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つぶやきすれっど2
779
:
直筆固執者39
:2003/12/28(日) 18:39
今般某図書館で「2003/11/21付けの読売夕刊紙==日蓮の指紋?、、」なる記事が御座いました、、。 直筆の真偽に多少とも心入れする小生にとりまして「、、ナカナカ興味深い、、」と存じました。因みに「当該寺院は沼津市の妙海寺で九代日有が参考??にした直筆本尊所有寺、、」のようです。
780
:
みかん
:2003/12/28(日) 21:55
>>779
12/10付けの日蓮宗新聞に大きくカラー写真入りで記事が載ってます。
781
:
心者雖念不直相鴨
:2003/12/30(火) 20:32
管理人様:
いつも、お世話になります。来年も一層のご健勝とご多幸をお祈りいたします。
独歩さん、アネモネさん:
30年間にわたる「謗法」の呪縛から解放していただき、本当にありがとうございました。
顕正居士さん、凡夫さん、みかんさん、がんこさん、MILD SEVENさんほかおおぜいのみなさん:
今年一年本当にありがとうございました。どうか、よい年をお迎えください。
782
:
愚鈍凡夫
:2003/12/31(水) 06:54
皆さん、お早うございます。
本年もいよいよ最後の日となりました。
本年はいろいろと御教示下さり、有り難うございました。
皆様の御教示を教学研鑽の糧とさせて頂くことができました。有り難うございます。
明年が皆様に幸多き年でありますよう、心からお祈り申し上げます。
(^∧^) 合掌
783
:
管理者
:2003/12/31(水) 19:02
御参加の皆さん
今年、本当にたくさんの方々に御参加戴き、嬉しい限りです。有難うございました。多々、管理者として至らない点があり、ご迷惑をお掛け致しましたこと、謹んでお詫び致します。また、皆様が御参加下さることを楽しみにお待ち致しております。
心者雖念不直相鴨さん
貴重な投稿、いつも楽しみにして読ませて戴いております。来年も、参加者を愕かせるような、新鮮な投稿を楽しみにさせて頂きます。宜しくお願い致します。
784
:
アネモネ
:2003/12/31(水) 21:22
帰省しておりまして、なんだかすっかり、のんびりしておりました。
年末年始の帰省の度に思うことですが、一年が過ぎるのは、本当に早いものです。
この掲示板も、丸三年が経ち、そして四度目のお正月を迎えようとしているわけですね。
今年も、たくさんのことを学ばせて頂きました。ありがとうございます。
皆さま、どうぞ良い年をお迎えください。
また来年もよろしくお願い申し上げます。
心者雖念不直相鴨さん
お声掛け、ありがとうございます。
示唆に富んだレスをいくつか頂きながら、ご返信が年を越してしますが、どうぞ来年もよろしくお願いいたします。
785
:
孤独な迷子
:2003/12/31(水) 21:24
管理人さんをはじめ、ご参加の皆様にはこの一年お世話になったことを心よりお礼申し上げます。
来る2004年が皆様にとってより良い年になりますように。
786
:
直筆固執者99
:2004/01/04(日) 18:55
沼津=妙海寺での一月八日の早朝五時より一般参加もOK?の「八日法要、、」に参加予定です、。 今まで「真筆〜直筆本尊を見たことも無い私」ですので「この眼でホンマモンとは???、、、???」、何たる??かを「この眼で確認したい気持ちです、、」、、。
787
:
MILD SEVEN
:2004/01/04(日) 19:24
正月休みも今日で終わり。
あ〜あ〜
788
:
ワラシナ
:2004/01/06(火) 22:32
「地震見物に来るな」の貼り紙(1)
---阪神大震災発生三50日後の現地訪問記--
0、あれから8年経過した今頃になって、被災者でもなかった自分が「阪神大震災発生三ヵ月後の印象記」をここに記す事になったのは胸につかえていた事が中々吹っ切れなかったからだった。それが、タイトルの「復興に頑張っているから地震見物に来るな」の文句との出会いであった。それは、激震による建物被害の象徴としてマスコミ報道写真に多く登場していた三宮駅前周辺にあった電柱の貼り紙にあった。
その文句を見た時は、一瞬冷水を浴びせかけられた様に感じた。軽率で大変まずい事をやってしまったような気がした。とっさに反発しかけたが、心の中で別な自分が「自分はそうじゃないようぅ」と小声で呟くのが精一杯だった。
私は地震発生50日後の現地に行ったのである。地震見物といわれて大変心苦しいのだけれども。
あの日の午前10時頃三宮駅前に降立った事は自分の関西旅行の目的が紛れもない地震見物であった事を物語って入るだろうし、三宮駅に赴いた目的も激震被害の有様を見に行く見学、だった事も否定しないし、それだけに終わって激震被災者の心的衝撃の酷さに自分の貧しい想像力が及ばなかったからこそ「冷水を浴びせられたように感じた」事も認めるものである。
が、「地震見物に来るな」と言われても行かざるを得なかったこちらの心の移り行きの自然の流れというものもあったのである。
又、ひらき直って言ってしまえば、少なくとも外部の私、それも現地に知人を持たない私にとっては、マスコミ報道以上の真実を求めようとした場合にはまずもって、(言葉は悪いが、)「地震被害見物に行く」他無い様に思われたからであった。
尤もそれを以って「地震見物に来るな」との御非難に抗し得る訳には行かないと思う。「見に行きたかったから行ってきた」風のこちら側の一方的な一分の道理だけで行動する事の無神経さに旅行後追々気がついてきたからであった。「来るな」と言われて「行く側の一分の道理」も認めてもらえなかった悔しさも憶えたが、被災者の方々が味わったものはそれとは比べ物にならない程のやりきれなさに苛まれていた筈なのであろうから、である。その悲痛な叫びとして「来るな」が発せられた、と思っている。
このように、あれから八年経った今頃になって、あの当時の自分の至らなさに段々感じ始めて来たのである。そして、その頃の自分の思いと振る舞いを丁寧に反芻して見る気持ちの余裕が出てきたのである。やはりあの旅行時は自分も夢中になる余り聊か被災者に対する精神面での配慮が欠けていた、と思う。それは「被害共感の欠如」と言えるかもしれない。
それは、帰京して旅行中の興奮が解けた後から被災者が心の内側で感じていたものに近づいて行ったように感じて来たからであった。
789
:
ワラシナ
:2004/01/06(火) 22:39
「地震見物に来るな」の貼り紙(1)の誤記訂正
「物語って入るだろうし」は「物語っているだろうし」の間違い。
790
:
MILD SEVEN
:2004/01/10(土) 01:00
さて、中盤戦開始・・・と。
791
:
MILD SEVEN
:2004/01/10(土) 03:14
こんな所を紹介。
マインドコントロール研究所
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/mc/
心理学リンク集
福祉・医療・宗教リンク集
http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/link/index.html
792
:
直筆固執者99
:2004/01/15(木) 20:34
皆様、御機嫌は麗しゅう事と存じ申しあげます、。 さて小生「一月八日に沼津:妙海寺(知人の仲介有り)に参詣しました、。」、、。 「生まれて初めての”日蓮サンの直に書いた本尊を50〜70センチの直近でご拝見致しました、、」、、。 その感想は「、、数百年の経年的な紙質変化なのか”全体が黒ずんで居りましたが”マサシク==ホンマモンの様でした
、、」、。 しかし「300〜800年後には”紙質変化と劣化”により、マックロケの視界不良が懸念される」ようですか、、?? ただ「日蓮座像の真っ黒の本尊には違和感を覚えましたが、、昔の文字をも知らない大衆には”木像”も致し方ないカナ、、と存じました、、。 今後には「深い疑問、、?」の一日でした、、。
793
:
MILD NINE
:2004/01/18(日) 19:14
792 サマ、宜しかったら「深い疑問、、??」とは、をおききしたいものですが、、。
794
:
MILD SEVEN
:2004/01/19(月) 02:57
自衛隊のイラク派兵問題について
私としては、自衛隊は<自由共和>の理念を理解した<国際救助隊>であってもらいたいと思います。
アメリカの指揮下(事実上)に入るのでは無く、アメリカをも教育する位の気概をもって、良きパートナーとして活躍してもらいたいものです。
イラクの真の自由の為に。
http://tokyo.cool.ne.jp/mild_seven_xx/
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/9079/
http://mildseven.55street.net/
http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html
795
:
通りすがり
:2004/01/19(月) 19:39
充実した掲示板からいえば、富士門ネットの主旨説明をそろそろ変改してもいいのでは?
