したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日興上人の身延離山について

1空き缶:2003/11/29(土) 01:14
日興上人身延離山というと、大石寺系は必ず「波木井謗法説」を出してきます。しかし、日興上人の真筆が現存する「本尊分与帳」(北山本門寺蔵)では

「一、甲斐國南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件。」

とあります。
「甲斐國南部六郎入道」とは、波木井実長日円を指すと考えるのが通説です。そして日興上人は、この「甲斐國南部六郎入道」を高弟の日目上人等と同様に「日興第一弟子也」と申されているのです。
この本尊分与帳では、弟子としての道をまっとうできなかった者には、「背きおわんぬ」等と付け加えられています。そして、この本尊分与帳は波木井実長の死後に書かれたものであるため、「甲斐國南部六郎入道」が、通説通り波木井実長日円であるならば、波木井実長は最後まで「日興上人の弟子の道」を全うされたことになります。

ROCKさん、皆さん、ご助言をお願いします。

2ROCK:2003/11/29(土) 02:08
空き缶さん、こんばんは。

日興師と波木井氏の関係について考えてる。まず「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」
(正本:重須本門寺)によれば、

──────────────────────────────────
一、甲斐國南部六郎入道者、日興の第一の弟子也。仍つて申し与うる所件の如し

(「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」『日蓮正宗歴代法主全書』1巻、p91、1972年)
──────────────────────────────────

と記されており、堀日亨師は『日興上人身延離山史』において「白蓮弟子分与申御筆御
本尊目録事」を引用し、

──────────────────────────────────
以上、第一の信者弟子七人は何れも武士である、南部六郎は即波木井日圓で此下
に一族十人を列してあるが、背了の黒印は附していない、御離山後双方に多少の交
渉が隠顕して一縷の望みが残っていたと見ゆる

(堀日亨『日興上人身延離山史』p90、興門資料刊行会、2002年)
──────────────────────────────────

と述べている。これによれば、日興師は身延離山後も日円師と交信をとっていたと推考
できるのである。真実、「多少の交渉が隠顕して一縷の望みが残っていた」のであれば、
『富士一跡門徒存知事』の「よつて義絶し畢んぬ」という文は疑う必要がある。
ところで、十二月二十八日付の「六郎入道殿御返事」(正本:富士妙蓮寺)によれば、

──────────────────────────────────
米の紙袋一・串柿五連しろしめして候にいつれもこれにてはめつらしさ申はかりなきもの
にて候。めいめいに給候事おそれ申はかりなく候。なをなを御世間こそおもひやりまいら
せて候に種種にあつかり候事聖人の御宝前に申上まいらせて候。恐々謹言。

  十二月二十八日
                                            白蓮花押
(「六郎入道殿御返事」『日興上人全集』p211、興風談所、1996年)
──────────────────────────────────

と記されており、興風談所は「本状は身延離山後のもの」(興全p211)としている。
十二月二十八日付の「六郎入道殿御返事」が身延離山後の著述であれば、日円師に
謗法はなかったということであろうか。或いは、この著述が成立した時点においては、日
円師の謗法が改まっていたということであろうか。
何れにせよ、日興師が日円師から御供養を受けている時点で日円師に謗法はなかった
とせねば、大石寺門徒がしばしば用いる「日興遺誡置文」の、

──────────────────────────────────
一、謗法の供養を請く可からざる事。

(「日興遺誡置文」『日蓮宗宗学全書』2巻、p132、1983年)
──────────────────────────────────

との教示に日興師自身が背くことになるである。

3ROCK:2003/11/29(土) 02:09
>>2の続き]

また、正信会は正月十三日付「六郎入道殿御返事」について、

──────────────────────────────────
この書状は日興上人が身延を離山されて五年後くらいのものと考えることができる。つ
まり、離山後も日興上人と波木井実長とのあいだには音信が続いていたことが推測で
きるし、こうした同上人の身延離山後の実長に対するご教導と思われる書状からも、上
人は実長をなんとか正道にもどしたいとのお心を抱かれていたと察することができる。

(『日興上人』p112、継命新聞社、1991年)
──────────────────────────────────

と述べ、「上人は実長をなんとか正道にもどしたいとのお心を抱かれていた」としているが、
十二月二十八日付「六郎入道殿御返事」の存在によって、この正信会の説はそのまま通
用せぬであろう。
これらのことから考えられるケースとしては、①日円師に謗法はなかった②日円師に謗法
はあったが後に改められた―という2つに分類されよう。
日円師に謗法がなかったのであれば日興師が身延山を離山することはなかったと考えが
ちであるが、「與波木井実長書」(正本:富士大石寺、但し堀師は疑義を呈している)には、

