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連投規制で書けなくなった人あつまれー ★7
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前スレ
ttp://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12252/1399568484/
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物自体がのっぺらぼうだとは思ってない。
歪な構造物だと思っている。
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れんとーきせい
>問題はラカン派が主張するように必ずしも統覚に向かわず、
この文章が、
●ラカン派は、「鏡像段階によって主体は統覚に向かわない」としている
という意味なら間違っていない
まさに自我心理学とケンカしたときの論点だ
ところが、
●ラカン派は、「鏡像段階によって主体は統覚に向かう」としているが、実際には向かわないことがあり、
という意味で書いたのであれば、ラカン理論として誤っている
ヌーソロジーすすめてた名無しさんとかも、ヌーソロジーの文章を読んで勘違いしてそうだなあ、と思ってる
ヌーソロジーって「鏡像段階を経るのが正気であること」みたいな論旨でしょ
ラカン理論は鏡像段階によって「疎外」「他化」という「狂気」が生じる、としているんだよ
ある分析家などは「精神分析とは鏡像段階によって生じる「疎外」「多化」という「狂気」から脱することだ」と明確に言っている
鏡像段階に対する評価が真逆なのだよね、ヌーソロジーと精神分析は
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誰が「虚無が残る」なんて話をしてるんだろう
記憶の思考回路では、「役に立ってない」ことが「虚無」なのか?
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君が「役に立って」なくても、「虚無」にはならんだろう
君という個人が存在しなくても世界はあるように
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規制が解除されたけど、時々こようと思うぜよ。
組織の話、聞いてくれてよかった。なんか楽になった。
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私さん、
市役所に聞いたら、親からもらったお金は所得にならないから、
障害年金もらえるみたい。
よかったあ。ほっとした。
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>>856
よかったよかった。
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こっちに書いておくと、例の佐世保事件語る名無しくんは、男の子であればいいセン言ってるとは思うよ
まあいいセン言ってるからつつきたくなるって気持ちはわたしにはあるが
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彼はその子のことを語ってるつもりであろうがいつ気付くかわからぬがそれは彼自身の彼自身がする分析であるわけだが、
加害者JKを利用して精神分析のスタート地点に立てられかけている、と表現できるわけだが
わたしも中学生自閉症を利用して分析主体として精神分析したわけだからな
むしろそのJKの目に入らないだけわたしよりましであろう
わたしはその子と会話してたしな
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ふと気づいたが「自分の考えを理解してもらえない」と思うことと「思考盗聴される」って思うことって相矛盾してるよな
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>>858
そうかもね。
手がかりになることを書けてはいるんだけど(けれどそう私が思っているものは私が見えていると思っているだけの全く別のものかもしれないけど)、
自分のこととして語るのは恥ずかしいとか、自分語りになるのはいけないとかいろんなストッパーがあったりするのかも。
彼はどのくらい真剣に?ニーチェの言葉を引いたのだろうか。
彼にとって鏡に反射するものがあまりに鋭くないことを願う。
口を極めて文句言っといてなんだがね。
私だって二階堂奥歯には会ったこともないのに上のほうでさんざ語っているからなあ。
だから私がしていることがよいとかいう話でもないが。
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>>586
現実のペニスを切断することに意味があるということがすなわちイメージの世界、想像界の出来事と理解していいのかな。
>>655
ていうかΦをずっと見てたら杏子の父親の十字架に見えてきたずら。
>>657
Φというのは子どもの頃にかけられたおまじないみたいなもの、って今考えた。それは与えられたものだし役に立たなくなる時が来たりすんのかなーとか。
>>662
母の(想像的な)欲望の対象という不安定な生成流転の中に在るか、それに(男(他人)の)言葉で名前をつけ(られ)て−φの状態を喪って安定するかという二者択一的選択を迫られる、と書いてみる。
精神分析的な意味でのΦを持つ男の場合、Φという父の名(否)と自分との違和が少ない、あるいは忘却できる(仮)。
女性のヒステリーは精神病者や自閉症のちょっと手前?にいるのかな。
カウチに乗せちゃいけない人?
男性の神経症は強迫症となるの?
女性でも神経症でもなく去勢済みであればΦの世界で生きていけるの?
二階堂奥歯が去勢済みであったというのはそれでよいのだろうと思う。
あるいは去勢済み主体をロールモデルとして生きたと言えるのかどうか。
外からの視線に対して無頓着でいないということ、論理の世界で短い間であれ生きたことを考えるにそう捉えたほうがしっくりくる。
私の理解はちょっとザルの目が荒い気がするが。
適宜つっこみよろ。
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>>663
独我論についてはまた別の機会に落ち着いたら少し書きたい。
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>>668
母の欲望の対象、も自己調整できない出来なさの世界だもんなあ。
「文字通りの意味で」ファルスの模造品を飾って、矛盾を自己内化しつつ悩んでいた、のかな。
>>679
私にとってのナラティブセラピーへの怖さってこれかな。結局あれって本人よりも聴く人たちのためにあるところあるでしょ?
