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TK師との会話

1TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

137ラピ。:2013/10/20(日) 19:28:44
☆滝沢さん

師の言葉から、いろんな感情が起こってると予想します。

それとも何も変わらずでしょうか?

ちなみに私の時の師の言葉はもっと厳しかったですよ。
まだまだ甘いかもです。

>私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
>あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私の場合、この言葉を聞いて「はっ!」とし、
このチャンスを逃してはならない、と思い、
素直に師の言葉を聞くようになりました。

138TK:2013/10/20(日) 20:51:12
ラピ。さん、
もともとラピ。さんの言語化練習に付き合う形での私の参加でしたから、
それでは、次の事をラピ。さんの言葉で説明してあげたらどうでしょう。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

これ、ラピ。さんが私に出会う前のまだ彼岸に渡る前の、
空っぽ実現時の次元の内容ですが、
この事についてラピ。さんの言葉で経験談とか話してみられると参考になると思いますよ。

>これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

これ、ラピ。さんが彼岸に渡る前の此の岸での内容ですね。

ようやく、滝沢さんは今、
私に出会う前のラピ。さんの居たところに来たという事のようですから。

もちろん、ラピ。さんにとってこれは光明ではなかったわけですし、
これが光明の誤認である事が理解できると思います。

139ラピ。:2013/10/20(日) 22:31:10
師匠、いつもありがとうございます!

はい!


>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

まず、この表現からもまだ、至られてないことが分かります。

私もかつて、「からっぽである」と師に宣言していました。
この時点でのからっぽとは
確かにいろんな思いが浮かばなくなっている状態でありましたが、
肝心なものに気づいていませんでした。

でも、その肝心なものに気付いてないときは
とりあえず、「からっぽ」でいることにしました。

さて、滝沢さんのおっしゃっている「からっぽ」も
私のかつての「からっぽ」も
どんなからっぽでしょうか?

本当にからっぽでしょうか?

確かに思考は止まっているかもしれませんが
止まっているのですよね。

止まっているだけで「思考」そのものはまだ存在してるわけです。

消滅してからっぽ ではなくて
それを「選択する自分」がいるからからっぽ、ではありませんか?

「からっぽである!」と宣言する私がいて
そのからっぽを意図的にしているからこそのからっぽではないですか?

私はそれに気づきました。

私はからっぽそのものではなく、
からっぽをを意図する私がいる「からっぽ」でした。

「からっぽ」という対象が存在する状態、
「からっぽ」を実践している状態です。

まだ実践できていたわけです。
からっぽを、、。

エゴがまだ存在していたのです。

ここから実際に師に送ったメールをそのまま転記します。


師匠、
「頭が空っぽの状態であること」と「からっぽそのものであること」
は全く違いますよね?

私は彼岸がよいです。
空っぽの状態を保つ自分がまだいます、私には。

空っぽそのものがいいです。

今、空っぽの状態はわかりますが
あまりに穏やかすぎます。
だって空っぽですから。


師匠、「激流」が必要だとおっしゃってましたよね?

☆(ここまで)


ここで私は激流に飛び込みました。

滝沢さんも今、かつての私のように穏やかな状態でしょうか。

でも、何かをきっかけに暴れだす「自我」がまだいますね。

いや、それには負けないくらい
「穏やかである自分」を選択し続けるでしょうか。

では、穏やかであることに集中したり意図したりする自分はいませんでしょうか?

その「自分」を野放しにしても、ずっと穏やかでいられるでしょうか?


あと、「激流は起こりましたか?」
この問いの答えをいただいていません。

ということは、滝沢さんに激流は起こっていなかった
と捉えてもいいですね?

140TK:2013/10/20(日) 23:25:08
ラピ。さん

彼岸に渡る前の此の岸の空っぽ時に、体が動かせなくなる現象も起こりましたよね。

そこから徐々に体が動かせる状態になる過程も少し説明してもらえますか。

つまり、思いか無い状態で体を動かすコツと言いますか、そのようなものですね。

これもみな私に出会う前の此の岸での出来事ですからね。

141ラピ。:2013/10/21(月) 01:07:22
はい!

まず師に送ったメールをそのまま紹介します。


(ここから)
ひとは行動するとき
本当は行動していない。

習慣的に、なんとなくで行動している。

そしてそれは純粋な行動ではなく
(変な表現ですが)いろんなことを考えながらの行動なので
はて、この手をどうやって動かしてたかな?
と純粋に考えるとわからなくなるし、
多分純粋に動かせない。


私の第2のスタートです。

それまでのことがそぎ落とされて
空っぽになった状態です。=闇でもあります。恐怖です。
だから、「わからない」としか言いようがないですよね。

とことん頭を空っぽにして
(だから、動けなくなりました。わからなくなりました。)
一つの動作を意図的にできるよう、日々をすごしました。
手を上げる事も
なんとなくではなく
純粋に上げるという事。

同じ動きでも
意識がまったく違う。


どう言ったらいいか、わかんないけど

頭が空っぽというか
手を動かすなら、それのみ純粋に行うこと。

ちなみに今は「頭がからっぽ」といっても
恐怖はありません。

空っぽといいながら
いろんな情報処理はできる。
決してなにもできない状態ではない。

オートマチックに「ぱぱぱ!」って感じです。

瞬間より早い瞬間がありますよね。

それが徐々にできるようになりました。

だんだん普通に出来るようになりました。

それまでの動きとは同じことをしていても質が違いますね。

純粋になにかに影響される事なく動ける。

(この今私が動いている状態は
どうやって説明したらいいか、わかりませんが
ある一つの点だけ(点ではないかもしれない。これはなんと言ったらいいでしょう?)
ですべてが動くという感じです。

動きの始まりを知っていて
そこに軽く命令というか、インスピレーションを送るというか
信号を送るというか、それを意図しただけというか、、、。
そんな感じで動く、という感じですかね?)

(ここまで)


このメールを書いてる私にはまだ「エゴ」があります。

かつて、本当に体が「思い通り」に動かせなくなってしまいました。
今まで普通にできていた(と思っていた)ことができなくなった。

今までは「なんとなく」で動き、
「思い」により動いていた。

動く前に思いがありました。

では、その動く前の思いがなくなってしまったら?
からっぽで思いがなくなってしまったら?

動けません、、、。

でも私は日常を普通に生きていたので
「動けません」
これでは済まないと思いました。

だって、ご飯を食べるお箸を持ち上げるのも大変なんです。
ある意味、命がけでしょうか(笑)

「かつて動けていたではないか。
動けるはずだ。」

この意志のみでがんばって動きました。

「どうやって動いてたのだろう。」

そんな考える暇はなく
「動け!」と頑張りました。
考えても仕方ないのです。

この頃はまだ意志がありました。
だから頑張りました。

「できるはずだ」「できて当然なんだ」

と頑張りました。

そして初めはギクシャクしていた動きも
少しずつスムーズに動けるようになりました。
(時間はかかりました)

意志を振り絞っての努力でした。
どんな動きにも気を抜くことができませんでした。

正直言って、どうして動けるようになったのか
その時の具体的なメカニズムはうまく説明できません。

ただ、その時の私の
「できるはずだ」
「できて当たり前だったじゃないか」
この言葉が私を奮い立たせました。

「できない」という言葉は私にはありませんでした。

「つべこべ言わずにやれ!できるだろ!」
これでした。

そして徐々に「思いなく」動けるようになりました。

単に「動く」ということです。

手を動かそうとしたら動かせる、そんな感じです。

何にも影響されていない純粋な「動かそう」という思いと
「動き」が直結してるような感じでした。
時間差がない感じですかね。

昔の話ですが、、、。

142TK:2013/10/21(月) 19:10:53
>昔の話ですが、、、。

ラピ。さんはかなりの年数、
此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

私に最初に出会った時には、
確か私から悟りの印可をもらいたかったような動機でしたが、
私に全く相手にされてませんでしたからね。

こちらも、少しでも悟っているなどと言う思いが僅かにでもあると、
これより先に進む事は不可能なことであることを知っているのでそのようになったのですが。

思い出しますね、「あなたは死ぬまで停滞確定です」、
と何度か私に言われましたね。

もう少しで、激流の彼岸に至るチャンスすら失う所でした。

143ラピ。:2013/10/21(月) 22:33:58
はい!

ちょっといろいろ思い出してみますので
少々時間をくださいね。


>「あなたは死ぬまで停滞確定です」

はい、よく言われました。
初めは意味が分かりませんでした。

途中は何度も言われるので
「なんでそんなこと言われなくちゃならんの」と思いました。

そして最後は
「そうかもしれない。
でもできる限りのことをやらせていただこう。後悔の無いように」
でした。

師匠、厳しくも真実に導く言葉を
本当にありがとうございました。

144TK:2013/10/21(月) 23:39:59
ラピ。さん

>此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
>何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

これややデリカシーの無い質問でしたね。

失礼しました。

何が言いたかったかと言いますと、
ここから先に進むためには釈迦も言っている通りで「激流」が必要です。

それでも、釈迦は彼岸に渡るのに激流を渡らなければならないと言ったが、
私は緩流で渡った見せるとか言う釈迦以上の天才がいるのでしょうか。

そう言う人はまず、誤認の悟りです。

楽を実現したという分、
エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので停滞と言う事が起こりやすい段階です。

つまり、死ぬまで彼岸には渡れずに此の岸のままが起こったりします。

ラピ。さんも何年とは言いませんが、
相当長い期間ずっとそこの此の岸のポイントで停滞していたと伺ったように思います。

ですから、
ここから先は悟った者のありのままの目(意識の拡散現象)でエゴの動きを捉えた、
的を得た激流を作り出すためのテクニックが必要となります。

私などは1年ほどの短期間の実践で激流を渡りましたが、
実はラピ。さんや滝沢さんとはプロセスが違っています。

彼岸に渡る前の此の岸のラピ。さんと今の滝沢さんが同じような段階にいますが、
私には悟る前に悟った者に近い、
エゴを見抜く目があったので、異なるプロセスで進みました。

なので、私の体験談は話しても滝沢さんの参考にはなりません。

しかし、以前のラピ。さんに対してもそうですが、
悟った者のありのままの私の目(意識の拡散現象)には空っぽではありませんでした。

そこから、数々の実践法が繰り出されますから、彼岸に渡る事は可能なのです。

私は良くラピ。さんに、
いくら敬語で武装しようが君のメンタルの状態など私の前では丸裸同然だと述べてました。

つまり、その甘さの部分を、
悟った者のありのままの視点(意識の拡散現象)で見抜いて行けば、
彼岸に渡れます。

ただし、再び激流の地獄など来ないと思ったいただろう、
その地獄が再びやって来ることになります。

釈迦の言葉の通り、激流を渡って彼岸に至るのです。

145ラピ。:2013/10/22(火) 07:52:14
おはようございます!

>楽を実現したという分、
>エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので
>停滞と言う事が起こりやすい段階です。

師はある程度楽に生きている私のエゴを見抜き、
それをあらわにしてくださいました。

その「エゴ」こそ、激流を起こすものであり
彼岸へ導くものですね。

私は停滞していたのは何年もの間です。

師に出会う前に第3の実践をしていましたが
第3の本格的な実践はブログを始める前からとほぼ同じです。
なので2006年の年末前から2013年の5月すぎまで。
6年以上、やってました。

師に出会えなかったらずっとそのままだった可能性が高いです。

なぜなら初めは師に「停滞確定」と言われても
意味が分からなかったからです。

そこまで、鈍かったのです。

エゴに気づけず、エゴのまま
「幸せ〜」とか「すばらし〜!」とか言ってましたね。

ま、その時は本気でした、、、。
自分の状態を疑っていませんでした。
何も見えていない状態です。

でも今の私からすると、
確かに酔っ払いの何者でもありません。

師から私はビンタをいただき、目が覚めました。
そのおかげで今があります。

いろんなスピリチュアルな知識を詰め込んで
永遠に続かない幸せとそうでない時を繰り返す日々。

「幸せ!」と言っているその本性を見抜かなければなりません。

心地よい言葉だけを求めて
自分を受け入れてくれる環境にぬくぬくといること。

それでは「停滞確定」です。
永遠にそのまま。ほんとそうですね。

でも本人がそれでもいいと言うのならそれもありでしょうね。

師も何度も言っていますが
「激流」は必要です。

そこから進みたいというのであれば
激流は避けられません。

「楽ちんな場所」で次元上昇はあり得ません。

146名無しさん:2013/10/27(日) 04:55:45
はっきり言っておきます

あなたがたは単なる詐欺師です

知恵ある者は私の言葉に従いなさい

147ラピ。:2013/10/27(日) 06:33:33
>146さん

そこで表現されている「あなたがた」や「私」は
誰のことでしょうか?