──────────────────────────────────
総じて久遠寺の院主学頭は未来までも御計い候べし

(「與波木井実長書」『日蓮宗宗学全書』2巻、p169、1983年)
──────────────────────────────────

とあり、日興師が日円師に対して「身延山の総貫首を明確にせよ」と述べたので、日円師
は日興師よりも日向師を選んだのであって、これによって日向師が身延の総貫首となられ
たので、日興師の身延における使命は一応、果たされたので日興師は元来の教線に戻ら
れただけである。と考えるのが妥当であろう。

4管理者:2003/11/29(土) 09:39
空き缶さん。
新スレッド有り難う御座います。
身延に於いての資料として、

日蓮宗 現代宗教研究所
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho31/s31_182.htm
をご参考下さい。長いですが、大聖人当時の身延の状況が書かれてます。

5管理者:2003/11/29(土) 09:53
追伸、
同じく、
日興上人「本門寺根源」初期道場の位置について
    ――重須地頭・石川氏との関わり――
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
>>4共に石川修道
ご参考まで。

6管理者:2003/11/29(土) 09:55
またまた追伸(^.^;
すいません、石川修道=石川修道師で(師)が抜けてました。m(_ _)m

7空き缶:2003/11/29(土) 20:04

ROCKさん、管理者さん、こんばんわ。また、貴重なご意見・ご教授をありがとうございます。

日興上人の身延離山は、日向上人が住職を引き受けてくれた為、祖師様と御自らの願行である「本門寺建立」のためにあったと思っています。

これらを裏付ける正文書として「園城寺申状」「弘安五年の御下文」が、かつては伝わっていたことが日善、日仙、日目といった興尊の高弟三者の連名で書かれた「日興上人御遺蹟事」に出てきます。

日興上人御遺跡事(正本:大石寺、他)

日興上人御遺跡の事
日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状
上野六人の老僧の方、巡に守護し奉るべし。但し本門寺建立の時は、本堂に納め奉るべし。
この条、日興上人の仰せによって支配し奉る事、此の如し。この旨に背き異議を成し失いたらん輩は、永く大謗法たるべし。
よって誠の状、件の如し。
 
正慶二年癸酉二月十三日
                               日善(花押)
                               日仙(花押)
                               日目(花押)


但し、どちらも(「園城寺申状」「弘安五年の御下文」)真筆も写本も現存しません。
今は、日興門流でもあまり知られることはなくなってしまいました。そして、「日興上人の身延離山」=「波木井謗法説」があたりまえのように定着してしまったのです。
さらには、波木井実長が地頭であった「身延山」そのものを日興門流は遠避けてしまいました。
興尊の御本意を知る由も無く。

8ROCK:2003/11/29(土) 23:48
空き缶さん、こんばんは。

>「弘安五年の御下文」

私はこの文書を偽書と考えています。なぜなら、堀師の指摘によれば「弘安五年の
御下文」には「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と記され(詳伝126)
ていたからです。弘安五年の時点では富士に日蓮宗寺院は存在していません。な
のに、その時点で「富士山麓に求めん」とするのは甚だ不可解としか云えません。
とすれば、「弘安五年の御下文」は身延離山後に偽作された文書であると考えるべ
きであると考えていますので、「日興上人御遺跡事」も疑っています。
原稿のこともあるのでこれにて失礼。

9空き缶:2003/11/30(日) 00:34

ROCKさん、お忙しい中でのご助言ありがとうございます。

結局は真筆も写本も存在しないものですが、富士山本門寺構想が「園城寺申状」に書かれていたとしたら、その返事としての「御下文」に「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と書かれていた可能性はあるのではないかと思います。

しかし、現状ではどこまでいっても希望的観測にすぎません。
私は、日興上人の身延離山=本門寺建立構想実現の旅ととらえており、「本門弘通事」「三時弘教次第」に説かれる本門寺構想が興尊に託された本門寺構想ではないかと考えていました。
興尊は波木井実長公を「謗法」等と思っておらず、身延離山と波木井実長公は関係ないのではないか、と考えています。

