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仏教大学講座講義集に学ぶ     【御義口伝講義】

1 美髯公 :2013/06/25(火) 21:56:56
 【仏教大学講座】は
  昭和四十八年は「教学の年」と銘打たれ、学会教学の本格的な振興を図っていく重要な時と言う命題の基に開設された講座です。

 設立趣旨は
  ①日蓮大聖人の教学の学問体系化を図る。
  ②仏法哲理を時代精神まで高めていくための人材育成をする。
  ③現代の人文・自然・生命科学などの広い視野から仏法哲学への正しい認識を深める
  等

 期間は一年、毎週土曜(18:00〜21:15)開座、人員は五十名、会場は創価学会東京文化会館(実際は信濃町の学会別館って同じ所?)

 昭和五十二年度の五期生からは、従来方式から集中研修講義方式に変わり期間は八日間で終了と言う事になる。

  そして、それらの講義を纏めたものがとして「仏教大学講座講義集」として昭和50年から54年に渡って全十冊になって販売されました。
 その中から、御書講義部分を中心に掲載していきたいと思っております。
 個人的には、この昭和48年から昭和52年の間が、一番学会教学の花開いた時機だと思っております。

 なお、よくよく考えた結果、講義担当者名は非転載といたします。
 各講義に於いては、概論・概要でしか講義されておりませんので、あくまでも個々人の勉学の為の一助的な役割しか果たしておりませんので
 その辺りの事を銘記して、各人それぞれ各講義録で精細に学んでいって下さればと思います。
 今回の御義口伝講義は、講義集の第一から第六集にけいさいされておりました。

67 美髯公 :2013/09/04(水) 22:40:01

 別の面からいえば「権実二と為す掌の合わざるが如し」とは、相待妙の立場であるといえる。これは、学問と生活、知識と智慧といったように、二者が
 それぞれ遊離し、一切の宗教、哲学、思想、学問が現実の生活に役立っていないという状態を指している。本来ならば人間の幸福実現のために作動するはずの
 それらが、観念論の調べに終始し、あるいは人間を離れて暴走しているということである。
 一方「今は権即実と解る」とは、絶待妙の立場である。これは、あらゆる河川が大海に流入するように、一切の法が妙法へと帰結していく事を示している。
 また、八万四千という膨大な法蔵も、所詮は南無妙法蓮華経の一法から出発しているともいえる。つまり、法華経の真髄たる不思議の一法を根底に、
 一切の思想、哲学を自身の幸福実現への原動力とし、信心即生活、九界即仏界と開いていく立場である。

 この様に「即起合掌」という舎利弗の振舞いを通して、法華文句では法華経の深意を明かしているのであるが、ここで見逃せないないのは、内解と外義を挙げ
 「内解の心に在るを喜と名づく喜の形に動くえお踊躍と名づく」と規定し、仏法理解における人間行動(振舞い)を重視している点である。
 大聖人が別の御抄の中で「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞いにて候けるぞ」(P.1174 ⑭) と述べられ、また別の所では「涌出品より已後・我等は色法の
 成仏なり」(P.862 ⑪) と述べられている通りである。すなわち、仏法の領解とは単に頭で理解するかどうかではなく、それが自身の生命を打ち震えさせ、
 実際の行動となって現われてくるかどうかが問われるのである。いわば、仏法の領解とは、実践という人間行動を通して初めて、果たされてゆくもので
 ある事を意味しているのである。

  法華文句には、次に「向仏とは、昔は権仏因に非ず、実仏果に非ず。今権即実と解して大円因を成ず。因は必ず果に趣く、故に合掌向仏と言う」とある。
 これは、法華経以前の権実は真の仏因・仏果とはならぬ事を決定した後、法華経のいわゆる絶待妙の立場から、権即実と開いて初めて即身成仏の大円因を
 成じ、さらに因果倶時の原理から仏果を証得する旨を明かしている段である。すなわち合掌、つまり権即実と解して、向仏、つまり仏果に向かう法理を
 示している。以上が「即起合掌」についての法華文句の解釈であるが、日蓮大聖人はこの釈を踏まえながら、次にさまざまな角度から生命論として
 展開されている。これは余談になるが、周知の通り大聖人の諸御抄を拝すると、何時の場合でもまず釈尊の経文を引かれ、そしてその経文に対する人師・
 論師の釈を援用され、然る後に大聖人独自の悟諦を述べられている。それは、とりもなおさず大聖人が仏教二千年の歴史と精神を、その正統の流れの中において
 引き継がれていることの証左であり、かつ観念の世界に閉塞していた仏法に生命のみずみずしい息吹を与え、新しい民衆仏法として黎明を告げられて
 いった事を意味している。

68 美髯公 :2013/09/06(金) 20:56:20

   『色心不二の生命』

  そこでまず大聖人は「合掌とは法華経の異名なり向仏とは法華経に値い奉ると云うなり」と、この文の核心をズバリ述べられている。いうまでもなく、
 末法今時における法華経とは大御本尊の事であり、御本尊に会い奉る事を「向仏」とされている。ここに明らかなように、法華経つまり法本尊に会う事と
 仏に向かう事を同じ意味にされており、人法一箇の原理をも示されているのである。

 以上の事を大前提として、今度は「合掌」と「向仏」を生命論的に展開されて「合掌は色法なり向仏は心法なり、色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と
 説くなり」と述べられている。合掌は信仰が振舞いの上にあらわれた姿で色法であり、向仏は信仰の姿勢で心法をいうのである。そして、色心の二法、
 つまり我々の生命それ自体が妙法蓮華経の当体であると開覚して、歓喜踊躍するのである。舎利弗が譬喩品で歓喜踊躍したのも、それを悟っての事である。
 これは、まさに生命哲理の極致であり、色心不二なる生命の実相を、この「合掌向仏」の文から導き出されているのである。さらにいえば、歓喜は心法、
 踊躍は色法となる。これは改めて説明するまでもなかろう。

  次に、「合掌」に二意ありとして「合とは妙なり掌とは法なり」、「合とは妙法蓮華経なり掌とは廿八品なり」と開かれている。つまり合とは十界互具・
 一念三千の当体たる妙、すなわち森羅万象の根底にあって一切の生命活動を顕現させる不可思議の力をいう。掌を法に当てるのは、掌は展開であり、
 法もまた、顕現された具体的な生命活動、つまり諸々のの現象をいうからである。また、法華経に即していえば、合とは要中の要たる一大秘法の
 南無妙法蓮華経となり、掌とはその一大秘法を開いた法華経二十八品を意味し、ひいては八万法蔵を指し示している。この南無妙法蓮華経が厳存するからこそ、
 法華経二十八品、さらには八万法蔵が生命を持つのであり、もしこの一法が顕現されなければ、釈尊一切の法は“死の法門”と化してしまう。
 「三大秘法抄」に「法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」(P.1023 ⑬) と述べられている通りである。

69 美髯公 :2013/09/07(土) 21:24:53

  次に、妙楽大師の「九界を権と為し仏界を実と為す」の文を引用されて「合とは仏界なり掌とは九界なり」と開かれている。その上で「十界悉く合掌の
 二字に納まって森羅三千の諸法は合掌に非ざること莫きなり」と結論づけられている。権即実と解して仏界を証得する事を指して「合掌」とすることは、
 先に述べた通りであるが、森羅三千の諸法も妙法の光に照らし出されてみれば、悉く妙法蓮華経に合掌している姿なのである。人間はいうに及ばず、
 宇宙、自然の全ての当体に、そうした妙法の光を当て、それらを創造性豊かな生命へと変革させてゆく作業こそ、最も本源的な生命のリズムに叶った行動であり、
 そこに大聖人の本懐があるともいえる。同様に創価運動もまた、この本流の中に生きている。

  次に、大聖人は合掌を三種の法華経から釈されて「惣じて三種の法華の合掌之れ有り今の妙法蓮華経は三種の法華未分なり、爾りと雖も先ず顕説法華を
 正意と為すなり」と述べられ、伝教大師の「於一仏乗とは根本法華の教なり〇妙法の外更に一句の余経無し」との文を、その傍証として挙げられている。
 三種の法華経とは、伝教大師が「守護国界章」の中で分類したもので、顕説法華、根本法華、隠密法華の三種をいう。顕説法華とは仏の悟り、つまり生命の
 実相を仏自身の振舞いの上で明白に説いた本門の教説をいい、霊鷲山の八年間の説法において、一仏乗の法華経を説き、出世の本懐としたものを根本法華といい、
 
 隠密法華とは一乗の法華経を隠して、仮に三乗を説いた方便権教、つまり爾前教をいう。大聖人は「百六箇抄=血脈抄」の中で、この三種の法華経をさらに
 一重深く本迹に判じられて「下種三種法華の本迹 二種は迹なり一種は本なり、迹門は隠密法華・本門は根本法華・迹本文底の南無妙法蓮華経は顕説法華
 なり」(P.865 ①) と述べられている。したがって、合掌、つまり妙法蓮華経は三種に通じるが、しかし南無妙法蓮華経という顕説法華を正意としている事は
 明らかである。

70 美髯公 :2013/09/08(日) 21:41:15

   『一一文文皆金色の仏体』

  これまで「合掌」について、さまざまな角度から展開されてきたが、次に「向仏」についてはどうか。大聖人はまず「向仏とは一一文文皆金色の仏体と
 向い奉る事なり」と示されている。
 これは「法華経の一一文文が全て金色の仏体なりと決定して仏に向かうことを向仏という」との意である。もとより法華経といっても、先に述べた通り、
 二十八品の文々というよりも、それらを摂し尽くし、一切を包含したところの妙法蓮華経、つまり大御本尊の事である。我々が大御本尊に向かい、そこに
 したためられた御文字を「皆金色の仏体なり」と拝することが、向仏の真意となる。

 また、「妙心尼御前御返事」には、この事について「天台大師の云く『一一文文是れ真仏なり』等云云、妙の文字は三十二相・八十種好・円備せさせ給う
 釈迦如来にておはしますを・我等が眼つたなくして文字とは・みまいらせ候なり」(P.1484 ⑧) と述べられ、また「単衣抄」には「仏前に詣でて法華経を
 読み奉り候いなば・御経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は皆金色の仏なり」(P.1515 ②) と記されている。これらの文から明らかなように、
 妙法蓮華経という根源の法によって照らし出された法華経の文字の一つ一つが、そのまま仏の生命そのものである、そう領解することこそが向仏なのである。

71 美髯公 :2013/09/09(月) 22:07:58

  ところで「金色の仏体」といっても、それは色相荘厳の仏像を意味している訳ではない。いわば「仏の真実の言葉」つまり今日で言えば「御金言」の
 事であり、さらには法華経の文字それ自体が色心不二の仏の生命そのものであるという意である。この点について、大聖人は諸御抄の中で述べられているが、
 例えば「諸宗問答抄」には次のようにある。「文字は是一切衆生の心法の顕れたる質なりされば人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり、
 凡そ心と色法とは不二の法にて有る間かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり、然れば文字は是れ一切衆生の色心不二の質なり」(P.380 ⑫)
 
 また「木絵二像開眼之事」には、次のように記されている。「法華経の文字は仏の梵音声の不可見無対色を可見無対色のかたちと・あらわしぬれば顕形の
 二色となれるなり、滅せる梵音声かへって形をあらわして文字と成って衆生を利益するなり、人の声を出すに二つあり、一には自身は存ぜられども人を
 たぶらかさむがために声をいだす是は随他意の声、自身の思を声にあらわす事ありされば意が声とあらはる意は心法・声は色法・心より色をあらわす、
 又声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり、色心不二なるがゆへに而二とあらわれて仏の御意あらわれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意と
 なる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり」(P.468 ⑯)

72 美髯公 :2013/09/10(火) 22:01:41

 少し引用が長くなったが、これらの文から「皆金色の仏体なり」の意味が明確に浮かび上がってくる。考えてみれば、日蓮大聖人は「日蓮がたましひを
 すみにそめながしてかきて候ぞ」(経王殿御返事 P.1124 ⑬) と大御本尊をしたためられたのである。その日蓮大聖人の生命そのものである大御本尊を
 「皆金色の仏体なり」と向仏、つまり帰命する事によって、大聖人の生命を我が肉団の胸中に現じ、もって金剛不壊の絶対的な幸福境涯を獲得する事が
 出来るのである。もとより、それは「信」の領域に属する問題であって、信心のない立場からすれば、理解をはるかに越えたことであろう。また、逆に
 御本尊に向かって唱題していて、御本尊が大聖人のお姿として見えてきたなどというのは、間違いである。それは、迷信・狂信の類いという以外にない。
 
 ただひたすら、南無妙法蓮華経の妙理を信じ、また仏法の功力を確信し、日々、勤行・唱題に励み、我が身の当体に大歓喜の実相を示しきって行く事こそ
 「一一文文皆金色の仏体と向い奉る事なり」になるのである。さらに「合掌の二字に法界を尽したるなり」と述べられた上で「地獄餓鬼の己己の当体、
 其の外三千の諸法其の儘合掌向仏なり」と示されている。先にみてきたように「合掌」の二字には法界の全てが摂し尽くされている。宇宙の森羅三千の
 一切の当体を含んでいる。だからこそ、たとえ地獄であれ餓鬼であれ、三千の己己の当体、あるいは諸々の現象は、そのまま妙法の当体であり、合掌向仏の
 相を示しているのである。

 池田会長は「この文は非常に大事である」と前置きし、次のような意味のことをはなされた。
 「たとえ、どのような人であれ、誰人であれ、妙法蓮華経の当体である以上、救いきっていけるという御文である。あたかも暗闇の中で虫が電灯の火を求めて
 集まってくるように、川の水が高い所から低い所へ流れるように、また草木が太陽の光を求めて伸びて行くように、妙法へ妙法へと、人間は向かって行く
 のである。それが合掌向仏の姿である。」
 実際、どんな人であっても、心の奥底では妙法を求めているという事実は、我々の周囲を見渡しても、よく納得できる所である。

