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尚六幾星霜

82名無しさん:2018/06/13(水) 22:15:19
六太にも少しずつ自覚の兆しが…
すでに自覚している尚隆には辛い展開ですが、この先どう出るか楽しみです!

83「二つの道」9:2018/06/19(火) 15:30:33
それは真冬のことだった。尚隆は六太と二人で旅をしていた。その晩泊まった安宿には、狭い寝台が二つあった。
酒を飲んでほろ酔いの六太は、ほんのり上気した顔をして、寝台の上で胡座をかいて枕を抱えている。向かいの寝台に腰掛けている尚隆と他愛ない話をしながら、明るい笑い声を立てていた。

––––夢を見ているのだ、と尚隆は自覚した。しかもこれは昔の記憶だ。実際にあったことを、夢の中で思い出しているのだ。
数十年前か、あるいは百年近く前かもしれない。夢の中の六太の表情がこんなに鮮明なのは、それだけはっきりと記憶に刻まれているということだろうか。

そろそろ寝るかという段になって、六太は自分の寝台を見て軽く溜息をつき、それから再び尚隆に顔を向け、小首を傾げて訊ねた。
「前から不思議だったんだけど。お前さ、そんなにでかい図体してんのに、なんで狭い寝台から落ちないんだ?」
六太は寝相が悪く、旅先の狭い寝台からよく落ちる。寝台の寝心地に関する不満を六太が言うことは一切ないが、自分が寝台から落ちてしまうこと、それなのに尚隆が落ちないことがどうやら気に食わないらしい。
文句をつけるような六太の問いに、尚隆は軽く笑って答えた。
「六太と違って俺は寝相が良いからな」
「おれだってそんなに悪くねえよ。たまにしか落ちないし」
「たまにか?これくらいの幅の寝台からはほぼ毎回落ちとるだろうが」
「毎回じゃない。八割がた朝まで寝台の上で寝てるって」
「自覚がないようだから教えてやろう。お前はいつも床に転げ落ちている。寝呆けながら寝台に戻っているのを、覚えてないだけだ」
「でたらめ言うな」
「でたらめではない。お前が床に落ちる音で俺は毎回目を覚ましているんだからな」
「お前の言うことなんか信用できねーな」
「信じる信じないはお前の勝手だが、真実は変わらんぞ。まず間違いなく、今夜も落ちるだろうな。賭けてもいい」
「無意味な賭けするんじゃねえ。おれは絶対落ちないからな」
「ほう、言い切ったな。では夜中に落ちたら起こしてやろう。でないとまた寝呆けて寝台に戻るだろうし、朝になったら全部忘れて、落ちてないと言い張るだろうからな」
にやりと笑って言うと、枕が飛んできた。尚隆はそれを顔に当たる寸前で受け止める。
六太が寝台から飛び降りて灯りをふっと吹き消したので、室内は暗闇に包まれた。
「返せ」
という六太の声と同時に、尚隆の手から枕が奪い取られた。自分で投げつけてきたくせに、と尚隆は可笑しくて仕方なかったが、笑うのはやめておいた。ごそごそと衾褥に潜り込む六太に向かって声をかける。
「落ちないよう使令に支えてもらうのは、なしだぞ」
「そんなズルしねえよ!莫迦にすんな」
六太の声が勢いよく返ってきて、尚隆は吹き出しそうになるのを抑え、喉の奥だけで笑った。

実際のところ、六太は毎回のように寝台から落ち、自力で戻る時とそのまま床で眠っている時がほぼ半々だった。尚隆は物音で必ず目を覚ます。そして六太が起き上がる気配のない場合には、尚隆が抱き上げて寝台に戻しているのだった。まったく手の掛かる餓鬼だ、とぼやきながら。
だが六太は自力で戻った時ですら、半分は覚えてないらしい。尚隆が戻してやることもあるのだと言ったら、六太はどんな顔をしただろうか。

尚隆も寝台に横たわり、掛布を被って目を閉じる。ふと、夢の中なのに眠るのか、とどうでもいいことを考えた。

84「二つの道」10:2018/06/19(火) 15:32:37
真夜中、どさっという物音で目を覚ました尚隆は、二つの寝台の間の床に視線を落とす。床の上には、丸くなっている小さな身体があった。小窓から仄かな月明かりだけが射す中、床に広がった金髪は、その僅かな光を弾いて淡く輝いていた。
やはり落ちたな、と尚隆は内心だけで笑って、それを少しの間見つめていた。
六太が起き上がる気配がないので、尚隆は起き出して寝台から降り、床に落ちた金色の塊の傍らに片膝をついた。
落ちたら起こすと言ったものの、熟睡している六太を見るとそんな気にはならなかった。無理に起こしたら不機嫌になるのも確実だ。だがこのまま元に戻しては、六太は自分が落ちたことに気がつかない。さてどうしたものかと尚隆は思案する。
束の間の思案の末、尚隆は六太の身体を抱き上げて、自分の寝台にそっと下ろした。尚隆もその脇に横たわる。狭い寝台に並んで寝るのは不可能で、六太を腕の中に抱き込むようにしてから掛布を被った。
寒い冬の夜、小さな身体の温もりが心地良い。すやすや眠る寝顔は、あどけないほど幼く見えた。目を瞑ると、六太の寝息だけが至近距離から耳に届く。尚隆の胸中は、名状しがたい暖かさに満たされた。
六太が目を覚ましたら驚くだろうと思うと、自然と頰が緩んだ。

冬の長い夜が明けた翌朝、腕の中の六太の身動きで尚隆は目を覚ました。暖かくて心地良いのか、六太はもぞもぞと動いて体勢を変えてから、また寝息を立て始めた。
尚隆は微笑して、その無防備な寝顔を暫く観察してから、六太の肩を揺すった。
「六太、起きろ。朝だぞ」
「んー……」
六太の瞼が少しだけ上がり、また閉じた。かと思ったら再びぱっと開いて、驚愕の眼差しで尚隆の顔を凝視した。
「やっと目が覚めたか」
唖然とした顔をして、全く状況を飲み込めてなさそうな六太に、尚隆はにやりと笑ってみせた。
「なん……で、お前……」
「言っておくが、侵入者はお前のほうだぞ」
「……へ?」
六太は何度か瞬いてから、がばっと起き上がり、隣の寝台を見た。そちらが自分の寝台であることを認識したのか、尚隆に視線を戻してから、
「……なんで、おれ、こっちにいんの」
と、呟くような声で訊いてきた。
「お前が夜中に寝台から落ちたから、こっちに拾い上げたんだが。起こしても起きんのでな」
「……」
六太は何かを言いかけたが、結局口をつぐんで視線を逸らした。尚隆は身を起こして寝台の上に胡座をかくと、金色の頭をぽんと叩いた。
「まあ、そういうわけで予想通りお前は落ちたから、賭けは俺の勝ちだな」
「……そんな賭け、おれは乗ってねえぞ」
「賭けには乗っとらんが、絶対落ちないと宣言しなかったか?」
わざと意地悪げな言い方をすると、六太は憮然とした表情でそっぽを向き、少しの間沈黙した。
「……落ちたら起こすって言ったくせに。ちゃんと起こさなかったら、落ちたかどうかおれには分かんないじゃん」
そっぽを向いたまま、六太はぶつぶつと文句を言う。尚隆は笑い出したくなるのをこらえた。
「嘘だと思うなら、沃飛に訊いてみるといい。六太が落ちたと証言するだろうよ」
「やだ。そんな証言させるために使令がいるわけじゃねえもん」
拗ねたような声に、尚隆はこらえきれず吹き出した。声を上げて笑う尚隆を、六太は睨みつけてきた。

85「二つの道」11:2018/06/19(火) 15:34:43
ひとしきり笑ってから、尚隆は右手を六太の肩に置いた。
「六太。……黙っておこうと思うていたが、お前が落ちたことを認めたくないのなら、本当のことを教えてやろう」
「––––本当のこと?」
六太は胡散くさいものを見るような目つきになった。尚隆はことさら真面目な表情を作り、真面目くさった声を出した。
「お前は寝台から落ちたわけではない。夜中に自分で起き出して、寂しいから一緒に寝てくれ、と俺に泣きついてき––––」
言い終わらぬうちに、尚隆は顔面に枕を叩きつけられた。距離が近すぎて腕で受け止められず、敢えてよけることもしなかった。
「嘘つけ!そんなこと言うもんか!」
六太は大声でそう言うと、寝台から飛び降りた。ぱっと自分の寝台に駆け寄り、そこの枕も掴んで投げつけてきた。尚隆は難なく腕で受け止める。
「お前が落ちたことを認めんからだ。まあ、どちらの話が真実か、信じたいほうを信じるがいい」
「お前の話なんか、ぜんっぜん、ひとっつも、信用できねえ」
怒ったようにそう言うと、六太は尚隆に背を向けて部屋の隅に置いてある荷物のところまでずかずかと歩いて行った。荷物の中から袍と布を取り出して、身支度を始める。尚隆は寝台の上で胡座をかいたまま頬杖をついて、その後ろ姿を眺めていた。
六太は衣服を整えると、最後に布を頭に巻き付け始める。慣れた手つきで髪をまとめ、それを布の中に隠した。
金色の髪が隠れてしまうのが勿体ない、と尚隆はいつも思う。隠さねばならない事情は重々承知しつつも。
身支度を終えた六太は、尚隆を振り返った。
「おれは先に下行って朝餉食ってるからな」
「ああ、分かった」
「尚隆もさっさと支度しろよ。早くしないとお前の分も食うぞ」
「それは困る」
尚隆が笑って答えると、六太もちらりと笑みを浮かべた。それから六太はくるりと踵を返し、扉を開けて部屋から出て行った。
廊下を駆けていく軽い足音を聞きながら、尚隆は微かに笑い、寝台に仰向けに転がった。
見上げた天井が急速にぼやけて、身体の感覚が失われていく。
––––ああ、夢が終わってしまうのか。
そう思いながら目を閉じた。

86「二つの道」12:2018/06/19(火) 15:37:04
何か鈍い音が聞こえて、尚隆は目を覚ました。
六太が寝台から落ちた時の音に似ている、と莫迦げたことを考える。まだ夢が続いているのか、それとも現実に目が覚めたのだろうか。
顔だけ向きを変えて床に視線を落とす。そこに金色の塊が見え、尚隆は思わず跳ね起きた。上半身を起こしてよく見れば、それは床に落ちた月の光。明るい満月の金色の光が、小さな玻璃窓から射していた。
尚隆は目を閉じて大きく息を吐き出した。次いで、声を立てずに笑った。まったく阿呆らしい。六太が落ちているはずなかろうに。
先程の鈍い音は、おそらく隣の部屋からの物音だろう。薄い壁の向こうからは、今はいびきが聞こえてくる。ひとつだけ寝台のある部屋の中にいるのは、尚隆ただひとりだった。

玄英宮を出奔して半月になる。あの夜、鉤爪のように細かった月が、今宵満ちていた。
尚隆は寝台から足を下ろして座り直し、宙に向かって右手を差し出した。小窓から射す月光をその掌に受ける。何の感触も暖かさもない、冴え冴えとした光。
尚隆は金色に光る掌をじっと見つめた。いつも撫でていた金髪の、しなやかな手触りを思い出しながら。
暫くの間そうしてから、不意に我に返って莫迦莫迦しくなり、尚隆は寝台に身を投げ出した。なんて無益で感傷的な行為だろう。

満月の位置はまだ高く、夜明けまで時間がある。尚隆もう一度寝ようと掛布を被り直して目を瞑った。
しかし、すぐに眠りが訪れないことは確実だった。完全に覚醒してしまった意識は、簡単には鎮まらず、瞼の裏には先程の夢の場面が浮かんでは消えていく。
他愛ない会話、些細な言い合い。六太の笑顔、拗ねたような声。
懐かしいあの夢は、どこまでが真実の記憶だろう。六太は実際にあんな表情をしていたのか、それとも尚隆の脳内で補完され再構築された記憶だったのか。
いずれにせよ、ああして六太と共に旅をすることはもう二度とない。すべきではないと思っている。なんの邪念も下心もなく六太と添い寝していた夢の中の自分とは、もう違うのだから。
二度とないと思うからこそ、今になってあんな夢を見たのだろう。
未練がましいことだ、と尚隆は自嘲した。

あの頃の自分は、どんな想いを抱いていたのだろうか。心の表層ではなく、もっと深いところで。もちろん六太に対してある種の好意は持っていたし、それは自覚していた。だがその感情の種類がいったい何なのか、深く考えたことはなかった。
––––いや、考えることを避けてきたのだ、おそらく無意識のうちに。自覚してしまえば、六太との関係は変わらざるを得ない。だから見ないようにしてきたのだ。
六太には子供のようでいて欲しいと思ったのも、誰かが六太を性欲の対象とする可能性を全く考えてこなかったのも、その理由を突き詰めれば、己の奥底に潜む欲望から目を背けたかっただけなのかもしれない。

これがただの気の迷いなら、どんなに楽だろうか。だがそうではないことを尚隆は理解していた。
長い年月をかけて、意識の奥の深いところで知らぬ間に育ってきた想いは、深く強く根を張っている。臓腑を侵す病のように、気づいた時には手の施しようがないほど蝕まれていて、死ぬまで治りはしないのだと。

87「二つの道」13:2018/06/19(火) 15:39:33
尚隆は長い溜息をついてから瞼を上げ、寝台上で身体の向きを変えて床を見下ろした。月光の塊は位置を変え、足元の方向へ遠ざかっていた。
いま関弓では、月は出ているだろうか。
雁は間もなく雨期に入る。そろそろ雲海の下に雨雲が広がり始め、月を覆い隠しているかもしれない。

あの日、逃げるように関弓山を後にした尚隆は、高岫山を越えて隣国へ入った。それからこの国を一巡りして、現在は国境近くの黒海沿いの街にいる。この街からすぐ東の高岫山を越えれば、そこは雁。騶虞で駆ければ半日で玄英宮に帰れる距離だ。
さすがにそろそろ戻らねばと思う。雨期が始まる前に訪ねたいところもあるのだ。
それなのにぎりぎりまで帰還する日を引き延ばしているのは、六太と顔を合わせることを未だに躊躇しているからだった。

あの日の自分の行動は、愚かとしか言いようがない。獣型の六太に会い、言うべきことを言ったら、すぐに別れるつもりだったのに。乗せてってやる、と六太に言われたのが嬉しかったからといって、隔絶された場所で二人きりになるなど、軽率に過ぎる。
早く仁重殿に行け、と朱衡に促されてから更に一晩時間を置いたのは、いったい何のためだったのか。平常心で六太に会うためではなかったか。
結局のところ、自分は完全には冷静さを取り戻せていなかったのだ。だから不意打ちのような突然の転化に狼狽し、六太に触れたいという衝動が抑えられなかった。
甘い花の香りのする岩棚で、六太の髪を撫で、肌に触れ、腕の中に抱き寄せた時、眩暈がするほどの興奮を覚えた。熱に浮かされたように、強引に唇を奪って舌を絡めた。もっと深いところまで触れたい、全て自分のものにしたい、という欲望が溢れて、理性を押し流そうとしていた。
しかし六太の全力の抵抗と、尚隆の中にかろうじて残っていた僅かな理性が、抱擁する腕を緩めさせた。
六太の平手打ちなど軽いもので、頰の痛みはどうということはなかった。そもそもよけるつもりがあれば簡単によけられただろう。
むしろ尚隆は安堵したのだ。六太が抵抗してくれたことに。自分の暴走を止めてくれたことに。
尚隆の目の前で、六太は袍を羽織りもせずに人型に戻って素肌を晒した。男達に襲われそうになったことがあるというのに無防備すぎる、と思ったが、あれは尚隆に対してある意味での信頼があったことの証左だ。つまり、尚隆は絶対に自分に手を出すことはない、と六太は信じていたのだ。というよりは、手を出すとか出さないとか、そういったことは一切念頭になかっただろう。
それを裏切るような真似をしたのだ。平手打ち程度では罪滅ぼしにもならない。

すまなかったと言った時、六太は傷ついたような表情で絶句した。見上げてくる紫色の瞳は、今にも泣き出しそうに揺らいでいた。尚隆はそれ以上見ていられずに目を逸らし、六太の頭に袍を掛けて隠した。
あの後、六太は泣いたのだろうか。
泣かないでいて欲しいと思う。尚隆の愚かな所業など、早く忘れて欲しいと。
その一方で、泣いていて欲しいと思う自分もいる。あの行為が六太の心をかき乱していればいい、いつまでも深く記憶に刻み込まれていればいいと、心のどこかで願っている。
尚隆は微かに、苦く笑った。
まったく始末が悪い。まさか己の感情がこんなに度し難いものだったとは。

じっと見つめていた金色の光が、床の上からふっと消えた。雲が月を隠してしまったのだ。
不意に訪れた深い闇の中で、尚隆は再び目を閉じる。明日こそは高岫を越えようと、心を決めた。

88書き手:2018/06/19(火) 15:41:33
今回はここまでですが、もう少し尚隆視点が続きます。

言い訳
ラブラブ尚六はもちろん大好物なんですが、デキてないのに距離が近くて仲の良い二人というのも非常に好みなんですよね…
なので過去エピソードとしてそういう話を書きたかった。自己満足。そのために六太の寝相が悪いことにしてしまいましたσ^_^; すいません…

89名無しさん:2018/06/21(木) 23:08:50
わー更新ありがとうございます!!そうですよね、尚隆と六太の距離感もなかなか独特で悶えるものがありますよね!子供と大人、男と少年、主従、文字だけ見れば色気のない単語なのに何故かそこにエロさを見出してしまうのは尚六者だからでしょうか…(*´ω`*)

90書き手:2018/06/22(金) 22:29:11
エロ見出してしまいますよね分かります。
ほんと二人の距離感て他に無いし。
王と麒麟の関係性&五百年も一緒にいる、というだけでめちゃくちゃ萌えるので、もうデキてなくてもいい一緒に生きてるだけでいいよ…と思う賢者タイムの自分と、
でもやっぱりくっつけたい絶対デキてるこいつらと思う完全腐モードの自分と、
行ったり来たりしてますw
今はくっつけるために頑張ってるので、絶賛腐モードですがw

91「二つの道」14:2018/07/17(火) 19:39:44
翌日の午後、尚隆は国境の街にいた。
高岫山の峰に位置する、二つの国に跨る大きな街。その中央にある高い隔壁の向こう側が雁国だ。隔壁には大きな門があり、そこを通過するには旌券の検分を受けねばならない。旌券のない者は脇の建物に通され、官の尋問を受けることになっている。
そちらへ流れていく人々の列を、尚隆は見やった。彼らの大半は疲れ切った表情を浮かべ、足取りは重い。故郷を捨てて逃げてきた荒民だろう。

ここ半月で一巡りした隣国で尚隆が見たものは、妖魔に襲われ無人になった廬、収穫期にもかかわらず荒れ果てた田畑、洪水で決壊したまま放置されている堤。困窮した民は盗みを働き、捕まれば見せしめのような厳罰を受けていた。
––––この国は傾いているのだ、もう誰の目にも明らかなほどに。
最初にその兆候が見えたのは数年前になる。首都を訪れた時、どことなく不安げで、憂鬱そうに不満を漏らす民の様子に、尚隆は傾きつつある国特有の僅かな軋みを感じた。そして一年程前に来た時には、もう止まらないだろうと悟った。そして台輔失道の報が入ったのは半年前。もはや手の施しようがない段階まで来ている。
隣国の王と言えど、他国の内政に関して尚隆は殆ど無力だった。何か手助けできないかと親書を送ってみても、それを黙殺されれば延王としてできることは皆無だ。せいぜい隣国の様子を見に行って国境の警備を増やし、妖魔と荒民に対応する程度のことしかできず、雁まで自力で逃げて来ることのできない民を救う術はなかった。
王朝の死を見届けるのはいったい何度目だろう、と無意味な疑問が頭をよぎる。それを数えるのは、とうの昔にやめていたのに。
死にゆく国、故郷を捨て逃げてくる荒民。
それを目の当たりにするたびに、自分の肩に載っているものの重みを否応なく再認させられる。自ら望んで背負ったその重みは、己の存在意義であるはずなのに、時にひどく煩わしくもあった。

たまの手綱を引き、門を通る。旌券を検めた門卒は、裏書きを見て驚いたような表情を浮かべ、丁寧な礼をして尚隆を通した。
重苦しかった街の空気は、門を通過して雁に入ると一変する。整った石畳の広途も両側に並ぶ高い建物も、行き交う民の表情も、全てが明るく見えた。

尚隆は立ち止まり、門の脇の建物へ目を向けた。そこから出てきた人々の多くは、すぐ隣に建つ役所へ誘導されている。そこで荒民であることを申告すれば、当面の生活支援を受けられるようになっているのだ。
安全な場所へ辿り着いたことで、安堵するような表情も見られる。しかし将来への不安は拭い切れないだろう。家も土地もない彼らが雁で生きていくのは容易ではないのだから。
これから間違いなく荒民の数は増える。もう少し対応する人員を増やす必要がありそうだった。
荒民の列から視線を逸らして、尚隆は歩き出した。
雁の内政に大きな問題はなくとも、隣国が荒れれば悪影響は避けられない。時折それが、この上なく理不尽で不毛だと感じることがある。本音を言えば自国民のことだけを考えたいのだ。
だが六太はいつも、荒民を救えと言う。出来る限りのことをしてやりたいと。麒麟が慈悲を与える相手は雁の民だけに限らないのだ。全ての命が救われることを願う生き物だから。

92「二つの道」15:2018/07/17(火) 19:42:14
尚隆の数歩先には、年老いた男がふらつきながら歩いていた。日も高いうちから酒を飲んで酔っ払っているようだ。危なっかしい足取りだと思っていると、その老人は壁にぶつかり、そのままずるずると崩れ落ちた。尚隆はそばに寄って片膝をつき、老人の肩に手をかける。
「おい、爺さん、大丈夫か」
老人の濁った瞳が尚隆に向けられた。酒臭い息を吐き出しながら彼は言う。
「……大丈夫なものか」
老人は酔っているようだが、その声は意外にも明瞭だった。
「随分飲んだようだな。立てるか?」
苦笑して問いかけたが、老人はそれには答えず、尚隆の顔と傍らの騶虞を交互に見やった。
「……あんたは雁の民か。立派な騎獣を持っているし、さぞかし良い暮らしをしているんだろうな。延王の治世は長いし、まだまだ安泰だろう。……羨ましい限りだ」
殆ど独り言のように言いながら、老人は視線を落とした。
治世が長いことと今後が安泰であることは何の関係もあるまい––––尚隆はそう思ったが、もちろん口には出さない。
「……何があったか知らんが、こんなところで倒れていても碌な目に遭わんぞ。とにかく帰ったほうがいい。肩を貸そう」
老人の言った内容には触れずに、尚隆は彼を助け起こそうと腕を伸ばしたが、老いて痩せた手に弱々しく払い除けられた。
「儂は柳から来たんだ。帰るところなどありゃせんよ」
「だが、どこか滞在先があるだろう」
尚隆が推測していた通り、老人は隣国から逃げてきた荒民のようだ。だがここに家はなくとも、役所に申告すれば荒民ための避難所に暫く滞在できるようになっているはずだ。
しかし、老人は首を振った。
「あそこに戻っても仕方ない。……儂を待ってくれてた子は、もうおらんのだ」
老人は低く呟いた。大切なものを失った者の悲哀と寂寥が、その声音に滲んでいる気がした。尚隆が無言で見つめていると、老人は僅かに顔を上げて苦い笑みを佩いた。
「放っておいてくれていい。儂に関わっても何の得にもならんぞ」
自虐めいた言葉に対し、尚隆は敢えて軽薄そうに笑ってみせた。
「俺は人が良すぎるのでな、倒れている奴を放っておいたら寝覚めが悪くて仕方ない。だから爺さんをこのまま放っておくのは、俺のためにならんのだ」
「そうか……」
老人は失笑気味にそう言って、また俯いた。
そのまま黙り込んでいた老人は、暫くしてから不意に口を開いた。
「……なあ、あんたは分かるかい?––––王は不老不死なのに、なぜ王朝は滅ぶのか」
「さあ……考えたこともないな」
無論それは嘘だった。尚隆以上にそれを考えている者は、この世にそう多くはない。

93「二つの道」16:2018/07/17(火) 19:44:25
老人は、そうだろうな、と呟いた。
「雁の民なら空位の時代を知らんだろうが、そりゃあ酷いもんだ。儂はそういう時代に生まれた」
それから老人は訥々と語り始め、尚隆は黙って耳を傾けた。
玉座に王がいなければ、大雨、大雪、蝗害、疫病、渇水、そして妖魔。あらゆる災厄が人々を襲う。それが当たり前の時代に老人は生まれた。民は王の登極を待ち望んだ。そして現王が践祚すると途端に天候が安定し、妖魔は全く出なくなったという。少しずつ豊かになっていく国で、彼は成長し、そして平穏に年老いていった。
だが昨年の夏、状況は一変した。見たこともない程の大雨が降り、川の堤が切れて周辺の廬も農地も全てが濁流に飲み込まれた。元々さほど雨の多くない土地だったから、洪水への備えは殆どなかったのだろう。
生き延びた人々に、更に追い討ちをかけるようなことが起こった。今から数ヶ月前、台輔失道の噂が広まった頃に、里に身を寄せた民を妖魔が襲ったのだ。大人も子供も、何人もの犠牲が出た。
「……だがな、それ以上に堪えたのは、妖魔に襲われた直後の里を強盗に襲われたことだ。妖魔は金目のものを盗んだりせんからな、人がいなくなって盗むのに好都合だと思ったんだろう。実際は盗む価値のあるものなど、殆どなかったがな。……最後に奴らは里に火を放っていった。儂は里家の子供と一緒に逃げて、命だけは助かった。その時……逃げる途中に見てしまったんだ、強盗の顔をな。一人はよく知っている男だった。奴も儂に気づいてな、慌てて顔を隠しおった……」
老人は重く溜息を落として、痛ましい笑みを浮かべた。
「天災も怖い、妖魔も怖い。だがそれ以上に恐ろしいのは、人の心が惑うことだ……。これから国が荒れて、益々酷くなるだろう」
正鵠を得ていると尚隆は思ったが、肯定も否定も言葉には出さなかった。

一緒に逃げた里家の子は、妖魔に襲われた際に腕に重傷を負ったという。その子供と二人で近くの里に身を寄せたが、そこも困窮していることに変わりはなく、老人と大怪我をした子供は厄介者でしかなかった。しかも子供の怪我は、治るどころか悪くなる一方だった。老人は、瘍医に診せようと少し離れた大きな街まで子供を連れて行ったのだが、なかなか瘍医が見つからない。
「探し回っているうちに、瘍医を紹介してやると言って、とんでもない大金を要求してくる奴らが現われた。無論そんな金はなかったし、そういう連中が紹介するのは藪医者か偽者に決まってる。……どうせ里に戻っても厄介者なら、いっそのこと雁へ行こうと決意したんだ。雁のほうが、ずっと腕の良い瘍医がいるだろうと思ってな」
日に日に体調が悪くなっていく子供を連れて、老人は雁を目指した。そしてひと月ほど前にようやくこの街に辿り着いた。役所に申告すると、病人や怪我人を収容する施設に入所することになった。
そこの瘍医は親身になって診察してくれたというが、突きつけられたのは残酷な現実だった。––––もはや手遅れだったのだ。怪我をした子供の腕は壊死し、その毒素が全身に回っていた。もっとずっと早い段階で腕を切り落としていれば、あるいは助かったかもしれない。

94「二つの道」17:2018/07/17(火) 19:46:31
「十になったばかりの聡くて優しい男の子だった。……儂はあの子を助けてやりたかった。助けたくて雁まで来たのに……間に合わなかった。あの子は長く苦しんで––––二日前に死んだ」
感情を押し殺した低い声音で呟いて、老人はうなだれた。
それはよくあることではあった。命からがら逃げて来て、精根尽き果ててこの街で死んでしまう荒民は少なくない。
老人と死んだ子供に対して憐憫を抱かずにおれないが、陳腐な慰めの言葉など、この老人には響くまい。おそらく彼は苦しみを吐き出したいだけなのだから。
「それは……つらかったろう」
誰が、とは言わなかった。もちろん二人ともだ。
「……そうだ、あの子にはつらい思いをさせてしまった。柳にだって、まともな瘍医の何人かはいただろう。諦めずに探せば、見つけられたかもしれん。そうしたら間に合ってたかもしれんのにな……。結局、雁の瘍医に診せるなんてのはただの言い訳で、儂は逃げたかっただけなんだ。これから国を覆う荒廃が恐ろしくて、早く逃げ出したかった。……あの子は、儂のせいで死んだも同然だ」
「––––爺さんのせいではないだろう」
自責の念に駆られた老人に対し、その言葉は殆ど反射的に尚隆の口をついて出た。
しかし老人はうなだれたまま首を振った。
「儂のせいではなかったとしてもだ。雁に着けば絶対に治してもらえるから頑張れ、と言って、無理をさせてここまで来たんだ。だが余計にあの子を苦しませただけだ……」
老人は握りしめた両手の拳で顔を覆った。
「もう柳は終わりだ。もうすぐ空位の時代が来る。儂は老い先短いから、どうせ次の王が立つまで生きられん。だがあの子はまだ十だったんだ。大人になる頃には、故郷に帰れるようになったかもしれんのに……儂より先に、死んでしもうた……」
最後には嗚咽が混じり、ついに老人は泣き崩れた。尚隆は無言のまま、老人の痩せた背をそっと撫でてやった。かける言葉は何も持ち合わせていなかった。
暫くの間、老人は肩を震わせて泣いていたが、やがて落ち着きを取り戻したようで、しゃがれた声が尚隆の耳に届いた。
「……すまなかった。年寄りのたわごとを長々と聞かせてしまったな……」
いや、と尚隆は軽く首を振る。
「迷惑ついでに、肩を貸してくれんか。……儂を待つ子はいなくとも、今はあそこに帰るしかない」
尚隆はそれに頷き、半ば担ぐような状態で老人に肩を貸して立ち上がった。歩き出すと、老人は操り人形のようなぎこちない動きながらも、なんとか足を進め始めた。

95「二つの道」18:2018/07/17(火) 19:48:37
「儂が生まれたのは空位の時代で、このままだと、死ぬのも空位の時代だろう。……人の短い一生よりも不老不死の王の在位のほうが短いなんて、おかしいと思わんか」
俯いて歩きながら、老人は冗談のような口調でそう言い出した。
「おかしいな、確かに」
尚隆も軽く応じる。
「そうだろう?」
老人は笑ったが、尚隆は頷くだけにとどめた。
笑いを収めて少し沈黙した後、老人は声を落として問うてきた。
「––––あんたは、劉王は禅譲なさると思うかね?」
「……さてな」
尚隆はそう答えたが、禅譲しないだろうと確信していた。その気があればとうにしているはずだ。失道から既に半年、無為に玉座に居座り続けている王が、今更禅譲するとは思えなかった。
だがこの老人は、王朝の終焉が避けられぬのなら、せめて禅譲して麒麟を残して欲しいと願っているだろう。それが彼にとっての最後の希望であろうことを、尚隆は理解していた。
麒麟が残されれば空位は長く続かない。ひょっとしたら生きているうちに故郷に帰れるかもしれない。だがこのまま麒麟が死ねば、次王が立つまでどれだけの年月を待てば良いのか。十年か、二十年か。老いた彼には遥か遠い未来に思えるだろう。
老人は、微かに笑ったようだった。
「……なあ、あんた。儂と賭けをせんか?」
「賭け?」
「王が禅譲するか、しないか。あんたはどっちに賭ける?」
咄嗟に言葉を返せず尚隆が黙っていると、老人は苦笑した。
「こんな賭け、柳の民とはできん。……儂はな、禅譲しないほうに賭けるぞ。台輔はもうすぐ亡くなる。王は自ら玉座を下りる気はないんだろう。天に引きずり下ろされるまで、しがみついてるつもりなんだ」
その通りだろうと尚隆も思う。だが老人の言葉には、諦観とは程遠い何かが含まれているように感じられた。
尚隆は僅かに逡巡した後に、
「……俺は賭け事は好きだが、しょっちゅう大負けするんだ。だから、こういうことに賭ける時は、自分の望みとは逆に賭けることにしている」
老人は少しだけ顔を上げて、怪訝そうな視線を向けてきた。
「爺さんは禅譲するほうに賭けたほうがいい。それが望みなんだろう?俺もそう望んでいるんだ。––––だから、俺が禅譲しないほうに賭ける」
「……それで、あんたが大負けするってわけか?」
「そうだ。––––この騎獣を賭けてもいいぞ」
笑って、傍らに従う騶虞をちらりと見やると、たまは抗議するように小さく唸った。
老人がくつくつと笑い声をたてた。
「そりゃあ、いい。故郷へ帰るにも便利だろう。……だが儂には賭ける騎獣も金もないから駄目だ。賭けるものの釣り合いが取れんと不公平だろう」
「俺は構わんよ。もし爺さんが負けたら、うまい酒の一杯でも奢ってくれればいい」
「欲がないな、あんたは。……だがやはり駄目だ。そもそも騎獣の乗り方も知らんし、世話をするのも難儀だろう」
だから、と言って老人は顔を上げて尚隆と視線を合わせて笑った。
「もし儂が勝って台輔が残されて……そしてすぐに新王が践祚したら、その立派な騎獣で儂を故郷まで送ってくれないか」
「……ああ、分かった」
「じゃあ、賭けは成立だ」
老人はどこか吹っ切れたように笑って、街路の前方に顔を向けた。
「ああ……見えてきた、あの建物だ」
老人は痩せた腕を上げ、少し先の白い壁の建物を指差した。

96「二つの道」19:2018/07/17(火) 19:50:52
一年程前、隣国の王朝の死を確信した尚隆は、荒民の受け入れ態勢を整えるよう各官府に指示を出した。老人が指した建物は、その一環として新設されたもので、瘍医が常駐し怪我人や病人を受け入れる施設であった。尚隆が実際に見たのは初めてだったが、この真新しい建物の眩しいほどの白さは、何やら能天気で、荒民が入所するにはそぐわないような気がした。
門までゆっくりと歩いて近付き、門前にいる守衛に老人を任せると、老人に別れを告げて尚隆は踵を返した。
「世話になったな。……本当に、ありがとう」
背後から老人の声が聞こえ、尚隆は肩越しに振り返る。
「礼を言われる程のことをした覚えはないな」
笑ってそう言って、老人に片手を軽く上げてみせてから、尚隆はまた前を向き騶虞の手綱を引いて歩き出した。

病人でも怪我人でもない老人は、間もなくこの施設から出なければならない。何かしら仕事を斡旋してもらうのか、それとも里家に入るのか。いずれにせよ、賭けの結果が出る頃にはどこか別の場所に移っているはずだ。それを承知しているだろうに、老人は名乗りもしなかった。尚隆の名も訊いてこなかった。つまりあの賭けは、この場限りの戯れ言のつもりだろう。
だが尚隆がその気になれば、荒民の行き先を調べるのはそう難しいことではない。万が一老人が賭けに勝ったら、約束通り騶虞で送ってやろうと思っていた。尚隆はそうなることを願っているのだ。

王朝の終焉が避けられぬなら、せめて禅譲して欲しいと願っているのは、あの老人だけではない。柳の民はもちろんのこと、尚隆自身もそれを願っている。もう天意を失ったのだから早く麒麟を手放してやれ、と。
そうすれば残された麒麟は、程なくして次の王を選ぶ。民にとっても麒麟にとっても、それが最も幸福な形だろう。

この世界で一番穏やかな王朝の死は、禅譲だ。国土を荒らし尽くす前に、民を殺し尽くす前に、麒麟を手放してやり、王はさっさと死ねば良いのだ。
己の死に際は具体的に想像できるものではない。だが漠然と、六太には美しいままの雁を残してやろう、と思っていたような気がする。いつか全てを天に返すのだと。元々全てを失ってここに来たのだから、ためらう理由などないはずだ。玉座の重みに耐えかねたら、もしくは背負うことに飽いたら、緑の山野が欲しいと言った子供に約束通り一国を返そう––––そう思っていたはずだ、かつては。

麒麟が失道に罹れば、王の命運は尽きたと言っていい。手をこまねいていれば麒麟は死に、そして王も死ぬ。それは定められたこの世の摂理だ。禅譲せずとも己の死が不可避なのに、禅譲を選ぶ王は少ない。往生際悪く最期まで玉座にしがみつくのは何故なのか、昔の尚隆には不可解だった。
だが今は分かるような気がする。
王が最期までしがみついているのは、おそらく玉座ではなく己の麒麟なのだ。その身勝手な執着心が数多の民を災禍へ投げ込むと承知していながら、それでも手放すことができないのだろう。

––––翌日、尚隆が玄英宮に帰還した夜、鳳が隣国の台輔の死を鳴いた。

97書き手:2018/07/17(火) 19:53:44
萌えどころのない暗い話ですみません…
やっと玄英宮に戻ってきました。
次回は朱衡視点の予定です。

98名無しさん:2018/07/19(木) 06:22:21
更新お疲れさまです!
絡みはなくとも、ああ尚隆かっこいいなぁと改めて思える台詞の応酬に
萌えさせていただきました。
寝床から落っこちる六太もかわいい!
続き楽しみにしております。

99名無しさん:2018/07/20(金) 21:20:37
今回のお話とても素敵でした!本当に十二国記の世界観で不自由なく読めて尚隆の人柄と王の器を改めて感じ、惚れ直した感じがしますw 王は麒麟を手放したくないから、の説納得です。
次回の更新楽しみにしています!

100書き手:2018/07/21(土) 07:17:25
>>98 >>99
ありがとうございます。
尚隆かっこいいとか、惚れ直したとか言っていただけるとは思わなかったので、望外の喜びです(T ^ T)
王朝の終焉に関する尚隆の思いを書きつつ、荒民との会話の中で尚隆らしさを見せたいな、と思っていました。うまく表現できたか自分ではよく分からなかったので、本当に嬉しい……
続きも頑張ります!