もし現存していたとしたら、それを最も証明する文献になっていたのではないかと思うのです。
したがって、「波木井謗法説」を主張し続ける為には、都合が悪いところによって処分されたのではないかと考えたこともありました。

10ROCK:2003/11/30(日) 09:39
空き缶さん、おはようございます。

>富士山本門寺構想が「園城寺申状」に書かれていたとしたら

弘安四年の時点では宗祖に富士山本門寺(戒壇堂)構想を見出すことはできない
でしょう。なぜなら、弘安四年の「三大秘法抄」では「最勝の地を尋ねて・・・」
として富士山本門寺思想が見られません。富士山本門寺思想が見られるのは二箇
相承ですが、にれは宗祖滅後120年代以降に重須で偽作された文書ですから依文と
は成り得ません。

>「本門弘通事」「三時弘教次第」に説かれる本門寺構想が興尊に託された本門寺
>構想ではないかと考えていました。

富士山本門寺構想が真実、宗祖から日興師へ託されていたものであれば、「富士一跡
門徒存知事」において「先師(宗祖)は本門寺の地を定めていなかった」との問いに
「宗祖の遺命である」とすべきでしょう。しかし、現実には日興師は「最勝の地に建
てるのは仏法の通例である」として富士山を選んでいるに過ぎません。
とすれば、日向師が身延の総貫首になられたので、日興師は元来の教線へ戻られた。
富士へ戻られた日興師が富士に本門寺戒壇堂を建立すべきであると独創したもので
はないかと考える方が妥当であると思います。

11空き缶:2003/11/30(日) 13:51
ROCKさん、こんにちわ。

富士山本門寺構想は興尊の独創かもしれませんね。

奏聞については興・目両氏のお仕事であったように思います。興師以降の富士方の奏状には、立正安国論とともに「三時弘教次第」が添付されることがありました。
「本門弘通事」「三時弘教次第」は年系がわかりませんので、これらの年系がわかれば「富士山本門寺構想」が何時頃からあったものかがわかりそうです。しかし、富士方は興・目両氏の滅後(同年に遷化)対立と分裂の歴史を歩むことになります。
こうした歴史の中で、ROCKさんご指摘の通り自山顕正の為に「偽書」がつくられた事も事実であろうと推察します。併せて、私は自山顕正の邪魔になる文書の「処分」も行われたのではないかと推察するものです。

12野菊:2003/12/11(木) 08:15
空き缶さん質問
他の掲示板からの疑問で恐縮なのですが、あちらでは、テーマ別になっていません
ので、他の方の質問がわかりにくくなりますのでこちらへ書きました。<(_ _)>

>日蓮正宗を称していますが、日蓮本仏論を否定しているところとして、本門法華堂があります。

日蓮本佛論を除いた場合、日蓮宗と日蓮正宗の違いはどこにあるのですか?

13空き缶:2003/12/11(木) 14:52
野菊さん、お久しぶりです。
ご質問の件ですが、本門法華堂は現在HPも閉鎖してしまい、残念ながら機関紙等も出ていません。

わずかに「私の中の仏」「自立」「発想の転換」「法華思想の再生に向けて」「信ずるということ」の5冊のみが入手可能な出版物だと思われます。

私もこの5冊を入手してさっと目を通したに過ぎませんが、考えさせられるところが多く興味をもっています。

こちらの掲示板に「福田里敏」さんという方が書き込みをされています。本門法華堂の信者さんですので、宜しければご質問されてはいかがでしょうか。

http://jbbs.shitaraba.com/study/364/#5

尚、日蓮正宗は弘安2年10月12日の板曼荼羅が本門戒壇の大御本尊であり、これを所蔵している寺院が最高に権威ある寺院との姿勢が強いと思います。

そして、この板本尊を代代受継いでいる大石寺の管長は「生身の釈迦・日蓮」なんだそうです。

本門法華堂や正信会が、日蓮正宗の看板を下ろさないのは「戒壇本尊」への「信仰心」によると思われます。

この重縛からとければ、新しい船出も期待できると思われますが・・・。

現に「戒壇本尊」を否定した、元正信会の久保川氏は日蓮真宗として、日蓮正宗の看板を下ろしました。

したがって、日蓮正宗とは日蓮本仏論以上に「戒壇本尊」の重縛があるのではないでしょうか。

14空き缶:2003/12/11(木) 15:50

追加です

日蓮正宗より離脱した、西山本門寺・保田妙本寺の大本山も自山所蔵の「万年救護本尊」を貴重としている為、いともたやすく日蓮正宗の看板を下ろしました。
しかし、この二山は現在も日蓮本仏論です。

