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ご意見、ご連絡スレ

1メビウス@管理者:2010/11/10(水) 00:24:44
当サイトへのご意見、また著作権上の問題などを発見されましたらここへお書き下さい。

2メビウス@管理者:2010/11/16(火) 00:45:10
このサイトは管理者個人が心の哲学を整理し、より思索を深めるために作ったものです。
Wikipediaをはじめ他サイトや他者の著作物からの引用が大半です。著作権については詳しくありませんので、問題ありましたらぜひご指摘下さい。

5メビウス@管理者:2011/04/06(水) 22:14:26
管理者個人の見解は以下のページで述べています。

形而上学的無主体論
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/125.html
動物の心
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/116.html
パルメニデスのアポリアとして
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/96.html#id_799a0c55
渡辺恒夫-遍在転生観に関連して
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/97.html#id_e9f8d93e
永井均に対する批判と疑問として
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_42cc2e8a

6名無しさん:2011/04/19(火) 18:46:33
ぼくは今年の四月までFPS中毒者で、四月から啓示的に哲学をやりはじめた学生なのですが、
これはとても良いサイトですね、学校が忙しいのと、読みたい本がたくさんあるのとで、
少しずつしか読み進めることができませんが、少しずつやっていこうと思います。
がんばってくださいね。

7メビウス@管理者:2011/04/20(水) 01:35:08
>>6さん、
感想を頂いたのは初めてです。ありがとう。

念の為ですが、このサイトは私の主観によってかなりバイアスがかかっています。
また現状では心の哲学全般を網羅しきれてないのも確かですので、割り切って
ご利用頂けたらと思います。

9:2011/06/21(火) 21:43:10
レヴィナスって心の哲学に入るんだろうか?
現象学との絡みがあるみたいだけど

10メビウス@管理者:2011/06/23(木) 02:03:57
現象学自体は独我論を出発点とした思考の形式なので、
心の哲学であるのか微妙なところですね。
フッサールの自我はカントの超越論的哲学と似ていますが、
現象学のためにあらかじめ存在が仮定されている点がポイントでしょう。

まあ、心の哲学とあんまり関係ないような。

11メビウス@管理者:2011/06/23(木) 02:27:35
留意すべきなのは、現在の心の哲学はほぼ全てが自然科学の知見を前提に、
またはそれと相克しないように行われていることでしょう。
心の哲学者はみな、かなりの科学的知識ももっています。

まあ、永井氏みたいに独我論ベースで関わってる人もいるので、
やり方が自由なのは確かですが。

12:2011/06/23(木) 07:24:05
だよなあ。

今、倫理学に興味があって、色々読んでるんだけど、
ぶっちゃけ範囲広すぎて手えつけようがないもんで困っている。
こいつの広さは、科学的知識だけじゃなく、
歴史的な知識まで必要とするところに大きな原因があるんだが。

13MoCa:2011/08/26(金) 03:16:30
他の連絡手段がわからなかったので、こちらで失礼します。

同じ@wikiの別のページにて、哲学関係やらもろもろ載っけてる者ですが、こちらのwikiもとい掲示板を拝見いたしまして、掲載されている文章を引用などさせていただきたいと思いまいました。
こちらほど文章量があるわけでもなく、つい先日やっとニーチェに触れたぐらいの若輩者ですので、あまり大きく出られるものでもないのですが……。

哲学に関するまとまったデータがネット上にあまりなかったので、こちらのサイトを発見できたのは嬉しいことでした。もし引用がダメだったとしても、リンクぐらいはOKだとかであれば、ぜひ宜しくお願いします。
駄文にてお目汚し、失礼いたしました。

14メビウス@管理者:2011/08/26(金) 23:32:56
>>13
引用、リンクはご自由になさってください。

なお、wiki内の文章に関しては私が他の著作物やサイトから引用しているものも
多いですので、ご注意された方がいいと思います。

15MoCa:2011/08/26(金) 23:54:11
>>14
ありがとうございます。
参考のリンクなどとして、活用させていただきます。

16名無しさん:2011/11/04(金) 12:35:36
永井均の<私>の意味を勘違いしてはいないだろうか。
少なくともあなたは永井の使う意味においての認識論的独我論、他者を誤解している。
たとえば、永井にとっての他者はふつう人を指しているのだが、
あなたにとっての他者は肉体という「もの自体一般」のうちの一つとして見えているようだ。
そもそも、永井均の<私>の概念は、他者と私の関係から考察されて導かれているのだ。

17メビウス@管理者:2011/11/04(金) 19:27:07
>>16
>永井にとっての他者はふつう人を指しているのだが
>あなたにとっての他者は肉体という「もの自体一般」のうちの一つとして見えているようだ。

その永井の「認識論的独我論」と「他者」の使い方がダブルスタンダードなんです。
「もの自体」は認識できないというのはカント以来の哲学者の共通了解です。
自分の肉体に〈私〉があるという見方は物自体をそのまま認識しているという素朴実在論的な
見方でなければできないのです。これは認識論的独我論と相反する考え方です。
認識論的独我論においては確実に認識できるのは自分の意識だけです。

実証的な立場から考えても、自分の肉体と思われているものは、自分という
特定の意識の所有者とはいえず、因果的な相関関係があるといえるだけです。
それならば、「他者」たちも同じです。

永井はダブルスタンダードなんです。チャーマーズの素朴実在論的前提に対しては、
「他人たちには意識があると信じて疑わないのは不思議というほかはありません」
と批判してるのに、自分は素朴実在論を前提に自分の肉体に〈私〉があるかの
ように書いてるからです。

18hijk:2011/12/01(木) 06:38:05
心の哲学という難しい領域が、凄く分かり易く纏められていて、
感動しました。問題を心底理解し、自分の言葉で語れる、
管理者の方の力量ゆえだと思いました。

私は、永井均の<私>という概念にすっかり魅了されており、
なんとか理解したいと思っているのですが、難しいです。

ちょっと思ったのですが、意識の難問まではいずれ物理現象に
還元される気がします。(それぞれが自己意識を持って生きて
いるという、世界を客観的に俯瞰するような感覚。)

一方、<私>は、「相互排他的な空間の各点において」「内側から
外側を(志向的に、時間に沿って)“見る”」ということが、
どうして可能なのか、という問い、すなわち「どうして空間は
広がっているのか、どうして時間は流れているのか」という
世界への問いに直結しているような感じがしてなりません。

意識の超難問は、意識の問題から出発して世界の在り方を問う
最短距離というか、世界と自我を繋ぐ洗練された現象学の核
のように感じています。この印象は的を射ているでしょうか。

19hijk:2011/12/01(木) 06:49:30
つまり、意識の難問までは、物理に還元し得るが、
物理の超難問は、物理が拠って立つ時空そのもの
への問いなので、物理に還元できない、という感じ。

