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鬼和尚に聞いてみるスレ part8
1
:
避難民のマジレスさん
:2016/12/05(月) 22:15:12 ID:5WAaNl9c0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。
鬼和尚が提唱している修行に関する意見交換や実践しての感想などはセーフとしますが
あからさまな批判レスや中傷、論争及び自説の主張等はアウトです。
ルールを守って使用しましょう。
前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part7
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1463059357
453
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/05(日) 10:56:07 ID:LC3de7YgO
1)何も考えずに静かに座ってみようと決意する。
2)雑念の多さに気づく。
3)呼吸に集中する(数える)。
4)知らぬ間に集中する(数える)のを忘れて、雑念に巻き込まれ妄想している。
5)その事に「気づいて」、集中に戻る。
6)雑念が消えることを実感する。
観念、思いは幻想と気づく。
観念、思いの対象も幻想と気づく。
観念、思いではない対象そのものをとらえようとするのが、ありのままの観察か?
けど、対象を対象としてとらえたと自覚した瞬間にそれは幻想。
対象は観念されるものとしかとらえられない。
ありのままをとらえるために、「無分別」が求められる。
「何も思わない」で、対象を対象としてありのままにとらえるために、
サマディとか忘我に早く到達せねばと願う龍明であります。
.∧_∧
(-(ェ)-)
(つと)
と_)_)
454
:
436
:2017/03/05(日) 11:13:43 ID:KUdA8t9s0
>>450
>今の人は特に獣を殺さなくとも生活できるじゃろう。
なるほど確かに。とても腑に落ちました。
ありがとうございました。
455
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/05(日) 14:46:43 ID:GXTFMGi.0
>>450
「観照とは自我を観ること」、その文章の意味って、観照とは自我を客観的に
把握できていてそれゆえに自我のない非同一化の状態である、
しかし、一瞥は自我を客観的に把握したりしてはおらずただ自我を忘れているだけ、という意味ですか?
456
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/05(日) 21:28:45 ID:1d4drIFg0
>>451
善いことじゃ。
楽しんでやることが一番よいのじゃ。
どんどん実践するとよいのじゃ。
またおいでなさい。
>>452
あけていてよいのじゃ。
目に見えるものや、観るという事も観察できるのじゃ。
実践してみるのじゃ。
>>453
あせらなくてよいのじゃ。
実践していれば向こうからやってくるじゃろう。
ただひたすらに集中するのみなのじゃ。
>>454
どういたしまして、またおいでなさい。
>>455
自我が観察できた瞬間を観照と呼ぶのじゃ。
それが起こってからは無我になるのじゃ。
観照によって自我が厭離されるからのう。
それ以降は無我の状態になる故に特に重要な気付きであるから観照と呼ぶのじゃ。
後はそのような理解でよいのじゃ。
457
:
としぼっくり
:2017/03/06(月) 05:59:26 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
質問ですが、観察の行がいまいちよくわかりません。本心を観察して、自分を追求するのはわかるのですが、心身を観察したり、自己観察するのは、本心を観察していたら自然にできるものなんですか?
それとも観察しようとしなければできないのでしょうか?
本心を観察して、自分を追求することはできるのですが、それとは別に心身を観察したり、自己観察した方がよろしいのでしょうか?
その時は本心を観察した方がよろしいのでしょうか?
458
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/06(月) 13:12:47 ID:BVPIT6kM0
鬼和尚、
3年ほど観察を続けていて、主体という感覚と自分という感覚の違いがようやく分かってきたように思います。
例えば、何かが皮膚に触れた時、皮膚感覚に注意が向いて、その直後にその感覚が実感を持って感じられ、その後で触れられている自分というイメージが生じたとします。
その場合の「実感を持って感じられる」という部分が主体の感覚で、「触れられているイメージ」が自分という感覚に対応しているのではないかということです。
これは正しい観察でしょうか?
またそのような観察ができた時には、すぐにその感覚は自我を離れた遠いもののように感じられますが、自我自体は、他の心の機能や感覚に同時に投射されているためか、無くなりはしません。構わずにずっと観察で良いでしょうか?
459
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/06(月) 15:46:00 ID:lXLbh8n20
鬼和尚さま
今日はこれまでとは違う状態になったのでお聞きしたいです。
朝から自分を常に注視していたのですが、集中力が勝手に大きくなったので、久しぶりに座って瞑想しました。
呼吸を観ていたのですが、いつもは鼻先などを観ているのを今日は呼吸にを注視しながら頭全体の感覚として観ていました。
集中力のような頭の感覚がグングンふくらんでそれ以上変化がなくなったのでやめました。
自分自身に対しての集中力が勝手に続いていたので、ネットをしながら自分を注視していると、
自分の体がカラダ自身で勝手に動いていて、自分はそれをそうなっているだけと冷静に認識しているような感じがしました。
自分の体が自分と無関係に勝手に生き動いてるので、ちょっとおかしくて笑ってしまいましたが、
これを続けて行けば身体性を厭離できるではないかと思い、なるべく身体の動きを自分だと思わないように集中を続けました。
それで集中を続けていくと頭の中にいままでなかった感覚があるのです。
どこに向かっているということでもないのでですが重力のような感覚、
それから音がなにもないときに頭で感じるシーンという音のもぅ少しすごいザーザーするような音がずっとしてします。
頭に気が上ったときのような不快感はなく、なんとなく意識を失う手前のような、頭は止まってるけど何か力溜まってるような感じです。
頭の中の壁が全て取り払われて無限を感じるようなことは今まであったのですが、そういうのではなく、混沌とした力のような感じです。
それを観察しようとして観察の方向を工夫すると、音がグワングワンしたり、集中の方向に意識を持って行かれるような感覚があります。
ただ全くイヤな感じはなく、未知の感覚で、何かすごいってのが一番近いです。
ちなみに余計な思考、感情は生じてません。
今までの自分はいないけど、今までとは別の自分というか何か実在感を感じます。
自分はいなかったとわかったときの無の感じとは違う広がりのような脈打つような実在感を感じます。
考察のためにしている思考を止めると頭が停止したような、一瞬気を失うような、今まで何してたか忘れてしまうような感じです。
記憶はされていってるのですが、記憶と自分が瞬間瞬間結びつかないような感じです。
こういった状態が何なのかということを、ここからどうしていくのがよいかなど、なにかありましたらおしえていただけますでしょうか。
460
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/06(月) 16:02:19 ID:lXLbh8n20
状態を長々と書いてしまいましたが、気が上ったのとは違うようだと書きましたが、
これはこれでそういうもののひとつなのかな、とも少し思いました。
ただ、むかしこれとちょっと似た状態を経験したことがあって、それは鬼和尚さまに書いたことがあります。
そのときは自分の意志を無視して集中力が勝手に暴走するような状態で、
例えば目で何かを見たら、そこから目が離せなくなり、その対象に入り込んでしまうような感覚の状態でした。
自分で何とかがんばって、見るのをやめるという意識を作らないと、どこまでも対象を見入ってしまうような、
そういう状態でした。
そのときは集中力をもう自分でどうにもできなくて、しょうがなく横になったらよく聞く幽体離脱のような体験をしました。
幽体離脱だったのか何なのかはわかりませんが、そのときに少し似ているというのを付け加えておきます。
集中力というのか自分と無関係に何かが働いてどこかに連れて行かれるような感覚が似ています。
461
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/06(月) 17:19:16 ID:GXTFMGi.0
>>456
ということは観照は自我を「観察」した結果、無我になっているのであり、
一方で一瞥は自我の「観察」をしておらず何らかの拍子で無我と同じ状態になっているだけ、
ということですね、
そして、鬼和尚の観照の体験は「一瞥」ではなく「観照」であり、なぜなら鬼和尚は
無我に至る直前に自我を観察し、厭離が起こったから、ということですか?