148TK:2013/10/27(日) 07:01:42
>あなたがたは単なる詐欺師です

詐欺師、はて?

誰か従ってくるの、へ?

149名無しさん:2013/10/27(日) 08:28:21
悟ったんですか?

スピリチュアルって意味無いんですか?

貴方たちもまだ途中なんでしょ?

150ラピ。:2013/10/27(日) 16:40:36
>149さん

かつてはスピリチュアルやってましたが
もう卒業しました。

今、スピリチュアルが必要な方も
いらっしゃると思いますので
それでいいと思いますよ。

151TK:2013/10/27(日) 17:35:36
>悟ったんですか?

さあねえ。

あなたの妄想で考えてみたらわかるかもよ。

>スピリチュアルって意味無いんですか?

スピ系、さてねえ。意味って一体なんだっけ。

スピ系では、全てに意味が無いとか聞いたことがあるぞ。

>貴方たちもまだ途中なんでしょ?

途中ってどっからどこにいく途中なんだっけ。

どこも目指してないんだけど。

152TK:2013/10/29(火) 10:15:28
ワクワクの実践と次の激流の実践の大きな違いです。

ワクワクの実践は外の現象に対して自分の中の理想というものを基準にして精一杯取り組む事です。

この段階では生きがいや楽しみというものも味わう事の出来る実践となります。


次の激流の実践は、取り組む相手は自分の内面です。

無理やりワクワクと言う手段はあったとしても、
本当の意味でのワクワクはここではありません。

この段階では、外を絶対的なものとして、中を滅ぼしていくのです。

人を裁いてはならないとか、実践マンさんが話しした、
ウソをつこうとする人のウソを見破ってはなりませんとかは、
実践する盲人にとっては、ただ、訳も分からず実践するしかないわけですが、
この理論上にかなった実践法の一つなのです。

そして、これにカルマ論を重ねると、
外の現象は自らのカルマの実現そのものと言う捉え方ですから、
この実践がダイレクトに自らのカルマ落しという事になるのです。

騙されて損をした、
実践者のスタンスであれば自分の実践を貫けてよかったとなる訳ですが、
これにカルマ論を重ねると、
騙されたことで自分のカルマが一つ解消されたと捉えるわけです。

繰り返し述べますがこれは危険な実践法なのでやれとは言わないですが、
やる人は自分の自己責任でやるしか手がありません。

従順の実践をどこまで完璧にこなせるかは本人の機根にかかってくるものですが、
一つの重要なポイントがあります、それは、
自分にとってどんなものより最優先する戒律を設けておくのです。

前に話しましたが、自分の方向性を放棄して、
外の方向性に合わせた従順の実践時に、
互いにぶつかり合う方向性に出会う事があります。

この場合は優先順位による選択という事になります。

前の例で言えば、実践はどんな場合にも最優先なので、
実践をやめなさいと誰かに言われても実践を続けることになります。

これと同じで、
一例ですが私が実践時に風俗店の前を通りかかった時に店の呼び込みの人に声をかけられましたが、
私は不邪淫戒に触れると判断して、
声をかけてくれた呼び込みの人の行為には非常に感謝するが私は今は入れないのです、
あなたのお気持ちは非常にありがたい、
私はあなたにお金だけ払いますと申し出たが、
あなたのような方からお金はいただけませんと丁重に断られました。

このような選択肢になるのです。

この場合に重要な事は、
相手を自分を横道にそれるようにたぶらかす悪い者と識別してしまうのではなく、
あくまで自分に善意を働いてくれた人と捉えると言う点です。

このような時に利用できるツールが相手の行為に対しての「感謝」です。

常に意識的にふるまうと言うのはこういう事を言うのです。

この辺が実践者としてやっていけるか、
単なる世俗の人として生きて行くしかないかを見極める分岐点ですから、
駄目な人は駄目です。

たとえば、実践者という事で私があえて反応を起こすような言葉をぶつけると、
とたんに私を裁きまくったり、何度か繰り返して様子を見たことはありますが、
信念というものにかけている人はやっぱり駄目だと判断できました。

このような人の場合は人に指示を求めるのではなく、
自分なりの理論で精一杯やってみるという事なんです、
エゴの世界でも何でも精一杯がないから「信念(意志の力)」というものが鍛えられないのですね。

人に従うのではなく、「精一杯の高い理想」を持って、
自分が中心になって人を導こうとする者の立場をとる事です。

まず、この課題がクリアーできない者に、次はありません。

「意志の力」の劣った者は激流は渡れません。

153実践マン:2013/10/29(火) 16:52:07
あらゆる人を神とみなし、神のお金は神に返すのが当然であるという実践をしていこうと思います。
ウソを見破らない実践と合わせて、やっていきます。
この実践をしようと心から思えるようにしてくれた過去数年間の出来事の数々に感謝の気持ちでいっぱいです。
騙してくれた方々、損をさせてくれた方々、不貞行為をしてくれた方々!ありがとうございます。
私の強いエゴをあぶり出していただきました。
恨みつらみの苦しみはもうこりごり、苦しみから抜けるために、
神のお金と思うしか道は無いという体験、嘘は真実であると思うしか道はないという体験をさせてもらいました。
次に、心を揺さぶる出来事があっても、乗り越えます!
TK先生のご指導のおかげで、決意がいっそう固まりました。
ありがとうございます。

154ラピ。:2013/10/29(火) 22:47:27
なにがあっても感謝。

私もやっていました。

騙されても、ひどいことをされても 何をされても
(どんだけのことがあったのだ(笑)
「私のためにしてくれているのだ。」
「私のために起こっているのだ。」
と、すべてに感謝でした。

いわゆる「ポジティブシンキング」やってました。

どんな時も
「ありがとう!」「幸せ!」と言い続けていましたよ。

@(*・ω・*)ポッ

155149:2013/10/31(木) 22:27:54
TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。あなたの通った道 あなたの悟り方。

156149:2013/10/31(木) 23:03:01
どーしたんですか?

157TK:2013/10/31(木) 23:20:04
>TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。

はて?

>あなたの通った道 あなたの悟り方。

どこも通ってないよ。悟りって、はて?

>どーしたんですか?

どーしたんですか?

158TK:2013/11/02(土) 09:08:24
理想的なワクワクの実践については、
この人は現実世界に生きることに意義があるのであって、
精神世界の人でない方が良いです。

自分のエゴで自らの理想に向かって歩いていくのです。

難しい精神世界の教えなど全く必要ありません。

反対に「不完全」位の方がワクワクの実践には向いています。

完璧な教えを学ぼうなどと言う精神世界のような人の姿勢は示さないで下さい。

基本は単純でいいのです。

導かれる人では無くて、
出来るだけ人を自分の理想に向かって導く人になって下さい。

もしも、具体的な理想が思い浮かばないと言う人の場合は、
単純に思いっきり善を無し悪をなさない、この生き方でいいです。

善を無し悪をなさない、これは万人にとっての固定的な理想なのです。

いくら、悪人と言う人でも無意識の固定観念の中に必ずこの理想を持っています。

思いっきり善を無し悪をなさないこれを指針にして生活を送って行けば、
じきに具体的な自分なりの理想が見えてくると思います。

自分の理想は人の理想ではないのですから、
人に導かれるような立場は長くやるべきではありません。

各々の理想に向かって精一杯という事は、そう言う事になると思います。

まず、自分の実際に足で歩いて行動して、
善を無し悪をなさない等の理想を実現していくという事です。

誰しもが幼いころには接しているだろうテレビドラマの正義のヒーロー、正義を愛し悪を憎む、
端的に言えばあれを自分の実生活の中で思いっきりやれば良いのですよ。

人を裁いてはなりませんとか、
ヒーロードラマのネタにもなら無いようなこの手の教えはこの段階の実践の人にははっきり言って邪魔です。

私が目にしたスピ系はバカ丸出しで、
このような取り合わせてはならないものをアホみたいに一緒にして、
喜んでべらべら喋っている、このようなバカな人たちの事を言うのですよ。

この人た、本当にバカですよね。

滑稽すぎて、笑えてきますから腹痛いのでやめて下さい。

159ラピ。:2013/11/02(土) 22:27:21
☆TK師
いつもありがとうございます!

自分の実践を思い出してみると
ほんと単純にある意味バカになってやってました。

人にどう思われようと
(どう思われていたかは聞いてないので定かではないですが(笑)
自分の理想を貫いていました。

私の昔の理想は実践の内容と同じで
まさしく「なんでも喜んでする人」でした。

「私がなにか人に頼んだ時
喜んで引き受けてもらったらうれしいなぁ。
では、まずは自分がそういう人になろう。
何かを頼んで嫌な顔をされたら嫌だなぁ。
されたら嫌なことはしないようにしよう。
だからどんなことも喜んでしよう!」
と思いました。

そしてそうであるよう、どの瞬間も
そのために実践していました。

ほんと単純です。

「(自分を捨てて)喜んでなんでもする」
ただこれをひたすらやっていました。

難しく考える必要はないですね。

ちなみに「自分を捨てて」という実践は
そう考える自分も捨てます。

考えることなく、ひたすらやっていく、という感じです。

それを私の生き方として実践していました。

「何かの目的の為」ではなく
自分の生き方としてどんな時もやってました。

160TK:2013/11/03(日) 09:24:19
>「私がなにか人に頼んだ時
>喜んで引き受けてもらったらうれしいなぁ。
>では、まずは自分がそういう人になろう。
>何かを頼んで嫌な顔をされたら嫌だなぁ。
>されたら嫌なことはしないようにしよう。
>だからどんなことも喜んでしよう!」
>と思いました。


これが紛れもなくワクワク(理想の実現)の実践だったという事を物語っている。

この「喜ぶ」と言う実践法は本質的に、
このような意味のために使われている実践法では無い。

スピ系等が訳も分からず「喜ぶ」と言う実践の言葉をどこかから適当に盗んできたとして、
ごちゃ混ぜる事を楽しむあのバカな者たちのごちゃ混ぜの中に取り入れている可能性もあるが、
「喜ぶ」と言う実践自体は本来は「激流」の実践時に使用されるツールなのだ。

つまり、何を言いたいかと言うと、
ラピ。さんは本当の「激流」時の実践での内面を対象とする観点には立っていなかったので、
それなりの精度でこの実践に接していた事を物語っている。

このように、ワクワクの実践時には不完全な実践であるからこそ、
激流の実践と同じ「喜ぶ」の実践ではあっても効果があるのだ。

この「喜ぶ」はあくまでも、本質的な意味での善玉エゴとしての使い方では無く、
自分の「理想」の実現に向けての実践レベルなのである。

これと同じ事で、
私が善をなし悪をなすなとワクワクの実践の者に対して話したのも、
これ自身は激流時の実践の者も取り入れている実践法なのだが、
実践の精度の点で幼いころに接しているだろうテレビの正義のヒーローのそれだと話した通りで、
同じ実践でも激流の実践時の精度では無く、
あくまでもワクワクの実践の者に向けて話している事になる。

