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lw´‐ _‐ノv逆上せ上がるなら君がいいようです(ФωФ )
1
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:09:20 ID:l74WHbvE0
変人と言われる類の人間に、会ったことはあるだろうか。
意思が通じていると思ったら通じていない。会話が成り立っているようで成り立っていない。相手の行動をいくら予想しようとも、簡単にこちらの思惑に反した動きをする。
関わっているうちに、おかしいのはこちらの方ではないのかと勘違いしてしまいそうになる。それなのに、どれだけ相手の言動に辟易しようとも、何故か強烈に目を惹かれてしまう。
理解しようとすればするほど、分からないことが増えていく。それはまるで、海の深さを知ろうと足を入れたら、いつの間にか、体全体が海底へと沈んでいたみたいに。
しかし、だからといって海を責めることはできない。沈んだ人間の危機管理こそが最たる問題なのであって、海に文句を言う人間はいない。
それと同じだ。海の深さを知りたいからといって、足を踏み入れたのが悪いように。夜を照らす灯りに惹かれた虫が、炎で焼け死んでしまうように。
相手が数寄者であることを理解しておきながら、それでも手を伸ばした者が悪く、間抜けで、愚かで、負けなのだ。
これは、そんな変人に溺れてしまった、とある阿呆の話である。
2
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:11:19 ID:l74WHbvE0
文字を書く音と紙を捲る音が、小さな部屋の中に響いている。
築三十年以上、必要最低限のキッチンとシャワールームだけが備え付けられた、古いアパートの一室。
良いところは月二万という格安の家賃と、嫌というほどに良すぎる日当たりの二つだけ。嫌なところはその数倍挙げられるが、そんなことをしていると一日が終わってしまうので、今はあえて言及しないことにする。
未だ午前六時にもなっていない夏の早朝。毎日あれほど喧しい蝉の鳴き声も、この時間帯は微塵も聞こえてこない。少し空いたままの窓からは風が入ってきていて、冷房要らずの涼やかな空気が部屋を満たしてくれている。
日射しの向きが少し変わった気がして、視線を窓の方に向ける。
ガラス越しに見える庭先には、立派な赤い花弁を携えた夾竹桃が揺れていた。
華やかなその見た目に反して、花弁や葉、更には根の部分に至るまで毒を有しているのだから面白い。年によっては十月の初めまで咲き続けるほどの強さを持つところもまた好ましい。
すぐ傍にある自然の一欠片に心を洗われた後、改めてペンを握り直して机に向かう。
今年の夏は只の夏ではない。
必死に勉強して目指していた大学の医学部に見事合格し、なんとか進級を積み重ねてきて、いよいよ今年で六年目。
医学部六年生の夏とはつまり、来年の二月に行われる医師国家試験の勉強真っ只中ということだ。更には大学の卒業試験に向けた勉強もしておかなくてはならないから、六年目の夏から秋にかけての今の時期は、まさに今後の一生を左右すると言っても過言ではないほどに、重要な時期なのである。
それに、ただ闇雲に勉強だけしておけばいいという訳でもない。
国家試験や卒業試験に合格するというのを大前提に置き、将来どこの病院に就職するのかについての調査も怠ることは出来ない。情報収集に病院見学、希望する病院の研修コースの対策など、やるべきことを挙げていくとキリがない。
それほど忙しい時期であるから、もちろん、色々なことが起こり得る。
一年の頃から仲の良かった友人が突然音信不通になったり、現実逃避のためアルバイトに勤しみ始める者が出始めたり、長年仲の良かった医学生カップルが突如破局したりと、とにかく予想外の出来事があれやこれやと起こるのだ。
しかしそんな喧騒も、家の中に籠れば対岸の火事。
早朝に起きれば生活サイクルも崩さず、健康的な日々を送ることができる。その上、九州の例に漏れず猛烈な暑さが訪れるこの福岡という地でも、早朝ならば幾分か涼しい。
電気代の節約も兼ねながら勉学に励むことが出来る今はまさに、自分にとってのゴールデンタイムなのだ。
3
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:13:28 ID:l74WHbvE0
そんな静けさを破るかのように、ガザゴソと、怪しげな音が玄関から聞こえてきた。
嫌な予感がしてペンを置く。廊下を歩き、玄関の前に立つ。やはり、ドアのすぐ外側から奇妙な音がしている。
内心で『またか』と思いながら、少し勢いよく玄関のドアを開けた。
lw´‐ _‐ノv「うわっ、危ないなあ。ドアを開ける時は一声かけなよ」
( ФωФ)「吾輩の家のドアをいつ、どう開けようと、吾輩の勝手であろう」
lw´‐ _‐ノv「朝っぱらから不機嫌そうだねぇ、ロマ。まさかこんな時間から勉強してたのかい? 全く、医学生という生き物は本当に変わったことをするもんだね」
( ФωФ)「早朝から人の家の前で何かやらかそうとしている人間に言われたくないであるよ、シュー」
玄関の前で蹲りながら何かをしでかそうとしていた少女の名前を呼ぶ。
大きな麦わら帽子の下からは、黒檀のように美しく、長い髪が伸びている。
『砂尾シュール』。下の名前の呼び方を変えて、自分だけでなく他の友人たちからもあだ名で『シュー』と呼ばれている。二年前まで自分と同じ大学に通っていた女性だ。
通っていたと過去形なのは、彼女は自分と同じ六年制の医学部ではなく、四年制の農学部の学生であったから。
だが彼女は大学卒業後の進路を就職でなく、進学という方向に舵を切ったことで、今は農学研究員二年として大学院に在籍している。
そして余談だが、彼女が先ほど口にした『ロマ』とは自分のあだ名だ。
『杉浦ロマネスク』という自分の本名の、下の名前から一部だけを取り出して『ロマ』。シューだけでなく、他の友人からも呼ばれている呼び名だ。
もっとも自分から「そう呼んでくれ」などと吹聴した訳ではなく、眼前で座り込んだままの彼女が広めた呼び方であるが。
4
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:15:09 ID:l74WHbvE0
( ФωФ)「それで、一体何をしてたのであるか」
彼女の足元にいくつか散らばっている機械類と、幼稚園児であれば乗れそうな車らしき大きな玩具に視線を向ける。
どういう代物なのか見当もつかないが、少なくとも碌なものではないことは見て取れた。
lw´‐ _‐ノv「ほら、ここって日当たりいいだろ。特に君の家の前は、この時期の今くらいだとちょうどドアのところに直射日光がくるんだ」
( ФωФ)「……それで?」
lw´‐ _‐ノv「今、工学部との共同研究で、日光だけで動く最新型トラクターの実験をしててね。その1/20スケールの小型試作機を貰ったから色々弄ってみたくて」
( ФωФ)「わざわざ吾輩の家の前でやる必要はないだろう」
lw´‐ _‐ノv「ついでだからボクが来たときに自動で開くシステムにしたくてね。そうすれば君の玄関は便利な自動ドアになり、ボクは君の許可を取らなくても部屋にお邪魔できる。凄いだろ」
( ФωФ)「本当に文字通りお邪魔しにくるヤツ初めて見たのである。お断りだ、変人め」
lw´‐ _‐ノv「君にだけは言われたくはないなぁ」
能面のような無表情のまま、シューはテキパキと足元に散らばった機械を手際よく回収していく。
このように、彼女の行動は本当に突発的かつ、理解できないものが多い。勝手に家の中で日本酒作りの米を仕込まれていたり、大量の胡瓜を使ったカッパ釣りに巻き込まれたりと、過去の所業を挙げていけばキリがない。
彼女の奇行に巻き込まれるようになって、今年でもう六年目。あれほど忙しく目まぐるしい医学部のカリキュラムには慣れても、シューの言動には未だに驚かされる毎日であった。
5
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:16:23 ID:l74WHbvE0
lw´‐ _‐ノv「では、代わりに焼きマシュマロをやろう。毎年思っていたんだが、金属で出来た君の部屋のドアノブはこの時期実に熱そうだ。きっとマシュマロくらいは焼けるに違いない」
(;-ωФ)「なんであるかその無駄かつ色んな意味で危ないアイデアは……普通に火で焼いて食べればいいだろう」
lw´‐ _‐ノv「そういうんじゃないんだよ。ロマンが分かってないねぇ、ロマの癖に」
( ФωФ)「それは君が勝手に付けたあだ名であろうが」
文句を言っている間に機械は片付け終わり、そのままシューは部屋へと入ってきた。
まぁ、いくら早朝で涼しいと言っても今は八月、真夏だ。熱中症などによる人死にが頻繁に発生するこの時期に、友人を外に放り出せる程の強靭な精神は持ち合わせていない。
当たり前のように靴の横に置かれたミニトラクターの玩具は、一旦見なかったことにする。
6
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:18:47 ID:l74WHbvE0
客人用のコップに冷たい水を注ぎ、シューに差し出す。
「ありがとう」という返事の後に勢いよく水を飲み干した彼女は、ハッと何かを思い出したようにこちらに向き直った。
lw´‐ _‐ノv「今回は手土産があるんだ。いつも部屋に上がって何もしないのは無礼だと姉に言われてね」
シューが肩から下げたトートバッグから取り出したのは、格式が高そうな茶色の四角い箱だった。
lw´‐ _‐ノv「我らの住処、福岡が世界に誇る銘菓『なんばん往来』だ。大事に食べるんだよ」
(;-ωФ)「……どうも」
lw´‐ _‐ノv「なんだいその嫌そうな顔は。これは君の好物ではなかったかな?」
( ФωФ)「好物である。だが、福岡に住んでいる者に福岡土産を渡すというのは、あまりに理解しがたい行動だと頭を悩ませているだけだ」
lw´‐ _‐ノv「君のその理屈だと、東京都民には寿司を食べさせてはいけないということになるし、大阪府民には『秋鹿』という名酒をプレゼントしてはいけないということになるが」
(;-ω-)「あぁはいはい……吾輩が間違っていた。ありがたく受け取るであるよ」
lw´‐ _‐ノv「素直でよろしい。あぁいや、素直なのはボクか」
( ФωФ)「君の名字とは字が違うであろう」
ぼやくようなツッコミを入れながら、貰ったお菓子の箱を丁寧にキッチンの下に仕舞う。
福岡民に福岡名物をあげるという行動自体には些か首を捻るが、『なんばん往来』自体は自分の好物であり、紛うことなき銘菓である。試験勉強の心強い味方であり貴重な糖分だ。野暮なことはもう言わず、黙って頂くのが吉であろう。
7
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:20:02 ID:l74WHbvE0
( ФωФ)「それで、何しに来たのであるか。他に用事がないのなら吾輩は勉強の続きを……」
lw´‐ _‐ノv「あぁいや、用事なら他にもあるよ」
(;-ωФ)「なら予め連絡をくれ。アポなしで来るなと普段からあれほど言いつけてあるだろうに」
lw´‐ _‐ノv「何言ってるんだ。今回はしたさ、メールで」
丸い瞳を更に丸くしたシューの言葉を訝しみながら、自分のスマホを確認する。
