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万博で新しい紛争解決の糸口、コミュニケーションの方策を探る

1中葉:2004/06/15(火) 12:18
朝日新聞6月11日付けによれば、5月31日に神田愛知県知事他が
北京で中国側関係者にご挨拶した際、昨年12月にBIE(博覧会
国際事務局)議長に就任した呉建民氏(前在仏中国大使、中国
外交学院院長)は「大阪万博以降、低調傾向にある万博運動を
盛り返したい。21世紀以降の紛争解決の糸口、新しいコミュニ
ケーションの方策、マルチラテラリズム(多国間主義)の観点
からも日本の努力を期待し、BIEも愛知万博に協力を惜しまな
い」と語ったとのことです。

2005愛・地球博では、このような国際的、歴史的な期待に対応
し、地球フォーラム・シンポジウム「地球に生きるものの使命」
http://www.expo-people.jp/projectlog/details/project_details.php?pid=23
その他、多種多様な企画・準備とともに、万博後の恒久的な
体制づくりも進めています。

しかし、まだまだ不十分です。
皆さんのご支援をよろしくお願いします。

8ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/18(金) 23:13
>>7
バブルの頃にも流行ってましたよね。国内万博って(笑)
毎年2〜3箇所でやってたような。

大阪万博、神戸ポートピア、宇宙博は行きましたねー。
海洋博は遠くて行けず(沖縄は離島だから)、つくば科学博はいろいろあって行けず。
万博の持っていた意味というのは、その後「見本市」という専門化したものに受け継がれていくわけですね。
パビリオンは国が出すんじゃなくて、それぞれの技術を持っている企業が出すようになった。
業種によって、モーターショー、モーターサイクルショー、おもちゃショー、食品加工機械見本市、ゲームショー他多数になった。
コミックマーケットも一種の「専門化した見本市」かもしれません(笑)。
で、初期の万博は、それらを「企業出展」よりも「国としての出展」という形でやってた、と。

ちなみに昭和・平成の所謂バブル期の万博は、すでに専門化した見本市と並存してたせいもあってか、国単位で技術をひけらかす習慣が消えていたせいか、さらには「新しい技術」がない国まで「万国博」として参加するようになったせいか、「お国自慢物産展」に堕していたのは事実。
おもしろかったのはつくば博くらいまででしょう。
イカフライ女史あたりだったら万博も記憶にしっかり残ってるんじゃないですか? 私は幼少のみぎりでしたが(笑)、けっこうおもしろかったですよ。

それ以後の時代の万博しか知らない人は、ちょっとお気の毒でした。

また、昔は万博くらいしか「国際的に集まって民間が場を持つ機会」がなかったというのもあると思いますが、現在では「NGO的国際会議」もいっぱいあるわけで。
その意味では、万博でそれをやるのはアドバルーン的な意味しかないんじゃないですか?

9緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/19(土) 09:54
>8
お年がばれる(笑)

バブル直前〜バブル崩壊までで、かなり食傷気味になってしまいましたからねぇ。
<そのての内国博覧会わ

まあ、各専門分野ごとに行われる「見本市」わ、内容が濃いんでそれなりの人が行くと
ためになるからええんですがね。

ところで、横道知事がやった「食の祭典」のジェノスカード(未使用・1000円)が
引き出しの中にあるんですが、ヤフーで売れますかねぇ(笑)

今やるなら「職の祭典」かぁ〜?

10イカフライ:2004/06/19(土) 10:11
>>8

万博、というと、大阪万博しか頭に浮かばない世代です(^^ゞ
「1970年のこんにちわ-」ですね。
 親に行きたい、連れてって、とねだったもんですが「あれは大阪の子しかいけないの」とか言われまして。
 で、夏休み明けたらいってきた子がクラスに一杯(笑)
 旅費が無いなら無いっていえば良いのに。こういうすぐバレるウソをつくから、子供は親に対する信頼感を失うんだ(笑)。

 うちの亭主は行ったそうです。今でも、当時の写真を見せびらかして自慢される。

 どうも、大阪万博の印象が強いせいか、その後の博覧会はあまり興味がありませんでした。
(ポートピアもつくば博も海洋博も)。70年代は、日本が良くも悪くも元気だった時代だ。

 今、博覧会をやるのなら、なにか新しい形と言うか、吸引力がないとダメでしょうね。
 その「新しい」がなにか、解りませんが(ネット博なら良いか?というと、あれも外した様で)

11緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/19(土) 14:15
>10
いあ、やはり「職の祭典」をば(笑)

12中葉:2004/06/20(日) 22:47
>>10 今、博覧会をやるのなら、なにか新しい形と言うか、吸引力がないとダメでしょうね。その「新しい」がなにか、解りませんが

全くおっしゃる通りです。

私が興味を持ち、支援している市民プロジェクト、
地球フォーラム・シンポジウム「地球に生きるものの使命」では、
http://www.expo-people.jp/projectlog/details/project_details.php?pid=23

平和の尊さに共感し、その構築に積極的に参加の意思のある市民、NGO、NPO等、及び紛争地の市民や平和維持・難民救済活動等に関っている市民、NGO、NPO等を募集し、

近代技術文明が環境汚染や資源枯渇、紛争や文明間の対立を生み出し、憎しみの連鎖を引き起こしている現状に鑑み、これらを解決するため、様々な智を結集し、
人と人が宥和し合う地球平和の智恵をみつけたいとの想いをベースに、平和の構築を目指し、平和の構築を目指し、取り組むべき課題を明らかにし、そのメッセージを世界に発信しようとしています。

13ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 00:56
中葉さんの年齢や趣向がわからないので参考意見として聞き流してください。
過去の小説、コミック、映画などでは「1960年代以前」の悪役はナチスドイツかその残党でした。
「1960〜1970年代」の悪役は「旧ソ連」でした。
「1970〜1980年代」の悪役は「過激派や中東のテロリスト」でした。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではリビアのテロリストっていうのが出てきましたよね。
「1990年代」の悪役はズバリ、「フセインまたは中東のテロリスト」。映画「ホットショット2」ではモロにフセインがラスボスでした。

で、1990年代から2000年代に入ってきてからは、急速に「環境保護団体やNGOの類が、目標達成のためにテロリストになる」という描き方をする作品が増えてきはじめました。
コミック・アニメはその傾向が特に顕著ですね。
もちろん、「真の敵は軍産複合体か大国の陰謀」というところに落としてはいますが、「純粋すぎる環境保護団体が目的のために手段を選ばなくなることで、テロリストと何ら変わらないことを躊躇わずにするようになる」という描き方は、決して珍しいものではなくなりました。
よくあるのが「月面開発反対のため、宇宙でテロを行う」とか、そういう類の設定。これは、最近だとコミック「プラネテス」の中盤の敵がこんなタイプの環境テロリストでした。

まじめ、かつ善良な正義感から平和を見つけよう、という中葉さんが危惧しておられるテーマを煮詰めていった結果、やはり「技術の放棄」「開発の放棄」「資源開発の阻止」を強硬的にするしか人類を目覚めさせる方法はないのだ、という悲痛な選択肢を選び、自らの手を血に染める原理主義的な存在として、「環境テロリスト」が俄然注目を集めているようです。
一昔前なら「宗教的な殉教者」として描かれるところだったと思いますし、実際そうした「生命の尊さを共感し、地球を救え」的環境NGOの掛け声は宗教に通じるものがあると思います。
ただ、直接的に宗教(個人の意志をスローガンで統合していく)に反抗するのではなく、形を変えた宗教的なものの暴走に対する警告という形で、環境テロリストが悪役にされてつつあるのかな、とも思いました。

平和、環境保護が「欲を制限し、我慢すること」で成立するものだとすれば、その行為も気持ちも理解はできますが、欲を追求することで拡大してきた人間の営みは、「殻の中で分け合うこと」ではなく「殻の外に飛び立っていくこと」でしか維持していけないのではないか、という考えの作家が多いことから見ても、「我慢しましょう」という禁欲的スローガンの活動にはいささか共感を感じにくく思います。

ところで、どうしてそうした「運動に参加の意思がある○○○」と続くときに、最大単位を「市民、NGO、NPO」という単位で数えるのでしょうか?
「国民、民族」や「町民、村民」じゃだめなのでしょうか? 意図的に「国」という単位を無視しているか、無効化しようとする意識があるのでしょうか?
人類が仮に「世界政府」を持つことができるとしたら、段階的な「上部行政府の統合」だと思うんですが(欧州各国がEUになったように)。
欧州各国の人々は、「市民」としてEUに参加しているわけではなく、あくまでそれぞれの国民としてEUに参加するかどうかの意思確認をした上で参加しているわけですよね。
それと同様に、「世界共通の○○○」を求めることがあるとしたら、それは「市民や個人が個別に参加」ではなく、あくまで「国民として国に意志を委ねて」その上で、になるのでは?
そう考えると、「国という現在考えられるもっとも上層に近い枠組み」とそこへの所属を意図して軽視するのはなぜなのかが、以前から不思議でならなかったわけですが、もし中葉さんがこれに何らかの明確なご意見をお持ちでしたらお聞かせ頂ければと思います。

14中葉:2004/06/21(月) 05:47
>もし中葉さんがこれに何らかの明確なご意見をお持ちでしたらお聞かせ頂ければと思います。

よい指摘と質問をありがとうございました。

私がいわゆる市民に期待を持ち始めたのは、大体1965年以来で、企業改革への刺激としてでした。
しかし、ほとんどその直後から期待は裏切られ始め、それは一貫してこれまで続いています。
これは日本の話です。かたや、日本以外では少し違うようだという印象を持ち続けています。

>>12 平和の尊さに共感し、その構築に積極的に参加の意思のある市民、NGO、NPO等、及び紛争地の市民や平和維持・難民救済活動等に関っている市民、NGO、NPO等を募集し

という文章は、最近、日本で蔓延している共通な文章として、皮肉も含めて引用しました。

私が現在、もっともバランスがとれた記述として、しばしば借用している叙述は、
http://jbbs.shitaraba.com/study/bbs/read.cgi?BBS=2500&amp;KEY=1046014709&amp;LAST=100
「ウェストファリア体制の次にくるもの」の
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2500/1046014709/22-25
に引用したJessica Mathewsの文章です。 http://www.ceip.org/files/about/Staff.asp?r=18

私は、マシューズが提起した課題に答えようとしています。

私は万博の場を利用して準備しているのですが、その方向に一番近い議論をしているのは以下のグループです。
・DC開発フォーラム http://www.developmentforum.org/aboutus.htm
・DC開発フォーラム/寄稿 http://www.developmentforum.org/Articles/

まだ始まったばかりのようです。

私自身の構想は、いくつかの文章をホームページに掲載しています。
講義、論文、シラバス http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/lecture.htm
論文、資料など http://home1.catvmics.ne.jp/~shibatay/articles.htm

15ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 06:09
>>14
すみません、概要もしくは目次、レジュメなどありましたら、まずそれをお願いします。

16ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 06:13
自説について、すでに一度でもまとめたコトがある人間は(自分も含めてですが)、ついつい「詳しくはこれを読め」で済ましてしまいがちですが、膨大な資料の細部をいきなり渡されても、相手が興味を示すことはマレかと思います。
レジュメなり、何らかの導入は必要かと。
もちろん、「問いに対する答えを求めたのはそちらなのだから、そちらが努力して近付くべきだ」というお考えを中葉さんがお持ちであるならば、「その考えが基礎にある限り、あなたの考えは広まっていかない」と反論することになってしまうのですが(^^;)

17ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 06:28
>>13について、重ねて質問しますが、中葉さんが考えておられる「市民」というものは、

1)「Citizen」ですか? 
2)それとも、「地方自治体の一階層である【市】に所属する個人」ですか?
3)それとも、何かもっと得体の知れない「個人」に対する称号でしょうか?