まあ、正信会関係は「離脱」ではなく「破門」みたいなもので、自分から出て行ったのではないので、この二山とはチョッと違いますが。

15川蝉:2003/12/11(木) 16:56
法華堂の主張についてはまったく知りませんので、検索してみましたら

「法華堂は、日蓮聖人の正意が仏本尊(釈迦本仏・日蓮本仏)ではなく、曼荼羅に表される法本尊であると主張しています。」
と云う紹介がありましたが、接続出来ませんでした。
HPを閉じたのですか。

日蓮宗では一般的に、法的に表現すれば南無妙法蓮華経で人的に表現すれば久遠釈迦仏(一尊四士像等)で、曼荼羅本尊を単なる法本尊とは見ません。
南無妙法蓮華経は久遠釈尊の証悟であり、大曼荼羅は久遠釈尊の証悟の世界(内観)を現したものと拝します。

法華堂の考えとは大分違いがあるようですね。

16空き缶:2003/12/11(木) 17:29
川蝉さん、お久しぶりです。色々とお世話になります。

本門法華堂について、簡単にかつ私の知る範囲で書かせていただきます。

本門法華堂では「末法は無仏の時代」であるとし、仏(人仏)は存在せず、「人」を「仏」に導く「経」のみが存在する時代であるといいます。

そして、仏滅後2220余年(2230余年)の間は「南無仏」の本尊があらわされた時代であり、「南無経」の本尊は仏滅後2220余年(2230余年)の間に、未だあらわされなかった本尊であるといいます。

関師は興風談所の初代所長であるとのことですので、もっと奥が深いのであろうと思います。

17野菊:2003/12/11(木) 17:58
空き缶さん、川蝉さんご教授ありがとうございます。
>日蓮正宗は弘安2年10月12日の板曼荼羅が本門戒壇の大御本尊であり、
>これを所蔵している寺院が最高に権威ある寺院との姿勢が強いと思います。
>そして、この板本尊を代代受継いでいる大石寺の管長は「生身の釈迦・日蓮」
>なんだそうです。
そうなんですか、正宗の教義にはがっかりですね。
確かに、ご聖人が書かれたものは尊いとは思いますが、信奉すべきは
そこに書かれている世界であって、板切れでは無いと思います。
偶像崇拝に通じるのではありませんか?
今、田中智学先生の「本尊造立私議」を読んでいますが(遅くてすいません)
偉い違いですね。曼荼羅はご開眼していただき、自らもそ曼荼羅に名前を連ね
一念三千の世界に自分も一緒になるのが最高だと思うのですが。(-_-;)

18空き缶:2003/12/11(木) 18:17

野菊さん、私も田中智学先生の「本尊造立私議」を購入しました。ギリギリ間に合ったみたいで、私が購入した後「品切れ」になっていました。

これから勉強させていただきます。

19ROCK:2003/12/11(木) 18:34
[某掲示板を見て思ったこと]

《興門には宗祖御影を本尊ととらえ、保田妙本寺は宗祖御影を本尊視している》とのことであるが、
これは上代興門教学としては正しくないのではないだろうか。なぜなら、「富士一跡門徒存知事」に、

────────────────────────────────────────
一、 聖人影像の事 (以下略)
一、 本尊の事 (以下略)

(「富士一跡門徒存知事」『日蓮宗宗学全書』② 121、123頁 1983年)
────────────────────────────────────────

と記されているように、本尊と宗祖御影は別な存在であったようであるし、堀師も、

────────────────────────────────────────
御開山当時の御影に対する崇重の念は、記念のためであることが存知抄の御文のとおりであること
は明々たるが、いずれの時代からか本尊御影が一対みたいのようになった。それは富士の各方面で
あったとみえて、八品の開祖日隆は、東国の富士門流では御影を本尊としておると、批判の筆を残し
ておる。

(『富士日興上人詳伝』 390頁 1963年)
────────────────────────────────────────

とのべ、《宗祖御影=本尊》思想は後代の邪義としており、保田は《宗祖御影=本尊》思想を改める
べきではなかろうか。

20空き缶:2003/12/11(木) 19:09
ROCKさん、お久しぶりです。
御影は「万年救護本尊」とともに保田の重宝なので、チョッと無理なのではと思われます。

ただ、現在は御影を安置している堂は「御堂」と称しています。以前は「御本尊堂」でした。
大石寺も昔は御影堂が本堂と呼ばれていましたと思いますが、富士方では実際のところ御影信仰があったのではないでしょうか?