(もちろん厳密に言えばセラピーであれば語る相手は安定的関係を結んだセラピストのみへ、なのかもしれないが)
本人が一時的に開放されても、なにかがぐわーっと跳ね返って来て死にそうな気がするのね。私は。
あるいは治って、平坦になるのかもしれないけど。
>>679
−φとφbarreが並存 メモメモ
気がすんだから死ねたならいいって日記に書いてたでしょう。
外見的にΦになるっていうのは内側の非言語的な世界へのバツを自分でつけてるようなものではないのか。
>>679
たださ、関わりのあった人間だから藤田さんが自分の理論について考えねばならんところがあると思うんだけど、
一因としてあげられるのは彼の理論であり=彼の名前ではないというクッションを私は用意したくなってしまう。
知っている人の突然の死はとても重いものだから。
ミニハンもあくまで理論について書いているというのは読めばわかるんだけど私が変に藤田さんを心配してるのかな。
それって余計なことかもしれない。心配の押し付けかもしれないし、臭いものへの蓋かもしれない。
理論とそれを実行している人を引き離せはしないとはわかってるんだけどね。
再考に有効なのか、それとも抵抗と悲しみを生むのかわからないとこがある。
自分が原因になりたがってた人はいっぱいいたってツハラさんが書いてたな。
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>>682
妊婦のような腹の膨れた少女を天野可淡は何体か作っている。
性的な生々しさや子宮の中の(懐かしくも不気味なところが味噌)世界のような感じがあるのね。
なのでちょっと、おっ、と思っているところ。
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>>683
閉出って出産とかはべつ?
(あくまでメタファー的に連想しているがズレているのかもしれない)
映画の旧撃エヴァで三番目の綾波がゲンドウの腕をもいじゃうシーンとか、「なるたる」の"のりお"の竜の子の名前「ヴァギナデンタータ」とか色々勝手に連想しているけれど、
生み出すものよりかは、外に出す、排除というほうが大きいのだろうな。
また寝る時間はみ出したが色々思うところが大きくて、やはり少し使えるものを増やして書きつけておかないとならないことを考える。
(主に天野可淡なのだが)
私の考えつくことや観察できることなどは後からいくらでも若い頭のよい書き手が出てくるだろうけれどね。
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>>866
旧劇でした(笑)
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小笠原さんとかの理論がもう少し間口が増えれば、ヒステリーの言説の行き場ができるのかな。
(文化的な意味で)女は男に合わせろ的な世界観もまだまだ残ってるけど、フェミニズムが女性についての学問なら、それまですべての学問のほとんどの言葉は男性諸君への男性についての学問だったのかな。
せいぜい病者がワクにはまらなかったために記録に残ってきただけで、女性の書いたものでも言葉はみなし男性の言葉なのかもしれない。
男の人の半分以上はフェミニズムについて誤解してそうだし、話半分に聞いてあげますよ、という態度を崩さない人も多いしね。
でも世代が変われば安心するかというと、母子密着でスポイルされる世代の終わりはまだ全然来てない気がするしな。
(それはつまり子どもを育てる女性への圧力が高い社会だということだ)
母ガー母ガーというが(と言う私もよく言うが)、それは見えない、社会人という仮面に収められていなくてもよい存在にされている父の不在でもあるわけだ。
そしてこっからまた戦争の世界へなど行こうものなら、抑圧の世界へようこそだな。
天皇って母親的って誰が言ってたっけ。
ヤンキーもヤクザも母系社会でしょ。
この時に見えなくなってなかったことにされている父性って、ないわけではないだろうけど(攻撃性、コントロール、分断、管理、
寝なきゃ。
他者の欲望を叶えるためにその姿をしているのか、その人の望みでその姿をしているのか時々わかんない。
同調的笑いというのがそれをますますわか、なくさせる。
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>>862
元夫の天野姓で父の名前の音素が含まれて、母の雅号と相似した可淡という名前で作品を作りひょっこり死んでしまった天野可淡は、それでも幸せだったかな。
幸せでもあっただろうし、孤独でもあっただろう。そういうものだろうね。人間は、結婚をしても家庭を持っても子どもを産んでも。
育てても。
本当に眠らねばだ。
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>>862
女性でも神経症ではなく←女性で、神経症ではなく去勢済み主体なら
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>>862
>現実のペニスを切断することに意味があるということがすなわちイメージの世界、想像界の出来事と理解していいのかな。
精確に言うと、現実のペニスを切断することは、想像的である場合と現実的である場合があるとわたしは思う
藤田は現実のペニスを切断することを現実的去勢の例として書いていたが、一概にはそうは言えず、
たとえばトランスジェンダー男がペニスを切断する場合、イメージの身体の切断を意味する場合が多いとわたしは思う、ということかな
>杏子の父
あれまんまだったよな
>Φというのは子どもの頃にかけられたおまじないみたいなもの、
−φつまりalienationつまり1の世界も、Φつまり2の世界も、子供の頃に覚えた幻想ではある
「与えられた」という意味では、2は「父から与えられたという」幻想であり「幻想に幻想から幻想を与えられた」ということではあるが
1の−φつまりalienationとは「母から与えられたという幻想」という幻想に対する本能的拒絶である、とは言える
