したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

「クリスマス=オラトリオ」の歌詞のメモ

15Bhaashendradatta:2009/09/30(水) 22:41:01
ここまででわずか楽譜4ページ分の歌詞であった。
しかもソロばかりなので、ソリストのうち4人にしか歌われない箇所。

次からが、コーラス全員で歌う歌詞。歌詞は短いが、楽譜5ページ分。
dīcentium(言っている)が、複数形であるので、ここの語り手は、
「天使+天の大軍(いずれも単数名詞)」と解釈できる。

内容は定番だが、解釈には諸説あるようだ。

まず、Gloria in altissimis Deo。
glōriaは、「栄光・名声・評判」。単数主格(女性)。
altissimīsは、altus(高い)の最上級altissimusの、男性複数奪格。
 ※「天」は、普通は中性単数だが、アラム語等の影響で、宗教的には
  男性複数扱いされることがあるらしい。よく知らないが。
 ※altusは、alō(養育する)の過去分詞から来ているらしい。
Deoは、Deus(神)の単数与格(男性)。
これは動詞のない<名詞文>で、「最もor極めて高い〔天界〕において、
神に栄光が〔あるorあれ〕」。

et in terra pax hominibus bonæ voluntatis。
terrāは、terra(大地・陸・地球)の単数奪格(女性)。
in terrāで、「地において」。
paxは、「平和」。単数主格(女性)。
hominibusは、homō(人・人間・男)の複数与・奪格(男女性)。
で、その後が、宗派等により意味の解釈の分かれるところ。
bonæは、bonus(良い)の女性単数属格。
voluntātisは、voluntās(意志・欲求)の単数属格(女性)。
私は、こうした上で、「良い意志」=「神の御心」という解釈が良いと思う。
「地においては、良い意志〔=神の御心〕にかなう人々に平和が〔あるorあれ〕」。
他には、「良い意志」=「個々人の持つ良心」という説や、
もとの言語であるギリシア語の表現から、「地においては平和、意志に
おいては良さ」と分割する立場などがあるらしい。

以上で、9曲構成のオラトリオのうち、2曲目の歌詞について一通り書いた。
オラトリオ全体の歌詞のうち、これだけで3割近くを占める、最も歌詞の多い曲である。
次から3曲目へ。

16Bhaashendradatta:2009/10/01(木) 18:48:11
さて、次は9曲中の3曲目。
歌のない1曲目を除くと、最も歌詞の短い曲である。ソプラノのソロのみ。
音域はbからf#2までで、中音域をたっぷり歌えるメゾに向いているようだ。

Expectans, expectavi Dominum,
et intendit mihi.

これは、旧約のほう、詩篇第39の第2節である。
詩篇は、ギリシア語からの重訳とヘブライ語からの訳で、ラテン語の表現が
違うが、これはギリシア語からの重訳。
ちなみに、新共同訳の聖書では、これは第40篇と数えられている。

新共同訳の対応する部分を書く。
「主にのみ、わたしは望みをおいていた。
主は耳を傾けて、」。
その後、文の残りは、「叫びを聞いてくださった。」

動詞exspectō(待つ・待ち望む)は、この歌詞のように、3文字目のsを
落として書いても間違いではない。
expectansは、その現在分詞の、単数主格(通性)。
expectāvīは、直説法完了一人称単数。
Dominumは、Dominus(主)の、単数対格(男性)。
intenditは、intendō((注意を)向ける・差し出す)の、直説法完了三人称単数。
mihiは、ego(私)の単数与格。
「私は主を待ち望みに待ち望んだ。そして彼(=主)は私に注意を向けた。」

こういう短いのはすっきりしていいですね。

17Bhaashendradatta:2009/10/02(金) 20:27:03
続いて4曲目。
テノールのソロと女声合唱の曲。

Domine, ego credidi quia tu es Christus Filius Dei vivi,
qui in hunc mundum venisti.

