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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

1164卞氏:2004/12/10(金) 17:49
ん?
それは台湾のメディアが、滑稽だということかな?

1165犀角独歩:2004/12/10(金) 21:38

いえ、文字通り、極端な個人崇拝と個人批判が
しかし、特定の個人にいつも興味を集中していることにはしばし感心

1166卞氏:2004/12/11(土) 10:43
その個人の行動を観るに、信仰するしないに関わらず、不幸をもたらす元凶ですから。

ものすごい「善知識」になるんですがね。

1167平和創価:2004/12/11(土) 16:46
>>1166
卞氏 さん
お久しぶりです。私も創価学会の池田先生個人崇拝試行には、不満や疑念を抱かずには
いられませんでした。
座談会、会合での個人崇拝の行きすぎ。  このことは私も幹部に言っています。

創価学会は池田教ではない!あれは師弟不二を現すものであって個人崇拝ではない!

1168犀角独歩:2004/12/11(土) 21:51

わたしが個人崇拝云々を書いたのは阿部さんについて何ですが、いつの間にか池田さんの話になってしまいました(笑)

1169卞氏:2004/12/15(水) 10:30
>座談会、会合での個人崇拝の行きすぎ

たとえ師に「随従」することはできなくとも、「同じ目標」に起って人生を歩むことが、「師弟共戦」です。

現法主と同じ目標に起ったらひどいことになります。
どうも、法華講員の信仰は、そこはどうでも良く、
「法主」を高いところに崇め、そのイメージに従うという感じです。
信仰としてはそういう形態もありですが、それは「師弟」とは言いません。
それは「法主崇拝」というほうが近いです。
学会を引き合いに出して池田教などといって罵り、法主誹謗を極端に制限すれば、
その「法主崇拝の状態」を続けるための隠蓑にすることができましょう。

1170犀角独歩:2004/12/15(水) 23:06

自分が独立した個人として尊厳を考えるとき、自分が特定の集団、個人から影響を受けたことを露わに覚られるような恥ずかしい言動を避ける、これが一つの良識であるとわたしは考えます。

1171卞氏:2004/12/16(木) 10:19
法主に盲目であれば、法華講員も良識ある信仰者でいられる。そんなんなら、一人でもできるだろう。
法主に従順ならばその悪には気が付かない。何しろ宗教だから。

主体者として団体に参画する。ここがポイント。

1172一談家:2004/12/16(木) 10:39

日蓮正宗には、「唯授一人の血脈相承」というシステムがあります。このシステムが機能している限り、信徒は法主に従順にならざるを得ない、そういうシステムがあるわけです。一体、誰が考えたのでしょうか。日蓮大聖人が、そのような馬鹿げたシステムを考えられるはずが無いと私は考えます。天台の腐敗堕落の様相を目の当たりにされた聖人が、同じ轍を踏まれるとは、どうしても考えられないのです。

六老僧を選定されて、「不次第」とされた聖人が、別途に「唯授一人の血脈相承」をされたとしたら、『聖人は、臨終を間近にして、頭がおかしくなってしまわれた』と宣伝しているようなものです。

まず、この虚構のシステムを捨てる事だと思います。そこからしか、日蓮正宗の再生は無いと思います。はたして、それが出来るかどうか、まず無理かな・・・

一檀家の呟きでした。

1173平和そうか:2004/12/17(金) 03:30
法主本仏論などどいうことを顕師自身が言ったとしたら、大変な誤謬であると思います。
蓮祖御自身さえ自分が御本仏であるとは御書のどこにも書いてはいません。

宗門は創価学会を破門し正本堂を解体することによって、将来創価学会員が宗門側に漸次
付いてくると読んでいるようですが、宗門である日蓮正宗自体の矛盾やその歴史の不透明
性、さらに大御本尊が偽作であるということを法主自身が言ったことが明らかになり、ネ
ットを通して大御本尊の真実が明らかにされてきている現在、創価学会員はたとえ脱会し
たとしても、宗門側には付く確率は少ないと思います。全く無宗教になる人がほとんどだ
と思います。

1174平和そうか:2004/12/17(金) 03:45
将来的には創価学会も、宗門も真実を隠して信者を率いていくことはできないように
なっていくと思います。新聞もテレビも雑誌も報道できないことを瞬時に全世界の人
たちに知らしめることができるインターネットという報道手段が生まれ、一般人に普
及しつつあるからです。現在は小学生でさえもインターネットをやっています。

私が知る範囲ではインターネットをやっている年齢層の主流は、10代から30代の
人のようです。携帯電話でもネットを見たりメールの送受信ができる機種ができてき
ていますし、インターネット常時接続の携帯電話さえあるくらいですから。空いた電
車の中で携帯電話をいじくっている人たちを見ると、あああの人もネットを見ている
なと思います。

1175卞氏:2004/12/20(月) 09:39
年末ゆえ、あわただしい。油断なく無事故でお過ごしくださいませ。

1176???:2004/12/24(金) 06:45
>1173

>> 全く無宗教になる人がほとんどだと思います。

そうは、思わないけど。ご本尊は「象徴」であって、それに何か特別な力が備わってると勘違いしてるから、そんな発想が生まれるんじゃないの?
「幸福製造機」だと信じてるから、「幸福製造力」がないものにはついていけないと...

でも、今朝のグラフSGIの見出し「同苦する心」笑っちゃうね。「孤楽」してるくせに...

1177一般人:2004/12/24(金) 07:39
>>1174
真実を隠して信者を率いていくことはできないように
なっていくと思います。新聞もテレビも雑誌も報道できないことを瞬時に全世界の人
たちに知らしめることができるインターネットという報道手段が生まれ、一般人に普
及しつつあるからです。>>1174創価の裏情報あるの?隠し事あるの?

1178さんた くろうす:2004/12/25(土) 02:46
 。 ○  o    ○  γ⌒ヽ     ○  o    ○
        o      (:::::::::::::::)⌒ヽめぐみさんもうすぐ行くよー♪ o
    o         (^▽^ )__ )  プレゼントは何が欲しいかな?
  ○   。  ○  /○  ○) /|,. o       O  o
。  o    o   ∠∠______∠_/ /     ○
      o    .|/     |_/  ○   。  o  O 。
 o  O     / ̄ ̄ ̄/ ̄   o    。
      。  ノ      /    o         O
 o  o  ∧∧__ノ) ∧∧__ノ)    。   o      ○
  o   (゚-゚= )  (゚-゚= ) つ  o   °      o   。
 。  o ∪-∪'"~ ∪-∪'"~  。  。 o   °o 。

1179サテ:2004/12/27(月) 02:51
天文学上では過去未来とも何年の何月何日に日食があったか、またはあるかは、全て判明してるそうです。古代ですら二千年前にも「サロスの周期表」という完全な日食周期表が既に作成されていました。引用されてはいませんがそういった視点から「不動愛染〜」を検証するのは画期的と思えます。書かれていた日食が架空の出来事だとするならば、竜の口のひかりもの以上にアウトですね。天体現象として事実が断定出来ますから。偽作者もさすがにそこまではいたらなかったのでしょうね。

1180名無し@富士門流:2004/12/27(月) 16:13

やっぱ「不動愛染〜」の考証は、学会の北林氏のものよりも、日教研の小松師・都守師や興風談所の坂井師・菅原師などの教示を得て書かれた以下の小論の方が参考になるのでは?

http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents11.html

1181サテ:2004/12/27(月) 17:50
日食以外の現象であるとの仮定が無いと成り立たないし、その現象が何であったかも追求せずに、真筆であることだけを断定しているあたり文系・宗教系学者の陥りやすい盲点にはまっている感じですね。真偽不明あたりに抑えておくべきな気がしますよ。そもそも真筆であるという根拠が明示されていませんし、写本・引用の最古が16世紀位では怪しい富士門の相伝書の写本よりも後になる話ですしね。(そういえば、この書が伝わった寺院も富士門。)他の研究資料で筆跡が何故か晩年のに似てるというのもますます怪しい。謎が多いのは面白いですけどね。

1182名無し@富士門流:2004/12/27(月) 18:10

日蝕ではなく「日『虫虫』」なので、「日昏」(夕暮れ)のことではないかとするのが、興風談所の見解のようですね。

詳しくは「御書システム」の不動・愛染〜の「御書資料」をご参照ください。

北林氏のお考えよりは、説得力があると思いますよ。

1183サテ:2004/12/27(月) 20:46
先ほどのリンク先にしっかりと皆既日食の際に見られるコロナのようなものが克明に描写されてる、と書いてありましたが…。それに夕日ではコロナは見えません。新仏という人に関してもあれこれと推測されているだけで根拠も明示されてませんね。他も仮定と推測をひたすら積み重ねているに過ぎませんので残念ですが説得力は感じませんでした。黒点なら肉眼で見える場合がありますからそれを愛染に見えた可能性ならありそうですが、コロナは日食以外肉眼では見られません。真筆という先入観が邪魔をしているような考察でしたね。

1184あわわ:2004/12/27(月) 21:30
北林の最蓮房日興説なぞ状況証拠と推理の積み重ね、遺文曲解と断定の最たるものだろう。山崎や河辺ともつながってるような謀略畑な人間だが?