不完全だからこそ理想の実現の実践段階には向いているのだ。

私がスピ系のバカな者たちのあのごちゃ混ぜの教えの中で、
「ワクワク」だけは拾えそうだなと思ったのも、
これだけは他のごちゃまぜの内容とは異質な部分を感じたからだった。

161TK:2013/11/04(月) 09:02:56

>「(自分を捨てて)喜んでなんでもする」
>ただこれをひたすらやっていました。

この自分を捨ててと言う部分も、ある意味漠然とした表現なので、
いかような解釈も飛びこませることができる部分です。

ラピ。さんはやや異なりましたが、
理想主義者的な段階での実践であればここについては、
ほとんど次のようになるのではないですか。

「自分を捨てて」=「自分を犠牲にして」だと思いますね。

私が一番言いたいのは、
「戦う時は対象の相手としっかり向き合って確実に戦え」という事を言いたいのです。

「目には目歯には歯」系の教えと、
従順系の教えで例えば「裁いてはなりません」とかと、
両方取り混ぜたらバカっぽくて実践になりませんが、
このようなアホなことをやってる者ががさまんと居るようです。

自分でバカなことをして無駄に貴重な寿命と時間を費やしている事に気が付かないのがスピのアホウどもたちです。

戦う対象の相手は「敵」に決まっています、
美辞麗句だけお経のように並べて喜んで気がふれているようにしか見えません。

「敵」には「敵」としっかりとマーキングして下さい。

スピ系の者たちを見ていると、
現実社会から逸脱した何かに憑りつかれた気持ちが悪い宗教団体の亡者のように見えてしまうのは私だけでしょうか。

現実社会は競争の原理、生ぬるい捉え方をしていた者は負けです。

ワクワク段階での実践では、
現実の社会の中に戦うべく「敵」がある、そう言う事です。

ここではエゴを強めた者だけが自分の理想を実現した勝者となります。

もっと思考を働かせ、頭を使い、
猿知恵でも働かせればバカとハサミは使いようで人生を幸せに進んでいく事が出来ますから。

スピのアホウどもは、
この辺をまるっきりわかってないで永遠に酔っぱらいで一生を終える事になりますが、
この者たちはバカだと思います。

私はあの手の酔っ払いは嫌いです、現実に生きていない者を見るのは気持ち悪い。

酔っぱらったままで、
生きている時間の経過とともに寿命を減らして損をするのはこの者たちですから。

ごちゃ混ぜがいくら好きでも、正反対をごちゃ混ぜにしたら、
残るのは気がふれた酔っ払いだけです。

人間である事(エゴ)を全うできなければ、
人間(エゴ)を卒業する過程(激流)へは進めない事を良く覚えておく事です。

もしも、
自分の理想の実現を邪魔する者が目的の遂行の前に現れたらどうしますか、
その時には最大限に思考を駆使して考え抜いて理想を実現するべく対策を練るのです、
そしてそれを実行に移して下さい。

くれぐれも、邪魔する者に「従順」に、これが実践だ等と言う間抜けな対応は、
おかしくて腹痛いのでしないで下さい、
これではただの負け犬が自分に都合のいいように納得できる口実として、
スピ系の屁理屈を利用しているだけです、だが、
実際にこういうおバカがいるからスピ系は笑えるのです。

さすが、「ごちゃまぜ」、
逃げ道に都合の良い口実を探すにもゴミの山から拾いだします。

言っておきますが、現実社会でまともに戦って生きてもいない人間が、
そのような生半可なエゴの強さで、次の激流になど進めるはずもありません。

激流を渡るイカダの正体はエゴなのです。

162ラピ。:2013/11/04(月) 10:37:08
みなさま おはようございます!

☆TK師匠いつもありがとうございます!

「自分を捨てて」ですが
私の場合、
自分の気持ちを無視して、という感じでした。

それをとことんしていると「嫌だと思う自分」なんていないのも同然なんです。

「自分を犠牲にして」という言葉は
かつての私には違和感を感じてました。

そもそも犠牲になってるとも思ってませんでした。(笑)

これが実はこの「自分を捨てて」の実践の恩恵です。
まっすぐ実践に打ち込めます。

実践を邪魔する私を無視しての実践ですから
とことん実践できました。

そしてほかの悩みはあったかもですが
実践に対する悩みは全くありませんでした。

その悩みそのものが思い浮かばなかった。
実践に対して疑問を持ちませんでした。

それほどまっすぐにやってました。

(エゴの順調なる成長。
この実践により「実践する私」が育ったのです。)

だからこそ、この実践に対する否定的な出来事が起こった時、
打撃が大きかったです。(笑)

実践する私が否定されたのです。
私の人生、それにかけていました。

「私が否定されたら私はどう生きたらいいのだ。」

実践する私=私となっていましたので
私すべてを否定された感じになってしまいました。

めっちゃ育った「私」が打ちのめされてしまいました。
もう、実践できなくなってしまいました。
こてんぱん。

何を信じたらいいのかわからなくなりました。

そしてボー然とする私に第2の扉が現れました。

もう進むしか道はありませんでした。

これは私の通った道です。
いろんな道があると思いますが
ご参考までに、です。

@(*・ω・*)ポッ

163TK:2013/11/05(火) 18:16:00
>「自分を捨てて」ですが
>私の場合、
>自分の気持ちを無視して、という感じでした。


実はこれが完璧にできていたら、次の内容は発生しませんでした。


>実践する私が否定されたのです。
>私の人生、それにかけていました。
>
>「私が否定されたら私はどう生きたらいいのだ。」


つまり、実践内容に不完全な部分があったという事です。

従って、
この時のラピ。さんの内面には自分が確実だと信じている実践内容を否定されたくないという想いが
強く作用していた結果の行き止まりです。

ここが、理想主義、つまりワクワクの実践であったと言う部分です。

まず、一段階目の実践はこの不完全さがあった方が良いのです。

私とラピ。さんには一つの共通点があります、それは、
激流に突入前の不完全な実践方法の徹底した実践です。

私はラピ。さんと対話を交わした初期の頃、
スピ系の多くの者たち特有の非常にどっちつかずの中途半端な状態にあると感じました。

実は、それで、初期の頃に次の対話が出てきたのでした。

>>「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」というひらめきでした。


>これそうとうに凄い内容ではあるんだけど、ただし、今一つ内容が完璧すぎたんだね。
>
>だから、エゴがはぐくまれなくて、中途半端に精神世界人間になりつつあるんだろ。


その後、確かに酔っ払いだが、
スピ系の普通の酔っ払いとはどこか違うとなって行った。

やがて激流に突き落とす事になったわけです。

私にとってはラピ。さんが私に次いで成就に至りましたので、
ある程度確信が持てた部分があります、
多くの人たちに必要なのはスピ系の教えでは無い、
ワクワクを含むエゴを強めるための方法だと言う点です。

まずスピ系のごちゃ混ぜの教えの取り合わせにより、この折角の良いものも、
他のものと打ち消し合って、酔っ払いの酒の肴にしかならないのです。

スピ系は今に至るまでに我々が至った所と同じ段階の成就の実績を上げるどころか、
反対に多くの酔っ払いを世の中に輩出した実績しか私は目にしたことがありませんが、
その問題点がこの部分にあるように思えます。

164ラピ。:2013/11/05(火) 22:37:40
☆TK師

いつもありがとうございます!

メールのやり取りのはじめのほうに
私のことを知ってもらうために師に次のことを伝えました。

>私の今の原型は
>「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」というひらめきでした。

勝手ながら師と私の実践に
共通点があるのでは、と思ってましたのでお伝えしました。

これを伝えれば、私のことがなにかわかっていただけるかな、、と。

そして師のされた実践が私にも使える!と
これまた勝手ながら思ってました。

懐かしいです(笑)


>この時のラピ。さんの内面には自分が確実だと信じている実践内容を否定されたくないという想いが
>強く作用していた結果の行き止まりです。

まさしくずばりその通りです。
行き詰ってしまいました。

そして第2の扉が見えた、、、。


ちなみに、どっちつかずの状態でも
それを意図的にとことんやっていれば
気付くものはあると思います。

あっち行ったり、こっち行ったりを
しっかり自分の選択としてやっていくのです。

人のせいにしない。

なんでも、今ある意志をしっかり使って
起きている間はずっと、それをやっていくといいかもしれません。

起きている間はず〜っとです。

そうすれば、気付くものもあると思います。

かつての私に「妥協」という言葉はありませんでした。

やるならなんでも「とことん」です。

165陽介:2013/11/10(日) 23:00:10
師よ、

私はエゴに負けました。そしてスピリチュアルに酔い、
悟ったと誤認し、「楽」を実現しました。

しかしその事に気づきもしていなかったので、
最初は師の言葉を受け入れることはできませんでした。

しかし師の言うとおりなのです、
私は全てはひとつであると感じています。
私は愛を感じています。
「それ」そのものではないのです。

ゆえに些細なきっかけで、私の「楽」はゆらぐのです。

師の教えに触れた時、私は風邪をひいていました。
師の言葉を否定しながら、
風邪によって、身体がままならないことに、
私の「楽」が「苦」に変わっていきました。

私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。

まずはもう一度、
「常に感謝する。」という実践から始めたいと思います。

TK師とラピ。師、このような機会をいただきありがとうございます。

166TK:2013/11/10(日) 23:21:59
陽介さん

このハンドル名の方と私はお話ししましたか?

167陽介:2013/11/10(日) 23:37:09
TK師

お話しするのは初めてです。

168ラピ。:2013/11/11(月) 00:25:30
☆陽介さん

ようこそいらっしゃいました。

陽介さんは「楽」を実現したとのことですが
どうのようにして実現されたのですか?

169TK:2013/11/11(月) 00:26:35
陽介さん

>ゆえに些細なきっかけで、私の「楽」はゆらぐのです。
>
>師の教えに触れた時、私は風邪をひいていました。
>師の言葉を否定しながら、
>風邪によって、身体がままならないことに、
>私の「楽」が「苦」に変わっていきました。
>
>私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。

あなたは幸せを望んでいると言うが、まず、
他者の幸せは自分の幸せと言う理想主義者的なレベルに上るべきではないだろうか。

自分自分と望んだところで、このベクトルで得られるものではない。

他者の幸せが得られるためなら自分が犠牲になっても良いとか、
このくらいの捉え方が出来るものなら悟りまで行ける可能性もあるのだが、
もともと自分の幸せが得たいからなどと言う動機で、
至れた者など居たのだろうか、無理だろうな。

ラピ。さんは私と比べたら、
それでも自分自身の幸せの取り組みをした人だったようだが、
最終的には人の為や奉仕を学んで至ったのだ。

170陽介:2013/11/11(月) 18:46:54
ラピ。師

私は最初ヴィパッサナー瞑想とブッダの教えの実践を行いました。
しかし、それを続けることができなくなったため、
次はスピリチュアルな教えを実践しました。

すべてはひとつである。
偶然というものはない。
しなければならないことというものはない。
善悪というものはない。
信じる必要はない。
努力はしなくてもよい。
現実は中立である。

というようなことを信じて、
これと反対の観念を捨てることを続けました。
それは自我を薄める効果があったと思います。

自我の薄まりとともにエゴが私を苦しめることは少なくなりました。

何かの声が聞こえたり、観照する意識の存在に気づいたり、すべてひとつと体感したり、私のハートから愛が溢れ出すというような今までにない体験も起こりました。

それを私は「楽」の実現と表現しました。

171ラピ。:2013/11/11(月) 23:15:45
☆陽介さん

お返事、どうもありがとうございます!

