揮をしないとまで言われておりましたが、あのダイナミックな指揮ぶりは、ある年齢を経てからは相当困難なことであったと個人的には考えており、仮に指揮台へ立つ機会があっても、ご本人にとって果たして満足いくものであったかどうか分かりませんが、いずれにしても、先述のプライベートにおけるクライバーの生活スタイルには、深く感銘を覚えており、敬愛の念も抱いております。

185尾崎清之輔:2008/02/06(水) 01:53:21
訂正:踊る識者→踊る指揮者

186野田隼人:2008/02/06(水) 19:33:47
尾崎さんの精力的な書き込み、頭が下がります。

ところで、尾崎さんは喜田貞吉の著書について言及されていましたが、私も喜田の書籍群にあたることについて賛成です。私も以前から喜田の論文に関心を寄せていました。ご存じと思いますが、幸い河出書房新社から三巻シリーズで喜田貞吉の復刊本が出るようで、既に発行された『先住民と差別』が漸く今日届いています。時間を見て目を通すつもりであり、今後出版が予定されている残りの二冊、『被差別部落とは何か 』と『賤民とは何か』も楽しみです。
http://www.kawade.co.jp/np/author/10945

なお、上記とは関係はないのですが、横田めぐみさんを拉致した犯人と兄弟のように付き合っていたという人物の本が出ました。テーマが横田めぐみさんを拉致した朝鮮人の話ですので、これも見方によっては喜田の著書と根底で繋がるものがありそうだな…と最初の数十ページを読み進めて感じています。
http://310inkyo.jugem.jp/?cid=5
『招魂の海 故北朝鮮工作員の「号泣の遺言」』(笹谷洋一著 PHP)

187尾崎清之輔:2008/02/07(木) 00:36:29
野田さん。私の具にも付かない雑文に対して、適切なフィードバック並びに参考情報を提供頂きまして、誠に有難うございます。

先に申し上げましたように、これらの世界と歴史に対して深い考察を重ねて洞察力を身に付け、包括的に捉え直していくにあたっては、相当の努力とそれなりの強い覚悟が必要になることは、いみじくも落合莞爾さんが「ワンワールド」というひと言で片付けてしまう最近の連載記事の傾向に対して、その前までの「まともだった」頃の、非常に冴えていた筆力に顕されているのではないかと考えております。

尚、正確にはこの辺りの現況についても、若干ではあるものの、私としては今後の期待を込めた異論を持っており、それは「薩摩」をキーワードとして、単に「ワンワールド」云々と呼ぶには相応しくなく適切でもない別ルートの存在形態(≒表面化していない歴史の流れ)にまで言及し、それが維新直前直後の薩摩と京都の関係(特に遷都した後)、延いては東京との関係性や満蒙の歴史にまで至るのであれば、また楽しみが一つ増えるものと考えておりますので、今後の落合さんに期待したいところです。

ところで、八切止夫氏の書籍群は私も幾つか読破しましたが、彼独特の種本の背景思想が垣間見られてしまうこと、小説風に描くことが主となっているため、それがあの独特の文体と折り重なって、一部の方々へしか伝え切れていないという現実があると思います。

また、鹿島昇氏の書籍群の多くはもとより、『結社と王権』(講談社学術文庫)や『被差別部落一千年史』(岩波文庫)など比較的手に入りやすい書籍もさっと一読しましたが、分かっていても書けないのかどうかは全く不明なものの、後者2冊については三角寛史観から脱却できていないと思われたのが残念であり、前者の書籍群においては、喜田貞吉氏の話題は幾つか出てくるものの、それ以上の深い部分にまでは余り考えが至っていないか、優先度を下げているようにも感じられ、そこは残された者たちの今後の課題かもしれません。

その過程では、日本の衆道史の名著と呼ばれている『本朝男色考・男色文献書志(合本)』(原書房)という観点から「役小角」にも触れねばならないとも考えており、その道はなかなか険しそうですね。

いずれにしても、この辺りを敷衍している書籍や論文の少なさには、日本(アジア圏もそうですが)における歴史の浅さというか、人類共通資産と考える(精神としての)思想体系が存在してこなかったという意味で、現在のテクノロジー万能主義(全て技術で解決できる可能性があるという原理主義)や市場万能(原理)主義、または賤民資本主義などにも繋がっており、現代社会の最重要課題の一つとして顕著に現れてきているとも考えます。

188尾崎清之輔:2008/02/09(土) 23:45:25
No.159の村山さんの提起を受けて、No.160で私の愚見を披露しましたが、今夜は更に敷衍させて頂きたいと思います。