これは、「ヨハネによる福音書」第11章の27節。
ラザロの死と復活の奇跡の中の、マルタの言葉である。
同じように、新共同訳から書き写すと、
「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると
私は信じております。」
今回の歌詞では、新共同訳では無いことにしているviviがあるので、
「生きている神の子」となる。
この直前に「はい」という言葉があるが、これに相当するのはラテン語で
utīque(確かに)である。さらにその前に、ait illī(彼女は彼に肯定して
言う)がある。

Domineは、Dominus(主)の単数呼格(男性)。
egoは、「私が」。ここは動詞の一人称単数と同時に使われているので、
「(他の人はともかく)私は」くらいの強調ではあろう。
credidīは、credō(信じる)の、直説法完了一人称単数。
「私は信じるようになった(=今信じている)」

どう信じるようになったかと言えば、
tuは、「あなたは」。二人称単数主格の代名詞。
esは、sum(ある)の直説法現在二人称単数。
Christusは、キリスト(メシア)。単数主格(男性)。
Filiusは、息子。単数主格(男性)。
Deīは、Deus(神)の単数属格(男性)。「神の」。
vivīは、どうも16世紀のクレメント版の聖書によるもので、他の版には
ないらしい。vīvus(生きている)という形容詞の、男性単数属格。
「神」を修飾する。
これらを率いるquiaは接続詞。

18Bhaashendradatta:2009/10/02(金) 22:58:45
次に関係代名詞quīが続き、「生きている神の息子」を説明する。男性単数主格。

in hunc mundum。
huncも一部の写本・版にしかないらしい。hic(この・ここの)の男性単数対格。
mundumは、mundus(世界・俗世)の単数対格(男性)。
ここの対格は移動の対格で、「この世へと」。

venistīは、veniō(来る)の、直説法完了二人称単数。
「あなたは来た(=今ここにいる)」

以上のことを、私(=マルタ)は信じるようになった(=今信じている)。

ということで、これも短い第4曲は終わり。

19Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 07:42:23
第5曲目は、ソプラノとバリトンのソリストによる二重唱。
歌詞的には、この曲まで終われば半分を超えるが、楽譜的にはまだまだ
半分に到達しない。

Benedictus qui venit in nomine Domini.
Deus Dominus, et illuxit nobis.
Deus meus es tu, et confitebor tibi.
Deus meus es tu, et exaltabo te.

この曲はまた旧約のほうに戻って「詩篇」からの引用。
ラテン語ウルガタ版だと、第117篇、新共同訳だと、第118篇にあたる。
第26から28節で、途中の言葉をいっぱい端折っているので、新共同訳から
端折りながら引用すると、次のようになる。

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。
主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
わたしの神よ、あなたをあがめる。」

これだけで大体単語の対応は分かるようなものだが。

benedīctusは、benedīcō(良く言う・褒める・聖別する)の過去分詞。
男性単数主格。「祝福されて(あれ)」。構文上名詞文で、述語動詞はない。
quīは、これを受ける関係代名詞。男性単数主格。
venitは、veniō(来る)の、直説法現在三人称単数。
nōmineは、nōmen(名・名前)の単数奪格(中性)。
Dominiは、Dominus(主)の単数属格(男性)。

ここまでは典礼文のベネディクトゥスと同じ。

20Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 09:42:30
Deus Dominusは名詞文。「神は主」「神であるのは主である」
illuxitは、illūcescō(照らす)の直説法完了三人称単数。
illūcescōの構成は、illūceō(輝く)の起動動詞。
illūceōは、in- + lūceō(明るい・輝いている)の合成。
ここでのin-は、輝きの向う方向、照らす方向・目的を意味する。
nōbīsはその補語で「私たちのために」。

