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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

557:2011/05/25(水) 04:49:27
伊藤千代子と浅野晃
 浅野晃が戦後、苫小牧市勇払に在住していたことがある。浅野は浪漫派の文芸評論家として有名で、また歌人・詩人としても一家をなした文化人ながら、戦前共産党に入党していたことから投獄され、獄中を体験したが、共産党の党籍を離れた事によって釈放された体験を持つ。
 戦後、そうした経歴から占領軍によって職を追われて山陽国策パルプゆかりの水野成夫の紹介で勇払工場の社宅に数年居住していたことから、北海道は浅野晃ゆかりの地となって、研究者に注目されている地である。私は、東京の学生時代、浅野晃の歌会の末席に二度ほど顔を出した事があって、彼の存在そのものに関心がある。現在、私は「北海道アララギ」の会員で、旭川の「ときわ短歌」の会員になっているのも、浅野晃の足跡を引き摺っていたゆえかもしれない。
 しかし、浅野晃の最初の妻伊藤千代子に関しては、千代子の哀れが際立って、浅野晃には何としても同情できないのである。それは浅野晃が悪いのではなく時代が悪かったゆえの悲劇なのだが、それにしても浅野晃の立場は、若い妻の千代子が思想の純潔を守ったのに対して、思想的に裏切った男という立場は拭い切れないように映るのである。時代の悲劇であるにしても、浅野晃の姿は、獄中の千代子の心中にどのように映っただろうかと思うとき、千代子への哀れの思いが際立ってくるのである。

558:2011/05/25(水) 05:41:47
再び浅野晃について
 浅野晃は、文学者としては怪物でしたね。その意味では興味深い人物です。思想的に言えば、左翼から右翼まで、時代の変化につれて変節した思想家でありました。私は浅野晃を擁護するつもりもないし、共産党を擁護するつもりもありません。
 ただ、人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味があるだけです。浅野の最初の妻伊藤千代子は歌人であり、その作品も数多く残ってますが、良い作品ですよ。師であり夫であった浅野晃を千代子は恨んでいた資料は残っていませんし、夫婦の間の感情は、さして私には興味がありません。ただ、伊藤千代子は、今や共産党にとっては戦士ジャンヌ・ダルクであることは確か。浅野晃は時代と共に巧く変節してきた日和見男であったことは、彼の足跡から明らかですが、それは、時代を生きたほとんどの人間と同程度のものであって、特別卑劣なことではないでしょう。
 浅野晃フアンには言いずらいことですが、私の見るところでは、彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかったということです。超一流という方も居ますし、三流だという方もいますが、私の見方はそういうものです。
 それにしても伊藤千代子は、若くして亡くなっただけに未熟な歌しか残ってないのですが、今や伝説の歌人となりましたね。むしろ伊藤千代子は、一般には、文学的実績をのこしている浅野晃よりも、悲劇の歌人として人気抜群に持ち上げられています。でも、悲劇は日本人に限らず庶民には好みのものですから、伊藤千代子は、小林多喜二同様、時代のヒロインとなる必要にして十分な条件を備えた女性像でしょう。24歳で亡くなった千代子、90歳を超えるまで生きて天寿をマットウし、文学史に残る業績を残した浅野晃の二人を比較するとき、同情の心が千代子に傾くのは致し方ないことでしょう。草葉の陰で浅野晃は苦笑いしてるでしょし、千代子は首をすくめてテレ笑いしてるでしょうね。

559やす:2011/05/25(水) 07:32:18
浅野晃について について
「文学者としては怪物でした」「彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかった」「時代と共に巧く変節してきた日和見男」

「怪物」…室生犀星とか佐藤春夫とかもよく言はれますね。戦後の糾弾にびくともしなかった「大きな人」のことを左翼がさう呼びますが、やめた方がいいです。
似てるからって勿論ぬらりひょんでもありませんし(笑)、決してぬらりくらりしてゐたのではない。
変節したのは思想であって人倫においてではない。生涯を通じて人づきあひに誠実であったから、共産党の暴力性をいちはやく戦前に見ぬけてしまった。ここ大事ですよ。
だから「日和見男」ではないんです。

さうして本領はもちろん戦後です。北海道での生活がなかったら、私も石塚様の言を肯ひませう。日和見男を多くの青年達が慕ひなどする訳がありません。
そこで詩人として再生し、一流ではなく超一流の詩篇を遺してゐます。
伊藤千代子どころの話でない。保田與重郎のお先棒といふ汚名も返上します(むしろ反対に教示した宮澤賢治を始めとする仏教観が、保田與重郎の後半生のゆかしい文人像に影響してゐるのではないでせうか。)

もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、
さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません。

「人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味がある」

そこなのです。さう仰言るなら、まさに今回その視点で中村一仁様がまとめられた『詩文集』を是非、手にとって頂きたいと思ひます。

560やす:2011/05/25(水) 07:39:00
(無題)
二宮様
「自分の投稿の編集・削除」といふボタンを捺せば、投稿したブラウザで訂正ができます。(過去ログに収める際に訂正しておきます。)
よろしくお願ひを申し上げます。

561:2011/05/25(水) 20:10:04
浅野晃の虚像と実像
 浅野晃が晩年、北海道苫小牧市に数度きてますが、そのうち三度、新聞記者として彼に会って取材した体験が私にはあります。
 私が東京の学生時代、先生の歌会に二度ほど出たことがあります、と言いますと、浅野晃はじっと私の顔をのぞき見るように見ました。私は当時、深川の心行寺という浄土宗の寺に寄宿して神田御茶ノ水の大学に通ってました。その寺では幼稚園を経営してまして、そこの先生をしておられたO子さんが浅野先生の短歌の会の会員でした。浅野先生は僕のふるさと苫小牧市に数年居住していたことをO子さんに話しますと、歌会に出てみないかと誘われまして、それで、のこのこついて行ったというわけでした。昭和37年の春だったと思います。
 当時、小説、現代詩、評論をやっていた私でしたが、短歌、俳句にはさほど関心がなく、現代詩も神田の伝説の喫茶「らんぼう」に出入りする「荒地派」の詩人たちを信奉して、鮎川信夫とかの姿を見たいばかりに出入りして教えを請う立場だったで、読んではいましたが、浅野晃の詩作品には関心がありませんでした。
 それで、浅野晃の歌会には二度出席しただけでしたから、浅野晃と伊藤千代子のことは、当時知りませんでしたし、浅野晃の存在そのものにも、さほどの興味はありませんでした。
 しかし、浅野晃は、私の故郷の苫小牧市のお弟子さんたちが、神様のように慕っている存在であることは知ってましたので、そういう男かと短歌の世界の師弟関係の深い絆を感心して見ていたものです。
 私が新聞記者として浅野晃と再会したわけですが、そうした経緯から再会もさしたる感興をおぼえなかったものです。
 浅野晃とは十数年ぶりの再会でしたが、白髪の柔和で上品な80近い学者タイプのプのお年寄りで、初めて東京の歌会で会った印象とは違ったものでした。彼の詩は比較的好きですが、現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。
 そんなわけで、浅野晃の教え子ではない私は、浅野晃に傾倒する詩人、歌人とは一線を分けている立場ですから、客観的に非情に語ることができるのでしょう。浅野晃信奉者には大変悪いのですが、以上のようなかかわりから、私は、浅野晃を突き放して見ることができるのですが。また、共産党員でもありませんので伊藤千代子を冷静に見ることができるのです。 

562二宮佳景:2011/05/25(水) 22:07:09
生きている本人を直接知っていること
 詩人を歴史上の人物として知っている、あるいは文献や関係者の証言のみでしか詩人を知ることができない私からすれば、直接詩人を見た根保氏はある意味でうらやましいが、ある意味で「その程度の経験か」と冷めた思いも禁じえない。
 ところで、伊藤千代子が「伝説の歌人」? たしかに女学校時代に短歌の一つくらい詠んでいるのかもしれないが、彼女が再評価されるような歌を残していたというのは、本当なのか? 土屋文明が千代子について詠んでいるのは知っているが。穂別の成田れん子の間違いではないのか?

563二宮佳景:2011/05/25(水) 22:25:48
やす様の指摘について
「もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません」

 これから浅野晃について語られる時は、こういう意見がどんどん出てもらいたいものです。
 このやす様の指摘、かなり重要です。勇払時代から最晩年の作品に至るまで、そういう印象はやはりぬぐいがたいです。おおらかと言えば聞こえはいいが、かなづかいの当否も含めて、詰めの甘さが残る。ただ、小高根二郎の詩誌『果樹園』に断片が発表された長篇詩「天と海」は、その推敲が功を奏した傑作です。詩誌に発表された一つひとつの断片も捨てがたいのですが、それらをあの七十二章にまとめあげた浅野の力量は、やはりたいしたものです。
 『幻想詩集』の冒頭を飾る「帰つてきた死者」も、『果樹園』に発表された時は舞台が駅のプラットフォームで、深夜の空港ではなかった。詩集収録にあたり大幅に加筆、改稿したことが歴然としています。ソ連による大韓航空機撃墜事件を題材にした「海馬島近海」などは、さらにもう一冊詩集が彼によってまとめられていたなら、どのような形で収録されたろうかと考えるのは、それこそ愛読者の妄想の類ですね。
 転向後の、特に戦後の浅野が批判した「ソ連」や「共産主義」は、セリーヌの「ユダヤ人」同様、字面そのものだけでとらえるべきではなく、人間存在の愚劣や残虐性の象徴でもあり、その告発の底辺にあったのは、彼のヒューマニズムではなかったかと最近は強くそう思っています。

564:2011/05/25(水) 23:32:36
伊藤千代子の短歌
 成田れん子の作品よりも、伊藤千代子の短歌の方が上等ですね。伊藤千代子の作品については、まともな研究がなされていず、これからのことです。
 伊藤千代子が浮上したのは、浅野晃研究の過程でのことですし、共産党の党籍のまま病死した悲劇がクローズアップしたことによるので、浅野晃研究が進まず、千代子ゆかりの諏訪市で大々的に宣伝されなければ、彼女は今も無名のままであったでしょう。
 一方、浅野晃は文学史的に足跡を残した文芸評論家でありますが、それ以上の存在ではないと、私は思います。短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。
 浅野晃の短歌、詩を好きな人は素人だけです。まともに短歌、詩を書いている者はだれひとり評価はしないでしょう。ですが、文芸評論の仕事は、文学史上評価されて良いと思いますよ。
 浅野晃について騒いでいる人たちは、仏教大学で彼の講義を受講した生徒か、短歌のお弟子さんだけでしょう。浅野晃の詩は、詩の本質を理解してない素人好みですから、人気があるだけのことです。
 しかし、文学についての指導者としては、浅野晃は卓越したもので、また容貌、雰囲気も女性を惑わす不思議な魅力のあった人物でしたから、その面からも怪物といわれるゆえんです。
 彼が怪物といわれたのは、いくどか文学者として死に体になりながら、不死鳥のごとく時代の最先端に踊り出たしたたかさによってです。つまり、彼の政治感覚めいた日和見主義が、リバイバルにつながるのですが、そういうところに長けた文学者と見るか、彼の人格のなせる業と見るかは、異論のあるところでしょう。
 一口に言えば、浅野晃は偉大な文壇の政治家であったということです。政治家であったが、政治屋でなかったのは、浅野晃信奉者には、せめてもの慰めでありましょう。浅野晃との関係を言えば、私も弟子の末席を汚す立場ですが、彼の数々の変節は、政治的なものよりも文壇での去就の有り方にあるのです。良く言えば柔軟な思慮を持った正直な男であったとも言えます。つまり「過ちを正すにはばかることなかれ」という思想で一貫しておりました。彼の怪物ぶりは、日本文壇史を詳細にたどれば、その姿が浮き彫りにされるでしょう。
 

565二宮佳景:2011/05/25(水) 23:41:31
お世話になりました
やす様

 お世話になりました。この掲示板からは姿を消します。
 一つ分かったのが、根保氏の経験や主張に学ぶことは少ないということです。
 後は、お任せします。重ねて、お世話になりました。今度改めて、お宅に手紙を出します。

566やす:2011/05/26(木) 02:46:08
(無題)
「短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。」

短歌のことは私も詳しくないので分からないのですが、詩の手法の水準とかレベルって何でせう。少なくとも詩の評価とは関係ないですよね。
そんな視点で抒情詩が評価できるかのやうに「平凡」と並列させたりすると、評価者のレベルの方が知れてしまひます。

むしろ私は、同人誌の高齢化が身を以て表現してゐる通り、すでに戦後現代詩の方こそ近代口語抒情詩よりも古臭くなっちゃったんぢゃないかと心配してゐる「素人好み」の人間です。
その原因は、進歩史観でもって戦前を切り捨て、安易に民主主義日本の歩みに詩の歩みを擬してきたからだと、
それゆゑ「古典への仲間入りができない」といふ決定的なツケを、今になって被ってゐるからだと考へてをります。

本当の文学は時代の流れに対する抵抗からしか生まれません。その流れに抗することが出来なかった時代、流れよりも過激に流れることで己の純粋を主張した日本浪曼派の人達は、
結局、敗戦に至って、そのツケを戦争遂行者とともに、追放といふ形で支払はなくてはなりませんでした。
しかし戦後現代詩の人達が、何の転向も表明しないまま、先輩から取り上げ掌握してきたジャーナリズム上で「素人好み」に受ける伝統詩にすりよった言説をし始め、
巧く変節し日和見し果(おお)せて死んでいったことについては、何のツケも払ってゐません。どころか、
今や日本のお年寄り全体が、戦前の教養や道徳を馬鹿にすることをジャーナリズムから徹底的に教へられた「元紅衛兵」のやうな人達世代の塊です。
彼らが私達世代を飛び越して、孫世代に一体何を伝へ得て死ぬるのか、コスモポリタニズムがグローバリズムの破綻によってなし崩しの無効になりつつある今日、気になって仕方がありません。

私は、近代口語抒情詩人たちの遺産を、謂はば祖父世代からの遺言のやうに受け継ぎ、祖述してゆきたいと考へてをります。
「現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。」
この前半のお言葉は、まさに当時、自分の詩集が石塚様世代の前衛の先輩から賜った評言と同じなのです(笑)。
つまり、昭和60年代当時としても、新人のくせにすでに古い筈の感性で後ろから何刺して来たんだ、という印象だったのでありませうね。

明日は家の所用で代休をとったので夜更かししてゐます。明後日には(途中でもいいので)書評upしたいです。

二宮様、またいつでもコメント頂きたく、皆さまにも宜しく御鳳声下さいませ。

567:2011/05/26(木) 18:17:56
評価基準は
 「やす」さんは文語体文章をお書きになっていらっしゃるので、私ら世代より上かと思いましたら、下のようですね。旧かな使いの文章お書きになる若い方とは、短歌をやってらしゃるのでしょうか。それもアララギ系統でしょうか。意見は意見ですから、互いに真摯に耳傾けた上の議論をしましょう。感情的に相手を罵倒してはなりませんよ。教養の程度が知れます。
 私は、浅野晃を認めないのではありません。一流ですが、斎藤茂吉、小林秀雄、三好達治のように超一流ではないと言っているのです。私は浅野晃の弟子のひとりですから、師を悪くいうはずはありません。尊敬もしてますし、一流と思いますが、お世辞や身びいきはしません。ただ浅野晃は一流ですが、超一流ではないと客観的に実感していることを申したわけです。理由は概括前述の通りであります。でも、伊藤千代子が脚光を浴びているのを一番喜んでいるのは、草葉の陰の浅野晃だと思いますよ。浅野晃はそのような大らかな男でしたね。自分を誹謗する者に対して、にこやかに微笑んで、罪を憎んで人を憎まずの態度でしたからね。
 新聞記者の私は、生意気にも「あなたの詩はご自身で一流と思いますか」とズバリ尋ねたとき、彼は、「一流とはそんな生易しいものではないものです。あなたもそのくらいは認識なさっているでしょう」と、にこやかに静かに応えてました。彼が怪物と言われるゆえん躍如です。ですが、私はその程度では人を尊敬できない性格でして、今にいたってます。人を軽軽しく尊敬したり、軽蔑したりしてはいけないことを、数々の修羅場をくぐってきた浅野晃から学んだことの一つでした。

568やす:2011/05/26(木) 21:44:21
(無題)
石塚様
私こそ、突然の名乗りのない投稿でしたので、年長者に対して失礼の文言おゆるし下さい。言葉は思ひよりも強く伝はるので注意してゐますが、弟子を自任される石塚様の冷静な分析に、ジャーナリストとしての中立心からと分かってゐながら、案ずべき先輩世代の言として、幾分ムッとしてしまひましたので。
弟子ならば(ことにも末席と自任されるならなほさら)師を客観的に語ってはいけないと思ひます。師を馬鹿にされたら相手がたとい正鵠を突いたところを云ってきても、胸に畳んでいつか仕返しを期する位でなくてはいけないのです(笑)。「感情的に相手を罵倒してはなりません」なんて鷹揚なことではいけないと、私は思ひます。
それから二宮様が仰言った伊藤千代子の短歌のことですが、私も彼女の歌については寡聞にして存じません。同姓同名の歌人もゐるやうです。よい歌を遺したのなら「党」がほっとかないと思ひます。所謂「都市伝説」の類ひではないでせうか。
今後ともよろしく御贔屓下さいませ。仰言る意味はよく分かります。懇切なフォローコメントをありがたうございました。

569:2011/05/26(木) 22:38:19
浅野晃の虚像と実像2
 郷土文研の門脇松次郎さんとは若い頃から「居酒屋鍋万」で酒を酌み交わした先輩でしたし、成田れん子の遺作保存に力のあった紀藤義一さんは共に同人誌を出した仲ですし、楠野さんは私が新聞記者時代、図書館長でしたし、楠野さんの娘さんは、新聞社時代、私の部下でしたので、苫小牧の浅野晃関係者は、私とは極めて近い方ばかりです。しかし、浅野晃は一流だが超一流でないと思っておりました私は、浅野信奉者の輪の中には決して一度も入ったことはありませんでした。
 若い頃から「神様は造ってはならない」というのが、私の信念でしたから、浅野晃を神様のように祀って語る皆さんの立場を理解できない私であったのです。
 文芸評論を軸に学生時代から新聞に寄稿、書いていた私にとっては、浅野晃は一研究材料の文学者に過ぎないという認識しかありません。信奉しすぎたり、憎み過ぎたりすると、客観的視界が曇る怖れがあることを知っていたからでした。
 この場でも、主義主張にこだわった発言や、必要以上のアンチ共産党の発言など枝葉末節の議論が目立ち、ことの本質からずれた意見交換になっていることを危惧するものです。
 歌人で共産党の苫小牧市の市議であった畠山さんとも新聞記者の昔からの付き合いで良く知ってますが、彼はことさら共産党の立場で伊藤千代子を弁護しているわけではなく、一研究者として伊藤千代子の書簡を公けにすることに努力しただけのことですし、元北大演習林長の石城さんは、偶然諏訪市出身であるところから、伊藤千代子像をゆかりの諏訪市に建立することに尽力することになっただけの話で、概要の流れを検証すると、共産党がことさら伊藤千代子を持ち上げ、浅野晃を裏切り者としているわけでもないのです。
 新聞社で客観報道を心がけていた私にとっては、以上のような色合いで見て取れる浅野晃・伊藤千代子問題なのです。伊藤千代子が共産党にとってはジャンヌ・ダルクなのは、政治的視野から言えることですが、文学関係者の浅野研究には何の意味合いもない枝葉末節の週刊誌のスキャンダルめいたことで、問題にすべき事ではありません。
 浅野晃が楠野氏に秘密に託した書簡は、自分の死後、真実が明らかになることを望んでいたからで、浅野晃が伊藤千代子を愛しく思っていることを、家族に知れては問題になると先を読んでのことであったでしょう。そうでなければ、書簡は自分で償却処分していただろうと思います。 

570やす:2011/05/26(木) 23:36:23
(無題)
神様でなくとも師と呼ぶならば、弟子が「超一流でない」なんて自ら評するものではありません。

普段は私の枝葉末節のつぶやきしかなく、議論など起きもしない掲示板ですが、
ここは絶滅危惧種たる伝統的抒情詩の「特別保護地区」です。かつ、私みたいのが管理人を張ってゐますので、
中立的文言と雖も、時と場合によりお引き取り願はなくてはならぬこともあるかもしれません。
ひとの道に反して「政治的中立」なんて成心ある書込みだけはないことを祈ってをります。

571二宮佳景:2011/05/27(金) 00:28:20
駄文を読まされて、いらいらするわ
 やす様。宣言を破棄して、最後にこれだけ書きこむよ。
 根保氏の主張はよく分かった。しかし、根保氏の発言は本当につまらない。
それこそ枝葉末節の言説だ。本人は客観的であるつもりだろうが、すでに最初
の時点でバイアスがかかっている。「自分は浅野信者でも共産党でもない」と
いうコウモリの優越感が透けて見える。
 改めて、「本質」だの「真実」だのは、論者によって変わる多面的なもので
あることがよく分かった。それと、根保氏は共産党に甘すぎる。浅野晃の歩み
を眺めた時、彼が決別した日本共産党がその後どう歩んだのかを検証するのは、
必須の事柄だ。浅野とその生涯を見つめる時、彼が文学者というだけでなく、
歴史の証言者でもあったことを忘れることはできない。ロシア革命以降、ソ連
の(悪)影響を政治的にも文学的にも受け続けた日本の歴史を振り返った時、
浅野晃の文学と生涯はそれと対峙した果敢な事例なのだ。
 根保氏の自慢めいた、つまらない書き込みを読んで、改めて浅野や水野成夫
や南喜一、そして彼らの認識を変えさせた思想検事平田勲の偉大と先見性を強
く思う。
 それと、根保氏が「浅野の弟子」を自称しても、全く氏に尊敬の念など覚え
ない。なぜなら、弟子が師に持つ敬意や愛情のようなものが全くその発言から
感じられないからで、「弟子」という言葉や生前の詩人との(中身のないくだ
らない)会話を若輩者に見せびらかして、自分の意見に従え、自分を敬えと圧
力をかけているかのようで、読んでいて本当に不愉快だ。浅野の方は根保氏を
「弟子」と思っていたのだろうか。本当に疑問に思う。
 それなら、根保氏が軽蔑的に書いていた「仏教大学」(正しくは立正大学)の
教え子たちから浅野の思い出話を聞いた方がまだ為になる。
 門脇松次郎や紀藤義一、遠藤未満画伯や小池豊子から直接、浅野のことを聞き
たかった。つまらない生き残りのつまらない証言など、相手にするだけ時間の無
駄だ。本当にこれでおしまいにする。掲示板を汚して、本当にやす様、すみませ
んでした。