普段からシューとの連絡くらいにしか使っていないメールボックスには、未確認のままの連絡が確かにあった。
lw´‐ _‐ノv「ほら、ちゃんと事前に連絡してあるだろう? すぐにボクを叱るのはやめて欲しいね」
( ФωФ)「たった十分前を世間では『事前』とは言わん」
シューからの連絡は確かにあった。
『話があるから、家で待っていてくれ』という旨の文章が書かれたメッセージ。
しかしそれは、昨日でも一昨日でもなく、ほんの十分前に送られたばかりの連絡であった。これでは気付けていたとしても対応は変わらなかっただろう。
8
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:22:18 ID:l74WHbvE0
( ФωФ)「そもそもどうして今時メールで連絡をするのだ」
lw´‐ _‐ノv「手紙の方がお好みかい? 長い付き合いだが、君にそんな興趣の好みがあるとは知らなかったな。ボクとしてもそちらの方がメールより好ましいけれど」
(;∩ωФ)「いやそういうことではなくだな……もっと楽なメッセージアプリなどがあるだろうに」
lw´‐ _‐ノv「だから、それこそそういうのじゃないんだって。本当にロマンがないねぇ」
再びシューの口から出た『ロマン』という言葉に眉を顰める。
六年前からよく聞くが、その詳しい意味や意図を尋ねても、明瞭な答えが返ってきた試しがない。
( ФωФ)「一応言っておくが、吾輩は国試や卒試を控えた身なのだ。分かりやすいよう簡潔に言い換えると忙しいのである。百歩譲って君の奇行には付き合うが、こちらにもそれ相応の準備や事情というものがあってだな」
lw´‐ _‐ノv「奇遇だね。ボクも修士論文を控えている忙しい大学院生の身だよ」
(;-ωФ)=3「ならば尚更小さなトラクターで遊んでいる場合ではないだろうに……」ハァ
シューに渡したコップを回収し、キッチンのシンク横に置く。
医学部六年生と大学院二年生。どちらがより忙しいかなどわざわざ比べる気はないが、彼女もまた間違いなく忙しい身であるはずだ。それなのに何故うちに来るのか。本当に理解しがたい変人である。
9
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:23:48 ID:l74WHbvE0
( ФωФ)「うちの玄関を自動ドアにはさせないし、ドアノブで焼きマシュマロもさせん。ほら、今日も昼から暑くなるだろうし、熱中症で倒れる前に帰るのだ。家まで送るし、あの小さなトラクターは吾輩が持つから」
lw´‐ _‐ノv「いやいや。だからまだ用事はあるんだって言ってるじゃないか」
そう言って、シューは自分のトートバッグに再び手を入れる。
しばらくガサゴソとした後、中から取り出された彼女の手に握られていたのは、一枚の紙だった。
lw´‐ _‐ノvっ□「これを君に授けよう」
(;ФωФ)「これは……!」
手渡された紙をまじまじと見ると、それはチケットであった。
額面には四国の、とある温泉旅館の名称が記されている。
偶然にもそこは、自分が予てより行きたいと思っていた場所であった。
10
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:24:59 ID:l74WHbvE0
lw´‐ _‐ノv「福引で当てたんだ。君、前にそこに行きたいと言っていたろう?」
(*ФωФ)っ□「あ、あぁ……ありがとう」
lw´‐ _‐ノv「礼なんていいさ」
いきなり渡されたプラチナチケットに、礼の言葉がぎこちなくなる。
貰った旅館は有名であるからこそ、かなり予約が取り辛い所だ。それも、ピークであるこの夏の時期は特に、旅館がある場所の近くで開催される花火大会の催しなども重なって、相当前から準備しておかなければ行けない場所になっている。
自分も今年こそはと思っていたが、国試や卒試の準備もあって、結局諦めてしまっていた。それがまさか、こんな形で手に入るとは。
(*ФωФ)「いやぁ……本当に嬉しいのである。この礼は必ず」
lw´‐ _‐ノv「そんなに畏まらなくったっていいさ」
(*ФωФ)「いや遠慮するな。もし何かして欲しいこととかあったら忌憚なく言ってくれ。吾輩に出来ることなら何でもするであるよ」
チケットを見つめながら、頭の中で旅程を組み立てていく。
旅館がある場所は福岡ではなく、ここから離れた四国、愛媛だ。
過去には一度訪れたのみで、その時は不幸にも大雨に遭ってしまい、予想外の幸運こそ一つあったものの、行きたかった場所や見たかった景色に触れることは出来なかった。
今回はどうしようか。あの有名な道後温泉には必ず入って、気になっていた観光地を巡って、どうせなら花火も見にいけるだろうか。
11
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:26:48 ID:l74WHbvE0
lw´‐ _‐ノv「そうかい。なら、今すぐ頼むよ」
脳内で展開していた思考が一気に霧散する。
シューから声をかけられて再び手元を見ると、渡されたチケットは一枚ではなく、更にもう一枚重なっていることに気が付いた。
( ФωФ)「……飛行機の、チケット?」
この国に住んでいる者なら必ず知っているであろう航空会社の名前が記されたチケット。
『福岡発』と書かれた文字のすぐ横には、『愛媛着』とある。
だが、更に自分の目を惹きつけたのは地名ではなく、その下に刻まれていた時刻であった。
(;ФωФ)「……シュー。これ、時間が」
lw´‐ _‐ノv「そうだよ。だから早く準備してくれ」
シューは相変わらずの無表情のまま、その綺麗な黒髪を揺らしてこう言った。
lw´‐ _‐ノv「今日の午前八時発だからね、じゃ、行こうか」
12
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:29:53 ID:l74WHbvE0
チケットを見つめて呆然としている自分に、六年前から変わらない無垢な視線が注がれる。
さっきの自分の発言が脳裏で何度も反響する。行きたいと願っていた温泉旅館の宿泊券を渡され、高揚したテンションのままに、「必ず礼はする」と言ってしまったこと。
あの奇想天外が服を着ているような相手に絶対してはならなかった、明らかな失言。
顔を上げ、シューを見る。
麦わら帽子を被ったままの可憐な変人は、既に玄関で靴を履き直していた。
いやトラクターの玩具は置いていけ。絶対邪魔になるから。ここに置いてていいから。
13
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 21:41:40 ID:Yp9aDqyk0
あー
14
:
名無しさん
:2025/08/01(金) 22:03:39 ID:nDckUnCQ0
ロマは表情豊かやな。わくわく
15
:
名無しさん
:2025/08/02(土) 02:08:38 ID:kivxum2o0
乙者
16
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:43:04 ID:Yt.4DXr20
ざりざりと、土を踏む音が周囲の木々に反響している。
人間がなんとか歩けるほどの最低限の舗装がなされた道を、もうかれこれ、何時間歩いているのだろうか。
左手首に付けた腕時計を見る。朝の爽涼は既に消え失せ、額から流れる汗を拭う。
夜逃げのようなスピードで福岡空港に転がり込み、愛媛の松山空港に到着したのが午前九時頃。
そのまま速攻でタクシーに投げ込まれたかと思えば到着した先は、楽しみにしていた旅館でも、気になっていた花火大会の会場でもない。
そこは、とある山の登山口であった。
17
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:45:13 ID:Yt.4DXr20
『石鎚山』という山がある。
四国山地西部に位置する、西日本に聳える山々の中でも最高峰の高さを誇る山だ。
古くから山岳信仰の地として奈良時代から幾つもの伝説で有名であり、日本七霊山の一つにも選ばれているほどに霊験あらたかな場所である。
色々と逸話が残っているが、その中でも特に有名なのは修験道の話。つまり、修行の場として古くから日本全土に知られている。
その名残は今でも見受けられ、登山コースの中には鎖を伝って崖を上る『鎖場』などがある。
もちろん、登山初心者でも登りやすいように、ロープウェイや観光リフトも用意されている。体力に自信がない者でも、目と心を癒す大自然や広大な四国山地という絶景を眺めることが出来るのは、まさに文明の進歩のおかげであろう。
しかし、現在の自分たちはそんな現代の恩恵に預かることなく、親から与えられた自前の二本の足で、やけに草木や枝が散乱している山の土を踏みしめながら歩いていた。
何故ならこの登山の目的は、山頂からの絶景でも山中の夏めいた自然でもない。
今の我々が目指しているのは、自分をここまで連れて来た変人が行きたいと願った場所であった。
18
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:46:04 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「ねぇロマ、あそこにもう彼岸花が咲いているよ。やはり赤い花というのは辛いんだろうか。カレーに入れたら米と合うかな」
(;-ωФ)「何かしらの事件を起こしたいのなら合うのではないか……」
いつも通りの会話をしながら、シューに置いていかれないよう懸命に歩く。
余談だが、彼岸花の球根には毒がある。間違っても食べてはいけない。
シューは見た目に反し、かなりエネルギッシュな女性だ。その華奢な体躯の一体どこにそれほどのエネルギーを貯めているのか知らないが、とにかくよく動く。
研究のために北海道に日帰りで行ったかと思えば、そのまま国際線に乗り換えてタイに寄ってから帰郷してきたこともあった。
見習うべき点も確かにあるのだろうが、理不尽な記憶マラソンだけで息を切らしている自分には、生まれ変わっても真似できそうにない。
19
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:47:04 ID:Yt.4DXr20
(;ФωФ)「……それで、目的の場所は何処にあるのであるか」
lw´‐ _‐ノv「もう少し」
(;ФωФ)「一言一句違わぬ返答を二時間前にも聞いた気がするのだが」
lw´‐ _‐ノv「アインシュタイン曰く、時間なんてのはそもそも存在しないらしいよ。観測者の立場によって時間の進み方は変わる以上、絶対的な時間というものは存在しない。所詮は社会を円滑に回すために人間が後付けした概念さ」
(;-ωФ)「なら、社会を生きる上にその恩恵を受けている我々は殊更、時間の存在を認めるべきであろうが」
息を切らしながら、絞り出した酸素で応答をする。
彼女のよく分からない返事や会話に対して答えを返す時は、出来るだけ脳の酸素や糖分を使わず反射で行うのがコツだ。そうしなければ到底、体が保たない。
シューが目指している場所は、とある珍しい品種の米を作っている田んぼであった。
なんでも、愛媛にある大学がこの山に流れる川の近くに大規模な田畑を作り、そこで大規模な米の研究をしているらしい