(「意識の難問」のうち、時空そのものへの疑問と
表裏一体である部分を取り出したのが「意識の超難問」、
という言い方もできるような気がしています。)

20メビウス@管理者:2011/12/02(金) 22:16:36
>>18-19
まさに意識の超難問は「私」から出発して「世界」のあり方を問うものだと思います。
というか、「私」やクオリアというものの本性を考え詰めると、どうしても
時間と空間の実在性を問わざるを得ないんですね。
この点は人格の同一性やパルメニデスなどのページに私個人の見解として
書いているのですが、まあかなり飛躍した考え方かもしれません。
渡辺恒夫も自我論については私に近い考え方ですが。

21メビウス@管理者:2011/12/02(金) 22:44:40
永井均の<私>の概念は確かに理解が難しいです。
永井は説明が上手い哲学者とは言い難いですし、何より本人は自分が哲学する
ために本を書いてるようなものですから。
永井の<私>については、私が意識の超難問で「独在性のアポリア」として
書いたものが一番わかりやすいかもしれません。

とは言っても永井は<私>を、特定の人物に論理的に付随しないものと考えていることが
重要な点です。(これは大庭健からの批判に対する反論として明確に述べられています)

私は永井均のページで色々批判してますが、批判の一つがその点です。
仮に私が人物Aであるとした場合、<私>とは人物Aが「存在する」ということの
最も根本的な意味本質であり、<私>とは論理的に人物Aである、というのが私の考えで、
このことがハイデガーのいう存在論的差異の問題の核心だと思います。
永井も<私>の説明に存在論的差異を使ってるのはおもしろいですね。

22名無しさん:2011/12/15(木) 03:20:01
面白いサイトだ。
フランシスコ•ヴァレラとかも載ってていいと思いましたが。

23名無しさん:2011/12/15(木) 16:52:05
>>17
>その永井の「認識論的独我論」と「他者」の使い方がダブルスタンダードなんです。
>「もの自体」は認識できないというのはカント以来の哲学者の共通了解です。
>自分の肉体に〈私〉があるという見方は物自体をそのまま認識しているという素朴実在論的な
>見方でなければできないのです。これは認識論的独我論と相反する考え方です。
>認識論的独我論においては確実に認識できるのは自分の意識だけです。

その、まさに「認識論的独我論と相反する」という箇所が、
永井均の独我論に対する解釈をほとんど理解していない証拠だと思う。
確実に認識できるのは自分の意識だけ、というふうに言ったときの「自分」を、
皆にとっての自分自身、つまり「私」に置き換えて、受け取る形でしか、
認識論的独我論は伝達できない。逆に言えば、普遍的な認識論的独我論、
というものがありうる。でも、それは独我論的状況とは言いがたいものに
(永井均の言葉を借りれば)『変質』してしまった有様だ。だから、
「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする、
素朴実在論的状況と、何ら相反するものではない、といえる。

多分、「独我論」に対する解釈が様々にあるから、
永井均にとっての意味で捉えるほうがよい文脈と、
永井均にとっての意味で捉えてはいけない文脈とで分類しながら、
うまく読み取っていくしかないような気がする。
この意味で、永井はダブルスタンダードにならざるをえなかった、
と言うこともできる。

24メビウス@管理者:2011/12/15(木) 22:15:58
>>23
あなたは私がどういう脈絡で永井均を批判しているか全然理解してない。

永井は「認識論的独我論」について、「ある一つの心にとってその外部にある
ものの存在は認識できない、という一般論にすぎない(中略)その意味でこの
独我論は普遍的な独我論なのである」(『〈子ども〉のための哲学』p38)といいます。
それと対比されるのが「存在論的独我論」で、それがあなたの解説してる普遍化できない
永井の独我論です。それは既に私が永井均のページで簡単に説明してあります。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/49.html#id_9be9d4d1

あなたの誤読は、永井がチャーマーズの素朴実在論的前提に対する批判として、
「認識論的独我論」でなく「存在論的独我論」を使ってると思い込んでることです。

永井はチャーマーズ批判に「存在論的独我論」なんて使ってません。
私が批判してる『なぜ意識は実在しないのか』の該当箇所(p80)をもう一回読んで下さい。

25メビウス@管理者:2011/12/15(木) 22:39:22
>>22
フランシスコ•ヴァレラですか。
心の哲学には間接的に関わってくるかもしれませんね。

まだトーマス・ネーゲルのページさえ作ってないので、
書くとしたらだいぶ先になると思いますが。

26横から失礼:2011/12/22(木) 20:58:45
永井均の話題に関連して質問させてください。
「なぜ意識は実在しないのか」を読んだのですが、正直よく理解できません。
結局永井が言ってるのは「意識は語りえない」ということでしょうか?

「転校生とブラックジャック」は凄く面白いと思ったのですが、
「なぜ意識」の方は読者を無視して書いてるような感じで付いて行けませんでした。

27メビウス@管理者:2011/12/24(土) 00:12:19
>>26
>結局永井が言ってるのは「意識は語りえない」ということでしょうか?
結論からいえばそういうことです。
永井の主張の要旨は、言語の本質は公的に共有されるものであるから、公的で
ないことが本質である現象的意識は決して語りえない、また公的に理解されて
はならないということで、これはウィトゲンシュタインの洞察に基づきます。

私見ですが、永井の著作で一番秀逸なのは『転校生とブラック・ジャック』、
または『翔太と猫のインサイトの夏休み』で、逆に一番悪いのは
『なぜ意識は実在しないのか』です。
あなたは永井の一番良い本の後に一番悪い本を読んでしまったようです。

『なぜ意識は実在しないのか』は心の哲学とウィトゲンシュタインの独我論
について相応の知識がなければ理解不能な内容です。
しかも永井の理論展開も随分ずさんなもので、そもそも心の哲学についての
基礎知識が間違っている。(というより、意図的に無視して自分の哲学を
やってるという感じですが)

28メビウス@管理者:2011/12/24(土) 00:28:56
永井は現象的意識について、ウィトゲンシュタインを度々引用して
「語りえない」といい、またそのウィトゲンシュタインの洞察が
英米圏で忘れられていると嘆きます。
でもこの永井の批判は全く的外れなんです。
そもそも20世紀の心の哲学はウィトゲンシュタインから大きな影響を受けた
論理行動主義から始まります。
行動主義はあまりに素朴心理学からかけ離れているため心脳同一説や機能主義に
置き換わっていきますが、その機能主義もまたウィトゲンシュタインの
「語の意味とはその用法である」という思想に由来しています。