まず、戦後から今日(こんにち)までを振り返りますと、高度経済成長時代や安定成長時代と呼ばれた時期を経て、バブル狂乱と後のバブル崩壊、そして冬の時代を迎えて現在に至っており、(今も大手とか多国籍と呼ばれる組織に属する人間は特にそうですが)その間、猛烈社員を良いことだと思ってがむしゃらに働き、『経済大国らしいもの』を作った結果として、日本の男性の殆どが「燃え尽き症候群」で反応力が無くなってしまったことについては、私も極めて同意であり、それは文字通りの「濡れ落ち葉」という意味だけではなく、創造力の欠如はもちろんのこと、想像力の欠陥も露呈していることに顕れており、その具体的な症状が、「ひとの話を聞かない」、「無反応」、「すぐキレる」などの病理的現象に繋がっていることは先述の通りですが、更には求心的で縮み思考的な発想の一つである「おたくテクニシャン」ぶりにも表されていると考えます。
これは、産業社会の発展形態において、労働集約型と技術集約型が未分化のまま進んできたと考えられる、日本の製造業の生み出した様々なオモチャ的な機器への憧憬にも明らかではないかと思われるからです。

そして、『経済大国らしいもの』とは、本来の経済大国を意味すると考える、後の歴史に耐えうるほど長期に渡るインフラの整備や、経済成長を遂げていく中で作り上げてきた多くの内部留保を次世代に向けて還元していくことでなかったことは、『不毛な成果』として現在の歴史が示している通りであり、これまでの成長の過程で「本来存在するはずの資産」が、実際には何処へ何に使われてきたか、今や政財官業界すべてひっくるめて不明となってしまったことは、余りにも大きな本質的問題であり失敗ではないかと考える次第です。

個別に誰某が何千万円とか何億円とか手にしたとか使ったとかいった話は、醜聞的な話題として、時折マスメディアの表面に出てくることはあっても、国家予算とか自治体予算、またそれに匹敵するような何兆円以上のお金が、マネーゲームの中で一瞬のうちに消え去ってしまったことについて、はっきりと言及している方々は、藤原さんとか落合(莞爾)さんのようなごく一部の方々を除いて皆無に等しいのが事実と考えます。
あれだけ市井の民が汗水流して稼いできたはずのお金や資産などは果たして一体どこへいってしまったのでしょうか。

この辺りは、藤原ブッククラスターの方々や、Ratioに熟知されている賢者の方々など、本質を見極められる直観力を持つ方々でしたらご存知のように、今一度、戦後から今日に至る歴史を総括し、正しく認識して日々の行動へ反映させていくことにより、次世代の負債として残さないよう努めていくことが、我々の最重要課題ではないかと考えます。

189尾崎清之輔:2008/02/11(月) 00:46:16
このスレッドを立ち上げて早3ヶ月強ほどが経ちましたが、その間、この場を通じた叡智と機知に富んだ書き込みや、陰ながらの応援を頂きまして、このたび、同名のブログを立ち上げることに致しましたので、ここにご連絡申し上げます。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

相変わらず雑文や稚拙な論説が続くことになるとは思いますが、今後とも、ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します。

尾崎清之輔 拝

190尾崎清之輔:2008/02/11(月) 20:50:49
先程、ブログ『教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて』の方へ書き込ませて頂きましたように、このスレッド並び掲示板と、ブログとの連携を図っていきたいと思います。

掲示板の持つ特性とブログの持つ特性(それぞれのメリット / デメリット)につきましては、「ブログと掲示板の連携」と題した記事としてまとめさせて頂きましたので、そちらをご確認下さい。

暫く試行錯誤しながら、ということになると思いますが、ブログと掲示板それぞれの持つ特性と利点を考慮しつつ、連携に向けた実験的な試みを幾つか行なっていきたいと思います。
現時点では以下のような案を持っておりますが、他にも良案がございましたら、ご提案を頂けますと誠に幸いです。

◆当該掲示板で既に投稿済みの私の記事については、空間的他所への啓蒙等を趣旨として、一部追加修正を施した上、ブログへ再掲する。

◆当該テーマに関する皆様からの主体的創造的な課題提起、または即興的な意見やコメントについては、主にこのスレッドや関連する他の掲示板を通して行い、必要に応じてブログの方へも展開し、他の優れたブログとの連携も視野に置いて発展させていく。更にその過程で掲示板へフィードバックループさせていく。

191尾崎清之輔:2008/02/16(土) 11:22:04
ブログをはじめて1週間ほどが経ち、日々更新しておりますが、その分、掲示板の書き込みの方が疎かになってしまい、誠に恐縮です。

さて、藤原博士が仰せのように、正慶孝さんも数少ない現代のルネサンス人のひとりであり、小生も正慶さんの素晴らしい思想には大変敬服しておりました。
現在、小生のブログで「正慶孝さんの偉大なる功績」と題した連載を行っておりますので、お暇なときにご一読頂けますと幸いです。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

