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神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

257AH1:2008/01/31(木) 13:58:53 ID:fKqeZx4M
ガキの時に肥後守や切り出しで木を削る愉しみを覚えて以来,常に「鉛筆削り用に必要」と言い張って肥後守を持ち続けたのですが,教師も親も禁止しないでいてくれた事は幸せだったのだと思います.
とはいえ,田舎だから通ったのも事実.大都市に出て来たらいきなり職質され,ポケットナイフを没収されました(泣)
その辺りで刃物をちらつかせた事件が多発したため,警戒中だったらしい.私なんぞは格好のカモだったんでしょう.

258AH1:2008/01/31(木) 14:13:13 ID:fKqeZx4M
>テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。

より明確には「同じ土俵に上がらない相手」ということで,テーブルについたのに科学や論理学といった共通のコトバを持たない相手・・という事なんですけどね.例えば私とNANさん,ちょちょんまげさん,狡獪と懺悔さんは,意見は異なってもコトバは通じているし,「個人の意志や自由を尊重しよう」という立場も恐らく共通でしょう.
私が議論しようとしても,全く異なる立場,すなわち「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である」「神を知らぬ輩と話などしても得られるものはない」という立場の相手に対しては無力でしょう.しかし,今のところ

>もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。

と考えるしかなさそうです.少なくとも「個人の意志や自由を尊重しよう」と言ってしまった以上,明らかに他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である,と考える自由」も尊重せざるを得ないでしょう.言ってみれば,正義の味方を標榜した以上は卑怯な手は使ってはいけない,というようなジレンマですかね(笑) 
(他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,ってのも一種のコンセンサスにしか過ぎないんだろうけど)

259ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:16:29 ID:vUxNW.gI
下のブログの記事皆さんどう思われますか。ここで話していることとちょっと関連ありそうなんで。
NATROMさんのブログ1月11日付け「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」1月11日付けエントリへのトラックバックなんですけど。
ttp://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
ちょっと抜粋すると:

ここから引用:

そして疑似科学批判は、彼らにとって、
・よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・さらには自分のモノサシ(価値判断基準)まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

引用ここまで

私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。

260ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:32:29 ID:vUxNW.gI
すみません。ちょっと付け足し。

>私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。
そして、それ以上の配慮は基本的に必要ないと思いたがるほうなのです。

261AH1:2008/01/31(木) 14:42:47 ID:fKqeZx4M
疑似科学であるかどうか以前に,
「これは科学である」と称してやって来たものが全然科学でなければ
「おめー,それ科学になってねーじゃん」と批判されましょうし,当然しても良いでしょう.
また,「これは科学であるからして,**であることは科学的に証明されているのだ」と言い出せば
「んなことあるかよ,科学ならちゃんとこういう疑問に答えろやゴルァ」
と言われて当然かと思いますが.

262ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 03:42:24 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?
おぢさんはそこで混乱してまふ。

263diamonds8888x:2008/02/01(金) 06:02:48 ID:4jx.OKmA
259<< そのブログ記事はとっても正確な認識をしてますね。ではどうしたらビリーバーさんの「心に届く」のかという処方箋は、当の執筆者氏も提起していませんし、私にも絶望的に思えます。と、今はこれしか思いつきません。

264NAN:2008/02/01(金) 08:16:56 ID:???
>>262
>批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

二つの点に於いて批判されるべきです。
1:「水伝」という科学を装った疑似科学理論に対する検証という批判
2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

1については「間違いじゃないか!」という指摘、2については「けしからん!」という指摘ですね。

265ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 09:53:51 ID:EBvpLwTs
>NANさん

>2:根拠の脆弱性や理論の矛盾を受け容れずに主張を続ける「行為」への批判

これが「水伝」のもともとの提唱者に向けられるのは良くわかるのですが、提唱者でなく提唱者にだまされているあるいは信じたがってる人達には?

266e10go:2008/02/01(金) 12:20:57 ID:5/V6R9W6
>>264
もう一つ付け加えるなら、

3:道徳教育に「水伝」という科学的実験結果を用いる事の批判

3は「人間の心のあり方に科学を持ち込むな!」でしょうね。
ttp://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/mizuden_doutoku2.html

>>262
上の理由から、「水伝」も、それを肯定的に使う人も非難するべきでしょうね。

267NAN:2008/02/01(金) 13:47:39 ID:???
>>265
そもそもそれが科学でもなんでもなく、表現行為や信仰・信条(心情?)の一種であることを明確に主張できる相手であるのなら、「勝手にすれば?」で私は放置します。しかしそれが、客観的事実に基づく科学である、と主張するのであれば、提唱者であろうがビリーバーであろうが、科学のルールに則った批判に晒されるのは当然です。

ところで実際、ネットの議論であれば簡単に割り切れる話であっても、現実の知人や友人がこういうことを云いだして困ってしまうケースは多々あるでしょう。私自身も経験があります。

その際、これも先に書いたことですが、批判する、あるいは、批判される、というのは「それが科学である」のであれば当然のことであり、どんな理論も常に検証を繰り返し、批判に晒され続けていること、そこで間違いが判明したり理論を却下せざるを得ないことになったとしても、それが倫理的な「善悪」とは無関係であることなどを、相手に伝える段階がかなり難しいものです。

そして次の段階として、間違いであったり再検証不可能であったり、客観的事実とは云いがたい証拠の提出に基づく主張であることが明確になったのであれば、それを受け容れ、修正なり却下なりを「意地でもしない」ことは倫理的に問題であることを説明することになるのでしょう。大半の場合、これら2ステップを完了する前に会話は険悪になり(苦笑)、人間関係としてこじれます。はい、何度も何度もそれでこじれましたとも!(大笑。

だからといって私は曲げませんけどね。

268AH1:2008/02/01(金) 14:27:56 ID:fKqeZx4M
>「ゴルァ」ですよね。そんで、「科学になってねーものが」が「科学の方法で批判されて当然」だという点でAH1さんと私は合意だと思うんですけど、例えば「水伝」大好きな人が「水伝ってとてもいいお話だから学校で教材にしてもいいし、科学を持ち出すなんてペケよ」っという理由でテーブルにつくのを拒否したら、批判されるべきは「水伝」なんでせうか、その人なんでせうか?

みなさまのお答えで全て言い尽くされてると思いますが,私からも重ねて.
多分,このような話の流れになると思います.
1 水伝が事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは事実かどうか疑わしいよ?
2 だって水伝は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう怪しい話を鵜のみにして事実であるかのように子供に教えるのはやっぱり問題があるな.道徳を教えるなら他にもっと適当な話を使うべきだ.

マジで信じてる人と話をしているなら,まず1の部分で言い争いになり(向こうは喧嘩売られたと思うだろう),2で決裂ですな.多分.
私が批判するのは,ド阿呆な話を科学であるかのように騙った水伝と,コロっとだまされた「大好きな人」の両方です.「大好きさん」については騙されること自体は本人の勝手ですが,学校の教材云々という所で他人への責任を持っています.また,「水伝は科学的に正しい」という部分に何らかの信頼を置いたのだとしたら,「その理解は科学として間違っている」と情報を正す意味もあります.

269ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:21:28 ID:vUxNW.gI
皆様、物分かりの悪いおやぢに辛抱強くお付き合いくださってありがとです。
それで、もうひとつだけお付き合いくださいませんか。

この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

270ちょちょんまげ:2008/02/01(金) 16:24:07 ID:vUxNW.gI
diamonds8888xさん。

ご感想ありがとうございました。
やっぱり「絶望的」なんでしょうか。う〜む。

271AH1:2008/02/01(金) 16:48:12 ID:fKqeZx4M
水伝を「ペケ教」にしてみます.なお,水伝は最初から科学を謳っていましたが,今回は明確にするため「科学的に」などの補足を「」して若干入れています

1 ペケ教が「科学的にも」事実だと思って感動しているのなら,悪いけど,あれは「科学的な」事実かどうか疑わしいよ?
2 だってペケ教は科学的におかしい部分が有り過ぎるもの.きちんと検証しない限り,あれを科学と称するのは間違い.そういった検証は提唱してる人たちがちゃんとやるべき事なのに,やってないじゃない.
3 だから,そういう「科学的には」怪しい話を「科学的に正しいから素晴らしいのだと」鵜のみにして「科学的にも事実であるかのように人に教えたり,「まして科学として教える」のは問題があるな.宗教ってそんな物じゃないんじゃないの?

となりましょうか.

272NAN:2008/02/01(金) 22:39:19 ID:???
>>269
この議論で、「水伝」と「宗教(まぁ取り合えず自然科学の常識に反する内容を含んでるとしてつかぁさい)」を入れ替えると?

あの〜、自然科学の常識に反する内容を経典に含んでいるからと云って、すぐさまそれが疑似科学に繋がるとは思いませんけど?
なにかやはりとても失礼な疑義に感じてしまうんだよね。(無論、文脈から云って宗教的疑似科学のことを指しているのだろう、ということは参加者である私には察しがつくけれど)

ベースにあるものが宗教であろうとなんであろうと、科学を装い、証拠や実証を捏造したり、ただの迷信に過ぎないのにそれが事実だという強弁を振るうような行為が批判の対象とならないわけがありません。終末予言や末世〜来世信仰も然り。不可知であるはずの事象を可知であると断言してはばからず、なおかつ他者の危機感を煽るような扇動を批判することは積極的に行うべきでしょう。

ところで、そういう迷信に騙され、転びやすいヒトの体質が「日進月歩の科学技術」の中に生きる現代人の中でも、改善されるどころかさっぱり変化がないように見える原因はなんだろうね?それもまさか宗教のせい?そりゃぁ違うよね。もっと日常的で(この日本に於いてでさえ)誰でも触れていてほとんど空気のように存在感はないけれど確かにある「なにか」について、大半のヒトが考えようとしないからじゃないかな。

273:2008/02/02(土) 09:46:18 ID:QpQGFxc6
>テーブルにつかない相手………、

「テーブルにつかない相手」を「相手」にするのは、実際なかなか難しいでしょう。
ドーキンスも「神は妄想か」の中で、「宗教的な読者が、本を閉じるときには無神論者になっているだろう」と言う予想を「なんと言うあつかましくもずうずうしい楽天主義か!」と自嘲?しています(16ページ)。
非科学的ビリーバーやその「教祖様」には、時に「おたっしゃでー」と言うしかないと私も思います。

問題は結局、国民(…と言うか、特に国境を考えなくてもいいのですが)の科学的意識の問題になるんじゃないかと、私は思うんですよね。
ビリーバーをテーブルに付かせて、仮に批判し説得できたとしても、或いは犯罪になって取り締まっても、もぐら叩きみたいに次から次ですからね。
水伝に限らず、霊感商法、集団結婚、オウム、近いところではスピリチュアル等など。或いは振り込め詐欺も。
結局国民の問題意識、批判意識、要するに考える力を高めることが、疑似科学や霊感商法などの存在基盤を塞ぐことになると思う次第です。遠回りのようだけれどもこれしかないと言うか。

その点で、細木数子だの江原啓之だの、提灯持ちをしているマスコミは特に罪が深いと思う訳です。
そして、その批判を躊躇させたり傍観させたり、或いはマスコミ側が自分の破廉恥な行為を正当化する要因として、NOMA的な不可知論が少なからず「貢献」しているのではないか、と、No-218で述べたのですが。

「重複しない」と言う形で、科学とそれ以外の「教導権」を、明確に線引きしてしまえば、それ以上は考えてもムダ、考える必要なしということになりかねません。
ダーウィンは『種の起源』の中で、自分に未だ分かっていないこと、説明が付かないことを、隠さず誠実に列挙しています。「不可知」でなく「未知」として。
未知は科学の進歩によって既知に置き換わって行きます。ダーウィンのかっての未知は今、相当の部分が既知になっています。

しかし一旦不可知としてしまうと、そこから先の探求の道を塞ぎかねません。これは不可知論一般の弊害として言われていることです。不可知とは「知ることは出来ない」と言うことですから。
「何ごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」の世界と紙一重になってしまう訳です。
不可知論は普通、科学的知識に迫られての、非科学陣営の恐れとして表明されることが多いものです。よりによってグールドがNOMAなどと言う不可知論を主張することに、同じ進化生物学陣営のドーキンスは我慢がならなかったのでしょう。

横道にそれちゃいましたが、考える力を養うと言う点で特に日本では、科学の「基礎と連関」を大事にしない教育も問題有りと思っています。
おかげで日本人はどんどん「理科離れ」をし、考える力も低下しているそうですから。

うがった言い方をすれば、国民があまり考えないほうが政治はやりやすい。
昔「3S」などと言われたことが有って、スポーツ、セックス、スクリーンに国民の目を向けさせておけば、政治は安泰と言うことでした(勿論その一つひとつのSに何の罪も無い訳ですが)。
今、その3つは何なんでしょうね。

疑似科学や「霊能者」であっても、行政的な権力で規制することには問題が有るでしょう。
しかし理性レベルでの科学的な批判は必要です。少なくとも科学に携わっている方々は、No-260のちょちょんまげさんの言われるように、疑似科学への批判に二の足を踏まないで頂きたいものだと思います。

274ちょちょんまげ:2008/02/03(日) 07:36:15 ID:vUxNW.gI
「水伝」のタイプ 提唱者への    「水伝」そのものへの  ビリーバータイプ1    ビリーバータイプ2 「道徳」に採用した学校
   ↓         科学からの批判   科学からの批判                            関係者への批判
                 ↓        ↓            ↓           ↓          ↓             

タイプ1:「科学」を標榜 「ゴルァ」    「ゴルァ」      提唱者の言い分通り    よいお話だからと    「ゴルァ」
                                   「科学」を主張     飛びつく。科学か
                                        ↓      どうかなぞど〜でも
                                   科学からの批判    よい。なんも考えてまへん。
                                     「ゴルァ」          ↓  
                                                  科学からの批判  
                                                   「ゴルァ」    
タイプ2:「科学」であるとは   「ゴルァ」?   「ゴルァ」?   提唱者の言い分通り                「ゴルァ」
     主張しないが、                       科学だとはいわないが
     そういうことがある                     そういうことが無いとは      上と同じ
     と主張。現在のタイプ                    科学では断定できない     違う前提は提唱者
     がこれに近いか。                       と主張。           が科学だとははっきり
                                        ↓          言っていないこと。
                                      科学からの批判            ↓
                                       「ゴルァ」?         科学からの批判
                                                      「ゴルァ」?


タイプ3:上のタイプが       「信仰」だから 「信仰」だから  「信仰」であると主張    上と同じ        こういう宗教
     「水伝教」なる      「放置プレイ」 「放置プレイ」    ↓           違う前提は提唱者が   もあるという
     宗教だと言い出した。                      「信仰」だから     信仰」だと言ってること。紹介の仕方なら
     結晶の現象は奇跡である。                   「放置プレイ」          ↓       「放置プレイ」
     非信仰者が実験すると                                 「信仰」だから「放置プレイ」 
     結果はランダムになると
     主張。



お願いだから投稿した時にずれないでおくんなまし。
まとめると上記のような感じになるのでしょうか。「?」の部分はご意見をうかがいたいです。
ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

275NAN:2008/02/03(日) 09:46:45 ID:???
>>274
私の主張とはちょいと違うかな。
『科学とは云わないが、そういうことがないとは科学では断定できないと主張』という文節は、とても曖昧で焦点をぼかしているように見えなくもないですが、科学ではないのであればなんなのだ?科学では断定できないのであれば、なにが断定するのだ?という疑問を生むことになります。つまり主張に欠陥があります。

明確に、それが「願望」であり、一種の信仰であると主張するのであれば「そりゃまた変わったお願いなんですね」で私は放置するでしょう。しかし「今現在の科学水準および技術では証明されていないが、将来的にそうした客観的事実が見つかるかも知れないじゃないか」という主張は、まさに科学的な問いかけですので、科学議論の議題になります。

「いただきます」と手を合わせたり、「ありがとう」と声を掛けることで気分が良くなるでしょ!みたいなのを科学的に批判するのはナンセンスですよね。でも、いただきます、と声を掛けると、米や味噌の「物質としての変質」が起こるかも知れないというのは、いくらでも批判することができますね。

276diamonds8888x:2008/02/04(月) 06:01:29 ID:jcR/Lf4.
 恥ずかしながらNOMAというのが何かわかりませんで、グーグルで検索しましたら、まじめな宗教団体とまじめな経営学団体なぞがヒットしまして・・・。
 ようやく正解にたどりつきました(~_~)

ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071129

この人もドーキンス本の書評を書いていますね。
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061201
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061215
ttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/archive?word=Delusion

277NAN:2008/02/04(月) 09:33:54 ID:???
>>276で紹介された書評を順に読んでみたのですが、とても丁寧かつ冷静に(ご自身が宗教&哲学リテラシーに乏しいことを告白しながら)読解を原書から書かれており、秀逸だな、と感じました。

さて、事前にわかっていたことですが、問題は「宗教」ではなく「キリスト教と、その鏡となってしまったイスラム」のようです。私はさらに、経済的繁栄度とキリスト教信者との相関や、石油利権に絡んだ中東対英米の構図の中で、二大宗教の間に何が起きたのか?(これはまさに中東危機というかテロリズムというか、そういう暴力と悲劇の根源ではないか?と思うのだけど)みたいなことに興味が沸きます。また、宗教議論の一般化には強い懸念を(さらに)深めましたが、米国のバカっぷり、バカをバカと批判できないどうしようもなさについては、「もう本当にああいうバカな国を相手にするの、やめれば?」と思う次第です。(てかそれもバカな一般化なんだけどね)

「なぜキリスト教なんだ?」それは、利権だからだ、との考えも(私の中で)さらに強まります。
それはつまり支配(あるいは侵略)構造であり、なにかに忠誠してくれた方が統制し易いという単純な理由なのだろう。

278diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:36:50 ID:jcR/Lf4.
雄さん218の以下を読んで思いついてしまいました。

> 「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、
>浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、
>教義と信者の頭の中にしか存在しません。

 多くの宗教にとってみたら、科学なんぞとの折り合いよりも、経済や政治との折り合いの方が深刻で実際的な難問であることが多かったのではないでしょうか?

