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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板
473
:
やす
:2010/03/14(日) 00:48:12
『春と修羅』の製本について
この『春と修羅』ですが、初版本を手にしてみて初めて気付いたことがあります。研究者や古書店の間では知れ渡ってゐることなのでせうが、まず16ページではなく8ページ分を一枚の紙に刷ってゐるらしいといふこと、それに合せて製本が普通の本のやうな「糸かがり」ではなく、「打ち抜き」と呼ばれる原始的な方法に依ってゐるといふことです。
打ち抜き製本とは、一冊分の丁合をとった束にブスブス穴をあけて紐で綴ぢたもので、図書館で雑誌を合冊製本するときなんかに使ひます。小倉豊文氏は「『春と修羅』初版について」のなかで、地元花巻の印刷屋には手刷の小さな機械しかなかったことに触れてをり、もちろんそれが原因でせう。
ではなぜこの田舎の印刷屋を使ったかといふことになるのですが、同じ町内のよしみで、とか、風変りな段組や使用字の指定には一々指示を出す必要があったから、とか考へられはしますが、費用節減のためといふのが一番の理由でせう。丁合作業はたいへんですが手伝へばいいのだし、小さな印刷機で刷れ、綴じる手間もこの方法が一番安く済む…なにしろ私自身が田中克己先生の日記を刊行する際に採用した方法ですから(笑)。
小倉豊文氏の文章で「殆ど毎日校正やその他の手伝にこの印刷屋に通い」とあるのは、だから「殆ど毎日、印刷現場に立ち会ひ、丁合をとる手伝ひにもこの印刷屋に通」った、といふことではないでせうか。「往復の途次には 校正刷を持って関登久也の店に立寄り」とありますが、もしかしたら校正刷りではなく、近世活字本のやうに順次刷りあがっていった現物を持って行ったのかもしれません。だって毎日「校正」に通ったにしては、あまりにもこの「心象スツケチ」、誤植が多いですから(笑)。でもって誤植があまりにもひどいページだけは切り取り、そこだけ一枚あとから差し込んで繕ってあったりする。或は同じページを2度印刷しちゃったんでせうか。ここ(202-203p)には「製本後に」切り取られた紙が残ってゐるのですが、落丁ではないのです。
目立つことなので、すでに誰かが書いてゐることだとは思ふのですが、詩人の作品については語る言葉をもちませんので、どうでもよいことを一応紹介しておきます。
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474
:
やす
:2010/03/14(日) 01:06:35
文圃堂版『宮澤賢治全集』
ついでにもう一丁。これは昨年オークションで落札した不揃ひの旧版全集。なかになんと最初の全集である貴重な「文圃堂版」が一冊混じってゐました。けだしこの装釘で当時の詩人たちは宮澤賢治を読んだわけです。昭和10年といふ出版文化のピーク時にあって、造本、サイズ、装釘すべてが出色の出来。その後を引き継いだ「十字屋版」にどう受け継がれていったかもよくわかります。参考まで。
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475
:
やす
:2010/03/19(金) 11:37:22
【おしらせ】
停電に関連しWEBサーバを停止します。この間ホームページがみられません。
3/19 19:00 〜 3/20 10:00の間を予定してゐます。
よろしくお願ひを申し上げます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000628.jpg
476
:
やす
:2010/03/20(土) 11:28:07
お薦め一般書
漢詩文の読耕が滞ってゐる。ご飯(古典)を食べずにおやつ(一般書)ばかり食べてゐるからである。それが余りにもおいしいのである(笑)。
神戸女学院大学の先生をされてゐる内田樹といふひとの『日本辺境論』(2009新潮新書)を読んで引き込まれました。続いて『逆立ち日本論』(2007)、『街場の教育論』(2008)、『街場の中国論 』(2007)と他の著書にもハマってしまったのですが、自分が社会に対して感ずる違和感をうまく表現できぬまま、このさき古本好きの偏屈爺となっていって一体どう世間と折り合って行ったらいいのか、正直「居心地の悪い老後」の予感に悩んでゐただけに、かういふ物の見方と語りができるひとに(本の上でですが)出会って、本当にホッとしてゐるところです。
『日本辺境論』は昨年度の新書大賞を受賞しましたが、前書の語り口からしていいです。耳に熟さないカタカナ語は嫌ひなのですが同時に漢語もさりげなく使ひ、全て誰々の受売りと謙遜しながら、おそらく読者の一部として予想してゐる、端から馬鹿にして掛ってくる「頑迷な進取の徒」と「頑迷な守旧派」に対して冒頭それぞれに目配せしてるのが面白い。構造主義とかに全然興味はないのですが、右翼とジェンダーフリーを両つながらにやんわり峻拒する、現代の「中庸」を指し示すこれら読本の数々は「肩のこらない名著」と呼んでよいのではないでせうか。
ただし私個人のアジア漢字文化圏の再興希望は、論語のみならず、家康公の遺訓や教育勅語を許容する分、著者よりもう少しだけ偏屈です。さうしてこのさき世代交代が進み、敗戦による「断絶」を、人間性を深める葛藤として生きることが難しくなったのなら、もひとつ昔、明治維新の断絶の前の江戸時代のやり方を拝借してでも、この断絶には何らかの文化的な東アジア的決着をつけなくてはならぬと思ったりもします。それは現今の政治家の云ふやうな利害のために日本を「ひらく」ことではなく、各民族の記憶に遺された先賢の風を以てお互ひの「襟を正す」ことから始まるものではないでせうか。(またしても政治っぽくなったのでここまで。)
「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。『街場の教育論』155p
貧しさ、弱さ、卑屈さ、だらしのなさ……そういうものは富や強さや傲慢や規律によって強制すべき欠点ではない。そうではなくて、そのようなものを「込み」で、そのようなものと涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。私は今そのことを身に沁みて感じている。『昭和のエートス』68p
WEBサーバ復旧しました。
477
:
やす
:2010/03/29(月) 00:47:43
歌誌『桃』終刊号
歌誌『桃』の641号をお送り頂きました。終刊の実感が湧かないのは、毎号お送り頂いてゐた事を空気のやうに思ひなして居った私などでなく、もちろん主宰者の山川京子氏自身が一番さうであるには違ひなく、氏が雑誌の終焉にあたって最後にしたためた文章(「桃」のはじまり)は、56年前の創刊当時を回顧され、その心情を忖度するになんとも云へぬ気持になるのですが、またこの雑誌を起こすやう強く勧められたといふ、作家松本清張が父方の従兄であったことなど、初耳の御関係にも驚かされた、貴重な回想文でありました。
とまれ、此度の終刊に際しては、折口信夫、保田與重郎、中河与一夫妻ほかの諸先達をはじめ、本来なら創刊当時の同人も一言なりとも感想を寄せられるべきところ、主宰者を除きそろって幽明境を異とする有様。代はってたまさか私ごとき後学が蕪辞を草し、伝統ある雑誌最終号の誌面をはしなくも汚すこととなった、その忝さと晴れがましさに、胸の詰まるやうな感慨、および御縁の不思議を覚えてゐるところです。
由来、私は和歌といふものに迂遠で、『桃』誌上における京子氏の選評も、作意のありありと現れたものより顕れないものを称揚される「保田與重郎ゆずり」の姿勢であることに、一種の畏れを抱いてをりましたから、夫君の山川弘至のことを詩人として祖述する文章はともかく、今回ばかりは拙劣な歌でも添へねばと思ひ四苦八苦しました(笑)。いざ自分で作ってみると、詩と同様にこねくり回さないと気が済まず、短いですから煮詰まって自分でもよくわからぬものに凝ってしまふ。歌詠みとして、さうして歌の鑑賞者としても失格(こちらは古典の素養がないから)であることは自任してゐましたが、同人の方々の、日本人として当たり前の日常を淡々と詠み重ねてゆかれる姿勢には、ですから本当に頭が下がります。ぜんたい私がインターネットといふ時代の利器を使って過去の詩人達を好き勝手に祖述しようなどといふ試みが、自身の作意と成心の表れに過ぎない訳ですが、顧みて営々たる歩みの「桃」にはさういふ邪心が一切ない。久しい前から世間では、短歌俳句ブームによる多くの歌誌や句誌が乱立してゐますが、茲に「あざとい個性の発現」を善しとしない国風の短歌雑誌が、創刊当時のまま棟方志功の表紙絵を掲げ、半世紀もの歴史を脈々と保ってきたことに、本当に格別な感慨を感じるのです。つまりその歴史が閉じられたことに際会してゐる自分をも、大切にしてゆかなくてはと、「実在する伝統」の終焉に際して思ひ至りました。「胸の詰まるやうな」とはさういふことです。
その奇しき際会の思ひを主調低音に、滔々と歌ひ上げられたのが、今回末尾に掲げられた野田安平氏の長歌でありませう。氏にはメールで「今後を託されてゐるといっていい野田様の述懐には、皆さんの注目が集まりますから」と、何を書かれるのか期待したのですが、なんの、万感極まる念ひの丈を一首に託し、このひとが未だ回想モードに入ってゐないことに、却って伝統が途切れることなく託された様子をみて、頼もしく思った次第です。
巻末に、京子氏は亡き夫君の詩作の中から二編の詩を掲げられました。けだし詩人の絶唱のなかからさらに選ばれた極めつけの二編として、これは山川弘至の代表作と京子氏自らが認定したことを意味しませう。今後、昭和の詩をアンソロジーに編む際には逸することのできない、まことに戦慄を秘めた抒情詩、心に迫る作品と私も思ひましたので、詩に関する掲示板として、あらためてご紹介したいと思ひます。( 『詩歌集 やまかは』1947所載)
君に語らむ 山川弘至
君に語らむみんなみの
荒き磯辺に開きたる
名知らぬ花の紅の
波高き日はその影を
寄せくる潮に砕きつつ
波しづかなる夕ベには
その美はしき花影を
ひた蒼き水に映すかな
ああ荒磯の岩かげに
はかなく咲きし紅を
君知り給ふことありや
大和島根を遠く来て
このみんなみの荒磯に
北にむかひていつの日も
ひそかに咲きし紅を
君知り給ふことありや
夕荒潮の鳴るなべに
雁の使も言絶えし
この岩かげの潮の間に
かつがつ咲きし紅の
花の色香はいつの日も
高くにほひてかはらねば
ことしげき日もみんなみの
かの岩かげを忘れ給ふな
ふるさと 山川弘至
そこに明るい谷間があり
そこに緑の山々まはりを取りまき
そこに深き空青々とたたへゐたりき
おほぞらを渡りて吹きし風のひびきよ
あかるく照りし陽の光よ木々のそよぎよ
雲はしづかに 白く淡く
かの渓流のよどみに映りゐたりき
ああ思ひ出づ かの美はしき時の流れを
ああ思ひ出づ かの遥かなる日々の移りを
かしこに 我が古き日の幸は眠りたるなり
かしこに かの童話と伝説は眠りたるなり
思へども思ひ見がたき かの遠き日は眠りたるなり
かの山深き谷峡の村に我が帰らむ日
かのふるさとなる古き大きなる家に我が帰らむ日
太陽はげに美はしく四辺を照らし
あまねく古き日のことどもよみがへられ
あまねく遠き日の夢はよみがへらむ
げに 古く久しく限りなきものよ
汝! そはふるさと
げに 常に遠くありて思ふものよ
汝! そはふるさと
我 かのしづかなる山ふところに いつか
常とはに帰り休らはむ日
そこにこそ かの背戸山の静かなる日溜りに
幾代もの祖先ら温かくそのしたに眠りたる
かのなつかしき数基の墓石
我が やがて帰らむ日を 待ちてあらむ
戦前の生き方を節操として体現し、示し続けてこられた世代も、京子氏のやうな数奇な運命に翻弄された当時の若者を最後に、この日本から消えようとしてゐます。国ぶりの変貌を、なほすこやかな言霊を信ずることで、些かでも回避することができればといふ願ひ。
雑誌は終刊しても京子氏を中心とした歌会は、引き続き行はれるとのことです。『桃』の歴史を閉じるにあたって、ここにても御礼かたがた、京子氏の御健康を切にお祈り申しあげます。
ありがたうございました。
【追而】
また、山川京子氏も執筆してをられる、『保田與重郎選集・全集・文庫』に付せられた月報の文章を纂めて成った『私の保田與重郎』といふ浩瀚な回顧本が、今月新学社より刊行されました。最初に出た南北社版の著作集には、月報執筆のトップバッターとして檀一雄と田中克己先生が書いてをり、その意義を編者の谷崎昭男氏がいみじくも後記で次のやうに記してをられます。
生前の出版にかかる「著作集」と「選集」には、装偵がいづれも棟方志功の手になつたやうに、収録作品の選定から月報の執筆をたれに依頼するかについて、編集者の考へ方はそれとして、当然著者の意向が反映されてゐなければならない。「著作集」の月報の最初を檀一雄と田中克己の文が飾ったのは、他の何といふより、友誼を重んじた保田與重郎の為人を偲ばせる(654p)。
偶然知った新刊本ですが、合はせて宣伝させて頂きます。
『私の保田與重郎』谷崎昭男編 -- 新学社, 2010.3, 658p.\4200
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478
:
やす
:2010/04/04(日) 23:08:01
蔵書刊行年記録更新
オークションでおとした『再遊紀行』といふ古本が届く。見返も刊年記も無い本ながら、大きな版型(27.4×19.2cm)と江戸中期以前の漢詩集独特の文字体がなんとも古めかしい。東海道中の紀行漢詩集ですが「萬治時己亥季春嘉再遊于東都・・・」の自序があり、予め刷り重ねた風の朱線が「嘉」の字の真ん中に入ってゐて、調べると山崎闇斎だと分かります。巻末にも「二條通松屋町武村市兵衛刊行」とあって、ネット上で
「武村市兵衛は初代二代ともは闇斎門人で、三代目が享保十四年に没して廃業したらしいが(藤井隆『日本古典書誌学総説』158p)、元禄十一年『増益書籍目録』などを見る限りでは、闇斎・敬斎・直方・慈庵などの崎門学派の書のほとんどが武村市兵衛の出版にかかるようである」
との 記述に遇ひました。しかし「万治」って…万延ぢゃないですよ。吾が「ごん太に小判蔵書」の刊行年記録が、これまでの『蛻巌集』(寛保二年)から、またさらに百年遡及して更新されたのですが、こんな稀覯本が、私ごとき一介の図書館員のお小遣ひで買へる国って…絶句です。
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479
:
やす
:2010/04/10(土) 21:02:27
荘原照子聞書 第10回目 金沢時代
鳥取の手皮小四郎様より『菱』169号を御寄贈いただきました。
詩人荘原照子の聞書、第10回目となる今回は、彼女ら一家が岡山で食ひ詰めて金沢育児院に移住した1ヵ年半の出来ごとについてです。ともすれば主観に流れ、思ひ込みに固執する聞書が、手皮さんのフィールドワークと稀少な地元文献の博捜によって補強・訂正され、伝記的事実として明らかにされてゆく様は、毎度のことながら説得力に富んで聞書の域を超えてをります。
この昭和6、7年といふのは詩人にとって、中央詩壇にデビューする直前の最も暗鬱な時代、といふ位置づけが「結果的に」なされるやうですが、後年のモダニズム詩人が生活苦のあげく、伏字の施されたプロレタリア詩さへ書いてゐたといふ事実はまことに衝撃的で、当時はモダニズム系の詩誌でも、例へば「リアン」のやうにマルクス主義を標榜するやうになるグループもあるにはあったのですが、彼女がキリスト者であったこと、羸弱であったこと、さうして末尾の年譜で手皮さんがおさへてをられるやうに、この年の「詩と詩論」に左川ちかや山中富美子が華麗なモダニズムを挈げてデビューしてゐる事実を思ふとき、ルサンチマンの極にあった詩人の精神生活が、革命思想に向かふことなく、むしろ一種の頽廃を宿したモダニズムの美学を許容してゆくことになる、この時代は正にそんなどん底の分水嶺、蛹の時代であったのかもしれない、と知られるのです。
これは何といふ哀しい馬だ
骨と皮ばかりの
何といふかなしいゆうれいり馬らだ!
(中略)
これらよはいものたちの吐息をはつきりきいた
否!否! じつにそれことは
サクシュされ利×され 遂にはあへぎつつゆきだほれる
わたしたち階級の相(すがた)ではなかったか!
その日
第××××隊がガイセンの日!
わたしは病む胸を凍らせる
北国の氷雨にびしよぬれ乍ら
とある町角に佇ちつくしてゐた!
ふかい ふかい 涙と共に!
「我蒼き馬を視たり」部分(『詩人時代』2巻12号1932.12)
「利×」が「利用」とわかっても、「第××××隊」について「育児園近くの出羽町練兵場で上海事変から帰還した歩兵第七連隊の兵士を迎えた時のものと思う」とさらっと書くには、調査の労と教養の下地の程が思はれるところです。物語は次回、いよいよ一家で上京、さらに夫・子供たちとも別れて独り横浜に移った彼女が中央詩壇にデビュー、といふことになる由。一体どういふ事情なのか、さうして詩がどのやうに変態を遂げて羽ばたいてゆくのか、手皮様からの報告を見守りたいと思ひます。
さて新年度を迎へて慌ただしいなか、「季」の先輩舟山逸子様より「季」92号を、富田晴美様からは図書館用に『躑躅の丘の少女』をもう一冊御寄贈にあづかりました。
御挨拶も不十分で申し訳なく存じますが、ここにても再び皆さまに対しあつく御礼を申し上げます。ありがたうございました。
480
:
二宮佳景
:2010/04/21(水) 21:07:28
追悼 堀多恵さん
作家堀辰雄の妻多恵さん(筆名・堀多恵子)が96歳で他界された。
堀辰雄は昭和28年5月に信濃追分で亡くなつた。病気と戦争で十全な創作活動ができなかつたのは不幸だつたが、その死後ある時期まで、10〜15年に1度の割合で全集が大出版社からコンスタントに出たのは、漱石を除けば、おそらく近代日本の文学者では堀辰雄だけだつたのではないか。
生前、すでに角川書店が作品集を出して居たものの、最初の全集は没後すぐに企画され、新潮社と角川が激しい綱引きを演じ、角川源義の師である折口信夫が仲裁に登場する一幕もあつた末に新潮社が出版した。角川は10年待つた後で、河上徹太郎に解説を書かせた全集を刊行。さらにその後、堀の愛弟子といふべき中村真一郎と福永武彦が編集した決定版全集が筑摩書房から世に送られた。
大学生の頃一時期、堀辰雄にイカれて居た。あの生と死を見つめた甘美でありながら強靱な精神が確乎として存在する世界にあこがれてやまなかつた。バイト先の古書店で、上品な白い箱に濃緑の帯がついた筑摩の決定版全集を羨望の眼差しで見つめて居たが、結局学生時代はあまりにも高価で入手できなかつた。この完全版全集は後に、堀の著作権が消滅する直前に筑摩から復刊され、この時やうやく新刊の形で手に入れることができたのだつた。
書物の世界だけでは満足できず、バイトで貯めた金を使つて、信州まで足を伸ばした。「美しい村」に登場した岩や、エッセーで書かれた石仏を直接目にできたのは嬉しかつたが、軽井沢も堀の終焉の地となつた信濃追分も、やはり高度経済成長の波に洗はれて見事に俗化して居た。強く失望して、その後、軽井沢には足を踏み入れて居ない。
その際、堀ゆかりの油屋に宿泊したが、その際主から「多恵さんならこの前おみえになつて、しばらく青森で過ごされると仰つて居た」とのことだつた。夫人がお元気であることに一抹の安堵を覚えた。また、この時は足を伸ばさなかつた「風立ちぬ」の舞台となつた旧富士見高原療養所は現在、農協の施設になつて居ると聞いた覚えがある。ただ、信濃追分の森の中の、澄んだ空気にはなるほどここは療養にはふさはしい場所だと強く感じたものだつた。
その多恵夫人が書いたエッセーの数々だが、病人や病気、その看護を描いたものであるにもかかはらず、決して暗くならず、明るいユーモアを湛へたもので、読後こちらが元気になるやうな文章だつた。書き手のお人柄といふものを強く感じさせる文章であつた。多恵さんはどこかで「堀は戦後、中村さんや福永さんの書いたものの中で生きてきた」と書いてをられたが、ご自身の著作の中でも、夫である堀は生き続けたのだ。産経新聞に連載されて角川書店から出された『堀辰雄の周辺』は、連載当時から本当に愉しく読んで、続きが楽しみで仕方なかつたものだ。連載には、後に中央大学の学内誌を編集されたT記者が尽力したのだつた。そのTさんから
「多恵子さんはまだ元気なんだろ? 年賀状送るのに確かめようと思つてさ」
と新井薬師に住んで居た頃、突然電話をもらつたことがあつた。今回改めて、多恵さんによる「あとがき」を読んで、これが本になるにあたつて、風日舎のYさんが編集にあたられたのを知つた。角川時代の最後のお仕事だつたのか。単行本になる際に併せて収録された中野重治や福永武彦への追悼文もいい文章だつた。小林秀雄が死んだ時に『文藝春秋』に、小林と堀が旧制一高の頃、野球やキャッチボールをする間柄だつた云々と短い文章(談話?)が掲載されて居たはずだが、その文章は収録されなかつた。
ある時、著名な批評家の夫人が多恵さんについて、
「あの方は文章家ですもの」
と感に堪へないといつた口調で言はれたことがあつた。そして、
「堀さんは、あの方(多恵さん)だから結婚されたのでせう」
とも仰つた。夫人と多恵さんはほぼ同じお年だつたはずだ。妻は妻を知る、といふことかと思つたものだつた。
堀辰雄の死後、半世紀以上も一人歩み続けた多恵さんの偉大な足跡を目にする時、はるかなるものを仰ぎ見るやうな気持ちがする。矢阪廉次郎氏の学会発表の際に紹介していただいた竹内清巳氏から、江藤淳の「幼年時代」批判を気にした多恵さんが、はるばる九州まで足を伸ばして、堀の養父であつた上條松吉の工場で働いて居た弟子のところに、堀と上條の関係を聞きに出かけたと聞いた。夫とその作品の名誉を守らうとされたのだなと少なからぬ感動を覚えたものだつた。何よりも、堀未亡人ではなくて、随筆家堀多恵子の書くものに、常に敬意を払つてきた。それは今後も変はることはあるまい。
堀多恵さんの逝去に、心から御冥福をお祈りいたします。
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481
:
やす
:2010/04/21(水) 23:49:38
とりいそぎ
もう帰らうかと職場よりパソコンチェックしたら吃驚です。
存じませんでした。慎んで御冥福をお祈りいたします。
匿名氏の二宮佳景さん[鮎川信夫ペンネーム]、お報せありがたうございました。
http://www.kahoku.co.jp/news/2010/04/2010041701000693.htm
482
:
やす
:2010/04/22(木) 22:50:33
追悼
堀多恵子氏が逝去された。96歳といふから天寿を全うされたといってよいのだらうが、図書館に勤めてをりながら知らずにゐた。迂闊であった。
四季派といふ、エコールといふより氛囲気と呼んだらいいやうな現象を、基底から醸成してゐた堀辰雄。その職業文筆家らしからぬ、詩的で知的に洗練された西洋風の有閑を愛する資性と、また実際に植物のやうな有閑でなくては身が保てなかった健康を、夫人として側らから理解し支へ、亡きあとは遺影を抱いて、時代とともに「青春の記憶」と遠ざかりゆくイメージに殉ぜられるままに、操を守られた。夫婦の有り様、ことにも結婚について私がことさら引き合ひに出して思ったのは、日夏耿之介である。生涯の頂点となる仕事を成し遂げたのち、そのままそこに留まると連れて行かれさうな精神の高みから、再び現世に生身の作家を引き戻し、子のない余生の充実に貢献したのは、実に年の離れた包容力のある夫人の坤徳に与るところが多い、といふ気がするからである。
