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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

403鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/13(金) 22:48:26 ID:1d4drIFg0
>>401 そうじゃ、家でもどこでも本心が観られるならば立派に修業できているのじゃ。
 実践が大事なのじゃ。


本心を観るという習慣が無い者には、先ず心を内側に向けるのが難しいじゃろう。
しかし、少しずつでも実践すればできるようになってくるのじゃ。
やがてはそれが習慣になって楽に出来るようになるのじゃ。
しまいには心を内側に向けることが楽しくなって修行も捗るようになるのじゃ。
日々の実践がすべてなのじゃ。

404避難民のマジレスさん:2019/12/14(土) 00:13:02 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話214

よくアーシュラマムを訪れるエーカナータ·ラーオ氏が尋ねた。

「環境によって黙想に変化が生じることはあるでしょうか?」

マハルシ
 そうです。
 あるときは啓蒙を受け、黙想は容易になります。
 また別のときには、何度試みても黙想が不可能なこともあります。
 これは(ラジャス、タマス、サットヴァという)三つのグナの働きによるものです。

質問者
 それは行動や環境による影響を受けるのでしょうか?

マハルシ
 行動や環境がそれに影響を与えることはありません。
 障害となるのは「行為者であるという感覚」なのです。

405鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/14(土) 22:54:11 ID:1d4drIFg0
なにやら矛盾しているようにも見えるのじゃ。
環境によって黙想に変化が生じるというのじゃ。
次にはそれは環境による影響は受けないというのじゃ。
実にそれは行為者であるという謬見によるものというのじゃ。
環境によって謬見が生じれば、三つのグナの働きが悪くなり、黙想も不可能になったりするというのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2019/12/15(日) 00:50:25 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話215

1936年6月22日

マハルシはG・U・ポープ訳の『ティルヴァーチャカム』を読んでいたとき、「強烈な帰依心で全身は震え出し、肉や骨が溶け去った」という詩節に出会った。

マハルシ
 マーニッカヴァーチャカルは身体がまばゆい光の中に消え去り、その後に死体を残さなかった聖者の一人です。

質問者
 そのようなことがありえるのでしょうか?

マハルシ
 粗大な身体は、心という精妙な要素が具象化したものにすぎません。
 心が融け去ったとき、光が炎のように燃え、身体はその過程で焼き尽くされるのです。
 ナンダナールは全身が輝く光の中に消え去ったもう一人の聖者です。


チャドウィック少佐がエリシャも同じように消え去った聖者の一人だと伝えた。
彼はキリストの身体も同じように墓場から消え去ったのかどうかを知りたいと願った。

マハルシ
 いいえ。
 キリストの身体は死体として墓に埋められました。
 一方、他の聖者の場合は死体を後に残さなかったのです。


会話の流れの中で、マハルシは、微細身は光と音で構成され、粗大身はそれが具象化されたものだと述べた。

B・C・ダース氏が尋ねた。

「その光と音は感覚によって認識されるのでしょうか?」

マハルシ
 いいえ。
 それらは超感覚的なものです。
 それは下記のようなものです。

       イーシュヴァラ(普遍性)   ジーヴァ(個人性)
粗大身    宇宙                 身体
微細身 音と光(ナーダとビンドゥ)  心とプラーナ (生気)  
原因身 アートマン(真我)        アートマン(真我)
       パラム(超越的)         パラム(超越的)

 それらは究極的には同じものです。

 創造神の微細身は神秘的な音、 プラナヴァ(聖音 AUM)です。
 それが音と光です。
 宇宙は音と光の中に融け入り、 それからパラム(至高なるもの)ヘと超越するのです。

407避難民のマジレスさん:2019/12/15(日) 08:11:21 ID:RcLPcp7A0
三つのグナとは、万物のありなままの在り様の性質であり、三つの内のどれが優勢になるかにより万物はその影響をうけるが、
ありのままはを分別しようとする行為者=主体=自我があるという感覚、謬見がなければ、ありのままは、ただありのままである。
みたいなことでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

408鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/15(日) 22:32:54 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
 グナもまた方便であるがのう。
 全て自分次第なのじゃ。

中国にも仙人が死ぬ時に肉体を消し去ったという伝説が在るのじゃ。
すべてが意識であればそれも可能なのじゃ。
現代の物理学でも物質とエネルギーは同じものというのじゃ。
肉体がエネルギーになれば光と共に消え去るのじゃ。

409避難民のマジレスさん:2019/12/16(月) 00:22:57 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話216

マハルシはアルナーチャラの意味について語った。

アルナ=赤、炎のような輝き。
その炎はただ熱いだけの通常の火とは異なります。
これは叡知の炎(ジニャーナーグニ)であり、熱くもなければ冷たくもありません。

アチャラ=丘。
つまりアルナーチャラは叡知の丘を意味しているのです。

410鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/16(月) 23:04:31 ID:1d4drIFg0
マハリシは悟った後にはアルナーチャラに住み着いて死ぬまでそこにいたというのじゃ。
もはやたのどこかに行くことも不要だったからなのじゃ。
聖者の住むところに叡智もあるのじゃ。
アルナーチャラは正に叡智の丘だったのじゃ。

411避難民のマジレスさん:2019/12/17(火) 00:19:42 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話217

1936年6月29日

ボンベイのエンジニア、A・ボース氏が尋ねた。

「バガヴァーンは私たちに哀れみを感じて恩寵を注いでくださるのでしょうか?」

マハルシ
 あなたは首まで水につかっていながら、水が欲しいと叫んでいるのです。
 それは首まで水につかっていながら、咽が渇いたと言うようなものです。
 あるいは、水の中の魚が咽が渇いたと言うこと、あるいは水そのものが咽が渇いたと言うことと変わりません。

質問者
 どうすれば心を破壊できるでしょうか?

マハルシ
 何よりもまず、心というものは存在するでしょうか?
 あなたが心と呼ぶものは幻影でしかないのです。
 それは「私」という想念から始まります。
 粗大な感覚器官や精妙な感覚器官なしに身体や心に気づくことはできません。
 それでも、あなたは感覚なしに存在することができるのです。
 そのような状態においては、あなたは眠っているか、ただ真我だけに気づいているかのどちらかです。
 真我の気づきは常にそこに在ります。
 本来の自己としてとどまりなさい。
 そうすれば、このような質問が起こることもないでしょう。

質問者
 身体意識は実現の障害なのでしょうか?

マハルシ
 私たちは常に身体と心を超えています。
 しかしながら、もしあなたが身体を自己と見なすなら、身体意識はもちろん障害となるでしょう。

質問者
 身体と心は真我にとって何かの役に立つのでしょうか?

マハルシ
 真我実現を助けるというかぎりにおいては役に立ちます。

412鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/17(火) 21:56:52 ID:1d4drIFg0
心を破壊するには先ず心が何か知らねばならないのじゃ。
それは自我がある時にだけあるとされる能力なのじゃ。
名前だけのものなのじゃ。
身体も名前と形だけのものではあるが、アートマンの実現には役立つのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2019/12/18(水) 00:20:32 ID:6VKPGjH60
>>412
アートマンもまた、かんねんでありますし、無我も観念でありますが、沈黙しないのが賢者とか覚者とかブッタでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

414避難民のマジレスさん:2019/12/18(水) 00:25:00 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話218

1936年6月30日

マハルシはこの日『シヴァ・プラーナ』に目を通していた。

マハルシ
 シヴァ神には、目に見えない超越的存在として表わされる普遍的な側面と、内在的なリンガの側面があります。
 初めに聖山アルナーチャラとして顕現したリンガは、今日においてもこの地に聳え立っています。
 この顕現は十二月のオリオン座(アールドラー)に月が入ったときに起こりました。
 しかしながら、それはシヴァラートリの日に初めて礼拝されるようになり、現在も神聖な祝祭日と見なされています。
 言葉の領域においては、プラナヴァ(聖音オーム)は超越的側面(ニルグナ)を表し、パンチャークシャリー(五つの音節のマントラ「ナマシヴァーヤ」)は内在的側面(サグナ)を表しています。

シュリー・バガヴァーンはパールヴァティーがラーマをテストする物語を再び次のように語った。

マハルシ
 ラーマとラクシュマナはシーターを捜し求めて森の中をさ迷っていました。
 ラーマは悲嘆にくれていたのです。

 ちょうどそのとき、シヴァとパールヴァティーが近くを通りかかりました。
 シヴァはラーマに敬意を捧げ、そして歩き去りました。

 パールヴァティーは驚いて、
 「なぜ宇宙の主であり、すべての生きとし生けるものから崇拝されるあなたが、妻を見失ったくらいのことで悲嘆にくれ、みすぼらしく混乱しながら苦悩を抱えてうろつき回っているただの人間でしかないラーマに敬意を捧げなければならないのですか?」と尋ねました。

 するとシヴァは答えました。
 「ラーマはただ状況にしたがって普通の人間が行為するだろうことを演じているだけなのだ。
  だが実際は、彼はヴィシュヌ神の化身であって、敬意を受けるに値するお方なのだよ。
  もし望むなら、お前が彼をテストしてみるがいい」

 パールヴァティーは状況を深く考慮したうえでシーターに変身すると、嘆き悲しみながらシーターの名を呼んでいるラーマの目の前に姿を現しました。

 彼はシーターの姿で現れたパールヴァティーを見ると微笑んで尋ねました。
 「パールヴァティー、どうしてここにいるのですか?
  シャンブはどこです?
  なぜまたシーターの姿でここに?」。

 パールヴァティーは赤面しながら、彼をテストしに来たことと、シヴァがラーマに敬意を捧げた理由を知りたかったことを告白しました。

 ラーマは答えました。
 「私たちはみなシヴァの一側面でしかないのです。
  目に見えるときは彼を礼拝し、目に見えないときは彼のことを想い続けているのです」


*リンガ

象徴。
非顕現を本性とするシヴァ神の象徴。
頂点が半球形の直立型円柱でシヴァ神寺院の内奥の神殿に祭られている。

*シャンブ

シヴァ神の別名。

415鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/18(水) 21:57:20 ID:1d4drIFg0
>>413 そうじゃ、全て観念なのじゃ。
 それでも悟りへの道を示すことが出来る故に仏陀達はそれを説き続けるのじゃ。
 実践することだけが観念を超えて悟りへの道を進むことになるのじゃ。

シヴァとヴィシュヌは別の神とされているのじゃ。
しかし、すべてがヴィシュヌの夢であったり、ヴィシュヌがシヴァの一面であるという神話も在るのじゃ。
それもまた人を悟りに誘導するための観念に過ぎないのじゃ。
悟りのためにすべての観念は使役されるのが正しい法なのじゃ。

416避難民のマジレスさん:2019/12/19(木) 00:38:45 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話219

アーシュラマムに暮らす古い弟子の一人、ラーマクリシュナ·スワミが『シュリー·アルナーチャラへの五連の詩』第二節の中の「トヴァイヤールナーチャラ・サルヴァ」の意味について尋ねた。

  ああ、アルナーチャラ!世界という像はあなたの中で形成され、存続し、消滅する。
  これが崇高な真理である。あなたは「私」としてハートの中で舞い踊る内なる真我である。
  「ハート」があなたの名前である。ああ、主よ!
  
  『シュリー·アルナーチャラへの五連の詩』第2節

マハルシは詳細に渡ってその意味を説明した。

マハルシ
 宇宙はカンバスの上に描かれた絵のようなものであり、そのカンバスが赤い丘アルナーチャラなのです。
 立ち現れては沈みゆくものは、それが立ち現れてきた源と同じものからできています。
 宇宙の究極的な姿、それがアルナーチャラという神です。

 「神」、あるいは「見る者」、あるいは「真我」に瞑想してゆくと、すべては「私」という精神的波動へと還元されます。
 「私」の源へと跡をたどってゆくと、原初の「私ー私」だけが後に残ります。
 それを言葉で表現することは不可能です。
 実現の座は内側にあるため、それを外側にある対象物として見ることはできません。
 その座は至福であり、すべての生きとし生けるものの核心です。
 それゆえ、それはハートと呼ばれてきました。
 この人生におけるたった一つの有益な目的とは、内面に向かい、それを実現することです。
 それ以外にするべきことなど何もないのです。

質問者
 どうすれば精神的傾向を消滅させることができるでしょうか?

マハルシ
 実現すれば、あなたはその状態にあります。

質問者
 それはつまり真我をとらえることで、性癖は現れるやいなや焼き尽くされるということでしょうか?

