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身延相承書と池上相承書について
87
:
顕正居士
:2003/11/04(火) 12:12
日蓮聖人がまだありもしない「富士山本門寺」なんて書くものか、なんですが。
ヴァーチャルな紛争においては有効であったようです。
「永正年間大石寺日鎮師は『富士山本門寺なる號は本門戒壇建立以後初めて
公称すべきものなるにも拘はらず重須が本門寺と號するは興師の正意にあらず』
と主張したから重須本門寺日國師は小泉久遠寺日継師と共に之を領主今川氏親に
訴へ、斯くて氏親の前に於て対決となったその時重須方から呈示したのが
所謂二箇の相承である、其時氏親は其等を以て真書として左の判決を下して居る。
従日蓮聖人的々相承並本門寺々號支証明鏡之上領掌無相違者也 仍状如件*
永正十二年乙亥(祖滅二三四)六月二十六日 修理大夫 書判 本門寺日國上人」
早川一三『富士日興上人身延離山の研究』(ニチレン出版121頁)
*日蓮聖人より的々(ちゃくちゃく)の相承並に本門寺々號の支証、明鏡の上は
領掌相違無き者也。仍って状くだんの如し。
園城寺申状と下文というのは富要集に在りますが、NBさんのところには未入力で
いま内容を確かめられません。記憶では後醍醐帝の新政後に日目師上奏の際の
ものだったと。この間にここで議論があって、日蓮聖人の在世にも上奏があった
とか。何か混乱があるように感じました。園城寺の悲願は延暦寺からの完全独立
で、具体的には戒壇建立。勅許を得たが落成すると比叡山兵に焼かれ抗争幾百年。
建武新政の際に、延暦寺から独立を目指す同志に好意的な答申があっても変では
ないかも知れません。ほんものだったらですが。
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