>それは与えられたものだし役に立たなくなる時が来たりすんのかなーとか。
幻想だからね
現代資本主義の商品と同じ
>女性のヒステリーは精神病者や自閉症のちょっと手前?にいるのかな。
手前と言うか向こうだな
ヒステリーはあくまで精神分析の出発点である
精神分析の終わりとは、精神病や自閉症を含めて人間であるという生き方をすること
精神病や自閉症は、先天的とかいろいろあって精神分析の終わりにいる人という言い方もできるが、
逆に実存が仮象を飲み込むことによって人間としていられない人たちとも言える
去勢済み主体とは仮象が実存を制御しているあるいは制御するだろうという予見の中で生きている人たち
精神病や自閉症は実存が仮象を飲み込んでしまうあるいはそういう時期(症状として)がある人たち
そういった2種類の人間のせめぎ合いを自分の身に受けるのが分析家
かなあ
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>女性のヒステリーは精神病者や自閉症のちょっと手前?にいるのかな。
読み間違えた、「ちょっと手前」でおk
ちなみに小笠原は境界例とは女性である場合は大体の場合はヒステリーだとしている
もちろん前精神病者の場合もありえるとして
>男性の神経症は強迫症となるの?
大体の場合は、だな
>女性でも神経症でもなく去勢済みであればΦの世界で生きていけるの?
神経症ではなく去勢済みである場合というのは、倒錯だということになる
女性は倒錯した方が、2の世界を否認して1の世界に戻ったとき、ペニスのない身体を根拠に「イマジネールな父」というマイナスの取れたφという幻想を持つ場合が多い
雑談スレで「φとは幼児的万能感だ」と言ったが、それはΦを否認した上で作り出すマイナスの取れたφがそうであるという意味で
「イマジネールな父」というφはΦの否認にはならないんだな、Φを否認を根拠にして作り出すものであるのに
女性の「神経症ではなく去勢済みである」倒錯は、alienation(−φ)をΦとΦの否認という「裂け目」に移行した存在だと言える
alienationの強固なフタがΦという男であるならば、alienationを巧妙にすり替えてやり過ごすというのが女性の倒錯である
ttp://aburax.blog80.fc2.com/blog-entry-1134.html ここらへん
ファザコン娘は倒錯しても否認をつき通せない、みたいな。
男というか1の世界の支えがたとえばファリックマザーな人は、倒錯することが象徴界のルール的に否認になるわけだから、否認をつき通せる、と。
逆な言い方すればだけど。
φという幼児的万能感は「否認をつき通す男」であるということ
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>>864
>結局あれって本人よりも聴く人たちのためにあるところあるでしょ?
自我も他者も鏡像他者という幻想だからなー
どっちみち広義の自己啓発ではあると思う、ナラティブセラピーも
>彼の理論であり=彼の名前ではない
もちろん藤田の考える「精神分析とはΦという象徴的去勢を目指す」(そこを出発点に父の名へ、だとしても)というのは、フロイトがそう考えてたわけだし、
現在のフロイト派やクライン派もそういう感じである
彼個人の理論ではなく、精神分析学派で考えても、藤田の考え方が主流である
ただし、少なくともラカン派は違うとわたしは思う
「精神分析はaを出発点にして/Aに至ること」
日本のラカン村も確かに藤田のような考え方が主流だが、学べば学ぶほどそういった集団的固定観念に疑問が湧いてくる
だからこそわたしは「逆精神分析」などと述べていたのだが、そこへ向井雅明や小笠原晋也という分析家の考え方に触れて、
「やっぱわたしの方が精神分析だったじゃん」というのが今の状態
藤田個人の問題ではない
原和之も新宮一成も、−φという境界例あるいはヒステリーの女性を自殺に追い詰めている
そもそも精神分析とはヒステリーから生まれた学問であるはずなのに、ヒステリーを追い詰める学問になってしまっていることを問題にしている
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>>868
>フェミニズムが女性についての学問なら、それまですべての学問のほとんどの言葉は男性諸君への男性についての学問だったのかな。
これは微妙だと思うけどな
近代哲学からヘーゲルまでは「男性諸君への男性についての学問」だったと思うが(いまちらっとググっただけだけどヒュームとかは微妙)
現象学やらポモ哲学は「男ががんばって女性についてという分野まで踏み出しています」的な学問
個人的には科学とかは「形而下学」としてあったころは「女性の学問」であったとすら思う
男性女性とわけているが、ラカンがそうしたように、「男性か非男性か」の方がわかりやすいと思うよ
ファルスがあるかないかであって、精神分析的な意味の女性を示すシニフィアンはないわけだから
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わたしが問題にしているのは
>そもそも精神分析とはヒステリーから生まれた学問であるはずなのに、ヒステリーを追い詰める学問になってしまっていることを問題にしている
であって、藤田と二階堂の関係がまさにこの問題を具体的に示しているから取り上げているだけだよ
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藤田と二階堂の一件については、
「美容整形を受けたから自殺なんかしない」というのがファルス脳であり、ヒステリーには「美容整形を受けたから(自分で受けると言ったとしても)自殺する」という心理がありえる
それはalienationという狂気で説明可能である
という話で、こういう話こそが「ヒステリーから生まれた学問」である精神分析が研究すべきことであろう、と
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>>866
>閉出って出産とかはべつ?
