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短詩人/Hyperion

1:2003/08/16(土) 12:50:20
(無題)
むらくもの屋根にみえたる菖蒲かな
こうこうと滝壷さむし蛍交う
宵闇の白い乳房よささめきぬ
編集済

674秋魚:2016/06/09(木) 00:38:21
(無題)
・・

遣るあてもなき雛買ひぬ二日月  井月

こがらしに二日の月の吹き散るか  荷兮

吹きとばす石はあさまの野分哉   翁

・・

かれ朶に烏のとまりけり秋の暮  翁

凩やとまり烏の横にゆく    井月


・・二日月は故郷にいる娘の記憶。

とまり烏という井月の位置がみえます。

675秋魚:2016/06/12(日) 02:28:33
(無題)
・・福生の郷土館に訪ねてみた。森田友昇という維新からの俳人の資料があるという。八王子星布の松原庵を四世で継いだ。福生が地元で生業は横浜で活動していた。俳人として立机したのは明治十二年(1879)。記念集「浅川集」が編まれた。

・・中央線立川から青梅線で20分もあれば福生に着くだろう。新宿から青梅街道なら途中五日市街道をまっすぐ行けばよい。多摩川を渡る前が福生だ。五日市街道は別名伊奈街道と呼ばれている。五日市の秋川周辺に伊奈という村があるからだ。そう信州の伊那谷から石工の職人が流れて住み着いている。伊奈石という特殊な石を切り出していた。

・・福生は田村酒蔵の嘉泉をつくるこの家も昔から俳家だ。森田友昇はここの友甫に句作を学んだ。江戸にでて富処西馬についたともいわれる。余り知られていないが、榎本星布の流れで尾形仂氏などによって発掘されている。

「芭蕉は延宝5年に万句興行(100人の連句を100巻)行って宗匠となり立机、延宝6年「歳旦帳」を作っている。」

・・立机というのは晴れやかなものだ。芭蕉なども万句興行をやっているというから、驚きだ。
・・友昇が立机する以前明治三年に「高むしろ集」という句集を出している。今回この句集を見ることができた。序を寄せたのは、為山と見外。いづれも井月三部集東都の俳人で名を連ねている。伊那の精知、甲斐の雷石。野井はムサシ、青梅の臼左はこの集でなく「浅川集」に名がある。

歳々年々人不同

老の春あとへもとらは一むかし  見外
いつものとほり梅のさく庭    友昇
海苔きぬた折に聞ゆる風吹て    外
追ねは鶴もようあそふなり     昇

・・ 

676秋魚:2016/06/18(土) 00:47:46
(無題)
元禄8年(1695年)、各務支考は深川芭蕉庵を訪れた。

むかし此叟の深川を出るとて、此草庵を俗なる人にゆづりて

草の戸も住みかはる世や雛の家

・・今はまことに、すまずなりてかなし。


元禄11年(1698年)、惟然、江戸に入り、深川の芭蕉庵を訪れる。

   深川の舊菴にて

こゝらにはまたまた梅の殘とも

『けふの昔』

   深川庵

思ふさま遊ぶに梅は散らば散れ


・・芭蕉庵は、どうあっても梅なのか?



広瀬惟然

鳥の羽風に梅の花散るを見て隠遁。

千斤ノ金有ルモ林下ノ貧ニ如カズ

    ひだるさに馴れてよく寝る霜夜哉
    水鳥やむかうの岸へつういつい


・・此人のむすめは尾張名護屋の豪家に嫁したるを、かく風狂しありく後は音信もせず。あるとき名古屋の町にて行あひたり。女は侍女下部など引つれてありしが、父を見つけて、いかにいづこにかおはしましけん、なつかしさよとて、人目も恥ず、こつがい乞丐ともいふべき姿なる袖に取つきて歎きしかば、おのれもうちなみだぐみて、

両袖に唯何となく時雨哉。

といひ捨てはしり過ぬとなん。

・・

677秋魚:2016/06/20(月) 22:28:57
(無題)
>・・戸隠山の九頭龍信仰の源は戸隠神社の九頭龍大神である[1]。・・西暦800年代の中盤頃の話として、「学門」という名の修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されている(調伏善龍化伝承)。

・・その後、九頭龍権現として崇められ雨乞いが行われた[2]。雨と水を司る他、歯痛の治療にも霊験があり、好物の梨[1]を供えると、歯の痛みを取り除いてくれるとされている

・・玉藻の前は、金色九尾の狐の化身。那須野で射止められる。

> 那須 与一(なす の よいち、嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?)は、平安時代末期の武将

・・治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす

678秋魚:2016/06/20(月) 23:29:27
(無題)
・・武州杣保谷村の真浄寺にある「時雨桜」について、日野資枝の詠んだ歌は、

さくら花木梢のしつくおつるより幾世しくれの名にやふりけむ


・・資枝の子資矩もまた歌を寄せている。

武州入間郡杣保内谷野村真浄寺門前に二株の桜あり此木四時もわかたす雫絶へすおつこといつも神無月になれば昼夜やすみなく落ちて其床しきこと雨の如しとそ此こゝろを従一位殿称しつかわさる今又資矩にも歌よめと望にきかせて』と云ふ前書きで

花もあれと枝のしつくの名にしおふ、しくれのさくらよゝおけるかな

正二位 資矩


・・このように京の堂上の歌人親子から、二つながらに歌を詠まれたしぐれ桜とは、とりわけてゆかしいものであっただろう。

・・武蔵野の片田舎の学問僧浄月律師が、歌詠みの習いを京の日野資枝に願った。その時の入門書のようなものが残されている。

「為和歌御門弟取伝候條々不存疎略儀他門輩堅不可口外候尤此道永得心可致可習練候於て違背者可蒙大小神祇御罸候仍誓状如件

年 号 月 日      日野家司中」

・・ある種古今伝授にあわせた誓文にみえる。

(これは秘伝であるからけして口外してはならぬ)

・・この二人の公家が、実際、武蔵野の青梅まで訪ねてしぐれ桜の花を眺めたか、そうでなくては歌も詠めまい。弟子が師に歌を詠めなどいっていいものかどうか気になるものだが、これは主客の反転?

歌詠めといってるのは、浄月ではなく桜の木であろう。


    *

・・文明三年(1471年)、東常縁は美濃国妙見宮(現在の明建神社)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。

岐阜県郡上市大和町牧814-1  北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒

 「切紙伝授」というのがある。

679秋魚:2016/06/28(火) 21:53:45
(無題)
・・います山中を過て、いにしへ常盤の塚あり。伊勢の守武がいひける「よしとも殿に似たる秋風」とは、いづれの處かにたりけん。我もまた、
   義朝の心に似たりあきの風

・・野ざらしの旅で芭蕉が関が原の常盤の墓をみて詠んだ句。この常盤の墓は偽作なのは今では分かっている。芭蕉翁そんなこと詮索するヒマはなかったか。守武の付句にあわせた句を残す。・・江戸武蔵野にいて杣山よりの青梅や飯能まではたぶん一度たりと足を運んでいないのがわかる。常盤はおそらく関が原を越えて東国までやってきているはずだ。青梅飯能の常盤伝説はよほど信じられる。・・大垣に入って「死にもせぬ旅ねの果よあきのくれ」など言ってるから、常盤の死などかまってられぬというのがあったか。にしてもいい気なものだ。俳諧とはこういうものかもしれぬが。

・・もうひとつおもしろい文芸に立ち会った。吉田兼好『徒然草』第六段・・「聖徳太子の御墓をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ、かしこを断て、子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや」。太子が生前自分の墓をつくるに子孫を残すまいとの意思表示でよく知られている言葉だ。『聖徳太子伝暦』という古書に書かれたものを兼好が読んでいたものと思われる。
「・・冬十二月、太子が駕を命じて、科長の墓処にて墓を造る者を覧る。直ちに墓内に入り、四望して左右に謂ひて曰く、此処を必ず断て、彼処を必ず切れ、まさに子孫のあとを断やすべからしめんと欲すと。墓工、命に随ひ、断つべきものは断ち、切るべきものは切る。太子、おほいに悦ぶ」

・・吉田兼好もよほどおめでたい歌人だ。聖徳太子伝の古典に書かれた言葉をまったく疑いもしないのだから。後太子ばかりでなく太子一族二十五人がこぞって昇天したのを何が悦ばしいものか。

680秋魚:2016/06/29(水) 19:09:22
(無題)
神垣やおもひもかけず涅槃像

・・芭蕉が伊勢外宮の境内で詠んだ句。笈の小文の旅にある。

涅槃会に開帳されていたなら、二月十五日。神宮で涅槃像に出くわすとは、思いの外。
元禄元年のことだが、神仏習合があったか。



・・法隆寺五重塔北面の涅槃像。


「是の時に、諸王諸臣及び天下の百姓、悉に長老は愛き児を失へるが如くして、塩酢の味、口に在れども嘗めず。少幼は慈の父母を亡へるが如くして、哭き泣きつる声、行路に満て李り」(書紀)



「・・生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる」 wikiより

・・wikiなどの記事は大方日本書紀を元に述べてある。山背大兄王とその一族殺害の首謀は曾我入鹿ただひとりのごとき。

『上宮聖徳太子伝補闕記』では、

「・・癸卯年十一月十一日丙戌、亥時、宗我大臣、并びに林臣入鹿、致奴王子児名軽王、巨勢徳太古臣、大臣大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫等六人、悪逆至計を発して、太子子孫男女廿三(五)王、罪なくして害せさる」

・・軽皇子なんかも共犯に名を連ねてあるが。

・・『日本書紀』は疑ってかかるべきか。

681秋魚:2016/07/01(金) 21:21:38
(無題)
・・九尾の狐は、若藻という十六才の少女に化け、吉備真備の乗る遣唐使船に同乗し来日を果たしたとされる。この時、吉備真備が唐からもち帰った奇文に「野馬台詩」というのがある。

「・・大臣吉備真備が遣唐使として唐の国にいた頃、その学識に恐れをなした唐人は、彼を高樓に登らせて梯子を外し、そこに住む鬼に殺させようとした。
 しかし、吉備大臣の前に現れた鬼は、自分もまた遣唐使として入唐した際、高樓に閉じ込められて死んだのだと身の上を語り、同じ日本人のよしみで吉備大臣に唐国のことをいろいろと教えようと申し出た。・・吉備大臣は鬼の助けを得て、唐人が出す難問(『文選』の解読、囲碁の名人との勝負)を次々とクリアしたが、最後に出てきた宝志作という不思議な暗号文には手も足もでない。そこで思わず日本の仏神を祈った時、屋根から一匹の蜘蛛が落ちてきて、その文の上を這いまわった。吉備大臣がその糸の跡を目で追うと、それまで見当もつかなかった暗号がすらすらと読めたのである。かくして、吉備大臣は『文選』や囲碁と共に『野馬台詩』を日本に持ち帰ることになった。」

・・高樓で友になった鬼は阿倍仲麻呂ではないかといわれる。

吉備 真備(きび の まきび、持統天皇9年(695年) - 宝亀6年10月2日(775年11月3日))

・・この『野馬台詩』、梁の預言者、宝誌のつくったものといわれる。

宝誌(ほうし、 418年(義熙14年) - 514年(天監13年))は、中国の南朝において活躍した神異・風狂の僧である。

・・普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。

禅の開祖達磨大師が梁の武帝と交わした問答がある。

帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功?
師曰 並無功?
帝曰 何以無功?
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功?
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功?不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契

・・


ところで、野馬台詩のはじめは

東海姫氏國(東海姫氏の国)
百世代天工(百世天工に代る)
右司爲輔翼(右司輔翼と為り)
衡主建元功(衡主元功を建つ)
初興治法事(初めに治法の事を興し)
終成祭祖宗(終に祖宗の祭りを成す)

・・この東海姫氏國は、日本のことと言われている。

今見る漢字の並びが吉備真備が見定めたものか、そうとしてなお難解な詩文にはかわりない。

法隆寺五重塔東面の塑像は、維摩詰vs文殊の構図。よく知られた問答があるという。

>・・彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。

・・文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。  wikiより

維摩居士

>・・古代インド毘舎離城(ヴァイシャリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが 化生して、その身を在俗に委し、大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。

維摩詰vs文殊の構図は、法隆寺の他に興福寺のものが際立っているが、これは鎌倉時代の創作。

維摩居士像 定慶作、木造 88.6センチ、鎌倉時代・建久7年(1196)

おもしろいのは、興福寺の創建。

>・・藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた[注 1]。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。 wikiより

藤原鎌足 推古天皇22年(614年)・・死没 天智天皇8年10月16日(669年11月14日)

法隆寺全焼 天智天皇九年(670年)庚午の歳四月三十日の夜半において、一屋無余の火災に罹った(書紀)

・・書紀によれば、山階寺(興福寺)669年の翌年に法隆寺は跡形もなく焼けた。


   *

・・ところで、芭蕉は法隆寺を一度は訪ねたことがあるか?

記録の上からは奈良には数度訪れてはいるが、法隆寺に訪れたという痕跡はみあたらない。「菊の香や奈良には古き仏たち」元禄七年没年九月九日に詠んだ句があっても、特段に法隆寺の仏というわけではない。・・にしても、一度は法隆寺を訪ねているとみる。


観音のいらかみやりつ花の雲

貞享三年(1686)『末若葉』 (花の雲)かねは上野か浅草かと聞えし前の年の春吟也。尤病起の眺望成べし。一聯二句の格也。句呼句とす」

 草庵

花の雲鐘は上野か浅草か

「続虚栗」貞享四年

・・芭蕉病起の句に、維摩居士の病起と文殊の訪れを重ねてみるのも、おもしろい。


    *

・・『野馬台詩』江戸期の受容だが、

室町後期の写本
『野馬台縁起』 - 東大寺(戒壇院経蔵)蔵(大永2年(1522年))写本
『歌行詩』系写本 - 『長恨歌』『琵琶行』『野馬台詩』を合編した写本群、享禄4年(1531年)写の三重大学図書館蔵本が現存最古とされる

江戸期の刊本
『歌行詩三部抄』 - 寛文9年(1669年)、京都・山村伝右衛門刊
『歌行詩三部首書』 - 延宝3年(1675年)以前刊か
『歌行詩諺解』 - 貞享元年(1684年)刊
『歌行詩詳解』 - 貞享2年(1685年)刊
『野馬台詩国字抄』 - 寛政9年(1797年)刊、文政5年(1822年)再版
『野馬台詩余師』 - 天保14年(1843年)刊、『経典余師』シリーズの1冊、弘化3年(1846年)再版


・・『長恨歌』『琵琶行』『野馬台詩』合本になったものは、芭蕉も読んでいたとみる。

井月の生まれた年(1822)に『野馬台詩国字抄』が再版。『野馬台詩余師』は、天保14年(1843年)刊、弘化3年(1846年)再版。・・天保14年(1843)は芭蕉百五十回忌。弘化3年(1846年)は善光寺地震の前年になる。

黒船来航、幕末にむけてある種の流行であったというから、井月も必ず読んでいたであろう。

682秋魚:2016/07/02(土) 22:47:55
(無題)
・・芭蕉は斑鳩の法隆寺を訪ねたが、狼狽したのではないか。俳句の感興はおこらなかった。感興は絶大にあったが、発句というまとまりには到らなかった。「菊の香や奈良には古き仏たち」、なんとも平たい凡句とみえる。明治になって正岡子規が「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠んだ。これが傑作というのを誰か正面から解き明かしたものがいるのか。子規のこの句はひどい駄作とみるのは、わたしだけか。芭蕉が発句にしくじった法隆寺。子規がかるがると法隆寺を詠んだから傑作というだけかもしれない。そういう近代の俳句の方法を提示した。それは近代においてだけ有効な句作だ。

・・いまは多くの小中学生が法隆寺の句を詠んで競っているらしい。法隆寺の謎をめぐる多くの新説も華々しい。梅原猛『隠された十字架』など白眉といえる。・・芭蕉−子規の間に、法隆寺を句にしたものはいないのか?天明の俳人・加舎白雄の全集を借りてみた。国文社から上下立派なものが出ている。ほとんど借り手がいないのか、新本のまま枝折の使用もない。

・・法隆寺ではなく、聖徳太子の墓所と思われる叡福寺の古墳を訪ねた記事がある。
「くづれさせたまはぬよりも、此科長の里にかくをくつきをいとなみ、みくらゐに換て扶桑仏法の祖とあふがれさせ給ふ。帰寂のゝち空海上人報謝して数百の法界石を禁禦し非常をしづめたまひしと。それさへ千載におよびツゝすゞろにたのもしく蔓草のおのがじゝに這ワたりて日暮の地籟道心をおこさしむるぞ尊ふし。
 築墻や梵字をめぐるなツのあかし
 右斑鳩王御廟    」

・・白雄翁、ホッとする。


甲斐の黒駒

「・・太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。」

・・法隆寺以前の逸話だが、黒駒で富士を越えたあと馬を休めて下馬した伝説の地がある。甲州勝沼の万福寺だ。馬蹄石という石がモニュメントとして残っている。野ざらしの旅の帰路、芭蕉がここに寄ったのではないかというので、翁百回忌も営まれた。


駒づかや世にとゞろきの影高し  可都里
道は奥ある苔のしたゝり     作良
風かをる旅の餌ぶくろ紐ときて  白亭
赤松どのゝ京入の月       田鶴村

・・


・・太子は黒駒に乗って富士山を越え、次に信濃に廻ったとある。大雑把な話だがこれは信濃の何処に訪れたのか。長野にある善光寺には太子伝承があるが、善光寺の開基は皇極三年(644)といわれ、この善光寺に立ち寄ったわけではない。・・そうとして善光寺の太子伝承は興趣ふかい。

>・・奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているものがあります。その中には信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられてきました。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられています。封印されていますので、誰も読んだ人はいないはずでした。ところが、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou58/kai05806.html

・・善光寺如来と聖徳太子の往復書簡の存在など、前代未聞ではないか?古田史学会の古賀達也氏の年号による謎解きも興味深いが、何よりも善光寺開基の644年には太子はまだ生存していた証の書簡になる。太子の没年は一応622年という。

683秋魚:2016/07/04(月) 22:03:01
(無題)
>・・人王九十五代(※九十六代とも)に当たり、天下一たび乱れて主安からず。
この時、東魚来たりて四海を呑む。
日、西天に没する三百七十余日、西鳥来たりて東魚を食う。
そののち、海内一に帰すること三年、ミ猴(ミコウ:猿の意味)のごときもの
天下をかすむること三十余年、大凶変じて一元に帰すなり。

・・楠正成が四天王寺でみた太子「未来記」。後醍醐天皇の幕府転覆を予言されていると読む。

>「・・人王八十六代の時、東夷来りて、泥王国を取る。七年丁亥歳三月、閏月あるべし。四月二十三日、西戎来り、国を従へ、世間豊饒となるべし。賢王の治世三十年、しかる後、空より獼猴、狗、人類を喰らふべしと云々」

『明月記』定家

684秋魚:2016/07/05(火) 12:02:26
(無題)
菊の香や奈良には古き仏達
菊の香にくらがり登る節句かな
菊に出て奈良と難波は宵月夜

月影や四門四宗も只一ツ
俤や姨ひとり泣月の友

・・奈良の過去世にさほど深入りしない。多くの仏たちを認知はするが離れようとする。
善光寺においても月影のもとで多々ある宗派をひとつにまとめる。

・・「菊の香や」はもう最晩年。くらがり峠は奈良から生駒を越えて大坂に入る最短の道。ほんのりと死の薫習のかおりがする。翁、この後大坂で死没。

・・加舎白雄はよく歩いた。

「あすかのみやしろ橘寺拝ミめぐりしに、艸しげき中より手のひら斗なる瓦を拾ひて
 ゆりが根に千とせの瓦得てし哉
こゝろに興じて行々が中にも
 橘もあすかの里も砧うつ
かく聞へし師が遺草いとなつかしく、そこに一夜をやどる。
 岡の町に夏夜衣うツ宿も哉 」

・・橘寺は太子創建。生地に近い。「かく聞へし師」というのは、誰だろう?


・・天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。・・銘文から聖徳太子の死去を悼んで橘大郎女妃が作らせたという。

「天寿国繍帳」とは、「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した帳(とばり)」の意。
「天寿国」とは、阿弥陀如来の住する西方極楽浄土を指すもの

>・・辛巳の年(推古天皇29年・西暦621年)12月21日、聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(間人皇后)が亡くなり、翌年2月22日には太子自身も亡くなってしまった。これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(祖母にあたる)にこう申し上げた。「太子と母の穴穂部間人皇后とは、申し合わせたかのように相次いで逝ってしまった。太子は天寿国に往生したのだが、その国の様子は目に見えない。せめて、図像(かた)によって太子の往生の様子を見たい」と。

橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。聖徳太子の妃。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子)で推古天皇の孫にあたる。子に白髪部王、手嶋女王。

尾張皇子 − 位奈部橘王(いなべのたちばなのひめみこ)、

  斯帰斯麻  宮治天下  天皇名阿  米久爾意
  斯波留支  比里爾波  乃弥己等  娶巷奇大
  臣名伊奈  米足尼女  名吉多斯  比弥乃弥
  己等為大  后生名多  至波奈等  己比乃弥
  己等妹名  等巳弥居  加斯支移  比弥乃弥
  己等復娶  大后弟名  乎阿尼乃  弥己等為
  后生名孔  部間人公  主斯帰斯  麻天皇之
  子名ヌ奈  久羅之布  等多麻斯  支乃彌己
  等娶庶妹  名等巳弥  居加斯支  移比弥乃
  弥己等為  大后坐乎  沙多宮治  天下生名
  尾治王多  至波奈等  巳比乃弥  己等娶庶
  妹名孔部  間人公主  為大后坐  濱辺宮治
  天下生名  等巳刀弥  弥乃弥己  等娶尾治
  大王之女  名多至波  奈大女郎  為后歳在
  辛巳十二  月廿一癸  酉日入孔  部間人母
  王崩明年  二月廿二  日申戌夜  半太子崩
  于時多至  波奈大女  郎悲哀嘆  息白畏天
  皇前日啓  之雖恐懐  心難止使  我大王与
  母王如期  従遊痛酷  无比我大  王所告世
  間虚仮唯   仏是真玩  味其法謂  我大王応
  生於天寿  国之中而  彼国之形  眼所*看
  稀因図像  欲観大王  往生之状  天皇聞之
  悽然告曰  有一我子  所啓誠以  為然勅諸
  妥女等造  繍帷二張  画者東漢  末賢高麗
  加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻


「橘寺はまた菩提寺と云ふ。
金堂は一間四面二階、救世観音像を安んず。講堂は五間四面、丈六の釈迦像を安んず。五重塔。推古天皇の御前において、太子、勝鬘経を講ずること五六日、竟りの夜、蓮華零る。花の長さ二三尺、方三丈の地に溢る。明旦、これを奏す。天皇大いに奇として車駕にしてこれを覧たまふ。即ち其の地において寺堂を立つを誓ふ。是、今の橘寺なり。菩提寺なり。」


・・ところで、加舎白雄は、実際、富士登山をしている。

「富峰登山の吟

七月四日也けり、吉田口より攀ツゝ、大ゆきあひとかやいふ石室に一夜をあかしつるに、朝日おがまんと人のなミツゝ、あはれなる声して称名をとなへ、我も塵うちはらひそこに出て、只別世界なる事を、
 日をのぞむいたゞきやこれ不二の峰
するが路にて、
 いく時雨不二の曙ゆふべ哉   」

・・芭蕉の弟子で、誰か、富士登山を試みたものがいるのだろうか?