192尾崎清之輔:2008/03/31(月) 01:28:07
先程「 デリバティブバブル崩壊後の新世界秩序」スレッドでも申し上げましたように、堤未果さん著による『貧困大国アメリカ』(岩波新書)をもとに、拙ブログで『日本という「場」』として展開させて頂きました。
相変わらず雑文拙文レベルの内容ではございますが、様々なテーマに渡って日々記事を掲載しておりますので、お時間ございましたら、ご一読頂けますと誠に幸いです。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

193首藤尚丈:2008/04/17(木) 23:21:18
いろいろとご心配をかけて申し訳なく思っています。私の名前が目に留まりましたので一言申し上げます。会社のことはさておき現在私は数学を用いて宇宙の構造に挑戦中ですーその結果我々の宇宙のそとに別の宇宙が取り巻いていることを発見しました。此の発見が重力の統一につながるもののようです。重力が次元に関係していてシュトーレンの数列を一般項にまとめあげればいいようです。ドキッとするような話ではありませんがディラックの物理の先の世界を開けます

194尾崎清之輔:2010/01/05(火) 00:24:52
小生が嘗てご紹介させて頂き、後に自身のブログを立ち上げる切っ掛けの一つとなったtoxandoriaさんのブログから、記事とコメントが引用された阿修羅の素晴らしいレポートを見つけたことは先に他のスレッドで述べた通りですが、このレポートの引用元であるtoxandoriaさんの記事と、ブログ主を凌駕していると感じられたコメント主の如意輪観音さんの鋭い指摘には正しく目から鱗が落ちる思いでした。

以前も申し上げましたように、toxandoriaさんは芸術の世界に造詣が深く、欧州の歴史や哲学にも精通しているブロガーであり、その文面から醸し出される心の余裕と高貴なる精神性は、“似非”ないし“やまいだれ”の知性を撒き散らす“文化人”とは異なり、冴えた論評を行なうことのできる方として敬服しておりますが、そうであるからこそ如意輪観音さんのような叡智に満ちたコメントが為されるのでしょう。

政治批判の能力を失ったメディアへの告別の発言
http://asyura2.com/09/senkyo73/msg/767.html

特に、toxandoriaさんが指摘された、アメリカ発グローバリズムの枝葉の一つである「小泉=竹中劇場」あたりから始まる“暴政”の本性であるグローバル市場原理主義を、“限界効用カルト”、即ち、“限界効用関数の微分係数へのカルト的信仰”、と喝破したあたりは流石であり、これぞまさしく前世紀までを司り、今世紀に入って益々その行状が荒々しくなってきた賤民資本主義の成れの果てではないかと思う次第です。

さて、私事で誠に恐縮ですが、思えば昨年の小生は湯武放伐にほんの僅かながら関わったものの(…爪先以下ですが…)、決して寄与したと言えるレベルにはなく、とある事情もあってBusinessの世界に軸足を置かざるを得ない状況にありましたが、気が付けばいつの間にか文字通りの「Business Person⇒忙しい人⇒心亡びた人」になっていたことを、身をもって体験したと申し上げておきましょう。

昨年後半から、“教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて”少しずつリハビリ(笑)を行ない、暮れ頃になって、Businessの世界にのみ軸足を置いている階層から、教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けたScholē(スコレー)な階層へ、未だ片足の先だけですが置くことができるようになってきたことで、漸く“まともな世界”へ戻れる兆しが見えてきたと思います。

時折また愚見を述べさせて頂くことになるかと思いますが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

195尾崎清之輔:2010/03/24(水) 00:59:13
暫く前、ある方のブログのコメント欄で愚見を述べさせて頂き、また別の方々へは口頭でお話した内容に対して幾つかフィードバックを頂き、中には非常に興味深いコメントもあったことから、折角なのでこちらの掲示板でも僅かな手直しを施した上で再掲させて頂きたいと思います。

なお、このテーマは当初『Once upon an Olympian time』のスレッドでその触りを述べさせて頂いたことから、そちらで続きを行なおうかと思いましたものの、こちらは別の観点から話題提起させて頂いたことから、嘗て小生が立ち上げたスレッドを久々に活性させる意図(笑)も込めて、『教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて』の方で行なわせて頂くことを予めご了承下さい。

それでは早速本題に移らせて頂きますが、小生のブログのリンク先の一つである“マヨの本音”にて過日愚見を述べさせて頂きましたように、前回2006年冬季五輪の開催地トリノでの開会式では、イタリアはトスカーナ出身の作曲家プッチーニのオペラ『トゥーランドット』から「誰も寝てはならぬ」を、今は亡きパヴァロッティが高らかに歌い上げ(実際は口パクでしたが…)、フィギュアでは同曲を使った選手が金メダルを獲得するに至りましたが、ご存知の通りオペラ『トゥーランドット』の舞台は北京であることから2年後の北京五輪を推測させることは容易であり、そのAnalogyからすると、今回2010年バンクーバー冬季五輪のフィギュアの曲目を知った時点で2年後のロンドン五輪を推測させる選手の勝ちが見えてしまいましたが(笑)、加えてバンクーバーは(英国が国家元首でその代理である総督を置いている)カナダの一都市であることを考えると、余計そう思わざるを得なかったと申し上げておきましょう。