そうですね。そのスピリチュアルの教えでは
一時期な幸せ感は得られても
そこどまりでしょうね。

私の話をしますと
実は私は「人の為」の意識が欠けていたために
至れなかった経緯があります。

私の場合、実践は自分の限界に挑戦する意味での実践でした。
だから過酷な状況も頑張れました。

でもそれだけでは至れませんでした。
そして師に出会って、師の教えにより
至ることができました。

それが「人の為」であり、「奉仕」です。

「自分」だけでは「自分」を完璧に捨て去ることはできません。
相対的な「人の為」が効果的です。

陽介さんの書き込みから
私の実現した「楽」とは違うようですが
「人の為」の実践は効果ある実践ではないかと感じています。

でも、まだ自分の望む幸せがあるのなら
それをとことん叶えるために実践していくのも
1つの道としてありますね。

道はひとつではありません。
@(*・ω・*)ポッ

172陽介:2013/11/12(火) 07:08:22
TK師、ラピ。師

昨日、「常に感謝し他者のために生きる。」を実践してみました。
とっても苦しいですが、他者のためという意志をとりいれることで、自分のためにはできなかったことができるように感じました。

今後は「常に感謝する、そして喜んで他者のために生きる。」を実践していきます。

ありがとうございます。

173TK:2013/11/12(火) 17:54:25
陽介さん

>昨日、「常に感謝し他者のために生きる。」を実践してみました。
>とっても苦しいですが、他者のためという意志をとりいれることで、
>自分のためにはできなかったことができるように感じました。

苦しいという事は、
今までやってきたものは効果が無かったという事を意味しています。

自分が幸せになるために実践したいのです、
と言う目的でそもそも達成できるものではありませんから、
もともと私にしても「楽」が実現できたと言うのは、
探究の末の副産物として「楽」を手に入れたようなものなのです。

最初からそれが目的でやっていたわけではありません。

あえて以前に目的らしいものがあったとしたら、
事の発端は生きている事が無価値なものなのかどうか見極めたかったというものですね。

実際は楽と苦と言う関係性においては、
苦を先取りして楽になる的な所もあるので、
実践後に楽を実現できたからと言って、
そこに至るまでに苦を必要以上に増大させたという事でしかありませんから、
楽を実現して幸せになりたいと言う目的の人の、
目的にかなうものとも思えません。

174ラピ。:2013/11/13(水) 07:41:10
みなさま、おはようございます!

幸せは求めれば逃げていく、という感じですかね。

自分の幸せのために生きるより、
「自分」を使って人の幸せのために生きることが
真実の幸せへの近道となるかもしれません。

「幸せになろう!」というより、
「いつのまにか幸せになっちゃってる」という生き方が
いいかもです。

@(*・ω・*)ポッ

175TK:2013/11/13(水) 23:47:58
>幸せは求めれば逃げていく、という感じですかね。

その通り。

ここでは何度も何度もおんなじことばっかり繰り返して言わないと、
駄目みたいだね。


>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。


>私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。


「望んでいる」と言う言葉も、「求める」と言う言葉と同じだから宜しくね、
ご法度なの。

いつまでも望んだり求めたりしているのは勝手だけど、
永遠にたどり着けませんよ。

何度も繰り返して言うの嫌だから、
信じたくなければ死ぬまでどうぞ辿りつけませんからご勝手に、
ご自由に、お止はしませんよ。

でも、くどくなるけどもう一度引用を載せておきましょうか。

これ親切なのか不親切なのか、はたまた、
押し売りなのかわかりませんかけどね、ちょっと嫌になってきましたね。

何で、こうやって重要なポイントを語っているのに、聞き漏らすのかなあ、
張り合い無くなっちゃいますよ。


>>まずは私を使っていろいろ実験して
>>みんなが使える方法を開発するのだ!
>
>これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。
>
>>まずは私を使っていろいろ実験して
>>みんなが使える方法を開発するのだ!
>
>この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
>みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
>と言うのが真実の実践法です。
>
>実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。
>
>結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。
>
>命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。
>
>色々と至るための必須のポイントがあるのです、
>これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。
>
>例えば世界の人たちのためにと思ったら、
>世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
>複雑ですが必要な事なのです。
>
>善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。
>
>そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。

176TK:2013/11/14(木) 07:07:48
陽介さん

>私は最初ヴィパッサナー瞑想とブッダの教えの実践を行いました。
>しかし、それを続けることができなくなったため、

もう一度よく読んでみましたが、まず何でここでできなくなったかですね。

つまり、もしかしたら、効果があったという事だったのかもしれませんよ。

>次はスピリチュアルな教えを実践しました。
>
>すべてはひとつである。
>偶然というものはない。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>現実は中立である。
>
>というようなことを信じて、
>これと反対の観念を捨てることを続けました。
>それは自我を薄める効果があったと思います。
>
>自我の薄まりとともにエゴが私を苦しめることは少なくなりました。

自我の薄まりとか苦が少なくなったとか、あなたの、気分的なものですね。

薬だと思って飲めば、そうでは無いものでもそのように思えてしまう。

理論的には自我を強める教えと弱める教えをごちゃ混ぜんに取り入れて、
これがあなたの掲げたもののごちゃ混ぜんの現実なのですが、
この真実をあなたは聞いて、
理屈で考えてあなたは効果があると本当にお考えなのですか。

専門的に知っているものからすると、かなり、
笑える取り合わせと言うのが真実なのです。

ちなみに、
あなたは我々から見たら自分のエゴを見抜く事も出来ないど素人なのです。

177TK:2013/12/01(日) 10:24:59
ラピ。さんはスピ系を捨てて私の教えに従ったわけですが、やはり、
スピ系では駄目だと言うことが分かったわけですね。

例えばスピリチュアルは屁理屈を唱えながら納得したりする教えのようなものだと思うのですが、
スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
全く同じような事をやっている者たちを見て、
確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、
そういう所の人たちはなぜに、
自分たちが既に酔っ払いの世界にいる事に気が付かないと思いますか。

その人たちには、我々が必要としているレベルの真剣さが足りないから、
気が付けないのだと思います。

その人たちはもしそう言われたら、
私たちは真剣なんですと言うかもしれませんが、こちらにしてみたら、
たかだかその程度で真剣なの、はい、
さようならのレベルの違いの世界の話しですよね。

私も酔っ払い集団を見て、死ぬまであれ続けるのだろうから、
飽きもしないでよくやるなあと思ってますが、しかし、悟る前と言えども、
彼らにはもともと資質など無いと思います、
悟る前の私なら絶対に彼らのような寄り道はしませんでしたから。

そもそも、人が「納得や理解」して聞かせようなどと言う内容に、
「納得や理解」できる段階にはすでに悟る前の私はいませんでした。

人が話をする内容の「納得や理解」と言う行為そのものに、
私が求めているものはそのようなものではないと言う猛烈な不信感と違和感がありましたから、
「納得や理解」させよう聞かせようなどと言う者を前にして、
どんなにありがたそうな話をされても、ついていく気さえ起きませんでした。

自分が賭けてみる価値があるのは、昔から伝承されている聖典以外に無い、
人間の解説など極力入れないそのままに接して真実を掴む、
これしかないと言うような判断が起きたので、
「納得させよう理解させよう」等という意図をわずかにでも含む話をする者たちは一切相手にしない、
これが私のスタンスでしたから。

ですから、ネット上のあの酔っ払いたちを見るたびに、
あの者たちは既に悟りでは無く100パーセント死ぬまで酔っ払いだと見ただけでわかります。

だから、酔っ払いの人たちと悟る前の私は全く違うので、彼らをかまっても、
それは「人を見て法を説け」で無駄な徒労なのです。

至る前の私であってもキリスト教の集会所、教会、様々覗きましたが、
どれも自分の求めているそれでは無いと出来るだけ速やかに見抜けました。

我々にしてみたらあんなもので納得させられて、バカじゃない、
の世界に見えますが、それがその人たちの現実なのです。

これからの教訓にしないとなりませんね。

本質的にワクワク段階が必要な者たちが、
うっかりその場でお喋りしながら心地よくたむろする事に甘んじてしまったのではないですかね。

私に言わせると、宗教の信者と同じで、地に足がついていないのです。

たかだかワクワク段階の実践者に対して、
どこに延々とお喋りを続けて行かなければなら無いような小難しい理論が必要なのでしょうか。

これではワクワクの本質からは大幅に軌道が外れています。

激流段階の実践では規制が主になりますが、
ワクワク段階の実践では自由が主体となるのです。

(続きます)

178TK:2013/12/01(日) 10:25:42
(続きです)

ワクワクは、大した小難しい根拠なしに、
体を動かし行動を起こすことを旨とする教えですが、
屁理屈をこねまわすのが本位になってはもう違う道にそれていてお終いなのです。

あくまで、理論は少なく行動と結果に重要性をおく、
これがワクワク段階の実践法です。

単なる妄想の世界で楽しんでいるだけなんですね。

まさにスピ系や宗教の酔いにはまってしまった人たちとはそういうものだと思います。

もったいないですけどね、何がって、
人間無意識にも酔っぱらいながら生きている間に、
自分の寿命を刻々と削っていると言うのに、
無駄な寄り道自身がもったいないとは思います。

しかし、かと言って私に言わせれば、所詮まがい物に引っかかる自身が、
その者に原因がある、ラピ。さんは頑張って何とかしようと思ったようですが、
本人の素養の問題ですから、私は意味がないと思います。

本当に至れる人は、そのようなものがたとえ目の前にぶら下がっていようと、
絶対に引っかかりません、至る前の私と比べたら、
至る前の私はああいう者たちと比べて何倍も真剣でしたから。

一言に真剣さと言っても主観の部分ですから、
激流段階の実践者なら自分の命と比較してどの程度のものかが真剣さの尺度です。

その事のために命を落してもいいくらいに思えるのかどうかと言う意味です。

ワクワク段階の実践なら、
寝る間も惜しんで熱狂的と言えるレベルでなければ駄目ですね、
私はどこか冷めた部分があるのですとか言う人は、全く持って論外です。

その生き方で何かがつかめたら、
あまりにも人生を甘く見過ぎてバカにしていると言うものです。

私は実践者にはラピ。さんの時もそうでしたが、
何度か突き放そうとする事があります、それでも、しがみ付こうとするか否かで、
その者の「信念」の有無の確認とする事があります。

きっぱりと言いますが、
「信念」の乏しい者は既に渡るための基本が欠けています。

私はラピ。さんに出会う前に実験的に多くの者に話しかけましたが、
それをつくづく思い知らされ、
ラピ。さんに出会ってそれはほぼ確信に変わりました。


大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。


時々独り言のように何かを吐き捨てる以外では、強く懇請されれば、教えようか、
これが私の基本姿勢で、色々な私なりの実験段階を経ているので、
それ以外で私は本質的に教える事などしたくありません。

私から話を聞き出せて損したり得したりするのは私では無く聞く方なのですから、
ラピ。さんの場合はうまくそのチャンスをものに出来ただけに過ぎませんでした。

しかし、私のこのようなスタンスから確実にものに出来た者が出た以上、
このスタンスは間違いがなかったと言う裏付けとなりました。

179ラピ。:2013/12/01(日) 16:21:29
☆TK師

いつもありがとうございます!