・・不二の表記、白雄は維摩の不二法門をかじっているのがわかる。ご来光を拝むのは、わたしもよく知っている。

685秋魚:2016/07/08(金) 21:00:38
(無題)
馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな

秣おふ人を枝折の夏野哉

行駒の麦に慰むやどり哉
 

686秋魚:2016/07/09(土) 01:44:55
(無題)
天明6年(1786年)、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。自序。白雄跋。

・・伊那谷の中村伯先のもと白雄門が結集した。

葛の葉のおもて見せけり今朝の霜  翁

霜そのまゝに葛の葉表   伯先

・・

葛の葉は昼を寐る鹿の枕哉?? 白雄

白鷹の葛かいつかむ嵐かな   伯先


*「葛の葉の表見せけり、此句は、一たび嵐雪が翁にそむきし事の直り侍る
時に、幸に書て遣はされ候句也。」

おもしろいのは、早川石牙。

菴に落る椿の音を聞くらす   甲さし出の磯  石牙

太枡事件で甲州を逃亡する以前の出句。同じ「甲さし出の磯」の門連も多く句を寄せている。

里童ぬれありく見ゆ花の寺       甲州台ケ原 台眠
ひかるゝやあるじをしらぬ梅の宿    甲さし出磯 閨歌
雪おれの竹にかくれて梅の花      甲さし出磯 春路
春雨や湯豆腐いまだに捨られず   ??甲州石和 高牛
もの寒きなさけにや降はるの雨     甲州藤田 黒沢
庵木には倦ともあかぬ柳哉       甲州 敲氷
水に落ちからに重き椿かな   ???????? かひの暮地 墐井
菴に落る椿の音の聞くらす   ???????? 甲さし出磯 石牙
松の風きくを子の日のあそび哉  ??  甲さし出磯 百朶
しばらくは梵誦も笠ぬげ花の影  ???? 甲さし出磯 何鳥
夜ざくらや酒うる家の遠あかり   ???? 甲さし出磯 長古
鐘の音も和らかにひるの桜哉   ??????甲さし出磯 如洗
とふ人にまつはる見ゆ藤の花  ?????? 甲州韮崎 巴本


吹いるゝ梅を栞や宇治拾遺   八王子の星布

武蔵野の近いところでは、武蔵村山連、我(吾)野連も熱心。

落栗の籬にいりしひとつ哉   武毛呂  碩布


・・これは、極め付き。

687秋魚:2016/07/10(日) 23:30:08
(無題)
・・多摩川を昔は玉川と表記した。江戸の頃の話ですが。『玉川泝源日記』(山田早苗)天保十三年刊(1842)という幻の本がいま手元にある。なぜ幻かというに、多摩川の源流を求めた記録のもっとも古くかつ実際の日の目をみたのは昭和45年という長く幻の古書とされてきた。先日奥多摩湖から丹波山村へ丹波川沿いにその奥を廻って柳沢峠にでた。その丹波川渓谷の三重川原というのが水源という。三つの流れが一つに交わるところという。・・しばし待てよ。この本はすごい。

・・「武蔵野は山なし」といふ歌六首

武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花の末にかかる白雲  大納言通方(続古今)
いとど猶かすめば遠し山の端はさらでも見えぬ武蔵野の原  源知行(新千載)
武蔵野やしばしやすらへ時鳥おのが入るべき山の端もなし  藤原教実(夫木)
東路の足柄こえて武蔵野の山もへだてぬ月をみるかな   藤原時朝(同)
武蔵野は山の端しらぬ習ひにも富士の高ねは猶ぞ見えける  最信法師(同)
小男鹿の夜半の草臥しあけぬれば帰る山なき武蔵野の原  (定家家隆撰歌合に)

「山も見ゆる」と詠めるを一首
武蔵野もさすが果てある日数にや富士の嶺ならぬ山も見ゆらん  宗久法師(新後拾遺)


・・武蔵野も多摩川を遡れば山の中に入る。加舎白雄は、甲州街道で多摩川にでるあたり、谷保天満宮に寄った形跡がある。

武野天満宮奉納(谷保天満)
むさし野に松梅多きところ哉
宿の梅といはるゝ宿よ松もよき
梅が香や鮒ひつかけし釣の糸
梅をりに舟よぶ多摩の渡かな
梅折に船よぶ多摩のわたり哉


・・石田の渡しで府中から日野にわたる。幕末の頃は、土方歳三の生家があった。


夕風や野川を蝶の越しより
あるが中に野川流るる女郎花
ふたまたになりて霞める野川かな

・・この野川は、国分寺、三鷹、調府を流れる湧水の川か。多摩川にそそぐ。


武蔵野や一寸ほどな鹿の声

・・芭蕉の武蔵野は、あまり歩いていなかったようだ。深川の庵あたりも武蔵野ととらえていたようだから、歩いてはいるが、広きにわたる散策はやっていない。鹿の声をほの聞く武蔵野は想像上のものであってかまわない。延宝3年、芭蕉32歳の時の作。

・・「西行物語」武蔵野の段を思い描いていたか。

「・・さしていづくをこころざすともなければ、月の光に誘はれて、はる/\とむさしの國に分け入るほどに、をばなが露に宿る月、すゑ越す風に玉散りて、こはぎがもとの蟲のねいと心細く、武蔵野の草のゆかりをたづねけむもなつかしく、宿をば月に忘れて、あすの道行きなむと口誦みて行くほどに、道より五六町ばかりさしいりて、きやうをどくじゆする聲しければ、人里はこの末にはるかに隔たりけるとこそ聞きしに、・・」

688秋魚:2016/07/12(火) 22:08:23
(無題)
「・・廿六日(天保十三年九月)、境、原(温泉あり)、河内、麦山、川野、留浦(東は武州多磨郡、国境、御代官の榜示杭たちたり)。(西は甲州都留郡)鴨沢村なり。親川山の九十九折りをのぼるに、紅葉の染たる盛りにて、麗しさ、見上げ見おろしたるひまより玉川(丹波川とも云、この辺は川幅いとせまし)の流れに紅葉の散り浮かめるを―

  もみじばを散らせる風が手作りの錦をさらす玉川の水  早苗

 紅葉の夕映えにいみじきを一枝手折りて、守岡氏がり(?)つどひしつ。去年の丹波川逍遥の楽しきことを友たちに語りて、ほこりたりき。又、こたびはいかで水元に分けいり、ついでに黒川の金山も見まほしく来たけりといへば、あるじは心得つとて、宵より山路をわきまへたる狩人を道しるべに語らひまうけせられけり。」


  多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき

・・万葉集のこの歌の多摩川よりずっと上流のさらす錦は格別です。

「・・翌菊月廿七日の空のどかなり。しるべの狩人は用心に鉄砲たづさへて、火縄ふりたてて、さきに立ちゆく。割子をもたせけれど、一夜たどるべくと思へば、餉のかはりに米を袋に入れてもたせつ。さて、三、四町ばかりゆきて、丹波川の上の方の瀬々細く流れたり。石をつたひ、わたりゆくに、一瀬はいみじく激浪に見渡されて、わたり三間ばかりの所に広さ一尺五寸ばかりなる板一枚、橋にかけわたしたり。これを若人はこともなく渡りけれど、予は老の足元のおぼつかなければ、いかにせんとためらひける。この下の程、四町ばかりゆけば、よき板橋かかりければ廻り給へといへども、いかでこれらを渡らでやはと、しるべのものと従者を力に渡りゆく。半ばばかりに板たわみゆき、揺れうごきて、おそろしう思ひつつ、渡りはてて、いきいでつ。・・それより峡沢山といふ

689秋魚:2016/07/14(木) 21:51:03
(無題)
天保十三年(1842)、山田早苗が玉川の源流をさかのぼった。

・・

笹川繁蔵(ささがわ の しげぞう) 文化7年(1810年)- 弘化4年7月4日(1847年8月14日)

>・・相撲に夢中になるあまり江戸へ出て、千賀ノ浦部屋に入門し岩瀬川を名乗るが1年あまりで廃業。この頃から博打を打つようになり侠客の道に入り、千賀ノ浦部屋の同門で郷里の近い勢力富五郎と共に笹川に帰郷すると一家をおこした[3]。天保13年(1842年)には、笹川須賀山明神の例祭日を利用して、農民救済のために地元の商人宿・十一屋で花会(親分衆のみを客とした賭場)を開く[4]。繁蔵は関東東海地方で名前の知られる大親分に手当たり次第に回状を送り、十一屋の花会には、清水次郎長、国定忠治、大前田英五郎なども駆けつけたと講談『天保水滸伝』では伝えているが、当時次郎長はまだ売り出し前であり、国定忠治も手配書が出て逃亡中であったため、真偽は不明

・・同じ頃、銚子の陣屋から十手を預かる飯岡の大親分・飯岡助五郎と勢力を争う。初め良好だった両者の関係は、笹川一家の勢力が拡大して飯岡一家の縄張と隣接するようになると、どちらにもついていない中間地帯の賭場の寺銭を巡って緊迫し、遂には双方の親分自身が命を狙い狙われるまでになる[6]。天保15年(1844年)8月6日、御用召捕りと称して利根川の水路と陸路の二方面から笹川に侵入してきた飯岡一家と戦い、須賀山明神の境内で飯岡側を一時は敗走させた(大利根河原の決闘)。

・・

国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は、江戸時代後期の侠客である。

>・・忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村(どうどうむら)の親分となり、日光例幣使街道、間宿の境町を拠点とする博徒で英五郎と敵対する島村伊三郎と対峙する。・・天保9年(1838年)には世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され三木文蔵が捕縛され、忠治は文蔵奪還を試みるが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡する。忠治は文蔵に加え子分の神崎友五郎や八寸才助らも処刑され一家は打撃を受けた。

さらに天保12年(1841年)には忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌天保13年に忠治は帰還し主馬を殺害する(この際に忠治は子分に「洋制短銃」をもたせている)。関東取締出役は天保10年に出役の不正を摘発し人員を一新して体制の強化をはかり忠治の捕獲を試みているが、天保13年8月に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害し・・

・・

花の雲句碑

>「観音の甍(いらか)みやりつはなの雲」 清水寺に登る石段のふもとにある芭蕉句碑で、高さ1.62メートル、幅1.36メートルの大きさです。

高崎の俳人西馬(さいば)が西上州の俳人たちとはかり、天保13(1842)年3月28日に清水寺で芭蕉150回忌追福のための百韻興行を催しました。江戸から田川鳳朗や久米逸淵も参加するなど盛大な句会となりました。


・・天保十三年。高崎清水寺の後背地は博徒侠客の跋扈乱舞がすさまじい。


天保壬寅三月二十八日於上毛清水寺興行
一百五十回忌追福正式俳諧百韻

観音の甍みやりつ花の雲
    祖翁

残るかたなき春の日のかけ
   西馬

   碑前手向

はせを忌のひとふしなれや花のかけ
   碩布

めくりあひむかしのけふの花の雲
   逸渕

花に只手を合はせたるはかりなり
   信濃 葛古

けふの我こゝろを啼や呼子鳥
   武蔵 寄三

面影にたつや霞のかれ尾花
   青荷

行春やこゝろを洗ふ椎の露
   上毛 竹煙


・・

690秋魚:2016/07/15(金) 14:12:24
(無題)
・・それより峡沢山といふ高かる山のつづら折りをのぼる程に、木ども更になき芝山にて、所々に清水わき出づるが見渡さる。をちこちなるが次第に流れ合ひて、麓にいたりては峡沢(貝沢)といふ小川になりて、丹波川に会せり。さて二十町ばかりゆきて、峡沢山の一つ家といふあり。立寄るまへに、畑作りたり。いささか平地あり。馬も飼ひたり。そこよりさがしき坂をのぼりて、横端といふ岨道をゆきて、舟越山といふ小峰のたわに至る。・・ここにもいささか畑を作りて、大豆の立枯れたるがみゆ。そこは峰つづきたる絶頂のうち、たわみたるやうに低き所なり。板屋低く作りたるありて、老の夫婦住みたり。丹波山より二里余。立寄りけるに、鉄砲掛けてみゆ。あるじの名を問ひけるに、定吉といひて、年は七十五歳になりぬといへり。茶を乞ひて、割子をとり出して喰ひぬ。おほばが桃をとり置きたりとて、籠にいれたるを給はる。柔かにて、味はひいみじ。いまも枝になりてありと云。

 世の常の味はひならず山人の三千とせもへん桃にぞあるらん  早苗

・・又、この山のあなたに、清吉といふが住めりと云。打越え、さがしき坂をくだりて三重川原に至る。かく分け入りぬるは、幽谷の細流れにて、すさまじき処なり。予が思ひわたりぬる願ひは成りにけれど、嗟我僕痛、何吁かな。岩根は落葉に埋もれ、いばらなどかきわけつつ二町ばかりゆきて、大巌ひとつ細流れをせきたり。さるを、大岩の上へ一丈あまりよぢのぼりて、まず、しるべのものにその谷川を問ひけるに、一の瀬川と云。この上に一の瀬村といふあり。そこの山より出づる谷川なりと云。見るに、浅瀬にて、底もよくみえすく。三、四間ばかりの広さの石川なり。」


 丹波川、一之瀬川、柳沢川がひとつになるあたりが三重川原か?この辺はまったくわからない。絶壁の大峡谷の下のほうに道があるのかもしれない。人家など一つもなかった。左手の丹波川から奥深く迂回して塩山にむかう柳沢川を左手にみるまで、まったく冥府とみえた。川の内側にあるのが鶏冠山(黒川山)といって金が採れた山だ。金鉱採掘の部落も昔はあっただろう。こういうところは殺伐としてキナ臭いものだ。

・・片岡千恵蔵が机竜之介を演じる「大菩薩峠2部」をみた。天誅組で吉野の木津川から伊勢、東海道に流れ、駿河から富士川沿いの身延道で甲州にむかう。幕末文久三年(1863)よりのこと。甲斐の金山の街が舞台だから、あれは大菩薩峠を降ったいまの塩山だろう。「大菩薩峠」がおもしろいのは、時代もさることながら、すべて無明の世の中にある。こういう暗い映画は流行るまいが、いつの世でも無明世間はあまりかわらない。竜之介よくわかる。


「・・その西の方のさがしき山そばだてりし山と山の峡の細き谷坂の岩間をめぐり落つる滝川あり。その広さ五、六尺、狭きところは三、四尺ばかりにみゆ。是を黒川と云。是、黒川山の金山のもとより流れいづる水なり。落ち落ちて、一の瀬川に会せり。その水をむすびつ。磁石すゑて方角をしるしつ。しばし見渡しつつ、そこより五、六十間ばかりを川に添ひてくだりて、山と山の間よりコロモ川(幅五、六尺許り)、三澗より流れいでて、一の瀬川に会せり。これを合はせて三重川原といふならん。ひとつ谷間に流れあへど、出づるところは山をへだてたり。さる水をおのおの尋ねなば、みな山々のいづみの流れあへるなるべし。かの「群源暮叩谷心寒」といへるも思ひ合はせつ。ここをこそ濫觴といふらん。

 尋ね入りみなもとみれば元にしある甲斐の深山の岩清水かな   早苗

また見んことのかたければ、よく見渡しつつ思ふに、既にこの山路に分け入るはじめ峡沢山をのぼる程に、所々にいづみ湧けるが流れくだりて、次第に流れ加はりて、まのあたり麓にいたりて、峡沢といふ三間ばかりの広さの川となりて、末は丹波川に会せり。

691秋魚:2016/07/16(土) 23:48:55
(無題)
・・鄭人(ていじん)、野に薪(たきぎ)する者有り、駭鹿(がいろく)に遇ひ、御して之を撃ち之を斃す。
人の之を見るを恐れ、遽(あわて)て諸(これ)を隍中(こうちゅう)に蔵(かく)し、之を覆ふに蕉(しょう)を以てす。
其の喜びに勝(た)へず、俄(にわか)にして其の所蔵の処を遺(わす)る。
遂に以て夢と為し、塗(みち)に順(したが)ひて其の事を詠ず。
傍人(ぼうじん)に聞ける者有り、其の言を用ひて之を取る。


・・「よしや思へば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうちに、牡鹿の鳴く音は聞きながら」


夕されば小椋(をぐら)の山に臥(ふ)す鹿は今夜(こよひ)は鳴かず寝(い)ねにけらしも(万9-1664)
                     雄略天皇御製

夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

                     舒明天皇御製(あるいは斉明天皇)

この二つの歌はfakeであろう。雄略や舒明や斉明がこんな歌を詠むわけがない。


秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ  天智天皇

・・この歌もfakeであろう。

692秋魚:2016/07/17(日) 01:09:46
(無題)
多摩川の紅葉を見つゝ行きしかば市の瀬村は散りて久しも

・・長塚たかしは明治から大正の歌人。多摩川に沿って青梅、奥多摩まで、市の瀬村というのは存在しない。天保の頃山田早苗が多摩川の源流を求めたが、丹波川が一の瀬川に入るあたり、三重川原を水源とみた。・・多摩川の水源は明治になって、さらに一の瀬川を上り、水干という湧水地が認められた。たかしの歌の市の瀬は一の瀬のことであろう。・・しかしよくぞ訪ねたものだ。紅葉がみごとという。

693秋魚:2016/07/18(月) 19:08:07
(無題)
巻8-1511

崗本天皇御製歌一首

暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐<宿>家良思母
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも

・・この崗本天皇は舒明天皇あるいは斉明天皇。

・・聖徳太子の歌が日本書紀、万葉集にそれぞれ一首みられる。

「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ

(書紀)◇片岡山 奈良県北葛城郡王寺町あたりの丘陵。

巻3-415
上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 [小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古]
上宮の聖徳皇子、竹原井に出遊しし時、龍田山の死りし人を見て悲傷みて作りませる御歌一首。

家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人A怜
家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ

(拾遺集などには次のように短歌の形で載る。
しなてるや片岡山にいひにうゑてふせる旅人あはれ親なし)

・・行き倒れの死者に出会うのは、万葉集では龍田山、それ以外の書紀、拾遺集では片岡山とある。

岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。

・・岡本→片岡が書紀の本線。 片岡、肩岡(入鹿の肩)

倒れ臥したのは、蘇我入鹿。

万葉集の龍田山は桜と紅葉で名高い。

「伊勢物語」では、井筒

風吹けばおきつ白波たつた山 夜半にや君がひとりこゆらん


「古今集」巻五292

うりんゐんの木のかげにたゝずみてよみける

わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり  僧正遍昭

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる 293

もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん  そせい

ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くゝるとは  なりひらの朝臣 294

・・

万葉集巻九では、高橋虫麻呂


春三月諸卿大夫等下難波時歌二首[并短歌]

白雲之 龍田山之 瀧上之 小鞍嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来

白雲の 龍田の山の 瀧の上の 小椋の嶺に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨の 継ぎてし降れば ほつ枝は 散り過ぎにけり 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱ひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで


吾去者 七日<者>不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落

我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし

白雲乃 立田山乎 夕晩尓 打越去者 瀧上之 櫻花者 開有者 落過祁里 含有者 可開継 許知<期>智乃 花之盛尓 雖不見<在> 君之三行者 今西應有

白雲の 龍田の山を 夕暮れに うち越え行けば 瀧の上の 桜の花は 咲きたるは 散り過ぎにけり ふふめるは 咲き継ぎぬべし こちごちの 花の盛りに 見さずとも 君がみ行きは 今にしあるべし



暇有者 魚津柴比渡 向峯之 櫻花毛 折末思物緒

暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを



・・龍田山越え、抒情歌がきいている

694秋魚:2016/07/21(木) 01:59:30
(無題)
今 わが悲しみはきわまり、比類なく
わたしをみだす。わたしはじっと見る、石の内部の
凝固するのを。
きびしいわたしゆえ まだ一つのことを知っている、
おまえが大きくなったことを―
……大きくなったことを。
あまりにも大きな悲しみとなって
わたしの心の枠を すっかり
のり越えてしまったことを。
今 おまえはわたしの胎内(おなか)をつきぬけて坐っている。
今となっては もう わたしはおまえを
生むことはできません。
?????????????????????????????????? リルケ「ピエタ」

695秋魚:2016/07/24(日) 00:57:38
(無題)
・・武蔵野が佳境に入った。明日は自転車で入間川を下り川越まで行ってみよう。

「母なむ藤原なりける」という武蔵のみよし野の里を訪ねたい。

 伊勢物語十段「・・むかし、おとこ、むさしのくにまでまどひありきけり。さて、そのくにゝある女をよばひけり。ちゝはこと人にあはせむといひけるを、はゝなむあてなる人に心つけたりける。ちゝはなお人にて、はゝなむふぢはらなりける。さてなむあてなる人にとおもひける。このむこがねによみてをこせたりける。すむところなむ、いるまのこほり、みよしのゝさとなりける。
 みよしのゝたのむのかりもひたぶるにきみがゝたにぞよるとなくなる
むこがねかへし、
 わが方によるとなくなるみよし野ゝたのむのかりをいつかわすれむ
となむ。人のくにゝても、猶かゝる事なむ、やまざりける。」

・・みよし野は何処か?諸説ある。だいたい昔男の業平はこの武蔵野に実際やってきたのだろうか。入間の郡というから、川越から入間川に沿ってのあたりだろう。一つやはり川越だが、的場というのを見てみたい。初雁橋を渡って牛塚古墳があるあたり、霞ヶ関というのだろうか、三芳野塚があるという。この辺的場古墳群という。

・・母なむ藤原という。


・・むさし野の心もある。

四一
昔、女はらからふたりありけり。ひとりはいやしきおとこのまづしき、ひとりはあてなるおとこもたりけり。いやしきおとこもたる、しはすのつごもりに、うへのきぬをあらひてゝづからはりけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、うへのきぬのかたをはりやりてけり。せむかたもなくて、たゞなきになきけり。これをかのあてなるおとこきゝて、いと心ぐるしかりければ、いときよらなるろうさうのうへのきぬを、見いでゝやるとて、
 むらさきのいろこき時はめもはるにのなるくさ木ぞわかれざりける
むさしのゝ心なるべし


・・武蔵野といえば、むらさき。

「古今集」読人しらず

紫のひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る


・・「紫のゆかり」で源氏物語につながる。

696秋魚:2016/07/24(日) 21:10:17
(無題)
・・ポケモンGoが大ヒットとか。操作主体が移動して現実を切り開くとか。・・所詮ゲームであろう。自転車のサイクリングトリップアートには及ぶまい。

