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スピノザ『エチカ』読書会

353ムラタ:2022/10/26(水) 23:16:03
nobunag様

返信Cについてはこれで良かったでしょうか?
>>337(返信Aについて)、>>338(返信Bについて)も意見させてもらおうと思います。
ものぐさゆえ気長にお待ち下さい。

354久保共生:2022/10/26(水) 23:38:17
>>352
ただ、A⇔Bという主張の証明をするのであれば、当然A⇒Bの証明とB⇒Aの証明を両方書くはずですが、少なくとも定理35ではそのような書き方がされていないので、その点については腑に落ちませんね。
スピノザに必要十分性を主張しようという意図が本当にあったのかはやや疑問が残ります。

355久保共生:2022/10/27(木) 00:13:19
これまでの議論を踏まえた上で、改めて返信Cにおける定理40の証明に関して、僕の意見を述べておくと、やはり証明にギャップがあると思います。
証明の一文目の「なぜなら、人間を和合して生活するようにさせるものは、同時に人間を理性の導きに従って生活するようにさせるものである」という推論の根拠を定理35に求めていますが、定理35は「人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上必然的に一致する」という主張であり、全くかみ合っていないと思います。
もしかしてスピノザは「人間が本性上一致する」ことと、「人間が和合して生活する」ことが同値であると考えているのでしょうか?
もしそう考えるのならば、これについての証明が必要ですが、それらしい証明は見当たらないと思われます。

そもそも、僕は「人間が和合して生活しているならば、彼らは本性上一致している(あるいは理性の導きに従って生活している)」という主張は常には成り立たないと考えます。
なぜなら、本性上一致していなくとも、彼らに不和をもたらすような外部の原因が偶然に存在しない場合は、彼らは和合して生活していると言えるからです。
(勿論、逆が成り立つことは認めます。すなわち、「本性上一致しているならば、和合して生活している」というのは真だと思います。しかしここから定理40は導出できません。)

356久保共生:2022/10/27(木) 00:16:20
nobunagさん、色々と横槍を入れてしまいすみません。
失礼いたしました。

357nobunag:2022/10/27(木) 13:23:29
「Aである限り、Bである。」は、A⇒Bを表し、〜という解釈でよいのでしょうか?

>まず前提として
① P→Qという論理規則は、Pという存在が肯定されたならば、必然的にQという存在も肯定されるという事を示します。
(一般的に分析命題と呼ばれる、主語の意味の内に既に含まれている述語を示す命題等も
主語が肯定されれば主語の内に含まれる述語も肯定される為この形式を取ります。)
例 ソクラテス→人間である

以上を前提とし、「Aである限りにおいてBである。」という命題は、AはBが成り立つ為の条件である、という事が示されています。
従って、Bが肯定されたならば、必然的にAも肯定される事になります。従って前提①より
B→A
B→Aの対偶は
¬A→¬Bですから、
Aという現象が生じなければ、必然的にBという現象も生じない。
これは「Aである限りにおいてBという現象が生じるという」という命題なので当然です。

しかし「Aである限りにおいて、Bである。」という命題を
仮にA→B、即ち、Aが肯定された場合必然的にBも肯定される事になると仮定します。
しかし、A→BからB→Aは成り立ちません(論理規則より)。
しかし、これは先に提示したB→Aと矛盾する為、不条理です。
従って、「Aである限りにおいて、Bである。」という命題を
A→Bと仮定する事は出来ません。

例文として
「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題において
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一つである事を示す訳ですから
幸福と感じているならば、必ず生きているという事が肯定されます。
幸福と感じる事が出来る→生きている
しかし、仮に「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題を
生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より
生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一である訳ですから、生きているからといって
必ず幸福と感じるとは限りません。
(生きていると幸福と感じる事も、不幸と感じる事も、幸福とも不幸とも感じていない事も、あるいは幸福とも不幸とも感じている事もある訳です)

