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40雨野:2012/04/09(月) 21:54:01
 上の議論を読みましたが、メビウスさんの永井均に対する批判はあまりにも過当なものであると思います。ここでは永井均とはやや離れるかもしれませんが(なにしろ僕が永井均と出会ってから日が浅いもので)、永井均的考え方を擁護してみたいと思います。
 まずメビウスさんが再三指摘されている存在論的なダブルスタンダードですが、永井均は素朴実在論を否定しているわけではないと僕は考えます。永井均の問題意識はどのようにしてそのような素朴実在論が成り立っているのか、そこにあると捉えるべきでしょう(『なぜ意識は実在しないのか』のp6には「どうして心なんて一般的なものがあると、誰もが信じているのか? なんといってもそれこそが解明されるべき第一の問題でしょう。」と書かれています。他にも同書で普通に他人に意識があることは全く問題ないということを再三強調しています)。
 そう捉えますと、ダブルスタンダードに見える態度にも説明がつきそうです。つまり、ご指摘の通り、最初は「自分の肉体と思われているものは、自分という特定の意識の所有者とはいえ」ないのですが、その肉体と相関して現象が変化することから、どうやらこの肉体が「私」の所有者らしいということを発見するのです(『なぜ意識は実在しないのか』のp149-151をご参照ください)。この「私」の所有者が確定することを通して「私」が一般的な「自分」へと人称化すると考えられます。したがって、
①単に私の現象が与えられている状態(独在論)
②その現象がある肉体と相関していると判明した状態(独我論)
③あらゆる肉体に現象的意識が敷衍された状態(素朴実在論)
この三つの状態に合わせて議論の尺度も変わってくると解釈するべきではないでしょうか(永井の原典で非常に曖昧にされているところだということは認めます)。そして永井のゾンビ論法への批判は、
1.③の状態(チャーマーズの前提)ではもはや本来的に私が感じていた現象的意識は成り立たない事(たんなる報告と心理的機能に変わる)。
2.チャーマーズは③の状態を前提にしながら①のような意識が誰にでもあると錯覚している。
の二点になるのではないでしょうか。つまり要約してしまえば物理学や科学という客観的な言語コミュニケーションによって成り立っているような分野に主観的な<私>を包含させることはアプリオリに不可能である、というわけです(これが「語れない」という意味です。つまり客観的に語れない。想像についても同じで、誰もが共有できるような、客観的想像ができないのです)。


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