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詩・歌・管・弦 part 2

1千手★:2007/07/20(金) 23:01:14
「詩・歌・管・弦 part 2」を作ります。やはりわたしたちの思考はこのまわりをまわっている。

2千手★:2007/07/20(金) 23:19:33
はじめにさっきふと手にしたノヴァリスの『青い花』から、巻頭の「献詩」の一部。

きみがためにこそ高き藝術(たくみ)にこの身を捧げ得るなれ
その故は、愛(は)しき君よ、きみはミューズの神となり
わが詩(うた)の聲なき守り神たらむとしたまへばぞ
(小牧健夫訳)

Ich darf für Dich der edlen Kunst mich weihn;
Denn Du, Geliebte, willst die Muse werden,
Und stiller Schutzgeist meiner Doichtung sein.

「きみ」がわたしの詩作の守り神たらんとしてくれている(と感じ)
それゆえわたしは高貴な藝術のわざにみずからを捧げることをなしうるのだ、という論理。

ロマン主義(ドイツ)のもっとも典型的な思想が
ここに述べられているのではないでしょうか?

3千手★:2007/07/20(金) 23:25:58
>>2
修正
Doichtung→Dichtung

もっとも典型的な思想:その最も純粋な表明がここに読み取れるのではないでしょうか。

4E嬢★:2007/07/20(金) 23:35:43
ステキな詩ですね。
今日はちょうど、ロマン主義について勉強しなければならないと、思っていたのです。

スペイン語で、ロマン主義についてオクタビオ・パスの文章を翻訳していたのですが、
ちっとも意味が理解できないまま、スペイン語の授業は終わってしまいました。
とても残念な気分だったのですが、この詩から、ロマン主義について考えてみたいです。

5千手★:2007/07/21(土) 11:32:59
恋人(Geliebte)が自分の詩作の守り神・守護霊(Schutzgeist)になってくれる(と信じる)という関係。
これと「をなり神」のことと。
近々ちょっと触れてみようと思っています。

6千手★:2007/07/22(日) 19:16:32
どこに住みたいと聞かれれば

どこに住みたいと聞かれれば、
東北に と答えるだろう。
郡山か、花巻か、盛岡か。
いっそ弘前・岩木と言うかもしれない。

郡山にさえ 友は少ない
どうしたら友を作れるだろう。
多くの友が死んだ
須田秀幸夫人、
渡辺俊明、
瀬谷重治、
長野隆。
専務理事。
名倉英三郎先生ももう御存命でないかもしれない。
わたしを支えてくれた人たち……。

郡山に赴任して、
すぐに名勝を訪ね歩いた
そして
日和田から、何とか片平村に出て
山ノ井にたどり着いた。
その井戸は暗く、
そこへゆく道も暗かった。
田舎道のその奥。

だがやがて片平には工業団地ができた。
山ノ井へは二度とゆくことがなかった。
村のいくつが滅びただろう。

ふたたび郡山に住むことがあったら
山ノ井を再び訪れるだろうか。
妻と住めば訪ねるだろう。
だがそもそも住むことがあるのか?
だれがその機会を与えれくれるだろう。


反歌

浅香山山ノ井の道暗かりき片平・河内(かうづ)みずかなりなむ

7千手★:2007/07/26(木) 17:50:33
「直観音楽」スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8350/1183393192/
から移動してきました。
「間」についての議論、こちらでつづけましょう。
「間」を創る行為は何か。それはpunktierenと言えるのではないか。
音楽的な「間」の問題も同じ概念で考えることが出来るのではないか。
これがわたしの出発点です。
シュトックハウゼンの「正しい長さ」をヒントにし、導きの糸にしますが、必ずしもそれだけを扱いたいわけではないです。
「間」について考えようとする方、ぜひ発言して下さい。

8千手★:2007/07/26(木) 18:40:18
第二音も点から始まるが、線分になってゆく。
punktierenからその自音の生命の明示というようなこと、線分化が続く。
リズムはそこにどうかかわるか?

9Pentatonics★:2007/07/26(木) 23:28:20
線分ですか・・・
私の演奏中の実感では、「線分」といった両端が定められた静的な感じはないですね。
音を出しているただなかにいるときは、最初の打撃ももう霞の向こうだし、音が閉じられる瞬間も予期の向こう側にあるような気がします。
ある時確かに始まったものであるのに、両端の開いた無限直線上にいるような感じがしています。

今いるところと音の開始点との距離を測る術もないような気がしています。
それを感じようとするなら、流れていくものの速さから感じるほかないように思います。

リズムとは何なのでしょうか。
よくわかりませんが、拍動によって「単位時間」を与え、時間を「処理」することを可能にするもののような気がします。
ある客観化のような過程と関わっている?
没入だけでなく、なんらかの地平をもたらしてくれるような・・・。

10E嬢★:2007/07/27(金) 00:51:43
たとえば、電子ピアノ(?)だと、音は自動的にフェイドアウトします。
三味線の音も余韻という部分で、フェイドアウトに似ていると思います。

なんで、こんなことを書いたのですが、
>punktierenからその自音の生命の明示というようなこと、線分化が続く。
という、千手さんの意見に対してなのですが、
ぜんじろう先生(ダンボール空砲とかの科学実験の先生)が、
TVで「ソ」の音だけロウソクの火が消せるという実験をしていました。

「ソ」の音の、ロウソクを消すという行為が、punktierenであって、
火を消してしまったあとの音は、線分化が続くというよりも、
役目が終わってしまった・・・みたいな感じでした。

11千手★:2007/07/27(金) 05:20:31
>>9
>ある時確かに始まったものであるのに、両端の開いた無限直線上にいるような感じがしています。
これはとてもよくわかるのですが、
まだ、第二音とその次の瞬間のことしか言っていないのです。どういう場所から発せられた第二音なのか。
それをアンサンブルの中で明示するということが、第二音そのものに要求されると思います。
「線分」という語が両端の閉じた部分を意味するように解されやすいので、「線分化」と言おうとしているのですが
「線化」と言った方が、より的確かも知れません。「半直線化」というほど発端が端的でなくなるのもその通りでしょう。