そして、その機能主義に対する批判として現れたのがジョン・サールやチャーマーズの
自然主義的を前提とした心の哲学なんです。
つまり現代の心の哲学はウィトゲンシュタインの「語りえない」という考察は当然の
前提に過ぎず、チャーマーズが哲学的ゾンビや逆転クオリアの想像可能性論法による
思考実験で主張していることは「語りえないけど想像できる」ということなんです。
永井は「想像できない」ということ、つまり哲学的ゾンビやクオリアの逆転が論理的に
不可能であることを全く証明できていません。
それなのに自分の独我論的前提が周知の事実であるかのように拙速に話を進めていき
ますから、内容がずさんで、話についていけないのは当然でしょう。

永井もすっかり有名人になってしまいましたから、権威主義的になってるという
感じですね。

2926:2011/12/24(土) 19:38:33
>>28
心の哲学の前提を無視してチャーマーズをネタに
自分の思想を展開してるということですね。

永井均のチャーマーズ批判は何か釈然としないものを
感じたのですが、様するに土俵を間違ってるわけですね。

30メビウス@管理者:2011/12/26(月) 01:03:38
>>28
誤字があった。
×自然主義的を前提とした心の哲学なんです。
○自然主義を前提とした心の哲学なんです。

>>29
>心の哲学の前提を無視してチャーマーズをネタに
他の分野の哲学を批判的に読み替えていくというのは哲学において
一般的な手法で、ポストモダンでは脱構築なんて言いますが、
それが悪いわけではなく、理論展開がずさんなのが問題なんです。

参考までに、哲学の歴史において「他我問題」はフッサールとウィトゲンシュタインで
一旦終わったといえます。要するに他我は理解できるわけ無いからブラックボックスに
して、素朴心理学的に「類推」で他我を想像すればいいと。

大森荘蔵によると、「類推説は哲学じゃない」という批判から行動主義が始まったそうです。

31hijk:2012/01/24(火) 03:10:34
>>20-21
カメレスで恐縮ですが、ご解説大変ありがとうございました。
心の哲学が時空の実在性に繋がっているという見通しに
太鼓判を押して頂いたようで嬉しく感じております。

講談社「<私>の哲学を哲学する」の中で、
唯物論 vs 唯心論 のような構図が生じる根源が
言語と時空であると脚注で(僅かに)触れられています(p.284)。

世界が成立していることの必要十分条件は、
物理宇宙(物)が内部観測者(心)を持つことであり、
物的過程と心的過程が重ね描かれるためにはどうしても
言語(=記号一般、論理)と時空(=変化、矛盾を許容する形式)
が前提されざるを得ない、という構図が、私には分かり易いです。

どうも<私>の不思議については「言語で言えない」ことに議論が
集中していて、「時空とは何か」との関連については、あまり
突っ込んだ議論がまだ為されていないように感じています。
(※勿論、私が知らないだけなのかも知れませんが。)

(※話が脱線しますが、位相幾何学の本を読んでいて閃いたことが
  あります。物理時空の性質(擬リーマン空間)から時間を抜き、
  次元構造を抜き、距離概念やハウスドルフ性も抜き、それでも残る
  ギリギリの空間の性質としての「位相」というもの、それは即ち、
  開集合族が定義できることなワケですが、これって実は
  「自分が自分である」という(外側にある如何なるものでもない、
  一瞬前の自分ですらない、内側へ内側へと突き詰めていく連続的な)
  現象、即ち現象的意識が成立する最小限の条件の事なんじゃないかな、
  と感じています。ここの議論の通路が開くと、心と時空の表裏一体性
  の議論の基盤になりそうな気がしています。以上、脱線でした。)

<私>を単独で存在論的に扱うとパーフィットの思考実験などの問題に
突き当たるように思いますが、生命身体のような自我境界線(つまり
空間内で内側が定義できる表面)の中で強く焦点を結ぶものとして考え、
しかしその本質は時空そのものに帰着する(極論すれば素粒子にも
超希薄な<私>がある)と考えれば、スペクトル的な思考実験で生じる
問題も自然な形で解決できるような気がしています。

32メビウス@管理者:2012/01/26(木) 21:25:34
時空についての議論はパルメニデスに始まってカントで終わったという感があります。
ウィトゲンシュタインも『論考』でカントを追認するように時空を「形式」であると述べています。

デカルト以来、心的性質とは物理的性質と異なり、「延長」を持たず純粋に時間的であると
理解されてきました。
しかし私はその時間的性質も懐疑できるという考えです。
人間は変化とその属性である時間を「感じる」ことでしか理解できませんが、
では、感じるのに必要な最小の時間というのは何秒なのかという問題が生じます。
「私には確かに昨日の記憶があり、かつ今時間が流れているという感覚がある」
という現象的意識をAとするなら、そのAが存在するための最小の時間なるもの
はやはり確定できません。
このような考えを演繹すると必然的に、心的現象が存在するのに時間は必要
ないのではないかという懐疑に至ります。

あと、
>しかしその本質は時空そのものに帰着する(極論すれば素粒子にも
>超希薄な<私>がある)と考えれば、スペクトル的な思考実験で生じる
>問題も自然な形で解決できるような気がしています。
この点、心の哲学でいう「意識の境界問題」や「きめの問題」と関連しています。
素粒子にも超希薄な<私>があるというのは、チャーマーズの汎経験説に
類似した還元主義的な考えだと思いますが、この点では「組み合わせ問題」
などが指摘されています。

パーフィットの思考実験は人格概念について行われたものですが、クオリアや
<私>についても応用可能です。いずれも独我論的な内在性、私秘性をもった
存在者であり、テセウスの船のように恣意的に同一性が決められないものです。

テセウスの船は還元主義的に考えることができ、「部分」の総和が「全体」である
といえます。でもクオリアや<私>は部分を持たないですから、それらを空間と
存在論的に調和させるのは難しいと思います。

33hijk:2012/01/28(土) 05:28:58
>>32
ご返信ありがとうございます。

>心的現象が存在するのに時間は必要ない
>のではないかという懐疑に至ります。
★無時間の心的現象というのは私には全く想像できないので
 非常に興味深いです。どんな感覚なのかしらん…。

 心的現象の核には「自分(b)が自分(a)である」という感覚の
 連続があり、これが成立するには時間が必要だと思われます。
 また、この連鎖の最小時間は「確定できない」けれども
 「ゼロでない有限値である」とは言える気がします。

 (※人間の意識の場合でも、自分(a)が記憶化・客体化されて
   自分(b)になるまでの脳の計算所要時間は、ゼロではない。)

 しかし、こういう、言わば素朴な考えを遥かに超えた所に
 「無時間の心的現象」は構想されているのでしょうね!

