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御書研鑽

1 無名人 :2009/10/12(月) 11:30:15
1日20分の御書研鑽、皆さんご一緒しましょう。
御書、1ページ目から始めます。

453 taka :2011/05/21(土) 08:30:37
御書p70・⑱(p89・⑱)       無疑曰信が大善の人生に
設い前に解心無くともこの法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生なり。

通解
たとえ、前もって仏法哲理に対する明らかな理解が無くとも、法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)の教えを聞いてそしることなく、素直に信ずることができるのは、生命に宿っている大善のもたらすところなのである。

拝読の手引き
この御文は、たとえ、仏法に関してはまったくの無知で、その哲学的素養が皆無であっても、御本尊を素直に信受できる人は、大福運の持ち主であり、自らの生命に大善を積みたくわえている人であることを、示されていると拝せます。  この御文の前のところで引用されている法華経、涅槃経の経文にも、法華経信受の人が大善根を積んだ人であることが明示されています。たとえば、法華経法師品には、仏の亡くなった後の世において、法華経の教えをわずかでも聞いて信順し歓喜する人は、かつて、十万億の仏を供養した人である、と述べています。  この経文からも、法華経の真髄である三大秘法の南無妙法蓮華経の大法門を信受できた私達が、文字通り測り知れない「大善」の人であり、大福運の持ち主であることがわかると思います。ここに述べられている「解心」とは、私達の立場でいえば、教学に対する理解、教学力にあたるといえます。  今、御本尊を信受しているほとんどすべての人は「先に解心無く」――まったく教学に対する理解もないままで、ただ自らの内なる大善によって入信できた、といって過言ではないと思います。   ところで、そのように大福運によって入ることのできた信仰の道こそ、自らの幸福建設の直線コースです。そこで忘れてはならないことは、その信仰をより強めていく源泉として「解心」すなわち、教学に対する理解を常に深めていくことがきわめて大事だということです。私達は求道心旺盛に教学を深め、信心を強固にして、内なる福運の水量を、さらに豊かにしていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」477)

454 taka :2011/05/22(日) 07:47:36
御書p70・⑨(p89・⑨)      偶然でない妙法との出あい
法華経流布の国に生まれて此の経の題名を聞き、信を生ずるは宿善の深厚なるに依れり。設い今生は悪人無知なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に、此の経の名を聞いて信を致す者なるが故に悪道に堕せず。

通解
法華経(御本尊)が流布する国に生まれ、法華経の題名を聞いて信を生ずるということは、過去世に積んだ善根が深く厚いことによるのどある。たとえ、今生において、仏法に無知な悪人であっても、必ず過去に善根を積んでいるので、法華経の名を聞き信ずるようになるのである。したがって、その人は悪道におちないのである。

拝読の手引き
私達が、現在、御本尊にめぐりあい、勤行・唱題に励んでいるのは、実に過去世に積んだ善根によっているのであるとの御文です。  凡夫の愚かさから、私達は御本尊との出会いを、まったく人生の途上の単なる偶然や出来事と考えがちですが、そう思っている限り、深い純粋な信心に立脚することはできません。信心というのは、現在の自分が置かれた境遇に対して、どう見るかによって、その厚薄が決まってくるともいえるのではないでしょうか。  御本尊との出あいについても自分を取り巻く、多くの無関心の者や反対者のなかで、こうして、自分だけが受持することができた不思議さを思うべきでしょう。  それまでまったく仏法とは縁遠い環境のなかで生活してきた人(仏法では、これを無知悪人という)であっても、ひとたび仏法の話を聞くや、やがて御本尊を受持し、勤行・唱題に励めるというのは、やはり、過去世に積んだ善根によるのです。また、そう確信するとき、御本尊への深い信仰と感謝の念がこんこんとわいてくるのではないでしょうか。  私達は、忙しい日夜にあっても、この信仰の原点だけはしっかとおさえ、常に帰るべき信仰の”故郷”として、生命の奥深くに持っておきたいものです。そのように心がけるとき、永遠に、四悪道の暗黒の世界におち込むことはないのです。否、それどころか、歓喜と福運に満ちみちた人生が開かれゆくことは火を見るより明らかといえるのです。(文庫本「きょうの発心百選」393)

455 taka :2011/05/23(月) 12:52:42
御書p72・⑥(p91・⑥)      現実の中に築く理想郷
法華涅槃を信ずる行者は余処に求む可きに非ず。此の経を信ずる人の所在の処は即ち浄土なり。

