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日興上人の身延離山について

25川蝉:2003/12/12(金) 11:53
法華堂の綱領について。

法華堂の考えの基本となっている
「末法は無仏の時代」
と云う前提は成り立たないでしょうね。

寿量品に三世益物の教導が示されていますように、末法も久遠釈尊の教導活動の対象ですね。と云うことは、末法といえども無仏の時代ではないと云うことでね。

寿量品では久遠釈尊は常住不滅の仏であることを教示し
自我偈にも
「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず
  而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」
とあります。
「末法は無仏である」と云う主張は、「常に此に住して法を説く」との教説と相反するものですね。

日蓮聖人も
「仏の入滅は既に二千余年を経たり、然りと雖も法華経を信ずる者には、仏の音声を留めて時時尅尅念念に、我れ死せざる由を聞かしむ。」(守護国家論・学会版55頁・昭定111頁)

「仏も又かくの如く多宝仏と申す仏は此経にあひ給はざれば御入滅此経をよむ代には出現し給ふ。釈迦仏、十方の諸仏も亦復かくの如し」(弘安三年十月・上野殿母御前御返事・学会版1572頁・昭定1816頁)

「日蓮流罪に当れば教主釈尊は衣を以て之を覆ひたまはんか。」
(文永九年五月・真言諸宗違目・学会版141頁・昭定641頁)
「霊山浄土の教主釈尊、宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏、地涌千界の菩薩等、梵釈、日月、四天等冥に加し、顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」(撰時抄・学会版292頁・昭定1061頁)

「末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人あて流罪死罪に及ばん。然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほう(覆)べきぞ」(諸法実相抄・学会版1359頁・昭定726頁)

等と教示されているように、久遠釈尊は現に在して護っていてくれると実感されています。

「末法は無仏である」と云う主張は、日蓮聖人の上記の教示と相反するものですね。

釈尊が入滅してから弥勒菩薩が出現するまでの間を無仏の期間とする思想があり、地蔵菩薩などもこの思想に基づいて生じたとされています。このような末法観は法華経の末法観ではありませんね。


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