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日興上人の身延離山について

2ROCK:2003/11/29(土) 02:08
空き缶さん、こんばんは。

日興師と波木井氏の関係について考えてる。まず「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」
(正本:重須本門寺)によれば、

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一、甲斐國南部六郎入道者、日興の第一の弟子也。仍つて申し与うる所件の如し

(「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事」『日蓮正宗歴代法主全書』1巻、p91、1972年)
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と記されており、堀日亨師は『日興上人身延離山史』において「白蓮弟子分与申御筆御
本尊目録事」を引用し、

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以上、第一の信者弟子七人は何れも武士である、南部六郎は即波木井日圓で此下
に一族十人を列してあるが、背了の黒印は附していない、御離山後双方に多少の交
渉が隠顕して一縷の望みが残っていたと見ゆる

(堀日亨『日興上人身延離山史』p90、興門資料刊行会、2002年)
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と述べている。これによれば、日興師は身延離山後も日円師と交信をとっていたと推考
できるのである。真実、「多少の交渉が隠顕して一縷の望みが残っていた」のであれば、
『富士一跡門徒存知事』の「よつて義絶し畢んぬ」という文は疑う必要がある。
ところで、十二月二十八日付の「六郎入道殿御返事」(正本:富士妙蓮寺)によれば、

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米の紙袋一・串柿五連しろしめして候にいつれもこれにてはめつらしさ申はかりなきもの
にて候。めいめいに給候事おそれ申はかりなく候。なをなを御世間こそおもひやりまいら
せて候に種種にあつかり候事聖人の御宝前に申上まいらせて候。恐々謹言。

  十二月二十八日
                                            白蓮花押
(「六郎入道殿御返事」『日興上人全集』p211、興風談所、1996年)
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と記されており、興風談所は「本状は身延離山後のもの」(興全p211)としている。
十二月二十八日付の「六郎入道殿御返事」が身延離山後の著述であれば、日円師に
謗法はなかったということであろうか。或いは、この著述が成立した時点においては、日
円師の謗法が改まっていたということであろうか。
何れにせよ、日興師が日円師から御供養を受けている時点で日円師に謗法はなかった
とせねば、大石寺門徒がしばしば用いる「日興遺誡置文」の、

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一、謗法の供養を請く可からざる事。

(「日興遺誡置文」『日蓮宗宗学全書』2巻、p132、1983年)
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との教示に日興師自身が背くことになるである。


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