101「二つの道」20:2018/07/30(月) 19:44:46
朱衡が喧嘩のことを問い詰めた日の深夜、六太は玄英宮を抜け出してしまった。
もしや自分を避けるために出奔したのではないか、と朱衡は思ったが、たとえそうだったとしても今更言ったことを取り消せるはずもない。誰かに相談するわけにもいかず、少々落ち着かない気持ちで六太の帰りを待っていた。
二、三日で戻る、と近習に宣言した通り、六太は二日後の夕刻には戻ってきたので、朱衡は密かに安堵した。

翌日内宮で顔を合わせると、六太は普段通りの悪戯めいた笑みを浮かべて「よう」と声をかけてきた。
あっけらかんとした様子の六太に些か虚をつかれながら、朱衡も笑顔を作って拱手する。
「どちらへ行ってらしたのですか?」
「雁のあちこち見て回ってた。今年の小麦も稲も豊作だなー。内陸部では刈り入れが始まっててさ、みんな忙しそうに働いてた」
嬉しそうに六太は言って、各地の様子を話してくれた。
六太は毎年この時期に、黄金色に実った田畑を見て回っているようだった。そして今年も豊作だったと嬉しそうに戻ってくる。そういう時、朱衡はこの少年の仁獣らしさを垣間見る思いがするのだ。
ひとしきり話を聞いたところで、何気ないふうを装って尚隆の話題を振ってみた。
「主上はまだ遠くへ行っておられるのでしょうか?」
六太は特に表情を変えることなく、少し遠くを見るように顔を上げた。
「うん。––––方角から考えて、柳じゃねえかな」
「柳?またですか」
「多分な」
「一年程前と、つい数ヶ月前にも行ったばかりでしょうに」
やや呆れた声で朱衡が言うと、六太は視線をこちらに戻して軽く肩を竦めた。
「ほんと、あいつも物好きだよなー。傾いた国に何度も行って、見て回るなんてさ」
「何か気になることがあって見に行ったのでしょうか」
「さあ?」
六太は首を傾げる。
「ま、雨期に入る前には帰ってくるんじゃねえの?」
軽い口調で言う六太に、そうですね、と朱衡は頷いた。

六太の様子は、拍子抜けするほどいつも通りだった。尚隆の話題になっても別段変わった反応を見せるわけでもない。
それから十日余り、六太は朝議に出たり出なかったり、政務をしたりしなかったり、ふらりと王宮から姿を消したりしていた。つまり平常通りに振る舞っているように見えた。
仁重殿の女官にそれとなく探りを入れてみたが、やはり近習から見ても特に気になることはないようだった。
朱衡は肩透かしをくらったような、狐につままれたような、妙な気分になった。先日転変してまで逃げ出したのはいったい何だったのだろう。もちろん六太が落ち込んだりしているよりは余程いいのだが。
どこか釈然としない思いを抱きながらも一応ほっとした朱衡は、今度は尚隆のことが気になりだした。心配という程のことではない。あの王はいつも周囲の予想を斜め上だったり斜め下だったり、とにかく思いもよらぬ方向へ裏切ってくれる人だ。今回の件も、真相はおそらく朱衡の想像の埒外にあるのだろう。
とりあえず王が帰還したらすぐ報告するよう、禁門の門番に申しつけることにした。私邸に退がった後でも構わないので知らせて欲しいと。普段はそんなことはしないのだが、やはり出奔前の尚隆の様子はずっと朱衡の中で引っかかったままだった。

102「二つの道」21:2018/07/30(月) 19:47:36
やがて関弓山を取り囲む雲海の下に張り付くようにして、雨雲が垂れ込め始める。雨期はもう目前だった。
雲海上の東の空に欠け始めた月が浮かぶ夜、王は玄英宮に帰還した。

その夜、私邸で書物を読んでいた朱衡に王の帰還の知らせと共にもたらされたのは、隣国の台輔登遐の報だった。朱衡は一瞬絶句したが、ひとつ息を吐き出してから、伝達の任を果たした使者に労いの言葉をかけて退がらせた。
これで王朝の死が確定し、空位は長くなることが予想される。台輔失道の報が入った頃から覚悟していたこととはいえ、実際にそうなってみると、嘆息を漏らさずにはいられなかった。明日の朝議では荒民対策が緊急の議題になるだろう。
暫くはその対応に追われるだろうから、主従の様子だけを気にしている場合ではなさそうだった。

それから数日の間、朱衡を含め官吏達は忙殺された。普段は隙あらば怠けようとする王と宰輔も、この時ばかりはさすがに真面目に朝議に出席し、荒民への対応についての議論を交わした。
一年程前から荒民に備えて様々な施策を打ってきたので、大筋の方針は変わらない。だが空位が長くなると確定した今、荒民対策も十年、二十年の単位で長期的に考えていかねばならないため、計画の修正を余儀なくされることも多々あった。

朝議や政務の場で主従が共にある姿を、朱衡は何度も目にした。荒民への対応について意見が対立し、軽く言い合うような場面も見られた。
六太はなるべく手厚く支援してやるよう進言するのだが、尚隆は大抵それを却下する。
最低限の支援はするが、人助けは身を削ってまでするものではない、と王は言う。そんなものは長続きするはずがないからだ。延王としてまず第一に考えるべきは雁国民のことであり、長期的視点に立てばなおさら、荒民を優先しすぎるような策を講じるべきではない。
王と麒麟の意見が対立するのはいつものことであり、当然のことでもあった。そもそも物の見方も考え方もまるで違うのだから。両者ともそれを承知の上で、六太は進言し、尚隆はそれを却下するのだろう。
何はともあれ、仕事をする上では二人の間になんら問題があるようには見えなかった。

王の帰還から数日が過ぎ、ある程度の目処がついた頃、朱衡は内殿の執務室へ王を訪ねた。すると王は別室で宰輔と共に休憩中だという。
仕事中以外で主従が一緒にいる様子を見たいとここ数日ずっと密かに願っていた朱衡は、急いでその房室へ向かった。

103「二つの道」22:2018/07/30(月) 19:49:37
扉の前にいた大僕に訊ねてみると、人払いをしているわけではないらしい。朱衡は僅かな緊張感を抱きながら、中に声をかけて入室した。
衝立の陰から出ると、主従が広い部屋の奥、窓の近くで小卓を挟んで向かい合って座っているのが見えた。
「もう無理だって。おれの優位は動かねえよ。さっさと投了しろ」
六太の面倒くさそうな声が聞こえ卓上をよく見れば、碁盤が置かれており白黒の碁石が並んでいる。
碁を打つとは珍しい、と思いながら朱衡は二人の傍らへ歩み寄って行く。六太が頬杖をついて朱衡の方に目を向けた。
「なあ朱衡、これどう考えても白の勝ちだろ」
「……ええ、一目瞭然ですね」
朱衡が盤面を見て頷くと、尚隆はやれやれと溜息をついた。
「仕方ない。––––投了だ」
言いながら尚隆は手の中の黒石を碁笥に放り込み、椅子の背に凭れた。
「あー終わった終わった」
せいせいした、という風情で六太は言い、盤上の碁石を仕分けて白石を碁笥に戻し始めた。
「珍しいですね。お二人で碁を打たれるとは」
「こいつが打とうって言ったんだよ。だから少しは強くなったのかと思ったらさ、全然強くなってねえの」
「今更強くなるわけなかろう。碁石に触ったのも久しぶりだ」
「じゃあなんで勝つまで打つとか言い出したんだよ?もうずっとおれに勝ってないくせに」
「昔は六太のほうが弱かったろうが」
「何百年前の話だよ、それ。おれが碁を覚えてすぐの頃だけだろ?尚隆に負けたのって」
「そうだったか?」
「そうだよ。今は負ける気しねえな。尚隆が勝てそうな相手ってさ、帷湍くらいじゃねえ?」
「あいつは弱いな、確かに」
「お前といい勝負だと思うけど」
尚隆と六太はそんな会話を交わしながら碁石を片付けていく。朱衡は卓の傍らに立ち、二人の表情をさりげなく観察しながら黙ってそれを聞いていた。
さっき緊張しながら入室してきたのが莫迦莫迦しくなるほど、二人の様子は至って普通だった。気まずそうな気配とかぎこちない雰囲気とか、そういったものがほんの少しでもあるのではと気を揉んでいた朱衡は、またもや肩透かしをくらった気分だった。

「じゃあ交代な、朱衡」
石を碁笥に戻し終わった六太が、にっと笑って朱衡を見上げ、椅子から立ち上がった。
「台輔の代わりに主上のお相手をせよ、と?」
「うん、おれはもうやめる。三局打ったもん。あ、もちろんおれの三連勝な」
六太はそう言いながら朱衡の腕を引っ張って、自分が先程まで座っていた椅子に朱衡を座らせた。
「朱衡には勝った覚えがないな」
「私も主上に負けた覚えはございませんね。––––いくつ石を置きますか?」
「置き石は無しだ」
朱衡は瞬いてから、少し首を傾けた。
「勝負になるとは思えませんが」
「だよなー。おれとも置き石なしでやったんだぜ。置碁で勝っても意味ないとか言ってさ。おれより朱衡のほうが強いんだから、尚隆に勝ち目ないよな」
「石を置かせてまで俺に勝たせたいのか、お前達は」
「違うって。実力差がありすぎてつまんない碁になるって言ってんの」
「なるほど、そうかもしれんな」
尚隆は鷹揚に笑った。六太は呆れたような顔で肩を竦める。
「……まあ、いいでしょう。では主上が黒をお持ちください」
朱衡はそう言って、盤上に置かれた白石の碁笥を自分の手元に引き寄せる。尚隆の先番で、最初から結果がほぼ見えている碁の対局は始まった。
「じゃ、おれは戻るわ。手加減せずにやっつけてやれよ、朱衡」
数手打つところまで見てから、六太はそう言って踵を返した。
「承知いたしました」
朱衡が微笑んで請け合うと、向かい側で尚隆が苦笑した。

104「二つの道」23:2018/07/30(月) 19:52:01
六太の姿が衝立の向こうに消え、扉の閉まる音がしてから、朱衡は室内に控える侍官に聞こえない程度に声を落とした。
「台輔とは和解なさったようで、安堵いたしました」
尚隆は意外そうな表情で朱衡を見返してから、笑った。
「なんだ、心配だったか。喧嘩など珍しくもなかろうに」
「ええ、喧嘩自体は珍しくありませんね」
言いながら朱衡は碁石を打つ。それから視線を上げ尚隆の顔を直視して、おもむろに言葉を続けた。
「ですが台輔がお泣きになったようなので、少々驚きまして……」
そう言った途端、尚隆の顔からすっと笑みが引き、両眼が朱衡を射抜いた。そこに一瞬だが剣呑な光が閃いたような気がして、朱衡は声を途切らせた。
王が低い声で訊く。
「––––六太が泣いているのを見たのか、お前は」
「……いいえ」
軽く息を飲んでから、朱衡は努めて平静な声を押し出した。
「泣きそうな顔をなさったように見えただけです。……ですので、主上が台輔を泣かせるようなことを仰ったのかと」
尚隆は笑った。いつも通り、暢気そうに。
「俺との喧嘩くらいであの餓鬼が泣くものか」
「ええ、ただの喧嘩なら、そうでしょうね」
朱衡は意識的に微笑みを浮かべ、敢えて含みのある言い方をした。尚隆は軽く眉を上げて朱衡を見返す。
「なんだ、何か知っているような口振りだな。六太が愚痴をこぼしたか」
「いえ、台輔は何も仰いませんでした。喧嘩のことは全て主上に訊け、と」
「ほう」
それだけ言うと、尚隆は手にしていた碁石を打った。それから互いに無言のまま、十数手が進む。
尚隆は自分からは何も話す気はないのだろう。朱衡も無論そんなことははなから期待していない。
「喧嘩の前お二人でお出掛けになった時、何があったのですか?」
唐突に沈黙を破り、単刀直入に朱衡は問うた。
「別段、変わったことはなかったな」
「では何故すぐにお戻りになったのです」
少しばかり咎めるような口調になった。
尚隆は盤面から目線を上げて、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「いつも早く戻れと喧しいくせに、早く帰ったら帰ったで小言を言うのか?まったく、報われんな」
「小言ではございませんよ。単なる疑問です」
それに対して、尚隆は笑っただけだった。
それから幾つか角度を変えて質問を投げかけてみたが、朱衡の予想していた通り、まともな答えは一切返って来なかった。
そのうち隣国の話題になり、朱衡は王の執務室の訪ねた本来の目的を思い出した。碁を打ちながら、ここ数日の仕事の報告を行う。事務的な会話を交わすうち、朱衡の白石は着々と地を広げ、あっさりと尚隆は投了した。
碁石を片付けてから「そろそろ仕事に戻らねばならん」と溜息をつき、尚隆は立ち上がった。
朱衡も官府に戻ってやるべき仕事があったため、立ち上がって拱手し、辞去の言葉を述べた。

官府へ戻る道すがら、主従が共にいた時の屈託ない様子を朱衡は脳裏に思い浮かべた。
結局あの喧嘩は何だったのだろう。二人の間で無事解決したのなら、それは臣として喜ばしいことではあるが、果たして本当にそうなのか。朱衡は疑念を拭い切れずにいる。
先程ほんの一瞬だけ垣間見た、どこか不穏な王の表情は、朱衡の印象に強く残っていた。

105「二つの道」24:2018/07/30(月) 19:54:02
翌日の午後にまた内殿へ向かった朱衡は、官府へ戻る途中の帷湍と行き合った。帷湍は見るからに上機嫌で、鼻唄でも歌い出しそうな雰囲気だった。
「何かいいことがありましたか」
「まあな」
思い当たる節は二つあったが、そのうちのひとつを朱衡は口に出してみる。
「主上と碁を打って勝ったのでしょう?」
帷湍は驚いたように朱衡の顔を見返した。
「よく分かったな。––––ああ、そういえばお前も昨日打ったらしいな。だからか」
ええ、と微笑んで頷くと、帷湍は満面の笑みを浮かべた。
「あまり手応えがなかったなあ。あいつ以前より弱くなったんじゃないか?」
「あなたといい勝負だと思いますが」
帷湍が軽く顔をしかめたので、朱衡は笑って言葉を継いだ。
「––––と、昨日台輔が仰ってました」
「ああ、台輔がな。……まあ、俺より台輔のほうが強いから言われても仕方あるまい。今日も王と打って連勝したらしいぞ」
「今日も打ってらしたんですか」
「明日も打つそうだ。なんの気まぐれか知らんが、妙にやる気を出しとるようだな」
「……そうですか」
そんなに急にやる気を出したのは何故だろう、と朱衡は少し気にかかる。突然とんでもないことを言ったりやったりする王のことだから、連日碁を打つくらいは単なる気まぐれかもしれないが。
「久々に碁で勝ったし、一昨日言われた仕事も片付いてひと息ついたし、今日は気分がいい」
「急に仕事を増やされましたからね。お疲れ様でした」
朱衡が労いの言葉をかけると、帷湍は晴れやかに笑った。

ここ数日最も忙しかったのは、地官長である帷湍だろう。
まずは現在の義倉の備蓄量と、ここ十年の収穫量の平均値を基に、今後十年間で荒民のために供与できる穀物の量を試算した。一昨日それを報告したところ、凶作だった年の収穫量に基づいた試算もせよ、と王は命じたのだ。雁はここ十年以上毎年豊作だったが、ずっと続く保証はないと。
確かにそれは一理あった。だが一部の地域、一部の農作物の出来が悪いことは多々あれど、雁全域で凶作になるようなことはないはずだ。––––王が玉座にいる限りは。
かなり昔の記録を洗い出さなければならず、仕事を増やされた帷湍は、こんな試算意味あるのか、とぶつぶつ文句を言っていた。
「結果的に意味がなくなることを祈っておきましょう」
朱衡はそう言って帷湍を宥めたのだった。

その翌日、尚隆の碁の相手をさせられたのは、禁軍将軍成笙だった。
隣国が傾けば、国境の警備は光州の州師だけでは荷が重い。そのため妖魔がうろつき始めた頃から、禁軍より人員を割いて国境へ派遣していた。今後長期にわたることを考えれば、一部の兵士に負担がかかりすぎないよう、一定の期間で交代させる必要があるだろう。成笙はそのための警備兵の編成を命じられていた。人員配置、行軍日程、兵の交代時期、兵糧の配分、様々なことに目処をつけ、大司馬を通して奏上し王の裁可を待っていた。
その時に呼び出されたのである。
何か計画に不備があるのかと内殿に駆けつけてみれば、主従が暢気に碁を打っている。
「あーやっと来た。成笙、交代な」
そう言って立ち上がった宰輔に引っ張られ、王の向かい側に座らされた。
この時成笙は軽く顔をしかめただけだったが、どうやら些か立腹していたらしい。くだらないことで呼び出されたからだろう。手加減なしの成笙に手も足も出なかった尚隆は、投了するまでの最短記録を更新した。

それから約十日間、尚隆はほぼ毎日六太と碁を打っていたようだった。
雨期に入った関弓では、雨が降り続いている。いつもふらりと下界へ降りる主従も、さすがに雨期は出奔が減るのが常だった。時間を持て余し気味になる時期なので、今年は碁で暇つぶしをしているのだろう、というのが周囲の官達の見解だった。
一部の碁好きの侍官達は主従の対局をいつも見物し、王が一手打つたびに密かに溜息をついていたとかいなかったとか。
結局六太には一度も勝てなかった尚隆だが、ある日帷湍に接戦の末に勝利した。見物していた周囲の官達はどよめき、帷湍は地団駄踏んで悔しがっていたという。
それからぱったりと王は碁を打たなくなった。

「主上は碁を打たなくなりましたね」
何日か経った頃、ふと朱衡が言ってみると、
「一勝して気が済んだんじゃねえの」
興味なさげに六太はそう言ったのだった。

106書き手:2018/07/30(月) 19:56:47
三官吏と六太の碁の強さは、私の勝手なイメージです。
成笙>朱衡>六太>>>帷湍=尚隆
みたいな。

107名無しさん:2018/08/02(木) 23:42:53
碁石きた
破滅への道を進み出した尚隆さん
このお話ではきっかけとなるのも引き止めるのも六太、というところでしょうか
三官吏が赤子の手をひねるように碁で尚隆を打ち負かす様は実年齢差(人生経験差)を思い出させますね
あ、帷湍は違うかw

108名無しさん:2018/08/11(土) 18:16:05
更新ありがとうございます!碁石の話も絡めての展開ですね、わあ不穏な先行き…でも尚六的にドキドキと胸を高めて続きを待っています!(*´ω`*)

109書き手:2018/08/24(金) 19:24:45
お二方、コメントありがとうございました。

107 >>このお話ではきっかけとなるのも引き止めるのも六太、というところでしょうか
↑そうなんです。要はそういう妄想からスタートして書き始めた話です。
碁石集めに関しては、尚六好きなら何かしらの妄想はするかと思うんですが、初夜と絡めて書こうとしたらなんか長くなってしまったんですよ…

というわけで第四話の続きの六太視点です。
ついに第三話より長くなりました。書き始める前は、この辺はもっと短くさらっと書く予定だったのに(~_~;)

110「二つの道」25:2018/08/24(金) 19:27:51
ある日の午後、六太は雲海に面した広い露台の手摺に座り、下を覗き込んでいた。雲海の底に張り付いている雨雲にところどころ切れ間があり、そこから下界が見える。これから雨雲の切れ間は徐々に広がり、雨期は終わりを迎えるはずだ。
毎年雨期が終わるのが待ち遠しかった。雨が嫌いなわけではないが、下界へ出掛けるには、やはり晴れているほうがいい。
それなのに今の六太は、待ち遠しい気持ちよりも、もうすぐ雨期が終わってしまう、という焦りのようなものが強かった。そんなことを感じてしまうのは、雨がやんだら尚隆もまた出奔してしまうと確信しているからだ。
これまではそれを寂しく思ったとしても、焦燥感など抱いたことはなかった。
六太は足をぶらぶら揺らして欄干を蹴りながら、尚隆が隣国から帰還した後、ここひと月の出来事を思い出していた。

尚隆が帰還した夜に隣国の台輔登遐の報が入り、翌日の朝議の場で六太と尚隆は半月ぶりに顔を合わせた。
喧嘩とその後のあれこれは、六太の私的な問題であり、国の大事の前には些事に過ぎない。皮肉なことに隣国に不幸があったがゆえに、あの一連の出来事を意識の外に置いておくことは予想していたより容易だった。
尚隆の態度も特に喧嘩の前と変わらない。政務のことで色々と意見を交わしているうちに、顔を合わす前に密かに抱いていた妙な緊張感は、やがてなくなっていった。
以前と何も変わらぬ王の振る舞いに、六太はほっとした。尚隆の態度が変わらないなら自分も以前と同じように振る舞える、ちゃんと忘れたふりができると思ったからだ。

碁に誘われた時はかなり意外で驚いたが、碁は何かと好都合だと思った。二人で向かい合って座っていても、ほぼずっと盤面を見ているので相手の顔をあまり見なくても済むし、特に会話も必要ない。
尚隆は十日余りの間、毎日六太と打った。その後に他の官と日替わりで打ち、帷湍に勝利したのを最後にそれきり打たなくなった。
突然碁を打ち始めたのも、ぱったりやめたのも、ただの気まぐれだろうと特に理由は考えなかった。
それとは別に六太は自分の中で引っかかるものがあったからだ。何かが物足りないと感じるのに、それが何なのか分からなくて、六太は僅かな苛立ちを感じていた。

そんな中、碁を打たなくなって何日か経った頃、王の執務室で尚隆が書類の処理をする様子を、少し離れた卓上に座って眺めていた時のことだった。
書類の内容を確認してから署名し、筆を置いて御璽を押す。その一連の動作をする尚隆の手を、六太はじっと見つめていた。
そうして何通かの処理を終えてから、傍らに控えていた侍官に各官府に届けるよう指示を出すと、尚隆の手はその侍官の上腕を軽く叩いた。
それを目にした途端に心臓が跳ねて、不意に六太は理解した。なぜ物足りないと感じていたのかを。
尚隆が六太に全く触れてこないからだ。帰還してから二十日以上、毎日顔を合わせているというのに、肩を叩くとか頭を撫でるとか、以前は当たり前のようにあった接触が今は一切ない。
気づいて六太は愕然とした。そんなくだらないことで自分は苛立っていたというのか。
しかしそれを自覚したことで、目の前にかかっていた靄が消えて視界が晴れたような感じがする。その「くだらないこと」が苛立ちの原因であったと認めないわけにはいかなかった。

111「二つの道」26:2018/08/24(金) 19:30:25
尚隆が椅子から立ち上がり、軽く伸びをしながらこちらに背を向け窓の方へ歩いて行った。その広い背中を見やりながら、六太は考える。
いつも尚隆は、どんな場面で触れてきただろうか。改めて思い出そうとしてみてもありふれた場面しか浮かばなくて、尚隆が敢えて触れてこないのか、それともたまたま触れる機会がなかっただけなのか、よく分からなかった。
やがて侍官が全ての書類を文箱に収めて、それを携え執務室を退出して行く。六太はそれを漫然と目で追って、衝立の陰に消えるのを見送った。
「尚隆……」
扉が閉まる音が聞こえてから、六太は殆ど無意識に呟いた。はっとして視線を振り向けると、尚隆は窓のそばに立ったまま振り返ってこちらを見ている。
「なんだ」
「……」
何を言おうとして名を呼んだのだろう。
なんで触れてこないんだと訊くつもりか。それとも、頭を撫でてほしいとでも言うつもりなのか。
冗談じゃない、まるで幼子のような要求ではないか。何百年も生きているくせに、あまりにも幼稚な甘えだ。そもそも他国の成獣した麒麟達は、王に頭を撫でられたりするものだろうか。

「六太?」
訝しげに呼ぶ声で我に返り、一瞬のうちに頭の中を駆け巡った思考を脇へ押しのけて、六太は全く関係ないことを口に出した。
「……最近、珍しく真面目に仕事してんな」
ああ、と言ってから尚隆はにやりと笑った。
「今のうちにある程度片付けておいたほうが、雨がやんでから好き勝手できるからな」
「やっぱりそういう魂胆か」
六太も笑った。正確に言えば笑顔を作ることに成功した。
「お前は靖州侯の仕事は片付いているのか?あまりサボっていると、下界が晴れているのに出掛けられぬ苦痛を味わう羽目になるぞ」
「そんな羽目にならねーよ。おれは尚隆が外でふらふらしてる間も真面目に仕事してたし」
「ほう、真面目にな」
疑わしいな、と尚隆は笑みを浮かべた。
六太は座っていた卓から、すとんと降りた。もっと尚隆に近付きたくなった。すぐそばに寄れば触れてくるかもしれないと思って。
六太が傍らに歩み寄る前に、尚隆は再び窓に向き直り、腰高窓の枠に両手をかけて外へ目をやった。その隣に立った六太は、窓枠に肘を載せて頬杖をついた。
ほんの少し手を動かせば触れるくらいの僅かな距離をおいて、二人は窓際に並んで立つ。
外を見やりながら、六太は視界の片隅に尚隆の手をとらえる。その手は窓枠に載ったまま全く動かなかった。

六太は窓の外に意識を向けた。見上げれば晩秋の空はいつも通り晴れ渡っているが、見下ろすと雲海の下は雨雲が覆い尽くしている。晴れていれば下界の豊かな色彩が透けて見える海は、今は日の光を反射した雲の白一色で塗り潰されていた。
「下界、全然見えないな」
「見えんな。まだまだ雨雲が厚い」
「雨期が終わるまで、あと十日くらいかなぁ」
「まあ、それくらいだろうな」
他愛ない会話を交わしながら隣を見上げると、雲海を見下ろす尚隆の横顔が、手を伸ばせば届く距離にある。
よく考えたら、こんなに近付いたのはあの時以来だ。そう思いついたら急に、胸の奥をぎゅっと掴まれたような痛みを覚えた。
思い出したくない、と反射的に強く思い尚隆の横顔から視線を逸らす。
それと同時に、ある考えが閃いた。
ひょっとしたら、六太が思っていた以上に尚隆はあの日のことを気にしていて、悪いことをしたと反省しているのだろうか。触れてこないのは、尚隆なりの気遣いなのかもしれない。
もしそうだとしたら、そんなのもう気にしないでほしい。以前と同じようにしてくれたらいいのに。
でもそれを口には出せなかった。
忘れてくれと言われて、忘れると決めたのだ。気にするな、などと言ってしまえば、六太が忘れられずにいるとわざわざ白状するようなものではないか。そもそも本当に尚隆が気にしているのかどうかだって分からないのに。

112「二つの道」27:2018/08/24(金) 19:32:37
「失礼いたします。––––台輔」
六太が悶々と考えているうちに、背後から声をかけられた。人払いをしているわけではないので、王の執務室は何人もの官吏が出入りしている。
振り返ると下官が膝をついて畏まっていた。
「なに?」
下官が一礼してから告げたのは、靖州令尹からの伝言だった。内殿での用事が終わり次第、広徳殿に戻ってほしいと。
それを隣で聞いていた尚隆が軽く笑った。
「呼び出しか。やはり靖州侯の仕事が全然片付いてないんだろう」
「そんなことない。ちゃんとやることやってたって」
尚隆に言い返してから、六太は下官に問う。
「火急の用件か?」
「いいえ、今日中であれば良いようです。台輔のご都合がつき次第お戻りくだされば、結構でございます」
「あーそう。都合がつき次第、ね。じゃあ……戻るかな」
無論六太とて王の執務室まで遊びに来ているわけではない。宰輔という立場上、王の政務を補佐する役目があり、尚隆の政務内容を把握し、進言諫言を行うのが六太の仕事でもある。––––というのは理由の半分に過ぎず、残りの半分は、単に尚隆のそばにいたいだけなのだが。
改めてそう考えると自分がひどく尚隆に甘えているような気がして、あまりの子供っぽさに嫌気がさしてきた。
なんだか尚隆の顔を再び見上げる気にはなれずに、ちらりと彼の大きな手に視線を向けた。今は片手だけが窓枠に載っていた。
じゃあな、と言って、六太は窓のそばから離れて行く。ああ、と尚隆の声が返ってきた。
尚隆に背を向けて歩き出す時、やはり何か物足りなく感じた。そしてその理由を六太は分かってしまった。
––––以前はこういう場面で、肩とか背中とかを尚隆に軽く叩かれたりしてたんだ。
六太は下官を伴って扉の方へ向かいながら、やっぱり尚隆は敢えて触れてこないんだ、と確信を持った。

あれから数日以上経過したが、特に状況に変化はなかった。一見、尚隆の態度は以前と全く変わらないのに、一指たりとも触れてこない。
それどころか若干距離を取られているような気さえする。六太が手を伸ばしても届かない、でも尚隆の長い腕なら届きそうな、そんな距離感。
そして尚隆は手を伸ばしてこない。

露台の手摺に座った六太の踵は、寄せて返す波音と呼応するように、何度も繰り返し欄干に当たる。見下ろす雨雲の切れ間がさっきより広がっているような気がした。
あと二、三日で雨期が明けて冬が到来するだろう。そして尚隆はどこかへ行ってしまうのだ。
現在六太の精神は、焦燥と逡巡に大部分を占拠されている。
––––獣の姿なら、尚隆は撫でてくれるだろうか。
ふと何日か前に思いついてから、その考えがずっと六太の頭から離れない。
そうまでして撫でてもらいたいのか、と自分の甘えにうんざりするのだが、その考えを無視することはどうしてもできずにいた。

113「二つの道」28:2018/08/24(金) 19:35:03
眼下の雲が風に流されていく。切れ間から、関弓の街に久しぶりの陽光が射しているのが見えた。下界から見上げれば、雨雲の切れ間に蒼穹が覗いているだろう。
六太は意を決して、僅かに顔を仰向けた。目を瞑って額に気を集める。全身の感覚が一瞬だけ消えて別の回路に切り替わり、身体がふわりと軽くなった。
目を開けた六太は、身体を揺すって背中に掛かる衣服を振り落とし、蹄を鳴らして跳躍する。
「台輔⁉︎」
背後から驚いたような声をかけられた。振り返ると女官が慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ちょっと散歩してくる」
「え、散歩?––––どちらへ?」
その声を聞き流し、六太は王気のある方へ駆け出した。

内殿の広い庭院に面した回廊に、六太はその姿を見つけた。傍らには朱衡と、数人の官がいる。周囲の官のうち一人が最初にこちらに気づき、目を見開いて口をぽかんと開けた。
その様子に気づいたのか、尚隆もこちらに視線を向ける。驚いたように目を瞠り、それから破顔した。
「なんだ、六太か」
朱衡も振り向いた。
「––––台輔、どうなさったのです。転変なさるなんて……」
まさか、と言って朱衡は尚隆を見る。
「俺のせいではないぞ」
心外だ、と言いたげに軽く顔をしかめて尚隆は朱衡を見返した。
「別に妙な勅命出されたわけじゃないって。ただの散歩」
「散歩、ですか」
「心配すんな、内宮からは出ないから」
「当たり前です。よもや先月の騒ぎをお忘れではございませんね?」
「忘れてないって。また帷湍に怒鳴られたくないし。––––でも、この姿で散歩したり昼寝すんのは悪くないなぁって思ってさ」
言いながら六太は回廊に降り立ち、尚隆のすぐ脇まで歩み寄って行った。
「散歩や昼寝をするほど暇なのか、六太」
「いや、さっきまで仕事してて休憩中。だから今は散歩だけ。昼寝するほど暇じゃねえよ」
尚隆の手が伸びてきて神獣の頭に載った。その動作はごく自然で、遠慮もためらいもなかった。そのまま手が滑って鬣を撫でられる。その手の暖かい感触は、心地良くて嬉しかった。
「尚隆は?朱衡から小言くらってたのか?」
「まさか。近頃の俺は品行方正だからな。小言などくらうはずがなかろう」
「へえ、品行方正?それってお前に一番似合わない言葉じゃねえの?」
六太が揶揄すると、まったくです、と朱衡が深く頷いた。
「まだたったのひと月です、主上。これが向こう百年くらい続けば、品行方正と申し上げるのもやぶさかではありませんが」
「百年か。––––朱衡も案外気長なことを言う。お前はもっと気が短いと思っていたがな」
「気が長いとか短いとか、そういった問題ではごさいませんよ。永く諸官の模範となるような王であっていただきたいという、拙めのささやかな願いです」
若干嫌味な朱衡の物言いを、尚隆は笑っただけで受け流した。

訊けば二人は共に執務室へ向かうところだという。
「台輔も一緒にいらっしゃいますか?」
「おれは行かない。休憩中って言ったろ?もう少し散歩したら戻る」
にやりと尚隆は笑って、麒麟の首筋をぽんぽんと叩いた。
「お前も品行方正な宰輔と言われるよう、政務に励むことだ」
「尚隆にそういうこと言われると、なんか腹立つな」
尚隆を見上げて言い返してから、六太は回廊の床を蹴って飛び上がる。じゃあな、と言い残して駆け出した。

宙を疾走して仁重殿へ向かう。主殿の臥室に露台から侵入し、驚く近習を室外に追い出してから六太は牀榻に入った。政務に戻る気にはならなかった。
獣型を解いて人の姿に戻ると、すとん、と身体が重くなる。そのまま何も着ずに衾褥に潜り込んだ。
六太は掛布の下で身体を丸め、両手で胸を押さえた。肺が上手く機能してないような気がした。
撫でてもらえたという安堵感と、訳の分からない虚脱感が、胸の内で交錯している。尚隆の手の感触は嬉しかったのに、同時にひどく寂しかった。

114名無しさん:2018/08/25(土) 10:14:19
ああん、尚隆のイケズ!w 六太の意地っ張り度がロマンスを演出してとてももえます…(*´ω`*)

115名無しさん:2018/09/02(日) 22:32:00
獣型になっていそいそと尚隆のそばに寄ってく六太せつないけどかわいい
転変・転化の描写がたくさんあってうれしいです!
美しい獣と少年が姿を変える様子って神秘的で好きです

116書き手:2018/09/12(水) 19:21:50
転変転化の描写私も好きなんで、つい何度も書いてしまいました。原作小説では六太転変しないですしね。
原作で獣型の泰麒を「優美窮まりない獣」て表現するとこ好きなんですよ。やんちゃな六太も転変すれば優美窮まりないんですよ…!
素敵すぎる…(*´꒳`*)

それでは第四話の続き、尚隆視点です。

117「二つの道」29:2018/09/12(水) 19:25:14
関弓山周辺の雨雲が晴れると、待ちかねていたように六太は玄英宮から姿を消してしまった。
それは尚隆も予想していた通りであり、毎年恒例のことだった。雨期の間にある程度真面目に仕事をこなしておけば、諸官も別段苦言を呈することはない。昔は出奔を阻止しようと躍起になっていたこともあったが、今では諦め顔で見逃すようになっている。

本音を言えば、六太にはどこにも行かずに王宮内に留まっていてほしかった。また不逞の輩に目を付けられないとも限らない。使令がいるから実際に危害を加えられることはないと分かっていても、そういった連中の存在自体が尚隆にとっては不愉快だった。
だがそれを理由に六太の行動を縛りたくはなかった。無論、王である尚隆には六太の出奔を禁ずる権限がある。しかし権限を有する者が感情的な理由でそれを濫用することは、暴君への第一歩に他ならない。尚隆は暴君になるつもりはなかった。––––少なくとも、今はなかった。
喧嘩した夜、尚隆は六太に転変を命じ出奔を禁じた。あの時は思いつくまま命じただけで、その意図を自分でも理解できていなかった。だがあの瞬間の心の動きを今は分かっている。
尚隆は人の姿をした六太を見ていたくなかった。それだけなら自分がその場を離れれば済む話だが、他の誰かの目に映るのさえ嫌だった。
つまりは独占欲によるただの我儘に過ぎないのだ。そう悟った時に、ああいう身勝手で感情的な命令は二度とするまい、と尚隆は自戒したのだった。

その夜、尚隆は正寝の一室で夕餉を済ませた後、酒杯を片手に雲海を臨む露台に出た。東の水平線の少し上に、十六夜の月が昇っていた。
僅かに欠けた月を眺めながら、隣国から玄英宮に戻ったのは丁度ひと月前だったな、と尚隆は思いを馳せた。

帰還する際に尚隆が己に課したのは、一つはなるべく以前と同じように振る舞うこと。もう一つは六太に触れないことだった。触れてしまえば、そのまま掌中に収めてしまいたい、という欲が深くなるだけだと分かり切っていたからだ。
だが六太の方から近付いてくるのは止めようがない。窓辺ですぐ隣に立たれた時は、触れたい衝動を抑えるための思わぬ努力を強いられた。それからは意識的に少しの距離を取るよう心掛けた。
完全に二人きりになるのも避けていた。特に人払いを命じなければ複数の官が周囲にいるのが常なので、これはそれほど困難でも不自然でもなかった。

手摺に凭れて酒杯を傾けながら、尚隆は帰還した翌日からのことを思い返した。
半月ぶりに六太と顔を合わせたのは、朝議の場だった。前夜に台輔登遐の報が入ったこともあり、半月ぶりに聞いた六太の第一声は「柳の様子はどうだった?」というものだった。状況から考えれば想定通りの台詞ではあった。尚隆は隣国の様子を簡潔に話し、早急に荒民対策をせねばならん、と溜息をついた。
それから数日は互いにあまり無駄口を叩くことなく、自分達にしては珍しく仕事の話ばかりしていた。六太は以前と変わらず生意気な態度で、遠慮のかけらもなく進言を行う。尚隆と意見が対立しても、臆せず自分の主張を言ってのける。
何事もなかったかのように振る舞う六太を目にして、尚隆は安堵感と共に、ほんの僅かの不満を抱いていた。六太はためらう様子もなく尚隆に近付いてきたが、多少は警戒されるかもしれないと思っていた尚隆は些か不意を突かれたのだ。
あの時のことを、六太はもう気にしていないのだろうか。尚隆の言葉を額面通りに受け取って、ただの冗談だったと忘れてしまったのだろうか。
ふと己の矛盾した思考に苦笑して、尚隆は酒杯を煽る。流れ落ちる液体が喉の奥を灼いた。
––––忘れてくれと言ったのは自分だろうに、いったい何が不満なのだ。
こんなことを思い煩うくらいなら、いっそあの時、忘れろと言ったのは命令だ、と言ってしまえばよかったのに。

118「二つの道」30:2018/09/12(水) 19:27:35
尚隆はひとつ溜息をつきながら、空になった酒杯を置いて手摺の上に右手を載せた。その硬くて少し冷たい感触の上に掌を滑らせる。手摺に腰掛ける少年の姿が、尚隆の脳裏に鮮やかに浮かんだ。
この露台で時折六太と共に酒を飲んだ。最初は卓に付いて飲んでいても、六太はそのうち酒杯を片手に立ち上がり、手摺にひょいと腰掛けてしまう。毎回そうだった。潮風に煽られた金髪を煩わしげに払い除けながら街の灯りを見下ろしたり、足を揺らして欄干を蹴りながら月や星を見上げたり。酔って身体がふらふらしていることも多く、はたから見ると危なっかしい。落ちるなよ、と尚隆はいつも笑って声をかけた。実際に転落などしないことはもちろん承知していたが。
共に生きてきた長い年月の中で、二人きりのささやかな酒宴はいったい何度あったろうか。思い出せるはずもなく、数え切れる回数でもないはずだ。しかしその回数が今後増えることはないだろう。

右手を手摺から離し、その掌に視線を落とした。六太の金髪のしなやかな手触りと、麒麟の鬣の柔らかい感触と。どちらもこの手に残っている。

先日六太が転変して散歩していたのには驚いたが、むしろそのほうが気が楽だと思った。ずっと獣の姿のままでいればいい。そうすれば、六太は人ならざる生き物であり、天のものであると、己の感情を納得させられるような気がした。
たまを撫でる時と同じような気分で麒麟の頭を撫でたが、六太はどう感じたのだろうか。獣と人では撫でられた時の感覚が違うと言っていたから、嫌ではなかっただろうと思うが、本人に訊くつもりは全くなかった。
もちろん人型の六太が、尚隆に触れられることを本気で嫌がると思っているわけではない。
この手を伸ばしたら六太は拒みはしないだろう。それどころか尚隆が本気で求めれば、たとえ六太の本意ではなくとも、全てを捧げてくれるだろう、とすら思っている。だがそれは言うまでもなく、尚隆が王であり六太が麒麟だからだ。王への思慕か、それとも慈悲か。いずれにせよ天に与えられた麒麟の本能に過ぎない。
玉座を背負う者に天より贈られる麒麟という生き物は、王が手を伸ばせば届く絶妙な位置にぶら下げられた甘美な餌のように思える。
ひとたび喰らいつけば離れることはかなわず、王の責務を蔑ろにして耽溺すれば、忽ちそれは毒餌となる。そして最終的には王は麒麟に見放される。お前はもう王として役に立たぬ、と断罪される。その時になれば、王への思慕など儚い幻のように雲散霧消してしまうだろう。

尚隆は目を瞑って右手を握った。爪が食い込むほど強く。この手に残る感触を、早く忘れてしまいたかった。

119「二つの道」31:2018/09/12(水) 19:29:39
翌日の早朝、尚隆も玄英宮を抜け出した。
最初に向かった先は青海沿岸。尚隆は小さな湾に面した小さな街を見下ろす丘の上に立った。雨期が開けて晴れ渡った空の下、視線を巡らせて眼前に広がる景色を眺めやる。
紺碧の海に臨む丘と、湾を囲む砂浜と岩場。港の船だまりと、沖合いに浮かぶ小島。

この場所に初めて立ったのは、もうかなり昔のことになるが、この風景を目にした瞬間に尚隆の胸に込み上げて来たものを、今でも鮮明に思い出せる。それは紛うことなき郷愁だった。
似ている、と思った。最初の国を亡くしてから既に百年以上が過ぎ去っていた。少しずつ曖昧になっていくと思われた故郷の記憶が、この景色を見た瞬間、鮮烈に甦ったのだ。
尚隆はその場に立ち尽くしたまま、長い間動けなかった。
しかし尚隆は、感傷に浸るのも郷愁にふけるのも、あまり好きではない。自己憐憫に陥りそうな気がするからだ。暫くその風景を眺めやった後、海辺へ降りることなく丘の上から立ち去った。

それでも一度甦ってしまった故郷の鮮烈な記憶は、簡単には薄れなかった。十年程が経過した頃、尚隆は再びその地を訪れた。
今度は海辺まで降りて丘を仰ぎ見た。故郷では、その丘の上に屋形があったのだ。沖に視線を向けると、湾の先に小島がある。それは海賊城のあった島と似ているように思えた。
街の方を見やると、建物の形状や街並み、そこに住む人々も、何もかもが故郷とは違う。それなのに尚隆は、そこに故郷の面影を重ねた。
それから時折––––とは言っても十年か二十年に一度だが、尚隆はその風景を見に行った。無性に行きたくなる時があった。

何度目に訪れた時だったか、尚隆の脳裏にふと疑問がよぎった。
––––ここは本当に故郷と似ているのだろうか?
ただ単に、郷愁に駆られた己の心がそう思い込んでいるだけなのではないか。百年以上も昔の記憶など、脳内で改竄されていてもおかしくはないのだから。
確かめる術があるとしたら、その唯一の方法は六太を連れて来ることだった。だが、本当にそれで分かるのだろうか。六太は小松の土地のことなど、もう殆ど忘れてしまったのではないか。あの海辺の街は六太にとっては故郷でもなんでもなく、短期間身を寄せていただけだ。むしろ麒麟が厭う戦乱に巻き込まれた、忌避すべき場所かもしれないのだ。
そもそも本当に似ているかどうかを確認することに、何の意味があるのだろう。
尚隆は暫し逡巡した末に、六太を連れて来る案を自分の中で却下した。
怖かったのかもしれない。小松領の景色なんか覚えてないと言われるのも、全然似てないと言われるのも。

120「二つの道」32:2018/09/12(水) 19:31:42
それから数十年後の夏のことだった。共に玄英宮を抜け出した時、海が見たい、と六太が言い出した。
「虚海じゃなくて、内海がいい。黒海か青海」
そう言われて、尚隆は青海沿岸の小さな街を思い出す。
「––––では、青海に行くか」
尚隆が提案すると、うん、と六太は頷いて、嬉しそうに笑った。
その笑顔を目にして尚隆は決めた。あの風景を六太に見せようと。見せるだけでいい、何かを訊くのも言うのもやめておこう。

騶虞で駆けて半日、目的地の丘の上に立つと六太は歓声を上げた。
「眺めいいな、ここ。お前いい場所知ってるじゃん」
無邪気な子供のように目を輝かせて、六太はそこからの景色を見渡した。
尚隆は海を眺めるふりをしつつ、六太の表情を窺う。単に綺麗な景色を見て喜んでいるようにしか見えなかった。
「海辺まで降りようぜ」
言いながら六太は、海辺に続く道へと駆け出した。尚隆はたまの手綱を引き、その後ろに続いて下り坂を歩き出す。
ここからの景色を見ても、六太は明らかに何も感じていない。それがほんの少しだけ、寂しいような気がした。