796
:
愚鈍凡夫
:2004/01/21(水) 04:23
皆さん、お早うございます。
「むむっ・・・・・。誰もいない」
オチャドーゾ(*'-')_旦~・・・ヾ( ̄ー ̄*)おおきに。おおきに。
下記のHPで、ウダーナ(自説経)の現代語訳が読めます。
失礼しました。 m(-_-)m
「玄喜の翻訳経典:インデックス」
http://www.tok2.com/home/gengi/sutra/index.html
797
:
MILD NINE
:2004/01/21(水) 19:17
795様、、 現今にはご不満のようですが、、 時の流れにもよりまするが、「、、あらゆる情報に付いても、あらゆる方々が知ると言う権利が重要視されつつあります、」、。今から〜今後の数百年におかれましては「、、あらゆる情報の公開(非公開=秘匿=自己利益摂取、)に関しましては、、」もう、時の流れの様です、、。 これこそ「歴史の批判に耐えうるか、どうか?、、」の分岐点のようですかネ、?
798
:
Hope 221
:2004/01/21(水) 20:22
皆様、お元気でしょうか? 時に「情報の秘密的な非公開からは、何が??でしょうか、、?」、、究極の所は「偉そうに出来る、力と権威の所持者のみが甘い汁を吸うことの出来る様です、、?、、」。 その甘い「ウマミをガッチリと確保した方々が”、下々のものども控え居ろう、、!!”と威張り散らせば、、??」でしょうか、、?? 泣かされるのは一体誰でしょうか、、? 「宗教の権威・権力化で誰が苦しむのでしょうか、?」 ??
799
:
時の流れ者
:2004/01/22(木) 20:46
、、洋の東西〜古今の流れ、、から拝見しますと、有る人物〜有る団体などが「実力以上に見せかけて、他人から何らかの寄金や収奪を目論むときは、必ず行う行為が」有るようです、。 それは「第一には”頭上周辺装飾”、、」のようです、。 頭のあたりに、飾り物を施すようです、、。 宗教でも「頭周辺に飾り」をするような宗教は、、「信徒をダマスための第一信号、、」と判定可能のようです、、。 宗教こそが「人々を騙すアノ手この手ででのダマシのテクニックの達人」の様でした、、。
800
:
直筆尊敬者
:2004/01/23(金) 20:54
、、さらに考察できますのは、、胴体周辺も含めての「はでな、色鮮やかな極彩色の衣や袈裟などを着飾る宗教は成仏不可能のインチキ」と判断されましょうか、、。?。
801
:
欲望制御不可能者
:2004/01/25(日) 22:17
今夕NHKの「平均寿命地図、、の特集番組、」はトテモ参考に成りました。 特に西バージニア州での”子供〜大人までの肥満危機”にはウーンでした、、。 人間とは「、いかに自己の食欲には制御不能という無能力サ、、?」を証明して居りました、、。 日蓮サンは「、、各人の自己の各欲望を、いかにして制御して”成仏境涯”まで到達する方法ほ命ガケで実体験、実実行」をなされたようです、、?か、、?
802
:
成仏希望者111
:2004/01/26(月) 19:45
ウーンですネ、、。 成仏===「あらゆる欲望も制御可能な心境とも、?」言えるかとぞんじます、、? 各自の「心境のレベルアップが出来れば、」「低次元での難問題は自然崩壊も、、??」有るかも
、、?
803
:
提案88
:2004/01/28(水) 18:35
800さん、インチキ宗教氾濫には同意します、、。 一度「観心本尊抄を語る」(茂田井 教亨著、大東出版社)の御拝読を推薦致します、、。 なかなか御参考にはなります、、。 御免下さい。
804
:
既読者123
:2004/01/29(木) 19:38
803さん、一応読了しました、、。 スッゲーでしたヨ、、。 あの、恐れ多い「本尊様、、に関連して、」「、、よけいなご託は不必要なり、、=四士と一尊(ふくむ客仏)だけで十分、、?」との御意見にはビックリ、、、でした、、。 この書には「日蓮サンの魂のような???かを啓蒙している様、、」で御座います、、。 「因果の論理こそ日蓮さんの本音、、・」でしょうか、、??
805
:
感銘者001
:2004/01/31(土) 23:24
804さんドーモです、、。 某書386頁「三千常住と本門の肝心、、」には「種々の思考の深さ、、」を実感致します、、。 この書にて「日蓮とは、、??」に関して05%位は理解できたようです、、。
806
:
無徳
:2004/02/02(月) 21:41
人間にとって「信」とは何かについてちょっと考えてみたいと思います。
この拙文は自分のHp(
http://sakumayk.net
)の掲示板に投稿したもののコピー
です。
吉本隆明氏はその著書である『信の構造』の序において、
「〈信〉は形而上的にだけいえば、事物と事物とのあいだの差異の同一化であり、
意志による世界の被覆だといえよう。ただこの被覆は、自然が精練されうるもので
あり、この自然の精練が人間化ということをも包括しているという概念のうえに思
い描かれている。被覆によって人間を自然にさしもどすことと、人間を自然の原因
あるいは起源とすること。このふたつの極端が〈信〉の構造に輪郭をつけている。
ところで人間を自然の原因あるいは起源とするということは、「生誕したことがな
い人間」という概念を思い描くのとおなじ意味をもっている。生誕した人間は、つ
まり何かの結果として生誕したのだから、それ自体で自然の原因や起源となること
はできないからだ、これは<信>がいつも擬人的な至上者を比喩としてもたざるを
えない理由みたいに思える。またこういう擬人的な至上者は所在ということ(場所
ということ)の始源に住んでいなければならない。そうでなければ結果としての始
源という云い方をしても、ほぼおなじことを意味している。」
と述べています。
はたして、<信>によって事物と事物とのあいだの差異を同一化するとは如何なる
意味であろうか?
その後に来る<意志による世界の被覆>と同義であるすれば、それは人間が意志に
よって世界を解釈し理解することをもって<信>の内実とするということなのであ
ろう。
では、なぜそれが事物と事物の差異を同一化することになるのであろう?おそらく
その後に来る<ただこの被覆は、自然が精練されうるものであり、この自然の精練
が人間化ということをも包括しているという概念のうえに思い描かれている>とい
うこととも繋がっているのであろう。
それは、人間による自然の精練つまり自然の人間化と同時に、人間の意志による世
界の被覆を通じて人間を自然の起源と位置づけ、人間を自然にさしもどすことが差
異の同一化というほどの意味なのでありましょう。
しかし現実的には人間はその意志によって世界を完全被覆することはでき得ないし、
自然を精練することも叶わないでありましょう。
したがって、私の解釈としては人間は<信>を通じてのみ世界を被覆できると幻想
し、精練できると幻想するのでありましょう。それが宗教の起源といえるのではあ
りますまいか?