通解
法華経、涅槃経を信ずる行者は、浄土をどこか他の所に求めるべきではないのである。この経(法華経、涅槃経)を信ずる場所こそが浄土なのである。

拝読の手引き
ここでいわれている「法華涅槃」「此の経」は、今の私達にあてはめていえば、御本尊であることはいうまでもありません。  私達が御本尊を信じ、南無妙法蓮華経と唱えるところがまさに浄土であると述べられています。浄土というのは、浄土宗が主張しだしたものです。その教えは、この世は戦乱・貧困・疾病が絶えない穢土であるから、来世にはもっと住みよい浄土に生まれることを念願するというものです。以来、欣求浄土の信仰は、現世否定的で消極的な生き方を人びとに教える要因となっていきました。  日蓮大聖人は弱者の溜息にも似た浄土信仰を徹底的に打ち破り、自分が住むこの土を浄土にしなければならないという現実変革の宗教を樹立されたのです。もっとも、物質文明の繁栄下にある現代人は、来世に浄土を求めるようなことはありません、むしろ、現世を享楽し、ゆうゆうと生きているように見えます。しかし、それは、矛盾に満ちた現実との対決を避け、享楽の世界に逃げた姿ともいえるのではないでしょうか。  浄土の希求は、単に来世に求めるだけでなく、自分が直面する現実を離れて何かに逃避する姿をさしているのです。この意味では、現代人もやはり、浄土信仰にとらわれているといえるでしょう。  しかしながら、現代人はあれこれと求め、またそれぞれ獲得しながら、いっこうに心は満たされず不安な状態になっているようです。いずれ、心に満足を与える確かなものを求めるようになるのは時代の必然です。現に、静かな仏教書ブームがあるのはそれを暗示しています。  私達は、幸いにも、現在の一瞬をも逃避せず浄土(寂光土)に転換しうる方途を知り、実践しつつあります。この御本尊の大きな力を、病める現代の人びとに教え、示していく活動こそ、人間としての最高の行為と確信し、さらに生命の対話を根気よく続けていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」426)

456 taka :2011/05/28(土) 12:19:44
御書p97・⑥(p14・⑥)       信は仏道の源
信は道の源功徳の母と云へり菩薩の五十二位には十信を本と為し十信の位には信心を始と為し諸の悪業煩悩は不信を本と為す

通解
信は仏道の根源であり、功徳を生ずる母であるという。菩薩の修行の位である五十二位においては、十信を本とし、十信の位では、信心をはじめとしている。また、もろもろの悪業や煩悩は不信を本とするのである。

拝読の手引き
釈迦は菩薩になるための歴劫修行の最初に「信」を置いていますし、仏法では「信」がすべての基本なのです。   大聖人の仏法を実践する私達の行動を考えてみても、御本尊に対する「信」が根本になっています。仏道修行の要諦は、信・行・学です。この信・行・学の関係は、決して並列的なものではなく「行』と「学」の根底に「信」が必要であることを示しているのです。   御本尊に対する「信」の強弱によって、その行動の強弱が決定され、その行動の強弱に応じて功徳は顕れ、幸福な人生を満喫できるかどうかが決まるのです。したがって「信」のない仏道修行はありえないし、そのように見える形のものがあったとしても、それは手なくして宝の山に入ったようなもので、功徳を自分のものとすることはできないのです。  よく「御本尊は信じるが、日常の活動はどうも……」という人がいます。しかし、信があるのなら必然的に仏道修行を行なうはずです。実践をともなわない信はありえないといっても過言ではありません。厳しい言い方かも知れませんが「活動はどうも……」というのは、信がないのです。だから、そのような人には功徳が実証できませんし、幸福な人生を築くことはできません。  功徳の実証のない姿は、そのまま、不信の証拠でもあります。信というのは、目には見えませんが、生活の実相として現われてくるものなのです。御本尊に対する不信は、不幸の因をつくる行動を生み、その結果、煩悩、業、苦の三悪道に覆われた人生になります。それは個人のみならず、社会不安、時代の混迷を導くことにもなるのです。  人生は、一日一日が二度と繰り返すことのできない、貴重なものであり、日々の行動の積み重ねが、未来を決定します。日々、御本尊に対する絶対の「信」に立って、たくましく前進したいものです。(文庫本「きょうの発心百選」130)

457 taka :2011/06/04(土) 11:02:48
御書p100・③(p17・③)     常に源に還る姿勢
流を酌む者は其の源を忘れず、法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し。

通解
仏法の流れを受けつぐ者は、其の源を忘れてはならない。また仏法を修行する者は其の師匠の足跡を踏むべきである。

拝読の手引き
仏法を信じ、仏道修行に励む者には、永遠に忘れてはならない一節でしょう。   私たちが信心の惰性に陥り、歓喜を失っているときなど、それぞれの胸に聞いてみるとよいでしょう――果たして自分は、信心の原点を見失っていないか、師匠である日蓮大聖人の教え通りに実践しているか、などと。このように、自分の胸に問うことによって、惰性を破り、歓喜を取り戻すことができるのです。ここにあげた一節は、私達が信心に喜びをなくしたとき、しっかりと読みたいものです。  私達が、いま日夜に実践している仏道修行の源は何か。いうまでもなく、日蓮大聖人の民衆救済の大慈悲です。また、開祖・日興上人の厳しい護法の精神も私たちにとっての源泉といってよいでしょう。また、私達は「師の跡を踏んでいるだろうか……大聖人の遺された御書はいうまでもなく、代々の会長の指導を、私達が身口意の三業にわたって、実践しきったとき、この一節を読んだことになるのです。  創価学会は、日蓮大聖人の正当な法水を受けつぐ唯一の宗教団体であることはいうまでもありません。創価学会のみが日蓮大聖人の法をそのまま受けつぎ、したがって「其の源」を忘れていないのであり、さらに、日蓮大聖人の偉大な実践の足跡を、そのままたどっているのも、わが創価学会です。  700年前の日蓮大聖人は、仏法の長い正統な流れを受けつがれ、釈尊の教えを、現実のうえで証明されたのです。以上のことから、私達のいま行っている実践こそ、3000年の仏法の流れをくむものであることを知りたいものです。  私達はこの意義を深く知って、さらに唱題に、友好活動に、使命を一層深く自覚し、前進を期していこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」416)

458 taka :2011/06/05(日) 08:53:33
御書p111・⑧(p251・⑧)    一知半解の仏教観
世間に智者と思はれたる人人、外には智者気にて内には仏教を弁へざるが故に、念仏と法華経とは只一つなり。南無阿弥陀仏と唱うれば法華経を一部よむにて侍るなんど申しあヘリ。