六太の姿はすぐに見えなくなったが、何度か折れ曲がりながら浜に続く道を、尚隆は足を早めることなく歩いた。やがて潮風に向かう道の先、砂浜に佇む六太の後ろ姿が見えてくる。
尚隆が近付いて行って脇に立つと、
「……おれ、お前と一緒にここに来たことあったっけ?」
海の方を見つめながら、六太が問うてきた。
「いや……ないな」
「そうだよな……」
六太は黙り込み、顎に手を当てて考えるようにしながら、暫くの間あたりを見回していた。
やがて顎から手を離すと、
「……あの岩場で拾われて、あっちの港で釣りをして……。小舟に乗って海に出たこともあった」
指先を動かし周囲に視線を巡らせながら、六太は独り言のように呟いた。尚隆は思わず息を飲んで瞠目し、その横顔を凝視した。
「あの小島には……出城があった」
それから六太は先程いた丘を振り仰ぐ。
「ああ……そうか。あそこには屋形があったんだ」
納得したように、六太は頷いた。
「尚隆、お前さ……」
言いながら六太は振り返る。その紫色の瞳が尚隆の顔に定まったのと同時に、六太の声は途切れた。少し驚いたように六太は目を瞠り、尚隆と視線を合わせたまま口をつぐんだ。
尚隆は、自分が今どんな表情をしているのか分からなかったうえ、どんな表情を作るべきか咄嗟に判断に迷った。数瞬の沈黙の後に、ようやく笑みを浮かべることに成功する。
「なんだ」
尚隆が言うと、六太は瞬いてから視線を逸らし、海を眺めやった。
「……お前、よくここに来るのか?」
「いや……。何十年かに一度くらいだ」
「ふうん……」
六太はそれ以上、何も言わなかった。

海岸を暫く散策してから、もう一度丘に登った。西に傾いた夏の日差しがやけに眩しかった。丘の上から海を眺める少年の横顔は、先刻その場所に立った時とは違っているように思えた。
尚隆も眼下の街と海を見渡した。よく考えたら、六太は城下の漁師の家に世話になっていたのだから、屋形のあった場所からの景色など元々知らなかったのだ、と今頃になって気づいた。

121「二つの道」33:2018/09/12(水) 19:34:18
六太が一歩の距離を詰めてきたので、袖が触れ合った。丘の下から潮風が吹いてきて、金髪を隠した布の端が揺れる。
尚隆の背の真ん中あたりを軽く叩く感触があった。それはそのまま留まって、夏物の袍の薄い布地を通して六太の掌の暖かさが伝わってくる。何故だか分からないが、尚隆は笑みを誘われた。
少年の細い肩に腕を回して少しだけ引き寄せると、再び背を軽く叩かれた。
「……腹減ったな。何か奢ってやろうか?」
「––––ほう、珍しいな。いつも俺に奢れと言うくせに」
「あ、なんだよそれ。せっかく気が向いたのに、そういう言い方されると奢る気なくすなー」
ばん、と背中を強く叩かれる。
「やっぱやめた、尚隆の奢りな」
言いながら六太は尚隆から離れて、たまの手綱を手に取った。
「その代わり、お前の食いたいもんでいい」
「全然代わりになっとらんぞ」
尚隆は笑って言い返したが、奢るとか奢られるとか、そんなことはどうでも良かった。
尚隆の故郷のことを、今でも六太は詳細に覚えている。もう二百年も昔に亡くした国のことを。それがどれだけ尚隆にとって価値のあることか、おそらく六太にも分かるまい。
その丘から離れる前に、尚隆はもう一度海を振り返った。夏の日差しを受けて輝く青海は、記憶の中にある瀬戸内の海よりも美しいような気がした。


––––あの夏の日から、ずっとここには来ていなかった。あの風景を見に行きたい、とあれから一度も思わなかったから。
街はあの頃より少し大きくなった。民も増えているだろう。冬だからか、漁に出ている船はさほど多くない。
海に向かって冷たい条風が吹き抜けていく。
寒いな、と尚隆は微かに呟いた。まだ初冬なのに、やけに寒いと感じる。それはおそらく尚隆の主観に過ぎず、心理的な要因によるものだろう。

この風景に故郷の面影を重ねることは、過去に囚われることだろうか。
たとえそうだとしても、最初に託され喪った国の人々の願いと、それを返してやれなかったという悔恨の念は、これまでずっと朽ちることなく尚隆の心の奥にある。それが己を王たらしめるものであり、決して忘れてはならぬものであると、尚隆は確信している。
もう二度と自分の国を滅ぼしたくないという思いと、六太に一国を返すという約束は、尚隆の内で矛盾することなく両立していた。
だが己の奥底でいつの間にか育っていたもうひとつの想いが、それと相反する。禅譲などしたら、六太はいずれ他の誰かに跪く。ずっとそばを離れず決して背かないと忠誠を誓うのだ。それが尚隆には耐え難く、それならばいっそこの手で殺したいのだ。
六太を護り望むものを与えたいと思う一方で、己だけのものにしたいと渇望している。こんな矛盾を抱えたくはなかった。自国の民を愛するように、親が子を慈しむように、穏やかな愛情であれば良かった。
この世から自分が消え去っても六太には幸せに生きてほしいと思えたなら、迷わず禅譲を選べただろうに。
––––麒麟を手放すか、それとも殺すのか。
それは王が最期に必ずどちらかを選ばなければならぬ二つの道。その選択の権利と責任は、全て王の掌中にあるのだ。

122「二つの道」34:2018/09/12(水) 19:36:38
海辺の街には降りずに丘を後にして、尚隆は騶虞を西へと向かわせた。これから二十日ほどかけて雁の国土を一巡りするつもりだった。
例年この時期は雁の各地を見て回ることにしている。大河の下流域では雨期が終わった後も更に水嵩が増すため、氾濫の危険性が最も高い時期であった。
各地の治水は基本的に州の管轄ではあるが、複数の州に跨る大河の場合は国がある程度の調整をする必要がある。王に奏上される内容のみに基づいて判断を下すのを、尚隆は好まなかった。やはり現状を実際に見ること、民の声を直接聞くことは、尚隆にとっては不可欠だった。

今年はもう一つの目的がある。下界で碁を打つことだ。娯楽が少ない冬なので、人が集まる里に行けば暇な誰かが碁の相手になってくれるだろう。
先日帷湍に辛勝した時、碁石をひとつ掠め取っておいた。無論収集癖などではなく、碁に勝った回数を数えるためだ。
目指すところは百勝––––自他共に認めるほど碁が弱い自分が、碁石を百集められるか。同じ相手から取るのは一度に限ること、期限は治世が三百年を迎えるまで。その二つを決め事とした。
何故そんなことを始めたのか、と仮に誰かに問われたとしても、明確な返答など出来はしない。単なる気まぐれだとか、思いつきだとか答えるかもしれない。

こちらの世界を理解するため、各国の史書を読み漁った時期がある。どうやら王朝には幾つかの節目があるようだと感じたのはその時だ。それからの長い年月、傾きかけた国へ行き、死にゆく王朝を幾つも見届けて、それは概ね正しいと確信した。
最も大きな山は、治世の三百年頃に来る。
それが分かった時に抱いた率直な感想は、三百年も続けば充分だろう、というものだ。それだけ長く玉座についていれば、王もさすがに飽きるのではないか、と確たる根拠もなく考えたのだった。
あの時は遥か先の未来だった三百年が、気がつけば十数年後に迫っている。飽いたのかと問われれば、否、と答えるだろう。煩わしいことはいくらでもあるが、投げ出したいとまでは思わない。
では永遠に玉座を背負い続けるのかと問われれば、それも答えは否だった。いつか終焉が来るならば、いつどのように幕引きするか、決定権を握っているのは自分だ。だが禅譲が最善の道であると承知していても、六太を手放す決心はつきそうになかった。

そんな葛藤を裡に飼っていたからだろうか。国境の街で出会った老人の戯れ言は、妙に尚隆の心をとらえた。
––––王が禅譲するか、しないか。あんたはどっちに賭ける?
それも悪くない、と尚隆は思った。自分で決断できぬのなら、いっそのこと賭け事で決めるのも悪くない。治世が三百年を迎えるまでの十数年の間に、尚隆が百回碁に勝てたら六太を手放してやろう。
弱い相手とやれば、さすがの尚隆も勝てなくはない。要は勝てる相手と対局できるかどうか、という運次第だ。これは天を試すようなものだろうか。あるいは、愚かで子供じみた挑発か。
碁が弱い自分を勝たせてみろ、そうすれば麒麟を返してやる、と。

123書き手:2018/09/12(水) 19:38:41
今回は以上です。
これで尚隆の心情はだいたい書けたかな…
次の投下で第四話終わると思います。多分。

124名無しさん:2018/09/15(土) 17:22:52
更新ありがとうございます!( ´∀`)
尚隆らしく淡々と冷静に己の感情を見つめる姿、カッコいいです。

125書き手:2018/09/16(日) 16:07:48
ありがとうございます。カッコいいと言ってもらえてなんだかほっとしてます。
自分で書いといてなんですが、グダグダ考えずにやっちまえよ尚隆!みたいに思ったりしてたものでw
でもこの辺きちんと書かないと自分の中で納得して先に進めないので難しいです…

第三話の尚隆は感情的かつ衝動的な言動が多かったので、第四話では冷静に自分に向き合ってもらいました。
尚隆は基本的には自分をちゃんと客観視できるタイプですよね。

126名無しさん:2018/09/23(日) 11:58:12
瀬戸内の海を覚えていた六太と尚隆のやり取り、心情が動く様子に思わず涙しました
物語として盛り上がりのシーンではないのに、こういった細かい場面の描写が本当に素敵です
尚六好きで良かった

127書き手:2018/10/03(水) 22:55:08
>>126
ありがとうございます。
早く進めたいと思いつつ細かい場面も書きたくて、ちょっとしたジレンマだったんですが、そこの部分を褒めてもらえると書いて良かったと思えます。
私も尚六好きで良かった…

そして続きなんですが…
すいません、次で第四話終わると言っておきながら終わりませんでした(ー ー;)
三官吏の話をちょこっと書いてから尚隆+六太を書く予定でしたが、意外と長くなったので三官吏の話だけで切って投下します。
この三官吏は結構のんきです。

128「二つの道」35:2018/10/03(水) 22:57:36
雨期が明けるのと同時に宰輔が、翌日には王が、相次いでどこかへ出奔したものの、宰輔は十日後に、王は二十日後にそれぞれ玄英宮へと帰還した。
王が戻った頃には既に冬至が近くなり、郊祀の準備が着々と進められていた。毎年行われる王の祭礼のうち、最も重要なものが冬至の郊祀である。それからいくつかの祭礼が続くので、この時期の王宮内には浮ついた雰囲気が流れるのが毎年恒例であった。
新しい年が明け長い冬の終わりが近づいた頃、隣国の末声を鳳が鳴いた。無論それは凶事ではあったが、主従も諸官も至って冷静にその報を聞いた。麒麟が死んだ時点で王の死は必然だったのだから、今更誰ひとりとして動じるはずがなかった。

やがて凍えるような北東からの条風がやみ、雁国にようやく遅い春が訪れた。

「奴らがいなくなって今日で何日目だ?」
ある春の宵、朱衡宅にて酒杯を傾けながらそう言ったのは帷湍であった。
「十五日目かと思いますが」
朱衡が即答すると、帷湍は溜息をついた。
「まったく、毎年春になると出奔が増えるな」
「ある程度は仕方ありませんよ。人も獣も虫も春になると活動的になるものですから、王と麒麟とて例外ではないでしょう。……まあ、そうは言っても、そろそろお戻りいただきたいものですがね」
まったくだ、と頷いたのは成笙である。
「今回はどこへ行ったのやら。また柳にでも行ったのか。何を好きこのんで傾いた国を見に行くのか、全く理解できんが」
「主上の行き先は柳かもしれません。ですが台輔はおそらく別のところでしょうね」
帷湍が意外そうに朱衡の顔を見やった。
「どうしてそんなことが分かる。あいつら同じ日にいなくなったろう?」
「行方をくらましたのは同じ日ですが、一緒に出て行ったわけではないようですよ。台輔が先に出掛けたそうです」
「よく知っているな」
「それくらいの情報は集めておきませんと、あの方々の行動予測ができないでしょう」
朱衡がにっこり笑うと帷湍は渋い顔をした。
「まあ、確かにそうだな……。だがあいつらの行動を逐一調べていたら、いちいち腹が立って仕方ないだろうな。俺には不向きだ」
そうでしょうね、と朱衡は笑った。
「行動予測と言えば……。あなた方は、台輔の転変と出奔の関係に気づいてましたか?」
「……関係?」
帷湍は僅かに眉をひそめて首を捻り、成笙は無表情のまま朱衡の顔を見返した。二人とも気づいてないらしい、と察して朱衡は続ける。
「昨年の秋以降、台輔は時々転変なさるでしょう?その後、一両日中に必ず出奔するんです。しかもそういう時は、当日お帰りになることはありません」
「本当か、それは。しかし……どういう関連があるんだ?そもそも、台輔が最近時々転変するのは何故なんだ。以前は滅多に見なかったが、ここ半年ほど、月に一度くらいは見かけるぞ」
怪訝そうに帷湍が言い、成笙は無言で頷いた。抱いて当然の疑問ではあるが、朱衡にも答えが分かるはずがなく、苦笑するしかない。
「さあ……どういう関連があるのかは分かりませんが、転変の後に出奔するのは事実です。もちろん、それ以外でも出奔することは多々ありますが。––––転変なさる理由については、ご本人にお訊きください」
「理由を訊いてみたことはあるが、獣型で散歩や昼寝をするのがいいんだ、とか、そういうふざけたことしか言ってなかったぞ」
「ええ、そう仰っているのは私も聞きました。実に台輔らしい理由じゃありませんか」
朱衡は軽く笑って言ったが、帷湍は顔をしかめた。それを見やって、成笙が口を開く。
「台輔が時々転変するようになったのは、あの妙な勅命を出されて以降だろう。あれがきっかけで、獣型で過ごすのも悪くないと思ったんじゃないのか」
「そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません」
「なんだ、それは……」
朱衡の不明瞭な返答に呆れたのか、帷湍は気の抜けた声を出した。

129「二つの道」36:2018/10/03(水) 23:00:09
ともかく、と成笙は朱衡に視線を向ける。
「理由はさておき、転変は出奔の前触れというわけか」
「ええ、ここ半年に限ればそういう法則があるようです。もし出奔されたくなければ、転変後は見張りを強化することですね」
「なるほど……」
帷湍が思案顔で腕を組む。
「まあ、そういう法則があることを念頭に置いておくのは悪くないな。ここぞという時は逃がさぬように厳戒態勢を敷くことにしよう。––––あいつら、普段からあまり締め付けると反撃が強烈だからな。かと言って、ずっと緩めていては増長するし、まったく手に負えん」
嘆きつつも、帷湍は半ば諦め顔である。酒杯を煽って大きな溜息をついた。
「あの勅命騒ぎ以降は、台輔も獣型のまま外殿の外に出てはいないようだが、油断しているといつ羽目を外すか分からん。転変をやめさせるよう王に言ってみたがな、ずっと獣の姿でも俺は一向に構わん、とか暢気に笑ってたぞ、あの昏君は。……まあ、いかな台輔といえど、獣の姿で関弓に降りたりはせんだろうが」
その発言により、関弓の街を駆け回る神獣の姿が脳裏に思い浮かんで、朱衡は戦慄を覚えた。そんなことになれば、天地を揺るがす大騒動であろう。おそらく六太もそんなふうに騒ぎになることを基本的には望んでないだろうが、場合によっては、帷端たちに対する嫌がらせのため敢えてそうする可能性は否定できない。だが断じてそんなことをさせてはならない。
「そうなる前に禁軍の総力を挙げて阻止する」
断固たる決意を込めて宣言する成笙に、頼もしげな眼差しを向けて朱衡と帷湍は頷いた。

三人の間に沈黙が降りて、酒杯を傾けながら各々思案にふける。
庭院の向こうに寄せて返す波音を聞きながら、朱衡は傾いた弦月を眺めやった。
六太が時折転変するようになったのは何故なのか、改めて考えてみても理由が思い当たらない。成笙が言うように、単に獣型で過ごすのが気に入っただけかもしれない。だが朱衡は、そんな単純なことではない気がしている。根本的な原因を辿れば、明確な因果関係は分からずとも、全ての発端はあの喧嘩にあるのではないかと思う。
もうひとつ朱衡の頭の片隅に引っかかっているのは碁だ。因果関係でいえば更に希薄だろうが、ごく短期間ではあるが尚隆が連日碁を打っていたのも、あの喧嘩の少し後だ。あれには何か意味があったのだろうか。

「……そう言えば昨年の秋、主上は連日碁を打ってましたが、近頃見かけませんね」
頬杖をついていた帷湍が心持ち顔を上げて朱衡を見返す。
「確かに俺も見てないな。あの時だけだ。––––あれも何だったんだろうな。期間としては半月くらいか。毎日打っていたが、ぱったり打たなくなったな」
「帷湍に勝って気が済んだんじゃないか」
冷ややかに言う成笙を、帷湍は睨みつけた。だが反駁する言葉は出てこないようで、朱衡は思わず笑う。
「台輔も同じように仰ってましたね。まあ、おそらくその通りなんでしょう。––––主上は台輔に勝つつもりで打ち始めたようですが、結局勝てませんでしたから」
「台輔に勝つ気でいたのか」
成笙の声音に驚きの色が含まれている。いつも淡々と話す成笙にしては珍しいことだった。
「百局打っても百敗だろう。腕前に差がありすぎる」
「でしょうねえ……」
朱衡は心底同意したが、帷湍は憮然と黙り込んでいる。それほどまでに弱い王に負けてしまった悔しさを思い出したのだろう。
「主上に負けたのが悔しいのでしたら、成笙に鍛えてもらったらいかがですか」
半分冗談で朱衡が言ってみると、意外にも成笙のほうが乗り気になったようだった。
「そうだな、あの王に負けるようでは恥だと思ったほうがいい。では今から打つか」
話が思わぬ方向へ急展開して、帷湍はあからさまに狼狽した様子で首と手を同時に振った。
「いや、今はいい。酒が入ってるし、まともに打てるとは思えん」
「素面でもまともに打てん奴が何を言う」
帷湍の下手な言い訳は、成笙にばっさりと切って捨てられた。かなりきつい言われようだが、返す言葉もない帷湍である。
「それでは碁盤を準備いたしましょう」
笑って朱衡は立ち上がった。

130「二つの道」37:2018/10/03(水) 23:02:21
それから碁盤と碁石が卓上に準備され、それを挟んで成笙と帷湍は向かい合った。朱衡は酒杯を片手に二人が打つのを傍らで見物しながら、時折口を挟んだ。
成笙による碁の指導は厳しいうえ、帷湍はどう贔屓目に見ても優秀な生徒ではなかった。
こう打ったほうがいい、と成笙に言われれば帷湍はなるほど、と素直に頷くのだが、暫くして同じような局面になっても相も変わらず悪手を打つ。
「この手はなんだ。こういう局面ではここに打て、とさっき言ったろうが」
「あ、ああ……。そうか……よく見たら、さっきと同じような局面だな」
「気づかなかったのか?常に盤面全体をよく見ろ」
「いや、見ているつもりなんだがな……」
「俺は敢えて同じような局面を作っているんだぞ。ちゃんと学び取れ」
「ああ……そうなのか。いや、それは、その……すまん」
成笙の容赦ない指導に、帷湍はしどろもどろである。
最初は笑って見ていた朱衡だが、帷湍が次第に意気消沈していくので、さすがに少し可哀想になってきた。
「もう夜も更けましたし、そろそろお開きにしましょうか」
朱衡が言うと、帷湍はあからさまにほっとした表情を浮かべた。
「そうだな、これ以上遅くなると明日に差し支える」
帷湍の声が若干弾んでいたのに成笙は気づいたのかどうか、眉ひとつ動かさずに淡々とした声を出した。
「––––分かった。今日のところはこれで終わりだ」
今日のところは、とはいったいどういう意味か、という愚問は、とりあえず朱衡も帷湍も口には出さなかった。

その夜はそのまま解散したものの、どうやら成笙は帷湍を鍛えることを決意したらしい。翌日以降、成笙は暇を見つけては帷湍を捕まえ、毎日のように碁を打つようになったのである。
その他には例年と変わったことも特になく、ごく平穏に春は過ぎ去っていった。

初夏のある日の昼下がり、朱衡が帷湍を訪ねると、またしても成笙と碁盤を挟んで向かい合っていた。その近くにある腰高窓の窓枠には金髪の少年が腰掛けて、その様子を見物している。
朱衡が歩み寄って行くと、六太の呆れ声が聞こえた。
「だからさー、なんでそんな見え透いた手に引っ掛かるんだよ。どういう魂胆か分かるだろ?そこは気にせずこっちに打てばいいんだよ」
「ああ……そうか。いやしかし……」
「お前、本当に主上に勝つ気があるのか?この前も言ったろう、奴はこういう奇手で翻弄しようとしてくるが、そんな思惑に付き合ってやる必要はないんだ」
「そうそう、尚隆はとんでもない手を打ってくるけど、ただ単にとんでもないだけの手しか打てねーから。惑わされずに定石通りに進めれば絶対勝てる」
「いや、そうは言ってもだな……」
将軍と宰輔から助言を受ける帷湍の顔には、これっぽっちも覇気がない。二人の助言をありがたく思う心の余裕は、もはや一欠片も残っていないようだった。
朱衡が三人の傍らまで行くと、帷湍が情けない顔で見上げてきた。つい苦笑を漏らして、
「あまり根を詰めても仕方ないでしょう。お茶が冷めてますよ。せっかく淹れてもらったのですから、飲みながら一息ついたらいかがですか」
卓に置かれた二つの湯呑みには全く手がつけられないまま、淹れられた茶が冷めていた。ちなみに宰輔だけは茶を全部飲み、茶菓子まで召し上がっていたようである。
朱衡の提案に対する心からの賛意を示すように、帷湍は大げさに頷いた。一方の成笙は軽く息を吐いてから、
「いや、俺はもう戻らねばならん」
と言って、湯呑みを手に取ると一気に飲み干し、それを卓に置きながら立ち上がった。
「明日また同じ過ちを繰り返したら承知せんぞ」
帷湍を見据え至って冷静な口調でそう言うと、成笙は颯爽と立ち去って行った。

131「二つの道」38:2018/10/03(水) 23:04:44
成笙の姿が見えなくなると、帷湍は全身で息を吐き出して椅子の背に凭れかかった。
「……なんだか大変そうですねえ」
朱衡が苦笑すると、帷湍に恨みがましい目つきで睨まれた。
「元はと言えば、お前のせいだろうが。成笙に鍛えてもらえ、などと無責任な提案しおって」
「冗談のつもりだっだんですが、思いのほかやる気になってしまいましたね。––––まあ、成笙にこれだけ毎日打ってもらえば、あなたも少しは強くなったんじゃありませんか?」
「どうだかな」
憮然とする帷湍を見て、六太が笑った。
「いま見てた感じじゃ、ぜーんぜん、変わってなさそうだったけど」
「それはそれは、お気の毒に」
「誰がお気の毒だ」
「そりゃあ、気の毒なのは成笙だろ。せっかく教えてんのに帷湍が全然上達しないんだから」
「そうですね、本当にその通りだと思います」
朱衡はにっこり笑う。あのな、と帷湍は不満げに言いかけてから、大きな溜息をついた。
「いや……もういい。言い返す気力もない」
肩を落とす帷湍を、六太が面白そうな表情で見やる。
「だいぶ参ってんなあ」
「毎日毎日休憩時間になると成笙がやってきて碁を打つんだぞ。そのうえ近頃では夢の中にまで碁盤や碁石が出てくるんだからな、全く休んだ気がせん」
ぼやく帷湍は、確かにどことなくやつれている。
「ま、人には向き不向きがあるからな。尚隆に負けるほど碁が弱いなんて恥ずかしいけど、仕方ねえよ。別に負けてもいいじゃん、どうせ滅多に打たないんだし」
慰めているのか貶しているのか、六太はそう言って帷湍の肩を叩いた。
「確かに、主上と打つ機会はそうそうないでしょう。––––台輔は昨年の秋より後、主上と打たれましたか?」
「いや、打ってない。誰かと打ってるのも見ないし、あの一時期だけだな」
「何だったのでしょうね、あの頃の妙なやる気は」
「さあな。––––ま、気にすんな。あいつのやることなすこと理由をいちいち気にしてたら身が持たねえぞ」
「お気遣いなく。さして気にしておりませんので」
「あ、やっぱり?」
六太は軽い笑い声をたて、ひょいと窓枠から飛び降りた。湯呑みを片手に悄然としている帷湍の顔を覗き込むようにして、
「さっき成笙に教わったこと、ちゃんと復習しとけよ。忘れてたら明日こそ切れられるかもしんないぜ?」
と言い、六太は意地悪げな笑みを浮かべた。
「分かっとるわ、それくらい」
不機嫌そうに帷湍が言うのを笑って、六太は踵を返した。
「広徳殿に戻られるのですか」
「え? ––––んーと、まぁ……そうかもな」
六太は曖昧な笑みを浮かべて曖昧な返答をしながら手を振ると、軽い足取りで部屋から出て行った。
少年の後ろ姿を見送っていた帷湍が、軽く溜息をついた。
「……ありゃ絶対に関弓に降りる気だろう」
「でしょうね」
「いいのか?」
「まあいいんじゃないですか、少しくらい。州候の政務が滞って困っているという話は聞こえてきませんし」
そう言ってから、朱衡は帷湍に視線を移した。
「あなたこそ、いいんですか?出奔を止めようと躍起になっていたのは、私よりも帷湍のほうだったでしょう」
「もう諦めた。いちいちあいつらに構ってられん」
疲労の色が滲んだ帷湍の声音に、朱衡はくすりと笑った。
確かに近頃では、ここぞという時こそ主従の出奔を阻止するが、普段は殆ど見逃している。放し飼いの家畜のようなものかもしれない。王はここ数日行方が知れないが、そろそろ戻ってくるはずだ、となんとなく予想がつく。
長い年月をかけて、ようやく折り合いがついてきたと言えるだろう。


成笙による帷湍の碁の特訓は、暫くの間続いた。しかし夏の終わりが近づいた頃、特訓の日々も突如として終わりを迎えた。
具体的にどんなやり取りがあって終局に至ったのか、朱衡が何を訊ねても頑として口を割らなかった二人だが、
「金輪際、成笙とは打たん」と帷湍は言い、
「あんなに教え甲斐のない奴は初めてだ」と成笙は言った。

「帷湍が我慢の限界で切れたんじゃねぇの」
「私もそう思います。成笙のほうがずっと忍耐強いですからね。……まあ、二人が口を割らないので追及はいたしませんが」
「けど、よく何ヶ月も続いたよな」
「ええ、むしろここまで続いたこと自体に驚嘆いたしました」
部外者二人は完全な他人事として面白がり、そんな噂話をしたものである。

そういった些細な悶着があったものの、夏も概ね平穏に過ぎ去って、雁州国にまた秋が巡ってきた。

132名無しさん:2018/10/06(土) 13:17:55
更新ありがとうございます!この先の予想が全然つかないのですが楽しみに見守っています!^^

133名無しさん:2018/10/30(火) 04:34:04
どんなやり取りがあって、スパルタ碁教室は終わったのだろ?
わくわくするなあ!

134「二つの道」39:2018/12/14(金) 21:11:29
雲ひとつない秋の蒼穹の下、緑の山々に囲まれた広い平野は一面が鮮やかな黄金色に色づいている。吹き渡る風に波打つさまは、陽光を弾いて輝く大海原のようだった。
六太は中空を飛翔する騶虞の鞍上から、収穫目前の農地を眼下に見渡していた。感嘆の溜息に続いて口元には笑みが零れる。この時季にだけ見られる特別な色彩。どんなに高価な絹織物も、どれほど希少な宝玉も、この風景の美しさと貴重さには遠く及ばないと六太は思う。
玄英宮を出奔してから今日で五日目。国土の各地に拡がる黄金色の田畑を六太は見て回っていた。雁全域において今年も穀物は概ね豊作であり、既に刈り入れが始まっている地域もある。内陸部から始まる雨期は、あと半月ほど先だろう。


四日前の早朝に六太はひとりで王宮を抜け出して、騶虞のとらに騎乗して南へと進路を取った。どこにも目的地はなく、ただ関弓から遠くへ行きたかった。尚隆のいる玄英宮から離れたかったのだ。
薄明の空にとらを飛翔させながら、六太は少しだけ唇を歪めて自分を笑った。––––こうなることは分かっていたのに、と。
尚隆に撫でてもらいたくて転変したのは、昨年の雨期が明ける間際が初めてだったが、あれから六太は何度も同じことを繰り返しているのだ。
相変わらず尚隆は、六太が人型の時には全く触れてこない。だが獣の姿で近くに寄ればいつも手を伸ばしてくる。ごく自然に、当たり前のように。
そうやって撫でられた後は、何故だかいつも無性に寂しくなる。それが分かっているのに時折転変してしまうのは、獣の姿で撫でてもらうのが嬉しいからという単純な動機だ。
その一方で、人としての感覚はそこまで単純ではない。意識的に考えたことはこれまでなかったが、人の姿で頭を撫でられた時は単に嬉しいだけではなく、もう少し複雑で微妙なものを感じていたように思う。言葉でそれを的確に表現するのは難しいけれど。ひょっとしたら、成獣のくせに子供扱いされている、と気恥ずかしく感じていたのだろうか。
王の手の感触が嬉しくて、時折それが欲しくなるのは、麒麟という獣の性なのか。寂しいと感じるのは、六太の中にある人としての感情なのか。
二つの感覚がせめぎ合って心が混沌として、自分の本当の感情はいったいどちらなのか分からなくなる。嬉しいのに寂しいなんて。人と獣とで感じ方が少し違うのは、昔から自覚していたけれど、ここまで乖離してはいなかったはずなのに。

鬱々と考えながら、六太はとらの鞍上で俯いて小さな溜息をこぼした。
何度同じことを繰り返すのだろう。どうしたら尚隆は、以前と同じようにしてくれるのだろう。もしあの日のことが原因なら、六太が忘れたふりを続けていれば、そのうち尚隆も気にしなくなるのだろうか。
転変して自分から近寄って行くくせに、その後はいつも感情が落ち着かなくて、尚隆から離れたくなってしまう。そしてひとりで出奔するのだ。
下界に降りて数日間、王の気配から遠く離れて雁の風景を見て回るうちに、人と獣と、乖離した二つの感覚の境界は次第に曖昧になっていき、どうにか折り合いがつくようになるのだった。

六太は玄英宮から出奔して五日間、緑に覆われた山を越えて黄金色の田畑の上を飛び、刈り入れの準備で忙しく働く民の様子を見た。これまで幾度となくそうしてきたように。そして六太は雁が豊かで平和な国であることを実感し、これが自分の望んでいたものなんだ、と心の底から思うのだ。
––––この豊かな国がずっと続くこと。麒麟にとって、それ以上の幸福はないはずなのに。六太個人の、悩みとも言えないような些細な不満など、取るに足りないことなのに。
王宮から抜け出した日には混沌に支配されていた六太の心は、五日経ってようやく平穏を取り戻していた。

135「二つの道」40:2018/12/14(金) 21:17:21
とらを飛翔させ、六太は北へと向かっていく。目の前に連なる山脈を越えれば、蒼天を貫く関弓山が見えてくるはずだ。王気は前方から感じられるが、玄英宮にいるのか街にいるのか、ここからでは判断できない。
王の気配に近付くにつれて、徐々に心が高揚していくのを六太は自覚する。麒麟の本能なのだろう、今は尚隆に会いたかった。早くそばに行って声を聞きたかった。

一路北へと飛行すると、やがて視線の先に関弓山の姿がはっきりと見えてくる。この距離からは、王気は山頂ではなく麓の街にあることが分かった。
既に太陽は西に傾いて、進行方向の左から斜めに差している。秋の日は落ちるのが早いが、駿足の騶虞なら日没の閉門前には街に着くはずだ。

それから半刻ほど経過した頃、六太は関弓の街にいた。とらは街に入る前に外に放してきた。
王気を辿り、六太は広い通りを歩いていく。大勢の人々が行き交う夕刻の街は喧騒で溢れかえっている。関弓は活気があって騒々しい。その雰囲気が六太は好きだった。
軽快な足取りで、人の波間を縫うように六太は進む。尚隆の気配はもうすぐ近くにある。もし花街にいるならもちろん引き返すつもりだったけれど、今は商店の並ぶ街路のあたりにいるようだった。
自然と早まる足を抑えながら四辻を曲がる。その先が明るい気がするのは、六太だけが感じる光があるからだ。その光源に近付いていく。食堂の建物前に小さな人だかりが見えた。あの中にいる。
六太は人垣のそばに寄って人と人との間から覗き込み、そこに探していた姿を見つけた。尚隆は卓を挟んで年配の男と対面に座り、碁を打っていた。
珍しいな、と六太は驚いた。王宮では尚隆が碁を打つのを近頃全く見なかったが、こんなところで打っているなんて。
盤面を見てみると、もう終盤だった。尚隆の黒石は珍しくも優勢のようだ。
後ろから軽く肩を叩かれて六太は振り返る。中年の男が笑顔を向けてきた。ここの食堂の店主だった。
「久しぶりだな。碁を打ちに来たのかい?」
この店主は碁が好きで、誰でも打てるように店先に碁盤を置いているのだ。六太も以前ここで打ったことがあり、見た目が子供の割に強いせいか、すぐに顔を覚えられてしまった。
「いや、打ちに来たわけじゃなくて……。あいつ、知り合いなんだ」
言って六太は尚隆のほうをちらりと見やる。
「ああ、風漢か?––––今日は珍しく勝ちそうだな」
店主の男も尚隆を見やって、軽く笑った。その口振りから、尚隆がここで打つのは初めてではないのだと六太は察する。
「あいつ、よくここで打ってんの?」
「よく、という程ではないな。今年の春先に初めて来て、それから時々来るな。しかし一度も勝つのを見たことがない」
それから店主は少しかがんで、六太の耳の近くで笑い含みの小声を出した。
「相手の爺さんは常連なんだが、下手の横好きでな。あの二人はこれまで何度もいい勝負をしてきたが、爺さんの連勝だったんだ」
「へえ。––––風漢といい勝負なんて、よっぽどだな」
六太も小声で言って、忍び笑いをもらした。

そうこうするうちに相手の老爺はついに投了し、尚隆は好敵手から初めての勝利をもぎ取った。周りを囲んでいた数人が、よく勝てたな、とか、やっと初勝利か、とか、揶揄するように言葉をかける。
六太の脇に立っていた店主が前に出て、尚隆に初勝利おめでとうと言ってから、
「もう碁の時間は終了だ。片付けてくれ」
と対局していた二人に向かって言った。
夕刻は食堂のかき入れ時なので、碁盤に占領されている卓を食事に来た客に明け渡さねばならない。
尚隆と老爺は店主に頷き碁石を片付けていく。六太はそれをじっと見ていた。斜め後ろの少し離れた場所に六太は立っていたため、尚隆の視界には入っていないようで、彼は六太に気づいた様子はない。一方で、こちらからは尚隆の手元が見通せた。
––––だから六太には見えたのだ。尚隆が碁石をひとつ掠め取り、袖の中に隠すのを。
なんでそんなことを、と六太は軽く眉をひそめたが、その場では何も言わずにただ尚隆の手の動きを見ていた。
碁盤上に碁石の収まった碁笥を二つ載せると、店主はそれを持って店の奥へ戻って行った。尚隆は立ち上がりながら、袖に隠していた碁石を懐に移した。それは何気ない動作で、ずっと注視していた六太以外は、何をしているか分からなかっただろう。
立ち上がった尚隆が振り返り、六太に視線を止めた。

136「二つの道」41:2018/12/14(金) 21:23:32
尚隆が振り返ると、思いがけずそこに六太が立っていた。もの問いたげな視線をまっすぐこちらに向けている。一拍だけだが、柄にもなく鼓動が跳ねた。見られた、と思った。
しかし見られたところで、その意味までは分からないだろう。別段不都合があるわけでもない。次の瞬間にはそう思い直し、尚隆は笑みを作ってみせた。
すると六太は安堵したように表情を緩めて、
「珍しく勝ったんだな」
と、からかうように言った。
「ああ、珍しくな」
尚隆は笑って、六太の脇を抜けて歩き出した。六太もすぐに体の向きを変えてついてくる。小走りに隣まで来て、尚隆を見上げた。
「店の主人から聞いたけどさ、お前、時々ここで打ってるんだろ?」
周囲の喧騒のせいで声が届きにいからだろう、六太は距離を詰めて話しかけてくる。近すぎる、と尚隆は思った。
王宮にいる時はもっと距離があっても声は聞こえるし、ここ一年、六太と共に下界へ降りたことはない。だから近頃はこんなに近い距離では話すことがなかった。もちろん、この騒々しい場所で話すならこれくらい近付くのが自然なのだと、尚隆とて頭では理解している。
だが尚隆は普段意図的に距離を取るようにしているのだ。それなのに能天気に近付いてくる六太に対し、人の気も知らずに無神経な奴だ、と若干の苛立ちを感じる。無論この理不尽で一方的な苛立ちは、完全なる八つ当たりに過ぎないが。

四日前に六太は玄英宮から姿を消した。例年通り、雁各地で収穫目前の田畑を見て回ったのだろう。
麒麟は王の気配を感じ取れるから、六太は当然ここに尚隆がいると分かって来たはずだ。騶虞に騎乗していたのなら、そのまま飛んで目の前にある王宮に帰るほうが早いのに、そうせずにわざわざ街へ降りたのだ。––––尚隆に会うために、だろうか。

「まあな」
六太のほうを敢えて見ずに、尚隆は答えた。
「お前も碁の特訓か?」
「特訓にならんよ。あの爺さん相手ではな」
「だよなぁ。特訓するつもりなら、成笙にしてもらうのが一番だろ。帷湍みたいに」
そう言って六太は軽い笑い声をたてた。

今年の春から夏にかけて、成笙が帷湍に碁の特訓を施してたことは、もちろん尚隆も知っている。「あの王に負けるのは恥だと思え」と成笙は言ったらしいが、それに対して反論しようとは全く思わなかったし、帷湍が強くなろうが弱いままだろうが、どちらでも構わなかった。既に一度勝利して碁石を取ったのだから。

「帷湍は特訓の甲斐が全然なかったけど、尚隆だったらどうだろうな。やっぱり似たようなもんかな?」
「だろうな。まあ、そもそも碁の特訓なんぞやる気もないが」
「あー、またそういうこと言う。だから長生きしてんのに弱いままなんだよ」
「俺が今更努力して強くなると思うか?」
「え?……うーん、まあ、本気でやれば……ちょっとは強くなるんじゃねえの?」
「ちょっとか」
「うん、ほんのちょっと」
心なしか弾んだ六太の声は、周囲の雑音を押しのけて尚隆の耳に飛び込んでくる。聞き慣れた声だからか、それとも別の理由によるものか、その声は喧騒に紛れることがなかった。
人通りの多い街路を二人並んで歩きながら、他愛ない会話が続いていく。六太はいま笑顔だろう。見なくとも声音で分かる。だから尚隆は、六太の顔を見なかった。

「あのさ、尚隆」
広途に出たあたりで、六太に名を呼ばれた。
「なんだ」
尚隆が応じると、ためらうように間が空いてから、六太は少し声を低めて問うてきた。
「さっき……なんで、碁石取ったんだ?」
やはり見ていたか、と思う。問われたこと自体に動揺はない。むしろ見られたとはっきり分かったほうがいい。
「碁に勝った記念だ。滅多に勝てんからな」
尚隆は前を向いて歩きながら返答した。
「そりゃお前弱いから、滅多に勝てないってのはその通りだけどさ。……これまでも、ずっと取ってたのか?」
「ずっとではないな。これで七つか八つか、それくらいだ」
「どうしてそんなこと始めたんだよ」
「ただの気まぐれだが。––––理由が必要か?」
「別にそんなの必要ないけど。……去年の秋、おれと何回も打ったじゃん。あれは、おれから取ろうと思ったからか?」
「まあ、そういうことだ。記念すべき最初のひとつは、六太から取ろうと思ってな。だが全く勝てんから諦めた。––––帷湍が最初だな」
「ふうん……」
尚隆のいい加減な説明に納得したのかどうか、六太はそれだけ呟いて、少しの間黙り込んだ。

137「二つの道」42:2018/12/14(金) 21:28:26
六太の沈黙は、さして長くはなかった。
「……お前、いつから下に降りてんの?」
「一昨日だが」
「関弓で遊んでただけか?」
「まあ、そうだな」
「おれは南の国境近くまで行ってきたんだ」
「ほう」
それから六太は、ここ数日見て回った雁南部の様子を話し始めた。田畑は見事な黄金色で、今年の穀物も豊作だった、と六太は嬉しそうな声で言う。民意の具現たる麒麟のそれは、五穀豊穣を喜ぶ民の声だろうか。

民意を体現しているのか、天意を受けているのか、それとも六太個人の意思なのか。六太の言動がどれに起因しているのか、尚隆にはいつも判断がつかない。しかし本来そこには区別などないのだろう。麒麟はそういう生き物だ。
六太が笑顔を向けてくるたび、慕う態度を見せるたび、所詮これは天与の本能に過ぎないと自分に言い聞かせる。詮無いことを考えるくらいなら、六太の意思など一切ないと断じてしまえばいいのだ。