マハルシ
 あなたが本来のあなたとしてとどまるなら、それらはおのずと焼き尽くされるでしょう。

417鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/19(木) 21:08:22 ID:1d4drIFg0
精神的な傾向など気にする必要も無いのじゃ。
本来の意識に還れば全ての観念も消えるからのう。
この世で成し遂げる価値のあることはそれだけなのじゃ。
他の全ては観念遊戯に過ぎないのじゃ。

418避難民のマジレスさん:2019/12/20(金) 00:18:54 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話220

1936年7月1日

物理学講師であるB・C・ダース氏が尋ねた。

「黙想は心の制御によってのみ可能であり、心の制御は黙想によってのみ達成されます。
 これでは循環論法ではないでしょうか?」

マハルシ
 そうです。
 それらは相互依存しており、どちらも同時に進行すべきものです。
 修練と離欲が徐々にその結実をもたらすでしょう。
 離欲は心が外側へと向かうのを止めるために修練されます。
 修練とは心を内面に向け続けるためのものなのです。
 心の制御と黙想の間には葛藤があります。
 それは絶えず内面で起こり続けますが、やがて黙想も成功するようになるでしょう。

質問者
 どのように黙想を始めればよいのでしょうか?
 あなたの恩寵が必要なのです。

マハルシ
 恩寵は常にそこにあります。


師は聖典から「離欲も、真理の実現も、真我に確立されることも、グルの恩寵なしにはありえない」という言葉を引用した。

マハルシ
 修練は必要です。
 それは気性の荒い牛がさ迷い出ないように、おいしい干草で誘って家畜小屋に繋ぎ止めるようなものなのです。
 それから師は『ティルヴァーチャカム』から一節を読み上げた。
 それは心に向けて語りかけられたものだった。

  ああ、ぶんぶん飛び回るハチ(心)よ!
  なぜ無数の花々から微々たる蜜を懸命に集め回るのか?
  蜜の宝庫である「彼」がいる。
  ただ「彼」を見、「彼」について考え、「彼」について語るだけでいい。
  内側に向かいなさい。そこで「彼」に歌うがいい。

質問者
 瞑想において聖典を読んだり神の名を唱えたりしながら、心の中に神の姿を想い描くべきでしょうか?

マハルシ
 神の姿を想い描くことは瞑想に他なりません。

質問者
 神の姿とともにマントラの復誦または神の属性について黙想するべきでしょうか?

マハルシ
 ジャパが心の優勢を占める傾向にあるとき、声に出して唱えるジャパは、心の中で唱えるジャパになります。
 そして、それは瞑想と同じものなのです。

419鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/20(金) 23:06:42 ID:1d4drIFg0
実践しなければ心は鎮まらないのじゃ。
欲に囚われ続けるのじゃ。
心が静まれば欲も静まり、更に深い瞑想に入れるのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2019/12/21(土) 00:22:04 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話221

ボース氏
 姿形は二元性を意味します。
 それでもよいのでしょうか?

マハルシ
 このような質問をする人は真我探究を選ぶほうがよいのです。
 神の姿に瞑想することは彼には適さないからです。

質問者
 私が瞑想すると空白状態が起こり、そこには何の姿形もありません。

マハルシ
 もちろん何の姿形もないでしょう。

質問者
 空白状態についてはどうでしょうか?

マハルシ
 誰が空白状態を見ているのでしょうか?
 あなたがそこにいるはずです。
 そこには空白状態を観照している意識があるのです。

質問者
 それはつまり深く、さらに深く進むべきだということでしょうか?

マハルシ
 そのとおりです。
 あなたが存在しない瞬間などないのです。

421鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/21(土) 22:53:48 ID:1d4drIFg0
言葉も姿形もないとしてもそこにはそれを知ることの出来る認識が在るのじゃ。
認識出来る限り、それを見るものがあるのじゃ。
言葉も姿形も無い抽象的な観念もありえるからのう。
見るものも見られるものもないところまで行かなければ悟りとは言えないのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2019/12/22(日) 00:23:38 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話222

1936年7月2日

ポパトラル・ローハラ氏は『ウパデーシャ・サーラム』を含む数冊の本を学んでいた。
また彼はこれまでに、おそらく千五百人を数える聖者や賢者やヨーギーなどを訪れたとも語った。
トリムバークのサードゥ(賢者)が、まだローハラ氏にはこの生で果たされるべき仕事が残されているが、もしそれが果たされれば、真我実現は可能になるだろうと予言した。
彼が見なす唯一残された仕事とは、彼の息子の結婚だった。
そしてその結婚はすでに無事に終えたので、彼はカルマの負債から解放されたと感じていた。

それでも彼はシュリー・バガヴァーンの指導を仰ぎに来たのだった。
なぜならば、カルマの負債からは解放されても「精神的不幸」からはまだ解放されていなかったからである。

マハルシ
 どの版の『ウパデーシャ・サーラム』を読みましたか?

質問者
 サンスクリット語版です。

マハルシ
 それはあなたの質問への解答を含んでいます。

質問者
 どんなに努力を重ねても、私の心は落ち着きません。
 私は一九一八年から修練し続けているのです。


師はここで『ウパデーシャ・サーラム』から引用した。

「ハートの中に融け入ることこそ、カルマ(行為)、バクティ(帰依)、ヨーガ(瑜伽)、ジニャーナ(知識)である」。

 これが真理全体を要約したものです。

質問者
 その答えでは私の幸福の探究は満たされません。
 私には心を落ち着かせることができないのです。


マハルシは再び『ウパデーシャ・サーラム』から引用した。

「心とは何かと絶え間なく探究することは、心の消滅をもたらす。
 これが直接の道である」

質問者
 ではどうやって心を探し出すのでしょうか?

マハルシ
 心とは想念の束でしかありません。
 すべての想念の根源は「私」という想念にあります。


マハルシは再び引用した。

「誰であれ『私』という想念の源を探究するなら、その人の自我は消え去る。
 これが真の探究である」

 そのとき、真の「私」が自ら輝いていることを見いだすのです。

質問者
 この「私」という想念は私から立ち現れます。
 しかしそれでも私は真我を知らないのです。

マハルシ
 それはすべて精神的概念にすぎません。
 現在のあなたは偽りの「私」、すなわち「私」という想念と自己同一化しています。
 この「私」という想念は立ち現れては沈みゆきますが、真の「私」はそのどちらをも超えています。

 あなたの存在が途切れるということはありえません。
 眠っていたあなたが、今目覚めているのです。
 深い眠りの中に不幸はありませんでした。
 ところが、現在の目覚めの状態には不幸が存在しています。
 今この違いが体験されているのは、何が起こったからでしょうか?

 眠りの中に「私」という想念は存在していませんでした。
 ところが、今それは存在しています。
 真の「私」は明らかでないのに、偽りの「私」が自分を誇示しているのです。
 あなたの正しい智慧を妨げているのはこの偽りの「私」です。
 偽りの「私」がどこから立ち現れてくるのかを見いだしなさい。
 そうすれば、それは消え去るでしょう。
 そのとき、あなたはただ「あるがままのあなた」、つまり究極的存在として在るのです。

質問者
 どうすればよいのですか?
 私は今まで成功せずにきたのです。

マハルシ
 「私」という想念の源を探りなさい。
 それが為されるべきすべてです。
 宇宙全体は「私」という想念ゆえに存在しているのです。
 それが終焉すれば不幸も終焉するでしょう。
 偽りの「私」が消え去るのは、源が探究されたときだけなのです。

423避難民のマジレスさん:2019/12/22(日) 00:24:14 ID:uJY0q62k0
ローハラ氏は『ウパデーシャ・サーラム』の中のある詩節について質問した。

マハルシ
 眠りについていた人が、現在目覚めているのです。
 眠りの中には幸福が、目覚めの状態には不幸が存在しています。
 眠りの中に「私」という想念は存在していませんでした。
 しかし今の目覚めの状態には「私」という想念が存在しています。
 「私」という想念の存在しない幸福な状態である眠りの中に、努力はありませんでした。

 修練の目的は、目覚めている今にさえ眠りの状態をもたらすことです。
 そのためには努力が必要なのです。

    眠り           目覚め 

 努力を要しない
  幸福がある         幸福がない
「私」という想念がない   「私」という想念がある

目覚めの状態の中に眠りをもたらすこと、それが実現である。
努力は真の「私」をもたらすことではなく、「私」という想念を消去することにある。
真の「私」は永遠なるものであり、あなたの努力を必要としないからだ。


*心とは何かと絶え間なく探究することは…:『ウパデーシャ・サーラム』17

心が絶え間なくそれ自身の本性を探求するなら、心のようなものはないことが知られる。
これがすべてのものにとって直接の道である。

424避難民のマジレスさん:2019/12/22(日) 01:10:21 ID:wqC8W44g0
>>418
マハルシの言う牛は、十牛図の牛と同じ牛でありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

425避難民のマジレスさん:2019/12/22(日) 20:19:44 ID:LABA5HjA0
僭越ながら少々失礼します。

http://3wa.extrem.ne.jp/gogonoshingon/index.html
調気に合わせて真言行なら、大悟同様こちらで効果が出るかもしれません。

426鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/22(日) 22:04:51 ID:1d4drIFg0
>>424 そうじゃ、制御しにくい心を牛に例えているのであるからのう。
 牛は力が強く、野生では気性も荒くて使いにくいが、えさをやってなれてくると何でも言うことを聞いて役に立つようになるのじゃ。
 そのような牛の性質が心を制御することに例えられるのじゃ。

427鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/22(日) 22:09:42 ID:1d4drIFg0
私が私から現われるとか、自分を見る自分が無限にさかのぼるというのは幻想に過ぎないのじゃ。
その現象を認識できるのであるから、それをみるものがあるのじゃ。
自分が自分から起きたり、自分を無限に見ているものは見る主体ですらないのじゃ。
それを観察して矛盾に気付けば、それもまた自分を見る機会にもなるのじゃ。

428避難民のマジレスさん:2019/12/23(月) 00:18:55 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話223

ローハラ氏
どうして瞑想中でさえ心はハートの中に沈まないのでしょうか?

マハルシ
 水面に浮かぶ身体は、何らかの手段を用いないかぎり簡単には沈まないでしょう。
 呼吸制御は心を静めます。

 心は注意深くあらねばなりません。
 そしてたとえ心が平安なときでさえ、たゆまず瞑想を極めようとするべきです。
 そうしたとき、心はハートの中に沈みゆくでしょう。

 水面に浮かぶ身体も重みを加えれば沈みます。
 それと同じように、賢者との交際(サットサンガ)が心をハートに沈ませるでしょう。
 そのような交際は精神的なものと身体的なものの両方です。
 はっきりと目に見えるグルが探究者の心を内側へと押し入れます。
 グルはまた探究者のハートの中にも存在し、内面に向かう彼の心をハートの中へと引き入れます。

 このような質問は、瞑想を始めたばかりで困難を感じたときにだけ問われるものです。
 少し呼吸制御を修練すれば、心は清められるでしょう。
 心が今ハートの中に沈まないのは、潜在的傾向(ヴァーサナー)が障害となっているからです。
 それは呼吸制御、あるいは賢者との交際によって取り除かれます。
 実際、心は常にハートの中に在るのですが、潜在的傾向のために落ち着きなくうろつき回るのです。
 潜在的傾向が作用しないようにすれば、心は安らぎ平和になるでしょう。

 呼吸制御をしても心は一時的な静寂しか得られません。
 なぜなら、潜在的傾向はまだそこにあるからです。
 もし心が真我へと変容されれば、問題を起こすこともなくなるでしょう。
 それは瞑想によって為されるのです。

429鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/23(月) 20:07:30 ID:1d4drIFg0
心とは思考とか感情なのじゃ。
それが瞑想の中でさえ鎮まらないというのじゃ。
未だ初心者だからなのじゃ。
日々精進することで障害となる習慣的な思考や感情もなくなるのじゃ。
瞑想によってアートマンを実現すればもはや何の問題もなくなるのじゃ。

430避難民のマジレスさん:2019/12/24(火) 00:14:49 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話224

弟子の一人が尋ねた。

「どうすれば自己本来の原初の状態を認識できるのでしょうか?」

マハルシ
 想念から絶対的に解放された状態が、そのような認識をもたらすのです。

431鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/24(火) 22:51:11 ID:1d4drIFg0
想念から絶対的に解放された状態とは悟った状態なのじゃ。
そこまでいかなければ自己本来の認識には至らないのじゃ。
記憶による認識が邪魔をしているからなのじゃ。
それを阿頼耶識というのじゃ。
それが無ければ想念はもはや起こらず、自己本来の状態に回帰するのじゃ。

432避難民のマジレスさん:2019/12/24(火) 23:15:38 ID:LABA5HjA0
少々遅くなりましたが、調気行の分、失礼します。

孔雀明王呪を目端に入れ阿字観を背景にして、
体の部位を中心に読んで調気ができるようにしました。

http://3wa.extrem.ne.jp/gogonoshingon/index.html

433避難民のマジレスさん:2019/12/25(水) 00:16:16 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話225

従者のノートから

シュリー・バガヴァーンと従者のランガ・スワミが丘の大きな岩の上から見下ろしていたとき、バガヴァーンはアーシュラマムの中で揺り椅子に揺られている人に気づいて、こう従者に語りかけた。

マハルシ
 シヴァ神は所有物をすべてヴィシュヌ神に捧げると、自分は森林や荒野や墓場をさ迷いながら、食を請うて暮らしたのです。
 彼の見解からすれば、無所有は所有物が与える幸福よりも高い次元にあるのです。

質問者
 高次の幸福とは何でしょうか?