462
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/06(月) 18:40:01 ID:czRftzgI0
細かい質問ですがお願いします。
ぼーっとしている時にある人の顔が浮かんだら、それが認識であるということなのか。それとも人の顔が浮かんだ時はまだ記憶で、それがある人の顔だと知覚したら認識である、のどちらですか?
463
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/06(月) 22:08:09 ID:1d4drIFg0
>>457
心身の全てを観察し尽くせば自然に自分が観察できるじゃろう。
それらに自我は投射されているのであるからのう。
心身を観察するのも自分を追求するのも自我を観察して厭離するためなのじゃ。
それら全ては本心を観察することでできるものじゃ。
偽りを観察していては永遠に自我は観察できないのじゃ。
>>458
そのような観察でよいのじゃ。
いずれ更に何か気付くことがあるかもしれん。
それにも囚われずに進むのじゃ。
ただひたすらに観察あるのみなのじゃ。
>>459
>>460
それらも集中力が増して起こった現象なのじゃ。
自我を超えた集中で忘我に至ろうとしているのじゃ。
怖がらずに進めばサマーディに入れるじゃろう。
囚われずに進むのじゃ。
>>461
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
実践によって確めるのじゃ。
>>462
人の顔とわかったら既に認識なのじゃ。
更に分別が加わって誰の顔とかわかるのじゃ。
何かわからないものがあるとするならば感覚の刺激のみなのじゃ。
464
:
としぼっくり
:2017/03/06(月) 22:42:33 ID:DAY232aw0
丁寧な説明ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察して、自分を追求すれば、自我を観察できるという事ですか?
465
:
としぼっくり
:2017/03/06(月) 23:49:27 ID:DAY232aw0
↑自分を追求するか心身の全てを観察するか、です。
466
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/07(火) 01:34:14 ID:lXLbh8n20
>>463
ここから至るのが忘我ですか。
ふり返って、集中力が身に付いたのか、あるいは本来の集中力を邪魔していた我の捉われがとれたのかなと思いました。
方向は間違ってないようなのでとりあえずどうなるものなのかやってみます。
ありがとうございました。
467
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/07(火) 06:58:57 ID:czRftzgI0
>>462
ありがとうございます。続けて回答をお願いします。
誰の顔とかわかる分別は同時にその好悪の判断も含むということですか?
468
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/07(火) 12:23:29 ID:Bf.VSe1w0
>>463
未だ思考による観念遊戯の習慣があることに気づきました。
更に何か気づくことが楽しみです。
囚われずに観察に励みます。
お答えくださり、ありがとうございました。
469
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/07(火) 15:37:23 ID:GXTFMGi.0
461です、鬼和尚は悟るまで特に観察を行ってはいなかったと以前おっしゃっていましたが、
経典を読んでいる時に観照が起こったってことは観照が起こる直前には鬼和尚自ら、
自我とは何か観察するという鬼和尚からの能動的なアクションを行ったってことですか?
いきなり何の拍子もなく無我になったわけではないですよね、それだと一瞥でしょうから。
470
:
としぼっくり
:2017/03/07(火) 18:04:13 ID:DAY232aw0
>>464
>>465
スルーしてください。すいません。
ありがとうございます。自分の本心を観察する事と自分を追求する事を実践して行こうと思います。
471
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/07(火) 18:58:30 ID:9XP4Lp720
鬼和尚さん、瞑想をしているときに無我になれる理由は、刺激や記憶の想起がなくなって、自我が起こりにくくなるからですか?
つまり、誰でも心を静めることができれば、いつでも無我になれるのですか?
472
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/07(火) 22:07:06 ID:1d4drIFg0
>>464
>>465
>>470
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>466
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>467
好悪の判断はさの顔を見分けてから起こるじゃろう。
心の働きはそのように続いて起こるものじゃ。
それがお釈迦様の言う縁起なのじゃ。
観察によって見極めるのじゃ。
>>468
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
473
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/07(火) 22:12:46 ID:1d4drIFg0
>>469
そのような瞬間は意識せずに起こるものじゃ。
何かをしようとしていたら自我が投射され、観ることはできないのじゃ。
常に真実を求めていたとはいえがのう。
一瞥とは自我を忘れたときに起こるものじゃ。
観察された瞬間とは明白に違うのじゃ。
>>471
自我がみえやすくなるからなのじゃ。
起こらないだけでは忘我なのじゃ。
観察して自我が見えれば無我になれるのじゃ。
瞑想によって集中力と観察力が高まれば自我もみえやすくなるのじゃ。
474
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/07(火) 22:25:16 ID:gy.DD9Vw0
>>473
鬼和尚さん、ありがとうございます。
なるほど、忘我と無我のちがいがわかりました。
さらに質問なのですが、忘我の状態で自我を見ることはできるのですか?