私はスピ系にはまってましたが
(そのおかげでブログがあり、掲示板があるのですが 笑)
それ以前にしっかり実践していましたので
その経験があったおかげで
スピ系を捨ててわりとすぐに至ることができました。

今振り返ってみて スピ系で得たものはなにか?と言えば
いろんな経験ですかね。

私にとってスピ系の教えは至るのに役に立つものではなく、
逆に邪魔をするものとなってました。

私はかつてスピ系で言われていることが本当であるかを
実験していました。

スピ系で言われていることが本当なのか
実際自分で試していたのです。

これはブログだけでなく、
私の日常でもやってました。

スピ系の怖いところは
善悪の判断ができなくなる、ということです。

まだこの次元にいる方は
善悪の判断が実は必要です。

子供を思ってみてください。
子供に何かを教えるとき、
やはり善悪抜きでは教えられませんよね。

子供に「なんでもあり」、なんて教えることができるでしょうか。
いけないときは叱らなければなりません。

でもスピ系は「なんでもあり」を説いていることがあります。

さて、本当なのでしょうか。

単にバカな大人になってしまいますよ、それでは。

そしてスピ系の教えは出来事を都合よく解釈をしてしまう可能性があり、
現実が見えなくなります。

スピ系は一種の現実逃避です。

私はスピ系を経験して、それまでにない経験をたくさんしました。

そしてさて、スピ系で言われていたことは
本当だったのだろうか、、、、。

はてな? です。

私が至る直前に至るのを邪魔していたのは
スピ系のへんてこりんな知識でした。

師とのメールのやり取りも初めのほうは
ほんとうに私は素っ頓狂で
バカ丸出しでした。

常識のない、ポジティブシンキングに近いもので
お気楽、能天気、
ほんとうに失礼な礼儀知らずでした。

そんな私にもお返事をくれたTK師なのです。

TK師を師と呼ぶと決めてからは
TK師の教えに従いました。

スピ系を捨てろといえば捨て、
(その時点ではなにもわかっていませんでしたが
師の教えに従いました。
なぜ?と聞く必要なんてありません。
師と呼ぶからには絶対なのです。
これがほんとの師弟関係というものです。)

その他、師に言われたことは絶対でそれに従っていくと決めました。

そのおかげで今があります。

まずは今までの自分を捨てなければ。
それまでの知識というものを捨てなければ。

そうでなければ自分を飛び越えることはできません。

そしてなにもなくなった 何よりも一番低いものとして
師の教えに従う。

これにより、彼岸への門は開かれたのでした。

これは激流段階での実践です。

TK師、ありがとうございます。


ちなみに私はもともと師を求めてはいませんでした。
同じ次元の人間を師とすることはできませんでした。

でもTK師は違ってました。

TK師以外は私は
決して師と呼ばなかったと思います。

TK師に出会わなければ
私に師はいませんでした。

断言できます。

180名無しさん:2013/12/02(月) 08:40:41
TK師、みなさまおはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
>全く同じような事をやっている者たちを見て、
>確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、

はい試みました。

自称覚者さんが教えを説いてるところがあるのですが
その教えがこちらからしたら屁理屈だらけのでたらめで
次元上昇してない人の表現でした。

でもその人に「それは違う」、と私がお伝えしても
全く伝わらなかった。

自称覚者は言葉で納得させよう、理解させようとしてました。
そして「自覚」という言葉も普通に使われています。

何度も言ってるけど納得や理解をしていたら彼岸に渡れないのです。
自覚することが悟りだなんて、かつての私と同じレベルです。

悟りについてかつて私は 「悟りとは知ること」
とブログに書いたことがあります。

それは私がまだ彼岸に渡ってない時で、
悟りってこういうものかな
という感じで書いたのですが
まだ至ってない次元にいた私ならそうとしか書けなかったでしょう。

悟りは私にはその頃は異次元だったからです。
そんな私が書いてはいけなかった。

書くなら、まずは悟ってから、でした。

自称覚者さんのもとに集まる人は
彼岸には渡れません。
渡れるどころか、道から大きく離れてしまう可能性があります。

そもそもその自称覚者が彼岸に渡れていないのに
導くことなんてできないでしょう。

自称覚者が悟りについてきちんと語れないのだから。

この「悟りとは気付くこと」を自称覚者がみんなに伝え
みんながその自称覚者を本物だと思い、
「悟りとは気付くことなんだ!」と理解したとする。

全く駄目ですね。
ダメな集団になってしまいます。

彼岸への道は気付きでは通れません。
知ることでも通れません。

やはり激流が必要なんです。

激流とは、自我との戦いです。

自我を納得させたりするのでは自我を消滅させることはできないのです。

静かにすることはできても。

本気で彼岸へ渡りたいのならやるしかありません。
実践しかありません。

理解や納得、自覚なんてしていたら
その場どまり。
永遠に次元上昇はできず、同じ処をぐるぐる回るだけ。

どうにかしてあげたいのだけど無理ですね。

実際、試みたけど無理でした。

それなら、それをとことんすればいい、と思います。

どうなるかは知りませんが自由ですよね。

181ラピ。:2013/12/02(月) 08:41:41
また名前を入れ忘れました(;´▽`A‘‘

180の聞き込みはラピ。です。
@(*・ω・*)ポッ

182大介:2013/12/03(火) 19:49:00
ラピさま

はじめまして
自称覚者というのはどなたの事でしょうか?
でも、それを明かすのは御法度でしょうかね。。。

スピ系の例で、ニューエイジをあげていただきましたが、そのようなものであれば私でも分かりますが仮面をかぶった場合、微妙な場合分かりません。
どの辺りで見分ければよいものでしょうか?

183ラピ。:2013/12/03(火) 21:32:25
☆大介さん

ようこそいらっしゃいました!

なぜその人が「自称覚者である」と言えるのかというと
私たちの状態では使えない言葉を普通に使っているからです。

私たちの状態をきちんと表現できていない。
悟りについて的外れな表現になっており
その人の想像内での言葉になっています。

ただ、ほんとうの本物は
いろんな言葉を使いまわしますので
普通の方は言葉だけでは簡単には見抜けないかもしれません。

でも、私たちと同じ次元同士であるのなら
対話で私たちはお互いが分かると思います。

大介さん
まずはそんな本物かどうかわからない人の話を信じるよりも
自分を信じてがんばったほうがいいと思いますよ。

私も自分を信じて理想実現のためとことんがんばりました。

大介さん自身の人生、
一度きりの人生、思いっきりがんばられるほうが
得るものがたくさんあると思います。

184大介:2013/12/03(火) 21:42:30
ラピさま

本当にそうですね!
自分さえも持っていれば何にも惑わされないですよね。
大変ありがたい言葉ありがとうございました。
本やブログを読んで知識をつけるより自分の置かれている状況に真剣に取り組んで知恵をつけようと思います。

185TK:2013/12/22(日) 08:45:36
仕事上と言う部分でも、世情の動きなどで緊急、
切羽詰まった状況など様々なシーンがありますが、
そういう時こそが我々の本領発揮なのだなとつくづく思う事が良くあります。

楽しいですよね。

我々より深い読みが出来る人間はまずいないでしょう。

昔の時代であれば剣禅一致で真剣勝負の所が、
今は仕事上の業務に変わったわけです。

切羽詰まった緊急事態、とっさの判断が必要とされるシーン、
これこそ我々の得意中の得意です。

我々こそは「瞬間」を極めた者ですから。

我々にはいかなる時も、見えています、他の者の何倍もが、
このような時の他の者たちの動き、取っている行動、
判断して出した結論こういうものを目にすると本当に微笑ましい。

私はこのような時には全然、
同業他社みたいなところの動きなど参考にしたいと思いません、
どう見てもメクラみたいな動きしかしてないですし、
見る価値も値打もありませんよ、
やっぱり我々の基準で全然見えてない者の動き方しかしてないのですから。

実に私の売りの部分は悟りというものより、
能力的部分の増大と言う所の方が大きいのがスタンスです。

物事に対する処理能力さえ数段アップすれば、その事実だけで、
世の中の苦悩は消滅します。

悟り等と言う現代科学からみたら迷信めいたものなど振り回して、
それに一体どんな価値があるのですかの世界です、しかし、
誰もが認めざる得ない能力を身に着けられるとなれば話は別ですね。

物事に対する処理能力さえ増大すれば、苦悩はそれだけで減るのです。

これは科学的と言うより当たり前ですね。

剣禅一致と言う言葉は、本質的には能力増大という意味なのです。


どの方面から見ても良いことずくめのようなものです。

ここまで来てしまうと、余裕で笑いが止まらない。

お分かりでしょうが、
「理解」だなんだとか云々言っている妄想狂一族と私は呼びますが、
あのような誤認の者やそれに着き従う者たちには永遠にこれはありません、
屁理屈で納得したい者は世の中にそういうものを教えてくれる人は多そうですから
そのような屁理屈で納得したりしないだりする次元で楽しんでいたらいいと思います。

しかし、
ここで沢庵禅師が述べている「剣禅一致」で説く能力増大は絶対に起こりません。

それは、それが人のエゴの動きを見抜く能力すらない偽者による教えで、
メンタルに変容が起きない与太話しだからです。

着き従っている者たちでも、今自分たちがをやっている事は、
屁理屈の次元で能力が増大するはずが無いと思えるものであるはずです。

違うのですよ、
その者たちのやっているそれは偽物で
沢庵禅師の述べている剣と一致する「禅」というものとは似ても似つかないものなのです。

世の中暇人が多いですね。

くだらない屁理屈の言葉のやり取りに、よくも、熱中できるものです。

これは不健全ですね。

私はあのような妄想狂を信じているような人たちは、
気持ち悪い人たちだと思います。

スピ系だか精神世界だか、
そのような不健全な妄想みたいなことはきっぱり捨てて、
そう言ったものから一切離れてもっと地に足つけて現実に生きたらどうですかと、
その者たちの横っ面引っぱたいてやると良いのだと時々思います。

これが、私が至った者としてその者たちに向ける言葉です。

馬鹿げています。

もちろんその者たちの自由ではあるのですが。

186ラピ。:2013/12/22(日) 10:02:44
TK師、いつもありがとうございます!


私たちは苦悩から解放されています。

その苦悩のもととなるものが消滅したからです。

どうしてそうなったのか。

私の場合、徹底的に自分と向き合いました。

ごまかすことなく。
なにかでごまかすことなく。

自分としっかり向き合いました。

逃げることなく。

ちなみに私は悟りを求めていませんでした。

ただ自分が人間として生きていくうえで
逃げることなくしっかりと自分と向き合った結果起こったものです。

だから「悟りたい」では悟れません。

どうやったら悟れるかなんて方法を探したってそんなものありません。

そんな生易しい考えでは無理なんです。

そんな「悟れる方法」なんて非現実なことを探す暇があったら
今の自分から逃げることなく
しっかりと生きてください。

ごまかすことなくしっかりと「人間」を生きてください。

人として当たり前に生きていったらいいと思います。

精一杯生きるって素晴らしいと思います。

私は精一杯生きたおかげで
いつのまにかこうなりました。

でもそれができない人が多い。

しみじみそう思います。


>スピ系だか精神世界だか、
>そのような不健全な妄想みたいなことはきっぱり捨てて、
>そう言ったものから一切離れてもっと地に足つけて現実に生きたらどうですかと、

ほんとそうだと思います。

私も道の途中スピ系にはまってしまい
スピ系やってましたし、スピ系のブログも書いてました。

(今、かつつての記事を読み返すと、何とも言えません(笑)
それをかつては一生懸命やっていたのです)

でもそれをすべて捨てて、再びしっかり現実に生きる決心をしたから
今があるのです。

私がスピ系を続けていたらずっとそのままだったでしょうね。

その世界がすべてだと思って生きていたと思います。
(そう思っている人の多いこと!)

でも実はそうではなかった。

ほんとうによかったです。
ほんとうによかった。

TK師にほっぺたをひっぱたかれたおかげで
今があります。

はい!

187名無しさん:2013/12/23(月) 00:15:46
>私たちは苦悩から解放されています。

私たち“2人”は苦悩から解放されています。
ですよね・・?

解放、おめでとうございます。
ところで、全く苦悩のない人生って、楽しいですか?

188ラピ。:2013/12/23(月) 07:53:35
☆187さん

はい、もちろん。

ただし。
187さんの言われている「楽しいですか?」の問いの「楽しい」は
苦悩があってこその相対的な「楽しい」でしょうから
わたしの「それ」とは違います。

でも言葉に表すとすると
「楽しい」とも言えると思います。

187さんの言われている「楽しい」とは違いますが
「楽しい」と言えるでしょうね。

快適です。

189TK:2013/12/23(月) 10:48:47
>ところで、全く苦悩のない人生って、楽しいですか?