線化によって第二音の発端が端的(点的)でなくなり、場所、生命の継続的明示の役を果たしてゆく。
「リズム」は音の生命の源そのものの意味で使っています。

12千手★:2007/07/27(金) 05:26:40
>>10
第二音を単音化ということが了解されている場合の話です。
自音で場所と生命を表示するということが要求されている場合、と言えるかもしれません。
また(よく知らないのですが)能の囃子方のように、アンサンブルが一つの命を支えて行く、という形式とも
異なる場合のことです。

13千手★:2007/07/27(金) 05:28:48
>>12訂正
「第二音を単音化ということが了解されている場合の話です。」

「第二音を単音化しないということが了解されている場合の話です。」

14E嬢★:2007/07/27(金) 23:08:21
>>12
この場合の「単音」について、すこし整理をしたいのですが、
三味線の場合、弾く音は「単音」と言います。
「ひとつの単体としての音」と考えていいでしょうか。それとも、違うのでしょうか。

>第二音を単音化しないということが了解されている場合の話です。
の部分が、どうも整理ができないのです。
第二音が単音化しないということは、
第一音も単音化しないということになるのではないでしょうか?

15千手★:2007/07/28(土) 15:16:04
第一音はだれの出したどんな音でもいいのです。ある一点に着目しうるなら。
お好みなら、蛙飛び込む水の音でも。
「間」を作ること。その話だけしています。そして「間」の質はどう考えられるかということ、それだけ。

16E嬢★:2007/07/28(土) 23:44:44
「間」・・・「質的多様性」?

17千手★:2007/07/29(日) 15:41:46
>>16
>「間」・・・「質的多様性」?
もう少し詳しくお願いします。

18E嬢★:2007/07/30(月) 00:22:08
いま、篠原先生の、『ベルクソン−〈あいだ〉哲学の視点から−』を読んでいるのですが、
p.23に「持続性とは」のくだりがあります。

そのなかで、ベルクソンは〈量的多様性〉と〈質的多様性〉という二種類の多様性を区別し、
〈真の時間としての持続〉とは、「異質的で相互に浸透し合う」ものだとしています。

「間」の性質として、「異質的」なのか、どうか。
「間」は何と「相互に浸透し合うのか」と考えたとき、最後に”?”がついたのです。

19E嬢★:2007/07/30(月) 00:22:41
いま、篠原先生の、『ベルクソン−〈あいだ〉哲学の視点から−』を読んでいるのですが、
p.23に「持続性とは」のくだりがあります。

そのなかで、ベルクソンは〈量的多様性〉と〈質的多様性〉という二種類の多様性を区別し、
〈真の時間としての持続〉とは、「異質的で相互に浸透し合う」ものだとしています。

「間」の性質として、「異質的」なのか、どうか。
「間」は何と「相互に浸透し合うのか」と考えたとき、最後に”?”がついたのです。

20E嬢★:2007/07/30(月) 00:24:04
すみません、失敗して2つも書き込んでしまいました。

21千手★:2007/07/31(火) 11:28:24
>>19
何と何が、そしてどこまで、どういう原理によって、浸透し合うのか。
ケージがあなたまかせにするのに対して、
シュトックハウゼンはここに能動的に、リズムという原理を持ち込むように思います。

22E嬢★:2007/07/31(火) 15:07:28
「間」には、音があるのでしょうか。

いまひとつ、千手さんとのあいだに、違和感があるように感じます。

「音のない音」、休止符についてなのか、
「音のある間」、音符についてなのでしょうか?

「音のある間」で考えると、
>>21 シュトックハウゼンはここに能動的に、リズムという原理を持ち込むように思います
によって、次の音との相互関係が生まれてくるのですが、
「音のない音」で考えると、
「間」自体が、みずから活動をし、他に依存しないとなると、
私の頭のなかでは、このような解釈を起こしています。

23千手★:2007/07/31(火) 19:06:32
>>22

>何と何が、そしてどこまで、どういう原理によって、浸透し合うのか。
まずはこのことを教えて下さい。

24E嬢★:2007/08/01(水) 00:44:50
わたしの中で、「音」がなければ「間」が存在できないと考えます。
それは、「音」の途切れた部分に「間」が生じると考えるからです。

「間」は、「音」と「音」がつながるあいだに存在することが可能であり、
「音」が途切れることによって、「間」は派生もしなければ、存在もできないからです。

そのつぎに、「間」の深さという問題が生じます。
「間」の深さというのは、わたしの造語に近いと思うのですが、
「音」が途切れて、次につながる「音」までの時間のことを言います。
そのとき、短い「間」というのは、見失われがちな存在です。

長い「間」ほど、「音」の存在価値を高め、「間」を意識させると考えます。
しかし、それはそこで音楽が途切れるような「間」ではなく、
つぎの「音」につなげるためのステップであり、展開を促進する為のものです。

次の「音」への展開を失った場合、音楽は止まります。
次への「音」のために「間」が存在している場合、
「音」と「間」は浸透し合うことによって、一つの音楽を成立させることができると考えます。

それは、音楽というひとつの作品のなかで派生する「間」が、
〈くさび〉のように、音楽の中に存在していき、フレーズを形成していきます。

これが、いまのわたしの「間」に関する見解です。

25千手★:2007/08/01(水) 02:05:45
>>24
>次の「音」への展開を失った場合、音楽は止まります。
>次への「音」のために「間」が存在している場合、
>「音」と「間」は浸透し合うことによって、一つの音楽を成立させることができると考えます。

楽譜通りの自動演奏でも音楽が成立する、ということをいう論理ですか?
むしろ「内発性」を深く導くものの探求が必要なのではないでしょうか。
punktierenなしで次の音や「間」が存在するなら、自動演奏でしょう。
短い「間」のことは重要なポイントだと思います。迅速さ。

26E嬢★:2007/08/01(水) 11:22:49
>>25
>楽譜通りの自動演奏でも音楽が成立する

楽譜が存在することに、絶対的な価値はないと考えます。
それは、楽譜による視覚的な音楽、もしくは楽曲の把握は可能であっても、
楽譜は記号から進化することができないからです。

「音」も「間」も、楽譜とは違い、一回ポッキリという点で、価値が生じるのではないでしょうか。
すると、演奏をする行為において、「楽譜通りの自動演奏」ではないはずです。

27E嬢★:2007/08/01(水) 11:32:18
楽譜が存在する場合、punktierenの行為は、
必ずしも、作曲者だけに与えられた特権ではないと考えます。