Deus meusは、「私の神」。
meusは、一人称単数の所有代形容詞の男性単数主格。
esは、sum(ある)の直説法現在二人称単数。
tūは、二人称単数主格の代名詞。

confitēborは、confiteorの直説法未来一人称単数。
「私は〜に『〜を信じている』と告白するだろう」の意味。
tibiは、「あなたに」。二人称単数与格の代名詞。
新共同訳とはおそらくもとの典拠が違う。

exaltābōは、exaltō(高める・褒め称える)の直説法未来一人称単数。
ex-(〜から) + altus(高い)。
tēは、「あなたを」。二人称単数対格の代名詞。

21Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 16:45:55
次は、第6曲目。
曲を通じて混声四部合唱になっている、このオラトリオで唯一の曲である。
d-mollの前半部と、B-durの後半部で、歌詞の出典が違う。
このように別々のところから歌詞を持ってきている曲は、他には第9曲目がある。

Quare fremuerunt gentes ?
et populi meditati sunt inania ?

Gloria Patri, gloria Filio, gloria Spiritui Sancto ;
sicut erat in principio, et nunc, et semper, et in sæcula sæculorum.
Amen.

先の2行は、「詩篇」第2篇の第1節。冒頭部分である。
ここは新共同訳の日本語では、
「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、
人々はむなしく声をあげるのか。」
となっている。

残りの部分は、聖書そのものではなく、日本語で「栄唱」「頌栄」「光栄讃詞」などと
呼ばれ、ラテン語で「Doxologia」と呼ばれるものから来ている。
特に「小栄唱(Doxologia Parva または Doxologia Minor)」と呼ぶもののようである。
日本語は、各宗派・教会によって異なるようであるが、カトリックの『日々の祈り』では
次のようになっているそうである。
「栄光は父と子と聖霊に。
初めのように、今もいつも世々に。」

旧約の聖句を、キリスト教にふさわしいものとして歌うために、三位一体を讃える
この栄唱を加えるのだ、という説明がどこかにあった。

22Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 18:49:02
quārēは、疑問副詞。「どうして、なぜ」。
直訳は「どんな物事によって」という女性単数奪格の形。
fremuēruntは、fremō(どよめく・とどろく)の直説法完了三人称複数。
gentēsは、gens(民族・国民)の複数主格(女性)。
複数だと「外国・外国人」の意味もあるらしい。

populīは、populus(民族・国民)の複数主格(男性)。
meditātīは、meditor(思案する・熟考する)の完了分詞の、男性複数主格。
suntは、sum(ある)の、直説法現在三人称複数。
meditātī suntで、meditorの複合完了形。直説法完了三人称複数。
ināniaは、inānis(空(カラ)の・中身のない)の、中性複数対格。「空しく」。

23Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 19:21:24
glōriaは、「栄光・名声・評判」。単数主格(女性)。
Patrīは、Pater(父)の、単数与格(男性)。「父に」
Filiōは、Filius(息子)の、単数与格(男性)。「息子に」
Spīrituīは、Spīritus(霊・命・呼吸)の、単数与格(男性)。
Sanctōは、Sanctus(神聖な・聖なる)の、男性単数与格。「聖霊に」

sīcutは接続詞。「ちょうど〜のように」
eratは、sum(ある)の、直説法過去三人称単数。
principiōは、principium(初め・開始)の単数奪格(中性)。
「〔世界の〕初めにそうであったように」

nuncは、「今・現在」。副詞である。
semperは、「常に・いつでも」。これも副詞。
sæculaは、sæculum(世代・時代)の、複数対格(中性)。「世代へと」。
sæculorumは、同じくsæculumの、複数属格(中性)。
複数になると、「長期間・永遠」の意味合いが出て、
「永遠を構成するうちの(〜(ある)一世代へと(順次に))」という
ことになる。

Āmēnは、ヘブライ語由来の間投詞。「かくあれかし」

24Bhaashendradatta:2009/10/03(土) 23:41:51
そして7曲目。
ソプラノ・テノール・バリトンのソロによる三重唱である。
ここから楽譜上も後半に入る。

Tecum principium in die virtutis tuæ,
in splendoribus Sanctorum.