マハルシ
 不安から解放されることです。
 所有物はその安全性や有益性などについての不安を生み出します。
 無所有がそのような不安をもたらすことはありません。
 だからこそ、シヴァ神はヴィシュヌ神にすべてを投げ与えて、彼自身は幸せに歩き去って行ったのです。

 所有物を払い去ることは最高の幸福なのです。

434避難民のマジレスさん:2019/12/25(水) 19:43:50 ID:LABA5HjA0
少々早いのですが、調気行の分、失礼します。

2段目、3段目を追加して更新しておきました。ご活用ください。
4、5段は明日の更新を予定しています。

435鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/25(水) 22:40:45 ID:1d4drIFg0
>>434 スレ違いのようじゃ。
 真言のスレとかに貼るのじゃ。

436鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/25(水) 22:42:13 ID:1d4drIFg0
物があればそれが無くならないとか、他人に奪われないかとか不安が起こるのじゃ。
物が無ければ不安も起こらないのじゃ。
そうであるから無所有の方がよいのじゃ。
すべての物と共に不安も捨てて心は自由になるのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2019/12/26(木) 00:17:52 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話226

1936年7月3日

ティルコイルールから来た訪問者が尋ねた。

「聖典を研究することは真理を明らかにするでしょうか?」

マハルシ
 それは十分ではありません。

質問者
 どうしてでしょうか?

マハルシ
 ただサマーディだけがそれを明らかにできるのです。
 実在を覆い隠してしまうのは想念です。
 それゆえ、サマーディ以外の状態でそれを明らかにすることはできないのです。

質問者
 サマーディの中に想念はあるのでしょうか、それともないのでしょうか?

マハルシ
 そこにはただ「私は在る」という感覚のみがあり、他の想念はありません。

質問者
 「私は在る」は想念ではありませんか?

マハルシ
 自我のない「私は在る」は想念ではありません。
 それは実現なのです。
 「私」とは神を意味しています。
 「私は在る」という体験は、「静かに在る」ことです。

438鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/26(木) 19:45:12 ID:1d4drIFg0
知識ばかり集めても悟りは遠ざかるだけなのじゃ。
実際にサマーディ位に入らなければ、聖典の言葉もわからないのじゃ。
想念ではない実感として在ることも感じられるのじゃ。
そして更に無我にも進めるのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2019/12/27(金) 00:12:44 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話227

1936年7月4日

マハルシ
 至福の本性として在りながら、なぜ人は幸福を渇望するのでしょうか?
 その渇望を取り除くこと自体が解放なのです。
 聖典は「あなたは『それ』である」と言います。
 この知識を伝えることが聖典の目的です。
 あなたが誰であるかを見いだし、「それ」すなわち真我としてとどまることが実現です。
 「私は『あれ』である」、「私は『これ』ではない」などと繰り返し唱えても、時間の無駄でしかありません。
 優れた弟子にとって、努めは外側ではなく彼自身の内にあるのです。


バガヴァーンが丘を降りていく途中、アーシュラマムで働いていた人が仕事の手を止めて、師の御足元にひれ伏そうとした。

師は言った。
 
「自分の仕事に従事することが、本当の意味でひれ伏すことです」

従者が尋ねた。

「それはどのように為されるのでしょうか?」

師は答えた。

「注意深く丹念に自分の仕事をすることは、神への最も偉大な奉仕なのです」

そう言うと、バガヴァーンは微笑みながらホールに入って行った。


*「あなたは『それ』である」Tat Tvam Asi

『チャーンドーギャ・ウパニシャド』の確言「汝それなり」。
至高の実在であるブラフマンと個人のアートマンとの絶対的同一性を示す。

440鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/27(金) 22:39:29 ID:1d4drIFg0
人は苦しみから逃れようとしてさまざまな欲を持つものじゃ。
それは実は逃避であるから、何を求めて得られても満足できないで次から次へと求めるのじゃ。
その欲を捨てることこそ解放への道なのじゃ。
逃避が止むから自分を見出すことも出来るのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2019/12/28(土) 00:16:01 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話228

昼食時に、ネロールから来た訪問者が「ほんの少しでいいですから、師の皿から食べ物をプラサード(賜物)としていただけないでしょうか?」と尋ねた。

マハルシ
 自我という想いなしに食べなさい。
 そうすれば、あなたの食べたものは何であれバガヴァーンのプラサードとなるのです。

昼食がすんだ後、師は愉快そうに語った。

「もし私が一口分の食べ物を私の皿からあげたとしたら、誰もが一口分ずつを求めるでしょう。
 もしすべてを他の人に分け与えたなら、私に何が残ると言うのです?
 ですから、それは帰依ではないのです。
 私の皿から一口分食べることになど何の意味もありません。
 本物の帰依者になりなさい」

442鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/28(土) 22:47:14 ID:1d4drIFg0
インドにもまだいろいろと迷信が在るのじゃ。
聖者の食べ物をわけてもらうと、恩寵になるというのもその一つなのじゃ。
聖者の足を切り取って盗んだというものも最近いたのじゃ。
聖者の足が願いがかなう呪物になるとか思っていたのじゃ。
そのような者ばかりでは、体もばらばらにされてなくなってしまうのじゃ。
真の恩寵は聖者の言葉を実践することでしか、もたらされないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。

443避難民のマジレスさん:2019/12/29(日) 00:15:03 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話229

1936年7月8日

朝八時のこと、ペットのリスが逃げ出す機会をうかがっていた。

師は言った。

「誰もが外へ逃げ出そうとしています。
 外へ出て行くことに果てはありません。
 幸福は外側ではなく内側にあるのです」

444鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/29(日) 22:55:03 ID:1d4drIFg0
娑婆世界に金とか権力とか名声とか異性とかのいろいろなものを求めても、幸福は無いのじゃ。
それらに執着すれば苦が増えるばかりなのじゃ。
幸福は心の中にあるものじゃ。
心の中に幸福を追求して得られれば、永遠に離れることは無いのじゃ。

445避難民のマジレスさん:2019/12/30(月) 00:13:30 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話230

1936年7月20日

訪問者
 聖典を学び研究することで真理は実現できるでしょようか?

マハルシ
 いいえ。
 精神的傾向(性癖)が心の中に潜在しているかぎり、実現を達成することはできません。
 聖典を学ぶこと自体がヴァーサナーです。
 実現はサマーディの中にのみあるのです。

446鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/30(月) 22:52:53 ID:1d4drIFg0
悟らないまま知識を多く集めても何もならないのじゃ。
むしろ実践しないことへの言い訳に知識を使ったりするのじゃ。
そうなれば知識も障害になるのじゃ。
実践によってのみ悟りは近づいてくるものじゃ。

447避難民のマジレスさん:2019/12/31(火) 00:44:01 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話231

質問者
 マウナ(沈黙)とは何でしょうか?

マハルシ
 マウナとは口を閉じることではありません。
 それは絶え間ない語りかけなのです。

質問者
 私にはわかりません。

マハルシ
 話すことと想念を超越した状態がマウナです。

質問者
 どうやってそれに到達するのでしょうか?

マハルシ
 ある観念をしっかりととらえ、それが現れ出た源へと跡をたどりなさい。
 そのような集中は沈黙をもたらします。
 修練が自然になったとき、それは最終的に静寂に帰するでしょう。
 心の活動のない瞑想、それが沈黙です。
 心を征服することが瞑想です。
 深い瞑想は永遠の語りかけなのです。

質問者
 もし沈黙の誓いを立てていたら、どうして世俗の仕事ができるでしょう?

マハルシ
 水がめを頭の上にのせて歩く女性たちは、仲間とおしゃべりしている間も非常に注意深くしています。
 彼女たちの想いは頭にのせた水がめに集中しているのです。
 同様に、賢者が活動に従事するとき、仕事が彼の妨げになることはありません。
 彼の心はブラフマンの内にとどまっているからです。

448避難民のマジレスさん:2019/12/31(火) 21:38:25 ID:LABA5HjA0
鬼和尚様

すみません、スレ違いというやつかと思ったのですが、質問があります。
食事でエネルギーを養う場合の止めたり進めたりのタイミングはありますか?

どうぞよろしくお願いいたします。

449鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/31(火) 22:16:57 ID:1d4drIFg0
口で沈黙していても心の中で話をしていては何もならないのじゃ。
沈黙は心から起こらなければならないのじゃ。
心をどこまでも追求して行けば沈黙も訪れるのじゃ。
心が止まれば真の沈黙が自然に現われるのじゃ。

450鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/12/31(火) 22:19:22 ID:1d4drIFg0
>>448 胃腸の病ならば食事を止めたらよいのじゃ。
 栄養が無くなれば進めたら善いのじゃ。
 脳や心臓を動かすには糖が必要なのじゃ。
 糖が無ければいきなり心臓が止まることもあるのじゃ。
 気をつけてとめると善いのじゃ。

451避難民のマジレスさん:2019/12/31(火) 22:43:51 ID:LABA5HjA0
>>450 鬼和尚様

448です。ご返事ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

452避難民のマジレスさん:2020/01/01(水) 00:14:38 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話232

師はある機会にこう語った。

「賢者だけが真の帰依者なのです」

453避難民のマジレスさん:2020/01/01(水) 15:56:41 ID:9x3Rleb.0
鬼和尚、皆さま、
明けましておめでとうであります。
本年もよろしくお願いするであります。

くまの講読会、なかなか再開できなくて申し訳ないであります。
落ち着いたら再開するであります。
(´・(ェ)・`)つ

454鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/01(水) 22:33:50 ID:1d4drIFg0
>>451 どういたしまして、またおいでなさい。

>>453 あけおめことよろなのじゃ。
 ゆっくり休んだらよいのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

455鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/01(水) 22:35:56 ID:1d4drIFg0
帰依と言ってもその実践を知らなければ帰依も出来ないのじゃ。
神に全てを捧げたという者も、実は自分の欲の為であれば、帰依ではないのじゃ。
家族とか一族とか国のためとかでも帰依にはならないのじゃ。
無欲無為の帰依の実践は賢者だけが知る道なのじゃ。

456避難民のマジレスさん:2020/01/02(木) 00:27:53 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話233

質問者
 「ラーマ・ジャパ」(ラーマ神の名を復誦すること)の成果とは何でしょうか?