「音」が発せられてから、「音」の存在可能な時間が、瞬時的なものだとすると、
「間」は常に生じることのキッカケがあるからです。
この「間」の発生を抑えることは、演奏者が意識しなければならない
punktierenの活動につながると思います。

「内発性」は、劇場演奏、ライブなどの、生演奏の状態が必要だと考えます。

28毛蟹★:2007/08/01(水) 13:55:47
物理現象としての「間」を千手さんから再定義して頂いた上で分析、議論をなさるほうがいいのではないでしょうか。「音の持続の長さ」としての「間」と「ある音と次の音の『間』」が明確に区別されて議論されていないように見受けられます。

29千手★:2007/08/02(木) 02:45:01
>>28
ご意見有り難うございます。
>「音の持続の長さ」としての「間」と「ある音と次の音の『間』」が明確に区別されて議論されていないように見受けられます。
わたしとしては
>「音の持続の長さ」としての「間」
というものは、少なくとも第一音に関しては、まったく念頭にありませんでした。
しかし、おそらく、第一音と第二音のからめ方にもリズム的、質的な問題が絡むし、
その質の継続・表示は第二音の持続において存続を確保し、表示を明確にするというところもあるでしょう。
第二音として語るべきことは、まずは質の持続の問題に違いありません。
E嬢が上げている篠原さんの論を読んでいないので、誤解が多くなっているかもしれません。
近々入手して読むつもりです。
E嬢さん、まずは引用したところのページ数をおしえて下さい。

30千手★:2007/08/02(木) 03:00:46
>>27
>「間」は常に生じることのキッカケがあるからです。
>この「間」の発生を抑えることは、演奏者が意識しなければならない
>punktierenの活動につながると思います。
「抑える」は「押さえる」の誤りですか?
わたしがpunktierenで示そうとした音楽行為はだいたい理解していただけた気がします。

「自動演奏」は、punktierenが存在しない擬似音楽として言ってみたものです。
しかしシュトックハウゼンの『国歌』のようなテープ音楽が存在してみると、もう少し違った概念構成が必要なのかもしれないと思います。
既存のテープに対しても、足し算が可能なのかもしれない、ということです。
スキを見つけて、アーティキュレーションをより鋭くする、というような追加行為の可能性です。
その場合も、punktierenによって、追加的音楽行為が成立するのでしょう。
punktierenそのものの鋭さ、という概念も必要になりそうです。

31千手★:2007/08/02(木) 03:05:35
>>30
シュトックハウゼンの『短波』や直観音楽を<u>聴く</u>、という行為も、
>スキを見つけて、アーティキュレーションをより鋭くする、というような追加行為の可能性
をみずから探求し、試みることではないでしょうか。

32E嬢★:2007/08/02(木) 11:33:25
>>29

篠原資明著 『ベルクソン−〈あいだ〉の哲学の視点から−』
      岩波新書(新赤版1040) 2006.10.20

p.23 「持続とは」 の中から、『質的多様性』の言葉をお借りしています。

33千手★:2007/08/04(土) 23:31:58
篠原さんの『ベルグソン』手に入れませた。
雄大な構想、いいですね。もう少し読んでみます。

34E嬢★:2007/08/04(土) 23:57:42
高速で読み込みたいのですが、まだ54ページ・・・
わたしにとっては、難解で、撃沈しそうです。
千手さんに遅れないよう、頑張って読みきります。

35千手★:2007/08/05(日) 00:08:59
篠原、上掲書、一応23頁まで読みました。
ちょっとよく理解できないのは、「無からの創造」を註釈して
「そこのは、存在そのものを無へ贈与するというかたちでの一方通行しかありえない」
というところです。無が何かの贈与を受け付けるということがありうるのか、という疑問です。
単に議論の形を分類しているというのなら分かります。しかしわたしには「無に存在を贈与する」ということが
そもそも理解できない。無が何かを受け付けるのか??

36千手★:2007/08/05(日) 00:10:37
>>35
上のはp.15についてです。

37千手★:2007/08/05(日) 00:23:11
p.23に関しては、浸透のしあいとして時が流れるということはわかる気がします。
しかしそこに「質的多様性」が出てくるとよくわからなくなる。「純粋持続とは、
明確な輪郭もなく、……、融合し合い、浸透し合う質的変化の継起でしかありえないであろう」(p.24)
ということわかります。そかしこのことは「間(ma)」とどう関係するのでしょうか?
こうした純粋持続において「間」はどう定義されうるのでしょう? あるいは、
純粋持続において「間」はどのように構成されうるのか?
punktierenによる概念構成に役立つものがそこから汲み出せるでしょうか?
何かは汲み出せそうですが、それは持続とリズム的差異を総合することによってだと思います。

38E嬢★:2007/08/05(日) 00:31:43
>>35
>「無に存在を贈与する」ということがそもそも理解できない。
  無が何かを受け付けるのか??

千手さんがいうpunktierenの行為につながるのではないでしょうか。
音のない空間=無に「音」という存在を与えること。
そこから、無は「音」の存在を受け付け、音楽が始まると思います。

第一音の使命が、無に存在を与えることであるのなら、
それは、音でも、色でも、言葉でも、punktierenの行為が、
「贈与する」につながるのではないでしょうか?

39E嬢★:2007/08/05(日) 00:42:44
>>37
ここは、千手さんとまだ整理されていない部分なのですが、
わたしの考える「間」が、音のない音の部分としてとらえる時、
「間」はリズムに書き表せない技巧的表現の空間とします。

ひとつの音楽が純粋に持続させていくには、「間」は表現を与えると考えるからです。

音に対して間は、融合し、浸透しなければ、音楽を持続させることができず、
また、間の存在がなくては、音は自然消滅し、音楽を持続することができないと考えるからです。

この場合、「質的多様性」は、
芸術的に豊かな表現を行うために「間」は多様化されるのではないかと考えたからです。

40千手★:2007/08/05(日) 00:53:12
>>38
私の述べ方が悪かったのですが、第一音はすでに存在するのです。
そしてまだ言っていないのですが、第二音によって第一音との「間」が形成され、
第二音が自己表示するリズムの中に第一音が組み込まれるのです。
>>35の引用少し間違ってましたね。「そこのは」→「そこには」。
第二音が第一音に対する贈与だというのならその通りだと思います。
リズムによる異質性の贈与であり、異質なリズムの贈与であり、
それは同時に浸透でもあると言えるでしょう。
でもそれは無に存在を与えるというようなことでしょうか? 
そうではないだろうし、そうではないからこそベルグソンと何らかの親近性があるのでしょう。