277でNANさんの書いている宗教の混迷も、誠治との折り合いの問題という気がしますね。さりながら、古来より宗教と政治とは分かちがたく結びついていたことも事実です。

279diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:41:54 ID:jcR/Lf4.
 地下に眠るMさんの233,237の質問を考えて見ましたが、「愛」「妖精」とはどんなものをイメージしているのかが結構多様な可能性がありますので、どのイメージを想定するかで違ってきそうですね。質問1に対する私の回答と共に示します。

 a)愛というなにかしら物体的実在物 −>No
 b)人が何かを愛するという現象 −>Yes
 c)人が何かを愛するという心 −>Yes
 d)愛というなにかしら形而上学的もの −>No

 dはそもそも形而上学的なものとは自然科学的な意味では存在しないものでしょうから、いうまでもないかも知れません。
 b,cなら、人でなくても動物の一部にも存在しますし、その進化論的起源を考察することも可能です。おっと、「心というなにかしら物体的実在物」の実在をYesとは言いませんよ。
 aは、現在の科学の知見からはトンデモに近いのですが、本当はdだけどイメージとしてa、ということもあるのかも知れませんね。そのへんはよくわかりません。

 で、aは一般論としては自然科学における仮説となりえます。有名なのは燃焼におけるフロギストン説(燃素説)です。燃焼という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、燃素という物質的実在物の存在を提唱したのです。
 人が愛を抱くのは、アモールの金の矢がハートに刺さっているからだ、という仮説は、愛という自然科学的な意味で実在する現象を説明するのに、なにかしら物体的実在物を仮定していることになりますね。(キューピッドの方がポピュラーだけど、アモールの方が「愛っ!!」という印象が強いから)
 生命という現象を説明するために生気や生命力を仮定するとか、意識という現象を説明するのに、なにかしら物質的実在物としての魂や脳の中の小人を仮定するとかも、似たような仮説ですね。いずれも反証可能であり、科学の遡上に載せられる仮説といってよいでしょう。
 物体が互いに引き合うという現象に重力場という実在物を仮定するのも、これと似ているかも知れません。

 さて「妖精」の場合は、はじめから、なにかしら物体的実在物イメージであるといって良いと思います。とすると、この場合にありうる意味は、私の想像力の範囲では次のようなものが考えられます。再び、これらが自然科学的な意味で存在すると思うかどうかについての、私の答えと共に示します。
 a)通常の物体と同じく、客観的な実在物 −>No、ただし妖精の定義による
 b)特定の人間にしか感知できない実在物 −>No、ただし感知の定義による
 c)妖精を見たと主張する人が存在するという事実 −>Yes

 aの場合、妖精がどんなものかを描写してもらえれば、それが客観的な実在物として存在するかどうかは自然科学の土俵に乗ります。それは、雪男やネッシーやツチノコと同じことです。調査の結果、実は新種の生物だったと判明するかも知れません。

 bの場合、感知というのが通常の五感という意味であれば、「特定の人間だけが妖精を感知するという現象」は自然科学の土俵に乗ります。それは「同じ状況で特定の人間だけが痛みを感じるという現象」とか「ある周波数の音を聞かせたら、特定の人間だけが反応したという現象」などと同じです。ただ、その人が意識的、無意識的に嘘をついている可能性も考慮しなくてはいけないのがつらいのですが。
 もっと広義に、ともかく特定の人間には妖精の存在がありありと感知できる(でもそれは結局、その人が五感で検知したと感じた、ということになりますよね)ということであっても、嘘でない限りは自然科学の土俵に乗ります。これはもうcの場合に近いかな。
 いや社会科学や民族学の領域だという話も出るかも知れませんが、私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

280diamonds8888x:2008/02/05(火) 05:58:27 ID:jcR/Lf4.
 「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・。

 雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか?

281地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:41:28 ID:MxpO/apg
あいかわらずだらだらと遅れてすまにゃーこってす(ぺこり

>カクレクマノミ

>>222

>>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

>同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

にゃっはっはっは(ぽりぽり
僕は精神年齢が低いので、一応、言い返しておくにゃ。
例えば「水からの伝言」を批判するのにあたって、当該著書を丁寧に読まなければ適切な批判ができにゃーと考える必要があるとは思えにゃーんだけど、どう? あれ、どうみたって明らかに馬鹿本だもんにゃ。「神は妄想である」は「水からの伝言」とたいしてレベルの違わにゃー本なので、僕の言動にそう問題があるとは思えにゃーのだが。実際に読んでみたら、思っていたよりもヒデエものでしたにゃ。
ま、ヒデエ本というものはたいてい「思っていたよりヒデエ」ものにゃんがな。


>>249

>>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

>この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
>どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

「流通」というところにポイントがありますにゃ。

>以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?

自然科学;動物行動学、動物心理学、行動主義心理学
人文・社会科学;経済学、行動経済学
学際分野;進化心理学、心理学
基礎論;認知科学

基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考えを採用しますにゃ。
ニンゲンの行動というものは、自然科学的に見ても実在する現象であり、社会的に実在(流通)する現象であり、内的な心的現実としても実在するので、それぞれの学問によるアプローチがありえるということにゃんね。

282地下に眠るM:2008/02/05(火) 06:42:18 ID:MxpO/apg
さて、ドーキンスがフロシキを広げすぎていることはカクレクマノミにもご同意いただけたようですにゃ。
いわば「不誠実なフロシキの広げ方」が「神は妄想である」の一番の問題点なんだけど、そこをつつき始めてみますかにゃ。

まずドーキンスは神というものは事実とされているのだから自然科学的な仮説だといっているけど、この前提が白痴的。この前提で「超越的」なものを否定できると思っているとしたら本当にアタマがワリイ。
もちろん、聖書は自然科学的な意味で事実だと思っているメリケンの馬鹿クリに対しては有効な論点であることは間違いありませんけどにゃ。例えば、あるアボリジニは自分たちの部族の伝誦する創世神話について「そのまんま事実だなんて思ってない」と発言しているにゃ(出典忘れた)。聖アウグスティヌスも聖書の逐語解釈を問答無用でダメだししているし、古代ギリシアの賢人がエジプト神話について逐語解釈はアホの所業だといっている記述もあったっけ。もちろん、江戸時代の国学者に日本の創世神話が事実そのものであったかと聞いたら「はあ? 君はアホかね?」という返答となることは受けあってもいいにゃ。

自然科学的仮説としての神、なんてものを主張する馬鹿クリは歴史的に見ても地理的に見ても、アホ中のアホなのだにゃ。アボリジニやインディオなどに比べるのも申し訳にゃーほど知能程度が低いウルトラ馬鹿軍団。
無論、何度も何度も書いているけれど、そのようなアホが政治的に幅を利かせている事実は困ったものだにゃ。アホに対する対抗言説は必要にゃんな。
しかしさ、アホへの対抗言説を一般化するってのはどうなんだろね? この一般化の過程において、ドーキンスはずいぶんと不誠実なことをしているにゃ。

例えばユングへの言及にゃんな。日本版79〜80P。
ユングは「私は神の存在を知っている」と述べたことは事実。しかし、その神は自然科学的な仮説としての神などでは断じてにゃー。ユングの知っている神は、いわば心的現実としての神だにゃ。
自然科学的仮説としての神、などという白痴対抗フィールドを設定し、そのフィールドに心的現実としての神を想定した論者(ユング)をひっぱりあげた揚げ句に「ユングのように、信じるべき適切な理由がなくとも信念を持ち続けることができるのが信仰の本質である(ユングは本棚の中の本が突然大きな音を立てて爆発することがある、と信じていた)。」などと書く卑劣。(ついでにいうと、ユングはシンクロニシティの具体例としてナイフの爆発的破断をあげているけれど、これはユング自身が体験したものであり「信じて」いたものではにゃー。この記述は捏造の疑いが濃い)

つまり、ドーキンスは神概念を恣意的に使い分けて他者を批判するという真似をしているにゃ。

神概念の恣意的使い分けの他の例として、「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由」なんかも看板に偽りありだよにゃ。
確かに、自然淘汰によって複雑な生物が進化しえたということの証明にはなっているけれど、この論法で否定できるのは聖書逐語解釈による神概念だけだろ? 少なくとも理神論の神には傷一つつけることはできにゃーはず。進化を否定してにゃー教義に対してはまったく無意味だしにゃ。「創造論者の言う神がほとんど存在しない理由」とするならわかるんだけどにゃ。
ところがドーキンスは理神論的な噛みも否定すると以前の章ではっきりといっているにゃ。超越的存在を想定するすべての考え方を否定すると。
この理屈で超越的存在一般が否定されるなんて考えは、ほぼ創造論者並に白痴的な考えだにゃ。

宗教全般、超越的存在を想定した考え全般を否定すると威勢のいいことをいいながら、中身としてはアホへの対抗言説という特殊なものをもって恣意的で卑劣な一般化を行う白痴本、というのが「神は妄想である」への適切な評ではにゃーだろうか。

さて、次回はさらに卑劣で白痴的な一般化について踏み込んでみますにゃ。

283ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 11:23:38 ID:vUxNW.gI
>猫さん

一つ質問があるのですが、「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

284AH1:2008/02/05(火) 12:15:09 ID:fKqeZx4M
>>274

>ビリーバータイプ2の人は、本人は全く変化ないのに「ゴルァ」って言われたり、放置されたりするのでしょうかね?
私は全部に「ゴルァ」っていいたくなります。

一つは本人がどの程度関わっているかという点じゃないでしょうか.主犯か従犯か,みたいな(いや,言葉が非常に悪いのは承知しています).その関わり方において「同じにゃ扱えないなあ」と思うか,「ンなもん,同罪同罪」と思うか,その辺の判断というか酌量の違いでは.

もう一つは「科学ではわからないが」という「仮説の確かさに対する理解および誠実さ」じゃないでしょうか.科学をちゃんとわかって,でも「そういうこともあるのかもしれないねえ」と考えるか,「そういうことってあるんだ」が先にたって「科学?・・・(ちょっと困ってる)・・・科学って完全じゃないでしょう?」と来るか.
ちょちょんまげさんが想定しておられる(というか,実際に遭遇されたのかな)タイプ2ビリーバーさんはほとんど後者なんでしょうけれど・・

285ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 12:26:46 ID:vUxNW.gI
>AH1さん

「後者」ですよね、ほとんど。うちのツレアイとか(笑)私がうるさいんで少々変わってきましたけど。
それで、「水伝教」はやっぱり放置が正解だと思われますか?

286AH1:2008/02/05(火) 13:19:50 ID:fKqeZx4M
「現在の科学としては考えられない」というのが一点ですね.
もちろん科学の進歩とは「あり得ないはずのことの発見」に他ならないので,「現在の科学では考えられないことの存在」を否定はしません.
しかしながら,「科学者は自分の見たものですら疑う」という鉄則があります.科学の誠実さはそこにあるわけです.
だからこそ,何かの間違いや偶然ではない事を確認するために条件を整え,あれこれ実験をし,統計計算をやり,ディスカッションし,論文を投稿すれば査読があり,それでやっと「単なる妄想ではない仮説として認めてもらえる」レベルなわけです.その後でさらに追試され,整合性や再現性が確かめられて「なるほど正しいようだ」と認めてもらえる.
その誠実さや厳しさを,「水伝」には感じることができない.私はそのようなものを科学と呼ぶことを拒否します.
水伝を「科学的な意味で『実際に観察された事』だと思って」信を置いている人がいれば,上のように言います.

287ちょちょんまげ:2008/02/05(火) 13:34:51 ID:vUxNW.gI

>AH1さん
ん?「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。
こういう場合は信仰だから放置が正解なのかな、と。
私は批判したくなっちゃうのですが。

288NAN:2008/02/05(火) 13:57:43 ID:???
>>287
それは批判なのか、干渉なのか?がポイントだろうねぇ。
つまり、わざわざ相手のテリトリーに乗り込んで否定的言説を述べたりしないけれど、布教に来たとか友人や知人から相談を受けたなんて場合は徹底的に批判する、という感じかな。あと、表現活動の一環として自分のサイトとか作文の中で、水伝教を批判するってのはやるかも知れないなぁ。

289AH1:2008/02/05(火) 15:11:19 ID:fKqeZx4M
>「水伝」が「水伝教なる宗教」を名乗りだした場合はどうかな、ということなのですが?
>その場合、「美しい言葉に反応して水の結晶も美しくなる」は奇跡であり、非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまうと。

ああ、なるほど。そうですねえ、私なら放置ですね。信じこんで「素晴らしい!」と言い出す友人でもいれば、「ありゃ科学っぽく見せてるだけにすぎないし、『美しい』の定義からしてサギみたいなもんだが、それでもいいか?」くらいは言うでしょう。科学だとか客観性・再現性のある事だとか言い出したらぶっ叩くと思います。

「非信仰者が実験するとランダムな結果になってしまう」は「客観的な検証ができない事象」として扱うべきかと思います。観測者効果みたいなものではないかと。(例えば『霊は見える人にしか見えない』なんてのもこれに近いし、本当にそうである可能性をどうしても否定はできない)
それがわかってて利用してるなら、実に狡猾ではあります。

290地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:24:49 ID:cizMQ0FI
>>233 >>237の僕のへたくそなクイズにお答えくださった方々にお礼申し上げますにゃ。

diamonds8888xの緻密な答えは面白かったにゃ。
>私の中では、世の中の存在に関して客観的に知ろうとするという点においては、社会科学も経済学も自然科学もあまり区別する気になれないのです。

学際的な分野は確かにいくらでもあるけど、典型的な人文科学とか社会科学もやっぱりあるのではにゃーかと。人間社会に現実に存在する「価値」についての研究なんて自然科学には向かにゃーだろし。


僕がいいたかったのは、ある妄想の対象が自然科学的な意味で存在していると信じていようが信じていなかろうが、そのことと社会・人文系研究の学問的価値は基本的には分離しているということですにゃ。

例えば
>>237、3)C)の「ある特定の妄想」の持ち主として「イヴァン・カラマーゾフが実在の人物であると信じてしまっているけど、それ以外はいたってまともなドストエフスキー研究者」なんかを想定していただけますかにゃ。ある小説の主人公が実在していると信じちゃっているからといって、その研究者のしていることがダメになるということはにゃーわけだ。むしろ、面白いものを書いてくれることが期待できそうにゃんね、この設定なら。

もともとはドーキンスが「妖精学」と同様に「神学」が学問として成り立たないとかいうアタマのワリイ難癖をつけてきたことをとりあげただけですけどにゃ。イヴァン・カラマーゾフの実在を信じるドストエフスキー研究者のしていることを学問とみなすことのできる常識的な判断力の持ち主ならば、神学に対するドーキンスの難癖が意味のにゃーものであることはわかるだろにゃ。
まあ、ある特定の信念や世界観(ここでは自然科学的な意味で存在しているかどうかという判断)が、自然科学以外の分野における学問の判断基準となるというドーキンス先生の科学主義は唾棄唾棄唾棄で却下にゃんな。

291地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:23 ID:cizMQ0FI
ついでに
>>225 >雄

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>>特に 雄 の病状がヒデエ。

>骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。

>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。


>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー


そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。
僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど、例えばウィキペディアの「物自体」の記述を読んで「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」と思うヒトはいにゃーと思う。
ちなみに日本大百科の「物自体」の項のまとめ部分を引用すると
>物自体概念は、カント哲学の要石(かなめいし)であると同時に、批判が集中した概念であり、その後のドイツ観念論の発展――フィヒテの自我概念に始まる絶対者概念の成熟――はそのままこの概念に対する批判的発展であったともいえる。

また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。ソーカルもどっかでそんなこと書いていたにゃ。

292地下に眠るM:2008/02/05(火) 16:25:45 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ
>>283

>「メリケンの馬鹿クリ」の「クリ」は「クリスチャン」を指すものと理解いたしますが、「メリケンの馬鹿クリスチャ二ティ」という批判は成り立たないとお考えになりますか?