以前教えていただいた、胸の真ん中や指先に集中する瞑想はそのための方法なのですか?
475
:
蓮恵
:2017/03/08(水) 09:29:08 ID:P0oV4erc0
瞑想していようが、普通に生活していようが違いはないのですか
無相も、有相も違いはないのですか
476
:
蓮恵
:2017/03/08(水) 10:24:36 ID:P0oV4erc0
和尚さま
ありがたいですね
周りにある草木とかガードレールとか地面、太陽、雲とか全部が自分の物に思えて、良く分からないのですが面白くてバスのなかで笑っているのですが魔境ですか
周りに自分の物が多すぎて数えるのがめんどいくらいです
477
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/08(水) 18:23:54 ID:zNSrbEMo0
鬼和尚様、
自我が厭離されずに、先に認識が厭離されることはあり得ますか?
それとも、認識が厭離されると自我も必然的に厭離されるのでしょうか?
478
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/08(水) 18:40:43 ID:czRftzgI0
しつこくてすいません。
すると、「制感の法を行うには、座ってから目を閉じて視覚の制限から始めるのじゃ。
以下、目を閉じただけでは・・・さらに言葉や分別する心の働きからも注意力を止め、言葉を使おうとする意志や「何ものかを分別する」働きも捨てたならば、速やかにサマーディは訪れるじゃろう。」
「何ものかを分別する」の分別は認識を分別と書き間違えたのではなく分別の意味で、ここでは物体であるというを認識は残してよいが、それが何物であるかということを知覚する分別は捨てよと仰っているのですか?
479
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/08(水) 22:13:38 ID:1d4drIFg0
>>474
見える可能性は高いのじゃ。
特に忘我から自我が思い出される瞬間、最も自我を捉えられる可能性が高いのじゃ。
全ての瞑想はそのためにあるものじゃ。
集中によって自我を忘れ、自我を捉えるために瞑想をするのじゃ。
それによって悟りを得ることも可能になるのじゃ。
>>475
違いはあるじゃろう。
既にサマーディに入っていても、やはり瞑想を続ければ更に進歩していくのじゃ。
夢相と有相に違いが無いことが空なのじゃ。
>>476
どんな境地でも囚われれば魔境になるのじゃ。
囚われなければ魔境ではないのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>477
稀にはあるかもしれん。
認識が厭離されれば必然的に自我も厭離されるのじゃ。
自我も認識に依ってある観念に過ぎないからのう。
>>478
そうじゃ、認識は意志によって捨てられないのじゃ。
捨てようとするには既に捨てるものを認識しなければならないからのう。
分別までは自分の意志でも制御できるのじゃ。
それによって無分別三昧が訪れるのじゃ。
難しい道ではあるがのう。
実践あるのみなのじゃ。
480
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/08(水) 23:41:50 ID:FocWw5K20
>>479
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自我を見るということの意味がよくわかっていなかったのですが、理解できた気がします。
また、さらに質問させてください。
瞑想中に指先に集中して、深い瞑想に入りながらも指先に意識があるとわかったら、自我を見たことになるのですか?
それともさらに自我を見るために、その後、その瞑想中にするべきことがありますか?
481
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/09(木) 14:45:57 ID:h60yePPA0
鬼和尚、こんにちは。
思考を精妙に観察していた所、観ている者もまた思考だった気づきました。
例えば言葉の思考を観ている最中に、不意に「思考を観ている者」を観てみると、
思考が「言葉」から「観ている者」に変化したことがわかります。
普段これらを瞬間的にやっているため、「言葉」と「それを観る私」という分離が起きているのではないかと。
「思考を観察する」とは実は、
言葉→言葉を観ている私→言葉→観ている私…
のように思考が瞬間的に変化していたと気づきました。
観るものは観られるものとはこれのことで、この思考が自我ということなのでしょうか?
482
:
蓮恵
:2017/03/09(木) 15:30:06 ID:Bfk7ET5s0
和尚さま
仏教の「無常」は常なるものは無し(存在しない)ですが、
老子の「常無」すなわち、常なるものは無である、という考え方も正しいのでしょうか
483
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/09(木) 18:46:55 ID:czRftzgI0
>>478
いや〜てっきりあの記述は間違いかと思っていましたが、間違ってたのは私でした。これで制感の法を正しくできるような気がします。無分別三昧を目指します。
丁寧なご指導ありがとうございました。
484
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/09(木) 20:08:46 ID:lF/XL1lc0
>>479
鬼和尚様、ありがとうございます。
自我や認識を厭離することは、阿頼耶識を厭離することと同じでしょうか?
485
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/09(木) 21:50:49 ID:1d4drIFg0
>>480
ならないのじゃ。
それは単に深い意識にたどり着いただけなのじゃ。
それからさらに心身を観察するのじゃ。
そうすれば自我も観察できるのじゃ。
>>481
違うのじゃ。
それは思考が見えたのじゃ。
思考をする主体が自我と認識されているのじゃ。
そして無我になっても観るものがまだあるのじゃ。
まずは自我を観察する事を目指すのじゃ。
>>482
観念は全て妄想なのじゃ。
悟りに至る方法は役に立つものであるから正しいとされるのじゃ。
それが悟りに導くものであれば正しいといえるじゃろう。
>>483
どういたしまして、またおいでなさい。
>>484
厭離されるべき認識とは、阿頼耶識のことなのじゃ。
自我は阿頼耶識によって認識される観念に過ぎないのじゃ。
阿頼耶識が厭離されれば大悟なのじゃ。
知恵が生じ生死を超えて永遠の意識に至るのじゃ。
それまで精進あるのみなのじゃ。
486
:
481
:2017/03/09(木) 22:25:13 ID:wBY09Uzk0
鬼和尚、ありがとうございます。
>思考をする主体が自我と認識されているのじゃ。
これは一体どういうことでしょう?
思考が私やリンゴなどの分別をつけているのではないのですか?