41千手★:2007/08/05(日) 01:00:25
継続+異質の湧出=持続
という風にp.26の論は読めますが。

キリスト教的な神による創造行為の説明であるp.15の論議を
持続に近づけて解釈しようとするのは、議論が混乱するだけなので、止めた方がいいと思います。

42E嬢★:2007/08/05(日) 01:11:44
>>40
>第一音はすでに存在するのです。

たとえば、なにかの絵が完成するには、真っ白なキャンバスの存在があるとは思うのですが、
punktierenから、白紙の状態を破壊する最初の色が必要だと思います。
punktierenの行為を行うのは、
創造するひとのキッカケがなければ始まらないと考えるからです。

最初から存在が認められているのでは、創造は生じないと思います。
画家の最初の一筆、指揮者の最初の一振りなど、
無を破壊する行為としてpunktierenがあるのではないのですか?

43E嬢★:2007/08/05(日) 01:12:56
書き込むのが遅かったようです。
>>42は、違っています。

44千手★:2007/08/05(日) 01:17:33
私にとって重要なのは、「punktierenを鋭くすること」と「リズム的差異(手足のリズム/分子のリズムetc.)」との関連を
「間」を作るという問題において明確にしてゆくことです。

E嬢のいう「間」は、「ゆらぎ」の中のpunktierenの問題として整理できそうな気がしています。
一応基本的な間があって、それをどう生かすかというような問題として。
直観音楽の問題は、基本的な間というものが予め一切存在していないところで、「間」を創造してゆく
という問題だと思います。
あるいは「基本的な間」というものが(音楽的意識の中で)想定されれば、それを鮮明に破壊し、「創造的なエクスタシー」
へと覚醒させてゆくことでしょう。

45千手★:2007/08/05(日) 01:20:08
ちょっと本を見ていたらあったのですが、シュトックハウゼンは1966年のお水取り
の時に、東大寺に来ているのですね。連行衆と一緒に写っている写真がありました。

46E嬢★:2007/08/05(日) 01:20:13
>>41
Creator(創造)に冠詞がつくと、〈神〉になるから、ヤヤコシイのだと思います。

47E嬢★:2007/08/05(日) 01:23:34
>>45
う〜ん、恐るべしシュトックハウゼン・・・
日本的直感音楽の偵察でしょうか?

48千手★:2007/08/05(日) 01:34:54
紹介しておきます。
Musikalische Meditation ist keine Gef&uuml;hlsduselei, sondern &Uuml;berwachheit und --- in den lichtesten Momenten --- sch&ouml;pferrische Ekstase.
(K.Stockhausen, AUS DEN SIEBEN TAGEN)
「音楽的メディテーションとは、感情的なたわごとではなく、超覚醒であり、そして---最も輝かしい諸モメント(諸瞬間)においては---創造的なエクスタシーなのである。」(拙訳)

49千手★:2007/08/05(日) 01:36:48
>>48
訂正:
sch&ouml;pferrische→sch&ouml;pferische

50千手★:2007/08/05(日) 01:58:00
東大寺のすごさを感じます。
そしてシュトックハウゼンの大きさを。

51千手★:2007/08/05(日) 11:15:58
>>48
の「創造的エクスタシー」がシュトックハウゼンに直観音楽にはあり、
それが彼の音楽の類を絶した魅力であることであることに同感できるなら、
その直観音楽は、
ベルグソン的な「持続」の現在における異質性の湧出のところの、
絶対的異質性の湧出を、現実に形あるものとして見せてくれる、ものであり、
それは創造的な瞬間であるということ。
そのような見通しをもって、ベルグソン=篠原理論は読んでゆけるだろう、と思います。

52千手★:2007/08/05(日) 15:38:48
異質性というと、お水取の音響。突然遠慮会釈もなしに、音が出て来てしまう。
ほら貝も、澄んだ音も、ガチャガチャいううるさい音も、下駄の踏み音も、何もかもが、遠慮なしに
突発して、襲ってくる。
異質性の闖入で、あんな楽しいものはない。

53千手★:2007/08/06(月) 00:45:40
こういう問いが出せるのでしょう。
創造的エクスタシーにおいて生じる絶対的な新しさはどんなリズム的分節も絶したものなのか。

yes、と答えたい気がします。

それを「無限に」は語っている!
「自分は好きなだけ多くの時間と空間をもっている」という確信をもって弾かれる一つの音は、分子のリズム、原子のリズムを越えた
新しい端緒を開きうるはずです。新しい端緒を開くこと、それが創造的エクスタシーであるはずです。

54千手★:2007/08/06(月) 00:49:10
ベルグソンのいう「浸透」は、この(端的な創造的)端緒の後の「調整」のような作用のことではないでしょうか。

55千手★:2007/08/06(月) 01:36:15
>>37-54 の纏めをしておきます

シュトックハウゼンの「創造的エクスタシー」
<img src ="http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/004/588/19/N000/000/000/SeyaSigeharuKokeshiMini.jpg&quot; alt="瀬谷こけし">
「七つの日より」と題された文章の中でシュトックハウゼンはこう言います。
"Musikalische Meditation ist keine Gef&uuml;hlsduselei, sondern &Uuml;berwachheit und --- in den lichtesten Momenten --- sch&ouml;pferische Ekstase."
(Karkheinz Stockhausen, "AUS DEN SIEBEN TAGEN",Texte zur Musik 1963-1970, Verlag M.DuMont Schauberg, S.125)
「音楽的メディテーションとは、感情的なたわごとではなく、超覚醒であり、そして---最も輝かしい諸モメント(諸瞬間)においては---創造的なエクスタシーなのである。」(拙訳)

この「創造的エクスタシー」がシュトックハウゼンに直観音楽にはあり、
それが彼の音楽の類を絶した魅力であることであることに同感できるなら、
その直観音楽は、
ベルグソン的な(「継続」と「異質性の湧出」からなるものとしての)「持続」の、
「現在における異質性の湧出」のところの、
絶対的異質性の湧出を、現実に形あるものとして見せてくれる、ものであり、
それは創造的な瞬間であるという、
そのような見通しをもって、ベルグソン=篠原理論は読んでゆけるだろう、と思います。
(篠原資明『ベルグソン』(岩波新書1040)p.26参照)

こういう問いが出せるのでしょう。
シュトックハウゼンの言う
創造的エクスタシーにおいて生じる絶対的な新しさは、どんなリズム的分節も絶したものなのか?