久保共生様に提示して頂いた例文、
「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という命題ですが
「僕が君を許さない」という結果を、「君が謝らない」という原因として説明する際、
ご指摘された通り「君が謝らないならば、僕は君を許さない」と読み替える事は可能です。
(即ち人間は因果関係の元において、現象を捉えるわけです。)
しかし、これを論理式で示すと
君が謝らない→僕は君を許さない、とはなりません。
何故ならばAという結果がBという原因によって生じる時、即ち
「B(原因)ならばA(結果)である」という命題は
A(結果)→B(原因) という論理式によって示されるからです。
というのも、結果(A)は原因(B)という条件無しには有ることも考える事も出来ませんので
A(結果)という現象が肯定されたならば、必然的にB(原因)という現象も肯定されなければなりません。従って前提①より
A→B
しかし、原因(B)は結果(A)の現象に先立つ故に、原因(B)という現象が成立する為の条件は結果(A)ではありません。
従ってB(原因)という現象が必然的に肯定するのはBという現象を成立させているさらに前の原因(B´)が必然的に肯定される事になります
B→B´
故に「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という命題を
「君が謝らない(原因)ならば、僕は君を許さない(結果)」と読み替える場合
それを論理式で示す際は
僕は君を許さない(結果)→君が謝らない(原因)と記す必要があります。

358nobunag:2022/10/27(木) 13:26:13
「Aである限り、ただその限りにおいてBである」はA⇔Bを表すという解釈でよいのでしょうか?

>「Aである限り、ただその限りにおいてBである」という命題からは
A⇔Bが成立すると思われます。
というのも
「Aである限りにおいてBである。」
という命題からは、Aは、Bという現象が成立する為の条件の一つである事が示されてる為、Bという現象が生じれば、必然的にAも肯定される事になります。従って前提①より
B→Aとなります。
しかし、Bである限りにおいてAであるとは述べられていません。
従ってA→Bとはなりません。
A→Bが成立する為には、Aという現象が肯定されれば、Bという現象も必然的に肯定される必要があります。(前提①より)
従って、Bという現象が成立する為の条件をAが全て満たしている場合、Aが存在すれば、必然的にBも肯定される事になります。
Aである限りにおいて〜Bである、という命題は、AはBが成立する為の全ての条件である事は読み取る事は出来ず、AはBが成立する為の条件の一つである事が読み取れる。
しかしAである、ただその限りにおいて〜Bである、という場合、『ただ』=『唯一の〜』という意味を含む為、AはBが成立する為の、全ての条件を含んでいる事が示される。
従ってAが存在するならば、必然的にBも存在しなければならない。故に前提①より
A→Bという事になる。

では、第四部定理35「理性の導きに従って生活する限り、『ただその限りにおいて』本性上、常に必然的に一致する。」という命題は
人間同士が本性上、常に一致する→理性の導きに従って生活する
という事は正しいとしても
理性の導きに従って生活する→本性上、常に一致する
という事まで言えるかというと、そうは言えないと思います。
というのも、第四部定理35より前に既に、存在に固執する力は外部の本性によって無限に凌駕される以上、受動である事は免れる事は出来ない事が証明されており(第四部定理三、四)、それを前提とする限り、理性の導きに従って生活していても、何らかの受動的な状態を免れる事は不可能である為、人間同士が常に必然的に一致する事もまた不可能である事になる為です。
従って、第四部定理35は、理性の導きによって生活し、かつ(外部の本性を考慮しない限りにおいて)という前提の下において
「理性の導きに従って生活しているならば、必然的に、人間同士は本性上、常に一致する」即ち
理性の導きに従って生活する→本性上、常に一致する
と言える事になると思います。

359久保共生:2022/10/27(木) 19:11:03
>>357
nobunagさん、返信ありがとうございます。

まず、解説していただいた基本的な論理規則は僕も理解しております。(一応数学科出身なので。)
その点は問題ないのですが、僕が納得できないのは、

>「Aである限りにおいてBである。」という命題は、AはBが成り立つ為の条件である、という事が示されています。

という部分です。
まず「AはBが成り立つ為の条件である」と仰っていますが、その条件というのが必要条件なのか十分条件なのかが重要です。
おそらく文脈上、「AはBが成り立つ為の必要条件である」と仰りたいのでしょうが、なぜそのような解釈が出てくるのか理解できません。
もし、「Aである限りにおいてBである。」はB⇒Aを意味するということを明言している論理学書があれば、教えてください。