自我の正体は思考による分別によるものだと思っていましたが…。
なにやらスタートラインに戻ってしまったような気分です笑
487
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/09(木) 22:31:11 ID:Jw3dzeXk0
>>485
鬼和尚さん、ありがとうございます。
ようやくわかってきました。
さらに理解するために、指先に集中する瞑想について、もう少し質問させてください。
1. まず、深い瞑想に入って夢を見ているような状態の時は、忘我の状態なのですか?
2. その状態のまま、指先に意識があるとわかれば、忘我の状態で心身を観察できるようになるということですか?
3. そして、そうやって観察していれば、自我を思い出す瞬間を捉えられるということなのでしょうか?
488
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/09(木) 22:49:35 ID:lF/XL1lc0
>>485
鬼和尚様、ありがとうございます。
お陰様で、何が自我で認識で、厭離される対象なのかおぼろげながらも見えてきました。
鬼和尚様のおかげです。最後まで精進いたします。
489
:
481
:2017/03/09(木) 22:49:51 ID:wBY09Uzk0
>>486
追記すみません。
もしかしたら私は、思考の前の認識そのものを思考と勘違いしてるかもしれません。
認識がまずあり、その後に思考が起こる。
この認識されるもののひとつが自我なのでしょうか?
と質問してしまいましたが、もっと自分で観察してみます。
いつもありがとうございます。
490
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/09(木) 22:55:43 ID:SL2No1z20
>>486
横ですが、鬼和尚さまのブログに詳しい説明がありました。
心の模式図
http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-46.html
参考にしてください。
491
:
481
:2017/03/09(木) 23:11:05 ID:wBY09Uzk0
>>490
ありがとうございます。
今ピンときた後に模式図を見てみました。
やはり自我も思考も認識されるものではないか?
では認識とは?阿頼耶識とはどの瞬間なのか…などなど思考しています笑
もっと観察してみます。
シェアありがとうございました。
492
:
としぼっくり
:2017/03/10(金) 09:07:46 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
>>116
で本心を観るようにしていれば自我も心身も観えるのじゃ。と仰ってましたが、自分の本心を観察するとなぜ心身も観えるのでしょうか?
493
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/10(金) 13:12:38 ID:GXTFMGi.0
>>473
ありがとうございました、無意識的な自我の観察が観照、という鬼和尚の言葉通り、
ということなんですね、
それから、また質問なんですが、鬼和尚は悟った後に「仮の自我」を作った、とか
「無我のままでは生活できない」、という言葉を思い出しました。
言葉通りでなければ、すいません。
私は鬼和尚が語る「自我」という言葉の定義を「私は何々である、という同一化の観念」
と捉えて鬼和尚の語る「自我」という言葉の全てを解釈しているんですが、そうなると上記のような「仮の自我」
という言葉に?となります。
悟った後は仮にでも同一化の観念を自ら作り上げるようなことはしないでしょうし、
無我になったら普通に生活できない、という言葉についても同一化の観念がなくたって生活は
できるだろう、と思ってしまいます。私の知る多くの非二元の教師が普通に生活できているからです。
ゆえに鬼和尚が語られている「自我」という言葉の定義について私が間違っているのか
、さらに仮の自我、無我になったら生活できないというのはなんなのか、長いですが、
教えていただけると助かります。
494
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/10(金) 22:36:23 ID:1d4drIFg0
>>486
>>489
>>491
そうじゃ、思考とは認識されたものなのじゃ。
自我は認識されている観念なのじゃ。
思考すればそこに自我の観念が投射されるのじゃ。
そして自分が思考していると誤って認識されるのじゃ。
>>487
1 その時自分というものが忘れられているならば忘我なのじゃ。
まだあるならば忘我ではないのじゃ。
2 その意識は集中の結果たどり着いたものなのじゃ。
観察とは関係ないのじゃ。
観察は集中とは別に行うものなのじゃ。
3 観察ができていればそうなるじゃろう。
>>488
どういたしまして、またおいでなさぃ。
>>490
ご苦労さんなのじゃ。
>>492
自分の心を偽らなければありのままに心にあるものが全て見えるからなのじゃ。
その方が難しいがのう。
不安や恐れがあれば誰でも逃避したりして心を偽るのじゃ。
そのような者のために方法が必要なのじゃ。
>>493
例えば道に落ちている縄が蛇ではないとわかった後にも、他人と話すためにはあの道にいる蛇が・・・とか話すじゃろう。
そうしなければ話が通じないからなのじゃ。
悟った後にも肉体を持つ自己という同一化の観念がなければ人と話は出来ず、生活もできないのじゃ。
話をするにはわしとかおぬしとか主語が必要であり、生活にもわしの飯とかおぬしの飯とかの区別が必要なのじゃ。
それがなければ話も生活も無いのじゃ。
仮の自我とは自分も肉体などとの同一化があるようにふるまうことであり、慣れれば簡単にできるようなるものじゃ。
お釈迦様でさえ悟った後にはそのまま死のうとしたのじゃ。
何も無ければそのまま死ぬことも普通に選択するのが真の仏陀なのじゃ。
495
:
481
:2017/03/10(金) 22:50:12 ID:B2FlLhyk0
>>494
鬼和尚、お答えいただきありがとうございます。
やはり認識とは、いわゆる“気づき"のことのようですね。
自我とは、
気づき、認識された五感と思考が記憶により連携され、ひとつの個に思える幻想。
目を閉じて意識に成れば、様々な気づきが暗闇にあちらこちらと点滅のように現れます。
このひとつひとつの認識に意味付けしたものがこの世界であり、
この意味付けは、阿頼耶識からよるもの。
そのような理解です。
この阿頼耶識から起こる意味付けですが、例えば文字を目にするとほぼ一瞬のうち「あ」を「a」と意味付けしています。
こんな高速なものを捉えることができるのか自信がないですが、やってみようと思いました。
いつもありがとうございます。
496
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/10(金) 23:59:04 ID:ZmtoUYNs0
>>494
鬼和尚さん、ありがとうございます。
何となくわかってきましたが、確認のために質問させてください。
1. 指先に集中する瞑想をして忘我に入ってから、観察する瞑想をすれば良いということですか?
2. その時に観察しようと思うことは、自我を思い出したのではないのですか?
