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おしゃべりルーム
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ヴィルパン
フランス語のコーナーみたいになりますが、フランスの呼称って、住んでいたらもちろん分かってきますが、アングロサクソンとは全然違います。イギリスの映画とか観てたら、学校で生徒を姓で呼んでるみたいですが、フランスではほぼ名のほうです。スターはアメリカでは名で呼ぶことが多いようですが、こちらでは少しでも公共の人はドヌーヴとかドロンとか姓で呼ぶことが多いです。だからこそ今のアイドルは、アメリカ風にファーストネームを呼ぶ傾向があります。後、インタヴューなどで、姓名をフルネームで呼べば、ムッシューという敬称は必要ないのです。たとえば、「メルシー、ドミニック・ド・ヴィルパン」と言えます。「ムッシュー・ル・プルミエ・ミニストル」とも言います。雑誌や新聞では敬称抜きのヴィルパンあるいはフル・ネームです。一番多いのは「ヴィルパン」だけ。ドはつけても間違いじゃないですが、有名になればなるほど消えます。ヴィルパンも外務大臣の頃はド・ヴィルパンと書かれていたことがありました。ムッシューの後ではどちらかと言えばド・ヴィルパンかな。ではどうしてド・ゴールはド・ゴールかといいますと、ドがなくなるには、1「有名」、2「ドに続く名がある程度長い」、3「ドに続く名が知られた地名でないか地名以外のルーツを持つ」の条件があり、ド・ゴールは1しか満たしていないからです。日本でも、たとえばシモーヌ・ド・ボーヴォワールとか有名でしたが、ド・ボーヴォワールと呼ばれずに、フランス風にボーヴォワールでしたね。でもフルネームならドが復活します。画家のアンリ・ド・ツールーズ=ロートレックとなると、ツールーズは有名な土地ですが、フルネームでないと誰もド・ツールーズ=ロートレックと言ってくれません。日本同様、ロートレックで通用します。ただし、彼は厳密に言うと、ツールーズ伯爵家とロートレック伯爵家の姻戚で生れた分家で彼の代で途絶えました。本家筋のロートレック伯爵家はまだ存在しますが、姓からドをとっちゃってます。ええと、上に挙げた条件というのは、私の見た経験則であり、別にどこかで成文化されてるわけではないです。おもしろいですね。
共同体の話ですが、たとえばどこかの優勢な共同体に属しているから安泰というわけでなく、その中で老いたり病んだり落ちこぼれたりしたときに誰が救ってくれるかと言うことですね。アリストテレスは「愛があれば正義はもう必要ない」なんて言っていました。確かに、みなが自然に弱い人をかばってくれるなら、主義も法律もいらないかもしれません。今のユニヴァーサリズムは、起源的にはユマニスムということです。こういうと必ず、「西洋の人間中心主義が地球の環境を壊したから八百万神の多神教の方が地球に優しくベターだ」とか言う人が出てくるんですが、よく見てください。ユニヴァーサーリズムのヒューマニズムの名において、国籍や文化がどうこうを超えて、何の関係もないのに、ソマリアに水を運ぶ人とか、ルワンダに援助に行く人とか世界中の天災現場に駆けつけるグループが存在し、キューバの捕虜収容所で虐待されている人が世界に向けて連帯を求めたりしているんですよ。ユニヴァーサリズムが西洋キリスト教起源であろうとなかろうと、全体主義の国に生れたり貧困国に生れたりするのは、偶然の采配に過ぎず、失業、事故、老いや死など、誰にとっても明日はわが身、強い時に弱い者を思いやり、弱くなったら共同体の枠を超えて助けてもらえるという理想はすごく大事にしたいと私は思います。愛があればすべて解決するかもしれませんが、愛することはアリストテレスの時代からいかにも難しく、永遠の挑戦なのですよね。それと、人間の置かれる状況は一筋縄でいかず、正義のために愛を犠牲にしたり、愛のために正義を犠牲にしたりという局面を繰り返して、相対主義のニヒリズムや絶対主義の誘惑と戦いながら少しずつ連帯していくという希望を捨てたくないです。
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拍手
仏文学者、杉本秀太郎氏の「半日半夜」講談社文芸文庫 に音楽会の話がかいてありました。その中で、拍手について、かかれているところ。
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拍手