「すべてのものの90%は屑である」スタージョンの法則
ゆえに、クリスチャンもクリスチャニティも90%は屑。
しかし、ほとんどが屑であるという事実は、すべてが屑であるという推論を正当化できにゃー。

馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。
ドーキンスは党派的思考でガチガチだろね。

実際問題として、まともな宗派とか会派はあるんではにゃーかと思う。
メリケンの場合、反公権力・反国家権力の拠点として教会を中心とした共同体があったという事情も本来はあったのではにゃーかと思ったりもするのですにゃ。政教分離あるいは宗教と法の分離というのは、宗教保護のためという側面がたしかにあるはずなんだけど、そのあたりがマニュアル馬鹿にはわかんにゃーしね。
メリケンの国はいろいろとねじくれていてオモチロイよね。


それと
水伝が宗教を名乗ったらラッキーだろ?
理科教育現場から完全に駆逐できるじゃにゃーか。
教義としては面白みがまったくにゃー3流宗教にゃんな。

293地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:04:28 ID:MxpO/apg
では、ドーキンスの程度の低い詐術をさらに指摘しますにゃ。

第2章 神がいるという仮説 NOMA P95
>この非干渉を貫くNOMA神は、確かにアブラハム神ほど暴力的でなく、がさつでもないが、こういうタイプの神の有無でさえ、公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う。

はあ?
グールドのいうNOMA原理の前提は、宗教は事実の領域に踏み込むべきではない(神は科学的仮説ではない)というものじゃなかったのかにゃ? もちろん、本当に両者を切り分けられるのかという批判があってももっともではあるけれど、ドーキンスはしかるべき手順をふむことなしにいきなり「公明正大に検討すれば依然として一つの科学的な仮説である、と私は思う」とちっとも公明正大でにゃーことをいっているにゃ。

ドーキンスには事実の分野(科学の分野)において神を否定する論理を宗教にそのまま適用する悪しき科学主義の論理を振り回すしかにゃーので、必然的にこういう馬鹿理屈になると考えられますにゃ。ユングを否定した知的詐術と同じ論法だにゃ。
事実の領域における論難を、そのまま価値の領域に適用して宗教を否定するというのが、「神は妄想である」の基本論法だといえるでしょうにゃ。



第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? 信仰における「中庸」がいかにして狂信を育むか より
>穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している P443
>「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義者を差し招いているのである P448

ドーキンスは心底から侮蔑に値すると確信した1節だにゃ。

これまでドーキンスは超越的存在を肯定する思考すべてを否定すると大見えをきり、しかしやってきたことはメリケンの馬鹿クリ対抗言説でしたにゃ。メリケンのクリは馬鹿が多いって? 宗教が不当に優遇されてるって? はいはい、お説ごもっとも。しかしドーキンスから、馬鹿宗教批判から宗教一般を否定するところにつなげるロジックは聞いていなかったにゃ。
で、これだってさ・・・・・・・。なに、これ・・・・・・。

「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」だあ?
てめーはどこの3ない運動だ? どこの行かれPTAのエロ本禁止運動だ? どこの国防婦人会だ?

この理屈が通用するのなら
「開明的・進歩的な科学者集団でさえ、それ自身には軍事にかかわりなくとも、産軍複合体に協力していることになるのだ」
とか
「本人が例え疑似科学批判に注力していようとも、科学にかかわるというだけで科学主義を助長し、疑似科学を生み出しているのである」
とかいったたぐいの
「資本主義」だの「環境破壊」だの、その他諸々の政治的仮想敵をジッパヒトカラゲにまとめて否定する粗雑で粗くて馬鹿で白痴的でアホ相対主義的で最悪の意味で政治的なガキの決めつけ理屈はすべてオッケーにゃんな。

忘れてはならにゃーのだが、進化論裁判において科学者・教育者だけでなく「まともな」宗教者も創造論を理科で教えることに反対したという事実もグールドがNOMA原理を打ち出した理由のひとつにゃんね。で、NOMAを否定するドーキンスの出してきた中二病理屈は、誠実で知的でまともな信仰者、創造論を理科で教えることにはっきり反対した宗教者も「過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」から責任があるんだってよー。現代日本で言うと、馬鹿マスコミに躍らされたお歴々の医者や教師叩きみたいにゃんなあ(げらげら


ではまとめるにゃ
1)自然科学仮説としての神、という人類史的にみても馬鹿理屈への対抗言説がこの本の内容の大半。
2)ところが、自然科学仮説としての神という神概念をもってない者(ユング、グールド)を自分の措定したフィールドで批判しているなどの不当な言説。妖精学への嘲笑もこの関連。
3)自分が批判する対象についての明らかな無知と侮蔑
4)創造論的な神がいなくても進化は成り立つという言明が、直接的にすべての超越的存在を否定することになるという、それこそ超越した論法。
5)「自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している」ので穏健で誠実な宗教も否定するという、3ない運動というか国防婦人会というか、その程度のレベルの言明に支えられた超越的ロジック。

結論;「神は妄想である」は知性も誠実さもみられない白痴的駄本。

「神は妄想である」についてはだいたいこんなところにしておきますにゃ。細かいところをいえばまだまだいくらでもいえるにゃんが。
このあたりについては、ブログつくってそこにまとめるつもりですにゃ。

294地下に眠るM:2008/02/06(水) 00:49:11 ID:MxpO/apg
さて、とっても悪趣味な僕としては、雄クンの>>225
>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
この科学の定義をビール飲みながら考えてみたいにゃ。

雄クンによると、以下の発言を行うことは科学になるにゃんね
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ

うにゃ、雄ダイセンセイの科学の定義は僕なんかには計り知れにゃー深遠なものですにゃ。


そういえば、雄ダイセンセイはドーキンスの「3ない運動 もしくは国防婦人会」的批判と同様のロジックを>>218 >>273あたりでご開陳なされているようですにゃ。

あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、事実言明と価値言明の分離という欧米インテリの言論における作法をベースとしているのではにゃーかな? 対するドーキンスは明らかに事実一元論に近い立場にゃんな。ちゅうか、事実一元論に基づく詐術を行っているし。

295:2008/02/06(水) 07:21:33 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏
楽しく読ませて頂きました。

>>私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。

>空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。

仰っていることが分かりません。私はただ………、
>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。


>そうそう
雄センセイによるカント解説にゃんが、信用しにゃーほうがいいと思うにゃ。カントの物自体概念はいろいろと批判されているのは確かなんだけど、「既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いている」というのは捏造といってよいレベル。もし雄のいうことが正しかったら、カントは現在は省みられることのにゃーどうでもいい哲学者となっているはずだけど、そんなことはぜんぜんにゃーわけ。

私は、No-225で、地下猫氏が引用されたフレーズに先立って「カントについても、その汲むべき内容が多い中で、………」と書いています。

読んでお分かりの通りカントを全否定している訳では有りません。特に「批判前期」と呼ばれる時期のカントは、有名な「カント・ラプラスの星雲説」を提唱するなど、後の弁証法的宇宙論に繋がる重要な業績を挙げています。ここで問題にしたのは「物自体」です。
何でもそうですが、新しい知見・業績と言うものは、それに先立つ先人のそれを土台に、批判的構築されるもので、カントもヘーゲルも観念論者だからと言って、私は一概に否定はしません。今の高みに立ってこき下ろすことは、そもそも私の本意では有りません。

そしてNo-230での、kaさんへのコメントの中にも「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので………」として、あくまでも私の個人的な見解表明であることを断って有ります。
「現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね」と付け加えながらね。地下猫氏のご批判はとっくに織り込み済みです。

その上で、あえて言わせて貰えば………、
「創造論」は進化生物学を中心とする自然科学陣営からは、完膚なきまでに論駁されて、自然科学的には決着が付いていると私は思っています。
しかし実際には多くの人たちの間で、創造論は生き残り、事実とされ、「省みられ」続けています。
同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

ただまあ、一言苦言を呈させて頂ければ………、
>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

>また、「物自体は不可知」ってのは実は科学者に受けが悪くにゃー考え方なんだよにゃ。

私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

296:2008/02/06(水) 07:24:32 ID:QpQGFxc6
続きます。

>>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。

>ほほう?
勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー

一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。

なお地下猫氏の設問自体余りに漠然としているのですが、私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。

>>237;
>「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?(地下猫氏の設問)
>1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない(ご本人の答えの一部)


「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

類人猿のオス・メスの間に「愛」の感情が有るかどうか、難しい問題ですが、ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です。チンプやボノボ、ゴリラ、オランウータン、全てそれぞれ配偶システムが異なり、ヒトはヒト特有な配偶システムを発達させて来ているからです。
その理解に、適応上の淘汰を含め、進化生物学の知見が関与できない筈は有りません。

文化人類学のジョージ・マードックによる有名な統計が有ります。世界中の849の民族社会を調べての結論として、ヒトの配偶システムは全体として、ゆるやかな一夫多妻を含めて基本的には一夫一妻だと言うことです。
これは体の大きさの性的二型からも概ね裏付けられます。

それに対し、ヒトのオスの精巣はチンパンジーに次いで巨大です。
チンパンジー、特にボノボは猛烈な乱婚で殆ど挨拶代わりにSexをするようです。必ずしもオス・メス間の交尾だけではないのですが、チンプやボノボの巨大な精巣は、この乱婚による精子間競争に対応して発達したものです。
ハーレムを作るゴリラのオスでは、精巣の大きさはチンプの5分の1に過ぎません。

ヒトの進化の過程で、チンプのような乱婚の時代が有ったとは考えられないことから、ヒトの精巣の巨大さは、おそらく結構頻繁に婚外交尾、つまり浮気が有っただろうことを推測させます。
ヒトのメスに発情期が無くなり、当のメス本人にさえ判らない程に排卵時期が隠されることになった理由が、婚外交尾に関係しての「子殺し」防止では無いかと言う説も有ります。

ヒトは直立二足歩行により、メスの難産を招きました。
又、脳の巨大化によりますます難産の傾向が強まり、結果的に生理的な早産を発達させました。その為ヒトの新生児はあまりにも無力で、ヒトの基本である直立二足歩行さえ、およそ生後10ヶ月を要する程になっています。更にその後も長い間の養育が必要です。

こう言う状況下で、他の哺乳類のようにメスだけの子育ては不可能となって来ました。
オスに取ってもメスに協力して、一緒に子育てに励む行動を発達させた個体が、結局は多く子供を残したのでしょう。
更にはその絆を強くする為、お互いの「愛」を発達させた個体同士が、厳しい環境下でより多くの子供を残し、その形質がヒトと言う群れに広がってきたのでしょう。
その合間に適当に浮気を挟みながら。

こう言った進化上の要因が、人間の「愛」の考察にどうして関係しないと言えるのか。
そもそもヒトの配偶システムが、ゴリラのようにハーレムを形成するもので有ったら、或いはボノボのように猛烈な乱婚であったら、オス、メス共に今の人間の「愛」の形は、ガラリと変わったものになっていたでしょう。
愛は確かに精神的なものですが、その形成の基礎に人間の進化の過程が反映されていることは、およそ常識と言えるでしょう。

297:2008/02/06(水) 07:25:29 ID:QpQGFxc6
さらに続きます。

或いは社会的な影響も有ります。
江戸時代、近松の浄瑠璃などで心中物が大当たりをしました。これは封建制の中で、身分の違いによる男女の結婚が厳しく制約されたことが背景に有ります。
武士と農民の間で結婚したら、その子供はどちらの階級に属するか、と言う深刻な問題が絡みます。そんなことを何回かやっていたら、身分制度などたちまち崩壊するでしょう。
その制約の中で男女は、心中をする主人公に自分の心を重ねたのでしょう。

こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

ここで述べたことは、ホンの一部です。
直接「愛」の感情を司っている脳の機能には触れていません。これも当然考慮されるべきでしょう。

私は精神的な「愛」も、或いは「神」と言う観念的な産物も、その寄って立つ現実的な基盤があり、当然自然科学、社会科学の対象になり得ると思うし、その意味で「私が想定している『科学』は、地下猫氏が定義する『科学』よりも広い意味で捉えています。」と言っている訳です。

それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。


>>294
>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

298NAN:2008/02/06(水) 09:20:23 ID:???
>>雄氏

>>233 >>234については?

299NAN:2008/02/06(水) 11:33:50 ID:BZb9Dt8w
正直枝葉なんだけど…あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。
というわけで>>297:雄氏

>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。

誰もそんなことを云ってないよ?
「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を支持(注:引用者による修正)しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ」という指摘は、キミが発したドーキンス本に対する主張に内在する表現の曖昧さや雑さから来る誤解か語弊かあるいは、確かに「自然科学的に実在しないものは研究として意味がない」という無意識下の本音の吐露に対してなされた指摘でしょ。

>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。

それでね、
>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
勝手な解釈なんだから、勝手にすればいいんだけど、愛というのをラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)に見出すというのも…なんだかとってもげんなりというか、短絡的思考に見えるんだよね。(これは、見える、だけなので反論ってことじゃないけどさ)

そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。
で、これに遺伝や進化学的な要素を絡めると、ドーキンスの利己的遺伝子のガイネンが役に立つ。遺伝子は自分自身とそのコピーを守ろうとし、表現型が拡張されると「体外の事象を自己の財産として子孫に継承する」という複雑な進化が起き、文化や文明の理解にも役立つんだろうな、と私は納得している。血縁淘汰と遺産相続に伴う家庭内紛なんか相関してて面白いね。

地下猫氏によるテーマの提唱とはさっぱりかけ離れた議論になっちまったけど(その責任は私にもある)、もうちょっと『愛』について。(byスガシカオ…ってうまいんだかうまくないんだか良く分からないけどなにげに好きだ)

男女の愛ってのは自己愛の拡張で、配偶者を「獲得し、所有する」という行為に絡み、やがて「血縁者を保護する・共有する財産を保持する」という情動に繋がるのではないか。ヒトには社会性動物としての稀な特徴である「なにかを所有する」という行動があって、所有(獲得)することを欲望するという、さらに因果な行動動機を持ち…結果として報われない愛の方向性のひとつに破滅があるんだろうね。これはラヴアフェアだろうが経済行為だろうが消費行動だろうが同じ。羨望・妬み・嫉妬なども報われない愛のカタチの類型かな。こういう短絡的かつ還元主義的な「愛の説明」を突き詰めていくと「愛の結果=シアワセ=所有満足度」なのではないか?という結論も出てくるし、それなりの説得力もあると思う。

こういったことを論じるのは、生物学的なアプローチも出来るだろうし、心理学でもアリだと思う。実際、私の議論の大半はこの二つの知見から出発しているし。自己投影とか依存の関係なんかも遺伝子を絡めて考えることは可能だよね。(つまり、自然科学的な学問として有意と判断)

300NAN:2008/02/06(水) 11:34:16 ID:BZb9Dt8w
さて、せっかくなので議論を本筋に戻します。
>>272で私が述べた「なにか」について。実はそれは「依存」である、と私は考えています。

依存は、程度によって「依存症」とさえなるとても因果な性質ですが、親子の依存に代表されるように割とさまざまな生物に普遍的に備わる性質でもある、と私は思います。配偶者への依存、親への依存、職場への依存、金銭への依存、さらにはネット掲示板とかギャンブルにまでヒトは依存できるわけで、対象が実在するなにかであろうが仮想の存在であろうが、おかまいなしに依存することができます。こうした依存の各種は、パーソナリティを保持する上で必要なものもあれば、逆にパーソナリティに対して障害をもたらすものであるのに、依存してしまうという種類のものもあるでしょう。アルコール依存や薬物依存が典型ですが、男女の依存関係や金銭への依存も度が過ぎれば破滅を生みます。

一連の議論で問題となっているのは「宗教の弊害」ですが、これは極端な主義・主張による弊害と言い換えることができ、原理主義だとか根本主義などに傾倒するという側面には、それら信仰への極度の依存が間違いなくあることでしょう。ここで、依存の鍵となるのは快楽です。快楽には「興奮」と「沈静」の二種があり、これは自律神経の作用と相関します。
■死への不安や人生の不安→信仰により和らげられる=マイナス方向の興奮(不安)が沈静される快楽(ダウナー)
■日常への倦怠感や無気力→信仰により活力を得る=停滞した沈静から活動的興奮へ向かう快楽(アッパー)

上記のうち、問題行動と結びつき易いのは、恐らくアッパー方向への快楽を求めて「なにか」に走る機会に於いて、ではないでしょうか。これは、受験やその他試験に対する不安や対人不安、財産を失う不安や死後の不安が信仰によって癒され鎮静されたからといって、それが他者への迫害や威圧行動に繋がるとは考えにくいというのも私の中にあります。(無論、信仰者自身の中でそれが本来の問題解決になるかどうか?は分からない)

A:信仰は、獲得し、所有される。
B:信仰は、快楽である。
C:信仰は、依存である。
上記の3命題の「信仰」には「配偶者」「仕事」「カネ」「セックス」「技能」そして「愛」など、およそあらゆる対象を当てはめることができます。それだけ我々の誰もが、信仰と似たものに傾倒し、依存しているということです。また、依存の度合いが強すぎたり、歪んだものになれば、どんな対象を当てはめても弊害を生み、時には暴力にさえ繋がるでしょう。これが最近気付いた「宗教批判の難しさ」の大きな要因です。

信仰が上記3命題を満たすものである以上、一旦それを所有し依存しているひとがこれを捨てることは、私が自分のパーソナリティを捨てられないように難しいことでしょう。愛して(所有して)いるものをあなたは捨てられるのか?という問題です。(時に、信仰はそれを求めるけれど)少なくとも、自分はなにも捨てないのに、相手には捨てろと述べるというのには不公平感があり、容認されることはないでしょう。