つまり、そのように思考が働いても、自分を思い出さないでいることはできるのですか?
3. 忘我とサマーディーの違いは何ですか?
497
:
蓮恵
:2017/03/11(土) 07:04:26 ID:Bfk7ET5s0
以下は井上義衍老師が認識について語ったものですが、悟りを得たものの認識を説明したものでしょうか。
1.��
道元禅師が正法眼蔵 現成公案の巻に「諸法の仏法になる時節」と説いておられる。��
����一般の人が「諸法」というのは、実体としてのものを認めるのです。それが中心となってほとんどの人が諸法というておられるのですね。それでは救われんのです。��
����そういうように見(けん)を起こして、ものを認めておるような状態ですと、この身心の実相が分からんのです。自分自身の真相が。��
����「仏法なる時節」ということは、諸法といわれているものが、向うにものとして存在しておるように思われているものが、「そうじゃない、この身心の姿だよ」ということです。��
����この身心のすべての動きが、仏法でいう「諸法」なのです。次から次へ本当に自在に動く、それが仏法でいう「諸法」なのです。��
����向かえばある。見ようと思うて見えたのではない。向かえばいきなりある。それが私どもの真相です。��
����六根の働き、すべて自分の実物なんです。道そのものの実物なんです。��
����人の見解の上に持っている人間(自分)を捨てる、自己を忘ずる体験によって、「仏法なる時節」現成です。
2.��
我見をこれから離れるのではない。��
��我見の起こる前があって、その前が自分の事実です。それが本当の私どもの心の在り方です。��
����我見といわれるものは、認識作用で何も実体はないのです。��
����空(くう)にする前に空であった事実が、そのまま「ズバッ」と、みな。それだけでいいんです。それをやると、必然的に人我(にんが)の見(けん)というものが、みな離れる。それが「道(みち)」です。それが座禅の一番大切な様子です。
498
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/11(土) 08:38:20 ID:nZx12wGU0
鬼和尚はよく思考や感情などは己ではなく己のものではないとおっしゃってますが、己とはなんなのでしょうか?
499
:
としぼっくり
:2017/03/11(土) 12:12:22 ID:DAY232aw0
鬼和尚すいません。
そのような者のために方法が必要なのじゃ。
とは一体どの様な方法ですか。
500
:
としぼっくり
:2017/03/11(土) 16:01:55 ID:DAY232aw0
もう一つ質問で申し訳ないのですが、
心身を観察したり、自分を追求するのは、
自分の本心を観察していないとできないのでしょうか?
501
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/11(土) 17:38:16 ID:GXTFMGi.0
493です。そうなんですか、でも仮にでも自我がないと生活できないってのは、その仮の自我
というのは一種のカルマとして手放す必要のないものなんですか?
仮にでも同一化の観念であるならそのままにしておくのは少し気が引けるような気がします。
502
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/11(土) 18:28:24 ID:pgFZqdGU0
鬼和尚様
禅って、最初から認識(阿頼耶識)だけを相手にしてるような気がしますが、違いますか?
だからこそ、シンプルではあるが、逆に難しくもあるという、そんな気がしたのですが。
503
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/11(土) 22:42:38 ID:1d4drIFg0
>>495
認識と気付きは違うものじゃ。
認識に依って気づきはあるのじゃ。
ものごとの真実にたどり着いた時に気付いたと人はいうのじゃ。
認識は間違っていても認識なのじゃ。
そのように理解すると善いのじゃ。
>>496
1 そうじゃ、集中した後に観察すると善いのじゃ。
2 自我を思い出してよいのじゃ。
それをも観察するのじゃ。
意志や思考が働いても自我は忘れたままで居ることもできるのじゃ。
3 忘我とはサマーディーの要件の一つなのじゃ。
我を忘れるほどの強い集中状態をサマーディーと呼ぶのじゃ。
>>497
そのようなものじゃ。
知識では語れないからズバッとかいうのじゃ。
伝えようとする言葉がたりないがのう。
>>498
それはおぬしが定義するそのままのものが己なのじゃ。
おぬしが自分というものをどのように定義しているかでなにものであるかわかれるのじゃ。
例えば肉体は自分で操ることが出来るから己であるとするならば、操るものが己じゃろう。
感じるもの全てが己ならば、感じるものが己じゃろう。
それらの主体が己であると認識するならば、主体が己じゃろう。
それらを全て記憶するものが己であるとするならば記憶が己じゃろう。
自分が何をもって己としているのか観察によって見極めるのじゃ。
504
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/11(土) 22:48:28 ID:1d4drIFg0
>>499
お釈迦様や目覚めた者たちが説いた方法なのじゃ。
瞑想とか観察とか観想とかなのじゃ。
全ての修行法はありのままに本心を観ることが出来無い者のための方法なのじゃ。
>>500
そうじゃ、本心を観なくては何もならないのじゃ。
本心でなければ偽りの心を観ていることになるからのう。
偽りの心を観て悟ったとか言っても全て嘘なのであるから何にもならないのじゃ。
>>501
そうじゃ、カルマも自らの心から来る観念による報いを説明するために創られたものであるからのう。
既に観念を離れたものには無いのじゃ。
>>502
禅でも己を見ることが大事なのじゃ。
見性というのも己の性質をみることであるからのう。
それ故に推奨されるのじゃ。
505
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/11(土) 23:14:14 ID:Mv1H2QeE0
>>503
鬼和尚さん、ありがとうございました。
ようやく忘我と観察についてわかってきました。
まずはとにかく瞑想して集中の練習をします。
またわからないことが生まれてしまったら教えてください。
いつもありがとうございます。
506
:
としぼっくり
:2017/03/11(土) 23:19:50 ID:DAY232aw0
二つも質問お答え下さりありがとうございます。
質問ですが、
自分を追求する時は、自分の本心を観察する様にしていれば良いという事ですか?
507
:
481
:2017/03/12(日) 07:33:05 ID:3L2ZJjcQ0
鬼和尚、ありがとうございます。
「気づきがあった」の気づきではなく、よく「私という存在は気づきである」とか言いますよね。
そのニュアンスの「気づき」は認識のことを指しているのかと思いましたが…あまり違う言葉を用いると混乱しますのでやめます。すみません。
認識は認識で統一します。
ところで阿頼耶識を厭離する具体的な観察ですが、
何かを見てそれを解釈する瞬間を観察すればよいでしょうか?