ひさしぶりに小曽木街道から仏子狭山の豊水橋から入間川サイクリング道路に入って川越まで走った。最初の青梅坂のなんとも爽快なこと。往きはよいが帰路は登りがきつい。ともかくこれしきのアップダウンは苦にならない。黒沢川と岩倉温泉のある小曽木街道は何度走っても奥ゆかしい。さて例によって成木川にそそり立つ岩井堂。ここの巨石は謎だ。宗祇や芭蕉がここまで足を運んでいたなら頭が下がる。川越なら小江戸と呼ばれ宗祇心敬太田道真の河越千句がある。また今日は喜多院という江戸天海ゆかりの地に行く。

・・豊水橋までは嬉しくないが、入間川サイクリングロードの川沿いの風景は絶賛したい。入間川は古い川だ。云い忘れたが聖護院門跡の道興はここらを歩いている。入間の郡みよし野というのは昔男の業平が来たところ。一説には川越の的場という。これから訪ねるところだ。・・サイクリングロードを進むと、川べりで多くの人がカメラをかまえている。何だろうと思って土手を降りて近くの人に尋ねる。・・ササゴイという鳥がオイカワという魚を捕らえて呑み込むのをシャッターチャンスを待っているとか。オイカワは大きな魚でそこが興あるという。そういえば川の向こう縁に一羽いる。ただし先ほど一匹捕らえて呑み込んだばかりだから当分捕獲はないだろうと。で、いろいろ話してくれた人は、大変立派なカメラでその時の画像を見せてくれた。ササゴイとはサギの一種で笹色をしているがあまり大きくない。オイカワは外来種というが小魚ではない。・・しかしカメラマンが多い。

・・川に沿った敷地で公園、運動場、野菜つくりの畑があるのは多摩川もそうだが、ここのはより趣が深い。時代を超えたなつかしみがある。無人の野菜売り場がいくつかある。なかに御自由にお持ちくださいというのが。みるとゴーヤです。一本くらいなら荷物になるまい。いただくことにした。

・・いくつか橋があるが、めざすのは初雁橋。ここを折れて東京国際大の敷地近く牛塚古墳があるはず。駅は的場、霞ヶ関。法城寺というお寺の近くが三芳野塚。このあたり古墳がいっぱいあったが、都市化の波で史跡は原型をとどめなくなった。みよしの神社にそう案内書があった。入り組んだ地形で、何度も人に聞いてやっとそれらしき牛塚古墳をみつけた。・・頭の中に地図をつくっているうちは道に迷わない。錯誤があって自前の地図を白紙にしてしまうと、右も左もわからなくなる。牛塚古墳とみよしの神社をみつけて初雁橋にもどり、川越市街に進むことにした。業平がここに来たのはフィクションとしても川越というのは納得できる。

・・初雁の池などというのもあったらしい。入間川はよく洪水で氾濫する川で有名だが、このあたりなら海のごときか。

・・初雁橋から川越市街までは一直線。未知の道。以前大宮を訪ねた時は、入間川沿いをさらに下り荒川に合流するまで自転車を走らせたが、これは大変な迂回になった。初雁橋から右に折れて川越市街に出てさらに16号に出るのが本筋。ただし川越の駅がいくつかあり駅周辺は混乱する。今回は喜多院までこの道を真直ぐでよい。川越は何回か訪れたが、ここに来て喜多院を尋ねないのは片手落ちといわれたものだ。おしゃれな街で歩いているだけでも楽しめそう。・・喜多院周辺は成田山東照宮とかいくつか寺社がかたまってある。どこをどう歩いたものか。・・春日の局とか天海とかゆかりというが。

・・五百羅漢像の近くに芭蕉句碑を見つけた。・・「名月や池をめぐりて夜もすがら」

・・蕎麦屋で休みながら、大仲居の新井家にある芭蕉句碑を訪ねることにした。店を出る時に大仲居の氷川神社にゆく道を尋ねたが、大仲居すらよくわからないようだった。大雑把な地図をもっていたが、結局、それを頼りに道を直進した。この新井家の訪問記、実は、難航したがとても笑えるものになった。16号に一度出る必要がある。夏の盛りで、道を尋ねる人がいない。ホームセンターの駐車場で係員の人に尋ねた。よくわからず、来る人来る人に聞いてまわってくれて、三人寄れば文殊の知恵みたいな感じになり、ともかく16号を横断してまっすぐ田舎道を進んで其の先でまた人に聞くというようなことになった。川越は広いという。・・実際、16号は殺伐として横断の場所もあまりみつけづらい。田園が開けていて、こんな田舎道でほんとに良いのか。・・たまらず通りにあったお米屋さんに入った。客でもないのに悪いと思ったが、仕様も無い。奥からご主人が出てきて、このあたりが大仲居だという。で、新井家というのがあるはず。すこし行くと山田うどんがあってそこを左折直進して最初の交差点あたり角の家という。氷川神社も近く。・・これは運がいい。で、このあとがお笑いになった。実際、いわれた通りいってみると、新井家というのがあって、どうもこの家お留守の様。訪問をあきらめて氷川神社にむかった。一軒いかにも旧家といった家があり、ここかもと門を入った。表札がなかった。犬に吠えられ、どうも新井家ではなさそう。それで、なおぐるぐるまわってたまたま新井の表札のある家の前にでた。ここはご家族でバーベキュウ。すみません、新井様のお宅でしょうか?芭蕉の句碑を探しています。と、我家ではありません。もう一軒の新井家かもしれませんと。・・そうして氷川神社近くの表札のない家の前まできた。ここも庭をつっきって玄関の呼び鈴を押した。庭の奥に石碑がみえる。・・運よくご主人が在宅。ここが探し回った新井家だとわかった。句碑の写真を撮らせてください。・・十年に一人訪ねる人があればいいと、訪問ノートもある。今年はわたしで二人目。これからどんどん増えるはず。大事に保存管理をお願いした。

697秋魚:2016/07/25(月) 20:09:18
(無題)
・・身体がバラバラに解体したようだ。骨組みの活性、筋肉の張り、呼吸器のサイクル活動、細胞の活性、血液循環の促進、すべて身を粉にして反射運動神経のみ奮ってある。水がこんなに美味であるとは知らなかった。


>・・1884年(明治17年)、岡倉天心とフェノロサによって1200年の眠りから覚め法隆寺・夢殿の扉が開かれた時、白衣に包まれた秘仏と一巻の織物が発見された。その秘仏が救世観音。
その傍らから発見された一巻の織物が世界織染史上に燦然と輝く四天王獅猟文錦。

698秋魚:2016/07/29(金) 02:49:22
(無題)
>・・悉く荒夫琉(あらぶる)蝦夷(えみし)等を言向け、また山河の荒ぶる?等を平和して還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて御粮(みかりて)を食(は)む處に、其の坂の?、白き鹿と化りて來て立ちき。 爾くして即ち其の咋い遺せる蒜(ひる)の片端を以ちて待ち打てば、其の目に中りて乃ち打ち殺しき。 故、其の坂に登り立ちて三たび歎きて詔りて云いしく、「阿(あ)豆(づ)麻(ま)波(は)夜(や)=吾妻はや【阿より下の五字は音を以ちてす】」。 故、其の國を號けて阿豆麻(あづま)と謂う。

・・あづま(東国)の場所はどこか。古事記では足柄の坂本という。白い鹿(土地の神)を偶々噛んでいたヒルで打ち殺してしまった。・・書紀ではここが碓氷峠。ここより東南の国が弟橘媛をしのんだ吾妻(あづま)の国になる。白い鹿に出会ったのは伊那谷を入って阿智村の神坂峠に伝説がある。

・・阿智の昼神温泉に伝わる話は、『大昔の事です。日本武尊がご東征の帰り途、伊那谷を通って園原の神坂峠へさしかかったとき、山と山に閉ざされて空もせまく、雲が幾重にも包んで、越す方法も知れませんでした。さすがの尊もしばらく手を組んで思案にくれていましたが、その時、悪事をなさる神が尊を苦しめようとして白鹿に化けて尊の前に立ちふさがったのです。尊は不思議に思いながら、口に噛んでいた蒜を鹿に投げつけました。それがちょうど鹿の目に当たって、鹿は死んでしまいました。ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。これ以来、神坂越えには蒜を噛んで通ると妖気に打たれる事がないと言われるようになりました。このことから「蒜噛」が、現在の「昼神」の語源になったという説があります。』

・・ところがたちまち濃霧が巻き起こって、一寸先も見えなくなった時、一匹の白狗が現れて道に迷う尊を里へ導いてくれたのです。

この白狗がタケルを窮地から導く伝承は、武蔵御嶽神社にも伝わっている。狗ではなく日本狼だが。

>・・即ち其の國より甲斐に越え出でて、酒折の宮に坐しましし時に歌いて曰く、

 邇(に)比(ひ)婆(ば)理(り)
 都(つ)久(く)波(ば)袁(を)須(す)疑(ぎ)弖(て)
 伊(い)久(く)用(よ)加(か)泥(ね)都(つ)流(る)

 新治
 筑波を過ぎて
 幾夜か寝つる

 爾くして、其の御火燒(みひたき)の老人(おきな)御歌に續きて以って歌いて曰く、

 迦(か)賀(が)那(な)倍(べ)弖(て)
 用(よ)邇(に)波(は)許(こ)許(こ)能(の)用(よ)
 比(ひ)邇(に)波(は)登(と)袁(お)加(か)袁(を)

 日々並べて
 夜には九夜
 日には十日を

 是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の國造を給うなり。

・・甲斐の酒折の宮は記紀とも一致。筑波から酒折まで九夜十日を数える。これは物部の十種(ひふみ)の道であろう。


人恋し灯ともしころをさくらちる    白雄

699秋魚:2016/08/03(水) 00:31:15
(無題)
・・地元の納涼祭の設営にかり出された。春の祭礼は不幸があって参加できず、夏祭りは是非参加したかった。自治会の役員になったのはハメられた気がしないでもないが、それはそういう運だと思う。・・祭りの設営というのはけっこうな力仕事でどうなることかと思ったが、遊び気分で参加。・・神社の境内にテントをいくつか組立てて、午後からは出店で焼ソバをつくる。奥さんたちが仕込んだものを理事の素人おじさんたちが鉄板で焼き上げる。知らないままに焼ソバ係になっていた。

・・自転車に乗って身体の運動は万全と思っていたが、脚力と呼吸器系の運動それに反射神経はきたえられるが、両腕の筋肉や足腰の筋肉もほとんどきたえていないのがわかった。特に腕の筋力はめだって衰えていた。弱音を吐いてはいられない。年いっても現役でやってる人はさすが活力も旺盛。完全に萎えた老人になるのはまだまだ早い。若いときのイメージで体を動かせたが、その分後になってひどい筋肉痛が残った。・・あの頑丈そうなテントなどいくつもよく組立てたものだ。力仕事はまだいい。焼ソバを二つのグループで800丁ほどつくる。気が遠くなりそうだったが、乗りかかった舟でいった。隣のグループは半分プロっぽいのがいて、味見くらべをしても、むこうが美味いというのを何度も聞いた。キャベツの焼が足りないとか、奥さん方のクレームも多い。・・で途中ソースの量など何度も修整をいれてなんとか夕方前までに800ほど焼き上げた。以前焼ソバ係が熱中症で倒れた人もいたとか、ともかくみな素人でバカ話をしながら、おもしろいものだった。終わったときは体全体に焼ソバの匂いが染み付いているほど。

・・夕方からの受付販売は奥さん方の仕事。お客さんがぽつぽつやって来て6時頃には若い子供も多く特に女の子は浴衣すがたが新鮮にみえる。この地域意外と子供が多いのがうれしかった。夏祭りだが、盆踊りはやらない。・・一度家で休んでまた出向こうとしたら最近同じマンションに越してきたイギリス人にばったり会った。運動をしてビールを買いに出るところという。地元の祭りだというので、ちょっと誘ってみた。いってみると神楽をやっていて白い犬の仮面をつけた舞があり、あれはgoodluckを意味するのか?など聞かれた。よく知らないが祭りではbadluckは無いでしょう。・・あの神楽、御嶽神社に伝わるタケルを導いた白い犬のテーマでしょう。

・・この外人さん。何でも小説家で、もう数冊本を出しているとか。電子ブックもあります。タイトルを尋ねたら、abandoned(孤児)という、中国の一人っ子政策を問題にした本が代表作という。詩も読むそうだ。

・・おみやげでもらった自作の焼ソバを食べてみた。信じられないことに、その美味なこと、とても美味い。

700秋魚:2016/08/06(土) 00:20:08
(無題)
・・暑くなった。霞川は昔立川活断層によって霞湖という湖を形成していたという。藤橋という閑静な住宅地から北に抜けて霞川をよぎる辺りで湖床の段差がある。南西の湿地帯が古霞湖であったという。この活断層地震は5千年周期でマギニチュウド7以上のが起こるという。そろそろ来るかもしれない。

・・自転車で霞川サイクリングロードを活断層のみれる所まで走ってみた。もっと上の岩倉温泉郷には、ヤマトタケルが傷を癒した岩陰はこの立川活断層の跡がみれる。東青梅から成木街道にはいり、霞川にぶつかるが今回も上流をのぼり水源を求めた。青梅丘陵の下に沿ってずっといくともう何やら分からぬ湿地帯になってこれより先は進めない。・・後で調べたら根ケ布の丁寧寺の裏の池が霞川水源とあり、これは支流のものか。日を改めて丁寧寺を訪ねてみよう。

・・霞川しょぼい川だが魚も多く水鳥もいる古い川だ。南東の武蔵野台地、これを割って立川活断層、入間飯能を隔てるのが狭山丘陵加治丘陵ずっと西側の青梅には霞丘陵がある。


 武蔵のはらに鶴遊ぶなり   井月

   *

・・「アルンハイムの地所」というマグリットの絵は三つのバージョンがある。
以前は気に留めていなかったが、窓辺に卵がありその向こうに山の影がある。がそれは巨大な鳥の影だ。山を動かせて太陽を見えるようにするとかいうが、38年→48年→62年の変容で最後のものは繊細な三日月がみえる。これは日食なのかも。

701秋魚:2016/08/07(日) 22:50:02
(無題)
・・今日は多摩川一万人清掃の日。みんなで川の掃除が出来るというので早起きをした。市と自治体の主催で一万人というからにはずっと下流の方から上流の方までの企画なのだろうか?とりあえず我が地区の分担だけでよい。川原だけで川の中はやらなくてよいみたいな注意があったが聞かなかったことにして川瀬の手の届くところはゴミを拾った。飛び石で足場をつくってバランスがあやういのもやってみた。浅瀬の水の中のゴミは見苦しいこと限りない。・・重量上げの女子選手が奇跡的に重いバーベル上げに成功してる。バランスは限界の奇跡。川の水流の抵抗を感じながらゴミを拾うのは楽しい。人が多い。

・・先日から気になった霞川の水源がある天寧寺に訪ねた。根ケ布といって霞丘陵の麓、塩船観音の裏手で由緒ある曹洞宗の寺だ。霞川から離れてどうしてそこが水源か。実際寺の近くに行ってみると、ちょろちょろと透明な水が流れている。ずっと辿っていゆくと池というより湧水のような湿地にでる。ここか?

「・・寺ノ背ニ霞ケ池在リ。蛇潜幾年歟、不知。女ト化テ面前ニ来ル。師云、何レヨリ来ルヤ。答曰、某ハ非人也。大慈大悲ヲ垂レテ我業障ヲ解脱セシメ玉ヘト請。師云、正身ヲ現ジ来レ、為メニ抜苦ノ法要ヲ説与セント。女人頭ヲ垂レテ去ル。須叟ニシテ大蛇ノ形ヲ現ジ、池辺ノ木ニ首ヲ横リ、法堂ノ戸牅ニ揚グ。浩水湧出シテ恰モ江河ノ如シ。・・」

・・天寧寺縁起(天保十三年)に霞川の水源は説かれてある。

山田早苗『玉川泝源日記』これ一冊で江戸後期の多摩川沿岸の様子がわかる。

 結ぶ実のかはらぬ色の名も世々に青梅の村の梅のひともと
              正三位大納言日野資矩

・・これは金剛寺の将門ゆかりの梅を詠んだもの。日野資枝、資矩はどうあっても一度は青梅を訪れているとみる。

玉川の南にわたり駒木野、長淵を歩く。今でも隣町の名前だ。玉泉寺という臨済の古刹はその存在すらも知らなかった。西分村宗徳寺、千ケ瀬宗建寺、畑中地蔵院、青梅延命寺、常保寺みな玉泉寺の末寺という。

今日は、暑い日和の中、この玉泉寺を訪ねた。

702秋魚:2016/08/13(土) 21:36:20
(無題)
・・盆休みに突入か。飯能の多峯主山にハイキング。多摩川万年橋を渡り青梅坂から小曽木街道はいつものコース。成木川入間川を渡り飯能郷土館に自転車を留めた。小島喜八郎という飯能育ちの画家の展示があった。街の風景画スケッチのほか草と題されたハイパーレアリズムの作品など。こんな作家もいたんだ。ぽつりぽつりと記憶に蘇る。・・すぐ隣の市民会館の駐輪場に自転車留めてここから歩いて能仁寺天覧山から多峯主山に向った。いつか夕立のある日に天覧山まで登った。常盤御前が歩いたという見返り坂は何としても歩いてみたい。義経の母常盤が飯能の多峯主からあまりの景色の良さに振り返り振り返り上ったとされる坂。能仁寺の裏手から天覧山に登りその裏手の道をゆくと飯能笹という特別種の草原と見返り坂になる。天覧山は197m多峯主山は271m。あまり高い山ではない。それでも絶好のハイキングコースとみえ休日に歩く人は多い。途中で道を尋ねた人は葛飾の柴又から来たという。あちらの方は山がないから。ほんとに山がない人は山が恋しいのかも。・・見返り坂は杉木立の景色でこれは青梅の御岳山と同じだがたしかに景色はいい。道はよく整備されている。常盤はこの坂を登って多峯主から高麗峠に向ったのであろう。で山中賊に襲われ落命したとか。あとで郷土館で尋ねたらあくまで伝説だとのこと。

・・多峯主の頂上は見晴らしがよい。霞がかかってなければ富士山が見える。

・・郷土館から徒歩ハイキングに切り替えたのは、正解。以前は自転車一本の多峯主登山を思案していたくらい。御岳山のような舗装された参道がないから、これは無理。体力を目一杯使って眺望の利く山登りは忘れた頃にやるとよい。

・・下山でおもしろいのは、すこし下った雨乞の池。どんな旱でもけして涸れることがないという。かなりの高所にあるまったくの池。湧き水があるという。水草とか色のある魚とかミズスマシとかいていかにも古池。十四、五mの幅でなんなく一周できる。月をみながら夜もすがらという風だが、もすこし里に近くないと。

・・天寧寺は霞川水源の池に大蛇が潜むという。ここの雨乞の池にも何か魔物が棲んでいそう。常盤もここを通ったはずだ。水の中を覗き込んで水面に映る自分の顔を見ることもあったかもしれない。こんなところまでよく来たものだと。

・・常盤の墓と伝わる場所もあるというが、探しあぐねて下山。西の端にある八幡神社など訪ねてさらに吾妻峡へというコースをとった。ここは誰も歩いていない。・・道はしっかりしてる。・・吾妻峡というのは入間川の川原にまで降りてゆく。名前がいいので興味をもったが、ここは次回のために割愛。

・・郷土館にもどって常盤御前と岩井堂観音の情報を探った。

703秋魚:2016/08/20(土) 01:00:57
(無題)
・・くろす川といへる川に、人の鵜つかひ侍るを見て、【入間市黒須】

岩がねに移ろふ水のくろす川、鵜のゐる影や、名に流れけむ

故郷の事など思ひ出で侍りて、暁まで月に向ひて、

吾郷萬里隔音容一別同遊夢不逢
客裡断陽何時是西山月落暁楼鐘


・・青梅−入間−狭山を流れる霞川。昔は黒須川と呼ぶ。河口付近は今でも黒須の地名が残る。聖護院門跡の道興「廻国雑記」に記述あり。

704秋魚:2016/08/25(木) 21:55:20
(無題)
?大宮氷川神社  北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒

?中氷川神社(所沢) 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒

・・埼玉県所沢市山口にある、氷川信仰の神社である。旧入間郡と多摩郡92村の総鎮守で旧県社。

?奥氷川神社  北緯35度48分28秒 東経139度05分49秒

・・東京都西多摩郡奥多摩町にある神社。

氷川三本杉:根元近くから三本に分岐している珍しい杉で、鎌倉時代に植えられたという伝説がある神木。

705秋魚:2016/08/26(金) 21:13:51
(無題)
筑波山   北緯36度13分31秒 東経140度06分24秒

富士山  北緯35度21分38秒 東経138度43分39秒

中氷川神社 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒

大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒

中氷川神社(三ケ島) 北緯35度47分22秒 東経139度23分52秒

706秋魚:2016/08/28(日) 23:50:55
(無題)
・・旧青梅街道から成木街道にはいるところに三河屋という割烹料理屋がある。懐石を出すところで浮浪人の身には閾が高すぎた。今日は縁があってここの鰻料理を馳走にあずかった。自転車で行くつもりが雨降りだったので徒歩にきりかえた。青梅−東青梅の一駅を電車に乗るのが筋に思えたが、なんのことはない、青梅駅からの線路沿いの道は散歩道としてほんとにうれしい道だ。道沿いにある西分神社はすこし山をのぼるが以前訪ねたことがある。ほかに禅寺なども多い。何より古い民家のある路地など歩くだけでうれしい。

・・この成木街道をすこし上って霞川の水源を探したのはつい先日。天寧寺というのは曹洞宗の寺だ。ここが水源というのだが、もうすこし先の虎柏神社というのもとても古い由緒深い社だ。


>ほつまうちつすうたのあや     ホツマ打ち 連歌の文


・・のにかたあふみ              野に片鐙

 トラカシハ ヒロヒカンカエ  とらかしは ひろひかんかえ    トラガシハ  拾ひ考え

 アフミサシ イマタテマツル  あふみさし いまたてまつる    鐙 挿し  今 奉る

 タマカサリ ホメテタマワル  たまかさり ほめてたまわる    尊飾り  褒めて賜わる

 ムラノナモ タマカワアフミ  むらのなも たまかわあふみ    村の名も  タマカワアフミ      (多摩川青梅)

 ミサシクニ サカムノクニト  みさしくに さかむのくにと    身差し国   相模の国と
                                  (武蔵国)

あふみさし 鐙 挿し → 青梅 さし → みさし 身差し → 武蔵

・・トラガシワというのは郷人の名らしい。鐙が青梅とは、ヤマトタケがわが身を差して、身差し(武蔵)という。


・・武蔵の国の発祥のメモリアルは青梅ということになる。



むさしあぶみ [4] 【武蔵▽鐙▼】
? 昔,武蔵国で作られた鐙。鐙に鉄板が連なり,その先に刺鉄(さすが)を付けたもの。和歌では,「さすが」に,また鐙は踏むところから「ふみ」にかけて用いる。 「 −さすがにかけて頼むには/伊勢 13」
? サトイモ科の多年草。関東以西の林内に生える。根葉は二個つき,三出複葉。五月,花茎を立てて棍棒状の肉穂花序をつける。花序は黒の縦縞(たてじま)がある鐙状の仏炎苞(ぶつえんほう)に包まれる。