それでは当初、後悔と懺悔さんが述べていた「これから宗教に触れるリスク回避」についてはどうでしょうか。
私はそれを「科学的方法論を浸透させていくしかない」と述べましたが、基本的には変わりません。ただ、相手が快楽を生むモノである以上、科学的方法論は甚だ抑制的で、禁欲的でさえあるため、有効に働きにくいことも想像に難くありません。しかし、宗教が悪者であることを殊更「悪い事例」ばかり列挙して説得を試みたり、間違った一般化によってその弊害を列挙したりという、詭弁的な方法論よりはマシだろう、と思うのです。

1:所有や獲得(達成)は依存に繋がる。
2:ヒトはなにかに依存するイキモノである。
3:依存の度合いが強いか間違っていると弊害を生む。
結論として、知識としての核を成すのは上記の3点ではないでしょうか。迷信や超越存在に対する強い依存が弊害を生むのは間違いないことですが、その他のあらゆるすべてに対してだって同じことが云えることを、私は強く自戒したいと思います。最後に、ブッダの原典にはこれら依存のリスクへの警鐘が強く込められていたことを、あらためて指摘します。

301:2008/02/06(水) 19:26:26 ID:QpQGFxc6
>あまりに雑な議論でなおかつテーマの曲解がひどいと感じるので、コメントせずにいられない(苦笑。

私の表現の稚拙さをご指摘なのであれば、それは甘んじてお受けします。
……ただ、話の進め方やテーマの扱いはそれぞれの論者の問題意識と直接関連していて、つまりその辺は私の「教導権」に属する問題だと思っています。今読み返してみても本人には特に問題を感じません。
と言うことで、多分今後も直らないでしょう。悪しからず。

同時にNANさんが何を聞きたいのか、イマイチ理解できません。全体としてNANさんのご主張の展開のようで、私としては「それはそれで良いんじゃないの」と言う感じです。
そこに私の「教導権」を主張する積りも有りませんし。

>自分でそう書く割に、回り道ばかりしてるじゃないか。そういうのってどうよ?(ていうか本人が気付いているとは思ってないけど)どの部分で自分が科学主義者と云われ、どの部分で反論しているのか、それが明確になってないんだよ。(No-299)

読んで頂ければ分かりますが、私は別に地下猫氏からの「科学主義批判」に反論なんかしていませんってば。する積りも有りません。明確になっていないのは当たり前です。
No-297でも「それを「科学主義」だと嗤うのであれば、嗤っていただいて一向に差し支え有りません。」と書いて有る筈ですが。

私はただ、地下猫氏が「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは………」と書いて来たから「そんなことは言っていませんよ」と、いわば事実関係を返しただけで、その裏に地下猫氏がどう言う思惑を込めたかなど、余計な推測をする積りはハナっから有りません。
「無意識下の本音の吐露」かなんか知りませんが、後になってあれこれ付け加えられても、
「そんなの知ったことか」ってのが本音です。だったら最初から書けばいいのに、ってね。

302:2008/02/06(水) 19:27:06 ID:QpQGFxc6
「愛」について言えば、NANさんの解釈は解釈として「それはそれで良いんじゃないの」に尽きるのですが、私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

>最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。

「自分の命を守ろうとしたり」の行動は、特に愛などと言わなくても、捕食者から反射的に身を守ったり、交通事故を咄嗟に回避するなど、ウイルスからナメクジ、コウモリやカラスまで全て、本能(最近この言葉は使わないようだ)として持っているものでしょう。いわば危機管理ですかね。ヒトにおいてもその延長として理解可能です。
勿論、NANさんがそこに「愛」を見出しても「それはそれで良いんじゃないの」なんですけどね。

生物が生物たる目的は、自己複製でしょう。単細胞から無性生殖、有性生殖を含め、全てね。
ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)と呼ぼうが何と呼ぼうが、生物は、適応度最大化の為に組織されたタンパク質だと言って、大きく間違いではないでしょう(なお、ラヴアフェア(男女の愛=性行為や婚姻)が可能なのは、有性生物、つまり生物の一部です)。

実際生物の行動は全て、適応度(つまりは残した子供の数)最大化の為に特化されていると言えます(人間の場合、社会が絡みますので少し複雑になりますが、これも社会科学という科学の範疇です)。

その中で、ヒトのオスとメスは子育ての必然からペアボンドを発達させざるを得なかっし、ペアボンド強化の為に、つまりは絆を強化する為に「愛」と言う感情を発達させた個体が、オスもメスも結局適応的だった、と言うのが私の見解です。
だから人間の「愛」の契機・基本は、男女の愛からだったろうと………。
「ハッキリしていることは、今の我々の愛の感情は、人間の進化の過程で獲得・発達したもので有る筈です(No-237)」との、私の書き込みはその辺を歴史的に俯瞰したものです。

人間の「愛」の感情を全て、進化生物学で解釈できるとは言っていません。しかしその理解の基礎に進化生物学が関われることだけは確かです。
そしてこの掲示板で今問題になっていたのは、NOMAとの関係も含めて、そう言う「愛」とか、芸術とかを科学として扱えるかどうか?、と言うことだった筈です。

私は「扱えるんじゃないの」と言う立場で、幾つかの項目に渡って例を提示した訳です。若干中身に踏み込んでしまいましたが、兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

しかも私の「少しばかり広い意味での科学」に対する、地下猫氏の揶揄(と言うか、何というか)への反証として、丁度手ごろな教材としての意味合いも含めてのことです。

>>こう言う社会科学的な知見が、男女の愛の感情を解明することに何の役にも立たないというのでしょうか。
>誰もそんなことを云ってないよ?

「愛」が科学の対象にはならない、とするどなたかの主張が有ったようなので、そのアンチテーゼとして言ってみた訳なんですがね。


>>233; は従ってコメント済みだと思います。NANさんの意には沿わないかもしれませんが。
>>234; についてはなるべくそのうちに。

303diamonds8888x:2008/02/08(金) 06:30:39 ID:jcR/Lf4.
>>302
>兎も角「愛」の理解に科学(自然科学、社会科学)は充分関与できると言うことを主張しただけです。

 これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
 それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

 「基本的には自然科学・社会科学・人文科学の区分けはその研究対象によるものという伝統的な考え(>>281)」ということでは全く異論はありません。ですが、その研究対象をどのようにして【自然科学的な意味で】の存在と【人文・社会科学的な意味で】の存在に区分けするのか、というところで、どうもしっくりこないのです。この点については考察中なので時間を下さい。


 雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。

>私の見解としては基本はやはり「異性愛」だろうと思っています。

 私の回答(>>279)では「何かを愛する」ということで、ここの何かは何でもよいと想定しています。異性愛については自然科学的研究も実際に進んでいるので例として挙げやすいことは確かです。ただ設問は「存在すると思うか?」であって、「実際に科学的に研究されているか?」ではありませんでしたから。

304:2008/02/08(金) 09:08:31 ID:QpQGFxc6
>これこれ、設問は「自然科学的な意味で」だよ・・という突っ込みが出てきそうですが、自然科学と社会科学に区別をおきたくないのは私も同罪なんで(^_^)
>それと、人文科学はどうなのよ、という点は地下に眠るMさん他との摺り合わせは必要かも知れませんよ。

diamonds8888xさんの「突っ込み」の意図は充分理解できます。以下三点ほど言い訳です。

一つには地下猫氏の設問「「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?」が、私からすると色々な意味にとれて………。
だから一応私も、(>>296)で、「『愛』は精神的なものです。その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。」と書いては置いたのですが。つまり「愛」と言う固まりのようなものが有る訳では無いと。
だからモノとして直接「愛」を自然科学の対象には出来ないし、その意味では『自然科学的な意味で存在』しないのは当然な訳で、まさかそんな陳腐な意味での設問ではないだろうと思ってましたし。

二つ目として、元々私は地下猫氏のクイズに参加する意志は無かったのですが、猫氏から私の科学観(猫氏より少し広く、科学を見ている)について揶揄されましたので、その返答として、丁度手元に有った手頃な教材として「愛」を選んだってことで。
そんな訳で猫氏のクイズに「逐条的」に対応する形は取らなかったし、その積もりも無かった。

三つ目、このトピで一貫してNOMA的主張への適否と言うようなことが議論されていて、一部の方々は「愛」とか芸術とか、そう言ったものは科学の対象にならない旨主張されていたようなので、私はそうは思わない、と言う観点でコメントしました。
ですから「>ただ設問は存在すると思うか?」と言う枠をはみ出しました。と言うかそう言う枠は意識していなかったと言うことですね。
アプローチの仕方は異なっても、科学はどこにでも突っ込みどころは有る、と思っている訳です。
そして社会科学も又、立派な科学で有ることには、多分diamonds8888xさんと問題意識を共通にしています。


実はこれから出かけます。

>雄さんに一点だけコメント。特になんてこともないコメントですけど。
>異性愛については………、

これらについては後ほど書き込ませて頂きます。
「愛」の適応上の考察(私はそう言う問題意識で書き込んでいますが)は、非常に面白そう。
多分又、ずれまくると思うのですが、悪しからず。

305AH1:2008/02/08(金) 13:30:13 ID:zfjW98z.
「愛」と人が呼ぶ、あるいは感じる、であろうところのナニカに生物学的基盤は当然あると思いますが、
行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑

というような感じかなー、と漠然と思いました。

306:2008/02/09(土) 08:32:08 ID:QpQGFxc6
RE AH1さん
>行動生態学者や神経生理学者の書いたラブロマンスが感動的かどうかはよくわからない(笑
というような感じかなー、と漠然と思いました。

どうしてどうして、感動モノですよ。
あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。

およそ15億年ほど前、性が初めて生まれたとき、それは繁殖とは全く関係なかったらしい。と言うより繁殖の効率から言うと有性は無性に勝てっこないし、利己的な自分の遺伝子を、それも繁殖に辿り着くまで勝ち抜いてきた優秀な遺伝子を、わざわざ半分他者に明け渡す行為だし。
普通なら有り得ない性が、淘汰をくぐり抜けてかくも発達したのは何故か?、とか。

遺伝情報の交換だけなら特にオスとメスに分かれる必要など無いのに、何故オス・メスか?、或いは何故、オスとメスしか無いのか?、とか。
そもそも、オスとメスの違いは何か?、とか。
何故オスとメスの性比が常にほぼ同じになるのか?

今では当たり前に理解出来ていることを、10年以上前に初めて読んで知ったオトコの子としては、一番興味のある分野での知的興奮で、その時多いに胸をドキドキさせたことを覚えています。
ハッキリ言えることは、性の始めに愛などと言うものは無かったということです。

………と言うことで、「愛(の感情)」の起源考です。
>>296;で私が、
>>私の勝手な解釈で、愛の基本としての「人間の異性愛、つまり男女の愛」と言うことに沿って考えて見ます。
………と書いたことへの言い訳でも有ります。


>>299;NANさん
>そういう行動学的な知見から愛を紐解くっていうなら、最初に問うべきは「自己愛」つまり、自分の命を守ろうとしたり、自分という個体を保護し、それが拡張されて自分の財産・社会的地位・容姿・パーソナリティを「愛する」という普遍的な情動じゃないかな?と私は思う。つまりそいつは生命が「個」を形成する境界である細胞膜を保持したときから決定付けられている自己保存の本能だよね。

NANさんが「自己愛」を「愛」の感情の起源として主張しているのかどうか、或いは「愛」の発露として、基本として述べられているのか、イマイチ分からない所も有りますが、どちらにしても私は二つの意味で同意出来ません。

1)、NANさんが述べている内容は殆ど生物の行動一般と重なります。或いは生物の本能、生物そのものと言っていい。大腸菌がブドウ糖の濃度勾配を感じて移動する行為も自己愛と言うことになります。
それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

2)、自己を自己と認識するのは、相当高度で抽象的な意識の能力を必要とします。目の前に獲物が現れたのを反射的に感覚するのとは訳が違います。
鏡に映った自分の姿を自分だと理解できる動物は、類人猿でも限られているらしい。
その自己をさらに「愛する」と感情するには、多分又幾段かの意識の能力を必要としそう。
少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

307:2008/02/09(土) 08:36:58 ID:QpQGFxc6
「愛」の起源を考えるとき、やはり私は適応上の問題として考えるべきだと思います。

ヒトの近縁である類人猿にはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボがいますが、全て配偶関係が異なります。それはそれぞれが置かれた環境での、主に食料事情などの制約によるものでしょう。
ゴリラはハーレムを作るし、チンプ、ボノボは乱婚です。特にボノボはひどい。観察によると1日50数回のSexに励んだメスが居たそうです。尤もボノボのSexはオスとメスの交尾に限らず様々あるようですが。
テナガザルは生涯に渡る強固な一夫一婦制ですし、オランウータンは単独雄と、母子集団という形をとるようです。オランウータンのメスはヒトと同じく発情期が無く、オスによるレイプも有るらしい。

これら類人猿に「愛」の感情があるかどうか難しい問題ですが、ただ考えて直ぐ分かることは、若し人間がゴリラのようにハーレム型の配偶関係だったり、ボノボのように乱婚だったとしたら、「愛」の感情も今とはガラリと変わったものになっていただろうことだけは確かです。
現在の人間が持っている「愛」の感情の起源は従って、チンプなどとの共通祖先から分岐した後、ヒトとして進化してきた過程の中に見出されるのではないでしょうか。

ヒトはオス・メス共同して子育てをするという、実は類人猿の中でも珍しい動物です。その点ではツバメやミツユビカモメなど、鳥と共通点が有ります。浮気と言う点でも共通点が有るらしい。
哺乳類はその定義上、必ずメスによる子育てが有りますが、ペアを組んだオスがそれに関与すると言う種は多くないんですよね。

ヒトのメスは直立二足歩行により難産になりました。
直立することで骨盤が内臓の重みを真下で受けることになり、形もお椀型になったのですが、ここでメスにとっては宿命的な矛盾を負うことになります。
内臓を支える為には骨盤の開口部が狭いほど良い訳です。でないと臓器がその開口部からはみ出してヘルニアになってしまう。
しかし開口部が狭いと、出産のとき胎児の頭が通り抜けられなくなる。

そこに輪をかけてヒトの脳の増大と言う問題が出てきます。特にそれが顕著になったのは「賢い人」ホモ・ハビリス辺りからですかね。
この矛盾をヒトのメスは、生理的な早産と言う手段で解決しました(と言っても完全には解決される筈は無く、出産で死ぬ女性は珍しくなかったし、今でも産院に響き渡る程の叫び声で出産するのは人間の女性だけです。ゴクロー様です)。
つまり、胎児の頭が完全に成熟する前、本来の出産時期よりおよそ10ヶ月前に産み落とすことになった訳です。

その為ヒトの新生児は極端に無力です。牛や馬の子供が生まれて30分もすれば歩き出すことと比較して、ヒトの新生児はヒトの一番の特徴である直立二足歩行が出来るまで10ヶ月を要します。
又、そもそも脳の増大を招いたのは主に道具の作製・使用とコトバによるものですが、その習得の為にヒトの子供は産まれてからも長い教育訓練を必要とします。

アクア説啓蒙者のモーガン女史に言わせると、さらにヒトは無毛になった為、他のサルのように子供が自分で母親の毛をつかんでしがみつくことで、母親の両手を開放させることが出来なくなったと言うことです。
ヒトにあって子育ては、到底メスだけで手に負える仕事ではなくなってきました。

308:2008/02/09(土) 08:37:44 ID:QpQGFxc6
哺乳類はその定義上メスの子育ては必然です。若しそれだけで可能ならヒトのオスも子育てを全てメスに押し付けて、自分は次の配偶相手を探す行動を発達させたでしょう。ハーレムを巡ってオス同士争うか、チンプやボノボのように乱婚に走ったかも知れません。生物は適応度最大化に特化したシステムですから。

ヒトの場合、上記の事情でメスだけの子育ては困難になりました。オスが子育てをメスに押し付けて別の配偶相手を探したら、繁殖機会は増えるかも知れないが、生まれた子供は育たないことになるでしょう。
メスに協力して子育てに関与する行動を発達させたオスが、結局はより多くの子供を残した筈です。要するにそれがオスにとっても適応的な行動であった訳であり、更にはメスにとってもそう言うオスを選択すことがが適応的だった筈です。
類人猿の中でも、特異なヒトの一夫一妻制はこう言う背景で生じたものでしょう(テナガザルも一夫一妻ですが、これは主に食料確保の制約によるものです。多分)。

そして一夫一妻という配偶関係をより強化する為に、ペアボンドとしての「愛」の感情を発達させたオスとメスが、厳しい環境の中で協力し合い、より多くの子供を残したのではないか。その愛の感情は子供に引きつがれより強化されてきたのではないか。

私は人間の「愛」の感情の起源はこう言う経過を辿ったのだと思います。
そして何時のことか分からないけれども、そう言った感情(シニフィエ)に「愛」の語彙(シニフィアン)が割り振られ、全体で「愛」と言う言葉、概念が出来ていったのでしょう。

一旦概念が出来ると、その語彙の使い回しで、漠然とした同じような事象を同じ語彙で表現し、その範囲を他から切り分けることになります。ピン止め効果とでも言おうか。
自己愛にしろ隣人愛にしろ、物に対する愛でも何でも、私はそうした経過でその後に出来たことだと思います。
特に日本語のような膠着語は簡単に語彙を増やし易い。そしてその過程で語義の転化が起こります。愛、哀、合い、会い、相、遇いなどはおそらくそうしたものでしょう。