御堂−本御影堂−本堂−御本尊堂−御影堂など、御影安置の場所の呼称にも色々あるようです。

ROCKさん、「門徒存知事」はどうなんでしょう?大石寺の論師達は「日澄師草案の興尊加筆」といっていましたが、他の興尊真筆遺文との矛盾点が多くいまいち信頼を置きかねています。
興尊と御影信仰を論じる時、御影信仰派の持出す文証はご存知の通り興尊の御消息遺文です。
しかし私は、興尊は御影を「生身の日蓮聖人」のように思い接しておられたのであって、信仰の対象(御本尊)にしていたかについては疑問ももっています。
そもそも御影は「末代未見の者」の為に、日法師が彫刻されたのが始まりと伝わりますが、池上の本門寺などでは御影に対する考え方はどうなんでしょう?
ご存知でしたら御教示ください。

21愚鈍凡夫:2003/12/11(木) 20:51
横レス失礼します。
空き缶さん、「園城寺申状」の検証に進展があったら是非、教えて下さいね。

蓮祖生御影の件ですが、どうやら歴史上最古のものは池上本門寺蔵の「木造日蓮聖人坐像」のようです。
1282(弘安5)年10月13日に池上の地で日蓮聖人が入滅されて、7回忌の1288(正応1)年に造立された生御影で、その像底墨書銘によれば、六老僧の日朗師が大別当となり、また檀越の池上宗仲が大施主、日浄師・日持師が願主となって造立したと伝えられているそうです。
伝承ではなく、証拠が残っている最古の生御影と言えるでしょうか。
また本像は、胎内に日蓮聖人の遺骨を納め、左手に経巻を、右手には払子をもたれており、この払子には、日蓮が生涯肌身離さずに持ち続けた母妙蓮の髪を織り込んであると伝えられ、この故事から「孝道示現の祖師」とも呼ばれているそうです。
また、この他に池上の祖師・身延の祖師とともに、一木三体の祖師像と伝えられる神奈川県鎌倉比企谷妙本寺蔵の日蓮聖人坐像も、像底や胎内に墨書による記年が存在しないものの、その製作技法などから鎌倉末期を下らないと推定され、また千葉県小湊誕生寺蔵の日蓮聖人坐像も、胎内文書等に1363(正平18/貞治2)年8月29日の記年が認められ、祖滅80年頃の造立であることが明らかなものもあるそうです。
このようなことから推察すれば、日蓮聖人滅後の早い時期に、祖師信仰が確立しつつあったと言えるでしょうか。
ご参考までに。

22愚鈍凡夫:2003/12/11(木) 20:57
訂正

誤→日蓮が生涯肌身離さずに持ち続けた母妙蓮の髪を織り込んであると伝えられ、この故事から「孝道示現の祖師」とも呼ばれているそうです。

正→日蓮聖人が生涯肌身離さずに持ち続けた母妙蓮の髪を織り込んであると伝えられ、この故事から「孝道示現の祖師」とも呼ばれているそうです。

当掲示板の禁止事項に触れてしまいました。管理人さんご免なさい。
悪しからず。 m(_ _;)m ゴメン!!

23空き缶:2003/12/11(木) 21:29

愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。

スミマセン!!脱線ばかりしていて、肝心の研鑚をサボっています。

明年こそは、この足で歩いて、この目で観て、何かしらの答えをつかみたいと思います。

御影ですが、保田妙本寺の御僧侶(鎌倉住職ではありません)は、妙本寺の御影だけが宗祖御在世中に彫刻されたものであり、あとは皆滅後のものといわれていました。
それ以外私に、妙本寺の御影を語る材料はありません。

実際にお色直しがされているため、とても700年以上前のものにはみえませんが・・・
それから「等身の正御影」といわれますが、等身よりは小さいのではないかと思ったりします。それとも日蓮聖人は小柄な方だったのでしょうか。