通解
世の中で、智者と思われている人びとは、外面ではいかにも智者らしく振る舞っているが、内面では仏教をわきまえていないので、念仏と法華経とは全く同一である、と言っている。また、南無阿弥陀仏と唱えれば法華経一部二十八品を読誦したことになるなどと言い合っているのである。

拝読の手引き
大聖人当時にいた、一知半解の智者達を鋭く批判された御文です。   一知半解とは、なまかじりのことです。なまかじりの仏教の知識をふりまわし、いかにもわかったような顔をして、念仏と法華経は結局は同じであるといっていた人が、大聖人当時にかなりいたことが、この御文からわかります。   そうした一知半解の人びとがいるのは、当時のみならず現在も同じです。現代は教育が普及しているだけに、大聖人の頃よりも、もっと人数が多いようです。ある意味では、何事に対しても一知半解なのが現代人ともいえるでしょう。”宗教は結局、何でも同じだ”というのが、そうした現代人の一般的な見解になっています。   私達の現在の活動も、現代人のそのような宗教観を改めさせる貴重な戦いとなっているのです。かつての私達も、一知半解の宗教観を人並みにいだいていたわけですが、仏法の生命哲学にふれることによって、正しい宗教観を身につけることができたのです。   私達は、一人ひとりがますます、信行学を深めることによって、いよいよ混迷を深める現代人の風潮に対して、これを徐々に変革していきたいものです。私達の日々の活動は、そうした大きな宗教観の変革、つまり”題目”の実践なのです。私たちは、さらに唱題を重ね、立派な活動を展開していきましょう。(文庫本「きょうの発心百選」406)

459 taka :2011/08/13(土) 10:03:32
御書p111・⑪(p251・⑪)     過去世よりの大福運を確信
法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値ひ奉って、功徳を成就する人、初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き、始めて信を致すなり。

通解
法華経の題目(三大秘法の南無妙法蓮華経)は、過去に、十万億という数えきれないほど多くの仏にあいたてまつって仏道修行に励み、測り知れない功徳を成就した人が、はじめてこの妙法蓮華経の五字の名を聞き、はじめて信受し唱えるところの題目なのである。

拝読の手引き
ここでは、三大秘法の御本尊を信受し、南無妙法蓮華経の題目を唱えることのできる人は、過去に大福運を積んだ人であることを示されています。   すなわち、南無妙法蓮華経の大法門を耳にし、信受できる人は、実は、過去世に、十万億というほど多くの生きた仏に会い、その仏のもとで仏道修行に励み、善根【幸福の因)を積み重ねた、福運の満ちあふれる人なのだということです。つまり、ここでは、御本尊を信じ題目を唱える人が、大福運の持ち主であることを教えられているわけです。   私達がこの世で妙法の話を聞き、信仰の心を起こすことができたのは、つまるところは、私達自身のうちにみなぎる福運によるのです。   私達は、それぞれ、さまざまな経路をたどりながらも、ともかく、御本尊への信仰の門に入ることができたわけです。自分の入信のいきさつを振り返って”私はなんて愚かだったのだろう”とか”なんて自惚れが強かったのだろう”とか反省する人もあるかと思います。また苦悩のどん底から救いを求めるように入信したころを懐かしく思い起こす人もあることでしょう。   しかし、入信の経路がどうであれ、とにもかくにも、妙法の信仰者になれたということは、決して偶然ではないばかりか、過去に大福運を積んだという、仏法上深い意味があることを知りたいものです。そして、たとえどのような境遇にあっても、自身の内面に輝くこの大福運を確信しきって、歓喜の信心を貫き、題目を高らかに唱えつつ、広布の庭に乱舞しきっていきたいものです。(文庫本きょうの発心百選」494)

460 taka :2011/08/14(日) 21:09:52
御書p124・⑦(p228・⑱)       妙法は生命諸活動の本源
過去現在の諸仏法華経を離れて成仏す可からず。法華経を以て正覚を成じ給う。法華経の行者を捨て給わば諸仏還って凡夫と成り給うべし。恩を知らざる故なり。

通解
過去、現在の、もろもろの仏は、法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)を離れて成仏することは不可能である。あくまでも、この法華経によって正しい覚りを成じられるのである。したがって、この法華経の実践者(別して日蓮大聖人)を捨てられるならば、もろもろの仏は、かえって、凡夫となられてしまうのである。それは、恩を知らないからである。

拝読の手引き
ここでは、南無妙法蓮華経こそ、あらゆる仏が正覺を得るための根源の方途であることを述べられ、さらに、諸仏が、この南無妙法蓮華経の行者である日蓮大聖人から離反するならば、その不知恩のとがにより、たちまち、仏の境涯から凡夫の境涯へ戻りおちてしまうという厳しい方程式を示されています。  諸仏は、南無妙法蓮華経を師としてはじめて生命を与えられるのです。その諸仏が、この妙法を体現された行者・日蓮大聖人を捨てるということは、根源の師を忘れた不知恩の姿であり、そこに仏としての生命は失われてしまうということです。  この御書では、とくに、大日如来に執着する真言宗の誤りを指摘されているわけですが、この御文は、私達の実践の指針としても銘記していくべきであると思います。  私達は、妙法の御本尊を信受し、凡夫の身に仏海を湧現し、また、凡身ながら如来(仏)の使いとして、妙法流布という如来の事を実践しているわけです。しかし、魔にたぼらかされ、御本尊から離反し、師を捨てる心が起こるならば、まさしく不知恩の者となってしまいます。  大切なのは信心の姿勢です。信心のスキにより、崇高な生命の位を放棄することのないよう心して、御本尊を無二と信じ、強く澄みきった信心を生涯貫いていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」499)