「君が謝らない限り、僕は君を許さない」という例についてですが、因果関係ではなく、普通に条件文として解釈可能だと思います。(具体的な集合を考えづらい上に、否定が入っているのであまりわかりやすい例ではなかったかもしれませんが。)
すなわちこの例は、謝ることが君を許すための必要条件である、という主張として解釈可能です。
つまり、「僕が君を許すのは、君が謝るときである」と換言可能です。
ここで、P:許す Q:謝る とすると、P⇒Qの主張と言えるので、¬Q⇒¬Pを主張しているとも言えます。
(ただし、Q⇒Pは主張していません。すなわち、謝ったからといって絶対に許すとは言っていません。)

まとめると、「君が謝らない限り、僕は君を許さない」というのは、「¬Qである限り、¬Pである」の形の文であり、この意味するところは上でみたように「¬Q⇒¬P」であるわけです。
いま、¬QをA、¬PをBに書き換えると、「Aである限り、Bである。」は「A⇒B」を意味することになるので、nobunagさんの主張とは異なる結論が得られるわけです。

360久保共生:2022/10/27(木) 19:15:17
>>357
もう一点、「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という例文についてですが、僕はこれも「生きているならば、幸福を感じることが出来る」と解釈すべきだと考えます。

>生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが(中略)生きているからといって必ず幸福と感じるとは限りません。

と仰っていますが、これには明らかな間違いが含まれていると思います。
すなわち、「生きているならば、幸福を感じることが出来る」という命題と、「生きているならば、(常に)幸福を感じる」という命題を混同していると思われます。
もし後者のような解釈をするのであれば、元の例文も「生きている限りにおいて(常に)幸福を感じる」としなければならないはずです。

361久保共生:2022/10/27(木) 19:37:47
nobunagさん、余計なお世話かもしれませんが、もし必要条件、十分条件の意味をご存じでなければ、youtubeに上がっている解説動画を貼っておきますので、ご覧ください。
この動画はわりと明快な説明をしていると思うので。

ttps://www.youtube.com/watch?v=CltFYLDV5sM&ab_channel=%E8%B6%85%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%EF%BC%81%E6%8E%88%E6%A5%AD%E5%8B%95%E7%94%BB
(頭にhをつけてください)

362久保共生:2022/10/27(木) 20:11:46
もう少しわかりやすい例を挙げておきます。
「いくら彼が優れた格闘家であるとはいえ、彼も人間である限り、象には勝てない」という文は、
「人間であるならば、象には勝てない」ということを意味するのであり、「象に勝てないならば、人間である」ということ言っているのではありません。
「Aである限り、Bである」は、やはりA⇒Bを意味すると考えるのが妥当かと思われます。

363nobunag:2022/10/28(金) 02:09:56
久保共生様
>>360

すなわち、「生きているならば、幸福を感じることが出来る」という命題と、「生きているならば、(常に)幸福を感じる」という命題を混同していると思われます。
もし後者のような解釈をするのであれば、元の例文も「生きている限りにおいて(常に)幸福を感じる」としなければならないはずです。

>「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題、即ち
「Aである限りにおいBである。」という命題が
A→Bとして示される、即ち前提①より
「生きている」という事が肯定されれば、必然的に「幸福である」という事も肯定される、即ち
生きている→幸福である
となるのは、「生きている限りにおいて(常に)幸福である。」という命題において可能です。
なぜなら前提①より
生きているという現象が肯定されれば、必然的に幸福であるという事も肯定されるからです。
(別の言い方をすると、幸福であるという意味は、生きているという主語の内に既に含まれている、と言ってもかまいません。)
しかし、「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」
即ち「Aである限りにおいてBである」という命題は
「Aである限りにおいて『常に』Bである。」とは言っていません。
従って、Aである限りにおいてBである。
という命題を
A→B
と誤った論理規則で表記してしまうのは
Aである限りにおいてBである。という命題を
Aである限りにおいて(常に)Bである。と過剰な読み込みをしてしまっているからだと推測されます。

364ムラタ:2022/10/28(金) 03:38:09
「限りにおいて」と「限り」って同じように扱っていいのでしょうか?