24空き缶:2003/12/11(木) 23:55
法華堂について

以前HPからコピーした「法華堂綱領」がありましたので、参考までに貼りつけます。


法華堂綱領
1.宗祖日蓮聖人の創唱された南無妙法蓮華経の信仰は、無仏の時代である末法においては「法」を本尊とするの意であり、宗祖の弘通も、ただ「法」の流布になる。
2.南無妙法蓮華経の信仰においては「法」と「仏」は根本的に相容れないものであり、本仏思想、及び、本仏思想的要素のあるものは、すべてこれを排除しなければならない。
3.「仏」を捨てて「法」を取るということは、成道は「行」にあるのではなく、また「学」にあるのでもない。「信」の中にあるということ。即ち末法の成道は、衆生が「法」を「信」の一字をもって受持したその中にあるということである。
4.「法」とは、超越的・絶対的な実体としての「法」をいうのではない。「法」とは、一切のものは差別相はあるものの、本質的に平等であるという諸法実相の理をいい、具体的には十界互具ということ、即ち仏と衆生は本質的に平等であり、自己以外に仏は存在しないという意である。
5.この信仰は世間即仏法を基本とする。即ち仏法は世間法を離れて存在するものではなく、世間法の究極こそが仏法なのである。
(補足)
&middot;「戒壇本尊」とは、究極的には板曼荼羅を指すのではなく、衆生一人一人の成道をいうのである。
&middot;血脈・法水とは、正しい信心の継承のことであり「法」が断絶しないことが真実の血脈義である。
&middot;勤行は理行であるから、今後は是れを簡素化し、朝は初座と二座、夕は二座のみにする。
右の条目をもって、法華堂の綱領とし、信仰と布教の根本理念とする。
以  上

25川蝉:2003/12/12(金) 11:53
法華堂の綱領について。

法華堂の考えの基本となっている
「末法は無仏の時代」
と云う前提は成り立たないでしょうね。

寿量品に三世益物の教導が示されていますように、末法も久遠釈尊の教導活動の対象ですね。と云うことは、末法といえども無仏の時代ではないと云うことでね。

寿量品では久遠釈尊は常住不滅の仏であることを教示し
自我偈にも
「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず
  而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」
とあります。
「末法は無仏である」と云う主張は、「常に此に住して法を説く」との教説と相反するものですね。

日蓮聖人も
「仏の入滅は既に二千余年を経たり、然りと雖も法華経を信ずる者には、仏の音声を留めて時時尅尅念念に、我れ死せざる由を聞かしむ。」(守護国家論・学会版55頁・昭定111頁)

「仏も又かくの如く多宝仏と申す仏は此経にあひ給はざれば御入滅此経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏、十方の諸仏も亦復かくの如し」(弘安三年十月・上野殿母御前御返事・学会版1572頁・昭定1816頁)

「日蓮流罪に当れば教主釈尊は衣を以て之を覆ひたまはんか。」
(文永九年五月・真言諸宗違目・学会版141頁・昭定641頁)
「霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈、日月、四天等冥に加し、顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」(撰時抄・学会版292頁・昭定1061頁)

「末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人あて流罪死罪に及ばん。然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほう(覆)べきぞ」(諸法実相抄・学会版1359頁・昭定726頁)

等と教示されているように、久遠釈尊は現に在して護っていてくれると実感されています。

「末法は無仏である」と云う主張は、日蓮聖人の上記の教示と相反するものですね。

釈尊が入滅してから弥勒菩薩が出現するまでの間を無仏の期間とする思想があり、地蔵菩薩などもこの思想に基づいて生じたとされています。このような末法観は法華経の末法観ではありませんね。

26空き缶:2003/12/12(金) 17:58

川蝉さん、こんばんわ。

ばっさりと破折されてしまいましたね。

日蓮正宗系では、日蓮本仏論を否定しただけでもかなりの決断であったと思いますが。

興風談所の池田令道師は二箇相承を偽書としたことで、日蓮正宗系では稀有な方であると思います。

久保川師に関しては、私は一つも関連資料を持っていないのですが、通称「戒壇本尊」を否定して「日蓮真宗」を立ち上げたことは聞き及んでいます。

いずれにしましても、正信会関係の方たちです。私は現在の石山よりも教学的には優れた方たちではないかと思ったり致します。

私が法華堂の思想に着目したのは、関師が興風談所の初代所長であることと、妙本寺日我師のいいたかったことは、現在の法華堂の思想なのではないか(我師は日蓮本仏論者ではなかったのではないか)との思いからです。

しかし、現状では法華堂を深く知るための資料は、あまりにも少なすぎます。

大石寺系の論師にいわせれば、妙本寺の日要師と日我師は、日蓮本仏論者であるといいます。しかし、私はこの点に疑問があり関師の諸説と出会い、興味を抱いたのです。

とりとめもない書き込みですが。

27ROCK:2003/12/12(金) 20:53
空き缶さん、こんばんは。

>保田の重宝なので、チョッと無理なのではと思われます。

私は保田のことはそれほど知らないのですが、本堂に安置されている本尊は
何でしょうか。私はその本尊を中心にやっていけばよいと思いますし、御影
を本尊視する必要は特にないと思います。

>「門徒存知事」はどうなんでしょう?

