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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

12鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/22(日) 23:52:24 ID:1d4drIFg0
↑訓練としてはよいじゃろう。
 しかし、それによって自分を観察して理解できるものでなければ長く続けるべきではないのじゃ。
 全ての実践は自分を観るためにあるのであるからのう。
 
 自分を観察できて無我になれば思考も立ち上がらないようにできるのじゃ。
 それまでは観察に拠って思考が起きないようにするのは無理なのじゃ。
 自我の危険を感じれば思考で対処しようとするからのう。
 その反応は意志によってとめられるものではないのじや。

13避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 08:46:34 ID:Dp/qMVVc0
>>12 ありがとうございます。
確かに自分を観察して理解することを怠り、逃避として行うのであれば無意味なだけでなく有害ですね。

鬼和尚は修行に関して、観察だけすればよいとか、ただ静かに何もせずにいればよいなど、衆生にとって困難なことは説かない印象があります。
自他の区別が無いのにどうやって、衆生を適切に理解し、道標となれるのでしょうか?

14避難民のマジレスさん:2020/11/23(月) 20:58:53 ID:Dp/qMVVc0
第二の格言は、「自然に生きる」だ。人間の全ての行動は人工的であり、条件付けの結果だ。私たちは常に偽の外套に身を包んでおり、この覆いのために、徐々に本当の存在を忘れている。この偽りの外被を脱ぎ捨てなさい。私たちはドラマを上演するためにここに集まったのではなく、本当の自分自身を知り、見るために集まったのだ。劇中の俳優たちが、演技の後に衣装や化粧を取って脇に置くのと同じように、この5日間では、あなたの偽りの仮面を外して脇に置かなければならない。あなたの中にある根源的で自然なものに出て来させなさい - そして、その中に生きなさい。自分の修行、自分の道は、単純で自然な生を通してのみ開く。このサーダナキャンプの間、あなたは何の地位も、職業も、地位も持っていないことを意識しなさい。これらすべての仮面を捨てなさい。あなたはただのあなたであり、名前も身分も階級も家族もカーストもない普通の人、名も無い、ごく普通の人だ。あなたはこのように生きることを学ばなければならない。なぜならば、本当のところ、それがあなたなのだ。

第三の格言は、「一人で生きる」だ。修行は、完全な孤独の中、全くの一人である時に生まれる。しかし、一般に人は決して一人あることはない。常に他の人たちに囲まれている。外側の周りに群衆がいなければ、その人は内側の群衆の中心にいることになる。この群衆を散り散りにさせなければならない。

内側では、物事が自分に群がってくるのを許してはならない。そして、外にも同じことが言える-このキャンプでは、完全に一人であるかのように、生きなさい。誰か他の人との関係を保ち続ける必要はない。数え切れないほどの人間関係の中で、あなたは自分自身を忘れてしまっている。敵か味方か、父か息子か、妻か夫か、これらすべての関係があなたを飲み込んでしまい、自分の中に自分の存在を見つけることも知ることもできなくなってしまっているのだ。

あなたは今までに、これらの関係から離れて、自分が何であるかを想像しようとしたことがあるだろうか? あなたは今までに、これらの関係の衣装を捨てて、それからかなり離れた自分を見たことがあるだろうか? これらすべての関係から自分自身を取り除き、自分が父親や母親の息子ではなく、妻の夫でもなく、子供の父親でもなく、友人の友人でもなく、敵の敵でもないことを知りなさい - そして残っているものが、あなたの本当の存在だ。あなたの中に残るものが、あなた自身だ。これらの日々の間、あなたはその存在の中で一人で生きなければならない。
―-
自然に生きているのが分かるのは、それが自分にとって楽だったり、生き生きとしたりすることだと思いますが、他に何かありますでしょうか。またもし、仮面の外し方が分からない場合は、どのようにしたら良いのでしょうか?
あと、自分の内側の人間関係から自分自身を取り除く方法もお教えください。

15鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/23(月) 21:53:01 ID:1d4drIFg0
>>13 悟った後にもよく学ぶことで可能になるのじゃ。
 お釈迦様も悟った直後の説法では失敗しているのじゃ。
 人の苦を知り、四諦を説く事で説法もよくなったのじゃ。

>>14 人の居ない所で一週間位生活すると善いのじゃ。
 自然に仮面はなくなるのじゃ。
 仮面とは人との付き合いで必要になるものであるからのう。

 ただひたすらそれを観ることでできるのじゃ。
 無理に取り除こうとしてもできないのじゃ。
 それがどのような原因から起こるのか観ることで消えるのじゃ。
 実践あるのみなのじや。

16避難民のマジレスさん:2020/11/24(火) 20:52:24 ID:Dp/qMVVc0
これらの格言に従うことで、あなたは到達することができるだろう。修行を続け平安と真理の実現を得るために絶対に必要な、心の状態に。これらの3つの格言に加えて、明日から始める2つの瞑想についても説明したい。

最初の瞑想は朝のためのものだ。この瞑想では、背筋をピンと伸ばし、目を閉じ、首をまっすぐにしなければならない。唇は閉じ、舌は口蓋に触れる。ゆっくりと、しかし深く呼吸する。へそに注意を集中しなさい。呼吸のためにへそに感じる揺れを意識するのだ。これだけで良い。これで心が落ち着き、思考が静まる。この空(くう)から、あなたはついに内側に入る。

二番目の瞑想は夜のためのものだ。床にあなたの体を広げ、手足を完全にリラックスさせる。目を閉じて、約2分間、体がリラックスしていることを自分自身に暗示しなさい。だんだん体がリラックスしてくる。その後、2分間、呼吸が静かになることを暗示する。すると呼吸は静かになる。最後に、2分間、思考が止まってゆくことを暗示する。この意志を伴った自己暗示は、完全なリラクゼーションと空につながる。心が完全に穏やかになったら、あなたの内なる存在の中で完全に目を覚まし、静けさを観る者となりなさい。この観ることは、あなたを自己へと導いてくれるだろう。

この二つの瞑想は必ず実践しなければならない。しかし、実際のところ、これらは本当に人工的な仕掛けであり、あなたはそれらに固執すべきではない。この二つの瞑想の助けを借りれば、心の落ち着きのなさは消えてゆく。そして、私たちが登った後に梯子を必要としないように、いつの日か私たちもこれらの仕掛けを手放さなければならない。瞑想は、それが不要になった瞬間に完全なものとなる。まさにこの段階がサマーディだ。

今、夜は更け、空は星で満たされている。木々や谷間は眠りについている。私たちも今、眠りにつこう。何と静かで静穏なのだろう。私たちもまた、この平和の中に溶け込もう。深い眠りの中で、夢のない眠りの中で、私たちはまさに神が宿る場所に行く。これは自然が私たちに与えてくれた自発的な無意識のサマーディだ。このサーダナキャンプの助けを借りて、私たちもまた同じ目的地に到達することができる。しかし、その時、私たちは意識し、気づいているだろう。これが違いであり、実際、大きな違いだ。前者では私たちは眠っているが、後者では目覚めている。

私たちは今、サマーディを得ることを願って眠りの床に着こう。願いが決意と正しい努力を伴っているとき、それは必ず叶う。

神の導きがありますように。これが私の唯一の祈りだ。

第1章はここまでです。
オショーも止観を説いていますが、もし何か補足などがありましたら、お願いします。横になって行う観の行は、私も試してみます。
あと、サマーディの言葉に関して、鬼和尚は忘我の意味で使っていますが、オショーはどのような意味で使っているのでしょうか?
もう一点、寝る直前に「自我が観られますように」のように願って眠りの床に着くのは効果的なのでしょうか?

17鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/24(火) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
深い意識との一体化というような意味でサマーディと言っているようじゃ。
意識的な瞑想すらもない段階なのじゃ。

そのような願いも効果はあるじゃろう。
寝る時には潜在意識が優先的に成るからのう。
無意識に達成することができるのじゃ。
実践によって確かめるのじゃ。

18避難民のマジレスさん:2020/11/25(水) 21:03:51 ID:Dp/qMVVc0
第2章 最初の朝 1964年6月4日 午前

あなたに会えて嬉しい。この孤独な場所で、あなたは神を悟り、真実を見つけ、自分自身を知るために集まってきた。しかし、ひとつ質問させてもらってよいだろうか? あなたが求めているのは自分とは別のものだろうか? あなたは離れている人を探すことはできるが、どうやって自分自身を捜し求めることができるのか? 他のすべてのものが捜し求められるという意味では、自分自身を捜し求めることはできない。なぜならばこの場合、捜し求める者と捜し求められる者の間には違いがないからだ。外に世界を求めることはできても、自己を求めることはできない。自己を求めて出て行く者は、自己から遠く離れて行く。この事実を十分に理解することが重要だ。そうすることで初めて、自己の探求が可能になるだろう。もしあなたがこの世の物質的なものを求めるならば、自分自身の外に目を向けなければならないが、もし自分自身を見つけたいと思うならば、あなたは、落ち着いて、平静でなければならない、そして、すべての探求を放棄しなければならない。あなたの本当の姿は、完全な静けさと空虚さの中でしか見ることができない。

探求は興奮でもあり、緊張でもあり、欲求でもあり、情熱でもあることを忘れずにいなさい。しかし、魂は情熱によって実現することはできない。これが難しいところだ。情熱とは、人が何かになりたい、何かを達成したいと願うことを示しているが、魂はすでに人の中に存在している。魂とは、私自身である。情熱と魂は正反対の方向にある。それらは正反対の次元だ。

したがって、魂は実現することができるが、それは欲望の対象にはなりえないことを完全に理解しなさい。魂に対しては、そのような欲望はありえない。すべての欲望は世俗的なものであり、欲望は霊的なものではない。世界を作り上げるのは欲望と情熱だ。この情熱や欲望が、お金のためか宗教のためか、権威のためか神の実現のためか、世俗的な快楽のためか解脱の自由のためか、それは何の違いもない。すべての情熱は無知と束縛だ。

私はあなたに魂への欲望を求めてはいない。欲望の本質を理解して欲しいだけだ。情熱の理解は、その痛みを伴う性格を明らかにするので、情熱から人を解放する。痛みを知ることは、痛みからの自由だ。誰も、痛みを知ったことで、それを望むことはできない。欲望がないとき、心が情熱に邪魔されることも何かを探していることもないとき、その瞬間に、その穏やかで静かな瞬間に、あなたはあなたの本当の、本物の存在を経験する。情熱が消えたとき、魂は自分自身を宣言する。

それゆえに、我が友よ、私はあなたに魂を渇望するのではなく、欲望そのものを理解し、それを取り除くようにと願う。そうすれば、アートマン、魂を知り、悟りを得ることができるだろう。

情熱や欲望と修行について、お教えください。
最近、瞑想は時により、悟りを得たいという欲望があったり、欲望は無くとも意志があったり、あるいは偶然起こったりしています。
オショーによると、悟りへの欲望も厭離することを説いていますが、例えばこの翻訳も欲望によって進められている面があります。
いつ、どのように悟りへの欲望を厭離するのかは、智慧に任せて、とにかく自分の観察に励めば良いのでしょうか?

19鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/25(水) 21:55:47 ID:1d4drIFg0
その欲望以外に全てがなくなった時には捨てるが善いのじゃ。
もはや他の全ての観念を捨て去ってから捨てるのじゃ。
その時にはその欲望に自分を投射しているであろうからのう。
それが捨てられた時に自分もなくなるのじゃ。

20避難民のマジレスさん:2020/11/26(木) 20:59:18 ID:Dp/qMVVc0
宗教とは何か? 宗教、ダルマは思考や考えることとは何の関係もない。それは無思考と関係がある。考えることは哲学だ。それはあなたに結果や結論を与えるが、あなたに充足感をもたらしはしない。ダルマとは充足だ。論理のプロセスは思考への入り口であり、サマーディは充足への入り口だ。

サマーディはシューニャとチャイターニャ、空虚と意識の結果だ。心は空っぽだが注意深いものでなければならず、その静けさの状態で、真理への扉が開く。真実は空からのみ実現され、その後、生全体が変容する。

私たちは瞑想を通してサマーディの段階に到達するが、一般的に瞑想として理解されているものは、真の瞑想ではない。それもまた思考だ。思考は魂や神に関係しているかもしれないが、それらはまだ思考だ。思考が何に関係しているかに違いはない。現実には、すべての思考は別のもの、外部に関わる。それらは自己ではないもの、物質的なものに関係する。自己についての思考はありえない、なぜならば思考が存在するためには二つが必要だからだ。したがって、思考は二元性を超えたところには連れて行ってはくれない。もしこの統一を実現し、自己の中に生き、それを知るためには、思考ではなく、瞑想がその道だ。

思考と瞑想は正反対の方向にある。 前者は外に向かって動き、後者は内に向かって動く。思考は他を知る方法であり、瞑想は自己を知る方法である。しかし、思考は一般的に瞑想と見なされている。これは非常に深刻で広範囲に広がっている間違いであり、私はこの根本的な間違いに対して警告したい。瞑想とは、行動のない状態になることを意味する。瞑想は行動ではなく、存在の状態だ。それは、自分自身の中で安定していることだ。

行動の中では、私たちは外の世界と接触し、不行動の中では、自分自身と接触する。何もしていないときは、自分が何者であるかに気づくことができるが、私たちは常にさまざまな活動に関わっていて、自分自身のことを知らない。私たちは、自分が存在していることさえ覚えていない。私たちは深く夢中になっている。少なくとも身体は休んでいるが、心は全く休んでいない。起きているときは考え、眠っているときは夢を見る。このような絶え間無い関心事や活動に没頭していると、私たちは自分自身を忘れてしまう。自分の用事で頭がいっぱいになり、自分自身を見失ってしまう。何と奇妙なことだろう! しかし、これは事実なのだ。人ごみの中ではなく、自分の考えや夢の中で、自分の用事や活動に夢中になって、自分を見失ってしまっているのだ。私たちは自分の中で自分自身を見失ってしまった。瞑想は、この自作の群衆から、この精神的な迷いから、自分自身を解放するための道だ。

いつも回答をくださり、ありがとうございます。今回は特に意味がわからないことはありませんでした。
気づいた時にはできるだけ自分の観察に励みます。

21鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/26(木) 21:49:31 ID:1d4drIFg0
オショーは一般的に言われている瞑想は瞑想ではないというのじゃ。
それはまだ思考の過程であり、注意が外に向いているからなのじゃ。
外とは心以外の対象なのじゃ。
呼吸とか眉間とか心臓もまた心の働きではない故に外のものといえるのじゃ。
それらの外の対象から離れて自分という観念を生み出す心の中を観ることが瞑想だというのじゃ。

22避難民のマジレスさん:2020/11/27(金) 20:56:46 ID:Dp/qMVVc0
その性質上、瞑想はいかなる行動も含むことができない。それは無行動だ。無行動とは空な心を表す用語だ。これが私が教えていることだ。私が無行動を教えていると言うのは奇妙に見えるかもしれないし、私たちが無行動を実践するためにここに集まったと言うのも奇妙に見えるかもしれないが、人間の言語は非常に貧弱で、非常に限定的なものだ。行動のみを表現するように設計されていて、決して魂を表現することはできない。発話のために作られたものが、どうやって沈黙を表現できるのか? 世界の「瞑想」は、それがある種の行動であることを示唆しているが、それは決していかなる種類の行動でもない。私が瞑想を「実践していた」と言うのは間違っているだろう。瞑想の「中にいた」と言うのが正しいだろう。それはまさに愛と同じだ。私は愛の中にいるが、愛は作り出され得ない。それゆえに、私は瞑想は心の状態だと言う。最初にこのことをはっきりさせることが何よりも重要だ。

私たちは何かをするためにここに集まったのではなく、ある状態を経験するために集まった。すなわち、そこでは私たちはただ存在し、行動も起こらず、行動を暗示する煙さえもなく、存在の燃える炎だけが残り、自己だけが残り、「私」という思考さえももはや残らず、単に「存在」が残っている。これがシュンニャ、空だ。これは、私たちが世界ではなく、真実を見るポイントだ。この空虚さの中で、この空の中で、自己を知ることからあなたを保つ壁が倒れることで、思考のカーテンが上がり、知恵が明ける。この時点では、あなたは考えていない、あなたは知っている。そしてそこには、洞察があり、実現がある。

しかしここでは、主体と客体に違いはなく、知る者と知られるものの違いもないので、 「洞察」と 「実現 」という言葉は全く適切ではない。ここでは、知られるものも知る者もなく、単に知ることがある。この文脈ではどんな言葉も適切ではない。「無語」が唯一適切な言葉だ。もし誰かがこの状態について私に尋ねたら、私は黙ったままである。あるいは、沈黙の中で答えを伝えていると言ってもいいかもしれない。

瞑想は無行動だ。行動とは、自分の思い通りにするかしないかのことだ。しかし、人の本質と行動には違いがある。人の本質は行動ではなく、行うことでも、行わないことでもない。例えば、わかることと観ることは、私たちの本質の一部であり、存在の一部だ。私たちが何もしなくても、それらはそこに存在している。本質は常に私たちの中に存在しており、不変で絶え間ないものだけが本質と呼ぶことができる。本質は私たちが作ったものではなく、私たちの基盤だ。それは私たち自身なのだ。それは私たちが作るのではなく、内在的なまとまりだ。私たちはそれをダルマと呼ぶ。ダルマとは私たちの本質を意味し、純粋な存在を意味する。

瞑想で心の中を観ていると、状況によって、思考が内側にあると感じられたり、外側にあると感じられたり、内側でも外側でもなく、ただあると感じられたりします。内とか外というのも観念だということでしょうか。具体的にどのようなイメージなのか観察力が増せば、わかりますか?
今日の文章の最後の段落で、「それは私たちが作るのではなく、内在的なまとまり(intrinsic cohesion)だ。」とあるのですが、「まとまり(cohesion)」が、訳していて違和感を感じました。元の言葉にこだわらず、もし良い表現がありましたら、お教えください。また、もしそのままで大丈夫でしたら、少し解説をいただければと思います。

23鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/27(金) 21:58:11 ID:1d4drIFg0
機能とか力じゃな。
エネルギーでもよいのじゃ。
働きでも善いのじゃ。
ダルマとはそのようなイメージであるからのう。
それは本質であり、機能であり、力としても働き、エネルギーそのものでもあるのじゃ。
働きがある故にダルマと名づけられるが本来は空であり、無でもあるものじゃ。
そのように理解すると善いのじゃ。

24避難民のマジレスさん:2020/11/28(土) 21:15:35 ID:Dp/qMVVc0
このような不変で絶え間のない本質は、私たちの行動の方向性が散漫になることによって抑制されている。海が波に覆われ、太陽が雲に覆われているように、私たちは自分の行動によって覆われている。表面上の活動の層は、心の奥底にあるものを隠している。取るに足らない波が、私たちの視界から海の計り知れない深さを隠している。些細なことで壮大なものが抑圧され、目の中の一点が山を見えなくするのは、なんと奇妙なことだろう! しかし、海は波のために存在しなくなることはない。それは波の魂であり、波の中にも存在している。知っている人は波の中にでさえ海を認識しているが、知らない人は波が鎮まるまで待たなければならない。彼らは波が去った後にしか海を見ることができない。