。無類の米好きであり、大学院でも米をメインの研究対象にしているシューにとっては、訪れる価値が充分にある場所だ。
正直、愛媛の大学の人に話を聞くか、発表済みの論文やレポートにアクセスすれば事足りるのではないかと思うのだが、シューがそれで納得する筈もない。
『研究は足で積み上げるものだよ』とは、昔から彼女がよく言う格言の一つである。
20
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:48:29 ID:Yt.4DXr20
(;-ω-)「しかし、まさかせっかく石鎚山に来て神社にも寺にも登らないとは……」
lw´‐ _‐ノv「なにさ。自前の足で土を踏みしめる感覚がそんなに不満かい?」
(;ФωФ)「そういう訳ではなくだな、福岡や東京などの都会では見られないものがあるのに、そちらに目を向けないというのは勿体ないと言いたいのだ」
lw´ _ ノv「……東京、ね」
(;ФωФ)「うん?」
lw´‐ _‐ノv「いや、別に」
途切れる息に混じって愚痴を吐く。
中腹に鎮座する『成就社』は、700年以上の歴史を誇る歴とした社である。石鎚大神の言葉に感銘を受けた役小角の逸話から、不屈の精神や物事の成就を祈る、文字通りの『諸願成就の宮』だ。
ロープウェイのゴール地点でもある『奧前神寺』や山頂からの眺めなど、この山に来たからには一目見ておくべき絶景やスポットは他にも多数ある。
それら全てを無視して目指すのが田畑のみというのは、この地にかつて一度訪れたことのある身としては中々遣る瀬無い感覚があった。
21
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:49:39 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「神社や寺では米も育ててないだろうからね。それに、君は一度ここに来たことがあるんだろう? なら今回はいいじゃないか」
(;ФωФ)「吾輩だけが一度見たからといって……いや待て、何故それを知っているのであるか」
lw´‐ _‐ノv「君が昔、自分で言ってたろう。居酒屋で日本酒を零しながら」
(;ФωФ)「……よく覚えているであるな」
lw´‐ _‐ノv「かの『若波』の純米吟醸という名手をドバドバ零すという狼藉を働きながら『石鎚山には絶景がある』と声高に語っていたものだからね。それほどの無礼が許されるほどの場所なんて、嫌でも興味が沸くというものさ」
シューにしては珍しく毒が含まれた言葉に、何も言えず口ごもる。
彼女の米に対する思いは並みのものではない。うちに来た時に共に食事をすることも多々あるが、米がないと一気に不機嫌になるのだ。
だからうちにはどんな状況でも必ず、一定の米袋が常備されている。最近は米も高いというのに、困ったものだ。
22
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:50:58 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「それに全く無視する訳じゃない。君がここで見たという絶景にも興味があるからね、田畑を確認したついでにそっちもちゃんと見に行くさ」
( ФωФ)「……あぁ。それなら多分、今日は見れぬぞ」
lw´‐ _‐ノv「ロープウェイがあるだろう? それを使えば山頂だってすぐなのだから……」
( ФωФ)「いや。山頂に行っても今日はおそらく見れぬよ。そういう類のものではないのだ」
lw´‐ _‐ノv「?」
首を傾げるシューから視線を外し、空を見上げる。
夏特有の爽やかな淡青色が広がる空の中、ちらほらと分厚い白い雲が見える。いくら山の中は天気が変わりやすいと言っても、今日は快晴に近い天気だ。
だからおそらく、あの時自分が見た絶景は伺えないだろう。
23
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:52:10 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「それで、一体ここにある米は、何が特別なのであるか」
登山口近くの売店で買ったペットボトルを開き、喉を潤しながら質問をする。
無数に生えた木々のお陰で多少は涼しいといえども、今は真夏の真昼間。意識的に水分と塩分を取らなければ、熱中症になるリスクが高まる。
その上、今自分たちが進んでいるルートは、多くの観光客が利用するメジャーな登山道ではないため、人通りもほとんどない。よって万が一ここで倒れても、他人に救助される可能性は極めて低いと考えられる。
いくらここが素晴らしい山だとしても、骨を埋めるのは御免蒙りたい。
lw´‐ _‐ノv「……簡単に言うと、暑い地域でも美味しく育つ米かな」
シューは少し考える素振りを見せた後、平易な言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
24
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:52:48 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「豊かな水、広い土地、良い土壌。これらの最低条件が揃っている場所は確かに西日本には多い」
lw´‐ _‐ノv「だが東北と違ってこちらは大きな寒暖差があまりなく、年中暑い地域が多い。米を育てること自体は出来ても、どうしても味に不満が出てしまう。これだけ農業技術が進んだ現代でもね」
足だけは懸命に前に出し続けながら、少し前を歩く彼女の説明を聞く。
lw´‐ _‐ノv「味というのは農業において決して無視できない要素だ。美味しい食事は健全な精神と肉体を育む。それも、肉や魚、その他の野菜と違って米というのは我々日本人がほぼ毎日食べるものだ。そこにかける拘りと情熱は、他の食物よりも更に一段階上のものが必要になる」
だんだんと話すスピードが速くなっている気がする。
彼女の話を聞いて、色々と腑に落ちるものがあった。
確かに、米はパンと違って毎日食べている。それほど頻繁に口にするものなのだから、拘らないというのは却って変な話なのかもしれない。
いつもは変なことばかり口にする彼女の後ろ姿が、なぜだか急にまともに見えてきた。
25
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:57:29 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「……なら、なぜ愛媛まで? 西日本というのなら福岡の田んぼではダメなのであるか?」
lw´‐ _‐ノv「分かってないなぁロマは。確かに場所も環境も西日本という括りでは同じに出来るだろうが、福岡と愛媛では異なる箇所が多々ある。一緒くたにするのはあまりに乱暴だよ」
( ФωФ)「違うのならば、愛媛のことを学んでも特に意味は……」
lw´‐ _‐ノv「それは乱暴を通り越して粗雑だね。どれだけ異なる領域でも共通する土壌がある以上、必ず一つは参考にすべき考えや理論がある。どれだけ違っているように見えても、目を凝らせば共通点や参考にすべき点というのは必ず見つかる」
lw´‐ _‐ノv「一見関係ないと思うものでも、一度立ち止まってよく考えてみて、自分の専門分野と合わせて検証してみる。これは農学の士だけじゃなく、医学の徒である君にも必要な思考の柔軟性だと思わないかい?」
ハッと、来年の冬に受ける試験のことが頭に浮かぶ。
自分が目指しているのは内科医だ。それでも、内科のことだけを勉強すればいいという訳ではない。
外科はもちろん、耳鼻科に眼下に形成外科、今後一生お目にかかることのないであろう寄生虫の名前や、哲学染みた倫理学に至るまで。恐ろしく幅広い領域を全て学ばなければならない。
だがそれも、医者という職業に必要だから学ぶのだ。内科だからといって、外科の領分である病について無知であってよいなどと、そんなことはありえない。
試験や就職のことばかりに気を取られ、浅学の沼に嵌りかけていた自分に気が付き、顔が少し熱くなる。
熱を持った脳の中に、シューの言葉がすっと冷水みたいに染み入った。
26
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:57:56 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「……あれ?」
しばらく歩いていると、会話の途中でシューが不思議そうな声を上げた。
小走り気味に駆けだしたシューに続き、慌てて彼女を追いかける。
開けた道の先、いつの間にか少なくなっていた木々の奥には、広大な畑が広がっていた。
「此処なのか」と、隣の彼女に尋ねる。
ようやく辿り着いたというのに、シューは何故か、落胆したように長い息を吐いた。
lw´‐ _‐ノv「……帰ろうか」
(;ФωФ)「えっ……? 畑を見に行かないのであるか?」
踵を返そうとするシューの肩を反射的に掴む。
眼前には、どこまで広がっているのか一見では把握できないほどに広い畑が広がっている。
それなのに、ここまで来たのに、近づくことすらせず帰るのか。
27
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:58:51 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「よく目を凝らして見て欲しい。ほら、稲穂がないだろう」
( -ωФ)「うん……?」
言われた通り、目を細めて懸命に景色を見つめる。
確かに、田んぼこそ信じられないほどに広いものの、緑色の葉や、頭を垂れる茶色の稲穂などが全く見当たらない。
ここから見えるのは、ただ水を引いただけの、広いだけの田んぼや畑であった。
lw´‐ _‐ノv「この前、大きな嵐があったじゃないか」
(;ФωФ)「嵐……?」
ここ最近、缶詰のように家に籠もって勉強ばかりしていたので、直近のニュースが頭に思い浮かばない。
だが辛うじて、四国や中国地方近辺で、大きな台風が発生したというニュースを思い出した。
同じ医学部の友人が「楽しみにしていた旅行がキャンセルになった」と嘆いていたので、少しだけは知っている。
そうか。やけに道に枝や葉が散らばっていると思ったが、それは先日起きた嵐のせいだったのかとようやく理解した。
28
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 00:59:55 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「被害があったのは別の場所だという記載があったから、こっちは大丈夫だと思って来てみたけど……情報の整理がまだ追いついてなかったみたいだね。残念だ」
(;ФωФ)「残念って……ほ、本当にもうここを去るのであるか? せっかく来たのだ、もう少し近くまで寄ってみてもいいではないか」
背を向けようとしているシューを制止する。
いくらメインの米がなくなってしまったとはいえ、他にも得られる情報はあるだろう。
そう思い、シューの顔を覗き見る。
lw´‐ _‐ノv「……まぁ、それもそうかな」
下に向いていた彼女の視線が少し上がる。
長い時間をかけて、こんな所まで歩いて来たのだ。当初予定していたものはないとしても、ほんの少しでいいから何か収穫が欲しい。