YES、と答えたい気がします。

それを「無限に」(『七つの日より』の中の)は語っている!
「自分は好きなだけ多くの時間と空間をもっている」という確信をもって弾かれる一つの音は、分子のリズム、原子のリズムを越えた
新しい端緒を開きうるはずです。新しい端緒を開くこと、それが創造的エクスタシーであるはずです。

「無限に」(UNBEGRENZT)は次のような指示による曲です。

UNBRGRENZT

Spiele einen Ton
mit der Gewissheit
dass Du beliebig viel Zeit und Raum hast

無限に

音を一つ弾け
好きなだけ多くの時間と空間をもっているという
確信をもって
(拙訳)

シュトックハウゼンの直観音楽、『七つの日より』という曲の本質は
この「無限に」の曲に極まるでしょう。
創造的エクスタシーを端的に語る言葉でしょう。
これが曲の指示です。


*注
「リズム的分節」:『七つの日より』の中の「上に向かって」「下に向かって」等を参照してください。そこに区別されるべきいろいろなリズムの差異が示されています。

56毛蟹★:2007/08/06(月) 10:18:02
>>52
これを超える日本製の音楽を僕は知りません。聴衆は、下駄や法螺貝の音に度々不意打ちを食らわされるのですが、それらの音によって集中が妨げられるのではなく、反対にそのつど感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていきます。空間に、そして声明のリズムに新たな活性を与え(草むらのバッタを驚かせるように)、そうして更に深さと透明度と感度を増した空間に、生まれ出た赤子の泣き声のように、はじめて聴かせる音のように、下駄や法螺貝を鳴り渡らせます。あの声明は、実によく出来たコミュニケーション・プラットフォームなんです。「『いのち』の肯定の最高の様式」@中路正恒を日本人は持っていたんです!あぁ、素晴らしきかな東大寺。でも奈良って何であんなにダサダサなんだ?町の造りもファッションも地方都市の典型じゃないか。もうちょっと昔の人間から学べよと言いたくなる。

57毛蟹★:2007/08/06(月) 12:03:00
奈良博周辺に縄張りを持つ鹿達と鹿せんべいを売ってるおじさん達のベタベタな共生関係にもトホホです。店仕舞いの時間が来ると「ホイ今日も一日ご苦労さん、また明日ね」てな具合に両者が姿を消すのです。奈良の鹿は獣じゃない。

58E嬢★:2007/08/06(月) 14:43:38
>>57
>奈良の鹿は獣じゃない
実は商売繁盛の神さんなんだと思います。(笑)
いや、違うなぁ〜、サクラ教育を受けた鹿?!

59千手★:2007/08/07(火) 01:49:20
>>56
「お水取り」
図図しさ。音の物質性。存在感。
洗練された楽音ではない音たちが、堂々と拳骨をつき出すように突き出てくる。
あの鉦の音もすごい。
その物質性をたっぷり備えた音たちが、その存在を堂々としてしてくる。
次にはそれが堂々と輝いた存在になって、場をしっかりと表示し、主張し、次の音を招く。
そんな音の饗宴。
 音に関しては、外陣の回廊から中をのぞきながら聞いた方がより生々しく、生き生きと、新鮮で、激しい音が聞ける。
そう、あのお堂の中のダッタンの火遊びもそうだが、
こんなことありか? というようなものがつき出されてくるのは音も同じだ。
ありか? というような音が平気で出てくるのだ。そして肯定される。されている。
 前回のE嬢の「鍋ぶた」もそんな感じのある音だった。
存在の堂々たる強さ。

60千手★:2007/08/07(火) 19:00:38
東大寺二月堂ではあの乾燥した空気感も音の響きにかかわっていると思う。
からっとしていて、湿りを引きずらない。
しめっぽい余韻というものがない。
(この印象は日によって違うかもしれないが、八年前に初めて聞いた時の印象だ)

61E嬢★:2007/08/07(火) 20:30:34
来年の二月は、東大寺二月堂に向かわねばっ!!
知らないことが多すぎて、大変です。(笑)

62千手★:2007/08/08(水) 16:35:43
お水取は三月です。お節介ですが。

63E嬢★:2007/08/08(水) 16:39:46
あっ、すみません。間違わなくって済みました。(笑)

64千手★:2007/08/11(土) 05:22:38
彗星は翼ある蛇 メキシコの伝承のごと尾のなびきたり
   山中智恵子『玲瓏之記』

E嬢さん、メキシコにはこういう伝承があるのですか?

65E嬢★:2007/08/13(月) 10:52:31
翼のある蛇の伝説というか、実話なのか、ありますよ。

ユカタン半島にあるチチェンイツァでは、「ククルカン」と呼ばれ、
メキシコ中央高原では、「ケツァルコアトル」と呼ばれていた、
蛇人間というか、神様です。

「尾のなびきたり」から、チチェンイツァの「ククルカンの神殿」のことかと思います。
マヤ人は天文学に詳しかったらしく、一年を260日とした暦を使っていたこと、
海王星や天王星まで知っていたこと(A.C300-A.C1250)、春分と秋分を知っていたことがあります。

春分と秋分の日、「ククルカンの降臨」がみることができます。
それは階段状ピラミッドに飾りつけられた蛇の影に、羽が生えるとか、
物凄く長い影になるとか、そんな工夫がされているそうです。(まだ、見たことありません…)

彗星からは、メキシコでなにがあるのかわかりませんが、もう少し、調べてみます。

66千手:2007/08/14(火) 01:52:26
>>65
>春分と秋分の日、「ククルカンの降臨」がみることができます。
>それは階段状ピラミッドに飾りつけられた蛇の影に、羽が生えるとか、
>物凄く長い影になるとか、そんな工夫がされているそうです。(まだ、見たことありません…)

ありがとう。おもしろそうですね。
翼があれば蛇も空を飛んでゆけるのでしょう。彗星が蛇とは!
チチェンイツァの「ククルカンの神殿」、行ってみたいところが増えました。

67千手:2007/08/18(土) 11:41:55

尾をひきてわがゆくときを逢ひたるは尾なききみかもわが恋ふるきみ
  山中智恵子『青扇』「宇宙(コスモス)昏し」

蛇はちょっと偉いみたいですね。

68E嬢★:2007/08/20(月) 22:08:19
暑さのあまり、書き込みしてませんでした。(笑)やっと、復活です。

蛇がなんで偉いのかと同じぐらい、ケツァルコアトルの別名は、
「羽毛の蛇」と呼ばれています。蛇に羽毛・・・食後?