もっとも当の夫君が、頭脳明晰の後輩達から先生と慕はれたのも、書かれたものと書いたひとから立ちのぼる悠揚迫らぬ香りと人徳に他ならない訳であって、さしずめ野村英夫を馬鹿にしたり、堀辰雄の芳賀檀への親近を訝しげに眺めて、四季・コギトの気圏から最も遠い所に位置してゐる加藤周一などは、頭脳明晰の後輩の雄たる存在だが、堀辰雄が好もしいと思ったのはもちろん血筋ではなく、育ちの良さにありがちな正直で向日的な詩人的資性に対する親近なんだらうと思ふ。彼自身は下町の出身だが、さういふ「生存力からみた本質的な弱者」への労はりが、若いころは才気走ったものが好きだった、この穎才の心情の基底には(己が身にも引き付けて)あるやうな気がしてならない。加藤周一が中村真一郎とともに多恵子夫人と行った『堀辰雄全集』最後の月報での鼎談で、夫人が野村英夫をフォローする発言を何気なく繰り返してゐるのは、さうした夫の心情の一番機微のところを、敏感に察して彼女自身のスタンスとしても受け継いでゐる証しなのである。さうでなければ、彼らとは文学的立場も社会的立場も対偶にあったやうな吾が師、田中克己が堀辰雄とともに夫人をも徳として仰いだ理由は説明できない。同じキリスト者でもあり、戦後の抒情詩否定の風潮のなかにあって、この人は全てが分かって下さってゐる、といふ安心があったのであらう。
私自身も、自らの詩集をお送りした際の受領のご返事として、厚情のこもったコメントを附した御葉書を二度、多恵子様からは頂いてゐる。今は亡い先生達から頂いた礼状とともに生涯の宝物である。また田中先生が亡くなって形見分けに御自宅に呼ばれた際、すでに末期がんで臥せってをられた悠紀子夫人を見舞ひに訪れた多恵子様と、偶然御挨拶を交す機会にめぐまれたが、それが最初の最後となってしまった。いづれも20年も昔の話になるのですが、今更ながら御葉書を掲げさせて頂き、個人的な思ひ出とともに偲び、茲に追悼いたします。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000635.jpg
483
:
やす
:2010/04/24(土) 21:46:26
追而
本日、『躑躅の丘の少女』を刊行された富田晴美様よりお電話をいただきました。そして堀多恵子様とは、亡くなる前の週に電話でお話をされ、此度の出版についてあらためて労ひの言葉を賜るとともに、なんと4月14日には追分への訪問も約束されてゐたといふことを聞いて吃驚。その後に自宅で転んで額を怪我され、治療に入院した病院で肺炎に罹ってしまはれた、とのことです。それでも約束の14日の時点では自宅から、「少し延期すれば大丈夫」との御返事だったと云ひますから、大事になるとは思ってをられなかっただけに、逝去と事の顛末を知らされたときには驚かれたさうです。御母堂の遺稿集『躑躅の丘の少女』と、多恵子様の序文(2009.7.3)と、両つながらいみじき形見になってしまったことについて、さぞかし感慨の尽きぬ胸中かと拝察申し上げます。以上御報告まで追書きいたします。
484
:
やす
:2010/04/29(木) 19:21:06
連休週間
さきに二松學舎大学の日野俊彦先生よりお送り頂いてをりました御論文(『清廿四家詩』について「成蹊國文」Vol.43)、ならびに一緒に同封頂いた 『幼学詩選』序跋(村瀬太乙・村瀬藤城)のコピーなど、やうやく落ち着いて読ませて頂いてをります。
さういへば、友人の蕎麦屋さんの床の間の掛軸をボランティアで掛け替へてゐるのですが、その際、熱心にメモを取られる御婦人から声をかけられ、自宅には藤城の立派な屏風があって手をかけて修繕されたとのお話を伺ひ、今も所縁の漢詩人が地元の人々に愛されてゐることを嬉しく実感。
また小山正見様よりは、一線を退かれて悠悠自適の生活に入られ、愈々ホームページ「感泣亭」の充実に力を注がれるとのお便りを拝して、羨ましい限り。
連休週間に入りますが、何方様も事故のなきやう、私は今年もどこにも遠出はせず家居終日、冷酒でも舐めつつ読書三昧で無事過ごせれば本望に候です。
『幼学詩選』 序
某等、某詩選を持ちて来り、余に此の中に就て幼学の為に選せんことを請ふ。余曰く、此れ有るにまた何の選かと。曰く、彼れ巻数頗る多く、詩会吟席に携行不便なり。先生、之を便ぜよと。是に於てか、読み随ひて之を点出し、取ると捨てると殆ど相半ばにして、遂に千四百数十余首を得る。また平生記する所の百余首をも加へ、而して之に授く。
一日、たまたま友生を訪ひ、語るついでに自ら笑ひて曰く、余は儒生にして書を読むを欲せざるも、この頃、幼学の為に詩巻を閲して数日間、三千首を読むは如何。懶惰先生もまた時あらば勤むと謂ふべきかと。生曰く、詩を撰するは容易ならず、回(めぐ) らして一小冊子を出して示さる。取りて之を見れば則ち先師山陽翁の輯むる所『唐絶新選』なり。先づ其の例言を読めば、取捨、大鏡に照らす如く、玉石逃るる所なし。乃はち独語して曰く、此の如くにして始めて之を撰すと謂ひて則ち可なり。余輩の為す所(仕業)は、録するとや集むるとや。況んや翁は少時より唐絶を好めり。[吟]唱、年有りて乃はち心に得ること有りし者なり。余や、匆匆の中(うち)の一時の触目、以て可・不可と為すは実(まこと)に児戯のみ。所謂「聖はますます聖に、愚はますます愚に」、読者、之を何と謂はん。覚えず首縮み、汗背を沾(うるほ)す。[黙]然たるもの之を久しうす。既にして(やがて)徐ろに眉を展ばし、頤を撫し乃ち睥睨して曰く、咄矣(舌打)、此の挙や、将に大人先生の間に行はれんとするか、多く其の量を知らざるを見るや、嗚呼、是れ(わが)『幼学の詩選』なり。弘化丁未(四年1847)冬月、美濃村の村瀬黎泰乙(村瀬太乙)撰し、並びに尾城(名古屋城)の僑居の南窓の下に題す。
跋
余、嘗て古人の絶句を評して云ふ、盛唐にして供奉(李白)龍標(王昌齢)、中唐にして君虞(李益)夢得(劉禹錫)、晩唐にして玉溪(李商隱)樊川(杜牧)、是れ其の最なり。然れども細かく之を観るに及べは、玉溪は樊川に及ばざるの遠きこと甚だし。唯だ樊川は気勝を以てす。夫れ気勝とは則ち筆健なり。世は小杜を以て之を宜しと目す。偶ま泰一と談じて此の事に及べり。泰一曰く、其れ然り。吾が願ひ未だ高論の暇あらざること此の如し。但だ(わが)鄙見低説、幼学に課するを勤めんと欲するのみ、と。回らして其の手づから輯めたる『幼学詩選』を出し示し、余に跋一言を嘱す。夫れ泰一の作文は奇気有りて芳し。為に先師山陽翁の称許する所と為る。今や斯の選、名づくるに幼学の為と曰くと雖も、首々奇響逸韵、別に一種の活眼目を出し、選ぶに以て必ずしも時好に沾沾(軽薄)とせざるなり。此の選の(世に)行はれる如き、童蒙をして明清より遠く遡る三唐に近からしめんことを庶幾(こひねが)ふ。先師、霊と為り、また当に地下にて破顔するべし。
時 嘉永紀元戊申(元年1848)首夏(4月)
藤城山人(村瀬藤城)
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:
やす
:2010/05/21(金) 00:37:05
ニュース 三つ
目下『淺野晃詩文集』を編集中の中村一仁様より、いよいよ今夏に刊行予定との進捗状況をお知らせ頂きました。さきの『全詩集』では「全詩」と謳ひながら『幻想詩集』が封印され、また意匠や造本も愛蔵家向きではありませんでした。どんな一冊となるのでせうか、たのしみです。
さらに扶桑書房に於いては、この秋にも稀覯詩集を一堂に集めた前代未聞の古書目録を発行する予定とか。肝煎編集方に恒例の最強パートナーを迎へ、「開運!なんでも鑑定団」でも目利きを発揮されてゐる御店主によって、「間違いなく空前のラインナップ」の詩集たちが、人気と稀覯度と相俟って金額で表示されるのですから、触れこみがその通りなら当節古書界の大事件です。もちろん編集の念頭には田村書店の伝説の『近代詩書在庫目録』(1986年)があるのは間違ひなく、今度は原色図版も数多く載せられることでせう。「詩集の図鑑」にしてどんな「人気番付」となるのか、こちらも興味津津です。ただし全ページ高価な本ばかり並ぶやうだと、昨年の「100部限定目録」同様、私には届かないかもしれませんね(笑)。Yahooオークションより。
ホームページのカウンターがまもなく10万アクセスを記録します。皆さんの殆どがリピーターと思はれるのですが、毎日20人前後の積み重ねが10万人・・・是亦感無量哉。
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:
やす
:2010/05/07(金) 09:45:28
10万アクセス御挨拶
サイトのトップページに設置してあるカウンターが2000年1月以来、この10年間で10万アクセスを記録しました。毎日20〜30人の来訪には巡回エンジンも混じってゐませうが、至って地味なサイトにして継続の結果とありがたく、御贔屓の皆さまには厚く感謝を申し上げます。
顧みれば、先師田中克己先生の詩業を紹介・顕彰しようと、図書館に転属したのをきっかけに開設した、ささやかなHPが始まりでした。“祖述”の対象は、先生が同人だった「四季」「コギト」「マダムブランシュ」をはじめ周辺にあった抒情詩人たちに、さらに地元東海地区の戦前詩人達へと広がり、やがて関係者や御遺族の方々、そして愛書家の皆様からの知遇を賜り、その支援を受けて、コンテンツは次第に私個人の管見とは関係なく、文学資料を蓄積するデータベース的な側面を顕してきた、といってよいでせう。現在、サイトの大きさは4Gb余りあります。やってゐることは、図書館界が推進してゐる「電子アーカイブ」事業と一致してゐる所もあるのですが、現代詩を受けつけぬ偏屈な「私」の姿勢は崩したくなく、反対に著作権など「公」のサイトが手を出しにくい部分を我流にフォローするかたちで、ライフワークの存在理由が今後も確保されたらと思ってをります。
電子アーカイブといふ側面からみますと、むしろ近年の私が執心する江戸時代の漢詩文、時代も遠く且つ私が初学者ゆゑに私意をはさむ余地もない分野ですが、こちらの方は地域資料を対象とすることで一層「公」に傾く気配いたします。時代の断絶による衰退といふ点では戦前抒情詩との類比も感じさせ、またこの分野を再評価に導いたのが取りも直さず「四季」所縁の富士川英郎、中村真一郎両氏の先見であったこと、そして漢詩を介することで田中克己先生の業績の宏大な範囲にも再び繋がることができること、かうしたモチベーションの円環をもたらしてくれる媒ちとして、決してHPの趣旨とも無縁ではありません。ないばかりか、現代詩詩人のスタンスとは異なる日本文化再考の視点を、極東文化の同質性を視野に今日的意義として啓いてくれたといふ意味では、敗戦によって断たれた先人の志をどのやうに後世に伝へてゆくべきかといふ、私個人が向き合ってきた「コギト」的な問題意識と直結するやうにも思ってゐるところです。日本は自身の存在理由を崩すことなく、中韓の諸国との深い記憶における連帯を文化において思ひ起こす責務が有る筈です。私は今の日本人と中国人と朝鮮人が大嫌いです(笑)。
このやうなサイトがこのさきどのやうな運命をたどるのかは正直、私にもわかりません。国会図書館が「インターネット資料収集保存事業」に動き出した模様ですが、対象はどのやうに広げられてゆくのでせう。民間好事家のサイトはその多くが、おそらく私のやうな偏屈な個人によって管理されてゐることでせう。文化を保存・継承してゐるなどと、をこがましい気負ひは持たず、信奉する詩人達と一緒に、むしろ伝統に殉ずることができる喜び、といふ謙虚な気持で臨んだ方が良い結果をもたらすかもしれません。私は多くの方々の理解と協力と黙認を経て成り立ってゐるこのサイトの資料情報のコンテンツについて、著作権上の公衆送信権を利己的に主張するつもりは今後もありません。
感謝の念とともに10万アクセスの御挨拶まで申し上げます。
読耕は梁川星巌の伝記を再開。連休中の読書の副産物として、ノートは江戸の詩塾を畳んで故山で充電、燕居するさまを、伊藤信先生の文章とともにそのまま写しました。ご覧ください。
487
:
やす
:2010/06/02(水) 12:14:49
『遊民』創刊号
職場の図書館まで資料レファレンスにお越し頂いた大牧冨士夫様より、岐阜の詩人吉田欣一氏の生涯を俯瞰する「出る幕はここか 詩人吉田欣一の私的な回想 4〜15p」を巻頭に掲げた同人誌『遊民』創刊号の御寄贈に与りました。
?
岐阜の詩史といふとき、私がまず思ひ起こすのは江戸後期の漢詩人達の時代なのですが、近代詩以降に限ると、昭和初期の「詩魔」を中心とした戦前詩壇、戦後は彼らと所縁のない殿岡辰雄の「詩宴」や「あんかるわ」系の反戦フォーク世代の詩人達が、断絶に断絶を継いでさんざめき、やがて同人の高齢化とともに、現代詩を以て志を立てようとする若者が後を絶って今に至ってゐる、といふ大凡のイメージを持ってゐます。いま振り返って、共産党に深く関りやがて除名にもなった吉田氏の「人民詩精神」といふものを思ふとき、抒情に述志をことよせた四季やコギトの詩精神で無いことはもちろんですが、前衛の自負を嘯くアプレゲールの政治的気炎そのものか、といへばさうでもないやうな気もし、中野重治同様、古く戦前に詩的出自を持った人ならではの、生きざまや人物に魅力を加味した詩人の一人ではなかったかと、遠くからはお見受けし、大牧氏をはじめ多くの後輩に慕はれて93歳の大往生を遂げられた、郷土詩人の冥利に尽きる生涯に思ひを致しました。
とまれ創刊号のメンバー平均年齢がなんと76歳(!)、ここにても厚く御礼を申し上げますとともに、お体ご自愛のうへ御健筆お祈り申し上げます。ありがたうございました。
同人誌『遊民』創刊号108p \500 遊民社
488
:
やす
:2010/06/02(水) 13:17:32
『伊東静雄日記 詩へのかどで』
昨日はじめて『伊東静雄日記 詩へのかどで』(思潮社)を手にしました。
用紙が硬くて本文が開きにくく、また勝手に新かな遣ひにされてしまったことなど気になりましたが、内容は詩人のデビューに先立つ青春時代の5冊のノートを、懇切な編注とともにテキストに起こした新発見の資料であり、コギトにおけるライバルだった田中克己が同様の期間に記した詩作日記ノート 「夜光雲」と対比すれば甚だ興味深いものがあります。旧制高校のバンカラ学生とはいへ、その欺かざる心情吐露は勢ひ「恋愛」が中心ともならざるを得ませんが、走り書きが均一に活字に起こされてしまふ事情には、田中先生とおなじく同情するところです(笑)。
此度の刊行は正しく『伊東静雄全集』補遺巻と申すべき内容ですが、全集の改訂が企画されなかったといふことは、編集後記にしるされてゐるとほり、詩人に関する新資料はこれにて打ち止め、台風時に散逸したと云はれる教員時代の日記など、全集において御遺族の配慮によって抹消された個所が話題となってゐた資料も、完全に公開の可能性がなくなったとみてよいのでせう。もっとも今もって若者たちが伊東静雄の為人に、さまで根掘り葉掘りしたくなる魅力を感ずるものかどうかは不明です。日本人古来の忠信に係る実直さみたいなものが、詩人の美徳と認められるのか。もはや「忠信」を時代錯誤、「実直」を馬鹿正直と侮る現代人には、この日記における日本浪曼派的色彩もイロニーの防禦もない学生の日記は、反発どころか「無害」なのかもしれません。御遺族の公開の決断も係ってそこにありませう。しかしながら編者が、
「そして最後に(老爺心)ながら、現代の若者たちにも、自身の心情とこの日記の内実との間の類似点と相違点とに、なるだけ個々人として、また同時代の青年男女の一員として、賛否と好悪の面とはかかわりなく、目を見開き、耳を傾けてくださることをお願いしたい。これはとてつもなく困難なこと、というよりは、まったく不可能な願望かもしれない。ただそれでも、幾分試みてみようという向きがあれば、幕末・明治維新以後の、(十二分に理由のある)日本の超急ぎ足に思いを致してくださることであろう。現代の混乱の大きな原因の一つがそこにあることは明らかだと思われる。」(編集後記522pより)
と仰言る言葉に、私も深く同感いたします。編集後記より経緯を引きます。
詩人伊東静雄(1906〜1953)によるこの日記は、1924(大正十三)年11月3日から1930(昭和五)年6月10日の約五年半にわたって、大学ノート五冊に記された。伊東満十七歳から二十三歳、旧制佐賀高等学校文科乙類二年に始まり、京都帝国大学文学部国文学科に入学、その卒業後に大阪府立住吉中学校に赴任して一年が経つまでの時期にあたる。詩人の日記で今日われわれの目に触れることができるのは、人文書院刊行の『伊東静雄全集』の日記の部にかぎられていた。これは1938(昭和十三)年から、その死の二年前、1951(昭和二十六)年にいたるものである。詩人の長女である坂東まきさんによれば、今回見つかったこの日記以上の発見は、今後ありえないだろうという。唯一、住吉中学校教員時代の日記(「黒い手帳」と名付けられていた)の存在が明らかだったものの、いまや完全に行方不明だそうである。
「詩へのかどで」という副題は、第一冊ノートの表紙の真正面に、大きく筆書きされている。これが書かれた時期はまったく不明であるが、日記ノート自体は山本花子との結婚(1932年4月)を控えた時期に、実弟の井上寿恵男に託されたとのことで、おそらくそのときに記入されたものではないかと推測される。このときの詩人のことばが伝わっている。「この日記はだれにも見せないようにしてもらいたい」と。新妻に見せたくないという配慮からだとされている。(中略)
本日記の原本は、前述したように、弟さんが保存していたが、その遺族から伊東の長女である坂東まきさんにいわば(返還)され、詩人生誕百年を前にして、坂東さんから柊和典に出版に関するすべてが依託され、さらに柊から上野武彦、吉田仙太郎の両名に編集のための手伝いが要請されたものである。(後略) (編集後記より)
『伊東静雄日記 詩へのかどで』2010.3 思潮社刊行
内容 ノート第1冊 大正13年11月3日〜大正14年12月3日
ノート第2冊 大正14年12月4日〜大正15年12月2日
ノート第3冊 大正15年11月24日〜昭和2年10月7日
ノート第4冊 昭和3年5月25日〜昭和4年3月5日
ノート第5冊 昭和4年4月26日〜昭和5年6月10日
編注 略年譜 解説:吉田仙太郎氏
\7980 19.5cm上製函 口絵写真1丁 528p ISBN 978-4-7837-2356-1
【参考】asahi.com(朝日新聞社) 2010年5月13日記事リンク
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000641.jpg
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:
やす
:2010/06/06(日) 23:07:18
『杉山平一 青をめざして』
杉山平一先生より安水稔和氏の文集『杉山平一 青をめざして』をお送り頂きました。最初手にした時、以前刊行された同名詩集の再版かと思ったのですが、これは安水氏による、先生についてこれまで語られた小文や講演録、そして途中からはなんと先生御自身との対談をそのまま収めた内容になってをり、読みながら2006年、四季派学会が神戸松蔭女子学院大学で行はれた際に拝聴した先生の面影が髣髴してなりませんでした。このたびの一冊は実に、この対談に於いてお二人の語り口をそのまま写しとったところ、そしてそこで取り沙汰される詩人達の名が、今ではあまり名前も上ることの少ない戦前の関西詩人達に及んでゐるところ、そんなところに出色を感じました。これまで杉山先生の回想文に出てきた「四季」の詩人達のほか、竹中郁を軸にして、福原清、亀山勝、一柳信二といった海港詩人倶楽部の面々の話は珍しく、また杉山先生が、鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれ、北園克衛の詩は好きだったけど断ったとの回想(129p)など、初耳にて、もし実現してゐたら、アルクイユのクラブの詩人達との交流は、もしかしたら同じくマダムブランシュ同人だった田中克己先生の場合とは異なり、杉山先生を敷居の高い「四季」投稿欄ではなく、アンデパンダン色の強い「椎の木」や、社会的関心を強めた「新領土」に続く道筋へと誘ったかもしれない、なんて想像を逞しうしたことです。
「神戸顔って言うのか、ちょっと目が細くてね、色白でね、なんとなく神戸やなって感じの顔はあるんですね(95p)」
「天気のいい日、煙突の煙が真っすぐ上がっていく日があります。たいがい風で靡きますけどね。そんなとき、あらっ、福原清の世界だなあと思うんですね(108p)」
などの人物観察、日本語の定型詩はソネットのやうな音的な韻ではなく、箍として語調に制約を設けた短詩形にならざる得ぬことを看破したり、抒情詩人は「北」とか「冬」とか名前でも郷里でも北方志向で無いとカッコ良くない、うけない、なんていふことを、憚りなく云ってのけられるところ、著者の安水さんはそれを、
「杉山さんの目っていうか、ものの面白がりようっていうか、ものの本質を見るその思考過程(76p)」
と評してをられますが、眼光の鋭さは、最後の第4部「資料」における杉山先生の、
「中央の人はね、地方の文化育てよとか、おだてよんですわ、お世辞ばかりいうて。(227p)」
とか、
「ええやつはみんな死んどる、悪いことする奴はみんな帰ってきた、という思想がね、ぼくは一部にあるんですねん。戦争への批判ね、戦争を悪く言うものに対してね、もうひとついう気なかったなあ。(228p)」
との、関西弁による述懐にも極まってゐます。それもその筈、このインタビューは50年前、1961年の録音を起こした大変古いものなのですが、これを読んで、杉山先生の詩を現代詩人達が四季派と切り離して評価しようとする態度になじめない気持をずっと持ってゐた私は、詩をかじり始めた当時に立ち戻って、25年前25歳だったいじましい青年の肩を先生自らが叩いて下さったやうな気持を味はひました。この第4部、「七人の詩人たち」へのインタビューは以下の関西詩壇の先人たち
山村順(当時63歳)、喜志邦三(63歳) 、福原清(60歳) 、竹中郁(57歳) 、小林武雄(49歳) 、足立巻一(48歳) 、杉山平一(47歳)
に対して行はれた、既に歴史的資料に属する貴重な証言です。もし当時のテープが現存するものなら、あのやうな端折った編集稿(1961.11「蜘蛛」3号所載)でなく、当時の肉声をそのままCDに起こして是非公開して頂きたいものです。第3部の杉山先生との対談も、けだし先生がこれまで著書で何度となく回想してきた話に時間を割かれ、初めて話題に上るやうな「触れたい人に触れぬまま時間切れ」になってしまったやうですが、このインタビューも、「それから、時代の傾斜。戦争。神戸詩人事件。それから。(217p「小林武雄氏へのインタビュー」)」なんて説明の一文を以て片づけてしまふのは、勿体ないといふより、申し訳ない気もしたことです。
「四季」の流れをくむ関西の同人誌「季」の矢野敏行さんとは、連絡のたびに杉山先生の記憶力と明晰な精神についてが話題に上り、驚歎を同じくしてをります。先生が、私の青年時代に勤めてゐた上野公園の下町風俗資料館まで、「一体どんなひとかと思ってね。」と枉駕頂いたときのことを思ひ起こすたび、それが四半世紀前のことにして、先生には既に古希でいらしたことにも、今更ながら愕然とするばかりです。
お身体の御自愛専一をお祈り申し上げますとともに、ここにても御礼を述べさせて頂きます。ありがたうございました。
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:
kiku
:2010/06/07(月) 02:39:35
(無題)
大変ご無沙汰しております。
ご紹介の『杉山平一 青をめざして』、杉山氏ご本人の率直な発言はもとより、往時の詩人たちの動向を知る上でもなかなかに興味深い内容のようですね。ちょっと読んでみたいなァ。一般書店で取り寄せての購入は可能なのでしょうか?