所謂Citizenというものは、「国の防衛に対する責任を負った階級」の意味だと思っていましたが、最近は違うのでしょうか。
地方自治体の所属員を示す「市民(町民や村民や県民と同程度の)」を殊更にクローズアップして使われているわけでもないと思うのですが違いますよね?
もっと得体の知れない個人、についてですが、NGO、NPOなどの勢力・組織が「国に変わるもの」になるのか、「国と同等の地位と権力を持つもの」になるのか、「国を凌駕する存在」になるのかで、それに対する評価はまったく変わってくるのではないかと思います。

以前、別のスレで、「武装NGO」「武装NPO」は、民兵/テロリストとどう違うか?という意見がでていましたが、暴力の暴発を抑止する力としての暴力を持たないNGO/NPOが、暴力の暴走に十分に対処しうるとは思えませんし、同等の暴力を自由意志で行使できる武装NGO/武装NPOの存在根拠を認めるのもどんなもんかとも思います。
上記質問と合わせて、お暇なときにお考え頂ければ幸いです。

18ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 06:58
以下は独り言ですので、返信は特に不要ですが、ヤスツの脳内質疑に参加なさりたい方はどうぞ(^^;)

2ちゃんねらーは市民か否か?(笑)

ネット内での発言に絞れば国に従属せず、特定の地域の拘束を受けず、また、「大規模OFF」と称される、市民活動にも似た行動を取ることもあり、名簿で統括されない不特定多数の参加によって成立する突発イベントや大規模イベントを幾つもこなし、それでいて明確な「頭」や「継続性のある組織」を持たず、極めて狭い目標を掲げ、費用徴収をせず、いわば参加者全員の持ち出し/持ち寄りによって目的を達成している。
不特定多数のネットワーカー(これもまた懐かしい言葉ですが)が、肩書き、実社会での立場に囚われることなく、「2ちゃんねらーである」+αだけを唯一の共通項に、同一行動を取る、というもの。
市民運動の動員で毎回苦労している人から見れば、これほど羨ましくも腹立たしいものはないらしい。
そうした行動を取る2ちゃんねらーに明確な「思想」があるかと問われれば、たぶんおそらくないんじゃないかな、という気もする。
まさに、「潜在的意志」「声を挙げずに身体が動く」というものを体現しているようにも見える。

いわゆる「市民運動」は、旗振り役の個人、組織、思想的指導者がいて、それが「白紙状態の“市民”」を牽引しようとするという構図を持つ。
思想的指導者が市民運動家の場合もあれば、研究者、学者の場合もある。日本では「欧米の最新の動き」という海の向こうのありがたいものを思想の支柱に持ってくる場合もある。
が、そうした形で、「無知の市民を引っ張り上げていこう」というスタイルで市民運動を盛りあげようということそのものが、すでに時代遅れになってきているんじゃないか、と思う。
なぜなら、思想家、思想的指導者が押っ取り刀でやってきてようやく手を付け始めたインターネットというツールは、とっくに誰もが手を付けていて、資料占有によって得られてきた思想的指導者の占有できる特権を、占有できないものにしてしまっている。
だから、思想的指導者は自分の占有性、特殊性、特権性を維持するために、「とっときのアイデア」は隠そうとし、理解しにくいものだとして希少性を高めようとする。

ところが、同じ情報を同じツールから、思想的指導者以外のものも等しく手に入れることができるようになっている。
同時に、情報の分析や解釈も不特定多数によって同時に進められている。ここでも思想的指導者の特権性は失われている。
2ちゃんねらーの「突発的大規模off」が特定の思想的指導者を持たないのは、こうした「情報と分析結果の共有」がすでになされていて、誰か一人に負わなければ成り立たないという構造を古くさい物にしてしまっているからではないか、と見ている。
だとすると、「国の代わりにNGOやNPOが出てきて」という発想そのものが、実は既に時代遅れになっているのでは、とも思われる。

NGOやNPOがインターネットというツールを活用して国境を越えていることは事実だ。
しかし、NGOやNPOが「組織」という皮を纏っている限りは、インターネットを同時に使いこなしているその他の「NGOやNPOに属さない個人の群れ(あえて市民とは言わない(笑))」とは、別個のものではないのか?
また、NGOやNPOの成立、利用しているツールが同じだからといって、2ちゃんねらーを「NGO」「NPO」とは呼ばないことを、どう説明すればいいのか?
2ちゃんねらーはNGO、NPO、「市民」と言えるのか?

19ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 06:58
2ちゃんねらーの大規模offは、言い出しっぺ(本来なら指導者になるはずの者達)が、いつの間にか「参加者を指導するのではなく、参加者に使役される側になっている」ということがしばしば見られる。
また、そういう好きこのんで苦労を背負い込む人が、進んでその他の参加者を尻馬に乗らせるためのお膳立てに奔走しているが、結局は「旗振り役の望んだとおり」ではなくて、「参加者の総意を得られたこと」しかできない。
(だから突発offで、思想的指導者が独裁をしようとしてうまくいった試しがない、というのも注目すべき点)

市民運動、NGO、NPOなどが本当に必要とされているのだとしたら、インターネットが絶えず利用される社会では、誰かが心配しなくても「必要な状態になる」し、「市民、NGO、NPOが必要だ!」と声をからして訴えても、同意が得られなければ善意に基づくマスターベーションで終わるのではないか、という気もしている。
なお、2ちゃんねらーを例に引いたのは、2ちゃんねらーを過度に評価してのことではなく、「年齢、性別、出身、職業などが不特定で、情報だけを同じツールの元で共有している個人の群れ」として、非常に興味深いから。

2ちゃんねらーは「ある世代だけが集中した特殊な存在」なのではなく、実は「最低下限の普遍的な存在」なのでは?と疑うようになったのは、こないだADSLに切り替えるために実家に帰ったら、70歳の親が2ちゃんねらーになってた、ということに衝撃を感じたからです(^^;)

20中葉:2004/06/21(月) 14:36
>>16 「問いに対する答えを求めたのはそちらなのだから、そちらが努力して近付くべきだ」というお考えを中葉さんがお持ちであるならば、「その考えが基礎にある限り、あなたの考えは広まっていかない」と反論することになってしまうのですが(^^;)

そんな考えはありません。

そもそも、私の考えが言論によって広まる、という考えがないのです。

これは「コミュにて・オブ・プラクティス」の考え方だと思います。
しかし私は、コミュニティ・オブ・プラクティスのベースになっていると言われる「状況に埋め込まれた学習」という本を読んでいるわけではありません。

21中葉:2004/06/21(月) 14:40
>>17 中葉さんが考えておられる「市民」というものは

私は基本的には、「市民」という言葉を使いません。むしろ、嫌悪感を持っています。
ここで使ったのは、ある人の文章を紹介しただけです。その人が作った万博のグループに参加したので止むを得ません。

22中葉:2004/06/21(月) 14:50
>>17 上記質問と合わせて、お暇なときにお考え頂ければ幸いです。

いや、暇も何も、私はそういう問題意識(考える必要性)を持っていないのです。
自分はなにに所属するか、分類されるかについて、昔は考えたことがあります。

最初はどうも日本人でなくアメリカ人ではないか?

次は、いやアメリカ人ではなく、ユダヤ人ではないか?

現在は地球人ではなく、宇宙人のようだ、と思っています。
言い換えると、多重・複合所属ですね。

これで当面の宿題は終わりました。
(マシューズやフィオリーナの周りを回っているだけのような気がします。)

さて、万博がますます楽しくなりそうです。

23ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 14:59
>>20
なるほど、これは失礼しました。

コミュニティ・オブ・プラクティス云々については非常に興味深く思います。
また、>>21 「市民という言葉に嫌悪感を持っている」についても了解しました。

もう少しこれについてお話を伺いたいと思ったのですが……実は一昨日から風邪を引いてまして、熱が全然下がらないため頭があまり回らなくなってきました(つД`)
質問が明後日の方角に行ってしまっては申し訳ないので、体調が回復するまでしばし休息させていただきます。

なお、>>16にある「問いに対する答えを求めたのはそちらなのだから、そちらが努力して近付くべきだ」という考えについては、以前に質問をした相手からきっぱりとそう言われたことがあった、という経験に基づくものです。
中葉さんがそういった意見をお持ちかどうかわからなかったため、このような質問の仕方になってしまったことについて、改めてお詫び申し上げます。

……ちょっと、酸っぱいものもこみ上げてきましたので、今日の所は伏せることにします。

24中葉:2004/06/21(月) 15:03
愛知万博メッセージ http://www.expo2005.or.jp/jp/study/img/message.pdf
の始まりと終わりは以下の通り。

「自然の叡智」を縦糸に、地球大交流を横糸に幅広い参加と交流の博覧会を開催します。

(中略)

 人間らしい交流の原点とは、何だろう。
 それは人が人と出会い、語り合い、理解し合い、尊敬し合い、愛し合うことにあるのではないか。
 そのための交流の舞台“EXPO 2005 AICHI”をつくろうと思う。

 私たちは世界の人々に呼びかける。
 AICHIに集まろう。互いに見つめ合い、微笑み交わし、抱き合い、多彩な知恵の交流する世界を、全身で体験し、全感覚で楽しもう。
 
 地球の総ての“いのちと未来”のために??

25ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 15:05
>>22
いや、>>17の質問の意図は、「中葉さんが何に属しているか」を問うているのではなく、「中葉さんは市民と言う言葉を使ったが、そこで使われている市民という言葉に、どのような意味を込めて使っているのか?」という質問です。
>>21で「人の文章を引用しただけで、市民という言葉に嫌悪感を持っている」という解を得ましたが、その場合でも「市民」について中葉さんご自身がどのような「意味」を持って使われているのかはよくわかりませんでした。
「嫌悪感」は単なる情緒的な感想であって、ニュアンスの説明とは異なりますし。

少々私の質問の意図がうまく伝わらなかったようなので、補足とさせていただきました。

>>14でご紹介いただいた資料ページの親ページから、MEGA-NETその周辺についても拝見しました。
それが万博で提起する方法論の外郭もしくは中核なのだとすると、少し質問と確認の上で自分の意見を申し上げたいと思いましたが……あ、やっぱ今はダメっぽいです。

熱が。

26ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/21(月) 15:08
>>24
ううっ、あとひとつだけ(^^;)

その>>24の【愛知】万博のメッセージですが……うちの父方の親戚筋が名古屋なんですが、愛知というか名古屋の県民性を考えたときに、【名古屋人】にそれほど似つかわしくないメッセージはありませんね(笑)

27中葉:2004/06/21(月) 15:10
面白くなったから、英語バージョンを紹介します。但し、前文はありません。
だから最後の部分だけの紹介です。

But what will be the catalyst for genuine exchange? We believe the answer to be people meeting people, followed by discourse that goes beyond words to achieve mutual understanding and respect.

EXPO 2005 Aichi, Japan, is the place for this intercultural exchange.

In 2005, the world will gather together in Aichi Prefecture. There, we can weave together a fabric for a new global society; we can stand together, exchange smiles and share the wisdom of the world-felt and enjoyed with all our senses and experienced with our whole being.

Let us do this for all life and the future of our planet!

何か、気持ちが悪いですね。

28中葉:2004/06/21(月) 15:18
>>26 >>24の【愛知】万博のメッセージですが……うちの父方の親戚筋が名古屋なんですが、愛知というか名古屋の県民性を考えたときに、【名古屋人】にそれほど似つかわしくないメッセージはありませんね(笑)

私は愛知県人ではあっても、名古屋人(正確には尾張人)ではなく岡崎人(三河人)です。

安っぽい嘘っぽさに平気でいられると言うのは、正に尾張人ですよ!

三河人は全然違います。(昔は、あるいは、戦前は)

29イカフライ:2004/06/21(月) 22:14
個人的なこだわりですが、私はなるべく「市民」という言葉は使わない様にしています。
今まで全く使っていないか、というと、どこかで使ったかもしれないですが、「パンピー」とか言う様には心がけているつもりです。

これは、あくまで自分の個人的感覚に過ぎないのですが。

30中葉:2004/06/22(火) 05:18
>>29 個人的なこだわりですが、私はなるべく「市民」という言葉は使わない様にしています。

私も嫌悪感を持ちながら、あまりの氾濫に辟易することが多く、ブラックユーモアのつもりで濫用しているか、と思います。

31イカフライ:2004/06/23(水) 13:53
市民と言うと、ひとつは行政分類上の住民、例えば仙台市民とか、札幌市民とか、ですよね。
 それで言うなら、私は区民であったり市民であったりしました。
 ただ、ここで言われている市民は、そうじゃないですよね。

 NGO,NPOに代表される市民団体、市民運動における「市民」というのは、本来、政府機関なのど公的なものではなく、特に資格を持たない有志が集まって行う活動、というように私は思っていたのですが。
ここで「市民」として参加、活動する場合は、特別な資格(勿論、その活動に役立つ資格や技術、特技はあったほうがよいでしょうが)というものがなくても。
それこそ、普通のオジさん、オバさんが参加できるもんだ、と本来は思っています。

 ただ、「市民」というと、どっかそういった市井の人々とは、一線が引かれた、そんな感じを受けてしまうんですよね。
 それが、なにか? どこか? は、上手く説明できませんが。

32ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/23(水) 14:18
>>31

「プロ市民」というくくりに入れられてしまう人たちでしょうか。
もしくは「声を挙げる市民」だとか「活動や運動をする市民」だとか。
プロ市民には「プロレタリアート市民(かつて学生だった学生運動家が、もう学生って歳じゃなくなったので市民運動家に変貌し、「有志」の集団を「組織化」することで乗っ取ってしまう、というアレ)」という意味と、
「プロフェッショナル市民(市民運動を生業にしていて、行政を訴えたり寄付を集めたり機関誌を売ったりすることで口に糊している市民)」という意味とがありますが、そんな感じでしょうか。



外気温が熱いせいもあるかもしれませんが、体温が全然下がらないのはそろそろ病院行かないとまずいでしょうか(つД`)

33緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/23(水) 17:16
>32
早よう病院に行かれたほーがええんじゃぁないかと。
今年の夏かぜはひつこいらしいですからねぇ(笑)

昔、学生生協の役員にむりやりされて会合に行かされたとき(あ、ゼミの代表なんでプロじゃぁないですよ)
「細胞単位」ちう言葉で、人間くくってお話しとるの聞いて以来、「市民」やら「労働者」やら言うカテゴリー
区分でお話する人が、なんとなく人見下してるよーに感じるよーになってねぇ(笑)

細胞単位わないだろ(笑)

34イカフライ:2004/06/23(水) 19:07
>>32
ヤスツさん、病院行きました?
 風は万病のもとですから、気をつけて早めに直さないと。

「プロ市民」というくくりにいれるつもりではないんですが。
 なんというのかなあ、例えば反戦平和とか、環境保護とか、差別とか、障害者やホームレスへの支援とかって、市井の普通の人々の感覚で出来る事だと思うの、本来。
 で、実際にそういった組織を作って中心的に活動するとなれば、時間やお金を多く費やすだろうから、そういう人は、その会の運営費の中から給料とか貰う事は基本的には問題無いとは思うんだけれど。

 ただ、なんてかなあ、どっか、そういう団体って、市井のパンピーとは一線が出来てしまうような気がしてならないんだよね。

 これは、随分前に触れた「偏った反戦運動」ってことに関してもそうだし、「ボランティアをしたいけれど、プロ市民みたいな人にオルグされるのは、いやだ」という奥様の感覚も当然だと思うし。

35中葉:2004/06/24(木) 05:28
>>31-34
で議論されているような「市民と非市民」の対立と不信とが
愛・地球博 市民プロジェクト
http://www.expo-people.jp/home.html
の表層と底流とにも執拗にはびこっており、今日も3つのミーティングへ出かけます。

でも、逆に見れば、偉大な止揚への前夜かもしれません。(笑)

36緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/24(木) 12:19
>35
はぁ・・・

おれ、「村民」だから関係ないや(笑)

37中葉:2004/06/24(木) 23:20
村民と非村民の対立もありますよ!

例えば、きだみのる「きちがい部落周遊紀行」冨山房

38うろちい:2004/06/25(金) 12:16
非市民ってのは本当はいないんだけどねえ・・
「非市民」が「市民」から市民としての更なる責任を追及されちゃうから「非市民」は市民団体から距離をおくんじゃないかと思います
牧歌的なお恵み感覚でボランティア活動とかしたら痛い目に遭うわけで
「一線」てのはそういうもんだと思うけど
「乗っ取られる」のが嫌なら「市民運動家」を追い出すのもよし、分派を作って独立するもよし
「乗っ取られる」なんて言い分はお門違いの泣き言だと僕は思いますね
僕の大学でもいち左翼組織(僕は所属してない)が自治会占めてたけど、僕は他の学生がだらしない結果だと思ってましたよ
ま、その左翼組織も不器用な点もあったんですけど

39緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/25(金) 12:55
はぁ・・・

要するに、「普通の人」と「おかしな人」ちう区分のことね(笑)
<市民と非市民ちうのわ。

なら、俺わ、普通の人でええや(笑)

40ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/25(金) 14:12
>>34
ご心配ありがとうございますm(__)m
熱はやや引き気味……体調が悪くても仕事は待ってくれない、というところが業種を問わず社会人の辛いところです。

>>38
「乗っ取られるのは泣き言だ」の話。

分派を作ったり総括したり粛正したりというのをバンバンやってたのが、マルクスをかじった昔の学生さんたちで、その人達は「組織を作る、金を集める、人事を握る、障害を排除する」という、手管に長けているわけですよね。
そうして、本来の趣旨(それが反戦であれ、ドブさらいを週に1回やりましょうであれ)と無関係に、組織を「奪って」しまう。
そういうことをする「組織立ち上げ」「組織かっぱらい」人をして、「プロ市民」としているわけです。

結局は、目的に対して組織っていうのは「手段」でしかないんだけど、その手段がないと目的に近づけない、だから仕方なく組織を作る。
でも、組織というのは人間の対抗心を「制御するためのもの」ですから、組織の制御がうまい人間がいないと、組織そのものが成立しない。
ところが、組織の制御がうまい人間は、結局は「組織運営」が主目的になってしまい、目的と手段の転倒をたびたび起こす。
「市民運動」と呼ばれているもののうち、組織がうまくできているところほど、「主目的と手段の逆転」が甚だしい。

結局は、「組織の整備」を徹底しなければできないような目的は、手段を乗っ取られやすく目的も実現しにくい、ということなのかなと考えてみたりしつつ、お薬呑んできます。

41イカフライ:2004/06/25(金) 14:20
>>38

>牧歌的なお恵み感覚でボランティア活動とかしたら痛い目に遭うわけで

 痛い目に合わせるのは誰でしょうか? 要介護者ですか? 「市民」ですか? 市井の非市民の普通の人達ですか?
 確かに人を助ける、なんてのは、甘いもんじゃありませんよ。人間、自分一人を救うのだって必死ですから。
 でもさ、牧歌的じゃいけないわけ? 普通じゃいけないわけ?

42ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/25(金) 14:34
痛い目に遭ったら「ああ、もうこりごりだ。軽い気持ちで他人に手を貸すのは辞めよう」で終了ですね。
そして、「本気ではない、軽い気持ちのボランティアお断り」ということであれば、ますますそういう活動に参加しようかな、という人は減り、垣根は高まり、門戸は狭まり……

斯くして、「弱者?別に関係ないし」という社会がどんどん拡大していくんでしょうかね。

まず自分を救え。
余力があったら他人も救え。
他人を救うために自分を犠牲にしなければならないなら、それはするな。
余力の有無の判断を他人にさせるな。自分の余力は自分にしかわからない。

てことだと思うんですがねぇ。

43ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/25(金) 14:35
というわけで、びよういんにいってきます

44中葉:2004/06/25(金) 14:45
組織に関する話題提供をありがとうございます。実は私の専門なんです。

自分のことを書く前に、先生筋のMITでは今どうなっているかを書きます。
(最初の私の先生はマグレガーでした。今はいない。後輩ばかり。)

Center for Coordination Science http://ccs.mit.edu/ccsmain.html
がベースキャンプ

Inventing the Organizations of the 21st Century http://ccs.mit.edu/21c/
がその中心プロジェクト

リーダーはThomas W. Malone, Patrick J. McGovern Professor of Information Systems, Director, Center for Coordination Science
http://ccs.mit.edu/malone/
人柄は悪くない見たい。つまり、「組織かっぱらい」人ではないみたいだが、分からんね。

彼らの基本理念はWhat do we really want? A manifesto for the organizations of the 21st Centuryらしい。
http://ccs.mit.edu/papers/pdf/wp032manifesto21C.pdf

良く書けてはいる。ただそれだけの話。社会政治分析がないから駄目なのかな?

45緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/25(金) 22:14
>44
分析の前に、無料で日本語で提供してくれ(笑)

組織なんて簡単なことだよ。

1 構成員につながりを持たせる。
2 上級者の命令を、下級者が聞いて実行する。
3 実行しなかった場合には、ペナルティを与える。

それを、どんな手段を持って行うか、ちうだけのことだからな(笑)

46中葉:2004/06/25(金) 22:36
原理は簡単だが実行は困難。
理由は人間には理屈で動かない感情があるから。
問題はそこにある。

実際をご存じないようですね。
それならそれとしてお付き合いしますが。

47ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/26(土) 08:46
>>46
いや、原理が簡単なものは実行も簡単ですよ。
理屈で動かない感情があるというのも問題ではない。
というか、感情は理屈(理論に基づいた刺激方法を試すこと)で変えることができますよ。
感情を理屈で変えられないというのは、感情を変えるための方法論を持たない/知らない人の不勉強だと思っています。

例えば、言葉の選び方ひとつで相手を怒らせ、興奮させ、正常な判断力を奪うような情緒的な状態に置く、という形で「理屈に基づいて相手の感情を動かす」ということは可能です。もちろん、無意識のうちに相手を怒らせるような物言いをする人もいる一方で、意図的にそうした方法を選ぶことは「理屈」によって可能。
逆に、相手が「なぜ感情に左右される状態に置かれているか」をよく観察することで、負の感情ではなく正の感情を引き出すような環境を理屈に基づいて作るということも可能です。

組織を構成するのは人間で、人間は理屈だけでなく感情で動く、というのは、「その組織を制御する理屈が、感情を制御する理屈にまで進化していないから」というだけのことかな、と思ったりするのですが。

研究室の外の実際をご存じですか?

48ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/26(土) 09:18
>>47
補足。

原理が簡単なものは実行も簡単。
しかし、実行の結果、目的通りの結果がきちんと出ないのだとしたら、それは「原理が簡単でも実行が難しい」のではなくて、「原理がきちんと解明されていない」か「原理を理解把握していない」か「原理を実用するためのファクターを把握できていない」のいずれかなのでは、と。
なので、これに対して「現実はそんなにうまくいかないよ」という意味の批判を加えるのであれば、「原理は簡単でも、現実には様々な変動する要素も加わり、原理は常に修正され複雑化するので、単純な原理に見えても実用(実践)では思い通りにならないよ」ということを言いたいのかな、と思いました。

中葉さんのご発言は、「me too.」と言いながら、ご自身の主張については述べられず、「近いことを言っている人の名前と論文のタイトルとリンク」の紹介と感想に留まっておられるわけですが、まるで図書館司書か何かのようですね(^^;)

「原理を解明するのは学者の仕事」
「しかし、解明した原理を実践に活用することは学者にはできない」←様々なジャンルに失敗例が夥しくある
「原理を解明できた学者には、解明した原理を説明(自分なりの理解を発表)することはできても広く理解させることはできない」

そゆことかな、と思うのですが、、、、

49イカフライ:2004/06/26(土) 21:08
組織を作り、それを運営・維持するのは、難しいもんだ、とは、過去の経験から感じるんですが。

 まあ、私の「組織」というのは、NGOや市民団体ではなく、マンガや小説の同人サークルでの経験ですが。

50ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/27(日) 09:21
例えば、3人集まって会(組織)を作ったとします。
会が崩壊しないためには、3人が対立しないことが重要です。
このとき、
「仲良くしましょう」「そうすれば会は存続する」
というのは、原理ではなくて「目標」。
この場合、「(1)会の存続」が優先順位第1位の目標。それを維持するために、「仲良くしましょう」が補助的に機能する。

で、3人が3人とも「会を存続する」ということが優先順位第1位であるうちは、共通の優先順位第1位を達成するために、「AはBが気にくわない」「CはAが嫌い」といった問題は顕在化しません。
が、「嫌いな人とは組めない」が優先順位第1位になると(構成員のうち一人でも)、「仲良くしましょう」は、優先順位第1位を達成するためには機能しなくなります。

同人、趣味のサークルに限らず、NGO、市民団体、思想団体、学術団体、スポーツ団体ですらそうだと思うのですが(テコンドー団体とか(笑))、優先順位第1位を共有できなくなると、組織である必然がなくなりますので崩壊します。
組織が崩壊しないようにするのは、構成者が優先順位第1位を共有できるかどうか、ともうここだけで。

「組織を作り、運営、維持する」というのは、構成者の間で優先順位第一位を共有する必然とリンクします。
組織がいじされなくなるというのは、その組織が不要になるもしくはその組織の優先順位が構成者によって共有されなくなった、ということですよね。
優先順位が共有されていないのに、組織そのものを延命させようとするから、様々な「手段」が必要になります。人事だったり、引き締めだったり、粛正だったり、総括だったりですね(^^;)
この時点で、すでに「目標達成のために組織がある」状態から「組織を延命しないと目標は達成できない」と、手段と目的が逆転しています。
そうなってしまった組織は、まあ構成者の自由意志で捨てていい。
捨てた構成者が新しい組織を作るのも自由だし、残された構成者はまた「同じ優先順位第一位を共有できる新しい構成者」を募ればよい。

このとき、自由意志で構成者であることを辞めることを引き留めないのが民主主義ということですね。
(本人がその気になれば、日本国籍を捨てて他国の国籍を取ることも可能ですよね。地方自治体間の引っ越しの自由は言わずもがな)

「組織の維持が優先順位第1位」なのか、
「組織を利用して何かをすることが優先順位第1位」なのか。
組織の存在意義、原理はもうここだけかな、と思われます。

51中葉:2004/06/27(日) 13:49
>>48 中葉さんのご発言は、「me too.」と言いながら、ご自身の主張については述べられず、「近いことを言っている人の名前と論文のタイトルとリンク」の紹介と感想に留まっておられるわけですが、まるで図書館司書か何かのようですね(^^;)

私に言わせれば、それは当然です。

私は実践にしか興味がないから、実践に必要ならば理論にも興味を持ち、使えるものは使うし、使えるものがなくてどうしても必要なら自分で作ります。

しかし、なるべくは、すでに確立された理論を、なんとかだましだまし使う方を選びます。
私のように、一生応用をやってきた人間はそれが普通です。

それだけでも、私の能力は目いっぱい使ったなあ。それで満足。いつでも死ねる。
それから、応用についての国際的発表も口頭および本としていくつかでき、これも満足。

言うことはないね。

これから後は、万博で恩返しをする。奇矯な理論で自己主張だけはしません。

52中葉:2004/06/27(日) 14:03
繰り返し、私が万博でやろうとすることを確認しておきます。

私は、BIE(博覧会国際事務局)議長に就任した呉建民氏(前在仏中国大使、中国外交学院院長)の以下のありがたいお申し出に日本が対応するよう、全力で支援しています。

現在のところ、この支援業務のためには、新しい独自の理論をひねり出す必要は毛頭ありません。
しかし、頭をひねり、勇気を持って決断し、あの手この手で策を弄する必要は、ものすごくたくさんあります。
丁度、昨日終わった「北朝鮮の核開発問題をめぐる協議」と似ています。

>>4 名前: 中葉 投稿日: 2004/06/17(木) 23:46
>21世紀以降の紛争解決の糸口
>新しいコミュニケーションの方策
>マルチラテラリズム(多国間主義)
>・・・・・
>の観点からも日本の努力を期待、BIEも愛知万博に協力を惜しまない。

53中葉:2004/06/27(日) 14:12
ヤスツさん、こちらでも別スレの以下の条項を適用していただけませんか?

http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2500/1052027621/647
647 名前: ヤスツ (CnaUXqoo) 投稿日: 2004/06/13(日) 06:40
>646
>なるほど、では、まずは目の前の実務に向けてご尽力いただければと思います。

54ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/27(日) 14:37
>>53
ええ、もちろんです。
自分でこれをやると決めて、それに向かって邁進されている以上は、その手を止めてまで意見を述べよと言うつもりはありません。

ただし、誰でも自由に見られる場所に何らかの意見や見解を書き残される以上は、書き残した内容についてまったくの第三者から論評されることもあるし、また意図と異なる解釈をされることもあるし、説明を求められることもあるだろう、ということです。
説明を求められたことに対して必ずしも真摯にいちいち応えなければならない義務があるとは思いません。
その代わり、見解を述べっぱなし、言いっぱなしになるのであれば、第三者から論評されっぱなしも、同じように黙過するしかないかなとも思います。

その上で、実践を優先するというのが中葉さんの意志ですから、それはもう是非頑張って頂ければ、と。

私の興味は、「人の言い分をよく聞く」「聞いた話で理解できたものは、(可能なら)相手(=主張者)に確認した上で、第三者にもこれを【かみ砕いて】言い広める」ということ。
専門家の言い分、論説には非常に興味がありますので、こうして多くの方々の見解を伺う一方、聞いた話をそのまま右から左に流してもまるで理解されないことも身に染みて存じているため、「如何にして元の意図を失わずにかみ砕き、主唱者を知らない人にも理念や論理、理論を共有させるか?」ということに注力しています。