1185サテ:2004/12/27(月) 22:03
悪いけどその説の部分には興味無いです。北林氏が誰とどうこうも(知識としては色々聞いてますよ。)北林氏がなんだか謀略的な人物だとするならば、「不動愛染」のウサンくささに感づいたのは当然?同類相哀れむの本能かと思いますね。文章とかはいくらでも偽造出来る(自分がやってたから)ので他の分野の資料を引用したんでしょうか?自分はあの書が真筆でも偽書でも構いませんが、客観的事件とあいいれないのに、大の大人がそこには触れずに真偽論争してるのがアホらしいと思ってます。挨拶無しの横レスもね。

1186名無し@富士門流:2004/12/27(月) 23:40

というか、「不動愛染〜」の胡散臭さは、写真公開したその時から常に漂っていたのでしょうね。
いまさら創価学会員より指摘されるまでもなくネ。
写真公開しているだけ潔いと思っていただければ、それだけで幸かも。

保田妙本寺の霊宝類の本格的な鑑定は、まだ始まったばかりといっても過言ではありません。
現在は興風談所や立正大学などの専門家が入っていますが、「日蓮正宗」時代は当然出来なかったことですから。

私は北林氏の真偽論争は、基本的に信憑性を感じられません。
なぜなら自分達に都合のよい「御義口伝」や「本因妙抄」などは、一切真偽の考証はせずにいて、自分達にとって都合の悪いものだけ真偽にこだわっているからです。

ま〜これも自己正当化(所属組織正当化)のための、謀略論文であるというなら何も言いませんけど。

1187犀角独歩:2004/12/28(火) 00:09

名無し@富士門流さん、謀略文書なんて、上等なもんじゃないでしょう。
近年、最低の、こんな下らないもの、ありません。
不動愛染がニセものだどうのより、自分の身の埃考えれば、大笑いしたい最低の文章です。
わたしは公然と、この文章を批判します。

1188犀角独歩:2004/12/28(火) 00:15

しかし、まさかと思いますが、こんなものが創価学会で、まことしやかに読まれているんでしょうか。
さむいですね、これはほんとに。

1189名無し@富士門流:2004/12/28(火) 01:11

犀角度歩さん、今晩は。返レス恐縮です。

他所で得た情報によりますと、北林氏の所論は、同じ創価学会員の某大学教授の所論に対して書かれたもののようです。
その意味では、どうも学会員同士の論争のようです。

1190サテ:2004/12/28(火) 08:32
北林氏や多くの学会員は素人ですから文献をどう考えようと自由だと思いますが、生業にしている学者さん達が根拠も示せずに持論を展開している方がドキュンな点は上でしょう。素朴に思ったのは、過去の天体現象等の科学的事件と反する決定的な事実すら曲げて解釈しても真筆と疑わない専門家の宗教家さんや学者さん達の神経がどうも…。定説とされていることでも、コト宗教に関しては他分野の視点で見ると結構アレ?だったりするんですよね。自分の分野に閉じ篭りがちなのかなあ…?

1191犀角独歩:2004/12/28(火) 10:22

1189 名無し@富士門流さん:

情報、有り難うございます。
この人物は、RT氏の勉強会に参加していた人だといいますね。
学会員同士の争いですか。なるほど。

創価学会は昭和45年、52年、そして、平成になって数箇度と、時々に進路変更をしてきたわけで、その時々の指導の影響を受けたかなり多くのジェネレーションタイプが混在しているわけですね。まあ、最終的には脱漫荼羅、脱題目までいきたいのでしょうが、おいしい宗教法人特権を捨てるわけはない、このバランスとジェネレーションギャップの調整をしながら、方向性を睨んでいるのでしょうね。こんななかで、いまだに、真偽分別も出来ず、旧態依然とした中世以降の石山教学を上古をとらえるというまことに定規違反の頭で判断して、本までまとめるアナクロニズムが横行しているのは哂うに笑えません。
世界に通用する創価仏法は追及は結構なことであると思いますが、妄想まがいの荒唐無稽な話で会員のみならず、世間を誑かすのはやめてもらいたいものです。

1192名無し@富士門流:2004/12/28(火) 12:08

>1190
>北林氏や多くの学会員は素人ですから

このように常に逃げ道をつくっているところは、正統なやり方とはいえませんね。
はっきりいえば卑怯そのもでしょう。

北林氏は「日蓮大聖人と最蓮房」の「まえがき」の中で

「この「学説」を著者が破せば、著者の述べるところは真実の学説となる。これはもはや、宗派間の論争の域を超えるものであると言える。」

とまで書いているのです。
それが低劣な文章と批判されると「北林氏や多くの学会員は素人ですから」と言い逃れするなら、最初から噛み付かないことでしょうね。

1193サテ:2004/12/28(火) 19:36
は?別に北林氏の説を支持してるわけではありませんが…。過去レスをちゃんと読んで下さいね。
中学生並の理科知識すら持ち合わせてないのに、飯を喰っている宗教家さんや学者さんの説ってなんだかなぁって。したり顔でそれに共感する人が他者を批判してる方がなんだか…。自論に都合のいい説にべったりしてる点では皆さん五十歩百歩では?
夕日でコロナは見えませんよ。

1194あわわ:2004/12/28(火) 20:06
北林は素人がイキがっているようなものだ。奴の妄想は根拠がなさすぎる。日食の件だけは素人ならではの手柄としてやりたいが、指摘ずみではな。プロ学者の情けなさは日本の学界全体に共通な事だろう。特に宗教界程内弁慶な世界はあるまい。宗教系は疑うよりも信じる方が先に来るという、人が良すぎるという部分もあるが。

1195サテ:2004/12/28(火) 20:27
指摘ずみならなおさらドキュンでしょう。一宗派に属する人間ならまだ信条として解ります。でも生業とする専門家学者のドキュン状態が放置されていて素人の見解が云々されている状態は客観的に異常ですよ。第一、創価学会を池田大作率いるナンミョウの凄い団体とは認知しても日蓮史の専門家だなどと世間で誰も認知してませんよ。その点プロ学者の方が罪は重いと思います。

1197管理者:2004/12/28(火) 20:58

>1196

当掲示板の書き込みルールに違反しています。削除いたしました。ルールをお守りになって投稿してくださるようお願いいたします。

1198あわわ:2004/12/28(火) 21:17
プロ学者の甘さは日本の学界全てに言える事だが、君の指摘はあたらない。専門学者の新発見とかで宗教・哲学・思想が劇的に変わった事実もないだろう。他分野云々を言うのなら君も勉強したまえ。

1199サテ:2004/12/28(火) 21:25
残念ながら見ましたよ、削除以前の文。管理人さんも大変ですね。新発見で変わらないって、永遠にドキュンのまんまですか?バカにも解るように説明してくださいよ。このバカは僕のことですから、管理人さん心配しないで下さいね。

1200名無し@富士門流:2004/12/28(火) 22:24

私が示したリンクは日蝕云々というよりも、北林氏の論考?よりも、内容的にずっとましですよという意味で紹介したまでで、誤解をまねいてしまったようで恐縮です。

建長六年正月元旦に日蝕がなかったことなどとっくにわかりきっていることで、興風談所の御書システムでも、そのことをあげた上で「日『虫虫』」は「日昏(ニチコン)」のことで、夕暮れのことではないかとしています。

しかし今時わかりきった日蝕問題で得意になって、「御義口伝」や「本因妙抄」等を堂々と引用する北林氏の論考?は、ある意味滑稽でもあります。

1201名無し@富士門流:2004/12/28(火) 22:36

>中学生並の理科知識すら持ち合わせてないのに、飯を喰っている宗教家さんや学者さんの説ってなんだかなぁって

当然ながら創価学会員よりも、立正大学や日教研、興風談所の研究者の方が、知識も見識も優れています。


>自論に都合のいい説にべったりしてる点では皆さん五十歩百歩では?