急にきえたので、つずけます。「音楽会には、じつに厄介な音楽の天敵がかならずあらわれる。つい今し方までの音楽をたちまちにして、食いつぶす天敵とは、拍手である。。何故拍手をしなくてはいけないのだろう。ドビュツシは拍手の習慣をいまいましくおもつて板。「最大の熱狂を表明するのに、戦争の雄たけびを発しつつ、両手をパンパンとうちあわせるというのは、あの石器時代以來の本能的な欲求のしからしめるところなのだが、かんがえてみると、まつたく奇妙なものだ。(ドビユツシー「音楽のために」15p)ラモーも拍手はきらいだつたようですね。「拍手の音はあなたのオペラ音楽以上に快くお耳にひびくのでしょうか」というドビュツシーの質問に「私は自分の音楽の方をまだあいしております。」とこたえたとか。宮廷人の評判を気にしながらの答えであつたとか。音楽家にとつて、拍手のもツ、意味とか、感じとか、おしえていただけるとうれしいです。政治論議のなか、お邪魔しました。
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間違い多くて、ごめんなさい。
サイトへの投稿はどうもうまくゆかず、アツというまにはいつてしまい、間違いだらけ。すみません。
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ギリシャ
竹下様、
私事ですが、今度GWにギリシャへ行きます。ギリシャでは、学生時代に演劇部で『オイディプス王』をやって以来憧れのデルフォイに行こうと思っているのですが、竹下さんはデルフォイに行かれたことはありますか?もし行かれたことがあるなら、どんなところか教えてください。また、こんなところがよかったよ、というところがあれば教えてください。それと、エーゲ海クルーズをされたということでしたが、船酔いはなかったですか?サントリーニ島に行こうと思ってるのですが、私は船に弱く(ダイバーなのに!いつも酔い止めのお世話になってます)ひどく揺れたりしないかと心配でちょっとブルーになってきてるんです。。。
なんだか、みなさん、次元の高いお話をされてるのに変な質問でスミマセン。
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拍手とギリシャと船酔い
なんていうか、音楽会で「音楽鑑賞」をしている人には拍手が天敵というのは分かります。自分のうちのリスニングルームで一人静かに音楽を聴いたあとで、雷鳴に驚かされると興ざめなように。でも、生の演奏会に行くのは、社会的な行為で、生の演奏家からメッセージを受けているわけですから、演奏の後にこちらの気持ちを拍手で伝えたいというのも自然で、たいていの聴衆は後から個人的に感動を伝えたりできないのですから、拍手に目くじら立てることはできないと思います。私は、拍手したい気分の時はします。あるいは知り合いが演奏したときは必ずします。それから知り合いが私のそばにいる時も。私が拍手をしないことに気づいて興をそがれる気になる人がいるときは特に。
弾く立場になって言いますと、これは、拍手の中身が微妙に分かります。演奏してるときは集中力とか研ぎ澄まされていますから、心から喜んでもらえたとか、感動してもらえたとか、感謝してもらえたとか、感心されたとか、義理の拍手とか、終わってほっとしたという解放感の拍手だとか伝わってくるんですよ。それは演奏中にも伝わってきて、すごく支えてもらってると思えた後で拍手をいただけると嬉しいです。逆にちょっと、だめだったかなと思ったときに意外に暖かい拍手だとほっとしたり。
サロンコンサートとかだと、最前列で居眠りされたりするのが見えるとすごくつらいです(私もコンサートで寝ることがあります。でも最前列なら我慢します)。私たちのようにオリジナルの組曲ばかり演奏してると、組曲の途中でまだ緊張状態が続いてたり、次の曲とのつなぎが重要な時に、拍手されると、緊張感の腰が折られる、緊張感が伝わっていなかったという反省、とかが頭の中をぐるぐるし、一番いやなのは、拍手がぱらぱらで、拍手した人たちが「あっ、これはまずかったな」と思ったり、拍手しない人が「こんなとこで拍手するなよ、この無教養なやつ」と無言で非難してる空気が伝わったりするときです。本当に、演奏会中ってすごい情報量をキャッチしちゃうんですよ。完全に無我の境地で、周りの反応は邪魔なだけという人もいるかもしれませんが。