807
:
ガンコ
:2004/02/04(水) 17:13
ニュースでやってたけど、みなとみらい線というのができて、渋谷からまっすぐ横浜の中華街だとか元町に行けるんですってね。
みなとみらいって、ずいぶん変な名前だなあと思ってたら、もうかなり前から、そういう町名があるって言うんですから、横浜もおしゃれなのか、それともセンス悪いのか、びみょうなところですね。
だって、五十年とか百年たってから考えると、やっぱり変ですもの。
それにくらべて大聖人の仏法って、言葉の選び方がすごくうまいと思う。
久遠とか末法とか、無始の古仏とかって、いつまでたっても色あせませんからね。
「源遠ければ流れながしというこれなり」って、大聖人さまがおおせですけど、ああ、なるほどなあ、ずうっとなんだなあ・・・
808
:
無徳
:2004/02/06(金) 00:32
私が現在一番関心を抱いている問題は、人間が何ものか(特に宗教的なもの)を信
ずるという「心的な構造」は如何なるものか?ということです。
そのことについて竹田青嗣氏は『はじめての現象学』のなかの第六章の2において
次のように述べています。
<さて、わたしがここで試みてきたことは、ひとことで言って、人間にとって「ほ
んとう」ということの「根拠」があるのか否かという問題にひとつの決着をつける
ことでした。いまはっきりしたのはつぎのようなことです。
これまで哲学者たちは、「ほんとう」とは何かという問題をめぐって、それをもっ
ぱら「認識の構造」として捉えようとしてきました。しかし、わたしたちが見てき
たのは、それはいわば「信の構造」(確信の構造)として捉えられるべきだという
ことです。
「ほんとう」とは人間にとって、原理的にひとつの「信の構造」として存在すると
言えます。この「信」とは、単に「思い込むこと」や「信じ込むこと」を意味する
のではありません。それは「確かめ」と「確信」の構造として存在するのです>
つまり、人間にとって「ほんとう」とは、「意味」や「価値」として立ち現れる現
象のなかから「正しいと確信」し得るもの、つまり「信の構造」の中にあるという
ことになります。
このことは、私にとっては全く驚くべき考え方であると共に、なるほどと肯ける考
え方でも有ります。
しかし、この竹田氏の「信」に対する現象学的理解を、仏教上における「信の確立」
に当てはめるならば、どのように解釈できるのでありましょう。
それぞれの仏教宗派が「信」の対象とする事柄に至上の価値を置き、そこに生きる
意味をみいだしそれを「正しいと確信」できるならば、そのことは「信の構造」と
して「ほんとうのこと」の根拠となり得るのであろうか?
おそらく、フッサールによって立てられた「厳密な学」としての「現象学」であれ
ば、そう単純とも思える解釈ではありますまい、仏教においても「信」ずべき教義
に対し「厳密な学」に相当する「教相判釈」を通じて「信の確立」を目指したこと
は間違いないでしょう。
ただ、「現象学」の提唱者でもあるフッサールも最初頃は数学をやり、後に心理学
を中心に人間の心的領域の解明を目指したとされているように、「人間の心」とい
う不可思議な存在に魅せられたことでしょう。
仏教においてもこの「人間の心」の解明こそメインテーマであることは間違いあり
ません。
809
:
無徳
:2004/02/06(金) 23:29
阿部正雄氏は『仏教における信の問題』(日本仏教学会編)の中で、
「仏教は自我を絶対に否定した無我を原理とし、一切の分別を絶した無分別智の立
場を根本とする。仏教においては 常一主宰の我を立てこれに執着することを我見我
執としてきびしく否定し、一切は無自性にして空なる所以を説き、「無我」を真実
の立場とする。したがってまた仏教は「我」の立場よりする一切の分別は虚妄分別
であるとし、これを離れ越えた「無分別智」にめざめるべきことを説く。そこでは
自我も分別も、本来積極的な意味をもつものとは解 されておらず、共に絶対的に否
定されなければならぬものとされている」
と述べているが、この見解は仏教理解としては最も一般的なものといえましょう。
しかし、吉本隆明氏は上記の意味を『最後の親鸞』の中で、
「知識にとっての課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことで
はない。その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに
〈非知〉に向って着地することができればというのが、おおよそ、どんな種類の知
にとっても最後の課題である。
この「そのまま」というのは、わたしたちには不可能にちかいので、いわば自覚的
に〈非知〉に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親繍は、この「そ
のまま」というのをやってのけているようにおもわれる」
と、転じ(読み替え)ているように思われます。
つまり<知の頂を極め非知に向かって寂かに着地する>とは、<一切の分別を離れ
無分別智によって無自性空の位相に立つ>ことでありましょう。
810
:
無徳
:2004/02/06(金) 23:32
訂正__(誤)親繍___(正)親鸞
811
:
ブッダの見識再考者
:2004/02/07(土) 18:30
805さん、小生も「観心本尊抄を語る」を拝見しまして「387頁の45文字の法体?」、「406頁の釈尊との一体?」、「380頁の2500年前とは言え科学的見識?」の訴えには「、、一創作品、?」とは思えない言言を感じました、。 もっと「深い?かが存在、?」のようです、?
812
:
無徳
:2004/02/07(土) 22:47
中村雄二郎氏はその著『知の変貌』の中で、
<ミッシェル・フーコーが
「自分は思考の方法を誰よりもフッサール、サルトル、メルロ=ポンティなどの
現象学的=実存主義的なあり方によって決定的な影響を受けた世代の一人である。
だが、実存王義や人間学的マルクス主義は、人間の自立をつよく説きながら、実際
には人間の名においてかえって神を温存したのではなかったか。およそ意識や自由
の主体としての人間とは、実は神に依存したもの、一種の似姿にほかならない。
かつてニーチェは決然として神の死を宣告した。そのとき彼は、同時に、神化され
た人間と人間の神学化をも告発したのであった。ニーチェが到来を待望し告知した
超人とは、およそ、人間よりも神にいっそうよく似ている人間、つまり実存主義者
や人間学的マルクス主義者がいう人間のことではなく、神とはいかなる関係をも持
たなくなった人間のことである」
また
「哲学は、ヘーゲルからサルトルに至るまで、本質的には意識によって人間経験を
全体化することにあったが、いまではもうこれ以上進めない道、行き止まりではな
いかと」
と述べ、
すなわち、実存主義や人間学的マルクス主義が自己展開し徹底化していくうちに無
自覚に含むことになった盲点や弱点とは、構造主義の観点からすれば、理論的な厳
密さを欠いたままに価値の根源とされた人間中心主義(とくに近代西欧的人間主義)
と、それに結びつく一種の歴史主義である。そして、それらの背後には共通して,
意識(コキト)を依然として絶対化しつづけている考え方があるとされた。>
としている
このことは、日本における仏教宗派のあり方を批判する上においても、大変示唆的
であるいえます。特に日蓮正宗系およびそれに纏わる教団において、自らの宗派的
教義の絶対性を鼓吹するあまり、無自覚に含む盲点や弱点に気づかず宗派的な共同
幻想の頸木から逃れられないでいる現状を見るにつけ、まことに残念に思わざるを
得ません。
813
:
妙法
:2004/02/09(月) 13:40
五字七字の題目は、私達の仏性(久遠実成釈迦牟尼世尊)が文字として顕れ、
声として私達の口から出ずるもの。
曼荼羅は私達の仏性(久遠実成釈迦牟尼世尊)を、形として顕れたもの。
また、顕したもの。
814
:
仏境涯体現希望者
:2004/02/10(火) 18:03
813さん、はじめまして、。 貴殿のお言葉では”日蓮は単なる仲介者か第一発見者”のように軽視の様ですが、。 釈尊尊重のあまり”日蓮が強調した法華折伏、他宗では成仏不可能”に関して晩年はくどい様に主張なさったのは、?でしょうか、? 日蓮は単なる””メッセンジャーボーイ”だったんでしょうか、?
