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仏教大学講座講義集に学ぶ 【 日蓮大聖人と法華経 】
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:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/04/17(日) 20:52:19
ところが、本門の久遠実成の発迹顕本によって、その欠点が除去された、つまり「本覚の十界互具」となったというのである。言い換えれば、「無始の本仏」
「無始無終の義」「無始・色心常住の義」「本有の大乗菩薩界」と言った迹門には、欠けていた重要な思想が満足されたと言う事になる。この場合、一往“無始”を
久遠、過去常と言う事にしておこう。なぜなら、にちれんだいしょうにんは、わざわざ“無始”について「但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして
是過去常に非ざるなり」(P.421 ⑯)と述べられているからである。“無始”の意味する内容として、永遠、超時間という言葉を、これまで何度も使用してきた
が、未来常住か過去常かについては、それほど注意せずに用いてきた。しかし、ここに於いて大聖人は、はっきりと未来常住ではなく、過去常でなければならない
と断定されている。
永遠、つまり日常的時間を突破するという点では、既に方便品で、「是の法は法位に住して世間の相常住なり」との説法がある。だが、これは説く仏が始覚である
故に、未来の常住を説いたものに過ぎず、その意味では有始無終と言う事になる。涅槃経に於いても、仏性の常住を説くが、この場合も又未来常住に過ぎない。
更に、一見過去常を思わせる化城喩品の三千塵点劫の説法も、主眼は釈迦が声聞弟子を化導してきた、その始終の因縁を明かす所にあり、説く仏は始成正覚の
ままである。大聖人の言われる“無始”すなわち“過去常”は、あくまで釈迦自身の始成正覚を打ち破って、久遠の過去へと遡り、その上に立っての永遠性で
なければならない。過去常があって未来常住が言われねばならない。それであって、初めて無始無終と言えるのである。さて、「無始無終の義」は仏界常住の
義であり、「無始・色心常住の義」は九界の衆生が常住であると言うことである。
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