461 taka :2011/08/15(月) 09:20:02
御書p141・⑯(p489・⑯)       苦難はね返す強靭な生命力
日蓮流罪に当たれば教主釈尊衣を以て之を覆いたまわんか。去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか。「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」等とは是なり。

通解
日蓮が流罪にあったので教主釈尊は衣で私を覆ってくださったのだろう。去年(文永八年)九月十二日の夜中、竜の口の首の座という虎口も、仏の守護によってのがれたのではないだろうか。妙楽大師が「必ず信心の固いことによって神の守りも強い」等といったのはこのことである。、

拝読の手引き
この御文は、純粋で強固な信心によって、諸天の加護が働き、所願満足の人生となることを教えておられるものです。  私達は、常に、純粋で強い信心の確立をめざしています。それは、信心の確立が、幸福の源泉であり、苦難をはね返す強力な力となり、人間として正しく生きることを可能にしてくれるからです。そのためには、絶えざる信心の練磨、生命の鍛錬が必要です。日々の勤行・唱題、そしてそれによって啓発された英知による思索と実践が、その基本となることはいうまでもありません。  現代社会では、自分の苦しみ悩みに取り組んで、自分を鍛えていこうとするよりも、それをできるだけさけ、楽しく過ごそうとする人が多いようです。豊富な物資、消費生活、さまざまなレジャーが、それに拍車をかけているようです。  人生を楽しむこと自体は、結構なことですが、生命の練磨、鍛錬を根底としての楽しみであることが、より堅固な成長と幸福に直結するのです。目標への挑戦をさけ、レジャー等に逃げ込んでばかりいれば、文明の荒廃をもたらしてしまいます。そこには、充実し、生きいきと躍動した生活、人生はなく、襲いくる苦難、苦闘に耐えきれずに、人生の落伍者となってしまいます。  大聖人は、佐渡流罪、竜口での虎口を脱したのは、信心強きゆえの諸天の加護によると述べられていますが、これは又別言すれば、命に及ぶ大難さえもはね返すような強い生命力、福運を持たれていたということではないでしょうか。  私達も、いざというときに、難を乗り越えられるだけの強い生命力と福運を、日々の実践の中で、たゆみなく練磨し、築いていきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」227)

462 taka :2011/08/16(火) 09:26:31
御書p141・⑦(p489・⑦)       教によって人の勝劣を定む
法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり。何ぞ汝始めて之を驚かんや。教に依って人の勝劣を定む。先ず経の勝劣を知らずんば何ぞ人の高下を論ぜんや。

通解
法華経の外の諸経の大菩薩は法華の名字即の凡夫より下れり。何ぞ汝始めて之を驚かんや。教に依って人の勝劣を定む。先ず経の勝劣を知らずんば何ぞ人の高下を論ぜんや。

拝読の手引き
ここには、仏法のひとつの人間観、人間評価のあり方が示されています。  この御文のところは、日蓮大聖人ただ一人が法華経を身読し、仏法の正しさを顕証しきったのである、という主張に対し、それはうぬぼれであるという疑難が寄せられ、その疑いを破折されているところです。すなわち、ここでは、人の勝劣・高下を評価するには、その人が、どのような経教をよりどころとして立っているかを知ることが、極めて重要であることを示されているわけです。   そのひとつの例として、法華経の凡夫と諸経の大菩薩との勝劣を述べられています。釈迦仏法において、法華経は完全円満な思想であり、諸経は、片寄った、部分観的思想といえます。したがって、法華経をよりどころとする凡夫のほうが、諸経の大菩薩より優れていると指摘されているわけです。  ここにいう経教とは、人びとのよりどころとする思想、信条ともいえましょう。その意味で、人間の本質を解明し、さらにその奥に”生命”を発見した、大聖人の仏法、すなわち妙法の生命哲学、生命の思想を、自らの信条として生きる人の位が、いかに尊貴なものであるかがわかると思います。  この尊貴な位に立つ私達にとって、この生命の思想が指し示す理想(法)に肉薄し、肉化していこうとする努力、精進が大事なことはいうまでもありません。その迫真の実践を貫くなかにこそ、この尊貴な”人格”は一層輝きを増し、現実に価値を生んでいくことができるのだといえましょう。(文庫本「きょうの発心百選」509)

463 taka :2011/08/17(水) 09:34:43
御書p142・⑨(p498・⑦)        宗教心の基盤に妙法を
一戒をも犯さず、道心堅固にして後世を願うと雖も、法華に背きぬれば無間に堕ちて展転無数劫と見えたり。

通解
一つの戒律をも犯すことなく、仏の境地を目指す心も堅固であって、未来の世の幸せを願うといっても、法華経(三大秘法の南無妙法蓮華経)にそむくならば、絶え間ない苦しみの境涯に堕ちて、数えられないほど長遠の期間ころがっていくことが明らかである。