マハルシ
 「ラ」は「実在」であり、「マ」は「心」です。
 それらが統合されることが「ラーマ・ジャパ」の成果です。
 言葉をただ口に出すだけでは十分ではありません。
 想念の消去が叡知であり、それは絶対的存在なのです。

457鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/02(木) 22:05:18 ID:1d4drIFg0
観念の無いところにすべての存在は在るものとして感知されるのじゃ。
瞑想の目的はその観念を止める事なのじゃ。
最初は少し思考しないでいられるようになるだけなのじゃ。
日々続ければ一切の観念をも滅することが出来るのじゃ。
精進在るのみなのじゃ。

458避難民のマジレスさん:2020/01/03(金) 00:13:49 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話234

イスラム教徒がアーサナ(座位)について尋ねた。

マハルシ
 神の内にとどまり続けることだけが真の座位です。

459鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/03(金) 22:38:24 ID:1d4drIFg0
信仰がないのに座り方だけ覚えても無意味なのじゃ。
座り方が正しくとも金のことばかり考えていては、実践していないのじゃ。
真の座位は帰依することに在るというのじゃ。
それができればどこにどのように座っていても神に近づいているのじゃ。

460避難民のマジレスさん:2020/01/04(土) 00:17:47 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話235

弟子の一人、T・K・S・アイヤール氏は興奮していた。
なぜなら、町の中である人が師を非難したからだった。
彼は言い返すこともできず、興奮しながらここへ戻って来た。
それゆえ彼は、「師の名誉を守ることのできなかったことに対し、どのような罰が与えられるべきでしょうか?」と師に尋ねた。

マハルシ
 忍耐、また忍耐。
 辛抱、また辛抱です。

461鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/04(土) 22:44:58 ID:1d4drIFg0
師匠が非難されようとも愚かな者に関わるべきではないのじゃ。
全て耐え忍ぶことこそ偉いのじゃ。
言い返したりしなかったことはかえってよかったのじゃ。
耐え忍ぶことも修行の一つなのじゃ。

462避難民のマジレスさん:2020/01/05(日) 00:12:10 ID:uJY0q62k0

ラマナ・マハルシとの対話236

英国の王ジョージ五世の死について、二人の帰依者がホールの中で討論していた。
彼らは非常に気が動転していた。

師は二人に言った。

「誰が死のうと、それがあなたにとって何だと言うのですか?
 あなた自身が死になさい。
 愛と一つになって自分自身を失いなさい」

463鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/05(日) 21:22:26 ID:1d4drIFg0
他人の事は見なくてよいのじゃ。
自分のことを見るのじゃ。
自分の死を観るのじゃ。
自分を忘れるのじゃ。
そうすればサマーディテも悟りもやってくるのじゃ。

464避難民のマジレスさん:2020/01/06(月) 00:21:22 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話237

ある男性が銀でできたスブラマニヤ神の偶像と、銅でできたヴァリとデーヴァヤニの偶像を持って来た。
彼はシュリー・バガヴァーンに言った。

「私はこれらを過去十年間礼拝してきましたが、不幸と災難にばかり報われるのです。
 これらをどうすればよいでしょうか?
 他の人に尋ねたところ、私の心配事は偶像が正しく造られていないせいだと言います。
 例えば素材の金属が間違っていたのだと。
 そうなのでしょうか?」

マハルシ
 彼らは「礼拝することは間違っている」と言いましたか?

465鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/06(月) 22:36:22 ID:1d4drIFg0
金属や木で出来た像には何の力も無いのじゃ。
信じる力が奇跡を産むのじゃ。
神の力で病が治ると信じるだけで七割治るのじゃ。
力は信じる人の心の中にあるのじゃ。

466避難民のマジレスさん:2020/01/07(火) 01:20:26 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話238

マハルシがある質問に答えた。

「言葉が途絶え、沈黙が支配する状態があります」

質問者
 どうすれば想念を互いに伝達し合えるでしょうか?

マハルシ
 それはそこに「二」という概念があるときだけ可能です。

質問者
 どうすれば平和を得られるでしょうか?

マハルシ
 平和は自然な状態です。
 本来の平和を妨げているのは心なのです。
 私たちがする探究は心の中だけで行われます。
 心を調べてみなさい。
 するとそれは消え去るでしょう。

 心と名づけられるような実体は存在しません。
 想念は立ち現れるため、私たちはそれが生じる元となる何かが存在すると推測し、それを心と呼ぶのです。
 心とは何なのかを見極めようとしたとき、そのようなものは存在しないことがわかります。
 心が消え去ったとき、平和は永遠に存在するものであることが見いだされるのです。

質問者
 知性(ブッディ)とは何でしょうか?

マハルシ
 思考あるいは識別の機能です。
 それらは単なる名前でしかありません。
 自我、心、知性、それらはみな同じものです。
 誰の心でしょう?
 誰の知性だと言うのでしよう?
 自我のです。
 自我は実在でしょうか?
 いいえ。
 私たちは自我を取り違えて知性や心と呼ぶのです。

質問者
 エマーソンは「言葉や描写によらず、魂はおのずと魂に応える」と述べています。

マハルシ
 そのとおりです。
 しかしながら、いかにあなたが学ぼうとも、知識に際限はありません。
 あなたは疑う者を見落として、疑いを解こうとします。
 その反対に、疑う者をとらえなさい。
 そうすれば疑いは消え去るのです。

質問者
 そのとき、真我を知ることで疑いはおのずと晴れるのです。

マハルシ
 そのとおりです。

質問者
 どうすれば真我を知ることができるでしょうか?

マハルシ
 真我とは何か見てみなさい。
 あなたが真の自己だと思っているもの、それは心、知性、または「私」という想念です。
 他の想念は「私」という想念の後に現れます。
 それゆえ、「私」という想念をとらえなさい。
 そうすれば、他の想念は真我だけを残して消え去るでしょう。

質問者
 そこに達するのは困難なことです。

マハルシ
 達するということはありません。
 なぜなら、それは永遠に、今ここにあるからです。
 真我が新たに得られるべきものなら、それは永久的なものではないということです。

467避難民のマジレスさん:2020/01/07(火) 01:21:24 ID:uJY0q62k0
質問者
 どうすれば平静、静寂、心の均衡を得られるでしょうか?
 何が最善の方法でしょうか?

マハルシ
 すでに答えたはずです。
 心を調べなさい。
 そうすればそれは消え去り、後にはあなたが残るのです。
 あなたの視点を叡知の視点に変えなきい。
 そうすれば世界は神として見いだされるでしょう。

  ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァー、
  パシュエード・ブラフママヤン・ジャガト。

  通常の視野(ヴィジョン)を叡知の視野に変え、
  世界をブラフマンそのものとして見なければならない。

 それゆえ、問題なのは視点です。
 あなたはすべてに遍在しています。
 あなた自身を見なさい。
 そうすればすべては理解されるでしょう。
 しかしあなたは今、真我を手放し、他の物事に疑いを抱いています。

質問者
 どのように真我を知るのでしょうか?

マハルシ
 そこに二人の「私」が存在するでしょうか?
 あなたは自分自身の存在をどのようにして知りますか?
 自分自身を自分の目で見ますか?
 自分に問いただしなさい。
 この質問はどのようにして現れたのでしょうか?
 (自分に問いただしたとき)、尋ねる私はそこに残っているでしょうか?
 鏡の中に自分を見るように、自分の真我を見つけることができるでしょうか?

 あなたの視点が外向的だったため、真我の視野を失い、ヴィジョンも外的なものになったのです。
 外側の物事の中に真我を見いだすことはできません。
 あなたの視点を内面に向け、その中に飛び込みなさい。
 そうすれば、あなたは真我となるでしょう。

質問者
 真我の発見はカースト制度を守ることに依存するのでしょうか?
 それともカースト制度は軽視すべきでしょうか?

マハルシ
 初めのうちはそうではありません。
 まずはそれを守ることから始めなさい。
 カースト制度は心の気まぐれな行動に歯止めをかけます。
 それゆえ、心は純化されるのです。

質問者
 不可知なるものは不可知なるもの(神)の恩寵によってのみ達せられます。

マハルシ
 神は達成を助けます。
 それが恩寵なのです。

質問者
 どうすれば心を止められるでしょうか?

マハルシ
 泥棒が自分自身を裏切るでしょうか?
 心が心そのものを見いだすでしょうか?
 心に心を探すことはできません。
 あなたは実在を無視して、非実在である心にしがみつき、しかもそれが何なのかを探そうとしています。

 眠りの中に心はありましたか?
 いいえ、ありませんでした。
 それは今、存在しています。
 それゆえ、それは永久的なものではないのです。

 心があなたによって見つけられるでしょうか?
 心はあなたではないのです。
 あなたは自分を心と見なし、それゆえどうやってそれを止めるかと尋ねます。
 それがそこに存在しているなら、止めることもできたでしょう。
 しかし心は存在しないのです。

 探究によってこの真理を悟りなさい。
 実在しないものを探しても無駄なだけです。
 それゆえ実在を、すなわち真我を探し出しなさい。
 それが心を征服する方法です。
 そこには唯一実在だけが在るのです!

質問者
 唯一の実在とは何でしょうか?

マハルシ
 存在する「それ」です。
 他者は単なる現れにすぎず、多様性は実在の本性ではありません。
 私たちは紙の上に印刷された文字を読みますが、その背景である紙は無視してしまいます。
 同様に、あなたは心の現れに魅せられ、背後にあるものを忘れてしまうのです。
 いったい誰の過ちだと言うのでしょう?

468避難民のマジレスさん:2020/01/07(火) 01:22:14 ID:uJY0q62k0
質問者
 真我に限界はありますか?

マハルシ
 真我とは何でしょうか?

質問者
 個人の魂が真我です。

マハルシ
 個人の魂とは何でしょうか?
 魂と真我の間に何か違いがあるでしょうか?
 それとも、それらは同じものでしょうか?

 何であれ新たに現れたものは消え去る運命にあり、何であれ創造されたものは破壊されます。
 しかし永遠なるものは生まれたことも、死ぬこともありません。
 私たちは今、現れと実在を混同しています。
 現れはそれ自体の内にその終焉を孕んでいます。
 新しく現れたものとは何でしょうか?
 もしそれを見つけ出すことができないのなら、現れの根源に無条件に明け渡しなさい。
 そのとき後に残ったもの、それが実在です。

質問者
 死後、人には何が起こるのでしょうか?

マハルシ
 あなたが生きている今この瞬間に関わりなさい。
 未来はそれ自体で面倒を見るでしょう。
 未来のことを心配してはいけません。
 創造以前の状態や創造の過程について聖典は述べていますが、それらはみなあなたに現在のことを知らしめるためなのです。
 あなたが「私は生まれた」と言うから、聖典を書いた人たちも「そうです」と言い、「神があなたを創造したのです」と付け加えるのです。

 しかし眠りの中で神や他の物事を見ますか?
 もし神が実在なら、なぜ彼はあなたの眠りの中でも輝かないのでしょうか?
 あなたは常に存在しています。
 現在のあなたは眠りの中のあなたと同じです。
 あなたは眠っていた人と変わりません。
 では、なぜこの二つの状態の体験や感覚は異なるのでしょうか?

 あなたは眠っている間に自分の誕生について質問したでしょうか?
 あるいは、死後私はどこに行くのかなどと質問したでしょうか?
 なぜそのようなことを今、目覚めの状態で考えるのでしょう?
 生まれたものに誕生とその救済法、その原因と究極の結果について考えさせなさい。

 誕生とは何か?
 それは「私」という想念のものなのか?
 それとも身体のものなのか?
 「私」は身体から離れているのか?
 それとも同一のものなのか?
 この「私」という想念はどのように現れたのか?
 「私」という想念はあなたの本性なのか?
 それともあなたの本性は何か他のものなのか?

質問者
 この質問をするのは誰なのでしょうか?

マハルシ
 まさにそのとおりです。
 それが要点なのです。
 質問には際限がないからです。

質問者
 それでは、私たちは静かにしていればいいのでしょうか?

マハルシ
 混乱(モーハ)を超えれば、疑いに悩まされることもなくなるでしょう。

質問者
 あなたが言われることは、ヴィチャーラ(探究)の終焉を意味します。

マハルシ
 もしアートマ・ヴィチャーラ(真我の探究)が止まれば、ローカ・ヴィチャーラ(世俗の探究)が始まるでしょう。
 
(ホールにいたみなが笑った)

 真我探究に従事しなさい。
 そうすれば真我ではないものは消え去り、真我だけが残るでしょう。
 これが真我の探究です。
 真我という一つの言葉は、心、身体、人、個人、至高なるもの、そしてそれ以外のすべてを意味しているのです。


*ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァー…:『アパロークシャーヌブーティ』116

通常の視野(ヴィジョン)を叡知の視野に変えることで、人は世界をブラフマンそのものとして見なければならない。
それが最も高尚な視野であって、鼻の先端を見続けることが最高の視野ではない。

469鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/07(火) 22:50:07 ID:1d4drIFg0
どこまでもアートマンを追求することだけが大事なのじゃ。
それが実現しなければ質問はいくらでも沸いてくるのじゃ。
観念があるからなのじゃ。
すべての観念が無くなればアートマンは実現し、質問をする者もなくなるのじゃ。

470避難民のマジレスさん:2020/01/08(水) 00:33:12 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話239

M・フリードマン氏
 人は物事を想像し、想像力によってそれを楽しみます。
 そのような創造は創造神ブラフマーにとって可能なことです。
 それと同じことが彼の創造物である人間にも当てはまるのでしょうか?

マハルシ
 これもまたあなたの想念です。

質問者
 クリシュナムールティは
 「『私』を見いだしなさい。
  そうすれば環境や境遇の束にすぎない『私』は消え去る。
  『私』の背後には何もない」と語っています。
 彼の教えは仏陀の教えに非常に似ています。

マハルシ
 そうです。
 表現を超えているのです。

471鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/09(木) 00:04:14 ID:1d4drIFg0
悟った者は全て同じ教えを説いているのじゃ。
自分を追及するのじゃ。
自分を自らの心に追求するのじゃ。
それが出来れば悟りもやってくるのじゃ。

472避難民のマジレスさん:2020/01/09(木) 00:43:42 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話240

1936年8月23日

質問者
 世界は物質主義です。
 それを改善する策とは何なのでしょうか?