思考が解釈を起こすのだと思っていましたが、観察していたところ既に思考の前に見たものを判断しているように思えます。
花を見たら「花だな」という思考のラベル付け以前に花だと判断しているような…、
それが認識なのかなと。
508
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/12(日) 20:11:17 ID:1d4drIFg0
>>505
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>506
自分を追及する時にも本心を観察しなければならないのじゃ。
うその自分を追及しても何の意味もないのじゃ。
自分とは何か本当に感じていることを追求すれば本心を観察して自分を追及していることになるのじゃ。
>>507
そのような言い回しは気付くことに主体を投射しているのじゃ。
そのように観察できればよいじゃろう。
思考の前に分別や認識はあるのじゃ。
認識されたものを思考しているのじゃ。
認識できないものは思考できないのじゃ。
思考は認識に依ってあるものであるからのう。
509
:
蓮恵
:2017/03/12(日) 21:40:05 ID:/840N4pM0
>>503
禅僧は良くも悪くも体験主義な面があるのでしょうか、ですから、ズババッと勢いで表現してしまいますね
自分のような人間にとっては、和尚さまのように知識で解説してくださるかたに会えて幸運だったと思います
510
:
481
:2017/03/12(日) 21:59:10 ID:FpZPAQus0
>>508
鬼和尚、何度もありがとうございます。
確かに認識がなければ、思考もない。
認識があるからこそ思考も存在できるんですね。
ということは、認識が思考を作っていると言えるのかと思います。
認識がなければ、そもそも思考も存在しませんからね。
などと悟ったようなことを言ってみましたが、相変わらず認識だけを捉えるのはなかなか難しいものです。
しかし確かに思考を一切しなくとも花壇の花を「花」と認識しています。
しかし認識の作用する瞬間と言いますか、認識が立ち上がる瞬間が見えない。
これが観れれば、私という観念が立ち上がる瞬間も観れるはず。
一日二日で観れるものではないと思いますので焦らず注意してみます。
ありがとうございます。
511
:
蓮恵
:2017/03/12(日) 23:09:02 ID:/840N4pM0
和尚さま
ある物Aが消滅したとして、一なる境地た立てばこの消滅でさえ、ものの顕れ、演出、体験の一つにしか過ぎないのですか。
これが正見であり、法なのだとすれば、この法を思うと狂気に近いものを感じるのです。
この法を念じて修行すれば、我が跡形もなくぶっ飛ぶのが目に見えているから、実際に恐怖を感じます。
まさに鬼じゃ。です。
512
:
としぼっくり
:2017/03/13(月) 06:03:40 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分の本心を観察して、自分を追求して行こうと思います。
513
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/13(月) 14:08:17 ID:GXTFMGi.0
501です。その「仮の自我」が作られる段階というのはどこらへんなんでしょうか、
無我に至る→直後に仮の自我が生成される→認識を観察する→無認識に至る
位置づけ的にはこんな感じですか?違ってたらどの段階で仮の自我が生成されるのか
教えていただけると助かります。
514
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/13(月) 17:57:18 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚
仏教の三法印の一つに「諸行無常」があるから、認識を滅した後にある絶対不変の何かのようなのようなものを説くのは
仏教じゃないと言う意見がありますが、どうなのでしょうか
515
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/13(月) 21:48:27 ID:1d4drIFg0
>>509
善かったのじゃ。
チャンスを逃さず実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>510
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>511
それでよいのじゃ。
自我か消えると思えば誰でも恐れを生じるものじゃ。
それを超えてこそ悟りもやってくるのじゃ。
恐れを乗り越えて進むのじゃ。
>>512
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
516
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/13(月) 22:00:28 ID:1d4drIFg0
>>513
それは段階ではないのじゃ。
悟った後に他人と話すためにつくるものなのじゃ。
悟っても他人に教えを説かない者はつくらないのじゃ。
無為のまま涅槃に至るのじゃ。
>>514
諸行無常とは修行者に世間の虚しさを教えるために説かれたものじゃ。
それもまた固定した観念として受け取るべきではないのじゃ。
いかだの例えにあるように悟りに至るには法をもいずれは捨てるべきなのじゃ。
そしてお釈迦様も法を超えた不死の境地を説いたのじゃ。
517
:
としぼっくり
:2017/03/13(月) 22:55:05 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、まとめてみたんですが、
集中の行で、数息観して、
観察の行で、自分の本心を観察して、
心身を観察するか、自分を追求していれば
自我が観られる、自我に気付くという事でしょうか?
あと、数息観の時は、
呼吸を数えるよりも、呼吸に集中する事を意識した方がよろしいのでしょうか?
518
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/13(月) 23:27:35 ID:GXTFMGi.0
513です。
その「仮の自我」っていうのは無認識まで至らないと自ら作ろうとしても作れないんでしょうか?
つまり、無我に至っただけでは「仮の自我」を作ろうと思っても作れませんか?
519
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/14(火) 21:32:51 ID:1d4drIFg0
>>517
それでよいのじゃ。
呼吸に集中するために数えるのじゃ。
呼吸に集中できるようになったならば数えなくとも善いのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>518
無我でもつくれるじゃろう。
意味は無いがのう。
悟った者が他人に話をするためにつくるものなのじゃ。
無我ではつくる意味も無いものじゃ。
520
:
としぼっくり
:2017/03/14(火) 22:00:57 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
実践して行こうと思います。
また何かわからない事があればすいませんがよろしくお願いします。
521
:
としぼっくり
:2017/03/15(水) 11:24:18 ID:DAY232aw0
>>519
のそれでよいのじゃとは、まとめたことがそれで良いということですか?
522
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/15(水) 15:59:07 ID:R2VeAlFU0
鬼和尚!