適当に相槌を打ちながら、視線を前だけに向けて尚隆は足を進める。六太がついてきた瞬間から目的地は決めていたが、本心では別段そこに行きたくはなかった。
「なあ、尚隆––––」
呼びかける声と同時に、左腕に軽い抵抗を感じた。六太の手が尚隆の左袖を引っ張ったのだ。
視線を僅かに動かして、尚隆はその手を見る。少年らしい華奢な手だ。自分はそれを振り払いたいのか、捕まえたいのか。一瞬、二つの衝動が尚隆の内で錯綜した。
だがどちらの行動も取るべきではないと心得ていた。だから尚隆は、左手を強く握って動かさぬよう制御しながら立ち止まり、六太に向き直った。
六太も立ち止まり、尚隆の袖から手を離して驚いたような表情で見上げてくる。
「六太」
名を呼ぶと、六太は瞬いて小首を傾げる。尚隆は意識的に薄く笑んだ。
「どこまで付いてくるつもりだ」
「––––どこまで?」
言ってから六太は周囲を見回した。緑色の柱の楼が立ち並ぶ通りと交叉する角に、二人は立っている。その事実にたったいま気がついた、という様子で花街の方向を見つめてから、六太は皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「あー……お前、ここに用があるんだ」
「もし一緒に行きたいなら、お前も連れて行ってやってもいいが」
「冗談じゃない、誰が行くか」
軽く睨まれて、尚隆は笑った。
「なんだ、行かんのか?」
「行くわけないだろうが。……だいたいさ、お前は女と約束あるんじゃねえの?ひとりで行けよ、莫迦」
六太はそっぽを向いた。あからさまに機嫌が悪そうな横顔。もちろん尚隆は、六太が機嫌を損ねると分かって言っている。
「約束などない」
「へえ……」
「だが約束はなくとも、遊んでくれる女はいくらでもいる」
「あー、そう……」
おざなりに六太は言って軽く息を吐き出すと、片頬だけで笑った。
「……ほんと、お前って節操ないのな。女なら誰でもいいのかよ」
「まあ、概ねその通りだが、誰でもいいというわけでもない。いくら無節操な俺でも相手に求める条件はある」
へえ、とだけ六太は呟いた。
「条件は二つだな。俺の素性を知らぬこと、後腐れがないこと。––––それだけだ」
敢えて軽口のように尚隆が言うと、一呼吸の間を置いてから、六太は背けていた顔をこちらに向けた。少年の両眼が尚隆の顔をまっすぐ見つめた。笑うでも怒るでもなく、意外なほど真剣な表情で、ただ尚隆に向けられた紫色の瞳。それは言葉の真意を探る眼差しのように感じられた。自分の中に見透かされたくないものがあるから、そう思っただけかもしれない。
––––何故そんな顔をする。どうせなら、呆れたように軽蔑したように、罵倒されたほうが余程気が楽なのに。
尚隆は表情を消して、ただ六太を見返した。
やがて六太は視線を逸らすと、僅かに口元を歪めて皮肉げに微笑んだ。
「……やっぱり最低だな、お前」
低く言って、六太は尚隆に背を向けた。
「じゃあ適当に楽しんでこいよ。––––後腐れない女と」
六太は軽く手を上げて歩き出した。

少年の小柄な後ろ姿が、少しずつ街路を遠ざかる。一歩ごとに二人の距離は広がっていく。俯きもせず走り出しもせず、いつも通りの歩調で小さくなっていく姿。六太はいま、どんな表情をしているのだろうか。

その姿が見えなくなる前に、尚隆は視線を引き剥がして逆方向に顔を向けた。
––––本当に最低な男だ。ひどく幼稚で、そのうえ卑怯だ。
自嘲を込めた独白と共に尚隆は歩き出す。もう二度と街で六太に会いたくないと思った。

138「二つの道」43/E:2018/12/14(金) 21:31:41
顔を上げ、前だけを見て、六太は努めて普通の足取りで歩き、尚隆との距離を広げていった。はたから見たら平静に歩いているように見えるだろうか。だが六太の内側には、全力で走り出したいような、その場にしゃがみ込みたいような、相反する衝動が同時に湧き上がっていて、ただその中間の行動を取ったに過ぎなかった。

どうして尚隆はあんなことを言ったのだろう。尚隆がどんな女と遊んでいるかなんて、相手に求める条件なんて、聞きたくなかった。そもそも六太には全く関係ないことなのに。別にそんなのどうだっていいから、何も言わずに勝手にすればいいのに。
考えてみれば、尚隆が女遊びのことを具体的に六太に話したことは今まで殆どなかった。妓楼に行っていることを隠そうともしなかったが、六太が女遊びを揶揄すると、否定はせずにただ笑うだけだった。
これまでと同じように、ただ笑って花街に消えて行ってくれたら、自分は何も感じなかったのだろうか。こんなふうに息苦しさを感じずにいられただろうか。

尚隆について行ったこと自体を六太は後悔していた。何故ついて行ってしまったんだろう。夕餉を奢ってやる、と言われることを期待していたのだろうか––––以前よくあったように。

この一年、尚隆と六太の間には微妙な距離が空いている。尚隆は相変わらず六太に触れてこないし、一緒に出奔することもない。だが仕事をする上での問題は何ひとつないし、政務とは関係ない無駄話もたくさんする。だから周囲からは何の変化もないように見えるだろう。
きっとこの「些細な状況の変化」は一過性のものだろう、と六太は思っていた。
いや––––違う。思っていたのではなく、思い込もうとしていたんだ。
六太が以前と同じように振る舞っていれば、そのうち尚隆も以前のようにしてくれる、と楽観的な予測をしたかったのだ。
そこまで考えたところで、はっとした。
––––以前のように、とは具体的にはどういうことだろう?
一緒に下界に出掛けたいのか、頭を撫でてもらいたいのか、それとも二人きりでささやかに晩酌をしたいのか。
おそらく全部当てはまる。しかしそれらは「王と麒麟」という主従関係において、果たして必要なことだろうか?答えは、考えるまでもなかった。
「……そうか」
六太は俯いてぽつりと独りごちた。
自分達の関係は、結局のところ主君と臣下に過ぎないのに、それ以上の何かを無意識に求めていたんだ、とようやく気がついたのだ。

互いにひとりでいる時に街で顔を合わせれば、大抵尚隆は昼餉か夕餉を六太に奢ってくれた。本当はどこかに––––妓楼や賭場に遊びに行くつもりだったのかもしれないが、そういうことは一切言わず、六太に付き合ってくれた。
だから、自分は優先されている、と思い上がっていたのだろうか。今日も自分を優先してくれるはずだ、と思ったのだろうか。

さっきの尚隆の言葉の真意は、平たく言えば「ついてくるな」ということだ。六太が妓楼に一緒に行くはずがないのに、連れて行ってやると言ったのは、ただの嫌がらせだろう。あるいは、からかわれたのか。六太はいつまでも子供のままで、妓楼での遊びなんて永遠に縁がないから。
尚隆との間に、明確な境界線を引かれたような気がした。お前には関係ないからこっちに入ってくるな、と。
花街の入り口につくまでの間、尚隆は話に付き合ってくれたけれど、隣を歩く六太のほうを一度も見てくれなかった。鬱陶しかったのかもしれない。妓楼に行こうとしているところに纏わり付かれたら、そう思うのは当然だろう。
そういうことなら、尚隆の望み通り六太から近付くのはもうやめる。街で王気を感じても、今後は一切近付かない。
王宮の中だけでもそばにいられたら、それで十分だから。

気がつけば六太の歩みはのろのろと遅くなっていた。
何故だろうか、瞼が熱くて喉が塞がったように苦しい。込み上げるものをこらえて拳を握りしめ、六太は再び顔を上げて歩調を早めた。 広途から小路に入り、騎獣の待つ街の隔壁の方へ向かう。
行く先から秋の柔らかい風が吹いてくる。それに乗って六太の鼻腔に届いたのは、ほのかに甘い花の香り。思わず六太は息を止めて立ち竦んだ。
玄英宮の断崖の岩棚で、あの日咲いていた丹桂の花だ。あの時と同じ甘い香りが記憶を刺激する。忘れたいのに何度も鮮明に思い出す、尚隆の抱擁する腕の強さ、唇と舌の生々しい感触。
たまらず六太は踵を返して走り出した。甘い香りを振り払うように––––あの日の記憶から逃れるように。

第四話「二つの道」終わり

139書き手:2018/12/14(金) 21:33:46
前回の投下からだいぶ空いてしまいましたが、ようやく第四話終了です。
この話書き始めてからもう一年も経ってしまいました。最初は勢いに任せて書けたんですが、長くなるとなかなか同じテンションでは書き続けられませんね(-_-;)
更新の間隔が不定期で、すみません。マイペースですが最後(初夜)まで頑張りたいです。

来年ついに新作出るみたいですね!めっちゃ楽しみです♪( ´▽`)
無事に戴の主従が再会できますように!

140名無しさん:2018/12/15(土) 23:23:05
更新ありがとうございます!
普段元気な六太が健気に寂しさを紛らわせているさまは彼の幼少期を思い起こさせて切なくなりますが
約束された初夜と200年後の彼らを思えばおいしいですw
新作嬉しいですね!発売の日を楽しみにしながら、こちらの次章もまったりお待ちしています!

141sage:2018/12/16(日) 17:40:54
私からも更新ありがとうございます!
健気なろくたんをなぐさめてあげたくて仕方がありませんでした。でもろくたんに必要なのは私のではなく尚隆の慰めなので、私はおとなしく姐さんがお書きになる続きを待っています。無理せず頑張ってください。

142名無しさん:2019/01/08(火) 20:36:37
更新ありがとうございます!十二国記も風が吹いて今年は楽しみですね!
更新も続けて楽しみにお待ちしております♡
自覚した六太と尚隆、悶える様子がそれぞれ魅力的でした。

143書き手:2019/02/14(木) 20:32:22
また二ヶ月あいてしまいましたが、ようやく第五話書き始めましたので少しだけ投下します。冒頭部分どうやって書き出すか、いつもなかなか決まらず時間がかかります…(ー ー;)
一悶着あってから第五話の最後にはくっつける予定なので、気長にお待ちくださると幸いです。

144「幾星霜を経て」1:2019/02/14(木) 20:34:56
第五話「幾星霜を経て」

その数が五十を超えた頃からだったろうか。
碁石を一つ集めるたびに雁の終焉の夢を見た。状況はその都度異なっているのだが、六太はいつも同じ台詞を言う。
––––もうやめてくれ、尚隆。
苦しげな眼差しで哀願する病み衰えた麒麟を見ると、尚隆は妙な満足感を覚える。六太の命を握っているのは自分なのだという事実が、尚隆を高揚させるのだ。
もっと苦しませて死なせようか、それともひと思いに首を刎ねてやろうか。
そう考えながら薄笑いを浮かべる己自身に、次の瞬間耐えがたい憎悪が湧く。
––––俺はこの世界で何のために生きてきた。任せておけと言ったのは誰だ。この麒麟に一国を返すと約束したのではなかったか。
目覚めはいつも最悪だ。

それほど手放し難いなら、いっそ碁石集めなどやめてしまえばよかろうに、と他人事ならば言うだろう。だが、自分で決断できぬからと始めた賭け事だ。途中で投げ出すのは二重の意味での逃避でしかない。
時折、何かが自分の命を絶ちに来ないかと、夢想することがある。逆賊だろうと通り魔だろうと何だって構わない。無論、殺されたいわけではないし、実際そんなことになれば間違いなく返り討ちにするだろう。愚かで莫迦げた単なる妄想に過ぎない。
しかし自分の掌中にある数多の命の生殺与奪の権––––それをひとつだけ放り出したくなる瞬間が確かにある。なるようになれ、と己の命運を何かに委ねてみたくなるのだ。

※※※

145「幾星霜を経て」2:2019/02/14(木) 20:37:59
雁州国北部、高岫山の峰に北路という名の街がある。
隣国との国境にあるこの街には、十年前の台輔登遐より後、次々と荒民が押し寄せてきていた。黄旗は三年前に揚がったが、新王は未だ践祚していない。国土を跋扈する妖魔の数も天災の回数も、年々増加している。当然、故郷の里廬を失って逃げてくる荒民の数もそれに比例して増えていくのだ。

雁国に雨期が訪れる前の秋の日、北路の街の中央にある高い隔壁の門には長い列ができていた。大半が雁への入国を待つ荒民だ。厳しい冬を越せそうにないと判断して逃げて来る者が多いのだろうか、秋は例年荒民が増える時期だった。
昼下がりの風は穏やかで、青く澄んだ天から柔らかい日差しが降り注いでいる。
雁国夏官の兵士が荒民の列を警護し、旌券のない者を脇の建物へ誘導する役目を与えられていた。本来であれば国境よりこちら側は柳国の兵士が担うべき役割だが、何年も前から慢性的に人員が不足しており、それを雁国の兵士で補っているのだった。
長蛇の列は朝から伸び続ける一方だ。日没までにこの人数を捌き切れるのだろうか、と兵士の男は考えながら、押し寄せる荒民に対応していた。
「旌券があるのか?それなら門卒に見せればすぐに通れる。こっちの列に並ぶ必要はない」
荒民の一人に向かってそう言いながら、ちらりと門のほうを見やると、騎獣を連れた背の高い男が門を通過してきたところだった。
あの門卒の所へ行け、と荒民に指示しながら、兵士の視線はその騎獣に釘付けになっていた。素晴らしく尾の長い白黒の虎––––騶虞だ。
滅多にお目にかかれない最高の騎獣に、兵士の男の滅入っていた気分は瞬時に消えて、憧憬の念が湧き上がる。一兵卒にとっては、騶虞はおろか騎獣を持つことすら高望みというものだった。
まじまじと見入ってしまったからか、騶虞の手綱を持つ男は近くまで歩いて来ると軽く笑って立ち止まった。
「これがそんなに珍しいか?」
「あ、ああ……」
兵士は瞬き、少々きまりが悪くて頭をかいた。
「いや、じろじろ見てすまん。騶虞など滅多に見ないもんでな。––––お前は柳の民か?」
「いや」
「では、雁の民か」
「関弓から来た」
「……わざわざ柳まで何の用だ?」
兵士の問いに、男は軽く眉を上げてから笑った。
「––––それは尋問か?」
兵士は慌てて手を振って否定する。
「いやいや違う、単なる疑問だ。荒れた国に行って何をするのかと。柳は国中あちこちで妖魔がうろついていると聞くし、危険だぞ。物見遊山のつもりなら、やめておいたほうがいい」
男は声を上げて笑った。
「忠告痛み入るが、俺はわざわざ荒れた国を見に行くんだ」
「なんでまた、そんなことを」
「まあ、心配するな。危険を感じたらすぐ逃げればいいのだ。騶虞は足が速いからな、妖魔など簡単に振り切れる」
暢気に笑う男に対し半分呆れつつ、そんなふうに言える図太さが羨ましくもあった。自分も騎獣を持てばそんな心境になれるのだろうか。
それから男は荒民の列の後方にちらりと目をやると、
「––––荒民の数は増えているのか?」
と訊ねてきた。
「そうだな、かなり増えている。やはり年々増えているし、時期的にもな、秋は多いんだ。春から夏に田畑を耕してはみたものの、天候不順やら蝗害やらでどうにもならずに逃げてくる。柳の冬は厳しいから、越冬は無理だという判断だろう」
その時幼子の手を引いた女が、兵士さん、と声をかけてきた。
「旌券がなくても雁国に受け入れてもらえるの」と問うてくるのに対し、
「大丈夫だ、この列に並んで順番を待ってくれ」と返答する。女は安堵したように笑みを浮かべ、軽く頭を下げてからまた歩き出した。
その母子が少し離れてから、兵士は隣の男に向かって声を低めた。
「……しかし、ここまで辿り着いた者はまだましだ。本当に困窮して身動きすらままならない連中は、里の中で飢えて死ぬか、凍えて死ぬか。……あるいは妖魔の餌食か」
そこまで口に出してから、余計なことまで言ったかと思ったが、聞いている男のほうはさして気にした様子もない。
「この辺りには妖魔は出んのか?」
「街の中は今のところ大丈夫だ。だが街の外は危ない。特に暗くなってから街道を歩くと襲われる可能性は高いぞ」
「なるほどな」
男は笑みを佩いて軽く言う。近くで妖魔が出ると聞けば、大抵の者は恐怖か嫌悪の色を浮かべるものだが、彼の反応には一片の気後れすらも感じられない。なんだか妙な男だな、という感想を兵士は抱いた。

146「幾星霜を経て」3:2019/02/14(木) 20:42:18
ぴくり、と騶虞が耳を動かし、列の続く街路の先に顔を向けた。毛並みを逆立てやや頭を下げ、低い唸り声を上げる。明らかな警戒態勢だ。
「たま、どうした」
男の発した声にはあまり緊迫感はなかったが、街路の先を見やる眼光は鋭い。獣の鋭敏な感覚が何かを捉えたのだろうか、と考えながら兵士も同じ方向を眺めやったその時、鋭い悲鳴が視線の先から響いた。
はっとして兵士が一瞬硬直する間に、隣の男は動いていた。騶虞に飛び乗るや否や、
「民を全員門の中へ入れろ!」
と叫ぶなり、男は騎獣を跳躍させた。騶虞が飛んで行く先に見えたのは、巨大な、翼の生えた生き物の影。いくつも滑空し、人の列に突っ込んでいく。
「妖魔だ!門の向こうへ逃げ込め!早く!」
大声を上げると、ようやく兵士の男は動いた。すぐさま抜刀できるよう腰に帯びた剣の鞘を左手に握り、列の後ろへ向かって駆け出した。
絶叫のような悲鳴は続いている。人々の群れは雪崩を打って門へ向かう。最初遠かった悲鳴はあっという間に周囲に広がり、今や阿鼻叫喚の声が両耳をつんざく。
民の警護が兵士の任務だ、最後の一人を逃がすまでは自分が逃げるわけにはいかない。
先程の男を乗せた騶虞が妖魔の群れに突撃していくのが見えて、無茶だ、と思わず呟いた。いかに勇猛果敢な騶虞と言えど、そんなに何頭もの妖魔を同時に相手できるはずがないだろう。
そもそもあの男は、危険を感じたら逃げると言ってなかったか。騶虞は足が速いから、と。妖魔に反応していち早く動き出したあの男、最初から逃げるつもりなど毛頭なかったのだろう。とんだ嘘つきだ。
罵る言葉が頭の中を駆け巡るが、もちろん本気であの男を責めているわけではない。ただ無茶をしないでほしかった。さっきまで話していた相手が妖魔に食われるところなど見たくはないから。

巨大な鳥と、狼に似た獣。何頭いるのか咄嗟に把握できない数の妖魔の群れだった。白昼の街中で、これほどの規模の襲撃はこれまで経験がない。
騶虞の動きは俊敏かつ果敢で、騎乗する男の剣の腕は確かだった。騶虞が飛び、男が剣を薙ぐ。妖魔の首から吹き出した鮮血を躱し、倒れた巨体に男が躊躇なくとどめの斬撃を繰り出すと、すぐさま騶虞は地を蹴って次の獲物へ跳躍する。
兵士の男は、もちろん彼に加勢して妖魔と戦うつもりでいた。だが彼らの戦いぶりのあまりの凄まじさに、駆け寄って行く足は次第に勢いを失っていく。周囲を見渡せば、街路に倒れた人々の間に同僚の兵士が何人も抜刀したまま立ち止まっている。自分と同様に躊躇しているのだ。
あの中に入っても自分は何もできないだろう。それどころか足手纏いになりかねない。だが、このまま遠巻きに眺めているわけには––––。

147「幾星霜を経て」4:2019/02/14(木) 20:44:18
「お前達は怪我人を助けろ!」
また一頭の妖魔にとどめを刺しながら、こちらを振り向きもせず、男は良く通る明瞭な声で指示を出した。
弾かれたように兵士達は動き出す。街路のあちこちにうずくまっている怪我人を助け、門の方へ連れて行く。自力で走れる者たちは次々に門へ駆け込んだ。何人かの怪我人を雁国側まで避難させてから兵士が振り向いた時、柳国側の街路で動いているものは、妖魔と騶虞と鞍上の男だけだった。
妖魔には、果たして仲間意識というものがあるのだろうか。仲間を何頭も斬り殺した男に、妖魔たちの敵意は集中しているようだった。凶悪な鳴き声を上げながら、妖魔たちはただひとつの標的に向かって鋭い爪を光らせ牙を剥き、次々と襲いかかっていく。
その攻撃を躱しながら、男が騶虞の鞍上から地に左手を伸ばして何かを引き上げ、それと入れ替わるように自分は地面に降り立った。戦いを見守っていた兵士は息を飲む。
自殺行為だ、妖魔との戦闘の最中に騎獣から降りるなんて。
行け、と男が言うと騶虞はこちらへ向かって飛んで来る。背に乗せているのはどうやら怪我人だ。門の近くに降り立った騶虞の背から急いでその怪我人を降ろし兵士が顔を上げると、街路に立つ男がこちらを振り向いた。
「門を閉めろ」
彼の言葉に、兵士は耳を疑った。
確かに門を閉めればこちら側は安全になるだろう。隔壁を飛び越えてまで雁国側へ来る妖魔はほぼいないからだ。空位の国と安定した国にはそれほど歴然とした違いがある。––––しかし、柳国側に妖魔と共に残される男はどうなる。
お前も逃げろ、と兵士は言い返そうとしたが、その前に男の声が再び鼓膜を打った。
「早く閉めろ!」
怒鳴るわけではなかったが、有無を言わさぬような命令だった。半分だけ開いていた門から騶虞が飛び出して行くのと同時に、門卒が門扉を閉め始める。
扉が閉まり切る直前の僅かな隙間に駆け寄り、そこから兵士は男の姿に目を凝らす。彼は再び妖魔に向き直り、剣を持つ右手を下げて無造作に左腕を上げた。まるで、この腕を食ってみろ、と挑発しているかのように。

重い音を響かせて、門扉が完全に閉ざされる。断末魔の咆哮が遠くから微かに聞こえた。

148名無しさん:2019/02/17(日) 11:24:13
尚隆カッコいい…!!新章ありがとうございます!くすぶる尚隆が柳でどうなるのでしょう?楽しみです!

149「幾星霜を経て」5:2019/03/02(土) 23:20:19
台輔、と影の中から呼ばう使令の声がした。その声が誰のものであるか認識するよりも先に、ざわりとした寒気が全身を駆け抜けて、六太は軽く身を震わせた。
その声を聞いたのは何百年か振りだったが、六太はすぐに誰の声かを思い出す。同時になぜ寒気がしたのか、その理由も自ずと知れた。六太は座っていた椅子からほぼ無意識に立ち上がり、扉へ向かって歩き出しながら呟くように影に問うた。
「––––尚隆に何かあったのか」
それは愚問だと自分でも分かっていた。何かがなければこの使令が六太の元に戻ってくるはずがないのだ。

それはもうずっと昔に尚隆に無理矢理押しつけた使令で、普段は声を発するどころか一切の気配すら消して尚隆に付いている。妖としての格も戦闘力も低く、知能も高くないが、遁甲できるため瞬時に六太のところへ戻れるのが唯一の取り柄だった。

「そんなものいらん」
最初に六太が使令を付けることを提案した時、そう言って尚隆は拒否した。
「なんでだよ。別に困らないだろ、使令が一匹付いてたって」
尚隆の剣の腕が立つことを六太は知っていたが、傾いた他国までひとりでふらりと出掛けてしまうので、いつ危険に晒されるかと心配で使令を付けておきたかったのだ。
「せっかくひとりで遊びに行くのに、付いてこられては迷惑だ」
「気配は普段消してるから付いてたって気にならないって。もちろんお前がどこで何してたかなんて使令は喋らないし、おれも訊かない。尚隆の身に危険がある時に出てきて守るだけだよ」
「必要ない。第一、使令というものは戦えない麒麟が身を守るためにいるんだろうが。お前の身の回りから離すな」
「麒麟だけじゃなくて王も守るためにいるんだよ、使令は」
「自分の身くらい自分で守れる、と言っとるだろう」
「これまで守れてたかもしんないけど、この先どうだか分からないだろ」
「それを言うならお前のほうはどうなんだ。俺に一匹付けたら、そのぶん六太を守る戦力が減るんだぞ」
「そんなの言われなくても分かってる」
「分かっているなら話は早い。六太に付いている使令を減らすのは却下だ」
尚隆は手を振って話を終わらせようとしたが、六太は引き下がらなかった。
「……それじゃ、弱い使令ならいいのか?」
「弱い使令?」
「そう、弱くて碌に戦えない使令もいる。そういう奴はおれに付いてても戦力にならないから、おれのそばから離れても問題ないだろ」
「そんなもの俺に付けてどうする」
「尚隆が怪我したとか、そういう緊急時だけおれに知らせに戻ってくる。それならいいだろ?お前から連絡取りたい時にも使えるし」
「出奔中に連絡などせん」
「連絡に使わなくても、お前が怪我しなければいいだけの話じゃん。そしたら気配もないし、おれのところにも戻ってこないし、いないのと一緒だよ」
それでも難色を示す尚隆に六太は食い下がり、渾々と説得を続けて最終的に尚隆は渋々了承したのだった。
本当は尚隆を守り戦える使令を付けたかったが、六太は妥協することにした。あまり役に立たない使令でも、とにかく付けておけば尚隆は怪我をしないよう気をつけるだろう、と思ったからだ。

その使令の声は、あれから一度も聞くことがなかった。尚隆はひとりで出奔した時に怪我をして戻って来たことはなかったし、連絡のために使令を使うこともなかった。
それが今日初めて戻って来たのだ。
今までになかったことが尚隆の身に起きた。––––それだけは確かだ。

150「幾星霜を経て」6:2019/03/02(土) 23:25:14
「台輔?––––どうなさったのです」
侍官が怪訝そうに声をかけてきた。ここは宰輔の執務室であり、六太は一応仕事中だった。だが宰輔の仕事など、この際どうでもいい。
「ちょっと出掛けてくる」
振り返ってそれだけ言うと、侍官の制止する声を無視して六太は房室から飛び出した。回廊を走り抜け、禁門へ続く階段を駆け上がる。人の姿では足が遅くてもどかしい。
「沃飛、服を頼む」
言ってから六太は一瞬目を閉じる。身体がふわりと軽くなるのと同時に目を開き、四肢で石段を蹴って飛翔した。落ちた衣服を沃飛が抱えて影に戻るのを待ち、麒麟は全力で駆け出した。
宙を駆ける神獣を目にした官たちが口々に何かを言っている。だがその内容は六太の耳には一切入らなかった。
禁門を駆け抜けて、六太は秋の空を疾走する。関弓山は瞬く間に遠ざかる。王気は北の方角、柳国との国境付近にいるのだろうか。麒麟の脚なら半日もかからず着くはずだ。


その街に到着したのは日没から間もない頃だった。さすがに麒麟の姿を民に見られるわけにいかないので、街の外で転化してから悧角に乗って隔壁を越えた。
本能に従って王の気配を追い、六太は街路を走った。やがて一軒の舎館に辿り着き、六太はためらうことなく門をくぐり建物の中へ入って行く。一階の食堂を足早に抜けて、奥の階段へ向かった。
階段の下まで行き着くと、そこにいた宿の従業員らしき男に声を掛けられた。
「ひとりで泊まる気かい、坊ちゃん」
上階に行けるのは部屋を取っている客だけだから、引き止められるのは当然だ。
「上に連れがいるはずなんだけど」
「連れって誰だ?」
「風漢っていう、背の高いやつ。二階の部屋だろ?」
「ああ……」
ちらりと階段の上を見やってから、その男は視線を六太に戻した。
「それなら二階の一番奥の部屋だが……」
逡巡する素振りで言い淀んでから、彼は声を低めた。
「……風漢の旦那、どうやら怪我をしているようだが、何があったんだ?騎獣も血に汚れていたし」
六太は全身から血の気が引くような感覚がした。騎獣に付いていた血は、果たして尚隆のものだろうか。
咄嗟に何も返せずにいると、男は困ったような顔で話を続けた。
「騎獣を厩に預けて、洗っておいてくれ、とだけ言って部屋に入って、それきりだ。怪我をしているんだろう、瘍医を呼ぼうか、と訊いてみたんだが、必要ないと断られてしまった」
「……怪我したってことは聞いたけど、事情はおれも知らない。––––でもあいつ結構頑丈だから。大丈夫だよ、多分」
「そうかい?」
「どこ怪我してた?」
「左腕だ。袖に隠れてたから傷口は見てないんだが。まあ平然とした顔で普通に歩いていたから、大怪我ではないのかもしれん」
「分かった。––––ありがとう」
言って六太が彼の脇を抜けて階段を上ろうとすると、心配そうに顔を覗き込まれた。
「随分顔色が悪いけど、お前さんは大丈夫かい?」
「……大丈夫。おれも結構頑丈だから」
笑ってみせてから、六太は二階へと向かった。

151「幾星霜を経て」7:2019/03/02(土) 23:29:17
二階の廊下を歩き、一番奥の扉の前で六太は立ち止まった。耳を澄ましても中からの物音は全く聞こえないが、尚隆が扉の向こう側にいるのは気配で分かる。
拳を扉に当てて数瞬、六太は躊躇する。勢いでここまで来たけれど、下界で尚隆に会うのは久しぶりだ。今更その事実に思い至って緊張感が増した。
気を落ち着かせるため小さく息を吐いてから、扉を軽く叩いた。
「––––尚隆」
返事はない。三つ呼吸を数えてから六太は再び口を開いた。
「……入るぞ」
扉を開けると最初に漂ってきたのは血の臭い。それは予想通りだったから、怯むことなく部屋の中へ入った。
扉を閉めて衝立の陰から出る。いくつもあるはずの燭台のうち、ただひとつにだけ灯りが点されている、薄暗く広い室内。中央付近の榻に尚隆は座っていた。窓のほうに顔を向けたまま、彼は振り向かない。
「尚隆……」
衝立の脇に立ち六太は呼びかけた。
「––––何をしにきた」
返ってきたのは、感情の窺えない淡白な声だった。尚隆はこちらを見ない。
「使令が知らせにきた。お前が怪我したって」
「……それで?」
「それで、って……」
微かに、尚隆の失笑が聞こえた。
「お前が来てどうする。怪我を治せるわけでもなし。血に酔うだけだろうが」
「……そうだけど」
王が怪我するなんて本来あってはならないことだ。王の非常事態に麒麟が駆けつけて何が悪いのか。
そもそも使令を付けると決めた時点で、怪我をしたら六太が来ることは当然承知していただろうに、どうして今更こんな言い方をするのだろう。
だが反駁の言葉は六太の頭の中を巡るだけで、口から出てこない。
「……たまも血に汚れてたって、聞いた」
「たまは無傷だ」
その口調はひどく素っ気ない。
「……」
たまが無傷なのはもちろん嬉しい。でも今は、そんなことを聞きたいんじゃないのに。
「尚隆は……」
思いの外かぼそい声が出て、六太は一旦言葉を切った。尚隆は何も言わず、身じろぎもしない。
「……お前の怪我は、大丈夫なのか?左腕だろ、見せてみろよ」
言いながら、尚隆のそばに行こうと一歩を踏み出した。
「近寄るな。血の臭気で酔うぞ」
語調は強くなかったが、六太はその場で立ち止まった。血の臭気のせいではなく、命じられたからでもない。尚隆の声音には明確な拒絶が滲んでいて、それを感じて立ち竦んだ。
尚隆は左腕を上げて右手で無造作に袖を捲った。前腕部には布が巻きつけられており、そこに赤黒い染みが見えて六太は反射的に目を背けたくなる。ぐっと堪えて唇を噛んだ。
「傷口を見たいか?」
どこか面白がるような声で問われたが、六太は返答できない。おそらく自分は直視できないだろう。血の流れ出る傷口を見るのは怖いのだ。
「……妖魔に咬まれたのか」
「そうだ」
「傷は、深いのか」
「かすり傷だ」
「––––妖魔に咬まれたのに?」
尚隆は笑った。いったい何が可笑しいのだろう。
「思っていたより王の身体は頑丈だぞ。食いちぎられるかと思ったが、牙で抉られただけだった」
冗談のように言いながら尚隆は左腕を振り、榻の上に投げ出した。
六太は軽い眩暈を覚えた。血の臭気だけではない理由で。
ひょっとしたら尚隆は、わざと怪我をしたのではないだろうか。妖魔に咬まれたらどうなるか、敢えて試したのではないか。
––––何のために。

152「幾星霜を経て」8:2019/03/02(土) 23:36:07
投げ出された尚隆の左腕を、六太はじっと見つめた。今は袖に隠れて血の染みは見えない。
六太は逡巡し、ためらいながら問うた。
「お前……なんで怪我した?……妖魔と戦って怪我するなんて、今までなかったのに」
「数が多かったからな」
「––––理由は、それだけか?」
低く訊くと、返答までに少しの間があった。
「……何が言いたい」
「……」
六太は沈黙した。どう言ったらいいのか分からなかった。
わざと怪我したのか、と直截に訊けばいいのか。その問いに対して尚隆は本音を語ってくれるだろうか。きっとそれはない、と六太は思う。尚隆は適当に誤魔化したり嘘をついたりして、本音を見せてくれないだろう。
「……瘍医に診せて、ちゃんと手当てしてもらえよ」
「瘍医に診せなくとも、この程度の傷はすぐ治る。王は不老不死の神だからな」
そういう問題じゃない、と思うが言葉に出せずにいると、
「お前がそうしたくせに、忘れたのか?」
呆れたように尚隆が笑った。
「……忘れるわけないだろ」
尚隆を王にした時のこと––––誓約の瞬間の絶望と、歓喜と諦念、船の揺れと血の臭い––––全て鮮明に覚えている。
お前がそうした、と言われたらもちろんその通りだ。だが玉座を望んだのは尚隆だろう。国が欲しいとあの時尚隆が言い切らなければ、自分は決断できたかどうか、今でも分からない。
尚隆の横顔だけを、六太は見る。尚隆がこんなことを言う意図も怪我をした理由も、その表情からは読み取れず、言い知れぬ不安だけが増幅していく。
ふと尚隆の横顔から笑みが消えた。
「……お前は何故俺を王にした」
「何故……?」
「––––二つ目の国を失わせるためか」
「莫迦なこと言うな」
あまりの言いように、咄嗟に返した声は情けないほど震えた。怒りと、恐怖に似た激情が同時に湧き上がり、頭の中が真っ白になる。言葉を継ごうにも何も思い浮かばない。
「お前に何故と問うことは無意味だな、延麒。全ては天意か」
淡々と尚隆は言い、それから初めて六太に顔を向けて唇に仄かな笑みを浮かべた。冷笑か、それとも自嘲か、六太には判別できない。
「帰れ」
短く命じると、尚隆はこちらに背を向けた。
六太は凍りついたようにその場に立ち尽くした。二人の間に沈黙だけが流れて、それは拒絶の色をしていた。
尚隆はほんの数歩先にいるのに遥か遠くにいるようで、どうしたらその距離を詰めることができるのか分からない。一歩も前に踏み出すことができなかった。
やがて六太が重い足を動かして部屋を出て行くその時まで、尚隆はこちらを一瞥もしなかった。まるで六太の存在を忘れたかのように。


どこをどう歩いたのか分からないまま、六太は街のはずれに辿り着いていた。辺りに人影がないことを確認し、悧角を呼び出した。
街の灯りは瞬く間に後方に流れ去り、六太は暗い夜空を悧角の背に乗って飛行する。寒くはないのに全身が震えた。尚隆の言葉の真意を考えるのが怖かった。
あんなに冷淡な態度を取られたのも、露骨に追い払われたのも初めてで、自分がひどく傷ついているのを自覚する。だが六太にとっての衝撃はそれだけではなかった。
––––延麒、と尚隆に呼ばれた。尚隆は、六太の名を一度も呼んでくれなかった。
その些細な事実が、意外なほどに六太の心を揺さぶっていた。他者に対して話す時、六太のことを称号で呼ぶことはあっても、二人きりでいる時にそう呼ばれたことはなかったのに。

九年前の秋の夕刻、関弓の花街の入り口で引かれた尚隆との間の境界線。六太には踏み越えられないその境界線を、尚隆は更に明確にしようとしている。あれから一向に縮まらない二人の間の距離を、更に広げようとしている。そんな気がした。
全身の震えが止まらない。
尚隆との関係は、こうして亀裂が深まったまま終わってしまうのだろうか。そんなことがあってはならない。––––絶対に。
そう六太は思うのに、自分がどうすればいいのか分からない。尚隆が何を考え何を望んでいるのか、何ひとつ分からなかった。

153書き手:2019/03/02(土) 23:39:19
今回は以上です。
次回も引き続き六太視点

154名無しさん:2019/03/08(金) 23:33:43
更新ありがとうございます!ああ何かが変わる出来事が起きてしまった…ガチに拒絶する尚隆怖い。続き楽しみに待機しております!