2曲続けてというときで、どうしても1曲目の後で拍手が来る場合があるのですが、それは、その曲が拍手を促す曲らしく、私たちも割り切っています。逆に、拍手を期待している曲のつなぎでシーンとされたら、交感神経が高ぶりすぎて、すごい緊迫感のまま続行ということもあります。そんなケースが多いときは、知り合いをサクラにして、ここで拍手してね、ということもあるんですが、周りの緊張に気おされて拍手できなかったということもあります。集合としての「聴衆」のカラーの方が絶対勝つんですね。
演奏家も「音楽鑑賞」状態で弾いてることももちろんあり、そういうときは終わったあと、静かに眼を閉じて余韻を味わいたい気分ですが、聴衆が一人でもいれば、その人に向けてのコミュニケーション・モードですから、「分かち合い」というのがメインです。つたなくとも、贈り物をしているつもりなので、よかったと言ってもらえたらうれしいですよ。だって、後に何も残らないんですよ。 録音してもそれは別物だし。今弾けないともう意味がないんです。あああのときはこれが弾けたなあと思っても。
絵描きは一人で描いて、鑑賞者とは場を共有しないし、物書きも、本は、考えの容れ物であって、読者の好意的な声をいただけるとすごく嬉しいですが、同時進行の分かち合いにはなれず、それでも、あの時描けた、あの時考えたものは、そのまま残ります。演奏は基本的に一回きりで、でもそのナマの感じが麻薬みたいに強烈でやめられないです。演奏家としても聴衆としても。拍手はその表現かな。
日本でコンサートをした時、一度由緒ある舞台でさせていただいたんですが、最初に主催の方が着物で出ていらして、正座で深々とお辞儀されたので、周りに座っていた参加者もみなお辞儀しました。引っ込まれる時も同様でした。ええっ、ここでは拍手してもらえないんだろうかと一瞬あせりましたが、その後の演奏や舞では自然に拍手が出たのでホットしました。以上私や私の周りの人の感じ方です。全然違う人もいるんでしょうね。サロンコンサートや講演などでは、主催者のお人柄というのがすごく聴衆にも演奏家や講演者に影響を与えると思います。すごーく商業的なものやメディアティックなものは別ですけど。他の方の意見も聞きたいです。
後、書き込みですけど、私も誤変換だらけで冷や汗ですが、疲れてるときは、直接書き込みを避けて、ワードに行くのも面倒なので、メールを書く画面にして、字のポイントを14位に拡大して、大きくゆっくり書いてからそれをコピーして、書き込みのところに貼り付けることもあります。これ便利なので、お試しを。今のこの文もそうして書いてますが、画面の前に猫が陣取っているので、ほとんど画面が見えないから意味ないかも。
拍手の話が長くなりました。ギリシャのこと、あまり役に立てません。昨年9月のギリシャは頭がビザンチン・モードだったので、デルフォイにも行ってないし。2度目に訪れた遺跡は、昔と違って、とにかく人が多い、柵が多くなってるというのが印象的だったので、デルフォイも今は結構人が多いのでは。しかし、「自然の景観」「景勝地」の旅行と違って、人間の残した文化を訪ねる旅行は、もう、その文化的歴史的知識を識ってはじめて面白くなります。識ることによってはじめてつながることができるので、遺跡を「景勝地」みたいに訪れたら、すごくもったいないと思います。事前にできるだけいろんなものを読んで、もう「マイ・デルフォイ」というのを作っといて、それから対峙するくらいにしておいたらいいかも。
クルーズですが、基本的に内海ですから、あまり揺れません。でもナイル河のクルーズなどよりは揺れることもあります。寝るとき船が傾いている日があって、足と頭を反対に寝ました。アテネのホテルに帰ったら、浴室が揺れているような気がしました。私は船酔いしない方ですが、ノルマンディのヴァカンスでジャージー島に渡ったときは時化の後ですごく揺れ、薬を飲んでももう遅く、その苦しみから解放されるなら死んでもいいと本気で思いました。一緒にいた父だけは酔わず、揺れに抵抗せず体を動かしていました、そして、戦争で中国に渡った時はこの上に魚雷と敵機に狙われていた、それに比べたら揺れるだけなんてたいしたことないと言っておりました。戦争に行った人はすごいと思いながらも、そんなこと言われても・・・と恨めしく思い吐き続けました。母も苦しみ、帰りは海はもういや、飛行機チャーターすると決心してたそうですが、結局帰りは波が静かで、薬も早めに飲み、それでも私と母は往路の父に倣って馬鹿みたいに体を揺らしていました。父は寝てました。日航機事故があった夏で、両親は帰りの飛行機に不安を抱いていましたが、船でこれほど苦しいなら、飛行機できりもみ状態になったら恐怖よりも苦しみが大きく、解放されることだけを望むかもしれないと気休めになりました。ちなみに私は飛行機が嫌いです。