世界平和でも年金問題でも、それにまったく興味のない小学生に対して、小学生自身が持っている少ないボキャブラリでも彼らの同級生に彼ら自身が正しく概念が説明できるようにする。
これが、知識の一般化。
私は、中葉さんやその他の方々とは、また違ったことを実践するために、いろいろ学ばせていただいております。

55三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/06/27(日) 21:30
)ヤスツ氏
理論というものは、あくまでもモデルであって実際
そのものではありません。
自然科学と異なり、人間を対象とする社会科学にお
いての理論に普遍性や絶対性を求めること自体が誤
りなのです。
ですから人間の織りなす社会において絶対平和を達
成する理論や普遍的真理など存在しないのです。

問題は、全ての人間が共有できる価値観も普遍的真
理もない中で、それでも尚どの様にして社会秩序を
造るかと言う事ですか、この事すらも無根拠であり
なぜ社会秩序が必要かと聞かれれば根源的には根拠
などないのです。

そもそもヤスツ氏の『平和理論は、誰が聞いても納得
理解し、実践可能でなければならない』と言いう論理
の根拠からして突き詰めれば『ヤスツ氏が、その様に
思うから』に過ぎない、つまり内在に過ぎず普遍的な
絶対的なものではないのです。

56中葉:2004/06/27(日) 22:53
>>54-55

ご両所の発言内容を歓迎し、感謝します。

57ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/06/28(月) 06:07
>>55
『普遍性を求めることがそもそも誤り』というのも、三毛猫ナナの個人の価値観に過ぎないわけで、その個人の価値観に従って他者である私の価値観を否定される謂われはどこにもありませんが。

仮に三毛猫ナナの『人は誰も価値観の共有などできない』という主張を根拠とするならば、絶対平和、限定的平和も含めて、人間同士が分かり合うことは一切不可能であり、万人が万人同士で殺し合うことによって最後の一人になったときに、そのたった一人だけが平和を得ることができる、ということになりますね。
映画『ハイランダー』はそういう話でしたが。たった一人生き残ることが幸せかどうかというテーマは古今東西多くのSFが扱っていますが、大概は『一人は不幸』という結論に落ち着いていますね。

さて。
価値観も普遍的真理もない中で社会秩序を作るかと言うことですが、『無根拠で必要などないから作る必要がない』というのが三毛猫ナナの意見だとするなら、だったらおまえは死ね、ということになりますね。
無政府主義者である点では、三毛猫ナナはテロリストと質的に同一ですから、『テロリストと接点を探し、共存していくことができるかどうか』を求め考える上では、この上ない材料だとは思います。

別スレで述べている『平和理論は、誰が聞いても納得理解し、実践可能でなければならない』ですが、それについて意見があるならそちらのスレでお願いします。
スレッドフロー式掲示板で意見を別スレに拡散させることに積極的に助力するのは、秩序形成のためのルールを理解できないただの原始人です。
あなたのような存在が秩序形成を阻害するのであり、三毛猫ナナ=無政府主義者的テロリストを排除すると、無政府主義者以外の人間は秩序に一歩近付くことができる、という展望が開けてきます。

無政府主義者は『何らかの強制に基づいた秩序』を厭がりますが、組織なり社会なりというものはその構成者に対して何らかの強制を伴うものです。
その強制が法であったり慣習であったり利益の共有であったりするわけですが、それらの法、慣習、利益の共有をしないで秩序を作る(=私としては秩序形成が対立を暴発させない→安定させる→一定の平和状態になる、に繋がると見ていますが)ということが可能であるなら、その方法を述べてください。
その方法が共有できるなら、無政府主義者的テロリストとの間にも接点を持てるのではと期待しますが。

ともあれ、具体論については別スレ http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/2500/1088069678/ にどうぞ。

58中葉:2004/06/28(月) 12:06
>>45 >>44 分析の前に、無料で日本語で提供してくれ(笑)

>>44 良く書けてはいる。ただそれだけの話。社会政治分析がないから駄目なのかな?

マローンのマニフェストを日本語訳するのはばかばかしいからできません。

ただ、彼の言い分はNHKスペシャル「NHK変革の世紀シリーズ」より、
第1回:国家を超える市民パワー http://nvc.halsnet.com/jhattori/green-net/NHK/henkaku1NGO.ASF
第2回:情報革命が組織を変える http://nvc.halsnet.com/jhattori/green-net/NHK/henkaku2soshiki.asf
などを参照してください。

その中でマローンとドラッカーはこんな風に言っています。

トーマス・マローンは以下のように言っています。
“これからの情報化時代の組織では、一人一人に大量の情報が入り、一人一人がその情報を咀嚼し、決断を下さなければならなくなる。
上司は概略の方針は決定するが、個々の決定は部下が決定し、責任を取らなければならない。
日本の組織では、伝統的に部下は上司の顔色をうかがい、独自の意見の主張は許されない風土があった。
これから、どのようにして新しい組織や意思決定スタイルを作っていくか、非常に興味深い。”

ドラッカーは以下のように言っています。
“21世紀には、「知識」に基づく労働と「知識」に基づく組織へと移っていく。
その結果、管理層の階段の数は著しく減ってくる。
今までの中間管理層の仕事は、単に情報の伝達だけであり、事実上、物も人も管理していなかった。
今後、「組織」の構造モデルは抜本的に変革されるはずで、すでに幾つかの兆しが現れ始めている。”

59緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/06/28(月) 13:37
>58
なるほどね。
つまり、「知らなくてもいい人が知ってしまい、考えなくてもええ人が考えるようになるから、今までみたいにわ人を騙せなくなるよぉ」
ちうことだな(笑)

あと、「中間管理者がいらなくなる」についてだけど、コンピュータネットワークなどの「ハイテク機能が常に保障されている」
ことが条件になるね。

例えば、軍隊の例を出すと、総理大臣の目の前に、巨大なディスプレイがあって、中隊レベルくらいの戦況がすべて確認できて、しかも
直接命令が下せるならば、大隊長以上の指揮官わ必要なく、究極の「シビリアンコントロール」が可能になる(笑)
<大隊長以上の幹部わ、すべて幕僚作業ちう実務だけで良くなる。

でも、そんな軍隊わまだ存在しとらんがね。

60中葉:2004/06/28(月) 15:08
>>59 でも、そんな軍隊わまだ存在しとらんがね。

だから意欲的な国、意欲的な企業は、開発と導入・実用化にしのぎを削っている。

日本は面白い国で、どこかやったら、あるいは、どこか成功したら要領よく真似て追いつけば良いと思っている。

これからその手は使えないことを知ってか知らずしてか、わからないが。

万博でもそのような面白い光景が展開されるに違いない。
実際、21世紀の万博は、その意味で面白い。ハノーバーもそうだった。日本の次の上海もそうなるだろう。

61三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/06/28(月) 21:16
)ヤスツ氏
>>57
ヤスツ氏の意見は価値コミットメントですが、正しい
価値の共有と社会秩序の維持は別問題です。
ホッブス問題の解決は価値の合意によってなされてい
るわけではないのです。
そもそも『正しい価値』とは何かについて全員に納得
させる方法などありません、行き着く先は排除か教化
です。更に言うと正しい価値は何かを話し合う前提は
何かについても更に話し合いが必要という悪循環に陥
ります。
だいたい『絶対平和』とか『普遍的真理』って何?
これはヤスツ氏の内在以外の何物でもないでしょうが。
『天上天下唯我独尊、大道無難唯嫌選択』が示す様に
人は自らの内在を越えられないのです。如何なるもの
も自らの認識の産物なのですから。
それをさも内在を超越した真理があると言うのも内在
に過ぎないのです。

62中葉:2004/07/02(金) 16:53
今のところ、私の万博での企画書は以下のような感じです。ご批判をお願い。

シンポジウムⅠ:「環境」(2005年7月8日10時から)
<内容>
・国連ミレニアム宣言とエコ・コミュニティ(人間の安全保障を含む)
・社会システムとしての市民参加(市民・企業・政府、グローバル・ムーブメントへ)
・物づくりの知恵を和の知恵、さらに自然の叡智として再発見
・自然と人工物(IT)との調和・融合は可能か?

<発表形式>
シンポジウム

<その他イベント>
・インターネット上での討論(会期前、会期中)
・会期前プレワークショップ(国内・国際、数回)
・会期中ワークショップ(平和宣言の事前3回、事後3回)

<協力者>
学識者
関心を持つ、または活動経験のある市民、NPO、NGOなど

63ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/02(金) 17:12
>>61
さてさて。

「絶対平和」を求めているのは、本来は私ではないということは憶えていますか?
あなたには長期記憶はありますか?
念のため繰り返しておきますと、私自身のスタンスは、

・絶対平和は達成不可能
・限定的安定(時間、または限られた地域内での限定的安全保障)は達成可能
・限定的安定は、共同体(物理的に同一近接地域内で平行的に生活している)の構成員の個々の価値観の相違を「互いに共通化、平均化【することなく】」、何らかの権力(強制力)によって制限することで実現可能
・共同体(物理的に同一近接地域内で平行的に生活している)の構成員の個々の価値観の相違(を、相手に対して相互に強制しあうこと)を優先した場合(強制力による個人の制限)は限定的安定も達成不可能
・構成員の個々の価値観の相違を制限しないで限定的安定を達成するには、構成員同士の物理的な距離を遠ざければ可能

ということですが。まさか忘れているんですか?
あなたとこうして話をするようになって、もう1年以上経つというのに。

「人類は絶対平和は獲得できない。経験から得た教訓を、人類全員が等しく共有する具体的手段が現時点で存在しないからだ」←大前提
「一国内、一地方自治体内、一家族内、一夫婦内などの限定的な地域内での平和は、部分的にであれ実現できる(価値観が共有できるか、共有できなくても相手に干渉しなければ)」

その上で、「絶対平和」も「普遍的真理」も、本来は私自身が追い求める主張ではないということを、まさか忘れているんじゃないでしょうね?
むしろ、私のスタンスに歩み寄れない方のために、私の主張を一時棚上げして、「ではどんな方法が?」という思考実験をしてさしあげているんですが。

一方で、ある種の「真理」というのは存在しますよ。
例え三毛猫ナナが同意しなくても、E=MC2ですし、水=H2Oです。
つまり、こうした真理には「同意は不要である」ということ。
「EはMC2じゃない!」「水はH2Oじゃない!」と唱えるのは三毛猫ナナの自由ですが、あなたが否定してもその事実は変わらないでしょ?

