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身延相承書と池上相承書について

143れん:2007/05/22(火) 18:51:59
横レス失礼します。
日興撰述の可能性の高い“三時弘経次第”には「今、日蓮房と共に本化垂迹の師檀と為りて迹門を破して本門を立てて末法を利益し国土を治むべきこと之を図す、富士山・本門寺・末法 久成釈迦仏 付属弟子 上行菩薩 日蓮聖人 垂迹神天照太神・八幡大菩薩 当御代 本化垂迹師檀」とあり、日興(ないしその門流)の理解した日蓮の本門為本の立場から、天照太神・八幡大菩薩を久成釈迦仏の垂迹と捉えています。また、初期興門の文献・五人所破事には神天上の法門を示しながらも「但し本門流宣の代、垂迹還住の時は、尤も上下を撰て鎮守を定むべし」とあり、これらの意義により、本門寺建立の時に天照太神の宮(実際のところ諸賢ご指摘のように神宮寺みたいなものとしてでしょうが)をも建立するというのが、初期日興門流の思想のようです。さらに初期日興門流の文献である“富士一跡門徒存知事”には「一、王城の事。右王城に於いては殊に勝地を撰ふべきなり。就中仏法と王法と本源体一なり。居所随て相ひ離るべからざるか。仍て南都の七大寺、北京の比叡山先足+從之れ同じ、後代改めず。然れば駿河国の富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤本門寺は王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり。且つは日興、大聖の本願を祈る処なり」とあり、皇居・都をも富士山麓に遷都せしめるという考えが初期富士門流にあったことが明らかで、このような思想を背景に、本門流布の時代に建立される定義されていた“本門寺”内に久成釈迦仏の垂迹神としての天照太神の宮を造立するという考えが存したと思われます。


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