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身延相承書と池上相承書について

1管理者:2003/08/12(火) 07:39
スレッドテーマのご提案がありましたので、スレッドを立ち上げます。提案文は以下の通り。

最近、古書店にて買った本「謎の日蓮正宗・謎の創価学会」によると、身延相承書と池上相承書は後世に作られた偽書であると書いてありました。これは事実でしょうか。

70犀角独歩:2003/09/22(月) 18:50

愚鈍凡夫さんは、坊さんとの付き合いはないのですか?
順不同が遺恨なしという考え方は彼らにはないでしょう。
師弟子、入門の順位を喧しく言う社会です。
法要をやるのでも、その席順というのは厳しく決まっています。
法蝋の順位を常に意識しています。

本弟子六人の定で「不次第」としたいのは当の本人たちではなくて、その門下であったのではないでしょうか。
わたしは読み解けませんが、遷化記録の葬送次第の役割分担から、その弟子・檀那の序列がはっきりとわかるのではないでしょうか。

71愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 19:06

日蓮宗の住職に知り合いはいますが、あまりこういった話はしません(一般人とは、地雷の埋まっている場所が違うもんですから)。

ただ、絶対的なカリスマ的指導者がいなくなった時のことを考えて「不次第」、「此六人は日興第一の弟子なり」との配慮がなされたのではないかと思うのです(取って付けた感じは否めないですが)。

72犀角独歩:2003/09/22(月) 20:33

愚鈍凡夫さんは、興師を、いまでいう民主平等主義者であったと考えているのでしょうか。

遷化記録の筆者本人である興師が兄弟子二人がいるのにも拘わらずに「不次第」と当人の意志で書いたとしたら、わたしは興師の性格を疑います。しかし、それが蓮師の考えであれば書記に徹したと言うことでしょう。

さて、どちらなのでしょうか。そこから、弟子分与帖の意味も考えられるのでしょうね。

73愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 21:14

『宗祖御遷化記録』が弘安5年10月16日に記され、「日照(日昭?)日朗日興日向の四人の裏判之れ有り」(祖師伝)とありますから、偽造したのでなければ、「不次第」とは総意の上であると言えると思います。
ただ、その後、本六が宗門として纏まることなく、それぞれの道を歩き出したわけですから、日興師は平等主義の弱点を肌で感じていたはずです。要するに、絶対的な師がいなくなると、互いに支え合うことなく、各々の道を歩き出すということを。
それでも敢えて、「此六人は日興第一の弟子なり」とあるのは、平等主義を貫こうとしたのではないでしょうか(飽くまでも、日興師の筆であるとの前提ですが)。
この本六に対する平等主義は、日興師の意志ではなく、蓮祖の遺言だったのかも知れません。
そして、それを頑なに守ろうとしたのかも知れません。

74愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 22:04

>>73:の補足です。
平等主義の弱点として、扇の要がなくなった時、各自がバラバニなるといった弱点がありますが、逆に、危機感を持って1つに纏まる場合もあるわけです。
「不次第」が蓮祖の意志で、「此六人は日興第一の弟子なり」が日興師の意志であれば、後者を選択したのではないでしょうか(或いは、そう願ったか)。

75愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 22:55
>>74:訂正です。

誤→各自がバラバニなるといった弱点がありますが
正→各自がバラバラになるといった弱点がありますが

です。悪しからず。 m(_ _)m

76犀角独歩:2003/09/23(火) 08:49

愚鈍凡夫さん:

重ねて突っ込むようで申し訳ないのですが、
仮に6人を平等に扱ったとしても、多くいる弟子のなかから6人だけを特に選び出すのが平等主義といえるのでしょうか。

77愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 09:54

皆さんお早う御座います。
犀角独歩さんへ

> この本六に対する平等主義は、日興師の意志ではなく、蓮祖の遺言だったのかも知れません。

集団指導体制を執り、一極集中を避けたという意味では、個々の責任分担に置いて平等なのではありませんか。
ただ、2つの遺文に出てきた短い文ですから、それだけで判断すべきことではないですし、推察の域を出ないことです。
違う言い方をすれば、10の能力が有る者は10の能力を発揮し、5の能力しかない者は5の能力を発揮する。つまり、能力に応じて自分の出来ることを存分にやる(適材適所という意味で)。そういう意味では平等なのではないかと思います。
これは、日蓮教団がそうであったという意味ではなく、そうであって欲しいということです。

78犀角独歩:2003/09/23(火) 10:28

愚鈍凡夫さん:

> そうであって欲しいということ

ということならば、わかります。

わたしは興師ほど、六老のなかで頑なな人はいなかったと思っています。
厳格主義者、勝劣主義者、その故の孤立とも見えます。
しかし、反面、その排他的とも見える姿勢であるからこそ、五老方に先んじて“日蓮宗”としての発想を誰よりも早く持っていったのだろうとも思えます。
その意味でまるで平等主義者とは見えないので、突っ込みましたが、愚鈍凡夫さんの願望として、論の展開であれば頷けます。たしかにそうあるべきだと思います。

79三学無縁:2003/10/31(金) 22:39
独歩さん

お久しぶりです。
興師の実像というか、わたしは、いまだにつかみかねています。
頑なな人だったのだろうとは思うのですが、融和をも忖度する
人でもあったのでは、と。
上足がたが、波木井氏の信仰や言動を非難して身延に参詣しなく
なったときに、興師は、波木井氏を庇う書状を書いています。
まあ、結局は身延離山したのですから、昭朗常師らの考えが正し
かったということになりますが、興師としては蓮師滅後の門下を
なんとか分裂させないように、と、当初は考えていたと思うのです。
以前、どなたかが言っておられましたが、
五一相対とは、日向VS五老僧
という考え方を支持するものです。
つまり、現在いわれている五一相対は誤りではないかと思います。
典拠となる「所破抄」「門徒存知事」の来歴と信憑性に問題はないだろうか、と。

ちなみに、日蓮教団が、天台宗から名実ともに独立できたのは、江戸時代に
なってからですし、それも神道によるお墨付きによるでした。
鎌倉方の「天台シャモン」の言も、現実に存在する日蓮門下集団を私度僧としない
ための苦肉の策と考えることはできないでしょうか。

80犀角独歩:2003/11/01(土) 15:32

三学無縁さん:

お久しぶりとご挨拶申し上げてよいやら、過日はまことに有り難うございました(これはこのご挨拶までで)

79にお記しのこと。
確かに仰るとおりであろうと思います。

空き缶さんにはお叱りを受けるかも知れませんが、わたしは六老方のなかでもっともはやくから蓮祖教学に新解釈を加えていった一人であると思うわけです。
その典型が御影信仰でした。(この点で愚鈍凡夫さんがこの御影を彫(塑)像ではなく絵像であると指摘された達観に舌を巻きました)また、その流れで、仏像撤廃、漫荼羅を拝むという儀も生じていったのかと想像をたくましくします。

三学無縁さんが「漫荼羅を拝んでいたのであろうか」と目から鱗が落ちる疑義を私に告げて下った日のことを終生忘れません。これは蓮師漫荼羅とは抑も何なのかという命題に強引に引き戻される強烈なパンチでした。

「天台沙門」という点については、わたしは「法華宗」の意味するところから、先に記しました。元来、法華宗とは天台宗を指すのであって、当時、法華宗とコミットメントすればそれは天台沙門にほかならないのではないのかという意味です。では「法華宗」が実質的に天台宗と分別されて(日蓮)法華宗として独自の地位を確立できたのはいつ頃から、案外、この辺がわかると興師/他五老の五一相対が言われるようになった時期が見えたりするのではないのかと勝手な期待を懐いたりしています。

たしかに私度僧という観点から見ることも可能ですね。

81空き缶:2003/11/02(日) 03:09

空き缶です。

最近随所で、私の名前(ハンドル)を見かけるようになりましたが、ここの皆様と比べますと教学研鑚がまだまだで、恥ずかしい限りです。

話は変わりますが、有師も化儀抄の中では「法華宗」という宗名を使っていると思いますが、いかがなもんでしょう?

日隆上人の影響でしょうか?