491
:
やす
:2010/06/07(月) 10:28:12
(無題)
kikuさま、こちらではおしさしぶりです。
書誌を記し忘れてをりました。まだamazonにはupされてゐないやうですが、
安水稔和著 『杉山平一 青をめざして』価格:2,415円 :編集工房ノア :2010年6月:235ページ/20cm ISBNコード:9784892711831
です。
旧「モダニズム防衛隊」(過去ログ参照 笑)としては「鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた」なん一文は聞き捨てなりませんよね。その後に続き、三好達治から創刊間もない「四季」で自分の初期の投稿詩が没にされた上、誌上でダメだしされた思ひ出を語ってらっしゃるんですが(130p)、そこで先生が反省されるところの「これ見よがし」のウィットや「手振」なんてのは謂はばモダニズムの表情であって、それを矯めるなんてのは、それこそ 「詩と詩論」から決別した当時の三好達治の事情ではあっても、新人にとってはモダニズムの芽を摘むことに他ならない訳です。まあ、小賢しい機智を弄する二流のモダニズム詩人なんかにはなるな、と、入選ラインを高くすることで若者を惹きつけてゆく三好達治の「師」としての手振が一枚上手だったといふことなんでせうが、先生そのあとに、「本当の意味がわかるのに数年かかりました」なんて殊勝に仰言ってます。もちろん「四季」の詩人として自分のスタイルを見定め得たからのことですからね、杉山先生の言葉は大阪弁の簡単な一言に含蓄がひそんで居ったりする、講演はそこがいいですね。
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:
kiku
:2010/06/08(火) 01:15:37
感謝
詳細な書誌情報、ありがとうございます。早速注文したいと思います。
“鳥羽茂から「マダムブランシュ」に誘はれた”あたりの事情も面白そうですけど、やすさま仰るように、講演やインタビューでの発言に結構な本音が垣間見れるんじゃないかなァ、なんて思ったものですから。
「燈下言」もわざわざアップしていただき、ありがとうございました。
三好の論評はまさしく正論ですね。どれほど機智に富んでいようと、それを“これ見よがし”に示し、己が機智を誇るために詩をつくる詩人なんてつまりませんからね。杉山氏が指摘された「浮薄の手つき」は所謂若書き故でしょうし、こうした叱咤激励、薫陶を受けたからこそ、詩人杉山平一として確固たる軌跡を刻む事ができたのでしょう。
それにしても、「懼れてもなほ懼れ足りない、夢寝にも忘るべからざる金戒であらう」との提言、時代やキャリアに関係なく、今なお(否、今だからこそ)以て銘とすべき言説だと思います。
って、話がちょっと脱線しちゃいましたネ。妄言多謝。
493
:
やす
:2010/06/23(水) 00:09:34
『続々・中部日本の詩人たち』
このたび多治見在住の織部研究家、久野治様より詩人伝記シリーズ第3弾『続々・中部日本の詩人たち』の御恵送にあづかりました。
さきの二作に於いてもさうでしたが、地元中部詩壇の生き証人としての翁(御歳87歳)に、私が一番求めて已まぬのは「あの詩人はこんな恰好でこんな顔をしてこんな風に喋るこんな癖のある人だった」といふ、詩人が遺した著作からは窺ふことのできない印象記でありました。このたびも翁の「肉声」を探しながらの拝読でしたが、3冊目ともなると直接交流のあった人も少なく、この点は憾みとして残ったかもしれません。一方これまで出番なく隠れてゐた詩人が、今回もビッグネームと同等のページ数を割かれて紹介されてをり、同人誌の連載だったからでせうが、地元で刊行された意義に感じたり、また連載が一人に余る分量のときには、周辺の詩史や所縁詩人の紹介もふんだんに挿入して「道草」してをられるのを、執筆の御苦労として偲んだ個所もございました。もとより翁御自身の一大伝記をこそ書き起こして頂きたい気持ちは今も変りませんが、かうして今3冊を揃へて並べて見ますと圧巻の観を禁じ得ません。
稲川勝次郎詩集『大垣の空より』のテキストが、何篇も印刷に付されるのはこの本が初めてでありませうし、一方詳しく書いてほしかったのは「詩文学研究会」の大所帯を率いてゐた梶浦正之の、戦前戦後をまたぐ消息でした。詩文学研究会の叢書詩集からは、書かれてゐるやうに木下夕爾の『田舎の食卓』のやうな、後世に残る名詩集も輩出してゐますが、多くは無名で、それも出版事情が悪くなる戦時中、同人達が戦地へ赴く際に遺書のやうな気持をこめて刊行した、地味ながらつつましい小菊のやうな印象を与へる詩集が多いやうに思ひます。最後はガリ版刷で刊行が続けられた事情の一切を、主宰者である梶浦正之は把握してゐる筈であり、感慨もつきぬものがあったでせうから、戦後、実業界に転じたのち回想が残されてゐないのは残念と云はざるを得ません。一体何冊刊行されたのか、書誌の全貌さへ未だにわかってゐないので気長に採集してゆきたいと思ってゐます。
ここにても新刊のお慶びとともに篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
『続々・中部日本の詩人たち』中日出版社:2010年 05月 367p
収録詩人:金子光晴・福田夕咲・稲川勝次郎(敬高)・佐藤經雄・浜口長生・錦米次郎・春山行夫・梶浦正之・稲葉忠行
『続・中部日本の詩人たち』中日出版社:2004年 01月 309p
収録詩人:伴野憲・中山伸・長尾和男・鈴木惣之助・中条雅二・坂野草史・和仁市太郎・吉田曉一郎
『中部日本の詩人たち』中日出版社:2002年 05月 322p
収録詩人:高木斐瑳雄・亀山巌・北園克衞・佐藤一英・日夏耿之介・丸山薫・殿岡辰雄・平光善久
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000646M.jpg
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:
やす
:2010/07/06(火) 12:25:49
御礼三誌
『朔』168号
圓子哲雄様より『朔』168号をお送り頂きました。
小山正孝夫人、常子様の回想エッセイ「人言秋悲春更悲」は、今回なかなか書きづらい消息、大学勤務時代の逸話の数々を明かされてゐて興味深く拝読。いったいに四季派の詩人たちは戦後、女子大や短大に赴任した人が多かったやうですが、皆さん当時は三十代の男盛りだった筈。しかも堀辰雄文学の薫染を蒙った抒情詩人な訳ですから、教養と学歴の向上が謳はれた文学部隆盛の時代、女子学生にもてない道理はございません。わが師でさへ修羅場もあったやに仄聞してをりますし(笑)、全幅の信頼をもって記されるも、当時の奥様にはさうさう心中おだやかな日ばかりではあり得なかったでありませう。
潮流社にも色紙が懸かってゐました、詩人のお気に入りの言葉「人言秋悲春更悲」。なにかしら堀辰雄が好きだった「一身憔悴対花眠」といふ詩句の一節にもかよふ気がします。さうしてこの「花」の原義が元来妓女を意味するところであったことを思ふと、今回常子様がタイトルに掲げられた「春」も、蘇軾の詩句や詩人の思惑を離れ、また別の趣きの深くも感ぜられるところではないでせうか。
『菱』170号
手皮小四郎様より『菱』170号をお送り頂きました。連載、モダニズム詩人荘原照子の伝記ですが、このたびは昭和7年から8年、金沢から上京ののち家族が瓦解してゆく足取りを辿ります。当人にとって最もデリケートな思ひ出に属してゐることから、この頃の具体的な「聞き書き」が少なくなるのは仕方ありません。その代はり、詩篇の描写を手掛かりにした手皮様の実地踏査が功を奏した回といってよいでせう。
新宿「希望社寄宿舎」での生活で体を壊した彼女は、僅か三月ばかりで母親と長兄の住まふ横浜へ引き取られてゆくのですが、夫君峠田頼吉との別居が子供たちとの別れともなった事情、夫婦間のことは分からぬながら、母親失格といふより、やはり手皮様が案ぜられる結核の疑ひなど、子供たちへの配慮もあったのかもしれません。
佳人の面影を伝へる肖像写真(『詩人時代』昭和8年1月号掲載)も紹介され、最後には「あるアヘン中毒の詩人」が詩人の「落魄の住家」に「足繁く通ふ」との謎の予告を以て終はる今回。次回はいよいよ「『椎の木』のころ」であります。詩中の描写を実生活に当て嵌める推論は、これまでのところまことに鮮やかに成功してゐますが、今回の『詩人時代』寄稿時代を最後に、独り身となった詩人はモダニズムの自由奔放な世界に傾斜してゆきます。韜晦もはげしくなれば、物証なき付会となり困難を極めませう。聞き書きとフィールドワークがものを云ふところ、それらを経糸と緯糸のやうに織り進んでゆく手皮様の手際が俟たれます。
『四季派学会会報』
あはせて國中治先生よりお送り頂きました『四季派学会会報』。文中の「ほめ殺し」には冷汗が出ました。先生何卒ご勘弁を(笑)。富田晴美様が刊行された 『躑躅の丘の少女』に係はり、私は仕事上「四季」掲載ページのコピーをお送りしただけで、尽力したなどとは赧顔の至りです。四季派学会に対しても、抒情詩 が学問対象となることに馴染めず、早々に会員の籍を抜いて「院外団」を決め込んでしまった、裏切り者であります。ひとこと訂正まで。
みなさま、まことにありがたうございます。ここにても厚くお礼を申し上げます。
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:
やす
:2010/07/15(木) 12:02:52
収集本報告など。
まづは頼山陽の詩集。幕末〜明治にかけて実に夥しく刊行されてゐると思ってゐましたが、調べてみるとほとんどが後藤松陰が校訂した『山陽詩鈔』初版のバリエーションのやうです。注を付して補強したものといっては、
『山陽詩註』燕石陳人註 ; 銕齋漫士増校 耕讀荘藏 明治2年, , 8冊, 19m
『山陽詩解』根津全孝解 ; 杉山鷄兒閲 永尾銀次郎 明治11年, , 3冊, 19cm
『山陽詩鈔集解』頼襄子成著 ; 三宅觀集解 佐々木惣四郎 明治14年, , 4冊, 26cm
の三種ほどになるらしい。
このうち「三宅觀」は美濃加納藩の三宅樅台の手になるもので、小原鉄心が序を、森春濤が跋を書いてゐます(書き下し準備中)。また「銕齋漫士」は若き日の富岡鉄齋であり、8冊中前半4冊に関係してゐるやうです。知らない人が多いのか、手の出る値段で求められましたが、もちろん註も漢文。おいそれと中身に手が出ぬことが情けない。
次に梁川星巌の詩集。といってもこちらはアンソロジー。『[元号]何十何家絶句』などといふ名前で、これまた実に夥しく刊行されてゐますが、今回入手したのは生前最後に企図された『近世名家詩鈔』。刊行された安政5年は、正に大獄の始まった年です。その辺の事情を、早稲田大学図書館所蔵の万延2年刊行「再版」の画像と並べて比較してみました。興味のある方は【濃山群峰 古典郷土詩の窓】梁川星巌の項より御覧ください。
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やす
:2010/07/16(金) 08:02:39
立原道造記念館の休館に寄す
立原道造記念館が今秋にも休館するさうです。さきに資産家の理事長が亡くなり財政的な後ろ楯を失った後、このたびまた館のシンボルであった堀多恵子氏を喪ったことが、一大痛惜事であったとともに、もはや赤字経営に見切りをつける良い潮時と判断されたのは、一面やむをえぬことのやうに思はれます。
ここが公の施設でないことは特筆に値すべきことでした。企画から運営まで一手に担ってこられた館長代理、宮本則子氏のボランティア精神に支へられて成り立ってゐた、私立の文学館です。私もそもそも出会ひのはじまりは、古本屋の目録から注文した2冊の詩集を脅かされてとりあげられた「事件」にあったのですが(過去ログ参照)、この十年余り、たびたび催し物の御案内や図録を頂いたり、展示の裏側も間近に拝見させて頂き、四季派詩人を主題に据える唯一の文学館として信頼もしてをりました。何の手落ちなく購入した詩集を私が古書店に返品したのも、氏が館の名前を出して説得されたからで、開館間もない頃のことでしたが、ここが社会的権威を保証する公器の文学館であることを信じてをりました。
館の広報サイト上では、掲載画像の解像度を故意に荒くしてゐることを聞きましたが、来館を念頭に置いた措置だったことでありませう。しかしながら経営難〜休館の話を聞けば複雑な気持です。今後は非営利の顕彰趣旨にたちかへり、貴重な資料のアーカイブ画像公開にもひろく協力されることを希望してやみません。さしづめ本サイト関連で申し上げるなら、館報第48号に紹介された「田中克己宛立原道造書簡」などは、この先どんな風に「お蔵入り」してしまふのか心配です。田中先生の教へ子だった方からの寄贈品の由ですが、私は現物の拝見はおろか、寄贈の事実も知らせて頂けませんでした。ホームページをチェックしなかった自分が悪いのですが、先日遅まきながらこの存在を知り、メールで問合せたところ、館報に掲載された封筒の写真さへ著作権を以て拙掲示板での紹介を丁重に断られた次第。けだし管理人の不徳が齎した結果なのでせうが、残念でなりません。
私設ホームページである本サイトも、扱ふ「ブツ」といっては画像とテキストだけでありますが、多くの人々から頂いた善意の情報の集積は、某かの形で次代に受け渡してゆく必要がありませう。他人事に思はれぬ気もし、今後のなりゆきを注視したいと思ひます。
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やす
:2010/07/18(日) 01:17:29
詩集『媽祖祭』
ひさしぶりにドキッとする装釘の詩集が本屋さんから送られてきました。戦前の台湾詩壇の第一人者にして、凝りに凝った造本にエキゾチックな己が詩篇を刻んで世に送り続け、コレクター泣かせの詩人とも呼ばれた西川満。その彼が内地詩壇へ放った、実質的な処女詩集といっていい『媽祖祭』(昭和十年)といふ稀覯本です。別刷宣伝文のなかで長文の激賞を寄せてゐるのは、どことなく詩語の畳みかけ方が似てゐる「椎の木」の詩友高祖保。そして詩人のみならず、アオイ書房、野田書房、版画荘などプライベートプレスの主人や、恩地孝四郎、川上澄生といった装幀家からの言葉を珍重してゐるのは、此の人らしいディレッタンチズムの表明でありませう。内容も装釘も台湾趣味をふんだんに盛り込んだ彼の高踏的なスタイルは、早稲田人脈の先輩、日夏耿之介や台北在住の矢野峰人に好意を以て迎へられるところとなり、家産にも支へられた文学活動は、戦後に至って「日本統治下台湾文芸」の功罪そのもののやうに論はれてゐるさうです。
育ちの良い耽美的な姿勢が非難されるのは、品性を欠く逆恨みによる政治的な復讐にすぎません。外地において地方主義の立場でペンを執り続けた彼のことを「所詮植民地主義に過ぎない」と片づけることが、いかに人情を弁へぬ非文学的態度であるかは、却って彼が、皇国詩人のレッテルを貼られた山川弘至の遺稿詩集『やまかは』のために草した至醇の跋文を読んだら分かるでありませう。軍務の寸暇を惜しんでやってきた後輩詩人を、戦後になって愛しむその人柄に混ぜ物はありますまい。
若き日の田中克己も、学生時代に敢行した台湾旅行を偲ばせる彼の詩集には、おそらく一目置いてゐたと思はれます。名にし負ふ稀覯詩集の眼福に浴したいと念ってゐたところ、このたびあっけなく手に入ってしまひました。「詩集目録index」に書影をupしましたので御覧ください。
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やす
:2010/07/23(金) 22:16:57
『桃の会だより』
山川京子様より、『桃の会だより』一号をお送りいただきました。『桃』終刊記念の歌会の様子を伝へる文章を読みながら、なにか終刊といふより、何周年かを記念する仕切り直しのやうにも思はれてならないことでした。懇親会もまた松本健一先生や保田與重郎未亡人典子様の来賓を得て盛会となりました由、お慶び申し上げます。
体裁を改めての機関紙創刊ともいふべき、このたびの『桃の会だより』ですが、活発な歌会報告を収めた内容に驚いてをります。このうへは、京子様にも御身体なにより御自愛頂いて、引き続き会の中心から目配りのゆきとどいた御指導をして頂かなくてはなりません。同人諸氏の希望を誌面から確と感じました。
また小山正見様よりも、某個人誌の回送を忝く致しました。連載が一冊にまとまるのが楽しみです。
ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
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やす
:2010/08/20(金) 00:47:59
熱血の詩人−桜岡孝治
詩集『東望』は店頭で見つけ中身を読んで買った。覚えをみると22年前のことである。表題の「柳―東望」といふ詩にしびれた。
柳 ―― 東望
一株の老柳あり
かたはら
土堤に程近き井の傍に立ち
東望のわが目を休ましむ
夏雲湧き立つ日も
吹雪枯枝を鳴らす時も
わが心その柳と共にあり
風に靡き
雨にうたれたり
春日 芽ぐみしその柳を
村人 来りて丁々と斧断せり
以来 東望するわが目は
穂麦の野をさまよひて
とどめあへず
(昭和十六年四月 河南省彰徳飛行場にて)
この詩人、只者でないと思ったら、伊東静雄の手紙に出てくるひとであることがわかったが、もとは太宰治に師事、そして山岸外史とは愛憎の深い関係にある後輩小説家であったこと、そして林富士馬・山川弘至とならんで『まほろば叢書』の著者の一人であったことなどは、長らく知らずにゐた。このたび『評伝・山岸外史』の著者、池内規行様より雑誌『北方人』14号をお送り頂き、この桜岡孝治といふ作家詩人の貴重なインタビューテープを起こした証言をもとに、「熱血詩人」のプロフィールや師であった太宰治・山岸外史にまつはる回想に接するを得た。山岸外史との絡みが激しく詳しく書かれてゐるのは、テープがもともと池内氏の山岸外史調査の過程で残されたものだからであらう。その成果は十二分に『評伝・山岸外史』のなかに活かされてゐる。今回、初耳に属することだけでなく、語り口から詩人の人となりまで窺はれる好内容となってゐるのは、肉声テープの威力であるとともに、やはりこの詩人と山岸外史が生半の関係でないからであるのは云ふまでもない。長尺のインタビューは、まさに文学史の裏側をかいま見る逸話に満ちたフィールドワークの賜物と思はれた。
太宰治が船橋でパピナールに毒され淪落の淵に沈んでゐた頃、文壇の先輩である井伏鱒二が「悪いとりまき連中がゐる」と言ってたいへん生活を心配してゐたといふ。結局精神病院に叩き込まれたり再婚させられたりすることになるのだが、指弾されてゐるのが具体的にいったい誰のことを指すのか、私は井伏のいふ所謂「とりまき連」からの証言を、その後の「鎌瀧時代」に密接だったコギト同人、長尾良が書いた『太宰治』といふ本しか読んだことがないので、よくわからなかった。それが主にこの桜岡孝治をはじめとする、太宰とともに山岸外史をも戴いてゐた後輩文学青年たちを指してのことであるらしい事が、まずこの聞き書きからは察せられるのであった。しかし物事は一方からの描写では(それも片方に圧倒的な発言力がある場合には)わからぬもので、当事者の不良文学青年側からの証言が、いたく真っ当なのを面白く思って聞いた(読んだ)のである。もっとも桜岡孝治といふひとは、礼儀に厳しい伊東静雄に助言を仰いだロマン派詩人でもあり、含羞すれど甘えは嫌ひで、戦争中は模範的軍人として(尤も模範でなくては当時本など刊行できまいが)、また戦後は養鶏事業を興し世俗的成功も収めてゐる。所謂頭でっかちの青二才文士とは範疇を異にする人である。むしろ10歳年長ながら、頭でっかち山岸先輩のド外れた非常識振りに苦言を呈しすぎ、たうとう絶縁破門された人物なのである。山岸夫人の評価も真っ向対立する二人として、連載前回の川添一郎に配するに、まことに好対照の人選とも思はれたことであった。
今回は、池内氏が『評伝・山岸外史』のなかで披露できなかった山岸外史に関するエピソードが、桜岡氏の口吻を以ってそのまま再現されてをり、貴重、といふか面白いといふか、ここまで書いて大丈夫か、でも事実なのだから仕方がない、といった感じの叙述でふんだんに楽しめる内容となってゐる。「青い花の会」で萩原葉子が髪の毛つかんでぶんなぐられた、ぶんなぐった男が山岸外史の家の玄関にふんぞり返って寝てゐる所をバケツの水浴びせかけてやったら夫人に怒られた、なんていふ武勇伝は、やはり「老いらくの恋」に関することだらうか。桜桃忌で禅林寺の鐘をガンガン突きまくるやうな荒事を敢へてやってのける山岸外史も、こればかりは「元寇」と呼んで記憶に焼きついてゐたのだといふ。桜岡氏はそんな彼について、
「政治性とか人におもねるところがない。書いたもので来いというのが真骨頂、良くいえば純粋、悪くいえば世渡りがへた。あれだけの人だから文学評論など、だれについてでも何についてでも書ける。政治論だって書ける。時流に外れるように外れるように、自分から仕向けていったところが多分にある。18p」
「火のような、空気の希薄な高い山で叫んでいるような、それこそ縄を帯にして荒野に呼ばわる者というところが多分にある20p」
と分析してゐる。いみじき理解者ならではの言葉だと思った。たしかに彼が政治(共産党)に求めたものは彼の非政治性によって全く裏切られたし、外史氏曰く人物評の面白さもちょっと比類がない。四季派の詩人たちとも関はりは深いが、エピソードから闊達に斬り込んで人物の本質を突いてゆく手法は、敢へて探すなら草野心平と双璧をなすものであらう。しかし縄を帯にして荒野に喚ばふといふことなら、桜岡氏いふところのモーゼやキリストより、むしろ屈原のやうな東洋の欝屈詩人の面影の方が近しい感じもする。
いったいに、所謂雑誌名としてでない現象としての「日本浪曼派」といふのは、政治的思想的には保田與重郎ひとりを血祭りにあげて象徴に据える一方で、文学論にひっかからないイメージの出所といふのは、多分にこの山岸外史の風貌から態度から、信条に殉じて老残に至るまで、一切駆引きのなかった奇特な人生の、「見栄え」や「居直り」に由るところが大きかったのではないかと私は思ってゐる。さうして若き日の彼から薫陶を受けた後輩たちが、「サムライ(無頼)文士」=「(井伏鱒二から見た)悪いとりまき連」といふイメージを引っ被ったまま、太宰治が雑誌「日本浪曼派」の同人だったことが経歴上、なにか一種の被害者だったやうなイメージを世間に植え付けるに大いに与ってゐる、不当に与ってゐる、そのやうにも思はれてならないのである。
桜岡氏が力説し、池内氏が提示してこられた「山岸外史を太宰治から切り離し、試しに彼を中心に眺めた時にひろがる文学史的眺望」から見えてくる景物といふのは、恐らく彼が書く人物評のやうに、書いたもので掛ってこいと云ひつつ人物本位の血のぬくもりを探し求めるやうな、いかにも熱血ロマン的評価に彩られたものとなるのであらう。文学史の裏側といふより、かいなでの文学史のすぐ下に、今は名前も埋もれようとしてゐる、かうした人達が渦巻く評価未定の人脈世界(ネットワーク)があること、それが文学の現場なんだよといふことに、このインタビューは気づかせてくれる。
「大柄な体格で黒縁めがねに色浅黒く、声高に話すエネルギッシュで情熱的」。盟友林富士馬とも何度か絶交状態になったといふが、ともに市井に隠れたる虎と呼んで差し支へないのだらう。むしろ江戸っ子気質で荒削りの人間味は、彼の上手を行ってゐるかもしれない。脇役たる証言者としてでなく、「東望」「夕陽の中の白い犬」を始めとする優れた戦争詩を書き得たこの詩人について、池内氏が補足して語るところに従って云へば、詩集の背景となった当時の思ひ出に、「毛六」といふやうな陰惨なエピソードが焼きついてゐることを知って、私は驚いた。
「すなわち河南省彰徳飛行場の格納庫の羽目板のトタン泥棒の毛六を捕えた桜岡上等兵は、盗んだトタンの代金のかわりに一カ月間、部隊の炊事場と風呂焚きの労働で放免する約束が中隊長の命令で破られ、銃剣術の刺突訓練の生きた標的として使われることを知り、中隊長に抗議にいくが無視され、毛六は結局殺されてしまう。27-28p」
戦後になって、一編の小説に書いてわだかまる思ひ出を吐き出した詩人であったが、このエピソード紹介の後に、「兵隊と水牛の仔」といふ愛らしい短い詩を引き、池内氏は今回の稿を擱筆してゐる。余白の関係もあったらうが、詩集中にはなほ「小盗児」のやうな、この事件に脚色を加へたかにみえる詩もあり、「石門をよぎりて」の一節
(前略)
ああ それよりも飛行場の
一隅のかのひともとの木の墓は
朝夕に花捧ぐるひとありやなし
申しおくらざれば草生ひて
見えわかずなるものを
わが心 なほ動かねど
汽車は早や飛び去りて
今とどろ沱河渡りぬ
沿線の棉の花 ほつほつ開き
みのりよき粟の穂は深く垂れ
わがこころまた深く垂れたり
(昭和16年8月4日京漢線車中にて)
などは、直裁にその「事件」を踏まへたものなのかもしれないと私は思った。引き続き軍務にあった当事者の表現の限界をいふより、むしろその当時に、こんなにしてでも記さずにはをれなかった詩人の心情を、あらためて詩集を繙きながら憶測を以って各所に認め得た次第である。詩集『東望』カバーの暗い鉄色の意匠(阿部合成装釘)は、そんな詩人の内省的な、孤独に向き合ふ姿を、一羽の鷲に象り映して出色のものと思はれる。サイト内に紹介してあるので一見されたい。
『北方人』14号 2010.8.1北方文学研究会発行 \400 問合せ先(kozo818kotani[アットマーク]yahoo.co.jp )
内容:随想/熱血の詩人−桜岡孝治さんのこと― 池内規行(8−28) ほか
【追伸】
池内様にはこの場にても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。
また詩人に宛てた伊東静雄や太宰治からの手紙の一部は、幸ひにも現在のところ玉英堂書店サイト内に写真で確認することができるやうです。
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やす
:2010/08/20(金) 12:26:00
扶桑書房古書目録(日本古書通信より)
以前予告のあった「近代詩集特集」。さる蔵書家さんからの一括売り建てが元になってゐるらしい。彼とは過去に貴重な詩集のやりとりをさせて頂いた。
目も眩むやうな書庫も拝見してゐるから、もし売りに出されたとして欲しい本は決まってゐるのだが、買へるだらうか。
目録を手にする時間も、手にしてみるだらう値段も、予想するだに恐ろしい(笑)。
とまれ、まずは注文、目録を。
また加藤仁様より貴重な地元詩誌『牧人 (1928.1多治見)』と『青騎士3号(1922.11名古屋)』をお送り頂きました。ともに戦前の石川県詩人、棚木一良氏旧蔵書とのこと、『青騎士』には彼の詩集『伎藝天女』の表題詩編の草稿と思しき書込みや紙片も残されてをりましたので合はせて公開いたします。
ここにても謹んで御礼を申し上げます。ありがたうございました。
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やす
:2010/08/31(火) 12:22:10
『江馬細香―化政期の女流詩人』
先週末の出来事より。私には悪いニュースと良いニュースがいつも一緒に齎される運命があるやうです。