なお上記内容は「愛」の感情の"起源"についての私の見解です。
人間が社会を形成し、5000年程前から私有財産を持ち、階級に分かれてからは又それぞれの制約を受けることになります。
資産があって子の面倒を召使なり他人に任せられるオス、例えばオスマントルコのスルタンだったと思いますが、ムーレイ・イスマイルと言う男は多くの後宮を相手に888人の子供を成したそうですし、古代インカの皇帝も国中の処女を選別したとか。日本の大奥も同じようなものでしょう。
>>297;で述べた近松の心中物もそう言った文脈の中での例です。

「愛」の全てを進化人類学に還元することは勿論出来ないにしても、今の人間がおそらく共通に持っている愛の感情の基礎を理解するのに、進化の理論が役に立たないことは無い筈です。

309ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:47:18 ID:vUxNW.gI
AH1さん、NANさん

「水伝教」の件、くだらない仮定の話につきあってくださってありがとうございました。
雄さんの書き込みを読んで考えたのですが、「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

310ちょちょんまげ:2008/02/09(土) 14:56:22 ID:vUxNW.gI
猫さん

レスありがとうございました。

>馬鹿を基準にしてまともなヒトを批判してはいけにゃー。
>ニンゲンが党派的な思考に陥ると、ほとんど必ず、
>敵対する陣営の屑を基準に敵陣営を捉え、
>味方陣営のまともなヒトを基準に味方を測り、敵陣営の屑と味方陣営のまともなヒトで比較して安心しようとするにゃ。

これは、耳がいたいですね。NANさんにも指摘されたことですが、確かに宗教批判するときに「最低」を基準にして「全体」を批判する傾向があります。まぁそれ以外にも「宗教全体」に対する疑問は疑問としてあり、ドーキンスを支持したくなる理由もあるのですが。

311NAN:2008/02/09(土) 19:41:37 ID:G81kGdtk
枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

>>306
>それが間違いだと言うことではないかも知れないが、既に確立されている「生物」「生物の行動」を、殊更「自己愛」に置き換えて理解する必要は無いでしょう。

キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

>少なくとも「愛」の起源を「自己愛」に求めるのは無理が有ります。

自己を自己と意識する必要?キミは情緒における自己と個体認識としての自己を混同しているでしょう。愛の発現を生物学的に解明しようというのであれば、ヒトを見るよりもまず、その他の生物に普遍的に見られる行動的特徴から、我々が「愛してるっぽい」と感じる行為をピックアップし、それがどうヒトに共有され、変化したのか?を探るべきだよね。なぜなら、愛がヒトだけのものでなくてはならない理由などないのだから。
カメムシが自分の子供を背負っているのを見て、我々ジンルイは「母は子供を愛しているのだなぁ」とか云う。無論、カメムシが私たちヒトと同じ情緒的な意味で「子供を愛している」などと私は思わない。いやむしろ、子孫を守ろうとする激烈な行為の発現に於いては、彼らのそれの方が遥かにヒトを上回るだろう、と私は思う。

それでは、なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
雄クンがなにをもって「愛」と述べているのか、私にはいささかも理解できないけれど、愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。そう、なるほどヒトは複雑な情緒を持ち、さまざまな性癖を持っているけれど、なにかを守ろうとする激烈さに於いては、他の生物種に一歩も二歩も行動としては劣る。この点について私は、愛、と呼ばれる「なにか」の本来的な要求から、ヒトはむしろ離れているとさえ考えている。

さて、もう一歩議論に踏み込む前に、私から「愛」を定義してみよう。無論、私の個人的な定義なので反論も異議もあるだろう、と思う。
1:愛は平等なものである。
2:愛とは与えるものである。
3:愛は寛容である。
4:愛は普遍的なものである。

実はヒトほど「愛」からかけ離れている存在はないだろう、と私は思う。たとえば「男女間の愛」について述べるなら、ヒトは性行為を経済行為として「商品化」し、これを古代から受け継いでいる。また、所有する財産や社会的地位によってさえ、繁殖・婚姻の機会が大幅に変動し、差別的である。これは他の社会性動物にも云えないことではないが、ヒトの顕著さは目を見張るばかりだろう。これらによって「男女の愛はまやかしに過ぎない」とまで私は述べないけれど、愛に対する誠実さ・切実さに於いて、ヒトは他の動物種より劣る、と考えている。

312NAN:2008/02/09(土) 19:42:01 ID:G81kGdtk
それでは非常にチンプで破廉恥な、ヒトにおける愛とはなんだ?と考え出すと、自己愛以外のなにがあるんだ?と私は考える。先に述べたように、生物は自分の生命を守ろうとする。そのためにさまざまな防衛手段を発達させた。また、その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。これら他の生物種が行う利他的行動を、ヒトがもしも行ったのであれば(そういう実例は数多くあるけれど)、それを「愛」と賞賛しないだろうか?なぜ、ヒトと同じ情動や意識下にないものが「愛ではない」と断言できるのか?むしろヒトほど愛を理解できない生物はいないからではないか?と考えたほうがすっきりできるのではないか?さまざまな生物種が行う慈愛的だったり利他的だったりする行動を見て「いや、あれはただの本能だよ」というヒトの傲慢ぶりに、愛との断絶があるのではないのか?そう、彼らの脳裏にはヒトと同じ情緒もなければ意識もないだろう。だがなぜ「同じでなければならない?」と、私は繰り返し問おう。

次に、ヒト「だけが」持つと思われる「愛と呼んでいる不明瞭な情緒」について。
小学校に上がるか上がらないかくらいの児童でも、感動的な絵本や物語に触れて涙することがある。これは「物語の登場人物に自分を重ね合わせる」という自己投影の結果に起こる現象だろう、と私は思う。あるいは、母親が持つ、男女の愛など簡単に消し飛ぶほど激烈な子供への慈愛や寛容さは、なにに端を発するのだろう?それはやはり、自己を投影しているからではないだろうか?つまり、母親は自分を愛するのと同じか、それ以上に強い衝動的な情緒に突き動かされることがある。これが男女の愛の比ではないことは、経験して見れば誰でも理解できるはずだ。

つまり、ヒトにおける「愛とか云う情緒」は、基本的に自己とその拡張である。男女の恋愛感情などまったく発現する以前の児童でさえ、自己を投影して他人の感情や境遇を思ったり、慈しみに近い感情を持つことができる。ちなみに男女にあるのは依存関係であって、愛とは若干違うだろう、と私は考えている。

最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

313:2008/02/10(日) 11:07:10 ID:QpQGFxc6
>枝葉が長ぇなぁ…まぁいいけど。

NANさんも結構長いですよ。…まぁいいけど。
最初に事実関係を………、

>キミがヒトの生態を愛に置き換えているのとどう違うんだ?

私は置き換えていませんよ。
人間の「愛」の感情とその起源を理解する為に、ゴリラともチンプとも違う、ヒトだけが辿って来たであろう進化人類学的な事情を解明するのは必須です。
その事情として、直立二足歩行や難産、それに伴う新生児の無力化を挙げたのですが、これはNANさんご指摘の「ヒトの生態」です。NANさんはこれを「愛」に置き換えられると言うのですか?
多少なりとも唯物論をかじった私としては、感情である「愛」と、その実在的基盤(NANさんが言う生態)を混同するようなことは、絶対有り得ません。


既に水掛け論の様相を呈してきました。そろそろ収束の頃合いかも知れません。

>>311;>>312;でも、NANさんが延々と述べられている生物の「愛」の行動について、既に、>>306;で「生物」「生物の行動」の単なる置き換えに過ぎないと述べていますので、ここで繰り返しません。
今回気が付いたことに絞ってコメントさせて戴きます。

>なぜそれほど激烈に親は子孫を守るのか?それは自分の遺伝子を守るためにほかならない。
>愛という情緒の発現として最も顕著な客観的行動のひとつは「なにかを保護したり、時には自己犠牲を厭わず他者を守ろうとする行動」である、と私は理解している。
>その目的は子孫を繁栄させることである。結果的に生物は普遍的に「他者」である自分の子孫を守ろうとする。時には自分の体を子供に食べさせたり、産卵のために生命を投げ出したりさえする。

これなどドーキンスの「利己的な遺伝子」とどこがどう違うんですか?
「利己的な遺伝子」についての賛否、評価については人それぞれだろうけれども(地下猫氏も『利己的な遺伝子』に付いては一定の評価をしているようだ)、NANさんに拠ればこの本一冊、丸ごと「愛の物語」になりそうです。

ドーキンスが、或いは進化生物学全体が理論付けた内容を、愛の物語に仕立てるのはNANさんの思想信条の自由だとして、しかしそれで一体何が分かったことになるのですか?
「愛」などと言う概念を殊更に持ち込まなくても、NANさんが述べられた「自己保存」「自己防衛」「子孫の繁栄」「利他的行動」など、全て進化生物学的な適応で解釈できます。
産卵の為命を投げ出す(と言うか命を掛ける)動物などザラにいます。と言うか遺伝子を次世代に引き継ぐ、それ自体が生物の本質じゃないですか。その為に特化したシステムが生物です。
だからここでもNANさんの言う「愛」は、「生物」「生物の行動」の単なる置き換え、同義置換、トートロジーに過ぎません。

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
環境汚染や温暖化を受け入れて、ただそこに佇む、愛の存在などと詠嘆するのは結構だとして、酸素も石灰岩も鉄も、全て生物との共同制作物です。或いは温室効果ガスも然り。
大事なことはそう言う地球の危機を科学的に分析し、経済や生活と折り合いをつけながら、危機を回避する方向での自然科学的な対象として、人類の英知をそこに向けることでは無いのか?

尤もNANさんが、汎神論者を任じているのであれば、それはそれで一つの立場です。

遺伝子DNAを基礎とした(全てそれに還元される訳じゃないが)生物一般の行動様式は、当然類人猿やヒトの行動の土台です。それを「愛」と呼ぶかどうかは別として、そのことは当然私も認めます。
しかし人間の愛の感情をその生物一般の「愛」に還元することは出来ない。なぜかと言えば一番近縁な類人猿でさえ全て配偶関係が異なり、当然愛の感情(そう言うものが有るとしたら)も全て異なるだろう筈だからです。

人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、進化の歴史の過程でヒトだけが辿ってきたヒト特有の事情を、適応上の観点から見ること無しに、人間の愛の感情を理解することは絶対にできないと思う、「今日この頃」。

314:2008/02/10(日) 11:08:01 ID:QpQGFxc6
旧聞と言うことになりますが、何かのついでにと思っていた、>>229;の「妖精論議」についてもこの機会に少しばかり異議申し立てをさせて頂きますね。

>今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

本当に等価でしょうか?、妖精を神に置き換えても話の事情は同じですよね?
主にキリスト教系の神を念頭に考えて見ます。妖精で考えて貰っても同じことですが、神の方が話が分かりやすい。

私は無神論者です。精神的にも実践的にも神を必要としません。
こう言う罰当たりな者にとって、神の実在証明は勿論ですが、不在証明も実は全く必要無いのです。世界中の殆どの人が、スパゲッティモンスターの不在証明を必要としないのと同じことです。ですから殊更神の不在証明にエネルギーを割くことはしません。

しかし神を信じている人は事情が違います。
神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。
当然実在証明にも気合が入らざるを得ません。事実その為に多くの賢者と言われる人たちが、膨大なエネルギーを注いだことでしょう。

又、難易度と言う点でも雲泥の差が有ります。
実在証明は、たった一度それを示せれば良いのです。神でも妖精でも一度お出まし願って、記者会見でもテレビカメラの前でも、批判者の検証に晒せば実在を完全に証明できます。
しかし不在を証明するには、あらゆる実在の可能性をしらみつぶしに否定する必要が有ります。だからこそスパモンも不在を証明できないのです。

若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

必要度や投下エネルギー、難易度の点でこれだけの極端な勾配が有るとき、単に表面的な結果が同じだったとして、それで等価と言えるでしょうか? 私は神に対する、度外れて「不相応な敬意」だと思います。
事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

ここから論理的に導かれる結論は、神(或いは妖精など)の実在は限りなくゼロだということじゃ無いですか? ゼロと断定は絶対に出来ませんが。
その点ではスパモンと比較してさえ、神の実在は蓋然性が低いと言わざるを得ません。スパモン教はその実在証明にそれ程血道を挙げているようには思えませんからね。未だ見つかる余地を広く残していると言えます。

それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

315NAN:2008/02/11(月) 09:56:59 ID:G81kGdtk
>>313
つまり雄クンは「愛はヒトが独占的に持つ特性である」と述べているのだね。そして愛は男女間の愛に代表される、と。
>>314については特にコメントの必要なし。

316NAN:2008/02/11(月) 10:07:59 ID:G81kGdtk
ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。

差別的性向が適応度を高めるって云う議論は肯定するけれど、それを愛と呼ぶ傲慢は否定。
以上です。

317ちょちょんまげ:2008/02/11(月) 14:48:16 ID:vUxNW.gI
ちょっと酔っ払ってます。少々の失礼、トンチンカンがあってもご容赦。
まぁまぁお二人ともって、白黒つけたがる性格の私がこういうことは珍しいのですが、

>地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。
ニンゲンの言葉としての「愛」の定義はこれがぴったんこだと私も思う。

>地球を物理的な存在として、何故そのまま理解してはいけないのか?
これはこれで素晴らしい。NANさんはあまり肯定しないかも知れませんが、私はこの「理性」部分が好きです。
(NANさんがおっしゃる「人間として良くあろう」の一つの側面として)

お二人は噛み合って無いように感じていらっしゃるかも知れませんが、少なくとも私には、お二方のご意見は極めて有意義です。

318e10go:2008/02/11(月) 19:59:29 ID:5/V6R9W6
雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

雄さんは「愛」を「異性愛」に限定して科学で説明を試みているけど、何故「異性愛」に限定するんでしょうね。
確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。
しかし、「愛」はもっと広い意味があるんだから、(現在の)科学で説明できる事とできない事があると思います。
人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。
「愛」の形には多様性があり、「セックス」と関係なく「感情」をともなう部分があり、「感情」の部分は現在の科学では解明できないものもあります。

私は、NANさんの >>312 の最後のコメントが気に入りました。
>最後に、究極の愛とはなんだ?と私は考える。
>たとえばそれは、地球かな?と思う。生命を生み、地殻変動があろうが環境汚染があろうが黒点バーストがあろうが、ただそこにあって佇んでいる。まったくもって平等だし、裏切ることがない。いつかは太陽に呑み込まれてしまうだろうが、それでも最後まで、地球は地球であり続ける。これほど「愛」の定義を満たす存在もないだろう、と私は思う。

今の私は、「愛」について「Aセクシャル」の「無性愛」に興味があります。

319:2008/02/11(月) 23:21:43 ID:QpQGFxc6
>雄さんのコメントを読んでいると、科学万能主義を主張しているような感じを受けるけど、錯覚でしょうかね。

錯覚では有りません。
科学によって直ぐに全てが解決できると思うほどノー天気でいる訳では無いし、科学の悪用も有るので、「科学万能主義」と言う呼び方が適切だとは思いませんが、真理への接近の道が有るとすれば、それは科学だろうと思っています。


>確かに「異性愛」に限定すれば科学で研究は可能でしょうし、進化論に結び付けての説明もできるかもしれません。

…ですよね。
でもこの板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、「存在しない」と言う見解が主流のようでした。
そうではないだろう、と言うのが私の主張であって、それによって『異性愛』に限定しただけにせよ「科学で研究は可能」と思って頂だけたら嬉しいことです。一角が崩れた訳ですね。


>人間に限っても「愛」には「異性愛」以外にも「同性愛」、「無性愛」、「親子愛」、「隣人愛」、「人類愛」、、、他にもあるけど、これらの「愛」は一般に「愛」として定義されています。

私は「愛の感情」の起源について述べています。その点で若干問題意識のすれ違いが有るのだろうと思います。

確かにe10goさんが述べておられるように「愛」はたくさん有りますね。しかしいずれにしてもこう言った感情は人類の長い進化の過程の、どこかで獲得し発達したものである筈です。
e10goさんが挙げられた、それぞれの、似たような内容を持つ感情が、ヒトの歴史の中で全く独立に、平行してヒトの意識に発生してそれぞれ別個に発達し、それに対してたまたま「愛」と言う同じ語彙が割り振られたとは到底考えられません。

そうではなくて、ヒトが生き残る上でののっぴきならない事情によって、先ず最初に何らかの、そう言った漠然とした感情がヒトに芽生え、それが適応上有利であった為選択され、定着・発達するに従い、次第に輪郭のハッキリした感情となり、いつの頃かその感情に「愛」と言う語彙が与えられたのでしょう。

その感情を内包とし「愛」と言う語によって外延とされる、「愛」の概念が次第に形成されてきたのだと思います。
そしてその過程で、同じような内容をもつ様々な、漠然とした意識内容が、先行していた「愛」の概念に寄りかかる形で輪郭化され、同じ語で呼ばれるようになったのでしょう。それがe10goさんが挙げられた様々な「愛」のバリエーションだったのでしょうね。
私はそう思います。

問題はその最初の「愛」の感情を生み出した「のっぴきならない事情」とはなんだったか? と言うことです。それは適応度と直結したもので有る筈です。

ヒトが置かれた進化の過程で、我々の遥か祖先のオジイチャンが、パートナーと一緒に子育てすると言う行動を、若し発達させることがなかったら、その行動を強化するために「愛」の感情を発達させることがなかったら、今の我々はまず存在しなかったでしょう。とっくに人類は絶滅していたか、少なくとも今の複雑な社会を築くことは有り得なかったでしょう。

「同性愛」「無性愛」「親子愛」「隣人愛」「人類愛」「自己愛」「地球への愛」などは、その後に発達させても充分間に合うことだったでしょう。
私はそう思うのです。

320GB:2008/02/11(月) 23:40:09 ID:zXfK7pu6
>>319
たとえばドストエフスキーの言う「人類を愛するのはたやすいが、隣人を愛する
のは難しい」といった次元の愛という表現は、どう理解したらいいでしょうか。

321:2008/02/12(火) 00:02:59 ID:QpQGFxc6
>>320

繰り返し述べているように、319を含め、「愛」の感情の起源についての私の見解表明でした。
現在の既に確立した「愛」の概念を使って、それぞれの人がどう言うことを言ったかは、今度は文章の解釈、表現、或いはその人の思想とか、考えとかと言うことになるんでしょうね。

ドストエフスキーがどう言う状況で、どう言う意図で述べた言葉であるか、私には分かりかねます。

322GB:2008/02/12(火) 00:16:42 ID:zXfK7pu6
>>319
>この板ででの一貫した論調は「愛は自然科学的に存在するか?」であり、(略

そもそも…ズレてません?