82犀角独歩:2003/11/02(日) 15:21

空き缶さん:

そこここに勝手にお名前を知るし申し訳ありません。
ただいま、わたし強烈なウイルス爆弾を食らい、データ用のコンピュータが死んでしまい、その修復に大わらわ、ついては文献資料などを提示できない有様です。故に隆門との脈絡はれんさん、愚鈍凡夫さんなどにお応えいただければ有り難く存じます。

けれど、書籍資料で、わたしが日蓮系の「法華宗」の呼称に疑義・興味を持ったのは、「比叡山延暦寺 沙門 圓信 記」の『破日蓮義』を読んでからでした。
原文が漢文体なので、そのうち、延べ書きにして自分のHPにアップしようと思っていますが、この冒頭から

「日蓮黨類所談法華経法門三國伝来様慥可申也
 若無三國相承者 不可立宗名
 汝號法華宗事 甚不可然
 法華宗者 天台宗名也」
(日蓮党類は法華経法門の三国伝来のさまをたしかに申すべきなり
 もし三国の相承無くんば宗名(法華宗)を立つべからず
 汝法華宗と号すること、はなはだしかるべからず
 法華宗とは天台宗の名なり)
  ― この延べ書きでよろしいでしょうか、顕正居士さん ―

とガツンと始まっています。概略すれば、(天台)法華宗の名を承けるために伝教師は海を渡り、大陸に赴いた。それ故、中国天台から「法華宗」の名を承うけた故にそれを名乗る。しかし、日蓮一党はその相承も受けず勝手に「法華宗」を名乗ることは甚だ不可である、こんな感じで始まっています。比較的読みやすい漢文体で、返点もあります。一読をお薦めします。

まあ、今の創価学会が「大聖人直結」とか言い、その継承を無視して、半世紀ばかりの歴史で、700年前の蓮師に繋がっていると言っているのを批判しているようなものです。
この書、面白い、読み応えがあります。

83顕正居士:2003/11/03(月) 08:37
独歩さん。

一行目の「所談」が抜けています。

日蓮党(の)類の談ずる所の法華経の法門は三国伝来の様をたしかに申すべきなり

二行目、三行目は「の」を送ったほうがよいでしょう。

もし三国の相承無くんば宗の名を立つべからず
汝の法華宗と号する事(は)甚だ然るべからず

日蓮法華宗も三国四師の「外用相承」を立てます。これは伝教大師の著述からの
「経巻相承」の意味でしょう。比叡山の師は俊範法印らしい(『日大直兼問答』)が
遺文には名がでてこない。「外用相承」は天台の正統に立つ意味だから、「教相」
の解釈は天台宗と同一土俵になる。だから江戸時代に談林が出来て自前で台学
をやる以前は学僧は比叡山に留学していた。
「日蓮はいづれの宗の元祖にもあらず」だからほんとうは「日蓮宗」というべきでは
ないが、天台宗と区別するために次第に日蓮宗を名乗るようになったのでしょう。
二つの法華宗が別の宗派であるといっぱんの人達にわかったのは天文法華の乱
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/tenmonhokkenoran.html
の以降だろうという人もいます。

84犀角独歩:2003/11/03(月) 09:30

顕正居士さん:

小生、相変わらず、雑駁な漢文読みをやっておりますね。
お恥ずかしい限りです。さらに勉学に励む所存です。
ご指導、有り難うございました。

85顕正居士:2003/11/03(月) 16:08
漢文の訓読というとこのスレッドに関係することがあります。
『一期弘法書』
http://gappo.cool.ne.jp/nyumon/gosyougai/nyumetu/nyumetu.htm

国主被立此法 者 富士山 本門寺戒壇 可被建立也

「国主此法ヲ立テラルレバ 富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ 建立セラル可キ也」と
日蓮正宗系の書籍では訓読しているとおもう。「本門ノ戒壇」はわかるが、
「本門寺ノ戒壇」とは何か?「富士山本門寺二戒壇ヲ」であるはずである。

伝教大師の1-法華宗公許 2-戒壇建立の順序から考えて、まず「本門法華宗」が
公許されて、その中心の寺院が「本門寺」と称する(延暦寺を「迹門寺」という意味)。
次に戒壇が勅許されて東大寺(爾前)、延暦寺(迹門)と並ぶ本門の戒壇となる
(園城寺の密教戒壇建立と同じ考え、というか真似である)。
『三秘抄』には
「勅宣並御教書を申し下て尋似霊山浄土最勝地可建立戒壇者歟」とある。
「霊山浄土ニ似タラン最勝ノ地」とは「本門寺」のどれかである。富士山のてっぺん
とかの意味ではない。『三秘抄』は富士派で作られた書ではない。だから、違うよ、
北山の本門寺の意味である。続く文も「可待時而已事戒法謂是也」(『三秘抄』は
「可待時耳事の戒法と申是也」)で、『三秘抄』成立後の創作だろう。

日蓮正宗系の書籍で「富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ」と訓むのは大石寺の戒壇でなくて
ならないからだが、変なよみ方が顕正会や本門正宗を発生させたともいえるので、
送り仮名一字、なかなか笑えないことが時におこります。

86犀角独歩:2003/11/04(火) 09:53

顕正居士さん:

富士山とは山号であり、本門寺は寺号であると考えればよろしいのでしょうか。
富士山本門寺との呼称は北山・西山。二箇相承は、その北山にあったとされる文書でした。となれば、該当はまさに北山本門寺。その「北山本門寺に戒壇を」という文意であるということですね。
いつも慧眼には驚かされますが、このご指摘も流石と申すほかありません。

> 園城寺の密教戒壇建立と同じ考え、というか真似

非常に不躾で恐縮ですが、質問をさせていただけますでしょうか。

富士系では、園城寺下文があったと伝わります。
この実否はさておいて、ここで「園城寺」の名が挙がる背景はご指摘の模倣と関係していると考えられるものでしょうか。

87顕正居士:2003/11/04(火) 12:12
日蓮聖人がまだありもしない「富士山本門寺」なんて書くものか、なんですが。
ヴァーチャルな紛争においては有効であったようです。

「永正年間大石寺日鎮師は『富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて
公称すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず』
と主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが
所謂二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。

従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件*

永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人」
早川一三『富士日興上人身延離山の研究』(ニチレン出版121頁)
*日蓮聖人より的々(ちゃくちゃく)の相承並に本門寺々號の支証、明鏡の上は
領掌相違無き者也。仍って状くだんの如し。

園城寺申状と下文というのは富要集に在りますが、NBさんのところには未入力で
いま内容を確かめられません。記憶では後醍醐帝の新政後に日目師上奏の際の
ものだったと。この間にここで議論があって、日蓮聖人の在世にも上奏があった
とか。何か混乱があるように感じました。園城寺の悲願は延暦寺からの完全独立
で、具体的には戒壇建立。勅許を得たが落成すると比叡山兵に焼かれ抗争幾百年。
建武新政の際に、延暦寺から独立を目指す同志に好意的な答申があっても変では
ないかも知れません。ほんものだったらですが。

88犀角独歩:2003/11/04(火) 14:36

87 顕正居士さん:

有り難うございます。
たいへんに参考になりました。

89空き缶:2003/11/04(火) 15:13
空き缶です。横レス失礼します。

以前、愚鈍凡夫さんからの情報で、「園城寺申状」は西山本門寺にあるとのお話でした。(ぶっだわーるど参照)

確か大石寺の日精師「富士門家中見聞中」にも西山に在ると書かれています。(日蓮正宗聖典P661)
この記述中にある「園城寺申状」と「御下文」と「大石持仏堂の御本尊(日興書写)」の内、「大石持仏堂の御本尊(日興書写)」は「日蓮聖人歴代門下曼荼羅御本尊集」に、西山本門寺所蔵として写真が掲載されています。

もしかしたら、「園城寺申状」と「御下文」も西山本門寺に在るかもしれませんね。

90空き缶:2003/11/04(火) 15:38
「ぶっだわーるど」の記載を転載いたします。

【寺院名】富士山 本門寺(ほんもんじ)

--------------------------------------------------------------------------------
【宗派名】日蓮系単立 本山
【別名】西山本門寺
【住所】静岡県富士郡芝川町西山671
【本尊】日蓮聖人の曼荼羅
【開山】日代上人
【開基】大内安清公
【由緒】本門寺は初め日蓮大聖人の六老僧のひとり、日興上人によって重須の地に開かれた。日興上人が遷化した後、日代上人が法灯を守っていたが、在山11年にして地頭石川妙源と信仰上相容れないものがあり、西山の郷主大内安清の屈請により、康永3年(1344)10月13日、現在地に堂宇を建立し、富士山本門寺として開基した。以後今川、武田氏の外護を受けて隆盛を極めたが、14代日悟上人の時、出火により山内の大半を焼失、勢力が衰えた。16代日映上人の尽力により、寛永10年(1633)現在の本堂が建立され、水戸光國公の外護もあり、20代日圓、21代日意上人の時代に再び栄えた。百数十町歩の領域に七堂伽藍が完備し、駿河屈指の名刹といわれた。以後嘉永(1848-54)、安政(1854-60)の大地震により多くの諸堂を失い、明治維新の世変等もあり、今は境内の規模に往時を偲ぶだけである。現在復興中である
【寺宝】紺紙金泥法華経等国宝 3点/方等三昧経等重美13点/日蓮聖人御舎利/日蓮聖人真筆 万年救護本尊/日興上人御舎利/日興上人真筆・本尊/園城寺申状/大柊(天然記念物)/その他多数あり

ちなみに、「お虫払い」は例年4月18日だそうです。

91犀角独歩:2003/11/04(火) 16:25

あ、やはり、空き缶さん、登場されましたね、園城寺、この件が出れば投稿されると楽しみにしていました。

92空き缶:2003/11/04(火) 18:09
犀角独歩さん

お久しぶりです。西山関係の方にも登場していただきたいですね。お知合いの方はいらっしゃいませんか?