73 美髯公 :2013/09/11(水) 23:14:21

   『舎利弗と我らの生命』

  以上の事からして「而る間法界悉く舎利弗なり舎利弗とは法華経なり」と結論づけられているのである。冒頭で述べた通り、法華経に至って一念三千の
 妙理を聴いた舎利弗が「踊躍歓喜」したわけであるが、何故歓喜し踊躍したかといえば、舎利弗が法華経そのものになったからである。
 舎利弗が法華経において、諸法実相、あるいは皆成仏道を成じて歓喜踊躍したからこそ、法界ことごとくが舎利弗となり、舎利弗即法華経となるわけである。
 もとより、舎利弗といっても、それは一人の人間を指しているのではなく、一切衆生の生命の働きを表している。つまり舎利弗の歓喜踊躍は一切衆生の
 歓喜踊躍を意味している。したがって、大聖人は次に舎利弗を生命論の上から展開されて「舎とは空諦利とは仮諦弗とは中道なり円融三諦の妙法なり」と
 述べられ、また舎利弗の漢訳語「身子」を「身子とは十界の色心なり身とは十界の色法子とは十界の心法なり」と開かれているのである。

  舎利弗は、法華経を信受し、自らを円融の三諦、妙法の当体と開覚し、さらには自身の色心を妙法と成ぜそめた覚体なのである。それ故に、大聖人は
 舎利弗を空仮中の三諦に開き、色心と開かれたのである。梵語の舎利弗といい、漢訳した身子といい、それは単なる名称ではなく、以上のような深意を
 秘めた当体なのである。そして、我々もまた舎利弗の生命を湧現して、妙法の当体と覚知して行くのである。ちなみに、舎利弗のそれぞれの語義を考えてみると、
 「舎」には「家」という意味があり、生命の実在する家、つまり空間となる。次に「利」とは「働き」の意で、生命の働き、つまり諸々の生命現象で、「仮」に
 当たる。また「弗」には「治める」という意味があるところから、一切を統一する根源たる中道に当たるといえよう。また、舎利弗とは梵語の Śāriputra の
 音訳であり、また漢訳語の身子も同様、それぞれ本意を表わすに最も適した語を当てたわけで、極めて優れた智慧の発露がそこにうかがえるわけである。

74 美髯公 :2013/09/12(木) 22:45:59

 そこで大聖人は「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く舎利弗なり、舎利弗は即釈迦如来釈迦如来は即法華経法華経は即我等が色心の二法なり」と
 断じておられる。今、日蓮大聖人及びその門下たる我々が南無妙法蓮華経と唱え奉る時、我々は即舎利弗となり、舎利弗が仏に向かって合掌向仏したように、
 大御本尊に向かい奉って、妙法蓮華経そのものになるわけである。それ故にこそ「仍て身子此の品の時聞此法音と領解せり、聞とは名字即法音とは諸法の
 音なり諸法の音とは妙法なり、爰を以て文句に釈する時長風息むこと靡しと長風とは法界の音声なり」と述べられるのである。舎利弗がこの譬喩品において、
 「此の法音を聞く」とあるのは、開三顕一の法を聞いて初めて領解したのであるが、それは実は我等一切衆生の領解でもあったわけである。
 そこで「聞く」とは名字即となるのである。つまり、妙法蓮華経の名字を聞くが故に名字即となる。

 もとより「聞く」とは、単に聞くという意味ではなく、日寛上人の「三重秘伝抄」に「能く聴くとは是れ信受の義なり」とあるように「信受」の意である。
 智慧第一といわれた舎利弗も結局、文底下種の事行の一念三千の南無妙法蓮華経を信受する事によって悟諦を得たのである。また「法音」とは諸法の音であり、
 諸法の音とは妙法なのである。この事を、法華文句には、「長風息むこと靡し」と記されている。ここにいう「長風」とは法界の音声であり、それが常住で
 あって止むことがない。その音声を、信解品においては「仏道の声を以て一切をして聞かしむべし」と展開している。大聖人は、この信解品の文を引用されて
 「一切とは法界の衆生の事なり此の音声とは南無妙法蓮華経なり」と結論づけられているのである。宇宙の森羅万象の悉くの当体の背後には、仏界という
 至上の生命が息づいている。その仏界を湧現させる力が妙法であり、その音声が南無妙法蓮華経なのである。
 
 まさに、大宇宙に妙法の 「長風息むこと靡し」である。また、有情・非情を問わず、森羅三千の当体は妙法そのものであると決定した時に、日蓮大聖人の
 生命哲学は大回転を始めたのであり、同時に我々創価学会の実践の原点もそこにある。かくして人間革命という、一個の人間に光を当てつつ一切衆生を
 空際しゆく未曾有の宗教運動が、全世界の広がりの中で展開されているのである。我が創価学会の長風も、永遠に止む事がないと確信する。

75 美髯公 :2013/09/13(金) 22:35:06

                           = 八、「信解品の事」について =

   『「信解」と「信楽」について』

  先の譬喩品第三において、迦葉、迦旃延、須菩提、目犍連等の中根の四大声聞に対して「三車火宅の譬え」をもって領解せしめた事が説かれたが、
 この信解品第四においては、領解した四大声聞が歓喜し、その喜びを迦葉が代表して「長者窮子の譬え」に託し、求めざるに無上の宝を得たと述べる。
 「長者窮子の譬え」とは、簡単にいうと次のようなものである。
  長者の子供が幼い頃、父を捨てて他の国に住み、衣食を求めて放浪していた。やがて長者がみすぼらしい我が子を見つけ、二人の召使いを遣わして家に
 帰るように誘引した。また長者自身も、みすぼらしい衣服を纏って我が子に接近し、財宝管理の職に就かせ、ついには家事財産の一切をその子に譲った。
 この譬えを以て、迦葉は自信の悟りとその喜びを表したのである。そのような内容をもつ信解品第四の「信解」という題号についての日蓮大聖人の
 御義口伝(P.725) である。

 まず、大聖人は妙楽の法華文句記の次のような文を引かれている。
 「正法華には信楽品と名く其の義通ずと雖も楽は解に及ばず今は領解を明かす何を以てか楽と云わんや。」
 ここにいう「正法華」とは、西普の竺法護が漢訳した「正法華経」十巻の事である。ちなみに法華経の漢訳は六訳三存といわれ、六種類の漢訳があり、
 そのうち現存しているのは「妙法蓮華経」 「添品法華経」と「正法華経」の三種である。周知の通り、その中でも羅什訳の「妙法蓮華経」のみが仏の真意を
 伝えるものであると日蓮大聖人は決定されているが、古今の仏教学者の間でも、空前絶後の名訳としてそれを広く認めているところである。

76 美髯公 :2013/09/14(土) 23:35:05

 ところで「正法華経」では「信解品」を「信楽品」と訳している。信解と信楽はかなり似通った意味のようにみえるが、「楽」はとうてい「解」には及ばない。
 何故かといえば、先に述べた通り、譬喩品からこの品にかけては、須菩提等の四大声聞が「三車火宅の譬え」を通して開三顕一の妙理を聞き、それを
 領解した事が説かれているのであり、それを“喜び願う”という意の“楽”を用いて「信楽」と訳したのでは、この品の意義を損ねてしまうという訳である。
 妙楽は以上のような点から、羅什訳の「妙法蓮華経」の「信解品」の方がはるかに適訳であるとしたのである。そこで日蓮大聖人は、妙楽の指摘を踏まえて
 「信解品」の“信解”について、重層的に御義口伝されている。
 まず「法華一部廿八品の題号の中に信解の題号此の品に之れ有り」(P.725 ⑧) と述べられ、法華経一部二十八品の中でも「信解」という大事な題号が
 付されたのは此の品であると、信解品のもつ意味の重要性を示されている。

 いうところの「信」とは「一念三千も信の一字より起こり三世の諸仏の成道も信の一字より起こるなり」と位置づけられている。つまり、一念三千という
 深義も、所詮は仏界が湧現しない限り完結しない。そして、その仏界は、南無妙法蓮華経を信受する以外に湧現させることが出来ないのである。
 これは衆生の信心の立場から述べられたもので、例えば「日女御前御返事=御本尊相貌抄」に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我等衆生の法華経を
 持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(P.1244 ⑨) とある通り、妙法といえども我等衆生の生命の中に顕現される以外になく、
 それ故に一念三千の具・不具は、すべからく我等衆生の心の一字にかかっているといえよう。また、三世のあらゆる仏も御本尊を信じて題目を唱えたからこそ
 成道したのである。「秋元御書」には「種熟脱の法門・法華経の肝心なり三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(P.1072 ⑤) と
 述べられ「御義口伝」巻下には「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂深の一字なり」(P.753 ③) と述べられている通りである。
 以上のように、「信解」の深とは、一切の根本なのである。信じるということがなければ、仏法そのものが成立しないということである。
 
 すでに述べた「長者窮子の譬え」にしても、我々の立場に引き寄せて考えてみれば、我々は久遠元初の自受用報身如来の当体であって大福運の持ち主には
 違いないが、その仏種を亡失してしまって、仏性を顕現できないばかりか、六道を流転していた。いわば窮子そのものであった訳である。だが、自ら
 求道心を起こし御本尊を信受してみれば、長者、つまり仏と父子の縁を結び、我が身即妙法の当体と覚知出来たのである。従って、一切の衆生にとって
 信の一字こそ要中の要であり、その信こそが絶対的幸福を確立しゆく原理なのである。この原理は、三世に渡って変わる事の無い不変の原理ということである。

77 美髯公 :2013/09/15(日) 23:01:56

   『「信」は元品の無明を切る利剣』

  なぜ、それほど「信」という事を重要視するかといえば、大聖人は次に「此の信の字元品の無明を切る利剣なり」と断ぜられている。
 ここにいう「元品の無明」とは、釈迦仏法における三惑の内の第三、無明惑の根本である。三惑とは、見思惑、塵沙惑、無明惑である。端的にいえば、
 見思惑とはものの考え方、あるいは生き方に関する思想的な迷いといってよい。次の塵沙惑とは、一つの思想を実践して行く上で起こってくるさまざまな
 具体的迷いである。見思惑が二乗 (声聞、縁覚) の迷いであるのに対して、塵沙惑は菩薩の迷いである。

 それでは無明惑とは何か。それは中道法性を遮る一切の生死、煩悩の根本であり、いわば人間の本能から発する迷いといえよう。そして、その無明惑の
 根本にある元品の無明とは、結論していうならば、宇宙の根源たる南無妙法蓮華経が信じられない、つまり大御本尊を信じる事が出来ない迷いである。
 池田会長は「元品」を「生命」と釈された。この生命に宿る迷いを元品の無明というのである。この元品 (生命) において迷えば無明、悟れば法性となる。
 従って信仰とは、この元品の無明に対する戦いであるといってよく、それを打ち破る利剣とは信の一字しかない。別の御義口伝にも「元品の無明を
 対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云」(P.751 ⑮) と記されている。このように、信とは「元品の無明を切る利剣なり」と決定され、
 次に「其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり」と重ねて述べられている。「無疑曰信」とは、天台の法華文句に出てくる言葉で「疑い無きを
 信という」と読み、だからこそ信が一切の疑惑を断破する利剣となるのである。

79 美髯公 :2013/09/16(月) 22:19:41

 もとより、これは懐疑の精神を否定しているのではない。我々がさまざまな疑問を持つのは当然の事であり、懐疑の精神がなければ、物事の真実という
 ものに肉薄できない。しかし、ここでも注意しておきたいのは、何のための懐疑か、ということである。本来、我々が疑いを持つのは、それが真実であるか
 どうかを検証するためである。信を得たいがためにこそ疑うといってよい。そして、ひとたび不動の一点に立てば、今度はその不動の一点をどう持続するかが
 戦いとなる。そうした信に至るプロセスとして懐疑を位置づけるのではなく、懐疑のための懐疑という自家中毒症状を呈するようでは、盲信ならむ盲疑
 なのであって、これは全く無意味という以外にない。

  この信・不信に関連していえば、現代は“不信の時代”といわれている通り、あまりにも不信と欺瞞が渦巻いている。政治不信はいうに及ばず、社会に
 対する人々の不信はその極に達している観さえある。しかも、自己自身すら信じられないという精神の砂漠が生み出す不幸は、予想以上に現代文明を侵蝕
 している。いわば、今日の社会にどう人間性を回復して行くかは、ひとえにこの信をどう回復して行くかにかかっていよう。つまり、お互いが人間として
 信じ合い、エゴと欲望に支配された人間関係を信頼のそれへと変革しゆく土壌をどう築いていくかが、急務である。

 ましてや信仰の世界において、あらゆる懐疑というヤスリにかけられて、なお輝き続ける信の一点が確立されるかどうか、また信じるに足る対象を発見
 出来うるかどうか、それが最重要な事であるのは当然である。幸いにして、我々は永遠に変わらぬ不動の信を築きゆく根底の法を知った。後は、それを
 現実生活の中で、どう顕現していくかである。創価学会が団結の二字を掲げ、未曾有の宗教革命に邁進するのもまた、この現実世界に、信に貫かれた
 麗わしい人間連帯の輪を、全人類という地平に拡大していかんがためである。

80 美髯公 :2013/09/17(火) 22:51:20

   『「信」と「解」の関係』

  これまで述べてきた「信解」について、大聖人はさらに詳しく展開される。
 「解とは智慧の異名なり信は値の如く解は宝の如し」
 ここに明らかなように、解とは智慧の事であり、信ずることによって智慧という宝を買うことができる。従って、次に「三世の諸仏の智慧をかうは信の
 一字なり」と断じておられるのである。ここで、信と解の関係について、補足的に考えてみよう。まず「新池御書」には「有解無信とて法門をば解りて
 信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし」(P.1443 ⑭) と述べられているように、仏法を単に理解したと
 しても、信心がなければ成仏出来ないと判じられている。逆に、理解出来なくとも、信心があれば成仏することができる。この「有解無信」と「有信無解」の
 相違は決定的であり、信と解を考える際の最も基本的な勝劣である。