再び体を畑の方に向け、田んぼを目指して歩こうとする。
すると、なにか冷たいものが頬を滑った。
29
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:00:23 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「……ん?」
ひやりとした感覚に驚いて、頬に触れる。指先には、水滴が付いている。
まさか、と思った次の瞬間。パラパラと、無数の針が地面を叩くような音がした。
雨が降ってきたのだ。
それも、大量の。
(;ФωФ)「嘘であろう……!?」
自分が着ていた七分袖の上着を脱ぎ、慌ててシューに被せる。
これほどの雨だ、こんな布切れ一枚だと合羽の代わりにもなりはしないだろうが、何もないよりはマシだろう。
30
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:01:04 ID:Yt.4DXr20
慌てて来た道を戻り、転ばない程度の早足で歩く。
その途中、小さなバス停のような場所が目に入った。
赤い屋根の下に、古びた木のベンチが見える。そのすぐ前には、赤黒い錆びで掠れた『停留所』の文字。
この道を通った時にこんな場所なんてあっただろうかと疑問に思いながらも、急いで屋根の下へと避難した。
シューの合羽代わりに使った上着を受け取り、ぎゅっと絞る。
先月新しく買ったばかりの上着からは、湯船に落としたタオルみたいに大量の水が出てきた。
(;ФωФ)「ふぅ……こんな山奥にバス停とは。運が良かったであるな」
振り返り、シューの方を見る。
ベンチに座った彼女は、小さなハンカチでびしょ濡れになった長い黒髪の水分を拭き取っているところであった。
やはり貸した上着が夏服で、布が薄かったからだろうか、自分ほどではないものの、シューも相当濡れている。
ふと、肌にピタリと密着した彼女のインナーが見えて、慌てて視線を別方向に逸らした。
31
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:02:30 ID:Yt.4DXr20
ポケットに入れていたスマホを取り出し、天気予報のアプリを開く。
雨雲をリアルタイムで追いかけることに出来るレーダーによると、どうやら突発的な雨であり、少し経てば無事に止みそうであることが分かった。
ほっと安心しながら、ベンチに座っているシューの隣に腰を落ち着ける。
ただし、一定の距離は空けて。
いくら気心知れた友人でも、常識という概念を忘れた変人でも、彼女はれっきとした女性だ。
異性であり、恋人ではない自分が近づくというのは、あまりいい気はしないだろう。
32
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:03:00 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「どうやら通り雨であるらしい。少し雨宿りして、晴れたらまた畑を見に行ってみよう」
努めて明るい声を出しながら、髪から垂れた雨雫を拭う。
シューはいつもの無表情のまま、ざあざあと降りしきる雨を見つめていた。
lw´ _ ノv「……いや、いいよ。やっぱりよそう」
( ФωФ)「え?」
落胆と後悔が入り混じったような、そんな声。
シューを見る。視線こそこちらに向いていないし、表情もいつも通り。
だが、僅かに下がった目尻と、ぎゅっと結ばれた口元から、ひどく落ち込んでいるのが見て取れた。
33
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:04:57 ID:Yt.4DXr20
米などのごく限られた物事に関する興味を除けば、シューは基本的にいつもローテンションな女性だ。
あまり表情筋が動かないことや言動が浮世離れしていることもあって、シューと交流がある友人でも彼女の細やかな感情の機微は分からない人が多い。
もちろん、自分もまたその内の一人であると自負しているし、シューのことなら何でも分かるなどと思い上がるつもりもない。
それでも、かれこれ六年の付き合いなのだ。言葉を交わさずとも、気分が上がっているか下がっているか程度の判別くらい顔を見れば分かる。
lw´ _ ノv「雨が止むまでの時間のロスを考えたら、田畑を見に行く余裕なんてない。このまま引き下がるのが得策だ」
( ФωФ)「どうしたのだ、シュー。これくらいで落ち込むなどと、君らしくもない。さっきも言ったがこれは通り雨だ。畑はすぐそこだし、大した時間のロスにもならぬよ」
平常通りの声色を心掛けながら懸命に励ます。
それでも何故か、シューの顔は一向に明るくならない。
彼女はまるで、遠い異国を想っているような、そんな遠い目をして雨を見つめていた。
34
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:05:51 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「……ごめんね。ロマ」
雨音だけが木霊する無音の中から遠慮がちに現れたのは、シューの小さな呟きであった。
(;ФωФ)「本当にどうしたのであるか。謝罪される謂れなど吾輩には……」
lw´ _ ノv「いっつも振り回して、ごめん」
ベンチの上で三角座りになり、膝の山に顔を埋めるシュー。
彼女の長い黒髪が、その小さな背中を覆うようにサラリと揺れた。
35
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:06:51 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「急に押しかけたり、無理な遊びに付き合わせたりして」
(;ФωФ)「い、いや……」
突然の謝罪に何と返答すればいいのか分からず、言葉に詰まる。
別に、シューは謝れない人間じゃない。言動にかなり難こそあるものの、人が嫌がると分かっていて行動に移すことは基本的にない。
そもそも元来、聡明な女性だ。
誰かに多大な迷惑がかかるようなことはしないし、仮に誰かに悪影響があった時は素直に謝る。
実際に三年ほど前、『炭火で焼肉が食べたい』といって自分の家に来てあわや火事寸前にまでなった時、彼女はすぐに自分と共に、アパートの大家さんに頭を下げに行った。
あの時はどちらかというと、事前対策の知識が足りなかった自分の方に非があったにもかかわらずだ。
吾輩が動揺したのは、彼女から発せられた謝罪の言葉ではない。
その落ち込み具合が、今まで見たことがないほどに酷いものであったからだ。
36
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:08:25 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「……昔から、自分がズレている自覚はあったんだ」
ポトリと、雫のような寂しさを纏った声色がバス停に響いた。
lw´ _ ノv「やりたいことを一人でやってるだけで嗤われたり、怒られる。最初は優しくしてくれた人も、話をするうちに結局離れていく」
lw´ _ ノv「子どもの頃からずっと……大人になっても、そうだった」
ある程度は拭いた筈の髪から雫が零れて、地面に落ちる。
水玉の形をした円模様がポツポツと、シューの足元に増えていく。
37
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:09:39 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「でも、君は違った。知り合ってからどれだけ経ってもボクを避けないどころか、君から話しかけてくれた。まるで、普通の友達に話しかけるみたいに」
(;ФωФ)「いや……別に、そんなの大したことでは」
lw´ _ ノv「君にとってはそうだろうね。普通の、何でもないことだったんだろう。でも……」
lw´ _ ノv「ボクにとっては、凄く嬉しいことだったんだよ」
顔はまだ上がっていない。それでも、声だけはまっすぐにこちらに響く。
外でしつこく降っている筈の雨音が、全く気にならないくらいに。
38
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:11:06 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「嬉しすぎたから、君と話すのがあんまりにも楽しかったから、ついつい色々と誘ったり、話しかけたりしちゃって……」
lw´ _ ノv「でも、駄目だったね。散々迷惑をかけて、ボクなりに反省したつもりだったんだけど、また失敗しちゃった」
(;ФωФ)「失敗って……通り雨に遭ったくらいで大袈裟であるよ」
降りしきる雨の音にかき消されないほどに声を張る。
それでも、シューの顔が上がる気配は微塵もない。
39
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:11:56 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「忙しいって分かってるのにこんな遠い所まで無理やり連れてきて……見せたかった景色も、面白いものも、何も見せられなかった」
lw´ _ ノv「それどころかこんな大雨にまで遭わせてしまって……本当に、ごめん」
より深く顔が埋められる。
ひどく縮こまったシューの姿はまるで、真っ黒な一つのボールのように丸くて小さく、頼りなく思えた。
彼女らしからぬ悲痛な謝罪の言葉に、上手く言葉が見つからない。
何と言えばいいのかと慌てふためいている間に、雨音がまた強くなった気がする。
バス停の屋根の下、お互いに口をつぐみ、重苦しい沈黙が流れる。
夏らしい蝉の鳴き声も、風鈴を揺らしたような声も聞こえない。
まるで、ここら一帯だけ、夏という世界から切り取られたみたいな静けさだった。
40
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:12:29 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「……別に、気にしてないであるよ」
( ФωФ)「本当に、全く、これっぽっちも」
沈黙を破ったのは、極めて普遍的な自分の言葉であった。
じっと静止していた時間と頭が回り出す。
だがそれでも、今のシューに相応しいような慰めも、理路整然とした言葉も見つかりそうにない。
それでも何か言わなければ。自分は全く、迷惑などと思っていないことを。
謝る必要などないのだと、はっきりと彼女に伝えなければ。
41
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:13:31 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「……吾輩も、同じである」
考えた末に口から飛び出たのは、何の面白みもない、只の自分語りであった。
( ФωФ)「吾輩もそうであった。口を開いた途端、『喋り方が変だ』と指を差される毎日だった」