写経はよいものですか?修練の一環になりますか?とても興味があります
523
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/15(水) 17:11:57 ID:4M/dQBfY0
鬼和尚さま
この方は認識を滅して大悟徹底していると思われますか。
http://dharma-winds.net/%E6%91%82%E5%BF%83%EF%BC%88%E6%8E%A5%E5%BF%83%EF%BC%89%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%A8%98/%E3%81%82%E3%82%8B%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%83%A7%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%82%9F/
この方がまだ大悟徹底していないとするとこれはどういう段階でしょうか。
また大悟徹底していないとすると何が足りないのでしょうか。
それはこの記述のどのあたりからわかりますでしょうか。
自分からするとこの方は記述の内容から認識を滅して大悟徹底しているように思えたのですが、
自分も悟っていない身ですのでわかりません。
記述も詳細で自分の参考にしたいと思いましたのでお聞きしました。
よろしくお願いします。
524
:
蓮恵
:2017/03/15(水) 17:13:39 ID:hu.n.GIQ0
和尚さま
最近、自分の注意力に気づけるようになりました
恥ずかしながら、煩悩の多い(笑)私には異性に対する注意力が大きく働いており、視界と聴覚の情報から女の情報が見つかれば情報を集めるために集中し、女の情報が見つからなければ不要な情報として捨てるというような感じでした(笑)
525
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/15(水) 17:46:11 ID:GXTFMGi.0
>>519
でも「仮の自我」って意図的に作ろうとしないと作れないんですよね、いざ自分が仮の自我を
作るか作らないかの分岐点に立った場合ちゃんと作れるかわかりません、作る方法もさっぱり
わかりませんし、具体的にどうやってそれを作るんですか?詳細な手順を教えてください。
526
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/15(水) 18:37:12 ID:czRftzgI0
和尚さん、私は大悟どころかサマーディも未経験です。HPには自分を観察し尽くして座る理由がなくなった時禅が始まるとあります。ということは私はまだ観察によって執着を取り切れていないということでしょうか。
527
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/15(水) 21:35:25 ID:1d4drIFg0
>>520
こちらこそよろしくなのじゃ。
>>521
そうじゃ、そのまとめでよいのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>522
集中の役には立つじゃろう。
好きなことはどんどんやったらよいのじゃ。
努力は無駄にならないのじゃ。
>>523
悟っていないのじゃ。
サマーディを経験しただけなのじゃ。
普通に自我もあるのじゃ。
みんな自分と言っているのじゃ。
自分が無ければみんな自分も無いのじゃ。
>>524
善かったのじゃ。
それも見性なのじゃ。
自分の性質が見えたのであるからのう。
更に精進あるのみなのじや。
528
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/15(水) 21:46:02 ID:1d4drIFg0
>>525
それも言葉とイメージによる観念なのじゃ。
自分の名前とイメージを使っているならば自然に慣れてくるものじゃ。
特に作り方がある訳ではないのじゃ。む
>>526
執着があるのかもしれん。
ただ単に姿勢が悪いからかもしれん。
座っていられる限界近くまで力を抜くと誰でもサマーディに入れるものじゃ。
そのためには姿勢が正しくなければならんのじゃ。
姿勢が正しくないと力を抜いたら倒れてしまうからのう。
姿勢をよく研究してみるのじゃ。
529
:
523
:2017/03/16(木) 01:38:42 ID:4M/dQBfY0
>>527
お答えありがとうございます。
なるほど
みんな自分という認識は自他同一で自分という認識がないのかと思いましたが、
みんな自分という認識(自分、自我)があるということでしょうか。
そのあたりの認識が滅っせられると、和尚さまの言う全て意識とか、
鈴木大拙や井上ぎえんが無限や宇宙と言ったような表現になるのですかね。
そうなるとクリシュナムルティが悟ったと言われているときの体験の描写、
以下のようなものも、この時点ではまだサマーディで、
悟ったのはこのあと認識を滅したからということになるのでしょうか。
「やがて八月十七日になると、私は首筋に激しい痛みを感じ、瞑想を 十五分に短縮しなければならなくなった。
私の容態はどんどん悪化し、 ついに十九日にそのクライマックスに達した。
私は考えることも、何 をすることもできずにベッドに横になった。
やがて私はほとんど無意 識状態になったが、まわりで起こってることはよくわかった。
私は毎 日正午頃には正気に返った。
最初の日、自分がそんな状態で、いつも より周囲のものがはっきり意識に入ってるときに、私は最初の最も不 思議な体験をした。
道を補修している人がいた。その人は私自身であった。
彼の持ってい る(つるはし※傍点が付されてあります)も私自身であった。
彼が砕 いている石までもが私の一部であった。青い草の葉も私そのものであ った。
私のそばの木も私自身であった。私はほとんどその道路補修工 のように感じたり考えたりできた。
私は木々の間を通り抜ける風を感 じ、草の上にとまった小さな蟻を感じることができた。
鳥や、ほこり、 さらには騒音までもが私の一部であった。ちょうどそのとき、少し離 れたところを車が通っていった。
私はドライバーであり、エンジンであり、そしてタイヤであった。
自動車が私から遠ざかるにつれて、私は自分自身から離れ出た。
私はす べてのなかにあり、というよりはすべてが――無生物も生物も、山も 虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった。」
530
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/16(木) 05:15:30 ID:GXTFMGi.0
525です。
特に作り方がある訳でもない、ですか、、しかし自ら意図しないと作れないんですよね、
どうやって仮の自我ができあがるのかのプロセスをもう少し詳しく教えていただけない
でしょうか?
531
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/16(木) 09:18:15 ID:axbVFonA0
痔です。
瞑想中、尻が痛くて数分毎に姿勢を微調整しなければならず集中が途切れます。
何か良い方法はありますか。
532
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/16(木) 17:21:47 ID:czRftzgI0
触覚による肉体の乖離について色々考えた結果、出た結論は以下の通りです。
背中と考えているものは、背中に服が触れる時に生じる感覚と他人の背中の視覚記憶を元に作り出したイメージである。つまりその実体は記憶と感触であり、経験の対象ないしは客体であって主体ではない。
どうでしょうか?