はっきり言う、
我々の次元に君がごときの意識のままで飛び込んだらそれは苦悩以外の何物でもない。

およそ耐えられるものでは無い、これが次元の違いだ。

190TK:2013/12/23(月) 10:54:44
例えるならば、例えば麻薬中毒者がいて、中毒から抜けられれば楽になれる。

しかし、中毒者にとっては抜けようとする行為が苦(激流)で、
それに比べたら中毒状態の方が楽なのさ。

だからこそ、抜けるのが「激流」となる。

「激流」を渡れば彼岸(高次元)だ。

191TK:2013/12/23(月) 11:00:45
悟る前の者にとって、人生がつらいものである事は分かります。

宗教を求めたりスピ系、精神世界、
そこには自分を助けてくれるものがあるに違いない。

このような動機が主なものだと思います。

私もこれは経験があるのです、しかし、私の場合は光の存在が出てきましたから、
結論から行くとそれは止めることになったのです。

ある意味し方が無い事ではありますが、もしも、
宗教やスピ系や精神世界が無かったら自分はどうしているだろうと少し考えてみて下さい。

現実の世界で苦しさの解決の手段を見つけるより仕方が無くなりますよね、
その方向性が出なければ駄目なのです。

釈迦の教えにしろイエスにしろ、
スピ系や精神世界や誤認の覚者による手当たり次第その辺から取ってきた、
でたらめな多種多様の段階のゴチャゴチャ混ぜ内容のなんじゃありゃ教え。

もし、
このようなものが自分の生活の中に一切なかったとしたらどういう行動をとっているでしょうか。

必ずそれ無しで解決を図りますよね、これが健全な生き方なのです。

じつは、釈迦の教えもイエスの教えもこれが当たり前にできていて、
その次の者にこそ有効に作用する内容に作られています。

私は釈迦、イエスの教えを利用して命がけの「激流」の戦いを繰り広げました。

これらの教えをバカにするなと言いたいですよ、
これらの教えの内容は寝ぼけたバカがお気楽な気分で振り回すものではありません、
その者達のようなまだその段階に達してもいない者が気楽に振り回すなど、
教えに詫びろと言いたいものです、
やがてその者たちには天罰が下る事と私は確信しています。

その者たちのために説かれた内容ではないのです。

その者たち程度の者の妄想ネタにされたら教えの方が汚されます。

少なくとも私が利用した釈迦やイエスの教えは、その者たちのおもちゃにされて、
「豚に真珠」とはまさにこのこと事です。

豚に真珠とは的を得た、良い言葉だと思いますが、聖書の中のイエスの言葉なのです。

釈迦やイエスの言葉は豚には用がありません。

まず、豚小屋の中の豚的な生き方を卒業した者は、
やっと手にすることが許される教えだという事です。

この場合の豚とは、スピ系とか精神世界とか、
誤認の覚者関係の妄想に憑りつかれた一派の者たちの事です。

豚が持つことは許されないものなのです。

豚に真珠を与えてはならないとは聖書の中のイエスの言葉ですが的を得ていると思います。

ちなみに、
我々本当に至った者の眼は書籍などにある本物の言葉は本物の言葉として当然区別がつきますが、
それと、
それらの巷にばら撒かれている精神世界の知識を適当にチョイスして使い回している偽者は、
いくら同じ言葉を引っ張り出して装っていても、
そのような「受け売り言葉」で我々の眼はごまかせません。

私も今度は偽物ハンターとでも名乗りましょうか。

人々のためになりそうですね。

192名無しさん:2013/12/23(月) 13:25:18
> 私も今度は偽物ハンターとでも名乗りましょうか。

非常に助かります。
この世の中情報がありすぎて、偽物にすぐに捕まってしまうので

現存していて、ましてや日本人だとハントするのは難しいと思うので、
ハントしても問題ない所で適当にリストアップしましたが、線を引くとどんな感じですか?


マハルシ
マハラジ
osho
クリシュナムルティ
マハリシ・マヘッシ・ヨーギ
パパジ
空海
井上ぎえん
沢庵
エックハルト・トール
ガンガジ
ダンテスダイジ
親鸞
ドランヴァロ・メルキゼデク
引き寄せの法則、ヒックス夫妻

193名無しさん:2013/12/23(月) 13:35:35
>現存していて、ましてや日本人だとハントするのは難しいと思うので、
>ハントしても問題ない所で適当にリストアップしましたが、線を引くとどんな感じですか?

私はあなたのスピ系趣味におつきあいするつもりはありません。

私は本当は偽物実践者ハンターだったんですよ。

あなたが偽者なのです。

さようなら。(笑)

194TK:2013/12/23(月) 13:41:10
私は真剣さの欠けた者に、このような場所で相手するつもりはない。

そのような者は、ある意味誤認の覚者以下だ。

誤認の覚者やその一派でさえ、そのような者よりまだましだ。

世の中には下の下という者がいるものなのだな。

195名無しさん:2013/12/23(月) 14:36:57
>それらの巷にばら撒かれている精神世界の知識を適当にチョイスして使い回している偽者は、
いくら同じ言葉を引っ張り出して装っていても、
そのような「受け売り言葉」で我々の眼はごまかせません。

例を挙げていただかないと、分かりません
単なる妄想でしたらスルーします

196ラピ。:2013/12/23(月) 15:02:39
☆192さん

リストアップされた人、
どんな人か知らないし、対話したことないので
わかりようがありません。

197ラピ。:2013/12/23(月) 15:06:56
☆195さん

こちらから具体的に誰か例を挙げて、
どうこう言うつもりはありません。

でも「我こそ覚者である」という人がいたら
対話してみたいものです。

198名無しさん:2013/12/23(月) 15:14:46
リストアップは例に過ぎないのでどうでもよいです
私もほとんど名前しか知らないと同じなので、それぞれの違いがわからないです

何と何がごちゃまぜなのか
どの方が誤認覚者なのか
例をあげていただかないと、なるほどと思えなく。
なるほどと思う必要もないのであればスルーしようと思います。

199192 & 195:2013/12/23(月) 15:38:54
TKさん、ラピさん

>でも「我こそ覚者である」という人がいたら
対話してみたいものです。

そういう事だったのですね。

私の完全な勘違いでした。

失礼します。

200TK:2013/12/23(月) 16:05:12
>単なる妄想でしたらスルーします

全然かまいません。

あなたのような偽物実践者が逆立ちしようが、寝ころぼうが、ほえようが、
トイレでウンコしようがそれが私に何の関係があるのですか。

あなたのような偽物実践者に、分かってもらう必要が全くないのですが。

全くくだらない。

ラピ。さん、この輩達にまともにかまうのよしなさい。

構う価値もない人たちなのです。


私はたとえ名前だけでも、
そのような知識を豊富に掲げるような人たちが大嫌いなのです。

以上。

201ラピ。:2013/12/23(月) 16:10:07
☆198さん

スルー、どうぞ!

@(*・ω・*)ポッ

202ラピ。:2013/12/23(月) 16:11:21
☆TK師

はい!

@(*・ω・*)ポッ

203名無しさん:2013/12/23(月) 16:46:25
どうでも良い質問なのですが、某ブログでコメントしていらっしゃるtkという方とtkさんは同じ方なのでしょうか?
そちらのtkさんは知識がすごいあるんです

204TK:2013/12/23(月) 17:14:15
ラピ。さん

191
>ある意味し方が無い事ではありますが、もしも、
>宗教やスピ系や精神世界が無かったら自分はどうしているだろうと少し考えてみて下さい。
>
>現実の世界で苦しさの解決の手段を見つけるより仕方が無くなりますよね、
>その方向性が出なければ駄目なのです。

私がこのように語った直後に、
ベラベラと精神世間著名人と思しき名前をズラズラ掲げてどうですかと聞いてくるあたりが、
もう何もその者は私の話を聞いてないのです。

このような狭い世界だけでも聞く姿勢の無い者の何と多い事か。

何を言っても意味が無い、
イコールその者たちは相手にしてはならないという事なのです。

191
>「豚に真珠」とはまさにこのこと事です。

なぜこのような現象が起きるのかと言うと、
この者たちのエゴは膨大も無く大きく、
語っているものの内容の本質を掴むとかでは無く、
自分の気に入った言葉だけを掴むと言う習性の元に行動しているからです。

これもエゴの強い者の特徴です。

つまりこの者、
社会や組織の中に居ればひどく苦悩するタイプという事さらけ出しと言うわけです。

丸見えですね。

>某ブログでコメントしていらっしゃるtkという方とtkさんは同じ方なのでしょうか?

名無しもウヨウヨいるのに、自分を棚に上げた質問そのものが間抜けでしょ。

205ラピ。:2013/12/23(月) 21:38:16
☆TK師

そうですね。

聞かない人は伝えても聞かないでしょうから
伝える必要がありませんね。


かつての私もそうでしたが
今あるスピ系などの知識がすべてだと思うと
それ以外の話をきちんと聞けません。

その持っている知識こそが
その次元に自分を縛り付けている原因です。

だからかつて私は 知識を捨てて
一からやり直したのです。

「至らぬ初心者」の姿勢で
やり直したんです。

@(*・ω・*)ポッ

206名無しさん:2013/12/23(月) 23:56:02
>私たち“2人”は苦悩から解放されています。ですよね・・?

この質問に対して、お答えいただけますか?
ここでいう彼岸に至った人というのは、ここのお2人以外にもいるのでしょうか?

207通りすがりの206:2013/12/24(火) 00:04:31
ちなみに、私は187さんでも192さんでも195さんでもありません。
ただ、聞きたい内容は、非常に近いと思いますので、宜しくお願いいたします。

208ラピ。:2013/12/24(火) 22:04:10
☆通りすがりの206さん

ふむ。
それが知りたいのですね。
なぜ知りたいのですか?

それを知ってどうなるのでしょう。

かつての私ならそんなこと
まったく興味なかったです。
(今もないですが)

それよりも私自身が「それそのもの」になるよう
日々、がんばっていましたよ。

知識を得て満足、なんてことはなかったです。

209名無しさん:2013/12/24(火) 23:57:46
>それを知ってどうなるのでしょう。

全くだ、情けないね。

こんな者相手にしていても、何にもなりゃしない。

>ここでいう彼岸に至った人というのは、ここのお2人以外にもいるのでしょうか?

こういう私の話を全く聞かない者たちの連続と言うのは
どういう者たちを我々は相手にしているのでしょうか。

こっちは、誰も信用しなくていいんだよ、自分だけを信用していれば、
これしか言ってないのに、そろいもそろって、
ここにはこういうのしか来ないのかよ。

信者になりたきゃ、
その辺に誤認覚者が一杯いるからそっちに行って妄想の世界で
死ぬまで楽しんだり苦しんだりしていて下さい。

あなたたちには私は用が無いのです。

210TK:2013/12/24(火) 23:58:22
上のTKです。

211TK:2013/12/25(水) 00:04:06
彼岸とか悟りとか、だから一体それがどうしたのと言うような人にこそ、
私は関心があるのです。

次から次へと世の中の、変な人たちの集まり過ぎだよここは。

地に足がついてない幽霊たちを相手にしているのか。

こんな所でいくら話しても、意味が無い。

妄想、やめろよ、それ。

212通りすがりの206:2013/12/25(水) 00:22:47
悟りを開いたとかおっしゃている御二方

ご回答、ありがとうございました

>妄想、やめろよ、それ。

あんた方もなw

213:2013/12/25(水) 01:01:02
tkさん、ラピ。さん初めまして。

私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。よろしくお願いします。

もう酔っ払いをやめたいのです。
けれど今までに仕入れてしまった知識が実践の妨げなります。

その文言を知った頃は、いわゆるマインドが静かになり、ストレスが消えるので重宝していましたが、今は不要です。

下からやり直したいのですが、記憶がある以上思い出してしまいます。
どうすればいいのかわかりません。

こんな場合の対処法を教えていただければ幸いです。

214ラピ。:2013/12/25(水) 03:24:44
☆通りすがりの206さん

妄想を使えるのと
妄想に使われるのでは
大きなお〜きな違いがあります。

妄想だとわかっていて妄想を使うのと
妄想だと気付けず妄想を使う(=妄想に使われている)のでは
同じ妄想を言っていても
全く次元が違うんですよ。

妄想を妄想だとわかっていれば
妄想によって妄想を打ち砕けますが
妄想を妄想だとわからなければ
それは単なる妄想です。

215ラピ。:2013/12/25(水) 03:29:14
☆楓さん

初めまして。ようこそいらっしゃいました。

>私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。

この掲示板に出会う前から
脱スピリチュアルを目指されていた、ということでしょうか?