私たちはこの海に、本質そのものに飛び込まなければならない。波のことを忘れて、海に飛び込まなければならない。波のない海、なることなく存在している自分自身、の深さを知らなければならない。

この波がなく、動かない意識の万象は常に存在しているが、私たちはそれに気付いていない。その存在から顔を背けている - 私たちは外を見て、物事を見て、世界を見ている。しかし、一つのことを心に留めておいて欲しい - 私たちは見ていて、見られているものは世界のものだ。しかし、見る者は世界ではなく、自己である。

もし視覚が見ている対象に関連しているならば、それは思考であり、もし視覚が見ている対象から解放されて、見ている者自身の方を向いているならば、それは瞑想である。あなたは思考と瞑想の間の私の区別に従うだろうか? 見ることは思考と瞑想の両方に存在するが、前者では客観的であり、後者では主観的だ。しかし、私たちが思考の中にいようが瞑想の中にいようが、行動の中にいようが無行動の中にいようが、見ることは一定の要素だ。起きているときは世界を見、眠っているときは夢を見、サマーディでは自分自身を見るが、これらの条件のそれぞれに「見ること」がある。見ることは一定で絶え間ないものだ。それが私たちの本質だ。それはどのような状態であっても、決して欠けることはない。

ダルマについて、ありがとうございました。実践でしか確かめようがないですが、無であり、全てであるという感じがしました。
文章に関して、今日は特に疑問は湧きませんでした。心を鎮めて、深くを観る実践を続けます。

25鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/28(土) 22:39:15 ID:1d4drIFg0
海の波がわきたつように人の心も欲とか不安とか恐れで波立っているのじゃ。
その波に囚われていると本質が見えないのじゃ。
波がどんなに荒くとも海の底は静かなものじゃ。
そのように真の静寂な本質の意識に眼を向けることが瞑想だというのじゃ。

26避難民のマジレスさん:2020/11/29(日) 20:22:04 ID:Dp/qMVVc0
たとえ気絶していても「見る」ということは存在する。気絶から覚めた後、「私は何もわからない。どこにいたのかわからない。」と言う。これは無知だと思わないでほしい。これも知識だ。もし、「見る」ということが全くなかったら、「何も知らない」という知識はありえないし、その場合、あなたにとって、気絶中に流れた時間は存在しなかっただろう。それはあなたの経験の一部ではなく、記憶には何の痕跡も残されていないだろう。しかし、あなたは何も意識していない状態にあったことを知っている。これもまた知識だ。そして、見ることもまたここに存在している。記憶はこの時間の間、内部的、外部的な現象を記録していないが、私たちの見ることは間違いなく、この隔たり、この間隔を経験している。そして、出来事の記録の隔たり、間隔の経験は、後で同様に記憶に残っている。同じように、夢がない場合でも、睡眠中には見ることは常に存在している。私たちは朝、目が覚めた時に、夢も見なかったほど熟睡していたと言えるだろう。この状態もまた、観察されているのだ。

これらすべてのことから、状況が変化し、意識の内容が変化しても、見ることは変化しないことをあなたは理解しなければならない。私たちの経験の領域のすべてが変化し、すべてのものは無常である。見ること、見ることだけが常に存在している。見る者だけが、このすべての変化の証人であり、このすべての流れの証人だ。この不変の永遠の見者を知ることが、自分自身を知ることなのだ。他のすべてはよそ者であり、他のものだ。他のすべては輪廻、世界だ。

この見ること、証人は、どのような行動によっても、どのような種類の礼拝や崇拝によっても、マントラやテクニックによっても、達成したり実現したりすることはできない。なぜならば、それはこれらすべてのものの目撃者だからだ。それはこれらすべてのものとは異なっていて、離れている。見られるもの、行うことができるものは何でも、見者とは別のものであり、それとは異なる。それは行動によってではなく無行動によって、努力ではなく静寂によって実現される。活動がないとき、見るべき対象がないとき、見る者や目撃者だけが残っているとき、見ることだけが残っているときにのみ実現される。が見ていても何も見られていない時、知っていても何も知られていない時、この中身のない意識では、すべてを知る者が知られる。見るべき対象がないときは、見る者の前のカーテンは落ち、知るべき対象がないときは、知識はそれ自体を認識するようになる。波がなければ海を見ることができ、雲がなければ青空を見ることができる。

この海、この空は誰の中にもあり、この空、この空間を知りたいと思えば知ることができる。そこに通じる道があり、それは誰の中にも存在し、誰もが利用できるようになっている。そして、それぞれがこの道の歩き方を知っている。しかし、私たちは一方向への歩き方しか知らない。道は一方向にしか通れないということはありえないということを考えたことがあるだろうか? それぞれの道は必然的に二つの方向、二つの反対方向に進む。そうでなければ、それは道ではない。あなたをこの丘の人里離れた場所に連れてきた道は、あなたを連れて帰る道と同じだ。来るための道と行くための道は一つしかない。同じ道は両方の目的を果たす。道は同じだが、方向は同じではない。

輪廻へと続く道、世界へと続く道は、自己へと続く道と同じだ。方向だけが違う。長い間あなたの前にあったものは、今あなたの後ろにあり、あなたは後ろにあったものに目を向けなければならないだろう。道は同じだ。私たちは単純に回れ右しなければならない。私たちは、これまで顔を向けていたものに背を向け、背中にあったものに向き合わなければならない。

どんな状況でも永遠の「見ること」は存在し、それを知ることが自分自身を知ることだとオショーは述べています。私の実践ですと、記憶が止まる瞬間までのことしか分からず、記憶が止まってからは空白があるのか無いのかすらも何も分からない状況です。
これは認識を厭離して、真の悟りを得ない限りは分からないものなのでしょうか。

27鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/29(日) 23:07:52 ID:1d4drIFg0
まだ悟りを得ていない者は大抵、記憶が意識であると誤認しているのじゃ。
記憶が無い状態は意識が無い状態だと思うのじゃ。
記憶したものが認識されたものとしているからなのじゃ。
実際は記憶が無くとも意識はあるものじゃ。
オショーも気絶していても見ることは存在するというのじゃ。
深いサマーディに入ってもそれは感得できるのじゃ。

28避難民のマジレスさん:2020/11/30(月) 20:52:43 ID:Dp/qMVVc0
今、あなたの顔がどこに向いているのか、自分に問いかけてみてほしい。あなたは何を見ているのだろうか? 視線、意識は、どの方向に向いて流れているのだろうか? 感じなさい。観察しなさい。あなたはそれが外に向かって流れていることに気づくだろう。あなたの思考はすべて、外の世界についてのものだ。あなたはいつも外の世界について、外のことを考えている。目が開いているときは外を見ているが、目を閉じているときも同じように外を見ている - なぜなら、目を閉じていても、心に刷り込まれた外のものの形やイメージが浮かび上がり、私たちを取り囲んでいるからだ。外には物の世界があり、私たちの内側には、外の物の反響である思考のもう一つの世界がある。このもう一つの世界は内側だが、また、外側でもある。なぜならば、自我である「私」もまた外側だからだ。見者もまた、自我である「私」を見ているので、自我もまた外側にある。

私たちは物と思考に囲まれている。しかし深く考えてみると、物に囲まれていることは自己実現の道を妨げるものではないが、思考に囲まれていることは障害であることがわかるだろう。物は魂を包み込むことができるのだろうか? 物は物を取り囲むことしかできない。魂は思考に囲まれている。視覚の流れ、意識の流れは思考に向かって流れている。思考、思考だけがどこでも私たちの目の前にあり、私たちの視界はそれによって遮られている。

思考から無思考へと顔を向けなければならない。しかし、この方向転換は革命的だ! どうすればよいのか? まず、思考がどのようにして生まれてくるのかを知り、それによって初めて思考の発生を止めることができる。一般的に、いわゆる求道者は、思考がどのようにして生まれてくるかを理解する前に、思考を抑制し始める。ある者は狂ったように努力するかもしれないが、誰一人として思考から自由になることはない。思考を抑圧しても、新しい思考が刻々と現れるので、思考の抑圧は助けにはならない。彼らは神話の巨人のようなもので、一つの頭が切り落とされると、さらに十個の頭が生えてくるのだ。

私はあなたに思考を破壊してくれとは頼まない。思考は瞬く間に勝手に死んでしまうからだ。思考は非常に短命で、どんな思考も長くは続かない。特定の思考は長続きしないが、思考過程は長続きする。思考は次々と死んでいくが、思考の流れは持続する。一つの思考が死ぬとすぐに別の思考が代わりに現れる。この過程は非常に早く行われ、これが問題なのだ。本当の問題は、思考の死ではなく、その素早い再生だ。それゆえに、私はあなたに思考を殺せとは頼まない。思考の誕生の過程を理解し、どうすればこの過程から自分自身を取り除くことができるのかを理解して欲しいのだ。思考が生まれる過程を理解している者は、簡単に思考から解放される。しかし、その過程を理解していない者は、新たな思考を生み出し、同時にそれに抵抗しようとする。その結果、思考が終わるどころか、思考と闘う者自身が壊れてしまうのだ。

意識の流れの観察についてお教えください。私の場合、「意識の流れ」自体を観察することはできませんでした。ただ、例えば思考を観察するときに、なんとなく観察すると、それが内側にあるように感じられ、心を鎮めて観察すると、それが外側にあったり、内も外もなく、ただ思考があるように感じられます。このように、内側、外側、ただ存在する、というのは分かるのですが、「意識が流れている」のは感じられません。
このような状況で観察はできているのでしょうか。

29鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/11/30(月) 21:38:21 ID:1d4drIFg0
意識の流れを観察しようとしなくてよいのじゃ。
心の働きをありのままに観ることが大事なのじゃ。
それだけが法なのじゃ。
それができれば悟ったものが何を語っていたのかわかるのじゃ。

30避難民のマジレスさん:2020/12/01(火) 20:49:15 ID:Dp/qMVVc0
もう一度繰り返す。思考は問題ではなく、思考の誕生が問題なのだ。思考がどのように生まれてくるかが問題なのだ。もし私たちが思考の誕生を止めることができれば、もし思考の誕生をコントロールすることができれば、すでに誕生した思考は一瞬で消える。思考は刻一刻と消えていくが、新しい思考が絶え間なく湧いてくるので、思考の全滅は起こらない。

私が言うのは、思考を破壊するのではなく、思考が生まれるのを止めなければならないということだ。思考の誕生を止めることは、思考の破壊と同じくらい良いことだ。私たちは皆、心は気まぐれだと知っている。しかし、これは何を意味するのだろうか? それは、どんな思考も長くは続かないことを意味する。思考は生まれては消えていくのだ。もし私たちがその誕生を止めることさえできれば、私たちはそれを殺すことに伴う暴力から救われ、それは自発的に死んでいくのだ。

思考はどのようにして生まれるのか?思考の受胎と誕生は、外の世界に対する私たちの反応の結果だ。外には出来事や物の世界があり、この世界に対する私たちの反応が思考の誕生を単独で担っている。私は花を見る。見ることは考えることではなく、ただ見ているだけでは何の思考も生まれない。しかし、見た時に「とてもきれいな花だ」と言えば、思考が生まれる。一方で、もし花を見続けていれば、その美しさを体験し、楽しむことはできるが、思考は生まれない。しかし、私たちは経験をするとすぐにそれを言葉で表現し始める。この経験を言葉という記号で表現することで、思考が生まれてくるのだ。

この反応、経験を言葉で表現する習慣は、経験、実現、視覚を、思考で窒息させる。経験は抑圧され、視覚は抑圧され、心の中には言葉だけが浮かんでいる。これらの言葉はまさに私たちの思考だ。これらの思考は非常に短命なので、一つの思考が死ぬ前に、私たちは別の経験を思考に変換する。この過程は、私たちの生涯を通じて続く。そして、私たちは言葉で満たされ、言葉に圧倒されて、言葉の中で自分自身を見失ってしまうのだ。自分の視覚や経験を言葉で包む習慣を手放すことは、思考の誕生をコントロールすることなのだ。そのことをどうか理解してほしい。

覚者が述べているのは、ただ心の働きをありのままに観ることだけで、それができない衆生のために、様々な技を教え、勇気づけているのですね。
再び自分の中で言葉の意味を分析して正確に理解しようとする習慣が現れたのに気づきました。
また、オショーが言葉で包む習慣を手放すように説いているのに、私自身が自分の経験を言葉で分析しようとしていました。
意味を頭ではなく、心で確かめながら読むことの難しさを実感しています。
日々、心の働きをありのままに観る実践に励みます。

31鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/01(火) 21:29:29 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに己の心を観ることが大事なのじゃ。
どのような教えも言葉にして記憶されると、囚われてしまうこともあるのじゃ。
言葉に囚われないようにと、教えられればその言葉に囚われてしまうことすらあるのじゃ。
ただひたすらに真摯に己の心の働きを観るのじゃ。

32避難民のマジレスさん:2020/12/02(水) 20:45:19 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたを見ているが、もし言葉で表現せずにこのまま見続けていたら、何が起こるだろうか? 今のあなたには何が起こるか想像もつかないだろう。 今までに見たこともないような大革命が起こるだろう。言葉が邪魔をして、その革命を止めてしまう。思考の誕生が革命の妨げになる。もし私があなたを見続け、それを言葉で表現せず、ただ見続けるならば、私はその過程で、素晴らしく神聖な恵みが私の上に降りてきて、空虚さの質、空の質が周囲に広がっていることに気づくだろう。そして、この空の中で、言葉がない中で、意識の方向が新たに変わり、あなたを見ないだけではなく、私たちを見守っている者が徐々に現れてくる。まるで夢から覚めたかのように、意識の地平線上に新たな覚醒があり、私たちの心は純粋な光と無限の平安に満たされる。

最終的には、このサーダナキャンプでは、ある一つの実験をしなければならないと言いたい。それは、私たちの視覚が言葉によって窒息しないようにすることだ。私はこれを正しいマインドフルネスの実験と呼ぶ。言葉が形成されないように注意しなければならない。言葉の展開を止めることはできる、なぜならば結局のところそれは、私たちの習慣にすぎないからだ。生まれたばかりの子供は、言葉の仲介なしで世界を見る。これは純粋な、直接の視覚だ。後にその子は徐々に言葉を使う習慣を形成する。なぜならば、言葉は外の生活や外の世界で役に立つからだ。しかし、外面の生で役立つものは、内面の生を知る上で障害となる。このような理由から、年長者であっても、自分自身を知るためには、子供の純粋な視覚の能力を自分の中に呼び覚まさなければならない。彼らは言葉の助けを借りて世界を知ったが、今は空虚、空の助けを借りて自分自身を知るようにならなければならない。

この実験では何をするのだろうか? 私たちは、体をリラックスして背骨を立てたまま、静かに座る。体のすべての動きが停止していく。ゆっくりと深く、あらゆる動揺なく呼吸する。静かに自分の呼吸を観察し、外から耳に落ちる音に耳を傾けてゆく。どんなことがあっても反応せず、1秒の思考すらも与えない。言葉の干渉を受けずに、ただの見者となるような心の状態に入ってゆく。離れたところに立って、何が起きているかを観察する。全く集中しようとしないでもらいたい。単に静かにして、何が起こっているかを観なさい。聴きなさい。ただ目を閉じて聴きなさい。静寂の中で静かに耳を傾ける。スズメのさえずりに耳を傾け、風に揺れる木々に耳を傾け、子供の鳴き声に耳を傾け、井戸の水車の音に耳を傾ける。ただ聴く。そして何もしない。

まず、自分自身の中で、あなたは呼吸の動きと心臓の鼓動を経験するだろう - その後、新しい種類の静けさと平和が降りてくる。外には雑音があるが、内には静けさがあることに気づくだろう。あなたは、平和の新しい次元に入ったことに気づく。それから、思考がなく、純粋な意識だけが残っていることに気づくだろう。そして、この虚空の中で、注意はあなたの本当の住まいである場所に向けられる。外から見ると、あなたは自分の家の方を向いている。

一点に集中することを修練していくと、私の場合、そのうちに、努力しなくとも全体として集中するようになりましたが、人体というのは、そのようなものなのでしょうか?

33鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/02(水) 21:18:29 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
 日々集中していけば自分が全て集中の対象と一体化したように感じるのじゃ。
 それがサマーディの入り口なのじゃ。
 外の刺激には反応しなくなるのじゃ。
 それが静寂なのじゃ。

34避難民のマジレスさん:2020/12/03(木) 20:56:39 ID:Dp/qMVVc0
あなたの視覚が内向きに導いている。ただ観続けなさい。思考、呼吸、おへその動きを観なさい。反応しないこと。その結果、心の創造物ではない、あなたの創造物では全くないものが現れる。これは実際にはあなたであるものであり、存在だ。これは、私たちすべてを支えている働きだ。それは私たちに自分自身を明らかにし、そして、そのとき、自分自身、つまり、すべての中で最大の驚きが現れるのだ。

ある物語を思い出した。 ある時、サドゥー、求道者が丘の上に立っていた。朝は早く、太陽は輝き始めていた。何人かの友人同士が散歩に出かけていた。彼らは、たった一人で立っているサドゥーを見た。そして、お互いに尋ね合った。「このサドゥーはここで何をしているのだろう?」 そのうちの一人は、「たぶん牛がジャングルでよく迷子になるので、丘の上に立って探しているんだろう。」と言った。他の友人は同意しなかった。もう一人は、「立っている様子からすると、何かを探しているようには見えない。むしろ誰かを待っているように見える、たぶん同行した友人がどこかに取り残されてしまったのかもしれない。」しかし、他の人たちはこれにも同意しなかった。三人目は、「誰かを探しているわけでも、誰かを待っているわけでもない。神の観想に没頭しているんだ。」と言った。

皆が同意できなかったので、状況を明らかにするためにサドゥー自身に近づいた。最初の人は、「失われた牛を探しているのですか?」と尋ねた。サドゥーは、「違います。」と答えた。次の人は「それでは、誰かを待っているのですか?」と聞き、サドゥーは「いいえ。」と答えた。三人目は「神を観想しているのですか?」と聞くと、サドゥーはまたしても否定的な答えをした。三人とも驚いた。全員で「では、ここで何をしているのですか?」と聞くと、サドゥーは言った。「私は何もしていません。ただ立っているだけです。ただ存在しているだけです。」

私たちは、このように単純に存在しなければならない。何もしないでいなければならない。すべてを捨てて、ただ存在しなければならない。そうすると、言葉にできない何かが起こる。起こるであろう経験は、言葉では表現できない。それは経験の体現だ。それは真実の実現であり、自己の実現であり、神の実現なのだ。

第2章はここまでです。悟りを得るのに最大の障害は自我だと思うのですが、自我に対する執着が弱まると、例えばどのようなことが起こるでしょうか?
私の場合ですと、以前に比べてこだわりが無くなり、感情の働きが薄くなり、何もなくとも楽な感じが増えたように思います。また、様々なことに対して、意味を感じられにくくなっているようにも思います。

35鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/03(木) 21:47:01 ID:1d4drIFg0
自我に対する囚われがすくなくなれば、怒りは少なくなるじゃろう。
欲も少なくなるじゃろう。
何もしないこともできるじゃろう。
ただ存在していることもできるじゃろう。

36避難民のマジレスさん:2020/12/04(金) 20:20:36 ID:Dp/qMVVc0
第3章 初日の夜 1964年6月4日午後
質問1
最初の質問:宗教と科学の間に矛盾はありますか?
ない。 科学の知識は不完全だ。 それは、世界中に光がある一方で、あなた自身の家に暗闇があるようなものだ。そのような不完全な知識では、自己の知識なしでは、生は単に不幸になる。生が平和、満足、充足感を得て輝くには、物質的なものを知るだけでは十分ではない。そのような道では、人は繁栄を得るかもしれないが、満たされはしない。そのような道では、所有物を得るかもしれないが、光は持てない。そして、光がなければ、知識がなければ、所有物は束縛となり、自分で作った縄で自分の首を吊ることになる。

世界だけを知る者は不完全であり、不完全さは不幸につながる。世界を知ることによって、人は力を得る。そして、科学は知識と力の探求だ。科学はすでに人類の手に無限の力への秘密の鍵を握らせているのではないだろうか? しかし、そのような力を得ても何の価値も生まれてこない。間違いなく人間は力を持っているが、平和は持っていない。平和は、物質的なものではなく、神を知ることによって得られる。この神を探すことが宗教だ。

平和のない力は自滅的なものだ。自己を知らずに物質的なものを知ることは、無知な者の手に力があることを意味する。そこからは良いことは何も生まれてこない。科学と宗教の間に蔓延している対立は、これまでのところ悲惨な結果をもたらしている。科学の領域だけを研究してきた者は、力を持つようになったが、彼らは落ち着きがなく、不幸だ。そして、宗教だけを研究してきた者は、間違いなく平和を手に入れたが、彼らは弱くて貧しい。このようにサーダナ、これまで行われてきた探求は不完全で、部分的なものだ。これまでのところ、真理のための不足なく完全なサーダナはなかった。

私は、その完璧さの中にある力と平和を見たい。私は、宗教と科学の統合、調和が欲しい。そうすることで、完璧な個人、完璧な文化、内なる価値と外なる成果に富む人々が生まれるのだ。個人は肉体でも魂でもなく、この二つの組み合わせだ。したがって、これらのうちのどれか一つだけに基づいたものは不完全なものだ。

これは、科学を信じる人への対機説法ということでしょうか?

37鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/04(金) 21:40:29 ID:1d4drIFg0
↑そうではないのじゃ。
科学が本当に観察とその結果だけを尊重したならば、悟りに導く真の宗教と全く合致したものとなるのじゃ。
神とか幻想を信じる宗教とは矛盾するがのう。
科学が正しく発展されたならば、悟りの境地も証明され、悟りへの道もあかされるのじゃ。
間違えば破滅への道となるのじゃ。

38避難民のマジレスさん:2020/12/05(土) 21:17:35 ID:Dp/qMVVc0
質問2
第2の質問:世界における生の放棄について、あなたの考えはどうですか?サニヤスは、求道者になることは、世界を放棄しければできないのでしょうか?

世界とサニヤスの間には競合はない。放棄しなければならないのは世界ではなく、無知だ。世界を放棄することはサニヤスではない。知識、自己認識の知識の覚醒が、サニヤスだ。この覚醒は、世界ではなく、世界への執着の放棄につながる。世界はあるがままの場所に留まるが、私たちは変容していく。私たちの視座が変容する。この変容は非常に基本的なものだ。この覚醒した状態では、何も手放す必要はない。無用なものや余計なものは、木から熟した果実のように自動的に落ちていく。 闇が光の到来で消えるように、知識の夜明けには不純物が去り、その後に残るのがサニヤスだ。

サニヤスは世界とは何の関係もない。それは自己と関係がある。それは自己の浄化だ。それはまさに合金化した金の浄化のようなものだ。

自己無知の立場から生を見ることは、輪廻、世俗であり、自己認識の立場から生を見ることは、サニヤスだ。それゆえに、誰かが私にサニヤスを「取った」と言う時はいつでも、私には偽りのように思える。サニヤスを「取った」というのは、世界と敵対する行為のような印象を与える。サニヤスは取ることのできるものなのだろうか? 知識を「取った」と言えるのだろうか? そして、そのように取られた知識は、本物の価値があるのだろうか? 取られたサニヤスは本当のサニヤスではない。真実の仮面を被ることはできない。真実は目覚めなければならない。

サニヤスは生まれる。それは知識によってもたらされる。そして、その知識の中で私たちは変容していく。知識が変容すると、私たちの視座が変わり、行動は自動的に変容する。世界はその場に留まり、徐々に私たちの中にサニヤスが生まれてくるのだ。サニヤスとは、「私は肉体ではない」という知識であり、「私は魂である」という知識だ。この知識が芽生えると、無知や執着が離れていく。世界は外にあったし、これからもそこにあり続けるだろう。しかし、内側にはそれに対する執着がなくなる。言い換えれば、内側には世界も輪廻もないということだ。

外の世界に執着しようとするのは無知であり、それを放棄しようとするのも無知だ。世界に執着することも、世界への嫌悪感も、どちらも無知だ。どちらも世界との関係なのだ。この関係がないことが自由、執着と嫌悪からの自由だ。忌避や嫌悪だけではない。この愛着と嫌悪の不在を私はサニヤスと呼ぶ。

科学に関して、ありがとうございました。質問に自我が出ていました。科学者も慈悲を持ち、自分の心を外の世界と同様に観察するということでしょうか。
今日の文で、オショーは知識について述べています。この知識は一般的な、記憶できて伝達できる知識とは別のものだと思うのですが、鬼和尚の言う観察によって得られる「気づき」と同じようなものと捉えて良いのでしょうか?

39鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/05(土) 21:53:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、科学の観察は自分を見る観察と同じなのじゃ。
観察を自分の心の中に向ければ悟りもやってくるのじゃ。

気づきと言えるのじゃ。
ただの記憶では人は変らないのじゃ。
自分の性質に気付くことで変容していくのじゃ。
実践で確かめるのじゃ。

40避難民のマジレスさん:2020/12/06(日) 20:50:09 ID:Dp/qMVVc0
愛着と嫌悪の両方からの自由は、知によって達成される。執着は一種の無知であり、執着にうんざりした時の反応は嫌悪だ。この反応もまた無知だ。最初のケースでは、人は世界に向かって走り、2番目のケースでは世界から逃げる。どちらの場合も人は走る。しかし、私たちの内に秘められている人の喜びが、世界を追いかけたり、世界から逃げたりすることによってではなく、自分自身にしっかりと留まることによって達成されることを、皆はほとんど知らない。世界に向かって走ってはならないし、世界から逃げてもならない。私たちは、本当の自分自身に、入っていかなければならないのだ。

覚えておきなさい。私たちは自分自身の中に入っていかなければならない。この自己の中に入ることは、愛着や嫌悪によっては不可能だ。愛着と嫌悪の間に内在する対立の見者になることによってのみ可能なのだ。私たちの中には、愛着と嫌悪の両方を観るものがいる。私たちはそれを知らなければならない。知ることで、私たちは自動的に愛着と嫌悪の両方からの自由を得ることができる。知ることは、自己認識の自然な結果なのだ。

質問3
第三の質問:家庭や家族の放棄は無意味だと思いますか?
マハヴィーラの格言を覚えている。彼は言った、「愛着とは所持である」と。 彼は「所持とは愛着である」とは言わなかった。 なぜか? 無知のため、愚かさのために、私たちは世俗的なものに執着している。内面が空っぽなので、自分を大切な存在だと錯覚させるために、外のもので自分を満たしたいのだ。このような状況下で執着を放棄し、無知が残っている場合、本当に執着を取り除くことができるだろうか? 人は物事からは解放されるだろうが、執着心からは解放されない。執着はまだそこにあるだろう。

もし僧院のために自分の家を離れた場合、僧院への執着が自分の家への執着の代わりになるだろう。宗派に入るために家族のもとを離れた場合、家族と同じように宗派に執着することになる。愛着は内面にあり、それはどんな新しい状況下でも表現される。したがって、知る人たちは、物質的なものではなく、欲望と無知の放棄を勧めている。一旦知が明けると、役に立たないものは放棄する必要さえなく、自動的に離れ落ちるのだ。

他者から伝えられるのではなく、自分で気づくことに近づけるため、訳語の「知識」を「知」に変えました。
好きな物事を放棄するのではなく、その物事に対する執着を放棄するというのは納得です。私の場合も物事そのものを放棄するよりも、物事への執着を放棄することを決めて、その物事を楽しんでいる時に自分自身を観察することで、そのいくつかを厭離することができています。

41鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/06(日) 21:59:14 ID:1d4drIFg0
執着が心に残っているならば家族を捨てても無駄なのじゃ。
執着が無いならばあえて捨てることも無いのじゃ。
ありのままにそれを観ることができたならば自動的に滅するのじゃ。
何か変ったことをしようとするのではなく、ただひたすらにありのままに心を観ればよいのじゃ。

42避難民のマジレスさん:2020/12/07(月) 21:12:14 ID:Dp/qMVVc0
質問4
第四の質問:無思考になるために私たちは心を集中させるべきでしょうか?
私はあなたに集中しなさいとは言わない。集中は一種の強制であり、一種の緊張だ。何かのアイデア、何かの形やイメージ、または何かの言葉に集中した場合、それは無思考にも意識の覚醒にもつながらず、無意識の精神的な昏睡状態になる。それは自己催眠のようなものだ。強制的な集中は無意識につながる。そして、この無意識をサマーディと勘違いするのは間違いだ。サマーディは無意識の状態でも昏睡状態でもない、サマーディは完全な意識の実現だ。サマーディとは、無思考と完全な意識の組み合わせなのだ。

質問5
第五の質問:どのように瞑想で吸うことと吐くことのプロセスを見るのですか?
背骨を直立させなさい。曲がらないように。背骨が直立している状態では、体は自然なバランスを保っている。その姿勢では地球の引力が身体に均一に作用し、その引力から解放されやすくなる。重力の力が最小になると、身体は、人が空になること、思考がなくなることを妨げない。体の緊張や硬直なしで、背骨の直立した状態を保ちなさい。あたかも布をフックに引っかけるかのように、身体を背骨に引っかけるように、体をリラックスさせなさい。

体を完全にリラックスさせてから、ゆっくりと深く呼吸しなさい。吸うことと吐くことで、臍の中心は上下に動く。この動きを見続けなさい。それに集中する必要はない、ただそれを見る。それの見者でいなさい。集中を勧めているのではないことを覚えておきなさい。私は単純な油断のなさと気づいていることをアドバイスしている。子供たちがするように呼吸する - 彼らの胸は動かない、彼らのお腹が動く。これは、吸うことと吐くことの自然なプロセスだ。この自然な呼吸の結果として、安らぎはより深く、より深くなって、私たちの上に降りてくる。

心の乱れと緊張状態のために、私たちは徐々に深く、完全に呼吸する能力を失っている。思春期になる頃には、表面的で人工的な呼吸が習慣化する。あなたは間違いなく気づく。心が乱れれば乱れるほど、自然でリズミカルな呼吸ができなくなることに。リズミカルに、楽に、自然な方法で呼吸しなさい。自然な呼吸の調和は、精神的な落ち着きのなさを一掃する助けになる。

これは一箇所を見続けるということで、止の瞑想と言って良いのでしょうか。初心の頃は集中しないと一箇所を見続けるのが難しかった記憶があります。私の場合は、慣れるまでは努力して集中して一箇所に意識をとどめ、そのうちに勝手に集中するようになってきたら、集中の意志を減らしてゆくという方法が合っていました。
いつも数息観では鼻先の息の出入りを見守っていたのですが、今日は試しに、自分の名前を呼ばれた時に感覚が生じる臍の下あたりを見続けてみます。

43避難民のマジレスさん:2020/12/08(火) 20:17:56 ID:Dp/qMVVc0
第6問
第六の質問:なぜあなたは呼吸プロセスを観察するように私たちに助言するのですか?
私がそうするのは、呼吸は、吸ったり吐いたりすることで、肉体と魂の間の橋渡しをしているからだ。魂は呼吸を通して、そして呼吸のために体の中に存在している。自分の呼吸に気づくことで、呼吸を直接知ることで、人は次第に自分が肉体ではないことを経験する。

私は肉体だが、肉体であるだけではない。それは住まいではあるが、土台ではない。呼吸の直接の認識が深まるにつれて、人は、体ではない何かの存在の間近さを経験する。一瞬の間、人は自己が身体ではないことをはっきりと見る。そうすると、あなたは3つの層、あなたの人格の3つの鞘を見ることができる - 身体、呼吸、魂。身体は殻であり、呼吸は橋であり、接続リンクであり、魂である自己は基礎である。

呼吸が中心点であるため、自己実現への道における呼吸の役割は最も重要なものだ。一方には肉体があり、もう一方には魂がある。私たちはすでに物理的なレベルで存在しているが、私たちが憧れるのは、魂の領域に入ることだ。しかし、それができるようになる前に、プラーナ、呼吸の、自然な調和に至ることが不可欠だ。そうしなければ、魂の王国に入ることはできない。

呼吸のレベルで見ていると、人は両方の道を見ることができる。ここから、肉体と魂への道が明らかになる。道は一つで同じであるが、二つの方向ははっきりとしている。その結果、魂の領域に向かって、内側に向かって一歩を踏み出すことが可能になる。私が呼吸を強調する理由が分かってもらえただろうか。

ここでの「魂」とは何を指すのでしょうか?

44鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/08(火) 21:32:33 ID:1d4drIFg0
アートマンとかじゃな。
認識できない認識主体なのじゃ。
自己の基盤となるものじゃ。
それが存在するのではないが、意識がそれに向かって行くことで悟りも得られるのじゃ。

45避難民のマジレスさん:2020/12/09(水) 20:50:30 ID:Dp/qMVVc0
質問7
第七の質問:なぜ、ディヤーナ、瞑想は行為ではないと言うのですか? それは同様に行為ではありませんか?
どうか、ここを見て欲しい。 私の拳は閉じている。拳を閉じるには、積極的に行動しなければならない。拳を閉じることは行為だ。しかし、それを開きたいと思ったとき、私は何をしなければならないのだろうか? 開くために何もする必要はない。拳を閉じる努力を捨てれば、自動的に拳は開き、手は自然で正常な状態に戻る。したがって、私は拳を開くことを行為とは呼ばない。それは無行為であり、お望みであれば、それを負の行為と呼んでもよい。しかし、それは何の違いもない。私は言葉では議論しない。私の言っていることを理解して欲しい。その本当の意味を理解して欲しい。

瞑想を「無行為」と呼ぶことで、瞑想を仕事や活動として捉えてはいけないということを示したい。瞑想はそのような業務から解放されている。それは自然な状態であり、それをいかなる種類の精神的緊張に変えることはできない。もし瞑想が精神的な緊張状態になってしまったら、あなたを自然な状態にも精神的な平穏にも導くことはできない。緊張は一種の落ち着きのなさであり、もし平安を得たいと思うならば、まず静かになることから始めるべきだ。もし最初の段階で平穏も静けさもないのであれば、最後の段階では確かに何もないだろう。最後の段階は、最初の段階の集大成に過ぎないのだ。

私は人々が寺院に行くのを見て、神々を崇拝するのを見る。また、瞑想の中で座っているのも見る。しかし、彼らにとっては、それはすべて活動であり、緊張した落ち着きのなさのようなものであり、このような活動のすべてが平穏の花と実を結ぶことを期待するのは、全くの愚かなことだ。もしあなたが平安を望むのであれば、平穏になりたいのであれば、今この瞬間から平穏の中でスタートすることが不可欠だ。

皆に言いたい。真実を探してはならない。真実を探すことにはエゴがあり、障害となるのはエゴなのだ。ただ自分自身を失いなさい。あなたのアイデンティティを失いなさい。単に自分自身であることを止めなさい。エゴである「私」がいなくなって初めて、本当の自分が見えてくるのだ。自我、「私」の感覚が消えてこそ、本物が見えてくるのだ。自分を失うことによってのみ、人は自分自身に到達する。種から新しい生命が芽を出すのと同じように、不老不死は、種である魂の鞘である「私」がバラバラになり消えた時にのみ芽を出すのだ。どうかこの原理を覚えておいて欲しい:自己を達成するためには、自分が存在することを止めなければならない。不老不死は、死の犠牲を払うことで得られる。雨粒は海の中でそれ自身を失うときに海になるのだ。

坐る時には、姿勢を保つためにどうしても腰に緊張が生じるのですが、これは問題ないのでしょうか?

46鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/09(水) 21:43:44 ID:1d4drIFg0
腰と腹に力が入り、緊張するのはよいのじゃ。
問題はないのじゃ。
上体からは力を抜かないといかんのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

真のディヤーナは行為ではなく、行為しないことだというのじゃ。
手から力を抜けばこぶしが開くように、行為しないことで心が解放されるのじゃ。
自己をも手放すことで、永遠に達するのじゃ。
自分を失うことで真の意識に回帰するのじゃ。

47避難民のマジレスさん:2020/12/10(木) 20:56:51 ID:Dp/qMVVc0
あなたは魂だが、もしあなたが自分自身の中でそれを探せば、あなたは欲望以外のものを見つけることはできない。私たちの人生のすべては欲望だ。何かになりたい、何かを達成したいという欲望。誰もが何かになりたい、何かを達成したいと思っている。その競争は、私たちの人生のあらゆる瞬間に続いている。誰も今いる場所に留まりたいとは思わない。誰もが、自分がいないところにいたいと思っている。欲望とは、自分や持っているものに対する漠然とした不満であり、自分でないものや持っていないものに対する盲目的な憧れだ。なぜなら、何かを手に入れるとすぐにそれが無意味になり、欲望はまだ持っていないものを囲い始めてしまうからだ。欲望は常に未達成のもののためにある。

欲望は地平線のようなものだ。あなたが地平線に近づこうとすればするほど、地平線は遠ざかっていく。これは、地平線が単に存在しないからだ。それはただの外観、錯覚だ。それは現実ではない。もしそれが現実であれば、それはあなたが近づくにつれてあなたに近づいてくるだろうが、もしそれが非現実であれば、あなたが近づくと消えてしまうだろう。もしそれが現実でも非現実でもないならば、現れたもの、夢、幻影、想像の産物であるならば、それは、あなたがどんなに懸命に近づこうとしても、以前と同じように遠くに残るだろう。

真実でないものは、真実の反対だ。幻想の世界、マーヤーは、真実の反対ではなく、そのベール、覆いだ。欲望は、魂の反対ではなく、アートマンの反対ではなく、そのベール、覆いなのだ。それは霧であり、私たちの存在を隠す煙だ。私たちは自分ではないものを追い求め、その結果、自分が何者であるかを見ることができない。欲望は魂の上に落ちたカーテンであり、そのために私たちは自分の魂を知ることができない。私たちは常に他の何かになりたいと思っているので、私たちは自分自身の存在を実現することができない。

この競争、何か他のものになりたいというこの欲望が一瞬でも止まれば、存在するものは、目に見えるようになる - 雲のない空が一瞬だけでも、太陽が目に見えるようになるのと同じように。この競争の不在を私はディヤーナ、瞑想と呼ぶ。そして、実際に何があるのかを知った瞬間に体験する驚きの感覚は、なんというものだろう! それにより、人がこれまで望んでいたすべてのことが達成される。魂の視座は欲望の完全な充足だ。なぜならば、そこには何も欠けていないからだ。

悟りへの欲望によって修行を進めても良いが、最後にはその欲望も捨てるという解釈で良いのでしょうか? 私の場合、悟りへの欲望は常に一定ではないのですが、その欲を厭離しなくとも、欲が現れていない時に偶然に自我の成り立ちが全部観られて、無我になることもありますか?

48鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/10(木) 21:37:45 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、最後に捨てるがよいのじゃ。

そのようなこともあるじゃろう。


人生の全ては欲望だというのじゃ。
何かになりたいとか達成したいという欲ばかりなのじゃ。
欲が捨てられれば自分も見えるのじゃ。
そして全ての欲がかなっていることを知るのじゃ。
欲も本当は孤独や不安や恐れからの逃避であるからのう。

49避難民のマジレスさん:2020/12/11(金) 20:42:22 ID:Dp/qMVVc0
思考は無知のしるしだ。知の中には思考はなく、直接の知覚がある。思考の道では、知にたどり着くことはできない。思考から解放された意識は、知への扉だ。知は達成ではなく、発見なのだ。私たちはそれを達成する必要はなく、発見する必要がある。それは私たちの中に常に存在している。私たちは井戸を掘るように、掘り出さなければならない。新鮮な水の泉は、大地の下、岩や石の下に深く埋まっている。それらが取り除かれると泉はすぐに湧き出てくる。

私は、知の泉の床に岩と思考の石の山が横たわっているのを見る。これらが取り除かれるとすぐに、私たちは意識の切れ目のない流れを持つことになる。自分の中に井戸を掘りなさい。瞑想の鋤で思考の層を取り除きなさい。そして、正しいマインドフルネスと絶え間ない気づきによって、思考は出涸らしになる。存在からそれを一掃しなさい。あなたが知っていることは知になるだろう。思考がないところでは、意識が思考の煙に隠れていないところでは、あなたは知を見つけるだろう。

私は孤独になれと言わない。自分の中に孤独を作って欲しいと言うのだ。場所を変えただけでは何の役にも立たない。環境ではなく、私たちの精神的な態度が最も重要なのだ。人は孤独の中に入るかもしれないが、もし自分の中に孤独がなければ、孤独な隠れ家の中で群衆に囲まれることになるだろう。

友よ、群衆は外にいるのではなく、あなたの中にいる。内なる群衆に囲まれているのなら、外の群衆から逃げることが何の助けになるだろうか。今あなたと一緒にいる群衆は、あなたと一緒に孤独の中に入っていくのだ。群衆から逃げても無駄だ。内なる欲望の群衆こそが取り除かれなければならない。それゆえに、どこか他の場所に孤独を求めてはならない。ただ内なる孤独であれ。隠遁するのではなく、内に無欲を作りなさい。あなたがこれを実現する瞬間、平穏、至福、恍惚感が染み渡るだろう。そして、この瞬間、人ごみがあったこともなく、外の世界があったこともないことに気づくだろう。すべてはあなたの中にあったのだ! 創造者と被造物は、互いに切り離されたものではない。それらは、本当は一つであり、同じものなのだ。それはウパニシャッドの神秘家が叫んだような至福の瞬間であったに違いない。「Aham brahmasmi - 私は彼であり、創造者であり、神である。」

今日は特に質問はありません。オショーの文を読んでいると、勇気が湧き、瞑想に誘われます。

50鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/11(金) 22:50:54 ID:1d4drIFg0
オショーの言う知とは知識ではないのじゃ。
知識は記憶によるものであるから思考もできるのじゃ。
真の知とは直接の知覚によるものというのじゃ。
思考や記憶に拠っては辿りつけない意識に至れるのじゃ。

51避難民のマジレスさん:2020/12/12(土) 20:52:40 ID:Dp/qMVVc0
時代の埃が私たちの心の上に積もっている。古い習慣、古い伝統や迷信は、廃墟やさびれた家がクモの巣でいっぱいで、暗闇の鳥が住んでいるのと同じように、私たちを包んでいる。それと同じように、私たちは他人から借りた思考でいっぱいになっている。そして、真実と神についてのこれらの借りられた思考は、大きな障害となる。それらは真実を知ることから私たちを妨げている。そしてそれゆえに、自己の探求、眠っている意識を目覚めさせることができる探求は、決して私たちの中で始まることはない。

人が自分自身で真実を知ることができるようになる前に、他人から借りた知識を自分自身から取り除く必要がある。それは知ではなく、単なる情報だ。帽子の埃を払うように、他の人や古い伝統から得たすべての情報をブラシで払いのけなさい。そうすれば、あなたははっきりとした視界を持つようになり、真実と自分自身の間にあるカーテンはもうそこにはないだろう。思考の群れが壁のようにそれらの間に立っている。

真実について知ることと、真実そのものを知ることの間には、世界の違いがある。真実について知ることは、死んだ、借りた知識への隷属であり、真実そのものを知ることは、自己実現の空(そら)の自由な広がりなのだ。一方はあなたの飛ぶ能力を奪い、他方はあなたを神へ連れて行くことができる翼を与える。

私があなたに空虚について、空(くう)について話しているのは、このような理由からだ。空は思考の重荷を取り除く。人が山に登る前に自分の重荷を平地に置かなければならないのと同じように、人は真理への遠征に出発する前に、思考の重荷から解放されなければならない。登山家は軽くなればなるほど、高く登ることができるようになる。同じように、真理の山に登ろうとする者は、その重荷の無さ、空に比例して高みを目指す。頂点を目指す者、至高の存在を目指す者は、存在が無になる究極の虚無に到達しなければならない。完璧さの頂点は虚無の深淵で起こり、存在の音楽は無存在の沈黙から出てくる - そして、涅槃そのものがブラフマン、創造者、神の実現であることを知る。

できるだけの時間、自分の心を観ようとするのですが、つい忘れてしまうことがあります。あと、観察に疲れたり飽きたりするというのは、観察ができていないという証拠なのでしょうか?

52鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/12(土) 23:44:43 ID:1d4drIFg0
↑それで善いのじゃ。
人は忘れたり、疲れたり、飽きたりすることもあるものじゃ。
その時は誤魔化したりせずに忘れた、疲れた、飽きたと観察するのじゃ。
ただひたすらにありのままに観るのじゃ。

思考の慣習が続く限り、自分を観ることは難しいというのじゃ。
記憶からの投射である思考は今ここにあるものごとから目を逸らさせてしまうからなのじや。
思考を止めるために空を説くのじゃ。
存在が無になるまで空を念じるのじゃ。

53避難民のマジレスさん:2020/12/13(日) 21:11:50 ID:Dp/qMVVc0
真理が未知のものである以上、思考によってどうやって知ることができるのか? 思考もまた知られているものだ。努力は全く不合理だ。既知のものから未知のものへの道はない。既知のものが未知のものへと導くことはできない。未知のものは考えることができない。それは不可能だ。既知は既知の輪の中を移動することしかできない。既知の領域の中でどんなに頑張って考えても、その領域を超えることも、その領域から出ることもできない。私は間違いなく移動するだろうが、それは水車を回す雄牛のように、円を描くように移動するだろう。私はどこにも行くことなく、同じ地面を何度も何度も覆うだろう。これまで誰も、考えて真理にたどり着くことはできなかった。その目的地に到達した者は、別の方法でやってきたのだ。私は、マハヴィーラも老子もブッダもイエスも思想家だとは思わない。彼らの達成はどれも思考の結果ではなかった。では、どうやって目的地に到達したのだろうか? それは、思考の道を歩いたのではなく、思考の道から飛び降りたのだ。既知の道を歩いても、未知の世界には到達できない。その道を離れて、未知の中へジャンプしなければならないのだ。

どうか「ジャンプ」という言葉の意味を理解して欲しい。この「ジャンプ」をよく知るのだ。あなたもそれをしなければならない。あなたは思考のレベルに立っている。思考の中に立っていて、思考の中に生きていて、そこからあなたは無思考の領域にジャンプしなければならない。沈黙以外の何もない世界に飛び込まなければならない。あなたは音から静寂へとジャンプしなければならないだろう。このジャンプのことを考えれば、そこに行けるのだろうか? あなたはどうやってジャンプするかを考えるのだろうか? 違う。あなたは再び思考の輪に自分を縛り付けることになり、それはどこにも連れてはいかない。

考えるな - 目を覚ますのだ! 思考の過程を観なさい。それが円の中でどのように移動するかを観なさい。単に観るのだ。そして観ていると、ある幸いな瞬間に、何の努力なしにジャンプが起こり、空虚の底知れない深さにあることを見つけるだろう。既知の海岸を離れた瞬間、あなたのボートは未知の海の上を滑らかに航海していることに気づくだろう。

そして、このように未知の海を航海することは、なんという喜びなのか! 何と表現すればいいのだろう? 落ち着きがないと見ることができない。涙で満たされた目には見えない。それが喜びの涙であろうが 悲しみの涙であろうが 何の違いもない。 何かで満たされた目は真理を見ることができない。真理を見るためには、空っぽの目が必要だ。何も入っていない鏡のような目だけが、すべてのものを見ることができるのだ。

思考では先に進めないことが理論と実践で分かっていても、思考に執着し、期待している感情が残っています。これを厭離するためには原因から観察する必要がありますが、例えばどのような原因があり得るでしょうか?

54鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/13(日) 21:59:45 ID:1d4drIFg0
思考が自分と思うならばそれをもっと詳しく観察すると善いのじゃ。
オショーも思考の過程を観よと言っているのじゃ。
それはただの観念を対象とする道具に過ぎないのじゃ。
思考は対象とする観念がなければ存在しない虚ろな道具なのじゃ。
石の観念があれば石について思考が起きるものじゃ。
おぬしは石についての思考なのじゃろうか。
犬の糞の観念があれば犬の糞についての思考が起きるものじゃ。
おぬしは犬の糞についての思考という存在なのじゃろうか。

そのように対象が無ければ存在し無いものはただの道具であり、在るものではなく、幻想であり空であると観るが善いのじゃ。

55避難民のマジレスさん:2020/12/14(月) 20:53:02 ID:Dp/qMVVc0
ある村で起きた出来事について話そう。ある人がどうやって神を見つけるかを尋ねてきた。私は問いによって答えた。今、神を見つけようとしているのなら、もうあなたは自分を見つけたのかと。私たちは神を知りたいと思っているが、自分自身を知らない! 自分に最も近い存在すら知らないのだ! どのような存在も、自己よりも近いものはない - だから、はじめに無知が付けられたに違いなく、それは今の時点で打ち負かされなければならない。自分自身について無知な人は、他のどのレベルでも知を得ることはできない。

知の炎は、最初に人間の内なる存在の中で燃え始める。それは知の東であり、知の太陽はそこから昇る。もしそこに闇があるとすれば、他のどこにも光があるはずがない。神ではなく、自分自身を知りなさい。この一筋の光は、最終的には太陽へと成長していく。自己を知ることによって、サット-チット-アーナンド、存在、意識と至福があることが実現するが、そこでは 「私」、自我はない。その実現こそが、神の実現なのだ。

人間は自我に覆われた魂だ。そして、これが無知だ。自我を取り払った魂が神だ。そして、これが知なのだ。自分の魂を求めてどこへ行こうとしているのか? 十のどの方角に行っても、それはどこにも見つからない。しかし、もう一つの方角がある。あなたは知っているだろうか? 私がその方角を案内しよう。

あなた自身がその十一番目の方角であり、他の十の方角を探すのをやめれば、この方角を見つけることができる。この十一番目の方向は他の十の方向とは違う。実際には、それは全く方向ではない。それは無方向であり、方向の否定だ。それはあなたが去ったことのないところに連れて行ってくれる。それはあなた自身の実体であり、あなた自身の自然な状態だ。十の方向はすべて外に向かっている。世界はそれらの創造物だ。十の方向が世界だ。 それらは距離だ。しかし、これらの方向のすべてを知っていて、その中を移動する者は、確かに世界から切り離されていて、確かに異なっている-そうでなければ、その者は世界を知ることも、その中を移動することもできなかっただろう。その者は移動すると同時に、移動しない。もし自分自身の存在の中でしっかりと確立されていないならば、動くことはできない、なぜならば、その者の回転輪の中心には固定があるからだ。馬車の車輪に気を留めたことがあるだろうか? 車輪が動くことができるのは、車軸が静止しているからに他ならない。どんな動きも常に固定されたものがあり、それを支えているのだ。人生は不安定で一過性のものだが、魂は恒久的で安定している。魂は第十一の方向だ。人はそれを求めてどこかに行く必要はない。すべての探し物を捨てて、あなたの中に誰がいるのかを見なさい。存在する者に目覚めなさい。これは、探究を放棄すれば可能だ。それは走ることによっては不可能だが、停止することによって可能なのだ。

思考の観察について、ありがとうございます。囚われず、ただ停止して、対象の縁起から起こる思考の過程を観ることに励みます。

56鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/14(月) 22:01:22 ID:1d4drIFg0
神がどのようにして見つけることが出来るのか、それを知る前に自分について知らなければならないとオショーはいうのじゃ。
自分を知らなければ、神についても知れるはずも無いのじゃ。
それは歩き方を知らないのに、走り方を知ろうとするようなものじゃ。
自分を知ることで神への最短の道を通過することが出来るのじゃ。

57避難民のマジレスさん:2020/12/15(火) 20:25:58 ID:Dp/qMVVc0
止まって、観なさい。この二つの言葉は宗教の核心、あなたの修行の道標であり、ヨーガの全体の鍵だ。止まって、観ると、第11の方向が開かれる。そこを通って、あなたは内なる空間に入る。その内なる空間が魂だ。私は、あなた方が皆何かを追いかけて走っているのを見るが、この走りは結局は倒れることで終わってしまう。あなたは毎日、人々が倒れているのを見ないだろうか? それはすべて走りの結果ではないのか? 走ることはすべて死で終わるのではないか? しかし、最初にこの真実を知る者は、最後にその災難から救われるのだ。

止まって、観て欲しい。 あなたはそうするだろうか? 必死で走っている最中に、私の呼び声が聞こえるだろうか?止まって、走っている人を見なさい。止まって、探している人を見なさい。止まって「私」を見つめるのだ。走ることの熱が冷めるとすぐに十の方向はすべて消え、ただ一つの方向、その無方向だけが残る。それはあなたを根源に、源に、最高の知の泉に連れて行く。

ある求道者がかつて、人々に、生まれる前にどのようなものであったかを尋ねた。もしあなたがその求道者に会いに行ったら、彼に何と言うだろうか? あなたは、生まれる前に自分がどうだったかを知っているだろうか? 死んだ後に自分がどうなるかを知っているだろうか? もしあなたが止まって観ることを学べば、知ることができる。生まれる前の存在、死んだ後の存在、そして今この瞬間に内側にいる存在を知ることができる。それは、少し振り返って見るだけだ。止まって、観なさい。

あなたをこの素晴らしい世界への旅に招待する。 止まって、観なさい。

第3章は以上です。ここまででもし、訳におかしなところがありましたらご指摘ください。
止観を続けます。

58鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/15(火) 21:52:02 ID:1d4drIFg0
心を止めて、観ること、それが止観なのじゃ。
本来は観察が真の道なのじゃ。
しかし、悟りを得ず、修行もしていない者が心を観察することは難しいものじゃ。
そうであるから心を止める修行もしなければならないのじゃ。

59避難民のマジレスさん:2020/12/16(水) 20:50:26 ID:Dp/qMVVc0
第4章 2日目の朝 1964年6月5日 午前

友よ、私たちは自分自身と戦ってはならない、自分自身を知らなければならない。自己についての無知のために私たちの中で発展してきた矛盾や自己矛盾はすべて、自己を知ることによって蒸発していくのだ - 草の上に落ちる露が太陽が昇るとともに消えていくように。

私はあなたの知への好奇心と意気込みをよく理解している。あなたは真理を知りたい、理解したいと思っている。あなたは生の謎を解き明かして、その完全性を得られるようにしたいと思っている。しかし、私たちが今、生と呼んでいるものは、本当の意味での生ではない。それはあたかも、ただ死ぬことの長い、引き延ばされた過程と呼べる。生を知らずして生を得ることはできないというのは事実だ。誕生は一つのことであり、生は全く別のものだ。ただ生きているだけのことと、生の完成の間には大きな違いがある。その違いは、死と不死の間と同じくらい大きい。死は生の必然的な終わりであるのに対し、生の完全な完成は、神的な生によって冠される。

神的な生を送りたいと願う者、神と真理を知りたいと願う者には、二種類のアプローチがあるように思える。一つは道徳のアプローチ、もう一つは宗教のアプローチだ。道徳と宗教は通常、二つの異なる道とは見られていない。道徳と宗教は、同じはしごの上にある2つの連続したステップと見なされている。一般的に、人が宗教的になるためには、まず道徳的にならなければならないと信じられている。しかし、これは私の見解ではない。

私が知っていることを話そう。宗教的な人は常に道徳的だが、道徳的な人が本質的に宗教的であるとは思わない。人は単に道徳的になることによって宗教的になるのではないし、道徳は宗教の出発点でもないし、基礎でもない。それどころか、道徳は宗教的になることの結果なのだ。道徳の花は宗教の草の上に咲く。道徳とは、宗教的生活の表現だ。私は、宗教と道徳を二つの異なる道、ただ異なるだけでなく、互いに正反対の二つの道と見ている。

道徳、規律とは、振舞いの浄化、行いの浄化を意味する。それは、人間の人格を周辺部で変えようとするものだ。この人格の周辺部は、他者との付き合いの結果だ。それは、自分の振舞い、他者との関係だ。自分が他人にどのように反応したり、行為したりするかは、自分の振舞いだ。振舞いとは関係性なのだ。

宗教と道徳が互いに正反対の二つの道というのが、分かりにくかったので、少し詳しく教えていただけますでしょうか? 慈悲と道徳は違うということでしょうか?

60鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/16(水) 21:24:54 ID:1d4drIFg0
道徳とは振る舞いであり、肉体的な行動によるものじゃ。
それが心の中に変容を起こすことは無いのじゃ。
真の宗教は心の中に変容を起こす方法を教えるものじゃ。
それでこそ真理も理解できるのじゃ。
道徳的な行いも出来るのじゃ。

61避難民のマジレスさん:2020/12/17(木) 20:39:19 ID:Dp/qMVVc0
私は一人ではなく、四方八方人に囲まれている。そして、私は社会の中にいるので、人生のあらゆる瞬間に誰か、あるいは他の人と接触し、関係を持つ。これらの相互関係が、私たちの人生のあり方のように思える。そして、私の行動の善し悪しは、その人間関係が良いか悪いかで決まる。

私たちは良い行動を教えられている。それが社会のために必要だから、社会的必要性だからだと教えられている。しかし、社会はあなたには何の関係もない、あなたの素朴で生まれながらの性格とは関係ない。その観点から見れば、あなたがいなくなっても社会は何も失わない。誰かとの関わりや何かとの関わりがあってこそ、社会にとって重要な存在になる。社会にとって重要なのは、あなたではなく、あなたと他者との関わりだ。社会にとって重要なのは、あなたではなく、あなたの行動だ。したがって、善行が社会から伝えられる教育の目的であることは、驚くべきことではない。社会にとって人間とは、その人の行動であり、それ以上のものではない。

しかし、この善行の教育、社会が教える道徳は、錯覚を生み出している。それは非常に根本的な錯覚を生み出している。神を悟り、宗教に到達したいと願う人たちが、真理と正義に到達するためには徳を積む必要があると信じるのは当然のことだ。神の実現は正しい行いによってのみ可能であり、真理の到来の前に徳を身につけなければならないと信じるのは当然だ。宗教と真理の実現は、道徳だけの生活から発展すると信じるのは当然で、道徳は基底であり、宗教は頂点であり、道徳は種であり、宗教は実であり、道徳は原因であり、宗教は結果であると信じているのだ。この考え方は非常に明快で正しいように見えるが、この一見単純明快な考え方は全く誤解を招くものであり、真の事実を歪曲した見方をしていることを、私はあなたに伝えたい。真相は全く違うものなのだ。

実際のところ、道徳を教えても、宗教的なことはおろか、人を道徳的にすることはできない。単なる善行は人を道徳的にはしない。変容には内面の浄化が必要なのだ。自分の内面を変えなければ、行動を変えることはできない。中心を変えずに周辺を変えようとするのは夢物語だ。その努力は無益なだけでなく、有害だ。それは自殺行為だ。それは自分自身に苦悩を押し付けることに他ならない。

この抑圧は社会の要求を満たすものであることは間違いないが、個人はその下で亀裂が入り、粉々になってしまう。それは人の中に裂け目、二面性を作り出す。人格は、その自然な単純さを失い、自分自身の中の葛藤に苦しむ。
それは連続的な闘争であり、勝利で終われない永遠の内部抗争だ。これは、個人を犠牲にして社会の要求を満たすことだ。私はこれを社会的暴力と呼ぶ。

お釈迦様や鬼和尚が善行を説くのは、悟りを得たいと思わない人に対しても、少しでも福楽がもたらされるようにという慈悲からでしょうか?

62鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/17(木) 22:46:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、善事は人の環境をよくするものじゃ。
 悟りには間接的にしか役に立たないのじゃ。
 自分の心を観察する事で悟りもやってくるのじゃ。
 善事はそのための環境を造るだけなのじゃ。

63避難民のマジレスさん:2020/12/18(金) 20:49:19 ID:Dp/qMVVc0
人が自分の行動を通して何を表現しようと、それは重要ではない。本当に重要なのは、その行動につながる内的な原因だ。行動は内なる精神の表れであって、根源ではない。行動とは、内なる精神の外向きの表現なのだ。無知な人々だけが、その表現の原因を変えることなく、外向きの表現を変えようとする。

この種の修行は役に立たない。それは、枝を切り落として木を切り枯らそうとする人の行動のようなものだ。そのような行動は、木を枯らすのではなく、その成長を促進する可能性が高い。木の生命は枝の中にあるのではなく、根の中にある。土に埋もれた目に見えない根の中にあるのだ。木とその枝の形になったのは、根の潜在的な希望と願望なのだ。枝を切ることがいったいどんな助けになるのか? もしあなたが本当に生に革命をもたらしたいならば、根に行かなければならない。人の行動の根は、内なる存在の中にある。行動は内なる存在に従う。内なる存在は自分の行動には従わない。したがって、行動を変えようとする努力は、必然的に抑圧の形をとる。そして、抑圧は何か変容をもたらすことができるだろうか?

そもそも抑圧とは何だろう? 抑圧とは、内なる存在の中で自然発生的な感情が育つことを許さず、その表現を許さないことであり、実際には存在しないものを強制的に育て、表現することだ。

しかし、私たちが抑圧しているものはどこへ行くのだろうか? 私たちはそれから自由になれるのだろうか? いったいどうやって抑圧によって自由が得られるのか? 抑圧された感情は、私たちの中にあり続けるだろうが、それらは今、より深く、より暗く、より無意識の凹みの中に生きていくための場所を見つけなければならないだろう。それらはまだ、より深い領域に入るだろう。抑圧の意識でさえも居場所を特定できないところに、身を隠すだろう。しかし、深く入った根は芽を出し続け、枝は花を咲かせ実を結び、そして意識と無意識の心の間に、狂気となって終わる戦いが生じるだろう。

狂気は、このような偽りの中空の道徳に基づく文明の当然の結果だ。したがって、狂気は文明の進歩とともに増大し、私たちの文明全体が狂気に終わる時が来るかもしれない。過去の二つの大戦争はこの種の狂気であり、私たちは第三の、おそらく最終的な戦いに向かっている。

身体と心は相互に影響を及ぼすという考え方を聞き、ある程度は正しいと経験から思っていました。しかし実際は、身体の行動により、心の表層部分には影響を及ぼせても、深層部分は変わらないということでしょうか。そして、心の深層部分を変えるには自分自身の心を観察して気づく必要があるという理解で良いでしょうか?

64鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/18(金) 21:49:48 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、行動だけを変えようとしても無意味なのじゃ。
心の中にある原因から観察しなければ行動も変らないのじゃ。
心の中の原因を無視して行動だけを矯正しようとすれば抑圧が生まれるのじゃ。
それが憎しみとなっていつか爆発するのじゃ。
自らの心を観察できればそれも制御できるのじゃ。

65避難民のマジレスさん:2020/12/19(土) 20:59:49 ID:Dp/qMVVc0
人の個人的な生活の中で起こる爆発と、社会の中で起こる爆発-暴力、レイプ、不道徳、蛮行-は、すべて抑圧の結果だ。人は抑圧のために道徳的で自然な生活を送ることができず、ある日突然その緊張に屈してしまう。偽善に頼る者は、この内なる葛藤から自分自身を救うことは間違いない。その者は自分ではない者のふりをしている。常に何らかの役割を演じているので、どんな内なる葛藤からも解放されている。

偽善もまた、抑圧に基づく道徳から生まれる。それは、自分自身を内なる葛藤から解放するための手段だ。すでに述べたように、私たちのいわゆる道徳的な生活の中では、自然発生的な感情が成長し、表現されることを許さず、実際には存在しない感情を表現してしまう。二つの過程のうちの最初のものは抑圧につながり、二つ目は偽善につながる。最終的には、最初の過程はあなたを狂人に変え、二つ目は偽善者に変える。これらの結果はどちらも良いものではなく、どちらもあなたにはふさわしくない。残念ながら、私たちの文明は、この二つの選択肢しか提供していない。しかし、第三の選択肢もある:動物の生を生きることだ。犯罪者はこの選択肢から生まれる。もし私たちが動物になることから自分自身を救いたいと願うならば、私たちの文明には二つの選択肢しかない。

動物になるということは、無意識の本能に完全に身を委ねるということだ。人間の中で意識的になったものが再び無意識になることはできないので、これも不可能だ。私たちは酔うと、まさにこの無意識を求める。酔わせるものを求めるのは、動物になりたいという欲求の表れだ。徹底的に酔っぱらって無意識になったときにのみ、人間は自然と一致し、動物と一致するのだ。しかし、これは死に等しい。これは深刻であり、非常に慎重な検討に値する。

酔っているときに人間はどのようにして動物になり、なぜ動物になるために酩酊しようとするのだろうか。それは、人間の意識が動物の世界や自然の一部ではなく、神性の一部であるという事実を示している。それは魂の可能性だ。それは種であり、破壊されるべきものではなく、育まれるべきものだ。その完全な成長には、自由、解放、至福がかかっている。

では、どうすればいいのか? 文明は、私たちに3つの選択肢を与える。動物、狂人、偽善者の。ひょっとして、第四番目の選択肢があるのだろうか?

抑圧を観察するヒントやコツのようなものがありましたら、お教えください。

66鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/19(土) 23:38:30 ID:1d4drIFg0
抑圧を見るには先ずはそれを受け容れることじゃ。
抑圧によるどんな衝動が心の中にあってもそれを受け容れることを自分に許すのじゃ。
しかしその衝動に流されてはいかんのじゃ。
そのように長く抑圧された衝動には誰か憎むものを殺したいとかもあるかもしれんからのう。
それもまた受け入れなくてはいかんが、その衝動に流されて行動してはいかんのじゃ。
その原因から観察できれば、それもまた消えるのじゃ。

67避難民のマジレスさん:2020/12/20(日) 20:48:07 ID:Dp/qMVVc0
そうだ、第四番目の選択肢がある。私はそれを宗教と呼んでいる。それは知性と直観の道であって、獣や狂気や偽善の道ではない。耽溺や抑圧や演技の道ではなく、本物の生と知の道だ。

それは善行の実を結び、人間の中の動物性を排除するものであり、無意識の情熱を抑制するのではなく、人間をその支配から解放するものだ。宗教は単に仮面や外面的な行動を前提としたものではなく、内なる存在の変容だ。それは社会的なものではなく、個人的な充足だ。それは私たちの関係を変えないが、私たちの自己そのものを変容する。関係は結果として自動的に変わる。宗教は、自分自身の中にある存在に、革命をもたらす。そうすれば、周囲のすべてのものが自動的に変容されるのだ。

道徳は社会的なものであり、宗教は完全に個人的なものだ。道徳は行動であり、宗教は内なる存在だ。道徳とは周辺部であり、宗教とは中心部だ。道徳とは人格であり、宗教とは魂だ。宗教は道徳の尻尾にはついてこないが、道徳は必ず宗教についてくる。道徳は人を道徳的にすることさえできないのだから、いったいどうやって人を宗教的にすることができるのだろうか? 道徳は自分自身に物事を積み上げることから始まるが、宗教は知から始まる。

生の中には、悪、不純、不真実がある。私たちはそれらの根源を見つけなければならない。悪はどこで、どのようにして生まれるのだろうか? これらの毒がどこから来て、人の行動を毒にする中心はどこにあるのだろうか? 人が徳や善を考えているときでさえ、なぜ悪はこれらの考えをすべて追い払い、生を取り囲み、行動に浸透してしまうのだろうか? 情熱はなぜいつも人の思考を変えさせるのだろうか?

私たちは注意深く観察し、自分自身でこれを見つけ出さなければならない。他人から借りた結論は役に立たない。なぜなら、この観察のみが、観察の過程を通して、自己観察を通して、悪を生み維持するまさに源を崩壊させ破壊する、力とエネルギーを生み出すからだ。この継続的な観察自体が修行なのだ。なぜならば、継続的な観察は、悪を知るための方法であるだけではなく、同様にそれを排除するための方法でもあるからだ。内なる「私」を観察することによって、目を覚まし、それに向かって注意深くなることによって、光は内なる暗い凹部に届く。そして、この光は、自分の行動の根源を照らすだけでなく、それらを変容させ始める。

自分自身を観察して厭離していくと楽で自由になっていくのですが、未だに観察に向かうのに意志力を必要とする時があります。これは自我が完全に厭離されるまでは仕方のないことなのでしょうか? 観察自体を阻む感情を観察で厭離しようとしているのですが、今のところうまく行ってません。覚者の動画や文章に接することなどで自然に観察が起きる時もあります。

68鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/20(日) 23:27:32 ID:1d4drIFg0
初心の内は意志に拠って観察しなければ出来ないのじゃ。
毎日続けていくことで自然に出来るようになるのじゃ。
まだ無我にならなくとも毎日続けることで、無意識のうちにも観察できるようになるのじゃ。
そのような無意識の観察に拠って自我も観ることができるのじゃ。
それが観照なのじゃ。

69避難民のマジレスさん:2020/12/21(月) 20:35:10 ID:Dp/qMVVc0
常にこの格言を心に留めておきなさい:観察は知のみでなく、変容ももたらす。実際、観察は知をもたらし、知は変容を引き起こす。知自体が変容、存在全体の変容だ。それは、木の根を探し出し、光にさらすために土を掘っているようなものだ。そうすれば根をよく知ることができるだけでなく、根を暗闇から出し、土から切り離すことで、根を滅ぼすことができる。そして木の根を観察している間に、枝は枯れていく。

観察は、情熱の根の破壊をもたらすことができる。それは光に耐えることができない。悪は知に耐えられない。ソクラテスが「知は美徳である」と言ったとき、彼はまさにこの事を伝えることを意味した可能性が最も高い。私もまさに同じことを言う:知は美徳であり、無知は悪である。光は道徳であり、暗闇は不道徳である。

観察すること、自分自身を常に観察すること、心の無意識の傾向を観察することで、意識が覚醒し、無意識の心の中に入り込むことができるようになる。無意識は、昏迷、無知、酩酊、不注意の扉から意識に入り込み、意識を支配することができる。私たちは、動物的な傾向が愛着から発展することを見てきた。怒りと欲望は、無意識の時だけ私たちをつかみ、動物的な本能を満たすために酔わせるものを探す。

意識は、無意識の心の中に、酩酊を克服することによって、気をつけること、注意、気づいていることを通じて入り込み、そこに権威を確立する。気をつけることと気づいていることが私たちの中で成長し、私たちの傾向、行為、情熱、欲望に対する正しい気づきと観察が成長するにつれて、それと同程度に意識が私たちを満たすようになる。そして、それらの駆り立てや情熱の爆発、盲目の、無意識の衝動は、消えてゆく。なぜならばそれらは、睡眠、無感覚と妄想の状態でのみ存在することができるからだ。意識状態では存在できないのだ。

文を読んでいて、未だ気づいた時に常には自分自身を観察できていないことがわかりました。正しく観察ができているかどうかにも気をつけつつ、さらに観察に励みます。

70鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/21(月) 22:04:08 ID:1d4drIFg0
毎日観察し続けることで、表層意識だけでなく、無意識の段階まで観察できるようになるのじゃ。
自我の想起は無意識に行われる故に、そこまで至らなければ自我は見えないのじゃ。
さまざまな障害を観察して滅していけば自我も観られるようになるのじゃ。
それまで日々精進あるのみなのじゃ。

71避難民のマジレスさん:2020/12/22(火) 20:56:30 ID:Dp/qMVVc0
意識している間、正しい感覚の中では、誰も何か間違ったことをしたことがないということを心に留めておきなさい。すべての罪は愛着から生まれる。それは愛着そのものだ。私にとって、愛着だけが罪深い。観察は愛着を追放する。それゆえに、観察とは何か、それがどのようにもたらされるのかを理解することが重要なのだ。

では、自己観察とは何だろうか? 静かに座って、昨日正しいマインドフルネスの実験について話したときに説明したように、私の中で起きていることを、それがどんなことでも観察する。内側には思考と情熱の世界がある。私はその世界を観察する。海辺に立っている人が海の波を見るように、私はそれを見続けている。クリシュナムルティはこれを「選択のない気づき」と呼んでいる。それは完全に切り離された観察だ。

切り離されたとは、私が選択も決断もしないことを意味する。私はどんな情熱や欲望にも善悪のレッテルを貼らない。善と悪、徳と悪徳の間で判断を下すことはない。ただ観察するだけだ。私はただ、知っていることと見ていること以外には何の興味もないかのように、超然と離れて立っているだけの見者になる。目的が忍び寄る瞬間、選択や判断が入ってきた瞬間、観察は終わりを迎える。その時、私は観察しているのではなく、考え始めているのだ。

どうか、考えることと観察することの違いを理解するようにしてほしい。この過程では、私たちは考えることはしない。考えることは意識の中の意識的行為だ、一方、観察は無意識の中に意識が入り込むことだ。思考が入ってくるとすぐに、人は善と悪を区別し始め、抑圧が微妙な形で始まる。すると無意識はそのドアを閉じ、そしてその神秘の知は私たちから隠されている。無意識はその秘密を、思考ではなく観察を通して明らかにする。なぜなら、抑圧がなければ、無意識の衝動や性癖は、自然に、ひとりでに、ありのままに現実の中で立ち上がってくるからだ。そうなると、それらの衝動、性癖、情熱を隠す必要はもはやない。無意識は、ありのままで、完全に隠されずに私たちの前に立っている。それは何と恐ろしいことだろう! 自分の心の奥底にあるありのままの姿を見ると、人はどれほど怯えてしまうのだろうか! 目を閉じたくなる。この深い観察を放棄し、世俗的な平面に戻りたくなる。

オショーは選択や判断が入ってきた瞬間、観察は終わりを迎えると述べています。私の場合、どこか一点に集中していない限りは、観察をしてても縁起により勝手に思考が始まり、それに続いて好悪の感情が生じることがあるのですが、その思考や感情自体を観察できることもあります。起きていることに巻き込まれずに、新しい発見がある場合には、完全ではなくとも観察ができていると判断してよいのでしょうか?

72鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/22(火) 23:34:57 ID:1d4drIFg0
心に起こることが観えていたならば観察しているのじゃ。
それに失敗はないのじゃ。
感情や選択に巻き込まれてしまった時でさえ、それを観続けることはできるのじゃ。
それもまた自分のした選択とか想いと見ることもできるのであるからのう。
もはや失敗だとか終わりだとか想ってやめてしまう時に観察は終わるのじゃ。

73避難民のマジレスさん:2020/12/23(水) 21:11:35 ID:Dp/qMVVc0
この時こそ、勇気と落ち着きが試される時だ。これは、私が言うところの贖罪の瞬間だ。勇気と平静でこの瞬間を通り抜ける人は、知のマスターになり、素晴らしい神秘が解き明かされる。その人は情熱の根源の直視を得て、無意識のまさに中心に入る。そして、この入り口は一種の超自然的な自由をもたらす。

瞑想から観察へ、観察から知へ、知から自由へ、これが道だ。これが宗教の道であり、ヨーガの道だ。私はあなたにこの道を理解し、この道を歩いて欲しい。そうすればあなたは、内なる革命による行動の変容の錬金術を知ることになるだろう。そうすれば、道徳ではなく宗教が根本的なものであり、道徳は宗教から流れ出るものであることに気づくだろう。道徳は、牛車の車輪が牛車に従うように、軌道のように宗教の後に続く。もしこれが明らかになれば、あなたは非常に偉大な真理を見ることになり、大きな幻想は消散するだろう。

私は、この内なる革命、意識による無意識の浸透という観点から、人類の変容を見ている。この知に基づいて、新しい人間が生まれ、新しい文化と新しい人間性の基礎を築くことができる。このような人は、自己認識によって目覚めた人であり、自然に道徳的だ。その人は道徳を培う必要はない。道徳は、行動や努力の結果ではなく、ランプから光が放射されるように、その人から放射される。善行は、無意識の心の反対に基づいているのではなく、内なる存在の完全性から出てくるものだ。すべてのことを、その人は全存在で行う。その中には二重性も多重性もなく、統一性がある。そのような人は統合されており、二元性から解放されている。

そして、すべての葛藤や束縛を超えたときに聞く神聖な音楽は、この世界のものでも、この空間のものでもない。そこには時を超えた交響曲、至福の音があり、それは平和、無心、そしてすべての不和からの解放のその瞬間に、私たちの中に響く。この音楽のリズムは、無限との同調をもたらす。

私にとって、この実現こそが神なのだ。

第4章は以上です。
>>72 観察と、観察の終わりについて、ありがとうございました。お釈迦様が、「つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は死者のごとくである。」と述べていますが、それと同じことでしょうか? 私も悟りを得るまで自己観察に励むことを誓います。

74鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/23(水) 23:36:56 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
絶望に陥っても日々修業し続ける者が常に新しく生まれ変わるのじゃ。
日々精進あるのみなのじゃ。

瞑想をして心を止め、観察して気付くと自我が無と理解できて厭離も起こるのじゃ。
更に認識まで気づけば大悟なのじゃ。
そして全てが自由になるのじゃ。
それが出来れば仏陀なのじゃ。

75避難民のマジレスさん:2020/12/24(木) 20:37:24 ID:Dp/qMVVc0
第5章 2日目の夜 1964年6月5日 午後
最初の質問:道徳的であることは悪いことだと思いますか?

私は道徳的であることは悪いことだとは見なさないが、道徳的であるという幻想は悪いことだと見なす。それは本当の道徳の邪魔になる。

偽りの道徳は、外側の塗装、覆いだ。偽善を満足させる以外の目的はなく、私からしてみれば、偽善とエゴイズムほど不道徳な心の状態はない。偽りの道徳は謙虚さとエゴイズムからの解放の見せ物を作るが、その下ではエゴが養われ、繁栄している。あなたはこの国のいわゆる求道者や聖人たちの中に、私が言っていることの真実が見えないだろうか? 努力によって採用され、育成され、達成されたこのいわゆる道徳は、私の見解では、演技以外の何ものでもない。多くの場合、人の心の中にあるものは正反対のものだ。表面に見えるものは、内面にはない。上には花があり、下には茨がある。そして、行動と内なる存在との間の絶え間ない戦い、意識と無意識との間のこの橋渡しのできないギャップが、人格を分裂させ、崩壊させてしまうのだ。そのような人には調和はない。そして、調和も音楽もないところには、喜びもない。私の見解では、本当の道徳的な生とは、喜びの表現だ。

道徳とは、喜びの表現であり、自然発生的な表現だ。喜びが自分の内なる存在から流れ出るとき、それは善行や道徳として外に表現される。そのような人から発せられる至福の香りは、まさに生の善良さだ。

それゆえに、争いではなく、調和を作ってほしい。どうかこの真実を見ようとしてもらいたい。私の言うことをただ聞くのではなく、生きてみなさい。そうすれば、私たちがいかに自分たちの手で、生を争いと内なる二重性の無秩序の中に投げ込んできたかがわかるだろう。

道徳は、木に花が咲くように、自ずとやってくる。それは達成ではない。瞑想の種が蒔かれ、道徳の作物が収穫されるのだ。道徳は努力によって達成されるものではない。瞑想によって達成され、到達されるものなのだ。瞑想からは、平穏と調和と美しさが流れてくる。そして、自分の中で平穏である者は、他の人を落ち着かなくさせることはできない。自分の中に音楽を持っている者は、自分の音楽の響きが周囲から反響していることに気づき、自分の中に美を持っている者は、自分の振る舞いがすべての醜さを消し去る原因になることに気づくだろう。これらすべては、それ自体が道徳ではないだろうか。

例えば怒りが生じた時に、それを表現すると自他を傷つけることがあります。その場の観察ですぐに怒りを厭離できれば良いのですが、それがうまくいかない場合はどうしたら良いでしょうか? もしその場を離れることができるのなら、離れてじっくり観察したり、気分転換に自然の中を歩いたりするのですが。

76鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/24(木) 22:23:56 ID:1d4drIFg0
怒りが起こっていると気付いたならば何もしないようにするのじゃ。
怒りがある時、どのような行いも怒りによって暴力的なものになってしまうからなのじゃ。
仕事かをしなくてはならないときには丁寧に行うことを心がけて行うと善いのじゃ。
怒りが収まったら普通に動くと善いのじゃ。

77避難民のマジレスさん:2020/12/25(金) 21:16:51 ID:Dp/qMVVc0
第二の質問:あなたは「道徳性は社会的有用性である」と言いますが、個人にとっては無益なのでしょうか? それは個人には全く役に立たないのでしょうか?
道徳や道徳的行動は、社会に関する限り、単に実用主義的なものだが、個人にとっては、それは実用ではなく、喜びだ。したがって、社会のニーズは疑似道徳でも満たされるが、個人にとってはそれだけでは十分ではない。他人に対して良い振る舞いをすることは、社会にとってはそれで十分だが、個人にとってはそれで十分ではない。自分の内面が良いかどうか--このことをこそ、見極めなければならない。社会はあなたの内面ではなく、あなたの人格に関心を持っている。しかし、あなたにとって人格は衣服にすぎない。この覆いが外れたところからあなたは始まるのだ。この人格の仮面から離れて、その背後にあるのがあなたの本当の存在だ。そして、ここに本当の道徳が生まれるのだ。

偽りの道徳によって作られた社会を文明と呼び、本当の生に到達した人間で構成された社会を文化と呼ぶ。これが文明と文化の区別である。文明は実用であり、文化は内なる調和と喜びだ。

今日の私たちには文明はあるが、文化はない。文明は他人との関係を浄化することから生まれ、文化は自分自身を浄化することから、徳を積むことから生まれる。文明とは肉体であり、文化とは魂だ。魂にしっかりと根を張っている者だけが文化を創ることができるのだ。

第三の質問:宗教は社会的なものではないのですか? 完全に個人的なものなのでしょうか?
そうだ。宗教は絶対に個人的な問題だ。社会には魂も意識の中心もない。社会は、私たちの相互関係の産物に過ぎない。魂を持っているのは個人であり、それゆえに宗教も同様に個人的なものでなければなならない。宗教は私の関係の一つではなく、私の存在だ。自分の本性、自分の本当の存在を発見することと、その後に続く表現が宗教なのだ。

宗教、ダルマは自己認識だ。宗教は社会的なものではないので、修行、宗教の実践は集団とは関係ないが、宗教的な経験は集団や社会に光を当てる。宗教の実践は個人的なものだが、社会にも影響を与える。人が内なる光に満たされていれば、その人の行動も内なる光で満たされる。内なる存在は個々のものであり個人的だが、行動は社会的なものだ。

修行は決して集団的ではあり得ない。なぜならば、他者と一緒にではなく、独りで、完全に独りで自分自身を知るようになる必要があるからだ。プロティノスはよくそれを表現した:「独りから独りへの飛翔。」 まさにその通りだ。その飛翔は確かに非常に孤独で、仲間のいないものだ。しかし、飛翔から得られる喜びは他の人に感染し、彼らもまた動かされる。孤独の中で得られるもの、自己の孤独の中で得られるものは、四方にその香りを広げていくのだ。

プロティノスは悟りを得ていたのでしょうか?

78鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/25(金) 23:18:16 ID:1d4drIFg0
プロティノスは悟っては居ないのじゃ。
しかし、サマーディにまでは到達していたのじゃ。
エクスタシスとは忘我であるから正にサマーディなのじゃ。

79避難民のマジレスさん:2020/12/26(土) 21:02:32 ID:Dp/qMVVc0
第四の質問:神とは何ですか?
神とは人ではなく、経験だ。観ること、自我を解体した後の宇宙についての経験、それが私が神と呼ぶものだ。神の経験には特定の種類のものはなく、むしろ、完全で普遍的な愛の経験が神だ。それは中心を持たず、すべての存在だ。すべての存在がその中心だ。神の経験を語るのは間違いだが、あなたは完全な愛の経験は神だと言い得る。

愛とは、二人の人間の間の関係だ。この同じ関係が個人と存在の間にあるとき、私はそれを神と呼ぶ。究極の段階、愛の開花こそが神なのだ。そして、ここで私は、「神は愛なり」というキリストの格言を思い出す。

「私」が消えたとき、残るものは愛だ。自我を取り囲む壁が崩れたとき、残るものは愛だ。愛そのものが神なのだ。それゆえに、神を知ることは不可能だが、神になることは可能だ。

第五の質問:あなたは、私たちが生きているこの生は、全く生ではなく、死ぬことの長い引き延ばしの過程だと言いました。これはどのようなことを意味していますか?
我々が生と呼んでいるものが生ではないことは、まったくの真実だ。もしそれが本当に生であるならば、いったいどうやって死で終わるのだろうか? 生と死は二つの矛盾したものなので、どうして死が生の成就になるのだろうか? 死は誕生の終わりであって、生の終わりではない。

そして、死は最後に来るということから、死は最後にだけ始まると考えてはならない。死は誕生そのものの中に現前しているのだ。それは生まれたその日から始まるのだ。生まれた後、私たちは刻一刻と死んでいく。この死の過程が完了したとき、私たちはそれを死と呼ぶ。生まれた時に種として存在していたものが、最後には完熟した形で現れる。したがって、死後には何も確実なものはないが、死は確実だ。それは、誕生そのものと一緒にやってくるからだ。誕生は死の別名にすぎない。このことをよく理解しておこう。あなたは生まれたその日から死に始める。だからこそ、私たちが知っているような生は、生ではなく、ゆっくりと徐々に死んでいく長い過程であると言いたいのだ。

私たちはこのゆっくりとした死に慣れていて、生には慣れていないので、いつもこの死から自分自身を救おうと忙しくしている。私たちの計画や活動はすべて、ある種の安全と自己防衛を目的としている。そして、私たちは何をしているのだろうか? 私たちはいつも死から身を守ることに忙しくないだろうか? また人は、同じ理由で、防衛のために宗教的になる。死が近づいていると感じた時に宗教に入るのは、そのためだ。 ほとんどの場合、老人の宗教はこの種のものだ。私はこれを本当の宗教性とは呼ばない。それは死への恐怖の一側面に過ぎない。それは最後の安全対策だ。真の宗教性とは、恐怖からではなく、生の経験から出てくるものなのだ。

仕事や娯楽に打ち込むのも、死から身を守るというか、死を忘れるための活動だと感じ、何をしているのだろうと思う時があります。一方で、そのような活動から得られる快を好ましく感じる時もあります。引き続き、偽りの観念の観察に励みます。

80鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/26(土) 23:13:49 ID:1d4drIFg0
神とは愛だというのじゃ。
そして無我になった時から現われる宇宙の体験も神だというのじゃ。
キリストも神は愛と言ったのじゃ。
神を知ることは不可能だが神にはなれるというならば、愛を知ることは不可能だが愛には成れるという事なのじゃ。

81避難民のマジレスさん:2020/12/27(日) 21:11:02 ID:Dp/qMVVc0
私たちが現在知っていることは何であれ、死以外の何物でもないということを認識すべきだ。そして、この死を知ることが、不死につながるのだ。この体は死ぬ。それは刻一刻と死んでいく。身体を観察することで、この死すべき器の認識に目覚めることで、私たちは身体ではないものを経験し始める。身体ではないものを知ること、魂を知ることは、魂は決して生まれず、したがって決して死ぬことがないゆえに、現実の生を知ることだ。真理はあなたの誕生前から存在しており、あなたが死んだ後も存在し続ける。これが生だ。生は誕生と死の間の広がりではない - それどころか、誕生と死はその過程で起こる多くの出来事にすぎない。

瞑想中、心が静かで空になっているとき、身体とは別の、離れた何かが見えてくる。それは、湖の水面にさざ波があるときに湖の深さを覗くことができないのと同じように、心が落ち着かないときには見ることができない。そして、心の上で波打つ思考の波の連続的な流れのために、それらの下に隠されているものは隠されたままである - そして、私たちは、真理全体の表面を得る。自分の居場所でしかない身体は、すべてであり、すべてであるかのように見える。それは、身体が自分の存在であり、自分の生命であるかのような錯覚を生み出す。あなたは自分の全体を身体に限定されたものと考え、それ以上のものは何もないと考えている。このような身体との同一化、身体と一体であるという幻想は、私たちが本当の自分を知ることを許さず、私たちは、一定期間にわたって行われている、徐々に死へと向かう過程を生として見ている。これは、自分の家屋の建設と破壊を自分の誕生と死と見なしているのと同じような間違いだ。

この闇は、精神的な平穏の到来とともに消えていく。この精神的な不安が作り出した幻想は、静けさによって払拭される。波によって隠されていたものが、波の無いことによって明らかになる。そして初めてこの身体の住人を知る。それを知るとすぐに、死は古い服を脱ぎ捨てること以上のものではなくなり、誕生は新しいものを着ることとなる。そして、服を必要としない存在がいる。私が生きていると呼ぶ唯一の人間は、このような生を知る者である。身体を自分の存在として見ている人たちは皆、まだ死んでいる。本当の生はまだ始まっていない。その人たちは夢の中にいて、眠っていて、気絶している。

この夢から目を覚まさなければ、身体が自分の存在であるというこの妄想から目を覚まさなければ、人は自分の自己、本質、大黒柱、生を知ることは決してできないだろう。この世界は、死者、生きている死者で溢れていて、大多数の人は生きたことがないまま死んでいくのだ。彼らは死から身を守ろうとして消耗し、内なる者、死を超えた、不死の者を知ることはない。

夢から目を覚ましたいです。今日も観察に励みます。

82鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/27(日) 21:56:54 ID:1d4drIFg0
身体もよく観察すれば全てと繋がっていることがわかるのじゃ。
呼吸を通して、食物やエネルギーを通して、全てと一つなのじゃ。
身体に拠って全てと分かれた自己があるという認識は誤認なのじゃ。
それが理解できれば不死の境地に至れるのじゃ。

83避難民のマジレスさん:2020/12/28(月) 20:43:02 ID:Dp/qMVVc0
第六の質問: 私は死んでいることをあなたの言葉で知りました。生き返るためにはどうすればよいですか?
友よ、もしあなたが私の言葉だけでそう思うなら、それは何の価値もない。私が言ったことを忘れて、他の人が言ったことを忘れて、もう一度見なさい。あなた自身がそれを見なければならない。その観ることそのものが、あなたを生へと導く道になるのだ。そうすれば、「生き返るためにはどうすればよいですか?」 という問いかけはなくなる。

自分が死んでいること、自分の存在も人格もずっと死んでいたことに気づく人は、同時に死んでいないものが見えてくるのだ。しかし、あなたがこれを観るためには、精神的な落ち着きの無さを捨てなければならない。見ること、ダルシャンは、心が静かで、空っぽで、情熱のないときにのみ可能だ。今は思考だけしかない。見ることもダルシャンもない。 私があなたに言ったことが正しいと考えることもまた、それ自体が思考だ。この思考は全く役に立たないだろう。

すべての思考は借り物なので、思考は真理を明らかにすることはできない。すべての思考は他人のものだ。それらは真実を余すところなく隠しているだけなのだ。あなたは、自分の思考がすべて他人から借りてきたものであり、本当に他人のものであることに気づいたことがあるだろうか? あなたは偽物の資本を蓄積している。それは全く資本ではないので、それに頼ってはならない。この種の資本の上に築かれた城は、あたかも、あなたが夢の中で築くもののようだ。トランプの家ほどの現実性もない。

確かに、記憶するためには記憶の対象が必要であり、思考は記憶がなければできないので、思考の全ては借りものですね。そして、そう思うと抵抗感が生じるというのは、思考に執着しているということなのでしょう。さらに観察します。

84鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/28(月) 23:03:46 ID:1d4drIFg0
思考に拠っては真実は見えないというのじゃ。
自ら自分を観察して真実を明らかにするのじゃ。
観察して死んでいるものがみえれば、生きているものもみえるのじゃ。
それが不死の境地なのじゃ。

85避難民のマジレスさん:2020/12/29(火) 20:58:16 ID:Dp/qMVVc0
私はあなたに考えさせたくない。借り物で満たしたくない。考えさせるのではなく、目覚めさせたいのだ。考えることを放棄して、見てほしい。そして、何が起こるかを見てほしい。考えることから見ることへと進む。このことだけが、あなたを真理へと、本当の資本、あなた自身の本当の富へと導くだろう。考えることをせずに見るというこのプロセスが、どのようにして神秘のカーテンを外すのかは、実際に自分でやってみないとわからない。

覚えておきなさい、他の人があなたに与えることができる世界には価値のある経験はない。与えられるものは、決して価値のあるものではない。また、経験も与えられることはない。物質的なものは与えられたり、取られたり、交換されたりすることができるが、生きた経験を物々交換する方法はない。経験というものの性質上、マハヴィーラもブッダもクリシュナもキリストも何も与えることはできない。そして、思考にしがみつき、自分の思考を真理として受け入れる者こそが、真理を奪われた者だ。人を解放するのは、他人から借りたものではなく、自分で気づく真実なのだ。

ギータやコーランや聖書を暗記しても何の役にも立たない。それはあなたに知をもたらすものではない。それどころか、それはあなた自身の自己認識能力を窒息させ、決して真理に直面することができなくなる。シャスターラや聖典から記憶した世界は、常にあなたと真理の間に入ってくるだろう。それらは霧と埃を作り出し、あなたが実際に何であるかを見ることができなくなる。私たちは、自分と真理の間に立っているすべてのものを取り除かなければならない。

真理を知るためには、思考からの助けは必要ない。すべてのものを取り除けば、あなたは心を開くだろう。そうすれば、真理が中に入ってきて、あなたを変容させるような開きがあるだろう。思考を放棄して、見なさい。ドアを開いて、見なさい。これが私が言わなければならないことのすべてだ。

どうなれば悟りを得られるかは完全に頭で理解していて実践しているのに、それが起こらないのがもどかしいです。気をつけて観察します。

86鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/29(火) 21:37:37 ID:1d4drIFg0
今まで教育された文字や公式等の知識を記憶して思考する方法は悟りの役に立たないのじゃ。
ただひたすらに自分の心を観察することが悟りへの道なのじゃ。
それにはむしろ思考を放棄しなくてはならないのじゃ。
記憶された知識による思考は障害になるばかりなのじゃ。
自分の心の働きを少しでも理解できれば、進んでいくことができるのじゃ。

87避難民のマジレスさん:2020/12/30(水) 20:50:51 ID:Dp/qMVVc0
第七の質問:あなたは、シャーストラの研究は必要ないと思いますか?
シャーストラ、聖典の研究は、どのような目的のために役立つのだろうか? そのような方法では知を得ることはできない。それはあなたの記憶を訓練するだけだ。いくつかのことを学ぶことができるが、学ぶことと知ることは全く異なるものだ。あなたが学ぶのは、神について、真理について、魂についてだ。あなたは、それらについての質問に既成の回答を与えることができるようになる。しかしそれは、あなたの家のオウムが毎朝繰り返していること、つまり、オウムが言うように教えられてきたことと何の違いもない。真理は聖典の中には見つからない。それは自分自身の中に、あなた自身の中にある。

シャーストラは単なる言葉に過ぎず、自分自身の中で真理を実現した場合にのみ意味がある。そうでなければ、それらは役に立たないだけでなく、有害なものだ。真理はシャーストラを学ぶことによって知ることはできないが、真理を知っていれば、シャーストラは確かに知ることができる。

しかし、私の目の前には何が見えるだろうか? 人々は真理の代わりにシャーストラを研究していて、これらの研究から得た知識に満足している。なんという空虚で偽りの満足感なのだ! それは、私たちが本当に真理を知りたいと思ってはいないことを示唆しているのではないか。私たちはただ真理を知っていると人々に信じてもらいたいだけなのだ。「水」という言葉で人の渇きが癒されるという話を聞いたことがあるだろうか? そして、もしそれが簡単な言葉で癒されたとしたら、そこには全く本当の喉の渇きがなかったことを示しているのではないだろうか?