533
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/16(木) 17:30:30 ID:czRftzgI0
(訂正)
Xその実体は記憶と感触 → Oその実体はイメージの記憶
534
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/16(木) 21:58:15 ID:1d4drIFg0
>>529
そうじゃ、まだ自分という観念が残っているのじゃ。
その投射する所が違うだけなのじゃ。
クリシュナムルティもその時にはまだ悟っていなかったのじゃ。
>>530
例えば自分の名前が呼ばれたらそれを自分が呼ばれたとして返事をするとかなのじゃ。
自分のイメージも度々思い出したりするのじゃ。
そうすれば慣れてきて自分の観念を上手く使えるようになるのじゃ。
>>531
治るまで横になってやってもよいのじゃ。
しりのマッサージをするとかするとよいのじゃ。
温冷浴などもよいのじゃ。
治ってからやわらかい座布団などをして座ると善いのじゃ。
>>532
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践にょって証明するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
535
:
蓮恵
:2017/03/16(木) 22:16:05 ID:P0oV4erc0
和尚さま
悟りを開くとはつまるところ、無我と無常の法をズバッ(笑)と体験し、無我無常を完全に理解することと言えるのではないのでしょうか
そのために止観で認識を破壊するという感じでしょうか
536
:
523 529
:2017/03/16(木) 23:00:03 ID:4M/dQBfY0
>>534
お答えありがとうございます。
納得できる部分もあり聞いてよかったです。
あとは知識としてではなく体得できるようにお答えを参考に地道に精進したいと思います。
ありがとうございました。
537
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/17(金) 10:09:08 ID:GXTFMGi.0
530です。なんだか仮の自我を作ることはお聞きする限り結構簡単そうですね、
私はもっと複雑で難しいプロセスを必要とするのかと思っていましたが、
本当にそんな簡単なものなんですか?
538
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/17(金) 18:40:48 ID:czRftzgI0
>>532
実践します。ありがとうございました
539
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/17(金) 22:40:48 ID:1d4drIFg0
>>535
無常は別に要らないのじゃ。
それは世間を捨てるための法であるからのう。
無我になり、無認識に至れば大悟徹底なのじゃ。
止観もそのための法なのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>536
どういたしまして、またおいでなさい。
>>537
そうじゃ、観念を持つだけであるから簡単なのじゃ。
ものごとに名前とイメージをもてばそれが観念であるからのう。
無意味とわかっていても観念をもつことはできるのじゃ。
>>538
そうじや、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
540
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/18(土) 02:32:48 ID:GXTFMGi.0
>>537
です。
ということは無我になった瞬間、(無認識になった後じゃないとダメでしょうか?)そのまま
肉体を動かさないで至福のまま死んでいくことを選択しても良いし、あるいは教えを説く目的で
この世界に残る選択をするなら、「よし、自分の名前や自分についてのイメージを思い出そう」みたいな感じで自ら意志して仮の自我を作る
、このような流れで仮の自我は作られるのでしょうか?
541
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/18(土) 03:38:13 ID:ypqmFy8U0
鬼和尚、私を覚えていますか。
以前は、大変な無礼をしてしまって申し訳ありませんでした。
私はどうすれば良いのでしょうか。
私をお導きください。
542
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/18(土) 21:56:55 ID:1d4drIFg0
>>540
無我でも観念はあるからそのまま死なないのじゃ。
無認識になった後に教えを説くならばそうなるじゃろう。
実践によって証明するのじゃ。
>>541
全て忘れたのじゃ。
懺悔告白すれば全て許されるのじゃ。
これからは善事を積むとよいのじゃ。
更に悟りを求めて修業するとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
543
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/19(日) 12:23:31 ID:ypqmFy8U0
>>542
はい、みんなに感謝し懺悔し感涙し、悟りを目指そうと思います。
それまで、菩薩道を歩もうと思います。
544
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/19(日) 21:32:03 ID:1d4drIFg0
>>543
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
545
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/19(日) 22:23:04 ID:GXTFMGi.0
>>540
です。
でも、無我のままでは生活できないって以前鬼和尚が書いてらっしゃったのを
見たと思います。(もし書かれてないのであれば申し訳ありません。)
生活ができないほどになるのであれば、そのまま死ぬことも不思議ではないと思いますが?
例え、観念が残っていたとしても。
546
:
545
:2017/03/19(日) 22:27:21 ID:GXTFMGi.0
訂正です
× 生活ができないほどになるのであれば
〇 生活ができないほどに何もできない状態になるのであれば
です、よろしくお願いします。
547
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/20(月) 10:27:42 ID:tHj0j65Y0
わざと顔を火傷した美女
http://www.epochtimes.jp/2016/01/25103.html
548
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/20(月) 21:46:16 ID:1d4drIFg0
>>545
無我になればむしろものごとはうまくやれるようになるのじゃ。
自我の邪魔がないからのう。
実践によって確めるのじゃ。
549
:
としぼっくり
:2017/03/20(月) 22:15:18 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
3年で悟りを得ようと思えば、1日にどれくらいの時間、瞑想した方がよろしいでしょうか?
550
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/03/21(火) 20:36:14 ID:1d4drIFg0
>>549
それは人によって違うじゃろう。
意欲や才能も違うからのう。
お釈迦様は七日間座り続けて悟ったのじゃ。
悟りを得るためならば命も要らないという熱意で座れば七日で十分なのじゃ。
自らの熱意によって決めるのじゃ。
551
:
としぼっくり
:2017/03/21(火) 20:57:16 ID:DAY232aw0
ありがとうございます。
自分の熱意で決めようと思います。
552
:
避難民のマジレスさん
:2017/03/22(水) 09:37:20 ID:8VTqO4V.0
鬼和尚、自由意思について質問です。
ここで質問するような内容ではないとは思いますがご容赦下さい。
私は以前、自分には自由意思はないという気づきを得ました。
自由意思は無い、と言うと決定論が思い出されます。
お釈迦様は決定論を否定されたとのことですが、私はこの仏陀の否定に頭を悩ませました。
しかし最近、「自由意思はあると言えばある」という考えになってきています。
現象が起こる根本的な仕組みやルールはどうしようもないですが、「認識」によって様々な現象をコントロールできるのではないかと考えています。
ゲームのルールは変えられませんが、その縛りの中で自由に活動することはできる。
その仕組みを知り、あえてその中で生きるのが悟った方なのかなと思いますが、鬼和尚は自由意思についてどのようなお考えでしょうか。
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