572:2011/05/27(金) 01:53:37
師と弟子
 文学の先輩や師とは宗教における教祖ではないです。弟子と言えども自分の意見は持つべしです。浅野晃先生とは言わずに、浅野晃と私が書くのは、彼の文学的足跡すべてを許容しているわけではないからです。浅野晃は、その点では自由主義者でした。そして平等主義者でした。自分の文学観に反する弟子も受け入れたおおらかな教育者でした。それが彼の魅力であり、また弱点でもあったでしょう。かれ自身、右翼から左翼、そしてまた、左翼から右翼へと変節しましたが、それは教条主義者ではなく、原理主義者ではなく、自由主義者であったからです。彼は純粋の学問的共産主義は89歳の亡くなるまで認めていましたが、一党独裁の政治的な変形共産主義には断固として反対しております。個人のの自由を認めた上での経済的、政治的共産主義を念頭にしていたのですが、当時の日本共産党はかれの理想に反したものに映っていたのでしょう。中国やソ連の一党独裁の共産主義には最後まで批判的でしたし、彼の平等主義、自由主義的体質では当然であったでしょう。日本の歴史的民族性に想いを寄せた彼が、日本民族の象徴としての天皇制を熱烈に容認して右翼と言われたのも、彼が日本人の資質を愛したからで、それは彼の古典への想いから醸成されたものであったでしょう。
 私は浅野晃という文学者を時代に翻弄された悲劇の文学者であったと思いますが、右左ブレた生涯は決して誉められたものではなく、もっと周囲を納得させる処世があったのではないかと思うだけで、偉大な一流文学者であったと思います。ただし、文学史的に見れば、超一流でなかったのは衆目の認めるところで、それを私も宜うということであります。
 日本人の多くは、議論に慣れていません。自説に固執して、異説を忌避する単純な原理主義者が多数を占めているのは悲しい事です。議論は新しい見方を獲得するための道筋であり方法であることの意味を、確認して謙虚に議論しようではありませんか。私の意見に反論があるなら、私を説得する論理を展開していただきたいと思います。
 物事は良いか悪いか、気に入るか気に入らないかで判断するのではなく、私たちは論議するとき、真摯に異説に耳を傾ける許容範囲の広い心を互いに持って論議をすることではないでしょうか。論議によって新しい視野を獲得できれば私は幸せです。この場でも大いに論議し勉強したいものです。
 私も自説を主張します。皆さんも自説を主張していただきたい。歩み寄れるところ、歩み寄れないところを検証して、浅野晃像を追究したいものです。

573やす:2011/05/27(金) 11:59:06
(無題)
お説は尤もの事ながら、この掲示板は自説を主張して議論する処といふより、同好の人たちが寄合するところなのです。さう管理人たる私が決めてをります。もしどうしても「淺野晃は私の師だが超一流じゃなかった」といふことを「弟子」として云ひたくて仕方が無いのでしたら、御自身のブログを立ち上げて開陳されては如何でせうか。

本当に石塚様が弟子ならば、ここは「よその家」なのですから、
「間違っているときにも味方すること。正しいときにはだれだって味方になってくれる。」といふマーク・トウェインの言葉や
「父は子の為めに隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の内に在り。」といふ論語の言葉を思ひ出して頂きたいものです。

石塚様はたしかに淺野晃を得難い先輩と仰ぐ後輩の一人かもしれませんが(私もさうです)、先師に対して限界を言ひ渡すやうな評に対して「ね、さうでせう?先生の限界ですよね。」なんて同じく本人を前に言ひ渡せるほど親しい間柄ではなかったのでしたら、いくら相手がおおらかな教育者であっても「弟子」を名乗るのは、やはり僭越ごとに感じます。

途中経過ながら書評(といふより思ふところ?)をBook Reviewにupします。
しばらくは手を入れて更新するかもしれません。よろしくお願ひ申し上げます。

574:2011/05/27(金) 15:44:46
浅野晃さんの著書
読んでみます。浅野研究のさらなる発展を期待します。以上、もうコメントすることはないでしょう。私は、「月刊文学街」で同人雑誌評を毎月担当してますので、機会がありましたら、浅野晃さんの関連にふれたいと思います。お騒がせしました。皆さまのご健筆お祈りいたします。

575二宮佳景:2011/06/04(土) 15:25:22
増子氏の書評
いい書評だと思う。

http://www.worldtimes.co.jp/syohyou/bk110522-3.html

576やす:2011/06/08(水) 20:00:12
大垣漢詩壇の機関誌
 『淺野晃詩文集』雑誌に載った書評なども載り次第、紹介したいですね。

 さて、久しぶりに古書目録からよい買ひ物をしました。
 小原鉄心の衣鉢を継ぎ、野村藤陰を擁して戸田葆逸(葆堂)が大垣で編集してゐた漢詩雑誌の合冊です。

『鷃笑新誌』 1集〜11集合本(明14年[9]月〜15年8月) 16.9×11.0cm 各号9-11丁 各号定価5銭 鷃笑社(大垣郭町1番地)刊行

鷃笑社 社長:野村煥(藤陰) / 編集長:戸田鼎耳(葆逸) / 印刷兼売捌:岡安慶介
各府県売捌所:大坂心斎橋南 松村久兵衛 / 大坂備後町 吉岡平助 / 西京寺町本能寺前 佐々木惣四郎(竹苞書楼) / 名古屋本町八町目 片野東四郎(東壁堂・永楽屋)/ 伊勢津 篠田伊十郎 / 江州大津 小川義平 / 岐阜米屋町 三浦源助(成美堂) / 岐阜大田町 春陽社

 「鷃笑:あんしょう」といふのは、荘子の故事で、鵬(おおとり)の気持など理解できぬ斥鷃(せきあん)といふ小鳥が笑ってる謂で、毎度儒学者の謙遜です。
 どこの図書館にも揃ひの所蔵はないやうですが、明治16年26号までが確認されてゐるやうです。該書は刊行元で余部を合冊したものでせうか、きれいな製本です。毎号巻頭を先師鉄心の詩文が飾り、招待寄稿者のほか、杉山千和、溪毛芥、江馬金粟ほかの面々。

 いづれ全文画像をupしますのでお楽しみに。

『鷃笑新誌』の引

故鉄心小原先生、往年吟壇に旗を竪(た)つ。嘗て一社を結び、号して「鷃笑」と曰く。
一時の文客靡然として之に従ふ。盛んなりと謂ふべし。既にして世故変遷し風流地を掃ふ。
先生また尋(つ)いで世を捐(す)つ。此より文苑零落し、また社盟を継ぐ者なし。あに嘆くに堪ふべけんや。
吾が社友、葆逸戸田詞兄は先生の侄孫、而して少時その社盟に預かる者なり。
一日、余に謂ひて曰く、
「方今、奎運(文運)旺盛にして文教大いに興る。吾が大垣の若(ごと)きは、嘗て文雅を以て著称せらるも、乃今、寥々として此の如きは、吾、常に此に於いて慨き有り。
因って一社を設け、以て故鉄心の蹤を継がんと欲す、如何。」と。
余、曰く、「善きかな。」是に於いて檄を移(とば)して同志を誘ふ。応ずる者は殆ど二十名。
乃ち相ひ約して曰く、
「毎月一会して、団欒、情を叙して酒を酌まん。酒、無量にして乱に及ばず、分韻、詩を賦すも、金谷の罰は設けず。ただ其れ適(ゆ)く所のみ」と。而して社名は旧に依って「鷃笑」と曰ふ。
是れ即ち旧盟を継ぐの意を表すなり。そもそも鉄心先生、俊傑英邁にして、身は藩国の老を以て補佐の重きに任ず。為に士民の瞻仰する所、退食の暇には鵬翼を枉げ鷃笑の社に入ると雖も、而して心は家国を忘る能はざるなり。
今、我輩、固(もと)より先生の一臂にも当たる能はず、まことに斥鷃たるのみ。鶯鳩たるのみ。いずくんぞ能く九万の雲程を望まんや。
然りと雖も詩酒に優遊し、風月に嘯傲し、自から閑適の楽しみ存するは、果たして如何なるかな。
一月に詩文若干を得、乃ち上梓して以て同志に頒たんと欲す。
同人、余に一言を徴す。因って此の言を挙げて引と為し、以て先生の一笑を地下に要(もと)めん。
                     藤陰野村煥識

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577やす:2011/07/02(土) 17:00:33
加藤千晴の絶筆 ほか
○ 加藤千晴詩集刊行会の齋藤智さまより『加藤千晴詩集』に漏れた最晩年の詩篇一編、挟み込む用に印刷された一葉をお贈り頂いた。池内規行氏が所蔵の雑誌より発見の由、刊行会への連絡で実に公刊後7年を経ての補遺となった。単なる拾遺詩篇でなく絶筆とみられることから特別に印刷・頒布に至ったものにて、茲に掲げる。




 静かなこころ   加藤千晴

?

静かなこころ

なやみかなしみも

底に沈んで

何も思わない

何も夢みない

ただ憧れる

ただ祈願する

この静かなこころ

?

生きる日の

なやみかなしみの

嵐のなかに

かくも静かなひととき

これは神のたまもの

時間空間のまんなかに

ひとり在る

この静かなこころ

?

ああ このひととき

生きている 生きている

ただ安らかに

ただ充ちたりて

静かなこころよ

われに在れ われに在れ

生きる日の

この神のたまもの

         (1949.12.20)

?

○ 梅雨の合間の一日、岐阜市立歴史博物館へ江戸後期岐阜詩壇の山田鼎石、金龍道人の墨蹟などを撮影に(市内円徳寺所蔵委託資料)。合せて館蔵の藤城、星巌ほかの掛軸もカメラに収めて帰る。成果の公開は順次追って【古典郷土詩の窓】にて。

○ 図書館のあつまり(6/28)で講師に招いた松岡正剛さんに名刺交換を強ふ。「千夜千冊」に『淺野晃詩文集』どうでせう、と喉元まで出て果たせず(悔)。

○  近況:職場人事ほか身辺くさぐさの変更の予感。古書的話題では、地元山県市大桑出身の武藤和夫第二詩集『高らかに祖國を歌はん』や、美濃国不破故関銘の拓本掛軸を入手。さらに長年の探求本の抽選結果など、目下何事に於いても息をつめて推移を見守る毎日です。

578やす:2011/07/16(土) 21:19:35
(無題)
○山川京子様より『桃の会だより』5号、手皮小四郎様より『菱』174号(今回は連載休筆)を御寄贈頂きました。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

○今月の『日本古書通信』984号に、地元岐阜市太郎丸の詩人、深尾贇之丞の遺稿詩集『天の鍵』についての紹介記事「犬も歩けば近代文学資料探索 19 曾根博義氏」あり。
 拙サイトも紹介に与りました。

○近況:「長年の探求本」『木葉童子詩経』(丸栄古書即売会)の抽選は外れ。代りに有料会員を辞めたオークションにて頭山満翁の共箱付掛軸を落札。
 翁の筆札は全くの自己流である由、吾もまた平仄無き悪詩をものして一粲を博さんと。

  頭山満翁少壮日   頭山満翁、少壮の日

 天与兼備知仁勇  天与の兼備「知・仁・勇」
 加之皆称以乱暴  しかのみならず皆称するに「乱暴」を以てす
 乱義逆転青雲日  「乱」の義は逆転す、青雲の日
 女傑善教人参畑  女傑善く教ふ、人参畑

○近況2:この3連休は今日月曜と仕事で潰れ、明日また家族の世話に費ゆべし。一句。

 ひとりごつ吾れをみつむる母と犬

579やす:2011/07/19(火) 23:38:05
『主人は留守、しかし・・・』
詩人小山正孝夫人である常子氏による新刊随筆集『主人は留守、しかし・・・』の御寄贈に与りました。
この一、二年、同人誌「朔」誌上において掲載されてきたものを中心に、このたび御家族の手で一冊にまとめられる事になったものです。
わが感想は、別に印刷に付せられる予定にて『只今執筆中、しかし・・・』 幸せな結婚について思ひを致すことが今の私には難しく(苦笑)、あらためて「愛の詩人」のアウトラインを描くべく、唸ってをります。
とりいそぎ刊行のお報せ一報まで。 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

随筆集『主人は留守、しかし・・・』  小山常子著 のんびる編集部 2011年7月刊? 180p ; 18.8cm, 1200円

 問合せは「感泣亭―詩人小山正孝の世界」サイトまで。

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580やす:2011/07/26(火) 23:17:53
『われら戦ふ : ナチスドイツ青年詩集』
 先日入手した武藤和夫の詩集、「ヒットラー・ ユーゲント歓迎の歌」を収めた『高らかに祖國を歌はん』に続いて、同じく地元詩人の雄、佐藤一英による訳詩集『われら戦ふ : ナチスドイツ青年詩集』の特装版を入手。珍しい文献なので早速画像をupしました。が、何でせう。何かしら考へろとの因縁ですかね。ノルウェーで信じられないやうな悲惨な右派テロが起きました。

 「多文化共生」といふ理念は、「よそ様」と「身内」とを峻別して、身内に厳しくあるところに本来意義があると思ふのですが(さう考へる処がすでに我が倫理的思考の限界ですが)、節度を抜きにかざされる「文化摩擦に耐える逞しさが必要」なんていふ強者の正義は、こんな犯人にとっては尚のこと、自国文化に同化しない「よそ者」に寛容すぎる売国的な偽善にしか映らなかったのでありませう。わが国ではそれが「自虐史観」と絡めてこれまで論じられてきましたし、隣国でもそんな摩擦は許し難い侵略と同義なのであるらしい。地球の中での「多文化共生」問題も解決できてゐないのに、一国内に「多文化共生」を積極的に抱へ込まうとするのは、いくら世界一成熟した民主主義国家とは云へ、コスモポリタリズムによせる過信はなかったかと、拙速を心配するところです。
 ナチス党の台頭と独裁も、けだし当時の最も民主的な憲法下で、ユダヤ人が目の敵にされ、多数決によって熱狂的に迎へられたことを考へると、今回のやうな典型的な右派テロも、あながち遠い時代のこと遠い国での出来事とばかり言ってはをられぬ気もします。


書影は『ナチス詩集』1941神保光太郎訳、『ナチスドイツ青年詩集』1942佐藤一英訳、『民族の花環』1943笹澤美明訳

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http://

581:2011/08/06(土) 07:48:21
お尋ね
(初投稿となります。この場でいいのかわからずに投稿しております)
お尋ねします。
掲載の「四季」目次にて昭和17年第65号にて「私はふと涙ぐんだ」伊東静雄となっておりますが、復刻版の該当号には伊東秋雄とあります。ほかの資料からも伊東静雄の作品として確認できませんでした。
(もう一件)
同じく「四季」目次で昭和11年6月第18号でリルケの「純白な幸福」を詩作品に分類されてます。同号「後記」にはリルケの短篇として紹介しております。
 以上二点についてお伺いいします。
当サイトいろいろと参考にさせていただいております。感謝!

582やす:2011/08/06(土) 10:58:58
御礼
目次リストの誤記の御指摘を忝く、早速週明けにも訂正したいと存じます。
また何かございましたら(多々あると思ひます)よろしくお願ひを申し上げます。
ありがたうございました。

583:2011/08/22(月) 08:51:32
字化け
(二度目の投稿)
今朝訪問いたしましたところ
字化けを起こしております。
よろしくお願いします。
(こんな指摘ばかりになり申し訳ありません)

584やす:2011/08/22(月) 12:48:28
文字化けの件
方々から指摘されます文字化けの件、御迷惑をお掛けして申し訳ございません。
私方にても、internet explorer の更新を行ふなかで文字化けが起こり、困ってをりましたが、また更新を行ってゐるうちに直りました。
使用のhtml作成アプリケーションで余分な記述が入るらしく、ホームページビルダーで保存しなおせば直る、といふものでもないらしい。技術に不如意でお恥ずかしく、お詫び申し上げるばかりです。
ブラウザが mozilla firefox だと起こらないやうです。
根本的な解決になりませんがよろしくお願ひ申し上げます。

585:2011/08/25(木) 00:22:49
(無題)
例えば http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/shiki/sikilist1942.htm だと、
html先頭のheadタグ内
「meta http-equiv="Content-Type" content="text/html; charset=UNIXJIS"」
と書かれている部分の「charset=UNIXJIS」というのはダメです。
このページの文字コードはJISのようなので「charset=iso-2022-jp」と書いてください。

しかし他のページを見るとShift_JISのページもあるようです。
その場合は「charset=Shift_JIS」です。

586やす:2011/08/25(木) 21:06:21
文字化け直りましたでせうか。
も様、御教示ありがたうございました。

587やす:2011/08/31(水) 17:31:56
残暑見舞
 大震災以来、憂きことばかり続きます。過激化する環境は自然ばかりでなく、原発災害および外圧に対する人的なミスリードにおいても私たちの生活を脅かしてをり、「国難」といふ言葉が少しずつ息苦しく実感されるところとなってきました。

 本八月晦日は田中克己先生の生誕百年。不肖の弟子にも多少の感慨あって然るべきところですが、目下、私生活においても意気消沈の最中、気の効いたことひとつ云へず、看書もままならず、朝夕の習ひとなった諷経に己が無力感を重ね合せてをります。

 残暑見舞ひ申し上げます。

588やす:2011/09/18(日) 22:33:41
淺野晃文学散歩
 先週、北海道に一泊。所用を終へた翌日、苫小牧市立図書館を訪ね、所蔵する淺野晃の資料群を拝見し、その足で勇払に建つ詩碑も見てきました。
資料群には淺野晃の著作ほか来簡集がファイルされてあり、時間さへ許せば一通一通ゆっくり拝見したかったところ。詩碑は、今は日本製紙工場入口の緑地内に、盟友南喜一の石碑と一緒に移されてゐました。

われらはみな
愛した
責務と
永訣の時を

 後ろに、建立当時存命だった全ての日本浪曼派関係者、発起人・賛同者の名を連ねたプレートが埋められてゐて、この北限の地で出遇った田中克己先生をはじめとする懐かしい名前の数々を、指に押さへて確かめる感触は格別でした。

 苫小牧市立図書館の大泉博嗣様、また周旋頂いた中村一仁様にここにても深謝申し上げます。ありがたうございました。

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589やす:2011/10/13(木) 18:34:04
杉山平一詩集『希望』
杉山平一先生より新刊詩集『希望』の御寄贈に与りました。刊行のお慶びと共に、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「季」誌上ですでに拝見し、見覚えある詩篇はなつかしく、ことに拙掲示板(2007年 7月18日)でも紹介した「わからない 100p」といふ詩の思ひ出が深かったのですが、今回まとめて拝見することで、あらたに「顔 14p」「ポケット 16p」「真相 22p」「反射 24p」「一軒家 26p」「天女 34p」「不合格 44p」「待つ 48p」「ぬくみ 67p」「処方 71p」「答え 88p」「うしろ髪 106p」「忘れもの 108p」などの名篇を記し得、これらを近什に有する杉山先生九十七年の詩業に対し、真に瞠目の念を禁じ得ぬところ。編集工房ノアの再びの詩集刊行のオファーも宜也哉と肯はれたことです。


「ポケット」      杉山平一

町のなかにポケット
たくさんある

建物の黒い影
横丁の路地裏

そこへ手を突込むと
手にふれてくる

なつかしいもの
忘れていたもの         16p



「天女」

その日 ぼんやり
広場を横切っていた

そのとき とつぜん
ドサッと女の子が落ちてきた
すべり台から

女の子は恥しそうに私を見上げ
微笑んでみせた

きょうは何かよいことが
ありそうだ         34p



「ぬくみ」

冷たい言葉を投げて
席を立った 男の
椅子に ぬくみがしがみついていた 67p



「わからない」

お父さんは
お母さんに怒鳴りました
こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました
どうしてわからないの