拝読の手引き
ここでは、妙法にそむくということが、人間として、どんなに愚かな行為であるかを教えられています。  すなわち、たとえば、殺生をしてはいけない等々の戒律を、ただひとつも犯すことなく、また、成仏を目指す心が堅固であって、未来の幸せを願い求めたとしても、妙法という根源の法にそむくならば、幸せどころか、不幸の坂をころがり落ちて長く苦悩に泣かねばならない、と指摘されているのです。  ここにいう戒律とは、いいかえれば、人間として、また仏道修行者として、当然守るべき倫理であるといえますが、ここでは、ただ、この倫理を守り、求道心が堅固であるというだけでは、必ずしも幸せの保証にはならないことを示されているのです。  妙法という一点を、倫理を守り道を求める姿勢の根底にすえることこそ肝要なのです。もちろん、倫理や求道心はどうでもよいというのではありません。それらは、妙法を根底としたとき、真の意味をもち、生きたものとなっていくということです。  ただ、ここでは、倫理や求道心が大事だということ以上に、生命を本質的に整え、幸福を開く根源の法である妙法を無視し軽んずることが、どんなに愚かな行為であるかを教示されているのです。今日的にいえば、人間論、宗教論が盛んな昨今ですが、人間らしさ、宗教心の根底に妙法を定置できなければ、それらは画竜点睛を欠く、ということではないでしょうか。(文庫本「きょうの発心百選」519)

464 taka :2011/08/18(木) 09:18:02
御書p143・⑯(p499・⑫)        成仏が仏法の本意
仏法は自他宗異なると雖も、翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為なり。謗法に成り伏して悪道に堕つ可くば、文殊の知恵・富楼那の弁舌一分も無益なり。

通解
仏法は、自宗、他宗と異なるといっても、手に取り繰り返し大事にし探求する本意は、出家か在家か、身分が貴いか、賎しいかにかかわりなく、ともに苦しみを離れて楽しみを得、現在と未来にわたる幸福を得んがためである。それなのに(真実の仏法がわからず)謗法の者となって悪道に堕ちてしまったならば、文殊菩薩のようなすばらしい智慧や富楼那のような雄弁をもっていたとしても、それらは少しの利益にもならないのである。

拝読の手引き
この御文では、仏教の目的が明確に述べられています。  仏教にかぎらず、宗教の目的は、僧職の有無、身分の上下にかかわらず、人生の苦悩を解決し、永遠に崩れることのない幸福を築くことにあります。このことは、宗教が単なる精神面だけでなく、生活や人生の基盤、根本であるとの前提に立っていることを意味しています。  それだけに、各宗教において、真面目な信者は真剣に信仰に励んでいるわけです。しかし、どのような宗教によっても、本当に離苦得楽・現当二世の幸福をつかむことができるかどうかを、文証、理証、現証のうえから、つぶさに検討してみることが必要です。もし、自分の信じている宗教が、幸福を築くこともできず、人生を不幸におとすものであれば、宗教本来の目的に反するものであるし、たとえ文殊菩薩のような知恵や富楼那のような弁舌をもっていたとしても、それは、自分の幸福へと生かされず、無意味なことになってしまいます。  現在、文明論や、人生論などの面からも、宗教、とくに仏教が見直されつつありますが、人類の幸福の建設が宗教の目的であるかぎり、この御文に述べられた宗教の”正邪”の問題は、決してないがしろにされてはならないと思います。  私達は、日蓮大聖人の仏法こそ、その目的を実現できる唯一の宗教であることを、具体的な事実をもって、世に証明していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」407)

465 taka :2011/08/19(金) 09:17:03
御書p151・⑰(p2・⑨)         妙法こそ一切衆生の福田
法華経こそ人天の福田なれば旨と人天を経化し給ふ。故に仏を天人師と号す。此の経を信ずるものは己身の仏を見るのみならず、過現未の三世の仏を見ること、浄頗梨に向ふに色像を見るが如し。

通解
法華経(私たちの立場では、南無妙法蓮華経の御本尊)こそ人天の福田であるので、もっぱら人天を経化されるのである。だから、仏を天人師というのである。この経を信ずるものは、己身の仏を見るだけでなく、過去・現在・未来の三世の仏を見ることができ、それは、あたかも、浄頗梨という鏡(閻魔大王の住む光明院・中殿の裏にあるといわれる九面の大鏡台で、死んだ人が生前に行った善悪の所業すべてを映し出すといわれている)に向かったとき、自分の姿をあますところなく映し出すようなものである。

拝読の手引き
天人師とは、仏の尊称の一つですが、一切衆生を指導し成仏に導く師匠であるところから、この名称があります。  また「己心の仏を見る」「三世の仏を見る」の文の「見る」とは「悟ること」と考えることができます。そして、このことは、具体的な現実の姿としては「成仏する、つまり崩れることのない幸福を築くことができる」、また「三世十方の諸仏が修行して得たすべての功徳を得ることができる」ととらえることができるでしょう。  このように、私達が、御本尊を信じ、仏道修行に励むことによって、永遠に崩れることのない幸福な境涯を築くことができるのは、南無妙法蓮華経の御本尊こそ、あらゆる福徳を生み出す福田であり、すべての民衆を救うことのできる根本の天人師であるからです。  この御文にあるように御本尊には、私達の想像を絶する福徳があるのです。それを、自分のものとし、現実の日常生活の上に、さらに人生のうえにあらわしていけるかどうかは、私達の信心の強弱にかかっています。  各自の信心も、広布の活動も、長い年月をかけて成し遂げられるものです。御本尊の絶大な功徳を確信しつつ、さらに新しい決意に燃えて、互いに励まし合い、助けあって前進していきましょう。(文庫本「きょうの発心百選」402」)

466 taka :2011/08/20(土) 09:08:34
御書p171・⑬(p314・⑬)        妙法は諸天の威食
夫れ以れば一乗妙法蓮華経は諸仏正覚の極理諸天善神の威食なり。