707秋魚:2016/09/02(金) 12:11:20
(無題)
・・かねてより気になった狭山湖周辺に自転車を走らせた。メインの目標は所沢にある中氷川神社。筑波−富士ラインに乗りほぼ中間の距離に位置すると予測した。事前の下調べでは所沢の山口にあるという地図をもってでかけたが、これは実は失敗。所沢には中氷川神社というのは実は二つある。もうひとつ狭山湖北面の三ケ島にある神社は調べなしで出発。結局狭山湖に着いてから人に聞いたり案内板をみたりで混乱し、三ケ島と山口をいったりきたり最後は三ケ島に近いところから引き返して山口の神社に訪ねた。

筑波山   北緯36度13分31秒 東経140度06分24秒
富士山  北緯35度21分38秒 東経138度43分39秒
中氷川神社 北緯35度46分46秒 東経139度25分48秒
大宮氷川神社 北緯35度55分00.30秒 東経139度37分47.04秒
中氷川神社(三ケ島) 北緯35度47分22秒 東経139度23分52秒

・・青梅街道瑞穂の入り口で新青梅街道と旧青梅街道にわかれる。旧青梅の道をとった。するとすぐに岩蔵街道の入り口がある。こんなところにあるのか。この辺りが立川断層の筋かも。旧青梅街道をゆくとすぐ左手はこんもりした狭山丘陵。はじめに丘の上に平和慰霊塔というのがあり寄ってみた。戦争に殉じた死者を慰霊する塔があって、ほかに広島の原爆で生き残った植物など植わっている。被爆クスノキとか被爆アオギリとか。アンネフランクの薔薇というのは、やはりアンネの死を慰霊するものらしい。どうしてここに?先の戦争も何となく風化しそうな世相でここにも訪ねる人はあまりいない。長い石段を登らねばならない。

・・丘陵に沿ってすこし進むと六道山公園にあがる標識がある。狭山丘陵の上に開けた眺めのよい公園があると聞いていた。

・・阿豆佐味神社というのもこの近く。丘陵の麓で、筑波−富士ラインに乗っている。

東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷1008

北緯35度46分0.52秒 東経139度21分53.65秒

主祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)素戔嗚命(すさのおのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと)

創建は892年とあるが、出雲系の神が祀られているのは、やはりヤマトタケが立ち寄ったところか。

「あずさみ」というのは梓弓なら、ここから進路を変更する地点かもしれない。・・北緯35度46分0.52秒

・・山の上の見晴らしでわかったが、雲がなければ富士もよく見える。多摩方面の山並みは鍋のふたの形の大岳山がよく目立つ。

大岳山 北緯35度45分54秒 東経139度07分49秒

・・武蔵村山のかたくりの湯から狭山湖にまわる道がある。いつもはこの温泉とすぐ隣の郷土館まで来ていた。この森の中の道を突き抜けると狭山湖、多摩湖に出る。この二つの湖、人造湖で東京都の水瓶ということらしい。いくらかの湧水とおおかたは多摩川の水を引いているというから驚きだ。多摩川というのは日頃なんて水量の少ない川と感じていたが、玉川上水とか狭山湖多摩湖とかいくつも水を分け引いていれば無理もない。・・にしてもこの狭山湖(山口貯水場)はみごとだ。

・・狭山湖に出るまで葛の花咲く道でサイクリングロードとしてはとてもよい。途中多摩湖に向う道もあったが左に折れる。山口の中氷川に行くなら右の道が正解。まちがえて狭山湖に向った。まわりにこんもり丘陵の森に囲まれてよくこんなところに人造の湖をつくったものだ。案内板があって、岸辺に沿った自転車道を渡ると森があってここがトトロの森ということらしい。所沢−川越の境から西の狭山湖畔にかけてがトトロの森のモデルのようだ。この森の外れに早稲田大学の所沢キャンパスがありそのすぐ隣あたりに中氷川神社がある。このまま人に聞かずにこの中氷川をめざした方がよかったか。途中人にたずねて山口へと大きく迂回して引き返すことになった。

・・あとで調べてわかったが、この三ケ島の中氷川は筑波−富士ラインにほぼ正確にのる。距離もちょうど中間点。三ケ島葭子という与謝野晶子門下の歌人は、父がこの神社の神官で母はあきるの市の岩走神社の社家の長女という。母の家元の縁であきるのに住まいし小学校の教員をしていたとも。歌人は明星からあららぎに移りいろいろ歌壇のスキャンダルに巻き込まれたようだ。・・おもしろいのは父が再婚した異母の子に俳優の左卜全がいる。葭子の弟になる。


春の雨 けぶる欅の梢より をりをり露の かがやきて落つ

・・三ケ島の中氷川には、三ケ島葭子の歌碑がある。これは写実風味のアララギですな。

*崇神天皇御代(紀元前97年〜紀元前29年)に大宮氷川神社より勧進され、日本武尊が東征の折に立ち寄って大己貴命と少彦名命の両神を祀った、と伝えられる。

・・ヤマトタケが立ち寄ったというのは、正解でしょう。
   

708秋魚:2016/09/03(土) 22:19:16
(無題)
震旦國の志閑禪師は臨濟下の尊宿なり。臨濟ちなみに師のきたるをみて、とりとどむるに、師いはく、領也。
臨濟はなちていはく、旦放儞一頓。
これより臨濟の子となれり。
臨濟をはなれて末山にいたるに、末山とふ、近離甚處。
師いはく、路口。
末山いはく、なんぢなんぞ蓋却しきたらざる。
師無語。すなはち禮拜して師資の禮をまうく。
師、かへりて末山にとふ、いかならんかこれ末山。
末山いはく、不露頂。
師いはく、いかならんかこれ山中人。
末山いはく、非男女等相。
師いはく、なんぢなんぞ變ぜざる。
末山いはく、これ野狐精にあらず、なにをか變ぜん。
師、禮拜す。
つひに發心して園頭をつとむること始終三年なり。のちに出世せりし時、衆にしめしていはく、われ臨濟爺爺のところにして半杓を得しき、末山孃孃のところにして半杓を得しき。ともに一杓につくりて喫しおはりて、直至如今飽餉餉なり。
いまこの道をききて、昔日のあとを慕古するに、末山は高安大愚の神足なり、命脈ちからありて志閑の孃となる。臨濟は黄檗運師の嫡嗣なり、功夫ちからありて志閑の爺となる。爺とはちちといふなり、孃とは母といふなり。志閑禪師の末山尼了然を禮拜求法する、志氣の勝躅なり、晩學の慣節なり。撃關破節といふべし。

・・紀貫之の生年は866年とも872年とも。貞観の陸奥地震(869)の前後だが、唐の臨済義玄(慧照禅師)(?−867)の入れ替わりの生誕になる。

「正法眼蔵」礼拝得髄に禅師一喝のエピソードがある。貫之はこれを知っていたか?

709秋魚:2016/09/06(火) 00:48:48
(無題)
・・ふたたび成木街道から霞川の水源へ。風の子太陽の子広場の山の中に石動神社というめずらしい社を訪ねた。石動といっていするぎと読む。この名の神社は東京都にはここのみ。石川県の能登鹿島にあるのが本社という。

石動彦神:能登国石動山の神、かつて石動山に空から流星が落ちて石となり、この地に留まったという伝説がある

・・流星、隕石落下か。

710秋魚:2016/09/16(金) 17:23:19
(無題)
・・数日前に白萩の咲き初めるのをみた。なんとも清冽ではじめてのようだった。あきるのにある大悲願寺には萩のすばらしいのがある。伊達政宗が訪ねてその白萩に深くおどろき、後株をわけてくれるよう懇願の手紙を書いたという。伊達政宗というのは仙台藩の独眼竜正宗ですね。その白萩をまさに旬の時訪れて見てみたい。そう思っていたが家の近くでもう散ろうとしているのをみて、今日あわててあきるのの大悲願寺まで行ってみることにした。

・・五日市にゆく秋川街道。はじめて走った時はもう二度と走るまいと思ったほど嫌な道だった。登りスロープが長々とつづき、道幅もさほどないうえダンプなど荒々しい車が次から次へとくる。後ろからくる車をいつも気にして走る。峠の頂上までゆけばそれでも気が楽だ。・・あれから修羅場をいくつも走った。そのためか今回はゆとりもある。やばいところは全部停止すればよい。アップのスロープはあまりこたえない。足着きというのはほんとはやらない方がいい。この街道がこわくなくなれば五日市、あきるのは近くなる。天気が悪かったが昼以降は微雨であろう。

・・五日市の駅にでるまえに細い道を左折し進んだ。以前岩走神社という変わった名前の神社を訪ねた。その近くに大悲願寺もあるはず。五日市街道にでてやや進み秋川にかかる橋の手前で大きく左折迂回する道にはいる。・・ここらだが、通りがかりの人に聞いてみる。その角を曲がって坂をのぼり踏切をこえてまっすぐゆくと左手がお寺です。萩ですか?・・ネットなどの情報で中旬からひと月くらいが見ごろとかある。こういうのは一週間は早めた方がよい。薬王院のつつじなど旬と思って訪ねたらたいてい盛りをすぎている。早すぎるくらいが絶対見ごろだ。・・五日市線の踏切をわたり眺めのよい里道をゆく。しっとり落ち着いたお寺です。

・・あきるの市横沢丘陵という。この丘陵の麓に岩走神社があるはず。伊奈の石工が住んだ村と聞いていた。大悲願寺は真言宗豊山派。寺のたたずまいはしっとり落ち着いているが仁王門の天井絵など密教独得の緻密で華美な彩色がほどこされている。観音堂にある木造阿弥陀如来三尊像など平安末期から鎌倉にかけての古いものだ。・・伊達政宗がよくここに訪れるのは下の岩走神社となにか関係があるのかと深読みしたが、読み外れ。後々続く伊達藩の騒ぎと関係するようだ。

・・萩というもの今まで注意してみてなかったが、咲きはじめのものは趣が深い。花ひとつひとつの息吹きが感じられる。全体は細かな花の群舞でそれはそれで見ごたえがあるものらしい。咲くそばからたちまちのうちに散ってゆく。こういう騒がしい咲き散りは自分はあまり好きでない。雨が降ると靄のごとき花群にみえる。この寺の萩はほぼ白萩。黄や紫のものもあるらしいが。

711秋魚:2016/09/23(金) 21:53:50
(無題)
・・このところ国道411柳沢峠が話題になる。春に自転車でまわって驚天動地、忘れられない思い出になった。青梅近辺で自動車でなら必ず一度はまわってる人がおおい。ともかくすごい道だとは聞いていた。自転車ならヒルクライムは最上級、その道のクロウトが走るメッカだ。わたしがまわった時もみな装備は万全。自転車も高級なロードバイク。・・軽装備のサイクリストはそれでやれるという自信があるのだろう。うらやましいかぎりだ。・・インナーロウのギアで走るものらしいが、自分はもう一段重くしていた。

「・・1878年(明治11年)には、最大の難所であった大菩薩峠を迂回するルートとして柳沢峠が開削され、大菩薩峠を通るルートから変更された。」

「江戸時代まで青梅街道はこの柳沢峠ではなく大菩薩峠(標高1897m)を経由していた。大菩薩峠へは道幅も狭く通行も困難な青梅街道最大の難所であり、遭難者も多く出していたが、甲州街道より二里短く関所が無いこともあり利用者は多かった。塩山側の麓には萩原口留番所跡がある」

「明治になり県令藤村紫朗の主導によって民費で道路改修を行うことになるが、大菩薩峠に車道を通すのは困難だったため、1878年(明治11年)現在の柳沢峠経由の道路を開削した。」

花魁淵

・・武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行 依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にいた55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した


・・たぶんこわかったのはこの所為であろう。

奥多摩から丹波川に沿って柳沢峠に向う道は、丹波山村までは開けているが、その先一の瀬までは難路。江戸天保期に山田早苗の玉川源流行があって、一の瀬高橋あたりは柳沢川、黒川山(鶏冠山)は武田の金山だった。甲州側からこの金山めざして鉱夫ほか女郎やなど多少の賑わいはあった。富の源泉である金鉱は厳重に管理されるゆえ、その村はある種の牢獄。花魁淵などいって吉原女郎の画像を置いても同じとみえる。・・江戸安政の大地震の時吉原も大火に見舞われた。

「新吉原での火災は延宝4年から慶応2年の191年間に22回あった。安政2年の地震による火事では、郭内の死者は千二十余人、遊女のみ、530余人を数える。失火があったら火消も繰り出すが、大門内に入らず鎮火を待った。焼け残りがあるとこれを焼き払ったのは、仮小屋での営業が許されないからである。仮宅による営業はうまみもあり、火事を密かに願ったと者もいた。」


吉原の巴屋といえば、

  ?其巴屋に岩こすといふ傾城は、秀たるものなりき、渠は、もと越後、信濃あたりの深山のものにて、山女衒行かゝりて見れば、老女只一人、六七歳の小女と、あやしき家居に住むあり、立ちよりて問へば、此小女は父母におくれて我手に育侍るといふ、かゝる所にあらんよりは、我江戸に連行ん、我にあたへまじやといへば、山奥のかかる所にありて、若我死せば、狼の餌食ともならん、夫いと幸なり、つれ行て命を全くし給れといふ、女衒歓びて、金弐分を老女へ与へければ、老女も悦びけつとなん、是後に巴屋の岩こすとて全盛の君となりたるといふ事を、年を経て聞けり、其虚実はしらず、同藩の大山氏なるもの、此岩こすに逢けるに、夏の頃なりしが、幮の外に来りて禿を呼て、水を取よせ、其半呑て暑しやと問ふ、大山、暑しと答ふ、其時、その茶碗を持て幮に入り、のみさしたる水をのまする心かとおもふに、さはなくて、おのれ一口呑て、大山が寝たる顔に向ひて、ふつと霧を吹かけたり、顔より髪襟のあたりまで水にぬれければ、驚きて起上る、岩こす笑て、呑たるよりは涼しからん、といひしとなり、凡妓の気骨にあらず、此一談を聞ても察すべきなり?

「新吉原遊女町

日本堤の下にあり。俗に五丁町と唱へたり。(其街五町あるゆゑにいへり。)慶長の頃、江府日に増し繁栄の地となりければ、是を伝へ聞き駿州元吉原の駅より、遊女屋を始めんとする輩二十余人、江戸に移り住す。其頃は、定れる花街もなく、ここかしこに遊女屋散在せしかば、彼輩官に訴へて、京橋具足町の東、泥沼の地を築埋め、一方に口を設け、南の側を角町と唱へ、(今の京橋炭町是也。)北の側を柳町といふ。(今の京橋柳町是也。)又中の通を仲の町と號け、此地に傾城町を開発す。(今京橋具足町と柳町との間、南北への通を中通といへるも、仲の町の旧稱をうしなはざる證據なり。以上事跡合考に載するところなり。)其後庄司甚右衛門といへる者、(相州小田原の産にして、始め甚内と云ふ。また一説に、勘右衛門ともいひけるよしいひ伝ふ。)官の免を得て、元和三年、始めて花■を定め、葺屋町の末にて、二丁四方の地を賜ひ、是を吉原町と號く。(今所謂和泉町、高砂町、住吉町、難波町等、其旧地なりといへり。また菊岡沽涼云ふ、其地沼にして葭萱のみ繁茂したるを開きし故に、葭原ともいふべかりしを、賀して吉原に作るといへり。禄開板の江戸鹿子等の書には、其始め駿州元吉原よりうつす故に、この號ありと云々。)翌年、普請落成す。然るに江府益繁昌し、人家蔓りければ、明暦二年の冬、竟に今の所に替地を賜ふ。(明暦二年丁酉八月今の地にうつる。)依て新吉原町と號くるといへり。此花柳は、まことに三都の魁たり。其賑は、特弥生の花の頃をもて勝れたりとし、春宵一刻の値、千金を顧みず。初秋の燈籠は、萬字屋の玉菊が追福にはじまり、八朔の白重は、巴屋の高橋に起る。今も此日をもて、更衣の節とす。名にしおふ二度の月見の全盛はいふもさらなり、悉く其美を■るにいとまあらず。しばらく此處に是を略す。」

712秋魚:2016/09/27(火) 01:39:17
(無題)
大菩薩峠 N35度44分9秒 E138度51分12秒

長岡駅  N37度26分49.9秒 E138度51分13.8秒

高尾山古墳 N35度7分22.73秒 E138度51分40.22秒

長岡市今朝白  E138度51分40秒

安積山 N37度27分10秒 E140度23分28秒

長岡市今朝白 N37度27分01秒 E138度51分37秒

福島県双葉郡双葉町歴史民族資料館 N37度27分01秒 E141度00分26秒

713秋魚:2016/10/01(土) 18:44:20
(無題)
・・栗拾いに出たが遅きにすぎた。どこもかしこも拾われて無い。去年は温泉の帰りにたまたま手付かずのよい栗が弾けていた。同じ場所にいってみたがこういう算段はダメですね。周囲の環境も変わっていて、とても栗拾いなんてものじゃない。

・・萩というのは白いものだと思っていたが小豆色の萩が本命らしい。道すがらもう散り終わりの無残な萩もみた。彼岸花も無残なものだ。いまは金木犀が盛りだ。強烈に香る。

・・外に出て野山を歩くのをためらったが為に旬のものに出会い損なった。

コスモスはよく咲いている。

714秋魚:2016/10/04(火) 00:50:38
(無題)
・・萩で想い出した。柳沢峠を塩山側へ下って裂石山雲峰寺という寺がある。

「・・寺伝によれば行基が修行に訪れた同年6月17日の夜、霊雲が烈しい光を帯びて当山の上にまたたき、山や谷を大いに震わせたといわれています。そして、山中にある高さ15メートル余りの大石がにわかに真二つとなりました。巨大な石の裂け目からは萩の大樹が生え、さらには石の上に燦然と十一面観音が出現したといわれています。それを目の当たりにした行基は、崇高な心で萩の樹を切り取り十一面観音の尊像へと彫刻し、一庵に奉祀しました。」

・・萩の大樹?

萩というのは草ではないか?
十一面観音など彫れるものだろうか?

萩の別名で野守草というのがある。これはよい名と思うが誰もそれをいわない。

715秋魚:2016/10/14(金) 21:30:56
(無題)
>・・栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩*の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。

世の人の見付ぬ花や軒の栗


・・行基の杖は栗、西行の杖は桜、芭蕉の杖はツバキ。

「天親菩薩、無端変、作一條榔栗杖・・・塵沙諸仏、盡在這裏葛藤」

「嚴雲:榔栗?擔不顧人,直入千峰萬峰去」

『碧巌録』にみられる「榔栗」は、「木ヘンに即・木ヘンに栗」という漢字。ソクリツと読むものらしい。天台山にある杖をつくる木の名。同種のものが日本にあるかどうか不明。

716秋魚:2016/10/17(月) 23:19:28
(無題)
・・吉野街道沿いの空地に花壇をつくるというのでボランチアに出た。私有地ということだが残土置かれて荒れ放題。自治会にお任せになった。形状も三角でわるく一部は野菜つくりで使われているようだがナスなど収穫もされてない。何より道路際で埃っぽい。・・地元の人に聞くと昔は魚屋とかスーパーとかお店があったという。店が流行らず撤退してただの空地になった。自治会の理事、美化委員が主導というので声がかかった。自治会の役員というのはもう余生を生きる年寄りばかりで生活だけは年金とかで安定しているらしい。年を食って安定してないのは自分くらい。それでも家のすぐ近くで土方仕事になるので男手がいるということだった。特に用事もなかったので参加することにした。

・・夏の納涼祭はテント組み立てと焼ソバつくり。先日は運動会があって雨天で中止にはなったが慰労会はおもしろかった。普段はやれない仕事で終わったあとは全身の筋肉痛になるのはいつものこと。こんどの花壇つくりも今は筋肉痛。・・しかしおもしろいものだった。

・・土をほぐして瓦礫を除く。大方の地形つくりのあと道路との仕切りにブロックを置く。これは土木の専門家が一人いて進める。コンクリートをつくる。セメント、砂、砂利を混ぜて水をそそぐ。材料はみなホームセンターで揃うらしい。配合ぐあいはわからない。ブロックを並べて鉄棒とコンクリートで固定。鉄棒の切断などもやってみた。・・草むしりと土おこしくらいに考えていたが、本格的な土台つくりで昼過ぎまで作業。花苗を植えるのは後日のこと。

・・終了して打ち上げの食事会になった。自治会の古参の人がほとんどでいろいろ話がおもしろい。幹部役員はほとんど政治の苦労話でこれはあまり参与したくない。多摩のこの地域、野生の動物が増えているよう。すぐ近くの林で熊が出たとか。イノシシなど親子連れで七八頭も裏山に出没。罠でとらえた人もいて、イノシシ、アライグマ、ハクビジンとか、処理の仕方わからずまた野に放ったとか。イノシシは猛進するから危険。アライグマはクマではなく可愛いものという。万年橋の上から川で水浴びするタヌキをみたことあるが、あれはアライグマだったかも。区別もむずかしい。

・・丹波山村出身の人もいる。町に住んでいるが丹波村に山を所有で、柚子、柿、筍とか豊かにみのる。丹波山にはのめこいの湯がある。いつか自転車で必死で訪ねた。極上の温泉です。ここいら柚子など腐るほど実る。観光客を相手に一袋百円で売られてもいるが、おおかた収穫しないで落下させてるのも多い。柚子狩、柿狩、筍狩にはぜひ参加したい。のち温泉は魅惑。

717秋魚:2016/10/22(土) 01:16:19
(無題)
・・伊勢物語の東下りで昔男業平が詠んだ言問いの歌。それは白鬚橋の渡しという。

 座標: 北緯35度43分41秒 東経139度48分35秒

もうすこし隅田川を遡ると隅田川神社。

北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒

さらに梅若塚のある木母寺。

北緯35度44分02秒 東経139度48分51秒

奥多摩の大菩薩峠は、 N35度44分9秒 E138度51分12秒


夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅

718秋魚:2016/10/22(土) 17:09:32
(無題)
・・うす曇りの天候だが御岳の青渭神社までサイクリングに出た。青渭はあおいと読んで青井のこと。けして枯れない青い湧水があるという。創建は崇神天皇代というからかなり古い。根ケ布の虎柏神社とほぼ同期か。主神は大国主命。(ただし創建年代はあてにならない)

青渭神社は沢井にある。青梅街道沢井と御岳の中間で惣岳山の方へあがったところにあるはず。地図をみて目星がついたら出発。源経基が関東を治めた頃青渭神社もよく祀られたという。このあたり平将門か源経基かといったところ。・・多摩川に渡る好文橋までに桜の咲いてる空地がある。昭和から平成にかけて空地というのがどんどん無くなってゆくのが決まった風景だった。こういう田舎にくると廃屋というのもまれにみかける。崩れそうな家屋でまだ人が住んでるというのがなつかしい風景だが。ともかく空地は健在だ。

・・吉野街道、青梅街道はそらおそろしい道で、こちらに越して来た時は自転車で走るなどとてもできないと思っていた。並のサイクリストがいとも容易に走っているのをみてこれは自分が臆病なだけと合点した。はじめて御岳までいった時が想い起こされる。軍畑にでるまえに桜橋というのがある。台地状にすこし開けた場所に昔は桜の木がきれいだったという。瀬川が多摩川に流れこむ深い谷になって足がすくむほど。ここを過ぎて軍畑大橋もこえ沢井に近ずくとにわかに人波が多くなる。天気は曇りだが今日は休日だった。帰りにわかったが澤の井の蔵開き祭りがあった。沢井駅周辺も人手が多い。・・柚子の里勝仙閣という旅館があった。なんだ閉店してるようだ。ちょうどこの前に青渭神社参道の鳥居がある。

・・ちょうどよい空地に自転車を留めて参道を登りかけた。どうも人が歩いた形跡がない。もっと他に道があるはず。さらに自転車で先に進むと舗装された登り道があった。400mばかりで見つかるという。多摩川や街道周辺の町並みがみわたされ景色がよい。道沿いに柚子の木が多く、青い実が鈴なりだ。ゆずの里というだけあって誰の管理かもわからない。雑木にまざったものを一つみやげにもらった。

・・青渭神社の里社というのがあった。「・・古くは青渭明神といい惣岳山頂近くに真名井と称する年中涸渇することのない霊泉があり、これを別名青渭の井ともいい、これが社名の起因となったと伝える。また別に惣岳大明神ともいうが、これは惣岳山(標高七四二メートル)頂に鎮座していることからの呼称である。」

真名井という湧水が売りだけに、手水舎は清冽な音を立ててある。

・・沢井の駅周辺に人が大勢いたのに比べ、この青渭神社は無人だった。ただし管理はゆきとどいているよう。灯明が点っている。「祓いたまえ 清めたまえ」といって、ぽんぽん。

ここから下の奥多摩線、青梅街道まで傾斜のある段差の土地だ。日当たりも眺めも最高だ。柚子があちこち実っている。帰りはまた違う道に入った。だんだらと東にそれてこのままゆけば沢井の駅のほう。ほんとに柚子の畑が多い。・・鉄路に沿った道に出た。

・・沢井駅にでた。駅前の公園に縄文遺跡の案内板がある。大平遺跡について、
「大平遺跡はJR沢井駅を中心に多摩川と平行して東西に広い河岸段丘上に存在します。多摩川までは約四十メートルの高低差がありますがローム層の堆積がないことから今からおよそ一万年前までは多摩川であったと思われ、今回発掘された遺構遺物によって縄文時代早期(およそ七千年前)にはすでに生活を営むことができる地形が形成されたものと考えられます。・・」

人がいっぱい。澤乃井の蔵元、ままごとやに人だかり。・・

「・・縦の最長が42?、最大幅が28.5?、縁の幅は約5?あり、縁からの最深は7?、手前に来るにしたがい浅くなってきます。石皿の縁には円すい状の穴が並んであけられていることがしばしば見受けられ、この石皿にも角の縁部分に1か所あけられています。しかし、この穴が何のために利用されたのかは不明です。石質は安山岩系の石で、多摩川の川原では、この種の石を拾うことはできません。」

・・沢井駅周辺はとてもよい環境だが、このような石皿を運んで縄文人は移動してきたのだろうか?