お兄さんは妹につゝかゝりました
お前はバカだな

妹は犬の頭をなでゝ
よしよしといゝました

犬の名はジョンといゝます  100p


前にも申し上げたことかもしれませんが、「杉山詩」にみられる、裏側からの考察・逆転の発想。その基底に横たはってゐるのが、攻撃的なあてこすり(批判精神)でなく、防御姿勢をくずさぬヒューマニズムであること。――それがまた裏側からの考察・逆転の発想であり、且つ、手法は明快な機知を旨としつつ、その思惑はいつも明快ならざる人生の「何故」に鍾まる。――「杉山詩」に接する毎に心に残るのは、つつましさや諦念といった、ロマン派が去った後のビーダーマイヤー風の表情、微苦笑しながら決意する市井の一員のそれであります。それは戦争が始まる前から詩人の本然としてさうだった。さらにそんな「分かった風の評言」こそ詩人が警戒した褒め殺しであってみれば、詩編の最後には、ときに心憎いサゲの代りに個人的な意思が「強いつぶやき」として故意に付されてゐるのを看ることもある。――それが、機知に自らいい気にならぬため、新品をちょいと汚して用ゐる、詩人一流の「含羞」の為せる仕業ではないのか、さう勘ぐったりすることもありました。もちろんそんなところが、詩人杉山平一がモダニズムを発祥とする戦後現代詩詩人ではなく、恐竜の尻尾を隠し持つ「四季派」現役の最後の御一人者として、日本の抒情詩人の正統に位置づけられる所以なのだと私は信じてをり、史観を同じくする若い読者の一人でも増へてくれることを庶幾して、このホームページ上で四季・コギト派の顕彰を続けてゐる訳ですが、今回新著に冠せられた『希望』といふ表題詩編の、まるで震災に対する祈念であるかのやうないみじき結構も、そのまま抒情詩人たちの評価がくぐってきた長いトンネルの歴史のやうに私には思はれ、感慨ふかく拝読したのでした。


「希望」       杉山平一

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればいいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな          12p

今回の詩集のあとがきには、ふしぎなことに「四季」のことも、師である三好達治のことも触れられてゐません。ただ布野謙爾といふ、戦争前夜に夭折したマイナーポエット、高校時代に仰いだ先輩を先行詩人としてただ一人、名指しして挙げられたのを、私は杉山平一を詩壇の耆宿としてしか認識してゐない今の詩人達に対する不意打ち的な自己紹介として、カバーを剥した時に現れる本冊の意匠とともに大変面白く感じ、彼が自分の処女作に先だちまず世に送り出したといふその遺稿詩集を読んでみたいといふ、ささやかな「希望」が起りました。これを著作権終了資料であることをよいことに誰でも読めるやう本文画像を公開させて頂きました。


「昨日「椎の木」が来た。左川ちか、江間章子の次の方へ載せられて、いささか恐縮した。すこし本格的に頑張らぬと恥しい。」(1934.6.5)

「朝、百田宗治氏より来信あり。主として“椎の木”経営についてのことであった。新しくアンデパンダン制にしたものの集まった作品のレベルが余りに低く、遂に十名位を編集委員とし、委員中心の純粋詩誌にするとのことであった。小生もその一員に推されたが、拠出金が余りにその額が大なので、これを何とか緩和して貰へないかといふやうな意味の便りを出した。」(1934.8.20)

「ボン書店より、レスプリ・ヌボウの同人になってくれと言ってきた。」(1934.8.30)
「春琴抄に対する保田與重郎氏の評論は面白く読んだ。」(1934.9.3)


詩も良いですが、こんな具合に「椎の木」に限らず、モダニズム・四季派・日本浪曼派など当年の抒情詩壇との接点が綴られる日記と書簡に興味津々、まだ途中ですが付箋をつけながら看入ってゐます。

それから杉山先生を奉戴する同人詩誌「季」95号も合せて拝受しました。矢野さん舟山さんなど長年の仲間のなかでも、杉本深由紀といふひとが杉山平一の真正の後継者として、二番煎じではなく歴史を捨象した女性ならではの感性を以て精進を積んでをられることは特筆に値します。散文で我を主張してゐるのをみたことがないのも奇特のことに感じてゐます。合せて御紹介。


「サヨナラ。」   杉本深由紀

やっと書いた サヨナラを
みつめていたら
目の中で 水中花のようにゆれた

そのうち
 ひらひら
  ひらひら

便箋から浮かび上がってきたので
息を止めて その下に書いた
ちいさな ちいさなマルひとつ

石みたいに 重たい             「季」95号 2011.9

ここにても御礼を重ねます。ありがたうございました。

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590やす:2011/10/14(金) 11:14:33
荘原照子聞書:秋朱之介、『マルスの薔薇』を編む
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』175号をお送り頂きました。早速披けば前号休載だった荘原照子の聞書き伝記の再開に抃舞――連載15回目にして、たうとう『マルスの薔薇』の刊行時(昭和11年)にたどりついたのです。?

彼女の処女作品集にして唯一の単行本『マルスの薔薇』は、前半に表題の中編小説を据え、後半に詩10篇を収めた詩文集で、稀覯本の多いモダニズム文献の中でも人気の高い一冊であります。表題作である“ろまん「マルスの薔薇」”が、フィクションといふより作者の伝記的事実をそのままなぞってゐるらしいことは、ために彼女の勘当が家族会議で諮られた事実からも窺はれ、手皮様も独自に裏付けをとりつつ、これまでも度々考証の手掛かりとして引用してこられました。謂はば印刷に付された「吐露エピソード」の宝庫なのですが、これが発表を前提に書かれたのは確かながら、どうやら進んで刊行された素性のものではない、刊行後に著作者をめぐって物議をかもした本なのです。今回はあらためて最初から筋道を追ってプロット全体の解説が試みられ、次いでその物議について考察が加へられてをります。


伝記的事実――子ども時代に強烈な印象を詩人に与へたと思しき、個々の出来事や登場人物の造形に妙なリアリティが感じられることは、初めての小説にして天稟煥発と云ってはそれまでですが、父親の酔態描写などなるほど勘当の発議もありなんと思はされます。ラブレターは実際に投函された写しが使はれたでのでせうが、客間に現れる山師の女怪に至っては「水色地に華麗な紅薔薇の花模様の着物、紫無地の羽織をつけ、深紅に近いゑび色の袴」といふ、さながら宮崎アニメに出くる魔法使ひといったいでたち(笑)、実際に見聞した人物であったのかどうか。露悪的といふより頽唐的な描写は、自身に関しても、素裸にされガラス箱に閉じ込められるといふ、嗜虐的なトラウマを白状(夢想?)してみせるのですが、これなど真偽の程はともかく、文学が不良青少年のたしなみだった当時、田舎の未婚の箱入り娘が初めて書いた小説で披露できる表現でないことだけは、確かでありませう。後生可畏と家族一同が息をのんだことは想像に難くありません。


手皮様は、この風変りな教養小説(?)の魅力が「数学的構成による姿態」といふ著者の抱負にではなく、あくまでも「小説の面目は、詩人の書いた小説であり、イメージの表出の鮮度にあった」ことを指摘し、伝記的事実が与へたリアリティであるとは語ってはをられません。しかしもうひとつの物議、この意匠抜群の一冊の編者であった、ロマン派気質たっぷりの出版仕掛人・秋朱之介に対して、著者が思ひ出を振り返るたびに激怒してゐた事実について語ります。一篇の作品が一冊の本に凝る時に、共有すべき責任が放擲された事。この本の、断りなく著者の与り知らぬところで刊行された「サプライズ」が、意図に反して全く逆効果に終った理由。つまり物議はむら気な編者による「校正の杜撰さ」に対して起ったのですが――それも取り返しのつかない誤植として、主人公タカナの恋人の年齢「廾五(25歳)」を一本棒を間違へて青年から「卅五(35歳)」のオジサンにしてしまった、その一事に極まったのだらう、と推察された条り、これはまことに炯眼と思ひました。若き日の失恋を弔ふべく心血を注いだ“ろまん”に対するこの上もない冒瀆。もっともこの「恋人25才説」は、本人に直接確かめることのなかった仮説ではありますが、しかし罵倒の歇むことのなかった詩人と永らく対峙された手皮様だからこそ、後年フィールドワークの結果くだし得た断案は「聞書きに残されなかった不可触の真実」のひとつではなかったのか。私もさう思はずにゐられないのです。醜聞の曝露など、そもそも発表されることを覚悟の上で書いた原稿であってみれば、それが勝手に刊行されたからといって何の怒る理由には当りませんから。


さらに私が思ったのは、「数学的構成による姿態」といふのも、緻密に筋を組み上げていったといふより、当時の自分の心情に忠実なところを、思ひ出と書簡を縦横に利用しながら、詩を書くやうに書き進めてゆくことで、モダニズム特有のコラージュ発想が散文にあっては奇しくも場面の切替りの妙として作用したのではなかったか、といふこと。いきなり書いた長い小説が、破綻を免れ詩的香気豊かな佳編に結実したのは、もしかしたら「詩人の自伝」に許された一回限りの僥倖・ビギナーズラックではなかったらうか、といふことでした。実際、かうした小説は以後も書かれたのでありませうか。これについてはやがて「著作目録」の後半とともに明らかにされませう。


とまれ意味不明の飛躍が当たり前のモダニズム詩文学に於いて、誤植の具体的な証言が本人より得られてゐるのは貴重であり、味読の上で見過ごせない「理性」→「野生」など、早速公開中の画像を訂正することにしました。いつか活字になることがあったら、定本は本文の方を「廿五歳」と記してあげてほしいところです。


舞台はこのさきモダニズム受難の時代に入ってゆきます。いづれ彼女の詩壇退場劇については、聞書きにより明らかになった顛末も描かれることになるのでせう。今わたしが一番たのしみにしてゐる連載なので、手皮様には貴重な当時のモダニズム詩人達との交友記録を、出来うる限り多く、長く綴って頂けたらとねがってをります。


御健筆をお祈りするとともにここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。


『菱』175号 2011.9.1詩誌「菱」の会発行 \500 問合先:0857-23-3486小寺様方

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591やす:2011/10/17(月) 12:37:51
『布野謙爾遺稿集』
 このお休みを、杉山平一先生の編集に係る『布野謙爾遺稿集』の、特に日記と手紙を抜き書きしながら読んでをりました。恰度、手皮小四郎様の前回の連載「モダニズム詩人荘原照子聞書(「菱」173号)」で、当時の「椎の木」に惹起した内紛と分裂について記されてゐるのですが、この遺稿集に収められた日記・書簡を読むと、当時の彼は荘原照子とは反対に、大阪に拠点が移った第四年次の「椎の木」に残り、編集を受け継いだ山村酉之助(荘原照子曰く「ギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子」)の人柄についても信を寄せてゐたことがわかります。

□「いま大阪で私たちのやってる椎の木を編集してゐる山村さんといふひとに、よく便りをいただいてゐますが今年二十七才位のひとですが、なんだか人間的に私をひきつけるものがあります。このひととなら、のるか、そるかのところまで一緒に雑誌のことを手伝って行き度いといふ情熱を私に持たせます。まだ逢ってゐない人だけれど、ちかころこのひとがあることが、私にはひとつの慰みとなりました。大阪人には気まぐれは少いといふことを悟りました。このあたりか、ひとの好し悪しに関係なく大阪人の特性だと思ひます。お金持で教養のある人は(その教養は単にサロン的教養ではありません。ブルジョアの社会的意義を究明し尽くした教養)やはりプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しいと思ひました。」(1935.6.18 草光まつの宛)

 しかしこのさき名跡「椎の木」と、あたらしく分かれ別冊誌の名を継いだ「苑」は、同じく季刊を継いで月刊となった「四季」のやうには長命を保つことができず、ある種共倒れの感を呈して廃刊に至ります。それはモダニズムの裾野が囲い込まれてゆく時代状況にあって、中途半端なモダニズムが新領土に淘汰凝縮されていったこと、そしてこの分裂劇以降「新進詩人の育成」について、自身のモダニズム転向を封印(?)してしまった宗匠の百田宗次が興味を失ひ、放擲してしまったといふ事情にあったもののやうです。
 「椎の木」の同人達、とりわけ布野謙爾と姻戚関係にあったと思しき景山節二については、なぜ先輩と袂を分かって「苑」の方へ参加したのか。生前の詩人と面識のあったといふ手皮様も、今回景山家に叔父がゐた事実には驚かれたとのこと。今後、言及が俟たれます。また私も高松章、宍道達といったマイナーポエトの詩集との出会ひを私かに喜んでゐたところ、こんなところでその名に出喰はすとは思ひませんでした。全集類における日記や書信、そして序・跋において明らかにされる交友関係といふのはとりわけ詩人に於いて頻繁で、興味の尽きないところです。さうして布野謙爾が杉山平一を通じて「四季」「日本浪曼派」などモダニズムから意味の回復への接近してゆく過程といふのは、謂はば結核にむしばまれた彼の衰弱過程に沿ってゐるやうです。

□「四季の会に 出かけた由、そんな雰囲気はどうにもうらやましくてなりません。詩を作る機縁なんて、つまるところこの雰囲気がなくては駄目だと思ってゐます。」(1936.7.20 杉山平一宛)

 健康さへ許せばおそらく内地での就学とともに、中央詩人達との通行、また発表の機会も拡がってゐたことでせう。ファッショを厭ひ、朝鮮の現状に心を痛め、杉山平一の詩に萌芽するヒューマニズムを賞してゐた彼にあって、「お金持で教養のある人はプロレタリヤの教養のあるひとより精神的に美しい」と観念した精神が、先鋭化に伴ふ手段としての詩に傾斜していったモダニズムに対して、どのやうな回答を実作において示し得ただらうか。さう残念に思はれてなりません。

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592やす:2011/10/17(月) 23:40:45
『桃の会だより』 / 『保田與重郎を知る』
 山川京子様より『桃の会だより』6号をお送り頂きました。ここにてもあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 例によって短歌に評など下せぬ自分ですが、文章はいつも楽しく拝見、今回は野田安平氏による棟方志功を語る短文あり、詩人山川弘至『国風の守護』と京子氏『愛恋譜』の二冊を「装釘がとりもった比翼」と表現されたのを、いみじき言葉に受けとめました。「志功装」といふだけで、著者間の教養にも何某かの共通理解が保証されたもののやうに感じてしまふのは、もちろん雄渾な筆さばきの為せる力技でせうが、画伯が『改版日本の橋』を代表とする日本浪曼派関連の印刷物の装釘を戦争中に一手に引き受けたことが、戦後は仇となり、版画家として「世界のムナカタ」に功成り名を遂げた後も、造本家としては色眼鏡でみられること多々あったに相違ないと推察します。尤も画伯自身が彼らとの交友を革めなかったことが、日本浪曼派の為にはきっと得がたい恩となり、また時を経た今となっては、再評価の成った保田與重郎とともに、節操の輝きをお互ひに永久のものにしようとしてゐる。これは有難いことであり、棟方志功と日本浪曼派といふのが、そもそもさうした連理の関係にあるやうです。
 四季派における深沢紅子と日本浪曼派における棟方志功は、伝統を現代のなかに活かさうと目論んだ昭和十年代の抒情を、本の型に凝らせることに成功した装釘家として双璧と呼ばれませう。著者においても彼等の装釘を戴くことが時代の勲章だったといふことを、野田さんの御文章からもあらためて感じました。
 またさういふ気圏の中で起きた詩人山川弘至と京子様との物語は、古代を現ずる一種の神話として語り継がれる運命にあり、郡上の山の奥に安置せられた「本尊」である詩人と、その「語り部」である京子様の、一対一に向き合はれた絶対の関係は、京子様の人徳と雑誌継続の意志により、今では野田氏を始めとする『桃』会員のみなさんとの関係に、うたの道としてひとしく受け継がれてゐる。――編集に当たられてゐる鷲野氏といひ、野田氏といひ、まことに心強いことに存じます。末尾に鷲野氏が抄出された石田圭介氏の代表作は、奥美濃の八月、蝉しぐれの中の静寂を写して実に愛誦に堪ふべきものと感じ入りました。

御歌碑をめぐりて咲けるおそなつの花うつくしく山深きいろ


 またこのたび『保田與重郎を知る』(前田英樹著 新学社2010.11)といふ、生誕百年を記念して昨年刊行された本のあることを知り早速註文、遅まきながら手にとったところです。冒頭まえがきでは――、これまで「文芸評論家」としてしか肩書がなかった保田與重郎について、日本古来の精神を「文章といふ肉体のなかに発光してくる取り換えのきかない意味」のなかで再体験すること、その大切さを一番に語り継がうとした「思想家」として、また歴史的にはその最後の祖述者となった「文人」としてみつめなほし「簡潔に素描」することが目的であると、述べられてゐます。生誕百年の感慨を新たにせずに居られません。「ですます」調だからといって何が入門書であるものでせう、ゆっくり本文を味読すべく(まだDVD観てない♪)、合せて茲に御報告まで申し上げます。

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593二宮佳景:2011/10/25(火) 01:37:03
『不二』九・十月合併号
 野乃宮紀子氏による書評「『淺野晃詩文集』に寄せて」を収録してをります。淺野と縁浅からぬ『不二』に書評が発表されたことに、深い感慨を覚えます。
 野乃宮氏は淺野晃の薫陶を受けた方で、芹沢光治良の研究家です。

594やす:2011/10/27(木) 22:21:31
(無題)
二宮様

 『不二』は昔の歌誌のやうに思ってゐましたが『桃』『風日』同様、現役雑誌なのですね。一番書いて頂きたい方の評言に、編者の中村さんも人心地ついたのではないでせうか。喜びも一入のことと拝察。読んでみたいです。


 また、圓子哲雄様より「朔」172号の御寄贈に与りました。地震の心労により刊行が遅延せられたことに自責の必要はございませんし、ただ震災が詩人達の胸に深く蔵され、滓が沈み、抒情詩として上澄みが掬ひ取れるやうになるまでには、今しばらく時間がかかるのでは。東北・東日本の同人が多く、皆様方からは今後、満を持しての投稿が寄せられることでありませう。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

595やす:2011/10/27(木) 22:46:56
『保田與重郎を知る』
 先日刊行を知って遅まきながらamazonに註文したうっかり者です。帯に「入門の決定版」と謳ってありますが、これまでいろんな評論家によって明らかにされてきた「隠遁詩人の系譜」や「米づくり」など、キーワードを態よくまとめて解説してゐる本ではありませんでした。誰しもなかなかうまく言葉にはできなかった読後感の正体を、易しく語ることは、「ですます」調の語り口とは次元のちがふ話で、そらすことなく得心ゆく説明をするのは決して「易しいこと」ではない――「入門の決定版」なのはその通りですが、初学者のための一冊といふより、核心を突いた一冊、否、私自身が初学者であることを思ひ知らされた一冊でありました。といふのも、このサイトでは嘗て、保田與重郎の文体と「自然」とが、人に及ぼす形而上的な感興を一にする不思議について、訳わからぬまま極めて稚拙な感想を上してゐたからです。

 出版元の創業精神を思へば、この本が所謂国文学の専門家ではなく、思想家と剣術家、謂はば文武両道をよくする教育家の手で、祖述者の姿勢に貫かれて書かれてゐることに、深い意義を感じたことでした。


「この人くらい、この名が完全に、異様に不似合いなところまで昇りつめた「文芸評論家」はいないでしょう。」4p


「すでにこの少年は、学校の勉強とはかけ離れた本格の教養を身につけてしまっていた。この読書法は、後の文芸評論家、保田與重郎の文学界における孤独というものを約束しているようにも思われます。」16p


「(柳宗悦や折口信夫)らの学問は、始めから政府や大学からのお墨付きをもらえる公の方法を注意深く拒むものでした。」22p


「たとえ、そこに暴言に近いものがあったにせよ、何もかもが覚悟の上、というふてぶてしさに文は溢れていました。」26p


「彼の文章は、主語、述語といった統語要素の首尾一貫した構成で成っているのではありません。言葉は言葉を粘りのある糸のように吐きだして、うねるようにその文脈を引き延ばし、変化させてゆきます。このような在り方は、古代日本人が、大陸から文字というものを移植して以来、長い訓練の歴史を通して作り上げていった和文の本質です。保田は、そうした和文の本質を、日本語による近代散文のなかにはっきり生み出そうとしているのでしょう。その文章のどこか捉えどころのない進み具合は、まさにここで保田が描き出そうとしている日本の橋と、またその機能と、たとえようもなく一致しているではありませんか。」36p


「(系譜の樹立)それは「樹立」であって、追跡や調査では決してありません。保田の文業がこの「系譜」を「樹立」するとは「系譜」の全体が、彼自身の文体によってまるごと再創造されることを意味し、また「系譜」の尖端にみずからの文業がはっきりと据えられることを意味するのです。」71p

 など、各所で繰り出される言葉が実に気持ちよく胸に落ち、また原発事故やTPP問題の前に刊行された本であるにも拘らず、抄出される文章には、つひ日本の行末を重ねてしまひ、粛然たる思ひを致さずには居られなかったです。


「(ガンジーの無抵抗主義は)日本の自由主義者のやうに、戦争は嫌ひだ、自衛権の一切は振るへない、しかし生活は近代生活を続けたいといった、甘い考へ方ではありません。その考へ方は非道徳的であって、決して無抵抗主義ではありません。(昭和25年『絶対平和論』)」142p


「我々は百年前、黒艦と大砲の脅迫下で、鎖国を守るべきだと主張した国論の真意を、今日、高く大きい声として、再び世界の人道に呼びかけるべきである。鎖国を主張した日本のその日の立場には一種の惰性的な安逸感を保持しようといふ消極退嬰のものをふくんでゐたかもしれない。今日はしからずして、人道の根拠として世界に叫ばねばならない。この思想を我々は国民の内的生命に於いて確認するからである。(昭和59年『日本史新論』)」147p



 さて付属のDVDですが、こちらは大和の風俗と米作りに絞って、思想の紹介に重きが置かれてをり、映像が美しかったです。人となりが窺はれるエピソードを、インタビューや(もしあれば)録音資料など雑へてもっと多く紹介し、人物伝としても充実させることができたら、このままテレビの深夜枠の特番ででも流してもらひたい感じです。実は初めての紹介映像といふことで、私はもっと手前味噌の出来栄えを予想してゐたのですが、帰農した菅原文太が東北人である自らを「まつろはぬ民」として一言くさびを差しつつ自嘲してみせるコメントがあったり、谷崎昭男氏、前田英樹氏のインタビューならびに特典映像での身余堂未カット映像集にはただもう興味津津、見入ってしまったことです。