あと、ジャガーも大切みたいです。ワシもいますね。
ちなみに、風の神さんは、カッパとお猿さんのハーフみたいです。

スペイン人が来るまでは、生贄文化だったのですが、太陽の神さまだけではなく、
雨の神さん:チャクが参加していたそうです。
尾なききみ・・・誰なのかわかりません。。。

69E嬢★:2007/08/21(火) 22:15:02
いま、鳩小屋図書館にあった、「マヤ・アステカ神話宗教辞典」を読んでいるのですが、
神話というのは、どこも似ているものなんでしょうか?
名前が違う、日本神話みたいです。

70千手★:2007/08/23(木) 00:01:20
>>67
今札幌です。一仕事終えて。
北海道の熊猟師、姉崎等さんと、飛騨の熊狩りをする猟師橋本繁蔵さんとの
二日間にわたる対談をセットして、姉崎ファミリーの恩恵によって、
すばらしいものを得てきたところです。おかげで、何人かの新しい友人ができました。
有難いことです。
それで
>尾なききみ・・・誰なのかわかりません。。。
これはなんでもないことで、人間のことです。
人間=尾なき生物 として ちょっと下にみられているんです。
とりあえず以上で。
レス感謝。

71E嬢★:2007/08/23(木) 00:22:33
えぇ〜っ!!札幌ですか?!
オドロキというか、ビックリというか、テレポーテーション???
千手さん、もしかして、分身の術とか使っているのですか?

「尾なききみ」は、人間だったのですね。
ちょっと、読めてきました。ありがとうございます。

72千手★:2007/08/30(木) 23:37:35
「京都自由大学院」HPの「研究公開」コーナーに
野間亜太子さんからの寄稿エッセイ「<山中智恵子と水原紫苑>―微笑ましいエピソード―」を掲載しました。
野間さんの略歴は: 歌誌「詩歌」「日本歌人」を経て現在「かばん」、詩誌「歴程」を経て現在「地球」。現代連歌誌「フーガ」。ということです。
歌誌、詩誌、連歌誌のそれぞれに所属しているということす。
私が京大短歌会のメンバーだっとき、京女短歌会の先輩として何人かでお宅に押しかけたことがあります。
今回の寄稿は日本歌人の故山中智恵子さんの縁で、特別にお送りいただいたものです。<br>
URLは以下。
http://fuunichi.hp.infoseek.co.jp/Studies/Noma1CM.html

73千手★:2007/08/31(金) 03:15:31
野間さんの方から次のメッセージがきました。
>少し困ったのは、「幻想派」の頃のことだ、とぞんじます。
>「現代詩手帖」の<新人欄>に書いていた頃でもあります。京女の大学院に通っておりましたが、クラブはどこにも入っておりません。従って京女短歌会にも入っておりません。ただし、お招きをうけ京大短歌会に楽友会館に伺いました。ただし、高槻にいた頃、来られたのは覚えております。
>>72の「京女短歌会の先輩として」のところ、訂正します。

74千手★:2007/09/03(月) 03:23:50
石狩海岸の「青い家」 拙短歌三種
http://25237720.at.webry.info/200708/article_13.html

75千手★:2007/09/04(火) 21:03:15
星は医師と誰か言ひけむ こはれゆく銀河を仰ぎとどめむものを
                山中智恵子『青扇』

 この「こはれゆく銀河」という思考は、『虚空日月』のころの山中智恵子にはなかった。
脱することの困難な境位だと思う。

76千手★:2007/09/07(金) 00:05:55
夏神楽終りぬ天つ日のめぐり思ひつめたるうつせみの空
   山中智恵子『虚空日月』「虚空日月二の抄」

 昭和四十九年刊のこの歌集。この歌は、神の死ということを歌っているのだが、
>>75の歌、「こはれゆく銀河」は、神の死の意味をさらに一歩進めていることになるだろう。
そのことに何の嬉しいことがあるわけでもないのだが。

77E嬢★:2007/09/07(金) 00:28:58
山中さんにとって、銀河は神のことなんですか?

78千手★:2007/09/07(金) 01:35:19
銀河はわれわれのいる宇宙なのでしょう。

79千手★:2007/10/02(火) 03:23:36
拙論「山中智恵子論<10> ---歌のちぎり・その掌に死ねと・果無山」が出ました。『日本歌人』2007年10月号です。
とりあえずこれで連載終了です。12ヶ月の苦行でした。

話は違うけど、今日、佐藤真さんは自殺だったと聞いた。
ちょっとショックだった。
「生きていてもいいですか」という問いに、Noと答えたのでしょう。
私なら死なずに、懺悔をします。

80Pentatonics★:2007/10/02(火) 09:57:56
その後ネット上のニュースを見ていると、
佐藤さんが入退院を繰り返していたのは「鬱病」によるものだということが判ってきましたた。

なんでも大量の抗鬱剤を過剰摂取してしまい病院に運び込まれ、
そこから転院する際に周囲の隙をついて近所の団地の階段を駆け上り、
4階と5階の間の踊り場から飛び降りたのだということです。