93犀角独歩:2003/11/05(水) 19:11

おっとっと。空き缶さん、ごめんなさい。返事、遅れました。
そうですね。西山系といまは一口に言っても複雑ですが、つてはあります。
ただ、ネットに登場されるかどうか。
関係ありませんが、わたしが想起しているのは、学会からの方ではありません、念のために。

以前、皆で身延から、西山、石山、北山と歩きました。
そのうち、空き缶さんともご一緒したいものですね。

94空き缶:2003/11/05(水) 21:34
犀角独歩さん

「ぶっだわーるど」の記載をみますと、少なくとも「園城寺申状」はあるとなっています。

チョッと期待してます。

95れん:2003/11/11(火) 19:14
空き缶さん。西山本門寺の園城寺申状について興風第十一号「日興上人全集」正篇編纂補遺によりますと、八・諸宗要文の解説に「西山蔵正本の外見を撮った写真を見ると、本書は一巻の巻子本で、その巻緒に小片の布が結い付けられてあり、そこには日興上人御消息壹巻・園城寺申状・第三十二番という文字が認められる。この『園城寺申状』とは正慶二年二月十三日の日付と日目・日仙・日善の三師の加判を持つ『日興上人御遺跡事』の中で日蓮聖人御影と御下文と共に上野六人老僧が守護すべきものとして列挙されている。これらは後世大石寺三箇の大事と称され

96れん:2003/11/11(火) 19:29
るものであるが、日蓮聖人御影以外の二つにかんしてはその実体がほとんど不明のようで、堀日亨上人も、この二文書はまったく西山系でいずれの時代か紛失して現今は空筺のみが存在しておるのであり、…と言われている。よって、この『園城寺申状』と本書『諸宗要文』がいかなる理由で結びついているのかも全く不明である」とあります。この記事によると、西山本門寺においても園城寺申状も御下文の正本も写本も現存せず、それを納めていた空筺のみが現存し、その中に興尊自筆の諸宗要文が納められている由です。右ご参考までm(__)m

97れん:2003/11/11(火) 19:55
あと参考までに記しますと石山日因師撰三四月会合抄に「日有上人の御物語に云く、興師は能く能く高祖の仏意を得させ給ふ、江州薗城寺の天下えの申状は叡山に迹門の理の戒壇を立つ上は薗城寺にも又迹門の事の戒壇を立つべき申状也、然る間是こそ末代本門の事の戒壇立つべき証拠なれとて大石寺の重宝と仰せられ給ふ也云々」と記述があり、三井園城寺の戒壇建立の申状とその勅許の下文を本門事戒壇建立の証拠として大切にしていた旨の有師の説明があります。この場合の園城寺申状も不明ですが、下文には正元二年正月四日の官宣旨が該当します。なお、継命

98れん:2003/11/11(火) 20:17
新聞社刊行の「日目上人」には前記の日有師の御物語について「おそらく本門戒壇の認可を朝廷に求めるに当たって、この園城寺申状をひな型に書くよう相伝されていたのではなかろうか」と説明しています。ただし、有師の別の聞書には「四十二度の御天奏、先七度は日蓮聖人・日興上人の御使なり。後三十五度は御身に当て給ふ也」(聞書拾遺)「日蓮聖人も武家に奏し玉ふ、日興も只武家に訴へ玉ふ。ここに日目上人元めて国王に奏し玉ふ」(連陽房聞書)とありますから、興師本尊の「最前上奏仁」の授与書からみて目師の蓮祖在世の天奏も史実と思います。

99犀角独歩:2003/11/11(火) 20:52

れんさん:

横レス失礼します。
「日目上人元めて国王に奏し玉ふ」と記される『連陽房聞書』は時代が下ってのものですが、これに信憑性ありと れんさんはされるということでしょうか。

「最前上奏仁」は興師の筆に係るわけですが、上奏の時期はいつとお考えになりますか。また、もし目師が「最前」であるとすると、日蓮門下一般で言われる像師の帝都弘教より先であり、通日蓮宗史は書き換えられるとお考えになってお出でですか。

変な突っ込みをするつもりはありませんのでお考えを披瀝いただければ幸いです。

100れん:2003/11/11(火) 21:24
独歩さん。有師の聞書は蓮祖滅後二百年前後の成立であり、これに依憑して史実を立てるのは無理がありますが、少なくとも石山では有師の代までそのように伝承されてきたということは押さえておくべきだと存じます。上奏の時期は、石山の伝承を採るなら蓮祖在世なら弘安五年、滅後なら弘安八年(日興跡条々事、但し存偽)ですですね。興師より仙師授与の本尊に「正応三年十月八日、僧日仙授与之、日仙百貫房者賜聖人異名也、日興上奏代也」とあり、目師授与の本尊の「最前上奏仁」に引き付けて考えますと、最前上奏は少なくとも正応三年以前と考えられる

101れん:2003/11/11(火) 21:38
と思います。興師の目師への「最前上奏仁」の御筆によって通日蓮宗史が書き換えられるかどうかとなりますと、もっと当時の史料を綿密かつ慎重に精査した上で確説を立てなければならず、これは後日の研さんの課題とすべき問題と存じます。m(__)m

102れん:2003/11/11(火) 21:44
訂正
誤、但し存偽→正、但し存疑文献
誤、ですですね→正、ですね

103犀角独歩:2003/11/11(火) 21:49

れんさん:

有り難うございました。
参考になりました。

104空き缶:2003/11/11(火) 23:09
れんさん・犀角独歩さん

西山関係の書籍は出版されていないんでしょうか?私は手元に一冊もありませんが。

よくよく考えてみれば、西山に「薗城寺申状」が現存しているのであれば「日蓮聖人真蹟集成」に出ているはずですよね?

105みかん:2003/11/11(火) 23:48
空き缶さん
>>104
http://www.jbook.co.jp/product.asp?PRODUCT=1361799
西山関係の本としては、西山の僧侶が書いたこういうのがありますが、一般書であり、あまり参考にならなかったです。

また別の西山の僧侶が書かれた本などが自費出版され、神保町の東陽堂などで見かけることがあります。

106空き缶:2003/11/12(水) 01:29
みかんさん

ありがとうございます。

107犀角独歩:2003/11/12(水) 12:03

104 空き缶さん:

そうですね。
れんさんも書かれていましたが、空箱しかないので、富要を開いても亨師が慨嘆が伝わりますね。

108空き缶:2003/11/12(水) 15:30
犀角独歩さん

肩の力が抜けてしまいますが、日興・日目両上人の真筆遺文にその名が出てくることから、過去に現存したとは思うんですが。

今わずかな期待を胸に、西山のお虫払いにいってみようかなと思っています。誰でも入れるんでしょうか?

109犀角独歩:2003/11/12(水) 16:17

108 空き缶さん:

> 日興・日目両上人の真筆遺文にその名が出てくる


あれ、そうでしたか。
先月末、ハードディスク1台、10ギガ分のデータを消滅してしまったわたしは、実はここ半月は放心状態。初心に戻ってお尋ねしますが、どこに出ているのでしょうか。

> 西山のお虫払い…誰でも入れるんでしょうか?