155「幾星霜を経て」9:2019/03/14(木) 18:55:27
禁門前の広い岩棚に悧角が降り立ったのは、東の空が僅かに白み始めた頃だった。六太が背から降りると即座に悧角は影に戻る。門番に軽く手を上げただけで、六太は声を発することなく門を通過した。
階段を上った先の扉を開けて雲海を望む露台に出たところで、
「お帰りなさいませ、台輔」
と声をかけられた。聞き慣れた声、だがこんな時刻にこんな所で聞くとは思わなかった声に驚いて、六太は俯いていた顔をぱっと上げた。
「……お前、こんなとこで何やってんの」
柔和に微笑んだ朱衡の顔。何故だか六太は少しだけほっとした。
「散歩でございますよ」
「散歩って……まだ日も出てないけど?」
「私は早起きなんです。ご存知ありませんでしたか?」
「おれより早起きなのは知ってたけど、ここまでとは思わなかったな」
六太は笑う。いくらなんでも日の出前に散歩なんておかしい。六太を待ち伏せしていたと見て間違いないだろう。
朱衡が歩み寄ってきて、顔を覗き込まれた。
「顔色が優れないようですが、どうなさったのですか?」
「ああ……うん」
血に酔ったせいだろう。だが今は事情を説明したくない。
「……寝てないからじゃねえかな。––––ま、そういうわけでいま眠いから、仁重殿に戻って寝るわ」
六太は出来るだけ軽い調子で言ってみたが、朱衡は少し首を傾けて、じっと六太の顔を見つめた。
「……では、仁重殿までお供いたします」
「いや、お供とかいらないから」
「いいえ、お供いたします」
微笑みながらきっぱりと言われ、六太は嫌な予感がする。もしや道中で小言を聞かされるのではなかろうか。そういえば今の今まで忘れていたが、昨日は政務を放り出して飛び出したのだ。
「今は小言を聞きたい気分じゃないんだけど」
「––––おや。今は、と仰いましたか?では聞きたい気分の時もあるのでしょうか」
朱衡らしい嫌味な言いように、六太は笑った。
「あるわけねえじゃん」
言いながら六太が歩き出すと、朱衡は斜め後ろに半歩だけ下がった位置にぴったりと付き従った。

この時刻に起きている官は他に殆どいないようで、周囲には人の気配もなく、しんと静まり返っている。点々と灯火の並んだ回廊に、二人の足音だけが響いていた。
六太は無言で前だけを見て歩いた。朱衡も暫く何も言わなかったが、やがて穏やかな声で問うてきた。
「––––主上のところに行ってらしたのでしょう?」
いきなり図星を突かれた六太は、思わず振り向いて朱衡の顔をまじまじと見た。朱衡は至って平静にいつもの微笑みを浮かべている。
「……よく分かったな。おれ何も言わずに出て行ったのに」
「もちろん分かります。麒麟が転変して全力疾走で禁門から飛び出して行ったのですから、行き先は王のところ以外あり得ませんでしょう」
ああ、と六太は少し笑った。
「……言われてみれば、そうかもな」
さすがにこれまで転変して禁門から飛び出して行ったことはなかった、と思う。
六太はまた視線を前に戻し、歩きながら朱衡に訊ねた。
「おれが出て行った後、みんな怒ってたか?」
「帷湍は頭の血管が切れそうな様子でした」
「あー、やっぱり……」
「ですが、他の官は怒っているというよりは、驚いていたり戸惑っていたり……どちらかというと面白がっている官達が多かったようですね」
「あ、そう?」
「神獣の優美なお姿を拝めて幸運だった、と喜んでいる者もおりましたよ」
「幸運ね……」
「帷湍はそうして皆が面白がって騒いでいるのが余計気に食わなくて、怒り心頭だったようですが」
「へえ」
「そうやって噂話が飛び交っておりましたが、どこへ向かったか気づいている者は、殆どいないようでした。––––帷湍も含めて。……まあ、今更台輔の出奔先を気にしても仕方ない、と思っているのかもしれませんね」
「ふうん……」
皆が気づいているわけではないと聞いて、六太は安堵した。麒麟が王のところへ駆けつけたと皆が知れば、これは一大事と騒ぎになりかねないし、事情を問い詰められたら厄介だ。
何があったかなんて誰にも話したくないから。

156「幾星霜を経て」10:2019/03/14(木) 18:57:37
「主上と喧嘩なさったのですか?」
唐突に突っ込んだ質問をされたが、今度は朱衡を振り向かず、前を向いたまま六太は答える。
「いや……別に、喧嘩じゃない」
喧嘩にならなかった。尚隆に冷たく拒絶されて、六太は一歩も踏み出せずに引き下がっただけだから。喧嘩するほど二人の距離は近くなかった。もっとずっと離れたところに、自分達はいる。
「––––ここ十年ほど、主上と喧嘩なさってませんね」
「……そうだっけ?」
「ええ、そうです」
「……よく覚えてんな、お前」
「十年前の喧嘩と一連の出来事は、印象的でしたから。––––喧嘩の腹いせに勅命で転化を禁じるなんて、前代未聞でしょう?」
「ああ……そういや、そんなこともあったな」
言われて思い出した、という素振りで六太は言ってみたが、その嘘が朱衡に通用したかどうかはあやしいところだ。
「あれ以来、主上と台輔の喧嘩は一度もございません。ご自身の事ですのに、お忘れですか?」
「さあ、どうだったかな……。尚隆との喧嘩なんか、いちいち覚えてねえし」
これも嘘だ。もちろん昔の喧嘩はいちいち覚えてないが、十年前の喧嘩は詳細に覚えているし、あれから喧嘩していないのも事実だ。
政務に関する意見の対立で多少の言い合いはするが、あれは喧嘩ではない。単なる意見交換であり、仕事の一環でしかない。喧嘩は、もっと私的な繋がりが強くなければ出来ないものなんだ、と六太は今になって思う。

「本当に覚えておられないのですか?あの喧嘩の三日後、私が根掘り葉掘り訊こうとしたら台輔は転変してお逃げになりましたね」
「いや、あれは––––」
うっかり反駁しかけてから、六太は口を閉ざす。くすり、と朱衡の笑う声が聞こえた。
「やはり覚えていらっしゃる」
返す言葉もなくて、六太はただ苦笑した。
「––––あの時の喧嘩は、何かがいつもと違いましたから。絶対にお忘れではないと思っておりました」
「……」
六太は沈黙する。朱衡の言う通りだ。
忘れたいのに、いつまでも忘れられない。忘れたふりさえ、うまく出来ない。
だからあの日、転変して朱衡から逃げてしまった。
六太は足を止め、園林を眺めやる。すぐ隣で朱衡も立ち止まった。広い園林はまだ薄暗く、遠くまでは見通せない。微かに潮の匂いを含んだ柔らかい風が、視線の向こう側から吹いてきた。
「……朱衡」
「はい」
「……あの日の朝、おれの様子おかしかったか?」
「いいえ、朝議では普段通りのように見受けられました」
「じゃあ、なんでわざわざ追いかけてまで喧嘩のこと訊いてきたんだよ」
「主上の様子が気になったからです」
「––––尚隆の?」
意外な答えに驚いて、六太は朱衡を見た。
「ええ、喧嘩の翌日主上にお会いした時、どことなくいつもと違うご様子でした。それが気になっておりましたが、主上をつついても何も出てこないでしょうから、台輔から聞き出そうと考えた次第です」
「おれをつついたら何か出てくると思ったのか?……まあ的確な判断かもしれないけどさ、それって性格悪いぞ、朱衡」
「存じております」
朱衡はにっこりと優しげに笑った。こんなに柔和な笑顔で自分が性悪であると認める者は、そういないだろう。六太は毒気を抜かれて、それ以上の文句をつけるのをやめた。
「……で、尚隆の様子がいつもと違ったって、どういうことだ?」
「ええ……」
朱衡は言い淀み、少しの間、思案顔をした。
「––––麒麟が獣の姿だけでなく人の姿も持っているのは、何故だと思われますか?」
「……へ?」
六太はぽかんとして朱衡の顔を見た。
蓬山生まれの麒麟は獣の姿で生まれるが、胎果の六太は生まれた時から人の姿だった。そのせいもあるのだろうか、人の姿を持っているのは六太にとっては当たり前で、理由など考えたこともない。

157「幾星霜を経て」11:2019/03/14(木) 18:59:43
「えーと……。政務をするため、とか?」
六太が適当に答えると、朱衡は可笑しそうにくすりと笑った。
「帷湍と同じことを仰いますね」
「––––え、帷湍と同じ?……それは、あんまり嬉しくないな」
六太は少し笑ってから、そもそもなんでこんな話をしているんだっけ、と考える。––––そうだ、喧嘩の翌日の尚隆の様子がおかしかった、という話だったはずだ。
「……その質問、尚隆にもしたのか?」
「いえ、むしろ言い出したのは主上です。言い方は違いましたが。––––天は何故、麒麟に二形を与えたのだと思う、と」
「そう、朱衡に訊いたのか?」
「さあ……。訊かれたのかどうか、私には分かりかねます」
「なんだ、それ」
「ひょっとしたら、独り言だったのかもしれません。––––ただ、その時部屋には主上と私しかおらず、答えられるのは私だけでしたので、個人的見解を申し上げました」
「……なんて?」
「王が人型の半身を欲したからではないでしょうか、と」
ずきりと胸の奥が鋭く痛み、一瞬六太は目を閉じる。
絶対にそんなことはない。だって尚隆は、人型の六太に触れてもくれない。
「……なんで朱衡がそんな見解を持ったのか知らないけど、尚隆には当て嵌まんねえだろ」
「そうでしょうか」
「うん、絶対当て嵌まらない。……で、それ聞いて尚隆はなんて言った?」
「なるほどな、とだけ仰いました」
「ふうん……」
もちろん尚隆は同意を示すためにそう言ったわけではなく、適当に相槌を打っただけだろう。六太にはそうとしか思えなかった。
––––本当に、どうして麒麟は二形を持っているんだろう。もし獣の姿だけならば、二つの感覚の間で揺れ動いて心が混乱することはなかった。十年前の喧嘩だってなかったはずなのに。

俯いて、六太は再び歩き出す。朱衡もすぐ後に続いた。
「……あの時主上の仰ったことで、他にも印象に残っている言葉があります」
「……」
六太は振り向かず、返事もしなかった。
「転化を禁じたことで女官達が困っておりましたので、今後は周囲に類が及ぶような勅命は慎むよう、喧嘩は二人の問題だから二人の間で解決するようにと、私はそう申し上げました。––––それに対して主上は、事はそう単純ではない、と仰ったのです」
「……それ、どういう意味?」
「さあ……。どういう意味か、私には分かりかねます」
「またそれか」
思わず六太は笑った。
「––––台輔」
呼ばれて振り向くと、思いがけず朱衡は真剣な表情をしていて、六太はやや戸惑う。
「……なに?」
「お二人の間で、あの喧嘩はきちんと解決なさったのですか?」
「……」
六太は咄嗟に返答できない。
どうなったら解決したことになるんだろう。尚隆が謝罪して、六太は許した。それで解決したことにはならないのだろうか。
そう考えてから、あの日の尚隆の言葉をふと思い出す。
あれは怒りではなく別のものだ、と尚隆は言った。そしてその「別のもの」は解決しない問題だと。
「……解決しない問題って、なんだと思う?」
呟くように問うと、朱衡は首を傾げた。
「随分、漠然とした質問をなさいますね。––––それは台輔にとって解決不可能な問題、ということでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて。……尚隆の問題」
「主上の問題でしたら……ああ見えても一国の王ですから、やはり雁の事。––––あるいは、台輔との関係」
「おれ?」
「ええ」
「……なんで?」
「そこで理由をお訊きになりますか?当たり前のことでしょう。他の人間––––例えば官のことなら更迭すれば解決、下界の人間なら会わなければ解決です。主上にとって解決できないのは台輔との関係だけです」
「……極論だなあ」
「極論ですが、概ね正しいでしょう。––––主上が仰ったのですか?解決しない問題があると」
「……」
少し迷った。やっぱりなんでもない、忘れてくれ、と言おうかと思った。暫し逡巡した末、結局六太は頷いた。
「……うん」
「昨夜お会いになった時に?」
「いや……。十年前に」
「喧嘩の時ですか」
「んーと……。正確に言うと、あいつが詫び入れに来た時」
「……」
朱衡は沈黙した。顎に手を当てて何やら考え込む風情である。

158「幾星霜を経て」12:2019/03/14(木) 19:01:52
六太は朱衡から視線を逸らし、再び前方に目を向けて歩いた。
朱衡に訊ねたのは、正解を出してくれると期待したからではない。尚隆は周囲にあまり本音を見せない男だから、朱衡にも分かるはずがないだろう。
それでもずっと記憶の底に沈めたまま思い出さないようにしていたことを、初めて口に出した。それは意外にも、六太の心をほんの僅かだが軽くする行為だった。しかし朱衡の返答は予想外過ぎて、却って六太を混乱させた。
尚隆にとっての解決しない問題。それは今でも解決していないのだろうか。
昨日の尚隆の冷淡な態度と、言い放たれた言葉を思い出すと、また身体の芯から震えそうになる。
––––何故俺を王にした、と尚隆は言った。
解決しない問題とは、やはり雁の事だろうか。国政には常に何かしらの問題があり、ひとつ解決すればまた別の問題が浮上する。延々と続くその繰り返しに倦んでしまったのだろうか。
––––二つ目の国を失わせるためか、とも言った。
ひょっとしたら、亡くした故郷の事かもしれない。だとしたら本当に解決する術はない。全ては過去のことだから。
尚隆が瀬戸内の故郷に思いを馳せている、と感じることは時折あった。それは、あの喧嘩以前のことだけど。以前は尚隆の考えていることがなんとなく分かることがあったのだ。たとえそれが六太の思い込みだったとしても、そういう瞬間が確かにあったのに、今では全くそれがない。それだけ自分達は互いに遠ざかってしまったんだろう。

「台輔」
朱衡の声で我に返る。斜め後ろに従っていたはずの朱衡はいつの間にか前にいて、六太の顔を覗き込むように少し身をかがめていた。
六太は立ち止まり、朱衡を見上げた。真剣な眼差しが返ってくる。
「あの時台輔は主上のことを許したと仰いましたね」
「……うん」
「喧嘩の時に主上が台輔に仰った事、なさった事、その全てに納得した上でお許しになったのですか?」
「……」
尚隆に言われた事––––された事。
今まで何度思い出しただろう。そのたびに胸が痛んで、いつも即座に振り払った。あの喧嘩も、その後の何もかもが納得できないことばかりだ。自分は尚隆を本心から許しているのだろうか。
朱衡の問いに六太が返答できずにいると、
「双方が納得しない限り、お二人の問題は解決しないのではないでしょうか」
「……二人の問題?」
「ええ、二人の問題です。––––事はそう単純ではない、と主上は仰いましたが、そんなことはございません。事は至って単純なのです」
確信に満ちた口調に気圧されて、六太は若干身を引いた。
「えーと……なんかいきなり断言してるけど、根拠あるのか?」
「勘です」
「え、勘?」
「勘も侮ったものではございませんよ。––––特に、何百年も仕えている者の勘は」
「あ、そう……」
朱衡の言いようが可笑しくて、六太は微かに笑った。
今日の朱衡はなんだか変だ。どうしてこんな話をするんだろう。六太が落ち込んでいるのを察して、励ましてくれているのだろうか。それとも、ちゃんと問題を解決なさい、と叱咤しているのだろうか。
目の前に立ち塞がっていた朱衡は、どこか満足そうに微笑んで、六太を先へ促すように一歩脇によけた。六太が歩き出すと再び朱衡は斜め後ろに従って、静かな回廊を二人は無言で歩いた。

仁重殿の門前まで辿り着いたところで、朱衡は丁寧に礼を取った。
「それでは台輔、今日は一日ゆっくりとお休みくださいませ」
「……政務は?」
「台輔は体調が優れないようだと、冢宰と靖州令尹にお伝えしておきます」
「朱衡って意外と優しいんだな」
「今頃になって、ようやく気づいてくださいましたか?」
朱衡はにっこりと、今日一番優しげな笑顔を見せた。六太も笑って、じゃあな、と言いながら踵を返した。
門を通って数歩進んでから六太は空を見上げた。天頂は薄い藍色、東の空は茜色––––もうすぐ夜が明ける。

159「幾星霜を経て」13:2019/03/14(木) 19:04:05
その日と翌日、六太は自室の牀榻から殆ど出なかった。微熱が続いて怠く、浅い睡眠と覚醒を繰り返した。目が覚めている間はずっと、尚隆のことを考えて、朱衡の言葉を反芻した。
––––尚隆に会いたい、会うのが怖い。でも会わなければ。
––––言いたいことがある、訊きたいこともある。だけど答えを聞くのが怖い。
本能と感情と理性と、六太の中で幾つもの思いが交錯する。
二日間考えても、尚隆の問題が何なのか、正解など分かるはずもなかった。それでも、六太が自ら動かなければきっと事態は好転しない––––それだけは分かった。

翌々日に起き出した六太は正寝に向かった。回廊を歩き、迷うことなく長楽殿の臥室に辿り着く。何度となく訪れた尚隆の臥室への道順は、たとえ十年ぶりでも目を瞑ったまま歩けそうな気がした。
「主上はおられませんが」
「知ってる。ちょっと部屋に用があるだけ」
警護すべき王がおらず手持ち無沙汰の大僕にそう言って、六太は臥室に入った。
広い室内を見回す。部屋の主がいなくとも毎日清掃されていて、塵ひとつない。久しぶりに入った尚隆の臥室は、なんだかひどく懐かしかった。
六太は榻にすとんと座り、それから寝転んでみた。高い天井を暫く眺めてから、ごろりと寝返りを打った。
視線の先、壁際の低い棚の上には幾つか小物が載せてある。その中のひとつに六太は目を留めた。それだけが異質なもののように思えたのだ。
六太は起き上がり、棚に歩み寄る。それは木製の円筒形の小箱だった。市井の民が普通に使っているような、ありふれた安物に見えるその箱は、王宮の豪奢な調度品の中にあるのが妙に不釣合いだった。
六太の両手に収まる程度の大きさだったが、持ち上げてみると案外重い。中のものが動いてぶつかる硬い音がした。
蓋を開けると、そこに入っていたのは碁石。白と黒とが混じり合い、よく見れば石の材質も均一ではないようだった。
––––尚隆が碁に勝った記念に集めている石だ。
六太は不意に思い出した。最後に関弓で尚隆と会った日、老爺に勝った尚隆が碁石を掠め取るのを目撃したことを。今まで一度も思い出さなかったのは、その後花街の入り口で言われたことのほうが衝撃が強かったせいだろう。
十年前の雨期、つまりあの喧嘩の少し後、尚隆はひとつ目の石を帷湍から取った。碁石を集め始めたのはただの気まぐれだ、と彼は言ったが、本当はそうではないだろう。
六太は箱を手にしたまま移動し、榻の前にある卓の上で箱を傾けて、碁石を卓上に撒いた。一つひとつを指差して数えていく。八十二だった。あれほど碁の弱い尚隆が十年で八十二勝もしたということだ。
「どうしてそんなに頑張ってんだろ……」
何か目的があって集めているのだ、と六太は直感する。ひょっとしたら、解決しない問題を解決するために尚隆は碁石を集めているのだろうか。

王気が近づいてくるのを感じたのはそれから三日後のことだった。
夕刻、六太は悧角に乗って断崖の岩棚に向かった。十年の間、一度も行くことのなかったあの場所へ。
西の空に傾いた夕日、甘い香りの小さな花が咲く木、地面を覆う橙色の無数の花弁。あの時と何も変わらない。
ひとり岩棚に立って雲海を眺めた。低い位置から射す陽光が揺れる水面で散乱されて、一面が黄金色に輝いている。十年前と同じ、綺麗な景色だった。ずっとこの場所を避けていたけれど、惜しいことをしたな、と六太は思った。
目を閉じて花の香りを吸い込むと、あの日の記憶が鮮明に甦る。尚隆の手が、六太の髪を撫でてくれた最後の日。すまなかったと言われ、座り込んで泣いてしまった日。
嗅覚と記憶は深く結びついていると六太は思う。あの時と同じ香りが嗅覚に届くたび、いつも強引に記憶を呼び起こされる。心の深いところにある繊細な部分を鷲掴みにされて揺さぶられるようで、そこにある大切な何かが壊れてしまいそうな気がして、記憶の底に沈めて忘れようとした記憶。
だから六太は、花が咲く秋には丹桂の木に近づくのを避けていた。思い出したくなかったから。
でも今は、その花の香りを振り払おうとはしなかった。
忘れたふりは、もうしない。あれからずっと一歩を踏み込めずにいた。尚隆の心にも、自分自身の心にも。踏み込んで傷つくのが怖かった。
でもいま踏み込むのを躊躇したら、取り返しがつかなくなる。尚隆は絶望的に遠ざかってしまう。それは予感というよりも、殆ど確信だった。
ああそうか、と六太は笑う。
これが朱衡の言ってた「何百年も仕えている者の勘」ってやつかもしれない。

160書き手:2019/03/14(木) 19:06:13
六太の方は準備完了
尚隆が戻ったら直接対決です

161sage:2019/03/14(木) 20:21:36
おお、いよいよ!?

162書き手:2019/03/15(金) 19:16:07
はい、いよいよです
こういう詰めの部分って書くの難しくて。ちゃんと辻褄合わせて納得できる感じにできるかなあ…
頑張ります
そしてもうすぐエロ書くのかと思うと、今から緊張してます。書けるのか私…
今更ですがw

163名無しさん:2019/03/16(土) 17:57:00
更新ありがとうございます!六太が碁石持ってカチコミに…!エロ展開も期待してお待ちしております!

164「幾星霜を経て」14:2019/03/25(月) 19:48:43
王が帰還したのは夜更け。青白く光る弦月が天頂に差し掛かっていた。
正寝までの回廊を、尚隆は殆ど誰とも言葉を交わすことなく歩く。やがて辿り着いた臥室の扉の前、そこに控えていた下官が畏まって礼を取った。
「中で台輔がお待ちです」
尚隆は、ああ、とだけ言って、手を振って下官を退がらせた。表面上はほぼ無反応でいられたが、内心は平静ではなかった。

先日の舎館での六太とのやり取り、一つひとつの言葉が一瞬のうちに脳裏を巡る。あの態度は愚かで無様で最低だったと自覚している。冷静さを取り繕うことができなかった。
あの日、宿の部屋に入って少し眠ったら夢を見た。碁石が増えるたびに見るいつもの夢だ。最悪な気分で目が覚めると、左腕の傷が痛んでひどく苛立った。その痛みは、自らの愚行の当然の結果でしかないのに。
六太の声が扉の外から聞こえた時、咄嗟に自分が怪我をしてからの経過時間を計算した。騶虞でもこの時刻には着かないから、転変して駆けてきたのだろうと察しがついた。そこまでして急いで駆けつけたのかと思うと、胸の奥が熱く締めつけられるように疼いた。麒麟が王を案じその無事を願うのは、本能に過ぎないというのに。そんなことで感じ入る単純な己を心底莫迦だと思った。
自分はもっと理性的な人間だと以前は思っていた。だが今は己の感情が不意に制御不能に陥ることがあり、それが苛立たしくてならない。
だからあれは、ただの八つ当たりだ。苛立ちを六太にぶつけただけだ。余計なことまで口に出した。六太が傷つくと分かっていて––––いや、分かっていたからこそ言ったのだ。
帰れと命じた時の六太の表情が、今でも鮮明に焼き付いている。あんなに傷ついた顔をしていたくせに、王の臥室で帰りを待つなんてどうかしている。いったいどういう思考回路をしているのだろう。

扉に手を掛けて数瞬、尚隆は躊躇する。部屋の中に入りたくなかった。今は六太の顔を見たくない。しかし麒麟は感じ取っているだ、王が扉の前にいることを。逃げるわけにもいかなかった。
軽く手に力を入れて扉を開けると、風が吹き抜けた。窓が開いている証拠だ。その風に乗って甘い香りが届き、尚隆は思わず足を止める。あの日の記憶を鮮明に呼び起こす、丹桂の花の香り。香を焚いているわけではない、花そのものの香りだ。
尚隆は臥室に一歩を踏み入れ、後ろ手に扉を閉めた。そのまま尚隆は立ち止まる。衝立の向こうに六太がいると分かっているから、そちらに行きたくなかった。
花を持ち込んだのは六太だろう。どういうつもりで、そんなことをしたのか。だが六太の真意がどうであれ、この事態を招いたのは舎館での自分の言動なのだろうと、薄々分かっていた。

「尚隆」
雲海の微かな波音に混じって、六太の声が尚隆の耳に届いた。
「怪我、もう治ったんだろ」
あまり抑揚のない、落ち着いた口調だった。
このまま無言で背後の扉から出て行ったら、六太はどうするだろう。追いかけてくるかもしれない、今日こそは本気で。そして麒麟が本気で追えば、必ず追いつかれる。
「……尚隆」
再び、六太の静かな声が届く。尚隆は一瞬瞑目し、軽く息を吐いて衝立の陰から出た。
灯りは普段の半分も点されていない。薄暗い室内の中央付近の榻に六太は座っていた。その前の卓上に散らばっているのは、橙色の小さな花弁と、白と黒の碁石。

165「幾星霜を経て」15:2019/03/25(月) 19:50:57
「––––こんなところで何をしている。仁重殿に戻れ。餓鬼は寝る時間だろう」
尚隆は六太とは目を合わせずに榻の脇を通り抜け、部屋の奥へと進む。手にしていた荷物を適当に置き、腰に帯びていた刀を外す。上衣を脱ぎ、荷物の上に放り投げた。
六太が立ち上がる気配がした。微かな足音と衣擦れが数歩、近づいてくる。
「尚隆を待ってた」
「待っている必要はない」
背後からの六太の声に、敢えて素っ気ない口調で尚隆は応じた。
「……話がある」
「俺はない」
反射的に口をついて出た返答は、自分でも呆れるほど子供じみている。だがそんなことに構っていられない。とにかく早く部屋から出て行ってほしい。
「……おれが、話があるって言ってんの。尚隆は、おれの話を聞いて、正直に質問に答えればいいんだよ」
怒ったような声で、六太は言った。
王にこんなふうに指図するなど、麒麟にあるまじき言動だろう。だがそれは、久しぶりに聞いた気がするとても六太らしい物言いだった。

尚隆は何も言葉を返さず振り向きもしなかったが、六太は勝手に続けた。
「ひとつ目の質問。––––碁石を集めている目的は何だ?勝った回数を数えるためだけじゃないんだろ」
いきなり核心を突く問いだった。正直に答える気などないが、何故自分は碁石の箱を隠さなかったのだろうかと、今更理由を考えた。
誰の目にも触れる棚の上にあっても、六太以外のいったい誰が尚隆にその碁石の意味を問うだろう。実際、今まで箱の蓋を開けた者すらいないはずだ。ただの置き物と同じなのだ。––––自分達以外の誰かにとっては。
「……目的などない。ただの気まぐれだと言ったろう」
「嘘つけ。お前弱いくせに、目的もなく碁を打って、十年でこんなに勝てるわけない」
六太の辛辣な推論は、的確としか言いようがない。
「どうやら雁には碁の弱い民が多いらしい。まあ、俺の国民だから仕方あるまい」
尚隆は軽く笑ったが、六太は笑わなかった。
「……こっち向けよ、尚隆」
また怒ったような声で六太は言う。
一拍おいてから尚隆は振り向いた。睨まれているかと思っていたが、六太は意外にも静かな表情をしていた。ただまっすぐ、一対の瞳に見つめられる。
「……碁石、数えたら八十二あった」
「そうか。––––では、これで八十三だな」
尚隆は懐から碁石を取り出した。六太の脇を抜けて卓に近付き、それを放り投げた。撒かれていた他の石にぶつかりながら、勢い余った石は卓上を転がり端から落ちた。かつん、と石が床を打つ音が響く。
「……いくつ集めるつもりだよ。百か?」
背後から問われ、尚隆は溜息をついた。
「––––そうだ、と言ったらどうする気だ」
「百集まったら何をするつもりなのか、訊く」
「お前には関係ない、と言ったら?」
「関係ないわけない」
「何故そう言い切れる」
「勘」
「––––勘?」
「何百年も仕えている者の、勘」
尚隆は振り返って六太の顔を見た。まっすぐ向けられた瞳とまた視線が合う。
「朱衡が言ってた。何百年も仕えている者の勘は、侮ったものではないって。……だからおれも、自分の勘を信じてみることにした」
「……そうか」
尚隆は苦笑した。朱衡に何かを吹き込まれて六太はここに来たのだろうか。朱衡ならあるいは、何かしら感付いている可能性はある。
「––––このまま行けば、あと二年くらいで百集まるだろう。その時になったら教えてやる」
「……いま聞きたい」
「いま言う気はない。だが、別段悪い話ではないぞ。––––お前にとっても、民にとってもな」
「……じゃあ尚隆は?」
その問いの意味が分からず、尚隆が無言で見返すと、六太は再び口を開いた。
「尚隆にとってそれは、いい話なのか?」
全く想定外の質問で、束の間、尚隆は返答に迷った。
「……俺にとっていい話かどうかなど、お前に関係なかろうが」
「関係ある」
「ない」
「絶対ある」
尚隆は大きく息を吐いた。
「分かった。お前は関係あると思っていればいい。だが俺は関係ないと思っている。だから話す気はない。––––以上だ」
尚隆は軽く手を振って淡白に言い放ち、話を終わらせようとした。六太はむっとしたような表情をして黙り込む。

166「幾星霜を経て」16:2019/03/25(月) 19:53:29
尚隆は無造作に榻に座った。背凭れに身を預け、六太から視線を逸らして開け放たれた框窓に目を向けた。微かな波音だけが聞こえた。
しかし短い沈黙は、六太の淡々とした声に破られる。
「……じゃあ、ふたつ目の質問」
まだ引き下がる気はないらしい。尚隆は軽く溜息をついた。
「十年前に言ってた『解決しない問題』って、何?」
そんなことをまだ覚えていたのか、と尚隆は舌打ちしそうになる。あの日の言動は全て抹消したい。六太の記憶からも、自分の記憶からも。
「……答える気はない」
それは予想通りの返答だったのだろうか、六太はすぐに問いを重ねてくる。
「……それは今でも解決してないのか」
「してないな。今後解決することもない」
「解決する気はあるのか?」
「……ないな」
「お前は……それでいいのか」
「いいも悪いもなかろう。解決しない問題など、考えるだけ時間の無駄だ」
「そうかもしれないけど……。でもお前、十年前からずっと、何かおかしいよ……。うまく言えないけど……碁石のことも、この前怪我したことも。……その解決しない問題と、関係あるんじゃないのか?」
六太の推論は、またしても的確だった。尚隆は窓の方を向いたまま、何も答えない。
「……二人の問題じゃないのか、尚隆」
「……」
「それは、おれとお前の……二人の問題じゃないのか?」
六太が畳み掛けてくる。
違う、と否定するのはたやすいが、その嘘は今の六太にはおそらく通用しない。六太は何かしらの決意を固めてここに来たのだろう。だから簡単には引き下がらないのだ。
「お前には関係ないとか、言うなよ。––––そもそも、十年前の喧嘩の原因がその問題なんだとしたら、おれに無関係なわけがない」
「……」
「答えろよ、尚隆」
六太が数歩、近付いてきた。榻の傍らまで歩み寄り、手を伸ばせば届きそうな距離から尚隆を見下ろしている。
––––いっそ全部ぶちまけてしまえ、と内から唆す声がする。それも悪くないかもしれない。いつか箍が外れる前に、今ここで全てさらけ出してしまおうか。

沈黙は長く続いた。尚隆は六太の顔を見なかった。
「……おれは、まだお前を許してない」
感情の窺えない声で、六太が言う。
「––––あの時の喧嘩も……その後、あの岩棚で……」
六太の言葉は一旦途切れ、深く息を吸って吐く音が聞こえた。
「……お前がおれに、したことも」
それは囁くように、静かな声音だった。
「すまなかったって……忘れてくれってお前が言ったから……許そうと思ったし、忘れてやろうと思った。……でも無理だった。今でも許せないし、忘れられない」
尚隆は目を閉じる。出来ることなら耳も塞ぎたかった。そんな台詞は聞きたくなかった。それは尚隆が、心のどこかで願っていたことだから。––––六太の記憶に深く刻み込まれていればいいと。
忘れてくれと言ったのは本音だったし、早く忘れてほしいと、理性で思っているつもりだったのに。

衣擦れと共にほんの僅か榻が揺れて、六太が榻の端に座ったのが分かった。
「……尚隆にとってはあんなのただの冗談で、世間知らずな餓鬼をちょっとからかってやろうって、思っただけなんだろうけど……。おれは……」
囁くような六太の声は微かに震えていて、吐息と混じり合って尚隆の耳に届く。
「……怖かった。だから、抵抗したんだ」
言ってから六太は黙り込み、二人の間に再び長い沈黙が降りた。
尚隆は暫く目を瞑ったままでいた。六太の息遣いと、雲海の波音が、やけに大きく聞こえていた。

167「幾星霜を経て」17:2019/03/25(月) 19:55:43
長く息を吐き出してから、尚隆は瞼を上げた。揺れる灯火が妙に眩しくて、ふいと目を逸らす。六太の方は敢えて見なかった。
「……それは悪いことをしたな。––––それで、もう一度詫びれば、お前は気が済むのか?」
「詫びる言葉なんか、いらない」
間髪入れず六太は言い返してきた。意外なほど強い口調で。
「あの時だって、そうだよ。すまなかったなんて、言われたくなかった」
六太の感情的な声は、尚隆の胸の奥に直接響いて、押し込めたものの箍を外そうとする。
––––自分がいま口に出した言葉の意味を、六太は理解しているのだろうか。

この十年、あの喧嘩のことは互いに忘れたふりをして、一切触れてこなかった。尚隆は意図的に距離を取り、六太は踏み込んでこなかった。だからこそ二人の関係は均衡を保ってきたのだ。たとえそれが、上辺だけの危ういものだったとしても。
だがついに六太は踏み込んできた。そして六太が本気で踏み込む決意をすれば、尚隆には分がないのだ。もはや適当な誤魔化しでは、六太は引き下がってくれない。
本当は臥室の扉を開けた瞬間、尚隆は直感していた。六太があの日の話をしようとしていると。そうでなければ、わざわざ丹桂の花など持ち込まないだろう。

「尚隆……」
榻に座ったまま、六太が少しだけ距離を詰める。
「……おれは、お前の本心が知りたい」
六太が右手を伸ばしてくる。それが左腕に触れた瞬間、尚隆は立ち上がった。
「……そんなに知りたいなら、教えてやる」
尚隆は榻に向き直る。座っている六太の腿の脇に尚隆は片膝をつき、少年の細い肩を軽く押した。六太は身体の均衡を失って後方に倒れ、背凭れに寄りかかる体勢になった。
驚いたような眼差しで、六太は尚隆を見上げてくる。その顔の横、背凭れの上に尚隆は左手をついた。
「––––喧嘩の発端を考えれば分かることだ」
尚隆は感情を消した低い声で言う。六太は身を強張らせていたが、幾つか呼吸をしてからようやく答えた。
「……おれが、変な奴らに絡まれたこと?」
「そうだ。お前を手籠めにしようとした連中だ」
「……」
六太は眉をひそめた。そんな不快なことは思い出したくない、というように。
「……俺は奴らと同類だ」
「……え?」
「お前を犯したい」
六太は愕然としたように、目を見開いて息を飲んだ。視線を合わせたまま数呼吸、六太の唇は僅かに動いたが、何も言葉は出てこない。
尚隆は六太の顎に右手をかけて顔を近づけていく。六太はびくっと震え、目をきつく瞑った。
「––––だが安心しろ。お前に手を出す気はない」
言って六太の顎から手を離す。小さな身体は弛緩して、細く息を吐き出してから六太は目を開けた。
「……話は以上だ。––––今すぐ出て行け。二度とここには来るなよ」
尚隆は身を起こそうとしたが、六太の手に襟を掴まれた。見返せば、もう六太は脅えたような顔はしていない。見上げてくる瞳は真剣な光を湛えていた。
「……いいよ」
六太が囁いた。
「……何だと」
「いいよ、尚隆がそうしたいなら」
その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥に押し込めていた感情は唐突に制御を失って、かっと頭に血がのぼった。それは、怒りに極めて近い激情だった。
だん、と尚隆は右の拳で榻の背凭れを叩いた。
「––––なんだそれは、慈悲のつもりか」
腹の底から響くような声で尚隆は言った。
六太は一瞬怯んだように身を竦ませたが、目を逸らさずに言い返した。
「……慈悲じゃない。尚隆ならいいって、思っただけ」
「俺ならいいだと?––––ふざけるなよ。お前は男に抱かれたことがあるのか?––––ないんだろう。何をされるかも分かってないくせに、何故お前に判断できる」
「そんなの、あるわけないだろ。だから分かんねえよ!でも誰だって最初は知らないだろうが。それでも判断するしかないじゃないか。なのになんで怒るんだよ!おれにどうしろって言うんだ。他の誰かと経験積んでから判断しろって言いたいのか」
「そんなこと俺が許すと思うか」
尚隆は右手で六太の肩を掴み、榻の背に押し付けた。六太は顔を歪める。おそらく痛みで。
「お前に手を出した奴は俺が斬る」
六太は絶句して、震えるように僅かに首を振った。
「なんで、そうなる……。お前、言ってることが無茶苦茶だよ」

168「幾星霜を経て」18:2019/03/25(月) 19:58:24
尚隆の突発的な激情は、湧き上がる後悔と反比例するように急速に鎮まっていった。六太から身体を離し、尚隆は榻の前の床に座る。座面に片肘をつき、その手で目元を覆った。
「……無茶苦茶だということくらい、分かっている。だから俺はお前に手を出さない」
「……だから、の意味が分からない」
「麒麟に手を出す王は、この上ない愚か者だ」
「……そんなことない」
「俺はお前に、一国を返すと約束した」
「……うん」
「美しいままの雁をお前に返して、禅譲するのが最善だと思っている」
「そんなの……」
「俺は心が狭い」
「え……?」
「お前を俺だけのものにしたい。もしお前に手を出したら、独占欲が余計に深くなる」
「……それじゃ駄目なのか?」
「お前を手放せなくなる」
「……手放さなければいい」
「簡単に言うな」
「簡単に言ってない。尚隆は、おれを残そうなんて考えなくていい」
「––––六太」
たしなめる声音で、尚隆は名を呼んだ。
「お前は、本当にその意味を分かっているのか?今だけの感情でものを言わぬほうがいい」
「今だけの感情じゃない。ずっとそう思ってきたし、これからもずっとそうだよ」
「……数百万の民を見捨てると言っているのも同然だぞ」
「……そんな言い方、卑怯だ」
「だが事実だ。王も麒麟も両方死ぬのと、麒麟を残すのと、次の王が立つまでにどちらが時間がかかるか、考えるまでもなかろう」
「お前が民を見捨てるのに、おれには見捨てるなって、強要するのか」
「強要はせんよ。だが俺が見捨てるなと言わずとも、お前は民を見捨てられない。……麒麟はそういう生き物だろうが」
六太は沈黙した。尚隆の視界に映る小さな拳は、膝の上で固く握り締められいた。微かな溜息を落としてから、六太は悲しげな声を出す。
「……なんでさっきから、国の終わりの話ばっかりするんだよ。……もう、終わらせたいのか」
「……終わらせたい、とまでは思ってない」
「じゃあ、おれを手放すとか、雁を返すとか……そんなこと言うなよ……」
「今は終わらせる気がなくとも、永遠に続く王朝などなかろう。……いずれ俺は天意を失う。つまり天意を受ける麒麟に見放されるということだ。麒麟にとって天意を失った王など、民に仇なす敵だろう。……六太、お前もその時になれば––––」
「ふざけんな!」
鋭く六太が叫んで、尚隆の言葉を遮った。
六太は榻から下りて、床に座ったままの尚隆の正面に両膝をついた。尚隆は手首を掴まれて、その手を目元から引き剝がされた。怒りに満ちた瞳に睨みつけられる。
「お前は……おれを何だと思ってんだよ!天命を聞くだけの慈悲の神獣か。民意の具現で、天意の器で––––自分の意思を持たない天帝の傀儡か。お前はおれを、そういう生き物だと思ってんのか!?」
尚隆は唖然として、六太の顔をただ見つめた。
「民にはそう思われたって別にいい。直接おれを知らないんだから。でもお前にはそんなふうに思われたくない。––––尚隆にだけは」
「……六太」
「天意とか民意とか、そんなの知らない。おれの心は、ここにあるんだよ。––––ここで、全部感じてるんだ」
六太は自分の胸を押さえ、そこの布地をぎゅっと掴んだ。
「一国を返すっていう約束は、禅譲するってことじゃない。そんな約束ならいらない。––––あれは、雁をおれの居場所にしてくれるっていう、そういう意味だと思ってた。緑の山野も豊かな国も、お前がいなきゃ意味がないんだ。尚隆のいない雁は、おれの居場所じゃないんだよ!」
食ってかかる勢いで、六太は一気に捲し立てた。
六太の瞳は潤んでいて、頰は紅潮し、肩で息をしている。半分開いたまま震えている唇から吐き出される呼気は、その熱が目に見えるような気がした。

169「幾星霜を経て」19:2019/03/25(月) 20:00:38
尚隆は我知らず手を伸ばしていた。右手の指先が六太の柔らかい頰に触れる。はっとして手を引こうとした刹那、それは六太の手に捕まえられた。引くことができぬうちに、尚隆の右手の甲は六太の両手に支えられ、その掌に六太の暖かい頰が押し当てられた。
「……慈悲じゃないよ、尚隆。……だって、尚隆の手が触れてくれただけで……泣きたいくらい、嬉しい……」
言いながら六太は目を閉じた。丸みのある頰に、透き通った雫がすうっと伝い落ちた。

ああ、と尚隆は微かに嘆息を漏らした。
これが全て天意によるものだとしたら、天帝は悪趣味にも程がある。
心底欲していた相手から、こんなに素直に純粋な想いを向けられて、どうして理性を保っていられようか。

尚隆は捕まえられたままの右手の指先を動かして、六太のこめかみから耳の後ろをそっと撫でた。六太は目を開けて、くすぐったそうに頰を緩めた。その拍子にまたひとしずく涙が零れ落ち、尚隆は本能の赴くままにそこに唇を寄せた。
「……くすぐったい」
六太は僅かに頭を引いて、尚隆の右手を解放した。
「……しょっぱいな、麒麟の涙も」
「……なんだよ、それ」
六太が笑う。
尚隆は金髪を指で梳きながら、そっと右手を動かして金色の頭の後ろに添えた。六太の瞳を見つめたまま顔を近づけていく。唇が触れ合うまで、互いに目を逸らさなかった。
六太の瞳が瞼に隠れるのを見届けてから、尚隆も目を閉じた。視覚からの情報は途絶えて、尚隆は触覚と嗅覚と聴覚で六太を感じ取る。唇の柔らかい感触、甘い花の香り、微かな息遣い。
理性の声はもう聞こえない。ずっと押さえつけてきた想いの箍は外れて、完全に壊れてしまった。
触れ合うだけの、ほんの軽い口づけだった。だがそれは尚隆にとって、極めて重い決意を固めるための神聖な儀式のように思えた。
少しだけ唇を離してから目を開けて、至近距離から尚隆は囁いた。
「––––俺はいつか、お前を殺す」
六太はほんの僅か目を見開き、一度瞬いてから、ふと微笑んで頷いた。
「……うん。……そうしてほしい」
「……後悔するなよ」
「しないよ。……けど、できればずっと先がいい」
「……そうだな」
互いの瞳を間近に見つめながら、二人は微かに笑った。

これは自分達とって、二度目の誓約なのかもしれない。天命による誓約から幾星霜を経て、ようやく辿り着いた二人の意志による誓約。
––––たとえ尚隆の命運が尽きても、最期まで決して六太を手放しはしないと。
六太が遠慮がちに手を動かして、尚隆の首の後ろに腕を回した。はにかんだような六太の笑顔は、尚隆が今まで目にした何よりも、美しく愛らしかった。

170書き手:2019/03/25(月) 20:02:43
ようやくここまでこぎ着けました…
次回初夜編です。頑張ります。

171名無しさん:2019/03/25(月) 23:10:56
2人の想いが通じ合ったところで悶え転がってしまいました
タイトルはそう繋がるんですね…なんだか感無量です
でもここからが本題、楽しみにしております!

172書き手:2019/03/26(火) 21:14:40
ありがとうございます。
タイトル考える時はまだぼんやりとした構想しかなかったんですが、なんとか文章にできてほっとしました。
初夜のためにここまで書いてきたものの、あんまりエロくならない気がする……六太初めてだし。
とにかく幸せな感じに書けるといいんですが…

173名無しさん:2019/03/26(火) 21:39:23
せまる元気なろくたがかわいい!
そして私もタイトルに納得です。がんばってください!

174名無しさん:2019/03/27(水) 07:14:31
タイトルにそんなエモい理由があったんですね!六太の決意がカッコいい…。更新ありがとうございます!