マハルシ
 物質主義であれ精神主義であれ、それはあなたの観点によるのです。

  ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァー、
  パシュエード・ブラフママヤン・ジャガト。

  通常の視野(ヴィジョン)を叡知の視野に変え、
  世界をブラフマンそのものとして見なければならない。

 あなたの観点を正しなさい。
 創造者はどうやって彼の創造の面倒を見るか知っているのです。

質問者
 未来を安全で確かなものにするためには、何をすれば一番よいでしょう?

マハルシ
 現在の面倒を見なさい。
 未来のことは未来自体が面倒を見るでしょう。

質問者
 未来は現在の結果です。
 ですから、それをより良いものにするため、何をすべきでしょうか?
 それとも静かにしているべきなのでしょうか?

マハルシ
 この疑いは誰のものですか?
 行為の成り行きを知りたいと望んでいるのは誰でしょうか?
 疑う者を見いだしなさい。
 疑う者をとらえれば、疑いは消え去ります。
 真我を手放すと、想念に悩まされます。
 そして世界が目の前に現れ、疑いや未来への不安が生じるのです。

 真我をしっかりととらえなさい。
 そうすれば、それらは消え去るでしょう。

質問者
 どうすればよいのでしょう?

マハルシ
 この質問は非真我についての問題であって、真我についてではありません。
 あなたはあなた自身の存在を疑いますか?

質問者
 いいえ。
 それでもまだ、どうすれば真我を実現できるのか知りたいのです。
 何か方法があるのでしょうか?

マハルシ
 努力しなさい。
 井戸を掘ることで水を得るように、あなたも探究によって実現するのです。

質問者
 わかります。
 しかしある人は容易に水を得ますが、ある人は困難に直面します。

マハルシ
 しかしあなたはすでに地表に湿り気があるのを見ています。
 あなたはおぼろげながら真我に気づいているのです。
 それを突き止めなさい。
 努力が止んだとき、真我は輝き出すでしょう。

質問者
 心を内面に向けるには、どう訓練すればよいのでしょうか?

マハルシ
 修練によってです。
 心とは真我を顕わにするためにそれ自身を破壊に導く知的側面なのです。

質問者
 どうやって心を破壊するのでしょうか?

マハルシ
 水を乾いた水にすることはできません。
 真我を探しなさい。
 そうすれば、心は破壊されるでしょう。


*ドリシュティン・ジニャーナマイーン・クリトヴァー…:『アパロークシャーヌブーティ』116

通常の視野(ヴィジョン)を叡知の視野に変えることで、人は世界をブラフマンそのものとして見なければならない。
それが最も高尚な視野であって、鼻の先端を見続けることが最高の視野ではない。

473鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/09(木) 22:15:00 ID:1d4drIFg0
世界がどうだとか、こうしたいとか、思うのは無意味なのじゃ。
それもまた自らの心が作り出した幻想であるからのう。
自らの心を探求すれば幻想は消えるのじゃ。
人が為すべき最も重要なことは自らを追求することだけなのじゃ。

474避難民のマジレスさん:2020/01/10(金) 03:01:43 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話241

1936年8月29日

質問者
 どうすれば不幸を避けることができるでしょうか?

マハルシ
 不幸に形があるでしょうか?
 不幸とは単なる望ましくない想念にすぎません。
 心はそれに抵抗するだけの力がないのです。

質問者
 どうすればそのような心の強さを得られるでしょう?

マハルシ
 神を礼拝することによってです。

質問者
 内在する神への瞑想は、私には理解しがたいことです。

マハルシ
 神のことは放っておきなさい。
 あなたの真我をとらえなさい。

質問者
 ジャパ(マントラの復誦)はどのようにするのでしょうか?

マハルシ
 それには二種類あります。
 (声に出して唱える)粗いものと(心の中で唱える)繊細なものです。
 後者はそれに瞑想することです。
 それが心に強さを与えるのです。

質問者
 しかし心には瞑想するだけの落ち着きがありません。

マハルシ
 それは力に欠けるからです。

質問者
 朝昼夕の宗教的儀式(サンディヤ)は普通、機械的に為されます。
 他の宗教的務めも同様です。
 それでも役に立つのでしょうか?
 意味を理解しながら、ジャパなどをしたほうがよいのではありませんか?

マハルシ
 そのとおりです。

475鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/10(金) 22:34:39 ID:1d4drIFg0
日々の実践だけが瞑想に没入できる強さを与えてくれるのじゃ。
初心の者はどうしても心が動揺して、瞑想にも入れないものであるがのう。
それでも諦めずに実践していけば、瞑想に深く入れるようになるのじゃ。
力がつくまで日々精進あるのみなのじゃ。

476避難民のマジレスさん:2020/01/11(土) 03:52:35 ID:uJY0q62k0
ラマナ・マハルシとの対話242

グジャラート州から来た紳士がシュリー・バガヴァーンに尋ねた。

「私たちには死後に功徳と罪過の結実を楽しむという選択が与えられており、
 その因果応報は、私たちの選択によると言われています。
 そうなのでしょうか?」

マハルシ
 なぜ死後に関する質問をするのですか?
 なぜ「私は生まれたのか?私は過去のカルマの業果を受けるのか?」などと尋ねるのでしょうか?
 そのような疑問は、眠っている間は起こらないはずです。
 なぜでしょうか?
 現在のあなたは眠っていたときのあなたと別の人でしょうか?
 いいえ。
 それなら、なぜ今これらの疑問は起こり、眠りの間には起こらないのでしょうか?
 それを見いだしなさい。

477鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/12(日) 00:02:22 ID:1d4drIFg0
未来のことを考えるより、今ここにある自分を観るのじゃ。
私がある時、さまざまな疑問が起こり、私が無い時には疑問も起こらないのじゃ。
そうであるから眠っている時には疑問も無いのじゃ。
そのような私を今ここに見出すのじゃ。

478避難民のマジレスさん:2020/01/12(日) 04:55:13 ID:1ia4T2h.0
ラマナ・マハルシとの対話243

中年でか弱そうな姿の男性が杖を手にしながら現れ、バガヴァーンの前にそれを置くと、深々とおじぎをしてマハルシの近くに座った。
彼は立ち上がると、「これは白檀の木です」と言って恭しくバガヴァーンに杖を差し出した。
シュリー・バガヴァーンは「それはとっておきなさい」と彼に言った。

なぜなら、何であれバガヴァーンに捧げられたものは保証の限りではないからだ。
それは公の所有物となり、他の人から所望されれば、バガヴァーンの許可があろうとなかろうと持ち去られてしまうことがあるからだ。
そうなれば、布施者は失望するだけだろう。

男性は謙虚ながら引き下がらなかった。
シュリー・バガヴァーンは男性の哀願を拒みきれずにこう答えた。
「それはバガヴァーンからのプラサード(賜物)としてとっておきなさい」。
すると男性は、「初めに杖がバガヴァーンに受け取られ、それからシュリー・バガヴァーンの祝福とともに私に与えられますように」と願い出た。
シュリー・バガヴァーンはそれを受け取ると、香りをかぎ、うなずきながら「いい香りです」と言うと男性に手渡した。
そして「とっておきなさい。それはいつも私のことを想い出させるでしょう」と言った。

479鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/12(日) 23:40:19 ID:1d4drIFg0
悟った者はもはや何も要らないのじゃ。
肉体さえも必要としては居ないのであるからのう。
他の何物も要らないのじゃ。
ただ人から請われれば受け取る真似をするだけなのじゃ。

480避難民のマジレスさん:2020/01/13(月) 06:25:29 ID:1ia4T2h.0
ラマナ・マハルシとの対話244

サーへバー王妃は低く穏やかな、しかしよく通る声で語った。

質問者
 マハーラージ、私はあなたにお目にかかる幸運を得ました。
 私の目はあなたを見る喜びに恵まれ、私の耳はあなたのお声を聞く喜びに恵まれました。
 私は人が望むことのできるすべてを手に入れる祝福を授かりました。

王妃の声は涙に咽んでいた。
懸命に気を取り直してから、彼女はゆっくりと言葉を進めた。

質問者
 欲しい物はすべて手に入れました。
 人が望むことのできるすべてを……けれども……けれども……私には……私には……心の安らぎがないのです。
 何かがそれを妨げています。
 おそらくは私の運命なのでしょう……。

数分間の沈黙が続き、それからマハルシはいつものやさしい口調で語り始めた。

マハルシ
 わかりました。
 語られるべきことは語られました。
 さて、運命とは何でしょうか?
 運命などというものは存在しないのです。
 明け渡しなさい。
 そうすればすべてはよくなるでしょう。
 すべての責任を神に投げ出しなさい。
 自分一人で重荷に耐えようとしてはいけません。
 神に任せるなら、いったい運命に何ができると言うのでしょう?

質問者
 明け渡しは不可能です。

マハルシ
 そうです。
 初めのうちから完全な明け渡しは不可能です。
 部分的な明け渡しなら確かに誰にとっても可能でしょう。
 時とともに、それは完全な明け渡しへと導かれていくのです。

 もし明け渡しが不可能なら、何ができると言うのでしょう?
 それでは心の平安はなく、あなたにはどうすることもできないでしょう。
 ただ明け渡しによってのみ、それができるのです。

質問者
 部分的な明け渡し……それで運命は取り消せるのでしょうか?

マハルシ
 ええ、もちろんです!
 それは可能です。

質問者
 運命は過去のカルマによるものではありませんか?

マハルシ
 もし神に明け渡したなら、神が面倒を見るでしょう。

質問者
 それが神の定めであるなら、どうやって神はそれを取り消すと言うのでしょう?

マハルシ
 すべては神の中にのみ在るのです。

質問者
 神はどのようにして見られるのでしょうか?

マハルシ
 内面においてです。
 もし心が内面に向かえば、神は内なる意識として現れるでしょう。

質問者
 神はすべての中に存在しています。
 私たちが周りに見るすべての物事の中に。
 私たちは生きとし生けるものすべての中に神を見るべきだと言われています。

マハルシ
 神はすべての中に、そしてそれを見る者の中に存在しています。
 いったいそれ以外のどこに神を見いだせると言うのでしょう?
 神を外側に見いだすことはできません。
 彼は内側に感じられるものなのです。
 対象物を見るには心が必要です。
 対象の中に神がいると考えることは知的作用です。
 しかしそれは真理ではありません。
 心を一掃した内なる意識、それが神として感じられるのです。

質問者
 例えば美しい色があります。
 それを目にすることは喜びです。
 私たちはその中に神を見いだすのです。

マハルシ
 それらはみな精神的観念です。

質問者
 色彩にとどまりません。
 色彩は一つの例としてあげたのです。

マハルシ
 それらもまた精神的なものでしかありません。

481避難民のマジレスさん:2020/01/13(月) 06:28:09 ID:1ia4T2h.0
質問者
 そこにはまた身体─感覚や心も存在しています。
 魂は物事を知るためにそれらを使います。

マハルシ
 対象物、感覚、想念はすべて精神的観念なのです。
 心は「私」という想念、あるいは自我が立ち現れた後に現れます。
 自我はどこから現れるのでしょうか?
 抽象的意識あるいは純粋な知性からです。

質問者
 それが魂なのですか?

マハルシ
 魂、心、自我は単なる言葉にすぎません。
 そのような実体は存在しないのです。
 ただ意識だけが唯一の真理です。

質問者
 それでも、その意識は何の喜びを与えることもできません。

マハルシ
 意識の本性は至福なのです。
 ただ至福だけが存在し、喜びを楽しむ者は存在しません。
 喜ぶ者と喜び、その双方が意識の中に融け入ったからです。

質問者
 普通の人生には喜びと苦しみがあります。
 私たちは常に喜びの中にいるべきなのではありませんか?

マハルシ
 喜びとは心の向きを変え、内面に向かうようにすることです。
 苦しみは心を外側に向けることです。
 ただ喜びだけが在ります。
 喜びの不在、それが苦しみです。
 人の本性は喜び─至福(アーナンダ)なのです。

質問者
 それは魂なのですか?

マハルシ
 魂も神も精神的概念にすぎません。

質問者
 神が単なる精神的概念にすぎないと言われるのですか?

マハルシ
 そうです。
 あなたは眠りの中で神について考えますか?