入れますでしょう。
けっこう、濃い人たちが集っているようですが。
何年か前、石山教学部の若手が参詣しているところを、学会に撮影されて写真が流されたなんてことがありました。

静岡の日蓮宗のお坊さんに誘われて、去年だったかも行こうとしたら、突然の中止。この次は行こうと思っています。あそこの寺院はしかし、もったいないですよね。あのままでは朽ち果ててしまいます。

110空き缶:2003/11/12(水) 16:28
犀角独歩さん

以下「れんさん」の書込みです。

「西山本門寺の園城寺申状について興風第十一号「日興上人全集」正篇編纂補遺によりますと、八・諸宗要文の解説に「西山蔵正本の外見を撮った写真を見ると、本書は一巻の巻子本で、その巻緒に小片の布が結い付けられてあり、そこには日興上人御消息壹巻・園城寺申状・第三十二番という文字が認められる。この『園城寺申状』とは正慶二年二月十三日の日付と日目・日仙・日善の三師の加判を持つ『日興上人御遺跡事』の中で日蓮聖人御影と御下文と共に上野六人老僧が守護すべきものとして列挙されている。」

ここから、日興上人→諸宗要文・日目上人→日興上人御遺蹟事の二書をもって、上記のように申しました。

「日興上人→諸宗要文」は該当個所が日興上人の筆かどうかは、未確認でしたね。

111犀角独歩:2003/11/12(水) 16:40

空き缶さん:

昨日のご投稿でしたね。
なんとも間が抜けた質問をしてしまいました。
失礼いたしました。

> 日興上人御消息壹巻・園城寺申状

これはいったい誰の文字なのでしょうか。
あ、これは むしろ、れんさんにお尋ねすべきところでしょうか。

というより、以前の議論をわたし繰り返しているかも知れません。
もし、そうであれば、既述をお教えいただければ有り難く存じます。

112れん:2003/11/12(水) 21:08
独歩さん。「日興上人御消息壹巻園城寺申状」が誰の筆なのかは、正本も御筆写真も拝したことが無いので分かりません。
空き缶さん。西山本門寺のお虫払い法要に参加して実地に拝観・調査すれば「園城寺申状」についてなにか新事実が明らかになるかもしれませんね。私も一度は保田妙本寺や西山本門寺のお虫払い法要に参加して、上代の古文書を調べたいのですが、学会所属の身では無理でしょうね。

113空き缶:2003/11/12(水) 21:19
れんさん

学会所属だったんですか。以外でした。
他の掲示板では、学会系の論師が「戒壇本尊」を否定していますし、興風談所系の資料に明るいので、私はてっきり正信会の方かと思っていました。

少なくとも、保田も大丈夫ですよ。出入り自由です。
一度、日曜日正午からの正御影の御開扉におこしになってみてはいかがでしょうか。
お色直しされているので、とても700年前のものとは思えないと思いますが、一見の価値はあると思います。山門前に駐車場がありますので、そこに車を止めて真直ぐ階段を上がってこられると御堂があります。御開扉料などは徴収していません。安心してお越しください。

114れん:2003/11/12(水) 22:16
空き缶さん。保田妙本寺の方は大丈夫なのですね。安心しました。空き缶さんからの折角のお薦めですので、一度、妙本寺さんの日曜日正午からの正御影の御開扉に行ってみようと思います。私は車の免許を持ってないので泊まり掛けになると思いますが…。空き缶さんは私が学会所属であることに驚かれたようですね。まあ、学会員であっても私のような変わり種もいるということです。m(__)m

115犀角独歩:2003/11/12(水) 23:26

れんさん:

ここでは“変わり種”は大歓迎ですよ(笑)

116空き缶:2003/11/13(木) 00:51
れんさん

泊りがけですか、うーん、実は周辺には他に何も無いと言っても過言ではないでしょう。
ロープウエイ、道の駅、海ぐらいでしょうか。この季節では、家族と来ても家族に報いる術が無い場所です。
チョッと足を伸ばせば「かもがわシーワールド」、清澄寺、誕生寺、等がありますがいまいちですか?清澄寺はご存知の通り道善房の墓所があります。誕生寺は拝観料がかかりますが、宗祖真筆曼荼羅が常時展示されているはずです。
そうか車が無いとなると、こうした動きも厳しいですね。なんせ、御開扉はその一回きりで勤行で約30分程度、続いて住職の話15分程度(その時々で若干違いますが)の1時間弱の御開扉なんです。御閉扉のあとはすぐ鍵を閉めてしまいます。
あとは、つまらないかもしれませんが日郷上人の墓所ですとか、客殿も自由に入れます。客殿は常時御開扉したままだったと思います。
宜しければMSNコミュニテイ−「大本山妙本寺」を見学してみて下さい。境内の写真をアップしています。
有意義な1日になられることを、願っています。

117犀角独歩:2003/11/14(金) 09:36

112 れんさん:

「日興上人御消息壹巻園城寺申状」のこと、有り難うございました。

横レスになりますが、西山にしても、どこにしても、個人として参列するのであれば、所属などまるで関係ありませんから大丈夫です。もちろん、石山は戒厳令下の法要みたいで、券・ワッペンがなければ境内地にすら足を踏み入れることもできません。

118れん:2003/11/14(金) 19:22
空き缶さん。独歩さん。寺院参詣についてのご教示まことに有難うございます。私も保田妙本寺や西山本門寺に参詣する時は、富士門流の法門を考究する一個人として参詣させていただきます。m(__)m

119れん:2007/03/23(金) 20:00:43
「日進聖人仰之趣」の「上野白蓮阿御房…ありし也」の次下の文が直人氏のHPに出てました。「仰之趣」を所持してない私には参考になりました。
ただ戴けなかったのは「実に白蓮阿を日円も師弟の契約無」とあったことで、これは当時の身延山側の主張を知るには面白いですが、日興自筆の現存する弟子分本尊目録には「一、甲斐国南部六郎入道者日興第一弟子也。仍所申与如件」とあり、師であった日興の申請により日蓮より漫荼羅を授与された事が見え、写本文献ながら原殿御返事には「日興か波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事…」とあり、南部実長をはじめ波木井の一族や家臣は日興の教化で日蓮の門下に連なったことを知らせています。日興が身延に登山した際の波木井実長の自筆の書状にも「さてわたらせ給候ことハ、ひとへにしやう人のわたらせ給候と思まいらせ候に候」とまで述べているなど、当事者間の確実な文献を見ると、日興と日円(波木井実長)に師弟の契約があったことは史実であり、それを“無”と言い切った「仰之趣」のこの項に関しては史実に忠実な主張ではないと判断せざるを得ないと思いました。私の認識としては身延沢は輪番で門弟が入り墓所への勤仕がされる予定であったが、早い時期の輪番制の崩壊とともに、弘安八年頃、波木井実長の帰依僧であった日興が他の本弟子の許諾を得て身延に常駐した…という観測で、もちろん、偽書である二箇相承の説など採りませんが、してみると「仰之趣」もここら辺の微妙なところは、やはり門流意識が顕著で、注意して読み解くべき文献の様ですね。

120独学徒:2007/03/23(金) 21:28:21

れんさん、

「日進聖人仰之趣」の該当箇所は、読み下し方が正しくないように思います。
少しお時間を戴きますが、後ほど「談議所」の方に室住翻刻の該当箇所をアップします。
(但し私は室住先生の古文書解読にも、全て信をおいているわけではありません。)

121独学徒:2007/03/24(土) 00:03:02

>120
自己レスです。
>読み下し方が正しくないように思います。
読み下し方は合ってました。私の見た場所が間違っていました。
謹んで訂正致します。

122れん:2007/03/24(土) 19:26:20
独学徒さん
談義所にて御提示の「仰之趣」の当該部分、拝見いたしました。
当該文には、日蓮から日向に身延沢の譲りがあったとありますが、今日にいたるまで、日蓮から日向への譲状のごときは存在してませんね。無論、日興に対するそれも存在しません。確実な記録である日興筆の宗祖御遷化記録に「墓所寺六人香花当番時」云々とある通り、墓所寺(後の身延久遠寺)を六老僧を中心に門弟が当番で守護し仏事を奉修することが日蓮の遺志であったろうと思います。輪番制の崩壊による日興の常駐はあったものの正応元年に顕在化した波木井氏に対する教化に関する日興と日向の対立、地頭波木井氏も、それまでの日興との師弟関係を反古にして「我は民部阿闍梨を師匠にしたる也」とするにいたったので、「泣く子と地頭には勝てぬ」で、日興は身延を離山したのでしょう。
原殿御返事において「身延沢を罷出候事面目なさ、本意なさ難申尽候へとも、打還案し候へは、いつくにても聖人の御義を相継進て世に立て候はん事こそ詮にて候へ…日興一人本師の正義を存して本懐を奉遂候へき仁に相当たって覚候へは、本意無忘候」と、身延を離山しても師日蓮の法門を守ることを選ぶと記した日興には、少なくとも「仰之趣」が記す如き身延の後住を自ら望んだということはなかったでしょうね。

123顕正居士:2007/03/25(日) 01:06:34
「日進聖人仰之趣」ははじめて見ましたが、送り仮名が変ですね。
あの送り仮名はもともと本にあるのですか?
「クレヨ」も変ですね。「ツケヨ」とかなら意味が通りますが。

124独学徒:2007/03/25(日) 11:47:10

顕正居士さん、
私も室住先生の古文書解読が、全て正しいとは思えません。
とはいっても、私も全く読めるうちに入りませんので、古文書解読の専門家に再翻刻を熱望しています。