まづは悪い方から。
●楽しみにしてゐた扶桑書房の「近代詩集特集」の古書目録ですが、「今回は送れない」旨の手紙とともに代金を返されてしまひました。恐ろしいものが届いたと思ひました。 文面によると、旧蔵者と私との関係を知ってゐるので、そして目録についてまだ見ぬうちから古書店の思惑を勝手に忖度してコメントしたことが、ダブルで障ったやうです。(半ばは宣伝にもなればと思って書いたことだったのですが。…だって出る前に宣伝すればライバルが増へるだけですからね。) 手紙通りなら、私は石神井書林に続きこの本屋さんとも縁が切れてしまっても仕方のない愚か者なのに違ひありません。近代文学詩書を殆ど買はなくなったのですから、古書店に対する「いい気なコメント」は今後、ますます自重したいと思ひます。
次にうれしい(ありがたい)話題を。
○相互リンクの小山正見さまの感泣亭ブログにて拙サイトの御紹介に与りました。ありがたうございました。
○門玲子氏の江馬細香評伝『江馬細香―化政期の女流詩人』、巻頭に吉川幸次郎の感想(書簡)を付して新装再刊されました。(写真は初版、再版、新装再刊)
戦前すでに、漢文に対する学者の態度が世代で異なってゐることを示す、序跋中の二ヶ所について少しだけ引かせて頂きます。伊藤信先生(明治20年生)より一回り以上若い吉川博士(明治37年生) 以降の世代から、斯界の研究は江戸時代以来の訓読と決別し、漢文を中国語として研究する態度がスタンダードになったやうです。けだし修身が義務教育科目だった時代に育ったエリート博士達にとって、訓読に染みついた儒教的精神主義には辟易すると同時に、日本から全くそれが喪はれるなんてことも、予想できなかったことでありませう。今にしてその大切さも見直されてゐますが、門玲子氏は30年前の執筆当時、自らを一介の主婦と謙遜されつつ、本場漢詩研究からも近世文学研究からも忘れられた伝統文学の大切さを、女流文学史の証しを立てるために力説、尽力され、なにより晩年の吉川博士がこれを嘉し、読後感に認め感嘆して下さったことに、万感の想ひを述べてをられます。
『江馬細香』読後(吉川幸次郎)より。
(前略)実は私は日本人の漢詩文は「紫の朱を奪う(※論語)」ものゆえ純粋の漢語に習わんには妨げなり、初学は一切目にするなという教育を京都大学にて受けました為に本邦儒先の業には一向に不案内。もっとも近ごろはよる年波と共に気が弱くなり伊物二氏(※伊藤仁斎と物徂来)に就きましては柳か述作もしましたが、幕末の諸賢に就ては山陽星巌をも含めて不相変の不勉強。(後略) ※やす注
跋文(門玲子)より。
(前略)次に私が熟読したのは、伊藤信著『細香と紅蘭』(昭和44年、矢橋龍吉発行)という私家版の一冊です。伊藤信という方は大正・昭和初期に大垣地方で国語・漢文の教師を勤めた人です。中国文学者というより、日本古来の漢学老の流れを汲む儒老というに相応しい存在です。その著書は、江馬細香や梁川星巌・紅蘭夫妻の業績を、郷土の先賢として深い敬意をもって祖述しております。記述は古風ですが、先人の業績・生き方に真正面から誠実に向き合っており、私はこの著書からどんなに多くのことを学んだか測りしれません。こうして私は江馬細香の世界に没入していきました。(後略)
○さて本日は田中克己先生(明治44年生)の生誕日、来年は愈々百周年です。さういへば東洋史を専攻し李白・杜甫・白楽天・蘇東坡について評伝を書かれた先生にも、江戸時代の儒者について考察した文章は遺されてゐません。お宅へ通ひつめてゐた当時、も少しこんな話をしてみたかったです…。
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やす
:2010/09/21(火) 22:17:38
良寛禅師坐像
今月は出張で新潟県の出雲崎へ立ち寄ることを得、そのとき良寛堂で伏し拝んだ禅師の座像、これとよく似た小さなブロンズを、なんと偶然にも帰還してから入手するといふ僥倖に与りました。今夕到着、抃舞雀躍。今の私には余りある慰めです。
けだし近代詩においては宮澤賢治、江戸漢詩においては良寛。この御両人は、大乗と小乗と立場は違へど御仏の所縁深く、地域や政治の垣根を越えて広く民衆に親しまれてゐる点では正に日本を代表する詩人と呼んでもよいかもしれません。今年は、3月に宿願だった『春と修羅』の初版本を手に入れ、守備範囲の狭い詩集コレクターとしては、寔にお粗末ながら「ささやかな頂き」に立った思ひを深くしたのですが、以後身辺もそれに呼応するやうに、収集熱から解き放たれるべく色々の運気が移動してゐる気配がするのは不思議です。
此度、箱書きもゆかしき良寛禅師の銅像を手に入れることができたのは、格別の御縁と信じるところです。それを肝に銘じ、昔の詩人の素懐を探るべく、さらなる精進に勤しみたい。皆様には長い目でお見守り頂けましたら幸甚です。感謝と合掌。 宮沢賢治の祥月命日にしるす
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やす
:2010/09/28(火) 19:48:57
『菱』171号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載12回
手皮小四郎様より『菱』171号をお送り頂きました。詩人荘原照子の伝記は昭和8年3月より始まる『椎の木』同人時代、いよいよモダニズム詩人として面目一新です。 山口から横浜に拠点を移した荘原家の背景と、生活の意義そのものが詩作へと先鋭化してゆく詩人の様子が描かれてゆくのですが、モダニズムといふトップモードにギアチェンジするにあたっては、まるで似つかはしくない自暴自棄と呼んでよいやうな「デスパレートな環境」がいくつか与ってゐたやうです。
まづは腸結核に侵され、子供たちとも引き離されて、妻でも母でもない一人の孤独な女として、母と二人きりで営むこととなった闘病生活。そしてそれに複雑に絡むこととなる「新しすぎる詩人達」との交流。また四六時中鳴り渡る製氷工場の騒音。・・・騒音なんて外的要因も、言ってしまへばそれまでですが、逃げ隠れできない状況下では神経も異様に研がれて鋭くなってゆくものです。私も田舎から上京して(今なら低周波といふのでせうが)隣や階下のモーター音に悩まされ、人からみたら些細なことですが、詩的人格形成においても無視できない影響を受けたのでとてもよく分かるのですが(笑)、騒音が自分を駆り立てたのか、詩を書くやうになったから過敏になったのかは今思ふと不明です。
さて、腸結核の「痛み止め」として劇薬を使用せざるを得ぬやうになった彼女のことを「万病の問屋」と呼び、母娘の生活を脅かしていった悪人物といふのが、前回「あるアヘン中毒の詩人」として謎を掛けられた、自らも壮絶な人生の真っ只中にゐた平野威馬雄であったと云ひます。さらに詩人の間では新即物主義の紹介で有名な笹沢美明も、穀潰しの高等遊民として、その立派な新築の洋館は「食い詰め詩人の溜り場」となってゐた由、そして図らずも彼らとの交流の因となったのが、一歳年長の先輩詩人、高柳奈美(後年の乾直恵夫人)であったとのことで、詩人の曰く、
詩人仲間からも、誰があの放蕩詩人に荘原を引き合わせたかと問題になり、高柳が「荘原さんと笹沢さんが親しくなって噂が立つようになったらいけないと思い、平野さんを紹介した」・・・「責任を取って詩を書くのを止める」と言うので、その必要はないと答えた・・・。
聞き書きといふ一方的な証言を、手皮さんは「どこがホントで作り話か判然しないことを語って僕を煙に巻いていた。」などと、度々勘ぐったり意地悪く突き放してみせることで、出来る限りの記述の偏りを戒めるべく努めてはゐますが、もう十分ショッキングです。それでも私にすれば、
後に、本当は『四季』に入りたかった、『四季』からも誘われた、と浮ついた物言いをしたことがあった。
なんていふ条りには(当然ですが)うれしい驚きが走りました。当時マダムブランシュの同人でもあった田中克己が、『四季』の編集同人となった折にでも、勧誘の打診がなされた可能性は充分あり得たことですから。戦前の詩人の交流証言には驚くことが多いですが、今回の取り合はせは初耳でなんだか新鮮です。
これまでの叙述の進め方だった、詩篇からメタファーとしての生活の影を炙り出してゆく手法が、ここにきて難しくなってきたのは、韜晦を常とするモダニズム手法の結果として仕方ないことかもしれません。その分、生活の糧を頼った長兄の周辺に対する綿密な調査を行ひ、聞き書きの言ひなりになることを警戒し、絶えず平行して背景が固められゐます。次回も引き続いて『椎の木』同人時代が語られる予定。何卒ご健筆をお祈り申し上げますとともに、ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。
『菱』171号 2010.10.1発行 500円
問合せ 〒680-0061 鳥取県鳥取市立川町4-207 小寺様方 詩誌「菱」の会
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やす
:2010/10/07(木) 21:50:01
『朔』169号・『季』93号
四季派学会大会として杉山平一先生のシンポジウムが今秋、大谷大学で行はれるらしい。先日ちょうど杉山先生にまつはる思ひ出を八戸の同人誌『朔』に寄稿させて頂いたばかりだったので(次号刊行後にupします)、折も折、慶賀に堪へないことと喜んでゐる。
初めてお会ひしたのは四半世紀ちかく前、先生には既に古稀を越えてをられた計算である。当時歴史的仮名遣ひで詩を書く私のことを老人だと思って吃驚なさったらしい。同人誌の先輩だった舟山逸子さんから、あなたも青年というより少年の印象でしたから、といふ感想を頂き、実年齢以上のギャップがさらにあったこと、まことに狭量だったに違ひない吾が詩的生活の実態を後悔のなかに懐かしんだ。
まもなく御歳96歳の先生には、車椅子を使用されるやうになったと聞くが、出席された会の発表をメモに取り、即座に要旨をまとめて総評を賜ふなど、矍鑠たる面目は今なほ健在の由。思ひ出話を良い気になって書き記したことに冷汗を流してゐる。直接拝謁してお詫び申し上げなくてはならないが、催しの正式な日時と内容が確定してをらず、職場の行事と重なることを心配してゐる。
圓子様よりお送り頂いた『朔』169号には、他にも、詩人小山正孝を回想する令室常子様の連載が今回も快調である。こちらは私とは反対に、読む人をして驚歎せしむる若々しい心映えと御歳とのギャップに、やっぱり羨望を禁じ得ない。「やっぱり羨望」と云ったのは、言ふまでもない、自分の場合は四季派の殻に閉ぢこもり偏狭一徹で押し通すことができた恐いもの知らずの若さに対して、である。
また手紙とは別に舟山様からは、現在の『季』(93号)もお送り頂いてゐる。杉山先生の最初の教へ子でいらした備前芳子さんの追悼号として、先生を始めほとんどの同人から、生涯にたった一冊『缺席』といふ名の詩集を遺した詩人の人となりに懐旧の情が寄せられた。詩人冥利・同人冥利を感ずるとともに、さすがアタマ員だけ擁してゐる雑誌の多くとは一線を画す、温雅にして守るところ固い、四季派直系の同人誌の面目と意義に出会った気がして心が洗はれた。
ともに遅まきながら茲におきましても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
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:
やす
:2010/10/09(土) 20:08:31
『桃の会だより』 2号
山川京子様主宰の桃の会より本日『桃の会だより』二号(A4版11p)をお送り頂きました。末尾の後藤左右吉氏による岐阜新聞記事(3/8「岐阜文芸」)、図書館員であるにも拘らず迂闊にも見逃してをりました。
「一生涯、山川姓を貫き、若き日の夫の督励をいちずに守り続けた彼女に、私は戦中戦後を清くたくましく行きぬいた日本女性の一典型を見るようで敬服している」
といふ一節、さうして今号の巻頭に掲げられた十首のうちの一
「身は老いて心をさなくとほき日の面影若き人おもひをり」
といふ歌に感じ入ってをります。
思ふに現役の文学者で私が尊敬申し上げるのは、杉山平一、山川京子のお二人だけとなりました。伝統を新たにする戦前の抒情を、敗戦後に嘗め来った辛酸の痕と共に、両つながら身に帯びられて、今日どんなちょっとした発言にも、おのづからの重みが感じられる懐かしいお人柄…といふのは、もうこの御二方よりほか思ひ浮かばない。これははっきり申し上げて置くのがいいと思ひ、記します。
とりいそぎここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
506
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やす
:2010/10/16(土) 20:11:54
自由書房「ふるほん書店」
岐阜の大手新刊本屋さん、自由書房の旧本店の店舗2階が、古本部として活用が始まったと聞いて、昨日「ふるほん書店」(そのまんまのネーミング。笑)に行って参りました。
午前中に行ったのですが、すでに地元古書店主が本を抱へて精算中…。自由書房さんはわが職場図書館の納入業者でもあり、学科や授業関連の本を漁ってきましたが30冊でなんと5000円。所謂「玄い本」は尠かったのですが、ブックオフよりはるかに品揃へは充実してゐて面白い。「あんまり整理しすぎず、本の回転も速くして、“何があるのかわからない感”を大切にしたい」とは、深刻な空洞化に悩める柳ケ瀬の活性化に一肌脱いだ担当氏の弁。
もちろん自分にも『酔古堂剣掃を読む』といふカセットテープの4本セット(定価\20,000)を\1,300で購入しました♪ おそらくは勝ち組経営者辺りを当て込んだ高額企画ものでせうが、安岡正篤といふ人はこんな声してをられたんですね。
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:2010/10/16(土) 21:25:26
『漢文法基礎』復刊
序でに漢文関係の話題ですが、かつてZ会から「らしからぬ」受験参考書として刊行され、本屋の店頭に並ぶこともなく語り継がれてきた『漢文法基礎』といふ名著。その後ながらく増刷されず、一時は3万円余の古書価がついてゐた稀覯本でしたが、このたび匿名だった著者の本名を明かし、講談社学術文庫からたうとう復刊されました。出版社を変へての復刊にあたっては、内容も大幅に改訂された由。自分用にも購入しましたが、けだしこの度の再刊は、受験生のためといふより、おそらく私のやうな生涯教育として古典にいそしみたい中高年の需要が多からうと思ふのであります。
「さて、漢文という科目は中国古典を読む学科ではない。ここのところをまちがえないようにしてほしい。あくまでも、過去の日本人が、中国の古典をどのように解釈し、どのように読んできたかということの追体験なのである 42p」
なるほど、さうなんですね。昨今、日中間の摩擦が問題になってゐますが、つまりは漢文なんかがもっと身近になって、私たちのご先祖知識人がいったいどこからなにを受容し、咀嚼して、この誇るべき繊細な感受性と礼節とを兼ね備へた日本の国民性を培ひ、近代化のお膳立てが成ったのかといふこと、さういふ歴史を忘れ果てた末造に現在の自分たちが傲り立ってゐるといふこと。その自覚から出発しないと、「戦略的互恵関係」なんて小賢しい裏心を以てしては「良き隣人」なんかになれっこない、さう思ふ訳であります(脱線)。
ことほど左様に、江戸時代の儒者の見解も引いて説明される憂国の参考書ですが(うそ。笑)、本書全体の三分の一強を占める「助字編」の講義には特段の裨益を蒙ってをります。初版とならべて表現改訂の痕を詮索するのも楽しいかもしれませんね。
『漢文法基礎』 講談社学術文庫 2010.10.12刊行
二畳庵主人(加地 伸行)著 : 1,733円 / 603p ISBN : 978-4-06-292018-6
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やす
:2010/10/29(金) 09:41:45
『愛しあふ男女』復刻版
小山正見様より予告のありました、小山正孝詩集『愛し合ふ男女』復刻版の御寄贈に与りました。
詩人にこの一冊のあること、詩集収集家の端くれとしてもちろん知ってゐたものの、私の守備範囲から外れる戦後の著作で、古書価が高額であること、そしてその原因となってゐる、挿画を描いた駒井哲郎の世界が現代美術音痴の私には理解できないこと、を以て、稀覯で著名なこの本を探し回ったことはなかったのでした。(余談ながら彌生書房の選詩集シリーズなど版型も組字も実に好ましい叢書だったので、このひとの手になる戦後民主主義的(?)な意匠には必ず手作りのカバーを被せたものでした 笑)。
しかしいま改めて手にしてみると、サイズこそ縮小されたものの、歴史的仮名遣ひの字面をそのまま復刻。駒井氏の挿画も、19世紀ロマン派画家が好んで書いたやうな大木の写生であり、安堵したのです (笑)。書肆ユリイカの面目を施す一冊といってよいのでせう。うはさ通りノンブルがなく、1ページに一篇づつタイトルのないソネットが印刷され、おまけに無綴ですから、なるほど一度ばらけてしまへば順番がわからなくなる道理です。
尤も爺臭くなった最近の自分には、気恥づかしい位のムードが漂ふ詩篇もあり、熱い愛の描写からことさら目をそむけ、さびしい心象描写の部分部分に、戦前の四季派らしい「手触り」を確かめやうとする自分が居て苦笑する次第。原本がもうひとまはり大きな楽譜サイズで刊行されたことを思ひ合はわせと、いつしか立原道造のことも念頭にのぼってくるのでした。
ここにても御礼を申し述べます。寔にありがたうございました。
『愛しあふ男女』復刻版 小山正孝詩 駒井哲郎画 [16枚](図版共) ; 29.7cm \非売
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やす
:2010/10/29(金) 22:45:07
連絡
メインパソコン復旧。
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やす
:2010/11/04(木) 23:02:42
有時文庫
近所に古くからあった古本屋さんの有時文庫の店舗が、ある日突然あとかたもなく消え去りました…。
昨今の古書価暴落にあって、仕入本がお店中に積み上がり、終ひにはシャッター外に置き晒しになるやうになったのを見て傍目に心配してはをりましたが、もう一軒ある鯨書房と比べ、戦前資料への目配りやインターネットへの対応が遅れたのかもしれません。尤も近くに学校もあるのに、中高生が古本屋でもじもじするなんて姿も見られなくなりましたしね…。さきにレポートした新刊本屋の古本店進出と云ひ、諸行無常の世の中であります。
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やす
:2010/11/07(日) 22:07:11
曽根崎保太郎詩集『戦場通信』
むかし自分の好きな詩人をみつけ出すツールとして利用したのは、『日本現代詩大系』(河出書房)、『日本詩人全集』(創元文庫)などのアンソロジーのほか、詩人たちが老境に入り自らの仕事をまとめるつもりで、(おそらく費用は自前で)出された選集叢書の類ひがあった。そのひとつに宝文館出版の『昭和詩大系』シリーズもあったが、戦後現代詩に交じって詩歴の古い詩人たちの、貴重な初期の作物を合はせ収めたタイトルも見つかることがあり、私は古本屋でこの(北園克衞装丁の)本を見つけるたび、一冊一冊中身を確めながら、自分の探求リストに新しく好きな詩人と詩集を加へたりしてゐた。
なかでも『曽根崎保太郎詩集』が、このシリーズ一番の「めっけもの」であったのだが、その理由は『日本現代詩大系』に紹介のない詩人だったから、といふだけでは当たらない。詩誌「新領土」に拠った彼の処女詩集『戦場通信』は、抒情系モダニズムとは呼べない戦争詩集であり、且つ手法も近藤東や志村辰夫と同様、生硬なカタカナ表記の殻を被った代物である。と同時に、皮肉を封じた韜晦ぶりにより、軍人会館で印刷され陸軍省検閲済を堂々と拝領して刊行されるに至った曲者でもある。ために刊行直後、詩友である酒井正平は「新領土」誌上の書評のなかで、作品が現実批判に向はぬ「じれったさ」を表明したし(43号)、皮肉屋の近藤東は初対面の後輩が颯爽たる現役将校であることに驚き、その印象に「ヒゲをつけてゐた」ことを書き添へることを忘れず、「最も美しい近代的戦争詩集」とこれを総括、揶揄なのか賞讃なのか敗北主義的言辞なのかよくわからぬ感想を書き送ってゐる(44号)。そもそもこの詩集、「新領土」同人らしからぬ装丁や、皇紀を用ゐた周到さ、まではともかく、リアリズムの挿画を配したのは友人の協力を得ての事であり、内容を穿って解釈するまでもなく、ことはもはや韜晦に類する仕儀には思はれぬ。つまりは戦後、左派アプレゲール詩人たちによる「戦犯吊しあげ審判」に於いても、判断留保の著作物として扱はれたのではなかったかと私には推察されるのである。
この事情は、けだし宝文館版アンソロジーの後半に盛られてゐる、戦後に書かれた作品に至っても決着されなかったのではないだらうか。といふのは、復員後の詩人は、戦争を題材とすることを止め、カタカナで書くことを放棄するとともに、戦後の喧騒からも身を退けてしまった。謂ふところ如何にも甲州らしい生業である葡萄園の「園丁」に身をやつし、故郷を舞台にした、自然が色濃く影を落とす作品群によって詩的熟成を達成していったやうに思はれるのである。それらが単行本にまとめられる機会はなく、二冊目の詩集『灰色の体質』には、タイトル通りの不機嫌な表情のものばかりが故意に集められた。詩と詩人に社会的な批評精神を求めてゐた中央詩壇のオピニオンリーダー達にどれだけ訴求したのかは不明である。
同じく東京から帰郷し農場経営を事としたモダニズム詩人に、私の大好きな渡邊修三がある。やがて四季派的抒情へと旋回(後退?)していった彼と比べれば、若き日に仰いだエスプリヌーボーのオピニオンリーダー春山行夫が愛した「園丁」といふ詩語が醸し出すポエジーを、そのまま実生活上に仮構してみせ作品を書き続けてきた曽根崎保太郎こそ、座標をぶれさすことのなかったモダニズムの忠実な使徒と呼び得る気がする。さうして批評精神をもちながら戦陣の責任者となり、地方に隠栖せざるを得なかった詩人の宿命を思ふのである。
私は『戦場通信』に描かれた彼自身の戦争=厳粛な現場にあって凝晶するぎりぎりの知性、と呼ぶべきものに瞠目せざるを得なかった。同時に自然のなかに人間の営みを緩うした表情をみせてくれる、「園丁詩法」「田園詩」と名付けられた後年の作品群、その良質な戦前モダニズムを継承した抒情詩に対しては、より多くの親近を覚えた。戦前と戦後の評価が反転するなど、戦後詩嫌ひの自分にあっては珍しく、かつ刊行された原質としての詩集にあくまで拘る吾が偏屈に照らし合はせても極めて罕な事に類するが、今回読み返してみてあらためてさう感じたのであった。昭和52年に刊行された『曽根崎保太郎詩集』は、現在みつけやすくそんなに高くもない。詩人が到着した北園克衛や渡辺修三を髣髴させる田園モダニズムの世界については、どうか直接本を手に取りあたって頂きたい。「あとがき」ではさらに、「新シイ村」「一匙の花粉」「郷愁」と名付けられた、『戦場通信』以前の、真の意味でのデビュー作品群についても触れられてゐる。同じくカタカナ書きの詩人だった近藤東について発掘されたやうに、同様の初期未刊新資料の公開といった望蜀は今後のぞみ得るであらうか。
さて、此度その詩的出発を詩壇的には躓かせたかもしれない(?)彼の最初の詩集、限定たった120部といふ稀覯本である『戦場通信』を偶然入手することを得た。ここにテキストでは読むことのできた詩集の原本を、時代を証言する貴重な資料として、画像で公開し当時の雰囲気を感じ取ってもらはうと考へた。 公開に当たっては著作権者の了解を得るべく照会中であり、大方にも情報を募る次第である。朗報を待ちたい。 (明日upします。)
【後日記 2010.11.14】
詩人が平成9年に逝去されてゐたこと、画像公開の許可を拝承するとともに御遺族より御連絡を頂きました。詩人の御冥福をお祈り申し上げますとともに慎んで茲に記します。
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やす
:2010/11/14(日) 22:30:29
腹有詩書氣自華
わが書斎「黄巒書屋」へ詩集気狂ひに相応しい新しい額が到着。揮毫は明治官界の能筆家として名を馳せた金井金洞、後藤松陰に学を授かった人です。とまれ何とも嬉しい文句ではありませんか♪。
もとは治平元年(1064年)蘇軾29歳の冬、地方官見習ひの任期が終はり汴京(べんけい:開封)に帰る途次、長安に立ち寄った時につくられたとされる「和董傳留別」といふ詩の一節で、不遇の旧友の奮起を願った送別の辞なんださうです。ですから「詩書」とはもちろん四書五経のことなんですが、近代詩集の書庫に掲げてもいい感じです(大ばか者です)。原詩を掲げます。
和董傳留別 董伝の留別する(別れを告げる[詩])に和す
麤繒大布裹生涯,粗繒(そそう:荒絹)大布[粗末な成り]、生涯を裹(つつ)むも
腹有詩書氣自華。腹に詩書あれば気は自ら華やぐ
厭伴老儒烹瓠葉,老儒[老師]に伴ひ、瓠葉(こよう)を烹る[隠遁雌伏する:詩経]ことに厭(あ)き
強隨舉子踏槐花。強いて擧子[科挙の受験生]に随ひ、槐花を踏む[槐が咲く長安へ出て勉強した]
嚢空不辨尋春馬,嚢[財布]空しく、弁ぜず[(靴も買へなかった)虞玩之のやうに買へない]、春馬を尋ぬるも [孟郊のやうに「春風得意馬蹄疾:]とはゆかず、つまり落第して」
眼亂行看擇婿車。眼は乱して、行くゆく壻を擇ぶ車を看る[合格者の所へ婿入希望の車がおしかけるのを見る目は泳いだことだらう]
得意猶堪誇世俗,[しかし]意を得れば 猶ほ世俗に誇るに堪へん
詔黄新濕字如鴉。詔黄[黄麻紙に詔書を起草すること]新たに濕(うるほ)ひ、字は鴉の如き[黒々と立派]ならん
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やす
:2010/11/15(月) 13:03:00
daily-sumus
リンク集に、博覧する好奇心を以て古本情報の日録を更新してをられる林哲夫様の著名なブログ「daily-sumus デイリー・スムース」を追加させて頂きました。江戸時代には抽き書きを以て随筆と呼ぶ慣はしがありましたが、「詩・書・画」の三絶ならぬ「古書・画・装釘」三絶に遊べる古本達人の浩瀚な読書録は、すなはち現代の随筆に相違ありません。ブログを通して感じられるのは、(夙に『ちくま』表紙のお仕事にて思ったことですが)、「本」が写真で撮られたり描かれたりすることによって、著者・装釘家の思惑を越へ、「その一冊が経てきた歴史」に敬意が払はれたオブジェに化してゆくといふ魔法、その過程と意味とをまざまざと目の当たりにしたといふことでした。
このたびのきっかけとなりました蔵書画像の転載許可も有難く、伏して感謝申し上げます。
ちなみに以下に拝借したのは、かつて紹介した「我が愛する版型詩集」のルーツであるらしい、フランスはラ・シレーヌ社刊行本の書影。「現代の芸術と批評叢書」はここからヒントを得たんですかね。何の本かわかりませんが検索したら似たやうな当時の書影がヒットしてきたので合せてupします。