もしシャーストラが一つのことを教えてくれるとしたら、真理はシャーストラを通しては実現できないということ、それだけで十分だ。それが唯一の用途だ。もし言葉が私たちに、その言葉が役に立たないことを教えることができれば、その目的を果たすだろう。もしシャーストラが私たちに満足をもたらすのではなく、私たちに不満を与え、知を与える代わりに、私たちの無知に気づかせてくれるのであれば、それだけで十分だ。

私も言葉を話しているが、これがシャーストラがどのようにして生まれたかを示している。もしあなたが言葉にしがみついているだけなら、私の努力は無駄になる。どんなに多くの言葉を暗記しても、何の役にも立たないだろう。これらはまた、あなたの心を投獄し、その後、あなたは自分で作った、言葉で作った牢獄の中であなたの人生のすべての間さまようことになる。私たちは皆、自分で作った牢獄に閉じ込められているのだ。真理を知りたければ、言葉のこの牢獄から抜け出し、壁を壊し、情報の玉座を灰に焼きつくしなさい。これらの灰から知が生まれ、自由な意識の中であなたは真理を見るだろう。真理は遅かれ早かれやってくるだろうが、自分の中にそれを受け入れる余地を作らなければならない。もしあなたが言葉を捨てれば、真理は空になった空間を占めることになるだろう。

私も悟りを得た人たちの言葉を集めて逃避しないように、気をつけて精進します。

88鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/30(水) 21:58:32 ID:1d4drIFg0
知識を盾にして自分の心の探求を怠るならば、悟りはやってこないのじゃ。
そのような状態では聖典もむしろ障害になったと言えるのじゃ。
読まないほうが良かったのじゃ。
真の教えは自らの心を観る実践を教えるものじゃ。
実践しなければ聖典も何の意味も無いのじゃ。

89避難民のマジレスさん:2020/12/31(木) 21:03:55 ID:Dp/qMVVc0
第八の質問:人間は、抑圧によって、また、自分自身との戦いによって、自分自身を征服することはできないのでしょうか?
「抑圧」と「自分自身との戦い」という言葉はどういう意味だろうか? 個人が自分自身を分裂させるという意味ではないだろうか? その人は自分自身と戦うことになる。つまり、攻撃と防御を同時に行うということだ。味方であると同時に敵でもある。エネルギーは両方の側に使われる。これは決して勝利にはつながらず、その人を弱体化させ、その人の力を粉々にするだけだ。私の両手をお互いに戦わせるとどうなるか想像してみなさい。自分と喧嘩しても同じことが起こる。そのような戦いは、全くの馬鹿げたものだ。

友よ、自分と戦うのではなく、自分を知ることだ。無知から生まれた矛盾や自己撞着は、自己認識の光の中で消えていく。自己に対する勝利は、競合からではなく、知を介してやってくる。というのも、倒すべき相手はいないからだ。他はなく、無知だけがある。そしてもし無知があるとしたら? 無知に勝つために何があるのだろうか? それは知が来た瞬間に消えてしまう。 無知とは、知がないことを否定的に捉えているに過ぎない。無知と戦う者は影と戦う。その人は最初から失敗の道を歩いている。

この自己征服のための自己戦争という概念は、外の世界での敵同士の争いの反映から来ている。私たちは、外の世界の敵に対して暴力を犯すのと同じように、内なる世界で暴力を犯そうとするのだ。何という狂気の沙汰なのだろうか! 外の世界でさえ、暴力が誰かを征服したことはない。征服と敗北は全く異なるものだ。

しかし、内なる世界では、いわゆる敵を倒すために暴力を使うことさえできない。なぜならば、倒すべき人などいないからだ。自己認識は争いの結果ではなく、知ることの結果なのだ。だから私は言う「戦うな、知れ。争いを忘れ、知を選べ。」と。

そして、これをあなたの格言としよう:自分自身を発見し、知りなさい。あなたの中に、あなたの知らないことが何もないようにしよう。一隅として、暗く未検査に、放置してはいけない。自分の奥の部屋のすべてに精通していれば、その知は自己征服になる。

私たちは皆、暗い家の中や、日光や新鮮な空気が届かない隅や地下室に、蛇やサソリやコウモリが住み着いていることを知っている。そして家の所有者が家の外で生活し、家の中に入ることなく過ごしているならば、家がこのような悲惨な状態になっていることは驚くべきことでもないし、不自然でもないのではないか? これが私たちの身に起こったことなのだ。私たちもまた、そのような家の所有者であり、家に入るための扉がどこにあるのかさえ忘れてしまっている。私たちがおらず、光がないために、敵の隠れ家になってしまったのだ。

とにかく、徹底的に自分自身を観察する必要がありますね。自分自身と戦わず、焦らず着実にできるだけ観察します。

90鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2020/12/31(木) 21:25:53 ID:1d4drIFg0
自分自身と戦うということはできないのじゃ。
攻撃するのも防御するのも自分であるからのう。
何をしているのかわからんのじゃ。
自分自身を理解することができることなのじや。

91避難民のマジレスさん:2021/01/01(金) 21:06:32 ID:Dp/qMVVc0
第九の質問:あなたは、情熱の抑制は有害であると言います。放縦が適切な道だと言いたいのですか?
私は抑制を説かないし、放縦も説かない。抑制と放縦を知ることを説く。抑制と放縦は両方とも無知であり、両方とも有害だ。抑制は放縦への反動に過ぎない。それは他を逆の形にしたものに過ぎない。抑制は逆さま置かれた放縦に過ぎない。放縦は抑制とあまり変わらない。頭の上に立っているものは同じだ。

ある人が、お金から顔を背けていたサードゥについて話してくれました。顔を背けるのと、お金を見てよだれを出すのとでは、大きく違うのだろうか? 欲から逃げようとしても同じことが起こる。欲はなくならならず、別の形をとる。そして、大きな問題は、この別の形では、それはこれまでと同じように強くなるということだ - そして今、それはあなたには見えないので、より安全だ。それゆえに、それは無傷のままであり続けるだろう。それに加えて、無欲だという錯覚が入り込んでくる。これは、一つを追い出そうとしている間に二つの敵を招き入れているようなものだ。

私はここにいる皆に、欲望を知り、怒りを知って欲しいと思う。それらと戦ってはいけないし、それらに盲目的に従ってもいけない。油断なくいるべきなのだ。観察し、それらすべての形、強さ、技量に精通する必要がある。
今までにあなたは怒りを見たときに、怒りが消えることに気づいたことがあるだろうか? しかしあなたはすぐに、それを甘やかすか、抑え始める。いずれにしても、あなたはそれを観察しない。それは目に見えないまま、未知のままだ。ここで私たちは間違いを犯すのであり、放縦と抑制の両方がこの間違いを助長しているのだ。

この二つとは別に、第三の選択肢がある。私はそれを提案したい。それはあなたの性癖を見て、観察することだ - それと何かをするのではなく、単にそれを見る。目がはっきりと着実に見始めると、あなたはそれが離れて落ち、消えてしまうことに気づくだろう。それはあなたが観ている目の中で立っていることはできない。その存在は幻想の状態でのみ可能であり、見守る意識の中では、生命を失って死んでしまうのだ。私たちの妄想、私たちが観察しないことがその存在だ。それは暗闇の中でしか生きられない昆虫のようなものだ。光があるとすぐに死んでしまう。

実践しようとすると、実際に怒りが生じた瞬間を観察できることは少ないので、どうしても、怒り→ 行動の欲求 → 抑制 → 観察 となってしまいますが、それが自分で分かっていれば、大丈夫でしょうか?

92鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/01(金) 21:38:12 ID:1d4drIFg0
怒りもその瞬間に観ているのがよいのじゃ。
それが出来なくとも思い出したときに観れば善いのじゃ。
日々続けていれば瞬間にも見ることができるようになれるのじゃ。
それまで日々精進あるのみなのじゃ。

93避難民のマジレスさん:2021/01/02(土) 20:48:03 ID:Dp/qMVVc0
他の人にどのように見られているかは関係ないということも伝えておきたい。自分をどのように見るかこそが重要なのだ。しかし、私たちは他人の目を通して自分自身を見る習慣に陥っていて、自分自身を見るための直接で即時の方法があることを忘れている。これは、見るための本当の方法だ。直接なのだ。しかし、私たちは自分自身の偽のイメージを創り出し、他の人を欺くために仮面を被り、その後、我々は他の人がどのように私たちを見ているかで自分自身の意見を基礎づける!

自己欺瞞のこの過程は、生涯を通して私たちと共にある。それは、自己実現の道において主要な障害の一つになる。私たちは、この障壁を打破しなければならない。最初は、すべての自己欺瞞を打ち破り、自分がどのようなものか、全くの裸の自分を知ることが必要だ。なぜならば、これが行われた後にのみ、自己実現の方向への本当の一歩を得ることができるからだ。

人は、自分自身について誤った観念を持っている限り、また、役割を演じている人格が本当の自分であるという妄想が続く限り、真理の領域に入ることはできない。神、全能者、真実、あるいは私たちの本当の存在を知る前に、私たちは自分自身を覆ってきた架空の人格を灰にしなければならない。この欺瞞の仮面は、私たちが本当の生を生きることを許さず、私たちが演じている人工的な生の上に立つことを許さないのだ。生の道を歩きたい人は、その偽の夢から目覚めなければならない。

あなたは今まで自分がドラマの中で演じている、演技していると感じたことはないだろうか? 今までにあなたが内側では一つのものであり、外側ではかなり別のものであると感じたことはないだろうか? 正気の瞬間、自分が自分自身である時には、この欺瞞の意識があなたを悩ませることはないだろうか? もしそのような疑問があなたの中に起こり、悩ませているのなら、この事実はあなたをドラマの外に連れ出し、舞台から堅実な地平に連れ出し、役を演じるのではなく、あなた自身が自分自身であるしっかりとした地面に連れて行くことができるのだ。

社会的な場面で演技が必要な場合は、演技している自分に気づいているようにすれば良いでしょうか? 会話中に自分を観察するのは、特に難しく感じます。

94避難民のマジレスさん:2021/01/02(土) 20:48:46 ID:Dp/qMVVc0
他の人にどのように見られているかは関係ないということも伝えておきたい。自分をどのように見るかこそが重要なのだ。しかし、私たちは他人の目を通して自分自身を見る習慣に陥っていて、自分自身を見るための直接で即時の方法があることを忘れている。これは、見るための本当の方法だ。直接なのだ。しかし、私たちは自分自身の偽のイメージを創り出し、他の人を欺くために仮面を被り、その後、我々は他の人がどのように私たちを見ているかで自分自身の意見を基礎づける!

自己欺瞞のこの過程は、生涯を通して私たちと共にある。それは、自己実現の道において主要な障害の一つになる。私たちは、この障壁を打破しなければならない。最初は、すべての自己欺瞞を打ち破り、自分がどのようなものか、全くの裸の自分を知ることが必要だ。なぜならば、これが行われた後にのみ、自己実現の方向への本当の一歩を得ることができるからだ。

人は、自分自身について誤った観念を持っている限り、また、役割を演じている人格が本当の自分であるという妄想が続く限り、真理の領域に入ることはできない。神、全能者、真実、あるいは私たちの本当の存在を知る前に、私たちは自分自身を覆ってきた架空の人格を灰にしなければならない。この欺瞞の仮面は、私たちが本当の生を生きることを許さず、私たちが演じている人工的な生の上に立つことを許さないのだ。生の道を歩きたい人は、その偽の夢から目覚めなければならない。

あなたは今まで自分がドラマの中で演じている、演技していると感じたことはないだろうか? 今までにあなたが内側では一つのものであり、外側ではかなり別のものであると感じたことはないだろうか? 正気の瞬間、自分が自分自身である時には、この欺瞞の意識があなたを悩ませることはないだろうか? もしそのような疑問があなたの中に起こり、悩ませているのなら、この事実はあなたをドラマの外に連れ出し、舞台から堅実な地平に連れ出し、役を演じるのではなく、あなた自身が自分自身であるしっかりとした地面に連れて行くことができるのだ。

社会的な場面で演技が必要な場合は、演技している自分に気づいているようにすれば良いでしょうか? 会話中に自分を観察するのは、特に難しく感じます。

95鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/02(土) 23:25:50 ID:1d4drIFg0
演技している自分に気付くとよいのじゃ。
それは集中の瞑想をしていればできるようになるのじゃ。
集中している意識と雑念が同時に気付くことができるようになるからのう。
日常でも自分と縁起に同時に気づくことが出来るのじゃ。

96避難民のマジレスさん:2021/01/03(日) 20:53:58 ID:Dp/qMVVc0
自分自身にこの問いを訊ねなければならない。「私は本当に自分が思っていた通りの人間なのだろうか?」この問いは、あなたの存在の奥底に響くに違いない。その問いは、それが幻想であるかもしれないと考える余地がないような鋭敏さと意識を持って、あなたの深みに立ち上がらなければならない。

この問い、この探求、この内省は、私たちが眠りから揺り起こされたと感じるような、意識の新鮮な目覚めをもたらす。すると、私たちが建てた城は夢の中で建てられていることを見始め、航行している船は紙で作られていたことを見始める。あなたの生が非現実的なものに思えてくる。実際には、それはあなたのものではなく、演じてきたいくつかのドラマの一部であり、教育、訓練、文化、伝統、社会があなたをキャスティングしたドラマだ。しかし、このドラマはあなたの中に根を下ろしているわけではない。

私たちはほとんど人間ではない。ただのかかしで、何の根もなく、何の基盤もなく、おとぎ話の登場人物のように、夢の中の登場人物のように、現実には何の存在もない。私はあなたが夢の中で迷子になって動いているのを見る。 あなたの行動はすべて睡眠の中で行われている。活動はすべて眠りの中で行われている。しかし、あなたはいつでもこの眠りから目覚めることができる。これが睡眠と死の違いだ。あなたは前者からは目覚めることができるが、後者からは目覚めることができない。どんなに深い眠りの中にいても、必ず目覚める可能性がある。眠りにはこの可能性が隠されている。

あなたが自分自身に直面すると、自分自身を非常にハンサムだと思っている男が、まさに初めて鏡の前に立ったときに幻滅するように、多くの幻想が粉々になるだろう。身体を見るための鏡があるように、自己を見るための鏡がある。私はこの鏡の話をしている。自己観察とは、この鏡のことだ。

あなたは本当に自分の真実を見たいだろうか? 本当の自分に会いたいと思っているだろうか? そして、全裸の自分を見られる可能性があることを知って、怖くないだろうか? このような恐怖はごく自然なことだ。私たちが常に自分自身についての新しい夢を思い浮かべ、本当に誰であるかを忘れようとすることは、この恐怖のためだ。しかし、この夢はあなたの仲間になることはできない。夢の助けを借りても、どこにも行くことはできない。それは単に時間を無駄にし、あなたは自分を家に導くことができる貴重な機会を失う。

オショーの述べる通りに自分を観ると、場面や状況に応じて、異なった自己イメージが生じるのが判ります。しかし、独りでリラックスしているときの自分自身も、この心身の性質にぴったり合っているように思えるだけで、イメージには変わりがないです。このようなイメージがどのような条件で、どのように生じるのか、日常の中でもさらに詳しく観察するようにします。

97鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/03(日) 23:39:00 ID:1d4drIFg0
観念の自分は全て幻想で在るとオショーは言うのじゃ。
幻想の世界で幻想の自分が動いていると想っているだけなのじゃ。
それをありのままに観ることすら拒んでいるのじゃ。
自らを観る強い意志を起こして自己観察に取り組むべきなのじゃ。

98避難民のマジレスさん:2021/01/04(月) 20:51:28 ID:Dp/qMVVc0
あなたは、なぜ私があなたのこの裸、醜さと自分自身の空虚さを見ることをこんなに主張するのか、不思議に思うに違いない。見るのに相応しくないものは見ない方がいいのではないか? 醜いものは宝石で飾り、見る価値のないものはカーテンで覆うのもいいのではないか? 一般的には、これがまさに私たちがしていることだ。これが一般的な習慣だ。しかし、この習慣は非常に有害だ。なぜならば、私たちが隠しても傷は癒えないからだ。それどころか、感染して危険な状態になる。そして、覆い隠してきた醜さは取り除かれるのではなく、人格の内なる流れに入っていく。悪臭が内部に広く行き渡る間、私たちは表面に人工的な香水を振りかける。そして、香水がもはや役に立たず、内なる悪臭や病気が臭うようになる時が、宝石がもはや役に立たず、根底にある醜さが際立つようになる時が来るのだ。

私は香水を振りかけるためにいるのではない。私は悪臭を根絶やしにするためにいる。私は醜さを宝石や花で覆うためにいるのではない。醜さを取り除き、内側にある美しさと音楽を目覚めさせるためにいる。それらがなければ、他のすべてのものは無意味だ。私たちの努力はすべて無意味だ。それは砂を搾って油を得ようとするようなものだ。

だから私はあなた自身の中に隠されているものを明らかにするように願うのだ。自分自身を明らかにし、自分自身を知りなさい。自分から逃げてはいけない。そして、自分から逃げることはできない。あなたはどこに行くのか? 逃げて何を得るのか? どこに行ってもあなたはあなたと一緒なのだ。あなたは自分自身を変容させることはできるが、自分自身から逃げることはできない。

この変容の連鎖の最初の環は、自己観察だ。そして驚くべきことに、醜さを知ると、そこから解放されるのだ! 自己の恐れを知ることは、その恐れから自由になることであり、憎しみを知ることは、憎しみから自由になることだ。私たちが見ていないからこそ、それはそこにあるのだ。逃げようとしているので、それは私たちを追いかけている。私たちが停止した瞬間、それはまた停止する - 私たちが走っているときに影が一緒に走り、私たちが停止するときに停止するのと同じように。