で、私が述べている(もしくは、「もしかしたらあるんじゃないかな?」という前提で、試しに考えてみよう、と提唱している)ところの、「絶対平和を達成する方法」なりなんなりというのは、「第三者の同意を必要としなくても、実現できる方法はあるか?」という思考実験に過ぎません。

まあ、あなたはそういった「遊び心」や「自分の主張以外のスタンスに立った思考実験」っていうのはできないイキモノだということはよくわかっていますから、別に何の期待もしていませんよ。

64ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/02(金) 17:13
>>62
見出し内容が曖昧すぎて、内容について批判できるほどではない、としかお応えようがありませんでした。
申し訳ありません。

65ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/02(金) 17:17
>>63
三毛猫ナナのために一応補足しておきますが、

「絶対平和」=「恒久的永久的に制限なく永続し、地域の広狭なく適用可能で、その適用を受ける構成員の性別、年齢、経験に条件が付かなくても成立する平和」

ってことで。

そんなものは、生まれたての赤ん坊から死ぬ間際の老人に至る全人間が、永久の記憶を共有できない限り実現不可能です。
学者、研究者に理解できても、幼稚園児に理解させられないものは共有できません。
理解できないものにも恩恵を与えようと思うなら、同意を得なくても強制できる「上位権力」がなければ不可能。

まさかそれもわからないんじゃないでしょうね?

66イカフライ:2004/07/02(金) 17:19
>>62

 64とも重なりますが、それぞれの細かい内容が解らないので。

 人間の安全保障を含んだエコ・コミュニティなど興味はあるのですが、それが具体的にどういう形になるのかな?によって評価は変わってくると思い間S。
 まあ、特に私は、足元からなどと言うと聞こえは良いですがあなり観念的な思考が苦手なので。
(単純に頭が悪い、ってことです)もっと具体的な説明は欲しい、とは思います。

 あくまで見出し、という感想ですので。

67中葉:2004/07/02(金) 22:25
>>64 見出し内容が曖昧すぎて、内容について批判できるほどではない、としかお応えようがありませんでした。

>>66 64とも重なりますが、それぞれの細かい内容が解らないので。

内容は登壇者が誰になるかで決まりますが、その人はまだ不明です。

私を含めたこれからの学習に懸かっています。

68中葉:2004/07/05(月) 13:23
>>4 それにしても、呉建民氏(前在仏中国大使、中国外交学院院長)は何を考えているんだろう?
>21世紀以降の紛争解決の糸口
>新しいコミュニケーションの方策
>マルチラテラリズム(多国間主義)
>・・・・・
>の観点からも日本の努力を期待
>BIEも愛知万博に協力を惜しまない
>
>とは何を言わんとしているのだろう??
>考えれば考えるほど奇々怪々!

考えるまでもなく、情勢は激しく動き始めているようだ。

2004年5月18日に東アジア共同体評議会が設立された。
http://www.ceac.jp/
http://www.ceac.jp/whats-new/040518-3.html

2004年7月22-23日に第3回「日・ASEAN対話」
「東アジア共同体へのロードマップ 」
http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/asean.htm
が開催される。今日が一般参加の締切りだから、私は申し込みましたが、定員20名ですから厳しいです。

69三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/05(月) 21:08
>>63
)平和
平和を語るなら、まず私と貴方の間に言葉の
コンセンサスが必要となります。
これは、価値の合意を目的としたものではな
くコミュニケーションを継続させる為にお互
いの用いる言葉の意味を確認しているのです。

ヤスツ氏の書き込みから察するに、貴方の『
平和』とは『我々を守る為に我々ならざる者達
を抑圧もしくは排除する状態』を指しているの
でしょうか?
その点を明確にして下さい。

)真理
『もしかしたら?』も何もありません。
『ないものはない』のです
自然科学と社会科学を混同されない様に。

70ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/05(月) 22:08
>>69
そちらからお先にどうぞ。
あなたの後出しジャンケンには辟易してますし、あなたが私を理解するよりは、
私があなたを理解するほうが話の進みが早いですからね。

71ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/05(月) 22:10
平和の定義についてはこれまでに何度となく提示していますし、
発表した文章もまとめてありますよ。
三毛猫ナナの主張をまとめた「まとめページ」はどこかにないんですか?
「過去ログ嫁」ですか?(^^;)

できれば箇条書きでお願いします。
番号付きでね。

72三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/06(火) 20:45
)ヤスツ氏
>>69の質問は、ヤスツ氏の指す『平和』とは
『我々を守る為に、我々ならざる者を抑圧もし
くは排除する状態』か?と聞いているのです。

『全ての者に平和をもたらす事は不可能で、その
様な方法がない』から『僕は、我々を守る為に、
我々ならざる者を抑圧もしくは排除することは正
しい』とするのがヤスツ氏の指す平和ですか?
と聞いているのです。

方法の有無やカテゴリーを理由にして責任逃れを
するのではなく、ヤスツ氏自身の自己決定におい
て『自己と他者を理念としては等しい事を認める
か?』『我々を守る為に我々ならざる者達を抑圧
もしくは排除することは正しいと言えるのか?』と
聞いているのです。

73ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/06(火) 23:35
>>72
そんなことは言っていませんし、私の趣旨を誤読していますね。
貴方が私の主張を正しく理解できるまで先には進めませんね。

まず、前段は私の主張ではありません。

中段は私の主張を誤読しています。

下段は誤った理解(誤解)の上にあるので、解答する必然がありません。

以上ですね。

74ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/06(火) 23:36
あなたは「安全」と「平和」の区別が付いていないんでしょう?
あなたの考える「平和」と「安全」の違いについて伺いますが、腹案はありますか?
私は平和と安全はまったく別の状態と考えています。
その上で、「平和を希求することは不可能である」が、「安全を希求することは可能だ」という立場を執っているのです。
その違いが理解できなければ先には進めませんよ。

75三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/07(水) 00:48
>>74
『安全を希求する事は可能である』とは『誰』の安全
を指しているのか?
対象は『我々』のみで『我々ならざる者』を含まない
のか? それとも自己も他者も全て含むのか?

76三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/07(水) 01:01
>>74
)誤読
ヤスツ氏はマクロレベルにおいて平和は無理だから
ミクロレベルにおいて平和を成そうと言われている
わけです。
その結果ミクロレベルにおいて合理的な判断をした
結果、マクロレベルにおいては正反対の結果を生む
事になります。『合成の誤謬』ですね。

77ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/07(水) 01:08
以前にも、「平和とは、戦争と戦争の間隙にある一時的な状態に過ぎない」という説を述べたことがあったと思いますが、まあ覚えてないんでしょうね。

さて。「安全」というのは、最小単位で言えば個人でしょうね。最大単位で言えば、今のところは国家となります。
安全というのは常に「安全を脅かす相手」がいることが前提になっており、相手を何らかの方法で排除する、駆除する、消滅する、無効化することが、自分及び自分と同じ側にいる者の安全を保証する、ということになります。
「安全が得られた側」が個人であれば「安全は安全」、安全を得られた側が二人以上の複数であったならば、「安全を得た側の複数の人間の間に、平和を生子させる土壌が生まれる」です。

安全を脅かす相手との間に、対立を消滅させるなどの解決が図られれば、その特定の相手との間には「安全保障」が得られますが、それをすべての「自分以外」との間に成立させることは不可能です。

となれば、「全人類の平和」(=対立する相手がいないこと)という実現不可能なことは、「最終的な到達点」であるわけで、その手前、その第一歩の「安全保障」を考えることのほうが優先だし急務ということになります。


ただ、「安全保障を得るための方法」が、必ずしも「相手を消滅させる」ということだけではありません。
対立議題さえ消滅すれば、極論すれば相手が消滅しなくてもいいわけです。
しかしどちらも譲らない、相手も譲らない、こちらも譲るわけにはいかない、ということになりますと、問題は消滅させられず、対立相手を消滅させることでしか、「自分の安全」を計ることはできなくなります。
まあ、それが戦争だと思うわけですが。

で、ここで問題です。
「平和を希求する」というのは、「対立する相手Aの安全について、対立している本人Bが考慮する」ということです。
これは、AとBが双方同じ考え(この場合、対立の回避が最優先)になっているなら、「対立を回避するために問題を消滅させる」という合意も可能かもしれませんし、いわゆる「双方が平和」な状態も得られるでしょう。
しかし、A、Bどちらか一方が同意しない場合、一方だけが相手のことを考慮していても、もう一方が相手を考慮しなければ、まるで無意味になってしまいます。
そうなると、「平和(=それに拘わる全員の安全)」は得られず、どちらか一方の保身のための「安全」までしか得ることができなくなります。

考えるべきは、「自分が死んでも自国が滅んでも、自分と対立する相手が生き残ることを選ぶ」ということではありません。それは自殺でしかありません。
まず第一に「自分が生き残る。対立する相手に対して自国の安全が図られる」ことが最優先で、相手国の安全は【次善でしかない】ということです。
自国の安全が図られた上で、相手国の安全も保証されるのがベストでしょう。(所謂集団安全保障というのはそういうものでしょ?)
が、相手との間にそういった同意が得られない場合は、あくまで「自国の安全」が優先事項であって、それ以外は「どうでもいいわけではないが、優先順位は低い」となります。

と、あんまりたくさん説明すると理解できないんですよね。
少し戻りましょうね。

「安全を希求することは可能である」というのは、あくまで「自分」「自国」です。同じ考えを持つ共同体でもいいですよ。
その上で、「我々」というのも、「自分とそれが属する共同体」までが「我々」の範囲。日本語としては普通はそうなんですが。

対立する相手、相手国というのは、「彼ら」ですね。そして、「安全について考える」場合は、安全の恩恵を第一に受けるのは「我々」です。
「彼ら」の安全は、我々の「次」です。
結果的に我々と彼らの双方に安全がもたらされる場合でも、優先順位で言えば「我々」の安全の獲得が先です。
相手が先、ということであれば、それは自殺でしかない、ということです。何度も言いますが。
双方同時に、と言いたいのでしょうが、「優先順位」というものを考慮するなら、名簿の先頭にはひとつの項目しか入れることはできません。そのとき、相手と自分のどちらを優先するかと問われたら、優先するのは自分、自国である、ということです。

78ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/07(水) 01:15
>>76

マクロレベルにおいて平和は無理だし、ミクロレベルになるとそれは平和とは言わないのでは?

限定的平和というのは「安全」とどう違うので?
平和というのは、「全面的平和」以外にあるので?

