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短詩人/Hyperion

714秋魚:2016/10/04(火) 00:50:38
(無題)
・・萩で想い出した。柳沢峠を塩山側へ下って裂石山雲峰寺という寺がある。

「・・寺伝によれば行基が修行に訪れた同年6月17日の夜、霊雲が烈しい光を帯びて当山の上にまたたき、山や谷を大いに震わせたといわれています。そして、山中にある高さ15メートル余りの大石がにわかに真二つとなりました。巨大な石の裂け目からは萩の大樹が生え、さらには石の上に燦然と十一面観音が出現したといわれています。それを目の当たりにした行基は、崇高な心で萩の樹を切り取り十一面観音の尊像へと彫刻し、一庵に奉祀しました。」

・・萩の大樹?

萩というのは草ではないか?
十一面観音など彫れるものだろうか?

萩の別名で野守草というのがある。これはよい名と思うが誰もそれをいわない。

715秋魚:2016/10/14(金) 21:30:56
(無題)
>・・栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩*の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


・・行基の杖は栗、西行の杖は桜、芭蕉の杖はツバキ。

「天親菩薩、無端変、作一條榔栗杖・・・塵沙諸仏、盡在這裏葛藤」

「嚴雲:榔栗?擔不顧人,直入千峰萬峰去」

『碧巌録』にみられる「榔栗」は、「木ヘンに即・木ヘンに栗」という漢字。ソクリツと読むものらしい。天台山にある杖をつくる木の名。同種のものが日本にあるかどうか不明。

716秋魚:2016/10/17(月) 23:19:28
(無題)
・・吉野街道沿いの空地に花壇をつくるというのでボランチアに出た。私有地ということだが残土置かれて荒れ放題。自治会にお任せになった。形状も三角でわるく一部は野菜つくりで使われているようだがナスなど収穫もされてない。何より道路際で埃っぽい。・・地元の人に聞くと昔は魚屋とかスーパーとかお店があったという。店が流行らず撤退してただの空地になった。自治会の理事、美化委員が主導というので声がかかった。自治会の役員というのはもう余生を生きる年寄りばかりで生活だけは年金とかで安定しているらしい。年を食って安定してないのは自分くらい。それでも家のすぐ近くで土方仕事になるので男手がいるということだった。特に用事もなかったので参加することにした。

・・夏の納涼祭はテント組み立てと焼ソバつくり。先日は運動会があって雨天で中止にはなったが慰労会はおもしろかった。普段はやれない仕事で終わったあとは全身の筋肉痛になるのはいつものこと。こんどの花壇つくりも今は筋肉痛。・・しかしおもしろいものだった。

・・土をほぐして瓦礫を除く。大方の地形つくりのあと道路との仕切りにブロックを置く。これは土木の専門家が一人いて進める。コンクリートをつくる。セメント、砂、砂利を混ぜて水をそそぐ。材料はみなホームセンターで揃うらしい。配合ぐあいはわからない。ブロックを並べて鉄棒とコンクリートで固定。鉄棒の切断などもやってみた。・・草むしりと土おこしくらいに考えていたが、本格的な土台つくりで昼過ぎまで作業。花苗を植えるのは後日のこと。

・・終了して打ち上げの食事会になった。自治会の古参の人がほとんどでいろいろ話がおもしろい。幹部役員はほとんど政治の苦労話でこれはあまり参与したくない。多摩のこの地域、野生の動物が増えているよう。すぐ近くの林で熊が出たとか。イノシシなど親子連れで七八頭も裏山に出没。罠でとらえた人もいて、イノシシ、アライグマ、ハクビジンとか、処理の仕方わからずまた野に放ったとか。イノシシは猛進するから危険。アライグマはクマではなく可愛いものという。万年橋の上から川で水浴びするタヌキをみたことあるが、あれはアライグマだったかも。区別もむずかしい。

・・丹波山村出身の人もいる。町に住んでいるが丹波村に山を所有で、柚子、柿、筍とか豊かにみのる。丹波山にはのめこいの湯がある。いつか自転車で必死で訪ねた。極上の温泉です。ここいら柚子など腐るほど実る。観光客を相手に一袋百円で売られてもいるが、おおかた収穫しないで落下させてるのも多い。柚子狩、柿狩、筍狩にはぜひ参加したい。のち温泉は魅惑。

717秋魚:2016/10/22(土) 01:16:19
(無題)
・・伊勢物語の東下りで昔男業平が詠んだ言問いの歌。それは白鬚橋の渡しという。

 座標: 北緯35度43分41秒 東経139度48分35秒

もうすこし隅田川を遡ると隅田川神社。

北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒

さらに梅若塚のある木母寺。

北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒

奥多摩の大菩薩峠は、 N35度44分9秒 E138度51分12秒


夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅

718秋魚:2016/10/22(土) 17:09:32
(無題)
・・うす曇りの天候だが御岳の青渭神社までサイクリングに出た。青渭はあおいと読んで青井のこと。けして枯れない青い湧水があるという。創建は崇神天皇代というからかなり古い。根ケ布の虎柏神社とほぼ同期か。主神は大国主命。(ただし創建年代はあてにならない)

青渭神社は沢井にある。青梅街道沢井と御岳の中間で惣岳山の方へあがったところにあるはず。地図をみて目星がついたら出発。源経基が関東を治めた頃青渭神社もよく祀られたという。このあたり平将門か源経基かといったところ。・・多摩川に渡る好文橋までに桜の咲いてる空地がある。昭和から平成にかけて空地というのがどんどん無くなってゆくのが決まった風景だった。こういう田舎にくると廃屋というのもまれにみかける。崩れそうな家屋でまだ人が住んでるというのがなつかしい風景だが。ともかく空地は健在だ。

・・吉野街道、青梅街道はそらおそろしい道で、こちらに越して来た時は自転車で走るなどとてもできないと思っていた。並のサイクリストがいとも容易に走っているのをみてこれは自分が臆病なだけと合点した。はじめて御岳までいった時が想い起こされる。軍畑にでるまえに桜橋というのがある。台地状にすこし開けた場所に昔は桜の木がきれいだったという。瀬川が多摩川に流れこむ深い谷になって足がすくむほど。ここを過ぎて軍畑大橋もこえ沢井に近ずくとにわかに人波が多くなる。天気は曇りだが今日は休日だった。帰りにわかったが澤の井の蔵開き祭りがあった。沢井駅周辺も人手が多い。・・柚子の里勝仙閣という旅館があった。なんだ閉店してるようだ。ちょうどこの前に青渭神社参道の鳥居がある。

・・ちょうどよい空地に自転車を留めて参道を登りかけた。どうも人が歩いた形跡がない。もっと他に道があるはず。さらに自転車で先に進むと舗装された登り道があった。400mばかりで見つかるという。多摩川や街道周辺の町並みがみわたされ景色がよい。道沿いに柚子の木が多く、青い実が鈴なりだ。ゆずの里というだけあって誰の管理かもわからない。雑木にまざったものを一つみやげにもらった。

・・青渭神社の里社というのがあった。「・・古くは青渭明神といい惣岳山頂近くに真名井と称する年中涸渇することのない霊泉があり、これを別名青渭の井ともいい、これが社名の起因となったと伝える。また別に惣岳大明神ともいうが、これは惣岳山(標高七四二メートル)頂に鎮座していることからの呼称である。」

真名井という湧水が売りだけに、手水舎は清冽な音を立ててある。

・・沢井の駅周辺に人が大勢いたのに比べ、この青渭神社は無人だった。ただし管理はゆきとどいているよう。灯明が点っている。「祓いたまえ 清めたまえ」といって、ぽんぽん。

ここから下の奥多摩線、青梅街道まで傾斜のある段差の土地だ。日当たりも眺めも最高だ。柚子があちこち実っている。帰りはまた違う道に入った。だんだらと東にそれてこのままゆけば沢井の駅のほう。ほんとに柚子の畑が多い。・・鉄路に沿った道に出た。

・・沢井駅にでた。駅前の公園に縄文遺跡の案内板がある。大平遺跡について、
「大平遺跡はJR沢井駅を中心に多摩川と平行して東西に広い河岸段丘上に存在します。多摩川までは約四十メートルの高低差がありますがローム層の堆積がないことから今からおよそ一万年前までは多摩川であったと思われ、今回発掘された遺構遺物によって縄文時代早期(およそ七千年前)にはすでに生活を営むことができる地形が形成されたものと考えられます。・・」

人がいっぱい。澤乃井の蔵元、ままごとやに人だかり。・・

「・・縦の最長が42?、最大幅が28.5?、縁の幅は約5?あり、縁からの最深は7?、手前に来るにしたがい浅くなってきます。石皿の縁には円すい状の穴が並んであけられていることがしばしば見受けられ、この石皿にも角の縁部分に1か所あけられています。しかし、この穴が何のために利用されたのかは不明です。石質は安山岩系の石で、多摩川の川原では、この種の石を拾うことはできません。」

・・沢井駅周辺はとてもよい環境だが、このような石皿を運んで縄文人は移動してきたのだろうか?

719秋魚:2016/10/23(日) 02:32:46
(無題)
 四十四 芭蕉拄杖



芭蕉和尚示衆云、你有拄杖子、我與你拄杖子。你無拄杖子、我奪你拄杖子。



無門曰、扶過斷橋水、伴歸無月村、若喚作拄杖、入地獄如箭。



頌曰



諸方深與淺

都在掌握中

撐天并拄地

隨處振宗風

720秋魚:2016/10/25(火) 11:47:42
(無題)


・花は豆のような蝶形花。
・枝や葉は
 家畜の飼料や屋根ふきの材料に、
 葉を落とした枝を
 束ねて箒(ほうき)に、
 根を煎じて、
 めまいやのぼせの薬にするなど

杖かしてやりたき萩の盛かな
初蝶と見る眼の冴る白さかな
蝶に気のほぐれて杖の軽さかな
朝凪や蝶の影さす洗ひ臼

霞ミ霞ミて流れ行川

蝶の飛ふはかり野中の日かけかな  はせを

721秋魚:2016/10/25(火) 21:28:41
(無題)
 をばすての嶺と申す所の見渡されて、思ひなしにや、
 月ことに見えければ

をば捨ては信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ

西行法師

・・

月が美しいのは、必ずしも池や湖ばかりとは限りません。
千曲市姨捨(おばすて)・四十八枚田の「田毎(たごと)の月」もまた、国の名勝に指定されるほどの美しさを誇ります。

我が心なぐさめかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て 古今和歌集 読人知らず
月もいでで やみに暮れたるをばすてに
なにとてこよひ たづね来つらむ 更級日記
更級や昔の月の光かはただ秋風ぞ姨捨の山 藤原定家
あやしくも慰めがたき心かな姨捨山の月を見なくに 小野小町
君が行く処ときけば月見つつ姨捨山ぞ恋しかるべき 紀貰之
隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき 西行
諸共に姨捨山を越るとは都にかたれ更級の月  宗良親王
空にひとつあまりて月の田毎かな 永宮寺松堂
姨捨や月をむかしの鏡なる 加舎白雄

・・


「・・継之助という人が体の中に入ってくる感じになったんです。彼の写真も何枚かみましたが、それぞれ全部違う顔をしているんです。こういう人物というのはちょっと端倪すべからざるところがあるでしょう。撮られるたびに顔がかわっているというのは相当に複雑な人間であることはたしかですね。北越戦争で大奮戦して、もう少しで東京の新政府の国際信義を危うくするというところまで善戦したわけですが、戦い利あらず、傷ついて会津へ退却する途中で死ぬわけですね。」

 司馬遼太郎『峠』月報

722秋魚:2016/10/28(金) 20:40:49
(無題)
・・東京が世界第三位の都市についたという。万年四位からパリに追い替った。何が基準かもわからない。パリのリュクサンブール公園でおそろしく緩慢な時間をすごすなどいう、森有正みたいな日本人はまだいるのだろうか。だいぶ忘れた感覚だが、西欧の伝統が少しずつゆったりと浸みこんで来るという。・・たぶん西欧の伝統に愛想をつかす人が増えているだろうか。未来都市願望が流行かもしれない。

・・東京は空虚な中心。去来に『花実論』があると聞いた。形式と内容について説かれた。花ばかり有って実がない。風雅の実を説くのは希少だ。正風俳諧やおもてなしが注目されるわけだ。

・・この東京を自転車で攻略する。

723秋魚:2016/10/31(月) 19:34:02
(無題)
・・自転車後輪のタイヤがそろそろ。この都心のロングライドはなんとかもたせたい。朝6時半に家を出た。きのう河井継之助記念館の館長先生から便りがあってよいタイミングだった。三田の済海寺が第一目標。ここを訪ねてからまたお便りします。

・・まず青梅線に沿って立川まで。また国立まで。込入った道だがもう何度も走ってお手の物。昔の寓居の跡もしっかり認めてきた。恋ヶ窪にある「姿見の池」は近くで発掘の仕事をした時期があったが、未見の旧跡だ。JR西国分寺駅の裏手のこんもりした森の中にあるという。今回は往路でここを見学。府中からの東山道が伸びていて遊女の宿があったらしい。鎌倉の武将畠山重忠と夙妻太夫(あさずまだゆう)の悲恋伝説がある。

>・・東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿をこの池に映して見ていたことから、「姿見の池」と呼ばれるようになった

・・夙妻太夫はこの池に身を投げた。

・・池の水は透き通って底が見える。湧水も流れているらしいが、水の動きはまったくない。水底の色はライトブルーの苔色だった。鯉とか水鳥もいて、でも静物のよう。動きがまったくない。すぐ隣のJR線の鉄路の騒ぎと対照的な静けさだった。

・・ここから中央線に沿って新宿まで走るのも何度か経験済み。国分寺の連雀街道を一路三鷹の方へ。・・一度交番で道を尋ねたが、中央線も今は高架線になってこれに沿った道ができている。車はほとんどなく自転車はゆったり走れる。吉祥寺まではコースロスがまったくない。郊外と都心を結ぶ道も進化したものだ。吉祥寺から荻窪に出るまでここはもう街ができあがって改良の余地はない。入り組んだ道だが荻窪までは、我慢。荻窪には青梅街道が駅前まで接近している。

新宿に近づいたところで青梅街道を離れ飯田橋へ向う道にはいる。ここも一度来た道。牛込というところで早稲田に向う道もあるが一路飯田橋方面へ。道が多く分岐してわかりにくい。わからないところへは運よく交番がある。交番の巡査も配置転換が多く自分のエリア以外はよく知らないというのが多い。新人の場合は地図でああでもないこうでもないとやるが、最良のアドバイスになる。後楽園あたりから春日通りにでられれば後はまっすぐ湯島天神の脇を通って御徒町上野、昭和通りを北上して南千住まで。これははじめてのコース。上野駅周辺は混雑して昭和通りがみつけづらい。車道は無理だがそれでも楽な道だ。ほどなく最初の目的地スサノオ神社に着いた。

素盞雄神社?? この種の社、日本中にあちこちあるらしい。ここは千住大橋のすぐ近く。

この日は七五三の祝日であるらしく、人出がおおい。素盞雄神社は庶民に人気があるのか全体がぴかぴかよく神光りしていた。流行らない神社ばかり廻っていたので、すこし驚き。

>・・深川の採荼庵すなわち「杉風が別墅」を舟で出発した芭蕉は、千住で舟をあがった。

ここに芭蕉句碑がある。

行春や鳥啼魚の目はなみた

>・・文政3年(1820年)10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初めの碑」が建てられた。

儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を書いている

武州千住宿 牛頭天王 境内

   行春塚

 千寿といふ所にて船をあかれは、前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく

行春や鳥啼魚の目はなみた

   はせを翁

・・千住大橋まで続く昭和通り。途中明治通りと交差する。都心南北の昭和通りは日光街道という。水戸街道などもこの千住大橋が起点というから、芭蕉が奥の細道で江戸の別れをここにみたのは、感慨もおおい。・・この千住大橋にくるまでに円通寺というのに寄った。上野戦争での彰義隊戦死者の供養碑がある。上野戦争は悲惨だったらしい。月岡芳年は惨殺の現場を歩いたというが。

・・千住大橋からUターンして浅草に向った。

・・浅草寺とスカイツリーが目印でここらは目をつむっても歩けそう。浅草寺にいってわかったが、一極集中の人出は浅草の特色。なんて人がいっぱいだ。すこし外れて街を歩くとまるで寂びれている。人っ子一人いない。商店なんてのもみない。昔はこのあたり下町の中心だったのだろう。葛飾北斎終焉の地なんてのもあった。北斎・宝暦10年9月23日〜嘉永2年4月18日(1760−1849)浅草聖天町遍照院にて永眠。「人魂で 行く気散じや 夏野原」−辞世の句もある。(おもしろいね)
・・浅草寺の裏手に吉原があったと記憶していた。吉原跡地か?さがしてみたが見つからない。・・いまの吉原は三ノ輪入谷の方か。

長岡藩抱屋敷というのがスカイツリーの下あたりにあった。河井継之助は遊郭通いもよくした。そこから江戸の新吉原へは歩いて近い。海老原新甫という俳人は巴屋の主人という。この新甫と井月は面識があった。あるいは継之助の噂は耳に入ったか。

・・隅田川右岸から言問橋の方へスカイツリーが見える。浅草寺の裏手からもスカイツリーが見える。吾妻橋を渡って東駒形にある桃青寺を訪ねたい。やむえず花やしきの横から浅草寺にまわる。うわっすごい人波。訪日外人など集団できてる。欧米人はすぐわかるが、中国人も多い。韓国人か台湾人か。出店の飲み屋は大盛況ですね。浅草メンチというのが美味しそうだったが、行列で待たねばならず撤退。この後もろくすっぽ食事もとらず自転車に乗りまくった。空腹感というのはあまりなく、実は、これは健康にはまったくよい。あとでわかったことだが。・・それにしても浅草寺の人気は並大抵ではない。活気があって元気になるのは確か。

なんとか人混みを抜けて吾妻橋へ出た。スカイツリーも近い。桃青寺は周辺の東駒形四丁目だ。ぐるっとまわって探した。

・・桃青寺はあまり知られていない。芭蕉の禅修業は深川の臨川寺仏頂和尚のもとがよく知られている。この仏頂和尚以前の禅修業が駒形の桃青寺という。はやい時期に桃青(芭蕉)の寓居があった。わかりにくかったがなんとか見つけた。こじんまりしたお寺でそれは臨川寺も同じだが着いてみると運よく住職さんらしきが表に出てきた。見学の許可をもらいすこし話をすると芭蕉はたしかにここに一時仮寓していたという。その記念になるようなものは何も無いとも。戦災ですべて焼けた。・・ただし山口素堂のお弟子さんで長谷川馬光という人の墓がある。そういってこの馬光の墓を案内してくれた。ここの墓地はおどろきなのは狭い敷地に仏壇のような等形の墓がぎっしり並んでいる。管理がゆきとどいているのか花も置かれてまぶしい限りだ。郊外の雑然とした墓ばかりみてきたのでこれは驚き。ただし馬光のお墓は江戸宝暦期のもので古いままだった。

>長谷川馬光 - 1685−1751 江戸時代中期の俳人。貞享(じょうきょう)2年10月11日生まれ。幕臣。山口素堂にまなび,2代其日庵(きじつあん)となる。
・・桃青寺 延享5年(1748年)、夕可庵を営む。 寛延3年(1750年)8月12日、馬光が中心となり関口芭蕉庵に「さみだれ塚」を建立。

・・この桃青寺。芭蕉の仮寓など伝説的な話で真実のところはよくわからない。はじめは本所の常林寺(定林寺)とか呼ばれて後東盛寺、桃青寺とか。気になるのは、鹿島紀行で芭蕉に連立った宋波という僧侶はこの常林寺の住職というからよく隣の宋波というのは桃青寺の僧かもしれない。定林寺から桃青寺への変名は延享二年(1745)のことという。・・宋波という芭蕉の隣人、気になるか。

・・この日どんより雲って寒気もつよい。自転車に乗って厚手のジャンパーで来たが、汗だくになるなどはない。ちょうどよい具合だ。永代橋の眺望まで来た。ロングライドはまだまだ。・・清澄庭園の近くにある長岡藩下屋敷跡を再確認すべくまたうろうろ。けっきょく下屋敷は今はまったく痕跡が無い。民家とマンションのようなものに成り代っている。今回もっと興味深かったのは、すぐ前の運河名前は忘失したがこの橋をわたってすぐ角のところに杉風の彩荼庵跡がある。芭蕉は奥の細道を旅立つにあたり、芭蕉庵は雛かざりする家にゆずりこの彩荼庵に移った。そこから舟に乗って千住までいった。長岡藩下屋敷はこの彩荼庵とは目と鼻の先だ。


  予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、

   初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ


白露もこぼれぬ萩のうねりかな
   はせを


   このあはれにひかれて

萩うゑてひとり見ならふやま路かな
   杉風


・・井月が採荼庵跡を訪ねた時はもうこの萩は無かったかもしれぬ。この萩の句はしっかりと読んでいたにちがいない。

・・東京は電車の移動で慣れているが、自転車では道さえまちがわなければ要所めぐりは容易にみえる。道も大雑把な方向感覚でも迷うことはない。数度ポタリングを試みての話だが。深川不動堂というのが親しまれているという。ここから近いはず。成田山を勧請したというから平将門鎮めのお寺か。関東の第一の霊的パワーはやはり将門か。江戸の家康もこの怨霊を気にはしていたようだ。不動堂はともかく寄ってみることにした。下調べがなかったので人に聞き聞きまわった。・・ここはすぐに見つかった。あまり感動はない。・・この後永代橋にでてそのまま皇居の方へ。大手町のパワースポット将門首塚に向った。

「伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。」

・・菅原道真、聖徳太子、平将門。怨霊のパワーが強烈なのはこの御三方。このうち太子のパワーをわが家門はかかえている。将門のパワーに敏感だったのは、たぶん、井月。・・将門首塚はそっと遠慮して訪ねた。蛙が鳴いていたようだった。

皇居前の通りから日比谷通りを走り、そのまま新橋田町へ。長岡藩中屋敷のあった愛宕山にゆく予定もあったが、だいぶ日が落ちてきたので田町の三田へ向った。浄土宗の済海寺を訪ねたい。ここもざっと調べただけで田町の駅前でうろうろ。交番もない。案内板がある。住所とこの案内地図が頼りだ。済海寺はあまりメジャーでないのか地図には載ってない。替りに亀塚公園というのがある。これは済海寺の隣だったはず。この亀塚というのも今回の眼目にあった。ここへゆけばよい。

で、5時くらいだったか済海寺に着いた。すぐ近くに慶応大学がある。すごい坂道を登ってこのあたり高台の丘になってるようだ。

「月の岬(つきのみさき、月の見崎とも)とは、東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。」この済海寺あるいは隣の亀塚公園、ここが月の岬の説がある。この高台の向こうは昔は海だったとも。さらに興味深いのは、済海寺は江戸期に、「1621年(元和7年)牧野忠成と念無聖上人によって創設。越後長岡藩藩主家牧野氏や伊予松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。」となる昔は「更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地であった」という。

これ以上は追求しまい。この日は門が閉ざされ隣の亀塚を見学してひきあげにかかった。ホテルで休んだあと明日また訪ねることにする。

724秋魚:2016/11/05(土) 21:11:15
(無題)
・・初日は優に10時間は自転車に乗っていた。都心でこまめに目標を切り替えるのは楽しみもある。あまり疲労もない。いつも寄るビジネスホテルは朝食ビュフェのサービスがあって気も楽だ。

・・さて二日目はもう一度済海寺へ。その後品川の海晏寺を廻って帰路につく。多摩川にでて左岸を二子玉川狛江調布府中どこまでも遡れば福生羽村までゆける。ざっと調べてはあった。問題は第一京浜の海晏寺からいかに上流の多摩川べりに出るか。昔横浜から国道1号で多摩川べりまで来た。第一京浜をそのまま進めば多摩川にでる。これは芸がないか。