815
:
成仏 到達思索者
:2004/02/12(木) 19:33
814様。 マーお熱く成らず、、。 それにしましても、久遠実成とは何?ですかネ? 久遠の昔に「実際に仏の境涯を体得した事??、 または事実的に本当に仏を体現到達した、、」事なのかは一体どうなんでしょうか、、? 歴史的事実のお釈迦さんの法華教は弟子方らに依って伝えられたが「その継続性のカギは日蓮さんの存在意義が??」でしょうか、、? 日蓮が居なかったならば???でしょうか、、?? 日蓮は単なる「使い走りの番頭では無いかと、、??」 、「久遠の釈尊様と一心同体とも言える大貢献者、、??」ではないでしょうか、、??
816
:
久遠 本果 探究者
:2004/02/12(木) 21:02
814様と815様は。 別人なのでしょうか、、。 まったく同じ人のようにみえますが?どうなんでしょうか、、?
817
:
成仏 到達思索者
:2004/02/14(土) 21:43
816さま、ご無礼いたしました、、。 以後反省いたします、、。
818
:
Hard 99
:2004/02/21(土) 17:37
御免下さいませ、、。 マーイロイロお有りかとぞんじます、、。 そこそこヨロシー件もあり、不可もあり、、、でしょうか
、、? 、、ワシらは単純かと、、?? 思います、、。 ヤサシイ甘い言現は「心当たり」はナゴミまするが、、、そのツケ、、、??が恐ろしゅう御座いますル、、。
819
:
犀角独歩
:2004/02/27(金) 17:02
本日はオウム裁判を日中見続けていました。
しかし、マスコミの報道の焦点は「死刑判決」一本なんでしょうかね。
こういった偏った報道しかできないマスコミにも一つの責任があることを認識すべきなんだという思いが憤慨にまで膨らみました。
820
:
一字三礼
:2004/02/27(金) 21:58
私もオウム裁判報道を見てのつぶやき。
オウム被害に遭った方やそのご遺族の方々から「死刑判決」を望む声があがるのは心情的には理解できます。中でも「死刑判決が確定したところで通過点にしか過ぎない・・」と話していた後遺症に悩むご家族を持つ方の言葉は重みがありました。
しかし、マスコミの意見や街頭インタビューでも全て「死刑」しか出てこないのは昔のマカロニウェスタン映画の中のつるし首を街中の人々は喜ぶシーンを思い出します。それだけでいいのか皆・・・。
宗教団体の絡む犯罪が多すぎます、それも内容的にはとても稚拙な。難しいことですが、やはり幼少から幅広い宗教・道徳教育が必要なのではないか、と考えてしまいます。現在のように国旗・国家を押し付ける事は、役人の政治的な思惑ばかりチラついて、子供の情操教育の役には立ちません。
821
:
愚鈍凡夫
:2004/02/28(土) 21:15
今日の読売新聞朝刊の1面にこんな記事がありました。
**************************************************
(前略)
判決をきいてやりきれない思いがするのは、オウム事件が突きつけた問いかけに、私たちがいまだに回答を用意できていないことにも原因がある。
1つは、宗教カルトに向かう若者の心をどう引き戻すかという問題だ。アーレフと改称したオウムには、今も、一度逮捕され刑期を終えるなどで戻ってきた約100人を含め約1650人もの信者がいる。豊かな心をはぐくむ教育を、家庭、学校、地域で考えなければならない。
もう1つはテロヘの備えだ。オウムはいきなり暴走したわけではない。その芽を摘む機会を警察が何度も逃し、空前のテロにつながった。緻密な情報収集、迅速な摘発ができる態勢は不十分だ。緊急事態対応を一元的に指揮する機関の検討も急務だろう。
「きょうもオウムが天井に数人いる」。オウム事件を担当した元司法関係者の夫人から、親しくしていただいている社会部の記者に、つい最近もそんな電話があった。数年前から「外出についてくる」「ビデオで監視している」などと訴えが続いている。痛ましいことだが、夫人の心にオウムが住みついたらしい。
底知れない恐怖、漠然とした不安は、オウム事件後、この社会に取りついて離れない。その意味では、オウムは、多かれ少ながれ私たちすべての心に住みついている。松本被告によるその呪縛をどう解いていくか。一審判決は長い道のりの始まりに過ぎない。
社会部長(東京) 楢崎 憲二 2004(平成16)年2月28日 読売新聞朝刊
**************************************************
「松本被告によるその呪縛をどう解いていくか。」
このことは池田さん、浅井さんにも言えることですね。
元信者のマインドコントロールからの解放、被害者のPTSDの治療。深刻な問題が山積みですが、根本には「信教の自由」を悪用したカルト宗教の狡猾さ、マスコミの宗教アレルギー、法の番人としての検察・警察の機能不全という深刻な問題が横たわっていると思います。
しかし、「優しさとは何か」「他人を顧みるとは何か」を問いかける家庭教育、学校教育が改善されれば、もっと住みやすい社会になると思うのですが・・・・・・。
822
:
犀角独歩
:2004/03/02(火) 14:40
昨日、久方に松本佐一郎著『富士門徒の沿革と教義』をざっと目を通しました。
しかし、ひどい内容ですね、これは。蓮師遺文の真跡/真偽未決/偽書の整理すらせず、平然と記述試論を展開しています。
それにしても、板漫荼羅に関する記述で、これほど、お粗末なものも珍しい。
著者歴によれば、帝国大学大学院を出ているそうですが、なんだか信じがたい気分になりました。
まあ、人格攻撃をする気は毛頭ありません。近影を見ても好感を持てなくはないのですが、内容はいただけませんね。
823
:
MILD SEVEN
:2004/03/06(土) 07:01
<<<最近のイラク情勢について>>>
ここは自由にさせてもらっていますので、情報も提供させていただきま〜す。
誤解無きよう。
私は裏表無き性格です。
ただ・・・同時・多方面的思考ありです。
顔がいっぱいありますので。
これは冗談。
/////////////////////////////////////////
イラク基本法・・・。
中東新時代のバランスは、主の導きあってこそ。
不自然な人間主体の強行は考えもの。
もはや、旧時代に逆戻りしてはならないでしょう。
自由は、主にある自由への第一ステップ。
旧時代の律法は、法無き時代の養育係の役を終えたのです。
中東は、次なる過程・時代へと進みましょう。
大人の時代へ。
//////////////////////////////////////
上記は、聖書全体をバランス良く学べば、すぐに解る事です。
http://hidebbs.net/bbs/momo721?sw=7&m=10
普通の、慈悲ある仏教界・・・。
私としては、このイラク問題に関しては個人的には協力を呼びかけたいのですが・・・。
同じ日本人としても・・・。
私にも葛藤はそれなりにあります。
慈悲は、尊敬に値するものです。
キリスト者は、ある意味、愛の奴隷ですから・・・これは、誤解されては困りますが。
まあ、他国に干渉するなら、少なくとも、カルト体質無き国家ではなくてはなりませんから・・・。
国内戦線?でも私は奮闘?しております。
http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html
824
:
犀角独歩
:2004/03/07(日) 19:54
昨日は旧暦の2月16日。突然、思い立って身延から富士方面に行ってきました。
まず身延山に。わたしは宗廟と草庵跡の佇まいが好きです。
いつしか蓮師の墓参気分になっていました。
次いで石山に向かって山門から奉安堂裏手から一周。
そのまま北山に。こちらでは興師の墓参。もう桜が咲き出していました。
当たり前のことですが、蓮師がいらした身延には蓮師のお墓、興師がいらした北山に興師のお墓。それなのに、実質、目師に始まる石山にはその墓がないわけです。これはかなり異常なことであるとわたしには思えます。
825
:
北海 熊一郎
:2004/03/08(月) 20:07
そうなんですか、、? 小生昭和36〜42年の十数度の登山参詣の折りは「蓮祖〜日興〜日目〜以下65代までの御立派?な墓所が存在していましたが、? 何かが在り? 何かが?存在したのでしょうか、、?