従って、小生が銀に泣いた選手の曲目を選べる立場、つまりブレーンなりコーチ陣の一人であったとしたら、迷うことなくプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」をフリーの曲目に薦めたことでしょう。

バレエ音楽としての「ロミオとジュリエット」はプロコフィエフの作品ですが、元はシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」であること、英国にとってシェイクスピアとジェームスボンドとでは比較にならないレベルであることは、欧州のBlue Bloodや教養人でなくとも当たり前の話ということになるからです。

また、プロコフィエフはロシアの誇る作曲家の一人であり、彼の出生地が4年後の冬季五輪の開催地ソチから北北西に350〜400キロほどの位置にあることを考えると更にイマジネーションが掻き立てられるでしょうし、金メダリストとなった選手のフリー曲である、ガーシュインの「ピアノ協奏曲へ長調」をプロコフィエフが批判的に捉えていた(但しこの件については異なる2つの説があるためどちらが真実かは調査検討要)ことも考えると、もし銀メダリストが「ロミオとジュリエット」をフリー曲に使ったならば、別の意味での真のライバル対決が可能になったのではないかと思った次第です。

196尾崎清之輔:2010/03/24(水) 01:11:28
(前項に続きます)

この辺りを敷衍させて頂きますと、曲の選び方、より正確には、『曲の持つ歴史や世界観また哲学などといった背景を含めた選び方に対して、それらを熟知している方々によって勝敗が左右』されることに本筋があるのではないかと小生は考えておりますが、無論オリンピックという場における競技の一種であることから、そもそもお話にならない技術やレベルでは誰もまともに評価することは出来ないものの、いみじくも藤原肇さんが『オリンピアン幻想』(東明社)その他の自著において、オリンピックとは貴族達の4年ごとのサロンと看破されていたように、また、小生が親交を暖めている、嘗てまたは現在欧州に長く居住してそれなりの階層とお付き合いのある何人かの方々も同様のことを仰っておられましたように、中世の教会を中心とした宗教音楽の時代から、ルネサンス期を経て、バロック、古典派、ロマン派、新古典派、そして近代音楽といった西洋(クラシック)音楽の長い歴史の流れの中で、これら音楽の主な庇護者とは一体どういう階層の方々であったかを考えれば、自ずと答えは導き出されるものと思います。

また、勿論その間の音楽家の立場や地位の変遷についても見逃せないと考えます。

それらを踏まえた上でオリンピックの意味論を考えるならば、藤原肇さんの『Mountain of Dreams』やそれに先立つ『オリンピアン幻想』を読まれた方々でしたら、選手達の位置付けが一体どこにあるかは賢明な諸兄であればピンと閃くことでしょうし、競技や演技に伴う曲目の選択が意味することとは、先に述べた階層の方々に対するメッセージ(及びそういうメッセージを発せられる日本人が存在するという意味)として捉えれば、欧州(特に英国とその実質的な影響下にある地域)のBlue Bloodや教養人(と自負する者達をも含めて…)らが、まさかシェイクスピアのことを(ジェームスボンドより下と)冒涜するわけにはいかないでしょうから(笑)、もっと面白い展開になったでしょうし、仮にパリア・キャピタリズムの力学による働きが重きを置かれることになったとしても、例えば僅か0.1ポイント差の銀ということであれば、「ボン・サンス」が働いたかなと推察できたことでしょう(笑)。

また、小生が銀メダリストに対してプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」をフリーの曲目に薦めたであろうことは先に述べた通りですが、そこには二重の意味が込められており、ラフマニノフの「鐘」を演じるには年齢的にも経験的にも未だ少々早いのではと思われた銀メダリストが、「ロミオとジュリエット」で演じる、親同士の争いや確執などの犠牲になった少女の、美しくも哀しい“ひたむきな恋”を演じることは、彼女の年齢や見た目などからより相応しかったのではないかと考えていたことから、この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

なお、最後に蛇足となりますが『抗菌は銀なり』という一文でこの場を締め括らせて頂きます。
(“菌”を同音異字の“金”と読み替えて下さい)

197尾崎清之輔:2010/03/24(水) 01:36:42
前項196.で述べた文章の一部にごく僅かですが追記させて頂きます。

>この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

上記の“この戯曲の悲劇性というAnalogyから、”の前に、“それでも銀に泣いた結果になったとしても、”という一文を加えさせて頂くことで、

◆それでも銀に泣いた結果になったとしても、この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

とさせて頂きます。


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