これは詩編の第109篇(新共同訳で第110篇)の第3節から来ている。
歌詞は短いが、解釈の非常に難しい個所である。
何しろ、ギリシア語からの重訳とヘブライ語からの訳でラテン語が大きく異なり、
両方のラテン語と新共同訳の日本語とがまた異なるということで、ここでは
日本語の権威ある参考訳を頼りにすることができない。

tēcumは、tēとcumに分かれ、「あなたと共に」。
principiumは、「初め・開始」。単数主格(中性)。
このprincipiumが何を意味するのかが、解釈上の大きな焦点である。

ここで「tū(あなた)」は、旧約の文面上は、イスラエルの王のことであり、
本当に作者をダビデとすればその王のサウルか、あるいは作者は別にいて
ダビデ本人が謳われていることになろう。
その場合、principiumは、イスラエルの主権・王権のことかもしれないし、
統治の開始のことかもしれないし、その王朝の創始者のことかもしれない。
そしてキリスト教の視点から見れば、ここでイエスのことが象徴・預言されている
ことになろう。
その場合は、principiumは、天の主権・王権のことかもしれないし、霊力のことかも
しれないし、天地の始原のことかもしれない。

しかし、ルターもどこかで言及していたようであるが、ここではイエスが天で
王位に就くとか、天地の始原がイエスとともにあるなどということは、もとの
ヘブライ語は全く意図していない。
ザメンホフのエスペラント訳を参考に、この部分の日本語訳をヘブライ語に近づけて
作るとすると、
「あなたの力の日に、聖なる装飾の中で、あなたの人民は進んであなたに身を捧げる」
である。
新共同訳から対応する文言を抜き出す形で改訳すると、
「あなたの民は進んであなたを迎える
聖なる方の輝きを帯びてあなたの力があらわれるとき」
である。

25Bhaashendradatta:2009/10/04(日) 00:23:03
ここでは、おそらくキリスト教での解釈がそうなのであろうということに
従って、「tū(あなた)」は、み子・イエスのことであり、principiumは
天地の始原・原理である父なる神のことであるとしておく。
私はクリスチャンではないので、それが正しいかどうかも保証できない。

diēは、diēs(日・一日)の単数奪格(男性)。
virtūtisは、virtūs(雄々しさ・力)の単数属格(女性)。
tuæは、tuus(あなたの)の女性単数属格。
「あなたの力(を発揮する)の日に」。
ここも、地上の王ならば“戦闘に勝つ”などのことであろうが、
イエスに関しては“復活”のこととなるであろう。
他にもあるかもしれない。

splendōribusは、splendor(輝き・光輝・栄光)の複数奪格(男性)。
Sanctōrumは、Sanctus(聖者・聖なるもの)の複数属格(男性)。
ここも、一般の聖者たちという解釈に対して、聖なるものは“三位一体の神”
だから男性複数なのだ(父も子も聖霊も男性)というキリスト教的解釈がある。

26Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 00:11:21
そして8曲目。
ソプラノ1・ソプラノ2・アルト・バリトンのソロによるカルテット。

Alleluia.
Laudate, cœli, et exulta, terra,
quia consolatus est Dominus populum suum ;
et pauperum suorum miserebitur.

ハレルヤを除き、この歌詞の出典は「イザヤ書」49章13節。
これも省略があるので、その箇所を省略するようにして新共同訳の
日本語を写すと次のようになる。
「天よ、喜び歌え、地よ、喜び踊れ、
主はご自分の民を慰め
その貧しい人々を憐れんでくださった。」
これも、ラテン語とヘブライ語に差があると思われ、ラテン語の
訳としてそのまま用いるには少し難がある。