・・済海寺は開門されて運よくお寺のお内儀と話ができた。牧野家の個別の過去帳というのは無いという。こちらがまったく無知であった。一般の過去帳というものはある。これには女子の納骨も記録がある。家伝つくりならやはりお寺の過去帳を調べて廻るのが仕事だろう。・・井月がここに足を運んだのはまちがいない。日仏修好通商条約(1858)が結ばれて翌1859年にここにフランス領事館が置かれた。この頃は井月は伊那に出没。長岡藩は河井継之助がときめいていた。

・・竹芝寺の跡地というが、

「・・これはいにしへたけしばといふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(えじ)にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾のきはに立ち出でたまひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と仰せられければ、酒壺のことをいま一かへり申しければ、『われ率て行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。」

・・ここでおもしろいのは、火たき屋の衛士のひとりごと。

『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』

 帝の御むすめが興趣もつのも無理はない。

・・済海寺の隣には亀塚がある。ここの由緒は、

「亀塚の山頂にある酒壷から出てきた亀を神として祀っていたが、ある風雨の夜に酒壷の亀が石と化した」

・・武蔵竹芝とは、この伝説が発祥。やがて源経基、平将門、武蔵竹芝の争乱の時代になる。天慶二年(939)。

・・亀塚の高台から下に第一京浜があって騒がしい街道だが、昔はこのあたりまで海だった。それでこの高台は眺望よろしく「月の岬」と呼ばれていたか。品川から船の出入りもあったから、遠来の客も多く遊郭もあったはず。公園の交番で尋ねてみた。江戸時代のことはさておき昔ながらの遊郭は今でもいくらか名残をとどめてあるらしい。品川海晏寺を尋ねてついでに多摩川までの最良の出方を尋ねた。あまり遠方のことはわからない。大井町の駅から国道1号に入ってもよいがそのまま直進、環八を越えて中原街道に出るのがよいらしい。洗足池、雪谷、丸子橋にでる。

・・都心ロングライドは、最後の目標品川海晏寺まで。白井鳥酔、加舎白雄の墓がある。なぜ海晏寺かというのはよくわからない。1788年に芭蕉百回忌繰り上げ法要があり、白雄をはじめ錚々たるメンバーが参加した。

> 鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和6年4月4日に歿した。
                     東京都教育委員会

   鳥酔居士之墓

あぢさゐのかはりはてたる思ひかな     『しら雄句集』

安永4年(1775年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔七回忌法要を営む。
天明2年(1782年)4月4日、白雄は海晏寺に鳥酔の墓参。
天明5年(1785年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔十七回忌法要を営む。

・・鳥酔の墓の隣に白雄の墓もあった。

725秋魚:2016/11/07(月) 23:08:02
(無題)
・・沢井のガーデンギャラリーに木工とガラス工芸の展示を見に出た。木工の五十嵐さんからの案内があった。自転車で沢井はほんとに近い。先日柚子の里を訪ねたばかり。ここの柚子は蕎麦つゆに柚子果汁を入れるとほんとによい味になる。澤乃井の蔵元で酒も呑めるか。温泉の帰りにでも寄ろうかと思案したが天気がよいのでポタリングになった。

・・沢井は休日はやはり人出がおおい。ままごと屋の豆腐料理を一度頂いてみたいと思う。会場は作家さんと奥さんが顔を憶えていてくれてうれしかった。実はこちらが記憶があやふやでした。二年ぐらい前からのお知り合いでしたが、なにか修羅場のロングライドがいくつもあって遠い過去のことのようでした。

・・「埋れ木」の話を昔してくれてそれをきのう想い出していた。埋れ木でつくる木工作品。「埋れ木」は俳諧の秘伝書だけど。北村季吟が芭蕉に伝授したという。・・で、やはり鳥海山で採取した埋れ木の酒枡があった。鳥海山までいったらしい。埋れ木のよほど古い亜炭は香炉の灰でつかうとか。仙台の名取川は埋れ木で歌枕にもなるという。この埋れ木はすこし飴色があってそれがよかったか。

・・木目を生かしたよい作品。冬目春目などあるという。

・・帰りに裏道を通ったが、柚子は黄金に色づいてさすが。驚いたのはたぶん芭蕉の木があった。立派なものだ。

・・あきないポタリングコース。自治会の運動会でわかったが梅郷地区の小学校は五小がただひとつ。御岳山の山の上の子供もここまで通うのだそうだ。中学校は西中というのがやはり多摩川南岸に沿ったところにひとつ。ここは好文橋で石神前の駅から渡ってすぐのところ、自然の環境は抜群。ただしこのあたりでも最近クマが出没捕獲されていた。

・・先日のわれわれが作った花壇はもう花苗が植えられていた。

726秋魚:2016/11/17(木) 23:32:26
(無題)
「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」  王守仁

・・河井継之助が愛誦したという。

>・・朱子学から出発し婁諒(ろうりょう)(1422―1491)に師事するが、しだいに懐疑を生じ、病を発するに至る。会試にも失敗し、任侠(にんきょう)、騎馬、文辞、神仙、仏教に惑溺(わくでき)(陽明の五溺)する。28歳、進士(しんじ)に合格、官途につくが、道仏二教への専心は31歳まで続く。35歳、宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)(?―1510)の意に添わず、廷杖(ていじょう)四十を加えられたうえ、貴州竜場駅に流謫(るたく)された。ことばも通じない僻地(へきち)竜場で、37歳の守仁は「聖人の道は、吾(わ)が性に自足している。以前、理を事物に求めたのは誤りであった」と悟る(竜場の大悟)。
                  ・・ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

727秋魚:2016/11/18(金) 23:02:39
(無題)
・・一週間ほど前から急に冷え込みが進んだ。夏暑くて秋よく冷え込むと紅葉が冴える。思いついて紅葉見のポタリングにでた。先日の沢井から御岳古里鳩ノ巣白丸、数馬峡という川合玉堂絶賛の楓峡は以前にも訪ねた。思いついて天気さえよければ何処でも行ける。自転車のよいところは筋肉運動より何より呼吸器系のサイクルが活発になり細胞や脳の神経系もよく働く。家に篭もって妄想の囚になるのを防ぐ。妄想が進むと外界が恐怖に思える。

・・ポタリングは外界が新鮮なのがわかる。柚子は更に色づいて黄金の木があちこち。観光地に近いところは袋2百円で置いてある。平日で昼前に出たから青梅街道の車も比較的少ない。それでもヒマな人はけっこういる。紅葉見のドライブやハイカーによく会う。御岳−川井間というのは長くて道幅もせまい。川に面して走るのはやや危険。後方の車を気にして走る。五月に柳沢峠に走った時は猛烈な騒ぎだった。バイクライダーの群れがいくつも来た。チャリダーは一人勝手だが孤独を楽しめる。

・・今日はほんとは「もえぎの湯」の温泉だけが目当てだった。紅葉などほとんど期待はない。

・・それにしても驚きのアメリカ大統領選挙。トランプ劇場の相を呈して来た。アメリカとメキシコの国境に万里の長城をつくるとか、イスラム教徒の入国を禁止するとか、日本韓国から米兵を撤退させるとか、・・どうなることか。

「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」  王守仁

・・せせらぎの音美術館の紅葉は旬。水香園はこれから。数馬峡橋は絵になるのかカメラマンが狙っている。一日の時間帯で光の具合が千変万化する。絞りがどうのシャッタースピードがどうの囁き声を聞く。・・なるほどね。もうすこし先行ってもえぎの湯をめざした。数馬の切り通しは以前通ったと記憶したがあれは間違い。トンネルのある切り立った崖の上にあるらしい。途中まで登って引き返した先のようだ。ここらあたりはまた別口で歩かねばわからない。・・もえぎの湯は氷川の七曲の下にある。もえぎという色は好きだ。「若草の萌える頃」という昔の映画は題名だけでよかった。俳句だと「木の芽どき」というのがある。ものぐるほしい。・・トンネルの脇から旧道に入ってゆくと古い馬頭観音が祀られてあった。文化十一年(1814)という。この観音像、三面で憤怒の相。ラーフ(羅睺星)に似ていて思わず立ち止まる。あとで調べたら馬頭観音は三面八臂のものが本来のものらしい。(いや、いろいろあるか)

ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話があるらしい。
「・・毘紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して,悪魔に奪われたヴェーダ(インド最古の聖典)を取り戻したという説話が起源」


・・道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)の3つ。

三古湯といわれる。

和歌の浦を見晴らす藤代峠だが、有間皇子の墓がある。

有間皇子

・・640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。(ほんとかしら?)・・父孝徳天皇がいなくなり,子の有間皇子は次の天皇の候補者として表に出されるようになる。しかし,中大兄皇子の存在は脅威であったろう。日本書紀によると657年9月,18歳の有間皇子は狂人のふりをしたとある。皇子はその治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯にでかけた。

都に戻った有間皇子は斉明天皇に「その場所を見ただけで病気が治る」と牟婁(むろ)の湯のことを報告した。この言葉を聞いた天皇は大変喜んだ。

・・658年10月,斉明天皇は有間の皇子の薦めにより,中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に船を使って行幸した。

・・天皇らが飛鳥を離れている11月のある日(3日か),都に残って留守役を勤めていた蘇我馬子の孫の蘇我赤兄(あかえ)は有間皇子の市経(いちふ−奈良県生駒町)の家を訪ねた。
赤兄は有間皇子に天皇の3つの失政を語った。
?天皇が大きな倉庫に人々の財を集めている。
?大がかりな土木工事を行い,長い用水路造りを行っている。(「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれていた)
?船で石を運んで丘を築き,人々を苦しめている。
これを聞いた有間皇子は赤兄が自分に好意を持っているといたく喜び,「我が生涯で初めて兵を用いるべき時がきた」と言った。

・・

ともかく、有間皇子は藤代峠で(中大兄皇子に)絞殺された。


!・・温泉のことは、古今伝授と同じく他言は凶兆。

728秋魚:2016/11/24(木) 01:50:20
(無題)
・・自宅から歩いていける所に関東平野を一望できる場所がある。きょう分った。運よく自治会のハイキングプランに参加して馬引沢、赤ぼっこを歩いた。すぐ裏手の丘陵の尾根道らしい。ハイキングコースがあるのは知っていたが普段誰も歩いていない気配だった。これは絶好の機会。迷わず参加した。・・青梅は最近クマが出没するので話題になった。多摩川沿い二俣尾、青梅美術館の下の釜の淵の川べりでもクマが出た。青梅丘陵ハイキングの道でもクマの足跡が見つけられた。矢継ぎ早に防災のアナウンスがある。テレビを見ないので知らなかった。ニュースで画像が流れたという。・・それでハイキングも中止になるかと心配したが、鈴を鳴らして歩けばよいと進言した。天気も曇りでまずまず。自治体の70人近くの参加だった。思った通りお年寄りが果敢に参加してきている。あと小さい子供も。

・・こんなおもしろいハイキングはない。馬引沢というのは多摩川にそそぐやや大きな沢がある。その沢に沿った道をあがったところ。昔は馬が歩いたらしい。馬頭観音があった。安永三年とある。1774年。この時代の天皇は後桃園天皇。後桜町天皇を継いだ。次は波乱の天明期。漂泊の文人中原章が青梅にあらわれたのが応永五年頃のこと。・・この馬頭観音、牛馬安全とあるが、先日の氷川での馬頭観音と比べてもろ牛馬の守護神で柔和なお顔だ。あちらは文化十一年(1814)だからこちらの方が古い。奥多摩の難所七曲りの馬頭の意味が強烈なのがよくわかる。それにしても江戸時代中期に「安全」などという言葉があったのか不思議に思った。調べてみたがよくわからない。

・・さてその馬頭観音の道をもうすこし進むと突き出た岬のような「赤ぼっこ」に着いた。急に見晴らしがよい場所にでた。ここです。奇跡の場所は。「赤ぼっこ」という名は新しいものだ。1923年(大正十二年)九月一日に起きた関東大震災。この時、山が崩落して赤土のこの部分が山塊で残った。赤土がぼこっと出てそれで「赤ぼっこ」というようになった。それが由来のようだ。

・・この丘にぽつんと一本のヒノキの木が立っている。赤土というのはめずらしかった。富士山の噴火でとうぜん赤い灰が積もるはずだが。多摩川沿いの河岸断層にはあまりみられない。霞川のあたりの低地も赤土はみなかった。青梅の低地は洪水とかで赤土は流されるか腐植土に変化していくか。山の一部に腐食されずに残るか。ずっと昔は白い石灰岩の層があちこち見られた。・・植林された杉の木の伐採をここでもやっている。おかげで眺望はひらけた。雨上がりで晴れはしなかったが、霞がとれて見晴らしはきく。ずっと北東に二峰の山は筑波山、東にスカイツリー。正面やや西よりに日光男体山。いつか御岳山から一望した時はこの男体山に雪がみえた。・・なにより筑波山がはっきり見える。

729秋魚:2016/11/24(木) 21:43:22
(無題)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌

八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里

玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


・・中皇命とは誰だろう?

間人皇女か、斉明天皇か

730秋魚:2016/12/08(木) 01:04:34
(無題)
「京の天子こそ日本における唯一の合法的主権者であり、将軍とその幕府は仮政権にすぎぬ。強いてその存在を合法化するとすれば、将軍は天子から仮に日本の政治を委託されているにすぎぬ」
これが、水戸学の尊王思想であり、日本におけるあらゆる読書階級(将軍、大名、幕吏をも含めて)は時代思想としてそれを是認するようになっている。幕府の創設者である徳川家康の思いもかけぬ思想であったであろう。
「そんなばかな考えはない」
 と、国際法的な立場からフランス公使などは幕府を勇気づけてはいた。フランスははるかな以前に革命をおこして王家は倒れており、その後曲折をへてナポレオン皇帝が出現し、それも倒れ、いまはナポレオン三世があやしげな術策を弄してあらたに帝位についているため、自国の状勢から考えても将軍を皇帝とみなしたい。が、他の国の外交団は、すでに天子こそ公式の元首であるという実情に気づいている。

『峠』より


狭井神社

・・大神神社のご祭神・大物主大神の荒魂(あらみたま)をお祀りする、平安時代の『延喜式』にも記されている古社。古くより華鎮社と称され、病気を鎮める神としての信仰が篤く、拝殿脇にはご神水の湧き出る薬井戸があります。大神神社と狭井神社の両社で執り行う「鎮花祭」は、『大宝令』に毎年必ず行うよう定められ、春花びらが散るのとともに、はやる疫病を鎮めるために行われています。

731秋魚:2016/12/11(日) 14:27:56
(無題)
・・この天地が崩れる」
という予感を河井継之助がもったのは、そういうことである。繰り返すと、慶応二年のおけるつぎの四つの出来事による判断であった。
夏 長州征伐における幕軍の連戦連負
夏 将軍家茂の病死
冬 徳川慶喜の将軍宣下
冬 孝明天皇の死

(えらいことになる)

・・慶応二年十二月二十五日、孝明帝崩御。

732秋魚:2016/12/15(木) 01:32:24
(無題)
・・あの鳥は鶺鴒だった。どこで見たのだろう。鶯ほどの小さな鳥でうっすら緑色だった。どこかの川べりだったか。古今伝授の鳥を調べていて思い当たる。

・・神武がトビヒコと戦ったのは龍田川とある。負け戦で五瀬命は傷を負った。母の木に隠れた人は難を逃れたという。この木はそのままなら栂の木だが。この木も知らない木だ。モミに似た針葉樹という。たぶんこれも見ているはず。

・・もうひとつ梓の木もわからない。梓弓をつくる。

ミズメというのがそれらしい。

・・梓は、別名を「木王」といい、百木の長として尊ばれた。

カバノキ科カバノキ属の落葉高木。ヨグソミネバリ(夜糞峰榛)、アズサ(梓)とも呼ばれる

・・この木もたしかに見た憶えがある。サクラに似ているという。


 よし、今度山に入ったらこの栂とミズメを見つけよう。

733秋魚:2016/12/19(月) 22:36:36
(無題)
永正元年(1504)十月 三島神社「出陣千句」

たなびくや千里もここの春がすみ  今川氏親
青柳やかげそふ三島木綿かづら    宗長
・・

天正十八年(1590)三月秀吉「戦勝祈願」連歌

関越えて行く末なびく霞かな   紹巴
・・


足柄の関路こえゆくしののめにひとむら霞む浮島の原

                 藤原良経

【新羅三郎義光吹笙の石】
 新羅三郎義光が、後三年の役に出陣の際、足柄峠で笛の師、豊原時元子、時秋に相伝の秘曲の奥義を伝えたとされる



いなおおせどり  帝の比喩   すべての鳥の根源だから
よぶこどり    関白の比喩  当期を知らせるから
ももちどり    臣の比喩   さえずる様が、群臣の王命に従うようだから

734秋魚:2016/12/22(木) 15:48:28
(無題)
>・・成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。

・・ここの本尊不動明王像は空海作といわれる。
「成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です」

 不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ [2](?????? [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。

「たとえば、不動明王は火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、民衆を教えに導きながらも人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう聖なる炎で焼き尽くすと言われる。この為、炎の神力を以て祈願を行う護摩法要の本尊には、炎を司る不動明王と成る事が多い。」

・・明王は一般的に忿怒(ふんぬ)の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち、法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし、武器類を手に持った姿で表現されることが多い。

・・大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。
 大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。
 不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。

・・


「・・越路の雁も帰るなる、名残の空の八重霞、頃は弥生も晦日がた、・・花ノ香くもる駒ヶ根の、梺につゞく駅路や、赤穂の町は取分けて、・・祭れる法の光前寺、神かあらぬか昔より、伝ひて諸人群集する、例は不動明王と、檜舞台で近付に、成田を茲に移し絵や、・・


光前寺  長野県駒ヶ根市赤穂 北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

成田山新勝寺 千葉県成田市成田 北緯35度47分9.79秒 東経140度19分5.79秒

青梅金剛寺  東京都青梅市天ヶ瀬町 北緯35度47分21秒 東経139度14分57秒

隅田川神社?? 東京都墨田区堤通 北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒

大悲願寺????東京都あきる野市横沢  北緯35度43分56.5秒 東経139度14分29.7秒

六義園  東京都文京区本駒込六丁目  北緯35度43分59秒 東経139度44分48秒

大菩薩峠 N35度44分09秒 E138度51分12秒
長岡駅  N37度26分49秒 E138度51分13秒

木母寺  東京都墨田区堤通  北緯35度44分01秒  東経139度48分51秒


・・木母は、梅のこと。

735秋魚:2016/12/23(金) 19:59:40
(無題)
心には見ぬ昔こそうかびけれ月にながむる広沢の池
                 (藤原良経 秋篠月清集)

いにしへの人は汀に影たえて月のみすめる広沢の池
                 (源三位頼政 新千載集)

736秋魚:2016/12/24(土) 18:55:29
(無題)
・・ネットで調べものしていたら、温泉マニアのブログの人は日本の温泉1400海外73とかもう40年近く温泉巡りをやってるとか、墓マイラーというのがあるようで著名な芸術の恩人の墓を訪ねて歩く人もいてほかに芸術ジャンキーのHPで盛り沢山のアクセス数が6千万突破とか、恐れ入ることが多い。芭蕉など俳人歌人の句碑を訪ねて温泉もよく廻る人のHPがお気に入りで、ある時メール入れたら丁寧なお返事があり、うれしかった。この方のでも50万くらいのアクセスがある。主に車でまわられてるようで、何よりヒマの都合をつけるのがむずかしいはずだがそこは出家に似た割り切り方があるようだ。経済基盤はそれぞれであまり詮索しないことにしている。インフラ度合いを考えてもたぶん自分のマニアックな温泉巡りは一生かけても到底追いつくまい。なにせ自転車だからね。・・車に乗ったり電車に乗ったりたぶんこれを外すのが旅の最大の節約仕事になってるから、羨望もないが。

・・余計なことを書いた。彼らの記録は時としてとても刺激になる。深謝。

・・自転車のタイヤ交換をする前にもう一度補修してしばらく様子見にした。自転車についても工学からツーリングまで上には上がいるのもよくわかる。ブレーキワイヤの交換とかチェーン調整、ディレーラの設置調整とか自分には未知のものがまだ多い。体が動くうちにロードバイクに乗ってみたい気がするが、これは夢で終わりそう。

・・近場の芭蕉句碑を訪ねることにした。羽村福生の新奥多摩街道沿いにある宗禅寺と神明社。以前から何度か前を通っていたが芭蕉の句碑があるのは知らなかった。例によってムーミンパパの温泉HPに感謝。

・・思い立って自転車に乗ると奇跡が起こる。新奥多摩街道を河辺あたりすぎて交差点で信号待ち。ちょうど居合わせた婦人が抱えた切り枝を見た。赤い実黄色い実で葉も青々してる。これは憶えがある。何ですか?ナンテンです。と、いったが違うでしょう。実は似ていても葉が違います。万両千両に似ているが枝も葉もちと大きい。いつか調べたアザカだと思った。・・なにか名を聞かれて急に一本わけてくれた。どうぞ、お正月まで持ちますよ。自転車に乗っていていただき様もないのだが、うれしかった。こちらの興趣にあわせてさらにもう数本。私も貰ったのよ。・・家で調べたら、やはりアザカだった。アザカというのは沖縄で憶えた。本土ではリュウキュウアオキとかボチョウジとかいう。葉が対生して上から見ると十字になり聖木とある。たしかに対生十字だ。実が黄色いのはやがて赤くなる。久高島のイザイホーで巫女が身につける。アザカという名は沖縄でしかない。・・それで青梅のこんな片田舎であるのが不思議だった。奇跡だ。

・・羽村市川崎にある宗禅寺はすぐにわかった。正門の前に来たがこの日はあいにくの葬儀があって境内に入れない。臨済宗建長寺派ということで句碑はあきらめた。福生の神明社もほど遠からぬところにある。いつもはこの横の道から多摩川の堤に向った。神社の裏にでて、楠木の大きいのがみえる。さらに枝垂れ梅の形のよいのが何本もある。花はまだない。

春もやゝけしきとゝのふ月と梅

・・福泉居友甫が自己の還暦に建立。

是からもまたおもしろき花の春

・・裏に友甫の句がある。

・・ここは梅の名木が多い。楊貴妃などの梅もある。・・観梅の頃また訪れてみたい。

稲荷神社がまた別にある。・・ほか近くの寺社の薬師堂もある。添え書きによると、薬師の功徳を求むるに「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」という妙号を唱えるべしと。

737秋魚:2016/12/26(月) 21:42:39
(無題)
・・葛飾北斎がシーボルトに請われて描いた絵があるという。どんな絵だろう。北斎の娘で葛飾応為というのもよく絵をした。『吉原格子先之図』という吉原遊郭での遊女の客見せの絵は魅かれるものがある。遊女を明るい座敷に集めて格子の外から客が相手選びをする。アムステルダムかどこかにガラス窓の娼婦という辻があった。似ているか。明暗の描法が西洋画のレンブラントに倣ったのではないかとか、江戸の絵画としては光の具合が斬新だ。
北斎と応為を描いた『北斎漫画』という映画を昔観た。図書館にDVDを借りにいったが、あいにく貸し出し中。代わりに内田吐夢『宮本武蔵/巌流島の決闘』を借りた。・・三部作の終章で武蔵vs小次郎の決闘の瞬間が特に魅かれる。巌流は小次郎が独力で編み出した剣術という。武蔵の二刀流もそうだ。際立った個性の剣術が雌雄を決する。こういう宿命が避けがたく存在することは、胸が震える。

・・無益な決闘などもうやめてほしい、ツウはいう。剣の道を究めようとした発心の計からすると演算のゆくすえは仮に変更が効かない。計算ミスがあるとしたらはじめの一歩だろう。宿命は精密な科学に似ている。小次郎も武蔵も宿命を受け入れるのが天才の宿命たる所以。紙一重の宿命だった。