質問者
 しかし眠りは感覚意識のない状態です。

マハルシ
 もし神が実在なら常に存在し続けるはずです。
 あなたは眠りの中にも目覚めの中にも同じように存在しています。
 もし神があなたの真我と同じだけ実在であるなら、真我と同じように神も眠りの中に存在しているはずです。
 しかしこの神についての考えは、目覚めの状態の中にだけ現れるのです。
 誰が今、それを考えているのですか?

質問者
 私が考えています。

マハルシ
 この「私」とは誰でしょうか?
 誰がそう言うのですか?
 身体ですか?

質問者
 身体が語るのです。

マハルシ
 身体は語りません。
 もしそうなら、眠りの中でもそれは話をしますか?
 この「私」とは誰なのでしょうか?

質問者
 身体の中の「私」です。

マハルシ
 あなたは身体の内側にいますか、外側にいますか?

質問者
 私は間違いなく身体の内側にいます。

マハルシ
 眠りの中でも身体の内側にいたと知っていますか?

質問者
 眠りの中でも私は身体の中にいました。

マハルシ
 眠っているときも身体の内側にいることに気づいているのですか?

質問者
 眠りは感覚意識のない状態です。

マハルシ
 実際のところ、あなたは内側にも外側にも存在しません。
 眠りとは自然な存在状態なのです。

482避難民のマジレスさん:2020/01/13(月) 06:31:45 ID:1ia4T2h.0
質問者
 それでは、眠りはこの目覚めよりも良い状態に違いありません。

マハルシ
 優れた状態も劣った状態もないのです。
 眠り、夢見、目覚めのどの状態においても、あなたはまったく同じです。
 眠りは幸福の状態です。
 そこに不幸はありません。
 願望、苦痛などは目覚めの状態にのみ現れます。
 では、何が変化したのでしょうか?
 あなたはそのどちらの状態においても同じでした。
 しかし幸福については違いがありました。
 なぜでしょう?
 なぜなら、今は心が生じているからです。
 心は「私」という想念が立ち現れた後に生じます。
 「私」という想念は意識から現れます。
 それゆえ、もし意識の中にとどまれば、人は常に幸福なのです。

質問者
 眠りの状態は心が静かな状態です。
 私はそれを劣った状態と見なします。
 
マハルシ
 もしそうなら、なぜすべての人が眠りを求めるのでしょうか?

質問者
 疲れたときに、眠りにつくのは身体です。

マハルシ
 身体が眠るのでしょうか?

質問者
 そうです。
 それは身体的消耗が回復される状態なのです。

マハルシ
 それはそれでよいでしょう。
 しかし身体自体が眠り、目覚めるのですか?
 つい先ほどあなた自身が言ったように、眠りの状態にある心は静かです。
 三つの状態はすべて心の状態なのです。

質問者
 それらは魂が感覚器官などを通して機能している状態なのではありませんか?

マハルシ
 それらは魂や身体の状態ではありません。
 魂は常に汚れのないままとどまります。
 それはそれら三つの状態の根底に流れている基盤です。
 目覚めの状態が去っても、夢見の状態が去っても、眠りの状態が去っても、「私」は在ります。
 それらは繰り返されますが、それでも「私」は在るのです。
 三つの状態は映画のスクリーンの上を動く画像のようなものです。
 画像がスクリーンに影響を与えることはありません。
 同様に、「私」もまた三つの状態が過ぎ去ろうと影響を受けずにとどまるのです。
 もしそれが身体の状態だとするなら、眠りの間もあなたは身体に気づいていますか?

質問者
 いいえ。

マハルシ
 身体がそこにあることを知らずに、どうして眠りの中に身体があると言えるのですか?

質問者
 なぜなら、目覚めた後も身体はそこにあるからです。

マハルシ
 身体の感覚とは一つの想念なのです。
 その想念は心のものであり、心は「私」という想念が立ち現れた後に生じます。
 「私」という想念が根本の想念です。
 もしそれをとらえれば、他の想念は消え去るでしょう。
 そうすれば、身体も、心も、自我さえもなくなるでしょう。

質問者
 そのとき何が残るのですか?

マハルシ
 純粋な真我が残ります。

質問者
 どのようにすれば心を消し去ることができるのでしょうか?

マハルシ
 いかなる試みもそれを破壊することはできません。
 それについて考えたり、願ったりすること自体が想念だからです。
 しかしもし考える者を探し出そうとするなら、想念は消え去るでしょう。

質問者
 それはおのずと消え去るのですか?
 とても難しそうですが。

マハルシ
 実在ではないからこそ、それは消え去るのです。
 難しいと考えること自体が実現への妨げです。
 それは克服されなければなりません。
 真我としてとどまるのは難しいことではないのです。

483避難民のマジレスさん:2020/01/13(月) 06:32:45 ID:1ia4T2h.0
質問者
 外側の世界に神を想うことはやさしく見えますが、想いなしにとどまるのは難しそうです。

マハルシ
 他の物事を見るのはやさしく、内面を見るのは難しいと言うのは愚かなことです!
 その反対であるべきです。

質問者
 しかし私にはわかりません。
 それは難しいのです。

マハルシ
 難しいと考えることが主な障害なのです。
 少し修練すれば、あなたの考えも変わるでしょう。

質問者
 どのような修練でしょうか?

マハルシ
 「私」の源を見つけ出すことです。

質問者
 それは誕生以前の状態です。

マハルシ
 なぜ誕生や死について考える必要があるでしょう?
 あなたは本当に生まれたのですか?
 心の生じることが誕生と呼ばれるのです。
 心が生じた後で身体という想念が現れ、そして身体が見られます。
 それから誕生という想念、誕生以前の状態、死、死後の状態という想念が現れるのですが、これらはすべて心の領域にあるのです。
 いったい誰の誕生なのでしょうか?

質問者
 私は今、生まれてはいないのでしょうか?

マハルシ
 身体に関して考えるかぎり、誕生は真実です。
 しかし身体は「私」ではありません。

 真我は生まれることも死ぬこともありません。
 何も新しいことなどないのです。
 賢者はすべてを真我の中に真我として見ます。
 そこに多様性はありません。
 それゆえ、誕生も死もないのです。

質問者
 もし眠りがそれほど良い状態であるなら、どうして人はいつもその中にいたいと思わないのでしょうか?

マハルシ
 人は常に眠りの中だけにいるのです。
 現在の目覚めの状態は夢以外の何ものでもありません。
 夢は眠りの中でしか起こりません。
 眠りはこれら三つの状態の根底に在ります。
 これら三つの状態の現れもまた夢であり、その夢もまたもう一つの眠りなのです。
 このように、これら夢見と眠りの状態は果てのないものです。
 それと同様に、誕生と死もまた眠りの中の夢です。
 真実は、誕生もなければ死もないのです。

484鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/13(月) 22:46:55 ID:1d4drIFg0
生まれることも死ぬことも無いのが真実なのじゃ。
生死夢幻なのじゃ。
生まれるというのも死ぬというのも観念のみであるからのう。
不死の意識だけが永遠にあり続けるだけなのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2020/01/14(火) 00:41:17 ID:1ia4T2h.0
ラマナ・マハルシとの対話245

1936年9月8日

パールシー教徒の二人の女性、グルバーイ・ビラムジーとシリンバーイ・ビラムジーが一つの主題を中心とした質問をした。

「真我が自我を超えたものであることは理解できますが、私の知識は理論上のものであって体験ではありません。
 どうすれば実際に真我を実現できるのでしょうか?」

マハルシ
 実現は新たに獲得されるようなものではありません。
 それはすでにそこに在るのです。
 為されるべきは、「私は実現していない」という想念を払い去ることだけです。

質問者
 それでは、実現しようと試みる必要もないのですか?

マハルシ
 その必要はありません。
 心の静寂あるいは平和が実現です。
 真我が存在しない瞬間などないのです。

 そこに疑い、あるいは実現していないという感覚があるかぎり、そのような考えを取り除くよう試みなければなりません。

 想念は真我を非真我と同一視することによって起こります。
 非真我が消え去れば、後に残るのは真我だけです。
 空間をつくり出すには、そこにあったものを取り除くだけで十分です。
 新たに空間を運んでくる必要はありません。
 それどころか、物でいっぱいだったところにさえ空間は存在していたのです。

 想念の不在が空白状態を意味するわけではありません。
 そこには空白状態を知る者がいるはずです。
 知識も無知も心に属します。
 それらは二元性から生まれ出たものです。
 しかし真我は知識と無知を超えています。
 それは光そのものなのです。
 真我を見るために、他の真我を必要とすることはありません。
 二つの真我がそこに存在しているのではありません。
 真我ではないもの、それが非真我です。
 非真我に真我を見ることはできないのです。
 真我にとっては見ることも聞くこともありません。
 真我はそれらすべてを超えたところに、純粋意識として「唯一」存在するのです。

 ある女性が首にかけていたネックレスを失ったと思い込み、探し回っていました。
 そして友人から自分の首にかかっていることを教えられたのです。
 ネックレスを失ったという感覚、探している間の不安、発見したときの喜びは、すべて彼女が自分でつくり出したものです。
 同様に、真我はあなたが探究しようとしまいと、常にそこに在ります。
 その女性が失ったネックレスを取り戻したと感じたように、無知を取り除き、偽りの自己同一化を止めることが、常に今ここに存在する真我を明らかにするのです。
 これが実現と呼ばれるものです。
 何も新しいことではありません。
 それは結局、無知を取り除くことに他ならないのです。

 空白状態は心を探究する上で起こる悪い結果です。
 心はその根と枝を断ち切らなければなりません。
 考えているのは誰か、探究しているのは誰かを見いだしなさい。
 考える者、探究する者としてとどまりなさい。
 そうすれば、すべての想念は消え去るでしょう。

質問者
 そのとき、そこには自我─考える者がいるでしょう。

マハルシ
 その自我は、想念を取り払った純粋な自我なのです。
 それは真我と同じものです。
 偽りの自己同一化が続くかぎり、疑いや質問は起こり続けるでしょう。
 それに終わりはありません。
 疑いは真我ではないものが消え去ったときに止むでしょう。
 それが真我実現をもたらすのです。
 そのとき、そこには疑問を抱いたり問いかけたりする他者もいなくなります。
 すべての疑いは自分自身の内で解かなければなりません。
 いかに言葉を費やそうとも満足は得られません。
 考える者をとらえなさい。
 考える者がとらえられていないときにのみ、事物は外側に現れ、そして心に疑いが起こるのです。

486鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/14(火) 22:15:04 ID:1d4drIFg0
悟っても思考することはできるのじゃ。
その思考は自我が無い故に偏りが無く、智慧として働くのじゃ。
自我かあれば智慧は無いのじゃ。
智慧が起これば全ての問題も苦もなくなるのじゃ。

487避難民のマジレスさん:2020/01/15(水) 07:23:04 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話246

言語は自分の考えを他の人に伝達するための媒体にすぎません。
それは想念が生じた後にのみ呼び起こされます。
他の想念は「私」という想念が立ち現れた後に起こります。
それゆえ、「私」という想念がすべての会話の根源です。
思考のない状態にとどまるとき、人は沈黙という普遍の言語によって他者を理解するのです。

沈黙は絶えず語っています。
それは絶え間ない言葉の流れです。
しかしそれは話すことによって妨げられてしまいます。
私が今こうして話しているこれらの言葉が、その沈黙の言語を妨げているのです。
例えて言えば、ここに電流が電線を伝わって流れています。
その経路に抵抗を与えることによって、それは電灯として輝き、扇風機として回ります。
電線の中では、それは電気のエネルギーとしてとどまっています。
同じように、沈黙も永遠に流れる言語であり、言葉によって妨げられているのです。
何年にも及ぶ会話でも知ることができなかったことさえ、沈黙の中、あるいは沈黙の臨在の前では一瞬にして知ることができます。
ダクシナームールティと四人の弟子たちの物語はそのことを示しています。
これが最高の、そして最も効果的な言語なのです。


*ダクシナームールティ

シヴァ神の化身。
シヴァは十六歳の少年の姿でバンヤンの樹の下に座り、ただ沈黙のみを通して弟子たちの疑問を一掃した。

488鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/15(水) 22:35:19 ID:1d4drIFg0
沈黙こそが最高の教えなのじゃ。
もしも弟子が師匠の沈黙を受け取ることが出来たならば、同じ境地に即座に入れるのじゃ。
肉体と精神の同調が起こるからのう。
それが出来なければ言葉で実践を伝える以外に無いのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2020/01/16(木) 00:45:05 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話247

「私─私」意識はニルヴィカルパ・サマーディと同じものか、それともそれ以前のものかという質問が起こった。

マハルシ
 ハートの中にある小さな穴は常に閉じていますが、それは真我探究(ヴィチャーラ)によって開かれ、その結果、「私─私」意識が輝き出します。
 それはサマーディと同じものです。

質問者
 気絶と眠りの違いは何でしょうか?