125れん:2007/03/25(日) 16:19:13
顕正居士さん
私も独学徒さんと同意見で、「日進聖人仰之趣」に関しては、改めて鮮明な影本の公開と古文書解読の専門家による再解読・再翻刻が必要な文献であると思います。原本を精査すれば、顕正居士さんが疑問を呈された箇所を含め、本古文書について新たな知見を得ることができるのではと思います。

126通りすがり:2007/04/23(月) 19:56:57
六老僧を定め六人で団結して身延山久遠寺及び墓所を守るように遺言された事は記録に残る事実ですが然るに御存知の通りそれは五人に於いては守られる事はなく又、日興上人に唯受一人血脈付法の儀(二箇相承等)という正式な史実はなかったように私は感想を持ちます。二箇の相承については京都要法寺あたりの政争の具であったように感じます。正しくは日興上人のみ唯一人、法を身を以て深く会得し、遺言を守り貫いたという事ではないでしょうか。いずれにしても注法華経を持ち去り、聖人生涯所持の立像仏を持ち去り、墓所をおろそかにした五人に対して、遺言も教えも厳格に守り通した方は日興上人だけであった事は隠し様のない史実ではあります。m(__)m

127犀角独歩:2007/04/23(月) 22:05:01

> 教えも厳格に守り通した方は日興上人だけであった事

そうでしょうかね。理由はともあれ、日興は、日蓮の墓を捨て去ったのではないでしょうか。
仏像、注法華経を持ち去ったというより、日蓮の墓を捨てたというほうが、わたしは納得がいきませんが。

128天蓋真鏡:2007/04/25(水) 00:14:38
横レス失礼します。●相承書が偽物ならどこからどこまでが事実なのでしょうか。●弟子・日興は重須談所で戒壇堂に当たる法華根源、日蓮御影、・天照神宮を建立して日本仏教の規範を示したのでしょうか?

129マハー:2007/04/27(金) 18:26:12
>>128
天蓋真鏡さん はじめまして 
本門寺棟札について、少し気になったものですから横レス失礼致します。
私は日蓮が神仏習合の影響を色濃く受けていたと思っていますので、
天照太神の堂の建立は勿論不思議とは思いません。しかしだからこそ、「神宮」というのは納得が行かないのです。
神宮と呼ばれる社殿は、香取、鹿島、伊勢の三つでしょう。
日興も知っていた筈ですから、自らが建立した堂に神宮名をつけるのは不自然だと思います。
史実ならばとても疑問です。

130通りすがり:2007/05/02(水) 15:58:45
独歩様、私の感想如きで大変恐縮です。状況の変化に伴い様々に変更される事はあるでしょうから私如きには何とも判断は出来ませんが、只一つ言える事は聖人御在世中、二度の配流に同行し給仕していた方は日興上人及びその弟子達であり重要な秘書であったのも日興上人であった事は確かです。

131犀角独歩:2007/05/03(木) 08:22:04

通りすがりさん

こちらの決まりですので、「さん」付でお気軽にどうぞ。

> 聖人御在世中、二度の配流に同行し給仕…日興上人及びその弟子達であり重要な秘書であったのも日興上人であった事

日興上人の再評価というのは、近日で観れば、堀日亨さんから、高木豊師、興風談所の評価が日興賞賛にバックするという形で、一部日蓮宗や、学者にもあります。しかし、わたしはこの点は、もう少し、見直す必要があると思います。何より、興風ではなく、蓮風といくのが筋である考えます。

「秘書であった」という点は、遺文収拾や、日蓮漫荼羅への整理、書き込みからも、そうは言えるかも知れません。ただし、弟子6人の構成から考えるとき、日蓮のみならず、兄弟子である日昭・日朗を超えての位置ではなく、この2人に対しても同じく補佐的な役務を担っていたと見るほうが自然ではないでしょうか。

他のスレッドで引用しましたが『御遷化記録』を読めばわかりますが、葬儀の中心者は日昭・日朗です。それを日興は書き付けて記録を作るという関係です。ここから汲み取れる教団の弟子六人は「不次第」としながら、厳然と法蝋の順位が遵守されているということです。

日興以下にとって、不本意であったはずの、身延墓所からの仏(釈迦立像)教(注法華経)の持ち出しを遮ることができなかったのは、このような上下関係が反映していたからではないでしょうか。それがその後、「盗み取る」といった表現に変わるのは、派祖意識の高まりからの変遷であろうと思えます。

132通りすがり:2007/05/14(月) 10:28:39
独歩さんのご見解大変勉強になります。
二人に対しても同じく補佐的役割を担っていた<同感です。弟子の立場からすれば兄・弟の様な関係は大なり小なりあったとは思いますが『不次第』とありますので聖人御在世中、たとえ教学的な理解や精神的な強さ弱さに差などがあったとしても聖人は弟子六人に上下の様な扱いはされていなかったと思っています。しかし日昭、日朗の二人は『宗祖御遷化記録』の『御遺言に云く──』という幾つかの点から見れば遺言をいち早く守らなかった或は守れなかったのではないかと感じます。些細な事かもしれませんが妙法蓮華経宗が分裂してしまった一つの要因として数えられると思います。独歩さんのご意見を聞き『盗み取る』という言い回しはいささか後世の伝言ゲーム的なすり変わり感を持ちましたが事実確認をはっきりと知りたい重要な所であるとは思っています。
聖人滅後の分裂についてはまた違った角度からの論議があるとは思いますがこのスレッドから大分逸れてしまいますので又機会があれば宜しくお願いします。

133天蓋真鏡:2007/05/14(月) 14:45:25
マハーさん、間空いてすいません。日蓮聖人は天台密教を法華一乗に変えたいと定めたはす゛。天台密教に神仏習合が入るなら考えの対象に入ると考えます。神霊等どのように考えていたのか。東大寺、延暦寺の次世代の戒壇を法華経の本源を示す戒壇を立正安国の際に望んでたなら、神宮を改めて建てなくても良い様に感じます。

134天蓋真鏡:2007/05/14(月) 15:24:45
通りすがりさん、犀角独歩さんの遣り取りが一段落着いた様なので。 日蓮聖人が取り敢えず 戒壇堂の代わりに著した修行の道具、三国四師をも表した法華経行者の心「漫荼羅」があれば、相承書や墓守番は要らないのではと思いました。

135犀角独歩:2007/05/16(水) 17:32:11

天蓋真鏡さん

殊、富士門流というか、勝劣派というか、この発想においては、ともかく唯一絶対のものは一つという線から考えすぎると思いますね。

この類推は、もちろん、日蓮にあります。他土の阿弥陀、法身大日、釈迦牟尼仏、同じ釈迦牟尼仏でも寿量仏といった選択論です。これは経典でも法華最為第一といった具合ですね。

このような一択方式が、日蓮の遺したものにも採用されているわけですね。
遺骨と教義・釈迦像と漫荼羅で、遺骨より教義、釈迦像より漫荼羅、さらに教義より漫荼羅でそれが本尊、さらに題目五字といった具合に先鋭化されて一つのみに絞ろうとします。しかし、それが本当に日蓮の遺志だったのでしょうか。
墓所に遺骨と釈迦像、注法華経を置けといった遺言は、その中で一つを選ぶものではありませんでした。墓番の選定は遺骨より教義を採るものでもありませんでした。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という格言がありますが、何でもかんでも一つだけを選ぶ、今回の天蓋真鏡さんの論法で行けば、「戒壇堂の代わりに著した修行の道具、三国四師をも表した法華経行者の心「漫荼羅」があれば、相承書や墓守番は要らない」という選択法は、少なくとも日蓮の遺志ではないでしょう。

日蓮は、戒壇堂も標榜していたでしょうし、漫荼羅も重視したでしょうし、墓番も重視したでしょう。もちろん、相承書は後世の捏造ですから論外です。しかし、釈迦像も、注法華経も重視していたでしょう。もちろん、自分の遺骨や、墓を捨ててよいとも考えてはいなかった。それら、いっさいの日蓮の遺物をすべて大切にする、それが門下の在り方であるという点が、日蓮の遺志であったでしょう。できなかったことの言い訳に日蓮の遺志を枉げるなど言語道断です。

136天蓋真鏡:2007/05/17(木) 23:33:00
犀角独歩さん、書き込みありがとうございます。自分は唯一選択の絶対論と言う訳では無くて、どれから優先するかの見方考え方を言いたいのです。御書遺文を身で読む事が難儀な凡人か゛どういうルートで成道得道を行くのか試行錯誤の一端です。

137犀角独歩:2007/05/18(金) 01:38:31

136 天蓋真鏡さん

それなら、答えは簡単です。但行唱題でしょう。

138天蓋真鏡:2007/05/18(金) 12:31:31
其れは其れで良いのですが、念仏でも真言でも題目でも信心の内容中身の問題と考える時、日蓮の教えの範囲が気になる訳です。例えば、妙の使い方、三国四師の見方考え方の変遷、自分に依りどれだけ唱えれば成仏出来るのか等。