・・青梅駅の裏手から鉄道公園の方に坂をあがって丘陵のハイキングコースへ出た。このあたりも入り組んでいて楽しい道だ。いつも新鮮な発見がある。金刀比羅神社が尾根山のもっとも東の端にある。ここにも芭蕉の句碑があるという。以前青梅丘陵を歩いた時は、句碑はずっとコースを進んだ山の中にあって不思議だった。記憶違いか。神社にはたしかに句碑が二つ。しかし読めない。「行く春に和歌の浦にて追いつけり」という句碑と聞いている。・・それよりここは見晴らしがよい。変わったものがあった。十二方角碑という。「寛政九年(1797)建立。安山岩製、頂部が錐形、十二角の柱状で、・・十二面の角柱に、それぞれの方角を示す十二支が漢字で刻まれている。・・」壷の碑に擬してとあり、青梅の文化人が建立したものだ。

金刀比羅神社   北緯35度47分34秒 東経139度15分30秒

・・ほかに本殿の裏に亀の像がある。この山は昔北斗山と呼ばれ七星権現が祀られていた。北斗妙見塚の由緒が古い。

・・栂の木もある。モミに似ているが栂であろう。

738秋魚:2017/01/12(木) 00:23:03
(無題)
・・今日の初乗りはおもしろい。五日市の瀬音の湯をめざした。吉野街道を西にのぼり和田橋をあがって梅ケ谷峠にむかう道がある。たいへんな急坂だがここを越えると日の出に入る。例の日の出山荘にゆく道だ。以前来たことがある。あの頃は梅がまだ咲いていた。日の出に入るまでは殺伐な道と覚悟していた。吉野街道を下って秋川街道から日の出あきるのに向う道はもっとひどい。車がぶんぶん。でこちらの梅ケ谷経由を選んだ。思ったとおり歩行者もチャリダーも皆無。車だけはけっこう走る。ひっそりした山の中で熊がいないか見たりする。この頃は冬眠しないだそうだ。坂は二段坂。一度のぼってさらにもう一段。坂は実はあまり恐くはない。ダンプとかの大きいのが苦手だ。日の出の道はのんびりしている。ここから秋川街道に合流して先は下りで車も多くはない。・・ほどなく五日市の駅前にでた。元日で観光案内所はお休み。交番が仕事する。やあやあと笑顔で挨拶。元日からすみません。温泉ではなく光厳寺というお寺はどこですか。檜原街道の戸倉あたりから山へ向うのは家で調べてあった。交番の巡査三人くらいいて光厳寺といってもすぐにはわからない。地図をひろげてああでもない。こうでもない。山桜のたいへんな古木があって花の季節がよいという。南北朝の頃に光厳天皇が流れてきていたそうだ。即位する前だけど。由緒深いお寺です。地図を開くとさすがに巡査は教えるのがうまい。骨子はすぐにわかった。もうひとつ深沢はどうやってゆくのですか。穴沢天神にゆきたいのです。穴沢天神は知らないけど深沢までの行き方は迷路のように入り組んでむずかしいですよ。駅の裏から一本道とみましたが。しかも上り。光厳寺も上り。上りを強調するが、実はこわくない。きょうの梅ケ谷峠越えほどではないだろう。深沢はただ距離がそうとうあるらしい。これも骨子をきいて、ありがとう。このありがとうという言葉はとてもいい。

・・殺伐とした道を抜けてくると出会う人はだれでもなつかしく思える。気安く話しかけるのがクセになった。ただ道をたずねるという話だけだが。西戸倉のバス停から左折して坂道をのぼる。山の上だそうだ。途中夫婦で歩いてる人がいてたぶんどこかの神社だろう。光厳寺はこの道ですか。はい私たちも行くのです。ありがとう。自転車はまだ大丈夫。やがて急坂になったら足着いてのぼる。三島神社というところにでた。運よく参道を降りてくる婦人がいる。ここで光厳寺を尋ねると、あの山の上だという。で三島神社も由緒ありそうですね。そうです。名前からして興趣ある。・・今度訪ねてみます。(実は帰りに寄ってみた)・・光厳寺に着いた。

・・下見のつもりでいた。瀬音の湯から周囲の土地にあまりにも寄らずに来た。この光厳寺には山桜の古木がある。山の上で見晴らしもよい。七福神の訪問があって人もそこそこ。桜は花はないが古木はみごと。花の季節にまた来てみたい。山桜というのがいい。千両か万両か赤い実がたわわ。南天もある。周囲の里山の眺めも抜群。正月から楽しくなった。

・・晦日に観た『北斎漫画』という映画。これも楽しいものだった。なんか傑作ですね。新藤兼人はもっと評価されるべき。田中裕子演じる娘のお栄も絵を描いたが、その辺はエピソードにもない。樋口可南子演じるお直がすばらしいが、この女実在したかどうか。そんなことはどうでもよい。ともかく傑作。

・・山桜、やまざくら、花がみたい。温泉は来てみてわかる。いかに人が集まるか。二年まえに来た時と客層がすこし変わったか。正月の穴場という風があったものだが、すっかり若者も多く温泉のメッカさながら。リピーターが増えているか。源泉は加水なく温泉本来のぬるみが保たれている。正月にここは正解。

・・曲亭馬琴は「くるわで誠」というヤボをこめたという。読み本書きだが俳諧もよくした。『南総里見八犬伝』は長くてとても読みきれそうにない。あんな荒唐無稽な話をよく続けたものだ。プルースト『失われし時を求めて』に匹敵するとか。幕末ものの『大菩薩峠』もだらだらと長い。あきさせないというが自分は読んでない。映画をみたくらい。失われし時は自伝だが、八犬伝や大菩薩峠はまったくのフィクション。江戸というのがキーワード。

739秋魚:2017/01/02(月) 22:44:21
(無題)
曲亭馬琴  明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日)
為永春水  寛政2年(1790年) -天保14年12月23日(1844年2月11日)
葛飾北斎  宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)
葛飾応為  寛政13年(1801)?‐慶応1865〜?生没年未詳
武志伊八郎 宝暦元年(1751)-文政7年(1824)
井上井月  文政5年(1822)-明治20年(1887)
寺門静軒  寛政8年(1796年) - 慶応4年3月24日(1868年4月16日)

・・為永春水は、江戸時代後期の戯作者。『春色梅児誉美』など人情本の代表作家。・・
天保の改革下の1841年(天保12年)暮、人情本の内容が淫らであるとして、北町奉行遠山景元の取り調べを受け、翌年手鎖50日の刑を受けた。それを苦に深酒して強度の神経症となり、1843年(天保14年)の暮れに没した。

・・寺門静軒は、幕末の儒学者。水戸藩御家人であった寺門勝春の子として生まれ(生母は河合氏)、13歳で父が死ぬが、彼は本妻の子ではなかったために後を継いで仕官する事が許されなかった。・・天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆する。天保6年(1835年)3月、青表紙本検閲の最終責任を負う昌平坂学問所・林述斎の助言を受けた江戸南町奉行・筒井伊賀守の命により、『江戸繁昌記』初・二篇は「敗俗の書」として出版差留の処分を受ける。・・天保13年(1842年)には江戸南町奉行・鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた『江戸繁昌記』は「風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引証…聖賢の道を穢し」たと判断され「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。・・以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

740秋魚:2017/01/05(木) 03:22:20
(無題)
・・かやうな偶然性は単一者が同一性を以て数度繰返される点において、「失はれし時を求めて」の著者プルウストをして云はしむれば『それらは現在と過去とに同時に存在し、現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。・・・時間の秩序から解放された一刹那が、時間の秩序から解放された人間を我等の中に再び造り出し、さうしてその刹那を感覚させるのである』

・・藤壺、空蝉、夕顔、六条御息所、紫上、末摘花、源典侍、朧月夜内侍、葵上、花散里、明石上、斎宮女御、朝顔、玉鬘のすべてが光源氏にとつては同一性をもって繰返された「幸ある偶然」である。

741山田:2017/01/05(木) 23:03:53
(無題)
自然居士

・・和泉国日根郡自然田村の人、法相の学を修めのち、禅宗に入り、南禅寺の大明国師に師事し、東山雲居寺に住した、頭を剃らず、法衣を著せず、時に或は袈裟を纒うて高座に登り、或は鼓を撃ち扇を取つて舞ふ、蓋し仏道を説いて衆生を帰依せしめやうとする方便である、その自然田村に生れたので自然といひ、僧侶でなく法を説くので居士と称したのである、東岸居士はその弟子であり。謡曲『自然居士』はこれを作つたものである。

・・ 雲居寺は、隋代の高僧静琬が建立した寺で、山麓沿いに建築物が建立された。静琬は、南北朝の廃仏中に多くの仏経が破壊されたが、石刻の仏経(=石経)の多くは破壊を免れたことを教訓に、山上に石を鑿って石室を造り、石経を作成し仏経を保存した。唐の開元年間と遼代に刻経活動は最盛期を迎え、唐代には玄宗によって『開元大蔵経』が雲居寺に下賜され、刻経の底本とされた。

遼代には、『契丹蔵(契丹版大蔵経)』を底本とした刻経が行われた。今日では、その双方の大蔵経が亡佚したため、雲居寺の石経は、その他の版本と校勘する際の一次史料とされている。刻経が盛んに行われ遼代には蔵経洞に石経を収容しきれない状況となったため、山麓に別の石室を穿ち、石経を安置した。刻経活動は、明代まで継続され、刻造された石経は計14,278枚に及んでいる。(wikiより)

・・貨狄尊者(かてきそんじゃ)または貨狄さま(かてきさま)とは、栃木県の龍江院に安置されていた木像の名称。「木造エラスムス立像」として国の重要文化財に指定されている。
・・本像は栃木県佐野市上羽田町の龍江院に伝来してきた古い木像で、長年、古代中国の伝説上の船の発明者である貨狄[4]の像とされてきた。しかし、1920年(大正9年)に足利市の郷土史家丸山瓦全により「耶蘇教僧木像」と紹介され、更に写真が1924年(大正13年)から2年間、バチカンで催された世界宗教博覧会に「在日本キリスト教聖人像」として出品され・・この像は1600年(慶長5年)3月16日に豊後国(大分県)の浜辺に漂着したオランダ船リーフデ号(前名エラスムス号)の船尾飾りであり、オランダの人文学者デジデリウス・エラスムス(1466年 - 1536年)の像である事が判明

742秋魚:2017/01/07(土) 02:21:19
(無題)
・・市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

初代 市川團十郎(しょだい いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。

初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。
・・「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。

・・昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。

・・彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。
                           (wikiより)

初代1675?1704 |二代目1704?35 |三代目1735?41 |四代目1754?70 |五代目1770?91 |六代目1791?99 |七代目1799?1832 |八代目1832?54 |九代目1874?1903 |贈十代目 |十一代目1962?65 |十二代目1985?2013 |

・・天保13年 (1842)、天保の改革の旋風が吹き荒れるなかで、海老蔵は突如江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十里四方処払いとなる。これによって江戸の舞台に立つことが不可能となった海老蔵は成田屋七左衛門と改名。一時成田山新勝寺に蟄居したのち、駿府へ移る。その後さらに幡谷重蔵と改名して大坂へ昇り、京・大津・桑名などで旅回り芝居の舞台に立った。追放の直接の原因は、奢侈禁止令に触れる派手な私生活と実物の甲冑を舞台で使用したというものだったが、要するに罪状は何でも良く、その目的は江戸歌舞伎の宗家として江戸っ子の誰もが認める「あの團十郎」を手厳しく処罰することにより、改革への腰の入れようを江戸の隅々にまで知らしめることにあった。

743秋魚:2017/01/07(土) 12:08:22
(無題)
荻生徂徠

・・江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[5]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。

元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。


宗祇

・・文亀二年(1502)、宗祇は弟子の宗長や宗碩たちと越後より関東を経て駿河に向った。七月下旬、鎌倉近きところ(相模守護代上田館)で千句連歌をおこない、その後、箱根山を越えようと湯本まで行くが、その夜、七月三十日、弟子たちに看取られて宗祇は亡くなった。このときのことは、宗長が『宗祇終焉記』に記している。
 宗祇から古今伝授を受け、親しくしていた三条西実隆は、宗長から『宗祇終焉記』と宗祇の遺物「沈香」「三両」などを送られた。・・実隆は、数年にわたり師事したときの高恩など、あれやこれやと忘れがたいとのべ、次の和歌を残している。

 魂と返す道なき箱根山 残る形見の煙だに憂し
 わが身こそ千々のこがねを報ひても 思ふに余る人の恵みを

744秋魚:2017/01/08(日) 01:05:57
(無題)
・・古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の聖学(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の総称。
・・
後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する。
江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。

古文辞学

・・古文辞学(こぶんじがく)とは、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派。蘐園学派(けんえんがくは)または徂徠学とも。江戸時代中後期に盛んとなった。学問的には朱子学を批判し、伊藤仁斎の古義学に対抗した。

古文辞とは、明朝で提唱された復古的な文学運動。模範とする古典を文は秦漢期、詩は唐に求めた。

山県周南
太宰春台
服部南郭

・・服部 南郭(はっとり なんかく、天和3年9月24日(1683年11月12日) - 宝暦9年6月21日(1759年7月15日))は、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家であり、荻生徂徠の高弟として知られる。・・京都の裕福な町人 服部元矩(もとちか)の次男として生まれる。母は蒔絵師の山本春正の娘吟子(ぎんこ)。父元矩は北村季吟に師事したこともあり、南郭は和歌や連歌など文雅の教養豊かな家庭で育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。

・・17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画業を認められ、これより18年間仕えることとなる。柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘚山、渡辺幹など)が仕えていたが、このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。

南郭は師 荻生徂徠から徂徠学(古文辞学)を受け、太宰春台とともに蘐園学派の双璧とされた。しかし、実質的には蘐園学派は、太宰春台や山県周南の経学派と南郭、安藤東野、平野金華の詩文派に分裂した。徂徠学は人間性を画一的に捉える朱子学を批判し、人間の個性を肯定的に捉えようとする学派であり、そのために古語の理解は不可欠とする。詩文においては盛唐の詩を是とした。南郭はもともと国風の和歌、連歌の素養があり、この盛唐詩の風雅をよく理解したといえる。政治や兵法書に興味を持たなかった南郭は、春台らの古文辞への痛烈な批判を全く無視し政治的現実から韜晦し、ひたすら詩文を楽しみ、そこに人間性の解放を求めた。

745山田:2017/01/08(日) 14:48:44
・・
落花狼藉

https://www.youtube.com/watch?v=9LA3tXIcz1Y

746秋魚:2017/01/13(金) 23:42:33
(無題)
(黒漆の崑崙夜裏に奔る)

・・江戸の闇の深さはこんなものだろう。応為『吉原格子先之図』、光と闇の等位を見る。


・・

今から10億〜20億年後には太陽の温度が少しずつ上がり、地球は熱くなって生物は住めなくなる。

50億年後くらいになると、太陽はその寿命を迎え、

どんどんふくらんで赤色巨星になり地球上の生物も高温のため滅亡する。

太陽は最終的にはその核が白色矮星になる


・・

秋葉山本宮秋葉神社
静岡県浜松市天竜区春野町領家841   北緯34度58分52.44秒 東経137度51分56.81秒

元善光寺
長野県飯田市座光寺2638   北緯35度32分2.65秒 東経137度51分23.48秒


・・麻績の里 舞台桜がすばらしい。

747秋魚:2017/01/17(火) 22:29:05
(無題)
・・去年訪れた浅草寺の裏手だが、葛飾北斎終焉の地というのがあった。聖天町遍照院というところだった。「人魂で行く気散じや夏野原」が辞世という。ここに待乳山というのがあって、こんもり寄らずに来てしまったが、あそこは武蔵の歌枕というのを最近知った。

亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿

真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む

まつちやまゆふこえゆきていほさきのすみだかはらにひとりかもねむ

万葉巻三(298)

・・すみだ川というのが詠まれてあっても、ここは武蔵の隅田川ではない。角太というのは奈良五条市の宇智の野を下り吉野川が紀ノ川になるあたり、橋本、奈良と和歌山の境目の山が真土山という。角太川というのは紀ノ川になる。

本来は大和紀州の歌だが、東国武蔵の隅田川に転写されたようだ。

・・ポタリングの記憶では、たしかに待乳山はこんもり小高い社があって階段を登るのが億劫で訪ねなかったように思う。案内板の北斎終焉の地を確認していっぱいだった。

『春色辰巳園』から、

夕越る人を待乳のさん茶舟          未詳

みをつくす心のたけは千尋にてとゞかぬ文のたよりつらけれ  小松

一りんの梅に雪ふるじれつたさ    清もと

うらゝかな春をかぞへん雪の梅    珍奇楼

748秋魚:2017/01/22(日) 00:23:49
(無題)
・・八十里越(はちじゅうりごえ)は、新潟県三条市から同県魚沼市を経由して、福島県南会津郡只見町に至る街道および峠である。

・・八十里越は、幕末から戊辰戦争時にかけて越後長岡藩の家老であった河井継之助が生涯最後に越えた峠であり、現在の只見町は継之助の最期の地として知られる。

北緯37度23分48秒 東経139度12分27秒

青梅市沢井軍畑駅  北緯35度48分27.4秒 東経139度12分27.8秒
青梅赤ぼっこ N35度46分06秒 E139度14分17秒
金刀比羅神社   北緯35度47分34秒 東経139度15分30秒

河井継之助記念館(終焉の地只見) 北緯37度23分52秒 東経139度21分31秒
阿豆佐味天神社 西多摩郡瑞穂町 北緯35度46分0.52秒 東経139度21分53.65秒

大菩薩峠 N35度44分09秒 E138度51分12秒
長岡駅  N37度26分49秒 E138度51分13秒

光前寺  長野県駒ヶ根市赤穂 北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

・・光前寺(こうぜんじ)は、長野県駒ヶ根市にある天台宗の別格本山の寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくさん)。院号は無動院。本尊は不動明王で秘仏。創建年 貞観2年(860年)

749秋魚:2017/01/24(火) 18:40:21
(無題)
遊獵

朝擇三能士
暮開萬騎筵
喫臠倶豁矣
傾盞共陶然
月弓輝谷裏
雲旗張嶺前
曦光己隠山
壯士且留連

旗 →(其→生)

        大津皇子 五言


・・

五言 遊吉野

飛文山水地
命爵薜蘿中
漆姫控鶴擧
柘媛接魚通
煙光巌上翠
日影漘前紅
翻知玄圃近
對翫入松風

・・
        藤原朝臣史


遊天台山賦(文選)

「王喬控鶴以沖天」

750秋魚:2017/01/31(火) 22:10:00
(無題)
・・継之助は、北へ駈けだした。
寅らも、あとを追った。半隊の兵も、疲労しきった体を前へ突き出し、のめるようにして駈けてゆく。
長町に入った。
継之助が家老になるまで住んでいた町である。武家屋敷がつづく。どの屋敷も、むろんあき家であった。
ぴしっ
と、板壁を飛弾が抜いた。と見るまに、継之助が駈けすぎた路傍に砲弾が落下し、夾竹桃をはねとばした。
さいわい、後続者にはけがはなかった。砲煙が、あたりにみちた。
―先生。
と、寅は叫んだ。継之助の姿が、砲煙のむこうに消えてしまっている。
一同が砲煙のなかを駈けすぎたとき、ふたたび前を走る継之助をみた。
「先生」
寅はふたたび叫んだが、継之助はどういうわけか、ふりかえらなかった。継之助が駈けぬけて行く家並の棟瓦を、天をゆく小銃弾が二つ三つ砕きとばした。寅は心配になってきて、
「先生」
と、三たび呼んだが、継之助はもはや往くことに憑かれたようになっているのか、背中を見せつづけている。足軽町の辻へ出た。左へ曲がればめざす新町である。
継之助は、まがった。このあたりはもはや戦場近くであり、弾が激しく飛んでくる。
「みな、続いているか」
というように、継之助はそのあたりの軒下ではじめて足をとめ、ふりかえった。継之助の頭上には、雁木があった。
雁木とは雪国の町に多い構造物で、町屋の軒から庇をながく張り出し、その下を冬季の通路とする。夏季んは、日よけになる。アーケードというべきであろう。
この庇の破れが、継之助の微笑に濃い翳をつくっていた。「きたな」と言うようにうなずくと、継之助はさらに飛び出そうとした。
むかい側の雁木に移るつもりであった。路上を横切った。
途中、流弾がきた。弾は継之助の左脚のひざの下を砕いた。
―あっ
と、後続者はみな声をのみ、さらに叫び、寅などは棒立ちになった。
継之助は、路上に倒れてしまっている。夏目貞五郎、堀忠一郎といった者がすばやく飛び出して継之助を抱きおこし、雁木の下に収容した。血が、すさまじいほど噴き出している。

・・

751秋魚:2017/02/05(日) 01:26:13
(無題)
・・おの/\こゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意せさせて、うちや
すみしに、夜中過るほど、いたくくるしげなれば、をしうごかし侍れば、只今
の夢に定家卿にあひたてまつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥
を吟ぜられしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、又このた
びの千句の中にありし前句にや、
  ながむる月にたちぞうかるゝ
といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みな/\付け侍れなどたはぶれにいひ
つゝ、ともし火のきゆるやうにしていきも絶えぬ。

・・箱根湯本での、宗祇の臨終の様子。夢の中で定家があらわれたといい、吟じた歌は「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」という式子内親王の歌。

玉の緒は玉を結びつける糸だが一つではなく複数の玉であろう。忍ぶ恋と題されている。

水無瀬川の記憶か?