323NAN:2008/02/12(火) 03:48:32 ID:G81kGdtk
「愛について」はもうやめたつもりだったんだけど、撤回。だってさ…んなのあり得ないだろ?
生物学的議論と限定してでさえ、親子の愛が「後からでも間に合う」などと云う、バカとしか云いようがない主張まで出てきたからね。
適応度の概念を用いたとしても、配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?てめぇで書いてるよね。生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ。だったらなんで「親子の情」が配偶者の情より愛の起源として高いプライオリティになるんだ?子から親の情、親から子への情がどれほど深く永いものか、さっぱりワカランのかね。ヒトオスの愛情表現なんか、子から親への情の架け替えじゃんか。

つぅか「愛」ってなんだ?
愛の定義をおざなりにして「愛を科学で説明する」ってのがまず、ポンツクなの。だいたい想像がついてるけれど、愛のなんたるかを少しも熟慮しないで激しく偏狭な勘違いを愛と定義しているらしきところからダメダメ。オスメス共同の子育てや配偶者間の役割分担なんか他の動物種でもあるだろ。ニンゲン至上主義ってのは科学万能主義より始末の悪ぃバカ丸出しだよ。あ、ついでに男性至上主義も混ざってんのかな。愚の骨頂だぜ。

しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

324AH1:2008/02/12(火) 12:22:28 ID:sNMJ1V0Y
>どうしてどうして、感動モノですよ。
>あまりロマンス仕立てに脚色したものはしらけますが(竹内某女の如く)、淡々と進化生物学的考察を述べた「愛のドラマ」は読んでいて、心がわしづかみにされるのを感じます。


いやそれは・・ 確かにそうなんですが、なんか話が違う。うまく言えないんだが。
漠然としたイメージだけを言えば、「知的理解や生物学的基盤は『愛を理解する』ことの一形態であろうが、それが全てじゃあるまい」という事、かな・・・ 私が感じているのは、それだけの事かもしれない。そして、生物学など何も知らない作家や詩人の、あるいは人々が日々の行動でもって描き出す「愛」に価値がないかといえば、そんな事はないと思うのだけれど。

325AH1:2008/02/12(火) 12:25:29 ID:sNMJ1V0Y
>「水伝教」の件、

いえいえ、こちらこそ。

>「テーブルにつかない相手」や「科学でも宗教でもどうでもいいや」のタイプの人というのは、案外、「適応的」なのかも知れませんね。

余計なことは考えない、というのも適応的な戦略でしょうね。少なくとも節約的です。

326e10go:2008/02/12(火) 13:32:39 ID:5/V6R9W6
>>319
「愛」ってもっと広い意味がありますよ。
全ての「愛」についての「感情」の発現が同じとは限りません。
色々な「愛」に対する「感情」の発現機序を考えてみては如何でしょうか。
例として、「親子の情愛」、「ペットの愛犬を愛する」、「登山家が山に登る事を愛する」または「スキーヤーがスキースポーツを愛する」

327:2008/02/12(火) 16:41:13 ID:QpQGFxc6
>配偶者間の感情が自分のコピーを守る感情を上回るわけないじゃん?

自分のコピーを守る為にこそ、ヒトは「愛」の感情を発達させたと言っているのです。その感情を発達させなかった個体は自分のコピーを残せなかったでしょう。つまりヒトにおいて、メスだけでは子育ては難しかったのです。
共同して子育てをするオスの行動、その行動を強化する為の「愛」の感情を発達させた個体が、そうでなかった個体より適応的だった、と言っているのです。
子供が残らないのに、「親子の愛」の感情が発達する筈もないでしょう。
「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

「親子の愛」の感情など一切抜きに、自分のコピーを残している生物など幾らでもいます。
大腸菌の細胞分裂、カビの胞子、タケノコ、イチョウの実、等など、etcエトセトラ。
そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。
NANさんはここでも、「利己的な遺伝子」を「親子の愛」に置き換えたに過ぎません。

ゴリラもチンプもボノボも、父親は子育てに関与しません。
そもそもチンプやボノボでは、子供の父性さえ特定できません。父性の混乱を目的にメスは乱婚を発達させたと言う説が有力です。主に子殺し防止の為に。
まして哺乳類一般では、その大半で、半分の性は「親子の愛」の感情など、殆ど発揮する余地が有りません。
NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

そもそも私は(>>313)で、
>>人間にも共通に見られる、生物一般の行動様式、哺乳類一般の行動様式(メスに必ず子育てが見られる等)を進化生物学的に押さえつつ、

として、NANさんの「>生物は適応度を最大限に高め、子孫をより多く残そうとするんでしょ」は既に、私の主張に織り込み済みです。
更に繰り返し述べているように、私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。
ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。


>しかし大センセーによる「愛の定義」ってなんだろうね?(笑。きっとまた凄いのが飛び出すな。

期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。
少なくとも私は、地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。


ところで………、
>ポイントはスルーしまくる誰かさんとの対話は終了。(No-316)
>314については特にコメントの必要なし。(No-315)

クゥー!!、スルーせずにコメントして欲しかったなあ!!!!

328:2008/02/12(火) 16:45:36 ID:QpQGFxc6
RE GBさん
>そもそも…ズレてません?

まあズレているのは有る程度確信犯なのですが、質問・批判・非難に応対する形なので、あの形以外今のところ考えられません。
若しズレていて興味に合わないのであれば、無視していただけると有りがたいのですが。

RE AH1さん
>なんか話が違う。うまく言えないんだが。

元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、その例として「愛の起源」を述べ始めたら、その中身が本論になってしまったと言う訳で。
内容はあくまでも私の個人的見解ですが、兎も角科学の俎上には乗ると思っています。


RE e10goさん
>「愛」ってもっと広い意味がありますよ。

ですから色々有るけれども、その似たような感情が人類の祖先の歴史の中で、全く独立に平行して発生、発達したとは考えられない。
最初はある一つの漠然とした感情が発達して、そのバリエーションとして広がったのだろう、と言うのが私の見解の訳で。それが>>319;です。

勿論e10goさんがそうでないと言うことなら、それはそれで結構ですけど。

329GB:2008/02/12(火) 19:56:08 ID:kYOag.zk
>>328
>まあズレているのは有る程度確信犯なのですが(略

あー、一言だけ質問を。

スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。

それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?
(いや、愛の起原の話自体は、興味深いし面白いですけど)

330:2008/02/12(火) 23:32:07 ID:QpQGFxc6
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。

うーん、
今一寸頭に浮かんだことを書いてみますね。だから今までの「愛」についての問題と違って、後で「訂正」と言うことが有り得ますので、その点、悪しからず。
それとGBさんの問題意識と噛み合うかどうか、それも自信は有りませんが。

愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、これら全ては「意識内容」です。そう言う点で実体ではない、つまり固まりのようなモノが有る訳ではない。
しかし愛と、妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想は明らかに違う。その違いはおそらく感覚器官を通しての意識への反映かどうか、の違いじゃないでしょうか。

唯物論の物質定義として、「意識の外にある客観的実在」と、単に言い切るだけでなく「感覚器官に与えられる」と言う条件が付きます。それは主に神に対する配慮です。
つまり、神(客観的観念論)の側は、「あなたがどう思おうが、神はあなたの意識の外に客観的に実在します」と主張する。
しかし神はどんなことをしても、どんなセンサーを持ってしても、感覚器官に与えられない。だから唯物論としては神を実在として認められない、と定義上判断・主張できるのです。

……んで、
愛の感情はその対象を、例えば恋人であろうが子供であろうが、犬であろうが物であろうが、感覚器官を通して意識に反映することで生じます。直接感覚せず頭の中で思い浮かべながら感じることも出来ますが、そのイメージは普通、過去において感覚した記憶に基づきます。
だから「愛」そのものは実体ではないが、その意識は実在的基盤を持ちます。
だから私も今まで、だらだらと人類の過去に遡って、進化人類学の知見や化石が示す実在的基盤に立ち戻って、「愛」を考察できたのです。それが正しいかどうかは又次の問題として。

勿論アプローチは色々有って、脳科学的に、ドーパミンがどうのこうのとか、心理学や様々な接近が有るでしょう。ただ私はそう言うことは全く無知で、多少知識のある進化人類学的な線から「愛」を考えてみたと言う訳で。

それは全ての自然科学の対象で共通のことではないでしょうか。
科学の仮説は全て意識内容だと言えます。しかしその対象が客観的な実在である限り、それとのすり合わせを通して真偽の検証が可能です。
唯物弁証法の「真理」の定義は、従って「客観的実在と一致した意識内容」と言うことになります。

しかし、妖精・ある特定の妄想(例えばカッパや座敷わらしなど)などは、どんなセンサーを持ってしても感覚されない。だからそれについての意識は実在的基盤を持たない。従って論じる人によって様々なバリエーションが、際限なく繰り広げられることになり、かつその検証が出来ません。

かと言ってでは妖精やカッパが全く科学の対象にならないかと言うと、民俗学や宗教学など、今私はその分野を列挙できないけれども、様々な人文科学、社会科学の対象として、例えば「そもそもそう言う意識内容は、どう言う背景の元に紡ぎ出されたのか」と言うようなことが研究されると思います。カッパの例は前に出しました。

例えば「霊」の起源は夢からだったろうと言う説が有ります。私もそれを支持します。
既に死んで肉体は無くなった筈の人、或いは遠くにいる筈の人が頻繁に「出現」する。脳や意識の働きについて全く無知だった原始時代に有って、それは肉体と同じような姿・形で、普段は肉体に付随しているが、時にそこから遊離して自由に動き回り、死んでも肉体と一緒に滅びることの無いモノとしての「霊」なるものを想定しないと、辻褄が合わなかったんでしょうね。

それは当時の人に非常な恐怖を与えたと想像されます。人は自分の与り知らぬところで、他人の夢に出てくる自分の「霊」の所業の責任を問われることになった筈だからです。
又、一度死んだ肉体との対意として考え出された霊は、その後更にもう一度死ぬとは考えられず、その霊の居場所として、冥界とか幽界とかが考案された訳です。

だから当時の人に在って霊は、決して死後のなぐさめと言うようなものではなく、逆に非常にみじめなものとして考えられていたようです。
それが古事記やギリシャ神話に共通に見られる、冥界の描写となっています。

同じように「神」についての意識も当然その背景が考えられます。これは哲学上の大きな問題でも有ります。
と言うことで、社会科学、人文科学も立派な科学だと思う私にとって、妖精や妄想であっても考察の対象にならないことはない、と言うことですね。

どうも直ぐ横道にそれてしまいます。GBさんの興味と又大きくズレてしまいましたかね。
それと上記は唯物論的な私の解釈です。哲学的立場が異なれば全く違った見解を持つでしょう。

331NAN:2008/02/12(火) 23:50:12 ID:G81kGdtk
うん、良く分かった。
アクア説議論の頃から感じていたことだけど、確定。
なにが確定したんだろうね(笑。

332GB:2008/02/13(水) 00:13:14 ID:zXfK7pu6
>>330
もう少し、じっくり考えて、ご自身で整理したうえでレスお願いします。
「実体」ではない「価値」をどう扱うか、がポイントですから。

333地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:29:41 ID:Y80wH3GM
さて、酒でも呑んでなければやってられにゃーレスでもするか(ためいき

>雄クン

>>295

>>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ

>と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿

そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。
都合のワリイところには決してレスしにゃーのは、「と」にゃんぜ(げらげら


>同じように地下猫氏が「物自体」に対し、どのような信仰をお持ちになろうと、それは地下猫氏ご本人の自由に属する問題だと言うことです。

だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿


>>僕も解説する力量がにゃーし、トピずれなんで聞かれても応えられにゃーんだけど
>として、確かにご本人の仰るとおり、議論の中身に関する具体的な反論は皆無でしたが、「聞かれても応えられにゃー」にしては、なかなかリキの入ったご批判でした。
>しかし「力量がにゃー」分の埋め合わせにウィキペディアを持ち出している辺り、あまり感心しません。自分の確認に使う程度なら兎も角、論争の根拠にウィキを使うのは止めたほうが良いと思いますよ。それだけで程度が知れます。

馬鹿を相手に謙遜すると、馬鹿はのぼせあがるものにゃんな。
僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿
具体的な反論ができてにゃーのはどこの馬鹿だ?>馬鹿
日本大百科もひいているが、字が読めなかったか?>馬鹿
そもそも、そのウィキにすら反論できてにゃーのは誰だ?>馬鹿

>私の「物自体」批判に反論がお有りなら、No-231で提起したように「流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか」に応じて、実際に議論の内容で反論してみたら如何ですか?
>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。

もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿
チミのような馬鹿には>>231

>○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係>においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。
>○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

こんなお笑いが馬鹿にとっては「見事な反論」になるといことはわかったよ>馬鹿
(ヘーゲルは本当にこんな馬鹿なことをいっているのか、典拠をしめしてほしいにゃ)
あのな>馬鹿
どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

334地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:30:17 ID:Y80wH3GM
つづき
>>296

>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。

だからな>馬鹿
僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿
科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿
聞いてもにゃーことを答えて何がしたいんだ?>馬鹿

ニンゲンは生物であり、生物の行動すべてに「生物学的・化学的・物理学的」な基盤があるなんて、ウルトラ観念論者でもにゃー限りは誰だって当然と見なすんだにゃ。
何を程度の低いねじ曲げをやってんだよ>馬鹿

ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。


>>297

>>あとね、NOMA原理はテツガクに詳しい雄ダイセンセイのおっしゃるとおりに不可知論に基づくものというより、………、

>地下猫氏がどのように解釈なさろうと、それは猫氏の自由です。
>ただ何ごとか主張されるときには「解説する力量がにゃー……」点は考慮されたほうが良いとは思いますが。
>なおグールドは「神と科学は共存できるか」の中で、何回か自分が不可知論だと積極的に表明しています。読んで無かったですか?

開いた口がふさがんにゃーよ>馬鹿
何度でもいうけど、物自体についてはチミに論証責任があることはわかるね? 力量がにゃーのなら、特定概念を批判しにゃーほうがいいよ。
それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。
アタマを振ると、頭蓋骨の中で干からびた脳みそがカラカラ音をたててにゃーかね?


とにかくな>馬鹿
チミはこちらの問いにまったく答えようとしにゃーな。
ねじ曲げて誤魔化すことしか脳がにゃーのだろうけど、それがことごとくバレバレってのは悲しいものにゃんぞ。
チミはアタマがわりいんだから、人前でものをしゃべるのはやめとけって。

335地下に眠るM:2008/02/13(水) 01:33:14 ID:Y80wH3GM
>GB
>スレの流れとして重要なのは、愛・妖精・キリスト教の教義・ある特定の妄想の扱い、対自然科学的認識という話ですよね。
>それぞれ個別に科学の対象になるかどうか、という話ではないですよね。
>それが分かってて、なぜ愛の起原にこだわらなくてはならないんですか?