 ひとこと宣伝まで。

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596やす:2011/11/05(土) 15:49:40
雑感
 大牧冨士夫様より『遊民』4号落掌。小野十三郎の思ひ出を興味深く拝読しました。戦後の一時期、わが師田中克己とは帝塚山学院で同僚だった時期がありますが、戦時下を凌いだ大物左翼詩人であり、戦後詩壇で反抒情気運を扇動する一世代上の彼と先生とは、おなじく同僚でも『大阪文学』と『四季』の同人であった杉山平一先生を年少の詩友にもつことで、直接の接触の機会をお互ひが避け合ったもののやうに、私は感じてゐます。少なくとも帝塚山時代のお話を伺ふたびにその名は出るものの、田中先生は憎しみも親愛も示しにはなりませんでした。

 その世代――近代の節目を飾った明治末年〜大正初年生まれの人達による精神的所産が、詩の分野に限らずおそらく日本の知識人が示した最後の高みであったらうことは、これから迎へる百年で、嫌といふほど私達子孫は思ひ知らされることになりませう。

 このたびの雑誌では、左翼陣営にある同人の方々の筆鋒が、定番の戦前軍国主義の批判から、下って此度の大震災、ことにも原発問題に向けられてをります。次代を担ふ孫たちの命を守る、そのために食生活を守る、当たり前の話ですが、しかしそれは同時に食をとりまく環境と文化を守ることでもあって、この危機に対しては、今や右も左もないのでは、と私などは思ひます。旧世代の左翼陣営にとっても、守らなくてはならない食生活のアイデンティティに、必ず日本文化の連続性がくっついてくるがどうする、といふ、今までの批判者一辺倒からの転身が迫られてゐるやうに感じるのです。

 たとへば「非国民」なんてのはまことに聞き捨てならぬレッテル言葉ですが、軍国主義を想起するより、もはや豊かさ(物欲)の奴隷になり下がってゐる私たちを打つ「警策の言葉」として、その語気を以て投げつけるに相応しい現実の数々に、いま正に私たちは直面してゐるのではないか――そんな気がしてなりません。はしなくも原発事故や口蹄疫・鳥インフルエンザによって明らかになったのは、これまで浪費文化が隠し続けてきた恥部なのであって、このたびのTPP問題をめぐっても、私はそんな視点から賛成派の人々が示す損得勘定を注視してゐます。さきのレビューに上した『保田與重郎を知る』で何度も語られてゐたのは、米作りを基本とする日本の国体でした。天皇制を解体するのにTPPは決定的な政策である筈ですが、生活防衛を盾に共産党が右派政党と同じく反対に回ってゐることに、私は勝概を禁じえないのです。同人のみなさんが地域の先達に仰ぐ一人には、杉浦明平がある由。彼が生涯を通じて憎悪した同時代文学者こそ保田與重郎でありました。両者の和解はないまま、憎悪も祈念も、ともに将来の記録文化事業のなかで懐旧されるだけの時代がやってくるかもしれない・・・そんな未来の日本への分岐点に立たされてゐるやうな、不穏な空気が社会にたちこめて参りました。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

597やす:2011/11/05(土) 15:52:07
近況
 前の投稿に対する政治的レスは不要です。

 また、10月20日に加藤千晴の『詩集宣告』の画像をupしましたが、30日の山形新聞朝刊にて、詩人の紹介記事(「やまがた再発見」高沢マキ氏)が大きく一面で掲載せられた由、酒田市の齋藤智様より現物とともにお知らせ頂きました。ありがたうございました。

 風邪が治らず、明日の杉山平一先生を囲む会には出られさうもありません。お知らせ頂きました矢野敏行様には、面目なく、残念でたまりません。

598二宮佳景:2011/11/05(土) 20:26:05
淺野晃についての番組
 先月、苫小牧ケーブルテレビで淺野晃についての番組(「刻の旅〜ANOHI」 苫小牧人物伝・浅野晃)が放映されました。このほど、それを収録したDVDを観る機会に恵まれました。20分の短い番組でしたが、生前の淺野晃を知る平井義氏(元国策パルプ工業勇払工場総務課長)の回想が番組に説得力をつけていました。水野成夫や南喜一の写真が出てくれば、もっと良かったと思いました。しかし、全体として、淺野について何も知らない視聴者には実にいい入門篇というべき放送内容で、制作者に敬意を払いたいと思った次第です。
 平井氏が取材に際して、『淺野晃詩文集』を手に姿を見せたのに、思わずニヤリとしてしまいました。また、館長や司書こそ姿を見せませんでしたが、苫小牧市立中央図書館の手厚いサポートを、番組から強く感じました。地域の図書館のあるべき姿を、改めて強く思ったことでした。

599やす:2011/11/06(日) 00:43:10
詩人の声
二宮さま

 淺野晃の番組、よい出来であった由、なによりです。しかし保田與重郎のDVDといひ、あってもよい筈の肉声や映像が出て来ないのも、謦咳に接し得なかった私達後学には歯痒く思はれるところです。かく云ふ私も、田中先生との対談を録音しておけば面白かったんですが、一度要請したら峻拒されました(笑)。今では小さなチップで何でも盗撮盗聴できてしまふ時代ですから、却って恐いですが。

 先日CDではじめて北原白秋や萩原朔太郎の肉声を聞きました(ここから試聴できます)。戦後の音源集はすでに知ってゐましたが(『昭和の巨星 肉声の記録 : 昭和35年ー39年の映像資料 ; 文学者編』)、まさか昭和初期に録音された詩人達の声がこんな高音質で残ってゐたなんて、初耳にして一体これまでどこにお蔵入りされてゐたものやら、懐かしさに絶句されたであらう、今はこの世に無い諸先輩方の生前に企画されるべき貴重な貴重な音源集でした。

『コロムビア創立100周年記念企画 文化を聴く 』

600やす:2011/11/08(火) 23:55:37
掘出しもの二題
 掘出しものが二つ到着。

 一つは苦労して掘り出したといふより、誰でも目につくやうな露天掘りの目録から逸早く注文できた僥倖に過ぎないが、なにしろ揃ひを断念した筈の『柳湾漁礁』の初集である。二集、三集と一冊づつ手に入れてきたが、ハイブロウな古書通にとって今や館柳湾は柏木如亭に次ぐ大人気の漢詩人。入れ本で揃ったこの嬉しさは、山本書店版の『立原道造全集』特製版のとき以来かもしれない(笑)。

 しかもやはり「掘り出しもの」には違ひないことが分かって、吃驚してゐる。といふのも、買った所や値段・汚れ具合から、初(うぶ)ものであるとは思ったが、奥付や見返し印刷がなく、おまけに巻頭にあるべき日野資愛卿の序文さへ無かったことである。普段、古本を買って落丁に遭へばガッカリ肩を落とすところだが、こと和本に限ってはさうとばかりは云へない。つまりこの本、市販される前に頒布された初刷版かもしれないのである。贔屓目で見れば二三集とはサイズ・色も違ふし、本文紙も厚い。因みに太平文庫復刻版に於る序文を記せば
1. 日野資愛、2.呉竹沙の絵・永根鉉、3.大窪詩仏、4.葛西因是、5.亀田鵬齋、6.北條霞亭、7.松崎慊堂、8. 菊池五山の順だが、この本では
1. 松崎慊堂、2. 北條霞亭、3. 菊池五山、4. 大窪詩仏、5. 葛西因是、6. 亀田鵬齋、7. 呉竹沙の絵・永根鉉となってゐる。序文の順序を製本時にしくじるのはよくあることだし、角裂れがないので入れ替への可能性も残るものの、一応参考までに記しおく。本文に異同はないやうである。

 もう一つの掘出しも漢詩で、こちらは掛軸。昨日ツィッターでつぶやいたが、わが所蔵する筆跡の最古記録を更新したことである。明和5年(1768)といふから今から250年前、尾藩督学だった岡田新川といふ儒者の書で、こちらへの注文は或ひは私だけだったかもしれない。当時32才、発足したばかりの名古屋の藩校明倫堂の公務忙殺の合間、近くに住みながら疎遠中の詩盟に向かって、菊でも眺めながら陶淵明みたいに新酒で一杯やろみゃーかと呼びかけた詩。今夏購入した晩年の詩集には収められてゐなかったが、その友人の名はあった。そこで序でのことながら夥しく現れる人名をタイトルごと抜き書きして添へてみた。なかには美濃の人もあるやうで、何かの覚えになればといふ魂胆。実は我ながらをかしいが、調べもので検索してゐると屡々自分のサイトにヒットして自らに教へを乞うてゐるやうな体たらくなのである。

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601やす:2011/12/04(日) 20:52:29
『和本のすすめ』岩波新書
 新書を読む人に気忙しい人が多いためか、冒頭早々「江戸観の変遷」「江戸に即した江戸理解を」といふ核心的結論が掲げられてゐるのですが、ここを読んで何も感じないやうなら、その後に続く文章はもとより、和本といふ気軽に手にすることのできる自国の文化遺産には無縁の人なのでせう。抑もそんな御仁はこんな名前の本を手にとる訳もないか(笑)。

 しかしながら、かつて岩波文庫に『伊東静雄詩集』が迎へ入れられた際、少なからず感動を覚えた者として、再び感慨に堪へないのは、近代進歩主義もしくは西洋教養主義に対する痛烈な反省を迫った本書の内容が、その牙城であった岩波新書自身の一冊として刊行されたことであります。何度も書かれてゐるのが享保の出版条例のことで、それが言論統制といふより出版上の営業権利を保障するものであったこと。江戸時代の封建制度における庶民の自由と権利が、為政者の成熟した倫理感のもとで十全に確保されてゐたことを、その後の出版隆盛に鑑み「事実として肯定」してゐる点ですが、ここに至って五度目の「江戸観の変遷」、すなはち五度目の自国文化に対する反省を迎へた日本の学芸界が、左傾した思想偏重主義から本当に脱却しつつあるのだな、といふ「事実としての肯定」を、私は岩波新書といふ象徴的な「物」に即してまざまざと見せつけられた観がしてなりませんでした。尤も岩波書店の販促誌「図書」に連載の文章ですから、新書にまとられたのは当然なんですが、本書に説かれてゐる「物」としての和本の大切さといふのも、今様に実感するなら、つまりさういふことなのであります。

 論旨たる「和本リテラシー」については前半三章に集中して説かれてゐます。分かり易く書かれた和本学概論としては、「誠心堂書店」主人橋口侯之介氏による『和本入門』(平凡社 2007, 2011平凡社ライブラリー)と双璧をなしませうが、研究者としての興味はやはりサブカルチャーに傾くもののやうで、漢詩好きとしては後半は流し読み。謹恪な行文は和文脈に親しい著者にして、気合や皮肉の入る処で長くなる様子が、管見では一寸三好達治の息遣ひに通ずる面白さがあるものに感じました。

 電車の中で、新書や文庫、たまに洋書のペーパーバックなんぞを披いてゐる人も見かけることはあるのですが、ついぞ和綴本の字面を追ってる人を見たことがありません。外出時に携帯したいのは、手にささへかねるやうな一冊の和本。そんな老人になるべく、最近は毎朝トイレで『集字墨場必携』の字面と睨めっこしてをります。

中野三敏著『和本のすすめ』2011.10 岩波新書 新赤版 1336 \903

602やす:2011/12/30(金) 21:55:06
「感泣亭秋報」第6号
 小山正見様より年刊雑誌「感泣亭秋報」第6号を拝受。手違ひあってクリスマスプレゼントとなりました。今年の「感泣亭秋報」は小山正孝夫人、常子氏の新刊エッセイ『主人は留守、しかし…』の出版記念号となってゐるのですが、夫妻の最大の理解者であった坂口昌明氏が9月に逝去。来春には竣工するといふ、物理的顕彰空間となる「スペース感泣亭(仮称)」の構想にも氏は大きく関ってゐた筈であり、今後の感泣亭運営に於けるこのスペース(空席)の喪失感は計り知れぬものがあります。ここにても御冥福をお祈り申し上げます。

 かくいふ私も今回原稿依頼を受けたのは、一度坂口さんからは忌憚ない御意見を賜りたかったから。この機に(書き手でもあった)自分の中の四季派理解について、なるべく分かり易く述べてみよう、と総括を試みたつもりでした。しかし批正を乞ふことも叶はずなり、また自分自身を見透かすやうな文章を書いてしまひ、今後「四季派とは何ぞや」なる設問に対して、なんだかこれ以上書くことがなくなってしまったやうな気もしてゐます。

 ただ雑誌の内容は、晦渋な恋愛詩を書き続けた詩人である夫について、みずみずしい感性で自ら思ひ当たる夫婦関係の節々を回顧した著者の文才に焦点が集まり、これに大いに掻きまはされた執筆陣が一様に踏みこんだ感想と考察をものしてゐます。「第2特集」――麥書房社主堀内達夫氏に関する文章とともに、年刊雑誌に相応しい充実した内容となったことはお慶び申し上げる次第。ネット上では話題に上ることの少ない個人研究誌ですが(サイト上でも未だ今号の紹介はされてゐませんね)、詩人と親和性ある気圏に対象を広げてゆきたいと抱負を語られた感泣亭アーカイヴズの主宰者、御子息正見氏の今後の舵取りは、坂口氏の後ろ盾を失ひ前途多難ではありませうが、雑誌「感泣亭秋報」が四季派研究家・愛好家の欠くべからざる必須文献として、この平成も20年代に入った現代、毎年刊行され続けてゐる意義といふのはまことに大きい。今回は刷り上がりを3冊頂いたうち2冊を差し上げてしまったので、拙文については許可を得て【四 季派の外縁を散歩する??第17回】にて公 開させて頂きました。
「感泣亭秋報 六」 2011.11.13 感泣亭アーカイヴズ発行 21cm, 68p  連絡先は感泣亭サイトまで。

【目次】

【詩】 誰が一番好きかと聞かれたら 小山正孝 2p

恋愛詩人が作る物語と現実――小山常子『主人は留守、しかし…』を読んで 國中 治 4p
正孝氏への「返歌」 里中智沙 12p
最良にして稀有の伴侶――小山常子著『主人は留守、しかし…』 高橋博夫 14p
詩人再考――小山常子氏の新刊に寄せて 中嶋康博 16p
常子夫人と小山正孝氏 大坂宏子 23p
小山常子様の出版を祝して 圓子哲雄 27p
坂口さんが発見した『津軽』――坂口昌明さんを悼む―― 竹森茂裕 30p
小山正孝の詩世界5『散ル木ノ葉』 近藤晴彦 32p

【感泣亭通信】??松木文子 瀧本寛子 高橋 修 永島靖戸 山田雅彦 絲 りつ 國中 治 石黒英一 神田重幸 相馬明文 佐藤 實 中嶋康博 西垣志げ子 荒井悌介 小栗 浩 西村啓治 馬場晴世 高木瑞穂 益子 昇 安利麻 愼 木村 和

【詩】テイク番号 森永かず子 50p
   あなたの羨望が 大坂宏子 52p
   明日 里中智沙 54p


立原道造を偲ぶ会と堀内達夫さん 益子 昇 56p
堀内達夫さんのこと 藤田晴央 58p
昭和二十年代の小山正孝2――小山−杉浦往復書簡から―― 若杉美智子 61p
小山正孝伝記への試み2――前回の修正と初恋の話―― 南雲政之 63p

感泣亭アーカイヴズ便り (編集部) 67p

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603やす:2011/12/31(土) 01:21:09
よいお年を。
 さきの投稿で、四季派について何だかこれ以上書くことがなくなってしまった、なんて記しましたが、これは詩集コレクション構築に対する執心が低下したからかもしれません。もちろんモチベーションの低減には理由があって、

1.探求書の最高峰であった宮澤賢治の詩集を、古書店の御厚意で手に入れたこと。
2.反対に、(資金・地の利はともかく)、私の了見が狭い所為でこの数年間次々に知友と専門店のコネクションを失ったこと。
3.国会図書館やgoogle booksで実現しはじめた著作権切れ書籍の公開事業により、これまで拙サイト上で公開してきた原資料画像に「賞味期限」が設けられる見通しがついたこと。
4.そして最後に(これが一番の理由ですが)、興味分野に「郷土漢詩」が加はったことでいろんな「防衛機制」がされるやうになったこと。つまり近代詩の詩集が買へなかったら漢詩集を買ふ、或ひは漢詩が素養として強いる道徳によって執心をクールダウンできるやうになったといふことが挙げられると思ひます。勿論わが年齢もありませう。

 幻の詩集とよばれた稀覯本も早晩パソコン上で読めるやうになり、所在情報の詳細が明らかになれば、原物を借りる方策も立ち、購入に際しては価格の比較だけでなく在庫のだぶつき具合も確認できるやうになる。こんな具合に敷居が下がったのはすべてインターネットの恩恵ですが、さらに個人的な状況として、まだ味読されてゐない多くの本が、書棚から恨めしげに私を見下ろしてゐるのにそろそろ耐へられなくなってきた、といふ事もあります(笑)。なるほど難しい研究書を読み返すことがなくなり、この年末に段ボール5箱ほどを“断捨離”した私は、もはや四季派愛好家として薹が立ったと云へるかもしれません。床の間に安置した良寛禅師坐像に向かひ、「修証義」の諷経を日課とすること一年。そのうち野狐禅の説く「コレクター修養講義」が始まりさうです(笑)。

 冗談はさて措き、そのほかのニュースおよび、本年の収穫を御報告。


 「日本古書通信」12月号の巻頭記事にありました、地方図書館の和本群が財政上の理由で博物館に移管されるといふ話。確かに江戸時代の刊本をコピーにかけることを古文書同様に禁ずる学芸員と、読まれることを願って世に送り出された著作物について可能な限り利用促進を図らうとする司書とでは、和本に対する立ち位置が全く違ひます。殊にも私のやうな人間は、原資料を実際に手にとることこそ、著者と著者の生きた時代に直接つながるための唯一の儀式であると実感してきた人間なので(ネット上で行ってゐるのはあくまでも代償行為と興趣喚起です)、地元博物館へ調査に行った際にも同種の不満を感じたことですが、死蔵されんとする和本資料の悲運を思っては同情を禁じ得ません。


 高木斐瑳雄が社長を務めてゐた実家、伊勢久の社史『伊勢久二百五十年』を寄贈頂きました。地元陶磁器産業の歴史資料としても貴重であり、図書館へ寄贈させて頂きましたが、詩人に至るまでの歴代社長の経歴紹介ページについては、許可を得て転載公開してをります。御覧下さい。
 思へば大震災の当日あの時間に何をしてゐたのかといふと、私は図書館まで御足労下さった社長さんと高木斐瑳雄のことをお話ししてゐたんですね。その一年が暮れてゆかうとしてをります。まことに公私ともに厳しい運命が啓かれんとする一年でした。 どなた様もよいお年をお迎へ下さいませ。


2011年の収穫より (収集順)

安西冬衞詩集『渇ける神』
松浦悦郎遺稿集『五つの言葉』
『淺野晃詩文集』中村一仁編 新刊
大垣鷃笑社編『鷃笑新誌』1-11合冊
頭山満翁 掛軸
澤田眉山詩集『三堂集』
大沼枕山詩集『枕山詩鈔』初刷
岡田新川詩集『鬯園詩草』
杉山平一詩集『希望』新刊
前田英樹著『保田與重郎を知る』新刊
加藤千晴詩集『宣告』
館柳湾詩集『柳湾漁唱 初集』初刷

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604やす:2012/01/10(火) 00:25:23
謹賀新年
この正月は逼塞せる毎日。頭の回らぬ時には小難しい本に齧りつくより、香華灯明に向かって一炷の間、お経を唱へるに如かずと、または正月らしく「百人一首」のくづし字の読み当てなどして過ごしをりました。国情・公私生活ともに一陽来復を祈念。今年もよろしくお願ひを申し上げます。

大晦日に中村一仁様よりおたより拝承。お心遣ひをありがたうございました。 画像 full size

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605やす:2012/01/15(日) 20:03:12
先師廿年忌
田中克己(たなかかつみ)1911-1992 詩人、東洋史学者。「四季」「コギト」編輯同人。


【田中克己先生との写真】1989.02.24
先生と一緒に撮った写真はこれ一枚しかない。長男御夫婦と同居するべく自宅を改築することになり、同じ町内の二階家を借りて移られると、半年ほど蔵書を段ボールに詰めたまま奥様と二人で生活してをられた。処女詩集をお持ちしたのも思へばこの家である。先生は着た切り雀で入歯を外し風采上がらず、私も柄にもない赤い色を着てパーマなんかあててゐる。蜜柑箱をバックに甚だ体裁の悪い一葉であるが、この日来訪された久米健寿氏(平田内蔵吉研究者)がカメラをお持ちだったお陰で、悠紀子夫人とも三人同席の写真が遺されることとなった。思ひ出深いわが宝物である。