いかにもアスペ女性らしい発想である
小笠原は4つの言説の「生産」の座を「閉出」「排除」の座としている
これは個人的には工場というたとえでわたしは説明するな
工場は、商品を生産するわけだが、生産した商品は工場の外に「閉出」わけだろ
中にためてちゃ工場は経営できない
普通の母親にとっての「出産」は「閉出」じゃないと思う
せいぜい子供が一人ぐらしとかはじめて「閉出」になるんじゃねえの
ただしこうこないだニュースで見たが出産前の遺伝子検査で発達異常が見られた子供の中絶が20%超えたとかなんかあったけど
ああいうのは「閉出」でよいかもしれない
あるいはそれこそイザナギとイザナミが最初産んだヒルコを捨てるのは「閉出」でよい
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>>874補足
フェミはフェミで日本のフェミは(ごく一部をのぞいて)「女性の権利向上を目指す」学派ですらない政治団体化していて
それは要するに自我心理学やら自己啓発系のベクトルである
日本フェミはむしろ「ヒステリーを追い詰める」側であろう
女性のミソジニーというのもあるんだよ、女性でもホモソーシャルする、それは要するに「女性の倒錯」として、つまり「イマジネールな父」という幻想をもって
それは想像的であるゆえ、男性より強固なホモソーシャルとなりえる(男性のホモソーシャルはΦによって解体されることが多い)
上野千鶴子あたりはうまいことそれを避けようとはしているが
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訂正
>それは要するに「女性の倒錯」として、つまり「イマジネールな父」という幻想をもって
>それは想像的であるゆえ、男性より強固なホモソーシャルとなりえる(男性のホモソーシャルはΦによって解体されることが多い)
この部分は保留
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>>864
「二階堂は物語に殺された(おそらく自分で望んで)」ってわたしが言ったんだっけ
その「物語」の一つとして美容整形があった、という言い方ならわかるかな
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>自分が原因になりたがってた人はいっぱいいたってツハラさんが書いてたな。
ツムラが原因になりたがってたんだろうよ
あの人の話ってだいたいそうじゃん
自分が主張してることを「みんなが言ってる」としたがる人
歩く太宰メソッド
そしてそれは間違いではない
二階堂はファルスに殺されたという話でもあるから
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まあファルスのマテームってあって、Φ/(-φ)とかあるんだけどソーカルな部分もあるわたしはこういうのピンとこなくてわたしなりに非数学的に書き直してみよう
●去勢済み男(強迫症含む)
-φ → Φ
※いわゆる一般的に言われている「去勢」「象徴的去勢」。小笠原理論では「去勢ではない」
●去勢済み女(ヒステリー含む)
-φ
※「女性は去勢不安のまま大人になる」
●男の倒錯
-φ → Φ → Φの否認 → φ
※この(Φ → Φの否認 → φ)が幼児的万能感
●女の倒錯
-φ → Φの否認 → φ
※この場合、(Φの否認 → φ)がΦと同じ作用を持ち、去勢済み男と同様の安定を得る
精神病や自閉症はここにφbarreという実存が関わってくる
つまりそれらとは別次元の話
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>>873
PTSDの本を読んでいると、フロイトがヒステリーの症例研究から(だったかな)幼児期のトラウマで症状の発症をあとで起こすということを「発見」しているのに、
後年それを妄想としてしまった、って文言がよく出てくるけれど、
そのPTSDは繰り返し葬り去られるっていう機序と相似しているのかな。
言葉を持たない、まだ言葉にできないことたちの言葉を、たとえば英語で話さなきゃ聞かないよ、的な感じで、翻訳できない部分を落としてしまっているんだろうかとか。
>>874
ここら辺は私にとっては興味深い。
そうか。男性か、非男性か、か。
>>876
これは私は感覚的にはわかる。
二階堂奥歯が度々怒っていたのも、すっぴんのほうが可愛いよ(これは私が言われてもにょるほうか。明らかに可愛くないからな)、とか化粧したほうが可愛いよ、などと言うことで女性を自分好みにコントロールしようという支配的視線の予感やそうした言葉にについてだったと記憶している。
そういう感覚を持ちながら、彼女は身体改造モノに惹かれる、「身体の線を美しく保つ」。そのことが男性主導で支配を甘んじて受けることと、自分の意志で自分の身体を管理することと外側から区別がつかないことについて嘆いてもいた。
(そもそも管理しきれない人体を管理したいという彼女の完璧主義自体が、彼女自身のものなのか、そのようにつくられたものなのかということさえ悩んでいたように思う)
外見を整えてそれをたとえば褒められるたびに、彼女自身と彼女の外見的姿との乖離は実感されたのではないだろうか。
日記の最初期のコスメの記録からしてもう、彼女の緩慢な自殺は始まっていたとも言える。