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拍手
Nao様、竹下様、
拍手のお話、大変興味深く読みました。今まで私が行ったコンサートでした拍手も、気持ちが伝わっていたのかもと思うとちょっと焦ったりするコンサートもありました。
そういえば、ずっと前に、世界的に有名な演奏者たちとものすごく有名な(らしい)指揮者のコンサートに行ったことがあります。クラシックに疎いので名前など忘れてしまいましたが。そのときに組曲の途中で拍手をした人がいて、ひとつかふたつパチパチと音を立てたのですが、普通ならそれに大勢が続くところが、その指揮者は手のひらをこちらに向けて『拍手をするな』と合図したのです。そういう合図をする人を初めて見たし、とっさにそんなことができるのがすごいと思って、ただただ感心してしまいました。
ギリシャと船酔いのお話もありがとうございます。そうですね、『マイデルフォイ』作ります。船酔いってホントに死んだほうがマシだと思うぐらいつらいですよね。北海道へ船で行ったとき行程30時間中20時間ぐらい酔った状態でホントに地獄でした。船酔いよりもつらい目にあわせる戦争はやっぱりやっちゃダメですよね。(って変な比較ですが)
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拍手の話
わたしは音楽ならけっこう何でも聴くのですが、CDで聴くとき、好きなのはライブ版。で、ヌヴーかリパッティのライブ版だったかしら、それとも田中希代子さんだったかな、昔のライブ録音は、演奏終了で切ってしまって、拍手を入れませんでしたね。ですので、演奏の終盤、聴衆の反応や盛り上がりがわかるのに、いきなりばしっと切られる終わり方に、なんとも気持ちのやり場がない気分がしたことがあります。今は長く拍手を入れますので、「ああ、楽しかった」と思えます。すばらしいコンサートで、演奏も終わらないうちに怒涛の拍手、なんていうのもありますし。スペインの聴衆が「オレ、オレー」と叫んでいて思わず笑ってしまうものもありました。
拍手、というか、聴衆との距離のとり方って、「聴衆はいらない」人から、「聴衆込み」の人までそれはもうほんとにいろいろではないでしょうか。ウィーンのニューイヤーコンサートのラデツキーの拍手はいわゆる「お約束」ですし、それから、クラシックではなくて、ロックコンサートになると、これはもう最初から最後までオールスタンディングで拍手どころでなくて、一緒に歌ってますしね(東京ドームでストーンズに行ってきたばかりなので・・・)。
中世の演奏だとどうだったのかしら、なんて思います。なんだか、拡散した話になってしまったかしら。
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手拍子
フランスのコンサート(特にポップス)では、開演が遅いと痺れを切らした聴衆が催促の拍手というか手拍子を始め、それでも始まらないと足をならしてます。日本ではたいてい時間通りに始まるせいか、そういう経験はありません。アンコールの催促で手拍子になるのはどこも同じですけど。スペインで、パエリャを食べながらフラメンコを見る場所で、女性のダンサーが、この踊りは途中でミュージシャンが手拍子を打つけれど、あなた方は絶対に一緒に打たないようにと客に注意したことがありました。フラメンコの手拍子はすごくデリケートなので、少しでもずれたら踊れないと言われました。前に酔った客にでもひどい手拍子をされたのかもしれません。そう言われると、見るだけで何か緊張したのを覚えています。フランスのロックグループで「インドシナ」というのがいるんですが、そのキイボード奏者の息子が私の生徒で、パパのコンサートに行くには耳栓をするのが条件だと言っていました。特に拍手の音が一番難聴の原因だそうです。演奏者たちはイヤホンとかつけているので、会場がどんなにやかましくても全く気にならずに演奏できると言ってました。こうなるとコミュニケーションどころではないような気がします。