私自身、納得のいく答えを見つけ出せないでいます。確かに日興上人の思想と
認めがたい点があることも事実ですが、それを以って「富士一跡門徒存知事」を
全否定するつもりはないのです。仮令「富士一跡門徒存知事」が後代の日興門下
による著述であったとしても、その内容すべてを否定できないでしょう。日興上
人の他の著述と校合し、とるべき所はとり、否定すべきところは否定すべき、と
いうのが現時における私のスタンスです。

28空き缶:2003/12/12(金) 23:59
ROCKさん、こんばんわ。お忙しい中、御返事ありがとうございます。

妙本寺は「御堂」と「客殿」がありますが、どちらを本堂と称するかはその時々によって変わっていたようです。

客殿の御本尊は、私の記憶では興尊書写本尊を板に彫刻したものです。しかし、人によっては「あれは郷師書写本尊の板本尊だ」という人もいます。
私はそれを聞いたとき、自分は郷師と興尊の御本尊の違いもわからないのかと、情けなくなった記憶があります。
私は日曜日の正午からの、御影の御開扉を中心に御参りしていました。客殿にはあまり足をむけませんでした。

普通は御影の背面に曼荼羅本尊が懸けられていると思いますが、妙本寺の御堂は、御影のみです。御影に向かって方便品(諸法実相まで)と寿量品を読み、お題目を唱えます。
その後、約15分から30分ぐらいの住職の話があり、御閉扉します。御閉扉後はすぐ鍵を閉め厳重に扱います。
それに対し、客殿はほとんど御開扉しっぱなしで、客殿内に誰もいなくても開けっ放しの時さえあります。
これを考えると、やはり御影の方を重宝しているように思えます。

29直人:2004/01/10(土) 00:11
[「日興上人御遺跡事」と弘安五年御下文(「日興跡條條事」)]

私はさきに(>>8)「「弘安五年の御下文」は身延離山後に偽作された文書(中略)
「日興上人御遺跡事」も疑っています」と述べた。しかし、「日興上人御遺跡事」は
真筆とすることはできるかもしれない。私の考えは次のごとくである。
「日興上人大石寺御置文」には「日興跡條條事」の第一条にあたる文が見られる
が、第二条にあたる文は見られなく、第三条にあたる文は「異本に云く」として見ら
れるのである。この「日興上人大石寺御置文」が引用されたのは日有文書である
から、宗祖滅後200年代にはまだ「日興跡條條事」は成立していなかったようである。
「日興跡條條事」は宗祖滅後279年にいたって「祖師伝」に引用されたわけである
から、「日興跡條條事」の成立時期は宗祖滅後200年代以降、宗祖滅後279年ま
での間となる。
「弘安二年の大御本尊並御下文」(『日蓮正宗聖典』38年版)については日行師
以降の大石寺僧によって造立された板曼荼羅を以って「弘安二年の大御本尊」と
し、「日興跡條條事」の第二条が偽作されたものであろう。その際に偽作者が「日
興上人御遺跡事」の「日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状」という文によって
「弘安二年の大御本尊並御下文」としたものかもしれない。
しかして、富士正統思想と御下文が何時しか一対になり「朕、他日法華を持たば必
ず富士山麓に求めん」という誤伝が生じたものではなかろうか。
上代において御下文はあったかもしれないが、真実、「朕、他日法華を持たば必ず
富士山麓に求めん」と記されていたとは考えられない。それは弘安五年の時点では
富士に日蓮宗寺院は存在していなかったからである。

30空き缶:2004/01/10(土) 00:28

直人さん、こんばんわ。いつも大変勉強になります。

継命新聞社版「日目上人」によりますと、「日興上人御遺蹟事」の筆跡は「日善師」ではないかとの事です。
正本は現在二本伝わっており、「日善・日仙・日目」の花押を押した三師がそれぞれ一本ずつ所持したものが、一本は紛失し現在二本が残っているのではないかとしていました。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板