719秋魚:2016/10/23(日) 02:32:46
(無題)
 四十四 芭蕉拄杖



芭蕉和尚示衆云、你有拄杖子、我與你拄杖子。你無拄杖子、我奪你拄杖子。



無門曰、扶過斷橋水、伴歸無月村、若喚作拄杖、入地獄如箭。



頌曰



諸方深與淺

都在掌握中

撐天并拄地

隨處振宗風

720秋魚:2016/10/25(火) 11:47:42
(無題)


・花は豆のような蝶形花。
・枝や葉は
 家畜の飼料や屋根ふきの材料に、
 葉を落とした枝を
 束ねて箒(ほうき)に、
 根を煎じて、
 めまいやのぼせの薬にするなど

杖かしてやりたき萩の盛かな
初蝶と見る眼の冴る白さかな
蝶に気のほぐれて杖の軽さかな
朝凪や蝶の影さす洗ひ臼

霞ミ霞ミて流れ行川

蝶の飛ふはかり野中の日かけかな  はせを

721秋魚:2016/10/25(火) 21:28:41
(無題)
 をばすての嶺と申す所の見渡されて、思ひなしにや、
 月ことに見えければ

をば捨ては信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ

西行法師

・・

月が美しいのは、必ずしも池や湖ばかりとは限りません。
千曲市姨捨(おばすて)・四十八枚田の「田毎(たごと)の月」もまた、国の名勝に指定されるほどの美しさを誇ります。

我が心なぐさめかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て 古今和歌集 読人知らず
月もいでで やみに暮れたるをばすてに
なにとてこよひ たづね来つらむ 更級日記
更級や昔の月の光かはただ秋風ぞ姨捨の山 藤原定家
あやしくも慰めがたき心かな姨捨山の月を見なくに 小野小町
君が行く処ときけば月見つつ姨捨山ぞ恋しかるべき 紀貰之
隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき 西行
諸共に姨捨山を越るとは都にかたれ更級の月  宗良親王
空にひとつあまりて月の田毎かな 永宮寺松堂
姨捨や月をむかしの鏡なる 加舎白雄

・・


「・・継之助という人が体の中に入ってくる感じになったんです。彼の写真も何枚かみましたが、それぞれ全部違う顔をしているんです。こういう人物というのはちょっと端倪すべからざるところがあるでしょう。撮られるたびに顔がかわっているというのは相当に複雑な人間であることはたしかですね。北越戦争で大奮戦して、もう少しで東京の新政府の国際信義を危うくするというところまで善戦したわけですが、戦い利あらず、傷ついて会津へ退却する途中で死ぬわけですね。」

 司馬遼太郎『峠』月報

722秋魚:2016/10/28(金) 20:40:49
(無題)
・・東京が世界第三位の都市についたという。万年四位からパリに追い替った。何が基準かもわからない。パリのリュクサンブール公園でおそろしく緩慢な時間をすごすなどいう、森有正みたいな日本人はまだいるのだろうか。だいぶ忘れた感覚だが、西欧の伝統が少しずつゆったりと浸みこんで来るという。・・たぶん西欧の伝統に愛想をつかす人が増えているだろうか。未来都市願望が流行かもしれない。

・・東京は空虚な中心。去来に『花実論』があると聞いた。形式と内容について説かれた。花ばかり有って実がない。風雅の実を説くのは希少だ。正風俳諧やおもてなしが注目されるわけだ。

・・この東京を自転車で攻略する。

723秋魚:2016/10/31(月) 19:34:02
(無題)
・・自転車後輪のタイヤがそろそろ。この都心のロングライドはなんとかもたせたい。朝6時半に家を出た。きのう河井継之助記念館の館長先生から便りがあってよいタイミングだった。三田の済海寺が第一目標。ここを訪ねてからまたお便りします。

・・まず青梅線に沿って立川まで。また国立まで。込入った道だがもう何度も走ってお手の物。昔の寓居の跡もしっかり認めてきた。恋ヶ窪にある「姿見の池」は近くで発掘の仕事をした時期があったが、未見の旧跡だ。JR西国分寺駅の裏手のこんもりした森の中にあるという。今回は往路でここを見学。府中からの東山道が伸びていて遊女の宿があったらしい。鎌倉の武将畠山重忠と夙妻太夫(あさずまだゆう)の悲恋伝説がある。

>・・東山道武蔵路や鎌倉上道の宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿をこの池に映して見ていたことから、「姿見の池」と呼ばれるようになった

・・夙妻太夫はこの池に身を投げた。

・・池の水は透き通って底が見える。湧水も流れているらしいが、水の動きはまったくない。水底の色はライトブルーの苔色だった。鯉とか水鳥もいて、でも静物のよう。動きがまったくない。すぐ隣のJR線の鉄路の騒ぎと対照的な静けさだった。

・・ここから中央線に沿って新宿まで走るのも何度か経験済み。国分寺の連雀街道を一路三鷹の方へ。・・一度交番で道を尋ねたが、中央線も今は高架線になってこれに沿った道ができている。車はほとんどなく自転車はゆったり走れる。吉祥寺まではコースロスがまったくない。郊外と都心を結ぶ道も進化したものだ。吉祥寺から荻窪に出るまでここはもう街ができあがって改良の余地はない。入り組んだ道だが荻窪までは、我慢。荻窪には青梅街道が駅前まで接近している。

新宿に近づいたところで青梅街道を離れ飯田橋へ向う道にはいる。ここも一度来た道。牛込というところで早稲田に向う道もあるが一路飯田橋方面へ。道が多く分岐してわかりにくい。わからないところへは運よく交番がある。交番の巡査も配置転換が多く自分のエリア以外はよく知らないというのが多い。新人の場合は地図でああでもないこうでもないとやるが、最良のアドバイスになる。後楽園あたりから春日通りにでられれば後はまっすぐ湯島天神の脇を通って御徒町上野、昭和通りを北上して南千住まで。これははじめてのコース。上野駅周辺は混雑して昭和通りがみつけづらい。車道は無理だがそれでも楽な道だ。ほどなく最初の目的地スサノオ神社に着いた。

素盞雄神社?? この種の社、日本中にあちこちあるらしい。ここは千住大橋のすぐ近く。

この日は七五三の祝日であるらしく、人出がおおい。素盞雄神社は庶民に人気があるのか全体がぴかぴかよく神光りしていた。流行らない神社ばかり廻っていたので、すこし驚き。

>・・深川の採荼庵すなわち「杉風が別墅」を舟で出発した芭蕉は、千住で舟をあがった。

ここに芭蕉句碑がある。

行春や鳥啼魚の目はなみた

>・・文政3年(1820年)10月12日の芭蕉忌に「松尾芭蕉奥の細道矢立初めの碑」が建てられた。

儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を書いている

武州千住宿 牛頭天王 境内

   行春塚

 千寿といふ所にて船をあかれは、前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻のちまたに離別の泪をそゝく

行春や鳥啼魚の目はなみた

   はせを翁

・・千住大橋まで続く昭和通り。途中明治通りと交差する。都心南北の昭和通りは日光街道という。水戸街道などもこの千住大橋が起点というから、芭蕉が奥の細道で江戸の別れをここにみたのは、感慨もおおい。・・この千住大橋にくるまでに円通寺というのに寄った。上野戦争での彰義隊戦死者の供養碑がある。上野戦争は悲惨だったらしい。月岡芳年は惨殺の現場を歩いたというが。

・・千住大橋からUターンして浅草に向った。

・・浅草寺とスカイツリーが目印でここらは目をつむっても歩けそう。浅草寺にいってわかったが、一極集中の人出は浅草の特色。なんて人がいっぱいだ。すこし外れて街を歩くとまるで寂びれている。人っ子一人いない。商店なんてのもみない。昔はこのあたり下町の中心だったのだろう。葛飾北斎終焉の地なんてのもあった。北斎・宝暦10年9月23日〜嘉永2年4月18日(1760−1849)浅草聖天町遍照院にて永眠。「人魂で 行く気散じや 夏野原」−辞世の句もある。(おもしろいね)
・・浅草寺の裏手に吉原があったと記憶していた。吉原跡地か?さがしてみたが見つからない。・・いまの吉原は三ノ輪入谷の方か。

長岡藩抱屋敷というのがスカイツリーの下あたりにあった。河井継之助は遊郭通いもよくした。そこから江戸の新吉原へは歩いて近い。海老原新甫という俳人は巴屋の主人という。この新甫と井月は面識があった。あるいは継之助の噂は耳に入ったか。

・・隅田川右岸から言問橋の方へスカイツリーが見える。浅草寺の裏手からもスカイツリーが見える。吾妻橋を渡って東駒形にある桃青寺を訪ねたい。やむえず花やしきの横から浅草寺にまわる。うわっすごい人波。訪日外人など集団できてる。欧米人はすぐわかるが、中国人も多い。韓国人か台湾人か。出店の飲み屋は大盛況ですね。浅草メンチというのが美味しそうだったが、行列で待たねばならず撤退。この後もろくすっぽ食事もとらず自転車に乗りまくった。空腹感というのはあまりなく、実は、これは健康にはまったくよい。あとでわかったことだが。・・それにしても浅草寺の人気は並大抵ではない。活気があって元気になるのは確か。

なんとか人混みを抜けて吾妻橋へ出た。スカイツリーも近い。桃青寺は周辺の東駒形四丁目だ。ぐるっとまわって探した。

・・桃青寺はあまり知られていない。芭蕉の禅修業は深川の臨川寺仏頂和尚のもとがよく知られている。この仏頂和尚以前の禅修業が駒形の桃青寺という。はやい時期に桃青(芭蕉)の寓居があった。わかりにくかったがなんとか見つけた。こじんまりしたお寺でそれは臨川寺も同じだが着いてみると運よく住職さんらしきが表に出てきた。見学の許可をもらいすこし話をすると芭蕉はたしかにここに一時仮寓していたという。その記念になるようなものは何も無いとも。戦災ですべて焼けた。・・ただし山口素堂のお弟子さんで長谷川馬光という人の墓がある。そういってこの馬光の墓を案内してくれた。ここの墓地はおどろきなのは狭い敷地に仏壇のような等形の墓がぎっしり並んでいる。管理がゆきとどいているのか花も置かれてまぶしい限りだ。郊外の雑然とした墓ばかりみてきたのでこれは驚き。ただし馬光のお墓は江戸宝暦期のもので古いままだった。

>長谷川馬光 - 1685−1751 江戸時代中期の俳人。貞享(じょうきょう)2年10月11日生まれ。幕臣。山口素堂にまなび,2代其日庵(きじつあん)となる。
・・桃青寺 延享5年(1748年)、夕可庵を営む。 寛延3年(1750年)8月12日、馬光が中心となり関口芭蕉庵に「さみだれ塚」を建立。

・・この桃青寺。芭蕉の仮寓など伝説的な話で真実のところはよくわからない。はじめは本所の常林寺(定林寺)とか呼ばれて後東盛寺、桃青寺とか。気になるのは、鹿島紀行で芭蕉に連立った宋波という僧侶はこの常林寺の住職というからよく隣の宋波というのは桃青寺の僧かもしれない。定林寺から桃青寺への変名は延享二年(1745)のことという。・・宋波という芭蕉の隣人、気になるか。

・・この日どんより雲って寒気もつよい。自転車に乗って厚手のジャンパーで来たが、汗だくになるなどはない。ちょうどよい具合だ。永代橋の眺望まで来た。ロングライドはまだまだ。・・清澄庭園の近くにある長岡藩下屋敷跡を再確認すべくまたうろうろ。けっきょく下屋敷は今はまったく痕跡が無い。民家とマンションのようなものに成り代っている。今回もっと興味深かったのは、すぐ前の運河名前は忘失したがこの橋をわたってすぐ角のところに杉風の彩荼庵跡がある。芭蕉は奥の細道を旅立つにあたり、芭蕉庵は雛かざりする家にゆずりこの彩荼庵に移った。そこから舟に乗って千住までいった。長岡藩下屋敷はこの彩荼庵とは目と鼻の先だ。


  予閑居採荼庵、それがかきねに秋萩をうつしうゑて、

   初秋の風ほのかに露おきわたしたるゆふべ


白露もこぼれぬ萩のうねりかな
   はせを


   このあはれにひかれて

萩うゑてひとり見ならふやま路かな
   杉風


・・井月が採荼庵跡を訪ねた時はもうこの萩は無かったかもしれぬ。この萩の句はしっかりと読んでいたにちがいない。

・・東京は電車の移動で慣れているが、自転車では道さえまちがわなければ要所めぐりは容易にみえる。道も大雑把な方向感覚でも迷うことはない。数度ポタリングを試みての話だが。深川不動堂というのが親しまれているという。ここから近いはず。成田山を勧請したというから平将門鎮めのお寺か。関東の第一の霊的パワーはやはり将門か。江戸の家康もこの怨霊を気にはしていたようだ。不動堂はともかく寄ってみることにした。下調べがなかったので人に聞き聞きまわった。・・ここはすぐに見つかった。あまり感動はない。・・この後永代橋にでてそのまま皇居の方へ。大手町のパワースポット将門首塚に向った。

「伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。」

・・菅原道真、聖徳太子、平将門。怨霊のパワーが強烈なのはこの御三方。このうち太子のパワーをわが家門はかかえている。将門のパワーに敏感だったのは、たぶん、井月。・・将門首塚はそっと遠慮して訪ねた。蛙が鳴いていたようだった。

皇居前の通りから日比谷通りを走り、そのまま新橋田町へ。長岡藩中屋敷のあった愛宕山にゆく予定もあったが、だいぶ日が落ちてきたので田町の三田へ向った。浄土宗の済海寺を訪ねたい。ここもざっと調べただけで田町の駅前でうろうろ。交番もない。案内板がある。住所とこの案内地図が頼りだ。済海寺はあまりメジャーでないのか地図には載ってない。替りに亀塚公園というのがある。これは済海寺の隣だったはず。この亀塚というのも今回の眼目にあった。ここへゆけばよい。

で、5時くらいだったか済海寺に着いた。すぐ近くに慶応大学がある。すごい坂道を登ってこのあたり高台の丘になってるようだ。

「月の岬(つきのみさき、月の見崎とも)とは、東京都港区三田四丁目付近である台地の一角を指した地名。」この済海寺あるいは隣の亀塚公園、ここが月の岬の説がある。この高台の向こうは昔は海だったとも。さらに興味深いのは、済海寺は江戸期に、「1621年(元和7年)牧野忠成と念無聖上人によって創設。越後長岡藩藩主家牧野氏や伊予松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。」となる昔は「更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地であった」という。

これ以上は追求しまい。この日は門が閉ざされ隣の亀塚を見学してひきあげにかかった。ホテルで休んだあと明日また訪ねることにする。

724秋魚:2016/11/05(土) 21:11:15
(無題)
・・初日は優に10時間は自転車に乗っていた。都心でこまめに目標を切り替えるのは楽しみもある。あまり疲労もない。いつも寄るビジネスホテルは朝食ビュフェのサービスがあって気も楽だ。

・・さて二日目はもう一度済海寺へ。その後品川の海晏寺を廻って帰路につく。多摩川にでて左岸を二子玉川狛江調布府中どこまでも遡れば福生羽村までゆける。ざっと調べてはあった。問題は第一京浜の海晏寺からいかに上流の多摩川べりに出るか。昔横浜から国道1号で多摩川べりまで来た。第一京浜をそのまま進めば多摩川にでる。これは芸がないか。

・・済海寺は開門されて運よくお寺のお内儀と話ができた。牧野家の個別の過去帳というのは無いという。こちらがまったく無知であった。一般の過去帳というものはある。これには女子の納骨も記録がある。家伝つくりならやはりお寺の過去帳を調べて廻るのが仕事だろう。・・井月がここに足を運んだのはまちがいない。日仏修好通商条約(1858)が結ばれて翌1859年にここにフランス領事館が置かれた。この頃は井月は伊那に出没。長岡藩は河井継之助がときめいていた。

・・竹芝寺の跡地というが、

「・・これはいにしへたけしばといふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(えじ)にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾のきはに立ち出でたまひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と仰せられければ、酒壺のことをいま一かへり申しければ、『われ率て行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。」

・・ここでおもしろいのは、火たき屋の衛士のひとりごと。

『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』

 帝の御むすめが興趣もつのも無理はない。

・・済海寺の隣には亀塚がある。ここの由緒は、

「亀塚の山頂にある酒壷から出てきた亀を神として祀っていたが、ある風雨の夜に酒壷の亀が石と化した」

・・武蔵竹芝とは、この伝説が発祥。やがて源経基、平将門、武蔵竹芝の争乱の時代になる。天慶二年(939)。

・・亀塚の高台から下に第一京浜があって騒がしい街道だが、昔はこのあたりまで海だった。それでこの高台は眺望よろしく「月の岬」と呼ばれていたか。品川から船の出入りもあったから、遠来の客も多く遊郭もあったはず。公園の交番で尋ねてみた。江戸時代のことはさておき昔ながらの遊郭は今でもいくらか名残をとどめてあるらしい。品川海晏寺を尋ねてついでに多摩川までの最良の出方を尋ねた。あまり遠方のことはわからない。大井町の駅から国道1号に入ってもよいがそのまま直進、環八を越えて中原街道に出るのがよいらしい。洗足池、雪谷、丸子橋にでる。

・・都心ロングライドは、最後の目標品川海晏寺まで。白井鳥酔、加舎白雄の墓がある。なぜ海晏寺かというのはよくわからない。1788年に芭蕉百回忌繰り上げ法要があり、白雄をはじめ錚々たるメンバーが参加した。

> 鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和6年4月4日に歿した。
                     東京都教育委員会

   鳥酔居士之墓

あぢさゐのかはりはてたる思ひかな     『しら雄句集』

安永4年(1775年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔七回忌法要を営む。
天明2年(1782年)4月4日、白雄は海晏寺に鳥酔の墓参。
天明5年(1785年)4月4日、白雄は海晏寺で鳥酔十七回忌法要を営む。

・・鳥酔の墓の隣に白雄の墓もあった。

725秋魚:2016/11/07(月) 23:08:02
(無題)
・・沢井のガーデンギャラリーに木工とガラス工芸の展示を見に出た。木工の五十嵐さんからの案内があった。自転車で沢井はほんとに近い。先日柚子の里を訪ねたばかり。ここの柚子は蕎麦つゆに柚子果汁を入れるとほんとによい味になる。澤乃井の蔵元で酒も呑めるか。温泉の帰りにでも寄ろうかと思案したが天気がよいのでポタリングになった。

・・沢井は休日はやはり人出がおおい。ままごと屋の豆腐料理を一度頂いてみたいと思う。会場は作家さんと奥さんが顔を憶えていてくれてうれしかった。実はこちらが記憶があやふやでした。二年ぐらい前からのお知り合いでしたが、なにか修羅場のロングライドがいくつもあって遠い過去のことのようでした。

・・「埋れ木」の話を昔してくれてそれをきのう想い出していた。埋れ木でつくる木工作品。「埋れ木」は俳諧の秘伝書だけど。北村季吟が芭蕉に伝授したという。・・で、やはり鳥海山で採取した埋れ木の酒枡があった。鳥海山までいったらしい。埋れ木のよほど古い亜炭は香炉の灰でつかうとか。仙台の名取川は埋れ木で歌枕にもなるという。この埋れ木はすこし飴色があってそれがよかったか。

・・木目を生かしたよい作品。冬目春目などあるという。

・・帰りに裏道を通ったが、柚子は黄金に色づいてさすが。驚いたのはたぶん芭蕉の木があった。立派なものだ。

・・あきないポタリングコース。自治会の運動会でわかったが梅郷地区の小学校は五小がただひとつ。御岳山の山の上の子供もここまで通うのだそうだ。中学校は西中というのがやはり多摩川南岸に沿ったところにひとつ。ここは好文橋で石神前の駅から渡ってすぐのところ、自然の環境は抜群。ただしこのあたりでも最近クマが出没捕獲されていた。