命題A「xが素数である限り、xは自然数である。」
命題B「xが素数である限りにおいて、xは自然数である。」

僕には命題Aは
「xが素数である⇒xは自然数である。」
という真の命題、
一方、命題Bは
「xがただ素数である場合のみ、xは自然数である。」
という偽の命題としか読めません。

「限りにおいて」と「限り」が同じ論理的働きをするのならこんな事態は生じないはずです。

365nobunag:2022/10/28(金) 11:28:19
>>364
「限りにおいて」と「限り」って同じように扱っていいのでしょうか?
「限りにおいて」と「限り」が同じ論理的働きをするのならこんな事態は生じないはずです。

>同意見です。「限りにおいて」と「限り」を同じと扱ってしまうと、意味が全く変わってしまうと思われます。
何故ならば、
「Aである限りBである。」
というと、通常
「Aである限り(常に)Bである。」
という意味合いが強く
A→Bとなりますが、
「Aである限り(において)Bである。」
という意味合いは弱いです。
一方「Aである限りにおいてB」という命題は先の説明の通り
B→Aとなります。

幸福と感じる→生きている
という事を表現したい場合
「生きている限りにおいて、幸福と感じる」と表現しますが、
「生きている限り幸福と感じる」と表現してしまうと
「生きている限り(常に)幸福と感じる」と通常読み込んでしまう為
生きている→幸福と感じる
と反対の意味になってしまいます。

従って
Aである限りにおいてBである、という命題を
Aである限りにおいて(常に)Bである。や
Aである(ただその)限りにおいてBである。と過剰に読み込んだり
Aである限りBである。と解釈してしまうと
意味が変わってしまいます。
ただスピノザも、「限りにおいて」「限り」「ただその限りにおいて」を曖昧なまま使用している感はいなめませんので
都度、前後の文脈からどの意味で使用しているのか判断する必要はあるかと思います。

366久保共生:2022/10/28(金) 18:25:27
>>363
こちらの主張が伝わっていないと思われるので、もう一度説明いたします。
僕が間違いだと指摘している箇所をもう一度引用しておきます。

しかし、仮に「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題を
生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より
生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一である訳ですから、生きているからといって
必ず幸福と感じるとは限りません。(>>357より)

nobunagさんは、「生きているならば幸福と感じる事が出来る」という文を「生きているならば必ず幸福と感じている」という事になると解釈していますが、両者は全く異なる命題ですよね。
もう少しわかりやすい例に置き換えると、

A:「20歳以上の人ならば煙草を吸うことができる」
B:「20歳以上の人ならば必ず煙草を吸う」

は全く違う命題ですよね。(Aは真で、Bは偽でしょう)
議論の途中で命題の内容をすり替えているので、間違いだと言っているのです。

367久保共生:2022/10/28(金) 18:26:55
>>364
>「限りにおいて」と「限り」って同じように扱っていいのでしょうか?