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やす
:2010/11/19(金) 12:42:17
頼山陽の掛軸
日本の漢詩のトップスターといへば御存知、山陽頼襄(のぼる)先生。村瀬藤城、太乙、細香、柳溪、松陰、百峰と、主だった美濃漢詩人たちの師でもあります。かつてはその書が頗る珍重され、掛軸一本で「家が一軒建つ」と云はれた時代もあったらしい。ですから当然にせものも多い、といふか多くが贋作だと聞きます。
もっとも今となっては好事家の代替はりに伴ひ、価値は急落。頼山陽のみならず、日本書画界、特に「書」の値段は地に落ちてしまったといってもいいかもしれません。旧い母屋の取壊しに際して「ざくざく出てくる美術品」の暴落のさまは古本の比ではなく、しかも本とは異なり価値が分からぬまま「真贋いりみだれて」放出されるといふところが恐ろしい。そもそもなに書いてあるか読める人が居らん訳です。「代替はり」とは云ひましたが、それはつまり漢学の素養がある旧家の御隠居のたしなみが孫子(まごこ)に継承されてといふことではなく、二束三文で売り払はれたのちに、縁もゆかりもない私のやうな貧乏人のコレクションに収まるといふことであって、またその条件として、閉鎖的な骨董屋の顧客市場が、豊富にオークション出品されるインターネットの市場へとひらかれ、環境が整備されたことをも意味してゐます。鑑定の権威はオークション上に成立しません。だからこそ「蔵出しのうぶ物」を、己れの責任において落札するワクワク感があるといふこともできるのでせう。
そんなこんなで夥しく出品されてゐる「頼山陽」でありますが、筆札を鑑定玩味する審美眼は勿論のこと、確(しか)とした印譜も資金も持ちあはせのない私のことですから、落ちたといへどそこそこには競り上がる代物を、画像で判断して買ひ取る勇気がない。テレビの鑑定番組を観てゐると、実に精巧な印刷ものもあるとのことであります。
山陽の真蹟については、一昨年すでに「自筆の法帖」といふものを、牧百峰の跋文を信じて購入してゐます。ただ自分勝手に真蹟と思ってゐるだけで、肝心の落款がなかったため競争者も少なかったのでした。或ひはつまらぬ贋物をつかむよりはと、予めそれと銘打ってある素性の明らかな復刻ものを手に入れて喜んでゐた、のが去年の話。
そんな私が今回色気を出してたうとう「掛軸」に手を出してしまひました。シミも折れもあったためか、敬遠して誰からも入札がなかったところを、「内容から判断して」思ひ切って初値で落札してしまったのですが、けだし贋物作者からすれば「内容から判断されるべく」本物らしく拵へるのは当たり前のことであり、詳しい印譜に照らせば真っ赤な贋作だったのかもしれません。
で、昨晩届いたこの掛軸ですが、本人いたく喜んでをりますゆゑ、何卒冷水を浴びせるやうな証拠のコメントは御控へ頂きたく(笑)、興味のある方だけご覧ください。
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やす
:2010/11/25(木) 22:46:21
「四季派学会会報」 / 「感泣亭秋報」
國中治さまより「四季派学会会報(平成22年冬号)」をお送り頂きました。12pの会報ですが「立原道造特集」を設け、記念館閉館にともなふ残念さ、含むところも感じられる皆さんのコメントを興味深く拝読しました。
「収蔵者が代わるということは、展示場所や展示方法が変わるだけでなく、展示品そのものが替わるということだ。(國中治)」
また小山正見さまよりは「感泣亭秋報」第5号の寄贈を忝くいたしました。先達てお送り頂いた小山正孝の稀覯詩集『愛しあふ男女』の非売復刻版(152部限定)に寄せて、感度不足の御礼しか申し上げられず気になってをりましたところ、今号巻頭には多くの犀利にして温かい書評がおさめてあるのを拝見し、あらためて勉強させられました。といふか、恋愛詩を勉強しないとわからないやうでは四季派失格であります。傘寿・卒寿を迎へられた先輩方がものされる強記溌溂の文章にも圧倒され、転載された吾が私信のぼんくら加減には、ため息をつくばかり。
しかも今回『愛しあふ男女』の復刻記念一色の特集号となるかと思ひきや、前号に続く回想の寄稿をはじめ、あたらしく伝記的追跡の連載も二本並んで、今までで一番濃い内容になってゐるのではないでせうか。
渡辺俊夫氏の「立原道造を偲ぶ会当時のこと(続)」のなかでは、詩人が鈴木亨氏と麦書房の堀内達夫氏とともに尽力したといふことが記され、一方「四季派学会会報」では錦織政晴氏の文章に、記念館の立ち上げについては逆に二者が杉浦明平氏とともに躊躇の側に立ってゐたことが指摘されてゐましたから、立原道造の顕彰をめぐって識者の立場が二様にあったことを初めて知ったのでした。
後記の最後には、正見様による「小山譚水の「盆景」の、土の部分を(土壌学の権威となった)兄正忠が、空の部分を正孝が引き継いだと言えないこともない」 といふ評言が置かれてゐました。いみじき発想に感じ入ったことです。
まだ全てに目を通してゐませんが、とりいそぎの御礼をここにても認めます。ありがたうございました。
さて、四季派学会冬季大会のお知らせ、もしや流れてしまったのかとも危惧してをりましたが以下のとほり、今週末に行はれる由。先日96歳を迎へられた杉山平一先生御当人をお呼びしてのシンポジウム、楽しみです。
平成22年度四季派学会冬季大会
日時平成22年11月27日(土)13:30
大谷大学京都本部キャンパス1号館4階1405教室
【講 演】 「杉山平一 近代を現代に繋ぐ」 詩人 安水稔和氏
【シンポジウム 杉山平一を読む】
司会 愛知大学短期大学部 安 智史氏
《基調報告》
「杉山平一の文芸活動の全体的で構造的な把握」 「PO」編集長 佐古祐二氏
「『ぜぴゅろす』と一篇の詩「桜」」 自在舎主宰 桜井節氏
「杉山平一の「詩的小説」を読む」 大谷大学 國中 治氏
「感泣亭秋報」(五) 目次 (2010年11月)
詩 愛しあふ男女 アルバム「愛しあふ男女」より 小山正孝2p
恋愛詩のパラドックス 小山正孝第三詩集『愛しあふ男女』を読む 高橋博夫4p
逃走の行方 詩集『愛しあふ男女』のために 渡邊啓史6p
光の輸もとどまつて 西垣脩(再録)18p
小山正孝の詩世界(4) 近藤晴彦22p
感泣亭通信【感泣亭秋報への返信】(到着順) 山崎剛太郎24p 神田重幸24p 木村和24p 中嶋康博25p 組橋俊郎25p 萩原康吉26p 布川鴇26p 岩田[日明]26p 馬場晴世27p 高橋博夫27p 高橋修28p
小山さんが貫いていたもの 伊勢山峻30p
回想の小山正孝
関東短大時代の小山先生(続) 新井悌介32p
小山さんの激怒 岩田[日明]33p
デッサン・感泣亭 宮崎豊35p
詩
黒一色の部屋の中では 大坂宏子36p
「夕方の渋谷」オマージュ 森永かず子38p
街 里中智沙40p
「立原道造を偲ぶ会」当時のこと(続) 渡邊俊夫42p
昭和二十年代の小山正孝(1) 小山−杉浦往復書簡から 若杉美智子48p
小山正孝伝記への試み(1) 出生から高校入学まで 南雲政之50p
感泣亭アーカイヴズ便り (小山正見)54p
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やす
:2010/11/29(月) 22:12:58
四季派学会冬季大会 シンポジウム杉山平一を読む
週末に開催された四季派学会冬季大会、詩人杉山平一の初のシンポジウムに、先生自らが同席されるといふことで、私も万障繰り合はせて推参しました。先生の謦咳に接して大満足のところ、國中治さん舟山逸子さんをはじめ諸先輩とも久闊を叙するを得、実に楽しく有意義な一日を過ごすことができました。
シンポジウムでの発表は、身に引き寄せた親愛に溢るる読みを披露された桜井節氏の言葉に聞き入り、気鋭の國中教授からは研究の糸口となるやうなキーワードがいくつも提示され、杉山先生御本人を前にしての臆せぬ論旨には衆目の注視が集まりました。
ただ少なかった参加者が、折角の機会に杉山先生の周りに集まらないのは、恐縮してゐるのか、私は最後にはちゃっかり隣に座り、後悔せぬやう発言までしましたけどね、学会だからでせうか。不思議でした。
さうしてお持ちした『夜学生』にも署名を頂きました。思へば初めてお会ひした折にサインして頂いた本も『夜学生』でしたが、当時はカバー欠・線引きの並本。この度は失礼のない本で臨みましたが、先生「昭和」と書きさうになられてわたくし狼狽(笑)。これもまたよい記念となりました。講演ほか当日の様子はいづれ論集に収められることでせう。
役員の皆様方にはお疲れ様でした。ありがたうございました。
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:
やす
:2010/11/29(月) 22:53:15
山陽、星巌両先生掃苔記
さて当日は、朝一番の列車に駆け込み午前中に入洛、宿願だった梁川星巌先生夫妻を南禅寺天授庵に憑弔、点々とした住居跡をうろつき回り、四季派学会の散会の後は、古本先輩宅に一泊して、翌日曜日もふたたび長楽寺に頼山陽のお墓を訪ねて帰ってきました。山陽先生の塋域には頼三樹、牧百峰、藤井竹外、山田翠雨、児玉旗山といった錚々たる後進の墓碑もあり、また天授庵でも星巌先生の墓が簡単には分からず探し回ったお陰で、山中信天翁夫妻のお墓にばったり行きあたり吃驚したことです。といふか、そこら中が知らない「○○先生之墓」だらけなんですから(笑)。『漢文学者総覧』でも持ってゐれば、いくらでも時間つぶしができさうな感じです。最終回を迎へたドラマ「龍馬伝」の人気も重なったか、紅葉シーズンの東山は大変な賑はひだったのですが、維新の道筋に詩の灯火を掲げた文人達のお墓には訪れるひともなく、観光客とは無縁の閑散さが却ってよかったです。
墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。山陽墓所はわかりやすいですが、星巌翁の奥津城に案内板はありません。新しい顕彰碑が据えられた横井小楠(沼山)の墓の隣にあります。
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:
やす
:2010/12/12(日) 06:27:53
『左川ちか全詩集』新版
さて昨年『山中富美子詩集抄』を世に問うて詩壇の話題をさらった森開社から、今年『左川ちか全詩集』の新版が、実に27年ぶりに刊行されました。内容の充実を図る一方で、愛蔵に相応しい旧版に比して軽装とすることで価格を抑へ、また別種の意が注がれてゐるやうです。個人的には贅沢を極めた旧版が今回の改訂を以て無価値にならぬやうな、編集上の配慮を同時に感じることができた点が嬉しかったのですが、久しき絶版に対する愛好家の渇望を癒すべく、限定500冊は不取敢一般書店に並べられることはなく直接購読制で売り捌かれるといふことです。その一方で、図書館員の私としては今度こそ多くの基幹公共図書館には所蔵して頂きたいとも思ってをります。言はずもがなのことですが、この詩人こそ、本を案外買はない人種であるところの書き手としての詩人、特に現代の若い表現者に対して、今なほ古びぬ、スタイリッシュな訴求力をもって迎へられるものと信じるからであります。
もとより彼女に限らず、モダニズム詩に限って「女流」などといふジャンルは不要でありませう。むしろ戦前の日本に於いては、少々乱暴な物言ひが許されるなら、「モダニズム」といふ概念自体が「ロマン派」と対峙したところの女性的概念のやうにも私は思ってゐます。その最良の感性といふのは、理論など持たぬ優れた若い女性たちの一握りによって、いつも軽々と表現されてきたのだと、そのやうに考へてゐるわけです。これはモダニズムを抒情の方便としか考へられぬ私ならではの偏見で、同様に外国では真逆のこと――「モダニズム」を男性的概念、「ロマン派」を女性的概念と思ひなして面白がってゐるのですが、果たしてそんな自分が彼女の詩をどこまで理解してゐるのか、といふより感じることができてゐるのか、といふ段になると、それは旧版全詩集に収められた「椎の木」追悼録で田中克己先生が書いてる以上に、性差にとらはれた、甚だ心許ない解釈に落ちることを白状せぬわけにはいかないのかもしれません。
新版刊行に寄せた一言まで。詳しい書誌と購入方法はこちらの「螺旋の器」 ブログにて。
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519
:
やす
:2010/12/13(月) 09:36:50
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」
林哲夫様より、この11月に終刊した文芸リトルマガジン「spin:スピン」1-8<2007.2-2010.11>を、なんと全8冊の揃ひで御恵投に与りました。ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。
各号に連載された「淀野隆三日記を読む」に早速目を通してをりますが、ひとへに林様の資料翻刻に係る労力が偲ばれます。自分もかつて師の創作日記に対し同じい暴露行為(?)に及んだことがあり、林様が47冊ものノートを前にした驚きと、これを活字に起こしつつ実感されたであらう、当にいま文学史的発見に唯ひとり立ち会ってゐるのだといふ感興が、びっしり埋まった誌面からは(自らの楽しかった苦労とともに)伝はってくるやうです。
ノートの主である淀野隆三については、三好達治や梶井基次郎のパトロン的旧友、京都の商家のボンボンといふ認識しかなかったのですが、どうして、彼らと知り合ふ前の日記が赤裸々で面白い。生真面目な少年がたまさか出会ってしまった文学といふ魔性の人生指針。そのため理性と欲望は折り合ひがつかず、正義感と無力感だけがどんどんつのってゆく文学青年への転落過程が告白体で綴られてゐます。裕福で健康な少年が、花街が身近な環境で女中にかしづかれて育ったら、そりゃ純情であるだけ只では済みますまい。恵まれた者は恵まれた者なりに汚濁や坎穽に遭遇せざるを得ず、又ぬるま湯を自覚しながらそこから抜け出せぬ事情は、ひとり恋愛と性愛の二律背反にとどまらず、大正末期に興った左翼思想についても、(彼が生真面目なだけに)勝者階級に生まれた者として懊悩する己が姿をノートに叩きつけることになるのは、ある意味自然な成り行きだったかもしれません。
そして「青空」同人からやがてプロレタリア文学〜日本浪曼派の人たちの名前まで入り混じってくる、後半に綴られた興味深い文壇模様。梶井基次郎や三好達治の才能をわがことのやうに喜ぶ友情をはじめ(彼は三好達治の結婚に際しても費用に至るまで細々と世話を焼いてゐます)、反対に林房雄、今東光、春山行夫、室生犀星、仲町貞子等には歯に衣着せぬ言及と、日記ならではの人物月旦は一番の読ませどころと云へるでせう。当サイト関連でいへば、
「人々は幸福を奪はれて行くその状態に於ける自身の悲しさを指して、そこに唯一のレアリテを見出してゐる様になった(コギトの連中)。何といふことか?」(vol.8:84p)
と、自ら加担した左翼文壇の潰滅時にデビューしてきた後進世代のデスパレートな心情を評してゐる一節は嬉しかったです。けだし前述の田中克己日記『夜光雲』は重要な時期である昭和 7年前半の一冊を欠いてゐるのですが、この日記群にも、彼が左翼文芸に関った昭和5〜7年当時の日々の出来事を記した日記が(破棄されたのか書かなかったのか)存在しません。いったいに彼の私生活については、父祖との対決に係る記述が全冊にちりばめられてゐるのですが、――文科への進路、芸者との恋愛と、親不幸の度に激怒した父との間にはさらに壮絶な、非合法活動にまつはる骨肉の人情ドラマが繰り広げられてゐた筈です。しかし再び付けられるやうになった日記には、以前の悩み多き青年の面影はなく、思ひがけない逮捕によって晩節を汚すこととなった父との、負ひ目ある者同士の和解が、永訣が、この連載の最後を締めくくることになりました。それによりこの目玉企画に負はされた使命の一半が、不取敢果たされたと慶んでよいものなのかどうか。経済的理由で終刊することになった雑誌を前にして、思ひは複雑です。今後さらに翻刻が続けられるのか、また単行本化やネット公開も念頭にあるのか、遺族の意向もありませうが見守りたいと思ひます。
まだ走り読みですが、ほかには「四季」「コギト」にも寄稿されたドイツ新即物主義文学の紹介者板倉鞆音を追跡した津田京一郎氏の研究(「板倉鞆音捜索」vol.2:27-43p)に注目しました。その昔、献呈した拙詩集に対し、視力の殆ど失はれたことを一言お詫びのやうに添へて返して下さった礼状を今も大切にしてをりますが、詩人の個人研究は嚆矢にして、抄出や参考文献に至るまでまことに貴重な資料と存じました。
「日常誰もが使うごくありふれた言葉でありながら、かように組み合わされみると、所謂写生でも写実でもなくなってしまっている…(中略)…この西洋史の不思議な描写力(奇蹟)の日本語における再現を徹頭徹尾追求すること、翻訳者の任務はこれ以外にないと考えている。」(vol.2:40p)
そのほか雑誌詳細は「daily-sumus」ブログにてご確認ください。
ありがたうございました。
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520
:
:2010/12/17(金) 09:50:43
山陽、星巌両先生掃苔記
『墓参の際は花をもって受付で来意を告げませう。無粋な扱ひは受けません。』
世の中には、同じ事を考えて実行する人がいるのだと、嬉しくなりました。
林哲夫・由美子ご夫妻と昵懇にさせて頂いてます。
http://plaza.rakuten.co.jp/camphorac/
521
:
やす
:2010/12/17(金) 17:14:17
(無題)
柳居子さま、はじめまして。
実は山陽翁のお墓へは翌日に思ひ立ち、下調べなしに行ったものですから、牧百峰・藤井竹外先生らが眠っていらっしゃるとは知らず、一束の花を使ひまはして(汗)お祈りさせて頂いた次第です。
林様の博覧ブログとはちがって極めて守備範囲の狭い偏屈者のサイトですが、今後とも御贔屓に頂けましたら幸甚に存じます。よろしくお願ひ申し上げます。
522
:
やす
:2010/12/30(木) 13:13:47
今年の収穫から。
兼子蘭子『躑躅の丘の少女』平成22年 (堀辰雄に師事した閨秀作家の遺稿集。新刊)
『山中富美子詩集抄』平成21年 (新刊。また同刊行所より『新版左川ちか全詩集』平成22年。)
高島高『北方の詩』昭和13年 (ボン書店末期の刊行書。)
小林正純『温室』昭和16年 (『田舎の食卓』とはほぼ同装釘。)
頼山陽『山陽詩鈔』天保4年 (やうやく購入?)
大沼枕山『詠物詩』天保11年 (処女詩集の再刷、嘉永二年玉山堂梓行。奥付なく見返しに表示の『附 梅癡道人』一冊を欠けるか?)
宵島俊吉『惑星』大正10年 (ひととなりが伝説だった若き日の勝承夫の行跡を示した一冊。)
宮澤賢治『春と修羅』大正10年 (田村書店に格安本をお世話頂きました。)
谷崎昭男編『私の保田與重郎』平成22年 (回想文の集成。新刊)
山崎闇斎『再遊紀行』万治2年 (蔵書最古記録更新。)
村瀬藤城 "岐阜稲葉山" 掛軸 (これは郷土の御宝でせう。)
西川満『媽祖祭』昭和10年 (装釘狂詩人の精華。)
『青騎士 No.3』大正11年 (名古屋モダニズム黎明期の稀覯雑誌。)
良寛禅師座像 昭和2年 桝澤清作、相馬御風箱書 (オークションで思はぬ僥倖。)
曽根崎保太郎『戰場通信』昭和15年 (戦争文学とモダニズムとの実験的融合。)
小山正孝『愛しあふ男女』復刻版 平成22年 (原本は戦後を代表する稀覯詩集。)
金井金洞 "腹有詩書気自華" 額 (今は和室に掲げゐたり。)
頼山陽 "莫咲先生不解曲" 掛軸 (破格で入手できた真蹟。と思ひこんでゐる。)
小野湖山『湖山樓詩鈔』嘉永3年 (初版らしい。)
「spin:スピン」vol.1-8 「淀野隆三日記を読む」 (いづれ単行本になる予定も。)
河崎敬軒『驥虻日記』文政3年 (『菅茶山』を読んでたときに手に入れてゐたら…。)
読んでない本が多く著者に申し訳ない。といふか、味読できるやうに早くなりたいといふのが本音ですね。
一番嬉しかったのは勿論『春と修羅』と、それから本ではないですが良寛禅師座像でした。
みなさま良いお年を。
523
:
やす
:2011/01/01(土) 16:33:39
年頭感懐
古来五十ともなれば「知命」、「人間五十年」、また「年、五十にして四十九年の非を知る」
などと色々に申す由。けだしこしかた半百年、我とわが身の周りに突きつけられし無常のさま
に、ただ驚き悲しみ恐れ居れり。あるひは「四十五十にして聞ゆる無きは是また畏るるに足らざ
るのみ」とも申すとか。畏るるに足らざる者には、天命も下したまはざらん、されど人として、
思ひやり、肚をつくり、ユーモアを解す、この他に知るべき事の何かはあらん、などとひとりご
ちて、ささやかなる新年の祝杯を引けり。 先師生誕百年の元日に
ことしもよろしくお願ひ申し上げます。
524
:
やす
:2011/01/04(火) 23:27:15
はつはるに白兔の伝記ひもとけり
年末年始もボソボソ読んできた梁川星巌翁の伝記ですが、やうやく前編を読了しました。特に翁の最晩年となる安政五年の事跡については、それまでの文人墨客の交遊関係を綴る伝記とは大きく様変はりし、明治まで秘匿されてゐた遺稿『籲天集』から尊王攘夷に彩られた慷慨詩編が紹介される辺りから、一介の宗匠詩人の生涯は、政治の裏舞台を暗躍する熱血に彩られ、変貌して参ります。これを裏付ける資料も、詩集以外から採られたものにかなりのページが割かれてゐて、生き残った志士の回想や書翰(特に佐久間象山と吉田松陰からの手紙が長い)、および事件処理のために残された供述調書(申口書)ほか、一様ではありません。東西日本を遍歴して名声の頂点に上り詰めた老詩人が、やがて「悪謀の問屋」「今度の張本第一なる者」と目されるまでに至った経緯は、その後の結果が分かってゐるだけに痛ましく危なっかしく映ります。その動機も社会転覆を謀るといふより純粋な詩人的熱情のなせる「諫言」が主目的なのですから、弾圧に当たった幕府側にしても、例へば寛典派で星巌にはかつて添削も請うたこともある間部松堂との会見が入京前にもし大津で実現して居たら、大獄の処断はこんなにも陰惨になっただらうかと思ってしまひます。
心が痛むシーン(もはやシーンと申していいでせう)といふのは幾つもあるのですが、ひとつは志士でなく学者だった人々の動向でした。京摂一番の儒者と星巌に信頼されながら、大獄前に謹慎これ努めて極刑を免れた春日潜庵、彼が星巌へ当てた苦衷を滲ませた挨拶の書簡や、「反逆の四天王」の一人だった池内陶所が、かつて『酔古堂剣掃』を共に編纂した同志、頼三樹三郎の手跡をお白州で証したといふ供述記録。なかなか苦いものがあります。一方、学者とちがって詩人とは云へば、三樹三郎にしても星巌にしても(結局は助からないのですが)どこか楽天的で抜けてゐるやうに映る。三樹三郎は吉田松陰同様の図抜けた詩人ぶりで、育ちの良さや支援者の多さにも拘らず、科せられた罪の重さが大獄の陰惨さを象徴するものとなってゐますが、大獄直前に病没した星巌翁は、吉田松陰の内命を帯びて間部侯襲撃に上京した久坂玄瑞を百方諭止したといふ条りなど、実に歴史の危機一髪を物語るやうな(これは著者である伊藤信氏の手柄ともいふべき、関係者から得た証言らしいのですが)、世故に通じた重々しい判断をなしてゐる。ところが間部閣老には談判すれば真情が通ずるだらうと詩を二十五篇も作って、実はカードはそれだけだったり、見舞客にコレラの出所と噂された鱧を食ったことを注意されると「旨かりしなり、なかなかコロリには非ず」なんて気丈に話してて翌日死んぢゃふなんてところは、どうなんでせう。さうして三日後に明治維新の遠因となる捕縛が始まるわけです。
安政の大獄といふのは、幕末ドラマファンにとっては、(志士たちの最初期の面目について興味深い報告に富んではゐても)あくまでもドラマの前史といふ位置づけなのでありませう。しかし物語がここで終焉する私にとっては、出てくる名前名前を片端から検索しながら、大獄に遭った人、免れた人、そして大獄を科した人、彼らが辿ったその後の運命について、ネット上で閲覧を繰り返しながら、あれこれと道草の思ひを馳せる処なのでありました。さうしてこれが戦前の著作であることを同時に考へたのでした。この本は、幕末の反体制思想が成就した結果の世界から、その黎明期の功労者にして最初の犠牲者となった郷土の偉人梁川星巌の功績を顕彰しようといふ結構を有してゐます。しかし今の日本には「帝の国」といふ世界観は喪はれ、尊王攘夷のスローガンなども、時代遅れの国粋主義としか捉へられなくなってしまひました。仕方のないことですが、実はこれらふたつの評価の向ふに、詩人が生きた時代の真実があったんだらう、さう思ったのは、頼山陽の時代を再評価した中村真一郎や富士川英郎の詩史観の延長上に、発せられるべき真っ当なリクエスト(要求)として、非常な新鮮を以て私に訴へかけてきた星巌翁の生きざまによるところでした。本書を資料にものを書かうとする現代の作家達を、時に辟易させる大正時代の伊藤先生の口吻ですが、鴎外の史伝『北條霞亭』と同様、むしろここは著者の最も個人的な思ひ入れを大胆に付して「星巌生涯の末一年」とでもして章をあらためて書いたら、もう少し星巌翁本人に近づき得たのではなからうか、さう思ったことであります。
星巌翁の最期にまつはる証言から以降は、詩壇の後輩達による弔詩の数々、大獄事件の後始末を受けて、歴史の表舞台から退いていった寡婦紅蘭女史の面目を示した回想やその後の世過ぎに筆は移ってゆきます。有名な紅蘭未亡人と暗殺前の佐久間象山とのやりとりなども収められてゐます。面白かったのは紅蘭が出獄に際して占ったところ
「上六。穴に入る。速(まね)かざるの客三人来るあり。これを敬すれば終(つひ)には吉。」
といふ卦が出て、これがどうやらおおきにウケたといふ条り、まねかざるの客といふのはもちろん取調官のことかもしれませんが、出迎へにやってきてくれた鳩居堂主人ほか、気の置けない支援者弟子達のことと解すると、旦那に劣らず磊落な女将さんの人柄が伝はってくるやうであります。
この年末年始の閑暇を以てゆったり読書ができたことをあらためて感謝します。私からこの伝記に新たに付け加へ得る報告としては、昨年書きましたが、生前に企図された最後の詞華集『近世名家詩鈔』巻頭にあった翁の名が、大獄の諱忌を以て一旦削られたといふ小事件、そしてこれも昨年展墓して発見したことですが、星巌夫妻の墓の高さが、実は建てられてから途中で女史の方だけ低く変へられてゐたといふ、なんだか可笑しいやうな事実についての報告、不日まとめて読書ノートの連載にも付したいと思ってをります。
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:
やす
:2011/01/09(日) 18:47:50
墓参記
先週の後半1/5〜1/7は新潟県に出張。昨年家宝となるやうな有難い銅像を得た機縁もあり、その日の仕事を終へて宿に帰る途中、長岡郊外の隆泉寺まで初めての良寛禅師の展墓を敢行しました。「敢行」に相応しく(?)底冷えのする曇天の下、当日1月6日は禅師の祥月命日だったのですが、夕刻の境内周辺に観光客らしき人影は皆無、供花もたった二束といふ実(まこと)にさみしい命日に立ち会ってしまひました。町ぐるみの法要が半年遅れで行はれる由ですが、しんみりした憑弔は、しかし星巌翁の時と同じく却って心に期するところ深くして帰ってくることができたやうに思ってをります。