>チャーマーズの汎経験説に類似した還元主義的な考えだと思い
>ますが、この点では「組み合わせ問題」などが指摘されています。
★一体自分が自我と宇宙に対して抱いている感覚は何なのか、
 誰の考えに近いのか、分からなかったのですが、なるほど
 チャーマーズの汎経験説に類似していると思います!
 しばらくチャーマーズを勉強してみようかな、と思いました。
 高所からのご助言に感謝致します。

 「組み合わせ問題」は確かに難しいですが、生命の進化は
 人間の脳に至るまでの過程で、この問題を解いたとも言えますね。

>クオリアや<私>は部分を持たないですから、それらを空間と
>存在論的に調和させるのは難しいと思います。
★確かに物理的な空間概念には全く馴染まないと思います。

 物理現象の属する時空と、心的現象の属する時空は、本来は
 全く別種のもので、これがたまたま噛み合うような特殊な状況を、
 宇宙とか存在とかと呼ぶのではないかな…、などと考えています。

36メビウス@管理者:2012/01/30(月) 01:40:19
>>33
>★無時間の心的現象というのは私には全く想像できないので
> 非常に興味深いです。どんな感覚なのかしらん…。

カントが分析したように時空は形式として既に感覚に伴っているものですから、
その感覚によって「無時間」を「感じる」ことは出来ません。
ただ論理的に可能性が示唆出来るだけです。
確かに、私には「時間が流れている」という感覚があるし、
「1,2,3・・・」と数えて時間の流れの感覚を得ることが出来ます。
しかし、そのようなことで実証される確かな事実は時間が流れているという
「感覚の存在」だけであり、時間そのものの存在ではないのです。

このように懐疑してみると、上記の「時間が流れている」も
「1,2,3・・・」と数えて時間の流れを感じたのも、「一つの感覚」の
「性質」ではないかと懐疑することが出来ます。
このような懐疑を飛躍させると、必然的に人の一生、つまり人生体験その
もの一つの感覚の性質ではないかという懐疑にも辿り着きます。
そして、空間の実在性に対する懐疑と併せると、全てのものは「唯一の存在」
の性質に過ぎないのではないかという壮大な一元論の展望が開けます。
これがエレア派が考えた一元論です。

アウグスティヌスも時間の実在性を懐疑する考察を行っており、
「全てのものが一挙に在る」という存在論を展望しています。
つまり過去の出来事も全ては唯一の〈今〉に対する現われと見るもので、
これを永井均は「独今論」と呼んでいます。

37hijk:2012/01/30(月) 06:57:12
ご解説ありがとうございます!(※あと、誤投稿の削除
ありがとうございました、お手数をおかけしました。)

私も時空は実在しないと思います。

時空とか意識とか物質とかによって自己完結的に「ある」
ことになっている性質を取り敢えず『存在』と呼び、
それらと関係なく独立に「ある」(従って論理的に示唆
することしかできない)性質を『実在』と呼び分けてみます。

時空も宇宙も心も『存在』の側にある概念で、一方
カントの「物自体」は『実在』のことだと思われます。

この用語が適切かは分からないのですが、何かこういった
厳密な呼び分けが必要であるような気がしております。

38薄いワクチン:2012/02/23(木) 22:33:57
どうも、使い慣れない哲学用語にぶつかったときなんかに
便利に使わせてもらっています(多謝)、読者です。


さっそくですが、最近更新された「中国人民」の項目に
あやしい記述があったので、報告させてもらいます。

それは、カッコでつけ足された「人間にはおよそ140億個の
神経細胞があるという。しかし神経細胞のうち実際使用して
いるのはそのうち3%ほどという研究結果もある」という部分です。

私も専門家ではないし、最新の脳科学などにも明るくないので
正確なことは言えないのですが、上記のような脳は一部しか使ってない説は、
一種の都市伝説か、過去にそのような研究があったとしても
現在は否定されている、とても古い説だと思います。

試しに検索してみましたが、wikipediaの脳の(解剖の)項目では、
脳は一部しか使ってない説は、脳の9割を占める「グリア細胞の機能が
よくわかっていなかった時代に、働いている細胞は神経細胞だけ
という思い込みから広まったもの」であり、俗説と切り捨てられています。
また、他にも下のような記事を見つけました。

web R25 >人は脳の3割しか使っていないって本当?
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20120130-00022636-r25


以上、報告でした。
サイトの質向上の一助になれば、幸いです。

39メビウス@管理者:2012/02/28(火) 00:48:03
>>38
ご指摘ありがとうございます。
どうやら脳は一部しか使ってないというのは俗説のようですね。
修正しました。

40雨野:2012/04/09(月) 21:54:01
 上の議論を読みましたが、メビウスさんの永井均に対する批判はあまりにも過当なものであると思います。ここでは永井均とはやや離れるかもしれませんが(なにしろ僕が永井均と出会ってから日が浅いもので)、永井均的考え方を擁護してみたいと思います。
 まずメビウスさんが再三指摘されている存在論的なダブルスタンダードですが、永井均は素朴実在論を否定しているわけではないと僕は考えます。永井均の問題意識はどのようにしてそのような素朴実在論が成り立っているのか、そこにあると捉えるべきでしょう(『なぜ意識は実在しないのか』のp6には「どうして心なんて一般的なものがあると、誰もが信じているのか? なんといってもそれこそが解明されるべき第一の問題でしょう。」と書かれています。他にも同書で普通に他人に意識があることは全く問題ないということを再三強調しています)。
 そう捉えますと、ダブルスタンダードに見える態度にも説明がつきそうです。つまり、ご指摘の通り、最初は「自分の肉体と思われているものは、自分という特定の意識の所有者とはいえ」ないのですが、その肉体と相関して現象が変化することから、どうやらこの肉体が「私」の所有者らしいということを発見するのです(『なぜ意識は実在しないのか』のp149-151をご参照ください)。この「私」の所有者が確定することを通して「私」が一般的な「自分」へと人称化すると考えられます。したがって、
①単に私の現象が与えられている状態(独在論)
②その現象がある肉体と相関していると判明した状態(独我論)
③あらゆる肉体に現象的意識が敷衍された状態(素朴実在論)
この三つの状態に合わせて議論の尺度も変わってくると解釈するべきではないでしょうか(永井の原典で非常に曖昧にされているところだということは認めます)。そして永井のゾンビ論法への批判は、
1.③の状態(チャーマーズの前提)ではもはや本来的に私が感じていた現象的意識は成り立たない事(たんなる報告と心理的機能に変わる)。
2.チャーマーズは③の状態を前提にしながら①のような意識が誰にでもあると錯覚している。
の二点になるのではないでしょうか。つまり要約してしまえば物理学や科学という客観的な言語コミュニケーションによって成り立っているような分野に主観的な<私>を包含させることはアプリオリに不可能である、というわけです(これが「語れない」という意味です。つまり客観的に語れない。想像についても同じで、誰もが共有できるような、客観的想像ができないのです)。

41メビウス@管理者:2012/04/10(火) 20:15:31
>>40
その①②③の順序と言葉の解釈は違うでしょう。

正確には、

①現象が特定の肉体と相関しているゆえ「私」が発見され、それが他者に敷衍された状態(素朴実在論)
②現象は全て「私」の意識のみに現れるものだと反省的に理解された状態(認識論的独我論)
③素朴実在論を前提に、なぜこの肉体が「私」なのだと意識の超難問を発見した状態(存在論的独我論)