175書き手:2019/04/05(金) 21:15:14
初夜前編、六太視点
とりあえず3レスだけ投下します
すみません、まだ致しておりません…

176「幾星霜を経て」20:2019/04/05(金) 21:18:30
まだ濡れている頰に尚隆の手が触れて、そっと親指で拭ってくれた。こうして触れてくれるだけで、全身が震えるほどの歓喜に包まれて、この手をどれだけ渇望していたかを六太は思い知る。
こんなに近くで涙を見られたのは初めてかもしれない、と思いつき、なんだか少し気恥ずかしい。普段の六太なら、絶対に顔を見られないようにしただろう。だが今この瞬間は、尚隆から離れがたく、目を逸らすのさえ惜しい気がした。
尚隆の長い腕が六太の腰に回されて、軽く引き寄せられた。抗わずに身を寄せると、尚隆の膝の上に跨る体勢になった。
大きな手が頭を撫でてくれた。真似して六太も尚隆の頭を撫でてみる。彼は少し驚いたような表情をして、それから破顔した。その満面の笑みを至近距離で目にした途端に、六太の胸の奥はきゅうっと締め付けられる。同時に感じたのはもちろん痛みではなく、今まで感じたことのない暖かさだった。
腰に回された腕に少し力が込められて、撫でてくれた手にそのまま頭を支えられた。尚隆の顔が再び近づいてきて、自然と六太は目を閉じる。暖かい感触にそっと唇を塞がれた。これが三度目の口づけ。
意外なほどに尚隆の唇は柔らかい。人の唇は皆こんなに柔らかいものなのだろうか。十年前に強引にされた時は、そんなことを気にする余裕などなかった。ただ苦しくて怖くて妙に生々しくて、ずっと思い出したくなかった。あの時と同じことをしているとは思えないくらい、いま心地良いのはどうしてだろう。
尚隆の舌がゆっくりと、六太の唇をなぞるように動いた。舌に濡らされた唇が痺れたような感じがして、六太は思わず少しだけ口を開く。すかさず舌が入り込んできた。最初は舌先だけ、次第に奥深くまで。
「ん……」
口づけが深くなる程に尚隆の抱擁する力は強くなり、殆ど六太は身動きできない。
絡んだ舌が徐々に痺れ、うまく呼吸が出来なくて、唇を離して息継ぎがしたかった。頭を引こうとしたけれど、後頭部を支える尚隆の手はびくともしない。
「んん……」
頭がくらくらするのは、酸欠のせいだろうか。全ての神経が口元に集中しているようで、身体に全く力が入らない。ゆっくり、執拗に、口の中を隅々まで尚隆の舌で犯されている。
もう離してほしい、おかしくなりそう––––発することのできないその言葉の代わりに、六太は力の抜けた両手で尚隆の肩を押した。やっと唇が離れて、六太はようやく息をつく。
「……しょう、りゅ…ぅ……」
整わない呼吸の合間に、喘ぐように名を呼んだ。
「……六太」
低い囁き声が返ってきて、六太は瞬いて視線を合わせた。
目の前にある尚隆の瞳は、熱っぽい光を湛えている気がした。今まで見たことのない––––いや、一度だけ見たことのある光。教えてやろうか、と十年前に言った時の、あの眼差しと似ている。だがあの時よりもずっと、熱い。
苦しい、と文句を言おうとしたのを六太は飲み込んだ。尚隆から目を逸らすことができず、ただ間近にその瞳を見つめた。
六太の鼓動は急激に早くなっていく。耳の奥が脈打っているようで、自分の心音が反響してうるさい。少し動悸が鎮まってほしくて、六太は目を伏せた。
––––きっと、こんなに近い距離で見ているから緊張するんだ。
そう思った次の瞬間、突然浮遊感がして、六太は慌てて尚隆にしがみついた。気づけば尚隆は両腕で六太を抱えたまま立っている。膝の上に六太が座っていたにもかかわらず、彼は軽々と床から立ち上がったのだ。
「え、ちょっ……」
六太がまともな言葉を何ひとつ口に出せないうちに、尚隆は部屋の奥へ向かって歩き出した。そちらにあるのは––––牀榻だ。
躊躇する素振りも見せずに尚隆は牀榻に入ると、寝台に六太をそっと降ろした。

177「幾星霜を経て」21:2019/04/05(金) 21:21:33
背を尚隆の手に支えられたまま、上半身をゆっくりと後方に倒された。柔らかい褥の上に背中が着地すると、そのまま尚隆が覆い被さってくる。思わず六太は両手で押し返した。
「……どうした」
尚隆は軽く首を傾げた。
「えーと……今から……」
何をするのか、と訊こうとしたが、それはものすごく間抜けな質問のように思えた。尚隆が何をする気なのか、聞くまでもない。
だが六太のほうは、これっぽっちも心の準備が出来ていないのだ。こんな展開になるなんて、ついさっきまで微塵も考えてなかったから。
「……」
何を言おうかと迷いながら、六太は尚隆の背後を見やった。視線を遠くに彷徨わせていると、ああ、と尚隆が笑う。
「窓が開いているな……」
別にそれを気にしていたわけではないが、六太は頷いた。尚隆は身を起こす。
「閉めてくるから、ちょっと待ってろ」
言い置いてから尚隆は立ち上がる。踵を返して牀榻から半歩出たところで、こちらを振り向いて彼は笑った。
「脱いで待っていても構わんぞ」
言われた瞬間、六太の心臓は跳ねて、かあっと顔が熱くなった。
そんなことするはずないだろ、とはもちろん言い返せなかった。自分はこんなに狼狽しているのに、尚隆は冗談を言う余裕があるのだと思うと、なんだか悔しい。
尚隆の後ろ姿が見えなくなってから六太は起き上がり、寝台の上を這ってなるべく奥へ移動する。掛布の下に潜り込み、全身を隠した。
––––どうしよう、このまま身を委ねるしかないのだろうか。気持ちが整うまで少し時間がほしいけど、尚隆は待ってくれるだろうか。それともいっそ、寝たふりをしてしまおうか。
埒もない考えが頭の中をぐるぐる回る。自分の心音は相変わらずうるさくて、周囲の音が全然聞こえない。
逡巡はほんの一瞬なのか、延々と続いているのか、六太には時間の感覚が全く分からなかった。何も考えがまとまらないうちに、いきなり掛布を剥がされた。反射的に奪い返そうとすると、尚隆が笑った。
「なんだ、まだ脱いでなかったか」
そう言った尚隆をよく見れば、重ね着していた袍を脱いで薄物一枚になり、結っていた髪を解いていた。明らかにやる気満々だ。六太は一層うろたえた。
「え、あの、ちょっと……」
尚隆は怪訝そうに軽く眉をひそめる。
「どうした、六太」
褥の上を後ずさりながら、六太は蚊の鳴くような声を出した。
「……無理、だよ……」
尚隆は一瞬眉を上げてから、半ば呆れたような苦笑を浮かべた。
「お前……。散々人を煽っておいて、今更何を言う」
「煽ってなんか……」
「熱烈な口説き文句を言われた気がするんだがな」
「口説いたつもりは……」
「ないのか?」
さも残念そうに尚隆が言うので、六太は返答に詰まった。口説くつもりなんか全くなかったけれど、自分がさっき言った台詞を思い返してみれば「熱烈な口説き文句」と言われても仕方ないかもしれない。なんだか急に恥ずかしくなってきた。
「……まあ、お前自身に口説く気があったかどうかには、さして意味はない。重要なのは何を言ったか、それが本音だったかどうかだ。––––六太。さっき言ったことは、全てお前の本音なんだろう?」
もちろん、そうだ。全て本心からの言葉だった。
だが正面から尚隆に見つめられ、改めて問われると、素直に肯定するのが照れくさくて、六太はつい視線を逸らしてしまう。耳まで熱くなってきたが、否定するわけにもいかない。少し間を置いてから、ようやく頷いた。
「……うん」
「それなら何の問題もないだろうが」
「う……ん。……そう、なんだけど……」
そうは言っても、すぐには決心がつかない。口づけは何の抵抗もなく勢いで出来たが、それ以上のことは––––やっぱり少しだけ、怖いのかもしれない。自分でも、よく分からなかった。
「––––いいと言ったろう」
「……」
「俺に抱かれてもいいと言ったろう?……六太」
尚隆の低い声は、六太の心臓に直接響くようだった。同時に大きな手が頰に伸びてきて、指先で優しく撫でられた。その感触はあまりにも心地よくて、六太は眩暈のような陶酔を覚える。背筋が泡立ち、熱に浮かされたように六太は頷いてしまった。

178「幾星霜を経て」22:2019/04/05(金) 21:24:40
尚隆は優しげな笑みを浮かべ、六太の手から掛布を取り上げようとする。はっと我に返り、六太は慌てて取り返した。
「いいよ、いいんだけど……。まだ、もうちょっと……待ってほしい」
「何を待つんだ」
「……おれの、心の準備……とか」
「そんなもの必要ない」
「そんな、横暴な」
「では今すぐ準備しろ」
「え、無理だよ、そんなの」
尚隆は軽く溜息をついて、言い聞かせる時のような表情になった。
「……六太。こういうことはな、心の準備など無意味だぞ。やってみないと分からん」
「やってみないとって、言われても」
「俺はもう待つ気はないぞ」
「え……」
「十年も我慢した。これ以上は待てぬ」
尚隆の眼差しはいつになく真摯で、六太は何も言えず、その瞳をただ見つめ返した。
十年も我慢したと言われても、それは六太の知らなかったことだし、尚隆だって手を出す気はない、とついさっき言っていた。だから待てない理由に全然なってない。はっきり言って、ただの我儘だと思う。
それでも尚隆に率直に求められたことが、どうしようもなく嬉しくて、苦しいほどに胸の中心が熱くなる。王に求められたら、麒麟は皆こうなるのだろうか。
尚隆の手が金髪を一房すくい取った。視線を合わせたまま、彼はそれに口づける。それは妙に色気のある仕草で、どきり、と六太の鼓動は高鳴った。胸が苦しくて、苦しくて、まともに息も出来ない。
––––ああ、これでは、抵抗なんて出来るはずがない。

尚隆のもう一方の手に掛布を取り上げられたが、今度はされるがままにした。六太は少しでも動悸が鎮まるよう、深く呼吸しようと胸に両手を当てた。
尚隆は手から金髪を褥に落として、六太の顔の横にその手をついた。彼の顔が近づいてきて、解かれた黒髪が広い肩からさらりと落ちてくる。吐息が唇にかかるほどの至近から、尚隆は低く囁いた。
「……いいんだな?」
待つ気はないと言ったくせに、承諾を得ようとする尚隆が、なんだか可笑しい。まだ心臓は鎮まってくれないけれど、六太は微かに笑って頷いた。
「……うん」
尚隆は一瞬だけ唇を触れ合わせてからすぐに離れ、両手で六太の頰を包み込むように挟んだ。熱を帯びた双眸が、まっすぐ六太の瞳に向けられる。
「……六太、分かっているか?今からお前は俺のものになるんだぞ。––––俺だけのものに」
まるで、今まで自分のものではなかったかのような言い方をする。六太の認識では、自分はずっと尚隆のものだった。しかしそれは「麒麟は王のもの」という天の定めた理に過ぎず、自分達の意志ではなかった。
尚隆が言いたいのは、そういう意味ではない。天意ではなく自らの意志で、六太を自分のものにする、という宣誓だ。
これまで尚隆の言動の真意を、六太は掴めないことが多かった。わざと分かりにくく振舞っているのだろう、と半ば理解するのを諦めていた気がする。三百年近い年月の中で、いったい幾つの誤解とすれ違いを重ねてきたか。
だが今は、尚隆の率直な言葉に込められた彼の揺るぎない想いを、六太は明確に汲み取ることができた。
微笑んで、六太はもう一度頷いた。
「……うん、分かってる。おれは尚隆だけのものだよ。……これから先、ずっと」
不意に尚隆は、僅かに眉根を寄せた複雑な微笑を浮かべた。それは初めて見る表情で、ひょっとしたら彼は泣きたいのかもしれない、と六太は何の根拠もなく思った。尚隆の涙なんか今まで一度も見たことがないのに。
胸の上に置いていた両手を六太はそろりと動かして、尚隆の肩に触れてみる。厚みのある肩を伝い、首の後ろに両腕を回した。少しだけ引き寄せて、初めて自分から唇を合わせた。

179名無しさん:2019/04/07(日) 06:36:07
更新ありがとうございます!六太がやっと尚隆に触れることができたのですね!長かった!笑
楽しみにラブラブをお待ちしています〜

180書き手:2019/04/10(水) 20:01:37
>>179 ほんと長かった!笑

初夜中編、また3レスのみ投下です
最後まで一気にエロを書けない私をお許しください…

181「幾星霜を経て」23:2019/04/10(水) 20:04:06
軽く触れただけで離れようとしたが、尚隆はそれを許してくれなかった。彼は全身で覆い被さってきて、唇の間から強引に舌が侵入してくる。咄嗟に少し頭を引こうとしても尚隆の手に押さえられ、全く動かせなかった。
今度の口づけは、先程よりもずっと性急だった。舌が奥深くまで這い、貪るように隅々まで六太の口の中を蹂躙する。声が全く出せず、六太の喉の奥で微かにくぐもった音が鳴る。不慣れながらも応じようと自ら舌を動かしてみたけれど、絡め取られて吸い付かれて、一方的に弄ばれているようだった。
また酸欠のように頭がくらくらした。痺れるような感覚が広がっていく。最初は舌先、次いで唇、そして背筋を徐々に伝って全身へ。六太の中心に熱を持った塊ができたようで、それが身体を内側から熱くさせている。全ての感覚器官が、正常な役割を果たしていない気がした。
激しくなぶるような口づけは執拗なほど長くて、全身から力が抜けてしまう。もはや応じることも抗うこともできなかった。
ようやく唇が離れると、六太は空気を求めて喘いだ。目を開けて尚隆の顔を見ようとしたが、気付かぬうちに涙が滲んでいて、焦点が合わない。
「……尚、隆」
名を呼ぶ声は妙に上擦っていて、自分の声ではないようだった。
目の焦点が合うより先に尚隆の顔は動いて、六太の眦に暖かいものが触れた。湿った感触が、涙を拭うように動いた。それは少しずつ移動して、尚隆の熱い息遣いが耳まで達した。
「……六太」
殆ど吐息だけで囁く、尚隆の低い声。鼓膜だけでなく、六太の全身に微かな震えが走った。どうして震えたのか、自分でも分からない。
軽く耳朶を噛まれた感触の後、這い出してきた舌に六太の耳は弄ばれる。やがてそれは耳孔に入り込んできた。
「あ……」
思わず吐息に混じって声が漏れた。六太は首を縮めて逃げようとしたが、当然ながら逃げることはできない。濡れた音が耳の中でひどく卑猥に響いた。
「や……だ、もう……やめ……」
耐えきれずに六太は制止する言葉を発したが、抗議には到底聞こえないほど弱々しい声だった。それでも尚隆は舌を離し、顔を上げて六太と正面から視線を合わせる。
彼は六太の唇を親指でなぞると、微笑しながら囁いた。
「––––いい声だ」
「え……」
「もっと聞かせろ」
囁くのと同時に再び尚隆の手は動く。衿の合わせから差し入れられて、鎖骨から下方へするりと滑っていった。締めていたはずの帯はいつの間にか解かれていて、尚隆の手の動きに合わせて胸の前がはだけていく。
六太は焦って、どうしていいか分からず硬直した。尚隆はほんの一瞬の口づけを唇に落としてから、六太の首筋に顔を埋めた。皮膚の柔らかい部分をきつく吸われる。
「んっ……痛、い……」
尚隆の頭を手で押し返したが、全く動かない。彼の唇と舌は、六太の肌と接触しながら少しずつ下へ移動していく。熱い舌が鎖骨を濡らして、唇が音を立ててそこの皮膚をまた吸った。今度は痛くはなかったものの、なんだか余計いやらしい感じがして、六太の心拍数はまた上がってしまう。
尚隆の頭の位置は更に下がっていき、胸の突起をぺろりと舐められて、軽く歯を立てられた。
「や……」
六太はびくっと身を捩る。
「……くすぐったい、よ」
少し離れてほしくて、尚隆の頭を両手で押した。

182「幾星霜を経て」24:2019/04/10(水) 20:06:14
「くすぐったいだけか?」
尚隆が顔を上げ、笑って訊くので、六太は頷いた。半分以上は本当だったが、実際は、くすぐったいだけではない変な感覚がしたから、それ以上はやめてほしい、というのが本音だった。
「……本当か?」
尚隆は少し意地悪げな笑みを佩くと、また六太の胸の上に顔を伏せて舌と歯で弄び始めた。反対側は指先でいじられて、六太は反射的に身を捩った。だが尚隆の身体がのしかかっていて、殆ど身動きできない。
「やだ、やだ尚隆……ほんと、やめて」
くすぐったいのと、背筋がぞくぞくするような変な感覚が同時に襲いかかってきて、わけが分からなくて本当にやめてほしかった。
「やだ、だめだってば……!尚隆!」
六太は胸元にある頭を、平手で思い切り叩いた。それでようやく尚隆は手と舌を動かすのをやめ、顔を上げた。
「やめろって言ったじゃん、この莫迦!」
涙目になっている自覚はあったが、六太は精一杯両眼に力を込めて尚隆を睨んだ。
「そんなに嫌か」
「やだよ。くすぐったいし……変な感じもするし……」
何故か尚隆は、嬉しそうに笑った。
「慣れればもっと感じるようになる。触られたり舐められたりすると、興奮するらしいぞ」
そう言いながら、尚隆の指先が再び不穏な動きをしたので、六太は必死に払い除ける。
「やだ、もう、これ以上そこ触ったら、今日はやらせない!」
悲鳴じみた声を上げながら、六太は尚隆の顔を押し返した。彼は少し目を見開き、それから苦笑した。
「––––分かった、今日はもう触らぬ」
それでも六太が睨んでいると、尚隆の手が頭に伸びてきて、そっと撫でられた。
「悪かった。……少し性急だったな」
優しい声音に安堵して、六太は全身の緊張が解けた。
「そうだよ、莫迦……。お前は……こんなの、慣れてて、平静なのかもしんないけど……。おれは、全然……分からないんだから」
不覚にも涙声になってしまう。尚隆は慰めるように六太の頭を撫でながら、困ったような微笑を浮かべた。
「……俺も別段、平静ではないんだが」
「……え、なんで……」
「早くお前の中に挿れたい」
「……!」
あまりにも直截な言いように、六太は唖然として言葉を失った。尚隆は指先を六太の頰に滑らせながら、微かに苦笑する。
「だがお前は初めてだからな、ゆっくり慣らさなければきついだろう。––––俺は性欲を発散するためにお前を抱きたいわけではないのだ。できればお前にも、快感を味わってもらいたい。……これでも俺は暴走せぬよう、かなり自制しているんだぞ」
尚隆の顔が近づいてくる。六太は顔が熱くなり、心臓が早鐘のように打っている。
「––––だから六太。やらせない、などと、邪険なことを言うな……」
その囁きが終わるのと同時に、また唇を塞がれた。

183「幾星霜を経て」25:2019/04/10(水) 20:08:44
尚隆の唇と舌の動きに今度こそ六太は応じようとした。口づけは深くなり、触れ合うだけになり、合間の息継ぎでは吐息が混じり合う。角度を変えて、また奥深くまで。
長い口づけの間にも尚隆の手は動いて、六太の身につけていたものは剥がされていく。六太は緊張したが、目を瞑ったまま抗わなかった。上から下まで全て脱がされてから、やっと唇が離れた。
尚隆は少しだけ身を起こし、自分も帯を解いて、唯一着ていた薄物を素早く脱ぎ捨てた。その間、彼の視線は六太の顔から足の先までを確認するように動いた。改めて見られるのは気恥ずかしくて、あまり見ないでほしい、と六太は思う。
尚隆は再び六太の顔に視線を戻し、ふと笑った。
「ちゃんと反応しているな」
言いながら、彼の手は下のほうに伸びていき、暖かい手が包むように六太の中心に触れた。そこが熱くなっているのは先程から自覚していたが、条件反射的に身体が強張ってしまい、六太はぎゅっと目を瞑った。
「六太」
優しい声に名を呼ばれ、瞼に唇を落とされた。六太が目を開けると、尚隆は安心させるように頷いた。
「––––大丈夫だから、楽にしていろ」
そんなの無理だよ、と六太は思ったが、なんとか頷き返した。
六太のものは尚隆の手に柔く握られて、緩やかに上下に動かされた。
「あ……」
びくっとして腰を引きそうになったが、あいにく動く余地がなかった。
徐々に、だが確実に、尚隆の手の動きは速さを増して、六太の身体は血液の温度が上昇したかのように熱くなっていく。
「ん……や……まだ、待って……」
全身が熱いのに背筋がぞくぞくして、頭の中では真っ白な何かが明滅している。五感がどこかで狂ってしまったんだと思った。
「あ、あ……、だめ、やだ……変だよ」
未経験の感覚が不安で不安で、何かに縋りたくて、尚隆の首筋に両腕を回してしがみついた。
「大丈夫だ、六太」
耳元で囁かれ、頭を撫でられる。それでも不安は消えなくて、六太はしがみついたままかぶりを振った。
「やだ、怖い……尚隆……!」
上擦った声で訴えても、尚隆の手は止まってくれない。
「怖くない、大丈夫だ」
「でも、あ……ん、やっ……」
優しい声とは裏腹に、尚隆の手は容赦がない。緩急をつけた刺激を与えられ続け、熱くて、ぞくぞくして、痺れて、六太はただひたすら翻弄される。
「もう出していい。––––俺の手に出せ、六太」
出せと言われても、どうすればいいか分からない。だが限界まで張り詰めていたものは、六太の意志とは無関係に弾けた。
「やっ……あぁぁ、あ……んん……」
尚隆の手の中に精を放つのと同時に、信じられないような嬌声が六太の口からほとばしった。
一箇所に集まっていた血が一気に逆流したように、全身に震えが駆け抜けて、六太は尚隆に夢中でしがみついた。嵐のような感覚が過ぎ去ると、全身から力が抜けた。
しがみついていた腕を離して、六太は脱力した身体を褥の上に預ける。乱れた呼吸を整えようと、ゆっくり息を吸って吐いた。
虚脱状態の六太の頭を尚隆は左手で柔らかく撫で、唇に軽い口づけを落とす。
「出したのは初めてか?」
尚隆に問われたが、少し冷静になると、完全に我を忘れてしまった自分が恥ずかしい。六太は視線を逸らしてから頷いた。
「……うん」
「気持ち良かったろう」
「え……よく、分かんない……」
「分からないか?」
尚隆は軽く首を傾けると目を細めて、ふっと小さな笑い声を漏らした。
「––––その割に、随分といい声を出していたな」
六太は耳まで熱くなって、尚隆を睨んだ。
尚隆はなんだか嬉しそうだが、そんなこと言わないでほしい。あんな声が自分から出ると思わなかったから、六太は今ものすごく恥ずかしいのに。
先程のあれは、六太が初めて経験した性の快楽というものだろうか。だが理性を吹き飛ばされるような激しく強烈な感覚に、今はただ戸惑っていた。

184名無しさん:2019/04/12(金) 08:54:50
濡れ場更新ありがとうございますw
六太が尚隆の手で変わっていくのがたまらないですね!生娘を頂く尚隆…ごくり。引き続き応援しています!

185「尚六幾星霜」26:2019/04/14(日) 20:29:20
尚隆は微笑すると、おもむろに右手を顔の前に持ってきた。六太が吐き出した精をその手で受けたのだ。白濁した液体が指先までを濡らしている。尚隆はそれを少しの間見つめてから、指先をぺろりと舐めた。
「えっ、な、何やってんの!?」
六太は驚愕して声が裏返った。
「味見だが」
「味見?なんで?そんなの普通、舐めるもんじゃないだろ?」
「普通?––––そんなもの知らん。俺はやりたいようにやっているだけだ」
そう言ってから尚隆は六太の瞳を見つめたまま、見せつけるように再び指を舐めた。
「……案外甘いな」
「嘘つけ!もう、よせって」
六太はやめさせようとして、尚隆の右手首を掴んだ。彼は口から指を離して、どこか楽しげな薄い笑みを佩く。完全にからかわれている、と六太は思う。
だが尚隆は、右手首を掴む六太の手を左手で外しながら、存外真面目な声で言った。
「––––今からこの指で慣らすぞ」
「え……慣らすって、なに……」
言い終わらぬうちに、六太の脚の間に尚隆の膝が割って入ってきた。その膝は躙りながら腿の下に入り込み、六太の脚を持ち上げる。もう一方も同じようにされ、気づけば六太の開いた膝の間に尚隆の腰が収まっていた。
その体勢で彼の右手が下の方へ動いていくのを見れば、情事に関する知識が乏しい六太でも察せざるを得なかった。何処を慣らそうとしているのかを。
尚隆の濡れた指が、探るように後孔の付近を滑った。ぬるぬるした感触がその周囲を動き回るので、いつ指が侵入してくるかと六太は身を硬くしてしまう。
「力を抜け、六太」
囁いた尚隆の唇が、六太の頰に触れる。それで少しだけ身体から力が抜けた。途端に中に入ってくる感触があって、また全身が強張った。
「痛いか?」
「……痛くは、ない」
「それならもっと力を抜いていろ。ちゃんと慣らしてやるから」
「……うん、でも……抜けない」
無意識に力が入ってしまって、どうしたら抜けるのか分からない。自分の身体なのに、さっきから全く思い通りにならず、勝手な反応ばかりしてしまう。
「息を詰めるな、ちゃんと吐け」
言われた通りに、六太はゆっくり息を吐き出す。尚隆の左手が頭を抱いて撫でてくれた。
「ゆっくり全部吐き出せば、自然と力が抜ける」
六太は頷いてから、尚隆の背中に両手を回して、広い肩に頰を押し付けた。暖かい体温を感じていれば、安心して力が抜けそうな気がした。
六太の内側に侵入していた指は更に奥へと入ってくる。内壁を擦りながら何度か抜き差しを繰り返した。その間六太は目を瞑り、深く息を吐くことに集中していた。
「––––二本に増やすぞ」
尚隆の囁きに、六太は無言で頷いた。
直後に入ってきた二本の指に、少しずつ中を押し拡げられていく。内側の粘膜が圧迫されて、なんだか変な感覚だった。六太は意識的にゆっくりと息を吐く。
痛かったら言えよ、と言われながら更にもう一本指を増やされた時、六太は思わず呻いた。
「う……」
「痛いか?」
「……ううん」
六太は首を振った。痛いわけではない。だが三本の指が奥まで入ると、圧迫された内壁から神経に響くような、鈍い刺激を感じた。
「……もう少しだ」
その低い声は、尚隆自身に言い聞かせているようだった。三本の指が六太の中を更に拡げながら、探るように内壁を撫で、浅く深く行き来する。
目を瞑っている六太の耳に、尚隆の息遣いがやけに大きく聞こえる。何故か彼の呼吸は、僅かに乱れているように思えた。
「……尚隆?」
六太は押し付けていた顔を尚隆の肩から離し、彼の顔を覗き込んだ。
「……六太」
うわ言のように呟いた尚隆の目の色は、さっきまでとは全然違っていて、欲望が溢れ出ているようだった。その熱い瞳に見つめられ、六太は軽く息を飲む。

186「尚六幾星霜」27:2019/04/14(日) 20:31:21
「お前の中は、凄くいいな……」
「え……」
「熱くて、脈打っていて……指が締め付けられて引き込まれそうだ……」
どきり、と六太の胸は痛いほどに高鳴った。
「……もう挿れていいか?」
低く、情欲の滲んだ声で訊かれ、六太は唇を引き結び、覚悟を決めて頷いた。尚隆は少し表情を緩めて頷き返すと、ゆっくり指を引き抜いた。
尚隆が上半身を起こす。六太の両脚は彼の手に持ち上げられた。次いで腰を掴まれ、硬いものの先端が当たる感触がした。六太はぎゅっと目を閉じて、敷布を握り締めた。
「……六太、力を抜け」
「う……ん、分かってる……けど」
「怖いか?」
「……怖くない」
かぶりを振ってから目を開けて、尚隆の顔を見つめた。
「怖くは……ないけど。……尚隆」
「……どうした」
「もっと、近くに……」
いてほしい、と囁いて、六太は両手を伸ばした。
尚隆は驚いたような、嬉しそうな表情を浮かべると、上半身を少し前に倒した。六太の背中と褥の間に尚隆の左腕が差し入れられて、軽々と抱き寄せられる。六太は尚隆の首筋にしがみついた。暖かい体温と密着すると、やはり安堵する。さっきの体勢では尚隆と身体が離れてしまうので、なんだか不安だったのだ。
そのまま尚隆は身を起こし、六太は膝の上に跨った。笑い含みの低い声が耳をくすぐった。
「––––お前、思っていたより甘え上手だな」
普段なら反発してしまうところだが、六太は素直に頷いた。いま意地を張ろうとは思わなかった。
「少し腰を上げられるか」
「……うん」
頷いて、六太が腰を浮かせると、硬く勃ったものの先端が当てられて、位置を探るように動かされた。ぴたりとその場所までくると尚隆が囁いた。
「––––力を抜いて腰を落とせ」
尚隆の左手が、六太の腰を支えている。
六太は目を瞑って息を吐き出すと、尚隆の首に腕を回したまま、ゆっくりと腰を沈めた。
指とは比較にならない圧迫感が、六太の内部を侵略する。六太は躊躇してしまい途中で動きを止めたが、尚隆の両手に腰を掴まれて、ぐっと押し込まれた。
「んっ……、うぅ……」
思わず六太は小さな呻き声を漏らした。さっき感じたのと同じ、内側から神経に響くような鈍い刺激。痛みとは違う、快感とも違う、なんだかよく分からない感覚。指で刺激された時よりもずっと強くはっきりと、腰まで響いてくるようだった。
押し込む力が緩むと、尚隆が大きく息を吐きだした。ああ、と零れた彼の吐息は、ひどく官能的に聞こえた。
六太は密着させていた身体を少しだけ離し、尚隆の顔を正面から見た。彼は心なしか眉根を寄せて目を瞑り、僅かに唇を開いていた。幾つかの呼吸の後、ゆっくり瞼が上がる。
六太の瞳に焦点が合うと、尚隆は微笑した。
「……奥まで入ったぞ。––––分かるか、六太」
「うん……分かるよ」
「どんな感じがする?」
「ん……、なんか、変なふうに……響く感じ」
「痛くないか」
「平気。……ちゃんと慣らしてくれたからかな」
尚隆は笑んで、六太を身体ごと抱き寄せると唇を合わせた。六太は尚隆の頭を両腕で抱いて、それに応じる。互いに舌を絡め息を切らしながら、濃厚な口づけを交わした。その間、六太の中にある尚隆のものが時折ぴくりと動いて、内部を刺激する。何度目かの刺激が腰のあたりまで鈍く響いてきた時、びくっと六太の身体は反応してしまった。
その途端、尚隆が唇を離した。息を詰め、何かに耐えるように彼は眉根を寄せる。六太は驚いて、その様子をじっと見守っていた。
「……尚隆?」
「……今の締め付けは、不意打ちだろう……」
「え、不意打ち?」
「いや……、油断していた俺が悪い」
「悪いって……何が」
よく意味が分からなかった。尚隆は苦笑を浮かべて、六太の頭を撫でた。
「……お前の中が良すぎて、うっかり出そうになっただけだ」
「え、あ……そう、なんだ……」
中が良すぎると言われても、どう反応すればいいのか分からなくて、六太は目を逸らした。なんだか顔が熱くなってくる。

187「尚六幾星霜」28:2019/04/14(日) 20:34:31
「––––動いていいか」
「……うん」
頷くと、大きな手に六太の腰は掴まれて、最初はゆっくりと尚隆の腰が揺れた。その動きに合わせるように、六太の腰も揺さぶられる。動きが徐々に早まるにつれて、尚隆の息が上がっていくのがはっきりと分かった。
六太は尚隆の首筋に縋りながら、鈍い刺激に耐えた。時折腰まで響いていた奇妙な感覚は背筋を伝い、背中がびりびりと痺れている。
不意に尚隆は動きを止め、大きく息を吐き出した。乱れた呼吸の合間に、囁く声が耳に届く。
「六太」
「……なに」
「……六太」
「……うん」
きつく、きつく抱き締められた。
耳にかかる吐息に混じって、もう一度、六太、と名前を囁かれた。
「……尚隆」
六太は胸が熱くなって、しがみつく腕に力を込める。
熱い体温、汗ばんだ肌、力強い鼓動、荒い息遣い。五感の全てで尚隆を感じたかった。
「……お前も動けるか?」
「え……」
「俺の動きに合わせればいいから」
「……うん。……動いてみる」
尚隆がゆっくりと動き出す。六太もそれに呼吸を合わせて腰を動かした。
「んっ……」
奥へ奥へと尚隆が侵入してくる。鈍い刺激は強まって、たまらず声が漏れた。
尚隆の動きは少しずつ早まり、六太も遅れないよう懸命にそれに応じた。
「あぁ……六太。……お前は、本当に……最高だ」
尚隆の上擦った囁きは、乱れた呼吸と相まって、この上なく卑猥に響く。六太の鼓膜から、震えが全身を駆け抜けた。
下から突き上げられるように、尚隆の動きが激しくなる。両手に腰を掴まれて、もはや六太の意志では動かせない。
「ん……んぅ……」
鈍い刺激は腰から拡がり背筋を伝って、頭の先まで痺れが突き抜ける。
「あ……尚隆、なんか……変……」
尚隆の動きは止まらない。揺さぶられて、突き上げられて、腰が壊れそうなほど打ちつけられる。
「尚隆、尚隆……」
何度も何度も名前を呼んだ。この世で一番、大切な人の名前。
「……六太」
呼び返してくれた声には余裕がなくて、それが堪らなく愛おしかった。
もっと名前を呼んでほしい。自分の中を感じてほしい。もっと尚隆に近づきたい。ずっとずっとそばにいたい。
透き通るように純粋な想いが溢れ出して、心の中を満たしていく。加速度的に激しくなっていく律動に翻弄されながら、六太は尚隆を抱き締めた。
激しい腰の動きは唐突に止まり、尚隆は掠れた呻き声を漏らした。六太の内側に熱いものが放たれて、満たされていくのが分かった。

暫くの間、抱き合ったままでいた。尚隆の呼吸はやがて落ち着き、六太の腰は軽く持ち上げられて、繋がっていた部分が引き抜かれた。
密着していた身体が少し離されて、六太は正面から顔を見られる。尚隆が驚いたように目を見開いた。
「––––どうした、六太。……何故泣いている」
言いながら尚隆は、六太の頰を指で拭った。自分が涙を流していることに、それで初めて気がついた。
「お前……本当は、身体がきつかったのではないか」
「……違う」
「何か、嫌だったか」
「……違う、嫌なことなんかない」
六太は首を振って否定して、少し笑ってみせた。うまく笑えたかどうかは分からない。
「……尚隆。おれ……ちゃんと、お前のものになれた……?」
尚隆は瞠目して、一瞬息を止めた。それから不意に六太の身体を強く抱き寄せた。耳のすぐそばで、尚隆の囁く声が聞こえる。
「……ああ、お前は俺のものだ、六太。––––俺だけのものになったんだ」
「……うん、良かった……」
涙は次から次へと零れ落ちて、止まりそうになかった。色々なことがありすぎて、高ぶった感情は限界値を超えてしまったんだと思った。事が終わって緊張の糸が切れて、安堵感と、他のたくさんの想いが溢れて、涙になったのだろうか。
六太は尚隆の肩に顔を埋めて泣いた。これまで流した中で一番暖かい涙は、いつまで経っても止まってくれない。
尚隆は六太を抱き締めて、そっと頭を撫でてくれた。昔からずっと変わらない、優しく暖かい手で。

188書き手:2019/04/14(日) 20:37:43
ついに本懐を遂げました…
次回で完結予定です

189名無しさん:2019/04/15(月) 12:47:43
すごい紳士な尚隆がいた!(褒め言葉
六太が健気な新妻風味で萌えまーす(〃ω〃)
ちゃんと抱いてくれてありがとう尚隆!
更新ありがとうございました!!

190書き手:2019/04/16(火) 07:28:37
とにかく幸せな初夜にしたいと思っていたので、紳士な尚隆を書けて良かった
六太は思っていたより健気に頑張ってくれました
自分で書いてるくせに、私の脳内の二人はなかなか思い通りに動いてくれなかったりしたんですが、無事に初夜を書き終えて一安心です
大事に六太を抱いてくれてありがとう尚隆…

191「幾星霜を経て」29:2019/04/21(日) 11:05:56
揺らめく灯火がひとつ、牀榻の内部を仄かに照らしている。褥の上に広がった長い金色の髪が橙色の光を弾いて、髪そのものが美しい燐光を発しているように見えた。その一房を指先に絡め取ると、しなやかに指に巻き付いてから、するりと滑って白い頰に落ちた。それを尚隆がそっと搔き上げてやると、六太の頰は少しだけ緩んだが、瞳は閉じたままだった。尚隆の耳に届くのは、穏やかな寝息だけ。

事が終わって顔を見たら六太は泣いていた。涙を見た瞬間、尚隆は正直なところかなり狼狽した。出来る限り優しく抱いたつもりだったし、六太も承諾していたが、やはり無理をさせたのかと思った。
だから六太が口に出した予想外の言葉に、尚隆は胸を衝かれた。瞬間的に息が止まり、胸を揺さぶられ締め付けられて、それから熱い想いが溢れ出した。なんて健気でいじらしいことを言うのだろう。
暫くの間、六太は嗚咽を漏らすことも身を震わせることもなく、尚隆の肩に顔を埋めてただ静かに涙を流していた。尚隆は金色の頭を撫でながら、時折名を呼んだ。そのたび六太も呼び返してくれたが、結局泣きながら眠ってしまった。しかしその寝顔は、頰は涙で濡れていても唇は微笑んでいるように見えた。
本人も言った通り、嫌だったから泣いたのではないと思う。おそらく緊張の連続だったのだ。尚隆と舎館で会った夜から今日まで、六太は何を思い、どう過ごしていたのか。ひょっとしたら碌に寝ていなかったかもしれない。臥室で尚隆の帰りを待っている間も、ずっと気を張っていたに違いない。初めての性行為も緊張しないわけがなく、全て終わって気が緩んで、泣いてしまったのだろう。

六太の抱き心地は想像以上だった。体の相性が良いのか、それとも心理的な要因か。いずれにせよ、これまでの経験とは比較にならない幸福感に満ちていた。
そもそも尚隆がこれまで性交に求めていたのは、ただの欲の発散でしかなかった。当然のことながら、己の快楽が最優先だった。
だが六太が相手だと自分の心境が全く違った。六太にも快感を味わってもらいたかったし、痛みを感じてほしくなかった。ずっと後になって今夜のことを思い出して、幸せな初夜だったと振り返ってもらいたかった。
尚隆の欲求に六太は全霊でこたえてくれた。戸惑い恥じらう初々しい反応は愛おしく、優しく大事に抱きたいと思った。我を忘れてしがみついて喘ぐ六太はこの上なく淫らで、顔は見えなかったが、その快楽の声はまだ耳に残っている。本当はその表情まで目に焼き付けておきたかった。
口づけの回数を重ねるたびに、六太は段々と積極的に応じるようになり、尚隆の情欲を一層煽った。最後は手加減してやれなかったが、何度も何度も尚隆の名を呼んだ六太の声には、今まで聞いたことのない情感がこもっているように思えた。

尚隆はまた六太の髪に手を伸ばして、しなやかな感触を弄ぶ。
六太が眠ってから、随分時間が経過した。尚隆が帰ってきたのが既に夜更けだったから、もう明け方に近い時刻かもしれない。六太がすぐに目を覚ますのでは、と最初は期待していたが、今のところ全く起きる気配はない。疲れているのだろう。もちろん無理に起こす気はなかった。それでも尚隆は飽きずに六太の寝顔を眺め、時折触れてみる。
丸みのある頰にそっと指を滑らせる。柔らかい笑みが広がり、小さな唇が動いた。
「……しょう、りゅう……」
寝息に混じって、名前を呼ばれる。
「六太」
囁き返しながら、金色の髪を撫でる。
早く目を覚ましてくれないだろうか。
朝が来る前に、もう一度抱きたい。

192「幾星霜を経て」30:2019/04/21(日) 11:08:02
––––夢を見ていた。
六太は榻で、尚隆のすぐ隣に座っている。彼は優しく頭を撫でながら、時折名前を呼んでくれる。満ち足りた気持ちで、六太は寝転んで尚隆の膝の上に頭を乗せた。大きな手が金色の髪を弄ぶ。指が頰を撫でる。六太はなんだかくすぐったくて、尚隆、と名前を呼んで笑った。

ふっと意識が浮上して、六太は薄く目を開ける。眩しい光が飛び込んできて、もう朝だ、と思った。
何度か瞬いてから周囲の様子を見渡せば、ここが尚隆の牀榻だと分かる。だが彼の姿は今、牀榻の中にはない。
じっと耳を澄ましてみると遠くから話し声が聞こえた。おそらく臥室の扉の辺りで尚隆が誰かと話している。官が起こしに来たのだろうか。
六太はうつ伏せに転がってから少しだけ身を起こす。自分が何も身につけていないことに気がついて、少し焦った。仁重殿の牀榻にひとりでいるのなら別にこのままでも構わないのだが、さすがにここで裸でいるのを官に見られるのは居た堪れない。
掛布をめくって自分の衣服を探しても、どこにも見当たらない。掛布を肩から羽織ってとりあえず裸体を隠し、寝台の上を動き回っているうちに尚隆が戻ってきた。
帳を持ち上げて覗き込んできた尚隆が、怪訝そうな声を出す。
「……何をしている」
「あ、尚隆。おれの服どこ行った?見当たらないんだけど」
言いながら尚隆を見ると、手に六太の袍を持っている。ただし昨夜着ていたものとは違う袍だ。
「それ、おれの?」
「ああ、官に持って来させた」
尚隆も寝台の上に座り、六太の前にそれを置くと、少し声を低めた。
「六太、今すぐこれを着ろ。まずいことになりそうだ」
「––––まずいこと?」
「このままだと朝議に引きずり出される」
「あ、そう」
六太は袍を身につけながら相槌を打ったが、別にそんなにまずいことでもない。本来は出るのが当然なのだから。しかし朝議に出るなら礼服を着せられるところだが、これはもっと簡素で布地の少ない袍だった。尚隆も同様に、王らしさの感じられない簡素な衣服を着ている。
「俺は出たくない」
「おれも出たくはないけど……」
「では逃げるぞ」
「どこに?」
「後宮だ」
ぽかん、と六太は口を開けた。
「……こうきゅう……?」
言葉をそのまま繰り返すことしかできない六太に、尚隆は真顔で頷いた。
「そうだ。半刻ほど前に、北宮の建物をひとつだけ開けておくよう下官に言いつけておいた。ずっと閉め切っていたから少々黴臭いかもしれんが、換気して清潔な衾褥を入れれば臥室は使えるようになるだろう。––––暫くの間、籠るぞ」
「……こもる……?」
唖然として、六太はそれしか言えない。
「このことを知っているのは数人だ。口止めもしてある。それ以外の官には、俺達が出奔したように見せかける」
「……なんで?」
「邪魔されたくないからに決まっとるだろう」
「邪魔されたくないって……。何する気だよ」
意図がさっぱり分からず六太が訊ねると、何故か尚隆は呆れたような表情をした。
「お前な……」
溜息をついてから、尚隆は六太の肩に手を置いた。
「俺とお前が後宮に籠る、と言っているのだぞ。––––何をする気か分かるだろう?」
「え、あ……。えぇ!?」
もちろん思い当たることは一つしかなく、六太は思わず変な声を出してしまった。
「理解したようだな」
尚隆は満足げな笑みを浮かべて頷く。六太は口を開けたままその笑顔を見つめた。