他者によって写し取られた像への接近は、自分自身の、支配されていない部分、名付けられていない場所、領地を譲り渡して行くことになる。
コンプレックスの解消が、トラウマごと自分をもほどいてしまう。
自分の望んだと思っていた姿が、自分が持たずに、こうあるべきだと望まれた姿となぜか一致してしまう。
主体的であろうとすることが、主体であれという最初の命令と一致してしまう。
書き取られる。
終止符が打たれる。
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>>878
少女を殺すのは男だけではなく大人の女であることも多いと書いたことがあったっけ。
私が2chでないどっかで。
>>880
これは私もそう思っている。
あの本につけられたコピーは皮肉か何かかと思ったくらい。
(『物語』を愛してやまなかった人が、今、あなたに読まれる物語になった。)
叙事詩ベースの強いファンタジー物語(日本の昔話もそうだけど中には割に不条理なのもあるな)を好きな私自身、
そして書くことを習った私自身、起承転、が用意した流れが結できれいに収まる「はずだ」という期待自体の持つ、
恐ろしいまでの期待感。全能感を(まさしくそれだけを)満足させて欲しいという欲望。
結末から先読みして始点をコントロールしようという欲望。
でかけるので初見で目についたとこだけレスしている。
ミニハンが藤田さんを意味なく批判しているとは思っていない。
二階堂奥歯が死んだことで見えたことについて語ることに積極的であったのは私のほうだしな。
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奥歯さんは倒錯でも自閉圏でもないと考えるべきで、私自身の"実存的"不安についてはまた別に考えるべき、ということが判別できただけでも私自身にとっては、「危険が危ない」が少なくなったとは言える。
女性の倒錯は倒錯になり得ない(安定を得る場合がある)というのは私にとって目から鱗なのだ。
私が私と同じようなものかと無限大に心配を寄せてしまうものの多くは(全部でないにしても)、帰る膝元を持ちながら遊んでいる人たちなのだということが仮に考えられる。
ではまたレスする。
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ただまあ自分と別だからといってそれが大変じゃないことだとは思わないけどと追記して落ちるん。
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ジジェキアンとか一応言うんだな
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連投規制だ。誰か、代行頼めるかな?
以下お願い。
ちなみに、お盆で立っていた嫌儲の供養スレの名無しによれば、
お墓は、一個85万円だそうです。
もともと、その85万円のと同じ規格の先祖代々の墓があったのに、それをぶっ壊して、
一千万円の墓を立てたことがだまされてないとおっしゃるので?
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こっちにいたか、わたしもれんとーきせいくろた
まあ確かに機能的な価値交換すなわち実物の商品の流通ではないところで価値が膨らみすぎるのがバブルだったりスタグフレーションだったりするわけだが
そういった行き過ぎは記憶個人ががんばらなくても自然に経済そのもの(わたしは人間の集合的心理だと断じるが)が調整かけるんだよ
もちろん経済政策とかも必要ではあるが
記憶が個人として「見栄のない経済」を理想とするのはそれでよい
経済そのものという人間の集合的心理にもそういうところがある、見栄だけで資本が膨らみすぎたら自律的にしぼんでいく、バブルがはじけたりスタグフが調整される
それは記憶個人がこの世に存在しなくてもそうあるものである
>>506
>価値ってものは、経済理論で統一的に表わす方法はなくて、
これは同意しよう
つうか「経済理論」ではなく「通貨という観念の不完全さ」だと思うけどな
通貨は価値を統一的に完全に表すことはできない
これは「言語の不完全さ」と同じではある
つか記憶が「小説家として名を残したい」って思うことが「見栄」なんじゃねえの
それは受け入れてただろw
>>510
「先祖を大事にしている」という「見栄」を買ってるのだろうよw
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まあ細木の擁護するつもりは全然ないがその85万ってのは土地代入ってるのかね
都市部で複数のお墓ってことなら土地代も馬鹿にならないんじゃね
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あと今は墓地管理込で販売してるところもあったりするしなー
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その一千万について「8000個の商品」があったりすんじゃねーの
たとえば土地代や墓地管理費など
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代行はいいや。
あとで、自分で書きこむ。ごめんね。
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べっかんこからだと、規制回避して書けるかも?