全然「五十歩百歩」ではないですよ。
所詮、創価学会員とは土俵が違います。
立正大学や日教研、興風談所の研究者は、少なくとも石とダイヤは一緒にしません。
創価学会は石とダイヤをゴッチャにして、自分達の都合の良いものだけを切り文でつなぎ合わせているだけです。

つまり自己正当化のために、自分達の主張に都合の良い切り文で、パズル遊びしているだけです。

1202犀角独歩:2004/12/28(火) 22:45

名無し@富士門流さん:

わたしもかつて書いてしまったのですが愛染感見を「日蝕」と読むのは、いまとなっては古典に属するごとくですね。
手元にある『平成新修日蓮聖人遺文集』(日蓮宗連紹寺不軽庵/平成6年10月13日初版第1刷)でも「日[虫*虫](にっこん)」となっていました。

要は最蓮房日興説というのは、それまで多分に使ってしまった最蓮房系御書を真書だという勢い余ってのことのような感じを受けます、まあ、これは感想ですが。
しかし、仰るようにまじめな真偽考証をなんらなさず、ただ、己義と違う学者と学説を悪し様にする体質こそ、全編を通じた本質なのであろうと思った次第です。
御書全集記載であれば、真筆であると思っている人は騙せても、良識ある真面目に遺文に取り組んでいる方は看過できることであるはずはありません。

1203サテ:2004/12/28(火) 23:50
は?では既にアウトではないですか?まさしく北林氏以前ですよ。
残念ですが、力説するほど、夕日にコロナを見る宗教専門家のドキュンぶりを浮き彫りにするだけです。
何を勘違いしているのか知りませんが、学会員がど素人の馬鹿以下でも全然構いませんよ。

1204名無し@富士門流:2004/12/28(火) 23:56

立正大学や日教研、興風談所の研究者が優れており、これらの方々によってすでに出尽くしている内容であるということですよ。

「は?」とか「ドキュン」とか、訳のわからない書き込みをする前に、これらの優れた学者陣の論考に学ぶことが最初ではないでしょうか。

1205犀角独歩:2004/12/29(水) 00:35

え、サテさん、わたしの反論なんですか(大笑)
で、あなたはどんな程度で、どんなたちばなのでしょうか。

1206サテ:2004/12/29(水) 00:47
は?天体現象ひとつに無知な学者先生がたが立派な優れた論考ですか?庇えば庇うほど底が知れますね。提示してきた問題以外の他の件に関しては興味ないのでご免なさいとしか言えません。無知の土台の上に成り立った学説なんて閉ざされた世界の滑稽な遊戯にしか過ぎませんよ。小学生の論文の方がよっぽど心をうちますね。

1207あわわ:2004/12/29(水) 01:37
学者専門家の他分野に対する無知は今に始まったことではない。医者なぞもっと酷い。昨今の医療ミスなぞ最早己の職業基盤すら土台が出来ていない証明だ。

1208名無し@富士門流:2004/12/29(水) 02:02

サテさんは批判のための批判ですね。

お相手しても何ら得るものはなさそうですね。

1209サテ:2004/12/29(水) 02:08
別に医者には興味ないです。科学は好きですね。色々検索してたら件の文書に出会っただけです。知り合いの日蓮オタクの影響もありますが…。予言書とか胡散臭い古文書の類とか大好きですね。欧米では偽書贋作でも件の書のように露骨な嘘の天体事件は例が無いんですよ。あちらはBC600年には日食表が出来ていたし、古代ギリシャでは地球が太陽の周りを回っている事は数学から判明してましたからね。件の書画には贋作者の悪戯心を感じます。宗教的野心ではなく、ひかりもの日蓮に仮託した架空の天体ショーの講談のはしりのような痛快さが好きですね。

1210サテ:2004/12/29(水) 02:16
学者先生達の意外なドキュンさを知っただけでも得る物はあったのではないですか?それとも信じているものを失いましたか?

1211名無し@富士門流:2004/12/29(水) 03:12

>学者先生達の意外なドキュンさを知っただけでも得る物はあったのではないですか?

いいえ、全く。


>それとも信じているものを失いましたか?

いいえ、全く。

サテさんのおっしゃることは、こちらとしても当に認識していたことですので。
何も得るものはありませんでした。

それからですね、北林氏を知っているということは、それなりの創価学会員かそれなりに学会関係の研究をしている人でしょう。
いまさら「色々検索してたら件の文書に出会っただけです。知り合いの日蓮オタクの影響もありますが…。」なんていう貴方のほうが、最も胡散臭いですよ。

1212サテ:2004/12/29(水) 10:03
ヤフー検索で「日蓮 偽書」を検索してみてください。231件の中に4件目に既に北林氏のページが出て来ます。「不動愛染感見記」を検索すると、たった21件ヒットの中にそちらのリンクした先と北林氏のページは一発目に出て来ます。ついでに「北林芳典」で検索したら71件。少ない中にもなかなかニギヤカなネタが豊富に出て来ます。学会研究なら知り合いの日蓮オタクは詳しいですね。巨大掲示板からリンクを巡ってこちらも含めて、まともなのから怪しいのまで色んなHP知ってますよ。どちらかと言うと日蓮から否定出来るネタを集めてるみたいです。

1215犀角独歩:2004/12/29(水) 22:47

名無し@富士門流さん:

どこで問いかけてよいかわからないのでご投稿なさっている、このスレッドをお借りします。

本日、保田妙本寺が石山分離直後のお経本を手に取る機会がありました。
二座ですか、「人本尊・僧宝」とあったのですが、この人本尊とは日蓮聖人を指すと思えますが、日蓮本仏ではなく、単に本尊に留まるのでしょうか。また、この本尊とは四依の大士、未断惑の凡夫師の範疇に留まるものでしょうか。
保田の現教学がよくわからないので、ご教示いただきたくお願い申し上げます。

1216名無し@富士門流:2004/12/30(木) 11:40

犀角独歩さん、今日は。

保田の現教学は、日蓮本仏論です。

さらに客観的に申上げますと、「宗祖『人』本尊」というよりも「宗祖『御影』本尊」・・・人本尊ではなく人形本尊論です。

その意味では、袈裟姿の宗祖が本仏・本尊な訳ですから「未断惑の凡夫」であると思います。

保田の宗祖本仏論は、保田きっての情報収集家であった日要師にはじまり、中興日我師によって大成されたと伝承します。

しかし、日我師の論考も両巻血脈抄を背景にしていますので、今後見直されていくかもしれません。
大石寺の日寛師が、観心本尊抄文段の中で「唯房州の日我のみ独りその大要を得たり。」といわれているのが、日我師の宗祖本仏思想のことだと思います。

ところで、日寛師が「日我抄」と呼んでいるものは何なんでしょうね。
日寛師は、日我師の著作をよく引かれていますから、「六巻抄」や「御書文段集」には日我師のことが良くも悪くも多く出てきますね。

1217犀角独歩:2004/12/30(木) 12:14

名無し@富士門流さん:

ご教示、有り難うございました。

> 「宗祖『御影』本尊」・・・人本尊ではなく人形本尊論

なるほど。この点は、たぶん、有師『化儀抄』もそうなのではないのかとわたしは考えています。「当宗…本尊…日蓮聖人に限」という件です。

要師は、我師『申状見聞』が伝える目師最誕伝説の、その人でしたね。

血脉両抄は要山で、中興の祖も要師、なにか関連を感じますが、これは深読みのし過ぎでしょうか。

『日我抄』の特定はわたし自身は出来ていません。恐縮です。

1218名無し@富士門流:2004/12/31(金) 02:49

犀角独歩さん、私も日要師や日有師をはじめとするその年代の各山諸師達が、宗祖本仏思想の「仕掛け人」ではないかと考えています。

そこに行き着く過程には、日大直兼問答、日什派開宗・八品派開宗などが関連していると考えます。

富士門教学への中古天台法門の影響、新学派の脅威と六老門徒元祖本門派としてのプライドなどがあったのではないでしょうか。

全ては憶測の域を出ないものですが。

1219犀角独歩:2004/12/31(金) 16:13

1218 名無し@富士門流さん:

ここら辺のところになると、やはり、『日蓮宗教学史』執行海秀師著(平楽寺書店)は避けては通れませんね。また、この書は、基本的な教科書ですから、派祖教学教学について語る人で、この本を読んでない人はいないとは思いますが。この1冊をもってしても、わたしは執行師に敬意を表します。

1220雖念:2004/12/31(金) 19:43
大つごもりもあとわづか

管理者さま:

今年も、大変お世話になりました。

犀角独歩さん、顕正居士さん、問答迷人さんはじめ碩学諸兄姉の皆様:

数々のご教導を戴き本当にありがとうございました。

そして、すべての参加者の皆様に:

往く「災」の年を送り、家持ではありませんが、降る雪を見ながら、
来年こそは「いや重け 吉事(よごと)」と心から祈りたいと存じます。

みなさま、どうかよいお年をお迎えください。

1221名無し@富士門流:2005/01/01(土) 00:04

管理人さん、また犀角独歩さんはじめ掲示板参加者・閲覧者の皆様、本年も大変にお世話になりました。
どうぞ良いお年をおむかえくださいませ。

ちょっと前までプライドをみてました。
私は明日から新年の初仕事です。

明年も仕事の合間をみて、研鑚と実踏に少ない小遣いを注いでいこうと思います。
どうぞ皆様、明年も懲りずに御教示の程お願い申上げます。

1222問答迷人:2005/01/01(土) 09:16

皆様、明けましておめでとうございます。当掲示板の管理者を勤めさせていただいております問答迷人です。本年も又、活発且つ貴重な議論が展開されます事を楽しみに致しております。御参加の皆様方、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年の当掲示板のTOPニュースはなんといっても、犀角独歩さんの大石寺戒壇板本尊に対する鑑別と、その出版。富士門関係者にとって、一つの時代が終わり、新しい時代の開幕を告げる出来事で有ったと思います。

タイからのメールによれば、元旦の今日も、犠牲者の遺体が道路に累々と並べられ、30度の暑さの中、耐え難い腐臭を放っている様子が生々しく伝えられています。立正安国論の「牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨(がいこつ)路(みち)に充(み)てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半に超(こ)え、之(これ)を悲しまざるの族(やから)敢(あ)へて一人も無し。」に匹敵するか、或いは超える事態であると思います。

新春早々、胸が押しつぶされるような惨状をお伝えするべきかどうか、躊躇しましたが、何事も事実を直視するところからしか始まらないと思いますので転載させていただきました。

1224犀角独歩:2005/01/01(土) 12:55

管理者さんをはじめ、雖念さん、名無し@富士門流さん、ほか皆さん。
新年のご挨拶を申し上げます。
旧年は、日本におきましては新潟中越地震で、また世界に目を向ければ、スマトラ沖地震で多くの方々が罹災され、本当に胸が痛みました。なくなられた方々のご冥福をお祈り申し上げると共に、その家族には哀悼の意を表するものです。さらに被害に遇われた皆様には衷心よりお見舞い申し上げるものです。
このようなときこそ、自らの無力を思い知らされるときはありません。
単に「罰だ。謗法だ」と無責任な言説を吐く人々には、自らの浅はかさを顧みることも勧めるものです。

さてまた、問答名人さんには過分なお言葉を頂戴し、恐縮いたしました。
種々、ご教示を賜りましたこと、ご厚情を賜っていますことを改めて御礼申し上げるものです。

『必携/図解 大石寺彫刻本尊の鑑別』は近く増補改訂版をお届け申し上げる所存です。
プレリリース版の段階で概ねご批正を賜った点につきましては、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について 』のスレッドに投稿させていただきました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1012

1225愚鈍凡夫:2005/01/01(土) 13:09

皆様、明けましておめでとうございます。 m(_ _)m

天災が荒れ狂う昨年の締めくくりが、インド洋地震による大津波でした。
たまたま地球の周期と国際情勢が重なった結果かも知れませんが、せめて、今年こそは人災による大量殺戮が終わってほしいと思います。

今年も当掲示板に参加させて頂こうと思いますので、皆様、宜しくお願いいたします。

1226れん:2005/01/01(土) 20:27
遅れ馳せながら、皆様新年明けましてお目出度うございます。本年も、碩学の皆様方のご投稿を通じて「真実」を学ばさせて戴きたく存じます。何卒宜しくお願い申し上げます。

1227犀角独歩:2005/01/01(土) 21:15

個人的には、ずいぶんと古い記憶に属しますが、古代インド社会で、バラモンがなぜ支配を可能にしたのかを論理的に説明した名文に出会ったことがありました。誰の文章であったのか・なんと言う題名であったのかいまでは失念しましたが、その内容を覚えています。

古代インド社会では、もしバラモンが祈りをやめれば太陽も昇らなくなる・雨も降らなくなる、天災が起こり・国が滅ぶ、死んだときに祈ってもらわなければ地獄に堕ちる・先祖を供養してもらわなければ悪道から遁れられないと頑なに信じられていたので、その支配が可能であったというものでした。

いわば、人間の行為とはまったく関係のない自然現象を、あたかも自分の力によって左右でき、かつ予言して見せ、事実として受け入れられるようにさえすれば、個人のみならず社会全体を支配できるということです。

今回のような天災が起きるとき、悪しき宗教団体は、その自然現象を自分たちの教義が正しく守られていないからだと関連付けた挙句、あたかもその不幸から遁れる方途は自分たち、なかんずくその指導者しか有していないという“虚構のリアリティを構築”して人身の支配を可能にします。

このようば非科学的、文明開闢以前の愚論を信じしてしまう側は、やはり、かなり心理・精神の発達が幼稚なせいであろうと考えがちです。ところが実際には高学歴を有する人であっても容易に、この幼稚な手口に引っかかってしまいます。この点に、わたしは大きな疑問を抱いてきました。

先ごろ、とある精神科医と話したとき、この疑問を解く鍵を与えてもらえました。それは一過的心理・精神退行現象であるというのです。
一般的にとても信じがたいことを信者であるといとも当然のことのように受け入れ・決定してしまう、このときその人の判断に関する知的脳の動作はきわめて幼児的依存退行状態にあるといいます。R・チャルディーニはこのような心理現象を『影響力の武器』で説明し、また、その心理的状態の特徴が「無責任」であることを解析したのはS・ミルグラムでした。退行化の心理はきわめて依存的であると共に、暴力衝動をはらんでいるのであろうとも想像できます。実際、自分たちの教義を強要する様は、とても知的とは言えず、暴力的であることは、不快な勧誘に遭遇した経験のある人であれば誰しも知っていることです。

日蓮圏にいるわたしは、天災、その他の不幸が起き、悲嘆に暮れている人がいるなかで、その感情を悪用し、布教、自己肯定、指導者崇拝の具に処する野蛮に断固、抗議します。また、途方に暮れる人々が、その逆境を乗り越え、回復、復帰を向かうために、力を注ぎ・併せる実際の行動には深い敬意を表するものです。

1228雖念:2005/01/03(月) 09:01
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

さて、寒い寒い朝にコタツの中から顔だけ出して、ディスプレイにむかって、つぶやいています。

一過的心理・精神退行現象であるというのです。
 一般的にとても信じがたいことを信者であるといとも当然のことのように受け入れ・決定してしまう、このときその人の判断に関する知的脳の動作はきわめて幼児的依存退行状態にあるといいます。(中略)退行化の心理はきわめて依存的であると共に、暴力衝動をはらんでいるのであろうとも想像できます

危機的な状況におかれると、私が今コタツにもぐりこんでいるように、生物は身体的にも精神的にも小さく縮こまるという特徴があります。団子虫やアルマジロがそうですね。
 
一個体の存続に関して言うと、たとえば哺乳類などの恒温動物は急激な寒冷にさらされると、末梢の血流を犠牲にすることで中心臓器の血流の確保を試みます。雪山での遭難者が手足を凍傷し、切断の憂き目に遭いながらも肝臓や腎臓の機能がきちんと保持されているのがその好例です。

「退行」という表現自体が否定的な概念であると感じられますが、とりあえず精神を犠牲にしても、個体の存続を図ることが種の存続に有利に働いてきたということなのでしょうか? 考えることに多くのエネルギーを費やすことは、個体の危急存亡に際しては、非効率として切り捨てざるを得ないわけです。

依存的であると共に、暴力的であるのは、こうしたエネルギー節約の過程から生じてくる性向かと存じます。

こうした過程に対して、「退行」というネガティブな表現を用いる精神医学のありかたにちょっとした違和感を感じました。治療者は確かに健常者として、それを退行と捉える高みに身をおく必要がありますが、危機と奮闘している当人にとっては、必要不可欠な防衛機制であり、生命の維持・発展といったより高い目的のためには有利に働いている機制を「退行」と呼ぶのは、???といった気持ちです。

ただ、こうしたスキをついて人々を利用しようとする勢力から無防備になるという点においては、確かに「退行」なのかもしれません。(ぶつぶつぶつ……………..)