>今は不要です。

なぜ、今は不要だと思われるのですか?

216TK:2013/12/25(水) 04:50:32
>>妄想、やめろよ、それ。
>
>あんた方もなw

ラピ。さん、もっと決定的な違いを教えてあげないとね。

こちらは、逆立ちしても「妄想」が出来ませんよね。

何しろ我々には「対象」がないのですから。

妄想に憑りつかれるのはいつの場合も、この者たちの方だけなのです。

これが我々とこの者たちとの決定的な差なのですよ。

「妄想」の使い手とは自らが「妄想」の中にいる者には出来ないのです。

これが誤認覚者と本物との決定的な違いでもありますよね。

217ラピ。:2013/12/25(水) 07:55:14
☆TK師

はい!


私たちは妄想する「もの」がないんですね。

その「もの」がないんです。

だからTK師が言われているように
妄想しようがありません。

だからこそ 妄想を妄想だとわかるのですよ。

私たちは妄想を使いますが妄想できません。

でもそうでない方は妄想真っただ中、
どうやっても妄想してしまっているので
それが妄想だって気づけないし、
妄想と気づいたところで対処できないでしょう。
実はその気づくことそのものも妄想だからです。

妄想する「もの」が存在していますから
どんなに妄想から抜け出そうとしても
妄想どまりなのです。

これはある意味、無限ループです。
その無限ループを絶つために必要なのが
激流と言われるものです。

私は激流を渡り終えることによって
その「もの」が消滅しました。

いや、その「もの」が消滅したから
激流を渡り終えた とわかりました。

ちなみにこの「激流」という言葉は例えですよ。
(わかっていらっしゃると思いますが)

私にとっての激流は「葛藤」でした。

「葛藤」という激流に飛び込み
「葛藤」を飛び越えたのでした。

葛藤し続けて、ついに、葛藤が終了したのです。

葛藤する「もの」が消滅したからです。

(その消滅したときは「なんじゃこりゃ?」でしたね。
そうとしか言いようがなかったです。)

それが「至った」ということです。
実践終了、ということです。



>>妄想、やめろよ、それ。
>
>あんた方もなw

これを言われたところで私たちは妄想していませんので
なんともないですが(そういわれたところでしようがない)
それを発した本人は
さらに妄想ループ、ということになりかねませんね。

だって私たちが妄想しているという妄想を
すでにしていますからね。残念ですが。

ということで、しっかり自分の人生生きて
がんばってください、そんな妄想に時間を費やさず。

218TK:2013/12/25(水) 17:23:48
至った我々の状態を、私は疑似エゴイズムと表現しています。

アナログ対デジタル。

どう見てもエゴイズムのように見えるのに、
しかしそれは方向性の無い単なるドットの集まりでしかない、
これが我々ですから、至ってしまえばあまりにも開放的過ぎて、
へへら笑ってしまいそうですね。

ここに至るまでは、激流だったのですから、
こんな毎日へヘラ笑いそうな快適な状態で能力も効率的に最大に発揮できて、
こんな日が来ようとは当時は夢にも思いませんでした。

少なくとも、ここで私に相手にされなかったような者たちは可能性はありませんので、
でも、くれぐれも我々に原因があるわけではありませんから勘違いしないように、
ずーっと笑ったり苦しんだりしながら生きて行って下さい、
その者たち自身が望んで進んでいく生き方ですから仕方ありません、
人の言う事が耳に入らないどうにもならない人たちですから。

この者たちには話をしても耳に入らず意味がないのです。

我々が無駄な話をした分だけ、
一般的には我々がやった事が徒労に終わって我々が
損をしたと表現できるものなのかもしれません。

一般的にはそうだがと断っておく所が、これまた我々の特異なところなのです。

219:2013/12/25(水) 17:51:27
ラピ。さんこんにちは。

いいえ。正確にはこの掲示板に来てから、脱スピリチュアルへ考えを変えた。と言うべきですね。
言葉の使い方が正直ではありませんでした。

今は不要な理由は、私がその言葉を思い出して使っている限り、激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。
至れなくても、誤魔化したまま酔っ払いのまま終わりたく無いからです。

220TK:2013/12/25(水) 18:01:36
楓さん

>私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。よろしくお願いします。
>もう酔っ払いをやめたいのです。
>けれど今までに仕入れてしまった知識が実践の妨げなります。
>その文言を知った頃は、いわゆるマインドが静かになり、ストレスが消えるので重宝していましたが

イワシの頭も信心、プラセボ効果があったのですね。

偽薬 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E8%96%AC

>偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられる事を言う。


>下からやり直したいのですが、記憶がある以上思い出してしまいます。
>どうすればいいのかわかりません。
>
>こんな場合の対処法を教えていただければ幸いです。

まず手元にある一切の精神世界系書籍等をもったいながらずに処分する事。

ここからです。

私は激流段階の実践時でさえ、
今たまに引用している「スッタニパータ」であろうが「ダンマパダ」であろうが次から次へと人にやったり処分しました。

従って今の引用はネット上から拾ってきていました。

次に人の為、善をなす、悪をなさない等の生きていく上での
理想を持ちそれを生きている目的とする事。

221ラピ。:2013/12/26(木) 00:39:01
☆楓さん

なるほどです。

ちょっと思ったのですが
楓さんがスピリチュアルにはまったきっかけは何だったのでしょうか。

そこにヒントがあるかもしれません。

>私がその言葉を思い出して使っている限り、
>激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。

ええ、そうですね。

スピ系の言葉は「いろんなことを誤魔化す言葉」であることが多い。

例えば愛でないものを「これは愛だ」と言うことによって
誤魔化してしまう。

本当は愛だなんて思っていなくても。

だからそんな言葉で誤魔化すことなく
しっかりと自分と向き合わなければなりません。

222:2013/12/26(木) 19:33:21
TKさん こんばんは。

書籍等処分します。偽薬でも私には劇薬でしたね。エゴが弱くなりましたから。
そして理想と目標にします。


ラピさん こんばんは。

直接のきっかけは、私に近しい人との別れによる喪失感、絶望感から。でしょうか。
ただそれ以前から、人間としての理想的な生き方や在り方に興味があったのは事実です。

223ラピ。:2013/12/27(金) 07:51:12
☆楓さん

エゴが弱くなったのですね。

>激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。

その通りでエゴが弱まる=激流が起こらない
ということです。


>近しい人との別れによる喪失感、絶望感から。

喪失感や絶望感をスピ系によって紛らわせたということですかね。

私は昔から
喪失感や絶望感などが来たら
何かで誤魔化すことなく
それらを思いっきり味わい尽くす人でした。

自分に起こる感情をなにかで誤魔化すよりは
反対に増幅してそれを知ろうとする人でした。

変な人ですね(笑)

でも、誤魔化すのが大嫌いだったのです。

なぜ、絶望感があるのだろう、とか
この喪失感はなんだろうと思いめぐらせる人でした。

これは私の特性であって
他の人にお勧めできませんが
少なくとも私のその特性は今の私につながっていました。

(何かのご参考までに書いてみました。
でも、真似はしないほうがいいと思います。)

楓さんは自分の理想を実現するために
どうぞ、これからもがんばってくださいね。

楓さんには楓さんの道があります。
自分を信じることです。

スピ系を信じるのではなく
自分を信じることです。

スピ系の教えよりも自分を信じ、
自分の信じる善なる道を進むことです。

スピ系に自分の判断を
預けてはいけません。

自分の「善」を信じることです。

どうぞ清き道を。

224:2013/12/27(金) 20:55:02
ラピ。さん こんばんは。

はい。その通りです。
余りの孤独感から、他の解決策を求めたのです。そこでマインドやエゴの働き等を知りました。

今は感情を味わい尽くすことに抵抗はありませんが、その頃は中途半端な姿勢でした。
とことんでは何かが永久に変わる気がして、戻れなくなりそうで、怖かったのです。

現在は、勝手に起こるそれらが一時的なものでしかないとの理解と、
それらと『自分』との隙間、選択の余地から、反射的な言動は無くなっています。


傍目には私が成長したように見えるでしょうね。
ただ、降参してラクにはなったけれど迷子にもなったような…
方向感覚を失った心許なさがありました。

返信ありがとう。
書籍等処分しました。自分の善を信じます。

225ラピ。:2013/12/27(金) 22:18:31
☆楓さん

楓さんはもしかしたら
かつて「激流」を経験したことがあったりしますか?

それについてなにか心当たりはありますか?


>偽薬でも私には劇薬でしたね。

この出来事はいつ頃の話でしょう?
スピ系にはまってからの話ですか?

それともスピ系にはまる前の出来事ですか?

226TK:2013/12/28(土) 09:14:12
精神世界系の中ではワクワクの教えが一番的を得た教えであると評価しています。

ただし、
説いている者と聞いている我々の環境との違いをつくづく感ずるものではあるのです。

それ以外は、聞く者の段階とピントの合ってない教えです。

私は、探求の結果光の存在から、精神世界への関心を捨てさせられました。

そこでは確実に一つの教えを与えられましたが、それは、
激流の段階の教えと比較すると、完璧な教えでは無く落ち度のある教えであり、
しかし、その時の私には当然そのような事などわからず、
ただ有難い教えなのだろうと思って信じて歩みを進めました。

それが「理想的な生き方」を拠り所として自分の足で人生を切り開いて生きる生き方です。

それから自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

生きていると言うのはなんと素晴らしい事か、このような生き方が広がってきたのです。

なぜ、私がこの時に完璧な激流レベルの教えでは無く、
程度の下の不完全な教えを光の存在から与えられたのでしょうか。

光の存在が、
程度の低い存在でその程度の教えしか私に教えられなかったという事なのでしょうか。

しかし、これは、聖書レベルの教えをこの当時の私程度の精神で実践したら、
完璧な酔っ払いとして一生死ぬまで生きる事になるからなのです。

世間の多くの酔っ払いの者達と自らの誤認による覚者を目にし、
それとは対照的にラピ。さんの成就と、至った本物が稀という事実で、
それはほぼ確実である事が確信できました。

光の存在の導きは正しかったのです。

それは全くもって表現上は聖書のイエスの教えとは正反対の内容となるものです。

聖書のイエスの教えでは「裁いてはならない」ですが、
この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
というものなのです。

スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

このように正反対の教えですが、
実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。

悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
これこそがまずは必要なのであると説いているのです。

理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。

チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。

この実践こそ必要なのです。

EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。

私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。

私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

ワクワクの実践は「知的」な実践であるのに対して、
激流の実践とは正反対の「バカ」になる実践なのです。

いい気になってやってますが、
スピ系の振り回している実践内容はバカになる要素のものですから、
自らの誤認による覚者にしても、
ドンキホーテとその従者のサンチョ達に譬えるとちょうどぴったりの状況に傍からは見えるのですよ、
本人たちは酔っ払っているからまともだと思い込んでいる、
まさにドンキホーテとその従者のサンチョです。

私はバカになる事の恐怖に打ち勝ちながら、実践に臨んだものですが、しかし、
私は過程を飛ばす事無く踏んでいたので、酔っ払いにはならずに、今に至りました。

EO氏のような私が覚者と認める方は、このように私が言う酔っ払い現象について、
同じように語っているのです。

今も誤認の覚者とその関係の一派が一生懸命に死ぬまで酔っ払いコースで歩んでますが、
その者たちにはこの事実を知る術はありません。

(続きます)