なぜあのゆったりとした温和な人が、と思うけれど、むしろそういうものなのかもしれません。
何が佐藤さんを追いつめたのかは判らないが、身につまされます。

人間理解の深さは、その人自身を救わなかったということでしょうか。
それともこういう形で自らを救ったのでしょうか。

(ブログ「馬鹿と煙」コメント欄より引用)
http://plaza.rakuten.co.jp/goingkyoto/diary/200709060000/

81毛蟹★:2007/10/02(火) 10:01:54
>>79
>私なら死なずに、懺悔をします。

死は本人のものではないとはいえ、酷な発言だと思いました。

82千手★:2007/10/04(木) 22:21:33
>>81
私が、「no」という答えを自分に見出した時の態度のことです。

83千手★:2007/10/05(金) 01:05:04

ただよひてその掌(て)に死ねといひしかば虚空日月(こくうじつげつ)夢邃(ふか)きかも
                 山中智恵子『虚空日月』「虚空日月」

山中さんのこの歌を読み解くのに、およそ三十五年かかった。
 読み解いた時、山中さんはわたしを嫌ったと思う。憎んだかもしれない。
 (山中さんから返事がなかったのはその一回だけだった)


だが、そして果て無しの山に入った。
・・・・・・・・・・

84千手★:2007/10/05(金) 01:17:01
>>80

「鬱病」って何ですか、と聞いても仕方がないか。
じゃ、ききなおすと、
「鬱病」って「生きていてもいいですか」と自問することではないんですか。
「生きていてもいいですか」と自問することとどう関係するのですか。

>人間理解の深さは、その人自身を救わなかったということでしょうか。
>それともこういう形で自らを救ったのでしょうか。

これは何を言いたいんですいか? 「自らを救う」とはどういうことなのですか?
カッコイイ、しゃれた言い方ではありますが。

85千手★:2007/10/05(金) 01:19:01
>>84
訂正
>これは何を言いたいんですいか? 

これは何を言いたいんですか?

86E嬢★:2007/10/05(金) 10:03:50
>>84

まだ読みもしていない本のことを書くのは、気が引けるので、
あえてタイトルは伏せておきますが、その本のなかに、

戦時中恋焦がれた女性に何年かぶりに会うのですが、カノジョに老いの影がさしてたコトで、
十何年かの恨みが消失した… 云々
恨みは愛とともに消失し、愛と恨みが消失したとき、残るのは一つの記憶のみ。
じゃないの?って話なんですが、

佐藤さんの問題とは関係ないにしても、「自らを救う」っていうのは、
紙一重の問題(死ぬと生きる、愛と憎しみみたいな)は、常に一対で、
片方だけではないと思うのです。その感情が別の感情や思いに変わったとき、
初めて「自らを救う」ことが出来るんじゃないでしょうか?

87千手★:2007/10/05(金) 18:59:56
>>86

その話、「鬱」と何か関係するのですか?

88E嬢★:2007/10/05(金) 22:07:42
「自らを救う」について書いたのですが、「鬱」につなげないとダメなんですね。
失礼いたしました。

89Pentatonics★:2007/10/05(金) 22:35:47
>「鬱病」って「生きていてもいいですか」と自問することではないんですか。

そうだと思います。
さらに言えば、そう問うと同時に常にひりひりと「否」が聴こえているような状態なのではないでしょうか。
「生きていてもいいですか」と問うこと自体は、病ではないと思います。

>これは何を言いたいんですか? 「自らを救う」とはどういうことなのですか?

答えになっていないかもしれませんが、私は自殺を否定しないのです。
本当にそこしか出口がなかったのなら、それもまた然るべき選択だったのではないかと思うのです。
そしてそこからしか出られない、ということは、本当にあるのだと思います。
「生きていればなんとかなるのに」という第三者のことばが、まったく無効であるような地点が。
外で生き残ったものが、「死ぬなんて馬鹿だ」とか「自殺は無意味だ」ということほど、
死者のこころから遠くはなれたものはないと考えます。
その人にとってその死は十分に意味を持っていたのだと思いたいところがあって、
あのようなことば遣いをしたのです。

>カッコイイ、しゃれた言い方ではありますが。

この一行は余分だと思いました。
私は佐藤さんの死を弄んだつもりも茶化したつもりもありません。
他のところからもってきた文章で、やや場違いだったかとは思いますが。

90千手★:2007/10/06(土) 07:22:48
>>89

わたしは「鬱病」について一人称で語る語り方を求めていたのです。

>答えになっていないかもしれませんが、私は自殺を否定しないのです。

答えになっていないと思います。中島みゆきの歌では「生きていてもいいですか」は、
人にききたい、人に尋ねたい、という形をとっており、おそらくこれがほんとなのです。
その問いにだれも答えてくれない。「yes」、とも「no」とも。そのことをもっと深い「no」として
<私>は受け取るのです。

>この一行は余分だと思いました。
失礼とは思いますが、「自らを救う」ということをキーにした対句表現に美的な満足を覚えてらっしゃるのかと思いました。
「自らを救う」というのは漠然とした概念です。

91Pentatonics★:2007/10/06(土) 08:10:22
>中島みゆきの歌では「生きていてもいいですか」は、
>人にききたい、人に尋ねたい、という形をとっており、おそらくこれがほんとなのです。
>その問いにだれも答えてくれない。「yes」、とも「no」とも。そのことをもっと深い「no」として
><私>は受け取るのです。

そうでしょうか。鬱者には誰もが(口は出さなくとも)「no」と言っているように感じていると思います。
「なすべきこと」が出来ず、「今まで出来ていたこと」も出来なくなる。
世の普通の鬱者は、それまで自分が世の中と共有していた(と思われる)に照らし、
自分のそこからの脱落を感じ、己の無能力(実際に能力は落ちます)を自覚し、
そこから自身の無価値感・無意味感に苦しむのです。

この落ち込みの過程は壮絶な独り相撲ではありますが、そこにはほとんどの場合「社会が決めたノルマ」とか「能力基準」
より正確にいえばそれらがその人に内面化されたものが関わっています。
それは、「ものさし」の形で単純化された社会なのかもしれません。
鬱者自身はその「ものさし」に問い訪ねては
「no」を返される、という経験を繰り返しているのです。

この「no」が、「より深い」noであるかどうかは、わからないと考えます。
もしかしたらまちがった「ものさし」を参照しての早合点に過ぎないのかもしれませんし。
これを「深い」問いに差し替えられるのは、一部の優れた人だけでしょう。
一人称のうちで「no」を聴くことができるのならば、それはすでに鬱病ではないような気がします。
それは力強い回答というべきでしょう(あるいはもっと先に行った病です)。

多くの鬱者は手近な「ものさし」に取り替えることで、やりすごそうとします。
繰り返される転職や「自分探し」は、そういうことの現れなのだと思います。
「深いno」として受け取るには、この「ものさし」を自家製のものに入れ替えることが多分必要なのでしょう。

