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日興上人の身延離山について

29直人:2004/01/10(土) 00:11
[「日興上人御遺跡事」と弘安五年御下文(「日興跡條條事」)]

私はさきに(>>8)「「弘安五年の御下文」は身延離山後に偽作された文書(中略)
「日興上人御遺跡事」も疑っています」と述べた。しかし、「日興上人御遺跡事」は
真筆とすることはできるかもしれない。私の考えは次のごとくである。
「日興上人大石寺御置文」には「日興跡條條事」の第一条にあたる文が見られる
が、第二条にあたる文は見られなく、第三条にあたる文は「異本に云く」として見ら
れるのである。この「日興上人大石寺御置文」が引用されたのは日有文書である
から、宗祖滅後200年代にはまだ「日興跡條條事」は成立していなかったようである。
「日興跡條條事」は宗祖滅後279年にいたって「祖師伝」に引用されたわけである
から、「日興跡條條事」の成立時期は宗祖滅後200年代以降、宗祖滅後279年ま
での間となる。
「弘安二年の大御本尊並御下文」(『日蓮正宗聖典』38年版)については日行師
以降の大石寺僧によって造立された板曼荼羅を以って「弘安二年の大御本尊」と
し、「日興跡條條事」の第二条が偽作されたものであろう。その際に偽作者が「日
興上人御遺跡事」の「日蓮聖人御影並びに御下文、園城寺申状」という文によって
「弘安二年の大御本尊並御下文」としたものかもしれない。
しかして、富士正統思想と御下文が何時しか一対になり「朕、他日法華を持たば必
ず富士山麓に求めん」という誤伝が生じたものではなかろうか。
上代において御下文はあったかもしれないが、真実、「朕、他日法華を持たば必ず
富士山麓に求めん」と記されていたとは考えられない。それは弘安五年の時点では
富士に日蓮宗寺院は存在していなかったからである。


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