会話中に自己観察することができました。相手とやりとりできないのではないかという心配がこれまで観察を阻んでいましたが、簡単な会話なら、全体で何が起こっているのかを失うことなく、問題なくできることが分かりました。さらに精進します。

99鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/04(月) 23:14:23 ID:1d4drIFg0
苦しみや悲しみが多くつまった心を観ることは誰にでも辛いことじゃ。
しかし、それを観ることで苦しみや悲しみは滅していくのじゃ。
そうすれば飾りの無い自分が見えるようになるのじゃ。
心を隈なく観ることで悟りもやってくるのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2021/01/05(火) 21:09:40 ID:Dp/qMVVc0
そして、もしこれらのことに目を向けることができれば、全体の状況はすぐに変化する。私たちが幽霊や霊だと思っていたものは、単なる影だったのだ! 私たちが走っていたので、これらの幽霊や霊は追いかけて走ってきた - そして、これは私たちをさらに走らせた! 私たちが走るのを止めた瞬間、それらは無生命となり、私たちが見るとすぐに、それらは存在しなくなる。それらはただの影にすぎない。そして確かに影は何もできない。醜さの影があったので、それを覆うために、私たちはそれを花で飾った。こうして私たちは錯覚を起こした。今、それがただの影であって他には何もなく、それを覆う必要がなくなったことがわかると、私たちは影から解放され、それが常にそこにあった影であったことに気づくのだ。そして、このまさに実現は、私たちに美の視覚、最も美しいものの視覚を与えてくれるのだ。

私はこの視覚を持っている。私は影から逃げるのをやめ、そのことが私に影の向こう側を見る力を与えた。そしてそこで見たもの、その真理は、すべてを変えた。真理はすべてを変える。その存在そのものが革命なのだ。だから私はあなた方に恐れないようにと言う。そこに本当にあるものを見なさい。夢や想像の中に避難所を探してはならない。これらの避難所を手放す勇気のある者は、真理に守られている。

今朝、ある人から「自分を直接知るとはどういうことですか」と聞かれた。自分を直接知るということは、自分についての他人の意見を受け入れないということだ。自分の思考、情熱、行動、希望、願望、欲望の中に隠されたものが何であるかを自分自身で見なさい。目的地に着いた後で新しい場所を見るように、これらのものを直接見なさい。馴染みのない人や見知らぬ人を見るように、自分自身を見なさい。それはあなたに多くの良いことをするだろう。何よりも、それはあなたが心の中に作った自分自身の彫像を粉々に粉々に砕くだろう。この偶像が粉々に砕け散り、あなたは夢の国から現実の国へと移る。

私たちが正直で善良な者になる前に、まず、自分の中にある真実でないものや、悪を隠すために作り出した真実と善の幻想を払拭しなければならない。これらの幻想は、いずれにしても自己欺瞞である。無駄に自分のために架空のイメージや人格を作る人はいない。それは必要に迫られて行われる。それは、自分の目に映る屈辱から自分を守るために行われているのだ。自分の中に宿っている動物を垣間見ると、その動物の存在そのものが自分を苦しめ、自分の中で屈辱を感じる。

未だに瞑想で深い意識に落ちていく時に身体に緊張が生じます。この恐れを気をつけて観察します。眠りに落ちる時には緊張が生じないのは興味深いです。

101鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/05(火) 23:29:34 ID:1d4drIFg0
自分自身の欺瞞を観ることはなかなか難しいものじゃ。
それは屈辱とか苦からの逃避として作り上げたものであるからのう。
逃避していることから逃げずに直面しようとするから今までとは反対の視点を持たねば成らないのじゃ。
困難なことであるが全て乗り越えて進むしかないのじゃ。

102避難民のマジレスさん:2021/01/06(水) 21:22:10 ID:Dp/qMVVc0
この屈辱から身を守るには、二つの方法がある。動物が消えてしまうか、動物のことを忘れてしまうかだ。動物が消えるためには、サーダナ、つまり修行を通さなければならない。しかし、動物を忘れるのはとても簡単だ。それはとても簡単なことだ。想像力だけでトリックを行うことができる。私たちは自分自身の偽りのイメージを作り、そのイメージの助けを借りて動物を抑圧する。しかし、動物は消えない。このイメージの背後で活動的になるのだ。イメージの背後には動物があるので、このイメージは外見だけだ。現実の生活の中で、このイメージが失われ、毎日打ち負かされているのに気づかないだろうか?これは当然のことだ。内側の動物は本物なので、私たちの努力すべてを打ち負かしてしまう。毎日、想像上のイメージが打ち負かされているのだ。

にもかかわらず、あなたは自分のイメージを生かしつづけ、大切にしている。慈善活動や犠牲、思いやりや奉仕の行為、いわゆる道徳的な行動のすべてを通して、他人や自分自身にそれが本物であることを証明する方法を見つけようと、いつも忙しくしているのだ。これらのすべては、ただ証拠を探しているだけではないだろうか? イメージが本物であることを証明しようとしているだけではないだろうか? しかし、これらはすべて無駄なのだ。あなたが作り上げた自分自身のイメージは、まだ死んだままだ。それは命を持たないままであり、そこに命が入る可能性はない。

この死んだ重荷からあなた自身を解放してもらいたい。この偽りの、死んだ仲間を解放して、本当のものを知り、理解しなさい。偽りのイメージを植え付けることは道を塞ぐことになるが、自分の中の動物を観察し、この欺瞞から解放することが道を示してくれるだろう。

昨晩私は畑を通ったが、そこでかかしを見た。棒が立てられ、シャツを着ていた。てっぺんには頭として、土の壺が置かれていた。暗闇の中で鳥や動物たちは、それを見張り番と見なして怖がって逃げていった。私はかかしを見て、また私と一緒にいる人々を見た。私は言った、「私たちもかかしではないかと、自分の中を見てみよう」と。すると、仲間たちが笑い出した。しかし、私は彼らの笑い声が完全に偽物であることを見た。

抑制と抑圧についてお教えください。抑制は意識して抑えること、抑圧は無意識で抑えることと解釈していますが、英語では両方とも suppress です。社会的場面では、抑制が必要になることがあり、お釈迦様も怒りを抑えよと説いています。オショーは surpressを説かず、自分の真正な感情の表現を勧めることもあるように思います。 私は自分で本心が分かってさえいれば、場面によって、抑制は問題ないと思っているのですが、お釈迦様とオショーの違いは、対機説法のためなのでしょうか?

103鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/06(水) 23:25:16 ID:1d4drIFg0
怒りは日常においては常に抑えるべきものじゃ。
怒りのために自他を傷付けたりすることもあるからのう。
修業ではありのままに観察するべきなのじゃ。
ありのままに観ることができればそれが起こっては消えることがわかるのじゃ。
そして囚われなくなるのじゃ。

104避難民のマジレスさん:2021/01/07(木) 20:39:58 ID:Dp/qMVVc0
私たちについてのすべてが偽物になっている - 私たちの生活全体、取引、笑い、涙。すべてが偽物になっているのだ。私たちは、この偽のかぶり物の重さに疲れ果てている。そして、この偽のかぶり物はとても重いのだが、私たちは偽りの背後にあるものをさらに恐れているので、それを投げ捨てることはない。そこに入るのを恐れている。それどころか、私たちがいつも他人の中に軽蔑してきた存在が、そこに満開の花を咲かせているのだ。私たちの恐れは、自分自身を発見することを許さない。

自分のサーダナのために、自己実現のためには、恐れないことがまず第一だ。勇気を出せない人は、自分自身の中に入ることさえできない。自分自身に入るためには、暗い夜に孤独な岩場の道を歩くために必要な勇気よりも、はるかに大きな勇気が必要だ。なぜならば、人が自分の中に入るとすぐに、長い間大切にしてきた自分自身についてのすべての甘い夢が打ち砕かれ、自分自身が、最も醜く、最も不潔な罪に直面していることに気づくからだ。その罪から、自分は完全に自由だと思っていたのに。

しかし、自分を発見する勇気を持った者が、自分の中の暗い路地や谷間、長い間見捨てられていた場所に移動したとき、自分が新しい生に乗り出したことに気づく。闇の中に勇敢に飛び込んだ者は、最終的に光を得られる旅に出る。それは多くの生で求めてきた目標であり、これまであえて暗闇に足を踏み入れなかったために、常に避けられてきた目標なのだ。

闇は、灰の山が火の粉を隠すように、光を包み込み、隠している。闇の中に入るとすぐに光が見えてくる。だから私はあなたに言う:もしも光を望むならば、暗闇を恐れてはならない。暗闇を恐れる者は光を見つけることはできない。光への道は闇の中を通る。実際のところ、この勇敢な暗闇への侵入により、それ自体が内なる光へと変容するのだ。この勇敢さのおかげで、今まで眠っていた者が目を覚ますのだ。

あなたは自己認識を得たいのではなく、ありのままの自分を恐れているのではないだろうか。あなたは「サット・チット・アーナンダ-存在・意識・至福」のような言葉を聞くのが好きだ。「永遠」や「純粋」のような言葉を聞くのが好きだ。しかし、その理由はそれらの言葉があなたが本当に何であるかを忘れてしまうのを助けるからなのだ。サット・チット・アーナンダの完全な正反対だ。

細かく観察すると、本心も矛盾する二つがあったりします。例えば自我を解体して重荷を下ろしたいという心と、消えるのは怖いという心です。その上に、さらに人に良く見られたいという心があり、そのために自分の本当の気持ちとは違う態度を表現するというような心があります。時々、自分の本心が何なのかと迷う時がありますが、いずれにしてもイメージされるものは全て偽物なので、徹底的に観察して、何もなくなるまで、一つ一つ覆いを取っていくということで良いのでしょうか?

105鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/07(木) 22:01:26 ID:1d4drIFg0
感情も思考も対象によって変るものであるから、本心も次々に変るものじゃ。
恐れずに観ていければ全て無くなるのじゃ。
ただの反応であったと気付くからのう。
何も無くなるまで観察し続けると善いのじや。

106避難民のマジレスさん:2021/01/08(金) 21:00:26 ID:Dp/qMVVc0
しかし、あなたは自分の自我を養いたいのだ。そしてそれが、罪人がサドゥーの周りに群がる理由だ。なぜならば、そこに聞く話は魂の純粋さについてであり、ブラフマンと一体であることについてであり、それはその人たちにとって非常に喜ばしいからだ。説教を聞いたとき、その人たちは申し訳ないと感じて、劣等感を抑圧し、その後、再び自分自身の前に真っ直ぐに立つことができるのだ。魂は純粋であり、その影響を受けないので、罪を犯すのはとても簡単で無害であると感じ始める。自分の魂が純粋で、その影響を受けていないと信じることは、罪を終わらせることにはならない。それは非常に深い自己欺瞞でしかない。それは人間の心の最後のトリックだ。ただ闇がないと信じているだけでは、光はない。

罪は存在しない、魂は罪に関与していないと信じるように教えるイデオロギーは非常に危険だ。それは、自分の罪深い状態を忘れるための手段に過ぎない。それは、罪を消滅させることではなく、罪を忘れることにつながる。そして、罪を忘れることは、罪が存在することよりも悪いことなのだ。あなたは自分の罪を見ることができるだろうか? 罪に気づくことは良いことで、有益なことだが、それらを見ることができず、無知であることは有害なのだ。なぜならば、それらが見られるようになると、私たちを追い立て始め、私たち自身を変容させようと突き刺すからだ。罪を意識することは変化をもたらし、罪を完全に意識することは瞬間的な変容をもたらす。

それゆえに、どうか魂の純粋さや悟りなどの話に巻き込まれないようにしてほしい。魂は信念とは何の関係もない。それは、罪にまみれた人格が投げ出され、暗闇の層を突破して、求道者が自分の秘密の、心の奥の、光の中心に入るときに、直接実現されるものなのだ。それは直接の実現だ。それは想像できるものではない。

どんな想像上の概念でも、おそらくは大きな害になるだろう。それは邪魔者になり、光を得るための妨げとなりうる。なぜならば、もし闇は存在しないと信じているならば、存在するとは思わないものを取り除けるはずはないからだ。そしてもし、魂が善も悪も犯していないならば、その上に立つ意味は何なのだろうか? 私たちのいわゆる哲学者たちのこのような無意味な発言や疑問は、多くの人々を妄想の世界に投げ込んできた。この毒は広範囲に広がっており、そのせいで私たちは自分たちを神だと思っている。そして同時に、この地球上では、私たちよりも大きな罪人を見つけるのは難しいだろう!

私自身も、苦滅ができる自分や善行に励む自分のイメージによって、自我を養ったことがあります。最近は自我の拡大を感じられるようになったので、気づけるようになってきましたが、油断せずに正しい観察に励みます。

107鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/08(金) 23:33:29 ID:1d4drIFg0
宗教的な観念はむしろ有害になるというのじゃ。
宗教に拠って自分はもはや無罪であるとか、浄化されたなどという概念は有害なのじゃ。
ありのままの自分を観る妨げになるからのう。
何の観念も無く今ここにある己を観るのじゃ。

108避難民のマジレスさん:2021/01/09(土) 21:01:10 ID:Dp/qMVVc0
また、このような自己賛美や魂の純粋さについての話は、本当は罪の存在を無視することに向けられていることも忘れてはならない。この話の罠にはまってしまった人が、後になってそこから抜け出すのはとても難しい。罪から自由になることは簡単だが、このような種類の危険な哲学の魔手から逃れることは非常に難しいのだ。

魂が純粋であるという事実は、理論でも原理でもなく、直接の実現だ。そして、それについて議論しても何の役にも立たない。それは、病気の人の心の中に、自分の病気が存在しないという幻想を作り出すようなものだ。もしその病人が福音としてこれを受け入れた場合、結果は回復ではなく、確かな死となるだろう。

知っている人は、実現、悟りを議論しない。彼らは修行、悟りにつながる道について話す。考慮されるべきなのは悟りではなく、修行なのだ。悟りは修行に従うように結びつけられている。悟りについて考えることは無意味だ。そして誰もが当たり前のように悟りを取るとしたら、そのような人の修行は不可能になる。

それなのに、修行のない悟りを当たり前のように受け止めてしまうのは、どれほど簡単なことなのだろうか! このようにして、人は喜びを感じるようになる。このようにして、実際にそれを取り除くことなく、罪からの自由の喜びを感じ始め、幻想の深い呪文の中で、乞食は皇帝の喜びを感じ始める。乞食が自分は皇帝だと言われるのは、何と嬉しいことだろう。そう告げる者が尊敬され、その足元にひれ伏して崇拝されるのも不思議ではない。貧しさと罪からの解放には、これほど簡単で安上がりなものはない。このインチキ哲学はあなたに非常に簡単な自由を与えるが、修行はあなたの側で多大な努力を必要とする。

私はあなたがどんな哲学や哲学者の罠にもかからないことを願っている。私はあなたがそのような早道に頼らないことを願っている。最も簡単で安あがりな方法は、魂が純粋で悟りを開いていること、魂はブラフマンそのものであり、あなたがするべきことは何もないと信じることだ - そしてもちろん、あなたがその時にたまたまやっていることは何であれ、あきらめるべきことは何もないので、最高のものであると信じることだ。

修行者がこのような観念の罠を避けるためにはどうしたら良いのでしょうか? 私の場合は正しい観察ができているか、すなわち新しい発見、心の変化があるかどうかを確認することと、本当に悟りを求めているのかを自分自身に真摯に尋ねることをしています。

109鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/09(土) 23:58:53 ID:1d4drIFg0
はっきり言ってしまえば全ての者がこのような罠を避けられるような方法や術はないのじゃ。
本当は悟りを求めていない者はこのような罠に引っかかってしまうじゃろう。
霊的に浄化されたとかアセンションにはいったとか、奇跡のコースを修了したとか言われてもはや修業もやめてしまうのじゃ。
そのような者は本当はそのような安っぽい金で買える権威とか名前を求めていただけであるからそれを手に入れて満足するのじゃ。
真摯に悟りを求める者は老病死の苦を超えない限り修業し続けるべきなのじゃ。

110避難民のマジレスさん:2021/01/10(日) 21:03:46 ID:Dp/qMVVc0
真実でさえも悪用されることがあり、最も高貴な真実でさえも下劣なものを隠すために使われることがあることを忘れてはならない。これは過去にも起きたし、今も毎日のように起きていることだ。臆病は非暴力によって隠すことができ、罪は魂の純粋さと悟りの哲学の下で隠すことができ、無行為はサニヤスの衣の下で隠すことができる。

私はこれらの危険に対して警告したい。もしあなたがこれらの危険を警戒していなければ、自己の方向に大きく前進することはできない。あなたを包み込んでいる罪と闇から逃れようとして、哲学的な安住の地を求めてはならない。それらを知りなさい。精通しなさい。それらはそこにある。その存在を忘れてはならない。それらは夢のようであっても、まだそこにある。そして、夢は存在しないと思ってはならない。夢にも存在があるのだ。それはまた、私たちを圧倒し、邪魔することができる。「それはただの夢だった 」と言っても、どこにもつながらない。目覚める以外に解決策はない。しかし、もし望むならば、人は目覚めた夢をさえ見ることができる。偽りの哲学、修行のない哲学は全く同じことをする。それはあなたを覚醒させない、それは単に覚醒の夢を引き起こす。それは夢の中の夢だ。自分が起きているように見える夢を見たことはないだろうか?

単に信じて、そこに罪は無い、闇は無いと言っても、何の意味もない。それはあなたの願望の表現に過ぎず、真実ではない。罪がないこと、闇がないことは私たちの願望だが、願望だけでは十分ではない。このことは重要だ。そして、これらの哲学者たちは、王になりたいと願う乞食が最終的に王になった夢を見始めるように、次第に達成の夢を信じ始めるのだ。その人たちは常にそれを望んでいて、最終的には自分が望んでいたことを達成したと想像するが、実際には何も達成していないのだ。だから、敗北を忘れるのは簡単だ。そして、現実にはできなかったことを夢の中で達成したので、眠りの中で満足のため息をつくのだ。

あなたがそのような満足感をここに求めていないことを願っている。もしそうなら、あなたは間違った人のところに来てしまった。私はあなたに夢を与えることはできない。私はあなたに自己欺瞞の根拠を与えることはできない。私は夢破りであり、あなたを眠りから目覚めさせたいのだ。

苦を逃れようとして修行をはじめたのに、苦が無い夢を本物と信じて、死ぬ時に偽りに気づくなら、それ以上恐ろしいことはないと思いました。気をつけて観察に励みます。

111鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/10(日) 21:48:18 ID:1d4drIFg0
聖典の教えも本当は悟りを求めていない者には利用されるだけなのじゃ。
夢幻を追いかけて時間を費やしてはいかんとオショーは言うのじゃ。
現実に今ここにある心を観るために励まなければいかんのじゃ。
それができれば進んでいくことが出来るのじゃ。


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