・・先日のわれわれが作った花壇はもう花苗が植えられていた。

726秋魚:2016/11/17(木) 23:32:26
(無題)
「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」  王守仁

・・河井継之助が愛誦したという。

>・・朱子学から出発し婁諒(ろうりょう)(1422―1491)に師事するが、しだいに懐疑を生じ、病を発するに至る。会試にも失敗し、任侠(にんきょう)、騎馬、文辞、神仙、仏教に惑溺(わくでき)(陽明の五溺)する。28歳、進士(しんじ)に合格、官途につくが、道仏二教への専心は31歳まで続く。35歳、宦官(かんがん)劉瑾(りゅうきん)(?―1510)の意に添わず、廷杖(ていじょう)四十を加えられたうえ、貴州竜場駅に流謫(るたく)された。ことばも通じない僻地(へきち)竜場で、37歳の守仁は「聖人の道は、吾(わ)が性に自足している。以前、理を事物に求めたのは誤りであった」と悟る(竜場の大悟)。
                  ・・ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

727秋魚:2016/11/18(金) 23:02:39
(無題)
・・一週間ほど前から急に冷え込みが進んだ。夏暑くて秋よく冷え込むと紅葉が冴える。思いついて紅葉見のポタリングにでた。先日の沢井から御岳古里鳩ノ巣白丸、数馬峡という川合玉堂絶賛の楓峡は以前にも訪ねた。思いついて天気さえよければ何処でも行ける。自転車のよいところは筋肉運動より何より呼吸器系のサイクルが活発になり細胞や脳の神経系もよく働く。家に篭もって妄想の囚になるのを防ぐ。妄想が進むと外界が恐怖に思える。

・・ポタリングは外界が新鮮なのがわかる。柚子は更に色づいて黄金の木があちこち。観光地に近いところは袋2百円で置いてある。平日で昼前に出たから青梅街道の車も比較的少ない。それでもヒマな人はけっこういる。紅葉見のドライブやハイカーによく会う。御岳−川井間というのは長くて道幅もせまい。川に面して走るのはやや危険。後方の車を気にして走る。五月に柳沢峠に走った時は猛烈な騒ぎだった。バイクライダーの群れがいくつも来た。チャリダーは一人勝手だが孤独を楽しめる。

・・今日はほんとは「もえぎの湯」の温泉だけが目当てだった。紅葉などほとんど期待はない。

・・それにしても驚きのアメリカ大統領選挙。トランプ劇場の相を呈して来た。アメリカとメキシコの国境に万里の長城をつくるとか、イスラム教徒の入国を禁止するとか、日本韓国から米兵を撤退させるとか、・・どうなることか。

「険夷胸中に滞らず、何ぞ異ならん浮雲の大空を過ぐるに、夜静かにして海濤三万里、月明錫を飛ばして天風を下る」  王守仁

・・せせらぎの音美術館の紅葉は旬。水香園はこれから。数馬峡橋は絵になるのかカメラマンが狙っている。一日の時間帯で光の具合が千変万化する。絞りがどうのシャッタースピードがどうの囁き声を聞く。・・なるほどね。もうすこし先行ってもえぎの湯をめざした。数馬の切り通しは以前通ったと記憶したがあれは間違い。トンネルのある切り立った崖の上にあるらしい。途中まで登って引き返した先のようだ。ここらあたりはまた別口で歩かねばわからない。・・もえぎの湯は氷川の七曲の下にある。もえぎという色は好きだ。「若草の萌える頃」という昔の映画は題名だけでよかった。俳句だと「木の芽どき」というのがある。ものぐるほしい。・・トンネルの脇から旧道に入ってゆくと古い馬頭観音が祀られてあった。文化十一年(1814)という。この観音像、三面で憤怒の相。ラーフ(羅睺星)に似ていて思わず立ち止まる。あとで調べたら馬頭観音は三面八臂のものが本来のものらしい。(いや、いろいろあるか)

ヒンドゥー教の最高神・ビシュヌが馬の頭に変化して敵を倒したとされる神話があるらしい。
「・・毘紐拏(びしゅぬ)が馬に化身して,悪魔に奪われたヴェーダ(インド最古の聖典)を取り戻したという説話が起源」


・・道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)の3つ。

三古湯といわれる。

和歌の浦を見晴らす藤代峠だが、有間皇子の墓がある。

有間皇子

・・640年,軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので,待望の皇子に「有間」と名付けた。(ほんとかしら?)・・父孝徳天皇がいなくなり,子の有間皇子は次の天皇の候補者として表に出されるようになる。しかし,中大兄皇子の存在は脅威であったろう。日本書紀によると657年9月,18歳の有間皇子は狂人のふりをしたとある。皇子はその治療のため紀伊の牟婁(むろ)の湯にでかけた。

都に戻った有間皇子は斉明天皇に「その場所を見ただけで病気が治る」と牟婁(むろ)の湯のことを報告した。この言葉を聞いた天皇は大変喜んだ。

・・658年10月,斉明天皇は有間の皇子の薦めにより,中大兄皇子らとともに牟婁(むろ)の温湯(和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に船を使って行幸した。

・・天皇らが飛鳥を離れている11月のある日(3日か),都に残って留守役を勤めていた蘇我馬子の孫の蘇我赤兄(あかえ)は有間皇子の市経(いちふ−奈良県生駒町)の家を訪ねた。
赤兄は有間皇子に天皇の3つの失政を語った。
?天皇が大きな倉庫に人々の財を集めている。
?大がかりな土木工事を行い,長い用水路造りを行っている。(「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」とよばれていた)
?船で石を運んで丘を築き,人々を苦しめている。
これを聞いた有間皇子は赤兄が自分に好意を持っているといたく喜び,「我が生涯で初めて兵を用いるべき時がきた」と言った。

・・

ともかく、有間皇子は藤代峠で(中大兄皇子に)絞殺された。


!・・温泉のことは、古今伝授と同じく他言は凶兆。

728秋魚:2016/11/24(木) 01:50:20
(無題)
・・自宅から歩いていける所に関東平野を一望できる場所がある。きょう分った。運よく自治会のハイキングプランに参加して馬引沢、赤ぼっこを歩いた。すぐ裏手の丘陵の尾根道らしい。ハイキングコースがあるのは知っていたが普段誰も歩いていない気配だった。これは絶好の機会。迷わず参加した。・・青梅は最近クマが出没するので話題になった。多摩川沿い二俣尾、青梅美術館の下の釜の淵の川べりでもクマが出た。青梅丘陵ハイキングの道でもクマの足跡が見つけられた。矢継ぎ早に防災のアナウンスがある。テレビを見ないので知らなかった。ニュースで画像が流れたという。・・それでハイキングも中止になるかと心配したが、鈴を鳴らして歩けばよいと進言した。天気も曇りでまずまず。自治体の70人近くの参加だった。思った通りお年寄りが果敢に参加してきている。あと小さい子供も。

・・こんなおもしろいハイキングはない。馬引沢というのは多摩川にそそぐやや大きな沢がある。その沢に沿った道をあがったところ。昔は馬が歩いたらしい。馬頭観音があった。安永三年とある。1774年。この時代の天皇は後桃園天皇。後桜町天皇を継いだ。次は波乱の天明期。漂泊の文人中原章が青梅にあらわれたのが応永五年頃のこと。・・この馬頭観音、牛馬安全とあるが、先日の氷川での馬頭観音と比べてもろ牛馬の守護神で柔和なお顔だ。あちらは文化十一年(1814)だからこちらの方が古い。奥多摩の難所七曲りの馬頭の意味が強烈なのがよくわかる。それにしても江戸時代中期に「安全」などという言葉があったのか不思議に思った。調べてみたがよくわからない。

・・さてその馬頭観音の道をもうすこし進むと突き出た岬のような「赤ぼっこ」に着いた。急に見晴らしがよい場所にでた。ここです。奇跡の場所は。「赤ぼっこ」という名は新しいものだ。1923年(大正十二年)九月一日に起きた関東大震災。この時、山が崩落して赤土のこの部分が山塊で残った。赤土がぼこっと出てそれで「赤ぼっこ」というようになった。それが由来のようだ。

・・この丘にぽつんと一本のヒノキの木が立っている。赤土というのはめずらしかった。富士山の噴火でとうぜん赤い灰が積もるはずだが。多摩川沿いの河岸断層にはあまりみられない。霞川のあたりの低地も赤土はみなかった。青梅の低地は洪水とかで赤土は流されるか腐植土に変化していくか。山の一部に腐食されずに残るか。ずっと昔は白い石灰岩の層があちこち見られた。・・植林された杉の木の伐採をここでもやっている。おかげで眺望はひらけた。雨上がりで晴れはしなかったが、霞がとれて見晴らしはきく。ずっと北東に二峰の山は筑波山、東にスカイツリー。正面やや西よりに日光男体山。いつか御岳山から一望した時はこの男体山に雪がみえた。・・なにより筑波山がはっきり見える。

729秋魚:2016/11/24(木) 21:43:22
(無題)
天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌

八隅知之 我大王乃 朝庭 取撫賜 夕庭 伊縁立之 御執乃 梓弓之 奈加弭乃 音為奈利 朝猟尓 今立須良思 暮猟尓 今他田渚良之 御執<能> <梓>弓之 奈加弭乃 音為奈里

玉尅春 内乃大野尓 馬數而 朝布麻須等六 其草深野

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


・・中皇命とは誰だろう?

間人皇女か、斉明天皇か

730秋魚:2016/12/08(木) 01:04:34
(無題)
「京の天子こそ日本における唯一の合法的主権者であり、将軍とその幕府は仮政権にすぎぬ。強いてその存在を合法化するとすれば、将軍は天子から仮に日本の政治を委託されているにすぎぬ」
これが、水戸学の尊王思想であり、日本におけるあらゆる読書階級(将軍、大名、幕吏をも含めて)は時代思想としてそれを是認するようになっている。幕府の創設者である徳川家康の思いもかけぬ思想であったであろう。
「そんなばかな考えはない」
 と、国際法的な立場からフランス公使などは幕府を勇気づけてはいた。フランスははるかな以前に革命をおこして王家は倒れており、その後曲折をへてナポレオン皇帝が出現し、それも倒れ、いまはナポレオン三世があやしげな術策を弄してあらたに帝位についているため、自国の状勢から考えても将軍を皇帝とみなしたい。が、他の国の外交団は、すでに天子こそ公式の元首であるという実情に気づいている。

『峠』より


狭井神社

・・大神神社のご祭神・大物主大神の荒魂(あらみたま)をお祀りする、平安時代の『延喜式』にも記されている古社。古くより華鎮社と称され、病気を鎮める神としての信仰が篤く、拝殿脇にはご神水の湧き出る薬井戸があります。大神神社と狭井神社の両社で執り行う「鎮花祭」は、『大宝令』に毎年必ず行うよう定められ、春花びらが散るのとともに、はやる疫病を鎮めるために行われています。

731秋魚:2016/12/11(日) 14:27:56
(無題)
・・この天地が崩れる」
という予感を河井継之助がもったのは、そういうことである。繰り返すと、慶応二年のおけるつぎの四つの出来事による判断であった。
夏 長州征伐における幕軍の連戦連負
夏 将軍家茂の病死
冬 徳川慶喜の将軍宣下
冬 孝明天皇の死

(えらいことになる)

・・慶応二年十二月二十五日、孝明帝崩御。

732秋魚:2016/12/15(木) 01:32:24
(無題)
・・あの鳥は鶺鴒だった。どこで見たのだろう。鶯ほどの小さな鳥でうっすら緑色だった。どこかの川べりだったか。古今伝授の鳥を調べていて思い当たる。

・・神武がトビヒコと戦ったのは龍田川とある。負け戦で五瀬命は傷を負った。母の木に隠れた人は難を逃れたという。この木はそのままなら栂の木だが。この木も知らない木だ。モミに似た針葉樹という。たぶんこれも見ているはず。

・・もうひとつ梓の木もわからない。梓弓をつくる。

ミズメというのがそれらしい。

・・梓は、別名を「木王」といい、百木の長として尊ばれた。

カバノキ科カバノキ属の落葉高木。ヨグソミネバリ(夜糞峰榛)、アズサ(梓)とも呼ばれる

・・この木もたしかに見た憶えがある。サクラに似ているという。


 よし、今度山に入ったらこの栂とミズメを見つけよう。

733秋魚:2016/12/19(月) 22:36:36
(無題)
永正元年(1504)十月 三島神社「出陣千句」

たなびくや千里もここの春がすみ  今川氏親
青柳やかげそふ三島木綿かづら    宗長
・・

天正十八年(1590)三月秀吉「戦勝祈願」連歌

関越えて行く末なびく霞かな   紹巴
・・


足柄の関路こえゆくしののめにひとむら霞む浮島の原

                 藤原良経

【新羅三郎義光吹笙の石】
 新羅三郎義光が、後三年の役に出陣の際、足柄峠で笛の師、豊原時元子、時秋に相伝の秘曲の奥義を伝えたとされる



いなおおせどり  帝の比喩   すべての鳥の根源だから
よぶこどり    関白の比喩  当期を知らせるから
ももちどり    臣の比喩   さえずる様が、群臣の王命に従うようだから

734秋魚:2016/12/22(木) 15:48:28
(無題)
>・・成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年(天慶3年)、海路にて上総国尾垂浜に上陸。平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行った。

・・ここの本尊不動明王像は空海作といわれる。
「成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です」

 不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ [2](?????? [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。

「たとえば、不動明王は火生三昧(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、民衆を教えに導きながらも人間界の煩悩や欲望が仏界に波及しないよう聖なる炎で焼き尽くすと言われる。この為、炎の神力を以て祈願を行う護摩法要の本尊には、炎を司る不動明王と成る事が多い。」

・・明王は一般的に忿怒(ふんぬ)の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち、法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし、武器類を手に持った姿で表現されることが多い。

・・大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。
 大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。
 不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。

・・


「・・越路の雁も帰るなる、名残の空の八重霞、頃は弥生も晦日がた、・・花ノ香くもる駒ヶ根の、梺につゞく駅路や、赤穂の町は取分けて、・・祭れる法の光前寺、神かあらぬか昔より、伝ひて諸人群集する、例は不動明王と、檜舞台で近付に、成田を茲に移し絵や、・・


光前寺  長野県駒ヶ根市赤穂 北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

成田山新勝寺 千葉県成田市成田 北緯35度47分9.79秒 東経140度19分5.79秒

青梅金剛寺  東京都青梅市天ヶ瀬町 北緯35度47分21秒 東経139度14分57秒

隅田川神社?? 東京都墨田区堤通 北緯35度43分58秒 東経139度48分45.8秒

大悲願寺????東京都あきる野市横沢  北緯35度43分56.5秒 東経139度14分29.7秒

六義園  東京都文京区本駒込六丁目  北緯35度43分59秒 東経139度44分48秒

大菩薩峠 N35度44分09秒 E138度51分12秒
長岡駅  N37度26分49秒 E138度51分13秒

木母寺  東京都墨田区堤通  北緯35度44分01秒  東経139度48分51秒


・・木母は、梅のこと。

735秋魚:2016/12/23(金) 19:59:40
(無題)
心には見ぬ昔こそうかびけれ月にながむる広沢の池
                 (藤原良経 秋篠月清集)

いにしへの人は汀に影たえて月のみすめる広沢の池
                 (源三位頼政 新千載集)

736秋魚:2016/12/24(土) 18:55:29
(無題)
・・ネットで調べものしていたら、温泉マニアのブログの人は日本の温泉1400海外73とかもう40年近く温泉巡りをやってるとか、墓マイラーというのがあるようで著名な芸術の恩人の墓を訪ねて歩く人もいてほかに芸術ジャンキーのHPで盛り沢山のアクセス数が6千万突破とか、恐れ入ることが多い。芭蕉など俳人歌人の句碑を訪ねて温泉もよく廻る人のHPがお気に入りで、ある時メール入れたら丁寧なお返事があり、うれしかった。この方のでも50万くらいのアクセスがある。主に車でまわられてるようで、何よりヒマの都合をつけるのがむずかしいはずだがそこは出家に似た割り切り方があるようだ。経済基盤はそれぞれであまり詮索しないことにしている。インフラ度合いを考えてもたぶん自分のマニアックな温泉巡りは一生かけても到底追いつくまい。なにせ自転車だからね。・・車に乗ったり電車に乗ったりたぶんこれを外すのが旅の最大の節約仕事になってるから、羨望もないが。

・・余計なことを書いた。彼らの記録は時としてとても刺激になる。深謝。

・・自転車のタイヤ交換をする前にもう一度補修してしばらく様子見にした。自転車についても工学からツーリングまで上には上がいるのもよくわかる。ブレーキワイヤの交換とかチェーン調整、ディレーラの設置調整とか自分には未知のものがまだ多い。体が動くうちにロードバイクに乗ってみたい気がするが、これは夢で終わりそう。

・・近場の芭蕉句碑を訪ねることにした。羽村福生の新奥多摩街道沿いにある宗禅寺と神明社。以前から何度か前を通っていたが芭蕉の句碑があるのは知らなかった。例によってムーミンパパの温泉HPに感謝。

・・思い立って自転車に乗ると奇跡が起こる。新奥多摩街道を河辺あたりすぎて交差点で信号待ち。ちょうど居合わせた婦人が抱えた切り枝を見た。赤い実黄色い実で葉も青々してる。これは憶えがある。何ですか?ナンテンです。と、いったが違うでしょう。実は似ていても葉が違います。万両千両に似ているが枝も葉もちと大きい。いつか調べたアザカだと思った。・・なにか名を聞かれて急に一本わけてくれた。どうぞ、お正月まで持ちますよ。自転車に乗っていていただき様もないのだが、うれしかった。こちらの興趣にあわせてさらにもう数本。私も貰ったのよ。・・家で調べたら、やはりアザカだった。アザカというのは沖縄で憶えた。本土ではリュウキュウアオキとかボチョウジとかいう。葉が対生して上から見ると十字になり聖木とある。たしかに対生十字だ。実が黄色いのはやがて赤くなる。久高島のイザイホーで巫女が身につける。アザカという名は沖縄でしかない。・・それで青梅のこんな片田舎であるのが不思議だった。奇跡だ。

・・羽村市川崎にある宗禅寺はすぐにわかった。正門の前に来たがこの日はあいにくの葬儀があって境内に入れない。臨済宗建長寺派ということで句碑はあきらめた。福生の神明社もほど遠からぬところにある。いつもはこの横の道から多摩川の堤に向った。神社の裏にでて、楠木の大きいのがみえる。さらに枝垂れ梅の形のよいのが何本もある。花はまだない。

春もやゝけしきとゝのふ月と梅

・・福泉居友甫が自己の還暦に建立。

是からもまたおもしろき花の春

・・裏に友甫の句がある。

・・ここは梅の名木が多い。楊貴妃などの梅もある。・・観梅の頃また訪れてみたい。

稲荷神社がまた別にある。・・ほか近くの寺社の薬師堂もある。添え書きによると、薬師の功徳を求むるに「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」という妙号を唱えるべしと。

737秋魚:2016/12/26(月) 21:42:39
(無題)
・・葛飾北斎がシーボルトに請われて描いた絵があるという。どんな絵だろう。北斎の娘で葛飾応為というのもよく絵をした。『吉原格子先之図』という吉原遊郭での遊女の客見せの絵は魅かれるものがある。遊女を明るい座敷に集めて格子の外から客が相手選びをする。アムステルダムかどこかにガラス窓の娼婦という辻があった。似ているか。明暗の描法が西洋画のレンブラントに倣ったのではないかとか、江戸の絵画としては光の具合が斬新だ。
北斎と応為を描いた『北斎漫画』という映画を昔観た。図書館にDVDを借りにいったが、あいにく貸し出し中。代わりに内田吐夢『宮本武蔵/巌流島の決闘』を借りた。・・三部作の終章で武蔵vs小次郎の決闘の瞬間が特に魅かれる。巌流は小次郎が独力で編み出した剣術という。武蔵の二刀流もそうだ。際立った個性の剣術が雌雄を決する。こういう宿命が避けがたく存在することは、胸が震える。

・・無益な決闘などもうやめてほしい、ツウはいう。剣の道を究めようとした発心の計からすると演算のゆくすえは仮に変更が効かない。計算ミスがあるとしたらはじめの一歩だろう。宿命は精密な科学に似ている。小次郎も武蔵も宿命を受け入れるのが天才の宿命たる所以。紙一重の宿命だった。

・・青梅駅の裏手から鉄道公園の方に坂をあがって丘陵のハイキングコースへ出た。このあたりも入り組んでいて楽しい道だ。いつも新鮮な発見がある。金刀比羅神社が尾根山のもっとも東の端にある。ここにも芭蕉の句碑があるという。以前青梅丘陵を歩いた時は、句碑はずっとコースを進んだ山の中にあって不思議だった。記憶違いか。神社にはたしかに句碑が二つ。しかし読めない。「行く春に和歌の浦にて追いつけり」という句碑と聞いている。・・それよりここは見晴らしがよい。変わったものがあった。十二方角碑という。「寛政九年(1797)建立。安山岩製、頂部が錐形、十二角の柱状で、・・十二面の角柱に、それぞれの方角を示す十二支が漢字で刻まれている。・・」壷の碑に擬してとあり、青梅の文化人が建立したものだ。

金刀比羅神社   北緯35度47分34秒 東経139度15分30秒

・・ほかに本殿の裏に亀の像がある。この山は昔北斗山と呼ばれ七星権現が祀られていた。北斗妙見塚の由緒が古い。

・・栂の木もある。モミに似ているが栂であろう。

738秋魚:2017/01/12(木) 00:23:03
(無題)
・・今日の初乗りはおもしろい。五日市の瀬音の湯をめざした。吉野街道を西にのぼり和田橋をあがって梅ケ谷峠にむかう道がある。たいへんな急坂だがここを越えると日の出に入る。例の日の出山荘にゆく道だ。以前来たことがある。あの頃は梅がまだ咲いていた。日の出に入るまでは殺伐な道と覚悟していた。吉野街道を下って秋川街道から日の出あきるのに向う道はもっとひどい。車がぶんぶん。でこちらの梅ケ谷経由を選んだ。思ったとおり歩行者もチャリダーも皆無。車だけはけっこう走る。ひっそりした山の中で熊がいないか見たりする。この頃は冬眠しないだそうだ。坂は二段坂。一度のぼってさらにもう一段。坂は実はあまり恐くはない。ダンプとかの大きいのが苦手だ。日の出の道はのんびりしている。ここから秋川街道に合流して先は下りで車も多くはない。・・ほどなく五日市の駅前にでた。元日で観光案内所はお休み。交番が仕事する。やあやあと笑顔で挨拶。元日からすみません。温泉ではなく光厳寺というお寺はどこですか。檜原街道の戸倉あたりから山へ向うのは家で調べてあった。交番の巡査三人くらいいて光厳寺といってもすぐにはわからない。地図をひろげてああでもない。こうでもない。山桜のたいへんな古木があって花の季節がよいという。南北朝の頃に光厳天皇が流れてきていたそうだ。即位する前だけど。由緒深いお寺です。地図を開くとさすがに巡査は教えるのがうまい。骨子はすぐにわかった。もうひとつ深沢はどうやってゆくのですか。穴沢天神にゆきたいのです。穴沢天神は知らないけど深沢までの行き方は迷路のように入り組んでむずかしいですよ。駅の裏から一本道とみましたが。しかも上り。光厳寺も上り。上りを強調するが、実はこわくない。きょうの梅ケ谷峠越えほどではないだろう。深沢はただ距離がそうとうあるらしい。これも骨子をきいて、ありがとう。このありがとうという言葉はとてもいい。