通解
抑考えてみると、一乗の法である妙法蓮華経は、諸仏の悟りの極理であり、諸天善神によって威力を増す食物である。

拝読の手引き
日蓮大聖人は、三災七難に苦悩する当時の日本国を憂えて、11通の諌暁の書をしたためられ、謗法を戒め、法華経を根本に立正安国を訴えられました。その11通のうち、平左衛門尉に宛てられたものが、この御書です。念仏や禅宗、真言宗が盛んであったため、法華経の力用について述べられていますが、文底の立場から、末法濁悪の現代では南無妙法蓮華経の偉大さを教えられているわけです。  諸仏が成仏得道したのは、ほかでもない、実は南無妙法蓮華経という根源の種子を覚知したからです。あらゆる菩薩道を行じ修行を重ねていっても、詰まるところは南無妙法蓮華経の仏種を感得し、仏としての正覚を得たのです。  諸仏が凡夫から仏の境涯にとめざめたのは妙法蓮華経によりました。妙法の御本尊をたもった私達凡夫が、自身の仏性に事実のうえに目覚められないわけがありません。無限の創造性、尽きることのない英知、生命力の持ち主なることは、絶対なのです。ただそれには、信行学が不可欠の要件です。   ”正覚”とありますが、自身の生命の真実の像に正しく目覚めず、人生を狂わせている人が世の中にはなんと多いことでしょう。理論、生活実証ともに”正覚”の姿を示して世を救う使命を自覚したいものです。  諸天善神の威食――私達の生命を守る働きが力を増すには、南無妙法蓮華経という”食物”が必要だと述べられています。唱題することにより、諸天善神がぐんぐんと力を増し、私達は守られていく――言いかえれば、生命の正しいリズムに乗った楽しく充実した人生が展開されていくのです。病魔を伏する生命力も、自然に調和した感応性も、智慧も勇気もわいてくるのです。(文庫本「きょうの発心百選」563)

467 taka :2011/08/21(日) 07:54:35
御書p178・①(p321・①)       希有な人生を大切に
各各所念の如くならば三千年に一度花さき菓なる優曇華に値えるの身西王母の薗の桃、九千年に三度之を得たる東宝朔が心か。一期の幸何事か之に如かん。

通解
(問注所に呼ばれて、信心についていろいろ聞かれることは)皆さん方が(日頃から)望んでいたところであるとするなら、三千年にたった一度、花が咲いて実が成るという、優曇華にあったともいえるでしょうか。また、九千年に三度しか実がならないという、西王母の庭園にある桃の実を得た、東宝朔の心でもあるといえるでしょうか。人間一生のうちで、これほどの幸せはまたとないことでしょう。

拝読の手引き
この御文は、文永6年(1269)五月、幕府の問注所より、冨木種継、四条金吾、太田乗明の三人が呼ばれたことに対して、その際の心構えについて述べられた一節です。  妙法を信仰するがゆえに、当時の最高権力者である幕府の問注所に呼ばれたということは、公場において、妙法の主張を実証する絶好のチャンスであったともいえましょう。  その意義から、漢の皇帝から信頼されながら、ちょっとした失敗で信用を失い、官を下げられた東方朔が、九千年に三度しか実らない西王母の桃の実を得て王のもとに献上するのと同じように、二度とないことであり、三千年に一度しか咲かない優曇華の花にあうのと同じようにまれなことである、と教えられたのです。  同じように今日、正本堂の建立という慶事を終え、広布の第二章に入った私達にとっても、現在の広布を目指しての貴重な活動こそ、一生のうち二度と繰り返すことのできぬほどに重要な局面にあるといえるでしょう。  価値観の混乱と不信が著しい現代、人びとは確信をもって主張しきれる信念・信仰を失っています。このような時代に、信じて疑うことのできない絶対の妙法を知り、広布に生き切っていける私達の立場こそ、優曇華や西王母の庭園の桃の実を得ることにも匹敵するほどに貴重なものであり、二度とめぐり合うことのできない貴重な日々であることを確信していきたいものです。(文庫本「きょうの発心百選」542)

468 taka :2011/08/22(月) 12:56:03
御書p183・①(p373・①)         妙法こそ一生成仏の肝要
抑人の世に在る誰か後世を思わざらん。仏の出世は専ら衆生を救わんが為なり。爰に日蓮比丘と成りしより旁法門を開き、已に諸仏の本意を覚り早く出離の大要を得たり。其の要は妙法蓮華経是なり。

通解
いったい、この世に生きている人間で、後の世のことを思わない人はいるでしょうか。仏が世に出たのは、ひとえにこの後世を思いわずらう人びとを、救うためにほかなりません。ここにおいて日蓮は僧となってから、いろいろと法門を学び尽くして、すでにあらゆる仏の真意はどこにあるかを知り、早くも一生成仏の要法を得たのです。その肝要こそ妙法蓮華経にほかなりません。