ほとんどの鬱者は、外部の「ものさし」をおびえながら参照していると感じをもっているはずです。
そしてそこでは「客観的」なもの(たとえば「成績の数値」など)に自分自身が浸食されていき、
自らの主観は貶められ希薄になっていっています。
私の考えでは、鬱病は三人称的な一般論を生きることであり、遠方の第三者の視線を恐怖することです。
これを一人称で語ることには困難を感じます。

92千手★:2007/10/06(土) 20:06:37
>>91
私はほとんど何を言っているの理解できないのですが、pentaさんのおっしゃることが「鬱」なら、
中島みゆきが「エレーン」で歌っていることは鬱ではないと思います。そして彼女が歌っていることと関係がないのなら、
私は「鬱」に全く関心をもちません。
 そしてpentaさんにお聞きしたいのは、この「鬱」についての叙述を、あなたは佐藤真さんの死の前の状態にあてはめて、
あるいは想定して考えている、と理解してよいのですね、ということです。
とりわけ次のような「鬱」理解のことをです。

>世の普通の鬱者は、それまで自分が世の中と共有していた(と思われる)に照らし、
>自分のそこからの脱落を感じ、己の無能力(実際に能力は落ちます)を自覚し、
>そこから自身の無価値感・無意味感に苦しむのです。usw.

佐藤さんに関わる形でこれ以上論にかかわることを私はやめますが、私自身にあてはめて考えれば
私があなたにあなたの上記の意味での「鬱」だと思われるとすれば、そのこと自身が私にはきわめて
鬱陶しいことになるでしょう。

93毛蟹★:2007/10/07(日) 01:20:27
お二人のやりとりに口を挟んで申し訳ないのですが、千手さんの質問に対するPentaさんの(僕が思うに極めて誠意ある)回答が「私には極めて鬱陶しい」という千手さんの発言は、返答してくれたPentaさんに失礼だと思います。自分の期待する返答しか欲しくなければ、そのような質問はすべきではないと思います。

>>92
>私自身にあてはめて考えれば私があなたにあなたの上記の意味での「鬱」だと思われるとすれば、そのこと自身が私にはきわめて鬱陶しいことになるでしょう。

その当時(あるいは現在)の「私」が鬱であった(鬱である)と確定できますか。

94千手★:2007/10/07(日) 08:05:06
>>93
>その当時(あるいは現在)の「私」が鬱であった(鬱である)と確定できますか。

ずいぶん勘違いをされているようです。
佐藤さんのこととするのは失礼だから、私が誰かから「鬱病だ」と言われたとした場合のことを想定してみただけのことです。
私が「鬱」でないからかもしれませんが、私が誰かから「お前は鬱だ」と言われたら、私はそれを非常に鬱陶しいことだと感じるでしょう。
これは二人称の相手に対して感じる鬱陶しさです。
もしpentaさんの説くように、
>>91
>私の考えでは、鬱病は三人称的な一般論を生きることであり、遠方の第三者の視線を恐怖することです。
が「鬱病」の真相を衝いているとしたら、この「定義」は鬱病者が自分を鬱病と認識するのに役立つと思います。
それゆえそれは充分一人称的だと思います。
ですがそういう世界は、はたからみて非常に鬱陶しい世界です。自分の人生に踏み出していないようにみえるからです。
結局「鬱病」とは、「おれはだめだ」と世間の中で考えることなのでしょうか。
それなら中島みゆきの「エレーン」の世界とはずいぶん異なっているでしょう。
むしろ石川啄木の作品の主調ではないかと思います。
ニーチェが記述するルサンチマンの生理状態(『この人を見よ』)とも関連しそうです。

95千手★:2007/10/07(日) 08:19:36
>>91

鬱者は自分を「悪人」とは思わないわけですね。「無価値な人間」と思うだけで。
羊のように生きてきただけで。

そうだとすればそれは「羊型」の生き方(羊を理想とする生き方)の末期的な形に思えます。
世界史的な意味をもつでしょう。

96毛蟹★:2007/10/07(日) 09:53:11
>>94
>私が誰かから「鬱病だ」と言われたとした場合のことを想定してみただけのことです。

そのような想定は無意味です。想定で「病」という扉をくぐることは不可能です。僕は勘違いをしていたのではありません。千手さんに対して最大の敬意を払ったまでのことです。

>ですがそういう世界は、はたからみて非常に鬱陶しい世界です。自分の人生に踏み出していないようにみえるからです。

もし鬱が「選択された生き方」であればそのように言うこともできるでしょう。

97毛蟹★:2007/10/07(日) 12:14:34
僕の身の回りの人間が「軽度の鬱」と診断されました。その人間は僕のような怠惰な人間ではなく、間違いなくその正反対の人間でした。僕はその人間のあまりの変わりようにうろたえました。そのような変化を自ら選び取るような人間ではなかったからです。幸い転院先の医師との相性が良かったらしく全快したように見受けられますが治療は一生続くと思われます。
今思い返すと、その時その人間は己を相手に必死で戦っていました。僕が思うに鬱は生き方ではなく、病です。鬱者に世界史的な意味があるのではなく、あるとしたら鬱者を取り巻く世界の側にあると思います。

98毛蟹★:2007/10/07(日) 12:25:44
鬱者を人類の類的進化(退化も含めて)の体現者とみなすことには無理があると思います。

99千手★:2007/10/07(日) 15:11:34
例えばアルトーが自分の現状を称して「病気」と呼んだものに到達する人間が何人いるでしょう。
生き方ではなく病だと言うことにどんな意味があるのでしょう。
「鬱」を「病気」と見なす場合の病気の意味が分かりません。
アルトーの「病気」の意味が分からないのと同じように。

>>96
>想定で「病」という扉をくぐることは不可能です。
鬱に病という扉が、どういう意味であるのか。器質的な病因があるのか?
ないなら何をもって扉とするのか。
その扉はなぜくぐる必要があるのか。
勘違いでないなら別の前提を持ち込んでいる。

100毛蟹★:2007/10/07(日) 15:48:45
>>99
>鬱に病という扉が、どういう意味であるのか。器質的な病因があるのか?
ないなら何をもって扉とするのか。

「あるのか、ないのか」僕にはわかりません。


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