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606やす:2012/01/23(月) 10:13:46
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第16回 『日本詩壇』の頃
 手皮小四郎様より『菱』176号を御寄贈頂いた。荘原照子の聞書きは、今回と次回にかけて戦前におけるモダニズム受難の時代が対象となる予定である。詩人に於いて因をなした『日本詩壇』といふ詩誌が、そもそも荘原照子といふ詩人を迎へるだけの器が無かったことは、『椎の木』なき後ここへ身を投じた彼女自身すでに承知のことではなかったか、とも思ったものである。
 といふのは、詩壇の公器的存在『文藝汎論』からのオファーはともかく、彼女がハイブロウなモダニズム詩誌であった『新領土』もしくは『VOU』、あるひは『四季』のやうな知的なエコールの香り立つ在京雑誌にどうして参加しなかった(または呼ばれなかった)のか。才気煥発にして気丈な一方、プライド高く臆病な性格が、羸弱な彼女をして近所の雑誌の門を敲くことを躊躇はせたのではなかったか。横浜に住みながら大阪のアンデパンダン的性格の強い『日本詩壇』に拠り、さらに「秘密出版みたいなあっちこっち」の地方詩誌にこそこそ寄稿してゐた事情が気になる。つまり官憲にチェックされ、監視されるまでに至った経緯にこそ、彼女の詩人としての自恃をみるべきではないのか。手皮さんの丹念な発表誌探索から、私はそのやうな詩人の業を感じるのだった。
 もちろん「神戸詩人事件」と同様、それは当局による過剰な猜疑心による民心介入であったが、しかし詩人としての彼女の存在が、在京の詩誌編集者にはどう映ってゐたのか、そして彼女自身、ルサンチマンを溜めこんだ時代の病変の深刻さを、芸術至上主義の立場から甘く見てゐた節がありはしなかったか。
 以前拙ブログで紹介した兼子蘭子も、仲間内の雑談を通報され、憲兵に引っ張られ一時収監されてゐる。当時散文で自分の意見を書かうとする程の女性は「報国もの」が依頼される程度にすでに社会的に著名か裕福でなくては、詩だらうがエッセイだらうが、内容に拘らず、書かずもがなのことを書く生意気な女として、(官憲といふより)国民全員によって監視・制裁の対象にあったこと。女監視員から「毒殺」されぬやう唆されて町から退避する(追ひ出される)までに、裏目裏目の結果を出してきた背景には、たとい政治的信念の持主でなくとも、手法として韜晦を事とするモダニズム詩が因縁をつけられることが十分に予想されながら、発表誌の質を落としてもそれを書き続けなくては居られなかった詩人自身のルサンチマンを当然みるべきであらうと思ふ。彼女の詩風はこれまでの経歴の中で幾度も変遷してゐるが、すべて自身の生活上の必然と詩史的状況が結びついてをり、しかし今度ばかりは他のモダニズム詩人のやうに外的必然(戦争詩)とは縁を切り、筆を折った。それが不遇なりにも、彼女が無名詩人の側にあった幸ひと同時に、クリスチャンとしての節操を完うする幸せを体現するものであったことは、彼女のために一筆すべきであらうと思ふ。

 ここから以降、発表文献が途絶える時代は、まさに聞き書きをされた手皮さんにしか書くことができぬ(尤もすでにこれまでもさうでしたが)独壇場であり、資料云々よりも、詩人を料理する手皮さんならではの運筆に期待したいところ。たのしみです。

 新潟出張で一週間留守にし、紹介が遅れました。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

607やす:2012/01/25(水) 09:00:48
『山川弘至書簡集 新版』
 さて新潟出張からの帰途、東京で途中下車して神保町にて一泊。翌朝、靖国神社に参拝してきました。今年は「山本五十六」の映画を観たこともあり、出張がてら長岡では山本五十六記念館や長岡高校記念資料館などを訪ね、余勢をかっての、でもないですが、実はわたくし、これまで戦争詩について考へたり書いたりしてきたものの(さうして八年間も東京に居ったにも拘らず)靖国神社に足を運んだことがなかったので、意を決して向かったのでありました(恥)。遊就館も初めて見学し、戦歿将兵の遺品遺書に圧倒され、遺影が四方の壁を埋め尽くしてゐるフロアでは、名簿を繰って故郷の詩人山川弘至(やまかわひろし)を、硫黄島で有名な栗林中将の遺影の隣に探し当てて、喜んでゐたのでした。

 ところがです。その晩、東京から帰ってきたら郵便が届いてをり、中から出てきたのは一冊の本。ひもとけば吃驚『山川弘至書簡集』。唇を引きしめて正面を見据える詩人の尊顔と再び対することとなった御縁に、茫然となった次第。

 それは詩人を精神的支柱に据えて活動を続けてゐる和歌結社「桃の会」が最初に刊行した書目で、久しく絶版になったまま一番復刊が希望されてゐた本であり、同装丁でその後、遺稿歌集『山川の音』・遺稿詩集『こだま』・『山川弘至遺文集』の三冊が出版されてゐますが、なんといっても詩人が戦争終結の4日前に戦死したことを踏まへ、未亡人となるべき山川京子氏へ書き綴られたこの本におけるドキュメントには胸にこみ上げるものを覚えずにはゐられず、跋文にも記されてゐますが、『書簡集』一冊が、まるまる相聞と述志の二色に染め抜かれた一篇の長編詩であることについて、いみじき思ひを新たにしたのです。

 ドイツロマン派に詩人の告白・手紙が重要な位置を占めるのと同様、日本浪曼派にこの一冊を持ったことを、はたして文学史上の「幸ひ」とすべきなのか。かくも気高き精神に貫かれた恋文が、青年詩人ならではの全人的なロマン派精神開陳の所産であるのは理解できるとして、しかし優しさと正しさはもとより、憤りや焦り、さらには気負ひすらも読む者の心を痛ましく打つ、その「理由」を思っては今に至っても粛然とならざるを得ず、これを一人でも多くの若い人に読んでもらひたいとの思ひを、戦争を知らぬ世代の私も同じくするのであります。何故ならこの、遺書になるかもしれぬ覚悟を以て書き継がれた、これらの手紙の束から受けた感動を「傑作」と呼ぶことを厳しく躊躇はせる歴史の端っこに、私たちが今もって生きてゐるといふこと、その再確認は全ての日本人の責務と考へるからであります。

 今回は上記の偶然も手伝って少々興奮気味の紹介ですが、ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『山川弘至書簡集 新版』 2011年,山川弘至記念館刊, 355p,17.5cm並製カバー
希望者は「桃の会」まで送料込1300円を送金のこと。振替口座00150-1-82826


付記:
新旧『書簡集』を閲してみましたが、新たに一通が追加された以外は、内容に差障る訂正はありません。追加一通は拙サイト上で紹介させて頂きますので、すでに旧版をお持ちの方には、新版の購入をお勧めするとともに、旧版にも添付して頂ければと思ひます。

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608やす:2012/02/07(火) 22:40:19
蔵書印
 職場の大学に、中国美術学院より半期毎に招聘される書道の先生がみえるのだが、このたび帰国される韓天雍先生から素晴らしい贈物を頂いた。「蔵書印」である。掛軸の解読に度々お世話になってをりながら、更なる御高誼を賜っては申し訳ない限り。ここにても厚く御礼を申し上げる次第です。先生ありがたうございました。
 さて斯様なものにこれまで意識の無かった素人が、どんな本に捺してやらうと色々考へをめぐらしてゐるのである。掲示板の向ふからは「やめろ」といふ悲鳴の如きものも聞こえる気がするのですが(笑)、国家的損失となるやうな貴重書(そこまで云ふか)には「今のところ」捺すつもりがありません、ので御安心を。
 といふことで何となく先師の名の隣に捺してみた。(『東洋思想叢書 李太白』昭和19年)
 満悦の様子を御想像下さい(なぜこんな位置に。やっぱり悲鳴か?)。

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609やす:2012/02/12(日) 18:18:18
詩集『生れた家』
 極美の「笛を吹く人」が、片々たる「昔の歌」を、造りが壊れた「田舎の食卓」で披露する。――これがあこがれてゐた「生れた家」だ。「晩夏」の夢の続きを見るがよいと…。 といふことで(笑)、半ばは手にすることを諦めてゐた稀覯本の一冊、木下夕爾の第二詩集『生れた家』(昭和15年刊)が抽選の結果、我が家に到着した。古書展には果たして何人の希望者があったらうか。幸運と、売って下さった古本屋さんにあらためて感謝申し上げます。

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 戦前に処女詩集を刊行して、一旦名声を確立したのちに、さらにそれらを上回る境地を拓いて戦後大成した抒情詩人は、と問はれれば、私はまず木下夕爾、そして蔵原伸二郎ふたりの名を以て指を屈することにしてゐる。もっとも蔵原伸二郎は、淺野晃や伊福部隆彦らと同様、大東亜戦争に惨敗して落魄の果てに詩人として“目明き”となった別格であり、老残の境地であることを考へるなら、木下夕爾は当時まだ三十の若者だったにも拘らず、戦後現代詩の外連味(けれんみ)を帯びることなく、青春のアンニュイを誠実に歌ひ続けた詩人であり、中央詩壇からは距って、生前に再びその名がのぼることはなかった。彼の詩を読み詩を書きたくなった私のやうな後学にとっては、それがまことに口惜しくも、またこよなく尊い師表とも映ったものである。

 続いて指を屈すべき詩人の一人、杉山平一が百歳を前にして今なほ新刊詩集を世に問ふ現役であることを考へると、木下夕爾はたった6日しか誕生日が違はないにも拘らず、半分の五十年を一期として病に仆れてをり、不運は際だって見える。もちろん、更にそのまた半分の二十五歳で死んでしまった立原道造も、彼らと同じ大正三年生まれであってみれば、半世紀の生涯を「早世」と呼ぶことは憚られもするのだが、立原道造がその人なりの完全燃焼を感じさせ、大戦勃発前に散ったのに比して、立原の死後活躍を始めた木下夕爾は、戦中戦後の苦難の時代を聊かも抒情の節を枉げることがなかった。さうして詩の中に人生の完熟を手にしつつあった詩人であり、さてこれからどのやうに枯れてゆくのかを見届けたかった、否、ただ、もっと長生きして頂いて謦咳に接することができたら、拙詩集にもきっと一言なりの叱咤激励を頂けたんぢゃないだらうかと、さう勝手に思ひ込んでゐた最上壇の詩人なのであった。今おなじく五十歳を迎へ、変らぬ気持ちで恥ずかしげもなく書くことができる自分がをかしい程である。

 雑誌「四季」の同人であった同世代の杉山平一や大木実が、しばしばエコールとしての「四季派詩人」の端っこに位置する特殊性を以て外部から称揚せられてきたのとは異なり、彼は戦前の「四季」には一度きり寄稿しただけだったにも拘らず、むしろ「四季派」と呼ばれる抒情精神の本道を歩んだ人物であった。立原道造なきあとの、抒情詩人列伝中、最後に現れた真の実力者として、第四次の「四季」復刊(昭和42年)に際しても、もしそれがあと数年早かったなら、丸山薫をして必ずや三顧之礼を執って迎へられたに違ひない、といふのがわが詩人に対する偽らざる見解である。余談ながら“列伝”のしんがりには、別に、水や風の如き味はひのする「郷土詩」を書いた詩人、北園克衛、八十島・一瀬の両「稔」たちも挙げておきたい。(一瀬翁の決定版詩集『故園小景詩鈔』については特に広報したく特記します。)

 とまれ堀辰雄の周りに集まった雑誌「四季」の後輩人脈にあって、多くの若者達が大日本帝国の崩壊に伴ひ、却って「四季派」と呼ばれる気圏(危険)から遠ざからなくては己の詩のレーゾンデートルを保つことができなかった事情については、さきに第二世代である詩人小山正孝を引き合いに出してささやかなノートを試みてみたので、御覧頂ければ幸ひである。

 木下夕爾は、詩的出発を「若草」投稿欄の堀口大学選に負ってゐる。上京時には持ち前の気後れが祟って師の門を敲けなかったとのことだが、また強面の三好達治が門番を務める「四季」誌上の「燈火言」に投稿することも、敷居が高く耐へ難かったやうだ。いったいに当時は、大正時代の口語詩の黎明期に一斉にデビューした先輩詩人達が、一人一冊主宰誌をもち「お山の大将」を決め込むことが謂はば詩壇のステータスになってゐた時代である。彼は早稲田から転学した先の関係からだらう、名古屋の詩人梶浦正之を頼って「詩文学研究」といふ詩誌に身を投じたのであった。そして「鳶が鷹を産んだ」といったら語弊があるけれども、そこから世に送り出した処女詩集『田舎の食卓』が、文藝汎論賞を受賞する。昭和14年10月の出版であり、3月に死んだ立原道造には寄贈されなかった。(もっとも含羞と自負ゆゑに、それ以前にも「四季」の誰とも交通はなかったやうであるが。)

 さうして以後、家業(薬局)のために東京で文学修行する夢を断ち、不本意ながら地方に逼塞させられた彼は、ために戦災に遭ふことなく、また羸弱ゆゑに、銃をとることもなく戦争をやり過ごすことができた。前半生の道行きは、まこと「人間万事塞翁馬」を思はせるものがある。そして戦後にせよ、「四季」にコミットしてゐなかったからこそ、却って正統派の抒情詩人であり続けることができたのだとも云へ、果たして身に覚えのない「四季派」の名を以て指さされることに当惑することともなったのである。謂はば彼は、「四季派」といふ言葉が固有の誌名から解き放たれ、(「日本浪曼派」同様、)成心を以て一種のエコールとして敷衍認識(指弾)される際にも、最もわかりやすい指標となったのであった。

 しかし同時に、宮澤賢治や立原道造をはじめ多くの一流近代詩人が志向した仮構の原風景が、憧憬的な北方的なそれであったのに対して、彼が詩情を仮託したふるさとが、瀬戸内の温順な気候のもとで優しい諦念が低徊する、非北方的な色合ひの強いものであったこと、これなどは不運であるよりか、むしろ東日本に傾きがちだった日本の抒情風土の地勢上の平衡を中心に戻すにあたって、微力ながら寄与したのではないか、さう肯定的に考へられもするのである。これは日本にあって経験された昭和初期モダニズムの下、京都・大阪・神戸の都市生活者詩人たちによっては、未だ充分には為し遂げられることのなかった宿題であったといっていい。これが、木下夕爾や渡辺修三ら、「四季」同人以外の、モダニズムの洗礼を受けた、都落ちした田舎住みの抒情詩人達によって、エキゾチズムから一切借りものをせずになされたといふところに、特筆に値するものがある。私はひとり勝手にさう思ってゐる。

 江戸時代の漢詩においては文化的に顕著だった、京都・長崎を磁力源とする西日本方向への憧憬が、明治新体詩が興って失はれて以来、形を変じてふたたび詩の現場で、自らの故郷の自然に対してはたらき、読者を惹きつけるやうになったことを、東海地方在住の自分は特段の感慨をもって歓迎する。「日本の口語伝統抒情詩史上に起こった最後のエポック」と、さうまで云ったら大袈裟にすぎるか(笑)。まあ、それくらゐ木下夕爾の、詩と、仄聞される人となりが私は好きなのである。

 以上、詩人をめぐっての印象を『生れた家』落掌の喜びを利用して一筆してみた。「生家訪問記」の隣に供へておきたい。

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 追伸1:この稀覯本を手にした感謝の念を表すべく(?)、代りに、没後新編された児童詩集『ひばりのす』を図書館に寄贈した。世知辛い改革で疲弊しきった教育現場にすすんで身を置かうとしてゐる学生に、ぜひ読んでほしいと思ってゐます。

 追伸2:また日本中の図書館に所蔵のない彼の第4詩集『晩夏』(和装限定75部)の、書影と奥付の画像をサイト上に公開したいので、どなたか奇特な所蔵者がみえたら送って下さらないだらうか。と、やはりこの機会に呼びかけてみることにします。

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610やす:2012/02/20(月) 12:44:03
(無題)
 先日、拙サイトの旧い文章を読み返して下さってゐるといふ有難いお便りを頂き恐縮した。久しぶりに自分でも読み返してみたのだが、稚拙な字句行文に手を入れずには居れなくなり、古いところは改稿に等しいものとなってしまった。掲示板の過去ログばかりは、交信記録なのでどんなに恥かしくとも削除をふくめ手を入れることはしないが、まことにこの十年余、自らの文章の変ったところ、相も変らぬところを前にして、あきれたりあきらめたりしてゐる。

611やす:2012/02/29(水) 00:47:21
「朔」173号 坂口昌明追悼号
 圓子哲雄様より「朔」173号をお送り頂きました。同封の挨拶状を一読、なにはさておいても御病気の件、御養生専一のこと切にお祈り申し上げます。と同時に後記にありました『村次郎全詩集』刊行のことも初耳にして、こちらはお慶び申し上げる次第。八戸市内の書店でのみ取次いでゐるといふことですが、地元だけで700部の初版を瞬く間に売り切った由。検索したら昨年は刊行に合はせて回顧展も行はれてゐたんですね。

 さて今号は昨秋亡くなった坂口昌明氏の追悼号です。東京生まれの坂口氏が、親友小山正孝の青春の地であったことをきっかけに南部の文学や津軽の民俗学に惹かれ、青森県に宿縁を結んでいったこと。その博識と述志に対して寄せられた賛嘆は、お会ひする機会のなかった私もまた同じくするところであり、あらためて『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を読んだ時に感じた、ただならぬ読後感──博覧強記のすさまじさを思ひ出しました。本邦初の小山正孝論がいきなり単行本で現れたこともさりながら、友情に託けることなく対象を客観視し、意表に出た類比隠喩には立ちくらみさへ催したこと。氏のもどかしげな探究心が進取の気性を以て常に埋もれたものを世に出したいといふ奇特な使命感に向ふとき、時間はどれだけあっても足りることなどなかったと誰しも思はれたのも宜也哉でありませう。

 巻頭には小山正孝ご子息正見様の追悼文が掲げられてゐます。今後の「感泣亭」諸活動に与へる影響が心配されるところですが、坂口氏のお人柄を詩人小山正孝との関りに於いて身近なところから述べることができるのが、正見様と御母堂だけであるのも確かです。
坂口さんの著書『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を執筆するにあたって彼は正孝に一言も聞かなかったと言う。また、本を受け取った正孝の方もニヤリと笑っただけだったらしい。」 2p
 「万事用意周到であった」といふ、かけがへのない支柱を失った活動の行方を、ブログ更新とともに見守りたく思ひます。

 そして圓子様の回想。「朔」誌との関りに於いては、「眼光鋭く、一目で私は見破られたと思った。」といふ、この稀代の祖述者との交流を、師匠である詩人村次郎顕彰の思ひに絡めて活写されてゐますが、特に師の日本語学説については、自ら世に問ふ事のなかったのを惜しみながら、外国語のひとつも自家薬籠中の物にした上で、斯界の現状を鑑みながら論旨を構築してゆくものでなければ、およそ新学説など認められることなどないことを、弟子である圓子様に対して一夜の席上、釘を刺されたといふ一節が興味深いです。坂口氏とは正反対の気質を有しながら(今回のエッセイもロマン派よろしく寄り道がまことに楽しい)、かかるエピソードを敢へて示された圓子様にも、私は贔屓の引き倒しではない先師に対する思ひを強く感じます。さうして隠遁者の自己抑制が永きに過ぎて自己防御に変じてしまった詩人の無念を晴らす為、あくまで地方にあって心を砕き続けてきた圓子様を、坂口氏のこれまでの小山正孝に対する顕彰営為が、形を以て無言で励まし続けて来たのは確かなのです。三者三様ですが、進取の気性が世に報ゐられること尠かったのは一緒なのであって、もし坂口式の比較手法で、村次郎の学的側面が解説されることがあったらどんな眺望が拓けたことでせう。圓子様も頼りにし、全詩集刊行でやうやく詩人にもスポットライトがあたるやうになった矢先の氏の訃報が悔やまれてなりません。御冥福をお祈り申し上げます。

 ここにても寄贈の御礼を申し上げます。ありがたうございました。

612やす:2012/03/03(土) 22:02:49
おめでたうございます。
【速報】現代詩人賞:杉山平一さんの詩集「希望」が選ばれる  毎日新聞 2012年3月3日 18時36分

613松田:2012/03/13(火) 15:34:27
山鶏
 こんにちわ。はじめて書き込みさせていただきます。神奈川県の松田と申します。「四季派の外縁」で一瀬稔の「詩集 山鶏」を初めて知り、こんなにいい詩集があったのかと大変嬉しく思いました。今、愉しみに何度も読んでいます。ところで、お尋ねですが、詩の掲載方法は、詩集そのままというわけではないのでしょうか。というのは、目次と本文では掲載順などいろいろな点で異なっていますので、ちょっと気になってます。細かくなりますが、次のような点です。
1.目次の番号と詩本文につけられた番号が1から5までは一致していますが、それ以下は番号・順番ともに異なっています。
2.目次にあって本文がないものがあります(目次番号6、9、10,11、13)
3.本文があって目次にないものがあります(本文28「春日」、29「山の小駅」)
4.「山の空」がルビの違いがあるものの重複しているようです(本文4、23)
5.「菜園の頌」が目次では章(節?)の題になっていますが、本文では詩の題になっています。
6.「昼の月」が目次では二つ(14、15)ですが本文では三つあります(20、21、22)
 こまごましたことをお問い合わせしてまことに申し訳ありませんが、入手不可能な貴重な「山鶏」を詩集の順序通り読んでみたくて書き込みさせていただきました。よろしくお願い致します。

614やす:2012/03/13(火) 17:44:12
(無題)
 松田様 レファレンスありがたうございました。

 御指摘の『山鶏』テキストですが、これは昔テキストアップした『故園小景詩鈔』のなかから『山鶏』所載のものを拾って掲げてをり、仰言るやうに番号が合ってゐないですね。仮名遣ひも歴史的仮名遣ひになってをりませんし、『山鶏』原本の画像データに差替へたいと思ひますので、お待ち下さい。
 なほ『故園小景詩鈔』のテキストアップは、生前著者から許可を得てのことでしたが刊行元から御指摘をいただきとりさげてをります。てっきり自費出版であると思ひ、御迷惑をおかけしてをりました。詩人が『明日の糧』以降に到着した境地はすばらしく、少々高い本ですが、是非愛蔵されることをおすすめ致します。