227TK:2013/12/28(土) 09:16:32

(続きです)

聞く耳は無いでしょうから、寿命に達して死ぬ時に後悔する事になります。

悟りに至るためには、単純ではないこのような入り組んだ仕組みがあるのです。

この前段の実践を終了出来た者だけが次の釈迦並びイエスの教えが実践できる状態が整うのです。

人間としての基本的な生き方ができてもいないのに、
手を出すことは絶対に厳禁です。

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。

これで私はイエスからも釈迦からもこの聖書の言葉のような奇瑞を得ることができました。

これは私自身の奇瑞経験ではありますが、
私の述べている事がイエス本人から承認されている内容である事の根拠として下さい。

誤認の者はいくら一生懸命にやっても、
その一派も含めてイエスが目の前に現れるなど、絶対にこれは起きません。

誤認の者は同じまともな感覚を麻痺させられた者同士で、ドンキホーテとサンチョを演じるのみです。

間違っている内容を目の前で繰り広げられるのを目にするのも切ないものがあります。

なぜなら、自らの誤認による覚者と私との違いは、
単なる運が良くて私は自らの誤認による覚者と同じ道を歩まなくて良かっただけのようなものですから。

それは僅かな違いなのですが、
しかしその僅かな違いが両者の明暗を大きく分けたのです。

なぜなら、片方は一生誤認の者として生き、そしてまた、
係わる多くの人たちに対して虚偽を説き罪を積み続けるからです。

仏罰と言う文字が頭に浮かびます。

私は迷路を抜けた稀な一人という事になってしまいました。

決して望んでなったわけではありません、
なぜなら望んだら永遠になれない原理のものだったのですから。

私ごときには大それた事だとも思うのですが、それでも、
一生自らの誤認による覚者で生きて行こうとしている者たちに対しての、
気付かせるためのチャンスを握る僅かな者の中の一人なのです。

この私が、釈迦やイエスの眼鏡にかなった実践において奇瑞を得た者なのです。

私と接する誤認の者の中には、そうである事に気付くことができた者もいました。

また、私の力が及ばなかった自らの誤認による覚者のままの者もいます。

適当な口実を作って、私の前から逃げた誤認の者もいました。

ラピ。さんのように私の導きで至った者もいます。

私は現在は「釈迦もイエスも一切を信じていません。」

これこそが至った者だからこそ宣言できる真実の言葉ですが、
誤認による者たちよ、自ら、この宣言が出来るか、もしできなくば、
それがお前たち自らの誤認による覚者であることの証なのだ。

(続きます)

228TK:2013/12/28(土) 09:17:09
(続きです)

また、信者は導師にたずねてみるがよい、
あなたは「釈迦とイエスを現在も信じていますか」と、
これが至った本物か至っていない偽物導師かの踏絵であり判定法です。

私はよく聖典を引用しますが、
それは決して今現在私が釈迦やイエスを信じているからと言う理由では無く、
かって実践時の成就する前の段階において私もその教えを信じていたと言う対機の一手段です。

私自身はもう信じる事はありません。

だからこそ、方便として説けるのですよ、信じている真っ最中の者が、
方便としてこれらを使い回すことができると思っているのですか、
思い上がるのも休み休みなさい。

覚者ごっこ、ふざけるんじゃない、一刻も早くそのような茶番は止めろと命じたい、
全然至ってもいない者が、
我々のような本物と対当の気になって本で得た知識で覚者を装い気分だけでそのような事をやって恐れ多い事です。

至った本物は信じていませんと、はっきりと答えることができるのです。


スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


さて、信者の方も本物の釈迦やイエス本人を信じるのか、
本人は信じずに誤認によるエセ覚者を取るのか、仏罰レベルの選択です。

ラピ。さんは私の説く真実の教えによって至りましたが、
これが私に出会うよりも前に、
自らの誤認による覚者に出会わなかったことが不幸中の幸いでした。

折角の素養のある者が、みすみす死ぬまで酔っ払いになるのですから、
それは今の至った後のラピ。さんが一番よく知っているはずです。

自らの誤認による覚者は多いですが、
今の世で私とラピ。さんのような者に出会えるのは稀なのです。

何度も言いますが私は望んで至ったわけではありません。

次の者には要注意です。

不用意に、
「裁いてはならない」とか「感謝して受け入れて」と言う内容を多くの者にばら撒いている者。

これはEO氏説く必須のサバイバル能力と言う点に照らしても、
感覚を麻痺させる、頭がぼける事を平安と勘違いする酔っ払いとなる要素なのですから、
はっきりと言いますがその人物は偽物です。

実際に多くの人に必要な教えは、知的水準を上げるワクワクの実践です。

229:2013/12/28(土) 19:42:02
らぴ。さん こんばんは。

激流だったかどうかはわかりませんが、劇薬のような体験はスピ系に関わって以降です。


きっかけであろう喪失感からスピ系をかじり、
始まったものを感じ切る事を許可し(偽薬2) 実際にそこへ飛び込み、起こるままに任せた体験があり、
その後、大喧嘩による葛藤でとてつもなく気分が悪くなりました。

ちなみに、その時巻き込まれた口論ですが、人一倍エゴの強かった以前の私なら、とばっちりだろうと何だろうと、論破の上に倍返ししていましたが(苦笑)

興奮してまくし立てる相手を他所に、私自身はアドレナリンに悪酔い、吐き気がしていて。後でしばらく座り込みましたね。

激流に似た葛藤の心当たりについては、以上三回です。

230:2013/12/28(土) 19:45:17
TKさん こんばんは。

こちらにお邪魔するようになって以降、書かれた事が答え合わせのように理解出来ます。
だからもう私にはスピ系以外でも要らないのです。

私は狡さから酔っ払ってしまったけれど、人としてまともな道に戻る気になりました。
ありがとうございます。

231ゆうこ:2013/12/28(土) 19:56:37
皆さまこんばんわ(*^_^*)

楓さんのように私も(聖書と仏典以外の)書籍を捨て、
神棚も片づけて自分を信じて歩み始めておりますm(__)m

職業柄、繁忙期に突入しており、年末年始ノンストップですが
風邪ひとつひかず、心身ともに充実している昨今です。

らぴさんからのアドバイスで
「人を裁かず」なんて甘いこと言ってて仕事ができるか?という問いも
最初は戸惑いがありましたが
全体の向上のために、という気持ちで取り組んでいます。

そこには、まだ感情が絡んでいて
本当に全体の為か、自分の気が済まないから裁いているのか
見極めに注意を払いつつですが・・。

>この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
>というものなのです。

>スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
>この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
>「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

上記の言葉は
この掲示板で最初に歩みかけた実践の考えとは反対のことなので
確かに戸惑いもありましたが
らぴさんからもTK師からも
私の段階に対するアドバイスの修正を頂いたので整理して進路変更しました。

現在は、毎日一緒の先輩が『結果主義』の人で精神世界に無縁のため
問題の解決法のよい勉強ができています。

おそらく、以前の『ごちゃ混ぜ』の目だったら
つい見えない世界に照らしてしまい、
この先輩すらも、心のどこかで過小評価のままだったと思います。

今は、自分の可動域と行動の結果が全てなので
忘れていた特技まで持ち出して問題解決(=営業結果)に取り組めており、
状況としては、TK師の書かれている

>自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

に近い心境です。

そこで、今、ふと質問が湧いたので書き込ませて頂いております。

「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
いずれ壁にぶちあたる。
そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
聖典などを開くのが
タイミングとして適切」
ということでしょうか?

これまでも多くの挫折や失敗のたびに
聖書を含めたいろんな本に答えを求めてきましたが
「同じ聖書(聖典)でも、他の情報と混ぜずに実践すること」が大きな違いを生む、
ということなのでしょうか?

実は、この掲示板でブッダの言葉を初めて知って感動したため、
今でもつい開いてしまって
「自分の善は、この戒めを原型としているから」と言い訳しています。

実際、仕事や家事での集中に役だってもいます。

この状態は、OKでしょうか?

232TK:2013/12/28(土) 21:12:11
ゆうこさん

>聖書と仏典以外の)書籍を捨て

これも捨てた方が良いです。

この害の部分があなたに顕著に作用して、
あなたが見る見る酔っ払いになるのを目にしたので、教えを変えたのです。

あなたの変貌ぶりは、かなりのものでした。

かなりの危機感を覚えました。

これは「バカ」になるための教えが記載されているものなのです。

よほどの使い方が出来るもの以外は、係わってはなりません。

このようなものに後ろ髪惹かれて何らかの価値を認めている内は、
この段階の生き方ではありません。

私などは聖書は一冊焼却炉にぶち込んで燃やしました。

今手元にある聖書は、その後本当に学ぶべき時が来たので、
再び手に入れたものです。

スッタニパータにダンマパダは職場の人に上げました。

これは、至るまで必要なかった書籍なので今はネット上から拾って引用しています。

つまり、
スッタニパータやダンマパダに役に立つ内容が無かったわけではなかったのですが、
多くのものを読む事は、いかなる段階の実践においても害になるものなのです。

内容だけ知って、賢者のつもりの他のサイトのバカのようになりたければ、
多くの本を読んで下さい。

私は手に入れて少ししか読まずに手放した本は多いです。

>「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
>いずれ壁にぶちあたる。
>そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
>聖典などを開くのが
>タイミングとして適切」
>ということでしょうか?

何と自信の無い発想をしているのです、
あなたはずっと自分のみを信じて生きていくので、
精神世間の心配など無用なのです。

233ゆうこ:2013/12/28(土) 21:32:36
TK様

>害の部分
これは、びっくりします^^;(聖典に害とは・・)

聖書は若い頃の物なので既読感があってほとんど開きませんが
ブッダは、最近知ったために
正直、どこから読んでも感動で、

「八正道さえ踏み外さなければ間違いない」という指針が
芽生えたところでして・・・。

>何と自信の無い発想をしているのです

おっしゃる通り
ダメなところだらけの自分のまま行け、
と言われることに抵抗感を感じます。

謙遜が美徳の教育も価値観として根強く作用してます。

>あなたはずっと自分のみを信じて生きていくので

・・・これまで好き放題生きて来て反省してここにたどり着いたのに
また逆戻り?という戸惑いを感じますが


まったく、前のままに戻るわけではないですもんね・・・。

愛人も酒もケンカも「自分の善の道」にはないですし。

・・・・・毎日、家族と会社のために生活して
少しの時間、ブッダに触れることを日課の楽しみにしていたので
かなり残念ですが・・・

「ブッダを拠り所にしている状態」を断つために
アドバイスに従ってみます。ツライですけど・・・

あ、ツライ、って思ったってことは、それくらい頼ってたんですね、
ブッダに。

自分の自信のなさを「エセ・ブッディスト感」でごまかしてたと。

なるほどです。

明日から、赤裸々な、
「ザ・ゆうこLIFE」スタートしてみます。
また人に迷惑かけたりすると思いますが!

ビート板なしで泳ぐのは、今考えると、30年ぶりくらいかもです!
子供の頃の気持ちに戻ってがんばってみます。

お返事ありがとうございますm(__)m

234TK:2013/12/28(土) 21:41:18
楓さん

>こちらにお邪魔するようになって以降、書かれた事が答え合わせのように理解出来ます。
>だからもう私にはスピ系以外でも要らないのです。

良い方向性です。

ただ、常に拠り所にできる「理想」だけは持って進んでください。

人々の為、善をなすなど。

>私は狡さから酔っ払ってしまったけれど、人としてまともな道に戻る気になりました。
>ありがとうございます。

泥沼から脱出良かったですね。

235名無しさん:2013/12/28(土) 21:55:48
☆楓さん

スピ系にもいろいろあるんですね。

楓さん、どうぞこれからも頑張ってくださいね。

236ラピ。:2013/12/28(土) 21:56:23
235の書き込みはラピ。です。

@(*・ω・*)ポッ


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