その質問には僕なりの答えがあるにゃ。
われらが雄クンが、「愛がカガクの対象か」という話に拘泥しはじめたのは>>296だにゃ
ここ前後でのやりとりに答えがあるのではにゃーかと

>私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。
>多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
>>225 雄

>ほほう?
>勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?(げらげらげらげら
>チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー
>>291 地下猫

>一寸寒くなりました。どうも天気のせいばかりではなさそうです。
>折角の機会ですから、地下猫氏の提起された「愛」に関するクイズを素材にして、私の「少しばかり広い意味での科学」を使って考えて見ましょう。広いと言うのは私の理解が広いと言う意味じゃ有りませんよ。対象とする範囲が広いと言う意味です。
>>296 雄

と、ここからえんえんと雄くんの無意味なジャーゴンが続いているわけだにゃ。
これね、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」という雄ダイセンセイのカガクの定義に対して、「勘違いしているお馬鹿さんに対して、「チミは知らないかもしれないが、チミは本当は大馬鹿なんだよ」といってあげるのはチミによると科学かね?」という突っ込みがはいり、そこに対して有効な反論ができにゃーから誤魔化しているだけのことなんですにゃ。
字の読める人なら誰でもわかることなんだけど、雄ダイセンセイの科学の定義では「おまえ、くさいよ」「ごめんなさい、この子はあなたの子ではないの」も科学になっちゃうという指摘に対し、「対象とする範囲が広い」ことを示しても何の反論にもならにゃーことはわかるよね。

そもそもさ、この出来の悪いクイズについてdiamonds8888xからの適切な突っ込みがあり、出題者である僕がその突っ込みを妥当なものと見なした上で、クイズの出題意図を明示した後に、なお後出しで突っ込むことに何の意味がある? しかも、雄クンの書いていることって、僕が明示した出題意図を完璧に無視してるもんにゃ。これ、誤魔化し以外にはありえにゃーですね。しかも、すんごく程度の低い誤魔化し。

とにかく、確認しよう
雄ダイセンセイの科学の定義では
・王様は裸じゃないか!
・ごめんなさい、あなた。この子はあなたの子じゃないの
・勘違いしてんじゃねーよ、このブス
・はっきりいうけど、おまえ、臭いよ
といった言明は科学だにゃ。

あと、愛というコトバでインスパイアされて性欲・繁殖のことをえんえんと語るところから、
・雄は童貞ではないか
という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

336地下に眠るM:2008/02/13(水) 02:03:21 ID:Y80wH3GM
さてさて、本丸の話は、ドーキンスの「神は妄想である」の書評と、神と科学との共存のお話だよにゃ。

書評については僕としては言いたいこと言ったので突っ込み待ち。

あと、「共存」のお題にゃんが、僕としてはすでに「愚行権」の話題で終わっているんだにゃ。
馬鹿であることは責められるべきことではにゃーよね。(もちろん、馬鹿なことを言ったりやったりしたら、突っ込まれるのは当然)
現実的な他害についてはきっちりとカタをつけなくてはならにゃーが、馬鹿とか気にくわないとかいう理由で他者を非難すべきではにゃーです。馬鹿宗教がおかしな真似をしてきたらそれを個別で叩くことはしなければならにゃーとして、それと宗教否定は別物にゃんね。
これは、科学の作法というよりは、自由民主主義の作法なのではにゃーでしょうか。

もっといえば、スタージョンの法則「すべてのものの90%は屑である」なのではにゃーかと大まじめにいいたいにゃんね。
宗教者「も」90%は屑だなんてことはアタリマエだにゃ。しかし、屑が目立つということをもって全否定することはできにゃー。
信仰者だろうが無神論者だろうが、90%は屑にきまってるだろ。屑ってのはあくまで屑なんだから、屑の言動でその思想や立場を判断しちゃダメだろ。雄クンの言動をみて唯物論者を判断してはならにゃーよ。

各人の思想や宗教的立場を理由とした非難は基本的に不当だと僕は思う。
他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。どう転んでもお互いに屑なんだから、実際の行動をもってしか他者を非難してはならにゃーでしょう。これこそが自由主義の作法だと僕は思うんだけどにゃ。

あ、そうそう。個人的な好き嫌いは表明しても構わにゃーかもね。
ただ、多数派とか権力者の好き嫌いのあからさまな表明はすんごく問題だけどにゃ。

337NAN:2008/02/13(水) 05:24:40 ID:G81kGdtk
2月はさぁ、やけに忙しいんだよね。忙しいとこんな時間にタイプしてて、疲れるとネットを徘徊するんだけど…一応、反論らしきことを述べてるバカ君に応じておくのも礼儀かも知れないので(実は気分転換をしたいだけという説、濃厚)、ちょっと書く。

>>327:雄クン
>「配偶者間の感情」と「自分のコピーを守る」ことを、何故対立させるのですか?

頭がおかしいのか?「親子の愛情など後付で十分」と述べたのはどこの誰だ?
親子の「愛情」なんだろ?どう考えてもそれはメスが先に発現させるのが道理だろ?それを愛の起源としない馬鹿説を披露してるのはキミ。
云っとくけどな、愛には必ず相手が必要だなんて定義は誰がしたんだ?そもそも普遍性があり恣意的でなおかつ広範囲な解釈があるであろう「愛」を勝手に限定しておき、さらにその具体的な「現象の特定」さえ行わない卑劣な議論を展開してるのもキミ。

>そもそも自分のコピーを守ること自体は生物そのものの本質です。生物と言わば同義です。そこに「親子の愛」だの「感情」だのと別次元の問題でしょう。そんなものを特に持ち込まなくても、幾らでも理解は可能です。

つくづくどうしようもない馬鹿。
じゃぁ生物の本質が「愛」なんだろ?愛の科学的定義ってのが存在するのか?「愛と呼ばれるヒトに占有される情緒活動について」なんて云う議題の限定は誰もしてないんだぞ?

>NANさんが言う「親子の愛」の感情・行動など、それ程普遍的なものではないのです。

脳が腐ってるに違いない>雄クン。
つまり私が述べる「愛」はそれほど普遍性がないものなので説得力に乏しい、と。するとオマエサンの主張する愛はもっと普遍性があるのか?より限定された現象を以って「愛の起源」とか馬鹿丸出しの疑似科学をひけらかしている馬鹿には分からないよね。

>私は人間の『愛』の起源を「メスの『子育て』に協力する行動を発達させたオスはそうでないオスより適応的だったし、その行動を強化するために『愛』の感情を発達させた個体同士が、そうでない個体より適応的だった」としています。

じゃぁ「親子の愛は後回し」じゃねぇだろうが、馬鹿。
ていうかキミさ、キミが論じてるのは「オスの育児参加と勃起の正当化」だけじゃん。キミの愛は中学生を庇護するには役に立つかもね。ああ、もしかしたらキミが中学生なのか。だったらゴメン。本当のことを云えばいいってもんぢゃないよね。そして中学生をなめたらいけない。きっと雄クンより頭がいいからね。

雄理論によると、愛の起源は「男女の愛」であり、しかも、オスがメスの子育てに参加する動機として適応的だった、という説だな。しかしそれ以前にメスは子育てをしていたし、子供を守ろうとさまざまな外敵や障害と闘っていたはずだが、それは自己愛とその拡張であり生物全般に共通する行動で珍しくないから「愛ではない」と否定しているのが雄説ってことだね。
そんな小学生でも分かるくらい馬鹿な話をして恥ずかしくないんだから尊敬に値するよ。

338NAN:2008/02/13(水) 05:25:19 ID:G81kGdtk
>ここでも『子育て』はとっくに私の主張に織り込み済みです。

ひどい詭弁だし、もちろん本人は自説が破綻してることに気付いていないし一生気付こうとしないことを予言。


>期待に背いて申し訳有りませんが、既に確立した概念としての「愛」は複雑で多岐に渡るでしょう。それを一言で言うことは出来ないし、その必要も有りません。それは言語学の分野でも有るでしょう。私が述べているのは非常に漠然とした、そう言った感情の「起源」についてです。

予想通りのドンピシャ!この卑怯で馬鹿な屑は絶対に自分から愛の定義なんかしないことを150%予想してたんだ。
あのなぁ「漠然とした感情の起源」を科学的に探るんだったら、愛なんて難しい情緒をパネルに出さなきゃ良かったの。だいたいお前が愛を知らないじゃん。知ってんの?子育ての経験や出産の経験や育児の経験や子供に死なれたり成長した子供を巣立たせた経験は?オムツにべったりついたウンチを処理した経験は?それが愛なんだろ?

いぢめてばかりでも仕方ないので、私と共通しているポイントだけ指摘しよう。「子供(育児・出産・繁殖)に対する情緒的反応」という点に於いてのみ、僅かに二つの主張は被る。また、私の視点はどちらかと云えばメス視点であり、雄クンの視点はオス限定の馬鹿視点。だがしかし、育児をキーとした情緒の発現について論じるのであれば、出産を担うメスが子供に持つ感情を先にプロットしない理由は、まともな思考回路を持つモノにはまったく理解できないだろうね。

>地球を「愛の定義」で理解しようとは思わないし、(>>306)でのNANさんの「愛の定義」に当てはまらない現象など、幾らでも挙げられます。

ぢゃぁ挙げろよ。具体的な論拠も提示しないでなにが反論だよ、屑。
っていうか文章おかしいぞ。私の「愛の定義」に当てはまらない現象なんかいくらでもあるだろ?先に述べたように、私は私個人の恣意的で勝手な「表現」として愛を「文学的に」述べたんだよ、ワカランか?で、それに当てはまらない現象があるからどうだって云うんだ?ロケットが飛ぶから愛じゃないとか云い出すのか?鼻から脳が垂れてるんじゃないのか?

メスを犯したくて仕方ないから、ヤらせてくれたら育児に参加するし外敵から守るぜ、ってのが雄クンの云う愛の起源だな。素晴らしいエレクチオン肯定理論だ。でもオマエサンがそんな馬鹿話をひねくり回してるから、段々正体がバレてじわじわ包囲されてきたのに気付いてないんだろうな。

339NAN:2008/02/13(水) 05:52:35 ID:G81kGdtk
馬鹿になにを云っても無駄だろうけど、本論と云えば本論なので
>>314

>神の実在は、聖職者にとって死活問題だろうし、熱心な信者にとっても生きる支え、心のつっかい棒でしょう。バチカンや協会を頂点とする壮大なシステムが虚構となるかどうかの深刻な大問題です。

鼻と耳から脳が垂れている馬鹿。
神の「自然科学的な実在」なんかとうの昔に聖職者が否定してるよ。神の自然科学的な実在ってのはつまり「創造科学」そのものぢゃぁねぇかよ。そんなもん主張してる教会は異端扱いされるさ。「超自然的な実在」がポイントなの。むしろ自然科学的に実在するような神じゃぁ、信仰の対象としてあまりに矮小だろ?んなことも分からないのか。

>若し「神は実在するがその証明は出来ないものなのだ」と主張する人は、同じ理由でスパモンの実在も認めなければなりません。

あのね、私は「自然科学的な意味における実在」と「ある個人または集団内における経験としての実在」を分けて考えろ、と何度も何度も書いてるだろう。無論、スパゲティモンスターが実在すると主張するヒトにとってそれは実在するんだよ。しかし、客観的実体の観測証明ができない、ということ。アニメキャラだろうがダースベイダーだろうがスクリーンの中に確かに実在するだろ?

>事実の経過は、死活的な必要度に迫られて、神のグループが総出を挙げて、長い間膨大なエネルギーを投じたにも関わらず、こんな簡単なこと(不在証明と比較して)も証明できなかったと言うことです。

本当に、本当に、本当にバカなんだなぁ>雄クン。
いい加減あまりの脳腐れが哀れに見えてきたよ。
まっとうな信仰を持つヒトはね、神の存在証明なんかしねぇよ。だって、彼らにとって神はいつでもそこにあるんだから、証明する必要なんかないの。
それを集団幻想だとか妄想だとか云うことだってできるかも知れない。しかし、彼らの『経験』を否定する論拠なんかどこにもないの。これがいわゆる自然科学の限界だろ。

科学万能主義のバカ屑に云わせれば、それは無論「幻覚」としか云いようがないかも知れない。
だからなに?って云えるのが信仰なんだぜ?

>それでも神が実在するとするなら、それは「事実」ではなく信仰です。信仰は思想・信条の自由として、科学の側も尊重すべきでしょう。

どんなまとめだよ(ゲラゲラ。
事実の矮小化を勝手にすんな、屑。ある時、ミジンコ大王(仮名)の脳裏に光が瞬いた!お前は井戸を掘れ!井戸を掘った結果、鉱脈を探り当てたミジンコ大王(仮名)は莫大な財を成した。ミジンコ大王(仮名)の脳裏に瞬いた光とそのことばを自然科学的な意味で実証することは不可能だ。んなもん嘘かも知れない。だが、ミジンコ大王(仮名)の経験した「なにか」を否定することは、どんな方法でもできねぇんだよ。云っとくけどこれは心理学の基本だぜ?(心理学を科学と呼ぶかどうかは保留。しかし学問であることは間違いなく、有用である)

340NAN:2008/02/13(水) 06:00:46 ID:G81kGdtk
>>339について

アクア説議論の足跡論しかり、愛の起源しかり、物自体しかり、ポイントはスルーしまくり論理は破綻しまくりで、科学的論拠を提示されても一向に認めようとしない「一貫したバカ」を繰り返している雄クンの>>314が、あまりに薄っぺらでバカ丸出しだったので放置していた次第です。しかしバカが執拗に馬鹿なことを述べているので「お前はバカだね」と優しく返したのが>>339です。

341diamonds8888x:2008/02/13(水) 06:06:18 ID:jcR/Lf4.
>>336
> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

 おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。


 ところで雄さんは、自然科学的に存在するばかりか自然科学の対象ともなっている『愛』については詳細に立証してきましたが、それは「自然科学的には存在しない『愛』がある」という言明の否定にはなりませんし、「自然科学的には存在しない『愛』についての学問にも価値がある」という言明の否定にもなりません。ここがずれているポイントじゃないでしょうか?

342地下に眠るM:2008/02/13(水) 10:40:07 ID:cizMQ0FI
>> 他者を非難できる根拠は、具体的な言動(特に他者危害)以外はムツカシイでしょうにゃ。

> おおっ、罪を憎んで人を憎まず、ですね。

ちゅうよりも、「我が身かわいさ」ですにゃ。
基本的人権・自然権の理屈って、非常に普遍性・有用性のある相互安全保障ツールだと考えていますにゃ。
どんな反社会的な思想であっても、考えているだけでは罰せられない、というのは僕のようなロクでもにゃーことしか考えられにゃー屑にはありがたいお話でしてにゃ。

そもそも、ある特定のAというイデオロギーとかイズムを否定するのは、他のBというイデオロギーなりイズムになるはずだと思うのですにゃ。
信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。
べつに、イデオロギー同士、イズム同士でケンカしたって構わにゃーのだけど、自然科学の名で特定のイデオロギーを否定するというのは、自然科学をイデオロギーと化してしまっていることにほかならにゃーと考えますにゃ。
で、この立場を「科学主義」というわけだろ? 科学にとって迷惑なイズムだよにゃ。

・宗教からの領域侵犯に対する各個撃破はバンバンやってくれ
・宗教そのものの否定になると、科学をイデオロギーと化すことになり、科学主義である

つまり、共存を前提としにゃー立場は科学主義だ、というところですにゃ。

343うに:2008/02/13(水) 11:31:32 ID:???
>あと、愛というコトバでインスパイア(中略)という仮説を僕の生活上の相棒が唱えておりますにゃ。

おいこらしばくぞ

344AH1:2008/02/13(水) 12:32:01 ID:sNMJ1V0Y
皆さんが既に述べておられますけれど、

>元々、「愛は自然科学的に存在するか?」と言った問題に対し、私は関与しうると言う見解で、

ええ、そりゃ関与し得ますよ。だって生物学的な基盤の無い事を生物ができるわけがないですから。
その事に感慨なり感動を覚えるのも当然、一つの読み方でしょう。
ですが、例えば「愛」はドーキンス以前にもあったし、表現されてきたし、人間は感動してきたわけでして。

というのも何となく本論からずれた話な気がしていて、結局、diamonds8888xさんの >>341 が要諦かと思います。

345ちょちょんまげ:2008/02/13(水) 16:51:04 ID:vUxNW.gI
猫さん

>信仰というイデオロギーを否定するのは、無神論という別のイデオロギーであるということにゃんね。

「否定」でなく「拒否」(お前さんは採用すればいい。でも俺には無用。)であるならばイズム同士の喧嘩には本来ならんわけですよね。
それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

ですかね?
それとも後者は共存まで否定してるわけではないから、非・科学主義者でしょうか。

346地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:05:49 ID:Y80wH3GM
>ちょちょんまげ

各個人は価値中立を要請されるわけではにゃーんだ。
イデオロギーが問題となるのは「党派」においてですからにゃ。

最初にいっていた通り「馬鹿を禁止すること」はできにゃー。
だから、人種差別主義者であろうと性差別主義者であろうと、個人のもつ非合理な主義とか思想を禁止することはできにゃーよね。ちゅうか、国家権力がシステマティックに洗脳でもしにゃーかぎりは禁止しようがにゃーし。
個人が何らかのイデオロギーに染まっているなんて、アタリマエもいいところだし、それは何ら責められるべきようなことではにゃーわけだ。馬鹿なイデオロギーを奉じていても、馬鹿であることそのものを責めてはならにゃー。

問題は、価値中立が要請されるべき領域で特定価値の押し付けがなされることだにゃ。価値中立が要請されてしかるべき領域とは、司法・立法・行政などの公権力の発動、あるいは教育や医療などにゃんね。たとえば公教育における特定宗教の押し付けは基本的人権のコア中のコアである良心の自由の侵害だにゃ。公的領域においては、馬鹿が許容されてはならにゃーのはもちろん、特定のイデオロギーに偏ることはダメダメだにゃ。少なくとも自由民主主義政体においては。
で、
自然科学という社会資源にも、やはり価値中立が要請されてしかるべきだと僕は思う。自然科学の価値中立とは、自然科学のもつ属性というだけでなく、社会的に要請されるものでもあるのですにゃ。