まー二箇相乗を偽作するような団体様で在るようですので「、、ムベなる哉、、?」とぞんじます、、。 ゴメン。
826
:
犀角独歩
:2004/03/09(火) 14:43
> 蓮祖〜日興〜日目〜以下65代までの御立派?な墓所
この歴代墓地はいまでもありますね。
また三師塔もあります。しかし、ここに遺骨は納まっていませんでしょう。
わたしが申し上げたのは正墓です。実際に遺骨が納まってる墓所のことです。
827
:
七師外道
:2004/03/09(火) 20:29
目師の正墓所は郷師が鳥辺山に御建てになられた。
郷師は石山に戻られたが、石山が目師のお骨引渡しを求めた記録はない。
また道師時に目師の正墓を石山に建てた記録もない。
猶、鳥辺山の正墓を石山が守ったとか、道師が墓参したという記録も全くない。
つまり石山には蓮興目御三方の御骨は存在しない。
目師が道師を後継にしたという事実も真偽未決の目師譲り状しかない。
初期の郷門は蓮目郷という系譜を自任しており、尊門もそれを否定してはいない。
この郷門の主張はつまるところ目師時の石山の考えでもあろうとの推測も可能である。
828
:
MILD SEVEN
:2004/03/14(日) 08:00
なんか、昨日は忙しかった・・・。
困るんだよな〜
また、暇な地方?に逃げるかな〜
客に苦しめられない所に・・・。
因果な商売だな〜
829
:
犀角独歩
:2004/03/15(月) 17:26
蓮師入滅の地・東京大田区池上の近くに洗足池があります。池上邸へ向かう途中、蓮師はここに立ち寄り、この池で足を洗ったことからその名の由来があるといいます。
その際に袈裟を掛けた松の3代目という樹が残り、「袈裟掛けの松」という名所になっていますが、この傍らに石塔が建っています。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/koan3nen9gatu1hi_manadara.jpg
本日、散歩がてら訪れてみたのですが、一見して弘安3年様の漫荼羅形式。日付を見ると「弘安三年・九月一日」(干支は読み取れませんでした)となっていました。
帰宅して本尊集を当たると該当の漫荼羅はありませんでした。
この建立地は現在寺院になっていますので、そのうち、石塔建立の縁由でも尋ねてみようと思っています。
この場所、石塔の裏手が洗足池でなかなか好い場所です。
池上本門寺観光の折は寄り道をお薦めしたいスポットです。
さらに余談ですが、袈裟掛けの松の隣地は洗足軒と勝海舟自ら名付けた別邸跡地です。南州と戦った官軍はこの池上本門寺に陣地を置いており、そこから洗足池を通った勝海舟はこの地の風光明媚たるに惹かれ別邸を置くのみならず、日蓮が渡った多摩川を越え富士を仰げるこの地の埋葬を望み、いまも墓がひっそりと建っています。墓石前に小さな鳥居が建っているちょっと珍しい様式の墓所です。
830
:
富士桜
:2004/03/17(水) 18:36
:犀角独歩さん
>「袈裟掛けの松」という名所になっています
・
袈裟掛けの松と言えば、一昨年伊東方面に旅行した折、法華宗
http://www.hokkeshu.com/
「蓮着寺」の近くに宿泊しました。
伊豆配流で置き去りにされた「俎岩(まないたいわ)」が見える 日蓮岬があるところ、そこでも「袈裟掛けの松」がありました。
地形的にまな板岩も、袈裟掛けの松も「そのもの」とは思えませんが、その場所のロケーション、寺院の由来、日蓮岬と言う響きと言い綺麗な場所でした。
・
来週、池上本門寺に見学に行かせて頂こうと思っています。
また、宗派、門流関係なく、どこか蓮祖有縁の場所がありましたら教えてください。
もちろん「洗足池」も見学してこようと思います。
831
:
MILD SEVEN
:2004/03/17(水) 22:38
3年前に見た桜は格別に綺麗でした。
母から引き継いだ本は確かな証しをしています。
約100年前の、信仰の先輩の書いた物。
私にとって、聖書の副読本と言ってもいい物です。
生きたキリスト者の言葉。
/////////////////////////////////////////////////
「・・・一度、この、仕事に没頭するという本当の勤勉を知れば、ひとの精神は、働き続けてやまないものである。
そして、しばしば、このような(あまり長すぎない)休息ののちに、知らぬ間に仕事がはかどっているのをみるのは、まったく不思議である。
すべてのものが、まるでひとりでのように明瞭になってきて、多くの難点は突然解決されたように見えてくる。
最初頭にたくわえておいた思想はおのずから増大して、立体的なすがたをとり、表現力を得てきている。
そして、新たに始める仕事は、今度はまるで、その休息の間にわれわれの力を借りず自然に成熟したものを、骨折りなしに刈り入れるかのように思われる事さえ珍しくない。
これが、すなわち、仕事の報酬なのである。・・・。
/////////////////////////////////////////////////
832
:
犀角独歩
:2004/03/17(水) 22:40
富士桜さん:
池上本門寺近くで蓮師に係る史跡は、あと矢口渡でしょうか。
東急池上線にその地名が残ります。
しかし、ここは見るほどの場所ではありません。
それにしても、伊豆にも袈裟掛けの松があったのには少なからず驚きました。
観光名所というのは案外、同じようなネタを使っているのでしょうか(笑)
本門寺では、境内地に目を奪われず、麓の本行寺大坊がお薦めです。
お寄り掛かりの柱で有名な蓮師入滅の場所であると言われています。
尤も目玉の柱は嘘っぱちだといまは創価学会から離脱した竜氏がここに喧嘩を売った話は古い『人間革命』にも記述があったはずです。関係ありませんが、竜氏の子息はわたしの友人です。まあ、こう書いてもご本人が読んでも、「独歩、だれ?」となるかもしれませんが(笑)
大坊から境内に向かう坂の途中に荼毘所跡があります。いまは仏塔みたいなものが建っていますが、ここら辺のロケーション、案外、合っているのではないのかと個人的には思っています。
富士桜さん、来週は池上にお出でですか。19日には小規模の勉強会を開催していますが、来週はたぶん神奈川から新潟に相談会から後援会で旅に出ています。
日にちが合えば、お会いしたかったですね。いっときは戒厳令下で人と会うことも憚っていましたが、いまは案外、自由にお会いしています。また、機会がありましたら、是非お声を掛けてください。
833
:
犀角独歩
:2004/03/17(水) 22:43
…間違えました(汗)
誤)東急池上線…矢口渡
正)東急多摩川線…矢口渡
834
:
愚鈍凡夫
:2004/03/17(水) 22:48
パソコンの調子が悪く、しばし"ロム専"でしたが、ようやく使える状態に戻りました。
\(;゚∇゚)/ヒヤアセモン☆ ヽ(゜▽゜*)乂(*゜▽゜)ノ バンザーイ♪
スレ違いですが、三学無縁さんレス有り難うございました。
835
:
nirho
:2004/03/18(木) 11:48
はじめて書き込みします。
私は、実質無信仰者(とりあえず浄土真宗)なのですが、学会員の友人の影響で、
日蓮上人の生涯について興味を持ち、鎌倉の日蓮ゆかりの場所などを歩いてみました。
鎌倉にも「袈裟掛けの松」があったという跡?(石碑)がありますが、洗足にもある
ということを聞き、もしかしたら他にもあるのではないか?と思い、以前、ネットで
検索してみたことがありました。
その結果・・・
1.鎌倉 稲村ガ崎
2.洗足池公園 妙福寺(大田区南千束)
3.蓮着寺(伊豆・伊東市)
4.実相寺(佐渡郡佐和田町市野沢)
5.本光寺(佐渡郡畑野町)
の5ヶ所に、日蓮上人の「袈裟掛けの松」(伝説?)がある(あった)ようです。
日蓮上人以外では、蓮如上人の「袈裟掛けの松」、弘法大師の「袈裟掛けの松」
というのがありました。弘法大師の「袈裟掛けの松」は、近年、虫害で枯れてしまい、
年輪を調べたところ樹齢約270年だったそうです。
昨年、洗足の「袈裟掛けの松」を見に行った時のこと、 妙福寺の境内に入り
”松”を捜していたら、しめ縄の付いた松の傍に警備員が立っておりました。
一瞬、松を見張っているのかと思いましたが、池の方を見ると、丁度、ドラマ
のロケが行われていて盗撮防止のためだったようです。
警備員の目を気にしながら、バッグからカメラを取り出して、松の写真を撮りまし
たが、この警備員から見たら、「盗撮しに来た奴が、警備員の俺を見て、松の写真を