式子内親王

後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。

・・定家との秘された愛恋は有名。

752山田:2017/02/05(日) 23:52:45
(無題)
??五柳先生傳

先生不知何許人,
不詳姓字,
宅邊有五柳樹,
因以爲號焉。
閑靜少言,
不慕榮利。
好讀書,
不求甚解,
毎有會意,
欣然忘食。
性嗜酒,
而家貧不能恒得,
親舊知其如此,
或置酒招之,
造飮必盡,
期在必醉,
既醉而退,
曾不吝情。
環堵蕭然,
不蔽風日,
短褐穿結,
箪瓢屡空,
晏如也。
常著文章自娯,
頗示己志,
忘得失,
以此自終。

753山田:2017/02/06(月) 00:24:41
(無題)
 「五六月中、北窗下臥、遇涼風暫至、自謂是羲皇上人。」


南郭子綦隱几而坐,仰天而?,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎。形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎。


・・北窓vs南郭

北窓は月無しで牡丹餅のこと。

南郭は廓の南、玉の井でウツケ。

754秋魚:2017/02/08(水) 00:52:37
(無題)
・・最新のパソコンネット事情に挑戦して四苦八苦。政府を狙うハッカー攻撃というものはないが、弱小パソコンオペレーターには企業からの小ざかしい仕掛けが続く。いわゆる成り行きに任す応対が積もるとろくなことは無い。意を決してアプリケーションの削除アップデート等試みた。間違った削除もあってシステムの復元などもやった。古いOSやアップデートを無視するとエラーのブルースクリーンが出たら要注意。スパイウエアごときは堂々と送ってくる。

・・とりあえず5年延命策のネット体制をつくった。win10にも挑戦。

二月に入って梅があちこちほころびはじめた。福生の神明社に枝垂れ梅のみごとなのがあって、機を逸してはなるかと、今日ポタリングに出た。近場だが天気もよくこんな日は外に出ないと罰が当たりそう。福生の郷土資料館でも俳人森田友昇の展示がはじまった。ここも廻って来よう。
ネットで知ったが、最近自転車の本体の事故が多いという。ハンドルが折れたり、車輪がはずれたり、ハード部分の信じられない事故が多い。台湾製のものは頑丈なはず。GIANTはそれでブランドになった。自分のはもう五六年になるが、磨耗タイヤの交換くらい。ギアとフレームは強い。ほんとうはもう一台欲しいのだが。・・ものをどんどん捨てにかかっているのにダメですね。

梅はやはりみごと。芭蕉の句碑もあって刻んだ文字も辿れるが、かなりの達筆な文字。昔の人はたいしたものです。

755秋魚:2017/02/08(水) 12:50:15
(無題)
・・「森田文庫」というのがある。明治初期に活躍した多摩福生の俳人森田友昇。福生出身だが、多く横浜で生業を営んでいた。明治十二年に八王子星布の松原庵を四世で継いだ。多摩八王子横浜の俳諧を多く取りまとめた感があるが、余り知られていない。
今回の展示は、江戸画壇狩野家の画幅のほか、英一蝶の絵もあり、また元禄六年芭蕉怒誰宛書簡などめずらしいものがある。狩野愛信「騎牛笛吹童子図」狩野時信「大梅禅師図」英一蝶「東照宮強飯図」など興趣深かった。若山喜志子の色紙もあって森田家をよく訪ねたとのこと、理由を学芸員の人に聞いてみたがよくわからない。松原庵の榎本星布に憧れていてそれで訪ねたとも聞いているが、定かでない。・・書籍は「横浜地名案内」と句集「浅川集」というのが、おもしろい。森田文庫は一千点の蔵書があるという。今回の展示は入れ替えなく四月十六日まで開催。

756秋魚:2017/02/09(木) 02:16:57
(無題)
十劫正覚衆生界
一念往生弥陀国
十一不二証無生
国界平等坐大会

(二河白道図)1271信濃善光寺

757秋魚:2017/02/10(金) 03:03:00
(無題)
・・きょうは一日win10と格闘。もう少し若かったらジャンク品を拾ってきて改造パソコンを作って見たいところ。パソコン寿命は5〜6年というから中古のよいのが出回ってる。使い勝手のよいwin7もマイクロソフトはあと4年でお釈迦にする算段だろう。くやしいがwin10を一台導入した。自分の寿命というのもある。・・感想だが、コンピュータのシステムの内側をだんだん見えなくなっている。自動更新などもほぼ強制になっている。スマホやタブレット仕様で多彩なアプリソフトが組まれているが自分にはほとんど不要なものばかり。前回のwin10無料アップデートなんてのもいやらしいファイルをいくつも送ってきた。officeに付属したwindowspicturemanegerという画像ソフトはもう付いてこない。・・使いかってがよいので惜しむ人も多い。実はこのソフトだけ無料でダウンロードできる。ニューパソコンはまったく問題ないのがわかったので、このソフトのインストールまで挑戦。・・それにしても気になったのはアップデート更新の数が日に日に増えていくことだ。今中古でwin7をはじめると気が遠くなるような更新の数を強いられる。更新を停止するとかならずコンピュータは重くなる。・・愚痴はいうまい。既存のコンピュータは更新のおかげでとても軽くなった。

758秋魚:2017/02/16(木) 13:45:31
・・
(二九二)うりんゐんの木のかげにたたずみてよみける

僧正遍昭
  わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり

(二九三)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる

そせい
  もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん

(二九四)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる

なりひらの朝臣
  ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは


・・ソセイの歌だが「もみぢ葉のながれてとまるみなと」この「みなと」は特定できる。

竜田川の河口であろう。大和川に合流して大坂の海に入る。

神武軍退却の経路と重なるか?

・・

永承四年内裏歌合によめる

嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり(後拾遺366) 能因法師

・・734年畿内七道地震は、生駒山地系と金剛山地系の間の断層帯。竜田川大和川の筋か?

・・神武vs長髄彦の戦いのダブルイメージ。孔舎衛坂(くさえのさか)で五瀬命負傷。

「今我は是(これ)日?(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)る也。 若(し)かじ、退(しりぞ)き還りて弱きを示し、?祇を禮(いや)び祭りて、背(そびら)に日?(ひのかみ)の威(いきおい)を負い、影の隨(まにま)に壓(おそ)い躡(ふ)まん。 如此(かく)なせば、則(すなわ)ち曾(かつ)て刃に血せずして、虜(あた)必ず自ずと敗(やぶ)れん」

ちはやぶる →血は敗る


・・

安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

万葉集巻第十六 3807


(あさか山の歌)歌の心はかげさへ見ゆるとは高山のかげもうつる程ふかき水と云るなり。浅き水には物のかげのうつる事なし。されな浅くはおもひ奉らずといはんために影さへ見ゆるとよめるなり。大かたの山井はかげ浅き物なり。此山の井は深きなるべし。打見るにあさきやうなれども、まことはふかき水なるを国司の心にたとへてよめり

759山田:2017/02/17(金) 00:37:46
・・
元暦2年(寿永4年)2月19日  屋島の戦い
元暦2年3月24日  壇ノ浦の戦い。平家が滅亡
元暦2年7月9日 元暦大地震が起こる。地震の震源は京都盆地北東部で、マグチュードは7.9と推定されている[1]。

1185年  長明「方丈記」(1212)はこの地震だな。

鴨長明 1155−1216

760秋魚:2017/02/17(金) 14:27:22
・・
北 冥 有 魚 , 其 名 為 鯤 。 鯤 之 大 , 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 , 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 ,不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 , 其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 , 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。

761秋魚:2017/02/18(土) 16:23:51
(無題)
・・春一番があった。青梅マラソンの前に青梅丘陵ハイキングコースを歩くことにした。熊が出る前に。自転車より歩くのが基本。
・・枝垂れ桜で名高い梅岩寺に寄ってここの梅も捨てたものではない。大変な古木があるが花は盛りをすぎていた。境内の裏からハイキングコースにあがる道があるはず。たぶんこの道だろう。竹林の中を通って途中梅岩寺を裏から見晴らかすスポットもある。道の途中に板絵がいくつも建てられている。千手観世音、如意輪観音、十一面観音が多い。梅岩寺は真言宗豊山派だが。
・・同じ青梅でも花つつじで名高い塩船観音寺は、真言宗醍醐派の別格本山で、秘仏の本尊は十一面千手千眼観世音菩薩という大悲仏。蓮華王ともいわれる。やはり花つつじで名高い青梅の薬王寺は真言宗豊山派だが、本尊は聖徳太子作という薬師如来像。成田の不動明王は空海作といわれるが、太子作というこちらの方が妙味ありか。因みに昨夜学習したことだが、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主であり、西方極楽浄土の阿弥陀如来と対照をなす。仏法の東西の対照について、あまりに迂闊にすごしてきた。塩船観音や薬王寺の花つつじがかくも華麗荘厳なのは深い意味がある。
「瑠璃は、金、銀、玻璃(はり)(水晶)、車渠(しゃこ)(貝の一種)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)とともに七宝のひとつとされ、いわゆるエメラルド、アクアマリンといった緑色、青緑色の宝石、またはラピスラズリをいう。したがって瑠璃光とは、その宝石のような美しい青色、緑色の輝きを意味している。」

・・倭人伝に伝えられた「白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す」の「青大句珠」とは、ラピスラズリの勾玉か。

・・それにしてもいろんな木がある。がっかりしたのは、自分が木の名を言い当てられるものがほとんどないこと。杉と檜の区別さえ覚束ない。檜は檜風呂とかいって特殊のアロマを出す。法隆寺金堂の木材はおおかた檜だという。杉に似てまっすぐ伸びるが見映えはよくない。大木というのもあまりみない。栂は想い出したが、目の詰ったよい木だ。将棋盤や駒に使うと聞いたことがある。せっかく散策にでたから、新しく木の名を憶えたい。アラカシというのがあった。樫の木の一種でこれはよくみる。落葉樹は幹だけしかわからない。これは何だろう。桜に似ているミズメかな。アズサか。

762山田:2017/02/19(日) 01:18:23
・・
越後より上りけるに、姨捨山(おばすてやま)のもとに月明(あか)かりければ

これやこの月見るたびに思ひやる姨捨山の麓なりける(後拾遺533)

・・橘為仲 長和3年(1014年)頃 - 応徳2年10月21日(1085年)

・・能因法師 永延2年(988年) - 永承5年(1050年)

・・菅原孝標女 寛弘5年(1008年) - 康平2年(1059年)



 ある所にある女、桜花の散るを見てもの思へるさまにてかくいふ
  うき身をばなぐさめつるに桜花いかせにせよとかかくは散るらん
 これを聞きて
  思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも
 女、かえし
  をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ
 また返し
  月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるらん    (能因集)


さらしなや姨捨山に旅寝してこよひの月を昔見しかな  能因

月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵訪ね来つらむ 菅原孝標女

・・

更級の山のたかねに月さえて麓の雪は千里にぞしく(九条良経)
雪白き四方の山辺を今朝見れば春の三吉野秋の更科(同)
月ならぬ雪も有明の冬の空くもらば曇れ更級の里(後鳥羽上皇)
月さえて夕霜こほるささの葉に霰降るなりさらしなの里(藤原家隆)

更科のさむき山べのうの花はきえぬ雪かとあやまたれつつ(平兼盛)
更科の山ぢに咲ける白菊の花もまばゆき秋の夜の月(藤原忠兼)

あらし吹く山の月かげ秋ながらよもさらしなの里の白雪(定家)

763秋魚:2017/02/22(水) 02:12:23
(無題)
龍田河錦をりかく神無月時雨の雨をたてぬきにして

よみ人しらず (古今和歌集巻六冬)

をりかく →織り 欠く 懸く 駆く

神無月 →十月

たてぬき →縦 貫き  どちらかというと経線(南北線)であろう。

764山田:2017/02/23(木) 01:10:37
・・
・・神坂峠(みさかとうげ)は、木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mの峠である。位置は、北緯35度28分19秒東経137度37分55秒。


花歌とて

吹きのぼる木曾の御坂みさかの谷風に梢もしらぬ花を見るかな(続古今139)鴨長明


横浜みなとみらい  北緯35度27分29秒 東経139度37分55秒
横浜駅    北緯35度27分58秒 東経139度37分21秒

765山田:2017/02/24(金) 00:59:39
・・
蓬莱に聞くばや伊勢のはつ便り

此たびはいせのしり人おとづれてたより嬉しき花柑子かな(慈鎮)

・・

大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ(七十六段)

766秋魚:2017/02/24(金) 02:11:13
(無題)
・・伊勢物語七十六段。

「むかし、二条のきさきの、まだ春宮のみやすん所と申ける時、氏神にまうで給けるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよりたまはりて、よみてたてまつりける。
 おほはらやをしほの山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかゞ思ひけむ、しらずかし。」

・・

古今和歌集

(二九二)うりんゐんの木のかげにたたずみてよみける
僧正遍昭
  わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり

(二九三)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる
そせい
  もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん

(二九四)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる
なりひらの朝臣
  ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは

・・「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に」

藤原高子(842-910) 清和天皇の女御、後皇太后。
貞観八年(866)二十五歳で入内。貞明親王を産む。(869年1月2日)

貞明親王は、三ヶ月で立太子、貞観十八年(876年)九歳で帝位につく。陽成天皇。

つまり、二条の后が東宮のみやす所であったのは、869年から876年の間のこと。

・・伊勢物語の著者は紀貫之という説もあるが、「神世(代)」が藤原高子に問われている。

井月の書簡に、

「蓬莱に聞ばや伊勢のはつ便り
慈鎮和尚の歌に
 此たびはいせのしり人おとづれてたより嬉しき花柑子かな
此古歌どりなり。」

・・

伊勢=神世というスタンス

767山田:2017/02/24(金) 13:58:38
(無題)
みちのくのしのぶもぢずりすぢもふのしのくのちみ
未知の狗の詩述ぶも血摺り筋も不能凌ぐ後箕

つついつのいつつにかけしけかにつついのついつつ
筒異つの出津に架けし毛蟹ツツ胃の通五つ

あやめかりきみはぬまにそにまぬはみきりかめやあ
綾女狩り黄身は沼二祖二馬奴は見切り瓶やあ

さつきまつはなたちばなのなはちたなはつまきつさ
五月松は屶恥葉菜の名は千だ縄妻詰さ

みよしののたのむのかりもりかのむのたののしよみ
見よ篠の頼む逃り森かの無能多罵詠み

わすれてはゆめかとぞもふもそとかめゆはてれすわ
忘れ手は夢か兎鼠も巫も粗と亀湯は照れ巣わ

つきやあらぬはるやむかしかむやるはぬらあやきつ
月箭吾ら弩張るやむか鹿亡夜流は奴らあ焼つ

いにしへのしづのをだまきまだをのづしのへしにい
猪西へ野屍角を朶巻き未だ斧頭偲へし兄

つひにゆくみちとはかねてねかはとちみくゆにひつ
津干に愉句未知と墳寝て涅か鳩血み苦湯に筆

768秋魚:2017/02/28(火) 20:05:33
(無題)
・・乗りかかった舟。win10のオペレーションにはほとほと愛想がつきそう。不具合が次々と出る。きょうはいきなりブラックスクリーンになった。OSを立ち上げても真っ暗では打つ手も無い。重大なエラーかとセーフモードの起動とか試みようとしたが、win10は簡単には操作できない。win10の最初の立ち上がりで自動修復までもっていけばセーフモードもオプションで選べる。ところが駄目ですね。チェックツールが入るだけで再起動後は元の木阿弥。真っ暗。個人がシステム操作できないような構造になってる。リカバリーディスクが存在しないから立ち上がりスタートメニューからの回復もできない。回復というの実は試みたのだけどこれもエラーで不成功。部分的な不具合はネット検索などでいくつかは修復できる。win10の不具合はおおかた後からのアプリソフトのインストルによる。これは削除で解決することが多い。・・ブラックスクリーン というのはもう壊れたかと観念したが、やや簡単に復旧できた。・・要するにディスプレイの明るさが何かの弾みでゼロになったわけ。バッテリーモードで起動するとちゃんと画像がでる。バッテリーで立ち上げて電源の設定を調節すればよいだけだった。これに気づくまでなんと時間を食ったことか。テェックするのに時間がかかります。お待ちをなどいってパソコンは時間泥棒もいいとこ。こんなのに付き合って残り少なの人生を食われるのは、どうもね。ま、乗りかかった舟でしょう。

769秋魚:2017/03/01(水) 14:32:38
(無題)
・・サインイン統合というのが各社ネックでしょう。弊害も多い。win10はとりあえず安定したから3年は使えるでしょう。・・itの開発者はしのぎを削っているようだがビジネスが絡むとブラックホールも多い。自動車のリコールと同じでただコンピュータには更新のパッチファイルが送られてくるだけ。xpなど誰も見向きもしなくなってネット以外はとても安全。win10はサイバー攻撃のかっこうの目標ですな。defender用更新ファイルとはほぼ毎日送られてくる。無理もないというか穴だらけのOSですな。・・二三懸念事項はあるが、win10は卒業にする。

・・聲澄みて北斗にひゞく碪かな

名栗の星宮神社に芭蕉の句碑を訪ねた。こんなところにしかも安政3年(1856年)の建立。揮毫は江戸の孤月庵卓郎。

770秋魚:2017/03/14(火) 22:49:03
(無題)
・・春の散策ガイドツアー吉野梅郷に参加した。NPO法人が企画して東京都が後援らしい。らしいというのは、深く考えたくないためだ。ネットで申し込んで、応募多数、抽選で当たった。地元で活動していて当たるような気がした。吉川英治記念館がメインであと近くに梅の公園がある。梅郷の梅は数年前人気投票でNo.1であったが、残念なことに梅ウイルスが発症し市内のめぼしい梅はざっくり切られてしまった。この梅の公園にも千数百本の木があったが、感染を防ぐためにすべて切った。・・これ実はうまくいってない。隣の福生の梅の木もやられているらしい。成果は万全ではないが、鶏ウイルスと同じでこういう伐採のほかはないらしい。梅郷では実は跡地に新しい苗木の植え付けが始まっている。きょうはそちらの成果も見て取れる。

・・二俣尾駅集合で、電車代だけお願いしますということだった。何のことはない自転車で行ける。朝小雨がちだったが、何のことはない。平日だからどんな人が集まるか、まあ退役の暇人か主婦が多いのかもと思っていた。女性が多かったけど、みなユニークな人っぽい。一人若い娘さんが参加して、自己紹介では、きれいな声で中国から来ましたという。留学生で観光経済を専攻中。日本語がとてもうまい。(おまけに美人)。・・専門のガイドさんが二人ついてまあ詳しいことくわしいこと。大変におもしろいツアーになった。出不精で人の交流がしばらくなかったので、くらくら目眩がしそう。

・・梅の種類で「鴛鴦」「新平家」「書屋の蝶」というのがあり、後ろ二つは青梅の新種という。「鴛鴦」はひとつの花で実が二つ成り、「新平家」は八重の紅梅で花弁の陰翳に趣あり、「書屋の蝶」は五つの花弁の先が尖っていて蝶が留まっているよう。

・・桜は「咲く」「散る」、梅は「ほころぶ」「こぼれる」、牡丹は「開く」「くずれる」。こういう決まった言葉使いだという。文を書くのにこれも知らなかったことだ。花はみな咲く、散るだと思っていた。

・・二人のガイドさんのうち一人は植物が詳しい。ニリン草、かたくりは春先日の当たる内さっと咲いて隠れてしまう。・・むらさき草について尋ねたが、やはりほぼみない草だった。・・もうひとりのガイドさんは、歴史、地理いろいろ詳しい人で、これもとっておきの質問、常盤御前の青梅寓居について訊いてみた。これは不思議ですね。まったく知らないことという。青梅の成木とか飯能にも伝説がある。義経だって、武蔵野を横断できなくて周辺の山間をめぐって奥州に向かった。・・伝説ということでみな外すのだろう。・・作家が小説で書いてはいまいか。吉川英治が地元にいて書く気もしたが、「義経」という小説は司馬遼太郎のもの。ともかくこれは自分で当たるしかない。

・・昼食はこの企画でソバをご馳走になった。これも感動ものです。

771山田:2017/03/18(土) 10:18:35
(無題)
・・四天王とは、仏教における持国天、増長天、広目天、多聞天のことを言う。 それぞれ東、 南、西、北の方位を守護しているとされる。

772秋魚:2017/03/24(金) 23:06:33
(無題)
・・尭恵 ぎょうえ

1430−? 室町時代の僧,歌人。
永享2年生まれ。天台宗の学僧。法印。二条派の歌人尭孝(ぎょうこう)について種々の口伝をうけ,「古今抄延五記」など歌書の注釈を執筆。公家,武士,僧にわたるひろい交遊でも知られる。号は藤の坊。著作に「吾妻道記」「東国紀行」,家集に「下葉和歌集」。

・・「東国紀行」は「北国紀行」とも。

作者堯惠は、白山系の修験者。堯孝に歌を学び、『古今血脈抄』『古今抄延五記』を著す。寛政6年(1465)加賀から信濃善光寺に詣でて『善光寺紀行』を著し、文明18-19年(1486-1487)武蔵・相模を遊歴して『北国紀行』を著した。

・・

773秋魚:2017/03/27(月) 03:14:39
(無題)
・・二俣尾の名の由来について、青梅街道が軍畑のあたりで奥多摩と秩父方面に分かれるので二俣尾というのだそうだ。梅郷ツアーでそう教わった。秩父方面には成木から小沢峠を越えて名栗に入り、さらに山伏峠を越えれば秩父に入る。この秩父へ向かう道は鎌倉古道ともいわれる。鎌倉ではなく相模の大山詣での道とも聞いている。・・二俣尾、軍畑の駅から成木にむかって坂を登り、高水山にあがる参道がある。これはいつか歩いた道だ。この参道のちょうど入口あたりに高源寺というもの寂びたお寺がある。境内に石碑があって、芭蕉の句が刻まれてあるのがわかったのは、平成二十一年七月の調査のことだった。文字が判読しづらく長い間未知の句碑であったが「古寺廼桃耳米ふ無於とこ可那 はせ越」と読める。「古寺の桃に米ふむおとこかな 芭蕉」というので、あまりみかけぬ句と思っていた。正岡子規「俳諧大要」に載っているというので調べてみたら「芭蕉雑談」にある。薀雅なるものという。

・・桃はこのあたり江戸の昔は桃の花園で満ちていたという。むろん芭蕉がこの青梅で詠んだものではない。よくわからぬのは「米ふむ」という所作。これは米を精米するための地唐臼で踏んでいるのだという。桃の花とのい対比がいい。薀雅ですか。

・・この「米ふむ」で想い出した。

 越後生れは多く米つき
佐渡の花我秋津洲の誉れ也
 ・・

独吟歌仙の平句で余り気に留めていなかった。「米つき」というのを辞書で調べてみた。高源寺の句碑「桃に米ふむ」と同じ精米の所作であろう。米つき専門の職人もいたそうだ。子供のころ米つきバッタなどもよくみた。米どころ越後はわかるが、青梅では米はほとんど作らない。麦はとれたようだ。

774山田:2017/04/06(木) 00:37:08
・・
>鶴鳴山

四川省大邑県に位置している鶴鳴山は、古剣四大名山の1つで、鶴の形をしていることに因んで名づけられました。東漢時代、張道陵はここで修行を積み、仙道に入り、さらに「五斗米道」を設立したと伝えられています。その後、「五斗米道」が中国道教の主流の「正一道教」に発展していったので、鶴鳴山は漢代天師道の発祥地と言われています。北宋時代の陳希夷、明代の張三豊など歴代の有名な道士は、ここで修行を積みました。

・・

775山田:2017/04/08(土) 13:36:49
・・
陽炎の動かす石の華表かな
陽炎に貫目ひかれな力石

蜻蛉のとまりたかるや水の泡
蜻蛉の降りんとするや水の泡
蜻蛉の夕空頼む九月かな
空に散る蜻蛉の群や潦
蜻蛉の罔両見たり水の泡

・・思ひ續け、ながめ給ふ夕暮、蜻蛉の、物はかなげに飛びちがふを、

「ありと見て手には取られず見れば又ゆくへも知らず消えし蜻蛉
あるかなきかの」

・・

776秋魚:2017/04/18(火) 22:19:01
(無題)
・・春祭りというのに出た。櫓の組み立てと神酒所の世話。あと受付というのもあった。折から神社の桜は満開でよい花見にもなった。花に群れる鳥は何だろう。嘴をのばして蜜を吸っている。・・神酒所では〆というのを受け持った。青梅〆という3・3・1の七つ〆というのが定番という。これも二度目でやっと憶えた。挨拶言葉は実はまったく自信がない。先輩に教わって形ばかりのものを魂こめてやった。この魂こめてというの実はとっておきだ。(人前で話す練習という野暮ったいものだが)ハハ

・・春の嵐が来るという。あきる野の山桜を今年は見たい。山桜はソメイヨシノの後二週間ほどで見ごろという。幸い春の嵐は微雨ですんだか。昼からは晴れるというので自転車で繰り出すことにした。一度梅郷の方へバックして梅ケ谷峠の道が日の出あきる野にはいりやすい。数年前は魑魅魍魎の道にしかみえなかったが。馴れたものだ。・・家で調べものばかりして体力が落ちたか。温泉が一番。・・後輪のタイヤチェンジもしたので様子見もあった。タイヤは万全だが、ギアチェンジが今ひとつ。ブレーキも効きをよくした。

・・あきる野の光厳寺は正月に来ている。迷うことなく真直ぐ行ける。さすが花の名所でカメラの人が先客のほかスケッチブックの人もいる。スケッチの人は三年前に来たけれど、盛りをすぎて失敗。今回は周到にお寺に電話をいれたりして見ごろの日を選んだという。朝方までの雨がなければほんとによい花見になったろう。お日様がでて花もメリハリがでる。夕方までいればとてもよくなる。明日の午前中だたぶん最高でしょう。ほんとうに見ごろというのはわからないものだ。ピークというのは自覚できない。スケッチの人とすこし話をした。墨絵のようなスケッチを楽しんでいるという。大悲願寺の白萩をすすめておいた。秋ですが。