連投規制だとだめかな?
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>>885
二階堂が自閉圏かどうかはわたしは一応保留っつうか、どちらでもありうると
ただし彼女が聖女テレジアについて違和感を表明していたことがあったが
あれなんかは自我理想というaの問題だと思うんだな
二階堂にとって問題だったのは理想自我としてのaだったと思う
この点は自閉圏っぽいなとかは思う
自閉症って他人に憧れるってのが希薄じゃね
憧れたとしても、それを自分の生き方の指標にするというような、健常圏に見られる「自我理想への固着」が希薄だ
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まぐにゃんいねが
三島の短篇集とか結構自然主義な視線だったりするとわたしは思うのだが、こういう意見文学プロパーとしてはどうよ
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いるぞー。三島の短編が自然主義か。そう言う視点で見たことが無かったなあ。
三島って比喩にはかなり凝るんだが現実的と言えない比喩の使い方をしてるが、それでも現実に即してるって意味では確かに自然主義なのかもしれんが。
例えば新聞紙(しんぶんがみ)っていう短篇がある。これなんかは女性の視線に即して描いていったものだが、自然主義を俯瞰的なものだとすれば、そうではないと言うことにはなる。
ttp://yagi.la.coocan.jp/study/REPO_121.html
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おうやはりおかしいか
ども
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ちなみにわたしがそう言ったのは、自然主義というのは、対象をあるがままに見ようとする態度で、それは一つの科学的見方と共通するわけだが
それを突き詰めたら現象学とかになって間接体験すなわち客観性とか排除されたりして「科学の対象は主観的なものでなければならない」という転換があったりするんだが
話がそれた
ともあれ、小説の場合だと「あるがままを見ようとする」のは、「自分の幻想のあるがままを見ようとする」ことになるわけで
そういう意味では自然主義というか現象学的態度というかなあ
文体とかじゃなくて、筆者の態度として妄想してしまうものとして
そんな風に言っておこう
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ttp://www.fujimashion.com/academia/mishimatamago2.htm
こことかかねえ。「規律正しく萬年床を守つてゐた」にある反語性というか。反語を拒否するのが自然主義ではないかと俺は思ってる。
この「卵」自体が反語を積み重ねていく短篇なのではあるが。
寧ろそう言う意味では仮面の告白つまり長編の方が自然主義的だなあと思うもんだ。
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反語というと「ありのままを描くことを拒否する」という含みもあるだろう。
もっとひねくれたように云うなら、「ありのままを描くことを拒否することでありのままを描く」か。
三島のこの短篇では「この座敷は死んだ主人が、象皮病にかかつたので、だんだん大きくなる體にふつうの部屋が合はなくなるのを心配して、建増ししたのだ」とか、
反語的な比喩がそのまま事実になってる。うーむ、こう考えると難しいな。
普通の文学読み(つまりは俺)だとこの一節は自然主義的なものとはかけ離れているというだろう。
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ttp://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00065309/kbs_41_41.pdf
pdfだが、ここで紹介されてる「仮面の告白」の「裸の女」エピソード、俺のお気に入りの一場面なんだが、読んだときはいかにも虚構っぽいエピソードだなと思ったが、
この論文を読めば分かると通り、日記が元になってるから「ありのまま」事実なんだよな。
「ありのままを描いていないようでありのままを描いてる」一例だ。
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すまん
>「この座敷は死んだ主人が、象皮病にかかつたので、だんだん大きくなる體にふつうの部屋が合はなくなるのを心配して、建増ししたのだ」
これが「反語的な比喩」であることを説明してみてくれ
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反語はある意味妄想を排除するものだったりするんだな
そういう意味では「誇大表現を拒否するのが自然主義」とかは思う
まあわたしが自然主義っぽいとか言ったのはそういう意味ではないが
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現象学なんかは反語的なんだよな
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それこそハイデガーは「存在」を「抹消された存在」の意味で述べてたりする
普通の意味の「存在」は「存在事象」となる
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象皮病で躰がだんだん大きくなるといっても、座敷を建て増しする程ではないだろう。
普通に見れば誇張法(隠喩)だ。隠喩を現実として語ってる的な。
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あーそういうことか
隠喩として読んでなかった
そもそも小説って主観による幻想だからなー
精神分析って夢とか幻想を聞くものだから「この人はそういう幻想あるいは主観を述べているのだろう」という頭になる
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それは全ての小説が幻想文学だ、論的な感じになるぞ。正確には全ての日本文学は幻想文学であるだったと思うが、橋本治はそれに立脚して、その作家の普通は幻想文学とは分類されないような小説を幻想文学だとしてアンソロジーを組んだ。
そういえば二階堂奥歯は幻想文学界隈の人だった。
ミニハン的には幻想文学はどうよ。
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つか小説自体が幻想なんだから幻想小説って重言だよな
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「走るマラソン」的な
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まあわたしの思考があさってだったってことだな
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なんか、三時間たったのに、連投規制フルで弾かれるぞ?