中世だと誰かのため何かのために演奏したのでしょうから、やはりいわゆる民主的な「コンサート」が成立してから、演劇の例に倣って拍手が定着したのでしょうか。カストラートとかのスターシステムの登場やヴィルチュオーゾ趣味の流行とも関係がありますよね。バレエでも、早くから、ヴァリエーションなどで難易度の高い踊りに成功するとその後すぐに拍手するようになってたようです。古代のギリシャ演劇ではどうだったのか知りません。どなたか教えてください。神に捧げるタイプの芸能では観客のためではないから拍手はないですよね、日本で門付け芸などどうだったでしょう。ご祝儀を渡すだけだったでしょうか。私の子供の頃はまだ獅子舞とかありましたが拍手した記憶ないです。紙芝居もありましたが、拍手したかしら・・・
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インドシナ
さっき、日本風にインドシナと書きましたが、日本ではフランス風にアンドシーヌと呼ばれているようです。
検索したら
「アンドシーヌ」、フランスのエレクトロ・フォーク・ロックのグループ ...
とありました。
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大統領ネタ
フランスには「アメリカ人とフランス人とイギリス人が集まって、何かが起こったら、それぞれこうした」というジョークがすごく多く、もちろんアメリカを揶揄したのもありますが、一番多いのは自虐ネタです。
昨日ネットで拾ったネタにこういうのがありました。飛行機にアメリカとフランスとロシアとポルトガルの大統領が乗っていた。事故が起こり、パラシュートで脱出しなくてはならないがパラシュートが3つしかない。まずアメリカ大統領がひとつ取り、「私は世界で最強の国の大統領だからこれをもらうといって脱出。次にフランス大統領が「私は世界で一番文化的で頭のいい国の大統領だからと言って脱出。残ったポルトガルの大統領はロシアの大統領に、「いいですよ、お宅の国はうちと違って大国だから、どうぞ」と言って譲ろうとした。すると、ロシアの大統領が言った。「大丈夫です。まだ二つ残ってます。だって、さっき、世界で一番頭のいい国の大統領が、寝袋を背負って降りたから」
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自虐、かな
自分のことを笑える、というのはけっこう高等な技術ですよね。日本にも笑いの伝統はありますけど、最近ないなー、と思えるのはゆとりのあるユーモア。日本にこういうジョークがあったかしら。と、日本自虐ネタ、でしたー。
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ヴァリエーション
前のジョーク、小学校3年の生徒に話したら、小学生なら知っているそれに似たネタがあるといって次のようなヴァリエーションを教えてくれました。
ブッシュ大統領とトニー・ブレアとヨハネ=パウロ2世と小学生が飛行機に乗っていて事故が起こり、パラシュートが三つです。ブッシュとブレアはわれ先に飛び降りました。残ったのはJP2と小学生。JP2に小学生に言いました。「私はもう年をとっている、君がパラシュートで逃げなさい。」小学生が答えて、「大丈夫です。さっきブッシュ大統領が僕のランドセルをかついで降りたから。」
小学生のジョークらしさがおもしろく、ローマ法王が普通にジョークに出てくるところもヨーロッパっぽいなあと思いました。
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ヴァリエーションへの感想
たしかに、「天皇陛下」が出てくるジョークなんてないですね。
でも、それよりも、小学生、それも低学年の子が政治ジョークを知ってるんですねー。
わが国の政治はジョークになるようなネタには事欠かないのですけどもね。こちこちの官僚の世界も、スキャンダルでドタバタしている議会の有様も。
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聖骸布の仔
中央公論新社から4月10日『聖骸布の仔』が発売されます。私の初めての翻訳本です。イエス・キリストのクローンの話です。『ダ・ヴィンチ・コード』の成功を見るにつけ、同じようなちょっと怪しいテーマでこれほどの文学が書けるのかと感心して、ぜひ紹介したいと思っていました。舞台はアメリカが主で、フランス人のスピリチュアル感がよく出ています。ぜひ一読してご感想ください。
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それは・・買わねば
今日発売ですか。
ところで、各国の人々ネタ。イギリス人にその手の各国ジョークをしたら、うちの国ではそういうジョークはない。と言っておりました。ほんとかなぁ?