今後ともよろしくお願ひ申し上げます。用件のみとりいそぎ。

615松田:2012/03/14(水) 08:44:42
「山鶏」お礼
やす様。厚かましいおねがいに早速ご回答いただきありがとうございます。「山鶏」の画像データを楽しみにしています。一瀬稔の入手できる詩集は手に入れようと思います。
ありがとうございました。

616やす:2012/03/14(水) 21:37:57
(無題)
 池内規行様より「北方人」第16号、舟山逸子様より「季」96号を拝受。「北方人」には「青山光二年譜」が、「季」には杉山平一詩集『希望』の書評が掲げられてをります。ありがたうございました。

 詩集『山鶏』updateしました。戯歌一首。 あしひきの山鶏の詩をしたり気にスキャンしながらひとりかも読む

 花粉飛散とともに気分沈滞とどまるところを知らず。大震災より一年。病ひをおして追悼式典に御臨席賜った天皇陛下に対する新聞記事の、その「日本国象徴」に対する失礼な小ささに (ビデオレターの時にも書きましたが) 憤ってをります。

 わが生活もまた転機を迎へんとしてゐるやうです。

617松田:2012/03/15(木) 10:56:54
感謝
山鶏の早速の更新、まことに有難うございました。
戯句のお返し。山鶏やせっつかれずとも素早くて。

618やす:2012/03/25(日) 22:14:09
『漢詩人岡本黄石の生涯』
 以前に入手した岡本黄石の伝記『漢詩人岡本黄石の生涯』の続編が、その後2集3集と刊行されてゐることを知って世田谷区立郷土資料館に発注したところ、図書館ではなく個人宛に寄贈していただき、寔に恐縮しました。彦根藩家老であった岡本黄石は、梁川星巌をめぐる後進気圏の逸材であるばかりでなく、「悪謀の四天王」と目された師と、主君井伊直弼との間にあって苦悩した、時代に翻弄された歴史的人物といってよい人であります。第3集の副題「三百篇の遺意を得る者」といふのは、「詩経三百篇」をふまへた黄石の人品骨柄に対する星巌の最大限の賛辞ですが、斯様に豊富な資料が、詳細な解読手引きを付して公刊されたことに唯ただ瞠目するばかりです。第一集と同様、学習に活用させて頂きたく、ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000783.jpg

619やす:2012/04/04(水) 01:26:08
はるのあらし
 郡淳一郎様より映画史家の先師をしのぶ『田中眞澄追悼誌』(2012.3.10 田中眞澄書誌・蔵書目録編纂会発行,15p 30cm 500部)を、小山正見様より詩人である先君小山正孝の詩の朗読会の御案内を頂きました。御礼と共に報知いたします。ありがたうございました。

 さて、この四月を以て帰郷奉職二十年。齢を重ぬること五十一歳。この期に及んでふたたび独り身に戻ることになり、年度替りの仕事に取り紛れながらも、思ふところは多いです。情けない仕儀に立ち至った、渾ては自分の不徳ゆゑであり、漱石の漢詩に倣ふるなれば、

「春風吹いて断たず、春恨幾條條。」

 昨日来の風雨に袖もそぼ濡れ、些か途方に暮れてをります。以上報告のみ。

620一行院 住職:2012/04/14(土) 12:46:24
荘原家墓碑
当山に荘原篁墩師の墓碑がございます。なぜ当山にあるのかは不明ですが、当サイトをご覧の方でご興味があれば是非ご参拝ください。

http://www.ichigyo-in.jp/

621やす:2012/04/14(土) 20:17:17
はなぐもり
御住職さま

いつぞやはメールにてレファレンスをありがたうございました。
「庄原篁墩」、名は懿、字は彜卿、通称文助。周防の人、安政中江戸に住む。別号に柳暗。
以前「山田鼎石」を紹介した際、高々200年余で「先生」も無縁仏にされてしまふ現今の日本に長大息したことでしたが、東京の一等地にあるお寺が、公的指定に拘らず先賢の塋域を手厚く保全されてをられる姿勢に脱帽感嘆いたしました。以前(2009年)お送り頂いた写真と情報をここに紹介させて下さいませ。

左:墓碑面欠損 明治15年8月31日没 (明治17年荘原和氏建立)
中央: 篁墩先生(庄原篁墩)之墓 文久元年10月17日没
右:荘原和氏 明治31年6月10日没

御案内をありがたうございました。
折から桜も満開で美しいお花見もできるのではないでせうか。

庄原篁墩のものではありませんが、自蔵の掛軸より一幅紹介。

一池春水[岩]生煙
多少山櫻靜言眠
漠漠濃陰未成雨
慈雲閣畔養花天
詩佛老人

一池の春水、[岩?]、煙を生ず
多少(多く)の山桜、静かに言(ここ)に眠る
漠漠たる濃陰(曇天)、未だ雨を成さず
慈雲閣畔、養花天(花曇り)
詩佛老人

解読訓読御教示を待ちます。「慈雲閣」は増上寺でせうか。昔、池があったことを知りません。お寺の桜だから殊更「山桜」と掛けてゐるんでせう。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000786.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000786_2.jpg

622やす:2012/04/15(日) 02:11:55
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第17回 死よ!来たることの何ぞ遅々たる
 さて、前後しましたが、手皮小四郎様よりは『菱』177号を御寄贈頂いてをります。わたくし事にかまけて未だ御礼状を認めてをりませんが、紹介を先にさせて頂きます。

 今回の「荘原照子聞書き」は、「兄の庇護の元に、母とギリギリの生活を送っていた」昭和十年代の横浜六角堂在居時代が描写されてゐますが、貧乏には貧乏の上をゆく輩がゐるもので、キーパーソンとして何と稲垣足穂が登場します。同類と呼んでは叱られさうですが、けだし荘原照子のポエジーが、政治的な色合ひを帯びることは否定しつつも、何かに妥協することは頑なに拒み通す性質にあったことを、タルホを褒めちぎる聞書きの様子がよく語ってゐるやうな気もしたことです。そして彼女が稲垣足穂や、北園克衛の「VOU」から離脱した岩本修蔵、山田有勝らと拠った「詩とコント」〜「カルトブランシュ」といふ雑誌のことが紹介されてゐるのですが、こちらも初出であります。特筆すべきはここで展開される「コント」といふジャンルなのですが、もちろん現代のコント――戦後ストリップ劇場の幕合に誕生し、テレビ番組とともに成長した今日の「芸人コント」とは関係がありません。雑誌を支へた澤渡恒(1916-1951)をはじめとする立教大学出身の詩人達は、最初にこの文芸コンセプトを誌名にも付して旗揚げをし、やがて「ブランシュ:白」といふ、当時すでに使ひ古されたのではないかとも思はれる言葉を選び、これまたいくぶんバタ臭さを感じさせる表紙デザインでもって雑誌の一新を図ったやうです。謂はば一時代前のモダニズムやナンセンス文芸の系譜上にあって、軽薄文化が失速しつつあった1930年代の後半、自覚的にポエジーを寸劇の中に閉じ込めたオチ無しファンタジーを、「コント」と呼んで制作し続けた訳ですが、果たしてそれがエコールとして「戦争前夜のシュルリアリズム」と呼び得る社会的な韜晦であったのかどうかといふことは、同人各人に当るべきでせうし、前衛音痴の私にはちょっと分かりかねるところであります。荘原照子は、タルホの「一千一秒物語」の書割りテイストを有した「家」といふ「コント」を遺してをり、これは次回の連載でも触れられると思ふのですが、雑誌の精粋は、戦争で刊行できなかった『薔薇園傳説:カルト・ブランシュ コント集』(1986年,澤渡恒編,デカドクラブ(山田有勝方),197p,21cm)の中に、それから雑誌の中心にあった澤渡恒の遺稿作品集『エクランの雲』(2002年,郡淳一郎編,ギャラリーイヴ,29p,30cm,付録つき)といふ限定版冊子において、さきの「家」などとともに読むことができます。なので次号刊行までに是非予習いたしませう(「ムハハハ。」笑;)。付録の当事者による対談集(聞き手・構成:内堀弘)も貴重だと思ひます。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

連載第十七回 「モダニズム詩人 荘原照子聞書」 死よ!来たることの何ぞ遅々たる――横浜市神奈川区六角橋金子町  『菱』177号 2012.3,? 37-43p

623やす:2012/05/21(月) 21:05:11
杉山平一先生逝去
かけがへのない思ひ出を誰にも一人づつに与へて下さった先生の人徳を心から偲び、慎んで御冥福をお祈り申し上げます。


 悼詩


わが師田中克己は ハリー彗星を見ないで死ぬだらうと予言して

晩年に小さな小さな再来を天文台で確認した

杉山平一先生は300年ぶりにやってくるといふ金環日蝕を

来週どんな感慨を以て迎ふるべきか 考へてをられたにちがひない




人生は予測できない――ひとは自分が主人公だと思って生きちゃゐるが

死んでく時には みな誰かの脇役として死んでゆく

いつか命日となるその日を うかうかと過ごしてゐる私も

「希望」を語ることを恐れ 訃報のあとに訪れた「凶兆」の意味を探しあぐねてゐる




忘れられない惨事と ささやかな希望と

新しい主人公たちに 暗喩や直喩のレンズで指し示されたクラリティは

地上に笑まふ木漏れ陽の 不思議な翳かたちでありました




直接は見ることができないもの

みなが空を仰いでゐるときに 俯くことのできる人だけが知ってゐる

なつかしい希望 かけがへのない人徳でありました

                        2012.5.21


http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/tanaka/tairikuenbo/tairikuenbo-0007.JPG

624やす:2012/06/09(土) 13:37:01
寄贈本
 気持の整理は家族関係にとどまらず、この職場をはなれては、詩を読むことも無からうことがはっきりしてきたので、これまでこつこつ買ひ集めてきた研究書や復刻詩誌、全集テキストの類ひから400冊ほどを職場に寄贈することにしました。国文学科時代の蔵書と合せると、これまで手薄だった近代詩の書棚も、戦前口語抒情詩だけは少しく充実するのではないかと思ひます(ものすごいシャープな守備範囲ですね)。岐阜女子大学図書館の「新着図書」検索や「フリーワードで探す」で御覧下さい。研究を志す学生諸君には、さらに私蔵コレクションにてフォローもさせて頂きたく申し添へます。U^ェ^U「ゐないゐない。」
http://libwww.gijodai.ac.jp/jhkweb_JPN/service/freeref.asp

 明日から遠征といふのに、おかげで腰いためちゃひました(苦)。

625初心者:2012/07/03(火) 14:02:43
四季派学会の連絡先を
この板にお願いしてよいのかわかりませんが、どなたか、四季派学会の事務局の連絡先(住所とか?、メルアドなど)、ご教示いただきたいのですが。だいぶ探しましたが、捜せません。

626やす:2012/07/03(火) 14:23:53
(無題)
事務局は持ち回りになってゐると思ひます。現在はどこでせうか、大谷大学気付で國中治先生まで御連絡をとられるのがよろしいかと存じます。とりいそぎの回答まで。レファレンスありがたうございました。

627初心者:2012/07/03(火) 19:36:06
ご教示感謝です。
やす様、大変ありがとうございました。近日中、國中先生にお願い致してみます。

628服部 剛 :2012/07/07(土) 01:12:52
詩を書いている者です 
はじめまして。
詩作・朗読活動をしている服部 剛(はっとりごう)と申します。
「四季」の心が詩の原点と思い、詩作の道を歩んでいます。

昨日「四季」創刊号に掲載されている丸山薫様の「火」という詩についての
エッセイを書いて、僕のブログに載せました。
http://poetrytheater.blog110.fc2.com/

四季の詩人についていろいろ教えていただけたら、ありがたいです。



 

629やす:2012/07/07(土) 23:29:46
『菱』178号  荘原照子聞書き
 服部剛さま はじめまして。

 四季派といっても、有名な詩人は大学の先生方が生涯や作品分析をすでに語りつくしてをられますので、ここではもっぱら著名ではない、当時の周辺詩人について、彼らが思ひを託して小部数刊行した詩集に脚光をあて、原質の紹介に努めてゐます。
 故・杉山平一先生に「ストーブ」といふ詩がありますが、丸山薫のこの詩にインスパイアされたものなんでせうね。
 こちらこそよろしくお願ひ申し上げます。ありがたうございました。


 手皮小四郎様より『菱』178号をお送りいただきました。

 荘原照子の聞書き連載では、前回の予告通り「カルトブランシュ」に掲載されたコントといふ、近代文学分類上「不幸な継子」に終ったジャンルにおける奮闘と、そこから小説に創作の場を移さうとして挫折したくだりについて考察がおこなはれてゐます。イメージの飛翔が甚だしいモダニズムの散文には伝記的要素もなく、文脈の解釈にはさぞ苦労を強いられたことと存じます。そもそも「ヘルムアフロデイトの月」のやうな「風紀紊乱の詩」が書けてしまふ詩人にとって、詩よりも長く、また理路も少しはつけないとならない「コント」なんてジャンルは、体制に対するあてこすりを如何様にも邪推され得る「より危ない表現手段」であることに、やがて彼女自身が気づいたに相違なく、だからこそ「書きにくく、今後もまづからうと思」ふやうになったのでありませう。

 ただし弾圧の一件については、『マルスの薔薇』を出版してオファーが殺到した彼女を迎へることに成功した「日本詩壇」主宰者である吉川則比古が、寄せられた詩文の過激さを持て余し、何かにつけて自粛を迫ったといふ側面もあるかもしれません。彼女は「日本詩壇」のライバル誌だった「詩文学研究」の創刊号にも寄稿してますが、以後なにも書いてゐません。そして「弾圧」といっても、吉川則比古からの手紙の文字にあるだけなんですよね。特高からは直接連絡がなかったやうですし、いくら「カルトブランシュ」が、意気軒昂たる若人の結束に係る同人誌だったといっても、本当に危ないものなら流石にそっくり同じものを載せられない気もします※。コントが拓いた軽佻浮薄路線を継いだモボ・モガ文化を謳歌してゐたのは深尾須磨子ですが、彼女に筆誅をくらはせた荘原照子こそモダニズムの女傑と呼ぶに相応しく、詩よりもむしろ「詩人の権威及び自由性について」等の散文において、体制への親愛を決して示さなかった彼女の運筆態度にこそ、当局、そしてアンデパンダン同人誌を主催する二流の宗匠詩人を刺激する要因が充分にあった。そして本当に特高に睨まれるやうになってしまったのではないでせうか。次回はそんな彼女を暗殺(?!)する計画の全容が、本人の口から語られるといひます。手皮さんによる客観的な考察によって、証言の虚々実々が明らかにされることも大切ですが、同時に、当人がどう感じてどう行動したかといふ事実にこそ、詩人の鋭敏すぎる感性とだけでは説明できない、戦争末期社会の雰囲気の実際も感じ取れるんだらうと期待してゐます。

 ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

※「カルトブランシュ」の匿名ペンネーム「近東豹」といふのは「マダムブランシュ」における匿名子「春日新九郎」の正体の一人(?)が近藤東であったことを、それとなく踏まへて命名されたものかもしれませんね。想像の域を出ませんが。

630服部剛 :2012/07/13(金) 06:20:30
ありがとうございます。 
こんにちは。四季の詩人のこころの原質を吸収し、学びながら、僕も詩を書いてゆきたいです。日本の詩人の回帰する原点のような気がします。「ストーブ」は杉山平一先生らしい詩で、今の僕の日常の心情にも重なり、励まされました。

http://poetrytheater.blog110.fc2.com/

631やす:2012/07/19(木) 19:53:36
写本詩集二冊
 写本詩集を2冊入手した。世に一冊きりしかない近世の個人詩集を手にするのは初めてである。

 著者は森春濤の門下だった石井梧岡【弘化4年7月27日(1847)−明治37年5月29(1904)】といふ医師。明治4年、五等医として出仕、書籍出納の仕事を経てその後愛知医学校の教官などをつとめたといふ※。名を彭、字を鏗期、希腎、通称は栄三、梧岡は号である。父は石井隆庵といひ、西洋医学黎明期の医制改革にも関った尾張藩医の家柄。

 この2冊「述古斎詩稾」「行余堂近稿」は弘化4年(1847)の生年からすればそれぞれ、18才、33才時のときに清書されたもの思はれるが、当初は号を梅圃、居処も述古齋と自称してゐたやうである。巻頭の永坂裒卿宅といふのは、同門の2年年長だった永坂石埭のことであらうか。永坂はのちにお玉が池の星巌旧宅を発見してそこに住まふ素封家であるが、裒卿なる字も初見である。なほ調査中、いづれサイトに画像公開の上、翻刻しますのでお楽しみに。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000796.jpg

632やす:2012/09/18(火) 12:17:11
近況 ―富岡鉄斎関係
 ツイッターではチョコチョコ呟いてをりましたが、こちらは久しぶりの更新。

 富岡鉄斎研究家の野中吟雪先生に、仕事上でしたが新潟の御自宅まで御挨拶に伺ひ、コギト同人でもあった小高根太郎氏の話を伺ったり、また鉄斎翁遺墨コレクションの一部を拝見させて頂きました(写真は鉄斎書き入れ旧蔵書の一冊)。出張から帰還すれば『鉄斎研究』65冊版の揃ひを、古書肆から破格値で図書館に納入することを得て喜んでゐるところ。いふまでもなく『鉄斎研究』は、膨大な画賛釈文を小高根氏が集成された唯一の基本文献です。

 折しも中国・韓国では反日運動が激化してをります。これからの日本の在り方(姿勢)を考へ直す意味でも、漢文学・尊王精神の両つながらを重んじた“儒者”鉄斎翁の存在といふのは、日本が物欲一辺倒から精神的に復帰しなくてはならぬといふ切実な課題に向かふ際、人倫の位相を戦前の政治体制に廻らすのでは なく、幕末の尊王攘夷運動にまで遡り、日本の国柄として一本筋を通しながら考へ直してゆく必要があるのだといふことを、強く感じさせてくれます。

 さて、日常生活不如意になりつつある家族の世話に追はれ、正直どこにも出かけたいとも思へず、かといって本も読めず、「三日書を読まざれば、面目憎むべく語言味なきを覚ゆ」ることをつくづくと実感。「行ひて余力あらばすなはち以て文を学べ」などと言ひ訳に終始するこの頃です。 とまれ前の漢詩集のみ、やうやくスキャン致しましたので、出来損ひの書き下しとともにup乞正、何卒よろしくお願ひを申し上げます。(【ごあいさつ】「★更新履歴」より辿りください。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000797.jpg

http://

633やす:2012/09/23(日) 01:16:54
『高山竹枝』
 待ちに待った郷土漢詩集の稀覯袖珍本にして森春濤の処女詩集『高山竹枝:たかやまちくし』(慶応2年跋)が到着。全頁の画像を公開しましたので御利用下さい。早速私も南山大学の先生方によって書き下された詳細な注解を片手に、さらにタブレットにとりこんだ画像を拡大表示したりして、三者を見比べながら楽しんでゐるところです。

 疾風怒濤の幕末の世にこんな小粋でささやかな竹枝詩集を、最早老境にさしかかった自身の遅すぎる処女詩集として、地方で自家出版した詩人の心境や如何。序跋も誰にも依頼せず、巻頭は一番弟子である能書家永坂石埭に、かつて飛騨高山に赴任してゐた先輩詩人館柳湾の詩を代書させてゐます。わづかな余白に藤井竹外、遠山雲如、鷲津毅堂ら先輩友人による鼇頭評もあり(木公と精所は誰でせう)、我が蔵書中では一番小さなお宝本となりました。

 また同時に、森春濤と同門下である鱸松塘(鈴木彦之)の処女詩集も入手。春濤より4歳後輩ですが、こちらの『松塘小稿』は遡ること20年の天保14年、若干二十歳の記念に刊行された少年詩集です。とはいっても序跋は、竹内雲濤、大槻磐溪、菊池五山、大沼枕山、生方鼎齋と本冊の1/4を占めて重々しく、挿画の書斎も…見た感じぢゃこっちの方が御隠居さんみたいなんですがね(笑)。 もちろん稀覯書に相違なく、同様に画像をupしたいと思ひます。お待ちください。

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634日野:2012/09/24(月) 12:19:02
『高山竹枝』の評者について
 もしかすると、それは和○会の金●堂書店からの購入ですか?とすれば、外れても悔しく……やっぱり悔しいかな(苦笑)袋もあり、美本のようですね。
 『高山竹枝』の評者についてですが、島木公は家里松嶹(島=嶹、木公=松)、精所は春濤の弟の渡辺精所です。以上、ご報告まで。

635やす:2012/09/24(月) 20:57:29
御礼
 日野俊彦先生、早速の御教示ありがたうございました。

 自分でも“古本の女神”の再臨(?)を実感してをります此頃でございます。幸運はせめても画像を公開することで、著者の遺志ともども世間に返して参りたいと存じます。今後(これまでもですが)複本を集めるつもりはございません、何卒ご了解いただけましたら幸甚です。

 以前もふれましたが、「日本古書通信」(2011年12月号)に、宮城県図書館の和本群が博物館に移管される話について、館員の方からの報告記事がございました。先日も職場の学芸員の方と意見交換することがあったのですが、江戸時代の刊本をコピー・スキャンにかけることを古文書と同列にみなし禁ずる博物館の立場と、可能な限り利用促進を図らうとする図書館の立場とでは、和本に対する立ち位置が全く異なるもののやうです。私は、和本を読める人材が絶えようとしてゐる現在、それらを読み下して後世に遺す作業が日本読書界の喫緊の課題ではないかと思ってをります。和本はノドを圧してスキャナーの微弱な光線に当てた位では傷みませんし、公開サーバーの環境さへあれば特段の「予算」など必要ないのです。何より世に行はれることを願って公刊された著作物の原姿を、研究現場の方々だけでなく広く在野の篤志家も自由に閲覧できる環境を整備してゆくこと。研究に先立ち、著者たる江戸時代の先賢に対する礼儀と心がけたく思ひます。