何かの不具合かな?
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三時間ぐらいじゃ解消されないと思うよ
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融合というかローマ帝国はある意味古代ギリシャ哲学を基本に文明化させたものであるゆえ
古代ギリシャ哲学とキリスト教の関係は、ローマ帝国とキリスト教の関係でもあるゆえ、
その歴史がもっとも「実際的な」「古代ギリシャ哲学とキリスト教との関係」と言えよう
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↑雑談スレへのレスでした
れんとーきせー
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まああくまで本というならば、アウグスティヌスかな
生きた時代がそのままローマ帝国におけるキリスト教国教化の時代だし
カント−ヘーゲル系列の源泉を考えるならアウグスティヌスって気がするあくまで大雑把なくくりだが
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れんとーきせー雑談スレへ
>>733
何言ってるのかよくわからんが、プラトンはキリスト教が出来る前の人だから
「キリスト教との融合」なんてありえるわけねえじゃん
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記憶へ
まあ一応知ってるかもしれんが
ソクラテスプラトンアリストテレスはキリスト教が生まれる前の時代の人
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雑談スレのつづき
キリスト教でキリストが人間の原罪を背負って死んでいった、というのと同じ発想でダライ・ラマという存在があるんじゃないだろうか、と
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ああ、見てなかった。
>>918
いや、ショーペンハウアーが「西洋哲学はすべてプラトンへの註釈である」といったらしいから、
その具体的内容をしりたかったんだよ。
今のところ、まったくわからない。
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>721 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2014/08/16(土) 17:38:54.87
>最近、プラトンを読んだんで、ギリシャ哲学とキリスト教の融合の話が気になるわ。
>
>どんな感じなの?
>
>なんか、代表的な本とかある?
このレスを
>いや、ショーペンハウアーが「西洋哲学はすべてプラトンへの註釈である」といったらしいから、
>その具体的内容をしりたかったんだよ。
という意味で読むことはできなかった
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記憶は他人に質問するときはもう少し「自分は何を聞きたいのか」ちゃんと考えから質問するとよい
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「シニフィアンの恣意性」について話しているとき、現象学の人から「ハイデガーはシニフィエがシニフィアンを規定するというようなことを言っていた」と指摘されたことがある
これについて当時のわたしは答えられなかったんだが
小笠原理論でも、シニフィエの座にあるφbarreがシニフィアンの座の仮象に穴をうがつとしているんだな
これは、ラカンにおいては、ソシュールの「シニフィアンの恣意性」は、シニフィアンの場における穴によって、実存的なシニフィエと結びつく、と理解されなければならない、ということか
「シニフィアンの恣意性」は、言葉がイメージを規定するということであって、それは間違いではない
しかしここで実存という場を仮説したら、言葉とイメージは同じ仮象となる。その仮象の中で「言葉はイメージを規定する」ということがあるわけだが、
実存は言葉+イメージである仮象に穴をうがつことによって、実存と仮象を結びつけている、あるいは実存から仮象を分離させている、となる
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雑談スレの流れだが
イスラム国の人 「日本人スパイを処刑した」
よくわからん人 「お前たちは神に処刑されるだろう」
イスラム国の人 「お前たちの神にか? 我々の神にか? くそったれ」
よくわからん人 「もちろんお前たちの神にだ」
イスラム国の人 「神に感謝するわ くそったれ」
という流れに興味持った
こことかこのイスラム国の人に「父に打たれる」幻想の第二幻想「私は父に打たれる、ゆえに私は父に愛されている」がある気がする
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あと記憶や
881 名前:記憶喪失した男[] 投稿日:2014/08/18(月) 17:28:24.36
おれの読書感想文におすすめな短くて面白い二十冊が、YAHOO知恵袋でナイスされる。
やっぱ、参考になってるだ。
生きていてよかった。
これ記憶の承認欲求が満たされたってことじゃないかね
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雑談スレのつづき
ちなみに
言語とイメージの繋がりが「意味」である(ボロメオの輪ではそうなっている)
であれば、「語りえないもの」「想像しえないもの」を語ってよい場が精神分析」であるならば、「意味でとらえきれないものを語るのが精神分析」となる
ある分析家は、こういった精神分析の場が、学問(という症状)の原初的な動機(病理)だと規定している
よって
880 名前:吾輩は名無しである[sage] 投稿日:2014/08/18(月) 17:23:20.77
>>867
その「無意味な詮索」こそが学問である
となるわけだ
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マグナよゆうあったら↑コピペしといて
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雑スレ
>>940
ミスティシズムなんかじゃないよ
精神疾患者のイミフな言動がそういうものであるだけ