撮って帰った(笑)」だったのかもしれません。
836
:
犀角独歩
:2004/03/18(木) 18:33
nirhoさん、はじめまして。
こんなにありましたか、袈裟掛けの松。驚きました。
また蓮如師、弘法師などにも見られるのですね。
洗足池の足洗い伝説も弘法師説もあったように記憶します。
…そういえば、洗足池では石塔に目を奪われて、袈裟掛け松、気にもとめずに帰ってきてしまいました(笑)
837
:
愚鈍凡夫
:2004/03/18(木) 19:56
何気なしに、ネットで検索していたら、こんなんヒットしました。 (;^_^A アセアセ…
尚、写真をクリックすると大きめの写真が見られます。
「まあ・・・・・、何といいますか・・・・・」(独り言) (-_-;)
「日蓮上人ゆかりの地」
http://popup7.tok2.com/home2/izu/MEISHO/ITO/nitiren/
838
:
犀角独歩
:2004/03/18(木) 21:39
愚鈍凡夫さん:
シビアな板漫荼羅の追及をやっているときに、各地に伝わるおっとりとした伝承話、なんかほんわかした気分になります。
石山の歯肉が生きている話とか、板漫荼羅が日蓮さまだというのも、こんな範疇にあれば、もったり笑って終わりだったんですけれどね。
839
:
愚鈍凡夫
:2004/03/18(木) 22:34
犀角独歩さん、仰るとおりですね。
戸田さんさえ大騒ぎしなかったら・・・・・、なんてね。 (^◇^;)
たまには、お茶(オチャケ?)でも飲みながら、こんなお話はどうでしょうか。
「ジャータカ物語」
http://www.j-theravada.net/jataka/
840
:
一字三礼
:2004/03/20(土) 08:45
そういえば、佐渡の日蓮宗寺院にもお肉牙がお宝とされているところがありましたね。名前はわすれましたが。
池上の霊寶殿が出来たての頃、日蓮聖人御真筆の「下山御消息」が展示されていたのにはびっくりしました。
841
:
犀角独歩
:2004/03/20(土) 09:44
以前にも紹介したことがあるかも知れませんが、昭師『遺跡之事』に
「一、聖人御歯二粒ハ者 御存生之時 親リ聖人御手自リ賜フ所也 夙夜向顔之思ヲ成ス可シ…文保十七(1317)年十一月十六日」
とあります。尤もこちらは肉が付いているとは言っていません。
その分、信憑性はあります。また、これが事実ならば、石山の「御肉牙」はこれをモチーフに創られた話なのではないのかと思っています。
あと、まったく余談ですが、石山の御会式は興師だけが「日蓮聖人の弟子」として『申状』を出し、他の五老方は「天台沙門」と名乗ったと非難していますが、悪玉の代表のように言われる向師も「日蓮聖人遺弟日向申」とし記した『申状』が日宗全に載り、高師も「日蓮聖人遺弟日高謹申」となっています。その他は詳しく調べたわけではありませんが、この二つの例を見ても『富士一跡門徒存知事』の「一、五人一同に云はく…天台沙門云云」の批判はどうも直ちに信用できないところがあります。
さらに脱線して身延離山について朗師『身延離出書』に
「久遠寺ノ大檀那波木井殿ニ三ツ謗法之有ル依テ 日昭 日朗 日興 日頂 日持ノ五人ハ同心ニ彼ノ山ヲ出ヅル事一定也…彼ノ日向ハ日蓮ノ御弘通ノ本意ヲ背キ大謗法…」
とあり、重須の五一相対(五老 vs 興師)はいささか趣を異にしています。
この文に見られる五老 vs 向師の五一相対は、以前、たしか三学無縁さんが指摘されたことがあったと記憶します。
この所伝が事実ならば、石山の身延離山史のみならず、昭朗門もかなりアナウンスが違っていることになり、なかなか興味深い文献だと思えます。
842
:
Radio Press
:2004/03/21(日) 12:24
http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/B00006497C/qid=1079839396/
これ欲しい。
レビューが全員、最低評価w。
ジャケットは例の日寛師のお曼荼羅です。
843
:
ワラシナ
:2004/03/23(火) 22:33
正本堂そっくりにみえる大田体育館!
844
:
犀角独歩
:2004/03/24(水) 11:08
おぉ、久方のワラシナさんのご登場。
大田体育館…、昭和46年8月4日、池田さんが来て大がかりな祈念撮影会が行われた会場です。当時、そこには壮婦男女四役から選出された多くの人々が集い、日付に因み、4684グループと命名されました。取り分け小学校1年から高校3年までは「池田先生を父と仰ぐ」意義から太田兄弟会と命名され、全員がこの日には世界中のどこにいても戻り集うと誓い散じていきました。
そんな意味で大田体育館は当地創価学会には歴史に残る建物なのです。
しかし、正本堂に似ていますか。
両方とも捨ててきた、自分には心の片隅がほんのり痛むご投稿でした。
まあ、独り言ですが。
845
:
犀角独歩
:2004/03/24(水) 11:10
打ち間違えました。訂正するほどではありませんが、
誤)祈念撮影会
正)記念撮影会
でした。
846
:
ワラシナ
:2004/03/26(金) 08:00
寿司和食ご宴会の「がんこ」という名前の関西系の店が沢山あったんですね。
847
:
富士桜
:2004/03/26(金) 13:01
先日池上本門寺に見学に行こうかと思ってたのですが。。。青山斎場で執り行われたいかりや長介さんのお焼香に行ってきました。
子供の頃、親の目を盗んで「8時だよ全員集合!」を見ていたドリフターズ。「おいっす!」「だめだこりゃ!」など学校でよく真似していました。
葬儀にはファンのためにわざわざ花祭壇を作ってくれた関係者の方々に感動しました。
それよりも、もっとびっくりしたのが一般参列してるファン層の幅の広さにびっくりしました。またどれほどたくさんの方に笑いを届けたのか痛感させられました。
とある日蓮宗(池上方面の寺院)のお題目の流れる中、冷たい雨の中訪れた方々皆深い悲しみに暮れていました。
なんだか淋しくて思わずお焼香に行き、久しぶりに涙が出ました。
ここの掲示板には全く関係ないのですが、いかりや長介さんの御冥福を心よりお祈りいたします。
来週の休みは池上本門寺見学したいと思います。桜が綺麗なんでしょうね。
848
:
犀角独歩
:2004/03/26(金) 13:51
富士桜さん:
いかりやさんの葬儀に参列されたのですか。
池上本門寺は桜もきれいですが、池上梅園があり、梅の名所でのほうが有名なんですよ。
大田区では桜は洗足池も有名です。あと、多摩川台公園の桜、多摩川縁の堤の通りも二子玉川まで延々と桜並木が続く名所です。
世田谷の深沢から桜新町の川沿いも見事です。
849
:
ワラシナ
:2004/03/28(日) 20:26
池上会館の小学校側の三本は咲いていたが、山側の一本はまだだった。あと久遠林の中の一本が咲いていた。
本門寺の山の上はどうなっていたかは上ってないのでわからない。呑川沿いで咲いているところでは花見が行われている。
850
:
犀角独歩
:2004/03/29(月) 10:35
昨日、上越新幹線で東京から長岡まで行ったのですが、手前、補佐ではまだ一面の雪景色で驚きました。本日、東京に戻ると、やはり少し暖かく、桜も見事に花咲いて、2時間ばかりの移動でずいぶんと違うものだと感慨がありました。
長岡、蕎麦がうまかったですね。蕎麦と言っても寛師を思い出さなくなったこのごろです。
851
:
一字三礼
:2004/03/29(月) 22:32
27日から1泊2日で身延へ行ってきました。
桜はまだ5分咲きでしたが、満開よりも風情を観じました。
まあ、目的が御草庵跡をじっくり観てくることにありましたので、もとより花見は二の次だったのですが。
総門から三門までの各所で講単位での団体客を見かけましたが、御廟所・御草庵跡はほとんど人も居なくて静かでしたので「新尼御前御返事」を思い出しながらしばし感慨に耽ることが出来ました。
翌朝、他の団体さんは本堂での朝勤に参ずる為でしょうか、旅館からワゴン車で上って行きました。私は久遠寺自体にさほどの興味が無かったので、本堂での朝勤には参加しませんでした。(その日はあまり好きではない陀羅尼品でしたし)
私は1人で5時過ぎに起き出し、再び御草庵跡に出向き、一品二半を誦し、心ゆくまで題目を唱えました。
6時近くになると、ご僧侶が1人御廟所前で朝勤を始めました。私はその後方でしばし合掌して拝聴しました。