拝読の手引き
人びとのあらゆる苦悩を解決して、だれもが心の奥底では求めている、一生成仏という最高人格の境涯を開発しきる根本法こそ、三大秘法の御本尊への強固な信仰の持続にあることを教えられています。  人間が現実生活を営むうえには不安、恐怖、苦痛などといった、さまざまな苦悩と出あいます。そのなかで人びとは、過去を振り返りつつ現在をみつめ、推し量ることのできない未来に対する、とらえようのない不安にかられるものです。現実の生活のなかで思い悩み苦労して働くことは、未来をより良い人生であろうとする意識のあらわれでもありましょう。   ところが、人びとの未来には、考えることもできない”死”という深い闇が横たわっています。この”生”と”死”といった人生の根本問題を解決しない限り、あらゆる苦悩の根本的解決法は見いだされないでしょう。仏法はこの”生”と”死”という人生の根本課題を明確に見つめ、解き明かしてきました。   思うに、こういった課題に対して、観念観法的に理解するのみでは、現実に苦悩しながら生きている人びとの力とは成り得ません。自己の人生を観照すると同時に、繰り返しのきかない”人生”の日々を、かけがえのない瞬間の連続として、生かしきっていく実践法を明示された日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経が、いかに偉大であり、真に庶民のレベルに立っているかを、ひしひしと感ずる昨今です。(文庫本「きょうの発心百選」546)

469 taka :2011/08/23(火) 10:38:48
御書p184・⑫(p817・⑨)       昼夜に語る救済の原理
只今他国より我が国を逼む可き由、兼ねて之を知る故に、身命を仏神の宝前に捨棄して、

通解
ただ今、他国からわが国を責めてくるということについては、かねてから、これを知っているゆえに、身命を仏神の宝前に捨棄して、刀剣いよる迫害、武家の責めを恐れることなく、昼は国主に申し上げ、夜は弟子等に語っているのである。

拝読の手引き
御本仏日蓮大聖人が、一身を妙法流布にささげられ、滅びようとする国を救うため、苦悩の民衆を救済するために、生命に及ぶ迫害も、あらゆる非難、中傷も恐れることなく、権力者の誤りをいさめ、折伏弘教にのぞまれたことを述べられている一節です。  特に、「昼な国主に奏し、夜は弟子等に語る」と述べられていることは、救国済民の究極の哲理を、昼夜を問わず、一方では無知の権力者に教えさとし、他方、弟子等に指導、訓育されたという、全生命傾注の激闘のお姿であると拝せます。  また、この一節は、真言僧・強仁が、愚かにも、大聖人を教訓するような文書を送ってきたことに対する返書の一部ですが、そこには、御本仏としての確信、国を救わずにおかないという烈々とした気迫、大慈悲の精神が脈打っています。  日蓮大聖人のまことの弟子として、妙法広布の大偉業にたずさわる私達は、ここに示される大聖人の精神を、瞬時も忘れてはならないでしょう。今、私達が壮大な文化社会を構築しようとする大地は、いうまでもなく、日蓮大聖人の仏法の流れによって、清らかに潤う妙法を根幹とした大地です。  未聞の哲理をうちたてられ、競い起こる激しい風波のなかで、民衆救済に身命をささげられた大聖人の、想像を絶する激闘こそ、荒涼とした大地に、堅く深く開拓のクサビを打ち込まれた戦いであったといえるでしょう。  広宣流布という大使命を分かちもつ私達は、どのような分野に立とうとも、この御金言に示される大聖人の精神を自らの精神として、さらに、この大地に妙法の清流を注ぎつつ、自らの使命の庭に、美しい妙法の花を咲かせきっていこうではありませんか。(文庫本「きょうの発心百選」120)

470 taka :2011/08/24(水) 10:34:33
御書p186・①(p413・①)         開目の実践
夫れ一切衆生に尊敬すべき者三あり。所謂主師親これなり。また習学すべき物三あり。所謂儒外内これなり。

通解
一切衆生が尊敬するべきものが三つある。いわゆる主師親の三徳がこれである。また、習学すべきものが三つある。いわゆる儒教、外道バラモン、内道がこれである。

拝読の手引き
習学すべき儒外内が法を、尊敬すべき主師親が人を表していますが、この文では、法が傍で人が正なので、儒外内の三徳を尊敬すべきであるという意味になります。そして、その正意は、開目抄末文の「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」(御書全集p237)の結論に示されるように、内道たる仏法の極理、下種仏法の三徳(日蓮大聖人)を人本尊として尊敬していきなさいということになります。  主徳とは力であり、師徳とは知恵であり、親徳とは慈悲を意味しています。この三徳を兼備している人は誰か――もとより、分々の徳をもっている人はいます。他の思想、哲学、宗教でも、三徳を考えることはできます。だが、いかなる時代においても社会においても、だれ人に対しても、しかも、永遠にわたってこの三徳を備えて、救済し、善導し、包容していく根源的な三徳となると、結論からいって日蓮大聖人をおいてほかにはありません。この真実の三徳を見ることができない盲目を開いていく戦い、それが開目抄の実践なのです。さまざまな低いものへの執着の膜を取り除き、真の三徳の当体たる御本尊に開目させていく実践……それは身近なところから始まります。すなわち、わが身に妙法の功徳を示し、有効活動を展開することです。   御本尊は主師親の三徳の当体です。これを信受する者は、三徳を発揮し、豊かな人間性をみがき、社会に幸福の実証を示していくことができる……それが仏法の本当の姿です。理論だけで人は心を変えるものではありません。自らの姿の上に人間性の美しい勝利の実証を示してこそ、執着をゆり動かし、やがて開目へとつながっていくのです。友好活動のありかた、その重要性をよくよく銘記したいと思います。(文庫本、「今日の発心399」)

471 taka :2011/08/25(木) 10:49:54
御書p187・④(p414・⑥)        三世の生命
妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明教に云く一切世間所有の善論この経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」

