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日興上人の身延離山について

10ROCK:2003/11/30(日) 09:39
空き缶さん、おはようございます。

>富士山本門寺構想が「園城寺申状」に書かれていたとしたら

弘安四年の時点では宗祖に富士山本門寺(戒壇堂)構想を見出すことはできない
でしょう。なぜなら、弘安四年の「三大秘法抄」では「最勝の地を尋ねて・・・」
として富士山本門寺思想が見られません。富士山本門寺思想が見られるのは二箇
相承ですが、にれは宗祖滅後120年代以降に重須で偽作された文書ですから依文と
は成り得ません。

>「本門弘通事」「三時弘教次第」に説かれる本門寺構想が興尊に託された本門寺
>構想ではないかと考えていました。

富士山本門寺構想が真実、宗祖から日興師へ託されていたものであれば、「富士一跡
門徒存知事」において「先師(宗祖)は本門寺の地を定めていなかった」との問いに
「宗祖の遺命である」とすべきでしょう。しかし、現実には日興師は「最勝の地に建
てるのは仏法の通例である」として富士山を選んでいるに過ぎません。
とすれば、日向師が身延の総貫首になられたので、日興師は元来の教線へ戻られた。
富士へ戻られた日興師が富士に本門寺戒壇堂を建立すべきであると独創したもので
はないかと考える方が妥当であると思います。


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