ミクロレベルのそれはあくまで「安全」であって平和ではありません。
そして、安全は達成可能だけど、平和は達成不可能な目標です。
私が求めている、「ミクロで実現可能なことはマクロでも可能」ですが、マクロ=全部じゃないですよ。
マクロも、結局はマンデルブロー集合のごとく「さらに大きな全体の下部構造」でしかないと思いますが。

その意味で、「地球が平和になるためには、宇宙人(他の何かに書き換えてもけっこうですが)という脅威が人類の共通了解事項になるしかない」というのが私の持論で。
この場合も、「宇宙人」という上部構造を設定することで、地球全体というマクロが、「全体」は指し示さなくなるわけです。常に無限に「外」「上部構造」がある、ということ。
では、宇宙人との間に「平和」は成立するか?という設問に移ることになるわけですが、地球人と宇宙人を内包するさらに別の上部構造があれば或いは、ということになります。
この場合も、ミクロレベルでの「安全保障」は、上部構造にシフトして見かけ上の「マクロ」になっても、なんら変わらないわけです。

で、現状では地球を侵略する宇宙人は出てきませんから、地球人にとって共通の脅威を持たない限り、地球人が全てを棚上げして一致団結することは不可能だろう、と。
そういうことを踏まえた上で、ではどのような「脅威を共有できるか?」または「安全を共有するために、【同じ側に立つ】ためにはどのような敵を設定すればよいか?」ということを質問しているわけですが。

79中葉:2004/07/07(水) 05:21
>>1 昨年12月にBIE(博覧会国際事務局)議長に就任した呉建民氏(前在仏中国大使、中国外交学院院長)は「大阪万博以降、低調傾向にある万博運動を盛り返したい。
21世紀以降の紛争解決の糸口、新しいコミュニケーションの方策、マルチラテラリズム(多国間主義)の観点からも日本の努力を期待し、BIEも愛知万博に協力を惜しまない」と語ったとのことです。

昨日7月6日の朝日新聞に緒方さんへの朝日の記者のインタビューが載っています。
国連の組織改革を目指して提言すると共に、日本人の貢献への期待がよく判ります。

ポイントは3点です。日本について2点、国連について1点。

1.この3週間、アフリカを回ってきて、日本のこれまでの援助が人づくりや
社会づくりに役立っていると実感しました。国連加盟国の大半を占める途上
国からは、日本への期待と信頼は高い。援助大国としての実績も蓄積もある
のに、日本国内ではそれが十分に評価、認識されていない。これだけ、相互依存が進んでいるのに、非常に狭い国益論議が横行しています。

柴田コメント:私が終身会員となっているアジア保健研修所
http://www.jca.apc.org/ahi/
が長い間続けているミンダナオ・イスラム自治区での活動「フィリピンニューコレリア町持続的地域総合開発計画(SIAD)」
http://www.cadi.ph/SIAD_Poverty_Eradication.htm
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hyouka/kunibetu/gai/philippines/gd02_01_0804.html#k4
素晴らしい実績の事例です。しかし、深みに入っていくほど、難しくなり、
危険になってくるので、7月16日には会員有志が集まり、これからどうしよう
かという方針会議を開くことになっています。もう止めようか、という相談
です。

2.(日本は安保理常任理事国入りを目指しているが、)せっかく常任理事
国になっても、国連システムが改革・強化されないと、役割が十分に果たせな
いかもしれない。まず日本自身が、国連の可能性をどのようにとらえ、平和
と安全保障についてどのような国連の見取り図をつくっていくかを示さなく
てはならないでしょう。

3.援助にあたる文民がテロリストに狙われやすい目標になっている。主権
委譲後もその状況は変わらない。イラク攻撃で存在意義を問われた国連は、
復興支援でも試練が続く。今後、国連がどう対応して行くのか。こうした
問題意識から、国連改革をテーマにアナン国連事務総長が昨年、発足させた
のが6,7の両日、京都で開かれている国連改革に関する諮問委員会(アナン
委員会)だ。

柴田コメント:今日がアナン委員会の2日目です。その午後参加者の一部が
我々のシンポジウムに出席してくれるのです。また、この委員会の問題は、
本質的に、私たちが16日に考えなければならない問題と同一です。

80中葉:2004/07/08(木) 05:20
>>79 今日がアナン委員会の2日目です。その午後参加者の一部が我々のシンポジウムに出席してくれるのです。また、この委員会の問題は、本質的に、私たちが16日に考えなければならない問題と同一です。

やはり期待通りでした。私の評価は近いうちに書き込みます。

81中葉:2004/07/08(木) 15:53
要点だけご報告します。シンポジウムの進め方は
平成16年度人間の安全保障国際シンポジウム「人間の安全保障と国家安全保障」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/event/h_anzen16.html
に従って定石どおり、基調講演、パネリストによるプレゼン、パネル討論、
質疑応答と進みました。全体は3時間で、丁度よい時間だと思いました。

シンポジウムが効果を挙げたのは「パネル討論」が非常にうまく展開たから
でした。要はシンポジウムタイトルの「人間の安全保障と国家安全保
障」のポイントをどう絞り込み、それを聴衆の実行にどう結びつけるかで
す。実際、最後の質疑応答で「私に何ができますか」という質問が何人か
から出されましたから、聴衆のレディネスは十分でした。

非常にうまく展開した「きっかけ」を作ったのは司会の石川外務省国際
社会協力部長でした。彼は「パネル討論」のキーワードとして、人々、
国連憲章、連帯(平等が大切、押し付け・チャリティでなく)、参加など
を挙げ、これらが紛争などの場面での問題である、と適切に場面設定を
しました。(以下、議論の展開をてみじかにします。氏名の所属は
上記外務省の予告を参照してください。)

「クマロ」連帯の動機付けは何か?京都はいいが、ブルンジでは?「緒方」
京都の人は幸せだが、それは幻想。しかし、連帯が必要だと思っているだろ
うか?「サディック」連帯の言葉だけで行動がなければ意味ない。日本は
やっているが、謙虚過ぎる、もっと挑戦的になって欲しい。「北岡」NY
に住んでいると、聞こえるのはアフリカの話が多いが、行動しているのはヨ
ーロッパの国々。しかし、彼らはヨーロッパ流儀を押し付ける。明治以降の
日本の援助は謙虚だけでなく挑戦的なこともやった。失敗もある。これから
は、その反省に立って日本的貢献をするべき。「ソアレス」連帯は悲しみの
共有だけではない、援助だけではない、ラ米では若者の方か高齢者より連帯
できる。「クマロ」押し付けでないパートナーシップでなければ、価値の
ある連帯が必要。「サディック」アフリカの話が多いが、アジアを忘れて
はいけない。AIDSはアジアも多い。「北岡」特権的な援助が多いが日本は
ちょっと違う。連帯を進めるには他文化への尊敬が必要。「石川」アジア
が話題にならないのはGNPが上がったからかも?これからフロアの若い人の
発言を中心に思考プロセスを続けたい。(各国大使の発言が続き、その後
の若者の発言も答を求める質問に終始。)「エチオピア大使」今国際社会
の援助からの撤退傾向がある。ドナーの疲れか?これからの連帯の推進に
は両者の相互利益が必要。相互安全保障が日本の利益ではないか?「ウガ
ンダ大使」人間中心・参加型開発が必要。「クマロ」ドナーは首都までしか
行かなかった。末端の人々と話さなければ援助は間違う。アフリカ人は問
題も方法もしって居る。手段がない。一緒に考えれば自分のものになる。
人々を巻き込まないのがいけなかった。「緒方」相互依存を理解するように
なり、アジアは前進した。

中葉コメント:
緒方さんの言うように「人間の安全保障」の普及啓蒙はある程度終わった。
これから実行の段階。しかし、啓蒙と実行と組み合わせた形での推進が
必須である。これが逆に緒方さんの泣き所であり、これから市民が自主的
にリードしなければならない。しかし、至難の業!

これこそ、市民プロジェクトがブレークスルーするべき課題であり、その
可能性を示した場合にはじめて、緒方さんもNGOも一般市民も、万博の
我々のシンポジウムや、地球市民村や、愛知県のエコ・コミュニティ展示に
殺到してくれるだろう。

とりあえず私は、上記見聞をも参考にしながら
第3回「日・ASEAN対話」「東アジア共同体へのロードマップ」出席
http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/asean.htm
地球市民村出展「おかざき匠の会」の準備の手伝い
http://www.infomart.or.jp/okazakitakumi/top/top.html
地球市民村参加団体へシンポジウム「地球に生きるものの使命」参加要請
http://www.global-village.expo2005.or.jp/jp_noflash/p03.html
http://www.expo-people.jp/projectlog/details/project_details.php?pid=23
などを進めつつ、国内・海外への一般的な呼びかけも強めて行きます。

82三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/08(木) 20:38
>>77
つまり『我々を守るために我々ならざる者を抑圧
・排除する状態』を『ヤスツ』氏は『正しい』と
宣言されるわけですね?
それを達成する為に、実践する行為を指して『平
和造り』(安全造りでも構いませんが』と『ヤスツ』
氏は呼ぶわけですね?