その時の感想ですが。読経・唱題が短かった割に、どの宗派でも使う開経偈や、勧請やら回向文・四誓がやたら長いのですね。
石山のように何も無いのも寂しい気がしますが、出典不明や法華経と無縁の文言をやたらと並べるのもどんなものでしょうか。
しかし、ご草庵跡にも参拝出来たので、全体的にはとても満足しました。
852
:
ワラシナ
:2004/03/29(月) 22:51
南馬込の桜並木通りは二三割咲いてました。
853
:
三学無縁
:2004/04/02(金) 20:37
215000ゲットしました。
854
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 20:26
少し変な投稿ですが…
「以下のサイトは、あなたですか」という問い合わせが来ました。
「折しも昨年の今ごろは、年若な人を相手に何とか響かせようとして散々骨を折っていた頃だ。
今となっては彼もこれも去り、唯々犀角独歩を気取るくらいしか振る舞いようが無いけれども…」
http://home.att.ne.jp/yellow/tortoise/at22.html
…この方とこの文章は、わたしとは全く関係がありませんので、いちおう念のため。
855
:
MILD SEVEN
:2004/04/23(金) 02:02
最近、宿題が多くて・・・。
新メニューを、味を想像しつつ、組み立てる作業は・・・。
明日・・・もう今日か!試作するかな〜
856
:
れん
:2004/04/24(土) 17:35
大石寺九世日有師の弟子の一人である左京阿闍梨日教師は穆作抄に「信とは法華一部を信ずるか又釈尊の遺像を信ずるか大曼陀羅を信ずるかさやうにては空しかる可きなり所信の法躰大事なり秘すべし秘すべし」と述べていることを考えると、石山上代においても現代のごとき偏狭な板曼陀羅偏重の信仰はなかったと、ふと思う今日この頃です。m(__)m
857
:
愚鈍凡夫
:2004/04/26(月) 03:39
早いもので今年もゴールデンウィークの季節になりましたね。
先々日に母が永眠しました。正直言って、この母には幼少の頃より苦しめられてきました。だから、今でも心の奥では母を許していません。
でも、こういう問題は時が解決すると思っていますので、今の気持ちを素直に受け止めようと思います。
矛盾しますが、小生の中には母を慕う幼な子がいます。だから涙が止まりません。この気持ちも素直に受け止めようと思っています。
独り言です、お許し下さい。 m(_ _;)m ゴメン!!
858
:
地名
:2004/04/26(月) 05:28
857 愚鈍凡夫さん
心よりご冥福をお祈りいたします。
私も2年前に母を亡くし悲しかったです。
しかしその悲しみも時が解決してくれました。
良い思い出になります。
誰でも通る道ですから。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
859
:
地名
:2004/04/26(月) 06:26
愚鈍凡夫様
既にご承知の事と存じますが、上原専録氏の「死者・生者」に「忘持経事」を解説したものを読んだとき深く感銘致しました。
御本尊様にご冥福をお祈り申し上げました。お釈迦様のゴータミーに対する教えに感動しました。「…女よ、からし種をもらってきたかい。いいえお釈迦様、わたしにはもうからし種は要りません。この児をこのまま安らかに眠らせてやります。」と。
「忘持経事
【建治二年三月、富木常忍、聖寿、真筆−完存】
忘れ給ふ所の御持経、追て修行者に持たせ之を遣はす。
魯の哀公云く、人好く忘る者有り。移宅に乃ち其の妻を忘れたり云云。
孔子云く、又好く忘るること此れより甚しき者有り。桀紂の君は乃ち其の身を忘れたり等云云。
夫れ槃特尊者は名を忘る。此れ閻浮第一の好く忘るる者なり。今常忍上人は持経を忘る。日本第一の好く忘るるの仁か。
大通結縁の輩は衣珠を忘れ、三千塵劫を経て貧路に蜘■し、久遠下種の人は良薬を忘れ、五百塵点を送て三途の嶮地に顛倒せり。
今真言宗・念仏宗・禅宗・律宗等の学者等は仏陀の本意を忘失し、未来無数劫を経歴して阿鼻の火坑に沈淪せん。
此れより第一の好く忘るる者あり。所謂今の世の天台宗の学者等と持経者等との、日蓮を誹謗し念仏者等を扶助する是れなり。親に背て敵に付き、刀を持て自を破る。此等は且く之を置く。
夫れ常啼菩薩は東に向て般若を求め、善財童子は南に向て華厳を得る。雪山の小児は半偈に身を投げ、楽法梵志は一偈に皮を剥ぐ。此等は皆上聖大人なり。
其の迹を検ふるに、地住に居し、其の本を尋ぬれば等妙なるのみ。
身は八熱に入て火坑三昧を得、心は八寒に入て清涼三昧を証し、身心共に苦無し。譬へば矢を放て虚空を射、石を握て水に投ずるが如し。
今常忍貴辺は末代の愚者にして、見思未断の凡夫なり。身は俗に非ず道に非ず、禿居士。心は善に非ず悪に非ず、羝羊のみ。
然りと雖も一人の悲母堂に有り。朝に出で主君に詣で、夕に入て私宅に返り、営む所は悲母の為め、存する所は孝心のみ。
而るに去月下旬の比、生死の理を示さんが為に黄泉の道に趣く。
此に貴辺と歎て云く、齢既に九旬に及び、子を留めて親の去ること次第たりと雖も、倩事の心を案ずるに、去て後来るべからず、何れの月日をか期せん。二母国に無し、今より後誰をか拝すべき。
離別忍び難きの間、舎利を頚に懸け、足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。
国国皆飢饉し、山野に盗賊充満し、宿宿粮米乏少なり。我身羸弱(るいじゃく)、所従亡きが若く、牛馬合期せず。
峨峨たる大山重重として、漫漫たる大河多多なり。高山に登れば頭を天に■ち、幽谷に下れば足雲を踏む。
鳥に非れば渡り難く、鹿に非れば越え難し。眼眩き足冷ゆ、羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入て一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き、一乗談義の言山中に聞ゆ。
案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五体を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば種子と菓子と、身と影との如し。
教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道、吉占師子・青提女・目■尊者は同時の成仏なり。
是の如く観ずる時、無始の業障忽ちに消え、心性の妙蓮忽ちに開き給ふか。
然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐恐謹言。
富木入道殿
860
:
犀角独歩
:2004/04/26(月) 07:55
愚鈍凡夫さん:
故母堂様のご冥福をお祈りします。
861
:
問答迷人
:2004/04/26(月) 08:16
愚鈍凡夫さん
いつも貴重な投稿、誠に有難うございます。
御母堂様のご冥福をお祈りします。
僕は14歳の時に、突然母を亡くしました。何十年経っても、母は、僕の中で、そのまま生き続けています。母親とは、そういう存在なんだと思います。
862
:
心者雖念不直相鴨
:2004/04/26(月) 10:53
愚鈍凡夫さん:
ご母堂様のご逝去、まことにご愁傷様です。
私も、信仰に関しては40年近くの間、母とは意見をことにしてきました。
そして、ついに相容れぬ思いのままこの世を去っていきました。
しかし、母の批判が私を鍛え、成長させてくれたのかと
今では心の奥深いところで感謝しています。
あらためて、衷心よりご冥福をお祈りいたします。
863
:
れん
:2004/04/26(月) 13:44
愚鈍凡夫さん。御母堂様御他界とのこと、ここに謹んで愚鈍凡夫さんの御母堂様の御冥福をお祈り申し上げます。
864
:
空き缶
:2004/04/26(月) 23:10
愚鈍凡夫さん、お母様の御冥福謹んでお祈り申し上げます。
複雑なお気持ちの中、私なんどのお相手をいただいていたんですね。誠に恐縮です。
865
:
MILD SEVEN
:2004/04/27(火) 02:04
<自由共和国>
私は、頭が悪く・虚弱体質。
それなりに無理して頑張って来ました。
「怠け者」・・・これは、自己叱咤の意味もあります。
母から引き継いだホルモン異常体質が影響して、何とか生きています?