だと思います。

つまり意識の難問と超難問はともに素朴実在論を前提にしなければ立てられないものです。
その点でチャーマーズと永井は同じ前提で問いを立てているはずなんですね。
永井のチャーマーズ批判の要点は、〈私〉の唯一性を強調した上で、チャーマーズがその〈私〉が誰に
でもあることを前提にしていることに対してだと思います。

〈私〉の唯一性に拘る永井からすればこれは有意味な問いなのですが、チャーマーズからすれば
単なるダブルスタンダードな批判に受け取れるでしょう。要は立場の違いです。

私としては、意識の難問も超難問も、ともに素朴実在論を前提にする限り無矛盾な論理的解答を
導き出すことは不可能だと思います。
従って、素朴実在論に対する懐疑、考究が甘い(ように思える)永井には不満があるのです。

42雨野:2012/04/11(水) 22:47:26
>>41
1.
 我々の「常識」が素朴実在論にある以上、その常識がいかに形成されるかと問いを立てていくのは僕には非常に妥当であると思います。その上で得られる問いこそが、素朴実在論が成立する前提なのではないでしょうか。すなわち、永井均において、問いの前提は素朴実在論ですが、答えの前提は独我論となるでしょう。
 これは単なる立場の違い以上のもののように僕には感じられます。なぜならば当のチャーマーズが素朴実在論に「ゾンビ」という形で問いを発しているからです。その上で彼は答えの前提としても素朴実在論にとどまり続けたのですが(永井の「幼い」と形容したのはこの態度だと思います。むしろ永井からみればチャーマーズこそダブルスタンダードでしょう)、そのような形で他人の現象的意識に疑いを差し向けたのならば、主体を想定する限りにおいて否定しようがない「私」に立ち戻るべきだと思われます。その意味で永井のチャーマーズ批判は単なる立場の違いを越えた有効な批判となり得ると思うのです。さらに実践的な点では、独我論から出発すれば汎経験説のような直観に反する説をとる必要はなくなります(そもそも他人の経験が物自体としてあり得ませんので)。
 
2.
 素朴実在論を前提にしては「意識の難問は解けない」というのは、もはや主体というものを認めないということでしょうか(「考究が甘い」と表現はそのようにきこえます)。その辺りのメビウスさんの考え方に非常に興味があります。もう少し詳しくご説明頂けないでしょうか。

43雨野:2012/04/11(水) 22:51:34
>>41
 少々言葉足らずかも知れませんので補足しておきます。連続レスごめんなさい。
 メビウスさんの①②③の順序は問いを立てる順序、僕の①②③は答えを出す順序として考えるべきだと思います。僕の(そしておそらく永井の)チャーマーズへの疑問は、なぜ素朴実在論を疑いながら、>>40のような答えの順序をとらないのか、ということに要約されると思います。

44メビウス@管理者:2012/04/13(金) 00:49:43
雨野さんは永井均を誤解してると思います。
私は永井の著作は数冊を除いてほぼ全て読んでいますが、
素朴実在論が成立する過程の検証に多くの章を割いた著作はありません。

なお、そのような問い自体が無意味だと言うのではありません。
しかしそれはフッサールに代表される現象学の分野の問題になります。

歴史的経緯を簡潔に説明すると、デカルトの方法的懐疑を受けてカントは
物自体を想定し、人の認識の限界を論証します。
我々は知覚によって全てを認識しているのであり、主観も客観もメタレベルの
「主観」の枠組み内で分離されたものである――これが現象主義です。
その現象主義を押し進めたのがブレンターノ、フッサールの現象学になります。
この現象学の立場では「間主観性」という概念によって客観性を説明します。

一方、カントをフッサールとは違った読み方をして実証主義を押し進めたのが
ウィトゲンシュタインです。
ウィトゲンシュタインは感覚と言語の関係を「私的言語」というテーマで考究し、
言語の公的基準の所在や、我々の客観的認識がいかにして成り立つかを論じています。
ウィトゲンシュタインの結論をごく簡潔に説明すると、主観も客観もメタレベルの
「主観」の枠組み内で分離されたものである、という現象主義の立場を一旦認めた上で、
公的基準や客観性なるものの意味の源泉は、言語にしかないというものです。

ちなみに大森荘蔵は、他我問題についてはフッサールとウィトゲンシュタインで終わっている
といいます。

45メビウス@管理者:2012/04/13(金) 00:51:20
上の続き

実際、現代の哲学における素朴実在論的な前提はフッサールとウィトゲンシュタインの考察を基にしています。
従って>>41の①②③をより厳密に表現するなら以下のようになります。

①、現象が特定の肉体と相関しているゆえ「私」が発見され、それが他者に敷衍された状態(素朴実在論)
②、現象は全て「私」の意識のみに現れるものだと反省的に理解された状態(認識論的独我論)
③、現象主義を認めた上で再帰的に素朴実在論を選択した状態(現代科学や心の哲学の物理主義)
④、③の素朴実在論を前提に、意識の難問、超難問を発見した状態(存在論的独我論や心の哲学の性質二元論)

もちろん、チャーマーズの立場は④なのですが、チャーマーズはそれだけで終わってはいません。
汎経験説的な主張もしていますが、それは思考の一過程に過ぎないかも知れません。現に「情報の二相理論」
においては、時間と空間も情報内部の性質である可能性を認めており、即ち素朴実在論を懐疑しています。

なお、『なぜ意識は実在しないのか』の、「どうして心なんて一般的なものがあると、誰もが信じているのか?」
という文中の「心」の意味は、決して一般化できない〈私〉が前提された上での、即ち存在論的独我論の問題提起
の可能性もあります。その場合ウィトゲンシュタイン独我論が前提になっているので初心者にはまず理解できません。

よろしければ以下のページを参照してください。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/75.html

永井は口語調であっさり書いているので色々解釈できるのでやっかいです。
もちろん、永井も哲学者とはいえ人間ですから間違いもあるし適当なことを言うこともあります。
あまり永井の文章を教条主義的に解釈しない方がいいと思います。

他の方にも書いたのですが、『なぜ意識は実在しないのか』は、あまりいい本ではありません。

46雨野:2012/04/17(火) 22:55:30
>>44
 不勉強なので、永井(あるいはウィトゲンシュタイン)について誤解しているかもしれませんが、心の私秘性、あるいは私秘していること自体が言えないことのあたりの発想については、そう誤解していないと思います(これが存在論的独我論の意味ですよね?)。僕が理解できないのは、このような立場がありながら、なぜ>>45の③のような現象を認めたうえでの素朴実在論があり得るのか? ということです。つまり私秘性の立場に立てば、他者の意識というものは単なるこの私から類推したものにすぎなくなるはずですし、僕はその立場をとるだけで十分と考えます。
 また、永井が素朴実在論の成立条件に触れないのは、まさにメビウスさんのおっしゃったような歴史的条件があるからでしょうが、その歴史的条件を踏まえるならば、永井が意図したかどうかに関わらず素朴実在論の成立条件に言及しているとみなさざるを得ないと思うのですが、いかがでしょう。

47メビウス@管理者:2012/04/18(水) 19:39:29
>>46
>なぜ>>45の③のような現象を認めたうえでの素朴実在論があり得るのか?