  次に、一重立ち入った立場で考えてみると、例えば如来寿量品第十六には「汝等当に、如来の城諦の語を信解すべし」とあるように、有信無解こそ、
 信仰者の在るべき姿である事がわかる。また「松野殿御返事=十四誹謗抄」には十四誹謗の「浅識・不解」を挙げて、法を求めようとしない事を厳しく
 戒められている。(P.1382 ④)
 今学んでいる御義口伝で述べられている信解については、こうした立場からの見解である。この際の信と解の考え方は、以信代慧の原理に基づいている。
 「四信五品抄」に「慧又堪ざれば信を以て慧に代え・信の一字を詮と為す」(P.339 ⑮) とある通り、我々の御本尊に対する不動の信が、真実の智慧を生み
 出していくのである。それ故に、大聖人は「智慧とは南無妙法蓮華経なり」と断じられ、さらに「信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に
 信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」と結論づけられているのである。

 ここにいう名字即とは、天台が立てた六即位の内の第二番目の位をいう。ここでは、初めて仏の名前を聞いた段階、つまり初信の位において即身成仏して
 行けるというのが大聖人の立場である。我々の生活の上からこの事を考えれば、信心こそ仏の智慧を自身の生活に顕現しゆく根本の因であり、信があって
 初めて即身成仏を成ずる事ができるという事である。このように信と解は不二の関係にあり、信がなければ智慧は涌いてこないし、領解しようとする一念が
 なければ信は生じないのである。こうして「有信有解」の信仰道を貫くところに成仏が成立するのであり、それが人生の最大の目的なのである。
 「十八円満抄」に「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(P.1367 ⑫) と仰せのように、いかに解に優れていても、信を忘失し地獄の
 住人になってしまっては、人間としての使命を果たせなくなってしまう事に留意したい。

81 美髯公 :2013/09/18(水) 23:05:32

   『「信解」の実践的展開』

  これまで述べてきた「信解」を、日蓮大聖人及びその門下たる我々の立場から読めばどうなるのか。まず、大聖人は次のように述べられている。
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり」
 ここにいう無上の宝聚とは、詮ずるところ功徳聚たる大御本尊の事を示しており、不求自得とは、我ら衆生が何の努力もせず、ただ信心一途に得た事を
 意味している。そして「信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり」と、改めて信の重要性を述べられている。

  次に、大聖人は、信と解を、不変真如の理と随縁真如の智に約して展開されている。
 「信は不変真如の理なりその故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり解は随縁真如なり自受用智を云うなり」
 信を不変真如の理に当てられる場合の不変真如の理とは、永遠に変わる事のない普遍妥当性をもつ真理の事である。また、真如とは中道、法性、生命と
 釈してよい。では、なぜ不変真如の理を信に当てるかといえば、その文証として次に挙げられている通り、「『一切の法は皆是れ仏法なりと知る』と体達して
 実相の一理と信ずる」からである。実相の一理とは、変わる事のない普遍の真理たる南無妙法蓮華経の事であり、この深遠なる哲理を信の対境となすが故に、
 不変真如の理になるのである。

 一方、解とは随縁真如であり、自受用智となる。周知の通り、随縁真如とは不変真如に対する語である。端的にいえば、宇宙・自然のあらゆる法則が
 不変真如の理とすれば、その法則に従って現われてくるあらゆる現象が随縁真如の智となるわけである。そこで、解が随縁真如に当たるのは、先に述べたように、
 解が智慧の異名だからである。そして、その智慧とは南無妙法蓮華経の仏の智慧であるから、自受用智となる。自受用智とは「ほしいままに受け用いる智」との
 意であり、久遠元初の自受用報身如来の智慧をいう。我々が信の一字を根本に信仰実践に励むならば、そのような偉大な仏智を我が身の上に顕現する事が
 出来ると仰せなのである。

82 美髯公 :2013/09/20(金) 21:47:40

  さて、ここで信と解をそれぞれ不変真如と随縁真如に配するという事を、我々の生活に引き寄せて、もう少し考察を加えておきたい。先に我々の立場を
 天台の六即位に当てはめれば名字即になると述べた。この名字即とは、天台の言葉を借りれば「一切の法は皆是れ仏法なりと通達解了する」立場の事である。
 つまり、我々の生命の根底に妙法があるかどうかなのである。たとえ、いかなる時であっても、またいかなる立場にあっても、一個の人間として行動する
 その基底に、妙法の働きを作動させていく事こそ、名字即の実践なのである。身近な例を挙げれば、子供の頃“金太郎飴”に親しんだ経験は誰でもあると
 思うが、どこを切っても金太郎の顔が出てくる。同様に、一個の人間のどの断面を切り取っても、その人の根底には妙法が光っている。そういう生き方こそ
 名字即という事なのである。つまり、妙法という不変真如の理に貫かれた人生であって初めて、信の一字に生きたという事になる。

 しかし、それだけでは不十分である。なぜなら、生命の根底を貫く不変真如を、今度は現実生活の中で生かしきっていかなければ、信仰は成立した事に
 ならないからである。つまり、現実生活の具体的な場で、どう妙法の智慧を働かしていくかが問われるという事である。大聖人の御金言にも「賢きを人と
 云いはかなきを畜という」(P.1174 ⑮) とあるように、ありとあらゆる現象を、どう人間幸福の確立へと役立たせていくか、そこに智慧を働かせて
 いかなければならない。いわば現実即仏法なのである。「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(P.1295 ⑧) とある通りである。従って、信が根底に
 なって解=智慧が躍動する姿、つまり随縁・不変の真如に生ききっていくところに、我々のいう成仏はあるという事である。以上、信と解についての真義が
 さまざまな角度から展開されてきたわけであるが、それぞれの意味づけが決して独断ではないことの証明として、次に、いくつかの文証を挙げられている。

 天台の法華文句第九の「疑い無きを信と曰い明了なるを解と曰う」 、あるいは同第六の「中根の人譬喩を説くを聞きて、初めて疑惑を破して大乗の見道に
 入る故に名けて信と為す進んで大乗の修道に入る故に名けて解と為す」 、さらに妙楽の法華文句記第六の「大を以て之に望むるに乃ち両字を分かちて以て
 二道に属す疑を破するが故に信なり進んで入るを解と名く、信は二道に通じ解は唯修に在り故に修道を解と名くと云う」等々。
 法華文句第六にある「中根の人」とは、譬喩品等の譬えを聞いて得道した須菩提、迦旃延、迦葉、目犍連などの喩説周をいう。ちなみに、法華経迹門では
 声聞の弟子が次々と成仏を許されて授記を受けるが、それら声聞の弟子は三種に分かれる。つまり、上根、中根、下根である。上根とは、方便品の説法を
 聞いて得道する舎利弗などの法説周であり、下根とは大通智勝仏以来の因縁を聞いて得道した富楼那などの因縁周を指している。

83 美髯公 :2013/09/22(日) 00:14:15

 また、同文にある「大乗の見道に入る故に名けて信と為す」とはどういう意味か。ここにいう大乗とは一仏乗の事であり、見道とは、一応の説明を加えれば
 三界六道における苦果の因たる見思の惑を断じ尽くす事である。なお、見道には随信行と随法行があるとされている。従って大乗の見思の惑を破して
 一仏乗の妙法を信じる事であり、故に信と名づけるというのである。

  次の「大乗の修道に入る故に名けて解と為す」について解説を加えれば、修道とは見思の惑を断ずると七聖の位に入るが、その二番目をいい、この修道には
 信解、見得、身証の三つの位があるとする。そうした一仏乗を信じ、信解の位に入るが故に解と名づけるという事である。我々の立場から考えるならば、
 見道とは御本尊以外に成仏の道はないと確信する事であり、修道とはその確信に基づいて実践するという事になる。ともあれ、我々にとって仏道を成ずる
 道とは、信解不二の実相を顕現していく事に尽きる。信と解が根と花実の関係のように働き現われてこそ、仏道は成就するのである。このことを、あくまでも
 実践的に受け止めていきたい。

  最後に、「信解」に関する戸田前会長の巻頭言の一文を引用して、この項の講義を終えたい。
 「世界の文化人が迷乱している思想に二つある。一つは知識が即智慧であるという考え方である。知識は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して
 知識自体が智慧ではない。(中略) 要するに、根本は強き生命力と、たくましき智慧とによって、わが人生を支配していかなくては、ほんとうの幸福は
 得られない事を知らねばならぬ。」

84 美髯公 :2013/09/22(日) 21:58:26

                           = 九、「無上宝聚不求自得」について =

   『南無妙法蓮華経こそ無上の宝聚』

  信解品に「爾の時に摩訶迦葉、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言さく、我等今日、仏の音教を聞いて、歓喜踊躍して、未曾有なることを
 得たり、仏声聞、当に作仏することを得べしと説きたもう。無上の宝聚、求めざるに自ら得たり」とある。この中の「無上の宝聚、求めざるに自ら得たり」に
 関する日蓮大聖人の御義口伝(P.727 ①) である。
 先の譬喩品において、仏は迦葉、迦旃延、須菩提、目犍連の中根の四大声聞に対して、譬喩を中心とした説法に入った。まず「三車火宅の譬え」をもって、
 開三顕一の深義を明かし、仏の真実の教えは一仏乗にのみあると示した。そして、この深義は舎利弗の智慧をもってしても悟ることはできない。ただ信を
 もってのみ悟ることができると、信の重要性を強調している。こうした仏の説法を聞いた四大声聞は喜びにあふれ、迦葉が代表して「長者窮子の譬え」に
 託しつつ「無上の宝聚、求めざるに自ら得たり」と領解の旨を述べるのが信解品である。

  大聖人は、四大声聞が得たというこの“無上の宝聚”とは何か、あるいは“求めざるに自ら得たり”とはどういう事なのかを、生命論的に展開されて
 いくのである。まず“無上”とは有上に対する言葉で、上が無いとの意であるが、しかし「無上に重重の子細り」と、大聖人はまずのべられている。
 つまり、外道に対する三蔵教は無上、通教は三蔵教に相対すれば無上というように、相対するものによって、無上・有上の勝劣が決定されていく。
 従って、無上といっても当分と跨節について厳密に立て分ける必要があると示されている。「外道の法に対すれば三蔵教は無上・外道の法は有上なり又
 三蔵教は有上・通教は無上・通教は有上・別教は無上・別教は有上・円教は無上、又爾前の円は有上・法華の円は無上・又迹門の円は有上・本門の円は
 無上、又迹門13品は有上・方便品は無上・又本門13品は有上・一品二半は無上、又天台大師所弘の止観は無上・玄文二部は有上なり」(P.727 ②)

 というように、全部そこには相対がある。それでは、そのように相対を重ねた結果、最後に残った無上なるものとは何か。
 「今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり、此の妙法を指して無上宝聚と説き給うなり」(P.727 ⑤) と、南無妙法蓮華経の
 不思議の一法こそ究極の無上なるものであると断言されている。また、この妙法を指して無上宝聚とも説かれているのである。考えてみれば、我々は
 期せずして極無上の仏法に入った。まさに「求めざるに自ら得たり」である。そして、そこで実践し学んだものは、確かに無上の中の極無上であった。

85 美髯公 :2013/09/23(月) 21:33:51

  では、何故この妙法が無上の宝聚なのか。「宝聚とは三世の諸仏の万行万善の諸波羅蜜の宝を聚めたる南無妙法蓮華経なり」(P.727 ⑥) と。
 宝の聚まりとは、もちろん金とか銀などではない。過去、現在、未来の三世にわたり、あらゆる仏の偉大な生命の発露たる万善万行を聚めたのが
 南無妙法蓮華経なのである。布施、持戒、忍辱、精進、禅、智慧の六波羅蜜の修行もまた、全部ここにおさまっている。「教行証御書」には「此の法華経の
 本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」(P.1282 ⑩) とある。
 また、「観心本尊抄」には「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(P.246 ⑮)
 と述べられている。それぞれの御書の詳述は省くとして、それほど偉大な力用をもった南無妙法蓮華経であると確信していきたい。

  そして、この無上の宝聚を受持する我々の生命もまた、午前八時の太陽の如く赫々たるエネルギ−を蓄えながら、未来に希望の輝きを増していくのである。
 つまり、我々の生命自体が無限の可能性をはらむ無上の宝聚と開花して行くという事である。しかも「此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受取る
 信心なり不求自得とは是なり」(P.727 ⑦) と述べられている。日蓮大聖人の仏法は、受持即観心であり、直達正観である。歴劫修行を要した釈迦仏法とは
 根底的な相違がある。我々にとっては御本尊を受持し信心に励む、その一点に一切の修行が含まれている。なんと有難いことではないか。

86 美髯公 :2013/09/25(水) 22:53:41

   『Kさんの体験と仏法の肉化』

  ここで、今学んでいる「無上宝聚不求自得」に関連して、それが決して机上の学問ではない事を示すために、一つの具体論を申し上げたい。
 それは、Kさんという一人の婦人の体験である。Kさんは大病を患い死線を彷徨っていた。しかし、この「仏教大学講座」に応募するために、死を覚悟しつつも
 論文を書き続け、見事な論文を完成した。その間の事情を書き添えたご主人の手紙と共に届けられた。もちろん合格だった。講義にはKさんに代わって
 ご主人が出席し、それをテ−プに納め、Kさんの枕許で聞かせる。こうしてKさんは最期まで懸命にテ−プを聞きながら勉強した。そして、遂に安らかに
 逝去された。

 五十年の十一月、Kさんは入院する時「私はこれから入院する。再びこの家に戻ってこれないでしょう。お葬式の時にはこの写真を・・・・」と遺影の
 写真までご主人に残して入院された。従って、死ぬ事を覚悟しておられたことは十分わかる。また、遺言の書を十項目程にしたためておられたという。
 それでは、一体なぜ死を覚悟しながらも「仏教大学講座」の論文を書き綴られたのか。なぜそんなに激痛の中 ― ご主人の手紙によれば、一日中死闘と
 いってもよい程の激痛が続いたが、その中でわずか三十分間ぐらい、意識朦朧たる状態ながらも、痛みが和らぐ時があった。その三十分ぐらいを見出して、
 ずっと書き綴ってきた。そういうご主人の手紙であった。― 論文に取り組む事ができたのか。

