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仏教大学講座講義集に学ぶ 【 “宝塔”の意義について 】
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:
美髯公
:2015/05/24(日) 13:40:03
戸田前会長は、よく次のような意味の指導をされていた。
「仏法の本質は慈悲である。しかし我々凡夫には、慈悲といってもなかなかそれを実践できるものではない。それに代わるものは勇気である。勇気が慈悲に
通じるのである」と。実際、苦悩に沈む一人の友を前にして、我々は何をなし得るか。彼の生命を揺り動かせる程の力強い激励の言葉を、どれほど用意
できるだろうか。また絶望の淵にあってなお“さあ、頑張ろう”との一言を、どれほどの深い響きをもって発する事ができるだろうか。そう考えた時に、
現実の闇が深ければ深いほど、苦悩の嵐が吹けば吹くほど、信心の確信に裏付けられた勇気という特質が、何にも増して大切になってくるのである。
その勇気とは、また自身の宿命を直視し、それと真正面から対決するという方向へ向かうものでなくてはならない。人の常として、ともすれば自身の内面から
目をそらし、外面を飾る事ばかりに気を奪われがちなものである。蔵の財、身の財より心の財第一 ― これは大聖人の御指南である。社会的な地位や財産、
あるいは表面的な才知うぃいくら積んでも、内面の心の財を積まなければ砂上の楼閣にすぎないのである。要は、自身の生命に刻印された“一凶”を
禁ずる勇気を持つ事である。自身が直面する苦悩の根源を見すえ、それに敢然と取り組む姿勢に、真剣な祈りも生まれてくる。その時はじめて一生成仏への
第一歩を踏み出す事ができる。このように、真の勇気は決意を生み、その決意は信心を深めていく ― この繰り返しの中に一生成仏・人間革命という、
我々の最高の人生の目的も達成されるのである。
ともあれ、滅後末法において法華経を受持し弘通する事は難事中の難事である。そして、その仏法の方程式通り、大聖人は六難九易の実践の上に、
大御本尊という宝塔を打ち立てられたのである。その事に思いを至すならば、大聖人の大慈大悲に心からの感謝の念を禁じ得ない。しかも「今日蓮等の
類い南無妙法蓮華経と唱え奉る処を多宝涌現と云うなり」(P.741 ②) と。あるいは「日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈と無二に信ずる故に
よって・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし」(P.1244 ⑬) とも仰せである。
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