139顕正居士:2007/05/18(金) 20:01:14
日蓮も道元も親鸞も天台本覚思想の発達の中の一個性であって、幾らか遠目に見れば
大差はありません。かれらとその宗派の思想は日本の近世化に貢献するところがあった。
そして江戸時代にはすでにその使命を終え、仏教は儒学と洋学に地位を譲ったのです。
儒学と蘭学があったから日本は急速に近代化できました。つまりかれらの思想は間接に
近代化に貢献しました。われわれが時々思い出すべきなのは仏教の中の論理的思想、
個人主義の思想であって、そういう準備がないアフリカの諸国などはなかなか近代化が
できないのです。

140マハー:2007/05/21(月) 20:27:32
>>133
天蓋真鏡さん

>日蓮聖人は天台密教を法華一乗に変えたいと定めたはす゛

法華一乗と神仏習合は矛盾しないと思います。
ここで言う神仏習合とは、日本の神々との習合を意味します。
仰るところの台密に神仏習合は入ります。八幡神社を弘めた張本人は最澄ですからね。
日蓮聖人(聖人号を使わせていただきます。)は、空海東密を先に切り捨てますが、(時間的な先ではなくて教相の浅い部分で)法華守護の善神の考えは残してるでしょう。

>神霊等どのように考えていたのか

(私はこう考えるという話ですが、)
八幡神は武家の守護神、天照太神は公家の神と考えていたと思います。
鎌倉八幡は北九州とも縁があるし、天照太神との共通点はどちらも女神ということ。
八幡神は三人の女神の合祀なんですが、当時どのように分離して考えられていたかは分かりません。山岳信仰面から富士を天照太神と関係性を探ろうとする向きもあるようですが、私はいまのところ賛同しかねています。

>神宮を改めて建てなくても良い様に感じます

日興が天照太神を鎮座させようとする理由はいろいろと考えられると思います。寧ろ伊勢から富士に神宮を移すというのは日興にしてみれば念願だったかもと思います。
当時の伊勢神宮は一般人が参拝が許されるところではありませんでしたし、なによりも反本地垂迹説を唱えていたのですから、日蓮門下からみれば謗法でしょう。
ですから、伊勢の地から富士に天照太神を遷座して国家安泰を計ると考えるのは自然かと思います。
ですが、若しそのように考えて日興が「神宮」名で建立したのであれば、結果的に失敗に終わったと言うことになります。
私が拘ったのはその神宮という名です。分祀する考えからの観請であれば「社」とか「宮」を使ったはずと思うのです。「神宮」を使ったら、伊勢神宮そのものを否定する行為と思います。

141パンナコッタ:2007/05/22(火) 11:41:57
マハーさん、どうでしょうか。今現在はあまり痕跡はありませんが
鎌倉期ではすでに各地に神宮寺が建立されていましたし、重須の本化垂迹天照太神宮は
直接的に伊勢とはあまり関係なく、岩本実相寺系の流れが強いように思われますが。

 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
引用文献のいくつかは???ですけど、参考になると思います。

142マハー:2007/05/22(火) 16:31:49
>>141
パンナコッタさん

>>128から、読み間違えてました。
「天照神宮(じんぐう)」ではなく「天照太神宮」、天照太神ノ宮(ミヤ)ですね。(笑)
神宮と宮では特別格差があるわけではないのですが・・・建物の規模が違います。
宮であれば無人でも構わないです。

それにしても…御示しのURLで、
富士山と天照太神を結びつけるのに徐福伝説を持ち出しているのは、悪いがよぽど根拠に乏しいようにしか映りませんね。

143れん:2007/05/22(火) 18:51:59
横レス失礼します。
日興撰述の可能性の高い“三時弘経次第”には「今、日蓮房と共に本化垂迹の師檀と為りて迹門を破して本門を立てて末法を利益し国土を治むべきこと之を図す、富士山・本門寺・末法 久成釈迦仏 付属弟子 上行菩薩 日蓮聖人 垂迹神天照太神・八幡大菩薩 当御代 本化垂迹師檀」とあり、日興(ないしその門流)の理解した日蓮の本門為本の立場から、天照太神・八幡大菩薩を久成釈迦仏の垂迹と捉えています。また、初期興門の文献・五人所破事には神天上の法門を示しながらも「但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰て鎮守を定むべし」とあり、これらの意義により、本門寺建立の時に天照太神の宮(実際のところ諸賢ご指摘のように神宮寺みたいなものとしてでしょうが)をも建立するというのが、初期日興門流の思想のようです。さらに初期日興門流の文献である“富士一跡門徒存知事”には「一、王城の事。右王城に於いては殊に勝地を撰ふべきなり。就中仏法と王法と本源体一なり。居所随て相ひ離るべからざるか。仍て南都の七大寺、北京の比叡山先足+從之れ同じ、後代改めず。然れば駿河国の富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤本門寺は王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり。且つは日興、大聖の本願を祈る処なり」とあり、皇居・都をも富士山麓に遷都せしめるという考えが初期富士門流にあったことが明らかで、このような思想を背景に、本門流布の時代に建立される定義されていた“本門寺”内に久成釈迦仏の垂迹神としての天照太神の宮を造立するという考えが存したと思われます。

144マハー:2007/05/22(火) 20:57:04
>>145
れんさん
百六箇抄はこのサイトではその信憑性からあまり採用されてないことと思いますが、
「久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり」を、
教主釈尊(男)と天照太神、八幡菩薩(女)に読むとしっくり来る。(個人的感想)

145れん:2007/05/23(水) 18:39:15
マハーさん、初めまして。百六箇抄は、文献的には、西暦1400年代に日尊門流での成立が推測され、その伝承が確認される相伝書で、石山五十九代目の法主であった堀日亨さんが「石山においても古い先師方はあまり両巻抄を大切になさらなかったらしい」と言われたように、古い時代(左京日教以前)の石山ですら重要視されておらず、また当然ながら百六箇抄の内容は日蓮や初期興門の思想とは明らかに異質ですので、私には百六箇抄の男本女迹義を、初期興門に見られる久遠実成の釈尊と天照・八幡との本地垂迹義に援用して理解する蛮勇は起きませんが、マハーさんの個人的見解と言うことですので、マハーさんのご意見として受け取りました。

146天蓋真鏡:2007/05/24(木) 12:06:18
マハーさん、皆様方ありがとうございます。自分は八百万神々を善神勧請のように扱うものかと想いました。富士の浅間神社?コノハナサクヤヒメは天照の分身とか聞いた事があります。

147マハー:2007/05/24(木) 20:46:55
>>146 天蓋真鏡さん

>自分は八百万神々を善神勧請のように扱うものかと想いました

私もそう思っています。

>富士の浅間神社?コノハナサクヤヒメは天照の分身とか聞いた事があります

それはたぶん、「あまてらすおおみかみ」が、「いざなぎのみこと」の分身、との話を勘違いなさってるのでしょう。「このはなのさくやひめのみこと」は「おおやまつみのかみ」の子です。
富士山本宮浅間神社の祭神は、仰る通り「このはなのさくやひめのみこと」ですが・・・本来山岳信仰の浅間神社の神体は、富士山そのもので、「このはなのさくやひめのみこと」を祭るようになったのは、江戸期後半ではないかと言われています。
ですから、鎌倉時代の日蓮が「このはなのさくやひめのみこと」と富士山を関連付けることは有得ないことになります。
また、修験行者の長谷川角行が仙元大日神(せんげんだいにちしん)の教えを説いたのが江戸初期です。仙元大日神は、大日如来のことなのかもしれませんが、天照大神とは別神と思います。
つまり鎌倉時代に、大日如来=天照大神 の思想はあっても、天照大神と富士山を結びつけるのはかなり希薄だと言わざるをえません。

148パンナコッタ:2007/05/24(木) 22:42:54
直接日蓮とは関係ないですが参考といたしまして以前、
重須系弟子の書写漫茶羅本尊に氏神・富士姫勧請の物がありましたね。
これについては、豊富な資料をお持ちの大縫薫さんにお聞きした方が良いですね。

余談ですが、>>141に出てきた宮下文書(後代の偽作ですが)には、
富士高天ヶ原で天照大神を祀る阿祖山太神宮を坂上田村麻呂が解体し、
木花咲耶姫を祭神とする浅間神社に替えてしまった、なんて件がありましたね。

149天蓋真鏡:2007/05/30(水) 02:19:29
マハーさん、パンナコッタさん、ありがとうございます。自分の見た記事には天照の分身と書いてあったと思います。分祀かな?