( ФωФ)「大学生になってからはそこまで表立って言及されることもなくなったが、やはり今でも、ただ話すだけで顔を顰める人はいる」
自分の喋り方が変だという自覚は昔からあった。
原因も分かっている。幼少期、父の書斎にあったとある文豪の作品に夢中になり、読み込んだことがきっかけである。
明治時代に書かれた書物を片っ端から読み漁り、意味が不明瞭な言葉は自ら調べ上げ、その全てを読破した頃にはすっかり、話し方にまで影響が出てしまっていたのだ。
初対面の人からの印象は、基本的に下の下であった。
思考や行動、その他一般的とされている常識は身に着けているつもりであったが、定着してしまった話し方や一人称というものは、容易に封じられるものではない。
少し口を開くだけで『気取っている』だの『変人』だのと、心無い中傷を受けた日もある。
大人になってもこの苦しみを甘受しなければならないのだろうか。
この話し方や一人称なども含めて『自分』であるのに、人並みの扱いや幸福を教授するためには、『自分』を殺さなくてはならないのだろうか。
そんな悩みを抱えていたある日、澄み切った夏の青空の下で出会ったのが、シューだった。
42
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:15:05 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「初めて会ったのも、今ぐらい暑い夏だったであるな」
目を瞑れば、いつでも容易に思い出せる。
いや、わざわざ脳を働かせる必要すらないほどに、あの日のことは網膜に焼き付いている。
大学に用事があって、夏休みであったのに珍しく大学に向かった日のこと。
いつも使っていたバスに乗り遅れた挙句、道の真ん中で大量の荷物を派手に落とした時。
迷惑そうな顔をする通行人に囲まれている自分に何も言わず、落とした荷物を一緒に集めてくれたのは、白いワンピースを着た少女であった。
シューとの交流が始まったのは、それからだ。
後日、大学で偶然再会し、よく話すようになった。こんな変な喋り方をする男に、普通に話しかけてくれた。
同じ医学部の友人からは『彼女は大学内でも有名な変人だから気を付けろ』と言われたが、そんな忠告をされた時には既に、彼女の不可思議な言動については知っていた。
それでも、周囲から何を言われようと、シューと一緒にいるのは楽しかったのだ。
家を火事にされかけたこともある。深夜に叩き起こされたこともある。振り回された挙句に一切の物理的な成果がなかったことなど、数えていけばキリがない。
けれど、どれだけ変なことに巻き込まれようとも、彼女から離れたいとは思ったことなどないのだ。
43
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:15:56 ID:Yt.4DXr20
lw´ _ ノv「……それでも、ボクがたくさん君に迷惑をかけたのは事実だろう。こんな、自分のことを『ボク』だなんて言う女、迷惑じゃない筈が……」
( ФωФ)「今更何を言っているのだ、阿呆め」
あえて少し語気を強くする。
一瞬だけピクリと、シューの肩が震えたのが分かった。
( ФωФ)「ただの一人称が何だというのだ。吾輩など、公の場以外でも普段から『吾輩』と呼称しているのだぞ。そんなことで君を迷惑に思う訳がないだろう」
変人だとは思う。変わっているとは確かに思う。
なんなら、大学にいる誰よりも、シューのことを変わり者だと思っている自信がある。
それでも、どれだけ変に思っていても、迷惑などと思ったことは一瞬たりともないのだ。
44
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:16:48 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「君のことを迷惑に思ったり、邪魔に感じることは今までも、これからもない」
lw´ _ ノv「……でも」
( ФωФ)「でももだっても杓子もあるか。そもそも、吾輩は好きで君に付き合っているのだから、今更君がそんな風にしょげる必要など皆無であるよ」
思いついた言葉をそのまま出力する。
オブラートに包んだ言い方も、秀逸な語彙で構成された文章も、何も思いつかない。
だが、そんなことを考えるよりも迅速かつ率直に、自分の想いをそのまま真っ直ぐに、彼女に伝えるべきだと思ったのだ。
だが、あまりにも凡俗すぎただろうか。心配になり、ちらりと横を見る。
いつの間にか、ずっと膝に埋まっていた筈の彼女の顔は上がっていた。
45
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:19:40 ID:Yt.4DXr20
lw´*‐ _‐ノv「……そう」
久方ぶりに目が合った。そう思うと同時にサッと視線を外される。
数秒だけ黙った後、彼女はまたバス停の外を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
lw´‐ _‐ノv「やっぱり君は、変なやつだな」
( ФωФ)「なんだ急に。励ましたのに悪口か?」
lw´‐ _‐ノv「受け取り方は任せるよ」
声色が元に戻っている。
さっきまでの不安そうな声とは違う。夏の風鈴を思わせるような、そんな涼やかで透き通った、綺麗な声。
上げられた彼女の顔を見る。
一輪の向日葵を思い出させるかのような、屈託のない笑顔。
普段はあまり表情を変えることのないシューの笑顔は、六年の付き合いである自分にとっても甚だ新鮮なもので。
そして、それに思わず見惚れてしまった自分は、数秒の間を置いて「そうか」という生返事をすることしか出来なかった。
46
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:20:16 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「……おや?」
一瞬、爽やかな風が通り過ぎたような感覚がした。
不思議に思うと同時に、また別のことにも気が付く。
あれほど煩かった雨音が、いつの間にか止んでいたのだ。
視線をバス停の外に向ける。
すると、薄暗かった屋根の向こう側の道には、眩しいくらいの陽光が差し込んでいた。
47
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:20:54 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「なんだ、やはり驟雨であったか」
lw´‐ _‐ノv「……ん? なんだい、呼んだ?」
何故かシューが不思議そうにこちらを向く。
別に彼女の名など呼んではいないのに、何を聞き違えたのだろうかと不思議に思う。
そして、数秒ほど遅れてその意味を理解した自分は、思わず声を上げて笑ってしまった。
( ФωФ)「違う。『しゅうう』と言ったのだ。急に降り出す雨のことだが『にわか雨』と言った方が分かりやすかったか」
説明しながら、頭の中で二つの単語を並べてみる。
『シュー』と『驟雨』。なるほど、確かにそっくりだ。
特に、突然現れては突然消えたりするところなど、瓜二つである。
lw´‐ _‐ノv「へぇ。迷惑な雨に、随分と洒落た発音の名前が付いているもんなんだね。アポも取らず急に来たかと思えば急にいなくなるなんて、非常識にも程がある」
いつも通りの顔と声色で言葉を紡ぐシューに、また笑いそうになる。
自覚があるのかないのかは分からないが、やはり似ているのは呼び名だけではないらしい。
48
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:21:24 ID:Yt.4DXr20
そういえば、と思い、ベンチから立ち上がってバス停の外に一歩出てみる。
顔を上げて、遥か遠くの空を見る。
自然に、自分の口角が上がるのが分かった。
( ФωФ)「まぁ、そんなに悪いものでもないのであるよ」
訝し気に目を細めたシューに手招きをして誘う。
ベンチから立ち上がった彼女は、ゆっくりと自分の隣まで歩いてくる。
さっきの吾輩と同じように顔を上げた彼女は、小さな感嘆の息を漏らした。
lw´*‐ _‐ノv「……わぁ」
視線の先であり、空の先。
上空には、神様が描いたのかと錯覚するほどに立派で、綺麗な虹が架かっていた。
49
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:23:34 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「吾輩が前にこの山で見た虹より、綺麗であるな」
昔、一人でこの山に来た時のことを思い出す。
天気が荒れに荒れたことで予定を全てキャンセルし、ビジネスホテルで不貞寝した翌日。
他に行きたい所もなく、なんとなく訪れたこの山で見たのが、雨上がりの空に架かった虹であった。
だが、あの時とはまた良い意味で違う。
虹の長さも、グラデーションの明瞭さも、何もかもがあの時より鮮明で大きい。
まるで、二回目に挑んだ解剖実習の方が上手くいくように。
( ФωФ)「ほら、失敗ではなかったであろう?」
ちらりと隣を見て語り掛ける。
シューは黙ったままじっと虹を見つめた後、ゆっくりと首を縦に振った。
50
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:24:15 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「こういう、想像だにしていなかったものが見られることもある。迷惑に思われがちではあるだろうが、立ち止まることや休むことの大切さを教えてくれる」
( ФωФ)「過度に熱された空気を冷やし、ゆっくりと天を仰ぐ時間をくれる。こんなに綺麗なものがこの世にあるのかと、これほどまでに世界というのは美しいのだと知らせてくれる」
( ФωФ)「だからやっぱり……吾輩は、驟雨が好きである」
lw´‐ _‐ノv「――えっ」
素っ頓狂な声が聞こえて、再びシューを見る。
声の主である彼女は、珍しく黒い瞳を丸くして、こちらに顔を向けている。
51
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:25:02 ID:Yt.4DXr20
( ФωФ)「どうした?」
lw´;*‐ _‐ノv「……いや、別に。なんでもない」
そう言って、シューはくるりと体を畑の方に向ける。
一瞬だけ顔が紅くなっているように見えたのだが、吾輩の気のせいだろうか。
風邪などをひいてないといいのだが。
52
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:25:53 ID:Yt.4DXr20
lw´‐ _‐ノv「……さて、それじゃあサッと畑を見て、サッと山を下りようか」
(;ФωФ)「えっ? なんだ、結局畑を見に行くのであるか?」
シューの発言に、今度はこっちが目を丸くする番であった。
lw´‐ _‐ノv「向かうべきだと助言してくれたのは君だろう? 時間もないし、小走りで行くよ」
(;ФωФ)「小走りって……いや、行くのはいいが、吾輩は結構疲れているのだが……」