少なくとも、岩波訳では同じように扱っています。
その証拠となるのが、第四部の定理32です。
定理32は「人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致するとは言われえない。」と書かれています。
しかし一方で、その証明の最後の結論文を見ると、「このゆえに人間は受動に従属する限り本性上一致するとは言われえない。」となっています。
定理の主張とその証明の結論の意味が違うわけはないので、少なくとも岩波訳においては、「限りにおいて」と「限り」は同じ意味を表すものと理解しなければならないはずです。

ムラタさんの挙げておられる、命題B「xが素数である限りにおいて、xは自然数である。」という例についても言及しておきます。
ムラタさんは命題Bを「xがただ素数である場合のみ、xは自然数である。」と解釈されていますが、おそらく「のみ」という条件を付けて解釈してはダメなのではないでしょうか。
すなわち単に、「xが素数である場合、xは自然数である。」と解釈すべきなのだと思います。
一方、「xがただ素数である限りにおいてのみ、xは自然数である。」という表現であれば、「xがただ素数である場合のみ、xは自然数である。」と解釈してよいと思います。

ムラタさんが感じておられる違和感は僕もなんとなく分かりますが、これはおそらく日本語という言語の脆弱性によるものではないかと思います。
実際、数学では「限りにおいて」などという論理構造が不明瞭な表現は用いられないですし。

368久保共生:2022/10/28(金) 18:41:39
第四部定理32についてもう一点。
もしもnobunagさんの説が正しければ、
定理32「人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致するとは言われえない。」は、
「本性上一致すると言われない⇒受動である」と解釈されるはずです。
ところが証明の内容を見ると、

ある物が本性上たがいに一致すると言われる場合、それは(中略)受動の点で一致するという意味ではない。

と書かれています。
これは明らかに「本性上一致すると言われる⇒受動でない」という命題の証明であり、これは
「受動である⇒本性上一致すると言われない」という命題の待遇の証明になっています。

やはり、nobunagさんの説に反して、『エチカ』本文も「Aである限りにおいてBである」を「A⇒B」として取り扱っています。

369久保共生:2022/10/28(金) 20:19:00
>>368
変換ミス

×待遇→〇対偶

370ムラタ:2022/10/29(土) 00:03:23
>>367
確かに岩波訳第4部定理32を読む限り、両者は同じ意味で用いられていますね。
「限りにおいて」という言葉は、
「ただ専らその限りにおいて」という意味と、
「であるなら」という意味を含み持った曖昧な言葉なのかもしれません。
厳密な論理が求められる場面では用いない方がいいのでしょうね。

原文や英訳も参照してみたのですが、
日本語で「限り」「限りにおいて」となっている箇所は、
原文では「quatenus」
英訳では「in so far as」
と区別がつけられていませんでした。

おそらく日本語で「Aである限りBである」あるいは「Aである限りにおいてBである」と訳されている箇所は、「A⇒B」という意味あいで書かれていて、「A⇔B」という意味を強調したい場合のみ定理35のように「Aである限り、ただその限りにおいてBである」(英訳では「in so far only as〜」とonlyが入っていて、原文でも「eatenus tantum」という限定の強調があった)という表現をしているのだと思います。

371久保共生:2022/10/29(土) 01:09:15
>>370
詳細な情報ありがとうございます。
その解釈で僕も異論ありません。

372nobunag:2022/10/29(土) 09:17:10
ムラタ様
>>370
詳細な情報ありがとうございます。
原文で区別がつけられていない以上
「限り」と「限りにおいて」は同じ意味と判断する必要がありますね。
翻訳者がどのような意図をもって、両者を使い分けて訳したのかは引っかかる所ではありますが、ムラタ様の考えに全面的に同意します。

久保共生様
>>366
議論の途中で命題の内容をすり替えているので、間違いだと言っているのです。

>ご指摘ありがとうございます。

私が「Aである限りにおいてBである。」という命題を
B→Aと謝った論理式で示していた原因は
「Aである限りにおいてBである(事が出来る)」あるいは
「Aである限りにおいてBである(事が可能である)」と過剰な読み込みをしてしまい
AはBが成立する為に必要な条件として解釈していた事に気づきました。

ご指摘頂いた通り
①Aである限りにおいてBである
という命題は
A→Bとなりますが
②Aである限りにおいてBである事が出来る(可能である)
という命題は、Aが肯定された場合、Bが必ず肯定される訳ではないので
A→Bとはなりませんが
Bが肯定された場合、Aが必然的に肯定される事になりますから
B→Aとなりますので
①と②の命題はまったく意味が異なりますが
私は①の命題をすべて②に解釈していたという事になります。