ドーキンスのまずいところは、自然科学(進化生物学)の看板を背負って宗教否定をしているところだと思うにゃ。ドーキンスは自然科学(進化生物学)を、自分好みの特定の政治的党派にしてしまっているにゃんね。
宗教が気にくわにゃーのなら、自然科学の看板なんて背負わにゃーで、個人として反宗教の活動をすればいいと思うにゃ。自らの専門領域とは別個に、自らの良心にしたがって政治的な活動をする科学者はいくらでもいるにゃ。これはまったく問題にゃーのよ。ただ、専門領域に関連して政治的な発言をする場面においては、何よりも価値中立が要請されなければならにゃーはず。

あ、いっとくけど、個人に価値中立が要請されないというタテマエはタテマエとして、友人や家族に、自らの人格をかけて特定の価値を要請するというのはもちろんアリ。親の判断でガキに洗礼をすることを僕は否定できにゃーです。

347地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:39:26 ID:Y80wH3GM
ちょっとまとめなおすと

自然科学が特定宗教と同列にあるイデオロギーのひとつであるとすると、
「仏教の見地から言って聖書はまちがい」
「共産主義の見地からいって聖書はまちがい」
「自然科学の見地からいって聖書はまちがい」
これらの言明は、各党派の言い分としてすべてなりたつ。

自然科学が特定のイデオロギーではなく、価値中立を要請されるいわばメタレベルの何かであるのなら
「自然科学の見地から」特定のイデオロギーを批判することは失当になるにゃ。

自然科学においては、思考節約の原理から神(=超自然的存在)の存在を措定していにゃーだけであり、神の存在を否定しているわけではにゃー。
だから、自然科学の名において神(=超自然的存在)を否定するということは論理的に失当であるだけでなく、無神論という特定のイデオロギーを支持する発言となり、価値中立が成立しなくなってしまうにゃ。

さらにいいかえると
神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

つまり、
神との共存は自然科学に対して要請されるべき立場だということだにゃ。

この結論はNOMA原理とはだいぶことなるものにゃんね。NOMA原理においては宗教と科学は対等にゃんが、この「価値中立の要請」の理屈では、自然科学をメタレベルに位置づけているものですからにゃ。

348地下に眠るM:2008/02/13(水) 19:46:03 ID:Y80wH3GM
あ、わすれてた
>>343

僕はウソいってないもーん

349NAN:2008/02/13(水) 20:12:11 ID:G81kGdtk
>>345
>・信仰そのものの否定を発言すれば科学主義者
>・信仰そのものを拒否する理由がその否定を含んでいるならば、発言しなくても科学主義者

「自然科学を利用して(=欺瞞)」というフレーズが頭につくかどうか、と、主張を行う発言者の社会的ニッチによって左右されることなんだろうね、多分。学者や研究者などが自身の成果をベースにして「…ゆえに宗教を否定する」と述べればまさに悪しき科学主義者の出来上がり。そういうことじゃぁないかな。

>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

その辺が「ニンゲン社会」のムツカシイ有様なんでしょうね。「私」が「私自身」の主義信条を選択するにあたって、他者への害をもたらすものでないのであればどこの誰にも遠慮や謙譲など必要ないはずですが、その「意思」をひとたび発言した途端に党派を生む契機となり得る。そこまで想像できるまともなイマジネーションを持つヒトはいろいろと悩むのでしょう。また、そういう「悩み」があることに、実はヒトとして生きる意義があるのではないでしょうか。

また「すべての宗教は否定(批判)の対象である」とするのか、個別に、しらみつぶしに否定していった結果「90%かそれ以上の宗教は否定の対象となるけれど、残り10%以下については熟慮と検討の余地がある」という(以前にも出てきたフレーズですが)フェイルセーフを心に持つという、知的なゆとりにこそ相互理解の契機が隠されている気がします。要するに『不当な一般化→イクナイ!』ってことですが(笑。ちなみにこれは、真っ当な科学的探究心そのものだ、と思います。

350NAN:2008/02/13(水) 20:20:30 ID:G81kGdtk
>>347

参った(苦笑。素直に納得してしまった。地下猫氏を褒めることはしたくないのだが…(笑。
少なくともNOMA原理というチンプンカンプンな理屈よりも、科学が科学たる所以を的確に述べているなぁ。

>神を否定しないときのみ、自然科学はメタレベルの存在でいられるわけだにゃ。

なるほどね。言葉にはなってなかったんだけど、そういうモヤモヤした発想が私の頭の中のどっかに常にあったので、NOMAとか宗教議論に対して「なんか違うんだよね、基本的に」という思いが吹っ切れなかったらしい。

351AH1:2008/02/14(木) 15:03:11 ID:sNMJ1V0Y
>>345
>それでも、「拒否」する理由は当然あるわけで、そこで「拒否」する理由を述べたら(私なんかの場合は)どうしても「否定」になっちゃうと思うんです。

あれこれ言っておいてなんなんですが(笑)、ちょちょんまげさんが「自分は宗教なんか否定したいね」と仰るのなら、それもやはり「ああ、そうですか」と言うべきものなんだろうと思います。
あとは・・・仰っていたフェイルセーフの感覚という奴で、自問してゆくよりないのではないでしょうか。余人があれこれ問いただしたり、ズカズカと批判するのも(それもまた自由ではあるのでしょうが)、大きなお世話であり野暮であるような気がします。
いや、こういう場で対話や議論をする場合には、言ったり聞いたりしないと始まんないんですけどね。あくまで普段の話。

352地下に眠るM:2008/02/15(金) 12:22:15 ID:Zuuc0PyM
>>347を補足

特定宗教と自然科学が同一レベルにあるイデオロギーであるのなら(つまり価値中立が要請されないのなら)、「神が存在すると主張する側に証明義務がある」という言明は正当だにゃ。
しかし
自然科学が価値中立を要請されるメタレベルにある知識体系であるとするのであれば、自然科学の側が特定宗教の教義を否定する場合はあくまで事実にもとづいて証明を行なう必要があるだろにゃ。つまり、神の不在証明をおこなう責任が自然科学の側にあることになるにゃんね。

自然科学が本当に価値中立といえるのかについては、いろいろと議論がありますにゃ。
ただ、ここで僕はその体系の属性として価値中立なのか否かではなく、価値中立が要請されるか否かという観点を導入いたしましたにゃ。
自然科学が価値中立を要請されることを是認したのなら、専守防衛に徹しなければならにゃーということも理解されるはずですにゃ。

353:2008/02/19(火) 07:25:26 ID:QpQGFxc6
既に撤収モードの様相で、今更ぶり返すのも気が引けるのですが、地下猫氏、NAN氏からスルーを激しく咎められ、レスを要求されています。
即レスが出来なかったことを詫びると共に(しばらくゲンナリして書き込む気にさえならなかった)、極力スルーの無いよう逐条的に対応してみようと思います。
おかげでえらく長くなってしまいました。その点も悪しからずご了承下さい(ホントに長くなりました。でも2人分ですし、勘弁して下さい)。

RE 地下猫氏

>>(「自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明(>>219;)」…と言う地下猫氏のご指摘に、「そんなこたあ言って居ないよ」として、上記冒頭の解答をしただけです。後出しのすり替え話みたいなことを言われても、返答のしようが有りません。

>言ってんだよ>馬鹿
僕の論点は、その(自然科学的な)実在を信じていようが信じていなかろうが関係にゃーというところだにゃ。チミのような馬鹿を相手に、「後出しのすり替え」をする必要なんてあるわけにゃーだろが>馬鹿
>そもそも
「空想上のものという前提だろうが、実在していると妄想していようが、それはその学問的価値には直結しにゃーのだよ。僕はもともと、研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは「イズム」であるという文脈で話していたにゃんぞ。」
という話は華麗にスルーにゃんな。もうこれでこの話を書くのは4回目にゃんがな。

論より証拠、「自然科学的に『実在』しないものを対象にした研究に意味はない」等という、そんな「白痴的言明」が、若し有ると言うなら私の書き込みの中から提示してみて下さいな。
言っていないことを「言っていない」と事実関係を返しただけのこと。
「学問的価値には直結しにゃー」だの「研究者の世界観や信念と学問的価値が直結するのは『イズム』である」だのと、猫氏の特異な「論点」を持ち出せば、私の言ってもいないことが言ったことになるらしい。

こちらこそ同じことを何度も言わせないで下さい。


>だからカントの物自体概念が、完全に論駁され尽くしたことを根拠をもって示してみろよ>馬鹿

私は(>>230;)で、kaさんの「よろしければソースください」へのコメントとして、
>>不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
>>「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

…と、小学生にも分かるように明確に書いておきました。「客観的なソースと言うものがある訳では有りません」とね。
更に「『完膚なきまでに論駁されている』と言うのは、私はそう思っている、と言うことです」と付け加えながら。
しかもわざわざ「不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので」と、猫氏のような立場への配慮も忘れていません。

これ以上どう書けば良いんですか? ここでは自分の意見や判断を主張として述べることさえ出来ないのですか? クワバラクワバラ。

354:2008/02/19(火) 07:25:57 ID:QpQGFxc6
>>ウィキ等を引用したり、「科学者」を引っ張り出して余計な回り道をする必要なく、いっぺんで本筋の決着が着きますよ。きちんとした反論が出来ればね。
>もうすでにNANが反論してるだろ。字が読めにゃー野か?>馬鹿

NANさんの「反論」が猫さんの反論の代用になるとは、初めて知りました。麗しき隣人愛ですが、だったら最初からそう言って下さいよ。ホントに。

猫氏は関係ないとして、NANさんの「反論」も、哲学と実証科学である物理学との混同が有るのですが、しかしそれでもNANさんの物理学的「反論」は気になってはいました。
同じような問題意識からだと思うのですが、(>>280;)の、diamonds8888x:さんの問題提起は、より興味深く受け止めていました。

>「存在するか?」と言われると、何か形のある物体的実在物の存在だけを思い浮かべがちな人が多いかも知れませんが、形のない現象というものも立派な【自然科学的な意味で】の存在です。その意味では、燃焼も心も意識も戦争も会社も国家も存在しています。まあ学問の対象とするためには人文・社会科学であれ自然科学であれ、厳密な定義も必要でしょうけど。
 生物種とか万有引力の法則とかの抽象概念となると、【自然科学的な意味で】の存在と言っていいのかどうか・・
>雄さん231のヘーゲルの言ったことは、つまり以上のようなことなんでしょうか? (>>280;diamonds8888xさん)。

哲学と自然科学との関係は、私にとっても面白そうなテーマでした。
diamonds8888xさんは(>>279;)で、燃焼を例にとってフロギストン説を紹介されています。
同じように、モレスコットやビュヒナー、フォークトなど、俗流唯物論者による「肝臓が胆汁を分泌するように、脳髄は意識を分泌する」とする説が主張されたこともあり、これが「タダモノ論」として、唯物論の面目を多いに失墜させた時期が有った訳です。

不可知論を巡る環境も、私の印象では19世紀までと20世紀では大きく変わったような気がします。
いわゆる「観測問題」「不確定性原理」「からみ合い」或いは、「観測の地平」「ブラックホールの内側」「宇宙誕生以前」「他世界宇宙」等など。
本当はこれらのことについて、diamonds8888xさんなどからもお知恵を拝借しながら、どのように考えてゆけばいいのか、と言うのは私にとっても大きな興味でした。

しかし如何せん、「愛」の問題だけでもこれだけ物議をかもしており、更にこの上トピズレになるようなこの問題を提起することに多いに躊躇が有った訳です。かと言って中途半端な形で論じたくもないし。
…と言うことでこの件は、NANさんからの反論も含めスルーしたままです。それは率直に認めます。

355:2008/02/19(火) 07:27:23 ID:QpQGFxc6
>どこの世界に「現象を全て知る」者がいるんだ?>馬鹿
「現象を全て知る」ってなんのことだ?>馬鹿
逃げずに答えろよ>馬鹿

哲学的な認識論、つまり「考え方」の問題と、実証科学である、主に物理学での物質理解の混同に過ぎません。それと単に猫氏が理解できなかったに過ぎません。私が逃げていた訳では有りません。

猫氏お得意のWikipediaによれば(「イマヌエル・カント」の項)、
「意識は、その二種の形式(感性と悟性)に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できないが少なくとも課題として必要とされる概念とされる。理性推理による理念は、いわば絶対者にまで拡張された純粋悟性概念である。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。」とされています。

この「感性と悟性」によって認識されるものが、現象とか性質であると理解するのに何の不思議も有りません。それ以外に感性と悟性が何を認識するのですか?
そしてそれによって認識されない「理性的理念」をカントは『物自体』と呼んだのです。
この理解は元々猫氏が最初に持ち出したカント自身の主張ですよ。Wikiによってもね。これが哲学的立場の違いを超えたカントの「物自体」解釈です。

「僕がチミよりテツガクの知識が少ないということはにゃーから安心しろ>馬鹿」とする猫氏の、Wikiとは違う「物自体」解釈をお聞きしたいものです。
そしてヘーゲルはカントの主張を受けて、「若し現象を全て知ることが出来たら、」と問題を建てたのです。ここに哲学上何の問題が有りますか?
自然科学でもよくやるでしょうよ、思考実験というのを。「若し、光の速さで走ったらどうなるだろうか?」って言うアインシュタインの思考実験は、実際に光の速さで走らなければ成り立たないのですか?


>>「愛」は精神的なものです。その意味で「愛」そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません。だからといって「愛」が科学の対象にならない訳では有りません。
>だからな>馬鹿
>僕は自然科学的な意味で実在するかと聞いたんだにゃ>馬鹿

猫氏が引用してくれた部分に、既にチャンと書いて有るじゃないですか。「その意味で『愛』そのものは形も無いし、いわゆる実体では有りません」と。この件、おしまい。

356:2008/02/19(火) 07:27:58 ID:QpQGFxc6
>科学の対象になるかなんて聞いてにゃーだろが>馬鹿

『重要な問い』に対し、科学は応えられるか否か? と言うのはそもそもこのスレッドの最初の頃からの中心テーマの一つだった筈ですよ。
猫氏自身(>>21;)で、
>科学は「重要な問い」については直接的にはノータッチ(判断の材料を提供するという意味では無関係とはいえない)であり、自らに判断の資格があるともみなしてにゃーわけだ。
>宗教は「重要な問い」に答えられるか否か
について、科学は判断できないし、してはならにゃーのよ。もしそれを行ったら、それこそNOMA違反だろ?

……と述べて、自分の判断を示しています。「科学は………ノータッチであり」と言っているのは猫氏自身ですよ。
私は「そうじゃないだろう。決してノータッチではないだろう」と言う立場で、重要な問いの一つとして想定されている「愛」について、進化人類学と言うアプローチを借りて見解を述べただけです。愛は猫氏のクイズにも題材として使われていますしね。

>ちゅうわけで、愛を「自然科学」で説明する雄ダイセンセイのおっしゃりようは、僕の質問とは関係にゃーです。

私の科学観「広く科学を捉えている云々」についての、「チミの科学の範囲は広大無辺にゃんなあ、ぶわっはっはっはっはっはー」と言う猫氏からの揶揄に対し、その釈明の教材として述べたもので、私も猫氏のクイズと直接関係にゃーと既に述べています。単なるひとつの例としてです。一体どこが問題なんですか?
揶揄に対する反論でさえ、どこかで述べられている「僕の質問」の内容から一歩でも外れると、叱られる訳ですか?


>それと、NOMA原理が不可知論だとしたら、NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになるけど、そんなはずにゃーことはチミのような馬鹿にはわかんにゃーのかな? 科学者としてグールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してるわけではにゃーんだよ。

私のどこにそんな書き込みが有りました? わら人形はもういい加減にして下さい。

NOMAが、科学と神の間に「重複しない」と言う形で明確な線引きをし、その片方に「教導権が及ばない」とする点で、カントの物自体と同じだとする私の判断に、何の不自然が有るのですか? しかもグールド自身が自分のことを「不可知論者」だと、積極的に表明している、非常に強力な傍証もあってのことです。

不同意ならその内容に沿って、猫氏自身の見解を述べればそれでいいことじゃないですか?
猫氏は議論の中身には殆ど立ち入ることが出来ないのに、外形的なアレコレに重箱の隅的なクレームだけはお達者だ。しかしその殆どはわら人形、良くて見解の相違に過ぎない。

「NOMA原理を支持する信仰者は不可知論者ということになる」「グールドは不可知論の立場を表明するけど、信仰者にその立場を強制してる」等と、私は述べていないけれども、グールドが強制していようがいまいが、その線で書かれた著作を読んで支持する人は、当然その一定の影響力を受けるだろうことは、考えて分かりません?

私が考えるNOMAの一番の問題は、繰り返し述べているように、霊感商法やマスコミでの心霊現象、スピリチュアル等の取り上げに対する、科学の側からの批判の躊躇です。或いはマスコミや「霊能者」の開き直りの根拠としてです。
だからこそ私は(>>218;)で「グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが」と書いたのです。グールドを惜しめばこそです。


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