通解
妙楽大師云く「仏教の流布はじつに儒教の力をそのまま生かしたのである。儒教の礼楽が先に流布されて真の道たる仏法が後に弘通されたのである」と。天台大師の云く「金光明経に、一切世間のあらゆる善論はみな仏教によっているのである。もし深く世法を識るならば、すなわちこれは仏法であると説いている」と。天台の止観に云く「釈迦は3人の聖人を遣わして中国の衆生を教化した」と。妙楽の弘決にいわく「清浄法行経にいわく、月光簿菩薩は中国に生まれて顔回と称し、光浄菩薩は同じく孔子と称し、迦葉菩薩は同じく老子と称した。これらはすべて釈尊の使いとして、仏教の先駆として儒教を説いたものである」と。

拝読の手引き
そもそも宗教の目的は、永遠の生命の中に安住せしめるにある。すなわち永遠の生命を感得することがもっとも大事なことで、永遠の生命を認めるならば、過去・現在・未来の三世の生命感を確立せざるを得ない。されば、過去の生命を因として現在の生命が果となる。現在の生命がまた因となり未来の生命が果となる。この三世流転の生命が因果の法則に支配されることはいうまでもない。この因果の法則を立て得ない儒教では、真実の人生観の確率はあり得ないから、仏教に対して儒教を外道というのである。されば、本抄において、「これらの賢聖の人々は聖人なりといえども過去を・知らざること凡夫の背を見ず・未来をかがみざること盲人の前を見ざるがごとし」とおおせられているのである。   儒教においては、現在をいかにしたならば幸福になるかということを教えるのであるが、結局は過去・未来を知らないから、大聖人のおおせのごとく「父母・主君・師匠の後世もたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず」と申されているのである。不知恩とは、主師親の三徳に現在・未来を通じて報恩しないことをいうのであって、恩を報ぜぬということは人間の特権を放棄し、禽獣に同ずることである。   つぎに、「月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す」という思想は、現在の科学一点張りの社会には不思議に感ずるであろうが、完全に、真実に発展された東洋の生命哲学よりすれば、まことなりとうなずくことができる。三世の生命観に通達するならば、弘決において、このようにいい切った事は確かなことと認めるであろう。(日蓮大聖人御書十大部講義第二巻開目抄上p72)

472 taka :2011/08/26(金) 09:01:15
御書p187・④(p414・⑦)       世法これ仏法なり
天台云く「金光明経に云く、一切世間所有の善論皆此の経に因る。若し深く世法を識れば、即ち是仏法なり」等云々。

通解
天台大師は「金光明経に、一切世間のあらゆる善論は、みな仏の経によっているのである。若し深く世法を知るならば、すなわちこれは仏法であると説いている」と述べている。

拝読の手引き
一切の法を生み出す一法とはいうまでもなく、人間存在の根底を貫く法、また、大宇宙の森羅万象の根源ともいうべき因果の理法のことであり、この法を日蓮大聖人は事の一念三千の南無妙法蓮華経と名づけられたのです。 この偉大な生命哲理にくらべるならば、過去の聖人、賢人の思想、哲学も、またあらゆる権威ある理論体系もすべて序文であるにすぎません。  しかし、無量義経に「無料義とは一法より生ず」と説かれているように、成仏という人間革命の原理は妙法以外にはありませんが、その他の部分部分の原理については他の思想、哲学にも含まれているのです。つまり、絶対妙の立場から妙法を根底にするならば「一切世間所有の善論」つまり、あらゆる思想、哲学、学問体系を用い、生かしていくことができるという意味なのです。  今、私達は人間生命の尊厳を基調とした新しい文化の建設をめざしての戦いを、日夜続けていますが、換言すれば、それは個人における人間革命を基盤にして、政治、経済、教育、文学、芸術、科学等あらゆる分野の変革をめざす総体革命の戦いです。それは即大聖人の仏法を社会に開いていく戦いでもあります。  大聖人の仏法は社会に開かれた宗教であり、大聖人の仏法を学ぶ私たちの使命も現代社会を蘇生すべく、各々の分野で自己の特性を最高に発揮し、妙法の卓越した理念を社会の人々に納得させていくところにあります。  私達があくまでも信心根本に、大聖人の仏法を根底にして、社会の各分野で戦っていくならば、その活動自体すでに仏法の実践になるのです。私達はそうした崇高な使命を自覚するとともに、大聖人の生命哲理へのたゆみない研鑽と思索をさらに深めていく必要があります。そして、総体革命の担い手として、各分野に陸続と進出し、それぞれの立場で本格的な言論戦、思想戦を展開していかなければなりません。(文庫本「きょうの発心百選」170)

473 taka :2011/08/27(土) 09:29:49
御書p188・③(p415・⑦)         外道の三徳
「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして、外道の説に非ず」

通解
大涅槃経にいわく「一切世間の外道の経書は皆これ仏説であって、外道の説ではない」と。

拝読の手引き
よく宗教を論ずるにあたって、科学と反対のように考えるものがあるが、これは大なる誤りである。科学は物質を対象として深く研究をすすめ、または心の作用を対象として研究をすすめたりするのであるが、真の宗教すなわち最高の東洋哲学は、生命の本質を究めるものであって、決して科学と相反する立場のものでなく、並立して互いに人生を利益するものである。ただし宗教はたんなる哲学ではなくて、究明せられたるところの最高理論を実践活動に移す事によって、生活上の幸福を得るものである。あたかも科学において究明せられた方程式が、実際生活に利用せられて役立つと同様である。(日蓮大聖人御書十大部講義第二巻開目抄上p83)


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