 といふことで取り急ぎ画像のみですが、星巌門下の雋鋭詩人たちの最初期の詩集、『枕山詩鈔(嘉永版)』『湖山楼詩鈔(嘉永版)』『松塘小稿』も合せて今回upいたしました。後年の明治定稿版との異同など、興味深いところも多々あるのではないかと思ひます。さきに記したタブレットに全ページの画像を入れて持ち運んでゐますが、原本を傷めず、老眼を気にせず、どこでも楽しめるので重宝です。当年の詩人が液晶画面上に指で自在に拡大される自分の詩集をみたら吃驚するでせうね。

636日野:2012/09/25(火) 15:23:18
詩人がいつでも、どこでも自分の旧作を見ることができたら。
 本がいつ手に入るかは、運や縁など人智では謀りがたいものがありますから、お気になさらないで下さい。このように画像などを公開して下さること、ありがたく思っております。
 詩人がいつでも、どこでも自分の作品を見ることができたら……新鮮な喜びを得るか、「こんなものを書いたのか」と頭が痛くなるか、悲喜こもごもかもしれませんね(笑)

637やす:2012/10/19(金) 13:08:49
『菱』179号「荘原照子聞書──もうすぐあなたは殺される」
 手皮小四郎様より『菱』179号をお送り頂きました。

 今回の「荘原照子聞書」連載ですが、昭和16年末を以て筆を折った詩人の、客観的な資料の無い戦時中の時期を扱ってをり、その「無い」ことに意味を探るべく周辺情報に当たり、唯一の積極的資料である「聞書き」も、無批判に受け売りするのではなく、生の詩人と長年接してこられた手皮様の直覚的な吟味と、別証言との校合を経てはじめて書き起こされたものであります。「暗殺計画」などといふ言葉が独り歩きしさうなテーマも、さうしてはじめて論ぜられるものでありませう。

 あらましは前回の掲示板でも少し触れましたが、有名な「神戸詩人事件」同様、モダニズム詩人であった荘原照子が「危険人物」視され、憲兵の監視下に置かれた末になんと殺害対象になってゐたといふもの。当の監視員らの機微によって難を逃れたといふことですが、58歳時の記事と83歳時の聞書きではかなりの異同があり、単純に昔の記憶の方が信憑性が高いとも云へない、むしろ差し障りない後年の私的述懐にこそ真実があるとも思はれるのですが、手皮様は、母と二人暮らしで病気がちの荘原照子が、拘留も咎めだてもなく極秘裏に殺害されなければならないほどの危険人物であったのかどうか、そもそものところに疑問を投げかけてをられます。至極真当の指摘であって、横浜から彼女のやうな人間を追っ払ふための方便として監視方が一芝居うったのではないかと、私も思ひます。ただし官憲サイドの好意的心情はともかく、保田與重郎の例でもみられるやうに「要注意」と目された人物に対するヒステリックな監視体制自体は事実でせうし、さういふ恐怖を味あはせ、当人を実際の退避行動に駆り立てた言論統制の生々しい証言として貴重であることには変りがありません。そこへ折に触れ通ったといふ若年の木原孝一が、何か証言を残してゐるかもしれません。私は彼が硫黄島へ送られたけれど発病し、奇跡的に難を逃れた人だといふことを知りませんでした。

 また彼女が参加しなかった『新女性詩集』ですが、モダニズム詩人が多く参加し、菊池美和子などは全編モダニズムの抒情詩を載せてゐます。重鎮永瀬清子も最初に置いてゐるのは、戦争の厳粛を言って一寸見なにを考へてるか分からない詩。全日本女詩人協会といふもの自体、大東亜戦争が始まる直前に、統制が外から掛けられるのを予見した深尾須磨子が自発的に詩人たちを鳩合したものらしいですから、当局からの信頼をかち得てゐる。荘原照子も、体制内の機構のなかにあってモダニズムの抒情詩を書き続けることも、また戦争の厳粛さに瞠目する態度から一歩もあゆみ出さない詩を書き続けることもできた筈です。要はそれらがミックスすると当局の邪推に遭ふといふこと。その不自由さを指摘したのが共産党詩人壊滅以後には彼女ただ一人位だったのでせう。前回の連載で報告されてゐるやうに、荘原照子から「軽薄」との筆誅を受けた深尾須磨子にして、彼女の勧誘に積極的であるはずもなく、またあれだけ体制よりの跋文を書いてゐる編者に、むしろモガ文化を謳歌した軽薄さと同一の精神的素地を看て取った荘原照子は、自ら名を連ねることのなかったこの本を手にとって、さぞ軽侮の微苦笑を浮かべただらうことも推察に難くありません。

 雑誌をお送り頂いてから、随分日にちを過ごしてしまひました。ご紹介とともにここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

『菱』179号
発行連絡先:〒680-0061 鳥取市立川町4-207 小寺様方 0857-23-3486(Faxとも)

638やす:2012/10/19(金) 23:15:32
「杉山平一追悼号」その1 『朔』174号
 圓子哲雄様より「朔」174号を拝受。
 5月に長逝された杉山平一先生を追悼する文章の数々を読んでは、あらためて先生のひとがら人徳に触れ得てまことにうれしくなつかしく、ことにも奥田和子氏の回想は同人誌「季」への参加時期が交差するやうにすれ違ってゐる私にとって、私には度々励ましのお便りを下さった小杉茂樹さんや、小杉さん編輯に係る「東京四季」への屈折した思ひも伝はり、興味深く拝読。杉山先生が誰にも特別の思ひをおこさせる方であることをあらためて認識させる、羨ましくも貴重な証言です。また杉山平一・村次郎の“歴史的邂逅”をセッティングされた圓子様が、「両先生」の間を汗して周旋される様子が手に取るやうにわかる御文章では、タクシーで汽車を追ひ駆け、飛び乗る終盤の条りなど、いつもながら思ふエピソードの名手の手際に感嘆せざるを得ず、楽しく拝読しました。

 今号にはさきに追悼された坂口昌明氏の回想続編、その真打といふべき小山常子氏のエッセイも収められ、夫君とその後輩親友との関係について、いちばん身近から御覧になっての思ふところを記されてをります。まだまだ沢山あるに相違ない今まで封印された思ひ出話を、ぜひ今後書き継いで頂きたいものです。続く相馬明文氏の追懐も、坂口さんの向日的でおのれを枉げぬキャラクターが立ち上がってみえてくると同時に、相馬氏の「第三に同志的太宰研究者に申し訳が立たないと感じ」といふ、気概の礼節が潔い。鈴木亨氏を回想する一文とともに今号は四季派追悼一色の感がふかいです。

 ここにても感謝申し上げます。ありがたうございました。

 写真は平成6年8月、鳥羽貞子氏が記されてゐるところの「東京と関西の四季派をきっちり結んだ合宿」の朝に推参し、写真撮影にちゃっかり先生の隣へ飛び入り参加した一枚。(黒ッ。)

『朔』174号
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上 圓子哲雄様方

邂逅(詩):杉山平一 1
杉山平一さんのこと:村次郎 2
杉山平一の直線性:佐々木甚一 3
杉山先生と私 往復書簡:奥田和子 6
詩人・会津人・杉山平一先生を悼む:山田雅彦 10
杉山平一先生の詩の匂い:鳥羽貞子 12
杉山平一さんを偲んで:萩原康吉 14
杉山平一氏を偲んで:小笠原 眞 16
杉山平一先生とご一緒した三陸海岸:圓子哲雄 19
坂口さんを哭す:小山常子 24
坂口昌明先生のこと:相馬明文 27
奈良、再び:テッド・ファウラー 30
空の色(詩):加藤眞妙 40
カレンの歌声のような(詩):萩原康吉 42
蓮の花(詩):柳澤利夫 44
普段着の先生:小林憲子 46
実は金子光晴こそ恐るべきリアリズム詩人なのだ:小笠原 眞 48
一人旅でめぐるフランス 1:石井誠 60
編集後記 66

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639やす:2012/10/21(日) 02:36:17
「杉山平一追悼号」その2 『季』97号
 関西四季の会より「季」97号をお送り頂きました。
 97といふ、杉山先生の享年との符合、まことにふしぎでなりません。皆さまの回想みな興味深く、一人ひとりに「自分だけの先生」が生き付いてゐる、さすが精神的支柱として詩人杉山平一を仰いできた同人雑誌だけのことはある、先生の折り目正しい温かさを偲ぶに相応しい追悼号となったことと、半ば身内の院外団(?)ながらお慶び申し上げます。

 公私を峻別されてゐた杉山先生の日常が、このたび御長女初美様の証言で初めて人の知るところとなり、三方を本で囲まれた2階の書斎の存在(やっぱりあった)もあきらかになりました。(文中、“布野さんに関するお便り”云々は私のことかもしれません。※) 天声人語を毎朝音読される条りは、なんとなく「オワリ!」ではなく「ヲハリ!」といふ語感を感じさせ、ガラクタを棄てようとすると顔をしかめて大きく手を振る身振り、などなど、何ともいへぬ、ユーモアと申しませうか、ほぼ一世紀を生き抜いてこられた杉山先生のエピソードには、私の世代には覚えのない筈のなつかしさを感じさせます、それを見守られる初美様の温かなまなざしに涙ぐみました。

※訂正:手皮小四郎様よりお便りあり、私のサイトでの『布野謙爾詩集』公開を知った手皮様が、荘原照子と布野謙爾をめぐる人脈について杉山先生まで直接お便りさし上げた際のことを指したものと判明、謎がとけました。筆記不如意の杉山先生からの返信は初美様の代筆と思はれ、尚のこと手皮様のことは印象に残ってをられたのでありませう。

 さうして同人皆さまの「自分だけの先生」の回想を一覧して思ったのは、杉山先生への全幅の愛情を以て凭れかかることのできた詩人といふのは、さきの奥田和子氏を措けば、やはり杉本深由起氏に最初の指を屈する、といふことでせうか。「季」以外の人脈を知りませんので断定しませんが、杉山先生のモテモテの実態が今後(本日の偲ぶ会で?)明らかになったら面白いことと思ってをります。冗談はさておきその杉本氏の回想ですが、いろいろの愉快なエピソードが初めて耳にするものばかりだったのはもとより、作品の上では杉山詩の一番弟子だと思ってゐましたが、実生活の上でもやっぱり先生の方からも心を許してをられた詩人だったことが、もう手放しで分かる文章で、このひとならではの行文のうまさも、このたびは感じさせないほど心をこめた内容に、御長女の一文と好一対の読後感につつまれたことでした。

 そして今回の編輯方にして長年私を詩人として見守って下さった舟山逸子氏がピックアップされたのは、一枚の杉山先生のカット。誌面には故意に載せなかった由ですが、杉山先生の絵が「季」の表紙を飾りはじめた頃のもので、私が同人になった時の扉絵だったので殊更記憶に焼きついてゐる一葉でした。少年なのか老人なのか不明ですが(私はなぜか『ムーミン谷の十一月』に出てくるスクルッタおじさんを想ひ起こします)、追悼詩の冒頭を少し読んだだけですぐに分かりました。数あるカットのなかであれに目をつけられた舟山さんが嬉しかったし、終連は追悼詩の白眉でせありませう。


一枚の絵から      追悼杉山平一
                            舟山逸子

水際へ消える石段
麦藁帽子の少年がつくる
波紋は 広がって
広がって 幾重ものまるい輪だ

直線と機械の世界から
やがて曲線へ

まっすぐ歩いていると
ゆるやかに まるく曲がって
いつのまにか
もとに戻っている
それがあなたの描いた
無限だった

光へと手を伸ばし続けた
その長い生涯

わたしは 手を伸ばす 水際で
深く顔を伏せて 静かに
あなたを偲ぶ
まるい波紋をつくっていく


 今回の追悼号、皆さまの文章に杉山先生の大阪弁のイントネーションもそれぞれに偲ばれ、まだまだコメントしたくなるやうな充実ぶりですが、さぞや泉下の先生も苦笑ひされつつ、安堵もされてをられることだらうと存じます。本日の「偲ぶ会」に間に合ひ、追悼号の真打に相応しい雑誌に拙文も寄せさせて頂いたこと、たいへん名誉に存じます。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『季』97号
発行連絡先:〒569-1022 大阪府高槻市日吉台3-4-16 舟山逸子様方

終りよければ・一匹の蜂(遺稿):杉山平一 6
窓 追悼杉山平一(詩):矢野敏行 10
叱咤激励・色紙(詩):奥田和子12
一枚の絵から 追悼杉山平一(詩):舟山逸子 18
杉山さん、お世話になりました:高階杞一 20
宝塚の詩人:中嶋康博 24
杉山さんの「敗走」:山田俊幸 29
父と暮らせば:木股初美 34
現代詩人賞受賞詩集『希望』について(日本現代詩人会2012詩祭スピーチ)
:以倉紘平 39
杉山平一詩抄 42
苺のショートケーキを食べながら:杉本深由起 50
光を信じて:舟山逸子 56
質問の手をあげながら:小林重樹 60
杉山先生の思い出:紫野京子 64
杉山先生を偲ぶ:高畑敏光 66
杉山平一先生の「死生観」:奥田和子 69
詩人杉山平一のこと:矢野敏行 75
杉山平一氏と関西四季の会関連年譜 78
後記 85

写真は平成15年3月29日、風信子忌行事の途次、谷中多寶院近くの感應寺で澁江抽齋の墓碣銘を前にして。

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640やす:2012/11/03(土) 22:39:06
「杉山平一追悼号」その3 『季刊びーぐる』第17号
 舟山逸子氏より御教示頂いた「季刊びーぐる」第17号(特集杉山平一 人と作品 2012.10)を取り寄せて、さきの回想と対をなす木股初美様の「父の最期」を始めとする、寄稿文の一つひとつを興味深く読んでゐる。
 以倉紘平氏や佐古祐二氏が、杉山平一の詩を近代詩の括りに封じ込めてしまはふとする多くの追悼文の論調に抗議する文章を書いてをられること、むしろそれなら私達こそそのやうな「優れた近代詩にたち戻って詩を書き継がねばならないのではないか」と提起してゐることに非常な共鳴を覚えた。戦中戦後から今に至るまで、杉山詩が古びることなく保ち続けてゐる今日的意義について、冨上芳秀氏が「進化し続けてゐる」と敢へて主体的に立言した真意は、書き手としてのシンパシィにあったんだらうし、否、さうではなく最初から「すごい詩」を書く詩人であって作風を些かもぶれさせることなく生涯を全うされた詩人の軌跡は「進化」などと呼ぶべきものでないと批判した國中治氏の真意もまた、読み手としてのシンパシィを以て語ってゐる、さういふ違ひに過ぎないことのやうにも思はれた。さうして私には、戦時下の詩人について細見和之氏が記された次の一節に、杉山平一といふ詩人の本質の一端をあらためて納得させられる鋭い指摘を感じた。

「 つまり杉山は『夜学生』刊行に先立って書いていた「反戦詩」を『夜学生』出版に際しては、「親兄弟が一所懸命戦っているときに人間的に遠慮すべきだと思って」削除していながら、昭和19年にいたってなお、「港」や「球」といった作品で窪田般弥(1926年生まれなので、当時18歳前後である)らに強い印象を与えていたのだった。しかも、それを長らく戦後の詩集にも収めてはいなかったのである。
 これらの一連の杉山の振る舞いには、庶民的な誠実さと、同時にそれをはみ出すような知識人の揺らぎが感じられるだろう。あくまで庶民の立場を倫理としながらも、そこに収まりきることもできず、それをしかし積極的な価値として積極的に自己主張することもしない…。その振幅のすべてを視野に収めて杉山の詩業を受けとめることは、私たちが状況のなかで詩を書いてゆくことの意味を考えるうえで、きっと示唆的であるに違いない。」15p

 この、成った作品ではなく、詩人の側にいつもわだかまってゐたに違ひない「知識人の揺らぎ」が、収録インタビューにも見られる小野十三郎に対する物の見方の親近感と、保田與重郎や伊東静雄に対する畏敬の念においては、心情的擁護といふ形で敗戦を境に逆転して顕れてゐることに、ことさら注意してみたらいいと思ふ。詩人独特の判官贔屓(ヒューマニズム)の表れであり、冨上氏が「今を生きる心」と言ひ換へてをられるやうな、現在進行形の今日的意義を私達に感じさせる平衡感覚と呼んでもいい。四元康祐氏が見事に集約してみせたところの「眼の詩人」「笑ひの詩人」「生活の詩人」といふ、出来上がった作品の側から見た詩人の特質と共に、詩人の節義ともいふべき、「四季」の詩人の四季派詩人たる貴い所以を、私はそんなところに感じてきたのである。

 ところで「現代詩手帖」にても杉山平一先生の特集が組まれてゐたことを、この雑誌の後記で知った。いくら現代詩と縁のない人間でもこれは迂闊であった。國中さんの一文も収められてある由。早速拝見したいものと思ってゐる。

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641やす:2012/11/04(日) 16:09:38
大垣漢詩文化圏のこと
 「デイリー・スムース」の林哲夫様より『種邨親子筆』と題された貴重な写本詩集お送り頂きました。Comment欄の御教示によると、著者であるこの種邨恭節といふ人は伊勢国員弁郡の医師であった模様ですが、写本の後半部分にあたる、彼の嫡子と思しき人によって引き写された詩篇の多くが、さきにここでも御紹介した大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌:あんしょうしんし』にまつはる、明治期初期の岐阜の漢詩人の作品であるところから、その人は父親から文学的素養を受け継ぎ、桑名から揖斐川を遡って大垣に至るルートをたどって何らか美濃の漢詩文化圏とも直接関係があった人ではなかったかと思ってゐます。

 『鷃笑新誌』、大垣の漢詩といへば小原鉄心や野村藤陰が思ひ起こされる訳ですが、この分野でも新刊情報に疎い私は、彼等による紀行詩文集『亦竒録』の現代語訳なる一本が、大垣有志の肝煎によって今年の春に刊行されたことを知りませんでした。どういふ偶然か『鉄心居小稿』、『洞簫余響』の画像データを県図書館まで撮りに訪ねたその日に知って、早速連絡。品切れのところを特別に、このたびは刊行元の三輪酒造さんより貴重な残部一冊を職場の図書館まで御寄贈頂くことなった次第。執筆の横山正先生が、周辺情報にスポットを当てた「大垣つれづれ」 といふコーナーを地域サイトに連載してをられる前IAMAS学長であるといふことも合せて知ったのでした。

 酒飲みの小原鉄心から眷顧を賜ったといふ刊行元の酒蔵では、『バロン鉄心』なる記念銘柄の緑酒も発売されてゐます。この週末は私も出張、さても鉄心の時代とは比べ物にならぬ安直な日程でしたが、帰還しての秋の夜長を、古書と現代語版と二冊の『亦竒録』を披げ、任地の尤物を肴に一献、往時の酒盛りを偲んでをりました。

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642やす:2012/11/12(月) 23:07:32
『亦奇録』
 『亦奇録』の現代語訳版が図書館に入ったので、冒頭部分の訓読を少し許りテキストに起こしてみました。書き下しにはチャンペラ(アンチョコ)といふべき『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』といふ本があるのですが、これをなるだけ見ず、原本だけを睨んで書き起こしてゆくと、野村藤陰や菱田海鴎の章なんかは行書ですし、くずし字の解読や訓読の良い勉強になります。どうしても困ったら、訓みは『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』に、意味は『現代語訳版』に頼ったらいいのです。両者とも頭註には触れてゐないので、そこだけいい加減な私の読みですから御叱正を乞ふ次第。江戸時代の漢詩文集には、斯様な茶々が入るところが面白く、やはり省けません。

 畏れ多くも『現代語訳版』の著者である横山正先生から頂いたお手紙によると、該書は目下絶版。「大垣地域ポータルサイト西美濃」内での公開を念頭に、現在、訂正・補綴作業を進められてゐる由。また浅野忍氏が筆耕された『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』は、過去に以下のタイトルが出てゐるやうですが、私はまだ第2輯しか確認してゐません。伊藤信、冨長蝶如両先哲の後、大凡この二十年ほどで完全に断絶したといってよい旧世代の精神遺産継承を図る上で、私ども世代以降の読書家に資するところ実に大きな遺産の一つであると感謝いたします。

大垣文教之心発掘顕彰シリーズ

第1輯 小原鉄心『鉄心遺稿』1975.
第2輯 小原鉄心『鉄心居小原稿』『亦奇録』『洞簫余響』1975.11
第3輯 鴻雪爪『山高水長図記』1976
第4輯 不詳
第5輯?第6輯 菱田海鴎『海鴎遺稿』1984.3

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643やす:2012/11/13(火) 22:44:07
篠崎小竹手蹟法帖
 ところでオークションは欲しいものが出るたびに入会を繰り返して未だ縁が切れてをりません(見なきゃいいんです。苦笑)。このたび落札したのは篠崎小竹の手蹟法帖。さきに頼山陽と後藤松陰の自筆ものを入手してゐましたから、山陽の親友であり、松陰の義父であり、また我が家の書斎に挂けられた「黄巒書屋」扁額を揮毫された小竹翁のものとあっては、見過ごすことはできませんでした。無事落札に安堵。而して何が書かれてゐるのかも、小山正孝先生の訳文に助けられてをります。けだし一昔前なら入手方法も要脚も儘ならなかった、全国各地にお蔵入りとなってゐた旧世代の精神遺産たるお宝書蹟が、前述したところの継承断絶の末に、かうして貧乏収集家の許に再編されて一同に会することにもまた感慨を少なしとしません。詩人の訳とともに紹介致します。