lw´‐ _‐ノv「雨で時間を使ってしまったからね。さっさと用事を済ませて山を下らないと宿の夕食に間に合わない」
lw´‐ _‐ノv「ここまで来たんだ。愛媛の米を食いっぱぐれるなんて御免だよ」
そう言って、こちらの返答を待つことなく、シューは小走りで田んぼの方向へと走り出す。
吾輩はさっきの自分の発言に少し後悔しながら、慌てて彼女の小柄な背中を追った。
53
:
名無しさん
:2025/08/06(水) 01:26:09 ID:BRV0Jom20
支援
54
:
名無しさん
:2025/08/07(木) 23:59:02 ID:FIEoFd720
( -ω-)「はぁ、極楽ごくらく……」
熱さに耐え、肩がしっかりとお湯に浸かるまで沈む。
宿に備え付けられた露天風呂。そこから上を見ると、既に空は暗くなっていた。
噂に聞いていた温泉の効能をこれでもかと堪能しながら、宿に着いてからのことを思い出す。
シューが満足するまで田畑を見た後、山を下ってタクシーを捕まえて移動。宿に到着したのは午後六時過ぎ。
道後温泉の本館などを巡るのは翌日にし、今日は宿の温泉を楽しもうと決めたのは、夕食が出てくるより少し前のこと。
55
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:00:34 ID:t4EJT4zM0
宿に着いてすぐ出された、シューがずっと楽しみにしていた宿の食事は、我々の予想を超えて豪勢なものだった。
その日の朝に採ったという、愛媛の新鮮な野菜をふんだんに使った突き出しが三品。
間を置かず次に運ばれてきたのは、四人分はありそうな鯛の頭付きのお造り。味もさることながら、特に目を見張ったのは量であった。
刺身の後も、サッパリとした地鶏鍋に大きなサザエの壺焼き。松山で採れた新鮮な野菜の煮つけに、捌いたばかりの魚を使った寿司。珍しい本マグロと鯛の釜飯が二つずつに、愛媛のブランド牛である伊予牛のステーキ。ラストは愛媛のミカンを使ったジェラートのパフェ。
サービスで付いてきた愛媛の地酒であり今日登った山の名を冠する『石鎚』があまりにもまろやかな口当たりかつ、するりと喉を通るものであったから、あれだけの量の食事を出されても、全て平らげることが出来てしまった。
二十四年の人生の中でも経験したことがないほどの、豪勢な宴であった。
そして食事が終わり、ついに楽しみであった温泉で身体を労わっているという訳である。
56
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:01:18 ID:t4EJT4zM0
(*ФωФ)(しかし、本当にラッキーであったな……)
シューが用意していた温泉旅館の宿泊券。あれはどうやら本当にプラチナチケットのようなものだったらしい。
自分たちが今泊っている宿は、道後温泉の更に奧、いわゆる奥道後と呼ばれる温泉の地域に属している。
そしてここは、その奥道後の源泉である『壱湯の守』を貸切るための、特別な宿であると聞いた。
女将さんといったスタッフたちがいる旅館から少し離れた場所に、東京の赤坂にあった料亭を愛媛で再建。そこに今では一日に一組、一棟を丸ごと貸しているとのこと。
シューの案内が無ければ、自分がこれほどまでに瀟洒な建物に宿泊することなど人生で一度もなく骨になっていたことだろう。
特に部屋は思わず足が止まってしまったほどに広く、荘厳であった。
あれならば、シューとも距離を離して体を休めることが出来るに違いない。
57
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:02:52 ID:t4EJT4zM0
湯船に浸かりながら、外が見える方にゆっくりと移動する。
旅館の中に作られた、綺麗な夜景や街並みが一望出来る露天風呂。これだけ広いにもかかわらず、一日に利用できるのは最大でもたった二人だけだと言うのだから、贅沢な話だと思う。
一介の医学生がここまでの贅沢をしていいものなのかという小さな罪悪感こそあったものの、身体の芯まで温まる名湯に浸かるにつれ、そんな感情はすぐさまふやけていった。
( -ωФ)(……そういえば結局、花火は見れなかったであるな)
ここに来た目的の一つを今更になって思い出す。
温泉の次にこの地で有名だという、花火大会。噂では、三千発もの大輪が夜空に咲くというかなり派手な催しとのことだ。
だが、どうにも時間帯が合わなかった。というか確か、ちょうど今ぐらいの時刻から行われるのだったか。
確かに花火を見たい気持ちは強かったが、それ以上に身体が疲れ切っていた。
当然と言えば当然である。ここ最近はずっと家に籠って勉強ばかりしていたというのに、いきなり海を渡って別の県まで飛び、修験道に使われるような山を登ったのだ。
流石に花火を見た後、夜遅くに風呂に浸かって、明日の朝早くに起きられる自信がない。それに、花火は別に来年でも見れる。
そう結論付けた吾輩は、花火は風呂に浸かりながら遠目に見るくらいに抑え、体の休養を選んだという訳である。
58
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:04:16 ID:t4EJT4zM0
家のシャワーとは比較にならないほど熱く、ゆったりとした湯。しっかりと肩まで沈ませながら、自然に溢れた愛媛の夜景色を呆と眺める。
福岡の中心とは違って、そこまで建物の光がない。それゆえに、普段はあまり見ないような自然の暗がりが、どこか新鮮に感じられた。
( ФωФ)(……帰ったらまた、色々とやらなければな)
腕を出して岩の縁に置きながら、これからのことを考える。
国試や卒試だけではない。生活のために続けているバイトや、直近に迫った小児科の試験とPost-CC。考えなければならないことは大量にある。
その中でも特に大きな事項は間違いなく、先日送られて来た、とある大学病院の研修コースの合格通知のことだ。
受けたのは確か、まだ桜が咲いていた四月の初め頃。ほとんど記念受験のような感覚で受けたのだが、まさか合格するとは思わなかった。
行きたい場所ではある。しかし、考えなければならない問題もある。
色々な悩みや問題が複雑に絡まった結果、最近ようやく答えこそ決まったものの、自分は未だに研修先の大学病院に対して返答が出来ないでいた。
59
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:05:21 ID:t4EJT4zM0
lw´‐ _‐ノv「ロマ、なにか悩みごとかい?」
( ФωФ)「悩むというか、まぁ。ほとんど答えは決まっているのであるが……」
lw´‐ _‐ノv「こんなに綺麗な夜景を見ながら溜息とは。神様とは自然にこそ宿るんだから、そんな態度じゃ罰当たりだよ」
( -ω-)「そんなことを言われてもだな、やはり現実は見なければ……」
聞き慣れた声に返答し、そのまま夜景を静かに見つめる。
いつの間にか当たり前になっていたその声が、今この場においては当たり前ではないということに気付いたのが、数秒後のことであった。
60
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:05:44 ID:t4EJT4zM0
Σ(;ФωФ)「――シ、シュー!? き、きき君、いつからここに……!?」ビクッ
lw´‐ _‐ノv「今さっき。というか、気付くの遅くないかい?」
驚きのあまりに体勢を崩し、さほど深くないはずの温泉の中で溺死しかける。
みっともなく慌てふためく吾輩の姿がよほど滑稽だったのか、シューはクスクスと楽しそうに笑ってみせた。
(;ФωФ)「な、なんでここに……」
lw´‐ _‐ノv「ここは別に男湯や女湯といった区別もない貸切の露天風呂だよ? ボクだってあの部屋の宿泊者なのだから、ここに入る権利はあるだろうに」
堂々としながら答えるシューから慌てて目を逸らす。
バスタオルを巻いて体を隠しているとはいえ、流石に同い年の女性の体をまじまじと直視などできない。
一体何を考えているのか。今回ばかりはこれっぽっちも、彼女の行動に理解が追いつかない。
いくら友人とはいえ、警戒心というものがなさすぎるのではないか。
61
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:06:13 ID:t4EJT4zM0
(;-ωФ)「……いいかシュー。吾輩は向こうを向いている。その間にさっと風呂を出るのだ」
lw´‐ _‐ノv「だからさっき言ったように、ボクは今入ってきたばかりなんだが。こんなにすぐ出たら湯冷めして、きっと風邪を引いてしまうよ」
当意即妙な返答に、またこちらが言葉を失う。
まるで吾輩が何を言うのか分かっていたのかと思うほどに的確で、淀みのない反論だ。
(;-ω-)「……分かった。ならば、吾輩が出ていく」
シューの方を見ないよう細心の注意を払いながら立ち上がろうとする。
そんな吾輩の試みは、グッと肩を抑えてきたシューによって見事に阻まれた。
62
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:07:00 ID:t4EJT4zM0
っΣ(;ФωФ)「うおっ!? な、なにをするのであるか!」
lw´‐ _‐ノvっ「君だって、お風呂に入ってからそんなに時間経ってないだろう? しっかりと温まってから出るべきだよ。それに、こんなに良いお風呂なんだからもっと堪能していくべきだ」
(;ФωФ)「い、いや、だからって……」
背中に何か柔らかな感触がして、言葉がピタッと自然に止まる。
一瞬、友人に対して抱いてはいけない類の邪念が発生して、吾輩は慌てて顔をお湯に浸けた。
シューは大切な友人だ。
いくら可憐に思っていたとしても、自分を信頼してくれている友人に対し、邪な想いなど微塵も抱いてはならない。
熱湯の水面に何度も顔を打ち付けた後、断固としてシューの方を見ないよう、ずっと目を瞑ることにした。
これが今の自分に出来る、最大限の善行である。
63
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:07:40 ID:t4EJT4zM0
lw´‐ _‐ノv「……ロマ、どうして目を瞑っているんだい?」
(;-ω-)「気にするな。こうしなければならないのだ」
lw´‐ _‐ノv「気にするなって……いや、気にするよ。せっかくここまで来たのに、それじゃあボクが君にお礼出来ないじゃないか」
お礼。お礼ってなんだ。
恋人でもない異性と風呂に浸かり、目を開けてないと出来ないお礼というものがこの世に存在するのか。
64
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:08:20 ID:t4EJT4zM0
lw´ _ ノv「……ねぇ、目、開けてよ。見せたいものがあるんだ」
lw´ _ ノv「早く」
何故か執拗に急かされる。だが何を言われても、この目を安易に開ける訳にはいかない。
そういう欲がないと言えば嘘になるし、シューに只の友愛以上の感情は抱いていないといえば更に大嘘になる。
だがそれでも、シューとの友情を失うことだけは何よりも嫌だった。
lw´‐ _‐ノv=3「……分かったよ」ハァ
溜息と共に、諦めたような言葉が聞こえる。
ようやく納得してくれたのか。そう思い、こちらも安堵の息を零した、次の瞬間。
何か、柔らかいものが、唇に触れた。
.