193「幾星霜を経て」31:2019/04/21(日) 11:10:07
「そういうわけで、今から官の目を欺いて北宮に行くぞ。別行動のほうが良かろう」
尚隆はそれから互いがどのように行動し、どこで落ち合うかを手短かに説明した。
後宮で何をするか、という点をひとまず置いておけば、これは六太にとってかなり心の弾む提案だった。尚隆と二人で官達を振り回すのは、何十年ぶりだろうか。
「––––分かったか?」
「うん、分かった」
「よし。ではまず俺が出て引き付けるから、時機を見計らってお前も出ろよ」
「うん」
六太は大きく頷いた。尚隆は破顔して、六太の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「捕まりそうになったら、使令で逃げろよ。今回何よりも大事なのは、ちゃんと俺と落ち合うことだからな」
「分かってる。お前も捕まるなよ」
「捕まるものか。官に俺の楽しみの邪魔はさせんよ」
にやり、と尚隆は不敵に笑った。不純な動機ではあるが、彼は気合充分のようだ。
六太のほうは、後宮に籠る案には若干の躊躇があるものの、尚隆と逃げ出す算段を立てる嬉しさのほうが数倍上回っており、絶対に成功させてやる、と意気込んでいた。

二人は寝台から立ち上がり、並んで牀榻から出た。扉の外に複数の官がいる気配がする。もたもたしている時間はなさそうだ。
ふと六太が見ると、榻の前の卓上には、昨夜のまま碁石が撒き散らされている。
「碁石……このままでいいのか?」
「構わん。誰かが適当に片付けるだろう。もういらん」
「……もう、いらない?」
「碁石集めは終わりだ」
「……」
六太が無言でじっと見つめると、尚隆は苦笑した。
「––––百集まったらお前を手放そうと思っていた」
六太は目を見開いた。心臓がきゅっと縮んだような気がした。
「……だが昨夜、お前は絶対に手放さぬと決めた。––––だからもう碁石は必要ないのだ」
尚隆の両手がそっと六太の頰を挟んだ。その暖かい感触と彼の真摯な眼差しが、もう大丈夫だ、と語りかけてくるように思えた。
「……莫迦。お前、ほんと……莫迦だ」
声が震えて、目が熱くなって、視界が滲む。尚隆の顔が近づいてきて、唇を塞がれた。六太は目を瞑り、尚隆の袖をぎゅっと掴んだ。入り込んできた舌に自分のそれを絡めて、深くまでいざなう。歯列の裏側も頰の内側も、六太の口腔内の全てが尚隆の舌に愛撫を施されていく。
「ん……」
尚隆の腕に腰を引き寄せられて、六太は両腕を彼の首の後ろに回した。口づけは更に深くなり、ぞくぞくするような甘い痺れが全身に拡がっていく。
しかし完全に没頭する前に、扉の外から声が掛かった。今にも扉を開けて何人もの官が雪崩れ込んできそうだった。
名残惜しげに唇が離れて、熱を孕んだ尚隆の瞳が六太を見つめた。
「……続きは後宮でするぞ」
「……うん」
尚隆の囁きに、六太は頷いた。頰だけでなく身体も火照っているのを自覚する。
また扉の外から声が掛かり、今出るから待て、と尚隆は返事をした。
二人は身体を離し、尚隆は扉へ向かって行く。六太は框窓のそばに歩み寄る。緩んだ頰をぱしっと叩き、いつでも脱出できるよう気合いを入れ直した。

194「幾星霜を経て」32:2019/04/21(日) 11:12:17
「連中はいったい、どこへ行ったんだ!」
官府に響き渡る帷湍の怒鳴り声にも慣れたもので、朱衡は涼しい顔で淡々と言葉を返す。
「さあ、どこでしょうね」
「まったく、あいつらがつるむと碌なことをせん。近頃なかったから油断していたが、まさかそれも今日のための長期的な戦略だったんじゃないか」
帷湍が勘繰りたくなる気持ちもよく分かる。朱衡は軽く笑い、手にしていた書類を卓に置いて顔を上げた。
「私は現状を把握していないのですが、簡潔に説明してもらえませんか」
「今朝、長楽殿の臥室から二人が別々に出てきたのは複数の官が目撃している。その後、禁門の方へ向かって行くのもな。そして厩舎には今たまがいない」
「ではどこかへ出奔したのでしょう」
「だが門から出て行く姿を誰も見てないんだ」
「全員うまく出し抜かれたのでは?」
「いや、何かおかしい。夜中ならまだしも、大勢の官の目がある朝だぞ?」
そうですね、と言って朱衡は少し考え込む。ややあって顔を上げた。
「では、こういう可能性は?」
「なんだ」
「口裏を合わせるよう命じられた官がいる」
「……あり得るな。だが仮にそうだったとして、誰が命じられたのか」
「一人ひとり問い詰めるわけにもいきませんし、王に命じられたとあっては、簡単に口を割らないでしょうね。……まあ、暫く放っておいても構わないのでは?」
「お前は悠長だな……」
「今更あの方々の姿が見えないくらいで、騒ぎ立てる気にはなりませんよ。むしろ私には、あなたが何故そこまで怒っているのか不思議ですが」
朱衡が首を傾げると、帷湍は大きく溜息をついた。
「……お前もこの前成笙に聞いたろう、北路の一件を」
「妖魔の襲撃の件ですか」
先日、北路の街の柳国側で、妖魔の群れに民が襲われて多数の死傷者が出たのだ。死傷者は全員柳国民だったが、禁軍の兵士も多く派遣されていたので成笙に報告が上がったのである。
帷湍は渋い顔で頷いた。
「その後、続報が入ってな。民の警護をしていた兵士の話では、通りすがりの男がひとりで妖魔を全部斬ったそうだ」
「全部ひとりで?––––それはすごいですね」
「そいつは騶虞を連れていて、髪は黒く、背の高い男だったそうだ。––––誰だか分かるか」
「……心当たりはあります」
「決定的な証言もある。そいつはな、騶虞に『たま』と呼びかけていたらしいぞ」
朱衡は吹き出した。そんな名前の騶虞はこの世に二頭といないだろう。帷湍は拳で卓を叩く。
「まったくあいつは、何を考えているんだ!自分の立場を全然わきまえとらん」
「まあまあ、それで大勢助かったわけですから」
「だからと言って、ひとりで妖魔の群れと戦うなど、無謀にも程があるだろう!」
「––––確かに、それで主上の身に何かあっては全国民が困りますからね」
「帰ってきたら朝議に引きずり出して政務をさせて締め上げて、とっちめてやろうと思っていたのに、まんまと逃げられたんだぞ!」
帷湍は再び卓を殴った。
「こうなったら手段は問わん。何がなんでも探し出してやる」
「––––やめておきなさい」
朱衡が諭すように言うと、帷湍は意表を突かれたように瞬いてから眉をひそめた。
「どうして止めるんだ」
「今は放っておいたほうがいい、と思うからです」
「何故だ?」
「主上と台輔が二人一緒に行方をくらましたのでしょう?これは久しくなかったことです」
「……だから、なんだ」
「ですから、邪魔をしないほうがよろしいかと」
「……何が言いたいのか、さっぱり分からん」
「まあ、いずれ分かるでしょう。……とにかく私は、今は放っておくべきだと思います。––––そのうち姿を現しますよ、おそらく二人揃って」
「お前……何か事情を知っているのか?」
「いいえ、何も。私はただ、憶測でものを言っているに過ぎません。ですから、あなたがどうしてもお二人の行方を探すのであれば、阻止することはできません。説得するだけの根拠を持ち合わせておりませんので」
帷湍は更に困惑を深めたように、眉間に皺を寄せる。朱衡はにっこりと笑いかけた。
「ですが協力もいたしません。野暮なことはしたくありませんからね」
朱衡の真意は帷湍には全く理解できなかったが、協力しないときっぱり言われると、なんだか気勢をそがれてしまう。
朱衡の言う通り暫く放っておくか––––そんな心境に、帷湍もなっていた。

195「幾星霜を経て」33:2019/04/21(日) 11:14:17
北宮の園林の片隅にある小さな四阿が、約束した場所だった。尚隆がそこに到着したのは六太と別れてから一刻以上が経過した頃。太陽は天頂と水平線の中間を越え、もう朝とは言えない時刻だった。
官を目を欺いたうえで振り切るのは予想以上に厄介で、やり甲斐のある悪戯ではあったものの少々時間がかかってしまった。
四阿の中に六太の姿はない。先に着いているはずだと考えながら尚隆は周囲を見回した。最低限の手入れしかされていない園林は、草木が繁茂しており、あまり見通しが良くない。
「六太、どこにいる」
声を発してみると、くぅ、という音が茂みの奥から聞こえた。獣が喉を鳴らしたような音だ。
「たま?」
茂みを掻き分けて音のした方へ近寄って行くと、灌木にぽっかりと隙間が空いている場所が見えた。短く生えた草の上、寝そべる騶虞に凭れかかって眠る少年の姿があった。
くぉん、とたまが嬉しそうに鳴く。尚隆は苦笑して、しゃがみ込んで騶虞の頭を撫でた。
「たま、ご苦労だったな。六太は預かるから、お前は園林で好きにしてていいぞ。ただし、塀を越えてはならぬ。––––いいな?」
了承したように、たまは喉を鳴らす。尚隆は騶虞に凭れている六太の身体を左腕に抱き寄せて、右手で懐から瑪瑙を取り出した。たまの鼻先に差し出すと、嬉しそうにそれを咥えてから騶虞はしなやかに身を起こし、軽く跳躍すると茂みの向こうへ姿を消した。

尚隆は草の上に胡座をかいて、小さな身体を抱え直す。六太は安心したように穏やかな寝息を立てて眠っていた。昨夜からずっと寝顔ばかり見ている。余程寝不足だったのだろうか。夜中に起こすのは忍びなかったが、さすがにもう起こしてもいいだろう。
尚隆は六太の身体を軽く揺すった。
「六太、起きろ」
「んー……」
六太は薄く目を開けた。尚隆の顔を認識したのかどうか、ふっと頰が緩んで、再び瞼が下りる。まだ寝るのかと思った瞬間、ぱっと瞼が上がった。
「……たまは?」
尚隆は瞬き、次いで苦笑をもらした。
「お前な……。目の前に俺がいるのに、開口一番たまの心配か」
「え……だって、たまが見つかったら、おれ達が出奔してないことばれちゃうじゃん」
「––––大丈夫だ。さっきまでここにいてお前の枕になっていた。今は園林内で遊んでいるだろう」
「そっか、良かった」
六太はほっとしたように笑って、少し身を起こした。尚隆は両腕を六太の腰に回す。
「お前はよく寝るな。昨夜も俺を放置して、朝までずっと寝てたしな」
ほんの僅かの恨みを込めて言ってみると、六太は拗ねたような表情になった。
「今寝てたのは、お前が遅いから待ちくたびれたんだよ。……昨夜は別に、放置とか考えてなくて……いつの間にか寝てただけだし」
「寝不足だったのか?」
「……うん。ここ数日、よく眠れなかったんだ。––––でも昨夜は久しぶりによく眠れた。いい夢見た気がするし」
「どんな夢だ」
「はっきり覚えてないけど……。尚隆が隣にいた」
「現実でも隣にいたんだが」
「あ、そっか」
六太の笑顔には屈託がない。尚隆は軽く溜息をついた。
「お前が夢の中の俺と一緒にいる間、現実の俺はひとりで時間を持て余していたんだぞ。どうせなら現実の俺の相手をしてほしかったな」
「そんなこと言われても」
「お前が目を覚ましたら、もう一度抱こうと思っていたのに」
「……!」
六太は目を見開いた。腕の中の身体は硬直し、見る間に頰に赤みがさす。分かりやすい反応に、尚隆は笑った。

196「幾星霜を経て」34:2019/04/21(日) 11:16:22
「まあ、過ぎたことを今更言っても仕方ない。大事なのは今後のことだ」
言いながら尚隆が頭を撫でてやると、六太の身体は弛緩して、抗議するように拳で胸を叩かれた。
「……暫く籠るって言ってたけど、具体的にいつまでだよ」
「理想を言えば、俺の目的を達成するまで、だな」
「目的って?」
「お前の開発だ」
「……かいはつ……?」
きょとんとした顔をして、六太は首を傾げた。まるで分かってないその様子に、真面目な顔を作っていた尚隆は思わず吹き出した。
「え、なんで笑うんだよ?開発ってなんだよ?意味わかんねえじゃん」
「いや……お前は本当に、面白いな」
「なにが?ちょっ、お前、そんなに笑うな!分かるように説明しろよ」
それでも尚隆が笑っていると、六太はむすっとした表情で膝の上から立ち上がろうとする。尚隆は腰を掴んで引き戻した。逃げられないよう、そのまま抱き締める。最初六太は身を捩って逃れようとしていたが、やがて諦めたように身体から力が抜けた。
「からかうなよ……もう、莫迦尚隆……」
「……悪かった。からかうつもりはなかった」
「……ばか」
尚隆は腕を緩めて、六太の顔を覗き込む。
「––––開発がどういう意味か、知りたいか?」
「……うん。だって、それがお前の目的なんだろ?」
六太は頷いて、まっすぐ視線を合わてくる。真剣な面持ちで、説明を待っているようだ。尚隆もなるべく真剣な表情を作った。
「開発というのはな、六太。––––俺がお前の身体に閨事を教え込む、という意味だ」
「……え?」
一拍おいてから、六太の顔は一気に紅潮した。
「な、に、それ……また……からかってんの?」
「俺は真面目だぞ。お前がちゃんと快楽を感じるようになるまで、教え込んでやる」
「教え込む……って……」
六太はそれ以上、言葉が出てこないようだった。尚隆は笑って、金色の頭をぽんぽんと叩く。
「お前は難しく考えなくていい。俺に任せておけ」
六太は困惑したように視線を逸らして、俯いてしまった。こういう初々しい反応が可愛いと思うのだが、それを口に出したら六太は怒るだろうか。
尚隆は笑いを抑えると、六太の耳元に口を寄せる。宥めるように優しい声で囁いた。
「……心配するな、六太。––––お前は覚えが早そうだから、すぐに感じるようになる」
言い終わらぬうちに、案の定、また拳で胸を叩かれた。さっきよりも強く。
「……そういうこと言うな、莫迦」
こういった話題にどう対応すればいいか分からないのだろう。六太は顔を隠すように、更に深く俯いた。

197「幾星霜を経て」35/E:2019/04/21(日) 11:19:26
尚隆は六太の顔を覗き込み、細い顎に手をかけて持ち上げる。やや抵抗を感じたものの、顔を上げさせることに成功した。
「六太」
囁いて、唇に触れるだけの口づけを落とす。六太は僅かに頭を引いた。
「……さっきの続きだ」
「……続き?」
「臥室を出る前に言ったろう。––––続きは後宮で、と」
尚隆は微笑して、至近距離で六太の瞳を見つめながら、まだほんのり赤い頰をそっと撫でた。
「……お前……ずるい」
「そうか?」
「ずるいよ……」
囁く六太の声音には、どこか甘い響きがある。無自覚にこんな声を出しているのなら、ずるいのは六太のほうだろう。
尚隆は右手を金色の頭の後ろに添えて、唇を重ねた。迎え入れるように唇が薄く開いて、尚隆は舌を差し入れる。六太の唇は蕩けるように柔らかく、舌は信じ難いほど甘い。自分の味覚に異常があるのではないかと疑いたくなる。
首の後ろに六太の腕が回されて、口づけは深くなっていく。最初ぎこちなく応じていた昨夜とは別人のように、六太は積極的かつ官能的に舌を絡めてくる。こんなに覚えが早いなら、身体のほうもすぐに慣れてくれるだろうと、尚隆の期待は高まった。
「は……ぁ……」
息継ぎの合間、六太の吐息が陶然と響いて、尚隆の奥深くから熱い衝動が湧き上がる。
––––早く抱きたい。
唐突に唇を離すと、尚隆は軽い身体を抱えたまま立ち上がった。六太が慌てたように尚隆の袍を掴む。
「……お前、急に立ち上がるなよ」
「悪いな」
六太の文句にはそれだけ返して、尚隆は歩き出した。灌木の茂みを抜けて石畳の小径に出る。
「自分で歩くから。降ろせよ、尚隆」
「断る」
「なんで」
「離したくない」
六太は口を開いたまま一瞬止まる。視線を彷徨わせ、何か言いたげに唇を動かしてから、尚隆の首筋に顔を伏せた。
「……ただの我儘じゃん……」
耳元で六太が呟いた。尚隆は少年の華奢な身体を抱き締めて、声を上げて笑う。

他愛ない我儘に聞こえるだろうか。だがこの我儘を口に出すまでに、十年もの歳月を費やしてしまった。
王としての責務と人としての想いの狭間で惑った日々は、ひどく愚かで不合理だったとしても、きっと無意味ではなかった。人は愚かな生き物だ。無論王とて例外ではなく、誰しも惑う時がある。むしろ重責を背負い寿命の長い王が、何の迷いもなく生きられるわけがないのだ。
迷うことも闇に囚われることも、この先いくらでもあるだろう。それでも交わした二度目の誓約は、今後どのような困難があろうとも、二人の行き先を示す光になるはずだ。

六太が顔を覗き込んできて、軽く首を傾げた。
「どこに向かってんの?」
「牀榻に決まっとるだろう」
「え!?––––いや、でも、いま真っ昼間なんだけど?」
「だからどうした。俺は昼夜問わずやるために後宮に来たんだぞ」
「いや、昼夜くらい問えよ」
「断る」
「お前、ほんと我儘だな!」
「諦めろ。お前は俺のものになったんだからな」
言いながら、尚隆は六太の背中を軽く叩く。抗議するような六太の声を、笑って受け流した。
差し当たって尚隆が目指す二人の行き先は、北宮の再奥にある小さな離宮だ。捜索の手が伸びてくるまで、せめて数日はそこで二人きりで過ごしたい。

柔らかい風が吹いてきて、六太がふと顔を上げた。
ふわりと金色の髪がなびく。秋の陽射しを弾いて、眩しいほどに黄金色の光が踊る。
どこかで花が咲いている。ほのかに甘い香りが、風に乗って届いた。

第五話「幾星霜を経て」終わり

−完−

198書き手:2019/04/21(日) 11:21:29
約一年半かかりましたが、ようやく完結です
途中なかなか進まなくて自分でももどかしかったのですが、書きたいこと詰め込んだうえでハッピーエンドにできて今すごい達成感あります
最初に初夜書く宣言しといてよかったかもw
自分を追い込む意味で
最後まで読んでくださった方、コメントくださった方、ありがとうございました!

199名無しさん:2019/04/22(月) 00:58:22
長い間楽しませて頂きありがとうございます!お疲れ様でした!
終わりの尚六も甘くて爽やかで素敵です。しばらく尚六ないと思うとすごく寂しいのですが_:(´ཀ`」 ∠): 今はこの二人を噛み締めて新刊を待ちたいと思います。本当にありがとうございました!

200書き手:2019/04/22(月) 19:25:10
コメントありがとうございます
最終回の甘々な二人は書いててかなり楽しかったですw
新刊発売日決まって、待ち遠しいですね!
でもすごく楽しみな反面、色々考えると怖い…
こんな気持ちで小説の新刊を待つのは初めてです(-_-;)
新刊待ってる間にキャラ達に入れ込み過ぎちゃったんですよね…
尚隆&六太はもちろん、みんなに幸せになってほしい(T ^ T)

201名無しさん:2019/04/22(月) 23:50:47
長期間の連載ありがとうございました!幸せ尚六で読んでてにまにましちゃいました。
私も毎回楽しみにしてたのでこの連載がなくなるのがとても残念… 自分で書くか!とも思ったんですが、文才が追いつきませんでした。やっぱり新刊待つしかないかな。

202書き手:2019/04/23(火) 21:38:10
にまにまして頂けて嬉しいですw
ぜひぜひ書いてください、姐さん!
いろんな尚六が読みたいです。
尚六好きな人って世の中に何人くらいいるんでしょうね?結構な人数いますよね、きっと
それぞれの脳内に色々な尚六妄想が詰まっていると思うので、それを全部見てみたい…

203書き手:2019/06/22(土) 15:53:12
永遠の行方が完結して、ここが定期的に更新されることはないのかと思うと寂しいです(でも姐さんがたまに書くと仰っているのでものすごく期待して待ってる)

なんかまた書きたくなってきて、ちょこっと後日談を書いたので、中途半端ですが投下します

204「後宮生活」1:2019/06/22(土) 15:56:29
「尚隆……」
吐息まじりの囁き声に名を呼ばれた。
榻の隣に座る六太を見返せば、その瞳は潤んで、頰には赤みがさしている。とろん、と焦点の定まらない視線が、尚隆の顔周辺をふらふらと彷徨う。
「六太」
名を呼んで頰に手を伸ばすと、六太はくすぐったそうに表情を緩ませて目を閉じた。すると視覚を遮断したことで平衡感覚を失ったのか、身体が大きくこちらに傾いてくる。尚隆は軽い身体を受け止めた。
「……飲み過ぎだな、六太」
言いながら尚隆は、六太の身体を榻の上に横たえて、金色の頭を自分の膝の上に載せた。
「ん……そうかも」

北宮に籠って二日目の夜だった。
尚隆が昨日くすねてきた酒を、二人で飲んでいた。二人きりで飲むのは十年ぶりで、六太は終始笑顔で酒杯を重ねていた。楽しそうに笑いながらぐいぐい飲むので、飲みすぎではないかと尚隆は思ったものの、それを口には出さずにいた。

六太は目を瞑ったまま仰向けに体勢を変えた。
「こんなに酔ったの久しぶりだ……」
「お前、以前はこんなに飲まなかったろう」
「……そうだっけ?」
「自分の適量を忘れたか?」
「忘れた。……だって、酒なんかここ十年殆ど飲んでないもん」
十年、と尚隆は呟いた。それの意味するところは問わずとも知れた。
「尚隆と飲まなかったから」
「……ああ」
「大勢での酒宴の時は酔うほど飲まないし、ひとりでは一滴も飲まないし。……一緒に酒飲む相手なんか、他にいないし」
「––––そうか」
膝の上の六太の頭を柔らかく撫でながら、尚隆は微かに苦笑した。
「……寂しかったか?」
訊ねてみると、六太は閉じていた瞼をゆっくりと上げる。
別に、と即座に否定されるかと思って発した問いだった。しかし意外にも、六太は無言でまっすぐ見上げてきた。じっと視線を注がれて、尚隆は瞬きもせずにその瞳を見つめ返す。
時折見せる、幼い外見にそぐわない深みのある眼差しだ。六太は子供ではないのだと思い知らされるようで、これまで尚隆はまともに見返すのを避けてきた気がする。だが今は目を逸らさずに、瞳の奥深くにあるものを全て見透かしてやりたい、と思う。
ふ、と六太の唇が笑みの形を作った。
「……逆に訊くけどさ、おれが寂しくないだろうって、お前は思ってたわけ?」
冗談めかした口調ながらも尚隆を責めるような言葉は、先程の問いを肯定する答えだ。
「……いや」
「てことは、寂しい思いさせたくて、わざと避けてたんだ」
「そうではない」
「じゃあ、なんで?」
「……悪かった」
「謝ってほしいんじゃない。おれは、お前が何考えてたか知りたいだけ」
酔っているからだろう、六太はいつになく率直だ。
「……尚隆は、おれと一緒に飲みたいとか、思わなかったのか?」
「いや……飲みたかったな」
正直に返答すると、六太は柔らかい笑みを浮かべた。酔って上気した頬と相まって、照れているように見える。
「だが、飲みたくなかった」
六太は瞬いてから、拗ねたように顔をしかめた。
「……どっちだよ」
「どちらも本音だ。……飲みたいと思っていても、二人で酒など飲んだら箍が外れてお前に手を出しそうだと思ったからな」
「……お前って、酔って自制心なくすほど酒に弱かったっけ?」
「酒には弱くないが。……弱っていたのは自制心のほうだ。もし酒の勢いで手を出したら絶対に後悔すると思っていた」
自嘲するように尚隆は言って、六太の頰に指先を滑らせた。

205「後宮生活」2:2019/06/22(土) 15:59:54
「……手、出しちゃえば良かったのに」
ぼそっと呟いて、六太は悪戯めいた笑みを浮かべた。
「……案外大胆なことを言う」
「そうかな」
「誘っているのか?」
尚隆は頰を撫でていた指で六太の下唇に触れる。柔らかくて少し湿った感触を指先でなぞると、六太の手に軽く払われた。
「そうじゃなくてさ。……たとえ酒の勢いだろうと、多分おれ、拒否しなかった」
思わず苦笑が漏れた。こういうところが厄介なのだ、と思ってしまう。
今夜の六太の言葉は、率直で大胆だ。久しぶりの酒のせいか、想いが通じ合ったが故にか。あるいは、それらの相乗効果だろうか。
「––––だからこそだろうが。俺が本気なら、おそらくお前は拒否できない。……だったらなおさら、覚悟もないのに手を出すべきではなかろう」
「……なんか誠実っぽいこと言ってる」
「惚れ直したか?」
「ばーか」
けらけらと声を上げて、六太は笑った。
こいつ、と笑って尚隆は六太の頰を軽くつねる。よせよ、と言いながら六太は両手で尚隆の手を捕獲した。
「……今は?」
「今?」
「今は後悔してるか?」
「しているように見えるか?」
「見えない」
尚隆の右手を両手で弄びながら、六太は楽しそうに笑う。
昨日から六太は、手持ち無沙汰になるとしょっちゅう尚隆の手で遊んでいる。掌同士を合わせたり、ひっくり返して眺めたり、甲の骨や血管を指先でなぞったり。何が面白いのか分からないが、尚隆は手を預けたまま、好きなようにさせていた。
「……それで?」
「なんだ」
「さっきの質問の答えは?」
「……六太の思っている通りだ」
「ちゃんと言えよ、お前の言葉で」
六太は手を止めて、再びまっすぐな眼差しを向けてきた。こんなふうに六太が言葉を要求してくるのは珍しい。甘えているのだろう。どこまで自覚的なのかは分からないが。
尚隆は微笑を浮かべ、左手で金髪を撫でながら答えた。
「後悔などしていない。俺は欲しかったものを手に入れたのだ。……今後も後悔はせぬ。––––絶対にな」
六太は瞬きもせず、数呼吸の間じっと尚隆を見つめ、それから微かに頷いた。
「……うん」
不意にその瞳に透明な膜が盛り上がって、目尻から零れ落ちていく。尚隆は少し驚いたが、表情は変えずに静かな声で訊いた。
「––––どうした」
右手は捕獲されたままなので、頭を撫でていた左手を動かして指で六太の目尻の涙を拭う。
「どうしたんだろ……。別におれ、泣き上戸じゃなかったのに」
尚隆の右手を両手で胸の上に抱え込むようにして、六太は目を閉じた。被衫の薄い布地を通して、六太の鼓動が右の掌に伝わってくる。普段より、少しだけ早い。
「おれ、誰かに涙見られるの、嫌だったんだ。……泣き顔なんて誰にも見られたくなかった」
「だろうな」
お前は意地っ張りだからな、という言葉は続けずに、胸の中にしまっておいた。
「けど、尚隆に見られるのは……そんなに嫌じゃないかも」
「……そうか」
呟きながら、思わず表情が緩んでしまう。
六太は深く考えもせずに言っているようだが、その台詞が意味するところは、それだけ尚隆に心を預けている、という告白だ。無防備に心情を晒してくれるのが嬉しかった。
「では、泣きたくなったら俺の前で泣けばいい。……他の誰かに涙は見せるな」
「うん……そうする」
囁くように六太は言い、小さく頷いた。
六太は目を瞑ったまま黙り込んだ。涙はまた零れ落ちて、目尻から耳に向かって透き通ったひとすじの道を作る。尚隆もまた無言で、指先でそれを拭った。

206「後宮生活」3:2019/06/22(土) 16:02:31
正寝のそれと比べれば狭い臥室は、現在窓も扉も閉まっていて、周囲からは何の物音もしない。六太の息遣いはとても静かで、尚隆も息をひそめていないと聞こえない程だった。
やがて涙は止まったが、六太は全く身じろぎもしなかった。尚隆の右手は相変わらず六太の胸の上に捕まったままで、鼓動が規則正しく掌を打っている。
尚隆は左手で金髪を弄びながら、このまま眠ってしまうのだろうか、と少し残念に思う。まだ抱き足りないのに。
暫く六太の顔を眺めていると不意に、閉じていた瞼が音もなく上がった。
「……なあ、尚隆。明日一緒に関弓に降りようぜ」
「なんだ、急に」
「だって、もうすぐ雨期じゃん。雨降り出す前に、街に降りたいんだ」
「しかし一度ここを出たら、戻ってくるのは難しいぞ。おそらく途中で見つかって、後宮に籠っていたことがばれるだろうからな」
「いいだろ別に。ここに戻って来なくても。そのままどこか遠くに行っちゃえばいいじゃん」
六太の提案は、尚隆にとっても魅力的ではあったのだが。
「––––それにはいくつかの問題がある」
「問題?」
「最大の問題はな、六太。俺の目的が未だに道半ばだ、ということだ」
「え、そこ?」
「当然だろう。ここに来た目的は昨日説明したろうが」
「説明されたけどさ……。そんなの別に、ここですぐに達成しなくても良くねえ?」
「いや、俺の気が済まない」
「我儘なやつ」
「俺は何も我儘だけで言っているのではないぞ。目的の達成は近い、という手応えがあるからだ」
「手応え、って……」
「お前の感度は確実に良くなってきている。自分でも分かっているだろう?」
瞳を覗き込むと、六太はふいと視線を逸らした。尚隆の右手を掴む両手にぐっと力が入る。掌に伝わってくる六太の鼓動が、先程よりもずっと早い。耳まで赤いのは、酒のせいだけではないだろう。
尚隆はその反応に満足して、金髪を撫でながら笑った。
「おそらく達成間近だ。関弓に降りるのはそれからだな」
「やだ」
六太はそっぽを向いて即答した。
「絶対、明日がいい」
「––––六太」
「尚隆、おれと一緒に街に降りたくねえの?」
「そうは言ってないだろう。優先順位の問題だ」
「おれの希望を叶える気はないんだ」
恨めしげな視線を向けられる。どうやら拗ねてしまったようだ。酔っているせいか、感情表現が素直すぎる。
仕方ないな、と内心で呟いて、尚隆は軽く息を吐いた。
「……分かった。お前の希望を叶えよう」
ぱっと六太の表情が明るくなる。
「ただし条件がある」
「条件?」
「今から三回やるぞ」
「……へ?」
ぽかんとした顔で、六太は瞬いた。
「……今から?」
「そうだ」
「……三回も?」
「三回で我慢してやる」
「いや、でも今日も何回もやったし、おれもう疲れてんだけど……」
「だが明日出掛けたいんだろう?」
「……うん」
「では今すぐやるぞ」
尚隆が右手を動かそうとすると、六太の両手に阻止された。

207「後宮生活」4:2019/06/22(土) 16:05:32
「ちょっ…待てよ、話が飛躍してないか?」
「飛躍はしとらんぞ。これは互いの希望の妥協点だ。俺は官に見つかるまでは後宮に籠って思う存分やりたいと思っていたが、お前は明日出たいと言う。ならば今夜は俺の望みを聞き入れてくれてもよかろう?」
う、と六太は言葉に詰まって視線を逸らした。
「これ以上の譲歩はせんぞ」
冗談めかして言いながら、尚隆は笑う。
別段追い詰めるつもりもないのだが、六太は困惑したような難しい顔をして、黙り込んでしまった。何か言いたいことがありそうなので尚隆も黙って待っていると、暫くしてから六太は窺うように見上げてくる。
「……どうしても三回?」
「ああ」
「……」
「嫌なのか?」
「……嫌じゃないけど」
「けど、なんだ」
「……よく分かんない」
「それでは俺にも分からん」
「うん……」
六太にしては珍しく、何やら言いにくそうに口ごもっている。尚隆は金色の頭をぽんと叩いた。
「––––もし俺の抱き方に不満があれば、言っていいんだぞ」
しかし六太は首を横に振った。
「……不満とか、そんなんじゃない」
六太は少し考えるように沈黙してから、囁くような声で話し始めた。
「だって……おれ、なんか変なんだ。……尚隆に触られると、全身から力が抜けちゃって、内側から熱くなって……自分の身体じゃなくなる気がするんだ。……頭が真っ白になって、わけ分かんなくなるし。……何回やっても慣れなくてさ……むしろ、どんどんおかしくなってる気がする」
それこそが開発の成果というものだが、まさか六太が赤裸々にこんなことを言うとは思いもよらず、尚隆は瞠目して六太の顔を凝視した。色白の頰が今は赤く染まり、伏せた目を縁取る金色の睫毛は濡れて束を作っている。微かに唇を震わせて言葉を紡ぐさまが、何故だかひどく蠱惑的に見えて、尚隆は軽く息を呑んだ。
「嫌なわけじゃないよ。––––ただ、変化が急すぎるっていうか……。多分、戸惑ってるだけなんだと思う……」
尚隆の期待以上の早さで六太の身体は慣れてきて、一昨夜とは全く違う反応を見せてくれる。六太がそうして変わっていくのが、尚隆は楽しくて仕方なかった。だが何の経験もなかった六太のほうはどうだったか。快楽を得られればそれで良い、というものではないだろう。
「……そうだな。戸惑うのが当然かもしれん」
それに思い至らなかったのは、自分で思っていた以上に六太との情事に耽溺していて、視野が狭くなっていたせいだろうか。
「––––そこまで考えが及ばなかった」
金色の頭を出来るだけ優しく撫でながら言うと、六太はほっとしたような笑顔を見せた。
「……なんかお前、そういう殊勝な言い方似合わない」
「たまには俺も反省する」
「へえ、たまに?反省材料はもっとたくさんあると思うけど」
いつもの軽口のように言い、六太はにっと笑った。
「口の減らんやつだな」
尚隆は左手で金髪をくしゃくしゃと勢いよくかき混ぜた。
なんだよ、と六太がそれを止めようと両手を動かしたので、ようやく尚隆の右手は解放された。

208「後宮生活」5:2019/06/22(土) 16:07:44
自由になった右手をすっと動かして、衿の間から滑り込ませると、六太は焦ったような顔をする。尚隆はほくそ笑んで、指先で胸の尖りを探り当てた。
「あっ……」
吐息のような微かな声を上げて、六太は身を捩った。
「ちょっ、何すんだよ」
「今からお前を抱くつもりだが」
「なん、で?」
「抱きたいからに決まっとるだろう」
「え、でもさっき、反省したって言ったじゃん」
「反省した。だから一回だけにする」
「なにそれ」
「譲歩だ」
六太は唖然としたように口を開けた。
尚隆は左手で六太の頭を持ち上げてから、右腕で軽い身体を引き寄せて抱え上げる。膝の上に座らせて、六太の顔を間近に覗き込んだ。
「嫌ではないんだろう?」
囁いて、紅潮したままの頬をそっと撫でてやると、六太は尚隆の顔を見つめてから、僅かに視線を逸らして小さく頷いた。
「……うん」
尚隆は微笑して、小さな唇にほんの一瞬の口づけを落とす。
「––––心配するな、六太。無茶なやり方はしない」
宥める声音で耳元に囁いてから、尚隆は六太を抱えたまま榻から立ち上がった。
「……お前、ほんとずるい」
「お前ほどではないと思うぞ」
「強引だし」
「今頃気づいたのか?」
「……前から知ってた」
呟いた六太の両腕が、尚隆の首の後ろに回された。肩に顔を伏せてしまったので、表情が見えなくなるのが惜しいな、と思う。
一回だけしか抱けないなら、じっくり時間をかけて抱いてやろう、と考えながら、尚隆は牀榻へ向かって歩き出した。

−−−

すみません。エロ書くつもりで書き始めたのに、牀榻に移動するまでに意外と文字数を費やしてしまい、力尽きました(ー ー;)
私の場合、やっぱりエロ書くには相当な気合いが必要なようです……
続きはまた今度

209名無しさん:2019/06/23(日) 20:30:57
続編!?期待してます!

210名無しさん:2019/06/23(日) 21:24:45
自分ももう掲示板丸ごと殆ど更新ないんだろうなと思ってたらまさかの続編
ありがとうございます!

ろくたん、開発されまくって快感に溺れて
尚隆にぎゅむぎゅむしがみついて最後の一滴まで搾り取るといいよw

211名無しさん:2019/06/25(火) 00:53:30
まだ尚六書いてくださるんですね!どうぞどうぞどうぞ!!楽しみにお待ちしております!ありがとうございます!!!