 ご主人の手紙を、今ここで読んでみたい。
 「 現在私の妻は昨年の七月ごろからガンにかかり、病状重く、県立ガンセンタ−で懸命の治療と唱題に励んでおりますが、全身を襲う激しい痛みと死の
 恐怖に、毎日毎日死魔との戦いを余儀なくされております。医師の話では三か月と言われたのですが、すでに半年もっておりますが、いずれ長くないとの
 診断です。
  当原稿は、妻が激痛の中で御書を学び、唱題をし、注射をして、痛みが多少やわらぐ三十分ぐらいを、もうろうとした意識の中で書いたものであります。
 第一回より連続して応募しておりますが、残念ながら試験にはパスしておりません。今回の応募についても、妻はどうしても書くのだと言って、ついに
 書き上げました。鉛筆書きのうえ、字も乱雑かと思われ、たいへん失礼かと思われますが、何とぞお許しください。」
 まさに文字どおり、自身の宿命打開の闘いをなさんがために、この原稿を通して、自分の決意をしたためようとしたに違いない。

87 美髯公 :2013/10/02(水) 22:44:59

 私は今、Kさんが書いた原稿のコピ−を手にしているが、この原稿には、自分がガンである事はひとつも述べてられていない。また自分がなんらかの
 苦しい立場にある事も、いささかも書かれていない。しかし現実はその厳しい中で書かれたという事、それは最早、生と死を越えて自分自身の宿命転換を
 図ろうとされていた事を意味する以外の何ものでもないと思う。そんなKさんに対するご主人の気持ちは、手紙の末尾に次のようにある事からも、明瞭にわかる。
 「なお、合否に関係なく、最後にお願いがあります。終了後、原稿を返していただけないでしょうか」と。
 恐らく、ご主人としては、この原稿をKさんの遺稿として、永遠に残しておきたいというお気持ちだったと思う。

 私は原稿を読み、ご主人の手紙をも照らし合わせて、合格と判断した。ただ、論文の審査を始める会議は、まだそれより先であった。また皆で検討して、
 結果を出して、それからさまざまな会議にかけて、最終的に合否が決定する。当然そこには論文だけではなく、面接試験もあった。時間がかかりすぎる。
 そこで私の越権行為ではあったが、即座に合格という通知を出した。私がまず合格であると申し上げたのは、信心の合格であるという意味であった。
 ともかく、このような生死を越えて、激痛の中を宿命打開を図ろうとしたその信心は、まさに教学を命に刻むものであり、それだけで既に合格である、
 と判断したのである。

 少々経過を申し上げると、Kさんは五十年七月に子宮ガンであることが判った。医師の診断では三か月の寿命であった。それが五十一年の七月十日に
 亡くなった訳で、三か月の寿命を九か月延ばした。そして一年間闘い抜いて、その間に一切の宿命を転換して亡くなられた。「仏教大学講座」に応募した頃の
 状態は、まず直腸、肺、喉頭にまで転移して、最悪の状態であった。後で判った事であるが、骨にまでガンは達していた。その中を、注射を打ち、痛みが
 和らぐ三十分間ぐらいの間に、御書を読み、題目を唱えながら、「竜女の成仏」という論文を書き上げられたのである。周知の通り、竜女というのは女人で
 あり、かつ蛇身である。その竜女が法華経において成仏したという事実を前に、ご自身の経験からそれがどういう意味をもつのか、明確にして
 おきたっかたのだと思う。

88 美髯公 :2013/10/03(木) 22:37:49

 Kさんは、その論文の中で、こう書いている。
 「智慧第一の舎利弗尊者は、竜女に申しました。『あなたは修行の期間も長くないのに、久しからずして無上道を得たものと思っているが、私には信じがたい。
 女人の身は汚れていて、法の器ではありません。仏道ははるかなものです。無量劫という長い期間かかって、丹念に苦行を積み重ね、詳しくもろもろの
 悟りを修めて、しかる後に成仏ができるのです。また女人の身には、一、梵天王にはなれない、二、帝釈天王にはなれない、三、魔王になれない、四、
 転輪聖王になれない、五、仏身にはなれないという五つの障りがあって、成仏を妨げると申します。だからどうして女人の身で即身成仏ができましょうか、
 考えられないことです』と。竜女はパッチリと開いた明るい瞳で聞いていましたが、舎利弗が語り終えると、手にしていたすばらしい価値の宝珠を、黙って
 スッと世尊に奉ったのです。世尊はすぐさまその見事な宝珠を、お受け取りになりました。それはほんのつかの間のできごとでしたが、なんの滞りもなく、
 春風のそよぐようにさらさらと事は運ばれたのです。」

 Kさんはご自身の生命のうえに、はっきりと舎利弗や竜女が映し出されているような書き方である。Kさんは続けて ― 、
 「竜女はニッコリほほえみ、智積菩薩と舎利弗尊者に尋ねました。『いかがでございます。私が宝珠を世尊に奉りましたが、世尊がお受け取りになるまでの
 動きはすばやかったとお思いになりませんか、いかがですか。』
 智積と舎利弗は口をそろえて答えました。『あなたが奉るのも、世尊がお受け取りになるのも、ともにまことに速かった』と。
 竜女はそれを聞くと、会心の笑みを漏らして、こう申しました。『珠をささげるのも、受けられるのも、まだ遅いのです。私が仏となるのはもっと速いのです。』
 言い終えるや否や、竜女の姿は一転して、こうごうしい菩薩行を備えた男子の姿に変じ、はるか南方の無垢世界の宝蓮華に坐して、あまねく一切衆生のために
 妙法を説き聞かせている仏の姿となって、輝き渡ったのです。そのとき娑婆世界にある菩薩をはじめとする無量の衆生は、みなそれを見て、心に歓喜をおぼえ、
 
 言い知れぬおごそかな気持ちになって、はるかに合掌礼拝しました。何としても目の覚めるような即身成仏のありさまゆえ、智積菩薩も舎利弗尊者も、
 また一切の大衆も、黙然として、竜女の即身成仏を信受したのです。」
 淡々として竜女の事を書いておるようで、実は、この舎利弗尊者の質問を通して、自分は宿業の深い人間であるという事を、Kさんはいいたかったに違いない。
 そして「竜女がニッコリ微笑んで答えた」というのは、その時の彼女の心境であろう。必ず自分自身が宿命を打開し、この生涯の間に自分自身の一切の罪業を
 転換していくのだという事を、珠の話であるとか、それより成仏は速いといった話に託していたように思えてならない。

89 美髯公 :2013/10/04(金) 20:51:59

 そして更に ― 「『御義口伝』に云く『此の品には釈尊の本師提婆達多の成仏と、文殊師利教化の竜女成仏とを説くなり。是れ又妙法蓮華経の提婆竜女なれば、
 十界三千皆調達竜女なり。法界の衆生の逆の辺は調達なり法界の貪欲・瞋恚・愚癡の方は悉く竜女なり、調達は修徳の逆罪、一切衆生は逆罪なり一切衆生は
 性徳の天王如来調達は修徳の天王如来なり、竜女は修徳の竜女・一切衆生は性徳の竜女なり、所詮釈尊も文殊も提婆も竜女も一つ種の妙法蓮華経の
 功能なれば本来成仏なり、仍って南無妙法蓮華経と唱え奉る時は十界同時に成仏するなり、是れを妙法蓮華経の提婆達多と云うなり、十界三千竜女なれば
 無垢世界に非ずと云う事なし、竜女が一身も本来成仏にして南無妙法蓮華経の当体なり』(P.797 ⑯) とありますように、世尊も提婆も竜女も、また私たちも、
 そのもとは妙法蓮華経の当体であることは変わりはないと思います。」

 Kさんはこの「御義口伝」を通して、強い自信を持ったに違いない。自分は罪業の深い人間でどうしようもない。しかし地獄のような苦しみで
 死ななければならないかというと、そうではない。実は自分の生命、竜女の生命も本来の妙法蓮華経とあるではないか。それならば、もし自分が宿命を
 打開していくならば、この本来の妙法蓮華経の当体へと戻っていく事が可能ではないか、その本来の力を発揮する事ができるではないか、彼女はそう確信したに
 違いない。

 そこで彼女は更に続ける。
 「ただ信をもってのみ能く入ることができる、と仏も説かれた法華経を、いかに絶えざる発心と喜びをもって持ち続けるか否かに、成仏はすべてかかっていると
 思います。」
 この言葉の中から、死の瞬間に至るまで、この信心の発心、喜びを持って闘い抜くという彼女のけなげな決意を読み取る事ができる。
 更に「『南条殿女房御返事』にいわく『夫れ水は寒積れば氷と為る・雪は歳累つて水精と為る・悪積れば地獄となる・善積れば仏となる・女人は嫉妬かさなれば
 毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならば・あに竜女があとを・つがざらん』(P.1547 ②) と。

90 美髯公 :2013/10/05(土) 22:06:49

 『女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならば・あに竜女があとを・つがざらん』は対照的な御文でございます。しかしこの対照こそ、
 まさに自分自身の過去の姿と、現在から未来に生きる姿のコントラストと一体でありました。
 私たちの生命も、ひたすら信をもとに教えのとおりに信心修行をしていけば、降り続く雪の原野のように、白色の無垢世界へ広がっていくもののように
 思われてなりません。」
 
 これは非常に大事な所ではないかと思う。彼女はこれを書き綴っている時に、首から下は全身ガン細胞に冒されていた。「白色の無垢世界」とはまるで違う、
 死魔に冒されきった状態であった。彼女にとって「降り続く雪の原野のように、白色の無垢世界へ広がっていくもののように思われてなりません。」と
 いう言葉は、余りにも現実離れの様に思える。しかし、それは単に過去から現代へ来たる、その今までの自分を見つめている彼女ではない。自己の宿命を
 見つめつつも、雄々しく立ち上がり、必ず未来に自分自身の宿業を打開し、見事なる実証を示して行くという決意の披瀝であろう。そして汚れなき世界 ―
 降り続く雪の原野のように、白色の無垢世界へ広がっていく ― というのは、自分が必ずこうなってみせるという決意であったのだろうと思う。

 実際、彼女はその後、十日間というものは、全く苦しまなかった。しかも体重が三十二キロから四十七キロに増えている。ガン細胞も全て無くなった。
 「降り続く雪の原野のように、白色の無垢世界へ」という言葉が現実にKさんの五体の上に現れたといえよう。
 「法華経は絶対に信じるものを欺かない完ぺきな哲理である7ことを意味するものです。また雨曼陀羅華とありますように、純粋な信心を貫いていくならば、
 功徳の花が雨のように降りそそぐ、私たちをしあわせな境涯に導いていくことは間違いないことです。」と。
 
 激痛の中、意識の朦朧たる中で、唯御書を読み、題目を唱えて、書き綴った人の文にしては、あまりにも淡々とし、あまりにも未来に生きようとしている姿が
 躍如としている。そして最後に「私も信心の出発点に戻って、晴れやかに一歩一歩努力を続けます」と決意を述べて論文は終わっている。
 自分の命が何時終わるとも判らない人が「信心の出発点に戻って、晴れやかに一歩一歩努力を続けます」と決意しているのである。まさしく自分の過去の
 宿業、宿命というものを断ち切って、そして永遠の福運というものを今築かねばならないという事に立脚した人の発言であると思う。

91 美髯公 :2013/10/06(日) 22:01:32

   『最も肝要な「信」の一字』

   ここで、もう一度、「御義口伝」の本文に戻りたい。
  「此の無上宝聚を辛労も無く行功も無く一言に受取る信心なり」(P.727 ⑦) の「信心」とは、先のKさんの姿であろう。「信」の一字があれば、三世十方の
 諸仏の功徳を一言に受け取る事ができる。信心とはそういうものなのである。
  
  次に、大聖人は「自の字は十界なり十界各各得るなり諸法実相是なり」(P.727 ⑧) と「不求自得」の「自」を規定されている。
 つまり「不求自得」の「自」とは、十界を意味している。十界それぞれが無上の宝聚を得る事ができる。従って十界悉くの当体が妙法となり、それ故に
 諸法実相となるのである。たとえ、地獄であれ餓鬼であれ、信の一字があれば、即座に無上宝聚を得る事ができる。瞬間瞬間に、南無妙法蓮華経という
 実相に照らし出されて、一切の生命現象が生き生きと輝いていくという原理を示されている。そして、大聖人は「然る間此の文・妙覚の釈尊・我等衆生の
 骨肉なり能く能く之を案ず可し云云。」(P.727 ⑧) と御義口伝されて、この項を終わっておられる。

 ここにいう妙覚の釈尊とは、一往は権教、法華経迹門、同本門の釈尊と通していえるが、再往、別しては御本仏日蓮大聖人を示していると拝せる。
 「観心本尊抄」にある「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」(P.246 ⑱) との一文も同趣旨であるが、ともかく御本仏の生命は
 我ら衆生の骨であり、肉であるとの、極めて深い意味を持った結語である。それ故に「能く能く之を案ず可し」と述べられたのである。

  今回は、「御義口伝」を一つの体験に照合させながら学んでみたが、それはまさに現代に生き生きと照射する大哲理を、現実の姿うえで理解して
 いただきたかったから他ならない。膨大な仏法も、その本義は「信」の一字にあり、それを回転軸として一個の人間生命を根底的に変革していくもので
 ある事を知っていただきたい。

92 美髯公 :2013/10/07(月) 23:41:38

                            = 十、「授記の事」について =

   『授記とは何か』

  次に「授記品四箇の大事」の内の「第一 授記の事」(P.730 ⑫) の所を、一緒に学んでいきたい。授記品は、迹門の熟益三段の正宗分 (方便品から
 人記品まで) の中に含まれるが、この品の趣旨は四大声聞に対する授記である。四大声聞とは、迦葉、迦旃延、須菩提、目犍連の事。周知の通り、法華経には
 三周の説法 (法説周、譬説周、因縁周) が明かされるが、この四大声聞は譬説周に当たる。仏はまず譬喩品において「三車火宅の譬え」(法華経七譬の
 第一) を説き、三乗を開いて一仏乗を顕す(開三顕一) が、次の信解品で四大声聞はその仏の真意を領解した旨を告白し、迦葉が代表して「長者窮子の
 譬え」(法華経七譬の第二) に託し、その喜びを述べる。次いで仏は薬草喩品を説き「三草二木の譬え」(法華経七譬の第三) をもって、仏の教えは
 一仏乗のみであると再度明かす。