1229犀角独歩:2005/01/03(月) 10:33

雖念さん、新年のご挨拶申し上げます。

> …「退行」というネガティブな表現を用いる精神医学

いや、表現を用いるのではなく、医科学的な分析でしょう。

> 「退行」という表現自体が否定的な概念

否定的な概念ではなく、状態を示したものでしょう。
おかしな言葉狩りのように感じますね。

> 退行と捉える高みに身をおく必要

別にこんな差別意識からの発言ではないでしょう。
風邪をひいている人に医師がそれを告げると「健常者の高みから」とならないのと一緒でしょう。

> 生命の維持・発展といったより高い目的のためには有利に働いている機制を「退行」

これはまるで意味を取り違えていらっしゃいますね。
たとえば歯にくっ付いている肉が生きているなんてことを信じることは生命維持発展という高い目的ではないでしょう(笑)
また、「○○先生を信じないと国が亡ぶ」などという場合、国家安泰を試行錯誤することは高い目的であるにせよ、それを御本仏に懺悔し国立戒壇を建てるのが唯一の方途などということは少しも高い目的とはなっていません。それをそのような短絡的な思い込みで済ませてしまう浅慮はまさに退行性を物語っているという話です。

なんだかとずいぶんと穿ったとらえ方しかされないものだとがっかりしました。

1230愚鈍凡夫:2005/01/03(月) 21:14

雖念さん、明けましておめでとうございます。

> とりあえず精神を犠牲にしても、個体の存続を図ることが種の存続に有利に働いてきたということなのでしょうか?

う〜ん。
人間って、個体の存続よりも精神の存続を希求するものではないでしょうか。小生はそのように感じます。
精神性にこそ人間の人間たる由縁が存在すると言うことではないかと思いますが、いかがなものでしょうか。

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ

1231雖念:2005/01/04(火) 18:11
独歩さん、愚鈍凡夫さん あけましておめでとうございます。

個体が処理できないような大きなストレスにさらされると、防御反応としてアドレナリン、ノルアドレナリン、抗利尿ホルモンや内因性のステロイドホルモン、そしてエンドルフィンなど多くのホルモンが急激に放出されてストレスに対抗するわけですが、「退行」もそのような、ホルモンによる反応のひとつと理解されます。

かつては、ストレスが脳や神経系に及ぼす影響に関する情報が乏しかったために、ストレスに対する身体的な反応と、精神的な反応との関連がよく理解されていなかったということだろうと思います。

ショックに関する循環の中心化(centralization)は、大きな身体的なストレスに対する身体的な防御機制として有名ですが、強い精神的なストレスに関しても、同様の機制が働いているのではないのでしょうか。適当な総説の心当たりはありませんが、将来的には、「退行」の神経化学的な基礎が明らかにされ、「退行」の位置づけも明確になってくると思います。
http://www.insight-counseling.com/kizu/shousai/shousai_02_2.html

とりあえず、重要な機能に資源を集中させてということで、個体の存続に成功した上で「精神の永続性」を図ろうということで解決できるのではないでしょうか?

物・物・物…( ̄。 ̄;)ブツブツブツ  (拝借御免)

1232犀角独歩:2005/01/08(土) 12:43

雖念さん、どうも、わたしの文章の主意がご理解いただけないようなのですが、たとえば退行を心神耗弱状態といった犯罪実行時の状態の分析に適用できるのではないのかという考えがわたしにはあります。その場合、犯罪を犯すそのときの心の状態ということですが、「個体の存続に成功」の‘成功’などというポジティブな言説で説明される点にわたしは納得がいかないわけです。

また、退行下での決断・実行はその判断能力を大きな低下を伴いますから、これが「成功」などということはとてもいえないであろうと思います。

1233雖念:2005/01/10(月) 03:50
犀角独歩さん(その1):

つぶやきスレッドは、議論の応酬はなしということで、1228もいったん書き直してから投稿したのですが、どうも私が議論の原因を作ってしまったようで申し訳ありません。
さて、とりあえず行き違いになった原因(私が考えるところの)について整理してみたいと思います。
まず、冗長になりますが退行の定義について引用してみます。

耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程。
ある段階からもうひとつの段階への過程が耐え難い激変として体験されたときに、過去のある発達段階へと一時的に回帰することを記述するための概念。しかし、注目すべきことは、この用語は生物学的理論のモデルに基づいて作られた発達論的概念と密接な関係があることである。この用語の中に、幼児の生活のごく早期のシニフィアンの回帰だけを見るのなら別だが、治療の効果を記述するのにこの用語を使うのは適切でない。
(チャールズ、ライクロフト:精神分析学事典,pp211、河出書房新社、1992)

発達または進化の上で、前の状態、前の時期にかえること。文明人のおとなが、コドモや未開人や動物に見られるような態度をとること。脳の障害などに見られ、感情的ショックなどによる原始反応特にヒステリー反応などに見られる。精神分析では、人間の性欲生活は、コドモ時代から存在し,口唇に快感を感ずる時期、肛門―尿道の時期を経て性器期にいたると考えるが、大人になって後に欲求不満(フラストレーション)のために前の段階に用いた欲求満足の方法を再現すること、たとえば口腔性交のような異常性欲を示すことを退行という。また、ユングでは、リビドーが意識→無意識の方向をとる現象を言う。また、生活上の困難から逃れることを意味するのに用い、社会的・倫理的意味で、スポーツに熱中して仕事を怠るような場合も、発達した人間にとって原始的だというので(退行)ということもあるが、これは適当でない。
(宮城音弥編:心理学小事典、152-153、岩波書房、1979)

(続く)

1234雖念:2005/01/10(月) 03:51
犀角独歩さん:(続き)

私が1228で「『退行』というネガティブな表現を用いる精神医学のありかたにちょっとした違和感を感じました」と、書いたのは「生物学的理論のモデルに基づいて作られた発達論的概念」の生物学的理論のモデルを適用したことに対する違和感の表現であり、独歩さんの意見に対して異論や反論があったわけではありません。

また、1228で「ところが実際には高学歴を有する人であっても容易に、この幼稚な手口に引っかかってしまいます。」にたいして、「とある精神科医と話したとき、この疑問を解く鍵を与えてもらえました。それは一過的心理・精神退行現象であるというのです。」とのコメントを紹介されましたが、これは上記の「生活上の困難から逃れることを意味するのに用い、社会的・倫理的意味で、スポーツに熱中して仕事を怠るような場合も、発達した人間にとって原始的だというので(退行)ということもあるが、これは適当でない。」と、されています。一般的には「脳の障害などに見られ、感情的ショックなどによる原始反応特にヒステリー反応などに見られる。」と、いうことで高次の精神機能に関して用いられることはありません。
心理学の用語は、日常卑近に用いられるうちに意味が拡散して、双方が同じ言葉を使いながらまったく別のイメージについて語っているという厄介なことがしばしばおきがちです。
「個体の存続に成功」という表現の背後には、「仮設住宅生活の中で心不全で死亡しなかった」とか、車上生活を余儀なくされたが「血栓症での死亡を免れた」。あるいは、(強い精神的ショックにあい、免疫能が大幅に低下したが)「マラリアやコレラで死亡することはない」といった、意味内容があります。

ところで、独歩さんが1227,1232で提起された、いわゆる社会的「退行」と宗教活動や犯罪との接点の問題は、大変意義深い問題だと思います。

1232の「犯罪実行時」とは、たとえば「麻原の宗教性を信じきっていた当時の私には、私の大切なオウムが、つまり「仏、宝、僧」の三宝の存続がかかっているということだったのです。」(林郁夫:オウムと私、pp399、文芸春秋社、1998)のような、心的状態についてでしょうか?