さうして出張の帰途にはもう一基、今度は東京で途中下車して田中克己先生の霊前に一週間早い墓参り。こちらは「生誕100年」の御挨拶です。
数珠を持参しては何かと余禄に与った出張に「感謝」の週末でした。
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やす
:2011/01/10(月) 23:45:45
収穫報告ほか
さて週末土曜日は神田神保町を一年ぶりに散策。以下はその収穫報告まで。
まづは大沼枕山門下、信州佐久郡の禅僧魯宗(字:岱嶽/号:不及)の漢詩集『不及堂百律』(文久3年序、慶応2年跋私家版)。慶応二年当時まだ四十代後半といふことは、つまり枕山師匠とは同年輩らしく、江戸では駒込の諏訪山吉祥寺の旃檀林学寮にゐたといふ全く無名の人ですが、掘り出し物でありました。
山を出ることを勧む人に答ふ
風月、番々(順次に)として性情に適ひ、眠りに飽きて几に凭れば、小窓明らかなり。
山僧、影に対して談話少なく、杜宇(ホトトギス)、空に向ひて叫声多し。
葷酒、常に辞すは法を畏れるに因り、文詩、偶ま賦すも名は求めず。
鶺鴒、棲み止まるは一枝にて足り、膝を容るる草堂、錦城に勝れり。
昨年お世話頂いた『春と修羅』の御礼を述べるべく挨拶に立ち寄った田村書店では、再び収穫がありました。安西冬衛の詩集『渇いた神』。漉き上げたままの「耳付き紙」を表紙に、余白を極限まで活かした意匠は「これぞ椎の木社」と掛声を掛けたくなる造本ですが、同装丁の詩集が4冊あり全て昭和8年中の刊行に係ります。内容もエキゾチックで奇怪なロマン(物語)の創造に努めた詩人の、当時の到達点を示した名詩集なのですが、漢字離れの激しい今日、ネット上では一昔前の相場が未だに幅を利かせてゐて、限定300部の稀覯本ながら9冊も晒されてゐる残念な状態が続いてゐます。(本屋には厚手薄手の二種があって、並べて写真を撮らせて頂くことを忘れたのが残念でした。)
おなじく格安で購入した『新領土詩集』もモダニズム詩集ですが、こちらは戦前の代表詩誌の名をそれぞれ冠して編まれた山雅房版のジャンル別アンソロジーの一冊。『四季詩集』『コギト詩集』『歴程詩集』『培養土(麺麭詩集)』とともに昭和16年に刊行されてゐます。今回「耳付き詩集」と共にわが書棚で「揃ひ踏み」を果たしましたが、ネット上ではカバー付き刊本であることが却って祟ってをり、やっぱり稀覯本らしくもなく複数冊が稀覯本価格でヒットします。
かうした稀覯詩集をめぐる状況・・・ことの序でですから、年末に催された大学図書館研修会で広報担当者が宣伝してゐたことを繰り返しますが、今年は国立国会図書館「近代デジタルライブラリー(ネット上の公開資料)」の進捗状況に目が離せません。「現在は主に大正期と昭和前期刊行図書の拡充を行っております。」とのことですが、デジタル化のネックとなってゐるのは主に「序文跋文の執筆者に関する著作権」といふことです。これについてどうチェックが進んでゆくのか、そんなもの削ってでも所謂「幻の稀覯本」と呼ばれてきた本は先行ネット公開して欲しいところですが、「提供された情報により収録可能」ともなるやうですから、或は私達が著作権に関する情報を積極的に寄せ、本来著者の意思(遺志)を非営利に表明してゐる詩集分野でのデジタル化とデジタル公開をどんどん求めていったらいいのかもしれません。さすればテキスト封印を盾とした一部の古書価格は瓦解しませう。原質としての詩集の価値がネット公開によって(増すことはあれ)減ずることはなく、あらためて内容と装釘に即した価格が付け直されて、書物愛好者の間に行はれることになる筈です。また漢詩集の場合はすでに「江戸期以前の和漢書約7万冊」が平成23年3月までにデジタル化が完了してしまふ予定らしく、こちらはいつネット公開が開始されるのか、(さきの近代ものについても、デジタル化=即ネット公開といふことではないらしいのですが)待ち遠しいところです。拙サイト上の公開コンテンツも、その有用性や進め方について今後再吟味が迫られることになるかもしれません。
さて帰宅したら机上で待ってゐたのは、手皮小四郎様から送られた『菱』172号。追って御紹介したいと思ひます。
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やす
:2011/01/12(水) 09:54:01
『菱』172号「モダニズム詩人荘原照子 聞書」連載第13回
手皮小四郎様より『菱』172号の御寄贈に与りました。出張から帰ってきましたら机の上の郵便に思はずにっこり、早速連載を拝読しました。
最初に抄出されてゐる詩編「秋の視野」は、『春燕集』にも採られ『マルスの薔薇』の掉尾を飾る彼女の傑作、かうして示されるとあらためての美しさに打たれます。
わたしが小舎の扉をひらくと山羊たちは流れでる 水のやうに その白い影と呼吸を金いろの野原へひたすために……野よ 野は 木犀いろの穹にある わたしは空腹な家畜をともなひ枯笹の崖を撃ぢのぼつた……牧杖と 石と 微風 やがてわたしの視野は豁けたのだ 老いたneptuneが吹き鳴らす この青く涼しい秋の楽器のうへに……。
「椎の木」2年11号1934.11
彼女が「四季」を意識してゐたといふのは、おそらく本当のことだったでせう。手皮様は椎の木社から当時『Ambarvalia』を刊行した西脇順三郎の「ギリシア的抒情詩」を揚げてその澄明を賞されましたが、私にはドイツロマン派の画家が好んで描きさうな沃野の景観が目に浮かびます。「木犀いろ」といふ語感が不明ですが、手皮様も伝記を書くために採らざるを得なかった詩の解釈法が、ここに至って行き詰まりを来たしつつあることに「たぶんぼくは読み方を違えているのだろう。」と行を変へて態々ことはられ、詩編によって詩人の実人生を検証しようとすることの危うさを語ってをられます。「読み方を違えている」のでなく「分かってない」派の私ですが、モダニズムに端を発する現代詩の難解さについては、毎々書いてきたやうに読者がそれぞれの感受性で、拡散したイメージから納得できるところを採る、私なら抒情表現に於ける自由な感受性を採る、それでよいと高を括ってゐます。が、それでは伝記資料は確保できませんからね。
今回の連載では、荘原照子がその危ぶまれる健康状態とは裏腹に、旬の詩人として余裕を示すところの所謂「格下地方詩誌」への寄稿について一考察を加へらてゐます。つまり彼女が「生前何も言わなかった」業績に対して、敢へてスポットを当てることでみえてくる、当時の詩人の気張らない佇ひ。「聞き書き」されなかったところに意味を掘り起こす手皮様の十全な配慮が、今回も雑誌探索の努力とともに伝はってくる回でした。
昭和初年の同人誌乱立時代、その内容を充実させるために中央の大家や意中の新進詩人に対してアプローチを試みるケースはよくみられたのですが、金沢で出されてゐたこの「女人詩」といふ雑誌もそんな、採算を度外視した好事家経営の一冊だったのでありませう。殊に特筆に値するのは主宰者が地方の女性であったこと。深尾須磨子のやうに単身起って出るといふ捨て身の覚悟でなくとも、好きな詩を書きながら自らパトロンとなり、無聊を喞つ有能な後輩に対してサロンを提供する喜びを感ずる…その昔なら田舎の御隠居が漢詩人をもてなしたやうな活動が、昭和の当節そのモダンな女性版として印刷文化上で実現されてゐたといふ事は、やはりエポックでありませう。もちろん主宰者であった方等みゆきに、深尾須磨子と同じく素封家未亡人としての遺産があり功名心もあり、逆に須磨子にはなかった土地の縛りや編集雑務にいそしむ閑暇があったからなので、荘原照子はそんな主宰者の事情をさぐり、心情を慮るやうに、最初は「モダニズムに変身する前の詩」を故意に送ったのかもしれません。もし彼女に「地方誌だから旧詩再録でも構はぬだらう」といふ気持があったとしたら、主宰者の詩集刊行記念号でのお初のお目見えに於いて「荘原の目指す純粋詩の対極に位置するような情念表出の方等の詩」を「口を極めて褒めちぎる」その後ろできまり悪さうに頭を掻いてゐる彼女には、確かに別の意味で「年長者」を、手皮様を「唖然」とさせただけの“したたかさ”を感じます。しかし方等みゆきが「詩の家」に参加した理由はアンデパンダンだったからではなかったのでせう。だからこそ、きっと手紙で感想を送られた詩人も斯様な遠慮・遠謀が不要であることを悟り、以後モダニズムの詩を送り始めたんだと思ひます。なぜなら彼女はモダニズムへの転身を遂げた自分の姿を「この頃の貧しい姿」だなんて謙遜する気持などさらさらなかった筈だし、つまり「アレルギー反応」を見せたわけでなく、ただ主宰者と若い寄稿者との中間に位置する年齢であった彼女にして、新参者が加はる際になかなかの配慮と礼節とを示してみせた。「聞き書き」できなかった今回窺はれたのは、さういふ彼女の女性詩人らしい表情なんだらうと思ひます。
その後の、詩にあらはれた聖痕と病痕についての考察を興味深く拝読しました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
528
:
やす
:2011/01/20(木) 22:45:08
山田鼎石の墓
昨年来、先哲の墓碣憑弔を続けてをりますが、本日は岐阜詩壇の嚆矢ともいふべき鳳鳴詩社の盟主だった山田鼎石(1720−1800)の墓所を探しに、長良川畔の浄安寺を訪ねました。こんなに近くにあるのにどうして今まで来なかったのでせう。広くもない墓地の片隅、まさに無縁仏として片付けられんとしてゐる石柱群のなかに「山田鼎石墓」と彫られたささやかな一基をみつけたとき、感動に言葉がありませんでした。
岐阜県図書館には、山田鼎石晩年の遺文『笠松紀行』のコピーが所蔵されてゐます。短い紀行文ですが、原本を書き写したのは郷土の漢詩人津田天游のやうです。大正七年(1918)、五十二歳の彼が同時にこの寺を訪ね、荒叢中に墓碑を見出し悵然としたことを序文に記してゐて、それを読んだ私は果たして今どうなってゐるのか一抹の不安とともに確かめたくなったのでした。詩人の長逝は寛政12年(1800)。没後一世紀の有様に目を覆った天游翁の嘆きを、さらに約百年の後、同じい荒叢中にふたたび見出し得たといふのは、しかし無常といふより、むしろよくもまあ残ってゐてくれたといふ気持の方が、実は深かったのでありました。
星巌翁の伝記をともかくも読み終へたので、ふたたび岐阜の地に即した漢詩人の足取りなど、気儘に翻刻する楽しみを味はってみたく思ひます。手始めはこの『笠松紀行』から。塋域の写真などと共に追々upして参ります。よろしくお願ひを申上げます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000685.jpg
529
:
やす
:2011/01/21(金) 05:57:32
『桃の会だより』三号
折りしも山川京子様から『桃の会だより』三号をお送りいただきました。
巻頭に掲げられた京子様のエッセイ「郡上の町」は、これまで何度も回想されたところの、嫁ぎ先郡上八幡での思ひ出を語ったものですが、わが師田中克己が語ったといふ靴下に穴のあいてゐた亡き夫の面影や、些細なチョコレートの容器のことなど、ほんの記憶のひとかけらから、まだまだ愛しむべき事柄を書き足すことのできる鮮やかな記憶には、瞠目すると同時に、また刻印された悲しみの深さにも思ひが至ります。文中、詩人に召集令状が届いたとき、父親が急遽上京「下宿に現れて開口一番<結婚は諦めよ>と言った」といふ聞書きの条りなど、それが舅の思ひやりであるだけに殊にも心打たれました。
徳川三百年太平の世の只中に、地域の詩匠として長生を寿がれ、今は無縁仏として忘れ去られんとしてゐる漢詩人山田鼎石。一方、国運を賭して臨んだ世界大戦に若妻を残して戦死し、今は私設の記念館に祀られることとなった国学者詩人山川弘至。記念館の運営課題については仄聞するところもあり、胸中ともに無常にふたがる思ひです。
ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
530
:
史恵
:2011/01/25(火) 22:52:18
(無題)
突然の訪問失礼いたします。
私は北海道在住で、こちらのホームページを見つけて、管理人さんにお聞きできればと思い投稿させていただきました。
私の亡くなった祖父は荒谷七生といい、生前ぽつぽつと詩や郷土史研究をしていたようですが、私自身は祖父の本を見たことがありません。
唯一伯父(祖父からみると息子)が自費出版した方言集のみ、祖父の死後読みました。
詩を書いていたのは古い話しですし、それこそ自費出版ぐらいしかできなかったのかも知れませんが、ネットで祖父の名を探してみました。
それでこのホームページに祖父の名と作品集の文字を見つけた次第です。
この目録にあるものは入手可能なのでしょうか。それとも、どこかの蔵書になっているなら、直接そこに連絡を取ってみようかとも考えています。
祖父の長女は私の母で、ぜひ手に取ってみせてあげたいと思っています。
祖母も同時期に亡くなり、祖父の作品を知る機会もなく手元にはもうないので、ぜひ一度読んでみたいのです。
唐突で本当に申し訳ありません。何か情報がいただければと思い書きました。
531
:
やす
:2011/01/26(水) 00:00:13
レファレンスありがたうございます。
はじめまして。レファレンスありがたうございます。
本来メールで頂けるとよかったのですが、アドレスがわかりませんのでこの場で回答させて頂きます。
拙サイトに情報を掲げてゐる阿祖父様の詩集『おのが軍書』『小さな教室』『雪國天女』は現在国会図書館に所蔵がございます。マイクロフィルム化されてゐるので東京まで出向いていっても現物は見せてもらへませんが、郵送でコピーをとることができます。
http://opac.ndl.go.jp/index.html
(一般資料の検索/申込みボタン)
個人で利用者登録するのが面倒な場合は、お近くの公共図書館経由で郵送して貰ったらよろしいでせう。料金は一枚35円+送料梱包料が掛ります。留意しなければならないのは著作権者継承者(伯父様)の承認があることをカウンターを通じてうまく伝へないと著作権法の制限によって、コピーは半分しかとれないといふことです。直接伯父様から依頼される形にするのがよいでせうが、くれぐれも注意して下さい。
『小さな教室』と『雪國天女』は道立図書館にも所蔵があるやうですが、『雪國天女』はネット上の古書店(日本の古本屋
http://www.kosho.or.jp/public/book/detailsearch.do
)に現在3冊在庫がありますから、値付け直されないうちに一番安い一冊を購入し、『小さな教室』は『おのが軍書』と一緒にコピーを申しこんだらよいのではないでせうか。
http://www.kosho.or.jp/public/book/detail.do?tourokubi=B3CFFCF1CC0FBAE3260EFB6E68DA8AF9D2CB0F60AA7D1CD3&seq=1889&sc=5CF60044E458CF87C036DA8DE735CD16
以上、生もの情報を含みますので取り急ぎ回答申し上げます。幸運をお祈り申し上げます。
ありがたうございました。
532
:
史恵
:2011/01/26(水) 19:32:17
(無題)
こんばんは。
情報ありがとうございます!
すぐにお返事いただき、大変感激しています。祖父死後13年、急に思い出したのは何故なのか自分でも不思議です。
自費出版をしてくれた伯父も4年前に亡くなっており、手に入ったらお仏壇の祖父母と伯父に報告したいなと思っています。
また進展ありましたら、管理人さんに報告させてくださいね。本当にありがとうございます。
533
:
やす
:2011/01/27(木) 12:10:12
(無題)
本の外装と奥付の画像などメール添付で送って頂けましたら「詩集目録」に掲げさせて頂きます。ことにも処女詩集は地方の私家版出版の珍しい本だと思ひます。
レファレンスありがたうございました。
534
:
やす
:2011/02/01(火) 10:13:29
「朔」170号
圓子哲雄様より「朔」170号の御寄贈に与りました。まことにありがたうございました。
堀多恵子氏・三浦哲郎氏の追悼文は、いづれも真情のこもったものながら、山崎剛太郎氏がこれまでの長い思ひ出から、己が師の未亡人に対する尊敬に慊らぬ懐かしさを綴られた一文、堀門下唯一の生き証人であることにあらためて感慨を深くするものです。
それから私は作品をひとつも読んだことが無いのですが、圓子様が旧くは高校時代のクラスメートだった三浦哲郎氏に寄せられた回想は印象深く、ハンサム・利発・力持ちで人気者だった“華ある”三浦氏から、地味だが鉄棒の国体選手にも選ばれた圓子さんが内心「男」としてライバルと目されてゐたらしいエピソードや、そののち20年もしてから奇しくも両者共通の師であることが判った詩人村次郎氏を挟んで、当事者にしか窺ひ知れぬ曰く言ひ難き三者の心持と事情を語った条りは実に興味深く、殊にも文壇に出た三浦氏から、
「製作しても発表しない生き方だと言いながら、遠くから現代文壇を批評するのは間違えている。沈黙を守るべきだ。矛盾している。」
と村氏へ言ひ放ったといふ指摘は、もはや「師」に対する物言ひといふより凌駕しつつある「先輩」に正対しての堂々たる批判には違ひなく、手痛い指弾を受けた師の反応を敢へて包み隠さず書き留められた圓子様の、弟子を自任し続けた生き方と並べて同時に感じ入ったことでした。
他にも天野忠の詩業を概括した小笠原眞氏の評論、小山常子氏の回想を興味深く拝読しました。一体に抒情詩人といふものは最初の詩集で全てが決まってしまふものですけれど、壮年以降に一皮向けた花を咲かせる苦味の利いた詩人の系譜が示されることに、今日的な意義を感じます。
ならびに今回は、圓子哲雄様の短編小説集『遠い音』の御寄贈にも与りました。小説を読みつけない私の語るところではございませんが、あらがじめ刊行を前提とのことなれば、遠い日のスーベニールの再録ではなく、戦争を題材にしてゐるのですし、もっと手を入れて、詩人の手になる後日の問題作・奇書とも名づくべき「一冊の本」として趣向をこらされたらといふ気も致しました。皆様の意見はどうでありませう。
ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。
535
:
やす
:2011/02/07(月) 23:15:05
新旧私家版稀覯本:『五つの言葉』と『秋水山人墨戯』
長らくオークション上に晒されてゐた『五つの言葉』 (昭和10年刊)といふ本を、値引き交渉の持久戦(!)の末にたうとう半額以下で落札。かつて目録でも2、3度しかお目に掛ったことがない稀覯本で、国会図書館からとりよせたコピーを製本し、購入は諦めてゐた本でした。コギト同人で昭和8年に夭折した松浦悦郎氏の遺稿集なのですが、田中克己先生が編集・刊行者となってゐるにも拘らず、御自宅の本棚にはなかった本だっただけに感慨も一入です。墓参の御利益とひとり決めして、手製復刻版の方は寄贈もしくは何方かに差し上げませうか。とまれうれしい収穫報告まで。
さういへば昨年一年間の「収穫報告」をしましたが、「なにか忘れちゃあゐませんか」と“森の石松”級のお宝本を見落としてゐたことに気がつきました。
古書店で購ひ、うっかり掲示板で触れるのを忘れてゐた槧本、その名も『南遊墨戯巻』。天保二年37歳だった地元美濃の山水画家、村瀬秋水が、大和の古刹に秘蔵するといふ「黄大癡の画」を観んがためにアポなしの直撃、盥回しにされた挙句むなしく帰ってきた時の紀行詩画集です。これに生前の頼山陽が評を入れ、忘れた頃の天保十四年に至って「あっけない後日談」も生じたので、先師からの書簡に篠崎小竹・雲華上人両先輩の跋を付して刊行することになったといふ、村瀬家の私家本であります。
けだし、秋水翁が一幅の画を観るために骨折り、徒労に帰した労力にくらべ、200年後の私はとは云へば、(奇しくも『五つの言葉』も奈良県からの出品でしたが、)インターネット上であッといふ間の交渉成立、さうして今では村瀬秋水の紀行本こそ、御当地岐阜県図書館にも所蔵がない稀覯本へと変じ、更に拙い読み下しに辱められる有様…、泉下の秋水翁もさぞかし呆れ果ててをられませう、これまた不取敢のところをupしてございますので御覧ください。
536
:
やす
:2011/02/16(水) 20:49:17
文字化け
外部の方より、サイトのあちこちが文字化けで見られない旨、指摘を受けました。
詳しい人に尋ねましたところ、Windowsをアップデートした際に起きるらしく、私のWebページの作り方にも原因があるやうですが、次回のアップデートで「回復する予定」だといふことです。ご迷惑をおかけします。2011.02.22更新情報
537
:
やす
:2011/02/21(月) 23:27:46
田辺如亭宛神田柳溪書簡
出品者がそれと知らずに「村瀬藤城の手紙ではないか」と出してゐたオークション、寝過してうっかり入札の機会を逸しました。なんたる不覚、幸ひ画像は不完全ながら全文公開されてゐましたので、読めるものなら読んでみたい文献であります。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000695.jpg
538
:
やす
:2011/02/28(月) 12:34:39
Twitter
細かい更新記録はTwitterでつぶやくことにしました。
よろしくお願ひ申し上げます。
539
:
二宮佳景
:2011/03/09(水) 02:51:11
広告をお許しください
鼎書房より、4月上旬刊行の予定です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000697.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000697_2.jpg
540
:
やす
:2011/03/13(日) 02:37:07
(無題)
二宮佳景様、広告ありがたうございます。
六草いちか様、舟山逸子様、御著ならびに雑誌をお送り頂きながら、昨日来のニュースの大きさに心奪はれ、手につきません。
八戸の圓子哲雄様ほか、被災地区の皆様の御無事を心よりお祈り申し上げます。
541
:
やす
:2011/03/25(金) 09:37:55
<<このたびの大震災について>>
2万人を超える犠牲者はもとより、20兆円に上るとも謂はれる復興資金、原子力発電所の是非、全国の海岸線の防潮や避難所の移動、さらに根本的には「日本の田舎をどうするつもりなのか」「電力浪費社会を今後も続けてゆくつもりなのか」といった問題を、このたび起こった大震災は私達につきつけてゐます。
「何でも忘れやすい日本人」ですが、世界を取り巻く現在の日本の政治・経済状況でこれらの問題に向き合へば、おそらく忘れたくとも逃れられないことがこのさき分かってくると思ひます。さうして歴史的な危機・転換点は、政治・経済の上だけでなく、文化においても現れてくるのではないでせうか。
このたびは世を挙げての節電の呼び掛けも、電車や病院をまきこんだ計画停電を避けることができませんでした。原発の是非は措くにせよ、不要不急の電力を規制して停電を回避できないでゐるのは政治家の怠慢であり、その関係業界の利権に屈服の様は正しく「政権の内部被爆」と呼ぶべき醜態です。これを正直に伝へることのできないマスコミにも同様の「そら恐ろしさ」を感じてゐます。しかし突き詰めていけば「日本の田舎は再生されなくてはならない」「電力浪費社会から脱却しなければならない」といった、人としての生き方の問題である訳ですから、これを正してゆくことができるのは、やはりマスコミの一翼を担ふ芸術、文学の分野であるとも信じてをります。
「自粛」ではなく「意識改革」。今後、震災をきっかけに、「お金があるなら何をやっても自由」といふ、戦後民主主義が担保してきた日本人の思考が、一人ひとりの自覚において根本的に改まることを切に望みます。
被災者の皆様に慎んでお見舞ひを申し上げます。
文学の掲示板ですが、今回の大震災は、詩文学に多大な影響を与へた「明治維新」「大東亜戦争」同様、日本の在り方を見つめ直す「国難」であるとの思ひから、サイトのスタンスを示させて頂きました。政治的なレスは不要です。
542
:
やす
:2011/04/04(月) 19:27:00
新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』
森鴎外の短編小説『舞姫』(1980初出)の題材については、若き日の文豪のベルリン留学中の恋愛に係り、ヒロイン「エリス」の実像が小説を地で行く噂話として度々取り沙汰され、諸説は紛々、1981年に発見された乗船名簿からたうとう「エリーゼ・ヴーゲルト」といふ本名までは明らかにされたのですが、その人物像については、鴎外の没後になってから、妹小金井喜美子による「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けてゐる、哀れな女」であったといふ証言、また子どもたちからは、体裁を重んずる家族からの伝聞や、古傷をいたはるやうな父のさびしげな横顔が、思ひ出として報告されてゐるばかり。鴎外自身はこの顛末について一切を語らず、そして彼女からの手紙など一切を焼いて死んでしまったために、最も身近な関係者であった妹からの、最初にして止めを刺すやうな「烙印」が定説としてそのまま今日に至ってゐる、といった状態だったやうです。
このたびの新刊『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』の意義は、もはや証言からは得られなくなった100年以上過去の外国人の人物像を、学術論文顔負けの実証資料により浮かび上がらせながら、同時にそれが退屈なものにならぬやう、現地の地理・文化史を織り交ぜたスリリングな「探索読み物」にまとめ得たところにある、といってよいでせう。綿密なフィールドワークと軽快なフットワークを可能とさせたのは、もちろん著者がベルリン在住のジャーナリストであったから、には違ひないのですが「今にも切れてしまいそうで、けれども時おり美しく銀色に光って見える」まるで蜘蛛の糸のやうな手掛かりに縋った探索行は、資料のしらみつぶしに読者を付き合はせるといふ感じは無く、まるで知恵の輪が偶然解かれるときのやうに、徒労に終ったどん詰まりの先「本当に諦めようとしたところで何かが見つかり、また先に続く」謎の扉の連続のやうなフィールドワークとして再体験されます。歴史に完全に埋もれやうとしてゐる一女性の正体に肉薄しようとする意味では、も少し豊富な材料があったらいづれ小さな一史伝と成り得たかもしれません。といふのも、これを彼女に書かしめたのは、学術的好奇心といったものではさらさらなく、晩年の鴎外が前時代の書誌学者に感じたと同様、自らの一寸した特殊な境涯が縁となって知ることを得た、時代を異とする市井の一人物へのそこはかとない人間的な共感の故であるからです。