  こうした流れの中で授記品が説かれ、四大声聞に対する授記が決定づけられていくのである。そこで、謂う所の授記、つまり記を授けるとは、
 どういう事なのか。法華経の原理は即身成仏であると謂われているにも関わらず、授記という形を取っているのは、どういう意味があるのか。そうした
 問題点を踏まえながら、大聖人の仏法における授記の真意を明かされたのが、この御義口伝である。ちなみに、授記とは仏が記別 (予記分別) を授ける事で、
 しかも劫、国、名号等が明示される事をいう。例えば、迦葉は光明如来 (名)、光徳 (国)、大荘厳 (劫) と授記されている。

 まず、大聖人は天台の法華文句の「授とは是れ与の義なり」の文を引用されて“授”の意味を明確化したうえで、授ける処の“記”とは何か、という最も
 肝要な問題にズバリ切り込まれている。つまり「記とは南無妙法蓮華経なり」と、その根本を示されている。我々が御本尊を受持し勤行・唱題に励んで
 いる、あるいは創価学会員として愛学弘法の実践を貫いている、それらは何のためか。結局は、南無妙法蓮華経という仏の生命を時々刻々と授けられている事に
 他ならないのだということだ。これが授記の根本であり、信心の究極である。

93 美髯公 :2013/10/08(火) 21:36:39

 現実には、さまざまな授記がある。例えば、教学試験で教授の認定証を受けた。しかし、教学部教授に認定されたとは、どういうことなのか。
 それは信行学という大聖人の仏法の永遠の根本原理を絶対に外さないという決意、つまり本因妙の立場から受けているわけである。そうした面から考えるならば、
 我々は色々な授記を経験している。本因妙の姿勢そのものが授記であるといってもよい。その本因妙の姿勢に表れてくる授記の根源は、南無妙法蓮華経という
 生命なのである。従って、教学といっても、それは知識を受けているのではない。南無妙法蓮華経を受けているのだし、またそれを自身の上に必ず
 具現化しいぇ行こうとする決意に立って受けていくべきである。

 もとより、世間一般にもその世界それぞれの授記がある。大学を卒業して貰う学士号、あるいは博士になって貰う博士号なども、一種の授記である。
 だが、そうした個別的な授記ではなく、いかなる人であろうと最高の人生観、世界観を確立して永遠に幸福な人生を生ききっていける根本的な授記があるのを
 忘れてはならない。これは、ある女子学生の体験である。今年の春、無事に大学を卒業したのだが、卒業論文を書き上げる時の苦しみと喜びを次のように
 語っていた。色々な事情が重なって、実際に論文を書き始めたのは二十日前であった。焦燥と不安が重なって自己喪失に陥り、途中何度も投げ出したくなった。
 だが、彼女は自分の弱さと闘った。「臨終已に今にあり云云」(「持妙法華問答抄」 P.466 ⑪) の御書の一節を拝しつつ、腰を据えて唱題にも励んだ。
 「文を書くという事は、知的、理性的営為であると共に、ペンを持って手を動かしていくひとつの肉体運動でもあるわけですが、そうした精神的かつ肉体的行動を
 起こさしめる生命の不思議さ、強靱さをひしひしと感じました。」 と彼女は述懐していた。

 また「信心していてよかった。御本尊を受持していて本当によかった」と、しみじみ語っていた。最後の一週間は、睡眠時間も三時間足らず、ひたすら
 論文完成に頑張り通したという。そうした自己の限界を越えたところで、彼女は生命の実在を実感し、信心への確信を深めて行ったのである。彼女は
 こうして大学卒業という授記を受ける事が出来たと同時に、より深い南無妙法蓮華経という偉大な生命の授記をも受けた事になる。卒業論文を書き上げる
 という事は、ごく当たり前の事であるかも知れないが、その事を通して得た生命の実在感は極めて大きい。恐らく、この経験は彼女にとって生涯の財産と
 なるに違いない。仏法に四力という原理がある。仏力、法力、そして信力、行力である。いかに即身成仏とはいえ、仏力、法力を引き出す信力、行力が
 備わらなければ有名無実の観念論に終わってしまう。だからこそ、我々は南無妙法蓮華経という無上の仏力、法力を我が身に具現するだけの信力、行力に
 立たなければならないのである。

94 美髯公 :2013/10/11(金) 21:15:57

  次に大聖人は「授とは日本国の一切衆生なり」(P.730 ⑭) と“授”の本義を述べられている。実際、建長五年四月二十八日に立宗宣言された以来、
 南無妙法蓮華経という題目は、それを信ずるか否かはともかくとして、日本国中で知らない人はいないという状況にあるわけで、その事自体、既に
 南無妙法蓮華経を一切衆生に授けられたという事になる。その事実そのものが“授”になるとも考えられる。だが「不信の者には授けざるなり又之を
 受けざるなり」である。一往は日本国の一切衆生に授けるけれども、再往は不信の者には授けないし、受ける事が出来ないのだと厳しく述べられている。
 つまり、不信の者は逆縁であるが故に受けようとしないし、また、たとえ受けようとしても受ける事ができないのである。

 当然の事ながら、信・不信は宗教の中心的なテ−マである。この信・不信によって、南無妙法蓮華経という“記”を受ける事が出来るかどうかが
 決定されるのである。他の御義口伝 (第一 信解品の事) には「一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり」(P.725 ⑧) と
 述べられているが、この信ずるという事が無ければ、仏法そのものが成立しないわけで、信の一字の重さを深く知っていかねばならないと申し上げておきたい。

 しかも、授記を受けるかどうかという事は、これを平易にいえば、南無妙法蓮華経という電流が通るかどうかという事で、いわば信心の血脈が繋がって
 いるか否かの問題である。「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(「生死一大事血脈抄」 P.1338 ⑨) と仰せの通りである。
 それ故にこそ「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経の記を受くるなり」(P.730 ⑮) と結論づけられているのである。この文は敢えていえば、二通りに読める。
 一つは、大聖人が弟子の我々の立場に立って「南無妙法蓮華経の記を受くるなり」と表現されている。もう一面からいえば、大聖人ご自身も凡夫の立場で
 南無妙法蓮華経の記を受けられているといえる。つまり南無妙法蓮華経とは宇宙根源の法であり、それは無始無終の存在である。従って久遠元初の
 自受用報身如来の当体である大聖人も、また自身の生命の中に妙法を内包しているという意味に於いて我々も同じ立場となる。「日蓮等の類い」とは、
 そうした根底的な平等観に裏付けられた表現であって、大聖人の仏法の卓越性を示す一つの柱となっている。

95 美髯公 :2013/10/12(土) 20:55:52

   『生命論からみた授記』

  次に、大聖人は生命論の上から、授記というものを広く展開されている。つまり「又云く授記とは法界の授記なり地獄の授記は悪因なれば悪業の授記を
 罪人に授くるなり余は之に准じて知る可きなり」(P.730 ⑮) と。これは、後に「妙法の授記なるが故に法界の授記なり」(P.731 ②) とあるように、
 大聖人の仏法は単に宗教の世界における授記というものではなく、法界つまり全宇宙の森羅万象悉くの当体を対象とした授記であると仰せなのである。
 言葉を換えれば、「法界の授記」とは、全宇宙を貫いている処の根本原理というものを授記されるという事である。すなわち、我々が仏界を基調として
 一切法界を授記される事を意味しているのである。

 宗教とは人間の生き方の根本法である。従って、それが間違えば世界全体が間違ってしまう。地獄の授記を与えたならば、当然悪業を生命に刻み込んで、
 六道輪廻に陥ってしまう。このように十界それぞれに授記がある。しかし、地獄界から仏界に至る十界の悉くを包んで、しかもそれぞれを生かし切って
 行くのが大聖人の仏法であり、だからこそ「妙法の授記なるが故に法界の授記なり」となるわけである。地獄、あるいは畜生といった生命を人のため、
 社会のためにどう生かし切って行くか、どう価値創造せしめて行くか、そういった方向性をもった授記となるという事である。

 また「生の記有れば必ず死す死の記あれば又生ず三世常恒の授記なり」(P.730 ⑯) と述べられている。先に宇宙の森羅万象悉くの当体にわたる授記である
 として、空間的な広がりの中で展開されてきたのに対して、ここは時間的な展開となっている。生は死の因、死は生の因というように生死不二の原理から、
 三世常恒の生命に内在する授記を明かされている。
 以上、授記という事の根源的な意味合いを、時間的には永遠性を、空間的には無限の広がりをはらむ生命の大海の上に展開されてきたわけだが、それでは
 この授記品において四大声聞が授記を受けたという事は、一体何を表しているのだろうか。

96 美髯公 :2013/10/13(日) 20:51:21

   『四大声聞と生老病死』

  大聖人は、それを「所詮中根の四大声聞とは我等が生老病死の四相なり」(P.730 ⑰) と断ぜられている。つまり、迦葉、迦旃延、目犍連、須菩提の
 四大声聞が声聞界の代表として授記を受けたという事は、実は生老病死の四相が全部、南無妙法蓮華経を根本のリズムとして回転している事を
 意味しているのだと仰せになっている。これが、授記品において四大声聞が授記を受けた事の本当の意義なのである。これまでは六道輪廻の苦しいばかりの
 生老病死であったのが、南無妙法蓮華経を根本にする事によって、仏界を基調にした生老病死に転換されていく事を示していると、大聖人は読まれた
 わけである。ここにおいて、仏法が現実の人間生命のうえに蘇り、生きた宗教として民衆の中で生き生きと脈動を始める事になる。

 「迦葉は生の相・迦旃延は老の相・目犍連は病の相・須菩提は死の相なり」(P.730 ⑰) と。迦葉といえば頭陀行第一、つまり実践第一の弟子であった。
 情熱を燃やして弘教、あるいは修行に勇躍精進した所から「生の相」の生命を表している。迦旃延は論議第一。学問修行を経て重厚な人柄でもあり、
 円熟の生命、つまり「老の相」を表している。目犍連は神通第一。母の青提女が餓鬼道に墜ちているのを神通力によって知り、法華経をもって救った。
 また釈尊入滅後、外道に殺されかけ、一旦は脱出したが、過去世の罪業である事を知り、敢えて外道に殺され、その業を滅したと説かれている。いわば、
 母が餓鬼道に墜ちた事を知り、宿業を自ら自覚した目犍連は「病の相」を我々に示しているといえる。須菩提は解空第一。空理に通じている所から
 「死の相」の生命を表している。ともかく四大声聞が授記を受けたとは、そいうした生老病死が妙法のリズムによって、本然的に転換した事を意味していると
 読まなければ、授記の本義は解らないと、再度申し上げておきたい。

  従って、大聖人は「法華に来つて生老病死の四相を四大声聞と顕したり是れ即ち八相作仏なり」(P.731 ①) と結論づけられるのである。
 ここにいう八相作仏とは、仏が応身、あるいは化身を現じて、作仏を中心とする八種の相を示して教化する事をいう。八相とは下天、託胎、出胎、出家、
 降魔、成道(作仏)、転法輪、入涅槃である。これは仏の一生の姿であるが、われわれの生命もまた妙法を根底とする事により、生老病死の四相が即、
 八相作仏と現ずるのである。また「諸法実相の振舞いなりと記を授くるなり」(P.731 ②) と。すなわち我々の行動、振舞いというものは、全て諸法実相を
 現じていく事になるのである。

97 美髯公 :2013/10/14(月) 23:19:33

   『南無妙法蓮華経の授記』

  更に「妙法の授記なるが故に法界の授記なり蓮華の授記なるが故に法界清浄なり経の授記なるが故に衆生の語言音声は三世常恒の授記なり」(P.731 ②) と、
 南無妙法蓮華経という生命の上に現れてくる授記の特性を述べられている。まず、妙法とは諸法実相であり、従って全世界を含んでいる。あらゆる現象の
 根本原理である。それを我我が授けられた故に「法界の授記なり」となる。蓮華とは、清浄、因果倶時等の意義があるが、ここでは清浄という特質から
 述べられている。如蓮華在水、または淤泥不染である。このなかで泥中にあって染まらずとは、この場合、“染まらず”に重点が置かれているのではなく、
 “泥中にあって”に重点が置かれている事に注意を要する。全てを含んだ上での不染であるという事だ。一切を含んだ上で、それをどう生かしていくか、
 価値創造していくかという生命の働きを清浄というのである。

 経とは一切世間の語言音声という意味と、三世常恒という意味がある。語言音声は人間の一切の振舞いを代表されている。語言音声によって、我々は生命を
 通じ合って行く事が出来るし、活動していく事ができる。同時に、経には時間的な流れを含んでいる事から三世常恒、つまり単なる一生の授記といった
 ものではなく、三世に渡って永遠不変の授記である。「在在諸仏度常世師倶生」とあるように、未来においてもまた同様に授記を受けて行く事が出来るのである。
 そして最後に、大聖人は「唯一言に授記すべき南無妙法蓮華経なり云云」と、結んでおられる。つまり、法界の授記、清浄の授記、三世常恒の授記、
 それらを一言に「南無妙法蓮華経」として受けているのであると仰せなのである。

 これは余談になるが、仏が声聞に対して成仏の記別を与えるのは法華経に於いてのみである。爾前経にも、菩薩、善人等の授記はあるが、声聞に対する
 それはない。この事は、法華経の重要な法門の一つである二乗作仏を示しているが、二乗作仏が明かされて初めて十界互具、一念三千が完結する。
 つまり、十界互具という限り、声聞、縁覚の二乗の生命は十界それぞれの生命に備わっており、二乗が作仏出来ないという事になれば、十界全てが作仏
 出来ない事になる。それ故に、四大声聞に授記を与えたという、この授記品のもつ意義は、生命論の上からも実に大きいものがある事を付記しておく。