以上まとめるとエチカを読む際は

Aである限りBである。
Aである限りにおいてBである
A→B

Aである限りにおいてBである事が可能である
Aである限りにおいてBとなる事が出来る
B→A

Aである、ただその限りにおいてBである
A⇔B

という事でよろしいでしょうか。

373久保共生:2022/10/29(土) 10:56:45
>>372
>Aである限りにおいてBである事が可能である
Aである限りにおいてBとなる事が出来る
B→A
という事でよろしいでしょうか。

一般には成り立たないと思います。
「人間である限り、死ぬことが可能である。」は真ですが、
「死ぬ⇒人間である」は偽になりますから。

374ムラタ:2022/10/29(土) 15:25:01
それにしても中公クラシックスの第4部定理35の訳はひどいと言わざるを得ません。どうして「ただその限りにおいて(eatenus tantum)」という重要な箇所を訳出しないで省略してしまったのでしょうか。おそらくその重要度が分からないで何となくくどいように見えたから省略したんでしょうが。
これを省略してしまうと定理40証明一文目の根拠としては成り立たなくなってしまうのだから、必ず訳出する必要があったでしょう。些細な表現の間違いなどは大して気にはなりませんが、論理的に全く成り立たなくなるような訳出ミスは勘弁してもらいたいものです。

375nobunag:2022/10/30(日) 09:26:48
373>>
一般には成り立たないと思います。
「人間である限り、死ぬことが可能である。」は真ですが、
「死ぬ⇒人間である」は偽になりますから。

>ありがとうございます。
確かに「Aである限りBである」という命題が真ならば
「Aである限りBである事が可能である」という命題も真である
と言えますね。
もちろん厳密な理論を構築する際は、わざわざその様な言い回しはしないでしょうが。
ポイントは、可能的なものを、必然的なものとするのは偽ですが
必然的なものを可能的なものにしても問題ないのは
スピノザが言う様に、可能性とは、その存在を必然的に定立させているものの無知により生ずるものなのだからでしょうね。
必然的に存在するものでも、その存在を定立させているものについて知らなければ、私たちは可能的なものとして認識してしまう。

376ムラタ:2022/11/23(水) 13:48:25
本日の Google Meetになります。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/dob-xxnv-qig

377ムラタ:2022/11/23(水) 19:03:56
次回の詳細です。

日時:12月25日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理51 〜 定理60 (中公クラシックス p.367〜382)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
12月25日 (日)
1月22日 (日)
2月26日 (日)

378久保共生:2022/12/27(火) 22:42:19
次回の詳細です。

日時:1月22日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理58 〜 定理67 (中公クラシックス p.376〜390)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
1月22日 (日)
2月26日 (日)

379ムラタ:2023/01/22(日) 13:48:42
本日の読書会はこちらです。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/izm-pkxe-dpp

380ムラタ:2023/01/22(日) 19:17:48
次回の詳細です。

日時:2月26日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理64 〜 第5部 序文
※第4部付録は除く
(中公クラシックス p.386〜419)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
2月26日 (日)
3月21日 (日)
4月29日(日)

381ムラタ:2023/01/22(日) 21:32:43
『エチカ』の次のテキストについて、ここで議論できたらと思います。
現メンバー以外の方も是非。
とりあえず本日話題に挙がったのは
・デカルト的省察
・ライプニッツの著作
・論理哲学論考
・和辻哲郎の著作
・純粋理性批判

あたりでしょうか。

どれも面白そうではありますが、個人的には『論考』と『純理』がやや相対的に興味が強いです。

382ムラタ:2023/02/26(日) 13:49:12
今回のオンライン配信はこちらです。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/pyr-gouu-yyt

383ムラタ:2023/02/26(日) 20:40:14
次回の詳細です。

日時:3月21日 (火・祝) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 序文(デカルトも〜) 〜 第5部 定理10
(中公クラシックス p.414〜432)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
3月21日 (火・祝)
4月29日(日)