1235犀角独歩:2005/01/10(月) 10:37

雖念さん:

わたしが書いた「退行」と犯罪に関する説明を支える脚をちゃんと示してくださっていますよ。

「耐え難い欲求不満に直面して、それから身を守るためにリビドー生活の初期の段階に立ちもどりそこに幻想的な満足を見出すために固着する患者のリビドーの組織化の過程」

ですから、このことを言っているわけです。人格障害犯罪などに見られる実行時の心的(脳内的と言ってもよいかもしれませんが)上述の説明の如きにあるのではないのかということです。

また、「死ぬのが怖い」「幸せになりたい」「人より勝りたい」…、宗教入信の動機というのはさまざまであると思いますが、結局のところ、現状に対する「耐え難い欲求不満」にあるとは考えられませんか? また、「センセイと一緒にいる限り地獄に堕ちない」「この組織にいれば幸せになれる」「成長できる」なんていう組織・指導者への依存は、まさに「幻想的な満足」であり、それに「固着」することを信仰上では「強盛な信心」とか言いませんか。

> 1232の「犯罪実行時」…麻原の宗教性を信じきっていた当時の私…のような、心的状態についてでしょうか?

ええ、そういうことでもあります。

1236犀角独歩:2005/01/12(水) 01:13

今日は1日、電車で都内を歩き回っていました。
有楽町で、昼にお会いした方から最新の『AERA』('05.1.7号)を頂戴しました。
先の6回連載の創価学会特集もよかったのですが、今回もなかなかよくまとまっていました。取り分け、『過去の性癖と邪悪な行動』もよくまとまった文章で、それと関連させて世界のニュースとして『英米の実験と実績・常習者の足首にGPS』のリレー記事は興味深かいものがありました。

さらに、わたしが感激した記事は『ヨハネパウロ2世』、「即位以来、法王は認め、謝り、許しまくっている」という一節でした。ガリレオの名誉を360年ぶりに回復、進化論を認め、十字軍を謝罪、さらに自分に弾丸を2発撃ち込んだ狙撃犯を許したといい、パーキンソンでほとんど動かない指を上げ、「若者たち、覚えておきなさい」「わたしは第二次大戦を経験し、神のおかげで生き延びた世代に属する者だ。あなたたち若者にこう訴える義務がある。2度と、戦争を、してはいけない」、政治発言、絶対平和を訴えてきた10億人の信者の頂点からの言葉でした。

その記事に涙しそのあとに、国際フォーラムで開催されている『人体の不思議展』を見ました。わたしはプラストミックされているとはいえ、献体された人体にパフォーマンスのポーズをつけるこの製作と展示に、なかば怒りを感じました。殊に3箇月から10箇月時の胎児の全身体を展示箱の冷たい床に並べる展示には違和感を覚えました。
寒々しい気持ちで見入っていると、横で若い女の子たちが、「これ、赤ん坊じゃん。すごい!」と奇声を上げていました。その直後、小学生上級学年ぐらいの女の子が、「赤ちゃん、かわいそう…」、そう呟いたのです。それまでの喧騒はぴたりとやみ、水を打ったように静かになりました。…3箇月児と4箇月、4倍ほどの胎児の大きさの違いにわたしは息を呑みました。

会場を出ると三学無縁さんから電話。五反田でお会いしました。
「はい」と手渡されたのは『寺運興隆』に載る島田裕己師の『今にして創価学会とは何か』連載15『日蓮に背くと創価学会を謗る教団の急進』、内容は学会記事であるのにもかかわらず顕正会ネタでした。考えさせらる文章でした。

…… 左利きのわたしは、鉄道の自動改札が大の苦手です。いつになっても慣れません。ダーツの矢を、右手で的に向かって投げるように、真剣に狙いを定めるように、切符を差し込みます。その繰り返しで、神経をすり減らし、帰途に着きました。

有楽町の展示のおかげで、今日は肉を食する気になれませんでした。
プラストミックされた献体された方の肉は、冒涜を恐れながら、敢えて記せば…、一番に通っているのはビーフジャーキーのようでした。
…ご冥福をお祈りいたします。

1237犀角独歩:2005/01/13(木) 14:39

昨日から開催が始まった『唐招提寺展』に、取るものもとらず、駆けつけました。
1200年の風雪に耐えた脱活乾漆造の盧舎那坐像、そして、鑑真和上坐像ともに国宝にふさわしい素晴らしいものでした。3メートルを越すあの大きな仏像が、漆を沁み込ませた麻布でできた張子とはとても思えない重量感があります。そして、まるで生きて在わすごとき鑑真和上、その御影を置く御堂を荘厳するために画かれた絹本屏風図、東山魁夷が「日本の春の海の色」といった群青が見事に生える絶品でした。しばし呆然、感動に立ちすくむひと時を過ごしました。

唐招提寺金堂は平成大改修ということで2000年から2009年まで解体修理がなされており、それに併せて、本尊・盧舎那坐像が1200年にしてはじめて、寺の外に出たということでした。解説によれば今後2度と出ることはない、たった一度の展示がいま開催されているとのことでした。

この一連の経過を見て、鑑別・鑑識、さらにその修繕、公開、保全の有様が、石山彫刻本尊の扱いと天地雲泥の相違であることに、改めて慨嘆の念を禁じえません。

唐招提寺の大改修と、仏像修繕の次第を見れば、石山の言い分なぞ、もう取るに足りないものであることは実感としてわかります。「仏像を見に」と勧めるわけではありませんが、真贋とはどういうことか・そのグローバルスタンダードとはいかなるものか実感するために彫刻本尊信奉者は特に行って見るとよいと思った次第です。

しかし、それとは別に、わたしは複雑な思いに駆られています。
それはその前日に見たプラトミックされた献体と鑑真和上像の対比ということです。
続けざまに観たためにその思いは膨らんだのかもしれません。
けれど、献体されたとはいえ、ほしいままに切り裂かれポーズをつけられたかつて生きていた方々の肉体。まるでセルロイドのように見える質感は生態からはたしかにかけ離れてはいます。しかし、たしかにかつて生きた方々の肉体そのものなのでしょう。
それに対して、鑑真和上像は、まるで生きて静かに結跏趺坐し長い瞑想に耽っているように見えます。しかし、麻布を漆で糊塗し彩色した、いわば張りぼてです。
それなのに、後者のほうが国宝として丁重に扱われ、人間以上に大切にされてきたわけです。それが悪いということではなく、人間というものの本質と、それが生み出した宗教のメカニズムが、この二つの展示の対比から垣間見えるような気がした2日間でした。

人体の不思議展
http://www.jintai.co.jp/main.html
唐招提寺展
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=1024

『おすすめ』スレッドに記すべきであったかもしれませんが、ほとんとつぶやきなので、こちらに投稿させていただきました。

1238犀角独歩:2005/01/17(月) 08:58

本日は、阪神淡路大震災から10年目に当たるのですね。
被災し亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

1239犀角独歩:2005/01/18(火) 00:36

敗北を感じるということは実は大切な経験です。
身の程がわかります。
強敵を伏してはじめて力士を知るということです。

1240松本:2005/01/18(火) 01:39
まるでアジ討論やね。勝った負けたは関係ないんちゃうんかいな。落ちにもならへんやんけ(-。-;)独り言独り言ブツブツ

1241松本:2005/01/18(火) 02:16
いきなり出て来てなんですけどちなみにウチは犀角独歩ファンですわ。毎度臭い曲者に切り返すんやけど結局最後に善導しますやん。独歩さんは。そのやり取りが好きなんやけど今回のはひどいわ。学会の肩は間違っても持たへんけどええ気味やと思われへん奴ちゃうやん。こう言うのもなんやけど、こう言う連中を救っていかないけない論が先違います?あんまり意味ないと違います?