150れん:2007/05/30(水) 13:47:38
天蓋さん
かつて話題に上った富士姫勧請の重須の伝日済筆漫荼羅は正慶の年号であるにもかかわらず、先師に日妙師が勧請されているので、日妙師系によって重須の法統が継承された以降に作成された漫荼羅ではないでしょうか。当漫荼羅は重須の神祇観を知る資料にはなりますが、日蓮や日興ないし日興直弟に溯れる資料ではないですね。
また以下も江戸期の資料で蓮師興師まで溯る直接の資料ではありませんが、柳澤師の「石山本尊の研究」には石山日元筆墨書き板漫荼羅の写真が掲載されており、それにはたしか脇書に「久遠実成釈尊垂迹木花咲耶姫」云々とあったと記憶します。以上ご参考まで。

151れん:2007/05/30(水) 18:59:18
自己レスです。
仕事先から帰宅して「石山本尊の研究」を確認しましたら、先程投稿した日元筆漫荼羅の脇書は間違いでした。正しくは「宝暦第十四甲申龍集弥生中幹五日 奉書写之 富士山大石寺三十三嗣法日元(花押) 授与之 本地久遠実成釈尊垂迹富士浅間宮」でした。まぁ、富士浅間宮の祭神は木花咲耶姫ですから私の記憶違いということでご勘弁下さい。この日元筆墨書き板漫荼羅で面白いのは、全体は弘安式ながら国神勧請が房山蔵宝たる文永十一年大本尊と同じく「南無天照八幡等諸佛」となっていることですね。

152顕正居士:2007/05/31(木) 00:07:56
富士祭神への信仰は日蓮までさかのぼることができます。

『上野殿母尼御前御返事』 (弘安3年・真蹟存在)に
「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ給ふべきと
たのもしき事也」とあります。
「千眼大菩薩」は千手千眼観世音との習合をあらわす当て字であろうとおもいます。
未見ですが、なぜ浅間大菩薩=木花開耶姫=赫夜姫であるかについては研究があるようです。

竹谷靱負著『富士山の祭神論』
http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN4-87294-446-1.htm

153天蓋真鏡:2007/05/31(木) 16:48:44
れんさん、ありがとうございます。漫荼羅勧請は随方毘尼なのでしょうか。注法華経、天台仏教、日蓮仏法の学問の範囲か゛気になります。 顕正居士さん、ありがとうございます。諸天善神とも氏神信仰とも違う神仏の奉り方を言うのでしょうか。識字率の低い頃に思想の主義主張を捨て去る事を徹底するのは至難の業でしょう。

154顕正居士:2007/06/01(金) 19:09:57
神仏判然令から百数十年経って、神仏は別の教であるかのように思われている節もありますが、
江戸時代までは仏神は全く習合していました。例えば輪王寺と東照宮は本来一個のものでした。
寺院の中に神社があり、神社の中に寺院がありました。有師の化儀抄に「他宗の神社」という
表現がありますが、文字通り、他宗の寺域にある神社もしくは管轄する神社です。
強制的に寺院と神社が分離されたので、寺院管轄の小社は多く滅び、あるいは滅びつつあります。
イシャナ神を祀る「第六天社」は昔は全国にたくさんあったそうです。インドの神様まで仏教から
分離するのはナンセンスですね。
大石寺の付近にも同寺が管轄する小社がまだ残っています。しかし大石寺の信仰と浅間大社
との習合は特にあったという話は聞いたことがありません。

155マハー:2007/06/01(金) 20:36:03
>>154
顕正居士さん
>『上野殿母尼御前御返事』 (弘安3年・真蹟存在)に
>「此の経を持つ人をば、いかでか天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩すてさせ.
>給ふべきとたのもしき事也」

資料の提示ありがとうございます。
富士千眼大菩薩ですか。なるほど。
その資料は、日蓮が「天照太神」と「富士千眼大菩薩」を別々に設定している根拠になります。
千眼大菩薩の千眼(せんげん)は浅間(せんげん)の当て字で特に「観世音」を意識したのではないのではないかと思います。
浅間は、火山を表す古語の(あさま)が仏教との習合によって音読されて(せんげん)と呼ばれるようになったといわれています。
(あさま)→浅間(あさま)→浅間(せんげん)→せんげん(千眼)と当てたのでしょう。

鎌倉時代に浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)になっていますね。これは浅間大神のことで間違いないでしょうが、天照の系譜には出てこないようです。「日本三代実録」貞観七年に浅間明神の記述が見え、これは山梨県笛吹市の浅間(あさま)神社と関連が深いので、甲斐から駿河へと繋がりがあるような気もするのですが…わかりません。
噴火による畏れる「火」の不二山と,それを鎮めるための「水」の湧水に対する崇敬の
といえるでしょうか。

前レスにて、八幡大菩薩を女神三神と記しましたが、第十五代応神天皇が主神と思われるので間違いでした。訂正致します。

しかし、「天照太神・八幡大菩薩・富士千眼大菩薩」というのは、「日」「海、風」「水、火」と揃うので絶妙な並べ方だと思いました。敬具

156中道一実:2007/06/02(土) 17:15:11
近世以前、浅間大社を統括していたのは、他ならぬ大石寺です。
その頃は、大石寺が造った大鳥居もあり、神社との関係が切れても創価学会が現れるまで現存しました。
戸田氏の進言で、大鳥居が撤去されましたが、大石寺は元来「化法は仏法」「化儀は神道」と言われておりました。
我が家は公家の末裔ですので、式年遷宮の“川原大祓”の栄誉を賜った事もあったそうですが、その頃(江戸期)は、伊勢の斎宮(女人に限る・現在は池田厚子様がお勤めになっておられる)の事は、「不二之宮」と称していた。
それが後世、転化して「富士之宮」と称されたとのことで、我が家に現存する日記には「伊勢におられる富士之宮、遠く富士を仰がれる」と残っております。
もっとも斎宮は常に伊勢にはおられず、重要な儀式のときのみ出向かれたそうであるが・・・。

また大石寺の化儀と伊勢神宮との関係は深く、勤行においての、丑寅勤行は伊勢神宮の「由貴朝大御饌(ゆきのあしたのおおみけ)」(午前2時より)を模し、その前の晩に行う、「御逮夜に匹敵するのが由貴夕大御饌(ゆきのゆうべのおおみけ)」(前日の晩に行う)を模しているとも言われる(もっとも伊勢神宮自体が儀式は変遷しており延喜式のままが継承されているとは言い難い)。

157犀角独歩:2007/06/03(日) 08:31:39

中道一実さん、はじめまして。
ご投稿、興味深く拝読しました。

浅間大社を石山が統括していた話は、わたしは住職の僧から聞いておりました。
大鳥居は、わたしが子どものころ、登山の折、団体バスの中からいつも眺めていました。
しかし、石山が造ったものであるということは知りませんでした。

地元の日蓮宗僧のお話では、創価学会が地域開発の名目で話を持ちかけ、富士宮駅前を整備するのに数億円を寄付した、その条件として、鳥居を撤去したということでした。しかし、その後、創価学会は石山から破門(独立)。
「いったい、あの駅前整備と、鳥居の撤去は何だったのか」というのが、地元の嘆きとのことでした。

> 丑寅勤行は伊勢神宮の由貴朝大御饌を模

この点は、特に興味深く拝読しました。

> その前の晩に行う、御逮夜に匹敵するのが由貴夕大御饌…模し

これは夕の勤行を指すのでしょうか。
とすれば、勤行は朝夕ではなく、夕朝で一組ということになりますね。
とすれば、法要が御逮夜・正当会で一組となっていることと合致しますね。

158犀角独歩:2007/06/03(日) 10:07:19

【157の訂正】

誤)浅間大社を石山が統括していた話は、わたしは住職の僧から聞いておりました。
正)浅間大社を石山が統括していた話は、わたしは石山の重職の僧から聞いておりました。

159呆け講:2007/06/04(月) 17:58:39
>http://toyoda.tv/saikaku.hasyaku.htm

犀角独歩さんのブログに掲載されている「邪義」を完全破折!
・・・・・・・のつもりらしい。

160呆け講:2007/06/04(月) 18:03:59
>http://toyoda.tv/taiketu.htm

【公開法論申し込み】
あらゆる日蓮系教団は全て誤っている!大石寺のみが唯一正しいのだ!
・・・・だそうだ。

(本文より)
「犀角氏は、歪んだ自らの心を省みて、大いに恥じ入るべきであろう。」

犀角独歩さんのお陰で、色々な事を学べた恩がある。(尤もROMのみだったが)
一丁、眼を覚まさせてやる必要がありそうだ。

161犀角独歩:2007/06/04(月) 19:32:52

これは、読みました。
悪口雑言のボキャの豊富な人で、その心根がよく現れた迷文でした。
なんだか、子どもが棒を振り回して「ボクがいちばん強いんだぞ」と言っているようで可愛らしいじゃないですか。