384ムラタ:2023/02/26(日) 20:56:39
『エチカ』の次のテキストとして『哲学探究』がその候補の筆頭に上がっており、ほぼ決定となりかけております。
現在『哲学探究』の邦訳としては、
全集の藤本訳、岩波の丘沢訳、講談社の鬼界訳、産業図書(?)の黒崎訳
があるようです。
手に入りやすさと本のサイズの読みやすさから丘沢訳か鬼界訳が良いかと考えていましたが、アマゾンのレビューをざっと読む限り、丘沢訳は酷評されておりました。

どの訳が良いのでしょうかね?

385久保共生:2023/02/26(日) 23:21:50
丘沢氏は、専門が哲学ではなくドイツ文学者だそうですし、アマゾンレビューで翻訳を比較しているものを見る限り、結構問題がありそうな訳に思いました。
鬼界氏の訳については、現段階では優れたものかどうか判断できませんが、相当ウィトゲンシュタインの研究をされているようなので、少なくとも訳者の無理解にうんざりさせられるようなことはないはずだと思います。
やはり鬼界訳が無難なのではないでしょうか?

386ムラタ:2023/03/21(火) 13:52:23
今回のオンライン配信はこちら。
先頭にhをつけてください。
ttps://meet.google.com/iut-maee-mue

387ムラタ:2023/03/21(火) 19:39:48
次回の詳細です。

日時:4月29日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 定理5 〜定理20
(中公クラシックス p.424〜441)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
5月28日 (日)
6月25日 (日)

388ムラタ:2023/04/26(水) 15:19:28
>>387の訂正です。

誤・4月29日(日)
正・4月29日(土・祝)

389ムラタ:2023/04/29(土) 13:48:56
本日のGoogle meetはこちらです。
先頭にhをつけてください。
ttps://meet.google.com/mfo-ghrb-eaz

390ムラタ:2023/04/29(土) 19:33:05
次回の詳細です。

日時:5月28日 (日) 13時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 定理14 〜定理29
(中公クラシックス p.433〜448)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
6月25日 (日)

※次回から開始時刻が13時からとなります。お間違えなきよう。

391ムラタ:2023/05/28(日) 12:54:48
本日のGoogle Meetはこちらです。
ttps://meet.google.com/jaj-nqns-ffk

392ムラタ:2023/05/28(日) 21:09:30
次回の詳細です。

日時:6月25日 (日) 13時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 定理30 〜定理42
(中公クラシックス p.448〜463)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
7月23日 (日)
8月27日 (日)

393かわべ:2023/06/09(金) 23:21:35
6/25 参加希望します。急用発生の際はごめんなさい

394久保共生:2023/06/10(土) 00:53:27
かわべさん、お久しぶりです。

歓迎いたします!
テキストはお持ちでしょうか?
一応、中公クラシックスの訳をメインで使っていますが、他の訳でも大丈夫です。
あるいはもしテキストをお持ちでないならば、当日に範囲のコピーをお渡しするという形でも構いません。

395かわべ:2023/06/12(月) 09:18:46
こんにちわ 久保さん 中公はアマゾンで買いました

396かわべ:2023/06/12(月) 12:46:46
残念ながら・・・仕事の関係で行けなくなりました。またの機会に参加したいと思います

397久保共生:2023/06/13(火) 22:39:12
かわべさん、それは残念です。
実は『エチカ』読書会は次回で最終回の予定で、次々回からはウィトゲンシュタインの『哲学探究』を扱う予定です。
またご興味があれば、連絡ください。

398おぐす:2023/06/25(日) 10:47:43
本日、所用のため遅れて参加します。

399ムラタ:2023/06/25(日) 10:49:27
おぐすさん
承知いたしました。

400ムラタ:2023/06/25(日) 12:54:22
本日のGoogle meetはこちらです。
ttps://meet.google.com/zii-ahrz-uwb
先頭にhをつけて下さい。


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