65
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:08:59 ID:t4EJT4zM0
(;ФωФ)「んっ……!?」
慌てて後ろに退き、目を開けてしまう。
視界の中心には、イタズラっ子のようにクスクス笑うシューの姿があった。
(;ФωФ)「い、いいいま、何を……!?」
lw´*‐ _‐ノv「ふふっ……! いやぁ、まさかここまで驚くとは」
慌てふためく自分と違い、余裕のある笑みを浮かべるシュー。
彼女はひとしきり愉快そうに声を上げて笑ったかと思うと、人差し指と中指だけの、二本の指を立ててみせた。
66
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:09:46 ID:t4EJT4zM0
lw´*‐ _‐ノvっll「ちょっとしたイタズラだよ。二本の指をこうやって立てて、君の唇に当てただけ」
(;ФωФ)「ゆ、ゆび……?」
lw´*‐ _‐ノvっll「ほら。こうしてみなよ」
シューがやってみせたように、自分も指を二本だけ立てて、そっと唇に当ててみる。
その感触は、ついさっきされたものとほとんど一緒であった。
理解すると共に、急激に体全体からガクッと力が抜けた。
なるほど。そういうカラクリだったのか。
目を瞑っていたから分からなかったが、てっきり、その。
lw´*‐ _‐ノv「……何をされたと思ったんだい?」
明らかに何かしらの意図が含まれた質問をされる。
少し離れたシューを見る。お湯で髪が濡れているからか、その身バスタオル一枚しか纏っていないからか、それとも別の要因か。
ずっと隣に居たはずの友人が、なぜだかひどく煽情的に見えた。
67
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:10:44 ID:t4EJT4zM0
(;ФωФ)「ど、どういうつもりなのだ! こんな質の悪い揶揄いをするなどと!」
lw´‐ _‐ノv「ごめんよ。悪かったと思ってるさ」
(;ФωФ)「本当に反省しているのか!? 些か度が過ぎるであろうに……!」
lw´ _ ノv「……でも、こうでもしないと」
lw´‐ _‐ノv「君は、目を開けてくれなかったろう?」
そう言って、シューはさっきの自分と同じように、岩の縁に腕を出す。
陶磁のように白い肩がどうにも目に眩しい。
68
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:11:12 ID:t4EJT4zM0
lw´‐ _‐ノv「ちょうど今からなんだ。ここから見えるのは」
(;ФωФ)「見えるって、君は一体何の話を……」
中途半端な位置で吾輩は言葉を中断した。
いや、正確には中断したのではない。
突如として響いた轟音にかき消されたのである。
突然明るくなった夜の方に顔を向ける。
さっきまで、シューが入ってくるまで一人で呆けながら見ていた夜景色。
ビルや家、商業施設に、ここと同じような旅館やホテル。
その全てを吹き飛ばすような花が、夜空一面に咲いたのだ。
69
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:11:53 ID:t4EJT4zM0
( ФωФ)「……花火」
無意識に言葉が口から零れる。再び、辺りがパッと明るくなる。
花火だ。自分が見たいと切望していた花火が今、目の前で打ちあがっているのだ。
赤や黄色といったカラフルな色が、黒のキャンバスに飛び散っている。
この街すらも吹き飛ばしてしまうのではないかと思えるほどの轟音が鼓膜を揺らしている。
lw´‐ _‐ノv「旅館に着いた時に、女将さんに聞いたんだ。この温泉は、一番綺麗な花火を見られる所なんだって」
シューの説明を聞きながら、夜空で咲き乱れる炎の花を見続ける。
一発一発が見たことのないほどに大きく、煌びやか。更には普通の花火の形だけではなく、何処かで見たようなキャラクターの顔を模したものまで打ち上がっている。
普通の花火大会と違って、他の観客の喧騒もこの場にはない。
まるで、自分たち二人のためだけに咲いているのかと思えるほどに。
70
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:13:13 ID:t4EJT4zM0
(*ФωФ)「これは……本当に凄いであるな」
lw´‐ _‐ノv「いや、これだけじゃないんだよ。
lw´‐ _‐ノv「ちょっとでいいからさ、こっち見て、ね?」
シューの発言に疑問を感じ、やや遠慮がちではあったが、促されるままに彼女を見る。
女神のように柔らかな笑みを浮かべた彼女は、落ち着いた様子で水面を指差した。
今吾輩たちが入っているこの風呂がどうしたというのか。不思議に思いながら、視線を少し下にやる。
そうして、すぐに分かった。
自分たちが浸かっている、この温泉。その水面全体に、花火が映っていたのだ。
池に満月が映るように。覗き込んだ水溜まりに自分の顔や、青空が見えるように。
吾輩たちが入っている温泉の水面にも、上空に咲く絢爛な花火が反射していた。
71
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:14:12 ID:t4EJT4zM0
lw´‐ _‐ノv「『逆さ花火』って言うんだって」
水面に映った花火を拾うように、お湯を両手で掬ってみせるシュー。
彼女曰く、海や湖などの水面に映った花火のことを『逆さ花火』と呼ぶらしい。
少しだけ後ろに下がって、改めてシューを見る。
今度は下手に視線を逸らすことなく、しっかりと彼女の姿を真正面から捉える。
水の上に咲いた無数の花火の中心で、綺麗な長い黒髪を濡らした少女が楽しそうに笑っている。
その様子はまるで、自分が持つ凡庸な言葉で精一杯例えるなら、そう。
花畑の中で遊ぶ、夏の妖精みたいだった。
72
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:14:42 ID:t4EJT4zM0
(*ФωФ)「――綺麗だ」
心に浮かんだ感想が無意識に飛び出る。
シューは驚いたようにこちらを見てから、嬉しそうにニコリと笑ってみせた。
lw´*‐ _‐ノv「ふふ。喜んでくれたみたいで、嬉しいよ」
( ФωФ)「……あぁ」
( ФωФ)「今まで見たどんな景色よりも、綺麗であった」
心に沸いた感情をストレートに伝える。
言い訳の一つも出来ないほどに自分は、花火とシューに見惚れてしまったのだ。
73
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:15:41 ID:t4EJT4zM0
lw´ _ ノv「……どうかな、これでボクは」
lw´ _ ノv「君の、良い思い出になれたかな」
( ФωФ)「……うん?」
少し寂し気に俯いたシューに違和感を覚える。
( ФωФ)「思い出って……何を言っているのであるか?」
なんだか嫌な予感がして尋ねる。
するとシューは何かを堪えるように、体に巻いたバスタオルをぎゅっと握った。
74
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:16:51 ID:t4EJT4zM0
lw´ _ ノv「……だって君は来年、地元に」
lw´ _ ノv「東京に戻るんだろう?」
鈍器で後頭部を殴られたような、そんな衝撃が電撃のように走った。
(;ФωФ)「な……何の話であるか、それは」
シューに話したことはない、それどころか同じ医学部の友人にもほとんどまだ喋っていない悩み事。
それが彼女の口から突如放たれたことに、取り繕う余裕もなく慌てて尋ねた。
75
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:19:14 ID:t4EJT4zM0
lw´ _ ノv「……医学部生は大体、大きな病院に就職するんだろう? 東京はきっと、そういう病院も多いだろうし」
lw´ _ ノv「それに君、昔言ってたじゃないか。家族が心配だから福岡にずっと留まるつもりはないって。地元の東京に戻るか迷ってるって」
(;ФωФ)「そ、それは……呑みの席の話であってだな」
シューの言葉に思わずしどろもどろになってしまう。
彼女の言う通り、自分の地元は東京だ。福岡にずっといるつもりはないと以前、冗談半分ではあったものの呑みの場で彼女に告げたのもまた事実。
だが、違う。
確かにそれも少しは考えたが、違うのだ。
76
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:20:03 ID:t4EJT4zM0
lw´ _ ノv「……ごめん。白けた話をしてしまった。ボクはもう出るよ」
(;ФωФ)「ま……待ってくれシュー! 吾輩は……!!」
言わなければ。今この場で、はっきりと否定しなければ。
昔と今では違うのだと断言しなければ。
大きく口を開き、息を吸う。
最近になってようやく決めた自分の進路を、初めて誰かに話してみようと試みた、その瞬間。
一際大きな青い花火が、爆弾みたいに夜空を照らした。
.
77
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:20:57 ID:t4EJT4zM0
lw´;‐ _‐ノv「きゃっ……!」
(;ФωФ)っ「危ない!」
花火の轟音で驚いてしまい、体勢を崩したシューを慌てて抱きかかえる。
バスタオル越しに彼女の体に触ってしまう。すると、水を含んで重くなったバスタオルがするっと湯船に落ちる。
lw´;*‐ _‐ノv
「「………あっ」」
(;ФωФ)
未だに上空で咲いたままの青い光が、ほんの一瞬、彼女の体を照らしてしまう。
78
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:21:38 ID:t4EJT4zM0
見てはいけないものを見た、そのすぐ後。
(* ω )フラッ
一気に脳から血が抜けたような感覚がして、吾輩の体は勢いよく倒れてしまった。
lw´;‐ _‐ノv「ちょ……ちょっと、ロマ! 大丈夫!?」
バシャバシャと駆け寄ってくる音が、遥か遠くから聞こえてくる。
段々と耳が遠くなり、目を開けているにもかかわらず、視界が一気に暗くなっていく。
薄れゆく意識の中、花火よりも大きなシューの声だけが、懸命に鼓膜を揺らしていた。
79
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:22:22 ID:t4EJT4zM0
続きはまた後日投下します。
もうすぐ終わります。
80
:
名無しさん
:2025/08/08(金) 00:46:06 ID:1T2GjtIQ0
おつおつ
81
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:27:39 ID:x/DZhNo20
*
ひんやりとした感触がして、海の底から浅瀬へとゆっくり浮上するような感覚がした。
何か冷たいものが頬に当たっている。冷気を纏ったそれは、未だに火照った頬にとっては存外に心地いい。
薄目を開ける。
未だピントが合わないままの視界の中心で、見覚えのある黒髪が揺れている。
lw´‐ _‐ノv「……あ、起きたかい? ロマ」
すぐ傍から、耳馴染みの良い声が聞こえた。
82
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:28:48 ID:x/DZhNo20
(;∩ωФ)「……シュー?」
lw´‐ _‐ノv「おはよう。全く、大変だったんだぞ。温泉で倒れた君を運び出したのは。ボクと宿の人たちに感謝してくれよ」
lw´‐ _‐ノv「せっかくの貸し切りなのに、何度も離れのスタッフさんたちを呼ぶのは中々に申し訳ないな。後ほど君も頭を下げることを覚えておくように」
微笑を湛えたままのシューの顔を見て、ついさっきまでの出来事を順番に想起していく。
温泉に入っていたら、いきなりシューも入ってきたこと。
露天風呂から花火が見えて、水面に映った逆さ花火とシューが綺麗だったこと。
それから話をして少し気まずくなって、転びかけたシューを支えたら、彼女のバスタオルが落ちて、そして……。
顔をブンブンと左右に振り、思い出した記憶をなんとか頭から追い出そうとする。
だがどうにも、青い花火に照らされたあの一瞬が、カメラのフラッシュみたいに脳裏に焼き付いてしまっていた。
83
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:29:56 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノv「どうしたんだい? やっぱり、どこか具合が……?」
(;ФωФ)「い、いや、なんでもない気にするな! もう至って平常通りである。迷惑をかけてすまなかったな」
早口で自らの元気をアピールし、上体を起こしてキョロキョロと辺りを見回す。
ダイニングを兼ねていた広い座敷の部屋。元々あった筈の長机はおそらく、自分を寝かせるように別の所へ移したのだろう。
そして自分は、いつの間にか長机があった場所に敷かれていた布団に寝かされていたらしい。
84
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:31:32 ID:x/DZhNo20
湯気がかかったような気分のまま顔を前に向ける。
壁にかけられた絵画に、何故か視線が引っ張られる。
それは、夏を描いた絵だった。
今日登った石鎚山で見たものにも劣らない、深紅に染まった彼岸花を楽し気に見つめる少女の絵が眼前にあった。
……いや、よく見るとそうではない。