イギリスのジョークも毒が効いてて好きですが、各国人を比較するみたいなジョークは流行ってないのでしょうか?
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イギリス
ってけっこうそういうジョークの本場って感じがしますけれど。で、サッカーでもそうですが、大陸諸国よりも、イギリスの中での「各国」もの、いろいろありますよね。特に「アイルランド、スコットランド、イングランド」ものって多いです。たしか、カラス麦を、イングランドでは馬が食べるがアイルランドでは人が食べる、と言ったのは(ジョークと言うよりは差別的発言、ですが)サミュエル・ジョンソンじゃなかったでしょうか。
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各国ジョーク
う〜ん?各国ジョークよりも、内部で忙しいのか?
確かにスコットランドネタとかウエールズネタとかアイルランドネタは出たような。
もっとも、話を聞いたイギリス人T氏がその手の外国ジョークを好まないという気もします。
しかしフランスとは伝統的に仲が悪いのでフランスネタの意地悪ジョークは多いみたいですね。
かなりブラックなのでは、「先だってのロンドンテロはオリンピックを逃したフランスの仕業だ。」
というジョークが流行ったらしい。まぁ明らかに違うのが判って、言っているわけですが。
でもまぁ、自国民の階級ジョークは多いみたいですね。
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若者の話
最近『中央公論』の5月号をいただいたので読みましたが、考えさせられる記事ばかりでした。フランスのCPEの騒ぎのこともあって(5月発売の新潮45でこのことについてまとめる予定です)、日本の若年失業者やフリーターのことも考えていたのですが、この雑誌にはいくつかの全く違う見方が紹介されていました。そのひとつは、今の若者は「毎月確実にもらえる給料」につながる雇用が保証されていないから、底辺を這いずる者にとっては「金」が人間の尊厳だというのです。給料という土台を前提とした日本の社会で、給料がない人は、人権がないのと一緒で、若者が「金が欲しい」というのは、「人間として認めて欲しい」という魂の叫びだというのです。これを読んで、それはフランスの移民の若者たちの不全感と同じだなあと思いました。ところが、もうひとつ、別の記事では、若者たちは格差が広がってもかまわないとだんだん思っているというのです。富の再分配なんてしなくてもよいから自由に生きたいらしいです。「金は要らないから好きに生きさせてくれよ」「再分配よりも自由や多様性を認めてほしい、その結果自己責任で死んでもかまわないから」と考える人が増えているというのです。この言葉を読んで、なんだか胸がつまりました。フランスの若者ならなんだか絶対に言いそうにないことだから。
後、原田豊さんという方が、楽しい人口減少社会について書いていて、びっくりしましたが、後味はよかったです。ペシミスティックな見方が多い中で、こうはっきり楽観的にものを見られるのはうらやましいです。日本は孝を強調する儒教文化と違って、親の子に対する情愛が強調されたという津田左右吉の指摘も面白いと思いました。親の恩が尊いから子は孝を実践しなくてはならないので、互恵的だというのです。まあそれで、日本の高齢者は若者のために我慢できるという論になっていくんですけど。でも、動物でもそうですけど、子供がちっちゃくて子供の形をしてるうちは確かにそうですけど、高齢化社会になると、子育てが終わってから延々と生きるので、自分も保身のために自己中心になることの方が多いような気がします。いくつになっても子はかわいいという人もまあいますけど。
でもその点ではフランス人も子を保護しますね。アングロサクソンの自助努力風の育て方は少ないです。フランスの子をアメリカのホームステイにやる説明会では、「アメリカの家庭では、洗濯物は子供が自分で乾燥機から出します、フランスのように、お母さんがアイロンをかけてたたんで片付けるということはありませんから」という注意がありました。それを聞いたうちの子は「ママ、うちはアメリカ風だったんだね」と言っておりました。