212「後宮生活」6:2019/07/01(月) 00:05:57
「ぁ……」
濡れた唇から掠れた吐息が漏れ、組み敷いた華奢な裸体がびくん、と小さく跳ねた。
仄暗い牀榻の中に漂うのは、香油の甘い匂い。褥には金色の髪が波打つように広がっている。
六太の敏感な反応に、尚隆の口元に知らず笑みが浮かぶ。狭い肉襞を二本の指で押し広げながら探り当てたその場所を、再び指腹で擦った。
「あっ…」
逃げるように動いた細い腰を掴んで、指の根元までをぐっと押し込んだ。
「やっ、ん…」
身を捩って腰を引こうとするが、非力な六太の抵抗など、左手だけで簡単に押さえ込める。
「ここがいいんだろう?」
指先で刺激してやると、六太は微かな嬌声を上げながら首を振り、手で顔を隠してしまった。
そこが六太の感じる場所だろうと、前回までの反応からなんとなく分かっていたが、今回はまるで感度が違う。香油でぬるぬると滑る内壁を殊更ゆっくり撫でてやると、背中をしならせ首を仰け反らせた。
「やっ……やだ、そこ…っ、だめ」
白く細い喉元が薄闇の中くっきりと浮かぶ。尚隆はそこに食らいつくように顔を埋めた。舌を這わせ、柔らかい肌を吸う。六太の手が尚隆の頭に載せられたが、押しのけようとしているのか、抱え込もうとしているのか、殆ど力が入っていない。
中を探る指をかき混ぜるように動かすと、六太の腰が浮き上がり、きゅうっと締め付けがきつくなった。
「ぁ、ぁあっ……や、ん…んぅ、」
途中からくぐもった声に変わってしまったので顔を上げて六太を見れば、目を潤ませて両手で口を押さえている。荒い息遣いも紅潮した頬も、濡れた瞳もひどく煽情的だが、きっと本人に自覚はないのだろう。尚隆は目を細め、つい見入ってしまう。こうして声を抑えようと必死になっている六太の様子も、無論悪くはないのだが。
「声はこらえるなと言ったろう」
言いながら六太の両手首をまとめて掴む。細い手首は簡単に尚隆の左手の中に収まった。六太は反射的な抵抗を示したが、もちろん尚隆の行動の妨げにはならない。そのまま六太の頭の上方に持っていき、褥に縫い止めるように押さえ込んだ。
「やだ…尚隆……。手、離せ、よ…」
離せと言われて素直に離してやるはずもない。
「駄目だ」
囁いてから唇を重ねる。隙間から舌を差し込んで口腔内に侵入し、六太の舌を絡めとる。
「ん、ん…ぅ」
六太はやや苦しげな声を漏らした。
柔らかい舌を吸い、隅々までゆっくりと舌を這わせる。歯列の裏側の奥、感じやすい粘膜を舌先で丹念に撫でると、六太の両手から徐々に力が抜けていく。最初は逃げるように動いていた舌はやがて絡みついてきて、互いを貪るように深くまで口づけを交わした。
蕩けるような長い口づけの後、唇を離して右手の指を引き抜くと、六太の身体は微かに震え、安堵したような溜息が漏れる。だが次の瞬間に三本を押し込むと、悲鳴じみた嬌声が上がった。
「あぁっ、あっ…だ、め、やだ…っ」

213「後宮生活」7:2019/07/01(月) 00:08:24
びくんと腰が跳ね、身を捩りながら六太は首を振る。開かせていた脚が、尚隆の腰を挟んで締め付けてきた。
敏感な六太の反応が尚隆の劣情を一層煽る。指を少し曲げて探り当てた場所を柔く突くと、再び腰が跳ねた。
「あぁっ……、や、ぁんっ!」
逃げたいのか、奥へ迎え入れたいのか。六太は小刻みに腰を揺すっているが、この動きはきっと無意識なのだろう。
脈打つように蠢く肉襞の中へ、深く浅く抜き差しを繰り返す。締め付けられた指に内壁が纏わり付くようで、尚隆は自身の抑えきれない熱が内から高まっていくのを自覚する。早く犯したいという衝動と、もう少し慣らさなければという自制心が拮抗する。
欲をなんとか抑えながらも、自然と手の動きは早まってしまう。少しでも早く広がるよう、幾度も奥へと指を進めると、指を根元まで押し込むたびに、高い嬌声を上げ細い裸体が跳ねた。
「あっ、ぃやぁっ……しょう、りゅ……。も、むり……」
ぶるぶると首を振り、六太は途切れ途切れに懇願するような声を出す。無理と言われても今更やめられるはずもなく、逆に尚隆を煽る台詞にしか聞こえない。
「……本当にいい声で啼く」
囁いて、尚隆は指を引き抜いた。
「はぁ……」
掠れた吐息を漏らして六太は目を閉じた。拘束していた両手首を解放してやったが、腕は投げ出されたまま動かない。
微かに震える白い脚を抱え上げ、膝頭に口づける。細い腰を掴んで、限界まで猛っている自身を六太の後孔に当てがった。
「––––挿れるぞ」
言いながら掴んだ腰を引き付けると同時に、ぐいっと自分の腰を進め、ひと息で根元までを埋め込んだ。
「あ、あぁぁっ!…っや、あ…んんぅ、」
掴んだ腰が震えて、中がきつく締め付けられる。突き抜けるような快感が尚隆の中心を駆けた。
六太の両手は尚隆の腕を縋るように掴む。小刻みに腰を揺らして奥へ奥へと突いてやると、その手に力がこもった。
「あっ、……あ…ぁ」
脈打つ襞は吸い付くようにぴったりと尚隆のものを包み込んできて、あまりの心地良さに眩暈すら覚える。全身を巡る血が熱く、鼓動は早くなり、呼吸は徐々に乱れていく。
「いつもより、熱いな……六太」
呟いた声は、自分で思っていた以上の熱を孕んで響いた。
急くな、と自分に言い聞かせ、尚隆は腰の動きを抑制しながら、六太の中のもっと深くまで自身を沈み込ませていく。
「ぁ、あぁ、んっ……やっ…あぁ…!」
六太はもう全く声を抑えていない。そんな理性はどこかへ吹き飛んでいるのだろう。
その嬌声に煽られて抑えのきかなくなった情欲は、尚隆の身体を更に熱くさせ、腰の動きは速度を増す。汗が滴り落ちるほどに、体温が上昇していく。
最奥まで腰を打ち付ければ、呼応するように細い腰が自ら揺れた。
「や、あっ……!––––やだ、や、だぁ……」
六太は腰を揺らしながら、殆ど泣き叫ぶような嬌声を上げる。背をしならせて首を振り、長い金髪はその動きに伴って乱れていく。
ああ、と尚隆は荒い呼吸の中で溜息を漏らした。もっと時間をかけようと思っていたのに、快感に侵食された頭は早くも絶頂を欲している。
それ以上は何も考えられず、尚隆は本能の赴くまま腰を動かした。速く強く深く、激しく。
「やっ、ああぁ––––……っ」
ついに六太は悲鳴じみた声を上げながら、全身を震わせた。ぎゅうっと後孔が締まり、荒波のような快楽が尚隆を襲う。喉の奥で呻きながら、六太の中に熱い精を放った。
背筋が粟立つほどの射精の快感に浸りながら、尚隆は大きく息をつき、六太の身体の上に覆い被さった。

214「後宮生活」8:2019/07/01(月) 00:10:33
「……六太」
まだ整わない呼吸の合間に優しく囁いて、金髪を指で梳く。
少し待っても返答がなかったので、尚隆は褥に肘をついて軽く身を起こし、六太の顔を覗き込んだ。汗ばんだ額に金糸が張り付いて、頰は紅潮し、微かに開いた唇からは常よりも早い息遣いが漏れている。
「六太?」
だが六太は目を瞑ったまま、全くの無反応だった。軽く頰に触れてみてもぴくりともしない。
「……まさか」
どうやら気を失ってしまったらしい。完全に想定外の事態だった。
繋がっていた部分を引き抜いても、六太の身体は何の反応もない。ともかく体勢を整えてやり、そっと褥に横たえる。
労るように金髪を撫でながら六太の顔を眺め、調子に乗りすぎたか、と声には出さず尚隆は独りごちた。
快楽のあまり失神するなど、実際にあるとは思わなかった。どこかの莫迦な男が武勇伝のように嘯いた、眉唾ものの作り話だろうと。
快楽に慣れていない六太には刺激が強すぎたのか。耐性が低いのに感じすぎたせいで、一種の防御反応が働いて、意識を遮断してしまったのだろうか。

しかし、と尚隆は笑みを浮かべる。六太が中で感じるようになったこと自体は非常に喜ばしいことだ。早くも開発の成果が表れたことに、尚隆の頰はつい緩んでしまう。
ひょっとしたら酒を飲んだほうが六太の感度は上がるのだろうか。それは素面の時に抱けばすぐに検証可能な仮定だが、明日の朝抱きたいと言っても拒否されそうな気がした。
事に及ぶ前の会話を思い返せば、六太は快楽に溺れるのを躊躇しているようだった。それなのに失神させるほど追い込んだ尚隆のことを、六太は怒るのではないか。
どちらかといえば六太が感じすぎたのが主な原因であり、尚隆は約束通り無茶なやり方はしていないから、本来怒られる筋合いでもないのだが。まだ僅かの経験しかない六太に対して、もう少し手加減が必要だったかもしれない。

六太の呼吸は既に静まり、微かな寝息だけが聞こえてくる。
つい先程まであんなに淫らに喘いでいたのに、今はまるで無垢な子供のように幼い寝顔を晒している。この落差を知るのは自分だけだと、堪らない愉悦を覚えるのと同時に、自分が穢したのだと思えば背徳感が疼く。
それでも無論、一片の後悔もなかった。

215「後宮生活」9:2019/07/01(月) 00:12:37
翌朝尚隆が目を覚ましたのは、腕の中に抱いていた身体が抜け出そうとしたからだった。ほぼ無意識のうちに抱き締めてから、薄く目を開ける。六太はこちらに背を向けて、身を強張らせて息を潜めていた。
帳の隙間から入る光はまだ弱く、おそらく夜が明けたばかりだろう。常日頃は朝寝坊の六太がこんな早朝に起き出して、どうするつもりなのか。尚隆はひとまず寝たふりをしようと、再び目を瞑って腕の力を緩めた。
暫く尚隆の気配を窺うようにしてから、六太は身体を器用に動かして、するりと尚隆の腕から抜け出した。
六太がそっと身を起こし、寝台の上を這ってそのまま離れていこうとするので、尚隆はその手首を掴んで引き寄せた。
「わっ」
驚いたような声を上げて、六太は褥に倒れる。尚隆は素早く身を起こし、六太のもう一方の手首も掴む。小さな身体を仰向けに転がして、その上に覆い被さった。
「どこへ行く気だ」
「あ……。起きてたんだ……」
六太は若干引きつった笑みを浮かべた。
「お前こそ、案外早起きだな。まだ夜が明けたばかりだろう?」
「うん……。えーっと、今日は関弓に降りるからさ……そろそろ起きて、準備しようかなーって……」
「関弓に降りるには早すぎるだろうが。準備などすぐ出来るし、まだここにいろ」
「え」
どこか居心地悪そうに、六太は目を逸らした。
「……まさか逃げる気だったのか?」
「いや、逃げるなんて、そんなつもりは……」
視線を彷徨わせて六太は言う。どうせ嘘をつくなら、もっとうまくつけばいいものを。
また尚隆が強引に抱くのでは、と六太は警戒しているのだろう。
昨日の朝は六太が目を覚ますのと同時に手を出したから、警戒されるのも仕方ないのだが、ここまであからさまだと意地悪の一つも言ってみたくなる。
「では、相手をしてくれるのか」
「それは––––」
口ごもる六太に顔を近づけていくと、思いきりそっぽを向かれた。尚隆は思わず苦笑する。
「一回だけという約束は昨夜のものだから、今朝はもう無効だろう?」
耳元で囁くと、六太は焦ったようにぶんぶんと首を振った。
「やだ、無理!」
「何故だ」
「だってお前……!」
威勢のいい声が出たのはそこまでで、続く言葉を呑み込むようにして六太は黙る。尚隆が目で先を促すと、六太は軽く顔をしかめて呟くように言った。
「……尚隆が悪いんだよ」
「俺の何が悪いんだ」
「……無茶なやり方しないって、言ってたくせに」
「別段、無茶はしてないぞ。手順も体位も変わったことはしとらんだろう?––––まあ、いつもよりは前戯に時間をかけたがな」
「けど、あんなに……」
六太は反駁しかけたが、かあっと頰を赤らめて、ふいと顔を背けてしまった。
「あんなに、なんだ」
紅潮した顔を背けたまま、六太は答えない。
「……嫌だったか?」
「……だから、それは……」
「それは?」
「……昨夜、言ったじゃん」
「昨夜ではなく、今聞きたいんだが」
尚隆は六太の正面に顔を移動させ、至近距離で視線を合わせた。六太は僅かに目を伏せて暫く沈黙していたが、
「……嫌じゃない……」
殆ど音のしない、微かな声で囁いた。
「六太……」
尚隆は微笑を浮かべ、優しい声音で名を呼んだ。なんだかんだ言いつつも、結局は素直な言葉をくれるのが愛おしい。
尚隆は更に顔を近づけていく。しかし唇が触れ合う寸前、六太は我に返ったようにぱっと顔を背けた。
「嫌じゃないから、やなんだよ!––––こんなとこに籠って毎日毎日何回もやってたら、絶対頭おかしくなる!」
矛盾した台詞を六太は叫んで、じたばた暴れ出した。
「離せよ、もう!」
いくら六太が暴れても、押さえ込むのは尚隆にとって造作もない。
「……離してやらんでもないが」
「じゃあ、今すぐ、離せってば!」

216「後宮生活」10:2019/07/01(月) 00:14:41
六太の手首をつかんだ両手に、尚隆はほんの僅か力を込めた。
「……少しおとなしくしろ。いくら暴れても無駄だと分かっているだろう?」
反抗的な六太も可愛いものだが、もう少しだけ素直な態度でいてほしかった、とも思う。
六太はむすっとした表情をしたものの、組み敷いた身体からは力が抜けた。
「……ちと、確かめたいことがあるんだがな」
「……確かめたいこと?」
「お前が昨夜あんなに感じていたのは、開発の成果か、それとも酒に酔っていたせいか」
「……は?」
「酔いが醒めた今抱けば、どちらなのか分かる」
極力真面目な表情と声音で尚隆は言う。六太は瞬き、一拍おいて意図を理解したようで、勢いよく首を振った。
「い、今はやだ!」
「どうしても駄目か」
「どうしても!今は駄目、絶対!」
案の定、全力で拒否された。
今朝抱くのは無理だろうとほぼ諦めてはいたものの、心の片隅に僅かな期待があったことは否めない。尚隆は落胆の溜息をついた。
「……仕方ないな」
言いながら軽く身を起こして手を緩めてやると、六太は素早く拘束を解いて、尚隆の下から抜け出した。そのまま寝台の端まで逃げるように這い、帳に手をかけ隙間から出て行こうとする。
「待て、六太。どこへ行く」
「え、湯殿だけど?」
「そのまま行く気か」
六太は今何も身につけておらず、隠そうとする様子もない。
「うん」
あっさりと六太は頷いた。尚隆が咎めた意図さえ分かってなさそうだ。
「そのまま行くな。何か着ていけ」
尚隆は起き上がり、寝台の上に視線を巡らせて、六太の被衫––––昨夜尚隆が脱がせたものだが––––を探す。
「めんどくさい。どうせ脱ぐんだし」
「駄目だ」
足元の方でくしゃくしゃに丸まっていた被衫を見つけ、尚隆はそれを拾い上げる。
「他に誰もいないのに」
「いや、官が来るかもしれん」
後宮を開けさせた官には、その後も食料など最低限必要なものを持って来るよう言いつけてある。彼らはこっそり物を置いてすぐに立ち去るので基本的には顔を合わせることはないのだが、いつ来るかは分からないから鉢合わせしかねない。
「別に、それくらい……」
「俺が許さん」
言いながら六太に近寄り、背後から肩に被衫を掛けてやると、素直に袖を通した。
「……お前って、意外と世話焼きなんだな」
六太は顔だけ振り返り、くすりと笑ってそう言うと、羽織っただけの被衫の前を手で合わせ、今度こそ帳の隙間から出て行った。

六太の足音が遠ざかってから、尚隆は深く溜息をついた。
まったく六太の鈍感さには困ったものだ。別段、尚隆は世話を焼きたかったわけではない。
どうも六太は裸を見られることに対する抵抗感が薄いようだ。抱かれるのは嫌だと言いながら無防備に素肌を晒すなど、随分と矛盾している。

褥に転がって、尚隆は目を閉じた。
昨夜の六太の乱れた姿が瞼の裏に鮮明に浮かんで、ついほくそ笑んでしまう。
「今は」駄目、と六太は言ったが、裏を返せば今夜なら良いということだ。それが尚隆の勝手な解釈であろうとも、期待で高揚するのを抑えられない。
とりあえず昼間は六太の気が済むまで街散策に付き合ってやろう。無論尚隆にとっても、二人で久しぶりに出掛けること自体が楽しみでもある。
そして夜は思う存分可愛がってやりたい。出来れば酒を飲む前と飲んでから、合わせて二回は抱きたいところだが、六太はいいと言うだろうか。
六太の意思を尊重しつつ、なるべく自分の欲求も通したい。さてどうすればうまく事を運べるだろうかと、尚隆は戦略を練り始めた。



217書き手:2019/07/01(月) 00:17:15
快楽に溺れるのがまだ怖い六太と、早く溺れさせたい尚隆の攻防。
続編というほどでもない、ただのエロ話でした…

そもそも本編の最後で後宮に行かせたのは、
後宮に行かせておけば後日談エロ書きやすいんじゃないか!?
というものすごく不純な動機からですw
初夜書く前から後宮エロ妄想はだいぶ滾っておりました( ̄▽ ̄;)
私のやましい妄想にお付き合いくださり、ありがとうございましたw

218名無しさん:2019/07/02(火) 18:35:45
やきもち焼きな尚隆(・∀・)ニヤニヤ

219書き手:2019/08/18(日) 18:36:16
毎日更新が嬉しくて、ウキウキしながら覗きにきてます(^ ^)

そしてまたもや滾ってきたので後日談第二弾を書きました。
尚六がくっついて十年くらい経った頃、利広と六太が出会う話です。
「帰山」で、延王は台輔を残さないと利広が断言した理由についての妄想。

220「確信」1:2019/08/18(日) 18:39:24
その少年に目を引かれたのは何故だったのだろう。
人通りの多い夕刻の街で、すれ違いざま利広は彼に声を掛けていた。
呼び止められた少年は、足を止めて振り返る。髪に巻きつけられた布の端が落ちて、彼の白い顔にかかった。それを煩わしげに払う少年に、利広は笑いかけた。
「––––いい厩のある宿を知らないかい?」
意外なことを訊かれた、という表情で何度か瞬いてから、彼は答えた。
「……知ってるけど」
「それは良かった。どこにあるか、教えてもらえるかな」
「いいよ、案内する」
少年は迷う素振りもなく軽い調子で頷いた。
それは願ってもない申し出だったが、利広はひとまず遠慮してみる。
「わざわざ案内してもらうのは悪いなあ。道順を教えてもらえば大丈夫だと思うけど」
「いや、おれもそこに泊まってて、今から戻るとこだから。ついでだよ」
少年は笑って、あっちだよ、と先程向かっていた方向を指し示す。利広が騶虞の手綱を引きつつ体の向きを変える間に、少年は指差した方へ向かって歩き出した。
三歩ほど先を行く少年に追い付くべく利広は少し足を早める。すぐ脇に並ぶと、彼はこちらを見上げてきた。
「もっと人通りの少ない道が良ければ、もう一本向こうの通りでもいいんだけど。こっちで大丈夫か?」
「構わないよ。街を歩く人の顔とか、雑踏の雰囲気とか、見るのが好きだからね」
「へえ……」
どこか嬉しそうに、透き通った紫色の瞳を細めて少年は笑った。
こんなふうに純然たる紫色の瞳は、実はとても珍しい。大抵は他の色が混じっているものだ。
だが利広の身内には同じ色の瞳の者がいる。彼女は金色の髪を持つ、人ではない生き物だけれど。

「あのさ、なんでおれに訊いたんだ?」
「……なんで、って?」
「だって、いい厩のある宿知りたいなら、普通は大人に訊くだろ?おれそんなこと訊かれたの、初めてだから」
「ああ、そのことか」
舎館を探していたのは事実で、誰かに訊こうと思ってはいた。だが彼に声を掛けた瞬間は、実はそのことは頭から離れていたのだ。
目を引かれたから思わず声を掛けた、というのが本音だった。何故だか素通りできなかった。
「……きみが騶虞を見たときの反応、かな」
「反応?」
「そう、騶虞って希少な騎獣だからね。物珍しそうに見られたり、羨望の眼差しを向けられたり、ちょっと怖がられたり。大抵の人はそんな感じの反応なんだよ」
「あー、なるほど……」
「けれど、きみはそのどれでもなかった。だから騎獣に慣れているんじゃないかと思ってね。––––私の推測は間違ってたかな?」
「間違ってない。––––すごいな、すれ違う一瞬でそれを判断したのか」
「まあ、ね」
利広は人好きのする笑顔を作ってみせた。
嘘をつくのと本音を隠すのは全然別のことだ。今言った理由は口からでまかせというわけではなかった。この少年はきっと騶虞を扱ったことがある。それが彼の所有物であるかどうかはさておき。

221「確信」2:2019/08/18(日) 18:41:24
街の様子を眺めつつ当たり障りのない雑談をしながら暫く歩き、やがて大きな門のある舎館に到着した。
出迎えた厩番に、利広は笑顔で「世話をよろしく」と騎獣の手綱を差し出す。厩番の男は緊張の面持ちでそれを受け取ると「誠心誠意お世話させていただきます」と言って深々と礼をした。
厩舎へ戻りながら彼が同僚らしき男に「騶虞が二頭なんて初めてだ」と興奮気味に言っているのが小さく聞こえた。

少年と一緒に建物の中へ入り、宿泊の手続きを済ませた。利広は少年を振り返る。
「きみは、ここに一人で泊まってるのかい?」
少年は首を振った。
「連れがいる」
「部屋に?」
「いや、今は出掛けてるよ」
「そう。……そろそろ夕餉の時分だけど、きみは連れを待つのかい?」
「待たない。遅くなりそうだから先に食ってろって、言われてるし」
「では、良かったら夕餉を奢らせてもらえないかな。案内してもらったお礼に」
「お礼?––––いらないよ、そんなの」
両手を振って断ってから、彼は軽く首を傾けた。
「……けど、一緒に食うのは、いいかもな。ここの食堂、結構うまいんだ」
少年が笑って言うので、利広も笑って頷いた。
「荷物を部屋に置いてくるから、席を取っておいてくれるかな」

利広が二階の部屋に荷物を置いてから一階に戻ると、食堂の卓についた少年がこちらに向かって手を挙げた。利広は彼の対面の、湯呑みが置かれた席に着く。
この食堂で何度か食べたという少年に、料理の選定は任せることにした。利広は湯呑みを両手で包んで、品書きを見ながら手際よく店員に注文する少年の横顔をじっと観察する。
––––間違いない。
彼の紫色の瞳を縁取る長い睫毛は、明るい金色だった。見た目の年齢は十三かそこら。その条件に合う麒は、今現在一人だけだ。
––––延麒。
ということは、連れはおそらくあの男だろう。
「……腐れ縁ってやつかなあ」
苦笑と共に、利広は呟いた。殆ど声を出さない独白のつもりだったが、料理の注文を終えた少年がこちらを見て首を傾げる。
「何か言ったか?」
「ん?……いや、何も」
店員が立ち去ってから、利広は卓に肘をついて少し身を乗り出すようにする。
「きみも騎獣で旅をしているんだろう?ひょっとして、騶虞かい?」
少年は若干身を引いて、怪訝そうな目で利広を見返した。
「……うん」
「さっき私の騎獣を預けた時に厩番がね、騶虞が二頭なんて初めてだ、って言ってたから」
「ああ……そうだったんだ」
納得したように頷いて、彼は笑った。
「けど、厩には今いないよ」
「連れが、乗っていった?」
「そう」
「きみの騶虞?」
「まさか」
「てことは、きみの連れの騎獣なんだね」
「うん」
「へぇ……なるほどね」
利広は頬杖をついて微笑みながら、ふとした悪戯心が芽生えてくる。
こちらの正体に果たして彼は気づくだろうか。少年の連れは、どこまでを彼に話しているのだろう。
「……騶虞の名前、当ててみようか」
やや声を低めて利広が言うと、少年はきょとんとした顔で瞬いた。
「騶虞の、名前?」
「そう、名前。––––別に当たったからって、何かくれとは言わないけどね」
「……当たらないと思うけど。かなり珍しい名前だから」
「そうかな?」
利広は笑って、考え込むふりをした。少年は興味深げにこちらを窺っている。
「––––たま」
利広が呟くと、少年は目を見開いた。
しかし次の瞬間には表情が引き締まる。警戒心も露わな眼差しで、彼はまっすぐ利広を見据えた。
「……あんた、誰」

222「確信」3:2019/08/18(日) 18:43:49
利広は苦笑して、両方の掌を広げて軽く上げてみせた。敵意はない、という意思表示だ。
「当たったのかな?……それじゃあ、私の勘は正しかったということだね」
「勘じゃないだろ、騶虞の名前を当てたのは。なんで知ってる?」
「違うよ。勘っていうのはね、きみの連れのことだよ」
「連れ?」
「風漢だろう」
少年は再び目を見開いて、一拍おいてから声を低めた。
「……あんたの名前は?」
「利広という」
「……利広」
呟いて、彼は記憶を探るように軽く眉根を寄せたが、ほんの数瞬でそれは解けた。
「利広か」
少年はふと悪戯めいた笑みを浮かべる。
「––––利広がどこから来たか、当ててみようか」
「分かるかなあ、ちょっと遠いところだよ」
「奏」
「正解」
吹き出すように、二人は笑い出した。
笑っているところへ店員が両手に皿を掲げてやって来た。他に注文はないかと店員に問われたので、
「酒は飲めるかい?一杯だけでもいいから、付き合ってくれる?」
「いいよ」
少年の同意を得て、利広は酒を注文した。
店員が立ち去ってから、少年は卓に両肘をついて少し身を乗り出した。
「おれの名前は知ってるか?」
「……六太?」
「正解」
明るい声で言いながら、六太は笑った。

それから美味い料理を肴に二人で酒を飲んだ。一杯だけと言ったのはすぐに忘れ、話は弾み、酒も進む。
利広はかなり飲んだが酔いはさほどではない。六太のほうは、利広と比べると酒量はずっと少なかったものの、ほんのり頰を上気させてほろ酔いの様子だった。
「風漢と初めて会ったのはどこだったかなあ。もう遥か昔過ぎて、よく覚えてないんだ」
「それじゃあ前回会ったのは?」
「多分……五十年くらい前かな。確か、慶だったと思う」
「へえ」
「聞いてないのかい?」
「聞いてない。––––あいつさあ、勝手にふらふら出て行ってさ、どこで何してたかなんて、殆ど話してくれねぇんだよ」
「冷たいんだね」
「まあでも、近頃は……昔よりは話してくれるようになったかな」
「へえ、それはどういう心境の変化だろうね」
何気なく発したその言葉に、はたと六太は顔を上げ、まじまじと利広の顔を見た。それからふと柔らかく笑んで、小さく呟いた。
「ああ……そうか。心境の変化かぁ……」
「……何か思い当たることでも?」
「え?……いや、別に何も……」
口ごもるように言って、六太は視線を逸らした。
別に何もってことはないだろう、と思ったが、利広はただ微笑んで何も言わずにいた。
「……利広だってさ、出掛ける時ちゃんと家族に了承得てないだろ」
「得てないね」
「やっぱりなー。旅の途中に連絡もしないんだろ」
「しないね、基本的に」
「心配されてんじゃねえの?」
「みんな諦めてるよ、もう」
「諦めて黙認するのと心配するのは、相反することじゃないだろ」
「……そうかもね」
利広は軽く顔を傾けて、六太の瞳を覗き込む。
「六太は心配なんだね」
誰のことが、とは言わなかったが、彼にはもちろん通じただろう。
「でも諦めて、黙認してるんだ」
「……心配は、あんまりしてないよ。あいつはそんなに柔じゃないし。……ま、諦めてはいるかもな。あいつは一箇所にじっとしていられない、そういう性分なんだろうから」
「寂しい?」
六太は少し考えるように小首を傾げる。
「……寂しかったことも、あったな」
「今は?」
「そうでもない」
屈託のない笑顔で言うので、きっと本音なのだろう、と利広は思った。

223「確信」4:2019/08/18(日) 18:45:57
ふと六太が顔を上げ、食堂の入り口の方向を見やった。
ちらりと利広もそちらを見たが、特に何かあるわけでもない。しかし、きっとあの男の気配が近くにあるのを六太は感じたのだ、と利広には分かった。
利広の身内である金髪の女性も、時折そういう仕草を見せるので。

六太は視線を利広に戻す。
「さっき言ったこと、風漢には黙っててくれよ」
「……きみが諦めてるとか、寂しかったとか、そう言ってたこと?」
「うん、そう」
「分かった。内緒にしておくよ」
笑って頷いてみせると、六太も頰を緩めた。
「頼むな」
それから利広は少しだけ真剣な表情を作り、六太の瞳を直視した。
「ひとつ、訊いていいかな」
「……なに?」
「––––きみは今、幸せ?」
穏やかな声で問うてみると、六太は何度か瞬いてから僅かに目を逸らす。利広がじっと見つめながら返答を待っていると、彼はやがて視線を戻し、微かに笑って頷いた。
「……うん」
残念ながら、はにかんだような微笑みは一瞬で消えてしまい、六太は身を乗り出して小声で言う。
「これもあいつには内緒な」
「分かってるよ」
慌てたように言うのが可笑しくて、利広はくすくすと小さな笑い声を立てた。
六太は再び顔を上げると、先程見ていた入り口の方向へ軽く手を挙げた。

利広が振り向くと、こちらへまっすぐ歩み寄ってくる風漢がいた。彼は無言のまま卓まで来ると、六太の隣の椅子にどかっと座る。
こちらに無愛想な視線を寄越してきたので、少し驚いた。利広の記憶では、風漢はいつでも意味もなく笑っているような男だったのだが。
「久しいね、風漢」
「やはりお前か、利広」
「やはり、って?」
「騶虞が二頭だと厩番が騒いでいたからな。まさかと思ったが」
「ああ、そういうことか」
利広は笑って、六太にちらりと視線を送る。
「いい厩のある宿を知らないかって六太に訊いたら、ここに案内してくれたんだよ」
風漢は軽く眉を上げてから、隣に座る少年を見やる。六太は頷いて、利広の言を肯定した。
「街ですれ違いざまに声を掛けられたんだ。なんかおれが騎獣に慣れてそうだって、一瞬で見抜いたらしくてさ。––––ここの厩、結構ちゃんとしてるからいいだろうと思って案内したんだ。そんで一緒に夕餉食うことになって……。風漢のこと知ってるっていうし、びっくりしたよ。こういう偶然もあるんだな」
六太は笑顔で説明するが、それを聞いている風漢はどこか不機嫌そうだった。
「事情は分かった。––––六太、もう遅いからお前は部屋に戻っていろ」
「え」
六太は戸惑ったように風漢を見て、次いで利広をちらりと見やり、また風漢に視線を戻す。少しだけ首を傾げたが、結局は素直に頷いた。
「……うん、分かった。––––利広と会うの久しぶりなんだろ?積もる話もあるだろうし、二人でゆっくり飲むといいよ。おれ、先に寝てるから」
ああ、と風漢が頷くと、六太は立ち上がった。
「じゃあな、利広。色々話せて楽しかった」
笑顔で軽く手を振って、六太は踵を返して歩み去っていった。

224「確信」5:2019/08/18(日) 18:48:11
「––––風漢、夕餉は?何か注文するかい?」
「いや、夕餉は済ませた」
「酒は?」
「いらん」
「……不機嫌そうだね。何かあった?」
「何もないが」
風漢の口調はひどく素っ気ない。
卓上に六太が残していった杯には、まだ半分ほど酒が入っていた。風漢はそれを手に取ると、一気に煽った。空になった酒杯を音を立てて卓に置きながら、彼は低い声を出す。
「利広、お前」
何やら物騒なことを言い出しそうな声音に聞こえ、利広はほんの少し身構える。
「––––何故六太に声を掛けた」
あまりにも意外な質問に、利広は暫くの間まじまじと風漢の顔を見つめてしまった。
「……さっき六太も言ってたろう。騎獣に慣れてそうだったから、いい宿を知らないか訊いただけだよ」
「建前を聞きたいのではない」
「……へえ、建前だって分かるんだ」
茶化すように言ったが、風漢は無言で無表情のままだった。参ったな、と利広は内心で苦笑する。
「何故だろうね。私にも理由は分からないんだけど、なんとなく目を引かれて、思わず呼び止めた。……なんだか素通りできなかったんだ」
あっさり本音を言ってみると、風漢は唇の端を僅かに吊り上げた。一応それは微笑の形ではあるが、笑っている雰囲気は感じられない。
「……ほう」
風漢の声はものすごく冷淡だったが、気づかぬふりで利広は続ける。
「全くの無意識だったけど、直感したのかもしれないな。彼が風漢の––––連れだってね」
半身、という言葉を使うか一瞬だけ迷い、やはりそれはやめておいた。
「なるほどな……」
その言葉とは裏腹に、風漢は全く納得してないように見えた。
利広は少し面白くなってきて、六太の話題を敢えて続ける。
「いい子だね、彼。風漢から紹介してもらいたかったなあ」
「いい子か?あの餓鬼が」
「優しいし、話も面白いし。一緒に飲んでて楽しかったな」
「……ほう。随分と話が弾んでいたようだが、何を話していたんだ」
「色々話したよ。この街の雰囲気とか、今年の穀物の豊作具合とか、民の様子とかね。……最後は、惚気だったかなあ」
「惚気?……なんだそれは」
「詳しいことは言えないよ、約束したからね。本人に訊けばいいだろう?」
「約束だと?」
「そう、約束。––––どんな約束かなんて、もちろん私からは言わないけどね」
口調はあくまでも明るく、だが挑発するように利広はにっこり笑ってみせた。
風漢の目付きは今まで見たこともないほど冷たい。暫く無言で利広を見据えてから、彼は低く呟いた。
「……まあ、いい」
言いながら風漢は椅子から立ち上がる。
「部屋に戻るのかい?」
「ああ。––––だがここの勘定は俺が持つ。何でも注文して構わんぞ」
「そんな義理ないだろう?」
「いや、六太が世話になった礼だ。思う存分飲むがいい」
むしろ世話になったのは私のほうだ、と利広は思ったが、口に出すのはやめておく。きっとそういう理屈の問題ではないのだ。
「風漢」
立ち去ろうとする男に利広は呼びかける。彼は肩越しに振り向いた。
「次に会った時もまた飲もうって、六太に伝えてくれるかな」
「……餓鬼に酒を飲ませる気か?」
「見た目はともかく、六太はもう大人だろう?……で、伝えてくれるのかい?」
「断る」
「どうして?」
「伝える義理などないからな」
「……私もね、建前が聞きたいわけじゃないんだよ、風漢」
本音を言えばいいだろう、と心の中だけで利広は続ける。暫くの間、風漢は黙って利広を見据えていたが、ふと苦笑を漏らした。
「……意味が分からんな」
呟くように言ってから風漢は軽く片手を振ると、踵を返して去って行った。

225「確信」6:2019/08/18(日) 18:50:33
風漢の後ろ姿が見えなくなってから、利広は盛大に溜息をついて椅子の背に凭れた。
「なんだか酔いが醒めちゃったなぁ……」
俺の麒麟に気安くするな、と率直に言われたらどう返そうかと考えていたのだが、さすがにそこまで言う気はなかったらしい。だが不用意なことを言えば斬られそうな、どこか剣呑な雰囲気を漂わせていたのは確かだった。

それにしても、五十年程前に会った時と今回で、風漢の印象がすっかり変わってしまった。それは六太が一緒にいたせいかもしれないし、この五十年の間に何らかの心境の変化があったからかもしれない。
いずれにせよ自分の中での風漢の評価を大幅に修正する必要がありそうだ。飄々として気まぐれな男だと思っていたから、彼ならあっさり禅譲を選ぶこともあり得ると思っていたのだが。
「……ないだろうな、あの感じだと」
溜息をつきながら、利広は呟いた。

幸せか、という利広の問いに、微笑んで頷いた六太の様子を思い出す。
雁の治世は三百年を数年過ぎたところだが、懸念していた王朝最大の山はどうやら既に越えたらしい、とあの笑顔を見て利広は確信した。
しかし風漢の予想外の態度を目にして、今度は別の懸念を覚える。
麒麟が笑って幸せだと言うのなら、きっと悪いことではないし、雁の王朝は当分安泰だろう。だが斃れる時は、おそらく悲惨なことになる。これも確信といってよかった。
「ずっと先のことだといいんだけどね……」
利広は腕を組んで暫く物思いに耽っていたが、ひとつ息をついて気を取り直すと、手を挙げて店員を呼んだ。
「一番良い酒をひとつ、お願いできるかな」
にっこり笑って注文すると、店員は明るく承諾の返事をして、厨房へと踵を返していく。それを頬杖ついて見送りながら、利広は心中で独りごちた。
––––風漢に驚かされたせいで酔いが醒めてしまったのだから、彼の奢りで高い酒を飲んでも、ばちは当たらないだろう……。

226「確信」7:2019/08/18(日) 18:52:36
尚隆が部屋に戻ると、榻に寝転んでいた六太が肘をついて上半身を起こし、意外そうな眼差しを向けてきた。
「……早かったな。利広と飲むんじゃなかったのか」
「飲むとは言っとらんだろう」
「そうだっけ?……まあ、いいけど」
尚隆は無言で上衣を脱ぎ、腰に帯びていた刀を外して床に放り投げてから榻に座る。隣に寝そべる軽い身体を両手で持ち上げて、自分の膝の上に跨らせた。
六太は驚いた表情をしたものの、特段の抵抗を示さずにおとなしく座った。正面から目を合わせ、六太は小首を傾げる。
「……何かあったか?」
「……」
尚隆は沈黙したまま金髪を撫でる。髪を弄んでから両手を滑らせて頰を挟み、柔らかな感触を確かめる。
「あ、分かった。利広と喧嘩したんだろ?それで飲めなくなって拗ねてんだ」
冗談めかした六太の推測に対して、尚隆は深く溜息をついた。
「……見当違いも甚だしいな」
頰を挟んだ両手をしっかりと固定して、六太の瞳を覗き込む。努めて平静な口調で尚隆は問うた。
「––––約束とはなんだ」
「約束、って……誰と誰の?」
「お前と、利広のだ」
六太は思い当たることがない、という風情で眉をひそめたが、すぐにはっとした表情になった。
「あー……あれは別に、約束ってほどのもんでもねえよ。えーと……まあ、ちょっとした頼み事」
「頼み事だと?」
「いや、そんな、たいしたことじゃないって」
どこか気まずそうに、六太は視線を彷徨わせる。
「たいしたことじゃないなら、言ってみろ」
「え、それは……」
「俺に言えないことか」
「言えないっていうか……」
六太は顔を背けようとするが、尚隆は両手を動かさない。
「六太」
低い声で名を呼ぶと、六太は観念したように目を伏せて、小さく息を吐いた。
「……お前には内緒にしといてくれって、頼んだんだよ」
「内緒?––––何をだ」
抑えようのない苛立ちが、声音に滲んだ。
六太は居心地悪そうに身を捩り、視線を彷徨わせる。
「それは、えーと……利広に、いま幸せかって訊かれたからさ……。うんって答えたんだけど、それが利広から尚隆に伝わるのがなんか嫌だったから、風漢には内緒なって頼んだ。それだけ」
六太の説明は途中から早口になる。頰を僅かに赤らめて、言い訳のように続けた。
「利広は明らかにおれの正体に気づいてたし、麒麟に幸せかどうか訊くことで、雁の民意を推し量ろうとしたんじゃねえのかな。だから、うんって答えといた」
早口の言い訳が終わると、六太は気恥ずかしげに再び目を伏せた。
その仕草が堪らなく可愛らしく見えて、尚隆の頰は自然と緩む。それと同時に先程までの苛立ちは瞬く間に消えていった。
「……だから惚気か」
「え、惚気?」
尚隆は六太の頰から手を離し、くしゃっと頭を撫でてから細い腰に両腕を回した。
「六太と何を話したのか利広に訊いたら、惚気だと言っていたからな。どういうことかと思ったが」
「えぇ……。そんなこと言ったのかよ、利広……」
ほんの僅か顔をしかめて、六太は軽く溜息をついた。

227「確信」8/E:2019/08/18(日) 18:54:59
「なんか利広ってさあ、ぱっと見の印象では人が良さそうだし、まあ話も面白いんだけど、肚の底では何考えてるか分かんない感じなんだよなぁ」
「同感だな。あいつは相当根性が悪いぞ」
「尚隆と同じくらい?」
「おそらくな」
言って尚隆が笑うと、六太もくすくすと笑い声をたてる。
「––––だから六太、気をつけろよ。初対面の男に簡単について行くな」
「ついて行ったわけじゃないって。むしろ逆だろ?利広がおれについて来たんだから」
「たいして変わらん。しかも二人で酒まで飲むとは、警戒心が薄すぎるだろう」
「最初から酒飲む気だったわけじゃないよ。利広がお前のこと知ってるって言うし、奏の太子だって分かったから。––––お前、昔話してくれたじゃん、出奔先で奏の太子に会ったって。利広に初めて会った時にさ」
「そうだったか?」
「そうだよ。ずっと昔のことだけど、一度だけ話してくれた。……それから何度も会ってるってのは、初耳だったけどさ」
どこか拗ねたように、六太は言う。
出奔先で誰と会ったとか何をしたとか、そういうことは以前は六太に殆ど話さなかった。利広に前回会った五十年程前にも、話した覚えはない。そもそも奏の太子に会ったという話は、六太以外の誰にもしていないはずだ。
「前回会ったのが五十年も前のことだ。六太とて、俺に何でも話していたわけではなかろう?」
「……そうだったかな」
六太はくすりと笑って、尚隆の首の後ろに両腕を絡める。下から覗き込むように少し顔を近づけて、軽く首を傾げた。
「今夜は酒飲まねえの?」
「少し飲んできた」
「今から二人で飲み直すか?」
「いや……、酒はいらん」
言い終わるのとほぼ同時に唇を合わせた。六太の柔らかい唇を軽く甘噛みするようにしてから、少しだけ離れる。
「……いま欲しいのはこっちだ」
至近距離から囁くと、はにかんだように六太は笑う。濡れた唇が形のよい弧を描いた。
「––––俺の麒麟はいま幸せだと言うが、何故かそれを主に知られるのは嫌らしい」
「え……」
「閨でじっくり聞き出してやろう」
笑い含みに言って、六太を抱えたまま尚隆は立ち上がった。牀榻へ向かう尚隆の耳元で、六太の不貞腐れたような声が囁く。
「もう……。お前がそういうやつだから、内緒にしといて欲しかったのに……」
尚隆は小さく吹き出した。笑いながら、こういう素直でないところも六太の可愛気だな、と改めて思う。

牀榻に入り抱えていた身体を寝台にそっと降ろしながら、ふと先程の利広との会話が脳裏を掠める。
あのやり取りで、六太に対する尚隆の執着心に利広は気づいただろう。それを雁の行く末と関連付けて、憂慮や不安を覚えたかもしれない。
だがそんなのは尚隆の知ったことではない。勝手に思い悩むがいい、と尚隆は内心嘯いて、利広のことは頭の中から消去する。
「……尚隆?」
名を呼ぶ声と同時に、六太の指先が尚隆の頰に触れた。褥から見上げてくる紫の瞳と視線を合わせ、尚隆は微笑する。
そのまま覆い被さって唇を重ね、舌を差し入れて、柔らかく甘い感触を思うさま貪る。応じる舌がねだるように動いて、細い腕が尚隆の頭を掻き抱く。理性は瞬時に遠のいて、尚隆は本能の赴くままに己の麒麟に耽溺していった。



228書き手:2019/08/18(日) 18:57:35
利広と六太、尚隆それぞれの会話を書くのが楽しかったです( ^ω^ )
そして相変わらず尚隆が心狭い感じになってしまいましたw
まあいつも通り最終的には尚六ラブラブなんですがね…

カプ妄想なしに帰山読むとそれぞれの王朝の終わりを考えてちょっと凹むんですが、
尚六フィルターかけて読むと萌え要素が多すぎてものすごく滾ります。

229名無しさん:2019/08/18(日) 19:38:58
乙でした、まさか続きが読めるとは!
心の狭い尚隆、何となく書き逃げの囚われた獣を連想しちゃったり
平常では心が狭いで済むけど、失道すると病的な執着に…

230名無しさん:2019/08/18(日) 23:13:03
続ききてた、乙です。
尚隆のやきもち美味しいし、ラストの大人っぽい甘さがめちゃくちゃ萌えます・・・!


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