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身延相承書と池上相承書について

135犀角独歩:2007/05/16(水) 17:32:11

天蓋真鏡さん

殊、富士門流というか、勝劣派というか、この発想においては、ともかく唯一絶対のものは一つという線から考えすぎると思いますね。

この類推は、もちろん、日蓮にあります。他土の阿弥陀、法身大日、釈迦牟尼仏、同じ釈迦牟尼仏でも寿量仏といった選択論です。これは経典でも法華最為第一といった具合ですね。

このような一択方式が、日蓮の遺したものにも採用されているわけですね。
遺骨と教義・釈迦像と漫荼羅で、遺骨より教義、釈迦像より漫荼羅、さらに教義より漫荼羅でそれが本尊、さらに題目五字といった具合に先鋭化されて一つのみに絞ろうとします。しかし、それが本当に日蓮の遺志だったのでしょうか。
墓所に遺骨と釈迦像、注法華経を置けといった遺言は、その中で一つを選ぶものではありませんでした。墓番の選定は遺骨より教義を採るものでもありませんでした。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という格言がありますが、何でもかんでも一つだけを選ぶ、今回の天蓋真鏡さんの論法で行けば、「戒壇堂の代わりに著した修行の道具、三国四師をも表した法華経行者の心「漫荼羅」があれば、相承書や墓守番は要らない」という選択法は、少なくとも日蓮の遺志ではないでしょう。

日蓮は、戒壇堂も標榜していたでしょうし、漫荼羅も重視したでしょうし、墓番も重視したでしょう。もちろん、相承書は後世の捏造ですから論外です。しかし、釈迦像も、注法華経も重視していたでしょう。もちろん、自分の遺骨や、墓を捨ててよいとも考えてはいなかった。それら、いっさいの日蓮の遺物をすべて大切にする、それが門下の在り方であるという点が、日蓮の遺志であったでしょう。できなかったことの言い訳に日蓮の遺志を枉げるなど言語道断です。


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