・・山桜というのは華麗さを期待しないがいい。ソメイと違って赤味を帯びた葉が先に出る。葉と蕾がほぼ一緒かと。花の色も白さがめだつ。質素な花だ。・・この時期いろんな花が開花の競演。雨上がりでさらに鮮やかなものもある。

・・温泉の裏の龍珠院も花見の名所という。枝垂桜が見事というが、梅岩寺のものと比較はできない。ここも帰りに寄ったが、カメラスポットとみえて平日なのにマニアが多い。みなデジタル一眼レフのよいもの使ってますね。きょうはさほどの撮影日和ではないけれど。

777秋魚:2017/04/27(木) 00:34:59
(無題)
不空成就如来

五智如来のうち北にある 四神なら玄武

・・語源は「空しからず」という意味があり、充実していること を指す


佐渡か

778秋魚:2017/05/01(月) 01:07:43
(無題)
・・連歌師宗長が青梅に来ているという。三田氏の勝沼城で連歌会などしてすごしたらしい。『東路のつと』という紀行にあって、1509年、駿河から白川の関まで行こうとしたものだ。青梅の勝沼は今でも町名で存在するし、勝沼城跡というのも史跡として認定されている。近辺を幾度か散策していたが、まだここは訪ねていない。今日は天気もよく、躑躅が咲き始めているのを見越して、勝沼城跡を散策し、霞川に沿って、薬王寺まで躑躅の花見に出た。

・・東青梅駅から成木街道の左手はもう勝沼、すこし入って右手の吹上、塩船へ向う道の裏手にあるこんもりした山が勝沼の城跡だ。・・以前、霞川の水源を求めて何度か歩いた。天寧寺や虎柏神社、石動神社とかもこの近くだ。三田氏は平将門の流れだという。飯能と青梅の境にある加治丘陵の西の端に勝沼城はあった。光明寺というお寺があってその裏手の山らしい。何の標識もないので民家の人に聞いてみた。寺の脇の道をずっと登ってゆくとありますよ。でもまったく無人、熊がでてきそう。古い案内板があって、史跡環境保全林だから、大切に歩きなさいということだった。土地の起伏と主に檜の林ですね。建物とか石垣跡というのは何もない。散歩する路がわずかにみえる。まったく人気がない。・・中を歩いてみたい気もしたが、写真を一枚とって引き上げにした。

・・宗長は駿河の島田から箱根、小田原、湘南の藤沢にでて、いきなり武蔵野の勝沼に来る。各地の戦国武将のつてを頼って歩いたようだ。『宗祇終焉記』でも越後の宗祇を訪ねるに、鎌倉から武蔵野は一飛びでぬけ、上野というから群馬の高崎あたりでしょう。これはどうみても多摩、秩父よりの鎌倉街道を歩いているな。藤沢から境川に沿って16号は昔の絹の道。相模原、あきる野、青梅という、八高線に沿って飯能、高崎まで行ける。それにしても青梅の勝沼城を訪ねたというのは、驚きだ。

きりはたゝわけ入八重の外山かな



此山家。うしろは甲斐の国の山。北はちゝぶといふ山につゞきて。まことの深山とはこゝをや申べからん。此山ふかき心なるべし。おなじ処に山寺あり。前はむさし野なり。杉本坊といふにして。

露をふく野風か花に朝くもり


・・霞川を探して自転車を走らす。天寧寺に水源あり。霞川を見つけるのはたやすい。この川は細い川だが、魚も水鳥も多くいる。カワセミが出るというので、以前、カメラマニアが岸辺を騒がしていた。騒ぎになるとカワセミも逃げてゆきそうで、そろりとお忍びですね。・・今回はまったく無人。
薬王寺は真言宗豊山派、躑躅の庭が名勝だ。本尊の薬王如来は伝聖徳太子というから、すごい。薬師仏は瑠璃光浄土を祈願する。尊像を拝みたいものと思っていても秘仏だそうだ。きょう訪ねたら住職さんに拝観をお願いしようかとも思案。しかし秘仏は秘仏、失礼でしょうね。・・薬王寺は加治丘陵の東の端で勝沼城跡とは対極の位置にある。この丘陵の内側を霞川が流れる。この一帯いちじきは沼地だったという。立川断層が伸びていてずっと昔地震があって霞川を遮断したという。いまは田園風景が良く決まっている。自転車のサイクリングには爽快上なし。川岸で大きなカメラを構えている子供がひとり。何を写しているの。カワセミという。つい数分前写したものを見せてもらった。やはりカワセミはいるんだ。このあたり昔は鶴もいたでしょう。

・・薬王寺は旬は早いかなと思いつつ、人がけっこう多い。きょうは晴天。しかし曇ってたりの方が躑躅は色合いがよいか。逆光になったりは、花は色あせる。外人の女子がひとり。目が合ったのでwhere’reyoufrom? campZamaということで、米軍の座間基地の人らしい。花を背景に写真を一枚お願いします。okといって、カシャリと一枚。日本語と英語ごたまぜで。・・ここのツツジ外人にもやはり評判のよう。

779秋魚:2017/05/02(火) 21:38:22
(無題)
・・泉岳寺。亡くなった稲葉真弓は上京以来国分寺の恋ヶ窪にながく住んでいた。武蔵野のハケの様子など地誌には敏感でそれでいて詩のモダニズムの流れもよく見ていた。もういいやといって北品川のマンションに移っていった頃まで詩の話をしていた覚えがある。品川に移ってさっそく近辺の散策にでたエッセイを読んだことがある。・・その中で海に近い風情を気に入っていたようで起伏のある土地も歩いて楽しんだ。・・泉岳寺にもばったり。あの忠臣蔵の赤穂浪士たちの墓がそのままあって妙に感動していた。何が感動かなどはまったく説いてはいない。

・・自分も先日港区芝、品川を訪ねる用があり、三田済海寺、亀石古墳など、その後品川海晏寺に行こうとして坂を下ったら、泉岳寺に出た。

・・荻生徂徠と赤穂浪士については、落語にもある。赤穂浪士46人の切腹については儒学者の意見が求められ、中で荻生徂徠の切腹進言が将軍に採用されたという。赤穂浪士の切腹はほぼ徂徠の裁可というのが定説だ。

「大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているようであるが、元来、まず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったのは筋違いだ。内匠頭はどんな恨みがあったのかは知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果たさなんだのである。心得ちがいといわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得違いを受け継いで上野介を殺した、これを忠と呼ぶことができるであろうか。しかし士たる者、生きてその主君を不義から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめたのだとすれば、その志や悲しく、情に於いては同情すべきも、天下の大法を犯した罪は断じて宥 (ゆる) すべきではない。」
「…内匠頭は殿中を憚らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格に言えば内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らは吉良氏を仇として猥りに騒動を企て、禁を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を憚らざる不逞の所為である。当然厳罰に処せられるべきであるが、しかし一途に主君のためと思って、私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申しつけらるるが至当であろう。…」

・・長岡藩では、藩校崇徳館で古文辞学が教えられていたが、荻生徂徠の弟子太宰春台は信州飯田の人。赤穂浪士の討入りには、さらに過激な論を述べている。

「春台によれば、浅野は吉良を傷つけただけなのに浅野を切腹に処したのは幕府の処罰が過当である。よって赤穂浪士達は吉良を恨むのではなく幕府を怨むべきであり、彼らは幕府の使者と一戦を交えた後、赤穂城に火を放って自害するべきだったという。」

・・私が訪ねた時は、やはり変な人気があるのか、人の訪問が絶えない。外人も神妙な顔つきで来ている。耳を澄ましたらドイツ語ぽい。浅草の有象無象の外人とは趣きも異なる。

如来寺。正式には、養玉院帰命山如来寺。今は品川でも西大井にあるが、明治41年までは芝高輪この泉岳寺のすぐ南隣にあった。五智如来の木像があったので、目立った景色であったという。寛永13年(1636)木食但唱上人によって開創された。これは帰命山如来寺。養玉院はまた別の歴史がある。

・・ところで、この但唱上人だが、品川の地元では現今調査されているものと大いに異なる出自をもつ。深く調べたわけではないので間違いもあるかもしれないが、おおよそ地元では深川あたりにいたキリシタンの大工だったという話だ。

「徳川三代将軍徳川家光が元和9年(1623年)10月31日キリスト教信者50人を処刑した(徳川実紀より)。処刑されたのは、エロニモ・デ・アンゼルス神父、シモン遠甫、ガルベス神父、原主水他。」
「刑場があった高輪大木戸(東海道にあった江戸内外を示す関所)の石垣の一部が残され、石碑が設置されている。」

・・この高輪の刑場というのが、如来寺の場所と重なるのではないか、あるいは、如来寺はキリシタンの埋葬地ではないかという話がある。但唱も処刑されるはずのキリシタンだったが、どういうわけか一人だけ刑を逃れた。隠れキリシタンが仏教に改宗をよそおい五智如来をつくった。

芝五智如来(江戸期の書籍「望海毎談」)

「如来寺、芝高縄手通り、五智の如来堂にして、世に芝の大仏と云ふ、此の仏建立せしは、天台宗にて、但昌といへる木食なり、依って、本堂迄取立て、東叡山の末寺なり、当所、江戸創業の始めは、刑罪の屠所なりしが、其後、鈴ヶ森の地へ引たり、但昌、其後、相州一石山に籠り、薬師如来を建立し、其所にて遷化す〜 」

キリシタン原主水の殉教というのは、目頭が熱くなる。但昌などは井月と同じで出自はああでもないこうでもない。作り話が多い。

1623年、品川海岸でのキリシタン50人処刑というのは、火刑。(家光)

1619年には、京都六条河原でキリシタン52名が処刑。火あぶり刑。(秀忠)

「キリシタンの刑死者は屍体が盗まれないように埋葬されていたらしい。 当然ながら札の辻での処刑者の後始末は品川宿小屋頭長九郎配下の者たちが行なっていた。

一説によると埋葬した場所は近くの高輪車町(たかなわくるまちょう)の小山ではなかったろうか。 著者不明とされる 『望海毎談(ぼうかいまいだん)』 によると寛永13年 (1636) 刑場とされる跡地には如来寺が創建されている。」

「品川溜の非人頭長九郎とその配下の非人たちが処刑された死体の処理を行ったと記しています。・・この品川溜は現在の京浜急行青物横丁駅前(現在の交番付近)にあったよう」


・・驚きですね。品川鮫洲にある海晏寺はこのすぐ近く。青物横丁駅前で、道を尋ねたこと憶えています。海晏寺には鳥酔、白雄のお墓があります。

780秋魚:2017/05/05(金) 18:43:19
(無題)
・・輪行のために、自転車の解体−組立てを予行した。一年もやってないと勘も狂う。ホイールの外しまではなんとか。バラバラになった車輪をフレームにくくりつけて袋に収納するというのがまたしても難しい。どこか違ってるのではないか、ネットでもう一度学習してみよう。・・組立ててほかに狂いはないか。ブレーキが少し変。

・・きょうは組立て自転車の点検で、飯能岩淵の歓喜寺、岩井堂までサイクリング。岩井堂は何度か訪れたが、そこから7百mほど離れた歓喜寺にはまだ訪ねていない。岩井堂は真言宗智山派の歓喜寺のものだ。榧の大樹があるという。五月の連休盛りというのでサイクリストも多い。小曽木街道は田舎の道だが、この日は車も多い。注意力全開で身体に緊張感をみなぎらせるのは、しばらく忘れていた。健康によい。・・体のリズムも若干狂う。

・・ともかく死ぬのはごめんだ。リズム若干の狂いも補正したい。小曽木街道を外れて仏子に向う道は何と言うのだろう。ガソリンスタンドのあるT字路で美杉台団地のほうへ。(団地というとまずいかも)すぐ成木川にかかる橋がある。「みどり橋」という。ここからの川景色は絶品。写真を一枚とった。ここを渡らず右にすこし折れると歓喜寺がある。こういうお寺ほとんど訪ねる人もない。榧の木をしっかり観るのははじめてだ。木質が固そうで碁盤をつくったりする。実から油もとったりするそうだ。墓地のほうから一人来てたまさか話になる。土地の人だというのでどんな話もおもしろい。墓地にハナミズキを植えたが数年で枯れたという。ハナミズキは米国からやってきた。ソメイヨシノと交換という。これも知らなかった。土を入れ替えないと枯れるでしょう。墓の管理のしかた、やはり悩みが多い。
・・こんなマイナーな寺に訪ねる人めずらしいのか、よく話す。石動神社に訪ねたときも、出会った人はよく話した。根ケ布だったか近くに勝沼の時宗の寺があるという。今回、この歓喜寺のほかに飯能下畑にある金蓮寺も訪ねてみたかった。時宗の寺だ。

・・歓喜寺は墓地の開発だけは進んでいるようで、近隣に住み着いている家に檀家の募集がある。話をした人の家は古いは古いが、明治頃までのは火災で焼けて過去帳は無いという。それでも古い墓石、板碑が残るというので、二三見させてもらった。磨耗があって読みにくいが、寛文というのが読める。1661年から1672年の間、芭蕉はこの頃藤堂家に出仕して寛文12年(1672)には江戸に下っている。ほかに天明三年という碑も草葉の蔭にある。1783年、浅間山大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
時代背景を探ると胸にぐっと来るものがある。

・・墓碑板碑には江戸天明、文化文政の頃までは青梅、飯能でよくみかける。天保年間のものは少ないという印象だ。死者の霊魂の居場所を安めるというより、父が祖父の、子が父の霊魂を引き継ぐような心性は幕末にかけてどんどん薄れていったのではないか。維新の近代は総じて過去を清算してはじめる私生児たちのエネルギーで満ちていた。


長閑さや清水滴る岩の鼻
陽炎や清水滴る岩の鼻
月かげや清水したたる岩の鼻

岩鼻やここにもひとり月の客   去来

781秋魚:2017/05/08(月) 22:09:20
(無題)
・・一日前倒して甲斐大和の天目山輪行に出た。青梅から高尾まで90分は自転車。解体袋詰めで30分。高尾から甲斐大和まで電車で1時間。甲斐大和の駅で自転車の組立で30分。駅から天目山までどれくらいか、かなりの傾斜なはず。・・ざっとプランニングをして出たが未知な部分が多い。ネットでは、笹子で降りて自転車で峠をこえ天目山温泉に寄ったという記事があった。5kmくらいだが一辺倒の上り坂。アゴが出たということだ。

・・天目山へのアップスロープは実はあまり恐くない。恐いのは国道20号。甲州街道だ。以前大月から隣の猿橋まで走ったことがある。自動車専用ハイウェイ様で車もびゅんびゅん。二度と走りたくないと思った。笹子−甲斐大和間はトンネルで、このトンネル数年前に落盤事故があった。自転車でここを抜ける人もいるが、長く暗くとても恐いそうだ。そうでなくても20号はごめんと自ら言い聞かせていた。・・天目山の後この20号で勝沼、塩山に抜ける予定があり、実はこれも大いに気がかりだった。・・変な事故で天命も尽きるかも。

・・自転車乗りで輪行は憶えるとわくわく行動の想像力が大きく激変する。その分いくつもリスクポイントも増えるけど。ここで萎縮する手はない。若いとは想像力の問題です。

・・自ら励ましてなんなく甲斐大和の駅に降り立った。ここ無人駅ですね。

・・組立ては細心の注意。これからのヒルクライムその後の長いライドに耐えうるか。ブレーキが最も要注意。ブレーキ鳴きがするが、これはいい。国道から外れていよいよ天目山へ向う道。行き逢う人に道を聞く。景徳院は近いですけど栖雲寺は山の上です。上り坂が大変ですよ。標高はこのあたりが500くらい、天目山は千mほどですから。地元のものでもよう歩きませんわ。さんざん憐れみをうけたが、自分はこれくらいはどうということない。5kmくらいなら歩いても行ける。笑顔でありがとう。

・・景徳院はほどなく到着。武田氏滅亡は天目山の戦いと呼ばれている。織田徳川の軍勢に追われて栖雲寺まで行こうとしたが、行く手をはばまれこの景徳院で勝頼、北条夫人、信勝はここで自刃。それぞれの辞世の歌が残されている。


黒髪の乱れたる世そはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒
   北条夫人
おほろなる月もほのかに雲かすみはれてゆくえの西の山の端
   勝頼公
仇に見よ誰も嵐の桜花咲きちるほとの春の夜の夢
   信勝公

・・夫人の歌はとりわけ感慨深い。

・・今回の目標はさらに上の天目山栖雲寺。天目山という名称は中国の山に因んだもの。もともとは木賊山(とくさやま)と呼ばれていた。中世の紀行「都のつと」で作者が常陸高岡からここの木賊山まで訪ねて来ている。木賊山というのは、山梨市と秩父の境に2469mの木賊山があるが、「都のつと」の木賊はこちら甲斐大和の天目山のことであろう。常陸高岡というのは、新治郡新治というもう筑波に近い。ヤマトタケルに倣って筑波から甲斐へ武蔵野を横断している趣きだ。・・木賊というのは、世阿彌の謡にもある。様々のこと思い出されて、この天目山にやってきた。

・・天目山簡単に来たようだが、ほんとはきつかった。途中、龍門峡遊歩道に入ってしまいよくよく登ったところで自転車は無理。やむなく引き返してやり直し。観光で売ってる割には客はゼロ。クマの出没注意とまである。・・ひたすらなアップスロープでインナーロウもはじめて試みる。ギアの限界で走るのもはじめて。・・とはいえ足着きして登る。この目標は外せない。

・・栖雲寺は臨済宗建長寺派というが、幻住派というのが正しい。北緯35度39分38.2秒
東経138度48分38.4秒 開基は業海本浄。1318年元に渡り、天目山で中峰明本(普応国師)から印可を受ける。生粋の幻住派だ。帰国20年放浪廻国してこの甲斐木賊山に禅寺を開いた。普応国師木像という貴重なものがあるが、尊像は拝めなかった。ほかに虚空蔵菩薩像というのがあるがこれは十字架捧持マニ像というのが正式な呼名。これは仏画ではなくマニ教の尊像ではないかという逸品。ほかに石庭もみごとなものだ。

・・天目山で武田は二度滅んでいる。勝頼公、夫人、信勝公が自害した1582年。遡ること応永24年(1417)武田氏第13代当主武田信満は足利幕府に追われて木賊山中で自害。この信満公の墓は栖雲寺に見られる。

・・歴史散策、死者と出会う旅みたいになってきた。いろいろあるが、忘れぬうちにこの日の宿のことを書き付ける。天目山温泉は筆舌につくしがたく素晴らしく、下山と恐怖の20号も青息吐息で葡萄の里を抜けた。行きつけの宿は石和で、不思議ミステリーは深夜のテレビだった。チャンネルをいろいろ繰るとやはりバカ番組ばかり。・・と、異星人が出没する不思議なドラマに直面。ウルトラゾーンというシリーズものらしいが、テレビにしては濃厚な脚本。思わず魅きつけられる。ミステリーゾーンとかXファイルといった路線と同じかと思うが、かなりシリアス。人間存在の不確かさ、危うさがまともに伝わる。・・と、次のチャンネルでは竹中直人の出世譚。そういえば竹中直人という芸人がいたな。RCサクセションに大打撃を受けたという。忌野清志郎ですね。高校生の頃からロックしてた。女装して歌う映像があったが、まさにピーク。学生ロックから抜け出るにヤクは使ってないなら、才能だ。竹中直人といえば「無能の人」の映画監督というのも思い出す。未見だがツゲ義春=井月の線を世に知らしめた作品。というか、竹中は井月を知っていたか。こんど会ったら聞いてみたい。「無能の人」に出演依頼をしたとか、忌野清志郎に。ハハ  合掌。
・・つづけてテレビは倉木マイというミュージシャン。この人もよく知らない。舞妓すがたで京都の渡月橋を歩いている。この渡月橋という桂川にかかる橋、嵯峨野、嵐山のあたりでしょう。京都では観光の有名なスポットのようでも自分はよく知らない。倉木マイって、美人ですね。京都の学生時代からシンガーソングライターをやっていた。若い頃の写真はやはり抜群にきれい。今の彼女は精神的な深みがみえる美人。年のとり方がうまい。自分とは好対照。・・山城は井月も訪れている。精神で触れ合うこともあるかなと、すこしうれしくなった。

782秋魚:2017/05/13(土) 11:31:25
(無題)
・・甲州で塩山は鬼門ではないですかね。戦国の武田信玄は今でも大人気。風林火山の武士魂は底堅く信奉されているか。塩山といっても塩は採れない。金、水晶がとれるそうだ。勝沼には大善寺といって葡萄寺ともいうやはり行基菩薩由来の寺もある。右手に葡萄を持ち左手で結印した薬師如来は秘仏という。八王子から甲州に入るに大きな峠は二つあり、鉄道なら長いトンネルが二つ。昔の甲州街道は山賊がどこにも潜んでいよう。暗い街道だ。

・・天目山から下って一路笛吹川の差出の磯をめざした。
20号は笹子を抜けてからはダウンスロープで車もさほど多くない。ネットでまったく快適という書き込みをみたが、国道で自転車というのはどうもよくない。ドライバーに酔っ払いがいたらアウト。向こうからすると自転車の方があぶない走りだそうだが。・・笛吹川にぶつかるまで西へ行く。途中交番があっても大方パトロル中。御用の方は電話をとあって、何度かお世話になった。山梨は先々で人と話したが、驚きはその応対のやわらかさ。まず笑顔でこんにちわ。差出の磯はどこですか?これだめですね。差出の磯は知らない人多い。笛吹川の万力公園はどこですか?これは通じる。・・帰路交差点で信号待つに小学生の女子が自転車の停止を確認、下級生のグループの横断を誘導してる。これも驚き。学校教育がよほどよいのがわかる。すこし言葉を交わしたが、信号の確認ではなく人との確認です。・・これも差出の磯で歌碑をみて後でわかった。笛吹川に望む小高い丘から町並みと富士山がよくみえる。「希望と感謝の歌」という碑があった。・・信玄の人気といっても次代の勝頼は一族悲惨な滅びだ。恵林寺には信玄の墓がある。快川国師は織田信長に火をかけられ「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言葉を残した。・・正確には、「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」とある。


しほの山さしでの磯にすむ千鳥君が御世をばやちよとそなく  詠み人知らず」 古今集

・・古来この歌で差出の磯は名所となっている。ほかに甲斐の盆地では北の山よりの高所から富士がよくみえる。富士見の名所とも。

千鳥もここ差出の磯で名高く、今でも飛び交う。

 コチドリ・イカルチドリ・シロチドリ・イソシギ

いろんな人が差出の磯を詠んでいるが、『廻国雑記』道興は、

「春の色も 今ひとしほの 山なれは 日かけさしての 磯そかすめる」
「はる日かけ さしていそくか しほの山 たるひとけとや うくひすのなく」
「冬の夜の 有明の月も しほの山 さしいてのいそに ちとりなくなり」
「こゑはみな やちよときけは しほの山 いそへのちとり ためしにそなく」
「みつしほの さしてのいそに すむ月は 千世もかきらし 久かたのそら」
「今夜こそ 月もみちけれ しほの山 さしての磯に 雲もかゝらで」

よほど、気に入ったとみえる。


・・武田が風水で読み解いた甲斐の風土を、後、だれが追随しただろう。差出の磯には、芭蕉も訪れがあるというが、たしかな根拠はあるのだろうか。

「闇の夜や巣をまどはして鳴く千鳥」この碑は差出の磯にみられる。千鳥といえばここ差出の磯というイメージが定着しているという。・・チドリは磯の砂にわずかな凹みをつくり卵を産む。そうしたものがいくつもあり、暗くなると帰る巣を見失う。それで鳴くという。