あれは、彼岸花に見立てた線香花火だ。
桜色の浴衣に身を包んだ緑髪の少女がしゃがみ込んで、線香花火を楽しんでいる。その様子を描いた絵。
花のような笑みを浮かべた少女を近くから、それでいて一歩引いて見つめている絵。
絵画はおろか、芸術に関しては全くと言っていいほど知識がない自分でも、どうしてか強烈に惹きつけられる一枚であった。
85
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:36:26 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノv「どうしたんだい? じっと絵を見つめて」
( ФωФ)「いや……なかなかどうして荘厳な絵だと思ってな」
自然の広大さを描いたというよりは、何気ない季節の一ページを描いた絵。
それは分かっているのに、日常を出力した絵画への感想としては些か誇大かと思われる語彙が口から零れた。
lw´‐ _‐ノv「あぁ、良い絵だよねアレ。プロが描いたんじゃなくて、芸大生が描いた作品らしいけど」
( ФωФ)「そうなのか?」
lw´‐ _‐ノv「とあるコンクールで賞を採ったから京都にある美術館の無料展示で飾られていたらしいけど、旅館のオーナーが旅行の時に偶然見つけて買い取ったんだって」
lw´‐ _‐ノv「それでこっちの宿に飾ることにしたらしいけど、何処ぞのお金持ちが見て気に入ったのかな。何故か急に高値が付いて、売却を願う人が現れたらしい。今は色んな人たちと売る売らないで揉めてるそうさ」
lw´‐ _‐ノv「さっき宿の人がこっそり教えてくれたよ。中々面白い話だよね」
シューの説明を聞きながら絵を見つめる。
自分は絵について大した見分はない。義務教育レベルの知識すら持ち合わせていない。
それでも何故だろうか。
この絵を描いた人はきっと、彼岸花のように絢爛に開いた線香花火ではなく、それを楽しんでいる少女の方を綺麗に思ったのだろうと感じた。
どうしてか、そんな確信が胸の中にあった。
86
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:37:52 ID:x/DZhNo20
( ФωФ)「……おや? そういえば、この服は……」
慣れない感覚が肌に擦れて、意識が絵から現実へと引き戻される。
そこでようやく自分が今、浴衣を着ていることに気が付いた。
シューも、自分とは色違いだが同じデザインの浴衣を着ている。この旅館の名前が入った、上等そうな浴衣。
おそらく、気絶しているうちに旅館の人に着せてもらったのだろう。シューにもだが、色んな人たちにとんでもない迷惑をかけてしまった。ここを出る時には必ず礼を言わなくてはなるまい。
87
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:38:45 ID:x/DZhNo20
(;∩ω-)「うっ……」
軽い眩暈がして額を抑える。
どうやら、まだ少し体力が戻り切っていないようだ。
lw´;‐ _‐ノv「大丈夫? ほら、無理せず横になって」
(;-ω-)「ああ、すまんな……」
シューに促されるまま、再び布団に横になる。
部屋の照明は少し暗くされており、さほど眩しくはない。
このまま目を瞑ってしまえば、すぐにでも眠ってしまえそうだった。
88
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:39:29 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノvっ□「はいコレ。氷嚢の代わり」
(;-ωФ)っ□「ありがとう……って、何だコレは」
おそらくさっきまで自分の顔に当てられていたのであろう小さな瓶について指摘する。
シューが吾輩に差し出してきた『道後』という文字が堂々と記された瓶は、明らかに酒の類であったからだ。
89
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:41:03 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノv「湯上がり用に作られた愛媛のクラフトビールだってさ。中々可愛い文字のフォントだよね」
( -ωФ)「体調不良者に差し出す物ではないだろうに……常識のない変人はこれだから困る」
lw´‐ _‐ノv「別に君に呑ませる気はないよ。赤いままの君の顔を冷やそうとしたんだが、他にちょうどいい冷たい物がなかったから仕方なく。ボクの慈愛を無下にしないでおくれ」
逆上せたばかりの頭では良い反論も思いつかず、仕方なく黙り込む。
というか、なぜクラフトビールを買っているのか。まさか、夕食の時にあれほど日本酒を吞んだのにまだ呑み足りないというのか。
シューは見た目に反し、かなりの酒豪だ。
ビールやチューハイはおろか、かなり高い度数である筈の日本酒やワインを水のように呑む。しかも全く顔色に出ないことから、彼女のペースに自然と合わせてしまって倒れる人間たちを山ほど見てきた。
シューと酒を呑む時は決して油断せず、自分のペースを守らねばならない。それが四年前、二十歳になった時に学んだ鉄則である。
90
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:42:16 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノv「まだしんどいのなら、もう大人しく寝てしまっていいよ。明日宿を出なきゃいけない時間は遅いし、ゆっくりしてからでも温泉街巡りは出来るだろうから」
( -ω-)「……そうか」
風鈴のように心地良いシューの声を聞いているだけで、なんだか眠たくなってくる。
もうこのまま睡魔に負けてしまおうか。
そう思った矢先、言わなければならないと思っていた言葉を思い出し、眠気に抗ってどうにか口を動かした。
91
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:43:03 ID:x/DZhNo20
( -ω-)「……なぁ、シュー」
lw´‐ _‐ノv「なんだい?」
( -ωФ)「……吾輩が大学を卒業した後、なんだがな」
言葉にした瞬間、シューが少し身構えたのが空気で分かる。
気絶する直前のことを思い出す。
それと同時に、彼女が今回の度に自分を巻き込んだ理由についても、なんとなく察しがついた。
おそらくこれは自分への、彼女なりの恩返しのようなものだったのだろう。
六年にも及ぶ友人関係。
その礼として、最後の我々の思い出としてこの土地を、あの水面に映る盛大な逆さ花火を選んだのだ。
92
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:44:42 ID:x/DZhNo20
lw´ _ ノv「別に、特にそこまで気にしてないさ。君は君が行きたい所に行けばいい。この現代社会、互いの息災を知るのに物理的な距離なんて大した問題ではないし……」
( -ωФ)「勘違いさせてしまったのは本当に申し訳ないのだが」
( ФωФ)「吾輩は、福岡を離れる予定はないぞ」
lw´‐ _‐ノv「……えっ?」
少し遅れて、シューがビックリしたように目を丸くする。
まだ返事こそ先方には出していないが、東京に戻らないことは既に決めていた。
93
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:45:52 ID:x/DZhNo20
( ФωФ)「吾輩が卒業後の研修先に選んだのは東京ではなく、今の大学の附属病院だ。卒業して研修医になっても、福岡の地を離れることはない」
シューは固まったまま、時折思い出したように瞬きをしながら吾輩を見つめている。
lw´;‐ _‐ノv「で、でも、『ずっと福岡にいるつもりはない』って、昔……」
( ФωФ)「別に、離れたいという意味で言った訳ではない。『一生福岡に住み続けるかは分からない』という程度の意味合いで発言しただけだ」
94
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:46:36 ID:x/DZhNo20
まぁ実際、少しは東京に戻ることも考えた。
吾輩の父は既に他界しているし、親戚も多くはない。
東京に残っている母のことが心配で一度、『東京に戻ろうか』と連絡したのが二週間程前のこと。
その時、電話越しに母から告げられたのは、『余計な心配をせず、やりたいことをやれ』という、あっさりとした激励であった。
自分のやりたいことや学びたいことは、今の大学に附属している大学病院で十分に出来る。
それならば無理に東京に戻ったり、別の土地に行くこともなく、親しみ深いこの地に残りたいというのが本音であったのだ。
95
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:47:00 ID:x/DZhNo20
lw´;‐ _‐ノv「じゃ、じゃあ……まだ、こっちに居てくれるの?」
( ФωФ)「少なくとも、研修医である数年はな」
そう告げると、シューは緊張の糸が解れたように、ふわりとした笑みを浮かべた。
lw´‐ _‐ノv「………」
lw´*‐ _‐ノv「そっかぁ」
黒い瞳が嬉しそうに細められる。
その顔があまりに可愛く見えたものだから、手を伸ばしたくなってしまう。
96
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:47:45 ID:x/DZhNo20
( ФωФ)「だから、来年とはいかないまでも、近いうちにまた来よう」
( ФωФ)「……今度はちゃんと、米が実った田んぼを見に」
吾輩の言葉に、シューは一瞬だけ固まってから、しっかりと首を縦に振る。
心底安心したような微笑を湛えたままの彼女を見ていると、その安心がこちらにも移ってしまったのか、なんだか一気に眠たくなってきた。
97
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:48:21 ID:x/DZhNo20
( -ωФ)「……すまん、シュー。ちょっと……」
lw´‐ _‐ノvっ「うん。おやすみ、ロマ。また明日ね」
( -ω-)「……おや、すみ……」
額に当てられたシューの手の冷たさを感じながら、ゆっくりと瞳を閉じる。
そのまま、須臾にも満たない時間で、吾輩の意識は再び暗闇へと落ちていった。
98
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:49:12 ID:x/DZhNo20
*
未だに冷気を纏ったままの瓶を片手で弄びながら、ロマの寝顔を見つめる。
こうして見ると、やはり自分と同い年の青年なのだと感じる。
普段はその話し方や堂々とした態度から、分かっていても年上に見える時があるのだ。
lw´‐ _‐ノv「……変人、ねぇ」
寝る前にロマから言われた言葉を復唱する。
家族にも友人にもよく言われる、耳に胼胝ができるほど聞いた自分への評価。
今更、誰かにそう言われても特段思うことはない。
自分が世間とズレていることは自覚しているし、かと言って自分の生き方を大きく変える必要もない。
誰かに迷惑をかけないことを意識しながら、これからも自分の尺度で世界を生きていくだけだ。
誰に言われても構わない。だがしかし、一人だけ例外がいる。
今、無防備にも自分の目の前で眠りについた、一番の友人であり、想い人。
99
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:50:29 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノvっ「本当に、君にだけは言われたくないなー」
空いている方の手の指で、ロマの頬を優しく突く。おそらく今の彼には、何をしても起きはしないだろう。
彼の言動に周章狼狽した経験を挙げるなら、丸一日あっても語りきれない。
中でも代表的なエピソードは、フィールドワーク先の北海道の網走で忘れてしまった麦わら帽子を、わざわざ休日二日間かけて取りに行ってくれたことだろうか。
それとも、吞んでみたい酒があると言っただけなのに、自分より先に酒蔵への見学を申し込んでいたのを見た時だろうか。
此方の突発的な誘いにいつもついて来てくれる点といい、ふとした時に出る言葉といい、思い返していけばキリがない。
足元に置いていた栓抜きで瓶を開け、中のビールを一気に半分ほど胃に流し込む。
本来ならばロマと二人で呑もうと思っていたから、部屋の冷蔵庫にはまだあと五つほどあるというのに。結局一人呑みになってしまった。
100
:
名無しさん
:2025/08/11(月) 23:51:55 ID:x/DZhNo20
lw´‐ _‐ノv「……結構、勇気出したんだけどね」
我ながら、かなり思い切ったことをしているつもりだった。
親しい間柄とはいえ、恋人でもない異性を泊まりの旅行に誘ったこと。二人で同じ部屋にしたこと。
挙句には、変な理由を付けて、温泉まで一緒に入ったこと。
逆さ花火を見せたいことは本音だった。米が実った壮大な田畑を眺めたいことも本当だった。
てっきり彼といられるのは来年の三月までだと思い込んでいたから、それまでに何か、彼が喜びそうな思い出を作ってあげたいと願っていた。
けれど確かに、そこに下心が混じっていなかったと言えば嘘になる。
恋愛経験なぞ皆無な身の上であるのに、姉や妹、数少ない友人たちに相談して、修士論文以上にあれこれと練った計画が今回の旅であった。
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