・・殺伐とした道を抜けてくると出会う人はだれでもなつかしく思える。気安く話しかけるのがクセになった。ただ道をたずねるという話だけだが。西戸倉のバス停から左折して坂道をのぼる。山の上だそうだ。途中夫婦で歩いてる人がいてたぶんどこかの神社だろう。光厳寺はこの道ですか。はい私たちも行くのです。ありがとう。自転車はまだ大丈夫。やがて急坂になったら足着いてのぼる。三島神社というところにでた。運よく参道を降りてくる婦人がいる。ここで光厳寺を尋ねると、あの山の上だという。で三島神社も由緒ありそうですね。そうです。名前からして興趣ある。・・今度訪ねてみます。(実は帰りに寄ってみた)・・光厳寺に着いた。

・・下見のつもりでいた。瀬音の湯から周囲の土地にあまりにも寄らずに来た。この光厳寺には山桜の古木がある。山の上で見晴らしもよい。七福神の訪問があって人もそこそこ。桜は花はないが古木はみごと。花の季節にまた来てみたい。山桜というのがいい。千両か万両か赤い実がたわわ。南天もある。周囲の里山の眺めも抜群。正月から楽しくなった。

・・晦日に観た『北斎漫画』という映画。これも楽しいものだった。なんか傑作ですね。新藤兼人はもっと評価されるべき。田中裕子演じる娘のお栄も絵を描いたが、その辺はエピソードにもない。樋口可南子演じるお直がすばらしいが、この女実在したかどうか。そんなことはどうでもよい。ともかく傑作。

・・山桜、やまざくら、花がみたい。温泉は来てみてわかる。いかに人が集まるか。二年まえに来た時と客層がすこし変わったか。正月の穴場という風があったものだが、すっかり若者も多く温泉のメッカさながら。リピーターが増えているか。源泉は加水なく温泉本来のぬるみが保たれている。正月にここは正解。

・・曲亭馬琴は「くるわで誠」というヤボをこめたという。読み本書きだが俳諧もよくした。『南総里見八犬伝』は長くてとても読みきれそうにない。あんな荒唐無稽な話をよく続けたものだ。プルースト『失われし時を求めて』に匹敵するとか。幕末ものの『大菩薩峠』もだらだらと長い。あきさせないというが自分は読んでない。映画をみたくらい。失われし時は自伝だが、八犬伝や大菩薩峠はまったくのフィクション。江戸というのがキーワード。

739秋魚:2017/01/02(月) 22:44:21
(無題)
曲亭馬琴  明和4年6月9日(1767年7月4日) - 嘉永元年11月6日(1848年12月1日)
為永春水  寛政2年(1790年) -天保14年12月23日(1844年2月11日)
葛飾北斎  宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)
葛飾応為  寛政13年(1801)?‐慶応1865〜?生没年未詳
武志伊八郎 宝暦元年(1751)-文政7年(1824)
井上井月  文政5年(1822)-明治20年(1887)
寺門静軒  寛政8年(1796年) - 慶応4年3月24日(1868年4月16日)

・・為永春水は、江戸時代後期の戯作者。『春色梅児誉美』など人情本の代表作家。・・
天保の改革下の1841年(天保12年)暮、人情本の内容が淫らであるとして、北町奉行遠山景元の取り調べを受け、翌年手鎖50日の刑を受けた。それを苦に深酒して強度の神経症となり、1843年(天保14年)の暮れに没した。

・・寺門静軒は、幕末の儒学者。水戸藩御家人であった寺門勝春の子として生まれ(生母は河合氏)、13歳で父が死ぬが、彼は本妻の子ではなかったために後を継いで仕官する事が許されなかった。・・天保2年(1831年)より、江戸の風俗を記した『江戸繁昌記』を執筆する。天保6年(1835年)3月、青表紙本検閲の最終責任を負う昌平坂学問所・林述斎の助言を受けた江戸南町奉行・筒井伊賀守の命により、『江戸繁昌記』初・二篇は「敗俗の書」として出版差留の処分を受ける。・・天保13年(1842年)には江戸南町奉行・鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた『江戸繁昌記』は「風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引証…聖賢の道を穢し」たと判断され「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。・・以後、自らを「無用之人」と称して越後国や北関東を放浪する。やがて武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)に私塾を開いて晩年を過ごした。

740秋魚:2017/01/05(木) 03:22:20
(無題)
・・かやうな偶然性は単一者が同一性を以て数度繰返される点において、「失はれし時を求めて」の著者プルウストをして云はしむれば『それらは現在と過去とに同時に存在し、現実的ではないが実在的であり、抽象的ではないが観念的である。・・・時間の秩序から解放された一刹那が、時間の秩序から解放された人間を我等の中に再び造り出し、さうしてその刹那を感覚させるのである』

・・藤壺、空蝉、夕顔、六条御息所、紫上、末摘花、源典侍、朧月夜内侍、葵上、花散里、明石上、斎宮女御、朝顔、玉鬘のすべてが光源氏にとつては同一性をもって繰返された「幸ある偶然」である。

741山田:2017/01/05(木) 23:03:53
(無題)
自然居士

・・和泉国日根郡自然田村の人、法相の学を修めのち、禅宗に入り、南禅寺の大明国師に師事し、東山雲居寺に住した、頭を剃らず、法衣を著せず、時に或は袈裟を纒うて高座に登り、或は鼓を撃ち扇を取つて舞ふ、蓋し仏道を説いて衆生を帰依せしめやうとする方便である、その自然田村に生れたので自然といひ、僧侶でなく法を説くので居士と称したのである、東岸居士はその弟子であり。謡曲『自然居士』はこれを作つたものである。

・・ 雲居寺は、隋代の高僧静琬が建立した寺で、山麓沿いに建築物が建立された。静琬は、南北朝の廃仏中に多くの仏経が破壊されたが、石刻の仏経(=石経)の多くは破壊を免れたことを教訓に、山上に石を鑿って石室を造り、石経を作成し仏経を保存した。唐の開元年間と遼代に刻経活動は最盛期を迎え、唐代には玄宗によって『開元大蔵経』が雲居寺に下賜され、刻経の底本とされた。

遼代には、『契丹蔵(契丹版大蔵経)』を底本とした刻経が行われた。今日では、その双方の大蔵経が亡佚したため、雲居寺の石経は、その他の版本と校勘する際の一次史料とされている。刻経が盛んに行われ遼代には蔵経洞に石経を収容しきれない状況となったため、山麓に別の石室を穿ち、石経を安置した。刻経活動は、明代まで継続され、刻造された石経は計14,278枚に及んでいる。(wikiより)

・・貨狄尊者(かてきそんじゃ)または貨狄さま(かてきさま)とは、栃木県の龍江院に安置されていた木像の名称。「木造エラスムス立像」として国の重要文化財に指定されている。
・・本像は栃木県佐野市上羽田町の龍江院に伝来してきた古い木像で、長年、古代中国の伝説上の船の発明者である貨狄[4]の像とされてきた。しかし、1920年(大正9年)に足利市の郷土史家丸山瓦全により「耶蘇教僧木像」と紹介され、更に写真が1924年(大正13年)から2年間、バチカンで催された世界宗教博覧会に「在日本キリスト教聖人像」として出品され・・この像は1600年(慶長5年)3月16日に豊後国(大分県)の浜辺に漂着したオランダ船リーフデ号(前名エラスムス号)の船尾飾りであり、オランダの人文学者デジデリウス・エラスムス(1466年 - 1536年)の像である事が判明

742秋魚:2017/01/07(土) 02:21:19
(無題)
・・市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある。その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされている。

初代 市川團十郎(しょだい いちかわ だんじゅうろう、万治3年(1660年) - 元禄17年2月19日(1704年3月24日))は元禄歌舞伎を代表する江戸の役者。立役を得意とし、荒事芸を歌舞伎に導入した。團十郎が考案した見得は「元禄見得」と呼ばれる。

初代市川團十郎の父は甲州出身で、異名を「面疵(つらきず)の重蔵」、「菰(こも)の十蔵」と呼ばれた侠客だったという。
・・「菰の十蔵」というのは十蔵が非人出身なのでお菰(コジキ)の意味でそう呼ばれたものとされる。十蔵は甲州から出てしばらく下総国に住んだのち、江戸和泉町に住み着いたといわれている。

・・昭和初期に山梨県笛吹市一宮町の旧家で発見された堀越氏系図によると、遠祖は能係を務めた武田家臣で、初代團十郎の曾祖父にあたる堀越十郎が市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。ただし市川宗家は、初代團十郎は成田山新勝寺にほど近い幡谷の出身で、新勝寺とは少なからず縁があったと公式に表している。これが「成田屋」という市川宗家の屋号の由来である。

・・彼らは天保の改革時には、差別的な理由で浅草猿若町に集住を命ぜられ、市中を歩く際には笠をかぶらなくてはならないなどといった規制も受けた。歌舞伎が法的に被差別の立場から解放されるのは、結局明治維新後のことだった。
                           (wikiより)

初代1675?1704 |二代目1704?35 |三代目1735?41 |四代目1754?70 |五代目1770?91 |六代目1791?99 |七代目1799?1832 |八代目1832?54 |九代目1874?1903 |贈十代目 |十一代目1962?65 |十二代目1985?2013 |

・・天保13年 (1842)、天保の改革の旋風が吹き荒れるなかで、海老蔵は突如江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十里四方処払いとなる。これによって江戸の舞台に立つことが不可能となった海老蔵は成田屋七左衛門と改名。一時成田山新勝寺に蟄居したのち、駿府へ移る。その後さらに幡谷重蔵と改名して大坂へ昇り、京・大津・桑名などで旅回り芝居の舞台に立った。追放の直接の原因は、奢侈禁止令に触れる派手な私生活と実物の甲冑を舞台で使用したというものだったが、要するに罪状は何でも良く、その目的は江戸歌舞伎の宗家として江戸っ子の誰もが認める「あの團十郎」を手厳しく処罰することにより、改革への腰の入れようを江戸の隅々にまで知らしめることにあった。

743秋魚:2017/01/07(土) 12:08:22
(無題)
荻生徂徠

・・江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎・林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[5]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。

元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢吉保に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している。


宗祇

・・文亀二年(1502)、宗祇は弟子の宗長や宗碩たちと越後より関東を経て駿河に向った。七月下旬、鎌倉近きところ(相模守護代上田館)で千句連歌をおこない、その後、箱根山を越えようと湯本まで行くが、その夜、七月三十日、弟子たちに看取られて宗祇は亡くなった。このときのことは、宗長が『宗祇終焉記』に記している。
 宗祇から古今伝授を受け、親しくしていた三条西実隆は、宗長から『宗祇終焉記』と宗祇の遺物「沈香」「三両」などを送られた。・・実隆は、数年にわたり師事したときの高恩など、あれやこれやと忘れがたいとのべ、次の和歌を残している。

 魂と返す道なき箱根山 残る形見の煙だに憂し
 わが身こそ千々のこがねを報ひても 思ふに余る人の恵みを

744秋魚:2017/01/08(日) 01:05:57
(無題)
・・古学(こがく)は、朱子学を否定する江戸時代の儒教の一派。山鹿素行の聖学(これを特に古学(こかく)と言う)、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学の総称。
・・
後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する。
江戸中後期に流行し、越後長岡藩では藩校が建設された当初、古義学と古文辞学の両方が藩学となっていた。

古文辞学

・・古文辞学(こぶんじがく)とは、江戸時代に興った荻生徂徠に始まる儒教古学の一派。蘐園学派(けんえんがくは)または徂徠学とも。江戸時代中後期に盛んとなった。学問的には朱子学を批判し、伊藤仁斎の古義学に対抗した。

古文辞とは、明朝で提唱された復古的な文学運動。模範とする古典を文は秦漢期、詩は唐に求めた。

山県周南
太宰春台
服部南郭

・・服部 南郭(はっとり なんかく、天和3年9月24日(1683年11月12日) - 宝暦9年6月21日(1759年7月15日))は、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人、画家であり、荻生徂徠の高弟として知られる。・・京都の裕福な町人 服部元矩(もとちか)の次男として生まれる。母は蒔絵師の山本春正の娘吟子(ぎんこ)。父元矩は北村季吟に師事したこともあり、南郭は和歌や連歌など文雅の教養豊かな家庭で育ち、歌や絵の手ほどき以外にも「四書」や「三体詩」などを教えられる。

・・17歳の頃、甲府藩主 柳沢侯に歌と画業を認められ、これより18年間仕えることとなる。柳沢家には多くの優れた学者(細井広沢、志村禎幹、荻生徂徠、鞍岡蘚山、渡辺幹など)が仕えていたが、このうち荻生徂徠を慕い、やがて漢学に転向する。

南郭は師 荻生徂徠から徂徠学(古文辞学)を受け、太宰春台とともに蘐園学派の双璧とされた。しかし、実質的には蘐園学派は、太宰春台や山県周南の経学派と南郭、安藤東野、平野金華の詩文派に分裂した。徂徠学は人間性を画一的に捉える朱子学を批判し、人間の個性を肯定的に捉えようとする学派であり、そのために古語の理解は不可欠とする。詩文においては盛唐の詩を是とした。南郭はもともと国風の和歌、連歌の素養があり、この盛唐詩の風雅をよく理解したといえる。政治や兵法書に興味を持たなかった南郭は、春台らの古文辞への痛烈な批判を全く無視し政治的現実から韜晦し、ひたすら詩文を楽しみ、そこに人間性の解放を求めた。

745山田:2017/01/08(日) 14:48:44
・・
落花狼藉

https://www.youtube.com/watch?v=9LA3tXIcz1Y

746秋魚:2017/01/13(金) 23:42:33
(無題)
(黒漆の崑崙夜裏に奔る)

・・江戸の闇の深さはこんなものだろう。応為『吉原格子先之図』、光と闇の等位を見る。


・・

今から10億〜20億年後には太陽の温度が少しずつ上がり、地球は熱くなって生物は住めなくなる。

50億年後くらいになると、太陽はその寿命を迎え、

どんどんふくらんで赤色巨星になり地球上の生物も高温のため滅亡する。

太陽は最終的にはその核が白色矮星になる


・・

秋葉山本宮秋葉神社
静岡県浜松市天竜区春野町領家841   北緯34度58分52.44秒 東経137度51分56.81秒

元善光寺
長野県飯田市座光寺2638   北緯35度32分2.65秒 東経137度51分23.48秒


・・麻績の里 舞台桜がすばらしい。

747秋魚:2017/01/17(火) 22:29:05
(無題)
・・去年訪れた浅草寺の裏手だが、葛飾北斎終焉の地というのがあった。聖天町遍照院というところだった。「人魂で行く気散じや夏野原」が辞世という。ここに待乳山というのがあって、こんもり寄らずに来てしまったが、あそこは武蔵の歌枕というのを最近知った。

亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿

真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む

まつちやまゆふこえゆきていほさきのすみだかはらにひとりかもねむ

万葉巻三(298)

・・すみだ川というのが詠まれてあっても、ここは武蔵の隅田川ではない。角太というのは奈良五条市の宇智の野を下り吉野川が紀ノ川になるあたり、橋本、奈良と和歌山の境目の山が真土山という。角太川というのは紀ノ川になる。

本来は大和紀州の歌だが、東国武蔵の隅田川に転写されたようだ。

・・ポタリングの記憶では、たしかに待乳山はこんもり小高い社があって階段を登るのが億劫で訪ねなかったように思う。案内板の北斎終焉の地を確認していっぱいだった。

『春色辰巳園』から、

夕越る人を待乳のさん茶舟          未詳

みをつくす心のたけは千尋にてとゞかぬ文のたよりつらけれ  小松

一りんの梅に雪ふるじれつたさ    清もと

うらゝかな春をかぞへん雪の梅    珍奇楼

748秋魚:2017/01/22(日) 00:23:49
(無題)
・・八十里越(はちじゅうりごえ)は、新潟県三条市から同県魚沼市を経由して、福島県南会津郡只見町に至る街道および峠である。

・・八十里越は、幕末から戊辰戦争時にかけて越後長岡藩の家老であった河井継之助が生涯最後に越えた峠であり、現在の只見町は継之助の最期の地として知られる。

北緯37度23分48秒 東経139度12分27秒

青梅市沢井軍畑駅  北緯35度48分27.4秒 東経139度12分27.8秒
青梅赤ぼっこ N35度46分06秒 E139度14分17秒
金刀比羅神社   北緯35度47分34秒 東経139度15分30秒

河井継之助記念館(終焉の地只見) 北緯37度23分52秒 東経139度21分31秒
阿豆佐味天神社 西多摩郡瑞穂町 北緯35度46分0.52秒 東経139度21分53.65秒

大菩薩峠 N35度44分09秒 E138度51分12秒
長岡駅  N37度26分49秒 E138度51分13秒

光前寺  長野県駒ヶ根市赤穂 北緯35度44分5.45秒 東経137度53分43.58秒

・・光前寺(こうぜんじ)は、長野県駒ヶ根市にある天台宗の別格本山の寺院である。山号は宝積山(ほうしゃくさん)。院号は無動院。本尊は不動明王で秘仏。創建年 貞観2年(860年)

749秋魚:2017/01/24(火) 18:40:21
(無題)
遊獵

朝擇三能士
暮開萬騎筵
喫臠倶豁矣
傾盞共陶然
月弓輝谷裏
雲旗張嶺前
曦光己隠山
壯士且留連

旗 →(其→生)

        大津皇子 五言


・・

五言 遊吉野

飛文山水地
命爵薜蘿中
漆姫控鶴擧
柘媛接魚通
煙光巌上翠
日影漘前紅
翻知玄圃近
對翫入松風

・・
        藤原朝臣史


遊天台山賦(文選)

「王喬控鶴以沖天」

750秋魚:2017/01/31(火) 22:10:00
(無題)
・・継之助は、北へ駈けだした。
寅らも、あとを追った。半隊の兵も、疲労しきった体を前へ突き出し、のめるようにして駈けてゆく。
長町に入った。
継之助が家老になるまで住んでいた町である。武家屋敷がつづく。どの屋敷も、むろんあき家であった。
ぴしっ
と、板壁を飛弾が抜いた。と見るまに、継之助が駈けすぎた路傍に砲弾が落下し、夾竹桃をはねとばした。
さいわい、後続者にはけがはなかった。砲煙が、あたりにみちた。
―先生。
と、寅は叫んだ。継之助の姿が、砲煙のむこうに消えてしまっている。
一同が砲煙のなかを駈けすぎたとき、ふたたび前を走る継之助をみた。
「先生」
寅はふたたび叫んだが、継之助はどういうわけか、ふりかえらなかった。継之助が駈けぬけて行く家並の棟瓦を、天をゆく小銃弾が二つ三つ砕きとばした。寅は心配になってきて、
「先生」
と、三たび呼んだが、継之助はもはや往くことに憑かれたようになっているのか、背中を見せつづけている。足軽町の辻へ出た。左へ曲がればめざす新町である。
継之助は、まがった。このあたりはもはや戦場近くであり、弾が激しく飛んでくる。
「みな、続いているか」
というように、継之助はそのあたりの軒下ではじめて足をとめ、ふりかえった。継之助の頭上には、雁木があった。
雁木とは雪国の町に多い構造物で、町屋の軒から庇をながく張り出し、その下を冬季の通路とする。夏季んは、日よけになる。アーケードというべきであろう。
この庇の破れが、継之助の微笑に濃い翳をつくっていた。「きたな」と言うようにうなずくと、継之助はさらに飛び出そうとした。
むかい側の雁木に移るつもりであった。路上を横切った。
途中、流弾がきた。弾は継之助の左脚のひざの下を砕いた。
―あっ
と、後続者はみな声をのみ、さらに叫び、寅などは棒立ちになった。
継之助は、路上に倒れてしまっている。夏目貞五郎、堀忠一郎といった者がすばやく飛び出して継之助を抱きおこし、雁木の下に収容した。血が、すさまじいほど噴き出している。

・・

751秋魚:2017/02/05(日) 01:26:13
(無題)
・・おの/\こゝろをのどめて、あすは此の山をこゆべき用意せさせて、うちや
すみしに、夜中過るほど、いたくくるしげなれば、をしうごかし侍れば、只今
の夢に定家卿にあひたてまつりしといひて、玉のをよ絶えなばたえねといふ哥
を吟ぜられしを、聞く人、是は式子内親王の御哥にこそと思へるに、又このた
びの千句の中にありし前句にや、
  ながむる月にたちぞうかるゝ
といふ句を沈吟して、我は付けがたし、みな/\付け侍れなどたはぶれにいひ
つゝ、ともし火のきゆるやうにしていきも絶えぬ。

・・箱根湯本での、宗祇の臨終の様子。夢の中で定家があらわれたといい、吟じた歌は「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」という式子内親王の歌。

玉の緒は玉を結びつける糸だが一つではなく複数の玉であろう。忍ぶ恋と題されている。

水無瀬川の記憶か?