・・甲斐の盆地を見晴らかして思い出した。一年前身延線に沿ってこの盆地を抜けた。出口あたりが富士川河畔の鰍沢。身延に行くのに手一杯でスルーしてしまったが、落語と浮世絵の心霊スポットというのは知らなかった。

783山田:2017/05/14(日) 11:11:57
・・
しほの山さしでの磯にすむ千鳥君が御世をばやちよとそなく

https://www.youtube.com/watch?v=-PXbz9DXn8s

784秋魚:2017/05/14(日) 18:50:41
(無題)
・・差出の磯の脇から笛吹川に沿って雁坂道を塩山方面へ。そのまま行けば峠を越えて秩父に入る。秩父から山梨に入る幻の道。長いトンネルや有料道路がありサイクリストは滅多に走れない。知人のイギリス人が走ったとは聞いている。幻とは自分にとってのこと。・・隼の交差点という笛吹川を渡ったところで右折南に折れる。すぐに恵林寺がある。武田の菩提寺で信玄公の墓がある。塩山でまずここを訪ねたい。ケイリンジと読んだらエリンジですと言われた。臨済宗妙心寺派の禅寺で、開基は夢窓疎石。はじめは円覚寺派という。・・この妙心寺派というのに拘りたい。甲斐大和の栖雲寺は臨済宗建長寺派だが、開基の業海本浄は幻住派と呼ばれる。同じ臨済でもアンチ夢窓疎石であったという。

・・芭蕉が江戸深川で禅に師事した仏頂和尚は臨済宗妙心寺派であった。

* 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。
                 wikiより

・・創建年は暦応5年(1342)というから、そう古くもない。「平安京の北西部を占める風光明媚な妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾して法皇となり、花園御所(離宮萩原殿)を禅寺に改めることを発願した。・・法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄を推挙した。

・・「南朝の後醍醐天皇は延元4年(1339年、北朝では暦応2年)に崩御するが、北朝の将軍足利尊氏は敵味方の立場を超え、菩提を弔うために、夢窓疎石の勧めに従って天龍寺創建を決定した・・元々大覚寺統の離宮であった嵯峨野の亀山殿を禅院に改め、夢窓を開山として天龍寺を創建」・・「度重なる夢窓の懇請を受け、暦応4年12月23日(1342年1月30日)直義は夢窓に対し、翌年秋に宋船2艘を渡航させ、交易で得られた利益を天龍寺造営にあてるよう提案」

* 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗天龍寺派大本山の寺院。開基は足利尊氏、夢窓疎石。創建年1345年。

・・妙心寺と最もつながり深いのは大徳寺。

* 大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にある寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。山号は龍宝山(りゅうほうざん)。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超で、正中2年(1325年)に正式に創立。


・・妙心寺を開山した関山慧玄、「信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子とされる。」建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)・・1307年に鎌倉の建長寺に入り、南浦紹明に師事。慧眼の法名を授かり、南浦寂後も鎌倉にあって物外可什、巨山志源などに参禅。その後帰郷。・・建長寺開山・蘭渓道隆五十年忌出席のため再び建長寺に参じ、ここで宗峰妙超(大燈国師)を紹介され、京都大徳寺に遷って宗峰に師事。やがて1329年に雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明して関山の号が与えられ、慧玄と改名

信濃国高梨氏は、

高梨氏(たかなしし)は、信濃国北部(高井郡・水内郡)に割拠した武家の氏族。全盛期の本拠地は、現在の長野県中野市。

南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」という

・・

『汝等請う其の本を務めよ 誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫くんばよし』

785秋魚:2017/05/19(金) 21:30:59
(無題)
くまなき月の渡るに似る

・・嵐山にある虚空蔵法輪寺を訪ねたら渡月橋を渡りけして振返ってはならぬ。愛しい人に会うためにたえず月をみて橋を渡りつづけるように。倉木麻衣の新曲「渡月橋 君想ふ」はそういう恋歌をピュアに歌うものらしい。虚空蔵云々は知らなくてもよい。

十三詣りというから男女の知恵はこの橋からはじまるということか。十三歳の恋の感性が呼び起こされている。(かなり話題になってヒットしてるようだ)

・・渡月橋で憶い出した。青梅の奥多摩にも同じ様な橋がたしかあった。いろいろ探したが記憶違いで橋の名は「数馬峡橋」という。

786秋魚:2017/05/20(土) 20:16:06
(無題)
山城の松からも透く初日哉

・・まり様。約束の京「山城」の解読ですが、その前に所沢中氷川神社を訪ねてみました。わたしの処から自転車で楽勝の位置です。氷川神社というのは多くあり、その中一ノ宮は大宮氷川神社。中氷川神社は所沢に二つ、奥氷川神社というのはなんと多摩川上流の奥多摩駅の近くにあります。所沢の中氷川は以前訪ねた時は山口にある神社できょう訪ねた三ヶ島の神社は、早稲田大学所沢キャンパスのほぼ隣にあります。狭山湖に沿ったあたりです。狭山湖、多摩湖に沿った森がトトロの森というようです。

・・倉木マイ「幕張メッセライブ2009」という動画をみてテンション強くすこし感動です。京都がわたしの原点といって渡月橋の詩を歌っているけど、アニメ探偵コナンのテーマ曲ようです。8年前はポップロックというやわな体でパンチが利いてますから、元気でますね。

・・ロックンロールの原点はスサノオの八岐大蛇退治だと認識してますから、フリや感性の質も出雲のスサノオと重ねてみてしまいます。

787秋魚:2017/05/21(日) 14:12:14
(無題)
・・中氷川神社を訪ねる途中瑞穂箱根ヶ崎にある狭山が池に寄りました。この池武蔵野の歌枕だそうでいくつか歌に詠まれています。

武蔵なる狭山が池のみくりこそひけばたえすれわれやたえする 「古今六帖」
踏み分けし狭山は雪に跡絶えて池のみくりは来る人もなし  藤原季能
氷ゐし汀の枯野踏み分て行は狭山が池の朝風   尭恵「北国紀行」

・・大坂にも狭山池というのがありそちらの方が由緒深くもあるが、武蔵野の狭山池もたしかに歌に詠まれる。

「狭山の池は、みくりといふ歌のをかしきがおぼゆるらん。」「枕草子」

・・この「みくり」だが「三稜草」という植物で浅い沼や池によく生えるという。わたしが訪れた時の狭山池には菖蒲草が黄色い花を咲かせていた。「みくり」というのも在ったかも知れぬ。花言葉は「恋の傷み」。


枕草子で憶い出した。清少納言は、東国など歩いてもいず歌から想像して狭山池をいう。これは断じて大坂の溜池ではないでしょう。陸奥に流れた藤原実方をよくみていた。

 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを

788秋魚:2017/05/25(木) 11:32:58
(無題)
・・渡月橋の子はなんだ同郷だな。娘か。曲は借りるが詩はすべて自作という。R&Bというのが基調らしい。bluesとは愁いだな。perfect orangeを知ってる女流はすべて成功。(わたしが言うのだ、間違いない)

なにかの廻り合わせ。この橋の近くからはじめよう。


・・江戸深川の臨川寺。芭蕉と仏頂和尚が出会った頃はまだ寺号はなくただの草庵だった。臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺というのが正式な呼称という。・・伊賀から東上した俳諧師と臨済の禅坊主がはじめて交わした問答が今でもよく知られている。

仏頂 「梅子熟せりや」
芭蕉 「桃の青きが如し」

・・

およそ俳人の起点と結点はここに集約されるとみる。

京右京区嵐山桂川にかかる渡月橋。「くまなき月の渡るに似る」というキャッチフレーズがそのまま渡月橋の名になった。このフレーズ、イメージがむずかしくないか。橋は人が渡るものだと思うが、月が渡るとは。月がではない、月の渡る。・・橋の上で観月をしたら(亀山上皇が)橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」とみた。やはり月が渡るようです。現代人は忙しいから、橋の上で月の移動を眺める時間をもたない。上皇が観月をしたというのでなく、月を観ながらゆっくり橋を渡る。月をそのまま眺めていると月の移動に見える。そういうことでしょう。・・人が渡るのか月が渡るのか。妙。

・・渡月橋を右京へ渡り、川に沿って少し下ると京の臨川寺がある。臨済宗天竜寺派霊亀山臨川寺というのが正式な呼称。後醍醐天皇開基、開山は夢窓疎石1335年。疎石入寂もこの寺。渡月橋を渡って北に上がると臨済宗天竜寺派大本山、霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺)がみつけられる。開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石1345年。天龍寺は京都五山一位といわれる。


瀬を渡る飛石もあり小鮎汲み
楽しみは浅瀬にあるや小鮎汲み
若鮎や花と汲まるゝ網の露

天龍眺望
若鮎の瀬に尻まくる子供かな


・・「渡月橋〜君想ふ」youtube 2017.3/13以来再生回数4百万突破。聴いて鳥肌が立つという人多い。わたしはこの歌でなく「perfectcrime」で鳥肌立つ。今、4905571回。

十三詣りというの、幼年期から成長期への感性。小鮎と若鮎は同じものではないでしょう。

・・しかし、驚きですね。


平安朝女子の恋心、大人の場合、橋のない渡り、袖の渡りすら覚束ない。

「 実方と恋愛関係にあった彼女はその詞書に ”実方の君の 陸奥に下るに” と述べ

とこもふち 淵も瀬ならぬ 涙川 袖の渡りは あらじとぞ思ふ
                               新後拾遺和歌集 清少納言」


・・天龍寺の西方に亀の甲の形をした山があり、亀山、小倉山と呼ばれる。

「足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。」
「小倉山の西麓と南麓は桂川(保津川、大堰川とも)が流れ、東麓は嵯峨野、北東麓は古くから葬送の地として知られる化野(現 嵯峨鳥居本地区)である。紅葉の名所で、歌枕としても有名。鎌倉時代の歌人藤原定家が、厭離庵近くの小倉山荘(時雨亭)で小倉百人一首をまとめたとされる。」

小倉山東麓の嵯峨野には、祇王寺、天龍寺、野宮神社、落柿舎ほか多くの名刹・史跡がある。


夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐宿にけらしも????万葉巻八
夕されば小椋の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも????万葉巻九

・・「消せない過去を 見つけられれば
このゲームは終りにしよう」perfectcrime というけれど、この歌の過去はどうして見つけられる。

789秋魚:2017/05/30(火) 22:43:46
(無題)
・・青梅吉野街道東の外れから滝山街道が伸びる。あきる野秋川を通り戸吹トンネルを抜ければもう八王子だ。アップダウンの道を数回くりかえしこのまままっすぐ行けば八王子の駅の方にいけるはず。・・途中左折して滝山城址にポタリング。

・・青梅多摩川上流にある軍畑という地は、青梅三田氏vs滝山城主北条氏の戦い(1563)があったところだ。「辛垣(からかい)の合戦」と呼ばれる。

790秋魚:2017/05/31(水) 18:03:53
(無題)
まゐ様

・・デジャヴが重なると先も危ういのかもですね。ともかく久々のfantasm。謡の「雲林院」にはバージョンが二つある様です。あるいは三つかそれ以上。世阿弥元清はたいへんな美少年だったと聞いてます。将軍義満に見出され三代目義教には佐渡流刑を受けるなどやはり出来る者は末は島に流れる様です。「雲林院」の作者は未詳ですが、バージョンのひとつは世阿弥のものというのは、わたしの直感です。
世阿弥は鬼夜叉という幼名でしたが、貴まゐの好きな京の都はもともと鬼のよく出没するところと心得ております。
「雲林院」の一つのバージョンでは、昔男業平と藤原高子の恋の逃避行が芥川を渡り武蔵野の草原までやってきます。で、高子の兄は基経ですが、執念の鬼となって追いかけ妹を鬼一口に呑んだという曲になってます。鬼一口というのは、ハッとさせられますね。

・・京の羅城門。楼上に鬼が棲むという。

都良香が羅城門を通った時、「気霽れては風、新柳の髪を梳る」と漢詩を詠むと、楼上から「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」と詩の続きを詠む声がした。

・・この下の句は鬼の詞と噂になった。

都良香 (みやこのよしか、承和元年(834年) - 元慶3年(879年)

貞観期、富士の噴火、陸奥海溝地震など動乱の時代の文章博士。富士山登頂(?)の記など。


・・ところで板東武者の誉れは、平将門。関東平野の至る所将門の霊魂が息づいています。新皇と称し朝敵とされ、最後には藤原秀郷の矢に屈してしまいますが、郷土に根付いた王道の武者魂は東国の誉れとしてよいでしょう。・・京の獄門に晒し首となっても、江戸の神田まで空を飛んできた首塚は今でもたいへんなパワースポットということです。まゐ殿のしなやかで強靭な感性は、この将門の霊魂オーラを感じさせます。

・・当時、朱雀天皇は仰天したという。寛朝僧正に神護寺の不動明王像とともに、東国下総に赴かせ、将門調伏の祈祷をせしめたといいます。空海が彫った不動明王像ですが、これは効き目があったらしい、将門は討たれてしまいます。この時の不動明王像が本尊となって成田山新勝寺の開山となりました。

この真言宗の僧寛朝(916-998)は、京の広沢池畔に遍照寺を開山(989)しています。最寄の駅は嵯峨嵐山駅といいますから渡月橋、山城エリアでしょうか。広沢の池は往古より観月の池として名を馳せているとのこと。

やどしもつ 月の光の大沢は いかにいつとも 広沢の池  西行
古の人は汀に影絶えて 月のみ澄める広沢の池    源頼政
あれにける宿とて月はかわらねど昔の影は なほぞこひしき  平忠度
心には見ぬ昔こそ浮かびけれ月にながむる広沢の池    藤原良経

名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉

・・

寛朝僧正が安倍晴明と同席していた時、晴明は、周りにいた公卿たちにせがまれて陰陽道の妖術を試された。術をもちいて手を触れずにカエルを真平らに潰したという。

寛朝はまた真言声明の第一人者とも。

・・芭蕉の「池をめぐりて」の句は、深川芭蕉庵で詠まれたもの。あるいは、広沢池でも詠んだかもしれない。

791秋魚:2017/06/02(金) 13:46:31
(無題)
・・嵐山、渡月橋、竹林、天龍寺。この辺はセットのパワースポット。天龍寺の寺号は、足利尊氏の弟直義が龍の夢をみたのを機縁に名付けられたという。が、これは嘘であろう。夢窓国師の案だと思われる。無門関や碧巌録にすこしだけ名をとどめる天龍禅師に由来をもらった。

・・馬祖道一−大梅法常−天竜−倶胝  という法嗣をみていたか。

大梅法常(752-839)


平安京に生きた深窓の三佳人。紫式部、和泉式部、清少納言。

めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影  紫式部
あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな  和泉式部
夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関は許さじ  清少納言


最近は、わたしは、清少納言に魅かれるものがあります。

枕草子(一一段)

山は小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。鹿背山。ひはの山。かたさり山こそ、誰に所おきけるにかと、をかしけれ。五幡山。後瀬山。
笠取山。ひらの山。鳥籠の山は、わが名もらすなと、みかどのよませ給ひけん、いとをかし。
伊吹山。朝倉山、よそに見るらんいとをかしき。岩田山。大比禮山もをかし、臨時の祭の使などおもひ出でらるべし。手向山。三輪の山、いとをかし。音羽山。待兼山。玉坂山。耳無山。末の松山。葛城山。美濃の御山。柞山。位山。吉備の中山。嵐山。更級山。姨捨山。小鹽山。淺間山。かたため山。かへる山。妹背山。

・・小倉山を筆頭に、京近辺の山は見て知ってるでしょうけど、大方は他の歌詠みで想像した山々ではないでしょうか?「朝倉山、よそに見るらんいとをかしき」など、おもしろい。

朝倉山は福岡市にある歌枕、
「昔見し人をぞわれはよそに見し朝倉山の雲井はるかに」

この朝倉山は、岐阜の不破郡垂井町にもあるそうです。標高253m

・・

かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを  実方

とこもふち淵も瀬ならぬ涙川袖の渡りはあらじとぞ思ふ  清少納言

・・この二人、似合いのカップルかと。

792秋魚:2017/06/14(水) 10:44:45
(無題)
・・塩船観音寺に宗長が勝沼城三田氏を訪ねた歌碑があるという。確かめるために自転車を走らせた。ものの30分もかからない。躑躅の万華鏡はもう季節をすぎたが、手前にある吹上菖蒲園はいまが旬の盛りだ。自慢の梅林がウイルス被害でやられて観光客もぐっと減ったがこちらの北青梅はまだまだ未開発風。こころある人はこちらに廻る。すこし活気がある。

・・真言宗醍醐派別格本山というこの寺、はじめて訪ねた人はまず驚く。山間の凹地に構えて斜面一面に躑躅が植えられている。開花の頃は異様な曼荼羅世界になる。本尊は千手観音で開山はずっと古い。若狭の八百比丘尼が大化年間にやってきた。

何故若狭の八百比丘尼がこの武蔵の青梅に?若狭というのは裏日本の北陸ではないか?八百比丘尼というのがそもそも伝説的な旅の巫女。若狭の国の漁師の娘が人魚の肉を食べて不老不死の身になった。

・・八百比丘尼は白比丘尼とも、若狭小浜あたりの生まれという。

小浜田烏沖合いには、沖の石がある。

塩船観音寺??北緯35度48分15.4秒 東経139度16分52.4秒

・・この緯度線を追うと、

郡上大和・明建神社  北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒

・・福井敦賀原発(北緯35度45分02秒 東経136度01分11秒)の沖合いから若狭湾を蓋する形で京丹後最北端の経ケ岬(北緯35度46分45.47秒東経135度13分24.92秒)を抜ける。

八百比丘尼の故郷は、 福井県小浜市小浜男山  北緯35度29分29.6秒 東経135度44分18.3秒

熊野本宮大社 和歌山県田辺市本宮町本宮1100??北緯33度50分26.1秒 東経135度46分24.5秒


・・本居宣長の「古今伝授」批判が熾烈なので、すこし引いてみる。

「こゝに東下野守常縁と云ふものあり、歌人にはあらず。とるにたるほどの人にはあらねども、歌道に心をかけて、歌も少々よみ、歌学もすこししたるものにてありけるが、古今伝授と云ふことをつくりこしらへたり。そのつくりやうは、貫之より次第相伝と云ひて、元俊・俊成・定家と伝へ、それより次第に二条家につたはり、頓阿より後は千葉の家に伝へて、世に聞えず。さて自身まで相伝と云ふこと也。これみな大きなるつくりごとにて、あとかたもなきこと也。頓阿までも伝授と云ふことはさらになし。此こと別に弁ず。この常縁それを宗祇へ伝へたり。宗祇もあざむかれて、まことのことと思ひて、これを受けつたへたり。」

「そのころ西三条殿逍遥院実隆公、和漢の才ありて、ことに歌学に達し、詠歌もすぐれ玉へり。此人まことに歌道の中興にして、今に至るまで仰ぎ信ずることかはらず。此人専ら二条家の正風をたつると云ふことを名として、専らよみ玉へり。さればこれを二条家の歌道の中興と申す也。されどもこれを二条家の中興と云ふはあやまり也。此人は歌道の中興とこそ云ふべけれ。かの頓阿のころは、異風の流ありて、二条家おとろへしを、その異風をしりぞけて、二条家の風をおこしたればこそ、二条家の中興とはいへ、逍遥院殿のころは、すべて歌道おとろへて、異風も正風もなければ、何家と云ふことあるべからず。たゞ歌道の中興也。時の天子後柏原院も御名人也。さてその逍遥院殿を二条家の中興と云ふことは、そのいはれは、此人さしも学才ある人なりしかども、いかなることにや。かの古今伝授と云ふことをまことゝ思ひて、伝はり玉へり。かなしきこと也。常縁はいふにたらぬものなれば、たとひ伝授と云ふことをつくりたりたりとも、此逍遥院殿など云ふ時の名人、道の中興する人などのうけつけ玉はずば、世にひろく知りて伝はることはあるまじきに、此人さへあざむかれて、信仰し玉ひけるうへは、自余の人は信ずることはり也。かくの如く二条家の古今伝授と云ふことをうけつたへ玉ふゆへに、二条家中興とは云ふ也。されどその伝授と云ふもの、もとわけもなきつくりごとなれば、大いに誤り也。ただ歌道の中興也。」

 花を見てかへるといはぬ人はなし
  たもとを桃のにしきたちきて 逍遥院内府公

793秋魚:2017/06/18(日) 23:15:54
(無題)
まゐ様

・・忠臣蔵のお話は聞いているでしょう。江戸時代将軍は徳川綱吉の時でした。松の廊下の刃傷沙汰、赤穂浪士の討入り、切腹とか想像したくもない空気の時代がありました。品川の泉岳寺には大石蔵之助以下四十七士のお墓があります。・・泉岳寺の前の坂道を登って三田の方へ行くと海のほうへ見晴らしがきく亀塚公園に出ます。海がみえるといっても昔のことで今は渺茫とした埋め立て地でしょうか。月の岬と呼ばれて月見の名所はここのことかもしれません。亀塚公園には古墳と思しきものあり。

・・竹芝伝説もここです。菅原孝標女が上総から京に行く途中武蔵の国に入りました。この時すでに伝説でしたから古いお話でしょう。

・・火焼屋の衛士がこぼしています。

「などや苦しき目を見るらむ。わが國〔武藏をさす〕に七つ三つ作り居(す)ゑたる酒壺に、さしわたしたる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見でかくてあるよ」と獨(ひとり)打ちつぶやきけるを

・・内裏の姫君が御簾こしにこのつぶやきを聴きとめたのが、はじまり。

東国というのは、なんて楽しい風が吹いているのだろう。想像するだけでわくわくです。

「七つ三つ作り居(す)ゑたる酒壺に、さしわたしたる直柄(ひたえ)の瓢(ひさご)の、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西に・・」

「我ゐて往きて見せよ。さいふやうあり」


・・この都、平安京ではなく大和(奈良)の都と思います。平安京でも姫君は同じでしょう。

鳥影も木影もさして青簾
物ごしに采女の声や青簾
大輔も式部も見えて青簾

井月に青簾を詠んだ句があります。

大輔は伊勢大輔、永祚元年(989年)頃? - 康平3年(1060年)頃?

「いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」

花みずきの一青窈にしても「うす紅色」が訴えていましたから、まゐ殿の「うす紅色」も私無しでヒットです。・・そして「から紅」の渡月橋へ。

ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは  業平

嵐山の紅葉もさることながら、斑鳩竜田川の紅葉もから紅そのものです。つつ井筒は十三七つの恋でしょうか。

・・簾がでてきたので、やはり業平の玉簾の歌が気になります。

吹く風にわが身をなさば玉すだれひま求めつつ入るべきものを (業平)
返し、
とりとめぬ風にはありとも玉すだれたが許さばかひま求むべき (高子)

平安朝もこのあたり洗練されすぎかと。青簾の青が効いています。

・・

三田の亀塚公園ですが、この亀塚、竹芝伝説の姫君のお墓ではないかといわれる。塚の頂上に亀山碑があり、これは上野国沼田城主土岐頼煕が寛永三年(1750)に建てたもの。「塚の頂上に酒壺があり、酒壺に出入りしていた亀が一夜の風雨で石になった」という伝説を伝えている。

・・この亀の石、今でも健在で少し降った亀塚稲荷神社に祀られてあるそうです。

亀塚公園のすぐ隣、済海寺という浄土宗のお寺があります。安政六年(1859)フランス総領事館が置かれましたから、戊辰戦争で指揮をとった河井継之助もここに尋ねているでしょう。


 沖の石

そういう名の椿があります。若狭の白比丘尼がもたらしたかもです。


わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の
    人こそ知らね 乾く間もなし

●●●●●●●●
わがそでは●●●
しほひにみえぬ●
おきのいしの●●
ひとこそしらね●
かわくまもなし●
●●●●●●●●
●●●●●●●●

乾く間もなく秋くれぬ露の袖

●●●●●●●●
●●●●●●●●
かわくまもなく●
あきくれぬ●●●
つゆのそで●●●
●●●●●●●●
●●●●●●●●
●●●●●●●●


ところで、酒壷に亀。この亀、白い霊亀です。

渡月橋を渡って南から嵐山をまわりこむと、松尾の里ですね。芭蕉がこのあたりを散策しています。
松尾大社がみえて、ここは若い人はあまり訪ねないでしょう。芭蕉だから松尾大社に参拝というベタなことはやらんでしょう。井月は来てるはず。

京都府京都市西京区嵐山宮町3   北緯34度59分59.87秒 東経135度41分06.62秒

松尾大社は山吹と亀の井が魅力です。亀の井の水で酒を造るといつまでも腐敗しないそうです。

794秋魚:2017/06/23(金) 22:54:49
(無題)
・・都議選があるな。都民ファの候補応援で小池百合子が地元に来ている。青梅マラソンのスターターと青梅観光を盛り上げてゆくというのでだいぶ受けていたようだ。自分も一票入れる。

・・今日は朝から自転車で多摩丘陵をヘめぐった。帰宅が夕方六時。多摩川沿いにマムシに注意!とあったが幸い蛇には会わなかった。温泉で壷押し湯というのをやったり、だいぶ体の節々が痛い。いまはバラバラ体が分解しそう。百草の稲荷塚というのがめずらしい八角墳と聞いて、簡単な位置地図を頭に入れて、ヒマがあったら訪ねてみたかった。・・数日前にネットで記憶した位置地図だけに訪問はあてにならない。予定外の算段だった。温泉のフロントで交番や道路網など尋ねると地図をだしてあれこれ説明を受けた。最近はどこでも新人が多くインフォの役が覚束ないのが多いがマニュアルあるらしく手をつくしてくれる。JR中央線は恐れ入った。駅員車掌が女子職員。それでも仕事はできる。
・・結局駅ちかの交番はビルの二階というのであきらめ最初に頭に入れた地図を頼りに稲荷塚をめざした。昔は古墳だったが今は神社か公園だと記憶して百草にあるという。ずっといくと運よく交番があって職員も在所のよう。日野の百草と思っていろいろ尋ねるがここは多摩市という。百草は多摩市にもあります。こちらの百草なら稲荷塚があります。運よくこの近くだった。頭の地図の寄せは正解。

・・このあたり和田古墳群が認知されているが、もっと昔は縄文の遺跡群もあったようだ。宅地開発などでおおかた原形をとどめぬが、この稲荷塚古墳はまだ墳丘の形はとどめている。都の調査で石室も確認されている。八角墳というのはたしからしい。


最近、多摩地区を走って気がついたこと。霞川にはカメラマニアがカワセミを撮ろうと粘っていたが、騒ぎすぎて出没はなかったか。瑞穂にある狭山ケ池は由緒が古い。水の色がモスグリーンで魚や水鳥も多い。午前中早めに訪れると、カメラマニアがものものしげに陣取っている。聞くとカワセミの飛翔を待っているのだという。つれずれに池の面を眺めていたら、一瞬、きれいな虹色の鳥が水面をかすめた。すぐ木陰に隠れたが、遠目にも虹色はよくみえた。・・あれがカワセミという。思ったより大きな鳥で、色彩は緑、青、オレンジとか虹色にみえる。

 武蔵野

・・総武線沿線は武蔵野からは外れている。武蔵野自体都からの外れの意味だった。下総上総には武蔵野コンプレックスがあっただろう。ミュージシャンの倉木マイは京都は第二の故郷と明言したのは、えらい。第一は秘して語らずだが、下総出身だ。近代の偏差値基準でいうと、感情移入のハイパーレベルを発揮したのは、同期では鮫島有美子、近々では倉木マイ。・・彼女らのずっと先輩は「更級日記」を綴った菅原孝標女だと認識している。上総の出だが。父の任期終了とともに京へ帰国するのが十三歳の時。渡月橋の十三詣りと同じ年ですね。都心を幻視する女子力では抜けているがローカルレベルの限界をどう超えるか、周囲はそうみるだろう。
 倉木マイは声がつぶれなければ、アジアの女王ayuにとってかわるのは時間の問題だとみる。ayuというのはハスキーボイス以外の記憶がないので申し訳ない、ホイスパーボイスにハスキーが+するのは、アジアの新風ではないか。嘘の充満してる台湾、中国では強烈なインパクトシンガーのボイスベリテが称讃されるはず。

 娘たちの仕事をよそに、大先輩の「更級日記」を解読してみたい。定家が秘かに筆写したという。

795秋魚:2017/06/30(金) 17:46:43
(無題)
千はやぶる神世もきかず龍田川から紅に水くゞるとは

二条の后の、春宮のみやす所と申ける時に、御屏風に、
たつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる

・・二条の后、春宮のみやす所の時ですから、貞観八年(866)から貞観十八年(876)の間のことでしょう。竜田川にもみぢ流れる屏風の場所は、おそらく、雲林院でのことと思われる。

業平のちはやぶるの前に「もみぢばの流てとまるみなとには紅深き浪や立らむ」素性法師の歌があり、さらにその前に「侘人のわきてたちよる木のもとはたのむ陰なく紅葉ちりけり」僧正遍昭の歌、「うりむゐんの木のかげに、たゝずみてよみける」の添書きとともにある。

・・命くれない、なんて演歌がありました。から紅は平安の異風ぶりでしょうか。

近代の色彩感覚では、vermilionというのが西欧経由で入ってきたと思われますが、鮮やかな朱色。卑弥呼の時代にあった丹沙は硫化水銀で似た色かもしれません。

* バーミリオン(Vermilion)の語源は、ラテン語のヴェルミクルム(Vermicul-um)だそうですので、・・※ヴェルミクルム=小虫(死んで塊になったものが赤色をしていた)


龍田越え

竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。・・龍田(三郷町の龍田大社付近)を越えることから「竜田越」とよばれるようになった。
・・飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された。沿道にある大聖勝軍寺を含め、いずれも聖徳太子にゆかりのある地域と関わりがある。聖徳太子自身もこの街道を往復していたといわれる。
・・柏原から三郷にかけては、北側の山道越え(信貴山越と一部重なる)、大和川の北岸に沿うルート(いわゆる亀の瀬越)、対岸の南側を沿うルート(現在の国道25号)など、複数のルートがある。

柏原市内で、「亀の瀬」とよばれる地域を通るが、本街道としては現在に至るまで、難所として知られた。             wikiより


・・つつ井筒の恋で昔男が越えるのは、この竜田越ではなく十三峠であろう。

十三峠(じゅうさんとうげ)は、大阪府八尾市神立と奈良県生駒郡平群町福貴畑との境にある峠。標高462m。

大阪のヒルクライマーの聖地ともいえる峠。
かなりきつい登りが細かな緩急と九十九折れを繰り返しながら続く。

796秋魚:2017/07/22(土) 02:33:39
(無題)
・・五月に訪れた甲斐大和。帰路塩山駅で電車待ちをしたプラットホ−ム。畳んだ自転車をどの客車に乗せるべきか。たまたま来た掃除廻りのおばさんに聞いてみた。客車の先頭か最後尾か。水を撒いて仕事しながら親切に応対。・・愛想のいい人で声の響きもなぜか気になった。おばさんもういいよ、ご親切にありがとう。いいえこちらこそ、お気をつけてお帰りを。・・で、電車に乗って思い当たったのだが、あの人は昔立川の職場にいたチヨちゃんという人だ。まちがいない。話をしている時はわからなかった。あ、なつかしい。向こうは憶えていたかな。たぶん気がつかなかったのは自分のほうか。しかし、なつかしい。・・こういうのって危ないんでしょうね、きっと。

・・千代の古道を追ってみる。


鳴滝(京都) 座標: 北緯35度11分30.1秒 東経135度38分11.8秒

・・地名の由来は、この地に小さな滝があり、ある時、その小滝が、ゴーゴーと凄い轟音をたてていたという故事による。村人たちが不思議がって、寺の和尚に相談したところ、和尚も不審に感じ、全員を、高台の寺に集合させた。すると、その夜、村は大洪水に襲われ、全壊してしまった。この出来事により、小滝は「鳴滝」と呼ばれ、村の方も「鳴滝の里」と呼ばれるようになった
                                  (wikiより)

鳴滝音戸山の山上にあった蓮華寺。

・・後、永らく荒廃した。江戸時代、1641年、江戸の豪商 樋口平太夫家次により、音戸山に再興されている。また、木食上人但称(但唱)により五智如来などの石仏群像が6年の歳月をかけ造立され、伽藍、堂宇も建立された。


嵯峨の山千代のふる道あととめてまた露わくる望月の駒  定家

千代のふる道のコースだが、ひとつに松尾大社から広沢池、大沢池(嵯峨大覚寺)へ歩く道というのがある。二つの池は観月のコースだ。

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。・・本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇。

・・この五大明王ですが、画像をあれこれ眺めているうち、体調がおかしくなります。

wave.ap.teacup.com/shougyo999/420.html

797秋魚:2017/07/06(木) 22:21:01
(無題)
・・宣長がべた誉めしてる逍遥院殿こと三条西実隆が青梅に歌を残したというので、追っている。二俣尾の海禅寺に歌碑がある。

花を見てかへるといはむ人はなしたもとを桃の錦たちきて

・・三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代の公家。 康正元年4月25日(1455年5月11日)− 天文6年10月3日(1537年11月5日)

後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門天皇の寵妃や、後柏原天皇女御で後奈良天皇生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。・・室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭守護の武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。
                   (wikiより)

・・立川の国文学研究資料館に行ってみた。件の歌の出典を探したが、コンピュータで検索しなさいということ。そういわれてもね。とりあえず歌集「雪玉集」を探った。「花を見てかへる」というのは、どうしても見つからない。武蔵野と題された歌が二つ。

なほざりの袖だに露はふるさとを秋たちそめしむさしのの原
山の端はしらでかくれぬ月やただ心づからのむさしののはら

いろいろ旅もよくしたらしく、武蔵野にも実際来ているのだろう。武蔵野はただ広いという感慨の歌多く、たいてい場所を特定できないものだ。

・・もうひとつ「再昌」という歌集もみた。文亀三年(1503)

桃花曝錦
桃花春くれなゐの錦こそ柳さくらにたちもをくれね
玉河里雑
おしますやなかるゝ月日わつかなる光も陰も玉かはのさと

・・この「玉河」はどこの玉川か。

いろいろ拾い読みしてわかったが、あまりにローカルな土地は歌がない。で、青梅などもみつかりそうもない。

・・しかし、来ているはずだが。


「宗祇終焉記」(1502)の著者柴屋軒宗長が青梅勝沼を訪問したのは、永正六年(1509)の八月二日。
これは「東路のつと」として紀行を残す。

「八月二日に武蔵勝沼といふ所に至りぬ。三田弾正忠平氏宗、この所の領主たり。かねてしも白河の道々のこと申しかよはし侍りしかば、ここのやすらひ十五日に及べり。連歌たびたび、
霧は今朝分け入る八重の外山かな
この山家、後ろは甲斐の国の山、北は秩父などいふ山に続きて、まことの深山とはここをや申すべからん。この山深き心ばかりなるべし。同じ所に山寺あり。前は武蔵野也。杉本坊といふにして、
霧を吹く野風か花に朝曇り
同じく十五日に、氏宗同じく息政定、これかれ駒うち並べて、武蔵野の萩・薄の中を行き過ぎがてに、日暮し二日に分けはてて、長尾孫太郎顕方館、鉢形といふ所に着きぬ。政定に馬上ながら口ずさびに、
武蔵野の露の限りは分けも見つ秋の風をば白河の関 ・・」

・・杉本坊は塩船観音寺。その前の東側に開けた土地を武蔵野とみている。小高い丘陵は杣保と呼ばれ、江戸の資材を養っている。勝沼には二週間ほど滞在、埼玉の寄居にある鉢形まで馬で行く。道中の風光すべて武蔵野のものと認めているのがわかる。

「宗祇終焉記」でも鎌倉から武蔵野を分け入って上野(群馬高崎あたりか)越後へと向うに、武蔵野の経路は記述なしだが、やはり勝沼の三田氏の城を訪ねたと思える。

興味深いのは、武蔵野の風光の認識が、青梅の杣保からはじまっているということだ。

・・北条氏康「武蔵野紀行」(1546)でも、青梅の勝沼を訪れた記述がみられる。

この紀行、はなはだ胡散臭いものだが、勝沼訪問の行を引いてみる。
「比は八月上旬、朝霧深く分け入りて行くに山あり。いは山と云ふ。此の山の後は甲斐の山、北は秩父など申し侍る。夫より武蔵の国勝沼と云ふ所に着きぬ。斎藤加賀守安元、此の所の領主なり。常々道々の事申し遣はしければ、山海の珍物数を尽し饗応しける。
 此の所に二日逗留して、夫より武蔵野を狩り行くに、誠に行けども果のあらばこそ。萩芒女郎花の露に宿れる虫の声、あはれを催すばかりなり。
 武蔵野といづくをさして分けいらん行くも返るもはてしなければ
古の草のゆかりも懐かしければなり。是も紫の一本のゆゑなるべし。
 隔つなよわが世の中のひとなればしるもしらぬも草のひと本 」

・・藤沢から北に道をとり勝沼に入る前に「いは山」に至る。「此の山の後は甲斐の山」云々は「東路のつと」の描写そのまま、しかし「いは山」は高尾山のことと思われる。斎藤加賀守安元は勝沼の領主ではない。「武蔵野といづくをさして分けいらん・・」の歌も想像でつくれるような陳腐な歌だ。

それより、新拾遺集にある藤原行春の歌がおもしろい。

 分けゆけど花の千種のはてもなし秋を限の武蔵野の原

さらに源通光の武蔵野は、

武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風かすゑに吹くらむ(新古378)

798秋魚:2017/07/09(日) 19:06:56
(無題)
・・百人一首の巻末の歌は、
ももしきや古き軒端のしのぶにも猶あまりある昔なりけり (順徳院)

順徳院 建久八年〜仁治三年(1197-1242) 後鳥羽天皇の第三皇子。承元二年(1208)十二月、元服。同三年、故九条良経の息女、立子(東一条院)を御息所とした。同四年(1210)十一月、兄帝の譲位を受けて践祚(第八十四代天皇)・・承久三年(1221)四月二十日、譲位し、翌月、後鳥羽院とともに討幕を企図して承久の変をおこしたが、敗北し、佐渡に配流される。

件の歌は、建保四年(1216)順徳二十歳のときの詠である。

・・宗祇の遺志で金三両を三条西実隆がもらいうけたときの歌、

我身こそ千ゞの金を報ひても思ふに余る人の恵みを

・・実隆は宗祇より古今伝授をうけた特別に深い思いがあったようだ。宣長は古今伝授そのものを否定していたので、このような宗祇、実隆の遺志のつながりを理解しなかったにちがいない。

・・順徳院が佐渡で詠んだ百首御歌の中に、千曲川を詠んだものがある。

ちくま川春ゆく水はすみにけり消えていくかの峰の白雪(風雅36)

・・千曲川は、甲武信ケ岳に発し、長野県・新潟県を流れて日本海に注ぐ。新潟県内では信濃川と呼ばれる。順徳院が千曲川とどういう邂逅があったかわからぬが、想いは深い。

信濃なるちぐまの川のさざれ石も君しふみてば玉とひろはむ(万葉集東歌)

・・「さざれ石」→「玉」とは、ずいぶん洗練された東歌ですね。

・・

承久の変(1221)では、後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ、流された。

『最勝四天王院障子和歌』なるものがある。最勝四天王院とは、後鳥羽院の勅願により、京都三条白川の地に造営された御堂のこと。46の名所が選ばれ、それらの景色が障子に絵として描かれ、それらに各和歌が添えられた。1207年のこと。

順徳院は四天王院和歌には、参加なし。

・・46の名所のうち、更科の里を詠んだものがある。

里の名の秋にわすれぬ月影に人やはつらきさらしなの山(俊成女)


旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

聖徳太子ゆかりの四天王寺とは、何か関係あるか。

・・山城の名所で、大井川を詠んでもいる。

大井河波のかよひぢたちかへりあとある風に木のは散りつゝ
(後鳥羽院)
あらし山けふの御幸のかり衣にしきになれとちる紅葉哉
(慈円)
大井河入江の松をしるべにてむかしのなみにうかぶもみぢば
(通光)
かばかりの色にはあらじ大井河むかしをうつす紅葉なりとも
(俊成卿女)
もみぢばを御幸ふりにし大井河あとなき水に秋のありける
(有家)
大井河まれの御幸に年へぬるもみぢの舟ぢあとはありけり
(定家)*註
さがの山みゆきをうつす大井河もみぢにまがふかり衣哉
(家隆)
この河にもみぢばながるあし引きの山のかひあるあらし吹くらし
(雅経)
もみぢばのふりにし世より大井河たえぬみゆきの跡をみる哉
(具親)
大井河ふるきをしのぶ事ならばもみぢのにしき御舟かざらん
(秀能)

*註「嵯峨の山みゆきたえにし芹河の千世の古道あとはありけり」(在原行平)

大井川御幸  延喜七年(907) 宇多天皇
       承保三年(1076) 白河天皇

799秋魚:2017/07/14(金) 20:20:34
(無題)
・・こういう伝説があるようだ。

「四天王寺が建立される際、物部守屋の怨霊が伽藍を滅んが為に、
数千万羽のキツツキとなって堂舎をつつき妨害した。
それを知った太子が白鷹に変化し、守屋の怨霊を退治した。」

・・芭蕉が奥の細道で、黒羽の雲巌寺に訪ねた時、仏頂和尚の山居の庵をみて、
「啄木も庵はやぶらず夏木立」と詠んだ。

「鷹一つ見付てうれしいらご崎」 伊良湖岬の句は、さほどの寓意はあるまい。

井月は一味違う。

旭は浪を離れぎはなり鷹の声
鷹鳴くや日を遮て何か降る
鷹匠の涕すゝり込旭かな
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
鷹鳴くや朝日のとゞく峰の松

800秋魚:2017/07/22(土) 18:53:57
(無題)
・・七月 暑い〜ね。
家で必死にこの暑さに耐えるのは、芸がない。もともと真夏の猛暑というのは得意だった。サハラ砂漠の猛暑も知っている。ただやはり年を取ったか。暑さに逆張りするほどの気概はない。で、入間川サイクリングロードを走って川越までポタリング。これは逆張りではない。天然水がいかに美味く飲めるか。これが最良の健康法だと最近気付いた。「森の水だより」というのが気に入ってる。180mmペットボトルに目一杯つめてこれで足りないのは承知のこと。大宮の友人と川越で落合う予定だったが、先方はこの暑さにダウン。で、単独で出かけることにした。・・わたしの自転車はたいしたものだ。もう6〜7年になるがほとんど狂いはない。クロスバイクは輪行にちょい無理もあるがなんとか無難にこなす。それにひきかえパソコンのwin10というのは最悪。先日完全に壊れた。再利用の仕方もわからない。

・・ぼやいていても暑いばかりなんだから、ともかく入間川へ。このサイクリングロードは最高だ。

自転車で走ってるうちは風を切るので爽快だ。家でもそうだが停滞したら暑さがぐっとくる。外は風があれば木陰はいい。・・川に沿った公園やグランドが開けている。休日で各種団体の遊びがあってサイクリングロードの脇まで親子連れが陣取ってる。で、徐行していたが、急に子供がひとり飛び出してきた。人身事故を避けるため急ブレーキ。子供にはあたらなかったが、自分は勢いで転倒。気を失ったふりしてしばらく倒れて目を瞑っていた。「すみません」「大丈夫ですか」ぶつかった場合どちらが悪いのか。すこし考えたがともかく当らなかった。倒れ方もよかったので体も自転車もほぼ無疵。こういうのすこしでもキズがあるとあとあと残るものだけど、今回はパーフェクト。・・しかしあぶなかった。

・・丁度一年前か川越市街に来ている。入間川は左岸から右岸にわたる最後の橋は何といったか。霞ヶ関という変った名の地がある。ここで渡る。川沿いをやめてそのまままっすぐ進む道がベストだ。前回までの経験が生きている。

・・中心街へ。連雀通りを行くと蓮馨寺というのが見えた。「小江戸川越こころのふるさと」 三河の徳川はこの浄土宗ですね。本尊は阿弥陀如来、法橋覚慶作。文化財で元禄の梵鐘というのがあって、元禄八年(1695)の作。作仏僧円空はこの年に死没。元禄七年(1694)は俳聖芭蕉の没年。

「おびんずる様」というのがよく参拝されている。祈願所(呑龍堂)の外にあり、参拝者が直接そのお身体にさわるとその病気が治り、その御頭にさわると頭が良くなるという。・・それで自分もよいめぐりあわせと思い、順番をまって「おびんずる様」のお身体に触れてみた。おびんずるは釈迦の弟子でも神通力がぬけておりその神通力の使いすぎを釈迦に戒められた結果、仏滅後にも多くの衆生を済度する仕事を任されたという。

*賓頭盧(びんずる) 釈迦の弟子の1人。獅子吼(ししく)第一と称される。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。

・・さて、まったく予定がない。暑いだけならポタリングも即終了かと。川越は時の鐘周辺に人は集まる。氷川神社というのがあって、一年前訪ねたのとは別のもよう。ここを訪ねることにした。人に聞き聞き「ごめんなさい」「わたしも知りません」というのが多い。それでもなんとか辿り着くと人が多い。人気してるようだ。氷川はスサノオを祀る。浴衣すがたの女子が多い。どんなご利益があるのか暑いので考えたくも無い。・・おもしろいのは中に関東ではここだけという柿本神社というのがある。山上憶良の歌碑もある。・・顔はjapaneseでも言葉はチャイナかコリアか。暑いので考えたくも無い。

文明二年(1470) 河越千句。 太田道真、宗祇、心敬・・

うめそのに−くさきをなせる−にほひかな
にはしろたへの−ゆきのはるかせ
うくひすの−こゑはとやまの−かけさえて
のへにうつれる−みちのはるけさ
ならはすよ−いつくのつきそ−たひまくら
みやこいつれは−みしあきもなし
すさましく−しくるるそらの−くれそめて
くもよりをちの−いりあひのかね
くさのとに−ひともおとせぬ−やまふかみ
ほのかにのこる−まつのしたみち


・・この川越から西に進むと梅林で名高い越生。この山間に太田道真の隠居の庵がある。宗祇、心敬、万里集九などもここを訪れた。芭蕉は河越の痕跡はないですね。井月もないけどたぶん寄ってはいるでしょう。越生のすぐ隣りが都幾川、慈光寺がある。南へ下れば日高、飯能、青梅だが、この道もおもしろい。連歌師宗長が歩いているのは確かだ。