マハルシ
 眠りは突然訪れ、強制的に人を支配します。
 気絶はゆっくりと起こり、そこにはその中に入るまいとする、うずくような抵抗の感覚があります。
 真我実現は気絶の際には可能ですが、眠りの中では不可能なのです。

質問者
 死の直前の状態とはどのようなものでしょうか?

マハルシ
 呼吸が喘ぎ出したら、それは身体に対する意識がなくなったことを示しています。
 もう一つの身体がつかみ取られ、人はその間を揺れ動き始めます。
 息切れの間に、より激しい喘ぎが断続的に起こります。
 これは現在の身体への執着がまだ完全に断ち切られていないために、魂が二つの身体の間を行ったり来たりしていることを示しているのです。
 私は母のときとパラニ・スワミのときにそれに気づきました。

質問者
 その状態の中に巻き込まれている新しい身体とは、その人の転生を意味するのでしょうか?

マハルシ
 そうです。
 息切れの間、その人は現状に気づいておらず、何か夢のような状態にいるのです。


記録者ノート

 シュリー・バガヴァーンは彼の母親が亡くなった一九二二年五月十九日、朝八時から夜八時の今わの際までずっとそばに付き添っていた。
 その間、彼は一方の手を彼女の頭に、もう一方の手を彼女の胸にずっと当てていたのである。
 その意義とは何だろうか?
 彼自身が後に語ったことだが、彼女の魂がハートに達するまで、シュリー・バガヴァーンと母親との間には苦闘があったのだ。
 死の直前、魂は明らかに一連の霊妙な体験を通り抜ける。
 そしてシュリー・バガヴァーンに触れられることは、さ迷い出そうとする魂をハートの中に連れ戻す流れを生み出すのである。

 しかしながら、過去世の潜在的印象であるサンスカーラは消えずに残り続けるため、彼の手が触れることで起こる霊的な力と内在するサンスカーラとの間で起こる苦闘は、サンスカーラが完全に破壊されるまで続いていく。
 こうして魂はハートに導かれ、永遠の平安の内に安らぐ。
 これが解放である。

 鈴の音に似た独特な感覚を知覚する瞬間、マハートマー〈賢者〉は魂がハートの中に入ったことを知ると言われている。

 パラニ・スワミの臨終の際に付き添ったマハルシは、その兆候が現れた直後に手を離した。
 しかしその瞬間にパラニ・スワミの目が開いた。
 それは魂が彼の目から逃げ去ったことを示していた。
 それは高次の再誕生を意味したが、解脱には至らなかったのである。
 マハルシはパラニ・スワミとの体験で気づいていたため、母親のときは─たとえ魂がハートの中に入ったという兆候があった後でさえ、数分間長く手を当て続けた。
 こうして彼は彼女の解脱を確実にしたのだった。
 このことは彼女の死後の完全な安らぎと落ち着いた姿に確認されている。

490鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/16(木) 21:33:30 ID:1d4drIFg0
死の瞬間にこそ悟りの最後のチャンスはあると言うのじゃ。
もはや肉体に執着してはいられないからのう。
胸の中央にあるアートマンに意識を留め置いていれば、アートマンも実現するのじゃ。
かなり難しいことではあるがのう。

491避難民のマジレスさん:2020/01/17(金) 00:20:16 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話248

1936年9月15日

マハルシ
 ジニャーニは「私は身体だ」と言い、アジニャーニも「私は身体だ」と言います。
 違いはどこにあるのでしょうか?
 「私は在る」が真理です。
 身体は限りあるものです。
 アジニャーニは「私」を身体に限定します。
 眠りの中の「私」は身体に依存していません。
 その同じ「私」が今、目覚めの状態にあるのです。
 「私」は身体の中に存在すると想像されていますが、実際は身体なしに存在しています。
 「私は身体だ」が誤った観念だというわけではありません。
 そう言うのは「私」なのです。
 身体に生命意識はなく、「私」と言うことはできません。

 誤りは「私」ではないものを「私」だと考えることにあります。
 「私」は意識のないものではありません。
 「私」は生命意識のない身体でもありません。
 身体の動きを「私」と混同するために不幸は起こるのです。
 身体が働こうと働くまいと、「私」は自由で幸福なままです。
 アジニャーニにとっての「私」はただ身体だけを意味します。
 それがすべての過ちのもとです。
 ジニャーニにとっての「私」は、身体とその他のすべてを含んでいます。
 問題となるのは、明らかに、ある媒介となる実体(自我)が現れて混乱を起こすことにあるのです。


弁護士のヴァイディヤナータ・アイヤール氏が尋ねた。

「もしジニャーニが『私は身体だ』と言うなら、死の際、彼には何が起こるのでしょうか?」

マハルシ
 今でさえ彼は自分自身と身体を同一視していません。

質問者
 しかし、つい先ほどあなたは「ジニャーニも『私は身体だ』と言う」と言われました。

マハルシ
 そうです。
 ジニャーニの「私」は身体も含むのです。
 彼にとって「私」から離れたものは何もないからです。
 身体が死んだとしても、「私」にとっては何の損失もありません。
 「私」は同じままです。
 もし身体が死んだと感じるなら、それに質問させればいいのです。
 生命意識を持たない身体に、質問することはできません。
 「私」はけっして死なず、質問をすることもありません。
 それでは誰が死ぬのでしょうか?
 誰が質問をするのでしょうか?

質問者
 だとすれば、すべての聖典はいったい誰のために書かれたのですか?
 真の「私」のためだとは思えません。
 聖典は偽りの「私」のためのものに違いありません。
 真の「私」に聖典は必要ないからです。
 偽りの「私」のために、これほど多くの聖典が存在していることは何とも奇妙です。

マハルシ
 まったくそのとおりです。
 死とは単なる想念以外の何ものでもありません。
 考えるがゆえに人は問題を生み出すのです。
 死において何が起こるのかは、考える人に言わせればいいことです。
 真の「私」は沈黙しています。
 「私はこれだ」や「私はあれではない」などと考えるべきではありません。
 「あれやこれ」と言うこと自体が過ちだからです。
 それはみな限定であり、「私は在る」だけが真理です。
 沈黙が「私」です。

 ある人は「私はこれだ」と考え、他の人は「私はあれだ」と考えます。
 これが思想の衝突を生み出し、その結果、無数の宗教が生まれました。
 真理はいかなる宣言や葛藤にも影響を受けることなく、ただあるがまま在るのです。

質問者
 死とは何でしょうか?
 それは身体が脱落することではありませんか?

マハルシ
 あなたはそれを眠りの中に求めるのではありませんか?
 だとすれば、何がいけないのでしょう?

質問者
 しかし私は目覚めるだろうことを知っています。

マハルシ
 そうです。
 それもまた想念なのです。
 「私は目覚めるだろう」という想念が先行します。
 想念が人生を支配するのです。
 想念からの解放こそが人の真の本性─至福なのです。

492鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/17(金) 22:03:54 ID:1d4drIFg0
肉体もまた意識の表れの一つなのじゃ。
それを否定する必要は無いのじゃ。
肉体だけが自分であるという観念が滅せられるべきものなのじゃ。
すべてが自分であり、全てであるから自分と名づけることもないのじゃ。

493避難民のマジレスさん:2020/01/18(土) 03:45:54 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話249

1936年9月24日

マハルシ
 
無知(アジニャーナ)には二種類あります。

(1)真我を忘れること
(2)真我の知識への障害

修練は想念を排除するためにあります。
想念とは種子の形で残っている心の潜在的傾向(ヴァーサナー)が繰り返し現れたものです。
それらが多様性を生み出し、そこからあらゆる問題が起こるのです。

想念を排除するための修練には、師から真理を聞くこと(シュラヴァナ)等々があります。

シュラヴァナには即効性があり、師から真理を聞いた瞬間、弟子は真理を実現します。
これは非常に熟達した弟子にのみ起こります。

さもなければ、弟子は何度聞いても真理を実現することができないと感じます。
その原因は何でしょうか?
心の不純性です。
無知、疑い、偽りの自己同一化が取り除かれるべき障害です。

(a)無知を取り除くために、弟子は知識が完全なものになるまで、真理を何度も繰り返し聞かなければならない(シュラヴァナ)。

(b)疑いを取り除くために、弟子は完全に疑問がなくなるまで、師から聞いた真理について熟考しなければならない(マナナ)。

(c)真我と非真我(身体、感覚、心、知性)との誤った自己同一化を取り除くため、弟子は心を一点に集中させなければならない(ニディディアーサナ)。

これらすべてが達成されたとき、障害は取り除かれ、サマーディが起こります。
こうして静寂が支配するのです。

ある人は、聞くこと、熟考すること、一点に集中することをけっして止めてはいけない、と言います。
これらは読書によって満たされることではありません。
ただたゆまず修練を続けて心を内面に向けることだけが達成に導くのです。

探究者にはクリトーパーサカ(熟達した探究者)とアクリトーパーサカ(熟達していない探究者)がいます。
前者は真我を実現するに適格な人で、ほんのわずかな刺激で実現に達します。
少しばかりの疑いが障害としてありますが、師から一度真理について聞くだけで疑いは取り除かれ、即座に彼はサマーディに入ります。

彼にとって、シュラヴァナ(聞くこと)、マナナ(熟考)、ニディディアーサナ(真理の一点に集中すること)などの修練は過去世において完結しているため、もはや必要ありません。

他の人たち(アクリトーパーサカ)にとってこれらの修練は必要です。
何度真理について聞いても疑いが頭をもたげるからです。
それゆえ、彼はサマーディの状態を得るまで修練をあきらめてはならないのです。

シュラヴァナは、真我と身体との偽りの自己同一化という幻想を取り除きます。
マナナは「知識が真我である」ということを明確にします。
ニディディアーサナは至福に満ちた無限の真我を明らかにするのです。

494鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/18(土) 22:54:57 ID:1d4drIFg0
修行する者は最初は正しい知識から入るのじゃ。
正しい知識が無ければ何も出来ないからのう。
そしてそれをよく考えて自らのものにするのじゃ。
それから実践するのじゃ。
知識も実践のためのものなのじゃ。
実践しない知識はただの障害になるだけなのじゃ。

495避難民のマジレスさん:2020/01/19(日) 00:25:57 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話250

1936年9月27日

一人の帰依者が、マハルシもよく知っているある人がマハルシに関して不愉快な発言をしていることについて尋ねた。

マハルシ
 私が彼にそうすることを許可したのです。
 私はすでに彼を許しています。
 彼がもっとそうしたいのであれば、そうさせればいいでしょう。 他の人たちもそれにしたがえばいいのです。
 ただ彼らが私を放っておいてくれるならそれでいいのです。
 これらの発言で、誰も私のところに来なくなったなら、私はそれを私のための偉大な奉仕と見なします。
 さらに、もし彼が私のスキャンダルを含んだ本を出版するのであれば、そしてそれで収益を上げるのであれば、それは実に良いことです。
 そのような本はもっと早く多く売れるでしょう。
 マヨ夫人の本を見てみなさい。
 彼もそうするべきではありませんか?
 彼は私に良い恩返しをしているのです。

 そう言うとマハルシは笑った。

496鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/19(日) 23:16:37 ID:1d4drIFg0
悟った者はもはや言葉には囚われないのじゃ。
どのような非難も意味が無いのじゃ。
むしろ人が来なくなれば静かになって善いともおもうのじゃ。
一切の毀誉褒貶に囚われないのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2020/01/20(月) 08:14:28 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話250(続き)

1936年9月29日

マハルシが一人でいたとき、再び同じ話題について語った。
中傷者は自分の無謀な行為の結果、困難な状況に陥っているようだった。
このことが伝えられたとき、マハルシは彼の身の安全を案じているようだった。
師は同情を露わにして言った。

「自分のやり方で収入を得ることが許されてさえ、彼は困難に陥るのです。
 もし私たちが彼に寛大であることを悟って、分別を持って行動していたなら、救いの余地もあったでしょう。
 いったい私たちに何ができると言うのでしょう?」

498鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2020/01/20(月) 23:06:29 ID:1d4drIFg0
悪事を行っている者には悪い報いがやってくるものじゃ。
仏陀にさえそれはどうしようもないことじゃ。
誰もが自分のしたことの報いを受けるのじゃ。
善事を常に行うが善いのじゃ。

499避難民のマジレスさん:2020/01/21(火) 01:20:14 ID:kwG.5zBA0
ラマナ・マハルシとの対話251

物悲しげだが、たいへん高貴で知的な風貌の女性が尋ねた。

「私は以前からあなたのことを、最もやさしく、最も崇高なお方と伺っておりました。
 マハーラージよ。
 私はあなたのダルシャン(聖者に会うこと)を心待ちにしていたのです。
 先月の十四日に、私は一度ここを訪れました。
 しかしあなたの神聖な臨在の内に望むだけとどまることはできませんでした。
 若い女性であるため、多くの人の中に長くはいられず、二、三の単純な質問をして急ぎ足で立ち去ったのです。
 私の暮らす州に、あなたのような聖者はおりません。
 私は欲しいものはすべて手に入れ、幸せに暮らしています。
 しかし私には幸福をもたらす心の平安がありません。
 私はあなたの祝福を求めてここに参りました。
 心の平安が得られることを願っております」

マハルシ
 バクティ(帰依心)があなたの望みを満たすでしょう。

質問者
 どうすれば心の平安を得られるのかが知りたいのです。
 どうぞ助言をお与えください。

マハルシ
 帰依と明け渡しによってです。

質問者
 私は帰依者となるにふさわしいでしょうか?