式子内親王

後白河天皇の第3皇女。母は藤原成子(藤原季成の女)で、守覚法親王・亮子内親王(殷富門院)・高倉宮以仁王は同母兄弟。

・・定家との秘された愛恋は有名。

752山田:2017/02/05(日) 23:52:45
(無題)
??五柳先生傳

先生不知何許人,
不詳姓字,
宅邊有五柳樹,
因以爲號焉。
閑靜少言,
不慕榮利。
好讀書,
不求甚解,
毎有會意,
欣然忘食。
性嗜酒,
而家貧不能恒得,
親舊知其如此,
或置酒招之,
造飮必盡,
期在必醉,
既醉而退,
曾不吝情。
環堵蕭然,
不蔽風日,
短褐穿結,
箪瓢屡空,
晏如也。
常著文章自娯,
頗示己志,
忘得失,
以此自終。

753山田:2017/02/06(月) 00:24:41
(無題)
 「五六月中、北窗下臥、遇涼風暫至、自謂是羲皇上人。」


南郭子綦隱几而坐,仰天而?,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎。形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎。


・・北窓vs南郭

北窓は月無しで牡丹餅のこと。

南郭は廓の南、玉の井でウツケ。

754秋魚:2017/02/08(水) 00:52:37
(無題)
・・最新のパソコンネット事情に挑戦して四苦八苦。政府を狙うハッカー攻撃というものはないが、弱小パソコンオペレーターには企業からの小ざかしい仕掛けが続く。いわゆる成り行きに任す応対が積もるとろくなことは無い。意を決してアプリケーションの削除アップデート等試みた。間違った削除もあってシステムの復元などもやった。古いOSやアップデートを無視するとエラーのブルースクリーンが出たら要注意。スパイウエアごときは堂々と送ってくる。

・・とりあえず5年延命策のネット体制をつくった。win10にも挑戦。

二月に入って梅があちこちほころびはじめた。福生の神明社に枝垂れ梅のみごとなのがあって、機を逸してはなるかと、今日ポタリングに出た。近場だが天気もよくこんな日は外に出ないと罰が当たりそう。福生の郷土資料館でも俳人森田友昇の展示がはじまった。ここも廻って来よう。
ネットで知ったが、最近自転車の本体の事故が多いという。ハンドルが折れたり、車輪がはずれたり、ハード部分の信じられない事故が多い。台湾製のものは頑丈なはず。GIANTはそれでブランドになった。自分のはもう五六年になるが、磨耗タイヤの交換くらい。ギアとフレームは強い。ほんとうはもう一台欲しいのだが。・・ものをどんどん捨てにかかっているのにダメですね。

梅はやはりみごと。芭蕉の句碑もあって刻んだ文字も辿れるが、かなりの達筆な文字。昔の人はたいしたものです。

755秋魚:2017/02/08(水) 12:50:15
(無題)
・・「森田文庫」というのがある。明治初期に活躍した多摩福生の俳人森田友昇。福生出身だが、多く横浜で生業を営んでいた。明治十二年に八王子星布の松原庵を四世で継いだ。多摩八王子横浜の俳諧を多く取りまとめた感があるが、余り知られていない。
今回の展示は、江戸画壇狩野家の画幅のほか、英一蝶の絵もあり、また元禄六年芭蕉怒誰宛書簡などめずらしいものがある。狩野愛信「騎牛笛吹童子図」狩野時信「大梅禅師図」英一蝶「東照宮強飯図」など興趣深かった。若山喜志子の色紙もあって森田家をよく訪ねたとのこと、理由を学芸員の人に聞いてみたがよくわからない。松原庵の榎本星布に憧れていてそれで訪ねたとも聞いているが、定かでない。・・書籍は「横浜地名案内」と句集「浅川集」というのが、おもしろい。森田文庫は一千点の蔵書があるという。今回の展示は入れ替えなく四月十六日まで開催。

756秋魚:2017/02/09(木) 02:16:57
(無題)
十劫正覚衆生界
一念往生弥陀国
十一不二証無生
国界平等坐大会

(二河白道図)1271信濃善光寺

757秋魚:2017/02/10(金) 03:03:00
(無題)
・・きょうは一日win10と格闘。もう少し若かったらジャンク品を拾ってきて改造パソコンを作って見たいところ。パソコン寿命は5〜6年というから中古のよいのが出回ってる。使い勝手のよいwin7もマイクロソフトはあと4年でお釈迦にする算段だろう。くやしいがwin10を一台導入した。自分の寿命というのもある。・・感想だが、コンピュータのシステムの内側をだんだん見えなくなっている。自動更新などもほぼ強制になっている。スマホやタブレット仕様で多彩なアプリソフトが組まれているが自分にはほとんど不要なものばかり。前回のwin10無料アップデートなんてのもいやらしいファイルをいくつも送ってきた。officeに付属したwindowspicturemanegerという画像ソフトはもう付いてこない。・・使いかってがよいので惜しむ人も多い。実はこのソフトだけ無料でダウンロードできる。ニューパソコンはまったく問題ないのがわかったので、このソフトのインストールまで挑戦。・・それにしても気になったのはアップデート更新の数が日に日に増えていくことだ。今中古でwin7をはじめると気が遠くなるような更新の数を強いられる。更新を停止するとかならずコンピュータは重くなる。・・愚痴はいうまい。既存のコンピュータは更新のおかげでとても軽くなった。

758秋魚:2017/02/16(木) 13:45:31
・・
(二九二)うりんゐんの木のかげにたたずみてよみける

僧正遍昭
  わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり

(二九三)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる

そせい
  もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん

(二九四)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる

なりひらの朝臣
  ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは


・・ソセイの歌だが「もみぢ葉のながれてとまるみなと」この「みなと」は特定できる。

竜田川の河口であろう。大和川に合流して大坂の海に入る。

神武軍退却の経路と重なるか?

・・

永承四年内裏歌合によめる

嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり(後拾遺366) 能因法師

・・734年畿内七道地震は、生駒山地系と金剛山地系の間の断層帯。竜田川大和川の筋か?

・・神武vs長髄彦の戦いのダブルイメージ。孔舎衛坂(くさえのさか)で五瀬命負傷。

「今我は是(これ)日?(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして日に向いて虜(あた)を征(う)つは、此(これ)天道(あめのみち)に逆(さか)る也。 若(し)かじ、退(しりぞ)き還りて弱きを示し、?祇を禮(いや)び祭りて、背(そびら)に日?(ひのかみ)の威(いきおい)を負い、影の隨(まにま)に壓(おそ)い躡(ふ)まん。 如此(かく)なせば、則(すなわ)ち曾(かつ)て刃に血せずして、虜(あた)必ず自ずと敗(やぶ)れん」

ちはやぶる →血は敗る


・・

安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

万葉集巻第十六 3807


(あさか山の歌)歌の心はかげさへ見ゆるとは高山のかげもうつる程ふかき水と云るなり。浅き水には物のかげのうつる事なし。されな浅くはおもひ奉らずといはんために影さへ見ゆるとよめるなり。大かたの山井はかげ浅き物なり。此山の井は深きなるべし。打見るにあさきやうなれども、まことはふかき水なるを国司の心にたとへてよめり

759山田:2017/02/17(金) 00:37:46
・・
元暦2年(寿永4年)2月19日  屋島の戦い
元暦2年3月24日  壇ノ浦の戦い。平家が滅亡
元暦2年7月9日 元暦大地震が起こる。地震の震源は京都盆地北東部で、マグチュードは7.9と推定されている[1]。

1185年  長明「方丈記」(1212)はこの地震だな。

鴨長明 1155−1216

760秋魚:2017/02/17(金) 14:27:22
・・
北 冥 有 魚 , 其 名 為 鯤 。 鯤 之 大 , 不 知 其 幾 千 里 也 。 化 而 為 鳥 , 其 名 為 鵬 。 鵬 之 背 ,不 知 其 幾 千 里 也 。 怒 而 飛 , 其 翼 若 垂 天 之 雲 。 是 鳥 也 , 海 運 則 將 徙 於 南 冥 。 南 冥 者, 天 池 也 。

761秋魚:2017/02/18(土) 16:23:51
(無題)
・・春一番があった。青梅マラソンの前に青梅丘陵ハイキングコースを歩くことにした。熊が出る前に。自転車より歩くのが基本。
・・枝垂れ桜で名高い梅岩寺に寄ってここの梅も捨てたものではない。大変な古木があるが花は盛りをすぎていた。境内の裏からハイキングコースにあがる道があるはず。たぶんこの道だろう。竹林の中を通って途中梅岩寺を裏から見晴らかすスポットもある。道の途中に板絵がいくつも建てられている。千手観世音、如意輪観音、十一面観音が多い。梅岩寺は真言宗豊山派だが。
・・同じ青梅でも花つつじで名高い塩船観音寺は、真言宗醍醐派の別格本山で、秘仏の本尊は十一面千手千眼観世音菩薩という大悲仏。蓮華王ともいわれる。やはり花つつじで名高い青梅の薬王寺は真言宗豊山派だが、本尊は聖徳太子作という薬師如来像。成田の不動明王は空海作といわれるが、太子作というこちらの方が妙味ありか。因みに昨夜学習したことだが、薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも称される)の教主であり、西方極楽浄土の阿弥陀如来と対照をなす。仏法の東西の対照について、あまりに迂闊にすごしてきた。塩船観音や薬王寺の花つつじがかくも華麗荘厳なのは深い意味がある。
「瑠璃は、金、銀、玻璃(はり)(水晶)、車渠(しゃこ)(貝の一種)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)とともに七宝のひとつとされ、いわゆるエメラルド、アクアマリンといった緑色、青緑色の宝石、またはラピスラズリをいう。したがって瑠璃光とは、その宝石のような美しい青色、緑色の輝きを意味している。」

・・倭人伝に伝えられた「白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す」の「青大句珠」とは、ラピスラズリの勾玉か。

・・それにしてもいろんな木がある。がっかりしたのは、自分が木の名を言い当てられるものがほとんどないこと。杉と檜の区別さえ覚束ない。檜は檜風呂とかいって特殊のアロマを出す。法隆寺金堂の木材はおおかた檜だという。杉に似てまっすぐ伸びるが見映えはよくない。大木というのもあまりみない。栂は想い出したが、目の詰ったよい木だ。将棋盤や駒に使うと聞いたことがある。せっかく散策にでたから、新しく木の名を憶えたい。アラカシというのがあった。樫の木の一種でこれはよくみる。落葉樹は幹だけしかわからない。これは何だろう。桜に似ているミズメかな。アズサか。

762山田:2017/02/19(日) 01:18:23
・・
越後より上りけるに、姨捨山(おばすてやま)のもとに月明(あか)かりければ

これやこの月見るたびに思ひやる姨捨山の麓なりける(後拾遺533)

・・橘為仲 長和3年(1014年)頃 - 応徳2年10月21日(1085年)

・・能因法師 永延2年(988年) - 永承5年(1050年)

・・菅原孝標女 寛弘5年(1008年) - 康平2年(1059年)



 ある所にある女、桜花の散るを見てもの思へるさまにてかくいふ
  うき身をばなぐさめつるに桜花いかせにせよとかかくは散るらん
 これを聞きて
  思ふことなぐさめけるは桜花をばすて山の月にますかも
 女、かえし
  をばすての山をば知らず月見るはなほ哀れます心地こそすれ
 また返し
  月はまたなほ哀れと物を思ふなりつれなき人は見ぬやあるらん    (能因集)


さらしなや姨捨山に旅寝してこよひの月を昔見しかな  能因

月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵訪ね来つらむ 菅原孝標女

・・

更級の山のたかねに月さえて麓の雪は千里にぞしく(九条良経)
雪白き四方の山辺を今朝見れば春の三吉野秋の更科(同)
月ならぬ雪も有明の冬の空くもらば曇れ更級の里(後鳥羽上皇)
月さえて夕霜こほるささの葉に霰降るなりさらしなの里(藤原家隆)

更科のさむき山べのうの花はきえぬ雪かとあやまたれつつ(平兼盛)
更科の山ぢに咲ける白菊の花もまばゆき秋の夜の月(藤原忠兼)

あらし吹く山の月かげ秋ながらよもさらしなの里の白雪(定家)

763秋魚:2017/02/22(水) 02:12:23
(無題)
龍田河錦をりかく神無月時雨の雨をたてぬきにして

よみ人しらず (古今和歌集巻六冬)

をりかく →織り 欠く 懸く 駆く

神無月 →十月

たてぬき →縦 貫き  どちらかというと経線(南北線)であろう。

764山田:2017/02/23(木) 01:10:37
・・
・・神坂峠(みさかとうげ)は、木曽山脈南部の岐阜県中津川市と長野県下伊那郡阿智村の間にある標高1,569 mの峠である。位置は、北緯35度28分19秒東経137度37分55秒。


花歌とて

吹きのぼる木曾の御坂みさかの谷風に梢もしらぬ花を見るかな(続古今139)鴨長明


横浜みなとみらい  北緯35度27分29秒 東経139度37分55秒
横浜駅    北緯35度27分58秒 東経139度37分21秒

765山田:2017/02/24(金) 00:59:39
・・
蓬莱に聞くばや伊勢のはつ便り

此たびはいせのしり人おとづれてたより嬉しき花柑子かな(慈鎮)

・・

大原や小塩の山もけふこそは神代のことも思ひ出づらめ(七十六段)

766秋魚:2017/02/24(金) 02:11:13
(無題)
・・伊勢物語七十六段。

「むかし、二条のきさきの、まだ春宮のみやすん所と申ける時、氏神にまうで給けるに、このゑづかさにさぶらひけるおきな、人々のろくたまはるついでに、御くるまよりたまはりて、よみてたてまつりける。
 おほはらやをしほの山もけふこそは神世のことも思ひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかゞ思ひけむ、しらずかし。」

・・

古今和歌集

(二九二)うりんゐんの木のかげにたたずみてよみける
僧正遍昭
  わび人のわきてたちよるこのもとはたのむかげなくもみぢちりけり

(二九三)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる
そせい
  もみぢ葉のながれてとまるみなとには紅深き浪やたつらん

(二九四)二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢながれ
たるかたをかけりけるを題にてよめる
なりひらの朝臣
  ちはやぶる神世もきかずたつたがはから紅に水くくるとは

・・「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に」

藤原高子(842-910) 清和天皇の女御、後皇太后。
貞観八年(866)二十五歳で入内。貞明親王を産む。(869年1月2日)

貞明親王は、三ヶ月で立太子、貞観十八年(876年)九歳で帝位につく。陽成天皇。

つまり、二条の后が東宮のみやす所であったのは、869年から876年の間のこと。

・・伊勢物語の著者は紀貫之という説もあるが、「神世(代)」が藤原高子に問われている。

井月の書簡に、

「蓬莱に聞ばや伊勢のはつ便り
慈鎮和尚の歌に
 此たびはいせのしり人おとづれてたより嬉しき花柑子かな
此古歌どりなり。」

・・

伊勢=神世というスタンス

767山田:2017/02/24(金) 13:58:38
(無題)
みちのくのしのぶもぢずりすぢもふのしのくのちみ
未知の狗の詩述ぶも血摺り筋も不能凌ぐ後箕

つついつのいつつにかけしけかにつついのついつつ
筒異つの出津に架けし毛蟹ツツ胃の通五つ

あやめかりきみはぬまにそにまぬはみきりかめやあ
綾女狩り黄身は沼二祖二馬奴は見切り瓶やあ

さつきまつはなたちばなのなはちたなはつまきつさ
五月松は屶恥葉菜の名は千だ縄妻詰さ

みよしののたのむのかりもりかのむのたののしよみ
見よ篠の頼む逃り森かの無能多罵詠み

わすれてはゆめかとぞもふもそとかめゆはてれすわ
忘れ手は夢か兎鼠も巫も粗と亀湯は照れ巣わ

つきやあらぬはるやむかしかむやるはぬらあやきつ
月箭吾ら弩張るやむか鹿亡夜流は奴らあ焼つ

いにしへのしづのをだまきまだをのづしのへしにい
猪西へ野屍角を朶巻き未だ斧頭偲へし兄

つひにゆくみちとはかねてねかはとちみくゆにひつ
津干に愉句未知と墳寝て涅か鳩血み苦湯に筆

768秋魚:2017/02/28(火) 20:05:33
(無題)
・・乗りかかった舟。win10のオペレーションにはほとほと愛想がつきそう。不具合が次々と出る。きょうはいきなりブラックスクリーンになった。OSを立ち上げても真っ暗では打つ手も無い。重大なエラーかとセーフモードの起動とか試みようとしたが、win10は簡単には操作できない。win10の最初の立ち上がりで自動修復までもっていけばセーフモードもオプションで選べる。ところが駄目ですね。チェックツールが入るだけで再起動後は元の木阿弥。真っ暗。個人がシステム操作できないような構造になってる。リカバリーディスクが存在しないから立ち上がりスタートメニューからの回復もできない。回復というの実は試みたのだけどこれもエラーで不成功。部分的な不具合はネット検索などでいくつかは修復できる。win10の不具合はおおかた後からのアプリソフトのインストルによる。これは削除で解決することが多い。・・ブラックスクリーン というのはもう壊れたかと観念したが、やや簡単に復旧できた。・・要するにディスプレイの明るさが何かの弾みでゼロになったわけ。バッテリーモードで起動するとちゃんと画像がでる。バッテリーで立ち上げて電源の設定を調節すればよいだけだった。これに気づくまでなんと時間を食ったことか。テェックするのに時間がかかります。お待ちをなどいってパソコンは時間泥棒もいいとこ。こんなのに付き合って残り少なの人生を食われるのは、どうもね。ま、乗りかかった舟でしょう。

769秋魚:2017/03/01(水) 14:32:38
(無題)
・・サインイン統合というのが各社ネックでしょう。弊害も多い。win10はとりあえず安定したから3年は使えるでしょう。・・itの開発者はしのぎを削っているようだがビジネスが絡むとブラックホールも多い。自動車のリコールと同じでただコンピュータには更新のパッチファイルが送られてくるだけ。xpなど誰も見向きもしなくなってネット以外はとても安全。win10はサイバー攻撃のかっこうの目標ですな。defender用更新ファイルとはほぼ毎日送られてくる。無理もないというか穴だらけのOSですな。・・二三懸念事項はあるが、win10は卒業にする。

・・聲澄みて北斗にひゞく碪かな

名栗の星宮神社に芭蕉の句碑を訪ねた。こんなところにしかも安政3年(1856年)の建立。揮毫は江戸の孤月庵卓郎。

770秋魚:2017/03/14(火) 22:49:03
(無題)
・・春の散策ガイドツアー吉野梅郷に参加した。NPO法人が企画して東京都が後援らしい。らしいというのは、深く考えたくないためだ。ネットで申し込んで、応募多数、抽選で当たった。地元で活動していて当たるような気がした。吉川英治記念館がメインであと近くに梅の公園がある。梅郷の梅は数年前人気投票でNo.1であったが、残念なことに梅ウイルスが発症し市内のめぼしい梅はざっくり切られてしまった。この梅の公園にも千数百本の木があったが、感染を防ぐためにすべて切った。・・これ実はうまくいってない。隣の福生の梅の木もやられているらしい。成果は万全ではないが、鶏ウイルスと同じでこういう伐採のほかはないらしい。梅郷では実は跡地に新しい苗木の植え付けが始まっている。きょうはそちらの成果も見て取れる。

・・二俣尾駅集合で、電車代だけお願いしますということだった。何のことはない自転車で行ける。朝小雨がちだったが、何のことはない。平日だからどんな人が集まるか、まあ退役の暇人か主婦が多いのかもと思っていた。女性が多かったけど、みなユニークな人っぽい。一人若い娘さんが参加して、自己紹介では、きれいな声で中国から来ましたという。留学生で観光経済を専攻中。日本語がとてもうまい。(おまけに美人)。・・専門のガイドさんが二人ついてまあ詳しいことくわしいこと。大変におもしろいツアーになった。出不精で人の交流がしばらくなかったので、くらくら目眩がしそう。

・・梅の種類で「鴛鴦」「新平家」「書屋の蝶」というのがあり、後ろ二つは青梅の新種という。「鴛鴦」はひとつの花で実が二つ成り、「新平家」は八重の紅梅で花弁の陰翳に趣あり、「書屋の蝶」は五つの花弁の先が尖っていて蝶が留まっているよう。

・・桜は「咲く」「散る」、梅は「ほころぶ」「こぼれる」、牡丹は「開く」「くずれる」。こういう決まった言葉使いだという。文を書くのにこれも知らなかったことだ。花はみな咲く、散るだと思っていた。

・・二人のガイドさんのうち一人は植物が詳しい。ニリン草、かたくりは春先日の当たる内さっと咲いて隠れてしまう。・・むらさき草について尋ねたが、やはりほぼみない草だった。・・もうひとりのガイドさんは、歴史、地理いろいろ詳しい人で、これもとっておきの質問、常盤御前の青梅寓居について訊いてみた。これは不思議ですね。まったく知らないことという。青梅の成木とか飯能にも伝説がある。義経だって、武蔵野を横断できなくて周辺の山間をめぐって奥州に向かった。・・伝説ということでみな外すのだろう。・・作家が小説で書いてはいまいか。吉川英治が地元にいて書く気もしたが、「義経」という小説は司馬遼太郎のもの。ともかくこれは自分で当たるしかない。

・・昼食はこの企画でソバをご馳走になった。これも感動ものです。

771山田:2017/03/18(土) 10:18:35
(無題)
・・四天王とは、仏教における持国天、増長天、広目天、多聞天のことを言う。 それぞれ東、 南、西、北の方位を守護しているとされる。

772秋魚:2017/03/24(金) 23:06:33
(無題)
・・尭恵 ぎょうえ

1430−? 室町時代の僧,歌人。
永享2年生まれ。天台宗の学僧。法印。二条派の歌人尭孝(ぎょうこう)について種々の口伝をうけ,「古今抄延五記」など歌書の注釈を執筆。公家,武士,僧にわたるひろい交遊でも知られる。号は藤の坊。著作に「吾妻道記」「東国紀行」,家集に「下葉和歌集」。

・・「東国紀行」は「北国紀行」とも。

作者堯惠は、白山系の修験者。堯孝に歌を学び、『古今血脈抄』『古今抄延五記』を著す。寛政6年(1465)加賀から信濃善光寺に詣でて『善光寺紀行』を著し、文明18-19年(1486-1487)武蔵・相模を遊歴して『北国紀行』を著した。

・・

773秋魚:2017/03/27(月) 03:14:39
(無題)
・・二俣尾の名の由来について、青梅街道が軍畑のあたりで奥多摩と秩父方面に分かれるので二俣尾というのだそうだ。梅郷ツアーでそう教わった。秩父方面には成木から小沢峠を越えて名栗に入り、さらに山伏峠を越えれば秩父に入る。この秩父へ向かう道は鎌倉古道ともいわれる。鎌倉ではなく相模の大山詣での道とも聞いている。・・二俣尾、軍畑の駅から成木にむかって坂を登り、高水山にあがる参道がある。これはいつか歩いた道だ。この参道のちょうど入口あたりに高源寺というもの寂びたお寺がある。境内に石碑があって、芭蕉の句が刻まれてあるのがわかったのは、平成二十一年七月の調査のことだった。文字が判読しづらく長い間未知の句碑であったが「古寺廼桃耳米ふ無於とこ可那 はせ越」と読める。「古寺の桃に米ふむおとこかな 芭蕉」というので、あまりみかけぬ句と思っていた。正岡子規「俳諧大要」に載っているというので調べてみたら「芭蕉雑談」にある。薀雅なるものという。

・・桃はこのあたり江戸の昔は桃の花園で満ちていたという。むろん芭蕉がこの青梅で詠んだものではない。よくわからぬのは「米ふむ」という所作。これは米を精米するための地唐臼で踏んでいるのだという。桃の花とのい対比がいい。薀雅ですか。

・・この「米ふむ」で想い出した。

 越後生れは多く米つき
佐渡の花我秋津洲の誉れ也
 ・・

独吟歌仙の平句で余り気に留めていなかった。「米つき」というのを辞書で調べてみた。高源寺の句碑「桃に米ふむ」と同じ精米の所作であろう。米つき専門の職人もいたそうだ。子供のころ米つきバッタなどもよくみた。米どころ越後はわかるが、青梅では米はほとんど作らない。麦はとれたようだ。


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