1242松本:2005/01/18(火) 02:21
犀角独歩さん、勝敗なんか口にしたらあかんで。誰が見てもわかりますわ。ムキになる相手違いますわ。

1243犀角独歩:2005/01/18(火) 07:56

松本さん、はじめまして。

わたしは勝敗を言っているのではないですよ。
また、むきにもなっていませんよ。
勉強しなさいといっているのです。
勉強して出直してきなさいと言っているのです。

仏教は厳愛の二法を言うのです。
ただやさしく善導するばかり能ではありません。
この程度でへこたれて戻ってこなければ、真実は見えません。
叩かれても這い上がる。怨念とするのではなく、自身の不甲斐なさを嘆き、力をつける、まじめに真剣に学ぶ。戸田さんはいいことを言いました。教学は剣豪の修行だと。
自尊心が能力に見合わないとき、自尊心が蓋になって上に伸びなくなります。
そのとき、自分が以下に能力がないかを思い知り、ただプライドだけが肥大している「増上慢」になっていることを思い知るためには、敗北を味わってみることだという意味で書いたのです。

赤子の手を捻ることは容易いでしょう。しかし、それで勝ったという大人はいません。
捻られて大人の力を子供は知ります。大人なんかに負けないと思い上がっていた子供はそこで「身の程」を知るのです。その認知が必要だということです。

なお、わたしはここに、人の受け狙いで投稿しているわけではありません。
中世以降、石山で騙られてきた日蓮本仏、いつしか造られた彫刻本尊、その煽動にはまって人生を棒に振った多くの人々の過ちを繰り返さないために、徹底して真実をここに追究することだけを目的にしています。
宗教教団・指導者信仰と器物崇拝、ファンダメンタリズム、カリスマ信仰という悪しき習気から目を覚まさせることを目的にしているのです。
優しく揺さぶって目を覚まさなければ、時には厳しく起こすこともあります。
そのようなことです。ですから、感情が高ぶっているわけでもなく、怒っているわけでもありません。

1244大勇者:2005/01/18(火) 10:22
犀の生角は水を退ける。
法華経の題目を犀角に、我等の悪業を水に譬える。

厳愛二法に感謝します。

1245犀角独歩:2005/01/18(火) 11:09

大勇者さん、繰り返します。
ご健闘とご精進をお祈り申し上げます。

1246吉祥仙人:2005/01/22(土) 09:04
 過去の書き込みを大まかにしか読まないままツブヤクことをお許しくださ
い。
 多くの創価学会員は、荘厳された富士大石寺しか知らず、その戒壇の御本
尊が日蓮大聖人の出生の本懐であると信じきっています。それを後世の作と
言われれば、阿部管長から破門された現在でも激怒するでしょう。
 「当世の習い損ないの学者め」と
 私もいままでそうでした。
 上野村の大石寺にある板曼荼羅を含めて検証されている皆様の博識と真摯
な姿勢には、ただただ頭の下がる思いです。

1247卞氏:2005/01/25(火) 15:04
戒壇の件は、歴史認識を改めるだけに留まるよ。
中には激怒する人もいるかもしれないな。でも、そうでなくとも、確信を掴んでいるのが学会員だから、
ふうん、なんだ違うのか〜。くらいで終わりだと思いますよ。そのための研鑚は重ねている。
座談会や研修などで、御書に書かれている解釈について、何度も何度も「今までの教えは仮」というものを経験し、覚醒している。
学会員にとって見れば、単にこの経験の延長です。
「大石寺に詣でなければ成仏は叶わない」なんていうことなど明確に切棄てていますから、十分でしょう。
もうすでに宗門の時代は終わったのだな。

そうそう、日興上人が、えっちらおっちら背負って下山した、っていうのも、
寓話説話の世界のものなんですね。「大聖人のお心を携えて下山した日興上人」ということを
擬態的に表現したものと、よい方に解釈しておきますよ。ファンタジーの世界ね。
騙すつもりが無くてそう教えていた人は、そんなに責められるべきではないでしょうし。

ところで「人生を棒に振った多くの人々」って誰のことだろう?

1248一談家:2005/01/25(火) 16:27

>1247 「今までの教えは仮」というものを経験し、覚醒している。

やはり、池田さんは、戒壇本尊のからくりを知って、軌道修正してきたということですね。よきかな、と思います。それに比べて、日顕さんは、同じく戒壇本尊のからくりを知ったのに、何も手を打たずに、まだそれを利用して金儲けを企んでいるようです。情けない。

1249一談家:2005/01/25(火) 17:38

>1247 人生を棒に振った多くの人々

私もその一員です。学会活動を最優先にして、学業、仕事を第二、第三にして、青春を過ごしました。確かに指導は、仕事第一、と言われてましたが、役職を持って、責任をずっしりと感じると、活動第一になってしまいました。私が弱かったからなんでしょうが、私の周りの青年も、やはり活動第一で深夜まで活動してましたから、遅刻の常習犯でした。

本来ならば、もっと社会的にも活躍出来たかもしれないのに、という悔恨が今は有りますね。私のような人のことを、独歩さんは「 人生を棒に振った多くの人々」と書いたのだと思います。勿論、独歩さんご自身が、その「人生を棒に振った」なんだと。

1250一談家:2005/01/25(火) 17:39

訂正です

× その「人生を棒に振った」なんだと。

○ その「人生を棒に振った人」なんだと。

1251彰往考来:2005/01/25(火) 17:59
>1243
>「人生を棒に振った多くの人々」って誰のことだろう?

私です! 

by 彰往考来

1252真実 探求者:2005/01/25(火) 19:31:48
失礼します。「希望に満ちあふれているであろう、、人生、が、」、「、それに投資、? したような総ての努力が、水のアワの様に、」なれば「,棒に振る、」という事でしょうか、? と、すれば、それは、小生、です、、。 心底から悔しいです! 情けない、です、。 他方、庶民と「同苦、」と言いつつ、一人だけ、「、孤的な楽天、」を享受の方が独裁的に君臨する某団体様が存在のようです。 何とか、言論の力で「硬い壁」に向かいたいものです、、。

1253吉祥仙人:2005/01/25(火) 21:13:45
 真実 探求者様
 浅学なのでご教授ください
 「弧的な楽天」を享受するとは、どのようなことなのでしょうか

1254卞氏:2005/01/26(水) 09:38:25
>確かに指導は、仕事第一、と言われてましたが、

栄華を求めるのは創価の指導とは違う生き方だよ。
私が実感しているのは、

>責任をずっしりと感じると、活動第一

学会の活動でなんら成果がでなければ、
社会においても中途半端に終わるということ。
その生まれた責任感というものを学会だけでなく、社会にも向ければ、
それは仕事第一でもあるということにもなる。社会的地位として低いとしても、
人生を棒に振るなんてこととは違います。活動が社会に生かされてきます。
両立に悩んで乗り越えることが自身の勝利でもあります。
要は、組織活動をいかに有効に行えるか。その点がポイントと思います。

1255一談家:2005/01/26(水) 10:20:54

>学会の活動でなんら成果がでなければ、社会においても中途半端に終わるということ。

私も含めて、私の知っている大部分の学会員が、そのような姿で有ったと思います。それは、果たして個人の責任に帰する事なんでしょうか。

法華講に於いては、もう少し緩やかでしたが、所詮学会組織の焼き直しの組織ですから、事情は同じでしたね。役職を持つて、一生懸命に頑張った人は、私の知っている限りでは、生活が破綻してますね。お題目を一生懸命唱えていた人は、豊かな生活を楽しんでいますね。これが私は昔からの疑問なんですよ。卞氏さんの周りには、そんな姿は無いのでしょうか、不思議です。

1256愚鈍凡夫:2005/01/26(水) 11:03:07

> 栄華を求めるのは創価の指導とは違う生き方だよ。

う〜ん、信濃町を我が物顔に闊歩する宗教貴族達たちにぴったりのコトバかも。

> 両立に悩んで乗り越えることが自身の勝利でもあります。

小生の周りには、学会活動で成果を上げているにもかかわらず、いつまでたっても経済状態が好転しない学会員さん、また、家庭不和に悩む学会員さんが少なくないですよ(表向きは一家和楽を装っているようですが)。
必死になって題目をあげ、必死になって学会活動に励んでも現状が好転しない場合、不思議なことに、よりストイックな信仰へと突き進むものです。ここにマインドコントロールの恐ろしさの本質があるのでしょう。

1257卞氏:2005/01/27(木) 10:01:52
>私も含めて、私の知っている大部分の学会員が、そのような姿で有ったと思います。それは、果たして個人の責任に帰する事なんでしょうか。

仏法的に見れば、すべて個人の責任です。
なぜなら、自分で学会活動に責任を見出して、社会的地位を棄てたのであれば、
それは個人の選択であり、そう誓ったのも個人です。
あとになって、「あの時学会活動を程ほどにして、仕事優先にしていれば」などと
悔やむのは、惨めですし、悔やむくらいなら初めから学会活動などしなければ良い。
心のどこかに栄華を求めているという残っているのではないでしょうか。
「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです。