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中央公論5月号
1.原田さんの論文について
日本の人口減少については、悲観論と楽観論がありますね。楽観論では、人口減少恐るるに足らず、かえって活気ある団塊高齢者を中心にゆったりして過ごせるでしょう、的なものが多いですかね。原田さん(団塊の世代に近い方)もそんな感じの論調で、そして、少ない若い世代に温かく、「自分の孫を愛するように他人の孫も愛して」豊かな文化を維持しよう、とおっしゃっています。
でも、そもそも、なぜ人口が減るか、若い人が家庭を形成せず、子どもを持たないか、ということを、原田さんは特に深く追究せず、「人口減少、少子・高齢化」という所与の条件での暮らし方について述べておられるように見えました。わたしから見れば、日本の問題は、若い世代が家庭を形成できない、子どもを持ちたくない、ということ、そのものにあると思えます。
それと、すでに子どもや孫を持っている大人。バスや電車に乗るだけでわかります。わたしは、子どもは座るものじゃない、と言われて育ちました、というか、そういうしつけを受けましたが、シルバーシートに子どもを座らせて平気な親(混雑する通勤時間に乗る子どもは私立の小学校に遠距離通学しているわけです)とか、電車で「OOちゃん、ここにお座り。」と孫に席をとる祖父母!!、多いですよー。一方で、貧困家庭のDVや児童虐待、・・・ 日本てこんなだったかしら、と最近、けっこううんざりしています。
つまり、日本が少子化・高齢化してゆく原因、少子化・高齢化しているなかで社会規範が崩壊している、そういう社会について問うことなしに、人口が減ることそのことだけについて議論することに疑問があります。
2.日本の若者について
堀江氏が「金で買えないものはない」と言った続きは、「金で買えないものは差別につながる。血筋、家柄、毛並み」という文章がありましたね。日本のムラ的つながりの中では、家柄、ムラ的組織では肩書き、そういったものが日本社会での「価値」だった、それを突破しようとしたのはわかりますが、結局置き換えられるのが、せいぜいのところ、お金、というわかりやすい数字でしかないのが、日本の精神的貧困ですね。お金に換算できない価値で大切なものは、「人権」とか「生活の質(Qualite de lvie)」とか、だと思うのですが、なぜ、日本では、人と比較して出る数字や地位が生活の基準になるんでしょうね。他人がどうであっても、世間一般がどうであっても、自分には自分の「権利」が、「基準」が、「考え方」が、とならなかった、なっていないことが日本の問題だと思います。そこから出たいと思うと、「ほっておいてくれ」「自由にさせてくれ」ということにしかならない。
誰もが、自分の考え、自分の暮らしを対等に持ち、それを保障するのが「再配分」であるとまで理解しての「再配分なんていらない」ではないと思います。
かつて、ムラの大きな集合体であった日本(江戸時代、あるいは戦前)、それが、中央集権、ムラの崩壊のみが進んで、かつて存在した価値の継承はなくなってしまいました。でも、不思議なことに、ムラの仲間うちのみ意識する、という行動様式だけが残っている感じがするんですね。安定した共同体で、秩序をわきまえ、分に合った暮らしをする、という生活様式はなくなりましたが、自分の所属する共同体のあり方にはとりあえず順応して生きる、というのが、老若問わず、日本人の「自分でものを考えない」生き方であるように思えます。
年功序列に従って「ものを考えずに生きる」だったのが、年功序列が崩壊したために、次は「金」を基準に、あるいは、基準なんて何もなしに「ものを考えずに生きる」状態が、日本人ではないでしょうか。で、自然に恵まれ、人は温和でそこそこ均質で(字の読めない人はいない)、今のところ家族も最低限の機能はしている、というところで、厳しい闘争にまで至らないでいる社会が、日本の社会なのでは、と思っています。でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。
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激しい闘争
「でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。 」?? の文は考えさせられます。激しさが局地的に内的に爆発すると、家庭内暴力とか、下手すると無差別殺人になるのでしょうか。それならストやデモでガス抜きしてくれた方がいいかも。
最近、ピレネー地方の知事が38日のハンストをして、日本企業の誘致に成功、日本大使館も企業のトップも怒りに狂ってるというニュースがあります。日本ではどう報道されてるのでしょう。日本側の言い分は、喉にナイフを突きつけるようなこんなやり方は野蛮、と怒っているのです。首相や内相や大統領まで圧力をかけたということで。でも、知事そのものは、自分の喉にナイフを突きつけたわけですね。企業にとっては理不尽な脅迫でしょうが、別に企業側を人質にとったとか、爆破すると警告したわけではなく、ハンストなので、後は、「このままむざむざ飢え死にさせられない」という感情論やモラルです。当初には連帯もなく、たった一人の「闘争」です。とにかく、文句を言われようと、日本企業は合意したのですし、政治家が命をかけて、何かを成就させるというケースで、こういう発想があってそれを実行したということ自体がすごいです。戦争反対とかいう意思表示のハンストでなく、行政者が政経上の目的到達のためにハンスト。確かに彼が死んだりしたら、「自己責任」かもしれませんが、それはやはり社会の責任というか、ハンストのことをメディアによって知ってしまった人すべての責任になってしまいます。イラクやイスラエルで毎日テロや内戦で死ぬ人が出ていますが、それであわてて軍を撤退したり、平和交渉が始まるということもない、それで、ピレネーで、一人の知事がハンストをしたら、大統領や日本の大使館まで巻き込んで、その地域の未来が変わる・・・いろいろ考えさせられました。資本の論理で動いてる企業側が怒るのはもっともですが、どうせ屈するなら、何か一言もっとかっこいいことを言って欲しかった気もします。日本や日本の企業が注目されたいいチャンスだったのだから。
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中央公論5月号
私も読んでみましたが、さほどというか、私はほとんど共感するところはありませんでした(特にホリエモンを取り上げた武田徹の文章)。何かアタマの中で「今の若者はこうだ」と決め付けたい、爺さん連中のたわごとというと、言い過ぎですか(笑)。「金ですべてが買える、金こそが人間の尊厳」だなんて、アングロサクソンの営利至上主義そのものじゃないですか。別にホリエモンはそうしたイデオロギーに忠実だっただけで、それは別に彼だけじゃないのではないでしょうか。だからこそ、ユニヴァーサリズムの現実化ということの重要性に思いが至ります。ビンボー、質素はすがすがしいですけど、極貧は人間の尊厳を破壊します。最近の二極分解で、そういう状況に追い込まれていく若者たちが、「金こそ、人間の尊厳だ」と思うのは、至極、当然だと思うんですよ。そうならないように、政治が、思想(ジャーナリズム)に何ができるのか、ということを考えていかなくちゃ、だと思うのですよ。
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共謀罪と精神操作罪
今、日本の国会で、例の「共謀罪」が突然、審議入りして、相変わらず、マスコミの反応も鈍いんですけど、それと似たような話で、フランスのカルト対策において、マインドコントロールについて、「精神操作罪」の創設が議会でかなり大問題になっていましたよね。双方の通じるのは、「個人の思想、信条、良心を法で縛る」ということだと思うのですが、結局、この精神操作罪の議論はどうなったんですか? フランスでも相当、もめましたよね。まあ、「精神操作罪」はそれでも、「マインドコントロール」という「実行行為」があって、それを処罰しようとするのですから、まだ、わかるんですけど、「共謀罪」はそうした犯行がなくても、「共謀した」というだけで、実行に至らなくても罪に問えるんですから、無茶苦茶ですよ。で、この法案も原本は、アメリカの愛国者法で、要は、アングロ・サクソンマターなんですよ。相変わらず、米英はヘンですよね(笑)
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