そもそも小説に描かれた内容を実人生に擬へ混同すること自体、非学術的といっていいでせう。しかしあのやうな人倫破綻の告白がどうして書かれるに至ったかといふ疑問には、出発したばかりの作家生命を賭した生活の真実が隠されてゐるに違ひない、さう直覚した著者によって、封印された悲劇の鎮魂が、記録を抹殺された女性の側から、資料の積み重ねによって図られることとなり──これが小金井喜美子と同じ日本人女性の手でなされやうとするところにも意味はあるのではないでせうか。学術的な論文ではなく、また空想がかった小説でもなく、世界都市ベルリンの世紀末からユダヤ人迫害に至るまでの文化史を、当地に実感される空気とともに織り交ぜて楽しむドキュメンタリーとして、普段の仕事と変りない視線から語られるレポートの手際は見事としか言ひやうがありません。ために、先行論文は虚心坦懐に吟味され、敬意が払はれ、また臆するところなく間違ひも指摘される。耳遠い文語体を口語体に直す配慮も親切の限り。さうして読み進んでゆくうち、読者は「鴎外の親戚でもエリーゼの知り合いでもない私(著者)が、ベルリン在住の地の利を活かして」行なった調査の結果、その「どれが欠けても、また、どの順序が違っても、発見に至ることはなかった」舞姫の秘密に、最後の最後、共に立ち会ふことになるのです。
奇跡的な発見の結果は、著者に当時の日本の文学者や高足のだれひとりとして予想できなかった、ペンネーム「鴎外」やその子どもたちの名付けの謎解きにも、蓋然性ある推理で挑戦させます。またそんな奇跡にこの度はどこかで私も関ってゐるらしく(笑)、ぜひ皆さまにも読んで頂きたく、御寄贈の御礼かたがた茲に一筆広告申し述べます次第です。
六草いちか様、本当にありがたうございました。御出版を心よりお慶び申し上げます。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000700.jpg
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000700_2.jpg
http://
543
:
二宮佳景
:2011/04/13(水) 02:48:25
淺野晃詩文集
遂に刊行されました! 装丁がなかなか素敵ですね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000701.jpg
544
:
やす
:2011/04/14(木) 00:30:24
(無題)
承前
また山川京子様よりは『桃の会だより』4号を拝受しました。冒頭このたびの大地震について、感懐が述べられてをります。
礼状にも認めたのですが、私はこの度の震災における天皇陛下の新聞記事が、まるで普段の皇室ニュースのやうに小さかったことに少なからずショックを受けてゐます。新聞各社は、甚大な被害はあれ、この震災のことをやはり一災害としか認識していないのではないか、でなければ、かくまで軽く日本国の象徴を扱ふやうになったか、といふ慨嘆です。
天皇陛下のビデオメッセージを唯一表紙に掲げた新聞がありましたが、後日の避難所御訪問の記事が、他社よりも小さく縮こまってをりました。すなはち第一面報道にクレームをつけた国民が少なからずゐたか、もしくは他紙を意識して社内で「自己批判」した結果でありませう。「国難」はすでに国民の意識の上で進行中の出来事であることなのかもしれません。
さて「共産主義」と「大東亜戦時体制」といふ共同体参画運動の陣頭に立ち、20世紀最大の「国難」に立ち向かはんとするも悉く挫折し、自己反省と斃れた同志への鎮魂の思ひを詩に託し、長い戦後の余生を市井に隠れて送った評論家・詩人、浅野晃。その詩文集がたうとう刊行されたとのこと。二宮様、画像の御紹介をありがたうございます。
545
:
やす
:2011/04/14(木) 00:33:05
『菱』173号 『椎の木』の内部事情
「モダニズム詩人 荘原照子 聞書」連載中の手皮小四郎様より、『菱』173号を御寄贈頂きました。ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。
稀覯詩誌『椎の木』については、昭和7年に再刊されモダニズム色に染められた「第3次」以降の復刻版がなく、閲覧したことも殆どないのですが、「山村酉之助VS乾直恵・高祖保」といふ、若手編集方に確執があったなど、斯様な内部事情が語られたものに接するのは初めてだっただけに、大いに昂奮しました。
「山村酉之助というギリシャ語もラテン語もできるブルジョワの息子が大阪に居て、これが第三次『椎の木』の編集者になった。費用の問題で・・・。ブルジョワだったから。それで百田さんの編集の助手みたいなことをしていた高祖(保)さんが、半分は面白くなくなって、まあ『苑』を自分がやり出したわけだな。
『椎の木』のアンソロジーに『苑』というのがあった。この『苑』を、私達(『椎の木』から出た者)に呉れて、椎の木社から出してくれた。百田さんは度量が広くて、偉い!」
「春山行夫あたりが行動主義を唱えだした。これに山村酉之助など『椎の木』の人たちが引っ張られていった。春山の人民戦線にだ。江間(章子)さんもそうだった。それに対して高祖さんが、詩の純粋性、純粋性と言い出して、ぼくたちは絶対に人民戦線に引っ張られないようにしようと言った。あの時は、すさまじかった。」
『椎の木』から分裂してできた月刊『苑』や「春山行夫の人民戦線」など、手皮さんが訂正される通り、たしかに思ひ違ひがあるものの、これまで誰も残してこなかった当時の雑誌をめぐる「気分」について、問へば問ふだけどれだけでも口をついて出てきさうな彼女の証言が、実に貴重で興味深い、といふか「面白い」のです。これは偏へにインタビュアーとの信頼関係に拠るところが大きいのでせう。荘原照子はこの昭和10年当時、永瀬清子といふ、抒情詩人としてまた生活人としても中庸の王道を歩いてゐたライバルをネタに、自身の「極端に走りやすい」「分裂製の強度な」性格を自嘲気味に分析してみせるエッセイを書いてゐたらしいのですが、自分とは対極の詩人を引き合ひにして、ことさら「病苦・孤棲・貧困」の境涯を際立たせようとしてゐるのを、また手皮さんが見逃さない。「およそ自分の思い描く自己像ほど虚像に過ぎないものはない」とバッサリ。恣意に流れがちな老詩人の回想の裏に、身を飾る韜晦を嗅ぎ分け、同時に、またさうであるより他なかった事情をも察して代弁してをられます。後半の、漢詩からの影響をもとに展開される詩の分析でも、詩を生活の中に捕らへるのではなく、自身が詩と化す自虐的ナルシズムの夢想に囚われてゐる詩人の発想を指摘してをられますが、鋭いと思ひます。この漢詩からの影響についてですが、儒者の家系に育ったとは云へ、私は彼女がむしろその束縛から脱却せんとモダニズムに新機軸を啓いたとばかり思ってゐましたから、当時のエッセイにそこまで漢詩に寄せる親愛を綴ってゐたことは初耳でした。詩の冒頭に杜甫の詩句が懸ってゐれば、モダニズム常套のお飾りにしか思ってゐなかったのでありました。『椎の木』の現物に当たってみたいところですね。
かうして今回の連載では、聞き書きと雑誌現物との両面から、いよいよ詩人として全盛期を迎へる荘原照子をめぐる詩壇状況といったものについて考察されてゐるのですが、『椎の木』周辺のマイナーポエット達への伏線に注目です。今回私が気になったのは「ブルジョワの息子」山村酉之助。彼は大阪人なので、素封家の彼が主宰した『文章法』といふ『椎の木』衛星雑誌には、当時モダニズム手法で頭角を現してゐた同世代の田中克己も寄稿してゐます。(といふか御祝儀の意味でせうが、創刊号(昭和9年2月)には乾直恵も高祖保も書いてゐるんですよね。) そして、その縁もあってか、山村酉之助は暫くの間、集中的に「コギト」に詩を寄せるやうになります。手皮さんが解説された彼らの「行動主義(能動主義)」が、本場フランス仕立てのものとならなかったのは、左翼潰滅後で時が遅すぎたことがあったでせうが、スノビッシュな詩風と共同体参画への意志にどれだけの必然性といふか、実存的な拠り所があったのか、一寸みえないところもある。発表誌の強烈な個性に引きずられ、また離れて行ったのではないか、そんな風にも考へたりしました。同様に「草食男子」だった立原道造が、血気を奮って日本浪曼派に親炙し、離れててゆくのも、けだし当時の若者を駆りたててゐた一般の心情・気分だったのでありませう。荘原照子が山村酉之助のことをボンボン呼ばはりするのは、詩そのものに対する評価とともに、詩友高柳奈美がのちに乾直恵の奥さんになったこと、そして「コギト」への寄稿が「日本浪曼派の一味」とも観ぜられて、すこぶる印象がよくないからでありませう。
次号はいよいよ『マルスの薔薇』について言及されます。さきの掲示板で触れたやうに、詩誌『マダムブランシュ』における匿名子の激辛批評が、秋朱之介の筆になるものであるかのやうな記述が、同誌面の自己弁明記事にみられるのですが、『マルスの薔薇』を編集した稀代の装釘家、秋朱之介に関する彼女の回想は如何なるものなのでありませう。そして彼女が強烈に意識してゐたといふライバル江間章子も、一旦は北園克衛に兄事するものの離れてゆくのですが、北園克衛の一派についても尋ねてをれば、先日の「四季」に対するのと同様、きっと興味深いモダニズム当事者による印象・感想が聞かれたことでせう。楽しみです。
546
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やす
:2011/04/16(土) 01:03:08
『淺野晃詩文集』 【第一報】
今晩『淺野晃詩文集』を拝掌。刊行経緯を知って吃驚、お慶びとお見舞ひと交々お伝へ申すべくも、まずは巻頭写真16p本文703pといふ浩瀚な陣容、限定300部で6300円(税込)といふ破格の赤字出版について、その完成を緊急報知いたします。
『淺野晃全詩集』をお持ちの方はもとより、日本浪曼派の研究者・愛読者は急ぎお求めください。感想紹介は追って上したいと存じます。
中村一仁様、長らくの編集お疲れ様でした。被災の後始末に忙殺の最中、貴重な一冊を私にまでお恵み頂き感謝に堪へません。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
『淺野晃詩文集』2011.3.30鼎書房刊 6300円(税込) ISBN:9784907846794
547
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やす
:2011/04/27(水) 00:12:45
山下肇 / 『木版彫刻師 伊上凡骨』
池内規行様より「北方人」第15号の御恵投に与りました。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
池内様が私淑される山岸外史。その周辺人物として今回回顧されるのは、戦後東大教授となった山下肇氏です。池内様の訪問記や「外史忌」におけるスピーチなど、良い感じで読んでゐたのですが、終盤に至り「わだつみ会」の内紛をめぐっての書きづらい事情を、是々非々として裁断し書き留められてゐたのには吃驚しました。いったいどういふ事情なのか、ネット上で関係記事を読むことを得、改竄された岩波文庫版『きけわだつみのこえ』を原姿に戻さうとした「わだつみ会」役員が、「事務局」によって排除されたといふ騒動の一件を知りました。その状況に立会ひながら、事情が「全部分かっているのに事務局には無力」といふ格好を装ひ、なほ理事長の座を墨守されたといふ山下氏の情けない俗物ぶりについては、池内様がこの一文を「知性と詩心と卑俗」といふタイトルにし、
太宰治に学んだはずの含羞の念はどこへ消えてしまったのだろう。人一倍知性に優れ、詩心に恵まれた先生の晩年に想いを致すとき、一種痛ましさを感じずにはいられない。
と惜しみ嘆いて締め括られた通りです。前半で語られてゐる池内様とのやりとり、そのなかで明らかにされた高橋弥一氏との心温まる交流とは、如何にしてもつながりません。まことに「不思議であり残念でならない」ことですが、それが人間といふものなのでせうか。晩節を汚した人物に対する回想と評価の難しさを思ひ、また「東大名誉教授」や「岩波教養主義」の権威を後ろ楯に、戦没学徒の遺稿をイデオロギーの具に供せしめた「わだつみ会」事務局の変質にも憤りを感じました。
山下氏が戦後山岸外史を訪ふことがなくなったのは、もちろん「君子危きに近寄らず」との打算が働いたからでありませう。しかし、それは「結婚式に呼ばなくてよかった」といふ酒席における無頼派らしい狼藉ぶりを恐れて、なんて次元の話ではなく、職場内での昇進にも影響を与へかねない「縁を切るべき日本浪曼派の人物」もしくは「戦後は反対に共産党に入党した、激しすぎる節操の持ち主」として敬遠されたのではなかったでせうか。
若き日の山下氏のかけがへのない親友であり、ともに山岸外史に兄事して通ひつめたといふ今井喜久郎・小坂松彦両氏の戦死を、山岸外史の評価を訂正できる貴重な証言者を失ったと惜しまれる池内様のお気持ちは察するに余りあります。同時に彼らの痛ましい戦死については、『きけわだつみのこえ』の生みの親でもある山下氏御自身こそ、衷情は深刻なのに違ひない訳でありますから、「不正を見て見ぬふりをすること」こそ最も恥づべきナチズムの罪だったと反省するドイツの戦後と深く関ってきた筈の氏にして、この不甲斐なさは一転、一層のさびしさに思はれることです。やがて共産党からも破門されたサムライの先輩は「わだつみ会」の顛末を泉下からどのやうに眺めてゐたことでありませう・・・。
あらためてここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。
池内様よりは、合せて同人のお仲間である盛厚三様の新著『木版彫刻師 伊上凡骨』(2011徳島県立文学書道館刊)を同封お贈り頂きました。「いがみぼんこつ」・・・未知の人ながら一度聞いたら忘れられない名前は、また一度会ったら忘れられない人物でもあったやうです。洋装本の装丁に関はり、当時の芸術家たちから最も信任の厚かった木版職人であった彼は、明治気質の職人らしい、裏方としての気骨を「凡骨」と自任したものか、名付け親の与謝野寛夫妻や岸田劉生、吉川英治らと親交を深めながら、誰彼に愛される奇人ぶりを示したと伝へられてゐます。業績とともにエピソードも満載の一冊。重ねて御礼を申し上げます。巻末の「伊上凡骨版画一覧」リストから、家蔵本では『私は見た』といふ千家元麿の詩集がみつかりましたが、似た感じの装釘で、中川一政の処女詩集『見なれざる人』にも「彫刀 伊上凡骨」のクレジットがあるのをみつけました。写真印刷版が確立するまで、江戸和本文化の伝統が最後に燃焼した痕跡とでも謂ふべき「洋装本の木版表紙」の風合に、しげしげと眺めいってゐるところです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000705.jpg
548
:
やす
:2011/05/12(木) 03:06:28
「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」
? 岐阜の大牧冨士夫様より『遊民』3号御寄贈に与りました。左翼文芸史の回想を連載されてゐるのですが、今回は「おぼえ書き・西沢あさ子さんのこと」。未知の人ですが、詩人西澤隆二の元妻といふことで、佐多稲子への問ひ合はせの手紙を始め、新資料公開の意義は深からんことを思ひ御紹介します。
福井県丸岡町一本田にある中野重治の生家跡は見学した事もあり、あらためて彼の友人に「ひろし・ぬやま」といふ風変りな名の詩人や、妹に中野鈴子といふ詩人があったことなど思ひ出しましたが、定職のない夫隆二を支へるために働きに出た銀座のバーで、ミイラ取りがミイラになったのか、生活が荒れてゆく同志である妻の様子を、見るに見かねたのでせう、彼らの師であった佐藤春夫が仲裁に乗り込んできたといふ一件。その後いくばくもなく短い夫婦生活は清算されたと云ひます。御存知のやうに「門弟三千人」を誇った佐藤春夫は日本浪漫派筋の弟子も多数擁する文壇の大御所で、離婚後の彼女はその許に通ったといふことですから、如何にも懐が深いといふべきか。むしろ佐多稲子の回想小説で、親しかった気持ちが「しゅんと音をたてて消える」と書かれたのも仕方なく、旧と同志だった誰彼が、彼女の存在を(西澤氏の再婚にも憚ってのことでせう)「なかったこと」にしたがってゐる事情など、イデオロギーによる政治闘争の裏側で、時代に翻弄され捨てられていった一女性の不幸が、聞き出せば聞き出すだけまざまざと浮き彫りにされてくるやうで、戦時中、同郷の中野鈴子に宛てた、詩のやうな彼女の手紙は痛ましい限りです。その一節。
スズコサン、ワタシタチハ昔ノユメヲモッテイル。ソノユメカライロイロシカヘシヲウケ、コウシテイキテイル。ヒトクチニイヘバ、ワタシタチハウマレソコナツタノデハアルマイカ。ワタシタチハ、アマリクライクルシミニアヒ、ホントニアタマヲワルクシスギルトイフコトガアルノダ。
これら故意にたどたどしい言葉に滲んでゐるのは、もはや「転向」と呼びたい程の挫折感でありませう。社会の理不尽を具さにクルシミ、ルサンチマンを掻き立て共に見た革命のユメ。しかし直面した現実からイロイロシカヘシヲウケ、ウマレソコナッタノデハアルマイカと、一種因業にも観ずる自責の念は、「正義」に盲ひた自分の姿を戯画化するに至ります。戦後、元夫の幸せさうな再婚を横目で睨みながら、同じく中野鈴子宛ての手紙より。
私はふとってゐる、おまけに綿入れの重ね着ときている。山が歩いてゐるやうだ。田舎の町の角の店屋のガラス戸に映る大きな大きな女、おおそれは何と私であった!
田舎の町の一本の本通り、本通りのつき当りは山脈だ。私はそこをのっしのっしと歩く、昨日はこの本通りに雪が降った。山脈がはげたお白粉程に雪を着た。
私はその本通りを歩く、あなたへ手紙を出しに、その手紙にはる切手を買ひに。
彼女が如何なる晩年を過ごしたものか分かりません。丁度『淺野晃詩文集』を読んでゐるところでしたから、私は淺野晃の最初の妻であった伊藤千代子のことを思はずには居られませんでした。彼の場合は反対に、思想の憑物が落ちたのが夫の方で、若妻は夫の変心を理解できぬまま、痛ましい錯乱のうちに肺炎で亡くなってゐます。前回掲示板でとりあげた「わだつみ会」と同様、挫折を知らず死んだ女性闘士の一途さを、小林多喜二のそれとならべて「反天皇制」の殉教者として祀り上げんとする政治活動が今も盛んだと聞きます。今回の大牧様はむしろ左翼の立場から、この「生没年不詳」の一女性のことを「忘れてはならない」人物として、文学史の闇から救はうとされてをり、探索動機にある温かな人間観が、私のやうな者が読んでも同感を覚える所以なんだらうと思はれました。
ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。
『遊民』3号 遊民社発行 \500? 連絡先:三島寛様rokumon@silver.plala.or.jp
549
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二宮佳景
:2011/05/14(土) 13:05:11
伊藤千代子の栄光と悲惨
夫である淺野晃の解党の主張に衝撃を受け、一時は統合失調の症例を呈し、最後は松沢病院で肺炎で亡くなった伊藤千代子。ネットで調べれば、ある特定の政党やその同調者同伴者が彼女を持ち上げているのが分かる。若くして死んだことは気の毒という他ないが、実は彼女は、とても幸福だったのではないか。
まず、89歳の長寿を全うした淺野と異なり、長生きせずに済んだからだ。千代子があの三・一五事件の後も生きていたら、彼女に転向は無縁だったろうか。佐多稲子が戦争中、戦地に慰問に出かけたように、千代子も転向して国策に協力するような事態もあり得たのではないか。そう思うと、あの時死んで、千代子は幸せだったのだと思う。
また、戦後の日本共産党の歴史を見ずに済んだのも幸福なことだったと思う。今でこそ徳田球一らの「所感派」は党史の上で分派ということになっているが、千代子は長生きしていたら「国際派」に属しただろうか。それとも「所感派」に属して北京からの指令に従って武装闘争路線の片棒をかついだであろうか。
その後も共産党は多くの文学者や文化人を除名処分にしているが、千代子は例えば蔵原惟人のように、最後まで党に忠誠を誓っただろうか。獄中の千代子について証言を残した女活動家たちの何人かも、結局は党から切られる形になった。佐多稲子にもその思いを禁じえないが、死んだ千代子への追憶が誠実であればあるほど、「家」であったはずの共産党から除名された彼女たちの悲劇が一層痛ましく感じられてならない。
小林多喜二や宮本百合子のように、どんな拙劣なものでも小説や評論を千代子が書き残していたら、それは「研究」の対象になりえただろう。しかし、夫の母親あてに書かれた書簡、あるいはそこに記された心情の美しさとやらを称えることが果たして「研究」と呼ぶに値するものなのかどうか。門脇松次郎や遠藤未満、紀藤義一や小池豊子、さらには楠野四夫といった淺野晃を直接知る、「苫小牧文化協会」の系譜に連なる人物が相次いで鬼籍に入る中で、伊藤千代子の名前を出したいがために淺野を語るような人物が大きな顔をし出すのは、時間の経過の中でやむを得ないのかもしれない。しかしその楠野さんが名誉会長を務めた苫小牧郷土文化研究会が刊行する『郷土の研究』第9号を見て瞠目せざるを得なかった。というのは、楠野さんの追悼特集を組んでいるのはいいが、御息女の口からあり得ない発言があったからだ。札幌の御息女に電話で確認したら、「父の個人的なおつきあいを私は知らない。それはインタビュアーの人が書き足したこと。申し訳ないことをしました」とのこと。やっぱり! 何より、あの伊藤千代子の書簡発見で一部の連中が盛り上がるのを、楠野さんが苦々しい思いで見つめていたのを、直接知っている。あの時、入谷寿一が編集した『苫小牧市民文芸』の千代子特集にも、楠野さんは沈黙を守った。あちこちの団体などから寄稿や証言を求められたものの、一切拒絶されたのだった。
「伊藤千代子研究における歴史修正主義」になるか「『郷土の研究』における歴史修正主義」になるかは、まだ分からないが、そんなタイトルで文章を書いてみようと考えている。苫小牧市立中央図書館の、淺野晃に関する展示コーナーに千代子の肖像写真や書簡が陳列されるのも時間の問題だ。しかし、伊藤千代子は苫小牧と直接、何か関係があったのだろうか? 何もない。ただ地元の党員や活動家が騒いでいるだけの話で、公開された書簡が注目されたのも公開当初だけで、その後は他の資料同様、開示請求は激減したという。
末筆ながら、中嶋さんのますますの御活躍と御健筆をお祈りいたします。
550
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やす
:2011/05/15(日) 00:31:53
伊藤千代子について
二宮様、あらためてはじめまして。雑誌『昧爽』での御文章をいつも拝見してをりました。伊藤千代子については、二宮様と全く同じ理由から、私は「とても幸福」ではなく、当たり前のことですがやはりとても不幸だったと思ってをります。さうでないと、淺野晃もまた転向などせずに死んでゐれば幸福だったなんて云ふ人が現れてこないとも限りませんから(笑)。
「とても幸福」といふのは、むしろ千代子の悲劇を主義主張であげつらふ方々の、事情と思惑に於いて、さうなのでありませうが、とても残酷な幸福です。立原道造や中原中也も戦争を知らずに死んでいったから幸福だったといふ人がをります。彼らの親友ならばさう言ってもいい。反対に彼らを歴史的人物としてみることのできる人ならさう言ってもいい。しかし私の立場は、この世代の人たちとは、先師との縁を以て地続きにゐたい(まだぎりぎり許されるのではないか)といふ感覚で接してゐますので、さうは言へません。やっぱり「淺野晃の妻」ならば、生きて居れば必ず転向したと思ふし、死因が肺炎といふのは雨中に立ちつくしでもしたのでせうが、未だ夫の変心を理解できなかったとはいへ、「兄さん」を恨んで死んでいったとはどうしても思はれない。二人を引き離して考へるのは、死に別れた夫婦に対して失礼な話で、だからこそミネ夫人は『幻想詩集』に激怒したんだらうと思ってゐます。(二宮様が記述された後半部の詳しい事情は、『昧爽』14号の「淺野晃ノート番外編」における中村一仁様の収めやうのない怒りを御参照のほど)
けだし若き日に生涯の傷となった唯一人の女性を心に刻んでゐる文学者は多いですね。森鴎外はもとより、川端康成、伊東静雄、三好達治…。伊藤千代子との関係については、日夏耿之介の死別した前妻と並び、文壇でもタブーに類することだったのでせうか、今回『淺野晃詩文集』に収録された未発表原稿「千代の死」には、多くの注目が集まるものと思はれますが、合せて「水野成夫のこと」に描かれてゐる、昭和3年3月15日に始まった一斉検束の様子なども、なるべく多くの人に読んでもらひたいと思ったことです。
連休中は私事にかまけて何も書けませんでした。中村一仁様が『昧爽』に連載された「淺野晃ノート」に出てくる人達の名が、この本を読んだ後では親しみをもって理解できるやうになりました。公私ともに多事忙殺中ですがいづれ拙い書評を掲げたく、このたび思はぬ震災被害に遭はれた中村様へも何卒よろしくお伝へ頂けましたら嬉しく存じます。
コメントありがたうございました。
551
:
:2011/05/24(火) 03:09:04
伊藤千代子と浅野晃
歌人の伊藤千代子と詩人で歌人の評論家である浅野晃夫婦のことが問題になったのは、浅野晃書簡の公開による。伊藤千代子が不幸だったとか、いや本当は幸せだったのではないかとか、憶測、類推の類が巷に蔓延しておりますが、あまり意味のない素人の感情論に過ぎませんね。
興味のあるのは、事実と真実の狭間です。
共産党員として病死した千代子、共産党を離党して監獄から出た転びバテレンのごとき浅野晃。こうなれば、党員にとっては、千代子は聖女にしておきたい存在でしょうし、浅野晃は若い妻の千代子を見捨てた男という図式になるのは当然でしょう。浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人らは浅野晃擁護に回っていたりと、事実や真実を超えてひそひそ、侃侃諤諤というのも、文壇スキャンダルめいていて悲しいことに見えるものです。
ですが、形の上では、思想に殉じた千代子はジャンヌ・ダルクで、浅野晃は日和見主義者で若い妻を見捨てた事実には違いないことです。だからと言って、浅野晃が良いか悪いかは別のことですが。そこで2首。
獄死せし伊藤千代子を見棄てたる浅野晃の佇ちし野に立つ
したたかに生きよと励む歌人の絶えしは寂し窓外の雨
552
:
二宮佳景
:2011/05/24(火) 21:17:40
事実や真実(藁)
「歌人の伊藤千代子」。千代子の作品あるいは歌集をあげてみてください。
「浅野晃書簡の公開」。夫婦のことが問題になったのは千代子が浅野の母ミネに書き送った書簡が公開されたからでは?
「共産党を離党して」。浅野や水野成夫らは離党ではなく、田中清玄に除名されたのでは?
「若い妻を見捨てた」。見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意したのだ。
「事実や真実」。これも見る側によって、大きく変わってきますね。ただし生前の伊藤千代子が苫小牧とは何も無関係だったことは事実です。
「浅野晃ゆかりの苫小牧近在の歌人は浅野擁護に回っていたり」。これは初耳ですな。檜葉某なる女流歌人が浅野の文化活動への協力は偽装だったなどとトンデモな主張を、自身の成田れん子論で展開しておりますが。これも様々な「事実」から自ずと否定される謬見です。
「素人の感情論」。ならば貴殿は「玄人」なのか? そして「玄人」になる資格や秘訣は何か? そして自身の主張は「感情論」ではないとでも?
