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メビウス@管理者
:2012/01/26(木) 21:25:34
時空についての議論はパルメニデスに始まってカントで終わったという感があります。
ウィトゲンシュタインも『論考』でカントを追認するように時空を「形式」であると述べています。
デカルト以来、心的性質とは物理的性質と異なり、「延長」を持たず純粋に時間的であると
理解されてきました。
しかし私はその時間的性質も懐疑できるという考えです。
人間は変化とその属性である時間を「感じる」ことでしか理解できませんが、
では、感じるのに必要な最小の時間というのは何秒なのかという問題が生じます。
「私には確かに昨日の記憶があり、かつ今時間が流れているという感覚がある」
という現象的意識をAとするなら、そのAが存在するための最小の時間なるもの
はやはり確定できません。
このような考えを演繹すると必然的に、心的現象が存在するのに時間は必要
ないのではないかという懐疑に至ります。
あと、
>しかしその本質は時空そのものに帰着する(極論すれば素粒子にも
>超希薄な<私>がある)と考えれば、スペクトル的な思考実験で生じる
>問題も自然な形で解決できるような気がしています。
この点、心の哲学でいう「意識の境界問題」や「きめの問題」と関連しています。
素粒子にも超希薄な<私>があるというのは、チャーマーズの汎経験説に
類似した還元主義的な考えだと思いますが、この点では「組み合わせ問題」
などが指摘されています。
パーフィットの思考実験は人格概念について行われたものですが、クオリアや
<私>についても応用可能です。いずれも独我論的な内在性、私秘性をもった
存在者であり、テセウスの船のように恣意的に同一性が決められないものです。
テセウスの船は還元主義的に考えることができ、「部分」の総和が「全体」である
といえます。でもクオリアや<私>は部分を持たないですから、それらを空間と
存在論的に調和させるのは難しいと思います。
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