98 美髯公 :2013/10/15(火) 22:21:29

                             = 十一、「宝塔の事」について =

  宝塔とは、七宝 (金、銀、瑠璃、硨磲、碼碯、真珠、玫瑰) をもって荘厳した多宝塔の事である。法華経見宝塔品第十一では、その冒頭で次のように、
 宝塔涌現の模様を描写している。すなわち、「爾の時に仏前に七宝の塔あり。高さ五百由旬、縦広二百五十由旬なり。地より涌出して、空中に住在す。
 種種の宝物をもって、之を荘校せり」と。
 
 この経文より明らかな如く、その大きさは、高さ五百由旬、縦横二百五十由旬となっている。これがどの位の大きさになるかといえば、色々な説が
 考えられるが、一由旬を最小にとれば、地球の直径の四分の一位、最大にとれば、地球の直径の大きさになるのである。ともかく、こんな巨大な宝塔が、
 大地から涌現し、空中にかかったというのである。この宝塔がどこから来たかといえば、東方の宝浄世界から来たのである。また、この宝塔には多宝如来が
 中にいて、突然、大音声を発して、次のようにいう。「善い哉善い哉釈迦牟尼世尊、能く平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法蓮華経を以って、大衆の為に
 説きたもう、是の如し、是の如し、釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」と。つまり、釈迦がそれまで説いてきた法華経の教えは、全て真実で
 あるとの証明をしたのである。しかし、この時の大音声は“閉塔”といって、宝塔が閉じられたままであった。

 一座の大衆は、突然、虚空にかかった大宝塔といい、その宝塔から発せられた大音声といい、あまりにも衝撃的な出来事に、驚天動地した事はいうまでもない。
 この大衆の疑心を察知した大楽説菩薩は、釈迦に、宝塔の中の多宝如来を見たいと願った時、釈迦は、その願いを叶えるたまに、有名な三変土田を行ない、
 十方分身の諸仏を結集した。その後に、釈迦自ら、座より起って虚空の中に住し、宝塔を開くのである。「是に釈迦牟尼仏、右の指を以って七宝塔の戸を
 開きたもう。大音声を出すこと、関鑰を却けて大城の門を開くが如し」と、経文では描写している。

99 美髯公 :2013/10/16(水) 22:31:14

  そして、有名な二仏並座の段に入るのであるが、その模様は次のように述べられている。
 「爾の時に多宝仏、宝塔の中に於いて、半座を分ち、釈迦牟尼仏に与えて、是の言を作したまわく、釈迦牟尼仏、此の座に就きたもうべし。即時に釈迦牟尼仏、
 其の塔中に入り、其の半座に坐して、結跏趺坐したもう」と。
 この二仏並座の姿を見上げていた一座の大衆が、心の中で、「仏が高遠に坐しているが故に、我々も、ともに虚空に住したい」と願ったので、釈迦は直ちに
 神通力をもって、大衆を皆、虚空にひき上げたのである。ここに荘厳な儀式の場が整って、いよいよ三箇の勅宣の説法が始まり、虚空会の儀式が展開する。

 この宝塔出現の意義について、天台大師が、証前・起後の二つがあると説いたのは有名である。証前とは、宝浄世界から来た多宝如来が迹門の真実を
 証明する事であり、起後とは、後の本門を説く起こりになるという事である。
 以上、宝塔並びに宝塔品について、その大要を述べてきたが、これは、御義口伝「宝塔品二十箇の大事」を理解する上での基本となる事柄である。
 これを踏まえて、まず御義口伝の「第一 宝塔の事」に入りたい。

  まず、「文句の八に云く前仏已に居し今仏並に座す当仏も亦然なりと」(P.739 ⑫) とある。
 “前仏已に居し”とは、宝塔にすでに坐していた多宝仏をいい、“当仏も亦然なり”とは、十方分身の諸仏をいう、つまり、宝塔品は、釈迦・多宝・
 十方分身の諸仏が集まった荘厳な儀式であると、天台は述べているのである。さて、一体、このような儀式が何を意味するのであろうか。まさか、釈迦が
 これを現実のものとして説いたのではない事は明らかである。何かを表そうとして説いたのに違いない。

100 美髯公 :2013/10/17(木) 23:08:48

  戸田前会長はこの“宝塔の儀式”について、「開目抄」の講義録の下巻で、次のように展開されている。
 「迹門の流通分たる宝塔品において、多宝塔が虚空にたち、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中に並座し、十方分身の諸仏、迹化他方の大菩薩・二乗・人天等が
 これにつらなるいわゆる虚空会の儀式が説かれている。これは一面から考えればはなはだ非科学的のように思われるが、仏法の奥底よりこれを見るならば、
 きわめて自然の儀式である。もしこれを疑うならば、序品の時にすでに大不思議がある。数十万の菩薩や声聞や十界の衆生がことごとく集まって釈迦仏の
 説法を聞くようになっているが、はたしてこんなことができるかどうか。スピ−カ−もなければまたそんな大きな声が出るわけがない。
 
 すなわちこれは釈尊己心の衆生であり、釈尊己心の十界であるから、何十万集まったと言っても不思議はないのである。
 されば宝塔品の儀式も観心のの上に展開された儀式である。われわれの生命には仏界という大不思議の生命が冥伏している。この生命の力および状態は
 想像もおよばなければ、筆舌にも尽くせない。しかし、これをわれわれの生命体の上に具現することはできる。現実にわれわれの生命それ自体も冥伏せる
 仏界を具現できるのだと説き示したのが、この宝塔品の儀式である。」
 
 すなわち、私達の生命の中には、仏界という生命が冥伏している。しかし、この生命の力の及び状態というものは、想像も及ばない。文字で表す事も
 困難である。この文字で表せない、到底、筆舌に尽くしがたい仏界という生命が、我々衆生の生命に涌現されるという事を、宝塔涌現という形をとって、
 説き顕したと説明されている。従って、空中に宝塔が涌現するというのは、我が己心に、宝塔が涌現するという事になるのである。我が己心、すなわち、
 我が生命自体が虚空であり、大宇宙の縮図である。我が生命に妙法蓮華経という宝塔が涌現する事を、この宝塔品は力説しているのである。

101 美髯公 :2013/10/21(月) 21:39:14

  更に戸田前会長は、次のように講義されている。すなわち、
 「釈尊は宝塔の儀式をもって、己心の十界互具、一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の
 御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそおれ、大聖人己心の十界互具一念三千 ― 本仏の御生命である」と。
 私自身、十代後半期に、宝塔品が解らず苦しんだ事があった。そんな時、この宝塔とは末法に於いては御本尊であり、御本仏の生命であるとの戸田前会長の
 講義を読んで、まさに電撃的な感動を受けた事を、未だに鮮かに記憶している。

  宝塔について、同じ様に疑問に思った人が、実は七百年前にも居たのである。それは、有名な阿仏房という人で、日蓮大聖人が佐渡流罪中に弟子になって、
 純真な心で日蓮大聖人に仕えた人である。阿仏房は、「一体、あの様な宝塔の儀式は、何を表しているのでしょうか」と、大聖人にお尋ねした。
 それに対する答えは、釈尊の説法を聞いた声聞が「法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり」とされ、更に「今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、
 末法に入つて法華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして
 我が身又多宝如来なり」(P.1304 ⑥) というものであった。また「然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」(P.1304 ⑨) と
 いわれ、別世界に宝塔があるのではない。阿仏房あなた自身の生命が宝塔なのだ、と答えられている。

  さて御義口伝では、この宝塔についてどのように説かれているのか。本文を見ると「宝とは五陰なり塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり」(P.739 ⑫)
 とある。
 まず、宝塔の「宝」には、五陰という意味がある。五陰とは、色・受・想・行・識の五つの陰であることはいうまでもない。この内、「色」は色法、「受」
 「想」 「行」 「識」が心法になる。それ故、五陰は色心不二の生命を、五つの角度から立て分けたものという事になる。最初に「色陰」であるが、この“色”は
 「いろ」とか「かたち」とをもって存在している事物全般を指している。現代的にいえば、物質的存在であり、我々の生命でいえば肉体を意味している。
 また、これを「色法」ともいうのは、肉体も物質も、全て“法”に従って出来上がっているからである。たとえば、我々の、眼、手足などが、ある一定の
 秩序と法則を持って、我々の肉体を構成しているのも、“法”に則っているからである。それ故に“色法”というのである。更に「色陰」の“陰”には
 “集まる”という意味がある。つまり、我々の肉体も物質も、様々なものが集まって、出来上がっているという事である。

102 美髯公 :2013/10/22(火) 22:17:47

 私は、この“陰”という言葉の中に、仏法の卓越したものの見方がよく現れていると思う。肉体も物質も、共に様々なものが集まり離合集散しつつ、「いろ」と
 「かたち」を持った我々の知覚できる存在としてあると捉えるのである。その捉え方の中に、全てのものを流れに即して、変化の動きに即して見ていこうと
 する所に仏法のものの見方の特色がある。この点に大いに意を留めていきたいと思う。たとえば、我々の肉体は、瞬間瞬間に新陳代謝や細胞分裂を繰り
 返しながら、しかも一定の「いろ」と「かたち」を維持しつつ、様々な機能を発揮しているのである。

  次に「受陰」とは、“受”には“受け入れる”という意味がある。すなわち、外界にあるものを生命に受け入れていく事である。現代的にいえば、
 感覚、知覚、感情などの言葉が、この「受陰」の中に入る。厳密に言えば、感覚、知覚、感情のそれぞれの意味は異なるのであるが、仏法においては
 「受」の集まりとして一括して捉えるのである。逆にいえば、今日でいう感覚・知覚・感情などの機能が集まったものが、外界を受け入れる「受陰」の
 意味なのである。

  次に「想陰」であるが、これは「受」で受け入れたものをイメ−ジとして思い描く働きをいう。今日でいう、表象や想像などがこれにあたる。
 たとえば、美しい景色を見てこれを心の中に受け入れると、そこに何らかの感情が起こる。これが「受陰」である。ところが、我々の精神活動は、これだけに
 尽きない。景色を見て受け入れた事が縁となって、様々な方面に活動する。かつて似たような景色を見た事を記憶の中から呼び覚ましたり、将来もっと
 美しい景色を見れる場所に行こうと考えたり、流れる雲を見て幼き日を回想したり、まさに様々な想いが次から次へと飛び交うであろう。
 これ「想陰」なのである。

  また「行陰」は、想いから起こる行動への意志である。心の中で従って行くか背いて行くか、向かうか退くかなど行動を起こす前の様々な心の働きを
 行陰というのである。
 最後に「識陰」というのは、受・想・行を起こす根本の意識をいうのである。“識”は思慮分別の働きの事をいう。
 但し、仏法でいう“識”は、我々が通常使用している意識という言葉よりも、もっと深い意識下の世界を含めていっているのである。それ故、五陰でいう
 「識陰」は、六識、七識、八識、九識までを含んでいる。従って、思慮分別やその他様々なその人の傾向性などの集まったものとして「識陰」というのである。

103 美髯公 :2013/10/23(水) 21:28:11

  さて、五陰のそれぞれの説明は以上の通りであるが、「塔とは和合なり五陰和合を以て宝塔と云うなり」(P.739 ⑫) とある通り、人間をはじめ、生命と
 いうものは全部この五陰が和合していなければならない。五陰和合が生命成立の条件である。「色陰」の物質だけでは生命とはいえない。これに、受・想・
 行・識が和合して初めて“宝塔”すなわち尊厳なる生命となるのである。この事は、最近の科学が明らかにした「生命の起源」 「生命の発生過程」にも
 該当する点が多く、興味深い。

  地球において生命が誕生していったその過程は、まず色陰が最初であったといえる。やがて、それが外界のものに対して受陰、受け入れるという働きや、
 外界に反応するという想陰・行陰を生み出し、やがて識陰を持つものへと進化していったに違いない。この識陰が形成される事により、一つの生命体としての
 昇華が起こったものと思われる。このように見てくると、仏法の五陰という考え方は、現代の科学的成果をも包含してあまりある、卓越した発想法を
 持っているように思えてならない。私は科学者ではないので専門家から見れば、かなり大雑把な言い方であろうが、仏法の如実知見したものの捉え方が、
 いかに深遠な哲学的内容をはらんでいるかを認識する一助になればよいと思っている。

  さて、角度を変えて、我々の生活の場面における具体的事例に則して、五陰を捉えてみたい。現実の生活、活動に於いて五陰の和合した衆生の根本は、
 いうまでもなく「識陰」である。なぜなら、人間が行動を起こす場合は、まず思慮分別から始まるからである。つまり、対象を思慮し判断して、対象に
 何らかの意味を持たせ、それを縁として行動を起こすのである。その次に「受陰」が働く。対象の持っている意味を考えないで、受容する事はない。
 例えば、路傍に花が咲いているとする。その花を見た時に、家に飾りたいとか病気の人に上げたいなどと、様々な意味を感じる。その次に、受陰が起こる。
 受陰は、花の匂いをかいだり、美しさに見とれたりしている状態である。次々、「想陰」が起こる。その花を部屋に飾った時の様子や見舞いに花を上げた時の
 病人の嬉しそうな顔などを想像して自らの行動の輪郭を描くのが想陰である。

104 美髯公 :2013/10/24(木) 19:52:09

 次に「行陰」すなわち、花を今にも採ろうとする心が働く。同時に、誰かに見つけられて怒られるかも知れないと考えて、止めようとの心も働く。
 つまり、先ほど述べた、向かうか退くか、従うか背くか、の心が働くのが行陰である。そして、この行陰から「色陰」が出てくるのである。
 天台大師は「色は行によって感ずる」という意味の事を述べている。つまり、たとえば、その花を採ろうと思ったり、止めようと思ったりする一瞬の
 行陰によて、色陰即肉体の行動を実感するという事である。つまり、行の中に、その人の動かんとする決意の中に、すでに行動があるという事である。
 これは、信心の場合に於いても同じことである。座談の場に行こうか退こうか ― この一瞬の行陰が、実は自分の行動を決めているのである。
 以上、種々の角度から、色・受・想・行・識について論じてきたが、ともかく、五陰が和合して衆生の生命の運行があるのであり、生命それ自体が宝塔に
 他ならないのである。