それは科学哲学で言うところの「道具主義」の立場でしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%B7%E4%B8%BB%E7%BE%A9

永井やチャーマーズは明確に道具主義を主張しているわけではありませんが、
著作を読めばそのような立場であることは明らかです。

心の哲学者でもヒラリー・パトナムなどの物理主義者たちは科学的実在論の立場を
取っていますが。

48竜野息吹:2012/09/26(水) 16:51:45
「心」の定義により、文学、心理学、哲学の領域で
どのような問題を解決できますか?という問いに
答えていただけるでしょうか。
特に、個人的に心の哲学の分野では「心」の定義を示すこと
が目指されると思うのです。
「心」の定義が、社会では実際にどのような問題を解決できるのかと
想定することが、必要と思います。
「心」とは何か、
人によりまちまちな答えを理解することは大事なことです。
歴史的に人々が「心」という存在もしくは実在にどんな
考えを持っていたのか検証することは
とても参考になります。
しかし、実際に現代社会で「心」の定義がどんな局面で
どんな手段で役に立つか、具体的に想定することが重大です。
お暇なときで結構ですのでお返事待っております。
どうかよろしくです。

49メビウス@管理者:2012/09/29(土) 15:47:11
ちょっと板違いな気もしますが、関連する部分だけお答えします。

哲学では心(心理現象)というものについては大きく分けて二つの立場が存在します。
これは唯物論と観念論という分け方ではなく、人格の同一性問題における
デレク・パーフィットの考えで、還元主義と非還元主義になります。

非還元主義とは素朴心理学的な立場で、自我や魂という主体があって、
その主体が認識や思惟作用を行っているとし、その作用の過程を心理現象とみなしています。
これはデカルト主義とも呼ばれています。

一方、還元主義では自我や魂のような主体の存在を認めず、心理現象とは個別的に
生起する知覚(クオリア)にすぎないとみなします。デイヴィッド・ヒュームが
その代表です。無主体論ともいいます。

還元主義の立場では昨日の私と今日の私は同一の存在者とはみなせません。
単に類似の存在者であるといえるだけです。この考えを延長すると今の私と
今の他者とは絶対的に異なる存在者ともいえなくなるので、必然的に
功利主義的な道徳観に至ります。(パーフィットなど)

一方、非還元主義の場合は私と他者とはそれぞれ別の自我・魂であるゆえ、
絶対的に異なる存在者とみなしますので、利己主義に陥りやすいのが事実です。
大半の人は素朴心理学を前提に生きているのでこの立場です。
それゆえ、その利己主義を制御するための社会科学理論が必要でしょう。
ホッブスが見たように、放置すると弱肉強食の世界と化しますから。
社会主義や、社会民主主義、中道左派などがその難点を克服しようとする試みでしょうね。

53名無しさん:2014/04/25(金) 18:07:35
知覚因果説のページ内
>知覚に傷害が生じることが開明され
「傷害」ではなく「障害」もしくは「障碍」、「開明」ではなく「解明」ですね

54メビウス@管理者:2014/04/25(金) 22:45:28
>>53
ご報告感謝します。
修正しました。

55名無しさん:2014/05/29(木) 09:06:51
Giulio Tononiという脳科学者が唱えている、IITという説があるのですが
この学説についてどう思われますか?
意識を情報の統合時に感じる感覚として数学的に記述可能に定義した学説のようです

ttp://en.wikipedia.org/wiki/Integrated_information_theory

56メビウス ◆4lggoO1oV6:2014/05/31(土) 14:06:15
>>55
私は現象主義なのであまり興味ないのですが、茂木健一郎がいう「錬心術」ぽいですね。

57名無しさん:2014/06/12(木) 06:47:25
メビウスさんは脳科学の知見には興味はないのでしょうか?

58メビウス ◆4lggoO1oV6:2014/06/12(木) 19:34:22
そもそも「知覚因果」というものを信じてないので。
しかし脳科学が無駄なことをやってるとは思いません。
心と脳の関係を整合的に説明するのが脳科学の第一の役割ですから。

59名無しさん:2014/06/30(月) 00:31:17
海外の哲学フォーラムとか見ると唯物論的、物理主義的な見方が支配的ですし
チャーマーズが実施した哲学者アンケートでも多くの哲学者が物理主義を採用してますが
これについてはどう思われますか?

60メビウス ◆4lggoO1oV6:2014/06/30(月) 19:36:19
現代の心の哲学は自然主義を前提としていますので、物理主義が優勢なのは当然だと思います。
サールやチャーマーズのような二元論者でも、私(や大森荘蔵)のような者からすると
物理主義者に見えます。

心の哲学者は多かれ少なかれ物理主義的傾向があるということです。

61メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/02/13(金) 21:15:04
まとめwikiについて、脚注が表示されないという報告を頂きました。
たぶんatwikiが特定のブラウザには対応していないのだと思います。
ちなみに私はIEとFirefoxで正常に表示されることを確認しましたが、
スマホのChromeでは脚注および画像も一部しか表示されませんでした。

62横山信幸:2015/04/25(土) 14:35:44
メビウスさん、初めまして。
ていねいでよく分かる記事ばかりでとても勉強になるサイトですね。僕のような哲学を独学したいと思っているものにはまことにありがたいです。僕は独我論と実在論の関係性に興味をもっていてウィトゲンシュタインに傾倒しています。日頃は「独今論者のカップ麺」というブログに考えたことをまとめたり大阪哲学同好会で討論したりしています。大阪哲学同好会の掲示板でクオリアについての討論が行き詰まっていたところ、ここの掲示板なら話ができるだろうと案内してくださる方がいたので来場し書き込みさせていただきました。
僕は、クオリアはナンセンスでそれがあるとか無いとか言うことには意味がないというかんがえです。
討論の相手をしてくださらないでしょうか。よろしいならどこに書き込めば良いのか教えてください。

63メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/26(日) 19:49:07
クオリアという語をどのように定義するかという問題がありますが、私はサールや茂木健一郎と
同様に「意識」と同じ意味に定義しています。
この定義からすると自分の経験は全てクオリアなので、クオリアはナンセンスという主張自体が
矛盾だということになります。
ただし経験主義的な立場からすると、自分が経験できるのは自分のクオリアだけであり、
原理的に経験できない他者のクオリアについて語るのはナンセンスだということは出来ると思います。
このような独我論的観点からウィトゲンシュタインや大森荘蔵は最終的に行動主義に近い立場を取った
のだと思います。
ただし現代の心の哲学におけるクオリア論争というのは自然主義、つまり実用的実在論を前提にして
いるので、当然他者にも意識・クオリアがあるということを前提に議論がされています。
この前提からすると、必然的に客観的な存在者と主観的な存在者という存在者たちの性質の差異を認める
ことになります。そこから物理的な存在者と異なる、または物理的なものに還元できない非物理的な
存在者があるかもしれないということなり、心の哲学とはその存在者の存在可能性をめぐって、
つまり認識ギャップが存在ギャップにつながるか否かという議論になっています。

64横山信幸:2015/04/26(日) 21:57:12
メビウスさん、回答ありがとうございます。

僕がナンセンスだと考えているクオリアは、チャーマーズのいう「現象的意識」の質感のことで、一切の物理的作用を働かせ得ず一切の機能を持たないような、意識の一面のことです。
そのような定義付けでの「クオリア」の話を考えたいのですが、ここでその風呂敷をひろげさせてもらっても良いでしょうか。このスレッドでこのまま進めて良いですか。

65横山信幸:2015/04/26(日) 23:46:32
前提1.¬(「xがある」に真理条件がある) ⇔ ¬(「xがある」に真理値がある)
前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))
前提3.¬(P∨Q) ⇔ ¬P∧¬Q
推論4.2・3より、¬(Pに真理値がある) ⇔ ¬(Pは真)∧¬(Pは偽)
推論5.1・4より、¬(「xがある」に真理条件がある) ⇔ ¬(「xがある」は真)∧¬(「xがある」は偽)
前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある
前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い
推論8.5・6・7より、¬(「xがある」の真理条件がある) ⇔ ¬(xはある)∧¬(xは無い)
前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能
前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ ¬(Rは真理条件がある)
推論11.9・10より、任意のyについて、¬(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)
結論12.8・11より、任意のyについて、¬(yの非機能的クオリアがある)∧¬(yの非機能的クオリアが無い)


いかがでしょうか。この推論は正しいでしょうか。

66横山信幸:2015/04/26(日) 23:54:31
否定記号が表示されませんでした。代わりに〜をつかぃます。


前提1.〜(「xがある」に真理条件がある) ⇔ 〜(「xがある」に真理値がある)
前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))
前提3.〜(P∨Q) ⇔ 〜P∧〜Q
推論4.2・3より、〜(Pに真理値がある) ⇔ 〜(Pは真)∧〜(Pは偽)
推論5.1・4より、〜(「xがある」に真理条件がある) ⇔ 〜(「xがある」は真)∧〜(「xがある」は偽)
前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある
前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い
推論8.5・6・7より、〜(「xがある」の真理条件がある) ⇔ 〜(xはある)∧〜(xは無い)
前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能
前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ 〜(Rは真理条件がある)
推論11.9・10より、任意のyについて、〜(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)
結論12.8・11より、任意のyについて、〜(yの非機能的クオリアがある)∧〜(yの非機能的クオリアが無い)


以上です。正しい推論でしょうか。

67横山信幸:2015/04/27(月) 00:06:46
すみません。また表示されませんでした。notを否定記号として使わせてもらいます。


前提1.not(「xがある」に真理条件がある) ⇔ not(「xがある」に真理値がある)

前提2.Pに真理値がある ⇔ ((Pは真)∨(Pは偽))

前提3.not(P∨Q) ⇔ notP∧notQ

推論4.2・3より、not(Pに真理値がある) ⇔ not(Pは真)∧not(Pは偽)

推論5.1・4より、not(「xがある」に真理条件がある) ⇔ not(「xがある」は真)∧not(「xがある」は偽)

前提6.「xがある」は真 ⇔ xはある

前提7.「xがある」は偽 ⇔ xは無い

推論8.5・6・7より、not(「xがある」の真理条件がある) ⇔ not(xはある)∧not(xは無い)

前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能

前提10.Rの真偽が原理的に検証不可能 ⇔ not(Rは真理条件がある)

推論11.9・10より、任意のyについて、not(「yの非機能的クオリアがある」は真理条件がある)

結論12.8・11より、任意のyについて、not(yの非機能的クオリアがある)∧not(yの非機能的クオリアが無い)


以上です。これで表示できたでしょうか。正しい推論でしょうか。

68メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/27(月) 19:54:12
チャーマーズの論点からずれてると思います。
上に書いたように、意識・クオリアは物理的な存在者と異なった認識のされ方をしているため、
どうしても物理的なものと異なる、または物理的なものに還元できない存在者である可能性があります。
一旦この可能性を認めると、必然的に「心」と「物」を峻別する実体二元論の可能性が生じます。
そして実体二元論の可能性を認めると、心的なものだけが存在する可能世界、逆に物的なものだけが存在する
可能世界が否定できなくなります。
要するにチャーマーズのゾンビ論証とは、還元主義的な物理主義に対して、心的なものは物的なものに還元できない
ことを示すために認識のギャップを強調したものなのです。
なお実体二元論や、ゾンビ論証の前提である心と物が相互作用しない心身並行説・随伴現象説は、節約の原理に
反しているだけであって、論理的に不可能というわけではありません。

あと真理条件を問題にされてるのは検証不可能なものを排除しようとする論理実証主義の方法かもしれませんが、
「検証不可能なものは存在しない」とは言えないので思考可能性論法に対する反駁にはなりません。
実は哲学者でも検証原理や言語ゲームの観点から思考可能性論法を批判する人が一定数います。
「思考可能性は形而上学的可能性につながる」というチャーマーズの論点を理解されていない。心の哲学専門の
学者ではないので、誤解されやすい部分なのだと思います。

69横山信幸:2015/04/27(月) 20:20:18
僕はチャーマーズこそが言語ゲームを理解していないと考えています。検証できないものをどうやって意味のある言語ゲームに乗せられるのでしょう。言語ゲームに乗せたことにするという儀式をなしているに過ぎないか、密かに「クオリア」として扱っている対象の中に検証可能なものを潜り込ませているだけの話であるはずです。言語ゲームの構造をなすには原理的に検証可能性が必要だからです。でも、このことの論証は、また別に書かせてもらいます。
その前に、昨日の僕の論証を否定されるなら、どの前提を否定されるか、どの推論を否定されるかを詳しく教えていただけませんか。その方が反論しやすくなるので助かります。

70メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/28(火) 19:56:15
検証原理そのものが否定されていると私は言っています。
なお現代心の哲学は行動主義から始まりましたが、これは言語ゲームの影響も受けています。
実際言語ゲームとは言語活動、つまり「行動」の研究の一種ですから行動主義と親和的です。
しかし行動主義は肝心の意識ではなく、意識に基づいた行動を研究しているので的外れだという
批判が頻出して現在は廃れています。現代心の哲学は論理実証主義の検証原理を批判し、
自然主義やホーリズムを主張したクワインの方法論に基づいています。科学者は検証不可能な理論的対象を
科学という言語ゲームの俎上に載せて行っていました。この方法同様に意識・クオリアについて語る
のならば、検証不可能でも思考可能性や類推論法を用いて語り研究しようというのが現代心の哲学であって、
チャーマーズだけでなく物的一元論者もこの方法論は共有しています。

哲学と科学ではゲームのルールが異なる。言語哲学と心の哲学でもルールが異なる。それらのゲームには
家族的類似があるだけ。「哲学的ゾンビ」という語は言語哲学では無意味かもしれませんが、
心の哲学においてはチャーマーズ支持者も批判者も有意味に使用しています。

71横山信幸:2015/04/28(火) 21:57:16
メビウスさん、

ていねいな返答ありがとうございます。おかげでメビウスさんの意識と行動主義と検証原理に対する立ち位置が少し分かりました。でも、僕の質問に対する回答としてはあまり理解できませんでした。
僕の提案している推論の意図は、検証原理そのものを認めさせようとするだけのものではありません。検証可能性が無い対象の存在非存在を語ろうとするとそれは必ずナンセンスになるというアイデアについて、その文法的システムを論証形式で分解して捉え、そこに間違いや問題があるのならどこにあるのかをはっきりできるようにしよう、という企画を立ててそれについて質問したつもりだったのです。

>検証原理そのものが否定されていると私は言っています。

というお答えでは僕が前提と推論を分解したどこに問題があるとされているのか全然分かりません。
それとも僕のその企画意図の論点はあまり興味が持てないですか。

72メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/04/29(水) 20:01:15
検証可能性が無いものを語るのはナンセンスだと文法分析で証明する、という試みの意図がわかりません。

重要なことですが、検証可能性がないのは「非機能的クオリア」だけでなく意識・クオリア全てです。
他我とは原理的にアクセス不可能なものだから、他人の意識やクオリアの有無にも真理条件はないのです。
第三者が検証可能なのはクオリアに基づいている(と思われる)他人の行動だけですが、
「行動があるならクオリアもあるはずだ」と主張するならば心脳問題についての論点先取で、
暗に「同一説が正しい」あるいは「随伴現象説は間違いだ」という形而上学的判断を前提にしていますから。
この辺の問題はゾンビ論証とつながります。
そもそもゾンビ論証の問題性とは何なのかということについては、信原幸弘編『シリーズ心の哲学Ⅰ 人間篇』の
第三章「クオリアと意識のハードプロブレム」で簡潔に解説しているので読まれるといいと思います。

73名無しさん:2015/04/29(水) 20:45:37
メビウスさんが「クオリアがある」と言えるとお考えになっていることに対して反論したい、というのがその意図です。
「「非機能的クオリアがある」という命題の真偽が原理的に検証不可能である」などという前提を受け入れれば、「クオリアはあるでも無いない」という結論を受け入れなければならないはずであるが、メビウスさんがその結論を受け入れないのであれば、その前提を受け入れないのか推量方法を受け入れないのかどっちかであるはずです。その受け入れられない部分がどこなのかを教えてもらって、その受け入れられない部分が確実な前提であったり確実な推量であったりすることをさらに僕が証明していくことができれば、メビウスさんが勘違いしているってことをはっきりさせることができるでしょう。
そういう意図です。

信原「心の哲学」は名著だと評判ですので、また機会があれば読みたいと思います。紹介ありがとうございます。ただ、今はデリダにかかりっきりになっていて他書を読む余裕がありませんので、またいつか読ませてもらいます。

74横山信幸:2015/04/29(水) 20:48:18
すみません。署名を忘れていました。
また、「クオリアはあるでも無いない」というのは「クオリアはあるでも無いでもない」の書き損じでした。
失礼しました。

75横山信幸:2015/04/29(水) 21:24:43
さきほどは、僕が正しような物言いで僕の意図を言いましたが、もちろん僕が間違っていてもその間違いがはっきりすれば僕とすれば万々歳です。
僕の証明方法の間違いをメビウスさんから指摘してもらえて、僕がそれに気づくことができれば大収穫ですので、それはそれでとてもありがたいです。
そういう意図でもあります。

76横山信幸:2015/05/01(金) 21:26:46
もしかして、メビウスさんが他我の話をされたのは、他者のクオリアは検証不能だとするけれども自分のクオリアは検証可能とされるということなのでしょうか。
僕が前提9でクオリアが検証不能だとしたのは、他者も自分も区別せず、不可能だと考えたものです。

>前提9.物理的に一切の機能を持たない非機能的クオリアを考えるときに、任意のyについて、「yの非機能的クオリアがある」の真偽は原理的に検証不可能

そのような意味だとしたら、メビウスさんはこれを間違いだとされるのではないですか。

77メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/03(日) 19:58:46
何を主張されてるのかわかりませんが、カントが言ってるように感覚は本性上
判断しないので、クオリアは現れた時点で帰属先人物が決定しています。したがって、
たとえば「自分が検証不可能な自分の痛み」なんて矛盾概念でしかありません。

たぶんクオリアは物的なものに作用するという前提で書かれてるのだと思います。
確かに走りたいと意識すれば身体は走るのだから、心的なものは物的なものに作用する
(心的因果)と素朴に思うのですが、この世界が心的因果の存在しない心身並行説的、
あるいは随伴現象説的なものだと仮定しても論理的に矛盾はないのです。
ゾンビ論証とは心的因果が存在しない可能性を論じることによって、物的なものと
心的なものは存在論的に異なることを示そうとするものです。

78横山信幸:2015/05/03(日) 21:03:01
僕の主張の主旨は、
「非機能的クオリア」は定義的に一切の物理作用を持たないので「クオリアがある」と語る身体活動の原因にはなり得ないこと、それゆえ、「非機能的クオリア」の存在の検証が不可能であることです。

随伴現象仮説を仮定することは許されているとすることは可能かもしれません。しかし、随伴している物理現象を検証することでもって、随伴している非機能的クオリアを検証したことにすることはできませんよね。

僕は、随伴現象説というおとぎ話が不可能だと主張しているのではありません。原理的に検証不可能なおとぎ話でしかないと主張しています。

79横山信幸:2015/05/03(日) 21:34:25
書き足します。

>感覚は本性上判断しない

とカントが言ったのだったら、その感覚や印象は僕のいう「非機能的クオリア」とは別物です。判断しないでも語り得るのだとしたら、それは機能をもっていると言わざるを得ないからです。


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