allēlūjaは、ヘブライ語由来の間投詞で、「主をほめたたえよ」。

27Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 20:01:12
laudāteは、laudō(褒める・賞賛する)の命令法現在二人称複数の形。
cœliは、cœlum(天)の複数呼格(男性)。※通常は中性単数。(>>15
※cœlumは、cælumと書いても同じ。
exultāは、exsultō(跳びはねる・跳ねまわる)の命令法現在二人称単数。
terraは、「大地・陸・地球」を意味し、単数呼格(女性)。

quiaは、以下の節を率いる。「というのも〜だから」。
consōlātusは、consōlor(慰める・励ます)の、完了分詞。男性単数主格。
estは、sum(ある)の直説法現在三人称単数。
consōlātus estで、consōlorの直説法複合完了三人称単数。
Dominus(主)は、単数主格(男性)。
populumは、populus(民族・国民・世間)の、単数対格(男性)。
suumは、suus(自分の)の、男性単数対格。

pauperumは、pauper(貧しい・貧乏な)の、男性複数属格。
suōrumは、suus(自分の)の、男性複数属格。
miserēbiturは、misereō(同情する・気の毒に思う)の、直説法未来三人称単数。
非人称受動文。同情される対象として、属格を取る。
>>26の日本語訳では、ここが完了形になっているが、ラテン語は明らかに
未来形である。
「主は、ご自分の民を慰められた。
そしてご自分のその貧しい人々を憐れんでくださるだろうから(喜び
誉め讃えよ)。」ということ。

28Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 21:07:28
そして9曲目。
私たちの楽譜では、ここから最後までを1曲として扱い、これが最終曲となる。
しかし、Tollite hostias以降は、明らかに曲調が異なり、第10曲として
取り出せるほどに独立性が高い。
ソプラノ1・ソプラノ2・アルト・テノール・バリトンの5人のソロに、
混声四部合唱が加わる。

Consurge, Filia Sion.
Alleluia.
Lauda in nocte, in principio Vigiliarum.
Alleluia.
Egrediatur ut splendor justus Sion,
et Salvator ejus ut lampas accendatur.
Alleluia.

Tollite hostias, et adorate Dominum in atrio sancto ejus.
Lætentur cœli, et exultet terra, a facie Domini, quoniam venit.
Alleluia.

歌詞の出典は、このオラトリオの中でこの曲が最もぐちゃぐちゃであるが、
「イザヤ書」51章〜52章及び62章、「哀歌」2章、そして「詩篇」第95篇
(新共同訳の96篇)を参考として挙げておく。
いずれにせよ、聖書の日本語訳をそのまま持ってくることは不可能である。

29Bhaashendradatta:2009/10/05(月) 21:34:11
consurgeは、consurgō((ともに)立ち上がる・奮起する・決起する)の
命令法現在二人称単数。「立ち上がれ・奮い立て」
Fīliaは、「娘」。単数呼格(女性)。
Sionは、固有名詞。不変化なので、格関係が文脈からしか分からない。
つまり「娘であるところのシオン」なのか、「シオンにとっての娘」なのか、
ここからではよく分からない。
新共同訳の説明によれば、「シオンの娘」とは、エルサレムの住民たちの
ことである。

laudāは、laudō(褒める・賞賛する)の、命令法現在二人称単数。
nocteは、nox(夜)の、単数奪格(女性)。in nocteで、「夜に」
principiōは、principium(初め・開始・起源)の単数奪格(中性)。
Vigiliarumは、vigilia(夜警の時間単位)の複数属格(女性)。
「夜警の時間帯のうちの初めに相当する夜(>宵の口)に、讃えよ」。

30Bhaashendradatta:2009/10/06(火) 19:08:09
ここから男声の読経のような8小節。「イザヤ書」62章の冒頭部より。

ēgrediāturは、ēgredior(出て行く・出撃する)の、直説法過去三人称単数。
utは、「〜のように」「〜として」「〜したとき」「as 〜」の相関詞・副詞・
接続詞・間投詞。
splendorは、「輝き・栄光」を意味し、単数主格(男性)。
justusは、「公正な・正当な・合法の」の意味し、男性単数主格。
Sionはここでは属格か。
新共同訳聖書では、
「彼女(=シオン)の正しさが光と輝き出で」(()は引用注)。