「丹青引」 ―贈曹将軍霸―??? 杜甫
                           [ : ]は[原作:書帖]の異同を示す。
將軍魏武之子孫 於今為庶為青門
英雄割據雖已矣 文[采:彩]風流今尚存
學書初學衛夫人 但恨無過王右軍
丹青不知老將至 富貴於我如浮雲
開元之中常引見 承恩數上南熏殿
凌煙功臣少顏色 將軍下筆開生面
良相頭上進賢冠 猛將腰間大羽箭
褒公鄂公毛髮動 英姿颯爽[猶:來]酣戰
先帝[御:天]馬玉花驄 畫工如山貌不同
是日牽來赤墀下 迥立閶闔生長風
詔謂將軍拂絹素 意匠慘淡經營中
斯須九重真龍出 一洗萬古凡馬空
玉花卻在御榻上 榻上庭前屹相向
至尊含笑催賜金 圉人太僕皆惆悵
弟子韓幹早入室 亦能畫馬窮殊相
幹惟畫肉不畫骨 忍使驊騮氣凋喪
將軍畫善蓋有神 [偶:必]逢佳士亦寫真
即今漂泊干戈際 屢貌尋常行路人
塗窮[反:返]遭俗眼白 世上未有如公貧
但看古來盛名下 終日坎壈纏其身


絵画をうたう

将軍は魏の武帝曹操の子孫だ
現在は庶民だがもともとは名門の出なのだ
英雄割拠した時代はすぎ去ってしまったが
曹氏一門の文学芸術にすぐれた気風はなおつたわっている
書を学んで初め衛夫人の書風を学んだ
王右軍にかなわないのがただ残念だというまでになった
絵画の道に入っては年をとるのも気づかないほどだった
そうした身にとって富や貴い位は空にうかぶ雲のように関係ないものだった

開元の頃にはいつも天子にお目にかかり
その恩寵をうけて何度も南薫殿に参上した
凌煙閣の功臣たちの肖像が年月に色あせていたのが
将軍がそれに筆を加えると生き生きとよみがえった
名宰相が頭上にいただいている進賢冠
勇猛な将軍の腰のあたりの大羽箭
褒国公や鄂国公の毛髪は動いている
その姿は颯爽として戦いのまっただ中からいま来たばかり

先帝の御乗馬の玉花驄は
画工が何人も山のようにたくさん描いたがなかなか似ない
この日赤くぬった階の所までひきつれて来た
はるか彼方宮門に立つとさっと一陣の風がまきおこった
将軍に対して写生するようにとの天子のお言葉があった
構図をいろいろに苦心して考えて工夫していたが
あっという間に宮中にまことの竜馬が出現した
古来描かれて来た平凡な馬の姿なんかさっと洗い去った

玉花驄はいまやかえって天子の腰かけの上の方にいる
腰かけの上の方と庭前の方とそれぞれさっと立って向かいあっている
天子はにっこりとしてほうびの金をやれとおっしゃっている
馬のかかりの役人たちは皆このありさまにびっくりした
将軍の弟子の韓幹は早くから技法を極めていた
そして馬を描いてもまたなかなかみごとなものであった
ただ韓幹の場合はその形を描いてもまだ本当の精神は描けなかった
素晴しい馬が意気あがらずに描かれてしまうのはなんともやりきれない

将軍の描く絵には精神がこもっている
立派な人物の場合にはそれこそ真実の姿をうつし出すだろう
いま戦乱の世にあってあちこちとさすらっているので
しばしば平凡なつまらない行きずりの人を描いている
行きづまって困っている人間は世俗の人からは白眼視される
世間には将軍のように貧しい暮しの人もないようだ
そこに見るものは昔から名声のある芸術家は
志を得ず不遇の境涯を送る運命にまとわりつかれているということだ


 七言古詩。成都での作。原題は「丹青引」で、丹青は絵画に用いる赤や青たどの顔料からひいては絵画そのものをさし、引は曲調の一種でうたの意。したがって「絵画のうた」の意である。この詩には原注が付されており、「曹将軍覇に贈る」という。左武衛将軍の曹覇の画いた絵の絶妙さと、しかしそれが世上充分に遇されていないことをうたった作品。
 唐の張彦遠の『歴代名画記』巻九に「曹覇は魏の曹髦(曹操の曽孫)の子孫である。髦の画は後代に称えられている。覇は開元中にすでに有名になり、天宝末には天子の命で御馬や功臣をえがいた。官は左武衛将軍までのぼった」と記されている。しかし、天宝の末年には罪を得て、官籍を削られ庶人に貶されたと伝えられる。詩のなかにも曹覇の事跡はうたわれており、他にも曹覇の絵をうたった作品があり(「韋諷録事の宅にて曹将軍の画馬の図を観る引」)、曹覇の絵は杜甫に大きな感銘を与えていることがわかる。
 この詩は『唐詩選』にも採られていて古くから名高く、傑作の一つである。【小山正孝】

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644根保孝栄・石塚邦男:2012/12/09(日) 09:41:38
専門知識に驚嘆
久しぶりに覗いてみましたが、皆さんの専門知識には驚いてます。
なるほど、日本の文化の奥深さ、東洋の文化の深遠を感得してます。
今後も勉強させてください。

http://演習あ熱r哲に部う長

645やす:2012/12/10(月) 00:06:15
(無題)
石塚邦男様
おしさしぶりです。とても穏やかな古典修養の場と化してをります(笑)。

さても皆様よりの頂きものが其の儘となってをり、それぞれ私信にては御礼申し上げて参りましたものの(杉本深由起様、手皮小四郎様、ありがたうございました。)、とりわけて大切な2冊について御紹介が遅れてをります。
出張や日々の雑事に忙殺されてをりましたが、これ以上の延引は許されず、御周知頂くため一旦上記刊行の御報告まで申し上げます。

646やす:2012/12/10(月) 00:11:57
『感泣亭秋報』7号
 思ひ起こせば初めて創刊号を受け取りました時、抱負はそれとして「御遺族」としての想ひの丈を一度すっかり吐露してしまはれば2〜3号で已んでしまふ性質の雑誌ではないかと思ひなしてをりました。その後さらに号数を重ねてゆくのも、ひとへに坂口昌明さんといふ詩人の最大の理解者にして牽引者の意志を、常子夫人が温かく見守ってをられるからだらう、さうしてこのたびはその坂口氏を喪ひ、正見様の関心も感泣亭の活動には一区切りをつけ、御専門の児童俳句を通じて社会的な方向に向ってゆかれるのではないか、そんな風にも思ってをりました。今は不明を恥じなくてはなりません。「感泣亭スペース」の建設と運営を通じて、なにか家族の限定された想ひだけでは量ることのできない、地域の文化事業に発展する気配さへ窺はせる、正見さま発信の最近の催し物の数々に、自分の予想が裏切られる、これまた爽快さを感じてをります。
 このたびの誌面もその充実度に目を瞠るばかり。本来メインであってもをかしくはない坂口氏の追悼コーナーを措いて、特筆すべきは詩人小山正孝没後十年を記念して誌面を飾った、その他本格的論文の数々です。渡邊啓史氏と相馬明文氏と、小山正孝の文学出発期の分析が詩と散文と両つながら揃って掲載されたのは、四季派気圏内にあって文学の可能性を模索してゐた当時の詩人に一入の愛着を覚える私としても慶ばしく、また若杉美智子氏の文章も、いつもながら本質を突く初見の事に論及されるので、立原道造の周辺を探索する連載ともども早く単行本にまとめられたらと思ひつつ拝読。謹厳な蓜島亘氏の属文と並べはまことに対照的なものを感じ、こちらはこちらで今回対象となった小山正孝夫人の義兄であったロシア文学者安士正夫同様「批評眼ではなく精密な研究態度」を良しとする生真面目な学究ぶりの健在を確認したことであります。さらに戦後の四季派顕彰の立役者である麥書房店主堀内達夫氏について、夫人の回想は古書店主としての一面、矜持と鷹揚さといった為人を伝へるエピソードに満ち、限定版出版社「麥書房」の社主としても「家内工場化」した舞台裏の報告など、私も雑誌『本』のバックナンバーは愛蔵してゐますが、『感泣亭秋報』編集の御苦労と重ねたりしてみながら、堀内氏の生き様を偲ばせて頂きました。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。



『感泣亭秋報』 感泣亭アーカイヴズ2012.11.13発行

詩 なかよし  比留間一成
詩 博物館   小山正孝???????????????????????????????? 4

 −小山正孝没後十年−
灰色の抒情 −詩集『雪つぶて』のために−  渡邊啓史???? 6
小説家小山正孝の文学的出発への試み −官立弘前高等学校時代の小説を中心に− 相馬明文 33
小山正孝の詩を聴く             高橋博夫????43
小山正孝詩と遠近(おちこち)         富永たか子??44
小山正孝の詩世界6  『山の奥』       近藤晴彦???? 45

 −坂口昌明さん追悼−
坂口昌明さんの肖像             福井 一???? 49
坂口さんとの出会い             吉田文憲????51
津軽に沈潜する博物誌的形而上学−坂口昌明詩集『月光に花ひらく吹上の』小笠原茂介 54
坂口昌明の深遠なる世界 −「岩木山奇談集」の遥かな頂き− 小田桐 好信 56
不思議な関係                小山正見????60

感泣亭通信(小山常子著『主人は留守、しかし・・・』への返信) 65-71
曾根博義 内山百合子 伊藤桂一 岩田[日明]  相馬明文
渡邊俊夫 杉山平一 馬場晴世 池内輝雄 現影邦子
神田重幸 高木瑞穂 神林由貴子 富永たか子 木村 和
小笠原 眞 西村啓治

詩 青春のこと 大坂宏子 ??????????????????????????????74
詩 道行き   里中智沙 ??????????????????????????????76
詩 夏の行進  森永かず子 ????????????????????????????78


麥書房・堀内達夫の仕事  ???????????????? ??堀内 圭??80
小山正孝の周辺 −安士正夫とバルザック全集− 蓜島 亘 84
昭和二十年代の小山正孝 3 −小山=杉浦往復書簡から− 若杉美智子 98

感泣亭アーカイヴズ便り ??????????????????????小山正見 100

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647やす:2012/12/10(月) 00:23:05
『人間山岸外史』
 これまで掲示板でも同人誌「北方人」における連載を逐次御紹介して参りました池内規行様より、さきの『評伝・山岸外史』(万有企画 1985)を補筆して、新たにそれら“山岸外史人脈”に関する項目を連結させた新刊『人間山岸外史』(水声社 2012)の御寄贈を賜りました。不意打ちにも近い此度の刊行には爽快な驚きを感じ、もとより内容については既に読んだものである筈にも拘らず、装幀も瀟洒に一新され、近来の物忘れも手伝って却って最初から読ませて頂く楽しみを新たにしてをります。特筆すべきは、山岸外史をめぐっては私淑する一人者を譲らない下平尾直氏が編集の一切を担はれたといふこと。装釘もハイセンスな仕上がりに一新され、ことにも前著には無かった貴重な写真資料群は、太宰治研究者ならずとも必見とするところでありませう。
 合せて今回著者よりは『眠られぬ夜の詩論』『人間キリスト記』の御恵投にも与り、恐悦至極の有様です。急遽思ひ立ち古書店に発注した『煉獄の表情』とともに御著の理解に資する(あ、それは反対ですね 笑)これら原典につきましては、いづれ年末年始にでもゆっくり読書の時間をつくって臨むこととして、まづはここにても刊行のお慶びかたがた篤く感謝を申し上げる次第です。
 ありがたうございました。

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648やす:2012/12/19(水) 21:07:02
「杉山平一追悼号」その4 『文学雑誌』第88号
 杉山平一先生追悼雑誌のしんがり「文学雑誌」88号を、御息女木股初美様よりお送り頂きました。これまで、てっきり「季」のことを杉山先生のフィールドの“奥の院”と思ひなしてゐたところ、先生の戦後の詩歴とぴったり重ねられる、かくも来歴の古い雑誌の存在に驚き、詩誌ではないものの、ここに集はれる嘗ての若手後輩“後期高齢者の同人一同”の皆様の、杉山先生に対する温かいまなざし、物腰こそやはり穏やかであるもの年近い旧知の彼らにはなかなか厳しい批評もされた「油断のならん」壮年時代の先生のエピソードの数々を、まことに気の置けない得がたいお話として拝読させて頂きました。

 今回寄稿された初美様の回想もまたしかり。古いカセットテープ音源の話が出てくるのですが、音吐朗々の対談が収められてゐるといふ録音はいつ頃のものでありませう。湮滅する前にデジタル化して是非後世に遺して頂きたいものです。また前に逝かれた夫人、初美様御母堂に関する回想も、私生活の今現在をおおやけにはなさらなかった先生でしたから、初めて明らかにされることばかりであり、詩人には睦まじい詩人夫妻を内輪からながめた様子をぜひ今後も書き留めて発表して頂きたく思ふのでした。内輪といへばこのたびも瀬川保氏の、

 「表情といえば、夫人の通夜の晩のこと。椅子を引き寄せ、こちらに肩を凭せるようにして一言、「さびしいでェ」と洩らした。」

 などの条りには、いかにも先生らしい口吻が髣髴され、初美様が「びーぐる」の追悼記で記された浴室事故の、当の本人からの報告を書き写された桝谷優氏の文章なども、その深刻の態さへどこかあたたかく感じさせるのは、あながち関西弁のせゐばかりではないやうにも思はれたことです。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。


「文学雑誌」88号 2012.12.15発行21cm 106p 800円 題字:藤澤恒夫   表紙・カット:杉山平一
           文学雑誌発行所:豊中市緑丘4-29-3 大塚様方

【杉山平一作品抄】 「父」創刊号 昭和21年4p 「素粒子と新しがり」84号 平成21年19p
【杉山平一年譜・著書】 年譜抜粋22p 著書目録23p? 「文学雑誌」掲載作品抄24p
【追悼記】 26-39p 木股初美 大塚滋 涸沢純平 竹谷正 瀬川保 桝谷優
【創作】 文鎮(大塚滋) 外国切手(桝谷優) わが懐かしのチャンバラ映画(後篇)(竹谷正)40-105p
【編集後記】 瀬川保・大塚滋106p

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000813M.jpg

649やす:2012/12/30(日) 22:05:38
収穫回顧
今年は私生活に於いて、まことにめまぐるしい一年でありました。
来年は引き続き、人生の一区切りをつける一年となりさうです。


独坐聴啼鳥  独坐 鳥の啼くを聴き
関門謝世嘩  門を関ざして世嘩を謝す
南窓無一事  南窓 一事なく
閑写水仙花  閑かに写す 水仙花

年末年始は夏目漱石みたいな心境で閑居読書にいそしめたらいいのですが、
毎日老犬の下の世話に奔走する我が家では

独坐聴啼犬  独坐 犬の啼くを聴き
隣門謝臭禍  隣門 臭禍を謝す
南窓有一事  南窓 一事有り
閑瀉水洗禍  閑かに瀉ぐ 水洗の禍

といった感じでせうか(笑)。世話中に腰を痛め、万事億劫の寝正月となりさうです。

みなさまよいお年を。


本年のおもな収集品は以下の通り

掛軸: 原采蘋、服部擔風、頼三樹三郎、村瀬太乙、村瀬秋水、梁川星巌
色紙: 村瀬藤城、村瀬雪峡
折帳: 篠崎小竹、江馬金粟
写本:『行余堂近稿・述古斎詩稾』石井彭、『種邨親子筆』種邨恭節
和本:『高山竹枝』森春涛、『攝西六家詩鈔(含後藤松陰詩鈔)』、
『静軒百詩』寺門静軒、『松塘小稿』鈴木松塘、『清狂詩鈔』月性
『問鶴園遺稿』戸田葆堂、『鳳陽遺稿』神山鳳陽、『柳橋新誌』成島柳北、
『珮川詩鈔』草場珮川、『艮齋文略』『遊豆記勝・東省續録』安積艮齋

詩集など:
『生れた家』木下夕爾
『人間山岸外史』池内規行
『人間キリスト記』『眠られぬ夜の詩論』『煉獄の表情』山岸外史
『花とまごころ(増補活版)』竹内てるよ
『松村みね子訳詩集』
『音楽に就て』上林猷夫
『天地の間』藤原定
『干戈永言』『寒柝』『朝菜集』『覊旅十歳』『一点鐘』三好達治
『母』半井康次郎
『詩と詩人詩集』淺井十三郎 編
『鉄斎研究』本巻65冊 小高根太郎 (図書館納品)
『富岡鉄斎 仙境の書』野中吟雪

といったところ。
変ったものでは学生時代から敬愛する畑正憲先生の初版本とか(笑)。

しめて20万円ほどの購入は、他に耆むものもない自分として今年も分相応の散財でした。

http://

650やす:2013/01/01(火) 01:36:45
迎春
今年もよろしくお願ひを申し上げます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000815.jpg

651やす:2013/01/11(金) 11:18:32
『菱』180号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載20回 松江の人々
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』180号を拝受。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 今回の荘原照子伝記連載は、終戦前後の松江在住時代が対象になってゐます。乏しい資料を補填するため、新たに現地に赴いた手皮様が当時の教会関係者にインタビューをされてゐるのですが、紀行的な運筆は導入部に故・杉山平一先生との手紙でのやりとりを配し、昭和初期の布野謙爾・景山節二ら松江高校文学圏を回想するとともに「椎の木」の分裂騒動が今一度言及されてゐます。さきの「季」97号での木股初美氏の記述はその先生側からの回想であることが判明しましたが、杉山詩の紹介など特段の配慮をたいへん嬉しく、拙サイトの紹介や、私信で御紹介与りました詩人菊池美和子の御遺族情報も忝く存じました。布野謙爾のプチブル資質をしっかり指摘されてをられるところには、手皮様らしさを感じます。

 さて詩人の在松時代の関係者から聞き取った内容と、詩人自身の聞書きテープとを照合する過程で、聞書きに現れなかったネガ証言として、故意に記憶から抹消されたと思しき鈴木といふ謎の女性のことが炙り出されて参ります。疎開といふべき田舎暮らしのなか、ハイブロウな芸術論談義を唯一共有できたといふこの同居人とは時に激しく議論を闘はせてゐたとのこと。すでに詩壇でも名を馳せてゐた彼女にとって一家言ある無名の後輩との共同生活の記憶は、総括すれば余り快いものではなかったのかもしれません。そしてこの地で洗礼し、正式なキリスト者として終末医療現場に身を置き、患者の心の支へになる一方で、自身の宿痾も悪化してたうとう長期入院することになったらしい。しかしその費用はどう工面してゐたのでせう?同居してゐた母は?

 死の恐怖・日々の生計と直面するのっぴきならぬ生活を送ってゐた彼女は回復の後、終焉の地となった鳥取へ移住し、手皮様と出遇ふこととなります。存在は知られてゐたものの永らく確認できなかった当時の写真が発見されるなど、判明した事実と疑問と、鳥取時代に入る直前の時代が一旦整理された格好の今回。羸弱な体でしたたかに詩作する面影は、聞書きから引かれた当時の歌「コツコツと小鳥の如く叩く音 いばりふと止めわれ応えたり」などといふ一首がよく伝へてゐるもののやうにも感じました。

652やす:2013/01/15(火) 23:36:23
(無題)
 手皮小四郎様より、さきの連載の杉山平一先生を語ったところを収めた「聞書きテープ」をお送り頂き、伝説の詩人荘原照子と手皮様の20年前の謦咳に初めて接しました。
 戦前詩壇の当事者御本人の口からポンポン飛び出す固有名詞といふのは語調、アクセントともに格別な響きありますね。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 また本日は田中克己先生の祥月命日。不肖の弟子もこしかた20年前当時の、不思議な精神状態だった自らを顧みては、人生の区切りとなる本年、不可視のゆくすゑに思ひをはせて一筆を草してをりました。

653やす:2013/01/16(水) 22:17:34
正月十六日夜
春夜二三更
等間出柴門
微雪覆松杉
弧月上層巒
思人山河遠
含翰思万端

都記由幾者 以川波安礼東毛奴者当万乃 気布能己余非耳 奈遠之可数計利

与板 大坂屋
維馨老尼       良寛


正月十六日夜

春夜 二三更
等間 柴門を出づ
微雪 松杉を覆ひ
弧月 層巒を上る
人を思へば 山河遠く
翰を含んで 思ひ万端

月雪はいつはあれどもぬばたまの けふの今宵になほしかずけり

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/ryokan/ryokan.html

654鸕野讃良皇女:2013/02/02(土) 13:05:08
ツイッターで呟くまずいかなと?
@cogito1967 こんにちは。貴ホームページの梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノートのなかに『華漢寺』と掲載がありますが、多分、『華溪寺』が正しいのではないかと思いますがいかがでしょうか?
今は水谷弓夫の事を調べています。また、お世話になります。

655やす:2013/02/02(土) 21:02:15
(無題)
鸕野讃良皇女さま、御教示ありがたうございました。もちろん『華溪寺』が正しいです。OCRの校正もれでせうか、お恥ずかしいかぎり。火曜日に訂正させて頂きます。
ちなみにcogito1967ではなくcogito1961です。余生をいかに過ごすか計画中。今後とも御叱正よろしくお願ひを申し上げます。

656やす:2013/02/15(金) 23:04:02
訃報
職場で教鞭を執られた相馬正一先生が亡くなられました(2013.2.5没 83歳)。御存知のやうに太宰治研究家として、山岸外史をめぐっては池内規行氏とは意見対立する一方、私めに於いては、かの編集拙き『夜光雲』をお買ひ上げ下さった数少ない恩人。御冥福をお祈り申し上げます。


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