マハルシ
 誰でも帰依者になることができます。
 霊的な世界はすべての人にとって等しく、老人であれ若者であれ、男性であれ女性であれ、誰一人否定されることはありません。

質問者
 まさしくそのことが知りたかったのです。
 私は若く、主婦(グリヒニ)をしており、家住者としての義務(グリハスタ・ダルマ)を務めなければなりません。
 帰依心とそのような立場は両立できるものなのでしょうか?

マハルシ
 もちろんです。
 あなたとは何でしょうか?
 あなたは身体ではありません。
 あなたは純枠意識なのです。
 グリハスタ・ダルマも世界も純枠意識の上に現れた単なる現象にすぎず、それは影響を受けることなくとどまります。
 あなた自身の真我として在ることを何が妨げていると言うのでしょう?

質問者
 わかります。
 私はすでにマハルシの教えの指針に気づいています。
 それは真我への探究なのです。
 しかしそのような探究が家住者の生活と両立するのかという疑いはまだ残っています。

マハルシ
 真我は常に存在しています。
 それはあなたなのです。
 ただあなただけが存在するのです。
 あなたから離れて存在するものは何もありません。
 それゆえ、両立するかどうかといった疑問は起こらないのです。

質問者
 もう少しはっきりとお伝えします。
 新参者ではありますが、私は自分の不安の原因について告白しなければなりません。
 私は子供に恵まれました。
 その内の一人の男の子は良いブラフマチャーリーでしたが、この二月に他界いたしました。
 私は悲嘆に暮れ、人生に愛想をつかし、霊的人生にすべてを捧げたいと願いました。
 しかし私の主婦としての義務が隠遁生活を送ることを許さないのです。
 それゆえの疑いです。

マハルシ
 隠遁とは真我の内にとどまることを意味します。
 それ以上の何ものでもありません。
 それは一つの環境を離れてもう一つの環境の中に巻き込まれることではなく、また具象的な現実世界を立ち去って、精神的世界の中に巻き込まれることでもありません。

 子供の誕生やその死は、真我の中でのみ見られるのです。

 眠りの状態を想い出してみなさい。
 何か起こっていたことに気づきましたか?
 もしあなたの息子や世界が実在であるなら、それらは眠りの中でもあなたとともに在るのではないでしょうか?
 あなたは眠りの中での自分自身の存在を否定できないはずです。
 そしてあなたが眠りの中で幸せだったことも否定できないはずです。
 その同じ人が今、話をし、疑いを起こしているのです。
 あなたは幸せではないと言います。
 しかし眠りの中では幸せだったのです。
 それでは、眠りの中で感じた幸せを破壊するような何が起こったのでしょうか?
 それは自我の誕生です。
 目覚めの状態の中に新たに登場したのは自我なのです。
 眠りの中に自我はありませんでした。
 自我の誕生は個人の誕生と呼ばれます。
 これ以外に誕生というものはありません。
 何であれ生まれたものは死ぬ運命にあります。
 自我を殺しなさい。
 一度死んだものにとって、もはや死の恐怖はありません。
 自我の死の後でさえ、真我は在り続けます。
 それが至福です。
 それが不死なのです。

500避難民のマジレスさん:2020/01/21(火) 01:22:08 ID:kwG.5zBA0
質問者
 どうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 疑いが誰にとって起こるのかを見なさい。
 疑う者とは誰でしょうか?
 考える者とは誰でしょうか?
 それは自我です。
 それをとらえなさい。
 他の想念は死に絶えるでしょう。
 そうすれば、自我は純粋な姿で残ります。
 自我がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。
 それが純粋意識なのです。

質問者
 私には難しく思えます。
 バクティ・マールガ(帰依の道)を進んでもよろしいでしょうか?

マハルシ
 それは個人の気質と資質によります。
 バクティとヴィチャーラ(探究)は同じなのです。

質問者
 私は瞑想を意味していたのです。

マハルシ
 そうです。
 瞑想はある形にするものです。
 それが他の想念を追い払うでしょう。
 神への想いという一つの想念が、他の想念を支配します。
 それが集中です。
 瞑想の対象は、それゆえヴィチャーラの対象と同じものなのです。

質問者
 私たちは神を具象的な姿で見るのでしょうか?

マハルシ
 そうです。
 神は心の中で見られます。
 具象的な姿が見られることもあるでしょう。
 しかしそれもまた帰依者の心の中だけにあるのです。
 神の姿とその現れは帰依者の心によって決定されます。
 しかしそれは最終的なものではありません。
 そこには二元的な感覚があるからです。

 それは夢のヴィジョンのようなものです。
 神が知覚された後、ヴィチャーラ(真我探究)が始まります。
 それが真我実現をもたらします。
 ヴィチャーラは究極的な道なのです。

 もちろん、ヴィチャーラが実践可能なものと感じるのは数人だけかもしれません。
 他の人たちはバクティの方がやさしいと感じるでしょう。

質問者
 ブラントン氏はあなたをロンドンで見たのではありませんか?
 それはただの夢だったのですか?

マハルシ
 そうです。
 彼はヴィジョンを得ました。
 彼は私を心の中で見たのです。

質問者
 彼が見たのはこの具象的な身体だったのではありませんか?

マハルシ
 そうです。
 それでもそれは彼の心の中にあったのです。

質問者
 どうすれば真我に達することができるのでしょうか?

マハルシ
 真我に達するというようなことはないのです。
 もし真我が達せられるようなものなら、それは今ここには存在せず、新たに獲得されるものということです。
 新たに獲得されたものは、やがて失われるでしょう。
 それはつまり一時的なはかないものだということです。
 永遠なるものでなければ、努力して得るだけの価値もありません。
 だからこそ、私は真我に達するということはないと言うのです。 あなたは真我です。
 あなたはすでに「それ」なのです。
 事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態に無知だということです。
 無知が起こり、純枠な至福の上に覆いを被せてしまったのです。 私たちが試みるべきことは、この無知を取り除くことだけです。
 この無知は誤った知識で成り立っています。
 誤った知識は真我を身体や心と同一視することで成り立っています。
 この偽りの自己同一化が取り除かれなければなりません。
 そのとき、そこに真我が残るのです。

質問者
 それはどのようにして起こるのでしょうか?

マハルシ
 真我を探究することによってです。

501避難民のマジレスさん:2020/01/21(火) 01:22:44 ID:kwG.5zBA0
質問者
 それが難しいのです。
 私は真我を実現できるでしょうか?
 マハーラージ、どうかお教えください。
 それはあまりにも難しく見えます。

マハルシ
 あなたはすでに真我なのです。
 それゆえ、実現はすべての人にとって共通のものです。
 実現に関しては、それを熱望する人の間にいかなる違いも差もありません。
 「私は実現できるだろうか?」という疑いや「私はまだ実現していない」という感覚自体が障害なのです。
 それらからも自由になりなさい。

質問者
 しかし体験があるべきです。
 体験を得ないかぎり、どうしてそのような悩みから自由になれ
ると言うのでしょう?

マハルシ
 それもまた心の中にあります。
 あなたが自分を身体と同一視したためにそのような悩みは起こるのです。
 この偽りの自己同一化が落とされ無知が消え去れば、真理は顕わになるでしょう。

質問者
 私にはそれが困難に感じられるのです。
 バガヴァーンの弟子の中には、何の困難もなく恩寵を受け、真我実現を達成した人たちがいます。
 私もその恩寵を願っています。
 一人の女性として遠く離れたところで暮らす私には、自分の望むようにマハルシの聖なるサットサンガに加わることができません。
 二度とここに戻ることさえできないかもしれないのです。
 バガヴァーンの恩寵を願っています。
 私がラクナウに帰ったときもバガヴァーンを覚えていたいのです。
 どうぞ私の祈りをかなえてくださいますように。

マハルシ
 あなたはどこに行くと言うのですか?
 どこへも行きはしないのです。
 たとえあなたが身体であると考えたとしても、あなたの身体がラクナウからティルヴァンナーマライまで来たのでしょうか?
 あなたはただ車、あるいは何か他の乗り物に座って運ばれてきただけです。
 そして、ついにあなたはここに到着したと言うのです。
 しかし事実は、あなたは身体ではありません。
 真我が動くことはありません。
 世界が真我の中で動くのであって、あなたはただ「あるがまま」なのです。
 あなたの中には何の変化もありません。
 それゆえ、この場所を離れた後でも、あなたはここに、そこに、そしてすべての場所に存在しています。
 移りゆくのはただ景色だけなのです。

 そして恩寵についてですが、それはあなたの内に在ります。
 恩寵が外側に在るとすれば、それは無益なものでしょう。
 しかし恩寵とは真我なのです。
 あなたが恩寵の影響から外へ出ることはありえません。
 恩寵は常にそこに在るのです。

質問者
 私が言いたかったことは、あなたのお姿を想いだすとき私の心が力を得るように、あなたの側からの受け応えも欲しいのです。
 私一人の努力とともに置き去りにしないでください。
 それは結局か弱いものなのです。

マハルシ
 恩寵とは真我のことです。
 私はすでに言ったはずです。
 もしもあなたがバガヴァーンを覚えているなら、それは真我によってそうするように促されているのです。
 それゆえ、すでにそこには恩寵があるのではないでしょうか?
 あなたの中で恩寵が働いていないときがあるでしょうか?
 あなたがバガヴァーンを覚えていることが恩寵のしるしです。
 それが受け応えであり、あなたへの激励です。
 そしてそれが真我、それが恩寵なのです。
 ですから心配することなどありません。

質問者
 サンサーラの中にとどまっていてさえ、霊的修練をすることはできるのでしょうか?

マハルシ
 もちろん、そうするべきです。

質問者
 サンサーラは障害なのではありませんか?
 聖典は放棄を勧めているのではないでしょうか?

マハルシ
 サンサーラはあなたの心の中だけに存在するのです。
 世界が「私は世界だ」と声を上げたりはしません。
 そうでなければ、それはあなたの眠りの中も含めて、常に存在しているはずです。
 しかし眠りの中に世界は存在しないため、それは一時的なものなのです。
 一時的なものであるため、それは力を持っていません。
 力がないため、それは真我によってたやすく征服されるのです。

 ただ真我だけが永久に存在しています。
 放棄とは真我と非真我との同一化を断ち切ることです。
 無知が消え去るとともに、非真我も存在を消します。
 それが真の放棄なのです。

502避難民のマジレスさん:2020/01/21(火) 01:23:53 ID:kwG.5zBA0
質問者
 それではなぜ、あなたは少年時代に家を去ったのですか?

マハルシ
 それが私のプラーラブダ(運命)だったのです。
 この生における出来事の流れは、プラーラブダによって決定されます。
 私のプラーラブダはこのようなものであり、あなたのプラーラブダはそのようなものだったということです。

質問者
 私もまた放棄すべきなのではないでしょうか?

マハルシ
 もしそれがあなたのプラーラブダであれば、質問は起こらなかったでしょう。

質問者
 つまり、私は世間の中にとどまり、霊的修練を続けるべきなのですね。
 では、私はこの生で真我実現を達成できるでしょうか?

マハルシ
 それはすでに答えました。
 あなたはすでに真我なのです。
 真剣な努力が失敗に終わることはありません。
 成功は間違いないでしょう。

質問者
 マハルシの恩寵が私にも授けられますように!


マハルシは微笑むと「うむ、うむ」と言って祝福を与えた。
こうして会話は終わり、彼女はすぐにラクナウへと立った。


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