Salvātor(救済者・救い主)は、単数主格(男性)。
ējusは、単数属格。性はここでは女性か。
lampasは、「松明・灯火・ランプ」。単数主格(女性)。
accendāturは、accendō(点火する・明るくする・照らす)の、
受動態直説法過去三人称単数。
新共同訳聖書では、
「彼女の救いが松明のように燃え上がる〔まで私は決して黙さない〕」(〔〕は引用注)。

31Bhaashendradatta:2009/10/06(火) 19:27:27
ここから最後の荘重なG-Durの混声四部。4ページ分。
「詩篇」第95篇(新共同訳の96篇)のモチーフ。

tolliteは、tollō(上げる・持ち上げる)の、命令法現在二人称複数。
hostiāsは、hostia(いけにえ・犠牲獣)の、複数対格(女性)。
「いけにえ・供え物を捧げよ」。

adōrāteは、adōrō(崇拝する・祈る)の、命令法現在二人称複数。
Dominumは、Dominus(主)の、単数対格(男性)。
「主を崇めよ」。

ējusは、単数属格。性はここでは男声。「彼(=主)の」
sanctōは、sanctus(神聖な・聖なる)の、中性単数奪格。
ātriōは、ātrium(広間・ホール、館・宮殿)の、単数奪格(中性)。
「彼(=主)の神聖なる広間で」
新共同訳聖書では「神の庭に入り」という表現。
ここはin + 奪格なので、ラテン語では移動ではなく行為の場所を示す。

32Bhaashendradatta:2009/10/06(火) 19:53:58
lætenturは、lætor(喜ぶ・楽しむ)の、直説法未来三人称複数。
cœliは、cœlum(天)の複数主格(男性)。※通常は中性単数。(>>15
exultetは、exsultō(跳びはねる・跳ねまわる)の、接続法現在三人称単数。
terraは、「大地・陸・地球」で、単数主格(女性)。
「天は喜ぶだろう、地は小躍りするがよい。」
新共同訳聖書では、
「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ」という表現。

faciēは、faciēs(顔・容貌)の、単数奪格(女性)。
Dominīは、Dominus(主)の、単数属格(男性)。
āは、「〜から」「〜によって」「〜の理由で」
「主の顔(の側)において」即ち「主の御前で」。

quoniamは、接続詞「〜のあとで」「〜だから」。
vēnitは、veniō(来る・到着する)の、直説法完了三人称単数。
「彼(=主)は来られたのだから」。

ということで、「クリスマス=オラトリオ」の歌詞は一通り触れ終わり。

33Bhaashendradatta:2009/10/08(木) 19:43:47
hallelujahは、ヘブライ語で二語から成る句で、
halləlūは、動詞hallal(喜び讃える・賛美する)の、命令法二人称複数男性形。
yāhは、神の名YHWHの前半の二文字で、即ち、「神」の省略形。宗教的な
人名の一部に含まれていることもある。

「神を喜び讃えよ」ということから、キリスト教徒の間では、神を讃えるような
嬉しいことがあったときの間投詞となった。

http://en.wikipedia.org/wiki/Hallelujah

152スーパーコピー:2019/10/30(水) 04:49:29
ネット通販ショップ

ブランドコピー品の大SALE--ネット通販ショップ

当店はブランドコピーのスーパーコピー品通販専門店です。
商品は全てよい材料と優れた品質で作ります!
ヴィトンスーパーコピー、シャネルコピー、
スーパーコピーバッグ、ブランド財布 コピー、
時計スーパーコピーなど人気ブランド品が豊富に取り揃えています。
品質保証&届け保証します!
どうぞご安心にご利用ください。
スーパーコピー https://www.b2kopi.com/product/detail.aspx?id=5806


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板