誤解を避けずにいえば、浅野晃の転向は正しかったし、死んだ最初の妻を「偲ぶ」という形で自身の詩作の題材に利用した姿勢はまさしく「牡の文学者」「強者の文学者」のそれであって、称賛に値する。『幻想詩集』は千代子がらみで論じられることがほとんどだが、浅野の詩作の流れの中では、浅野の宮澤賢治受容の到達点とみることができる。
553
:
二宮佳景
:2011/05/24(火) 21:27:17
お詫びと訂正
×浅野の母ミネ
○浅野の母ステ
「ミネ」は浅野の妻の名前でした。感情的になって筆がすべりました。お詫びして訂正いたします。
554
:
やす
:2011/05/24(火) 22:03:56
(無題)
人の一生はまことに割り切れないことばかりです。
割り切れないことを、知らずに死んだ方が幸せなのか、
その矛盾を背負い込んで、はからずも生き残った方が幸せなのか、仰言るやうに意味のないことではあります。
ただ幸・不幸を越えて、伊藤千代子より淺野晃の方が桁違ひに「重い人生」を送ったとは、云へるでせう。
思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、淺野晃を「千代子を見棄てた」と切って捨てて論じることのできる人は、
偉いものです。例へば思想なんて高級なことは抜きにしても、奥さんと死別したら、大切な思ひ出を胸に、一生独身を貫き通すことができる人でせう。
節を曲げない人生を送ることのできるひとは、勿論その方がいい。業が深い人生を、好んで選ぶ必要などないです。
ただ二宮様が仰言って下さったやうに「見捨てたも何も、お互い獄中に居て助けようもなかったし、浅野は自身の思索の果てに、水野の解党の主張に同意した」といふことだけは、おさへておかなくてはならないでせう。
淺野晃といふ文人の遍歴は、日本の近代史の業の深さをそのまま身に帯びてをり、(詩集の御返事しか頂いたことはないのですが)、私は尊敬に値する方であると思ってゐます。
同じく思想の色眼鏡を掛けてゐる人は別にして、今の日本で、彼のやうな生涯を送った先人を、切って捨てて論じることのできる人は、
情けないと思ひます。自分が与り知らぬ日本の過去について、自分達とは何の関係もない世界として清算したつもりでゐるんでせう。
『詩文集』の書評は書きかけのまま。出張から先ほど帰ってきました。申し訳ないです。
早くupしないといかんですね。根保孝栄石塚邦男さま、二宮様、コメントありがたうございました。
555
:
二宮佳景
:2011/05/24(火) 22:56:13
中嶋様へ
こちらは感情的に書きこんでしまいましたが、中嶋さんは大人ですね。心に余裕があるというか。見習わないといけないと反省しております。
このコメントも含めて、掲示板を汚すものと判断されたら、小生の書き込みはすべて削除してください。ただ、伊藤千代子について論じるなら、彼女がその若い命を捧げた党が、当時コミンテルンの支配下にあった事実や、当時のソ連でスターリンが何をして居たのかなども、当然視野に入れないといけないですね。千代子を持ち上げる人間からは、そのあたりのことは何も聞こえてきません。
先日みずす書房から出た『スペイン内戦』(アントニー・ビーヴァー著)で、フランコらの反乱軍と対立した共和国側がソ連一辺倒で、スターリン式の残虐な粛清を導入していたことなどが明らかにされていました。王様の首をはねたことを称えるフランスかぶれや、レーニンやスターリンが大好きなソ連びいきが多い日本の知識人があまり書いてくれないことを、たくさん教えられた気がしました。国際旅団がどうの知識人の連帯がどうのは、もうたくさんですね。
ソ連が消滅したこと、ベルリンの壁が崩壊したこと、中国共産党の本質が天安門事件やチベット弾圧で明白になつたことなどを、決して直視しようとしない人間が苫小牧にはいるのですよ。本当に驚くべきことです。もっとも、老い先短い人間に、今さらその青春や人生を否定するようなことを言うのは、いささか酷なことなのかも、という気持ちも少しだけあります。
しかしそんな人間の主張に学ぶところは何もありません。「こうはなりたくない」というのは「学ぶ」ということではないですから。
556
:
二宮佳景
:2011/05/25(水) 00:51:13
またまたお詫びと訂正
×みずす書房
○みすず書房
掲示板汚し、何度も申し訳ありません。お詫びして訂正します。
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:
:2011/05/25(水) 04:49:27
伊藤千代子と浅野晃
浅野晃が戦後、苫小牧市勇払に在住していたことがある。浅野は浪漫派の文芸評論家として有名で、また歌人・詩人としても一家をなした文化人ながら、戦前共産党に入党していたことから投獄され、獄中を体験したが、共産党の党籍を離れた事によって釈放された体験を持つ。
戦後、そうした経歴から占領軍によって職を追われて山陽国策パルプゆかりの水野成夫の紹介で勇払工場の社宅に数年居住していたことから、北海道は浅野晃ゆかりの地となって、研究者に注目されている地である。私は、東京の学生時代、浅野晃の歌会の末席に二度ほど顔を出した事があって、彼の存在そのものに関心がある。現在、私は「北海道アララギ」の会員で、旭川の「ときわ短歌」の会員になっているのも、浅野晃の足跡を引き摺っていたゆえかもしれない。
しかし、浅野晃の最初の妻伊藤千代子に関しては、千代子の哀れが際立って、浅野晃には何としても同情できないのである。それは浅野晃が悪いのではなく時代が悪かったゆえの悲劇なのだが、それにしても浅野晃の立場は、若い妻の千代子が思想の純潔を守ったのに対して、思想的に裏切った男という立場は拭い切れないように映るのである。時代の悲劇であるにしても、浅野晃の姿は、獄中の千代子の心中にどのように映っただろうかと思うとき、千代子への哀れの思いが際立ってくるのである。
558
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:2011/05/25(水) 05:41:47
再び浅野晃について
浅野晃は、文学者としては怪物でしたね。その意味では興味深い人物です。思想的に言えば、左翼から右翼まで、時代の変化につれて変節した思想家でありました。私は浅野晃を擁護するつもりもないし、共産党を擁護するつもりもありません。
ただ、人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味があるだけです。浅野の最初の妻伊藤千代子は歌人であり、その作品も数多く残ってますが、良い作品ですよ。師であり夫であった浅野晃を千代子は恨んでいた資料は残っていませんし、夫婦の間の感情は、さして私には興味がありません。ただ、伊藤千代子は、今や共産党にとっては戦士ジャンヌ・ダルクであることは確か。浅野晃は時代と共に巧く変節してきた日和見男であったことは、彼の足跡から明らかですが、それは、時代を生きたほとんどの人間と同程度のものであって、特別卑劣なことではないでしょう。
浅野晃フアンには言いずらいことですが、私の見るところでは、彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかったということです。超一流という方も居ますし、三流だという方もいますが、私の見方はそういうものです。
それにしても伊藤千代子は、若くして亡くなっただけに未熟な歌しか残ってないのですが、今や伝説の歌人となりましたね。むしろ伊藤千代子は、一般には、文学的実績をのこしている浅野晃よりも、悲劇の歌人として人気抜群に持ち上げられています。でも、悲劇は日本人に限らず庶民には好みのものですから、伊藤千代子は、小林多喜二同様、時代のヒロインとなる必要にして十分な条件を備えた女性像でしょう。24歳で亡くなった千代子、90歳を超えるまで生きて天寿をマットウし、文学史に残る業績を残した浅野晃の二人を比較するとき、同情の心が千代子に傾くのは致し方ないことでしょう。草葉の陰で浅野晃は苦笑いしてるでしょし、千代子は首をすくめてテレ笑いしてるでしょうね。
559
:
やす
:2011/05/25(水) 07:32:18
浅野晃について について
「文学者としては怪物でした」「彼は文学者として一流であったのですが、超一流ではなかった」「時代と共に巧く変節してきた日和見男」
「怪物」…室生犀星とか佐藤春夫とかもよく言はれますね。戦後の糾弾にびくともしなかった「大きな人」のことを左翼がさう呼びますが、やめた方がいいです。
似てるからって勿論ぬらりひょんでもありませんし(笑)、決してぬらりくらりしてゐたのではない。
変節したのは思想であって人倫においてではない。生涯を通じて人づきあひに誠実であったから、共産党の暴力性をいちはやく戦前に見ぬけてしまった。ここ大事ですよ。
だから「日和見男」ではないんです。
さうして本領はもちろん戦後です。北海道での生活がなかったら、私も石塚様の言を肯ひませう。日和見男を多くの青年達が慕ひなどする訳がありません。
そこで詩人として再生し、一流ではなく超一流の詩篇を遺してゐます。
伊藤千代子どころの話でない。保田與重郎のお先棒といふ汚名も返上します(むしろ反対に教示した宮澤賢治を始めとする仏教観が、保田與重郎の後半生のゆかしい文人像に影響してゐるのではないでせうか。)
もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、
さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません。
「人間としての浅野晃、思想家としての浅野晃の作品と人柄に興味がある」
そこなのです。さう仰言るなら、まさに今回その視点で中村一仁様がまとめられた『詩文集』を是非、手にとって頂きたいと思ひます。
560
:
やす
:2011/05/25(水) 07:39:00
(無題)
二宮様
「自分の投稿の編集・削除」といふボタンを捺せば、投稿したブラウザで訂正ができます。(過去ログに収める際に訂正しておきます。)
よろしくお願ひを申し上げます。
561
:
:2011/05/25(水) 20:10:04
浅野晃の虚像と実像
浅野晃が晩年、北海道苫小牧市に数度きてますが、そのうち三度、新聞記者として彼に会って取材した体験が私にはあります。
私が東京の学生時代、先生の歌会に二度ほど出たことがあります、と言いますと、浅野晃はじっと私の顔をのぞき見るように見ました。私は当時、深川の心行寺という浄土宗の寺に寄宿して神田御茶ノ水の大学に通ってました。その寺では幼稚園を経営してまして、そこの先生をしておられたO子さんが浅野先生の短歌の会の会員でした。浅野先生は僕のふるさと苫小牧市に数年居住していたことをO子さんに話しますと、歌会に出てみないかと誘われまして、それで、のこのこついて行ったというわけでした。昭和37年の春だったと思います。
当時、小説、現代詩、評論をやっていた私でしたが、短歌、俳句にはさほど関心がなく、現代詩も神田の伝説の喫茶「らんぼう」に出入りする「荒地派」の詩人たちを信奉して、鮎川信夫とかの姿を見たいばかりに出入りして教えを請う立場だったで、読んではいましたが、浅野晃の詩作品には関心がありませんでした。
それで、浅野晃の歌会には二度出席しただけでしたから、浅野晃と伊藤千代子のことは、当時知りませんでしたし、浅野晃の存在そのものにも、さほどの興味はありませんでした。
しかし、浅野晃は、私の故郷の苫小牧市のお弟子さんたちが、神様のように慕っている存在であることは知ってましたので、そういう男かと短歌の世界の師弟関係の深い絆を感心して見ていたものです。
私が新聞記者として浅野晃と再会したわけですが、そうした経緯から再会もさしたる感興をおぼえなかったものです。
浅野晃とは十数年ぶりの再会でしたが、白髪の柔和で上品な80近い学者タイプのプのお年寄りで、初めて東京の歌会で会った印象とは違ったものでした。彼の詩は比較的好きですが、現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。
そんなわけで、浅野晃の教え子ではない私は、浅野晃に傾倒する詩人、歌人とは一線を分けている立場ですから、客観的に非情に語ることができるのでしょう。浅野晃信奉者には大変悪いのですが、以上のようなかかわりから、私は、浅野晃を突き放して見ることができるのですが。また、共産党員でもありませんので伊藤千代子を冷静に見ることができるのです。
562
:
二宮佳景
:2011/05/25(水) 22:07:09
生きている本人を直接知っていること
詩人を歴史上の人物として知っている、あるいは文献や関係者の証言のみでしか詩人を知ることができない私からすれば、直接詩人を見た根保氏はある意味でうらやましいが、ある意味で「その程度の経験か」と冷めた思いも禁じえない。
ところで、伊藤千代子が「伝説の歌人」? たしかに女学校時代に短歌の一つくらい詠んでいるのかもしれないが、彼女が再評価されるような歌を残していたというのは、本当なのか? 土屋文明が千代子について詠んでいるのは知っているが。穂別の成田れん子の間違いではないのか?
563
:
二宮佳景
:2011/05/25(水) 22:25:48
やす様の指摘について
「もっとも四季派好きな私の目からすると、かっちりまとめる職人的機微に通じてゐなかったので、推敲が必要だと思ふのですが、さういふところも拘らない。やはり大きいといった方がいいかもしれません」
これから浅野晃について語られる時は、こういう意見がどんどん出てもらいたいものです。
このやす様の指摘、かなり重要です。勇払時代から最晩年の作品に至るまで、そういう印象はやはりぬぐいがたいです。おおらかと言えば聞こえはいいが、かなづかいの当否も含めて、詰めの甘さが残る。ただ、小高根二郎の詩誌『果樹園』に断片が発表された長篇詩「天と海」は、その推敲が功を奏した傑作です。詩誌に発表された一つひとつの断片も捨てがたいのですが、それらをあの七十二章にまとめあげた浅野の力量は、やはりたいしたものです。
『幻想詩集』の冒頭を飾る「帰つてきた死者」も、『果樹園』に発表された時は舞台が駅のプラットフォームで、深夜の空港ではなかった。詩集収録にあたり大幅に加筆、改稿したことが歴然としています。ソ連による大韓航空機撃墜事件を題材にした「海馬島近海」などは、さらにもう一冊詩集が彼によってまとめられていたなら、どのような形で収録されたろうかと考えるのは、それこそ愛読者の妄想の類ですね。
転向後の、特に戦後の浅野が批判した「ソ連」や「共産主義」は、セリーヌの「ユダヤ人」同様、字面そのものだけでとらえるべきではなく、人間存在の愚劣や残虐性の象徴でもあり、その告発の底辺にあったのは、彼のヒューマニズムではなかったかと最近は強くそう思っています。
564
:
:2011/05/25(水) 23:32:36
伊藤千代子の短歌
成田れん子の作品よりも、伊藤千代子の短歌の方が上等ですね。伊藤千代子の作品については、まともな研究がなされていず、これからのことです。
伊藤千代子が浮上したのは、浅野晃研究の過程でのことですし、共産党の党籍のまま病死した悲劇がクローズアップしたことによるので、浅野晃研究が進まず、千代子ゆかりの諏訪市で大々的に宣伝されなければ、彼女は今も無名のままであったでしょう。
一方、浅野晃は文学史的に足跡を残した文芸評論家でありますが、それ以上の存在ではないと、私は思います。短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。
浅野晃の短歌、詩を好きな人は素人だけです。まともに短歌、詩を書いている者はだれひとり評価はしないでしょう。ですが、文芸評論の仕事は、文学史上評価されて良いと思いますよ。
浅野晃について騒いでいる人たちは、仏教大学で彼の講義を受講した生徒か、短歌のお弟子さんだけでしょう。浅野晃の詩は、詩の本質を理解してない素人好みですから、人気があるだけのことです。
しかし、文学についての指導者としては、浅野晃は卓越したもので、また容貌、雰囲気も女性を惑わす不思議な魅力のあった人物でしたから、その面からも怪物といわれるゆえんです。
彼が怪物といわれたのは、いくどか文学者として死に体になりながら、不死鳥のごとく時代の最先端に踊り出たしたたかさによってです。つまり、彼の政治感覚めいた日和見主義が、リバイバルにつながるのですが、そういうところに長けた文学者と見るか、彼の人格のなせる業と見るかは、異論のあるところでしょう。
一口に言えば、浅野晃は偉大な文壇の政治家であったということです。政治家であったが、政治屋でなかったのは、浅野晃信奉者には、せめてもの慰めでありましょう。浅野晃との関係を言えば、私も弟子の末席を汚す立場ですが、彼の数々の変節は、政治的なものよりも文壇での去就の有り方にあるのです。良く言えば柔軟な思慮を持った正直な男であったとも言えます。つまり「過ちを正すにはばかることなかれ」という思想で一貫しておりました。彼の怪物ぶりは、日本文壇史を詳細にたどれば、その姿が浮き彫りにされるでしょう。
565
:
二宮佳景
:2011/05/25(水) 23:41:31
お世話になりました
やす様
お世話になりました。この掲示板からは姿を消します。
一つ分かったのが、根保氏の経験や主張に学ぶことは少ないということです。
後は、お任せします。重ねて、お世話になりました。今度改めて、お宅に手紙を出します。
566
:
やす
:2011/05/26(木) 02:46:08
(無題)
「短歌も平凡な作品ですし、詩の手法も現代詩ではなく近代詩水準のレベルに過ぎません。」
短歌のことは私も詳しくないので分からないのですが、詩の手法の水準とかレベルって何でせう。少なくとも詩の評価とは関係ないですよね。
そんな視点で抒情詩が評価できるかのやうに「平凡」と並列させたりすると、評価者のレベルの方が知れてしまひます。
むしろ私は、同人誌の高齢化が身を以て表現してゐる通り、すでに戦後現代詩の方こそ近代口語抒情詩よりも古臭くなっちゃったんぢゃないかと心配してゐる「素人好み」の人間です。
その原因は、進歩史観でもって戦前を切り捨て、安易に民主主義日本の歩みに詩の歩みを擬してきたからだと、
それゆゑ「古典への仲間入りができない」といふ決定的なツケを、今になって被ってゐるからだと考へてをります。
本当の文学は時代の流れに対する抵抗からしか生まれません。その流れに抗することが出来なかった時代、流れよりも過激に流れることで己の純粋を主張した日本浪曼派の人達は、
結局、敗戦に至って、そのツケを戦争遂行者とともに、追放といふ形で支払はなくてはなりませんでした。
しかし戦後現代詩の人達が、何の転向も表明しないまま、先輩から取り上げ掌握してきたジャーナリズム上で「素人好み」に受ける伝統詩にすりよった言説をし始め、
巧く変節し日和見し果(おお)せて死んでいったことについては、何のツケも払ってゐません。どころか、
今や日本のお年寄り全体が、戦前の教養や道徳を馬鹿にすることをジャーナリズムから徹底的に教へられた「元紅衛兵」のやうな人達世代の塊です。
彼らが私達世代を飛び越して、孫世代に一体何を伝へ得て死ぬるのか、コスモポリタニズムがグローバリズムの破綻によってなし崩しの無効になりつつある今日、気になって仕方がありません。
私は、近代口語抒情詩人たちの遺産を、謂はば祖父世代からの遺言のやうに受け継ぎ、祖述してゆきたいと考へてをります。
「現代詩としては清明すぎて私には今も物足りなさを感じます。つまり、昭和50年代当時としても、すでに古い感性の作品という印象でありました。」
この前半のお言葉は、まさに当時、自分の詩集が石塚様世代の前衛の先輩から賜った評言と同じなのです(笑)。
つまり、昭和60年代当時としても、新人のくせにすでに古い筈の感性で後ろから何刺して来たんだ、という印象だったのでありませうね。
明日は家の所用で代休をとったので夜更かししてゐます。明後日には(途中でもいいので)書評upしたいです。
二宮様、またいつでもコメント頂きたく、皆さまにも宜しく御鳳声下さいませ。
567
:
:2011/05/26(木) 18:17:56
評価基準は
「やす」さんは文語体文章をお書きになっていらっしゃるので、私ら世代より上かと思いましたら、下のようですね。旧かな使いの文章お書きになる若い方とは、短歌をやってらしゃるのでしょうか。それもアララギ系統でしょうか。意見は意見ですから、互いに真摯に耳傾けた上の議論をしましょう。感情的に相手を罵倒してはなりませんよ。教養の程度が知れます。
私は、浅野晃を認めないのではありません。一流ですが、斎藤茂吉、小林秀雄、三好達治のように超一流ではないと言っているのです。私は浅野晃の弟子のひとりですから、師を悪くいうはずはありません。尊敬もしてますし、一流と思いますが、お世辞や身びいきはしません。ただ浅野晃は一流ですが、超一流ではないと客観的に実感していることを申したわけです。理由は概括前述の通りであります。でも、伊藤千代子が脚光を浴びているのを一番喜んでいるのは、草葉の陰の浅野晃だと思いますよ。浅野晃はそのような大らかな男でしたね。自分を誹謗する者に対して、にこやかに微笑んで、罪を憎んで人を憎まずの態度でしたからね。
新聞記者の私は、生意気にも「あなたの詩はご自身で一流と思いますか」とズバリ尋ねたとき、彼は、「一流とはそんな生易しいものではないものです。あなたもそのくらいは認識なさっているでしょう」と、にこやかに静かに応えてました。彼が怪物と言われるゆえん躍如です。ですが、私はその程度では人を尊敬できない性格でして、今にいたってます。人を軽軽しく尊敬したり、軽蔑したりしてはいけないことを、数々の修羅場をくぐってきた浅野晃から学んだことの一つでした。
568
:
やす
:2011/05/26(木) 21:44:21
(無題)
石塚様
私こそ、突然の名乗りのない投稿でしたので、年長者に対して失礼の文言おゆるし下さい。言葉は思ひよりも強く伝はるので注意してゐますが、弟子を自任される石塚様の冷静な分析に、ジャーナリストとしての中立心からと分かってゐながら、案ずべき先輩世代の言として、幾分ムッとしてしまひましたので。
弟子ならば(ことにも末席と自任されるならなほさら)師を客観的に語ってはいけないと思ひます。師を馬鹿にされたら相手がたとい正鵠を突いたところを云ってきても、胸に畳んでいつか仕返しを期する位でなくてはいけないのです(笑)。「感情的に相手を罵倒してはなりません」なんて鷹揚なことではいけないと、私は思ひます。
それから二宮様が仰言った伊藤千代子の短歌のことですが、私も彼女の歌については寡聞にして存じません。同姓同名の歌人もゐるやうです。よい歌を遺したのなら「党」がほっとかないと思ひます。所謂「都市伝説」の類ひではないでせうか。
今後ともよろしく御贔屓下さいませ。仰言る意味はよく分かります。懇切なフォローコメントをありがたうございました。
569
:
:2011/05/26(木) 22:38:19
浅野晃の虚像と実像2
郷土文研の門脇松次郎さんとは若い頃から「居酒屋鍋万」で酒を酌み交わした先輩でしたし、成田れん子の遺作保存に力のあった紀藤義一さんは共に同人誌を出した仲ですし、楠野さんは私が新聞記者時代、図書館長でしたし、楠野さんの娘さんは、新聞社時代、私の部下でしたので、苫小牧の浅野晃関係者は、私とは極めて近い方ばかりです。しかし、浅野晃は一流だが超一流でないと思っておりました私は、浅野信奉者の輪の中には決して一度も入ったことはありませんでした。
若い頃から「神様は造ってはならない」というのが、私の信念でしたから、浅野晃を神様のように祀って語る皆さんの立場を理解できない私であったのです。
文芸評論を軸に学生時代から新聞に寄稿、書いていた私にとっては、浅野晃は一研究材料の文学者に過ぎないという認識しかありません。信奉しすぎたり、憎み過ぎたりすると、客観的視界が曇る怖れがあることを知っていたからでした。
この場でも、主義主張にこだわった発言や、必要以上のアンチ共産党の発言など枝葉末節の議論が目立ち、ことの本質からずれた意見交換になっていることを危惧するものです。
歌人で共産党の苫小牧市の市議であった畠山さんとも新聞記者の昔からの付き合いで良く知ってますが、彼はことさら共産党の立場で伊藤千代子を弁護しているわけではなく、一研究者として伊藤千代子の書簡を公けにすることに努力しただけのことですし、元北大演習林長の石城さんは、偶然諏訪市出身であるところから、伊藤千代子像をゆかりの諏訪市に建立することに尽力することになっただけの話で、概要の流れを検証すると、共産党がことさら伊藤千代子を持ち上げ、浅野晃を裏切り者としているわけでもないのです。
新聞社で客観報道を心がけていた私にとっては、以上のような色合いで見て取れる浅野晃・伊藤千代子問題なのです。伊藤千代子が共産党にとってはジャンヌ・ダルクなのは、政治的視野から言えることですが、文学関係者の浅野研究には何の意味合いもない枝葉末節の週刊誌のスキャンダルめいたことで、問題にすべき事ではありません。
浅野晃が楠野氏に秘密に託した書簡は、自分の死後、真実が明らかになることを望んでいたからで、浅野晃が伊藤千代子を愛しく思っていることを、家族に知れては問題になると先を読んでのことであったでしょう。そうでなければ、書簡は自分で償却処分していただろうと思います。
570
:
やす
:2011/05/26(木) 23:36:23
(無題)
神様でなくとも師と呼ぶならば、弟子が「超一流でない」なんて自ら評するものではありません。
普段は私の枝葉末節のつぶやきしかなく、議論など起きもしない掲示板ですが、
ここは絶滅危惧種たる伝統的抒情詩の「特別保護地区」です。かつ、私みたいのが管理人を張ってゐますので、
中立的文言と雖も、時と場合によりお引き取り願はなくてはならぬこともあるかもしれません。
ひとの道に反して「政治的中立」なんて成心ある書込みだけはないことを祈ってをります。
571
:
二宮佳景
:2011/05/27(金) 00:28:20
駄文を読まされて、いらいらするわ
やす様。宣言を破棄して、最後にこれだけ書きこむよ。
根保氏の主張はよく分かった。しかし、根保氏の発言は本当につまらない。
それこそ枝葉末節の言説だ。本人は客観的であるつもりだろうが、すでに最初
の時点でバイアスがかかっている。「自分は浅野信者でも共産党でもない」と
いうコウモリの優越感が透けて見える。
改めて、「本質」だの「真実」だのは、論者によって変わる多面的なもので
あることがよく分かった。それと、根保氏は共産党に甘すぎる。浅野晃の歩み
を眺めた時、彼が決別した日本共産党がその後どう歩んだのかを検証するのは、
必須の事柄だ。浅野とその生涯を見つめる時、彼が文学者というだけでなく、
歴史の証言者でもあったことを忘れることはできない。ロシア革命以降、ソ連
の(悪)影響を政治的にも文学的にも受け続けた日本の歴史を振り返った時、
浅野晃の文学と生涯はそれと対峙した果敢な事例なのだ。
根保氏の自慢めいた、つまらない書き込みを読んで、改めて浅野や水野成夫
や南喜一、そして彼らの認識を変えさせた思想検事平田勲の偉大と先見性を強
く思う。
それと、根保氏が「浅野の弟子」を自称しても、全く氏に尊敬の念など覚え
ない。なぜなら、弟子が師に持つ敬意や愛情のようなものが全くその発言から
感じられないからで、「弟子」という言葉や生前の詩人との(中身のないくだ
らない)会話を若輩者に見せびらかして、自分の意見に従え、自分を敬えと圧
力をかけているかのようで、読んでいて本当に不愉快だ。浅野の方は根保氏を
「弟子」と思っていたのだろうか。本当に疑問に思う。
それなら、根保氏が軽蔑的に書いていた「仏教大学」(正しくは立正大学)の
教え子たちから浅野の思い出話を聞いた方がまだ為になる。
門脇松次郎や紀藤義一、遠藤未満画伯や小池豊子から直接、浅野のことを聞き
たかった。つまらない生き残りのつまらない証言など、相手にするだけ時間の無
駄だ。本当にこれでおしまいにする。掲示板を汚して、本当にやす様、すみませ
んでした。
572
:
:2011/05/27(金) 01:53:37
師と弟子
文学の先輩や師とは宗教における教祖ではないです。弟子と言えども自分の意見は持つべしです。浅野晃先生とは言わずに、浅野晃と私が書くのは、彼の文学的足跡すべてを許容しているわけではないからです。浅野晃は、その点では自由主義者でした。そして平等主義者でした。自分の文学観に反する弟子も受け入れたおおらかな教育者でした。それが彼の魅力であり、また弱点でもあったでしょう。かれ自身、右翼から左翼、そしてまた、左翼から右翼へと変節しましたが、それは教条主義者ではなく、原理主義者ではなく、自由主義者であったからです。彼は純粋の学問的共産主義は89歳の亡くなるまで認めていましたが、一党独裁の政治的な変形共産主義には断固として反対しております。個人のの自由を認めた上での経済的、政治的共産主義を念頭にしていたのですが、当時の日本共産党はかれの理想に反したものに映っていたのでしょう。中国やソ連の一党独裁の共産主義には最後まで批判的でしたし、彼の平等主義、自由主義的体質では当然であったでしょう。日本の歴史的民族性に想いを寄せた彼が、日本民族の象徴としての天皇制を熱烈に容認して右翼と言われたのも、彼が日本人の資質を愛したからで、それは彼の古典への想いから醸成されたものであったでしょう。
私は浅野晃という文学者を時代に翻弄された悲劇の文学者であったと思いますが、右左ブレた生涯は決して誉められたものではなく、もっと周囲を納得させる処世があったのではないかと思うだけで、偉大な一流文学者であったと思います。ただし、文学史的に見れば、超一流でなかったのは衆目の認めるところで、それを私も宜うということであります。
日本人の多くは、議論に慣れていません。自説に固執して、異説を忌避する単純な原理主義者が多数を占めているのは悲しい事です。議論は新しい見方を獲得するための道筋であり方法であることの意味を、確認して謙虚に議論しようではありませんか。私の意見に反論があるなら、私を説得する論理を展開していただきたいと思います。
物事は良いか悪いか、気に入るか気に入らないかで判断するのではなく、私たちは論議するとき、真摯に異説に耳を傾ける許容範囲の広い心を互いに持って論議をすることではないでしょうか。論議によって新しい視野を獲得できれば私は幸せです。この場でも大いに論議し勉強したいものです。
私も自説を主張します。皆さんも自説を主張していただきたい。歩み寄れるところ、歩み寄れないところを検証して、浅野晃像を追究したいものです。
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