  日蓮大聖人の仏法は生命論であり、人間の仏法である。汝自身の生命に、我が胸中にこそ宝塔があると説いた生きた法門なのである。それを、経文上の
 事と思って、自らの人生と無関係な事と考えたり、何か非現実的なものとみなしたりすると、大変な誤りを犯す事になる。大聖人の仏法をこのように、
 真実の人間の仏法、生命論として明確に位置づけたのは、申すまでもなく恩師戸田城聖先生である。「仏とは生命なんだ」との、あの獄中の悟達から仏法の
 生命論的な展開が始まった事を我々は改めて銘記したい。

  次に「此の五陰和合とは妙法の五字なりと見る」(P.739 ⑫) とある。これが「見宝塔」という事である。
 この「見る」という点が大事である。我々の立場からいえば「見る」とは「信心」と約すのである。すなわち信心によって、我が生命が妙法の当体である
 事を見るのである。「御義口伝」の宝塔品の項の直前に「恒沙の仏を見る」という所がある。ここにも「見」とある。そして、「見」について「見の字之を
 思う可し仏見と云う事なり」(P.739 ⑨) と説明されている。すなわち、見宝塔の「見」とは、仏の知見という事である。では、我々における仏の知見とは、
 一体何か。結論から言えば、仏知見とは信心に他ならない。信心が即悟達なのである。従って、御本尊に向かって題目を唱える ― その時、汝自身の
 生命=宝塔の中に、釈迦・多宝の二仏は並坐するに違いない。同時に、十方分身の諸仏も涌現するに違いない。否、本門の儀式をもってすれば六万恒河沙の
 菩薩が涌現するのである。また、迹化の菩薩等も涌現するのである。

  この我が生命の荘厳なる儀式を見る事を「見」というのである。それ故に「見」とは、ただ信心の二字以外にないのである。この御本尊に向かって題目を
 唱えるという事が、それほど荘厳な儀式である事を、改めて慈覚していきたいものである。

105 美髯公 :2013/10/25(金) 23:01:00

                            = 十二、「有七宝の事」について =

  次に「第二 有七宝の事」についての講義に移りたい。
 この宝塔品に説かれた宝塔は、その四面がいたるところ七宝で飾られている。七宝とは先に述べた通り、金、銀、瑠璃、硨磲、碼碯、真珠、玫瑰という
 輝くばかりの宝物である。当時、最高に価値ある物とされていたに違いない。しかし、もはや宝塔そのものが生命の中にあるものであってみれば、七宝も
 生命を飾る宝として捉えていかなくてはならない。

  そこで日蓮大聖人は「七宝とは聞・信・戒・常・進・捨・慙なり」(P.739 ⑯) と仰せになっているのである。
 金、銀等の宝が“世間”における財宝であるのに対し、聞、信等は“出世間”における七宝なのである。従って、この七宝は七法財といわれ、仏道修行の
 上で不可欠の要件とされている。

  「聞」とは「聞法」の事であり、正しい仏法を聞く事を意味している。釈尊の弟子は「声聞」といわれたが、その本来の意味は「仏の声を聞く人」と
 いう事である。仏の説法を聞いて発心をし、修行をし菩提への道を歩んだのである。釈尊滅後、弟子達がその金言を「如是我聞」といって経典として
 後世に伝えた事はあまりにも有名である。「如是我聞」の「聞」が深い意義をはらんでいる事は、序品の「第一 如是我聞の事」で述べてので参照して
 いただきたい。また「一念三千法門」に「此の娑婆世界は耳根得道の国なり以前に申す如く当知身土と云云、一切衆生の身に百界千如・三千世間を
 納むる謂を明が故に是を耳に触るる一切衆生は功徳を得る衆生なり」(P.415 ⑬) と述べられている。

 つまり、我々の住む現実の娑婆世界は、耳で一念三千の法門を聞く事によって成仏得道できる国土世間であるということである。従って成仏の教えを
 説き明かした法華経では「聞」の重要性が随所に述べられている。たとえば法師品にいわく「是の諸の化人、法を聞いて信受し随順して逆わじ」と。
 同じく法師品にいわく「法華経を聞かずんば仏智を去ること甚だ遠し」と。このように仏道修行の第一歩が「聞」から始まる事は明らかである。
 我々もまた日蓮大聖人の仏法を知り得たのは、座談の場であり、仏法対話の場であった。耳から聞いた未聞の哲理の光が、暗愚の生命にさしこむ事によって、
 我々は信心の心を発くことができたのである。すなわち「聞法」は次の「信受」へと向かうのである。

106 美髯公 :2013/10/27(日) 23:24:09

 法華経で最も強調されているのはこの「信」という事である。また日蓮大聖人も「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、
 信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(P.1244 ⑭) と仰せのように、「信」こそ仏法実践の根本の在り方であり、成仏の要諦であると
 教示されている。このように法華経や大聖人の仏法で「信」が強調されている背景には、この法を信ずる人を絶対に欺かない哲理としての確信がそこに
 貫かれているからである。日寛上人の「三重秘伝抄」には「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界という」とあるように、妙法を信じる心が、仏法を
 開くのであり、これこそ我が生命を飾る至高の宝にほかならない。

  次に「聞」とは、防非止悪の義 (非を防ぎ悪を止める) で、仏法を修行する者の守るべき規範の事である。戒の内容は経典により差異があり、
 複雑多岐にわたっているが、大きく分ければ小乗戒と大乗戒になる。小乗の戒は外からの規制によって苦の因となっている煩悩を滅しようとするものであるが、
 大乗の戒は小乗戒のように罰則の規制を設けず、自律、自主、利他の精神を内容としている。更に末法に於いては、受持即持戒といって、南無妙法蓮華経の
 御本尊を受持する事が、そのまま防非止悪の戒の本義を成就する事になるのである。

  「定」とは「禅定」の事で、心を一処に定め雑念を払い、安定した境地に立つ事である。そのような不動の境地はどのようにして体得されるかというと、
 御本尊への微動だにしない信心に立つ事によってである。御本尊に帰命しきった人は、いかなる風波があろうとも揺るがない安定そのものの境地となって
 いるのである。
 
  「進」とは「精進」の意である。「依義判文抄」に「無雑の故に精、無間の故に進」と述べられている。すなわち、自身の一生成仏と広宣流布を目指し、
 余事を雑えない信心で常に成長と前進を続けて行く事である。この間断のない向上への一念が魔を断破し生命を法性へと近づけるのである。
 「聖人御難事」の「月月・日日につより給え・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(P.1190 ⑪) との御文を己が生命に刻印したい。

107 美髯公 :2013/10/28(月) 22:31:49

  「捨」とは、一往はこの身を仏法のために「捨てる」という意である。だが、日蓮大聖人はもう一歩深い境地の上から「御義口伝」に「是の身を捨てて
 仏に成ると云うは権門の意なり」(P.731 ⑬) と仰せになり、真実の「捨」とは「此の身を捨(ほどこ)す」と読まなければならないと教えられているのである。
 自己に対する執着を捨てて、他者の苦しみと同苦し他者の幸福のために自分の命を施して行く利他の戦いが「捨」なのである。これが大乗仏法の骨髄であり、
 地涌の菩薩の生き方なのである。

  「慙」とは「慙愧」の事で、自ら造った罪業を恥じるという事である。この「慙愧」について涅槃経には三つの意義が説かれている。
 一つは、自ら罪を造らない事を慙とし、他を教えて罪を造らせない事を愧とする。
 二つは、内心で自らの非を恥じる事を慙とし、自らの非を発露して恥じる事を愧とする。
 三つは、人に対して恥じる事を慙とし、天に対して恥じる事を愧とする。
 そしてこの「慙愧」のないものは、もはや人とはいえず畜生であるという。逆に「慙愧」がある故に、父母師長を尊敬するという最も人間らしい心が
 触発され、我が身を飾るのである。

  「曾谷殿御返事」(P.1056 ③) には「法華文句」の「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり」との文を引かれ、
 仏法の道理を知り得ない自己の未熟さを恥じる僧は有羞の僧であり、その恥じる心を持った僧こそ真実の僧であると述べられている。
 仏法の道理はいかなる声聞の智慧をもってしても知る能わざる所のものである。その道理を自分のものとするために、絶えず自己の信心を省みて、自己を
 変革していかなければならない。そこにはじめて偉大な成長が遂げられるのである。故にこの「慙」という姿勢もまたわが生命を飾る宝といえる。

  以上のように、根本的には「聞・信・戒・常・進・捨・慙」の七法財は、仏道修行の上で心すべき内容をいっているわけだが、更に広い意味でいえば、
 この七つの宝は人間として備えるべき七つの条件ではないか、とも考えられる。人間革命への過程は、必ずこの七つを経ているからである。
 そこで、今度は「聞・信・戒・常・進・捨・慙」の七法財に、人間が人間であるための七条件という視座から光をあてて考えていきたい。

108 美髯公 :2013/10/29(火) 23:45:12

  「聞」とは、文字通り人の言葉を「聞く」という事である。人類の歴史の上からみても「初めに言葉ありき」といわれているように、人間の意思として
 最初に表現されたのは言葉であって文字ではない。また「御義口伝」には「経とは一切衆生の言語音声を経と云うなり、釈に云く声仏事を為す之を名けて
 経と為す」(P.708 ⑨) とまで仰せになっているのである。人々の苦しみの声、喜びの声、希望に満ちた声は勿論の事、一賢哲の言動も、一凡愚の叫びも
 悉く経文なのである。それらの「経」の高低は別として、ともかく一切衆生の言語音声を聞く事が出来るということは、自己の生命の中に様々な人々の考え、
 発想を受け入れる事が出来ることを意味している。そして、それらを正しく価値判断し、人生の智慧として活用していけるのである。もし、人の言葉に
 耳を傾けようとしなかったらどうなるだろうか。その人は我慢偏執の虜となり、独善的で協調性のない不幸な人間になってしまう事であろう。
 自己の狭い信条に囚われた頑固さは、人間としての成長を図る上で決してプラスにはならないのである。

  また「信」とは、人間への信、生命への信である。この人間と人間との間が、信に貫かれていることほど尊いものはない。
 また逆にいば、何も信じられなくなった人は最高に不幸な人といえる。太宰治の『走れメロス』は、二人の友人の揺るぎない信が、人間不信に陥った絶対者の
 醜悪な心までも覚醒させてしまう力を備えた最高な行為である事を描いたものである。ところが現代社会はどうか ― 砂漠のような人間関係が広がっている。
 それは人間への信が失われているからにほかならない。「信」という字は「人の言」と書く。信とは疑わないという事と同時に、真実の言葉を述べるという
 意味を持っているのである。つまり「信」の字は、人の言葉は信ずるに足ものでなければならないという事を意味しているといえる。

 現代人が信を失っているという事は、真実を言わず欺く人が、あまりに多くなったということを示している。だが仏法では、そのような言葉を発する五識の
 奥に第九識という尊厳な生命の世界が広がっている事を説いている。それを知っているが故に、我等は根本的に人間を信じ、生命変革の絶え間ない作業に
 挑んでいるのである。このように「信」という行為は、他人の存在を認め畏敬することである。人は一人で存在しているのではない。人と人とが依り合い
 支え合ってこそ人間は人間として生きる事が出来る。この他人の存在を認め、協調していくという信頼関係を復活することが今日ほど求められる時はあるまい。

109 美髯公 :2013/10/30(水) 21:33:59

  「戒」とは、自分自身を律し、節度ある生活を行なっていく事が出来るということである。外から抑圧的に規制するのではなく、本来そなえている本能や
 欲望を正しくコントロ−ルしていける主体性をいうのである。この「戒」を失えば、動物のように本能のままに生きる卑しい存在に堕してしまうだろう。
 
  また「定」とは、人生に根本的な安定感があるという事である。いかなる峻烈な風雪にもびくともしない大樹のように、根本的な人生の基盤があると
 いうことである。あるいは、前途に対して確かな目的観を持つ事の必要性を説いているともいえる。安定した人生観、目的観を持たない人の人生は、
 あたかも波間に漂う浮き草のように儚い人生である。それは人間として生きているのではなく、死なないでいるだけの存在である。これは「定」の欠落と
 いえよう。

  次に「進」とは、向上心を持ち、常に前進していこうとする姿勢である。人間の人間たる所以は、向上し成長している所にあるといえる。肉体的な成長は
 ある年齢にくれば停止するが、生命はどこまでも成長させる事が出来るのである。どんなに高齢になっても、自身を成長させようとして仕事に取り組み、
 何かを学び取ろうとしている姿には凛とした崇高さが漂っているものである。

  「捨」とは、自分だけの狭い殻に閉じこもるのではなく、人々のため、社会のために自分の命を使い、燃焼させる事である。人は、何か自分の生命を
 賭けて生きているものである。財物に、社会的地位に、趣味やスポ−ツ等に、これらの対象に生命を燃焼させている時は、なんらかの充実感を味わうかも
 知れない。しかし、それは相対の幸福であって絶対の幸福とはいえないのである。所詮、自己のエゴを満足させ、自分自身の小さい殻の中に閉じこもって
 居るに過ぎない。自己の生命を民衆の幸せのために使っていくことによって、自らの生命を拡大させ生命的財産を積む事が可能となるのである。