ただ、貴方の疑問は、組織からの立場として、そこのリーダーの責任とするものであるとおもいます。

学会活動を優先させ、仕事をおろそかにする。
これはいけないことだと、学会草創のころからの指導です。
仕事をおろそかにして会合に来て、戸田先生よりしかられたという話しも人間革命にありました。
こういったことが徹底されていないのではなかったのでしょうか。
「学会活動は一人前でよい。仕事は三人前やれ」が戸田第二代会長の指導でした。
その意味は人それぞれにあったでしょうが、疑問が生じたらすぐ幹部に相談しすっきりするまで指導を受けてくる、
そうしなさいといわれてきました。指導の意味を自分なりに咀嚼し、どういう信仰に起てばよいのか、
その都度軌道修正しながら鍛え、成長するようにせよと。
本来の組織とはそのために有ります。指導主義で学会はやってきました。
が、それに漏れている人も居るのでしょう。組織丸ごとそうなるケースもあるかもしれません。
もし、貴方の組織がそれを徹底するのであったなら、
そんなふうに苦しんでいる人はいなかったろうと思います。

>お題目を一生懸命唱えていた人は、豊かな生活を楽しんでいますね。
当たり前のことです。自分ひとりが幸福になるのは容易いことです。
お題目で幸せになります。ならなければお題目がウソになります。

人を救おうという立場になって、はじめて、その苦労と喜びがわかるというものですから。
私からしてみれば、不思議でもなんでもないです。
貧乏が不幸なのではなくて、貧乏に負けて押しつぶされて、希望の持てない情況になるのが不幸なのです。
外見ではそのひとが不幸なのか幸福なのかは分かりずらいかもしれません。

家庭不和は解決に向け、本人がそのことをいのらなければ治りません。
「一家和楽の信心」を<指針>としていた理由です。
和楽でない家庭が和楽になるために「信心」をしましょう。
それも指導ですから、家庭不和の原因というものを、本人にどうやって自覚させるか。
それに悩むのが組織のリーダーです。

1258一談家:2005/01/27(木) 12:57:23

>「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです。

信心すれば幸せになれるよ、と言われて信心した。

学会活動しなければ、自分だけの信心では功徳はもらえないよ、と言われて学会活動に参加した。

活動するようになつたら、嫌だ嫌だと言うのを説得されて、仕方なく班長という役職を受けた。

役職を受けたら、組織目標が無理やり割り当てられた。

目標は達成しなさいよ、と言われて、部員を説得して会合に連れ出すようになつた。

役職を受けたら、「後継者を育てなさい」と言われて、嫌がる部員を無理やり説得して班長にして、組織を分割した。

そうこうしていたら、グループ長に成れる様に、折伏をしなさい、と言われた。

懇意にしていた友達を誘ったら、入会すると言う。

それで、勤行とか教えて、御本尊を持たせて、折伏ができた。

暫くしたら、グループ長の面接を受けた。折伏一世帯では、足らないけれど、今回は大目に見て通すけど、しっかり折伏をしなさい、と言われてグループ長になつた。

暫くしたら、統監の仕事を任された。一杯、幽霊部員がいる事を知った。

まぁ、こんな風にして、私の大学生活は学会活動で塗りつぶされて経過して行った。最初から、「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです、って厳命されたいたら、学会活動にこんな風にのめりこんでゆく事は無かったと思います。ズルズルと引き釣り込まれて行った、というのが真相でしたよ。私は金輪際、もう、こういう宗教組織には入らない。

1259愚鈍凡夫:2005/01/27(木) 12:57:57

> 貧乏が不幸なのではなくて、貧乏に負けて押しつぶされて、希望の持てない情況になるのが不幸なのです。

幸不幸は勝ち負けの問題ではなく、感じ方の問題でしょう。言葉を換えれば、心が満ち足りているかどうかの問題とも言えるのではないでしょうか。
学会の理想論と現実の学会活動とのギャップ。組織というコミュニティの中だけの閉鎖的な活動と、そこから派生する馴れ合いの体質。一般社会との意識のずれが生じるのも無理からぬ事です。

もし、その人が貧乏から抜け出したいと思って入信したとしたら、状況が変わらないのはやはり不幸です。体が健康で、心がピュアで満ち足りていればそれでいいというのであれば、別なんですけどね。
わざわざ外敵を作って、阿修羅の如く口汚い罵声を浴びせる姿は、まるで不幸を絵に描いたようなものです。

> 外見ではそのひとが不幸なのか幸福なのかは分かりずらいかもしれません。

初めて意見が合いましたね。小生もその通りだと思います。
しかし、創価学会員であるが故に一家和楽の振りをして、外見を取り繕う姿を学会員時代から何家族も見てきました。本当に、人の家庭は外からは分からないものですよね。

1260:2005/01/27(木) 14:17:59
創価学会の組織に就いて、言われるとおりに、無疑曰信で学会活動に
励んでも、普通の無信仰の人たちとなんら変わらず、年老いて重い病気
になったり、歩けない生活を送っている会員の多いこと。

これは、信心のやり方がまずくて、宿命転換ができなかったからでしょうか?

幸せは見た目ではわからないといいますが、病気でも貧しくても、
『信仰があるから私は幸せ』と言う心に余裕のある創価学会員が巷に
あふれているとは思えません。

1261卞氏:2005/01/27(木) 15:29:00
>最初から、「自分は精一杯やって悔いがない。」という生き方を出発点にするべきです、って厳命されたいたら

戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。
悔いのない生き方ができれば、そのひとの勝利です。本当に幸せです。
悔いが残るようなことをしたら、もう一度やり直してもよいではないですか。
目標が高ければ高いほど、苦しい目にあうのが当然のことだとおもいませんか。

貴方の場合、組織という「形態」を作るのが目的になってしまったかのように見受けます。
そうではなく、「会員を護り育てる組織作り」を考えなくてはなりません。
それは閉鎖的な活動ではありません。つねに外に目を向けていなければできないことです。
愚鈍さんが閉鎖性を感じさせると思われるのもそういった視点が欠けている文章であるためでしょう。

大きな目標を立てたときは、命令されたことをこなすのではなく、常に、「何のためにそれをするのか」を
考えなければならないでしょう。
命令されたことだけやるのでしたら、会社などでも下っ端かバイト扱いで終わります。
どんな組織に行っても、下で与えられた命令だけをやるようになってしまいます。
何処に行っても社会で活躍するなどということはできません。
そういう人は、そういったことを転換することをしなければ、社会での活躍はできないのです。
一体何処にあなたの目標をどこに置いているのか、そういった出発点というのは非常に大事です。

>創価学会員であるが故に一家和楽の振りをして、外見を取り繕う姿
もしかしたら、和楽の振りをしているように見えるだけかもしれませんよ。
そのときは満ち足りていて、また時々喧嘩して、反省したりもして・・・
家庭の事情はほんとにわかりません。

>幸せは見た目ではわからないといいますが、病気でも貧しくても、
>『信仰があるから私は幸せ』と言う心に余裕のある創価学会員が巷に
>あふれているとは思えません。

学会員は、『信仰があるから私は幸せ』のような考え方はしませんよ。
自らの使命を自覚できて、その使命を果たす自分がいて、なんともいえず幸福なのです。
で、余裕などありません。今でもどこかで苦しんでいる人がいたら、励ましに奔走します。
余裕も何もあったものじゃありません。
そういうふうになれたのは「信仰の力」というものですから、それは勝利です。
ただ、お金があってそこそこ健康で、幸せと感じていても、何のために生きているのか分からないのでは空虚です。

1262一談家:2005/01/27(木) 16:01:24

>戸田先生、池田先生に縁していませんね。指導を学ぶ中で、そういう生き方を見せ付けられるのです。

一方的に決め付けられる辺り、いかにも創価学会員らしいなぁ、と思いました。事実は違っています。

私は、某大学会一期結成時の代表幹事です。その大学会結成時の池田さんの指導は、言論問題収集の言い訳に終始していました。あの時、あのような池田さんの肉声に触れていなければ、もう少し創価学会に居たかも知れません。国会への証人喚問に怯えた池田さんの言い訳話は、私には全く説得力は無く、却って池田さんという人物に対する疑問を抱かせるものでした。

1263一談家:2005/01/27(木) 16:03:05

訂正です。

× 言論問題収集

○ 言論問題収拾


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