・・正岡子規が川越に句を残しているのは、あまり知られていない。
「砧うつ隣に寒き旅寝かな」 吉見百穴を見ての帰りに寄ったという。明治24年(1891)25歳。

・・やたら暑い。川越ではほかに興あること多々あったが、帰路につく。往路であやうく衝突事故かというのは、親水公園の敷地かと。帰りこの公園の入口付近に水路が分かたれて釣り人のいるところがある。水草の匂いがして、魚もたくさんいそう。自転車を木陰にとめて、魚釣りの具合を尋ねてみた。「何が釣れるのですか」「ヤマベ」。ヤマメかと聞き返したらヤマベという。実物を見たかったが、釣れた先すぐ水にもどしているという。・・つれずれにいろいろ話し込むと、大変な太公望で川釣り海釣り、日本各地のほか外国でもやっている。ここに合流する川は宮沢湖が水源とか。あそこはブラックバスですね。この入間川でも5匹に一匹はバスだという。オイカワという魚を呑みこむサギをねらったカメラマンがたくさんでしたよ。アユはいないんですか。入間川は石がないからアユはいない。・・おもしろいのは、私の幼少の頃の記憶がまざまざ蘇ったことだ。市川の真間川の上流境川のことも知っている。タナゴという熱帯魚のような魚がいた。いまは希少で天然記念物だという。飯能の山奥にしかみられない。モスリンという鮒釣りの池も知っている。・・アメリカでは、ヘミングウェイの様にカジキを釣ったとか。南米ではピラニアを。・・釣りの話ならいくらでもありそう。さすがに暑いので、死んじゃうよ。そういって竿をしまいはじめた。ありがとうといって自分も帰路に。あ、この釣り場の奥にはカワセミもよく出るそうだ。

801秋魚:2017/08/02(水) 12:33:38
(無題)
・・入間川で採れるヤマベはオイカワと同じものという。いつかササゴイが捕らえていたのを見た。

「垂仁天皇の皇子ホムチワケは成人してもものを云わなかった。しかし空をゆくクグヒ(白鳥)の声を聞いて、はじめて声を出してものを云った。そこで天皇は山辺大タカ(帝+鳥)という者をつかわして白鳥を捕らえさせた。大タカは白鳥を追って紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬の国を訪ね歩き、さらに近江、美濃、尾張、信濃と経巡って、越の国の和那美のみなとに至り、そこで網を張って白鳥を捕え、天皇に献じた。」

たましひの鳥

「鷹はたましひの一時の保有者であった。だからこの鷹によって、鎮魂を試み、あるいはうらなひを行うことになった。鷹には鈴をつけて放すのが定りである。この鈴の音が、呪術とうらなひとに交渉を持って居るものであろう。白鳥はたましひの鳥であり、もっとつよく云えば、逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの、と考えられた方面もある。こうしたものを求める動作は、たましひの場合に限って、こひと称している。こひは白鳥を指す『こふ』という語からも裏付けられる。垂仁帝の息子のほむちわけの場合は、たましひの鳥、鵲を追うていったのは山辺大鷹となっている。たましひの鳥を追うがために鷹の名をとったのか、あるいは説話学の考方にしたがって、鷹の人格化せられた名と見るべきか、いずれにしてもたまごひと鷹との関係を思わせる。」
??????????????????????????????????折口信夫「恋及び恋歌」

・・倉木マイ。出色のブレークシンガー。何度聞いてもあきない。木工家の五十嵐誠さんなんかも大手を振って応援している。「逸れ行くたましひをつきとめ、もたらし帰るもの」・・鷹は鈴音を鳴らして虚空に舞う。この鈴音の遠さと近さが倉木マイの声に似ている。たましひを狩するもの。


 まゐ殿

・・京に出没する鬼の話を続けましょう。

大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ずあまの橋立
               小式部内侍

和泉式部の娘で美貌で才気煥発であったとか。大江山は山城と丹波の国境、あるいは丹波と丹後の境にある山。母親の式部は当時夫保昌の任地丹後に住んでいた。あまの橋立は風光明媚の名所。

平安王朝女流の爛熟時代、紫式部、和泉式部、清少納言など源氏物語に描かれた時の天皇は一条天皇(
天元3年6月1日(980年7月15日) - 寛弘8年6月22日(1011年7月25日))。

大江山酒呑童子伝説は山城と丹波の境にある老坂にたむろした鬼の話。ちょうどこの式部たちの活躍した時代である。

「一条天皇の時代、京の若者や姫君が次々と神隠しに遭った、安倍晴明に占わせたところ、大江山に住む鬼の酒呑童子の仕業とわかった。そこで帝は長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らを征伐に向わせた。頼光らは旅の者を装って鬼の居城を訪ね、酒を酌み交わして話を聞いたところ、最澄が延暦寺を建て以来というもの鬼共の行き場がなくなり、嘉祥2年(849年)から大江山に住みついたという。頼光らは鬼に毒酒を飲ませて泥酔させると、寝込みを襲って鬼共を成敗、酒呑童子の首級を京に持ち帰って凱旋した。首級は帝らが検分したのちに宇治の平等院に納められた。」 wikiより

『大江山酒天童子』
昭和35年 (1960) 大映京都、田中徳三監督。当時の大映オールスターキャストで製作された豪華大作。出演:長谷川一夫(酒天童子)、市川雷蔵(源頼光)、勝新太郎(渡辺綱)、本郷功次郎(坂田金時)他。
当時の60年安保での世相を反映し、酒天童子を志を持った革命家として描いている。

・・京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従え、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたという。

・・摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭とする頼光四天王(渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜部季武)により討伐隊が結成され、長徳元年(995年)に討伐に向かった。


 この坂田公時ですが、足柄山の金太郎さんですね。山姥の母という。


・・酒呑童子の生い立ちについて、

平安初期に越後国で生まれた彼は、国上寺(新潟県燕市)の稚児となった。絶世の美少年であったため多くの女性に恋され恋文をもらったが、貰った恋文を読みもせず全て焼いてしまったところ、想いを伝えられなかった女性の恋心が煙となって、彼の周りを取り囲み、その怨念によって鬼になったという。そして鬼となった彼は、本州を中心に各地の山々を転々とした後に、大江山に棲みついたという。

一説では越後国の鍛冶屋の息子として産まれ、母の胎内で16ヶ月を過ごしており、産まれながらにして歯と髪が生え揃い、すぐに歩くことができて5〜6歳程度の言葉を話し、4歳の頃には16歳程度の知能と体力を身につけ、気性の荒さもさることながら、その異常な才覚により周囲から「鬼っ子」と疎まれていたという。

*河井継之助は、越後が生んだ三傑として、酒呑童子・上杉謙信・良寛の三人を挙げている。

802秋魚:2017/08/07(月) 17:02:47
(無題)
・・「翡翠」という歌集がある。『翡翠』大正五年(1916)3月25日、片山廣子第一歌集。因みに翡翠はかわせみと読む。きれいな鳥のこと。


よろこびかのぞみか我にふと來る翡翠の羽のかろきはばたき


     *

空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき
花草の信濃たか原あさ行けば人の世遠くみそらのちかき
霧ふかしうぐひすむせぶ雜木原とつくに人に路とひにけり
朝風に霧はれゆけば山つばめ木の葉の如く吹かれて舞ひぬ
山羊の子は流のふちの桑の葉もはみ飽きたるか我により來る
夕もやに顏うかせたる花あざみ寂しき息を野にただよはす
わた雲とみそらと我となでしこと嶺にある日はいとさびしけれ
さびしらに淺間葡萄も吸ひて見む人醉はしむる毒ありといふ
月見草ひとり覺めたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな
朝霧の底に夢みる高き木にうぐひす鳴けばわが心覺む
雲の影遠野をはしるまひる時みねに立ちつつ我がいひしこと
日ごろ我が思はぬ人もいと戀し日の入りあひにみやまどり鳴く
此夕べ淺間の煙かがやきてにほふ入日に寺の鐘なる
遠山と我と立つ時やみに伏す大野のむねにおつるいなづま

803秋魚:2017/08/10(木) 18:29:29
(無題)
・・芥川龍之介が雑誌『明星』に載せた旋頭歌がおもしろい。大正十四(1925)年三月発行。なにゆえ『明星』か、というか謎。
力作『庭』に井月が登場する。「蛙が啼いてゐるな。井月はどうしつら?」これも中村の長男の辞世。

大正十年(1921)四月十一日。聖徳太子千三百回忌年祭、斑鳩の法隆寺。
大正十年(1921)十月二十五日。『井月の句集』刊。
大正十一年(1922)六月。芥川短篇『庭』
大正十二年(1923)9月1日11時58分32秒頃。関東大震災
大正十四(1925)年三月。芥川旋頭歌『越びと』(『明星』掲載)

・・この大正十二年の関東大震災だが、龍之介は川端康成とともに吉原の被災現場をみて歩いた。ヘルメット着用にて快活に飛び歩く装いがみえたと川端のエッセイに描かれている。
・・震災当時吉原の大門が閉じられて、遊女の逃亡を防ぐという風習は残っていた。遊郭内で起きた火事がつづき、逃げ場を失った遊女たちは吉原弁財天内の池に次から次へと飛び込んだといいます。この時遊女らの死者490人。
「吉原遊郭の池は見た者だけが信じる恐ろしい地獄絵であった」

蟷螂やものものしげに道へ出る

  *

安政二年 江戸大地震

安政三年 成田山出開帳

「安政3年3月20日より60日間、深川永代寺で出開帳が行なわれた。『武江年表』には、安政3年の様子を「開帳中、日参朝参等夥しく諸人山をなせり。永代寺境内は寸地を洩らさず、看せ物、茶店、諸商人の仮屋をつらねたり。又奉納の米穀、幟、挑灯、扁額等境内に充満せり」と記されているほど盛況であった。開帳とは、厨子や戸帳を開いて普段は見ることの出来ない秘仏を拝観させ、民衆と結縁する宗教的行事である。成田山では、江戸時代に23回開帳を行っているが、その中心となったのは、深川永代寺八幡宮社地で行った江戸出開帳である。」


安政の台風

「安政3年8月25日(1856年9月23日)、「安政3年の大風災」と呼ばれる大きな風水害が発生した。これは、江戸のすぐ近くを強い勢力の台風が通過したことによって、江戸の街一帯が暴風と高潮の被害を受けたことによるものである。また、暴風雨に加えて火災が発生したことも被害を大きくし、この台風による死者は、資料にもよるが最も多いもので約100,000人とされ、日本の風水害によるものとしては過去最悪の被害とされている。」

飯能名栗原市場 星宮神社に芭蕉句碑がある。

「聲澄みて北斗にひゞく碪かな」 揮毫は、孤山堂卓郎(小森卓郎)。安政三年。

卓郎は三島の人。江戸に出て宗匠となった。
「蓬莱にひと膝すゝむ会釈かな」  越後獅子、家づと集に収載。

804秋魚:2017/08/16(水) 21:51:47
(無題)
水無月ノ土サヘワルゝアツキ日ニ
ヒトリ露ケキナデシコノ花

・・季吟が丹波の山越え貝原の里にでたそうだ。おすてというあやしい娘がいて洛の季吟のファンであった。山越えてあつい日中にこの家の門にたずね水ひとつ乞うた。おおこの人よと思いつつ水をひと汲みさしだした。季吟殿句あらばまいらすべし。打ち笑いつつ、
「葛水や鼻の下行よしの川」季吟
と聞こえたれば当座の吟ながらおかしかりし。

・・綾足『俳仙窟』にこんな下りがある。季吟は芭蕉の師北村季吟。おすては盤珪和尚と季吟に師事した田捨女。でもこれ本当の話だろか。

龍之介も「水涕や鼻の先だけ暮のこる」なんて詠まずおすて季吟にならうべしや。


まり様

「花曇」の讃をつづけます。

光前寺  天台宗別格本山 本尊不動明王秘仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
????????北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

木母寺 北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒 墨田区 本尊地蔵菩薩
六義園??北緯35度43分59秒 東経139度44分48秒??東京都文京区本駒込六丁目


・・江戸には、五色の不動明王があるそうな。

●目黒不動 荏原郡目黒村   瀧泉寺 ?? 慈覚大師作
●目白不動 小石川關ロ水道町  新長谷寺 弘法大師作
●目赤不動 本郷区駒込淺嘉町  南谷寺
●目黄不動 本所区表町   ????最勝寺
     下谷区三ノ輪町 ?? 永久寺
●目青不動 荏原郡世田ヶ谷村三軒茶屋

・・関東の三大不動尊といえば、

●成田山新勝寺(成田不動尊)千葉県
●高幡山金剛寺(高幡不動尊)東京都
●(雨降山大山寺(大山不動尊)神奈川県)幾つか説がある。

・・江戸の三大不動は、

●目黒不動 「創建は大同3年(808)、慈覚大師円仁によるという伝承がある。
元和元年(1615)本堂が焼失したが、後に三代将軍家光公がこの地で鷹狩りを行った際、その鷹が行方不明になり、家光公は不動尊に祈願をしたところ、鷹が松の木(鷹居の松)に戻った。家光公は不動尊の力を尊信し、堂宇伽藍を再建し江戸城五方の方難除け、五街道の守護に当てた。」
●目白不動 「新長谷寺は、奈良の真言宗豊山派総本山長谷寺末であり、本尊不動明王は断臂不動明王と呼ばれていた。弘法大師が湯殿山に参籠の際、大日如来が不動明王の姿で現れ、自らの剣で左臂を切り、ここから霊火が燃え盛り大師にお言葉を告げられた。大師はそのお姿を刻み、それが断臂不動明王であるという縁起が伝承されている。」
●薬研堀不動尊(川崎大師東京別院) 「天正13年(1585)、紀州(現和歌山県岩出市)根来寺の大印僧都が、豊臣秀吉の兵火に遭った根来寺からご本尊の不動明王を江戸隅田川付近に移し、堂宇を建立したのが始まりと言われている。」


青梅山金剛寺  東京都青梅市天ヶ瀬町 N35度47分22秒 E139度14分59秒
        真言宗豊山派 本尊白不動明王(智証大師画)

安楽寺  東京都青梅市成木1-583 N35度50分18秒 E139度16分31秒
     真言宗単立 本尊 愛染明王・不動明王・軍荼利明王
    行基が和銅年間(708-714)に軍荼利明王を彫刻・安置して創建

成田山新勝寺  N35度47分09秒 E140度19分05秒
       真言宗智山派 本尊不動明王(弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼)


隅田川神社??東京都墨田区堤通2-17-1??北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒
     祭神 速秋津日子神、速秋津比売神、鳥之石楠船神、大楫木戸姫神

・・絵にみえる山は、筑波山。北緯36度13分31秒 東経140度6分24秒 標高877m
  西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)

伊那の火山峠 標高853m

・・

青梅勝沼に石動神社がありますが、この本山は、
能登石動山  N36度57分55秒 E136度58分15秒
伊須流岐比古神社 N36度57分46秒 E136度58分25秒

大伴家持がよく訪ねたといわれる、
田子浦藤波神社、N36度48分56秒 E136度59分32秒

ここから思い切り海の見えるところまで南下すると、
伊良湖崎  N34度34分52秒 E137度00分55秒
神島  N34度32分47秒 E136度58分56秒

多胡の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
たこのうらのそこさへにほふふぢなみをかざしてゆかむみぬひとのため
(次官内蔵忌寸縄麻呂)

・・
鬼灯の色にゆるむや畑の縄
鬼灯や知らぬ子どもの連になる

鷹一つ見付けてうれしいらご崎  芭蕉
いらご崎にる物もなし鷹の声

ぬけ星は石ともなるか鳴く千鳥   井月

805秋魚:2017/08/22(火) 11:08:34
(無題)
如菩薩も花にうかれつ法の庭

身はなきものと思へ共、花の咲日はうかれこそすれ、中々に堪忍ならぬ花曇

・・

ここ、光前寺  天台宗別格本山 本尊不動明王秘仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地
????????北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

秋葉山本宮秋葉神社  静岡県浜松市天竜区春野町領家
    北緯34度58分52.44秒 東経137度51分56.81秒
    主祭神 火之迦具土大神

『東海道名所図会』には秋葉大権現の利益として「第一には弓箭刀杖の横難を免れ、第二には火災焼亡の危急を免れ、第三には洪水沈没の免れさせたまふ」とある。

秋葉山本宮秋葉神社には、古来より多くの日本刀が献納されて来たり、今に至っている。
・・
『寶物実録』に記された献納者の内、名立たる武将として伊豫守源頼義・為朝・足利尊氏・今川仲秋・武田信玄・長曽我部元親・豊臣秀吉・加藤清正・福島正則などの名が挙げられる。

806秋魚:2017/08/26(土) 10:04:26
(無題)
「出雲路ノ毘沙門堂ニテ、人々連歌シテケルニ、
  ウスクレナヰニナレルソラカナ
ト云句ニ、ツケ煩テ、三十余句返テケレバ、興モナカリケルニ、東入道ノ、シノビテ聞ケルガ、
  アマトブヤイナヲセ鳥ノカゲミエテ
ト付タリケル。時ニトリテ、ワリナカリケル事ニ語伝ヘ侍リ。」

・・花の下連歌のよく云われる説話だが、ウスクレナヰはウスベニのこと。薄紅色の感性は今の恋歌でもよく目立つ。ハナミズキの一青窈、timeaftertimeの倉木マイ。

ウスクレナヰニナレルソラカナ ・・この後が付けがたい。アマトブヤと飛躍飛翔に転じてイナオセ鳥の古今伝授にもってきたのは、機転の妙。


渡月橋の倉木マイは、カラクレナイと朱の転じを勁く歌った。



花の下連歌でしょう。うれしきものは。

・・芭蕉に園女あり。この度会園女は伊勢山田の人で、芭蕉に私淑した俳人です。芭蕉は、逝去の半月ほど前に、大坂で園女に招かれ「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」と詠んでいます。宝永二年(1705)には、園女、江戸に出て富岡八幡宮の前で眼科医を開いていました。歌仙桜という三十六本の桜を八幡宮へ寄進しました。この桜、今は存在しませんが、八幡宮の花見の名所であったといいます。安政3年には成田山不動明王とともに園女ゆかりの歌仙桜もみて歩いたと推察されます。花曇の句を詠んだ光前寺も枝垂れ桜がみごとといいますから、不動明王−八幡宮歌仙桜−園女、不動明王−光前寺花曇の句−山田よし女という二つのスポットが二重写しにみえたのでしょうか。
因みに富岡八幡宮の位置は、東京都江東区富岡一丁目20番3号 北緯35度40分19秒
東経139度47分58.6秒
この同緯度線をたどって西へゆくと、伊那谷は駒ヶ根をすこし下った飯島の与田切川の渓流にぶつかります。

807秋魚:2017/08/31(木) 19:32:50
(無題)
・・限りない郷愁。touch me, growing my heart シャンソンne me quitte pasなど軽妙な感性よりずっと直接的でoutsiderでしょう。やはりマイ嬢です。ne me touche pasというのは復活したイエスの声。

大いなる郷愁は死が近いかも。

イカルあるいはイカルガ。

・・イカル(鵤、桑鳲、学名:Eophona personata)とはスズメ目アトリ科の鳥類である。木の実を嘴(くちばし)で廻したり転がしたりするため古くは「マメマワシ」や「マメコロガシ」、木の実を好んで食べるため「まめうまし」、「豆割り」などと呼ばれた。・・「鵤」は角のように丈夫な嘴を持つ事に由来する

比志利古木利(ヒシリコキリ)
月日星(ツキヒホシ)

・・と啼くそうだ。

808秋魚:2017/09/02(土) 11:59:16
(無題)
・・三条地震(さんじょうじしん)とは、文政11年11月12日(1828年12月18日)に、新潟県三条市付近で発生した地震である。想定される震央は、北緯37.6度、東経138.9度(三条市芹山付近)と推定され、想定されるマグニチュードは6.9と推定されている。

(瓦版)「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した古今稀なる大地震」

弥彦山  北緯37度42分17秒 東経138度48分32秒
弥彦神社 北緯37度42分24.1秒 東経138度49分33.6秒

天目山棲雲寺  山梨県甲州市大和町木賊122
     北緯35度39分38.2秒 東経138度48分38.4秒

弥彦山頂  御神廟(奥の宮) 弥彦山頂に鎮座する。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。

祭神 天香山命 (あめのかごやまのみこと)
「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。

・・通称「志田大太刀(しだのおおたち)」。室町時代、備前長船派の刀工家盛の作。刃渡220.4cmの大太刀。

809秋魚:2017/09/21(木) 12:01:17
・・
Canst thou bind the cluster of the Pleiades,Or loose the bands of Orion?
(JOB38-31)

KING JAMES VERSION では、the cluster → the sweet influences

あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。

・・

810秋魚:2017/09/22(金) 21:52:17
(無題)
東常縁 − 頼和・常和・胤氏(素純)

・・

尭恵 → 頼和・常和

宗祇 → 素純


とくよりも出向ふ士峯や初日影

811秋魚:2017/09/23(土) 23:01:38
(無題)
 思ひ出でて恋しき時は初雁のなきてわたると人知るらめや  大伴黒主


・・

812秋魚:2017/09/26(火) 12:33:42
(無題)
要津寺  墨田区千歳2-1-16

>・・臨済宗、京都妙心寺末で、慶安年間(1648-1651)に僧東鉄が本郷に創建して、東光山乾徳寺と号しました。牧野越中守成儀を開基、西江和尚を開山とします。その後、天和2年(1682)に焼失して廃寺となっていました。元禄4年(1691)2月に牧野備後守成貞が本所の地に7134坪を下屋敷として給せられ、よく3月9日、その一部を寺に寄付し、再興されました。これによって成貞を中興開基、中興開山を梁伝和尚とします。

・・常陸笠間藩主牧野家は、成貞に始まります。成貞は徳川綱吉に仕え、側用人となり、綱吉が度々成貞邸に訪れたというほどに信頼された人物でした。三代後に常陸笠間に移封され、以後廃藩にいたるまで笠間藩主として存続しました。明治維新以後に跡を継いだ貞寧は、本所区緑町(現緑二丁目・亀沢一丁目)に住み、本所小学校(昭和21年廃校)の学務委員を務め、地域の社会発展のためにも貢献しました。
その墓所のある要津寺は、慶安年中に牧野成儀を開基として本郷に創建されました。成貞が元禄4年(1691年)に下屋敷の一部(現在地の一部)を寄進して寺を移し、寺号を成貞寺としましたが、後に成儀の法名を採り、要津寺と改めました。
現在も代々の藩主が眠る牧野家の墓所は周囲よりも一段高い土台の上に石組をめぐらせ、正面に三つ葉柏の家紋と「牧野家代々之墓」と刻まれた墓碑、前面に4基の燈籠が置かれています。(墨田区教育委員会掲示より)

雪中庵関係石碑群

・・雪中庵とは芭蕉三哲の1人である服部嵐雪(1654−1707)の庵号です。三世雪中庵を継いだ大島蓼太は、深川芭蕉庵に近い当寺の門前に芭蕉庵を再興しました。これにより当寺は雪中庵ゆかりの地となり、天明年間(1781−1789)の俳諧中興期には拠点となりました。当寺には蓼太によって建てられた嵐雪と二世雪中庵桜井吏登(りとう)の供養塔や「雪上加霜」と銘のある蓼太の墓碑、四世雪中庵完来から十四世双美までの円形墓碑、宝暦13年(1763年)蓼太建立による「芭蕉翁俤塚」、安永2年(1773年)建立の芭蕉「古池や蛙飛びこむ水の音」の句碑、天明2年(1782年)建立の「芭蕉翁百回忌発句塚碑」などがあります。

芭蕉翁俤塚(おもかげづか)

・・宝暦13年(1763年)10月12日、大島蓼太が芭蕉翁七十回忌に建立した。

深川六間堀東光山要津寺中ニ在

俤墳

碑陰

 宝暦十三年癸未十月十二日 雪中庵門人建

みかの月 弓矢のともに すてし身を 草の庵に ふししはの むすひし夢に はゝきゝのありとは見えす あさかほの しほめる花の まほろしを とくうつしゑの ふてとけし その翁さへ なくそちの(本ノマゝ) おもかけ塚を したはさらめや


雪中庵蓼太

813秋魚:2017/10/04(水) 20:43:09
(無題)
・・秋のサイクルツーリング。

?日本近代文学館−?長命寺−?要津寺−?長慶寺−?雄松院(園女墓)−?富岡八幡宮

二日目  ?聖坂亀塚稲荷神社−?長松寺(徂徠墓)−?如来寺−?品川歴史館−?池上本門寺


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