  「慙」とは、自分を省みるという事であり、これも人間の重要な特質である。これは単なる過去への反省ではなく、未来への飛躍を込めた強い自覚を
 ともなった姿勢なのである。またこの「慙」とは、他人を意識した“恥”ではなく、本当に自分自身を省みて誓願を起し、更に自己を深めていこうとする
 強い決意、また実践に移そうという決断力ともいえる。従って「慙(は)じる」というのは、弱々しい愚癡ではない。愚癡は祈りもなく、自分の弱さを
 他人に表明する姿に過ぎない。この「慙」というのは、御本尊に自己を反省し、祈り、行動して行く事なのである。こうして順次みていくならば、
 これらの七つの宝の価値を知り、十分に使いこなしていない人が多いように思う。現代社会を覆う様々な矛盾、問題点が、人々が人間として自身を
 錬磨しようとする努力を失っている所に起因している事をみれば、七宝のもつ意義には測り知れないものがある。

111 美髯公 :2013/11/01(金) 21:16:04

  「御義口伝」には「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり」(P.739 ⑮) と結論されている。これは南無妙法蓮華経の一法を持ち、
 実践する人に七宝の価値を使いこなす力が涌現してくるというのである。いかに七宝を持っていても、信心がなければそれは生かされない。このように
 日蓮大聖人の仏法においては、七宝を単に理念として、生命を飾るものとしていっているのではなく、生命の尊厳を事実の上で開き示していく実践規範
 として展開されているのである。

  「又云く頭上の七穴なり」(P.739 ⑮) とは、我々の身体に約して七宝を述べられている所である。二つの目、二つの耳、二つの鼻の穴、一つの口と
 あらわれている頭上の七穴が実は七つの宝なのである。聞くという働きを備えた耳根はいうまでもなく、見る働きを持った眼眼、においを嗅ぐ働きを
 持った鼻根、飲食物を受け入れる口等は、人間が生きる上で、また価値創造していく上で重要な役割を果たしている。まさに、頭上の七穴は宝である。

112 美髯公 :2013/11/03(日) 20:24:18

                        = 十三、「如却関鑰開大城門の事」について =

  宝塔品に「釈迦牟尼仏、右の指を以って七宝塔の戸を開きたもう、大音声を出すこと、関鑰を却けて大城の門を開くが如し」とある。
 ここにいう「関」とは「かんぬき」の事であり「鑰」とは錠前(鍵)の事である。つまり、釈尊が七宝塔を開いたさまは、ちょうど大城の門をかんぬきを
 外して、扉を開けた時のように、大きな音がしたというのである。それでは、釈尊はここで何を説き明かそうとしたのであろうか。宋の従義の著といわれる
 「法華三大部補註」には「此の開塔見仏は蓋し所表有るなり」として、次のようにある。「何となれば即ち開塔は即開権なり。見仏は即顕実なり。是亦前を
 証し、復将に後を起さんとするのみ。如却関鑰とは、却は除なり、障除こり機動くことを表す。謂く、法身の大士惑を破し理を顕し、道を増し生を損するなり」

  まず「開塔」は「開権」を、「見仏」は「顕実」を表す。法華経の流れからいえば、先の法師品から引き続いて弘教の功徳を説き流通を勧めてきたが、
 当品において七宝の塔が大地より涌出し、塔中から多宝如来の「釈迦牟尼世尊、所説の如きは皆是れ真実」という称賛の大音声が聞こえてくる。
 この段階では、宝塔はまだ閉じられたままである。その後、宝塔が開かれ釈尊が中に入り、多宝如来と“二仏並座”し、やがて本門の説法へと展開して
 いくのである。従って、爾前迹門の「権」を開いて、法華経本門の「実」を表すという深意が「開塔・見仏」に含まれている。「阿仏房御書」に「閉塔は
 迹門・開塔は本門」(P.1304 ④) とある通りである。そして、これは“証前起後”のために説かれたものである。つまり、七宝塔の出現の儀式には「前を
 証し」 「後を起こす」の二意がある。「前を証し」とは、多宝如来が「皆是れ真実」と大音声を放ち、法華経迹門の教説が真実であると証した事であり、
 「後を起こす」とは、後の本門寿量を説き起こすための遠序である事を意味している。

  「法華文句」には「此の塔は正しく前を証し後を請せんが為に地より涌出す」とある。更に証前については「三周の説法は皆是れ真実なるを証す」とあり、
 起後については「若し塔を開せんと欲せば、須らく分身を集め玄を明かして付嘱すべし、声は下方に徹し、本の弟子を召して寿量を論ず」とある。
 この点からすれば、宝塔を開くという事は法華経における重大な意があるとみなければならない。それは、迹門から本門へと転ずる転機といってさしつかえない。
 しかし、それは単に法華経という教説の展開上の問題ではなく、滅後末法に於いて大聖人が御本尊を図顕する起点として、この儀式を読まれたことに
 留意しなければならない。ここに“起後”の宝塔の真意がある。更に広くいえば、理として我々の生命に仏界という生命が内在していると知る段階(迹門)から、
 その仏界が事実の上に偉大な働きとして表われた段階(本門)への大回転は、その根源の力たる御本尊への深き信と真剣な祈りによって、初めて可能となる
 ことはいうまでもない。

113 美髯公 :2013/11/05(火) 21:54:31

  次に「如却関鑰」について、ここに「却」というのは「除」の意であり「障除こり機動く」ことを表わしている。つまり、自身の生命に仏界を涌現するのに
 妨げとなる種々の障害を除き、成仏の機根になる事をいう。例えば、悩み苦しんで御本尊に祈った、その時、自身の根底の迷いに気づき、不動の人生に
 立つ事が出来たとする。それはまさに「障除こり機動く」に当たる。「機」とは生命の波動である。更に「却」について類例を挙げるなら「法身の大士
 惑を破し理を顕し、道を増し生を損するなり」と。つまり、法身の菩薩が、さまざまな惑を破し、道理を顕わし、また中道の知恵に生き抜き、変易の
 生死を損減させていく姿が「却」に当たるというわけである。大士とは菩薩の事。そして「道を増し生を損する」とは「法華文句」に「道を高に増し、
 生を尽に損す」ともあるように、道増損生の事をいう。道とは中道の知恵であり、生とは変易の生死をいう。

 「三世諸仏総勘文教相廃立」には次のようにある。
 「下位を捨つるを死と云う上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば
 十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず故に生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり」(P.571 ⑦)
 変易の生死とは、二乗・菩薩の苦しみ、迷いの事であるが、それは観念の妄執と考えてよい。死の絶望感に取り憑かれたり、人間生命に本来的に備わった
 煩悩の罪悪感に取り憑かれたりして、自らを観念の世界に縛ってしまい動きがとれない状態を、我々もよく経験するが、これなども変易の生死に
 当たるのではないか。

  最近、こんな体験を聞いた。仮りにAさんとしておこう。家族の病気や事業の失敗などが重なって、Aさんは絶望状態に陥った。あれやこれやと
 考えるのだが八方塞がりでどうしようもない。眠れないままに、御本尊に向かい題目を唱えていた。夏の事だったので窓を開けていた。午前四時頃に
 なると、真っ暗だった周囲が次第に白みかける。それまで闇の中に溶け込んでいた樹木や草花が、はっきりと形を見せ始める。そして、鳥がさえずり、
 活気が伝わって来る。暗から明へ、死から生へ ― 太陽の運行と共に自然・宇宙のリズムは確実に回転している。Aさんは、その悠大で確実なリズムに
 気づいた。たとえ、自身がどのような絶望状況に追い込まれていようとも、その自身を包み込んで宇宙・自然のリズムは回転している。大きな生命の流れの中に
 抱かれている自身を発見したAさんは、頭上を覆っていた絶望の暗雲が一気に晴れたような爽やかさにひたっていた。

114 美髯公 :2013/11/07(木) 22:15:33

 それからのAさんは、絶望に打ちひしがれた重苦しい気持ちで題目を唱えるのではなく、希望に満ちた軽やかな唱題に励んだ。こうしてAさんは、現実の
 問題の一つ一つにに挑戦する勇気を甦らせ、解決に当たっていったのである。これは一人の体験に過ぎないが、Aさんなりの増道損生を果たしたといって
 よいだろう。さまざまな迷いや妄執を破し、自身の人生に目覚めていく ― この人間革命しゆく道程を増道損生といい、それはまさに「関鑰を却ける」事になる。

  さて、日蓮大聖人は、以上のような補註の文を引用した上で、それを更に深く生命論として展開されていくのである。「御義口伝」には次のように
 述べられている。まず「関鑰とは謗法なり無明なり」(P.741 ⑭) と。先に述べた通り「関」はかんぬきであり「鑰」は錠前=鍵の事である。
 それを、大聖人は謗法であり無明であると断じておられる。そして「開とは我等が成仏なり」(P.741 ⑭) と。つまり、謗法や無明を開いていくからこそ、
 我々が成仏するという事を表わしている。煩悩、九界を開いて仏界を顕現していく ― その際の「開」とは、信心の二字なのである。
 逆に閉じたままというのは、成仏に向かっていない、また妙法に向かっていない、無明、謗法の中にまだ眠っている。この眠りを打ち破って、
 開いていく所に成仏がある。ところで、この「開」という発想は、実に重要であると思う。自分自身の中にあるものを開いていく、つまり自身の生命の
 中に存在する仏の生命を開いていくという事であるが、こうした発想は西洋の哲学や宗教には見当たらない。

  次に「大城門とは我等が色心の二法なり大城とは色法なり門とはロなり」(P.741 ⑭) と仰せになっている。すなわち「大城門」とは、我々の生命それ
 自体であると読まれている。「門とはロなり」とは、我々の色法を表現するところのロである。冷たいとか暑いとか、苦しいといった心法を表現するロで
 ある故に「門」であり「心法」を表わしているといえる。ここにおいて明らかなように「大城門を開ける」とは所詮、我々自身の生命を開く事に他ならない。
 「阿仏房御書」に「然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房」(P.1304 ⑨) とあるように、宝塔というも決して我々の生命とは別の世界にあるのではなく、
 一個の人間生命を表わしている。自身が宝塔であり至上の仏性を備えた当体であると覚知する事が仏法であり、それ以外にはない。この比類ない尊厳観に
 立って生命を見る事、それが成仏であり迷えば無明という事になる。

115 美髯公 :2013/11/12(火) 23:02:24

 他の「御義口伝」には「所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(P.787 ⑩) と述べられている。我々が自行化他の仏道修行として
 創価運動に身を挺しているのも、結局は自身の宮殿を磨く人間錬磨の実践なくしては、真実の幸福はありえないからである。いくら外面を飾っても、
 内面がバラックでは仕方がない。「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時無明の惑障劫けて己心の釈迦多宝住するなり」(P.741 ⑮) と仰せの通りで
 ある。更に「関鑰とは無明なり開とは法性なり鑰とは妙の一字なり」(P.787 ⑯) と、重ねて述べられている。ここに「鑰とは妙の一字なり」とある点に
 注意しておきたい。つまり、無明・煩悩の中にこそ、我々が成仏出来る鍵があると断じておられるのである。これは煩悩即菩提、生死即涅槃、無明即法性と、
 生命の大転換を示した仏法の原理である。しかも、その大転換の鍵は「開とは信心の異名なり」(P.716 ⑫) 別の「御義口伝」にあるように、御本尊への
 真剣な祈りと実践にある。

  「法華玄義」には「秘密の奥蔵を発らく、之を称して妙と為す」とある。この文を引かれて大聖人は「謗法不信の関鑰を却けて己心の仏を開くと云う事
 なり」と示されている。つまり「開仏知見」の本意がここにある。所詮「如却関鑰開大城門」というのは、さまざまな謗法不信の関鑰を退けて、己心の仏界を
 涌現しゆく事を示した経文と解せるのである。法華経方便品に「諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ」云々とある。この仏知見を開く鍵は信心以外に
 ない。悩み苦しみの当体かも知れない。しかし、それを開いていく鍵もまた、悩み苦しむ我々の生命の中にある事を知らねばならない。

 また我々は地獄界の門、畜生界の門、餓鬼界の門という、さまざまな門を持っている。全ての門が閉ざされて、地獄界の門だけが開いている場合もあろう。
 そうした中にあって、大城門の幸福の門、つまり仏界を開いていくのは信心なのであると銘記したい。御本尊に向かって題目を唱える時、あらゆる煩悩・
 苦悩を打ち破っていく活力が湧き、大城の門を開く事ができるのである。重く閉ざされた生命の扉を開く。この「閉」から「開」へという展開こそ、仏法の
 主眼がある。「我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり」(P.716 ⑫) と。我々自身の生命こそが妙法の当体であり、尊極無比の
 仏性を備えている当体であると射抜く事 ― それが「開」であり、成仏という事である。こうした視点から仏法を見ていく時に、宝塔の儀式も実に身近な
 ものとなってくる。仏法は決して高遠な哲理の彼方にあるのではなく、我々自身の肉団の中に、最も身近な所にあると分かってくる。

116 美髯公 :2013/11/14(木) 22:05:08

 同時に「貴賤上下をえらばず」一切の人間を七宝塔とみる事ができるかどうか、そうした生命の尊厳に立てるかどうか、が最も重要なのである。今日の
 社会が現世主義に冒されて生命の軽視の風潮に覆われているのを知る時、こうした仏法の生命観がいかに重い意味を持っているかに改めて気づくのである。
 このところ、異常な事件が続発し、しかもその動機が犯罪の凶悪さに比して、余りにも単純な所から、よく“理由なき犯罪”と呼んでいるが、その根因は
 結局の所、自分及び他人の生命の重さを実感できないために起こる、いわば“生命の犯罪”といってよいだろう。生命が病んでいるのである。
 従って、生命それ自体を治療する以外に現代社会の病は治療できない。なればこそ、それはまさしく宗教の分野であり、なかんずく仏法の生命変革の原理に
 立ち戻る以外にないと主張しておきたい。

 我々が展開している創価運動とは、その意味から一人が一人の生命を開く“生命の運動”であり、生命の尊厳観を定着させて行く時代即応の運動であると
 いえる。経済革命、政治革命も必要である。しかし、その根底に人間を人間に即して、生命を生命に即して総体的に捉えながら推し進める人間革命が
 なければ、部分観に陥り徒らに分断と対立を生み、つまる所、生命そのものを軽視する風潮へと流れ込んでしまう事を厳に戒めていきたい。


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