そういった意味では最初から「いかがわしいもの」として「「語りえないもの」「想像しえないもの」を語ってよい場である精神分析」はある
これもこぴぺよろ
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まあ最初から「いかがわしいもの」としてあるのだから「いかがわしさを恐れない」というのはあるなw
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自分ではった
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誤解が生じそうなので書きなおしておく
ある分析家は、こういった精神分析の場における「意味でとらえきれないものを語ろうとする心理」が、学問(という症状)の原初的な動機(病理)だと規定している
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>>926
そうだねえ。ぼくは承認欲求が満たされてとても満足だよ。
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承認欲求を満たされたくて人は見栄を張るわけだから
見栄を張るのと同じ心理だとなるよな
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あと>>830と書いているが、記憶の「役に立つ」ことは記憶の承認欲求を満たすことということでよいかね
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>>934
見栄にこだわるね。別にミニハンがブランドもの買っててもおかしいとか思わないよ。
>>935
よくないよ。
昨日も、ロゴスはことばというギリシャ語で、
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。造られたものでこの方によらずに造られたものはひとつもない」
という聖書のヨハネの福音のことばは、イエスを示すということを宗教板で議論してきたけど、
なんでも、「キリスト ロゴス」でググると少しわかるってことで落ち着いたけど、
認識とか、ことばだけで、世界ができているわけないでしょ。
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>>926
>別にミニハンがブランドもの買っててもおかしいとか思わないよ。
なんでそんな話になるんだろう
承認欲求があるから見栄を張る
記憶は自分に承認欲求がある
ではなぜ見栄を認めないのか、という話なんだが
勝手に妄想で話を進めてないでくれるか
ロゴスうんぬんはまったく会話になっていないのでスルーしますね
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「役に立つ」とはそういう認識なので、認識の世界の話だろ、って話なんだがなあ
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役に立つことが認識の世界の話だとは思わないよ。
実際に、物理的に役に立つことだろう?
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とまってるな。
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>>939
認識の外の世界の話なら「役に立つ」とは認識できないだろう
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ちなみに物理学だって認識の世界の話だぞ
観測問題なんてのはそういう話だ
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でも、ぼくは背景となる物自体の存在を信じているよ。
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「信じる」も認識だからなあ
記憶の思う物自体は物自体じゃないと思うよ
それは物自体ではなく記憶の想像の産物でしかない
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雑談スレのつづき
なんつかこう、「構造主義」つってもいろいろあるからなー
ソシュールやレヴィがどういう仕事をしたのかを知らずにイメージだけで「構造主義」という言葉を使ってる人がいるので困る
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歴史的背景をエポケーする、というのが構造主義と考えてもらってよいよ
なので歴史学を構造主義するのが矛盾なんじゃねえのかなあ
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あっちで構造主義語っている人たちのそれはイメージだけのそれなので無視していいかと
ジャネとかはちゃんとわかってそうだけど
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歴史を物語として見ることが構造主義なわけじゃないんだよ
物語だって時系列つまり通時的要素が大事だったりするだろ、起承転結とか
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あれだ、もともと学術用語だった「コンプレックス」が一般語化して元々の意味とは違った意味になってるのと同じ
学術的な単語としての「構造主義」と一般語としての印象論的な単語の「構造主義」があると思うのだ
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れんとーきせー
雑談スレこぴぺよろ
>>585
まあ実際にソシュール言語学を学んでいたロマン・ヤコブソンの研究もぱっと見ソシュール言語学と関係ないしなw
たとえば構造分析のキモは二項対立化だったりするんだが、これこそがソシュール言語学の「差異のみによって分析する」というやり方を踏襲していると言える
構造主義ってえのは、ソシュールからレヴィが受け継いだ分析手法のことで、分析手法に目を向けなければ、そもそも研究対象が言語と文化で違うのだから
全然別の研究だとは言えるんだな
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