ホルモン切れになったら死ぬのかな?
これは余談です。
キリスト教会のみが、私を育ててくれました。
やっと、<人生迷わず>この境涯になりました。
・・・創価学会の体質環境では、私の様な者は馬鹿にされ・潰されていたでしょう。
今は、どこでも・どの国でも平気です。
創価本部にに乗り込むのは何時にしましょうか?・・・なんてね。
私の生きがい・・・それは言わずと知れた事。
それしかない。
何時死んでも、悔いを残さないよう・・・コツコツ天に貯金しています。
それだけの事。
いっそ、池田狂信者が、あっさり殺してくれれば楽なのに。
・・・これは、ホントニ怠け者的発想。
いかんいかん。
いざ行かん。
と金の人生。
所詮 歩だ。
悔い無く歩もう!
http://jbbs.shitaraba.com/study/3876/momo7.html
866
:
MILD SEVEN
:2004/04/29(木) 01:51
誤解無きよう。
私は、いつも、主にあって救われたのと体質とのダブルで、能天気で元気で〜す
867
:
愚鈍凡夫
:2004/05/01(土) 03:17
揺れる心を記してしまい、皆様にご心配掛けました。 m(_ _;)m ゴメン!!
まだ後始末がゴタゴタしていて「復活!!」とまではいきませんが、小生は元気です。
皆様、有り難うございました。ご報告まで。 m(_ _)m
868
:
地名
:2004/05/01(土) 06:17
867 愚鈍凡夫さん
よかったですね。
お元気でなによりです。
869
:
MILD SEVEN
:2004/05/02(日) 03:23
深夜の帰宅電車では・・・酔っ払い客はウルサイな。
実に迷惑千万。
モラルの低い連中。
鉄槌を下すべきか?
870
:
サムエル
:2004/05/02(日) 08:26
マイルドセブン。お前は放置プレー。つまりここに合わない独り言には迷惑だと気付かぬお前がモラルを語る筋合いはない。酔いどれの愚痴などを語る場所ではない事をいい加減に悟れ。消えろ。
871
:
MILD SEVEN
:2004/05/02(日) 08:49
忌まわしいものだ。偽善の創価学会・公明党。
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせないのです。
私は、あなたがたに話す事がまだ沢山ありますが、あなたがたには、それに耐える力がありません。
実に、天に入るのにも力がいるのです。
魔界の力は、我ら証し人には通用しません。
我らは、聖徒を守ります。
仕事ですから。
http://www3.ezbbs.net/15/momo7/
872
:
サムエル
:2004/05/02(日) 14:32
ほう。私が創価公明とどこに根拠が?そう言うお前が批判を創価に転換し創価に捕われて偽称被害に遇われている査証であろう。よく回りの議論を考慮し板を選び書き込め。再度申す。くだらん書き込みをやめろ。
873
:
MILD SEVEN
:2004/05/03(月) 00:39
下らぬ傲慢な者は救われてない。
人に教える資格・資質は無い。
874
:
犀角独歩
:2004/05/04(火) 15:03
昨日、三学無縁さんとゆっくりと懇談。
資料文献の扱いについて、やや言及。
学会を含む大石寺圏が正本というところ、正信会が正本というところ、日蓮門下一般が正本というところ、仏教学会が正本というところ…。さて、どの点のものであれば叙用に耐えるか、やや話し合いました。
三学無縁さんと、正本を発表しておらず、また非売本でしか文を公表しないもの、写しを載せないもの、その学的研究がなされていないものを正本と扱わないことでほぼ意見が一致しました。
この判断では、実際は正本でありながら、研究がされていないために除外することになる危険性を背負うことになります。しかし、正本であるという手前味噌の虚偽を払拭するリスクとどちらが確実かとすれば、やはり、後者でしょう。
もちろん、正本として叙用するのに十分に確証があれば、この限りではありません。
以上の点、皆さんのご意見をお聞かせいただければ幸甚です。
875
:
れん
:2004/05/04(火) 19:29
犀角独歩さん、正本未発表…非売本でしか文を公表しないのもの…写しを載せないもの…その学的研究がなされていないものについては正本として扱わない…。真実を学的に探求し明らかにする手段としてしごく当然ですね。まぁそうなると石山系文献は殆ど使えなくなりますね(笑)。もっとも石山系の教学が学的批判に耐え得ないいい加減な文献に基づいて構築されている以上仕方ありませんが。私は、犀角独歩さん・三学無縁さん御両人が懇談の結果・一致した上記のご意見に深く賛同いたします。
876
:
無徳
:2004/05/04(火) 21:42
れんさん今晩は:
>まぁそうなると石山系文献は殆ど使えなくなりますね(笑)。もっとも石山
>系の教学が学的批判に耐え得ないいい加減な文献に基づいて構築されている
>以上仕方ありませんが。
石山系の教学がいい加減な文献に基づいて構築されているとするなら、日蓮宗
系は確かな文献に基づいた立派な教学となりますのでしょうか?
れんさんは日蓮宗系教学をどのように評価なさいますでしょうか?
更にれんさん自身は日蓮宗を信仰を対象と出来得ますでしょうか?
れんさんは創価学会を脱会なされるとのことですが、日蓮仏法(御本尊)に
対する信仰そのものはいかがなさるのでしょか?
ぶしつけな質問ばかりで失礼ですがお答え願えれば幸いです。
877
:
無徳
:2004/05/04(火) 21:46
訂正 (誤)日蓮宗を信仰を対象
(正)日蓮宗を信仰の対象
878
:
れん
:2004/05/04(火) 22:26
無徳さん、今晩は。ご質問の件。私の日蓮宗系教学の評価は、大崎学報等を見る限り旧態依然とした石山系教学よりは学的批判に耐え得るものと思います。日蓮宗を信仰の対象と出来るかについては、蓮師についてはどんなヒトだったのか興味がありますが、教団を信仰する気はありません。もっとも私の場合、日蓮仏法・宗教・信仰から足を洗うことになるでしょう。しかしながら廿年も石山教学を信仰してきたのですから、一朝一夕で脱洗脳できる訳でもない。ですから今は碩学の皆さんとの議論を通じて真実を認識し、少しずつ勉強させて戴いている訳です。
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