読めば、わたしが取り上げた安永さんの所説を、日達さんの言葉を引いて批判しているわけですね。わたしの本を読んでいただければわかりますが、安永さんは妙海寺漫荼羅原本説、わたしは日禅授与本尊原本説で違うわけです。安永さんを批判したところで、わたしの所説を覆したことには全然なりません。

つまり、、わたしの主張の主要部分、図形鑑別に関しては、なんら反論がないことから、その部分は賛同してくれたと判断しています(笑)

それにしても、日達さんのいうことを金科玉条に受け取っているようでは、なんら事実は見えません。日達さんの御説についてはブログで十分に批判しました。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50871189.html

わたしは石山について、記したわけですから、わたしが図形を以て、その真偽を論じ合う人はただ一人、「阿部日顕」さんその人です。

また、わたしの日教研での研究発表は、既にここでも記したとおり、富士学林の高橋粛道さんが聴講に来ており、反論もなく黙って帰っていきました。つまり、富士学林の先生がこれに反論できず認めたということです。この段階で話は終わっています。自称法華講の人物がとやかくいう段階は当初から終わっています。
この方は、高橋さんにでも話を聞いてみたらいいでしょう(笑)

鰯の頭を信じるのは勝手ですが、そんな我が身を振り返らず、人の批判をやって得意になっているようではだめですね。信じるのは勝手ですが、偽物を本物と百万遍いったところで本物にはなることはありませんから。偽物であることを図形を以て論じたのですから、石山から彫刻と日禅の写真を借りてきて、再鑑別してくれることをわたしは楽しみに待っているわけです。そのとき、初めて議論になるわけです。

悪口雑言は、言われるほうに分があることを常不軽菩薩品は示していますね。其罪畢已の功徳に感謝をしておくことといたします。完爾

162呆け講:2007/06/04(月) 21:25:58
>犀角独歩さん、

ROM専の私にレスを頂き感謝します。仰る通りですね。
とは言え、凡愚(失礼)の眼を開かせるも大事な事かと・・・・。
ちょっと彼とメールにて直接話をしてみようかと思います。

スレの主意と異なるレスにて失礼致しました。またROMに徹し勉強させて頂きます。

163犀角独歩:2007/06/04(月) 21:59:58

呆け講さん

わたしは、やがて、阿部日顕さんに向け、公開質問状をネット、郵送で行おうと思っています。その遣り取りを、わたしの死後も遺るような方法も考えています。

石山の日蓮作という彫刻、日興作という彫刻、あんなものは偽物です。
それをネットで検索すれば、万人が簡単に確認できるものを作り、かつ、阿部さんへの公開質問とその遣り取りも、すべてネット言う場で公開で遺していこうと準備しています。

つまり、石山の二大彫刻は、もう終わったのです。
こんなものを信じる人は、今後、根絶やしにする準備を万全に整えていると言うことです。

ですから、一信徒に過ぎない人の強がりなど、いまは笑って「へえ、強いねえ」と頭をなでていれば善いだけのことだと言うことです。

164しゅんかん:2007/06/04(月) 22:37:38
独歩さん
お久しぶりです、何時までも進歩がななぁとお叱りを受けそうですが。
申し訳ありません、私としましては駑馬十駕と常に思惟致しております、又お願いしますm(__)m

>蓮師彫刻、興尊彫刻=石山二大彫刻(携帯なので貼付けが出来ず違いお許し下さい)
〇石山二大彫刻=本門戒檀大御本尊(石山云う処の)と奉安堂(向かって右)蓮師奠定の御影さまを御示唆されておられるのでしょうか?

165犀角独歩:2007/06/05(火) 04:37:08

しゅんかんさん

少しくお久しぶりです。
ご質問の点は、少々HP、ブログに載せてあります。

日蓮作だという「本門戒壇の大御本尊」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html
日興作だという「大石寺持仏堂安置本尊」
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50865483.html

また、本日、ブログにアップしたのは、上記、二つの彫刻を束ねて発表するためのパワーポイントの紹介です。この形で講演活動を開始しています。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50986906.html

ご高覧をいただければと存じます。

166しゅんかん:2007/06/22(金) 20:51:01
独歩さん

お返事遅れました事、先ずお詫び申し上げます。
(1年を十日で暮らす良い男、では無いですが、1年を夏季で暮らすと当て換える様な
職業でして、仕事で忙殺し遅れたしだいでございます)

本日、ご教示いただきました点、拝見させて頂きました。
六壷に於いても欺きが在るのですか、もう開いた口を閉じる気力も無いです。
私が勘違致しました蓮祖奠定の御影さま(日法作)も当然ながら偽りですね。
[独学徒さんより以前ご教示戴き、日法作は存在しないと至りました]

禅師授与曼荼羅は重須の万年救護本尊ですね、アップされておられますカラーパンフ
の映像は確認しずらいですね、独歩さんの事ですから、既に鮮明な物をお持ちに成られて
おられるかも知れませんが少し情報を記しておきます。

重須本門寺根源貫首 本間日諄(四十八世)著によります教箋閑古錐(一巻)P41
に於いてモノクロではありますが(万年救護本尊)首題は鮮明に見て取れます。
(既にご存知の時はあしからず)

この禅師授与曼荼羅は蓮祖御図顕123幅中にはございませんね、
要山発行の機関紙に要法なるものがございます(是もご存知かも)本年元旦発行部に
<付法曼荼羅>
甲州身延山に於いて「健治二年丙子正月元日付法沙門日興授与之」の脇書きあり、
と称すものが記載されております、この曼荼羅も同様123幅中に見て取る事が
出来ませんが連祖図顕ではないのでしょうか?

もう一点、禅師授与曼荼羅・付法曼荼羅は首題が写真に写っています、本山が許可した
発行物に於いてです。
身延系では認識いたしておりましたが、興統法縁に於いてもこの様に首題をバッチリ
と写しますね、石山ではもってのほかですよね。
叉、石山系では自身の発行物以外を拝読する事を許しませんね、先に記しました
曼荼羅の首題(石山の言い分は存じております)同様、私には化けの皮が剥れるから
としか感じ取れないのです、犯罪者が黙秘を行使している様なものだとも取れますし、
子供が大人に嘘がばれているのに方便を持たないから「知らない、知らない」の
一辺倒しか云えないのにも通じていましょうか。

取り留めの無い事を記してしまいましたお許しくださいませ。
何時もながら独歩さんの孜々としてご研究されておられます処、頭がさがりますと共に
さらに波濤を凌ぐいで行かれることと願っております。

167鳥辺野:2007/06/24(日) 13:36:39
犀角独歩さん  お久しぶりでございます。
しゅんかんさん 確か始めまして?ですよね。
横レス失礼致します。京都要法寺の符法本尊の写真でしたら、独学徒さん
のhpにて公開されています。(2番目の写真)
http://ip1.imgbbs.jp/read3/fujikyougaku/index.html#TH_ST15
私は符法本尊の御守は要山の宗務院で購入しました。真偽未決ですが、私は
肌身離さず持ち歩いております。

168れん:2007/06/24(日) 19:33:50
鳥辺野さん、お久しぶりです。
独学徒さんのHPにUPされている京都要法寺蔵の附法本尊(お守り?)は、文永九年の方で建治二年のものではありませんね。近年でも蓮師御真蹟漫荼羅の発見があるので、安国会の御本尊集が“すべて”というわけではありませんが、京都要法寺蔵に関しては御本尊集に入集しているのは推定弘安元年頃の無記年(磨滅?)の漫荼羅の一幅のみであり、他のものは偽作の可能性が濃厚というのが故山中喜八氏の鑑定だったのでしょう。附法本尊の成立史については、過去に彰往考来さんが述べられているところですね。文永の方は、九年元旦の年記にも関わらず花押からして文永十年以降の鍵手バン字のもので、私の感触は、さすがにこれは…というものですが、要法寺の場合、たとえ宗内の守りや刊行物という形であれ、一般にも拝見出来る可能性があるのはやや一般にひらかれている印象で、この点は評価できるかなと思います。
要法寺の建治二年のものは私は未見なので、どなたか独学徒さんの談義所の方に画像をUPしていただければ幸いです。

169鳥辺野:2007/06/24(日) 21:23:33
>れんさん
お久しぶりでございます。
そうですか。文永九年の方でしたか!私はずっと建治二年とばかり思っておりました。
まったく不勉強なもので・・・。そういえば寺院の方も御守の事を「称徳の曼荼羅」と
おっしゃっていました。確か、文永九年が称徳符法本尊で、建治二年が符法本尊だった
と記憶します。


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