>>78
それは『排除の論理』であると、以前説明した通り
ですし、排除を行い価値の共有を達成することによ
り社会秩序を維持・安定させようとするのは非現実
的としか言い様がありません。

私は以前から何度も指摘しましたが、ヤスツ氏の内
面には他者を排除する欲望があり、その様な考えを
抱く前提に価値コミットメントを普遍真理と捉える
知的不誠実があるのです。
ニーチェが『真理には普遍性はなく、最も深みのあ
る嘘である』と語っている様に、真理は人為的に造
られたものに過ぎず、何度も書き替えられ続ける非
普遍性なものに過ぎないのです。

83ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/08(木) 21:55
>>82

平和と安全を混ぜている時点ですでに落第です。
それ以後の部分はすべて解答する必然がありません。

が、優しいから答えてあげましょうね。

「自分(=我々)を守るために、自分以外(=我々ではない)を抑圧・排除する状態」

は、「自分(=我々)」にとっては、正しいんです。
間違いなく。何の疑問もなく。
これは、「自分を救済する、または自分の安全を守る」という問題を「問題A」とした場合、問題Aにおいて、この選択は何の疑惑もなく正しいんですよ。
「相手を救済する、または相手の安全を守る」という問題を「問題B」としますが、問題Bは、あくまで「問題Aが解決された場合に、慈善的に考えること」です。

安全というのは、「平和」とはまったく違います。
安全というのは、対立や競争、戦争が起きた(起きうる)場合に、当事者のうち一方が限定的に得られる状態です。
対して「平和」というのは、当事者の全員が安全を得られる状態でしょう。

最上の状態、ベストは「当事者の全員が等しく安全を得られる、平和という状態」なのでしょう。
しかし、一足飛びにそれを目指すことは不可能だと何度となく申し上げました。
また、「自分自身の救済、安全の確保を蔑ろにして、全体の平和を求める」というのは矛盾した行動です。
「自分自身の救済、安全の確保を放棄することで、自分以外の安全、平和を実現する」というのは、ただの自殺行為です。
そして、自殺行為に荷担する人間に、安全の確保や平和への努力は不可能だと言っているのです。

私個人の信条を申し上げれば、「まず自分が安全であること。自分に与する存在が安全であること。その上で、自分と対立の恐れがある相手も安全を得ること」と、安全の確保には優先順位があるということです。
例外として、「自分の愛する者を先に助ける。その上で自分も助かる」などのように優先順位が入れ替わることはあるかもしれません。
しかし、その場合でも、「自分と対立する敵を先に助け、その後に自分もしくは自分の愛する者を助ける」といった順位の逆転はあり得ない、ということです。
全部取りはできないのです。必ず「順番」があるのです。

優先順位の決定には、必ず「1位になれない2位以下」という存在を生み出します。
沈没しかかっている船があるとき、道義的問題を別にするなら脱出すべき第一位は自分です。
この意見は「自分が助かれば他はどうでもいい」とイコールではありません。
そういうところで「自分の思い通りではないから、すべて二者択一」というのはタダの考えなしのすること。
ですが、「自分を救済する可能性」は捨ててしまってはいけません。
特例的な要素がない場合で、自分以外の要素が「対立相手」しかない場合は、優先順位の第一は自分です。

これは排除の理論では

                   あ り ま せ ん。

84ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/07/08(木) 22:00
ここまでの「優先順位の問題」は、「択一」や「排他選択」ではない、ということは判って頂けたかと思いますが、これまでの経験で言えば三毛猫ナナは「排他選択」と「優先順位の確定」の区別が付かない(平和と安全の区別か付かないのと同程度に)ので、理解できていないでしょうね。

そして、他者を排除する欲望があるのは、私ではなく三毛猫ナナのほうではないですか?
自分の理論にそぐわないものは、すべて「排除」の方向でしょ?
私は自分の主張と合わないものでも、排除する意図はありませんよ。
優先順位が2位以下になる、というだけのことで。

だから何度も言っているのです。
「安全を得ることは実現可能だが、平和は実現不可能か、それに限りなく近い」
と。
それは私の現時点で到達している理屈ですが、もちろんそれが最終到達点だとは思っていないから、
「その他の方法で、安全と同時に平和を得る方法があるというのなら耳を傾ける用意がある」
と言っているわけですが。
「普遍的平和」は夢物語です。
が、夢を語る人を切り捨てるのではなく、そのテーブルに就いてみましょう、という試みをしてもいいと思っています。
自分に合わないものを何から何まで排除しようという、「排除の理論」の権化になっている、三毛猫ナナには理解不可能でしょうけれどね。

85三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/09(金) 21:04
>>83
)自分にとっては、正しいんです。間違いなく。
)何の疑問もなく。

これは、あくまでヤスツ氏が『正しい』と思って
いるだけであり、これを普遍真理の様に取り扱う
発言は誤りです。
現に三毛猫ナナは、その様な選択をしても、その
決定が正しいとは思いませんし、間違っていない
とも断言しませんし、決定の正しさに対して疑い
を常に抱いています。

)排除の論理ではない
いいえ、ヤスツ氏の論理は排除の論理そのものです。
『理由があれば排除ではない』とするならば『理由
があれば人を殺しても人殺しにならない』となりま
すが、これは論理破綻しています。

>>84
人は区別なしには生きられません。
如何なる決定も抑圧と排除を必ず生みます。
だからこそ決定に対して疑いを持つ必要性
があるのです。
暫定的に実践主義的に下す決定の暫定的な妥当
性を信じつつも、その決定に疑いを持ち自らの
手で決定により設けた境界を引き直す、、、求
められるものは、絶対的な正しさでもなく、際限
なる迷いでもなく、この二つを兼ね備えて自らの
下した決定を書き替え続ける事なのです。

86「バカの壁」のファン:2004/07/09(金) 22:24
>>85
は養老猛司の「バカの壁」のテーマと似てるなあ。
絶対的な正しさを信じることを原理主義っていうんだろ?
あの本によると。

87うろちい:2004/07/10(土) 10:24
>>86
原理主義というと特殊な感じがしますが「バカの壁」だらけですね、世の中。
自分の選択に無自覚・無反省な人の多いこと。
掲示板を利用して議論をするようになって特に意識するようになりました。
あらためてネットの外を見回すと、これまたそういう人の多いこと。
同じ選択を共有する人たちの間ではその無自覚・無反省は壁じゃないけど、
共有しない人との対話でも無自覚・無反省ままでいちゃうのは頭が固いとしか言いようがありません。
論点が存在すること自体に気づいてもらうのに苦労します。
たまに、すぐに論点を認識してもらえる人に出会うとホッとします。
せっかくこういう本が出たので「バカの壁」が広く読まれることを願っています。

88三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/10(土) 23:36
>>86
私は別に大層な事柄を述べているわけではあり
ませんよ。
私の言説は特定の価値が自明で普遍と思い込ん
でいる人達に『自明とされている事など幾らで
も批判し覆すことができるのですよ』と述べて
いるに過ぎないのです。

養老氏のお考えは存じませんが、私に関して言
えば、私の言説の要旨を曲解して抑圧の道具と
して使われるのは勘弁して欲しいですね。
(以前に何度か触れましたが理論というものは
モデルに過ぎませんが、これを普遍真理と思い
込む理解力と基礎教養を欠く者が、理論を使うと
禄な事にはならないのです)

89三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/10(土) 23:51
>>87
仰る通りです。
敢えて、差しでがましく付け加えるなら『なぜ、
彼らの頭は固いのか?』『どの様な前提があれ
ば彼らの頭を解きほぐせるのか?』を考える必
要性があると言えるでしょうね。

90緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/07/13(火) 07:17
>89
頭固い奴の頭解きほぐそうとしてないだろ(笑)

もし、そんな気が少しでもあるんなら、「戦略的本質主義」などと言うわけわからん
言葉なんぞ使わんだろうてねぇ。

あたま、だいじょぶかえ?

91中葉:2004/07/15(木) 16:39
東アジアの安定は日本の安全保障にとって最重要問題だと思います。

2010上海万博の直前の2005愛・地球博市民プロジェクトで平和問題を討議する準備を進めている私としても最大の関心事です。

2004年7月22-23日に開催される第3回「日・ASEAN対話」「東アジア共同体へのロードマップ 」 http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/asean.htm に私も出席することとしています。

先ほどその準備のために東アジア共同体評議会設立総会の記録 http://www.ceac.jp/j/whats-new/040525-2.html を見たのですが、その末尾に添付されている映像記録に中曽根康弘会長の挨拶が収録されています。

お時間があったら、是非ご覧下さい。

東アジアで我々日本がどのような立場・政策を採るにせよ、その前に慎重な政策検討が必要なことは言うまでもありません。その意味で、興味深い動きが垣間見えます。

92中葉:2004/07/20(火) 11:11
今朝(7月20日)の朝日新聞に梅原猛さんの反時代的密語「東アジア文明の
語るもの」が半ページで載っています。その一節。

“他者の信じる神を認める多神教は、人類の平和共存を図るためにも一神教
よりはるかに有効な宗教であるように思われる。一神教は、森が破壊されて
荒野となった大地に生まれた種族のエゴイズムを神の意思に仮託する甚だ
好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の
永久の平和は不可能であると私は思う。”

93中葉:2004/07/29(木) 22:49
重要な公式文書だと思うので、
「市民参加拡充に向けた協会メッセージ」の一部を引用しておきます。
http://www.expo2005.or.jp/jp/whatsnew/2003/030421_03.html

2. 博覧会の理念〜なぜ市民(NPO/NGO)なのか

愛・地球博は、21世紀の人類が直面する地球的課題の解決の方向性と人類の生き方を発信するために、多くの国々の参加のもと、地球時代の新たな国際貢献として開催するものです。21世紀の人類が抱える多様な問題の解決方法を、“自然の叡智”に学ぶ様々な文化を世界中から持ち寄ることにより、新しい文化・文明の創造、地球大交流を目指します。この挑戦的な試みは、世界平和の実現と維持にも寄与するものと思います。
これまでの博覧会が常にその時代の最先端を紹介するショーケースであったと考えると、現代において市民やNPO/NGOの社会を構成する重要な要素としての役割が芽生えはじめており、この博覧会の理念を実現するためには、新たな市民参加のあり方、さらには地球市民としての連帯のあり方を世界に向け発信することは大変重要です。
その意味で愛・地球博では、国家や企業と並んで市民やNPO/NGOなどの地球社会を支える多様な人々の参加による幅広い交流の場を提案しており、協会が市民参加を語り、また参加を呼びかける際には、「21世紀を動かす時代のエンジンは市民である」と強調しているのです。


博覧会の市民参加については、(1)開催の是非に関する市民参加と(2)開催を前提にどのような市民参加を実現するかを区別する必要があります。執行機関としての協会の立場からすれば、(2)の議論をさらに活性化して、市民参加の価値を最大限に高めることに軸足を置いていることはいうまでもありません。しかしながら、従来この両者が混同され議論が混迷してしまうケースもあったと思われます。我々としては、(1)の議論は後に述べる市民参加の一般ルールの集積に収斂させることがより現実的な対応であると考えます。


我々がこのような市民に期待するものは、21世紀の地球的課題や社会的要望に対して、いわゆるヒエラルキーを前提とする既存の枠組みでの発想とは異なった、柔軟な対応ができる潜在的能力です。
このことは決して市場や政府機能の隙間を埋め合わせるだけの消極的な機能のみを指すものではありません。
自らのミッションに忠実な活動は、多くの市民の共感を呼び、様々なボランティア活動を有機的に結ぶ力を秘めています。また、情報化社会を象徴するインターネット社会の到来が、市民同士の結びつきを一層強固なものとし、その活動領域は国内にとどまらず、海外へもきわめて容易な形で広がりをもつようになっております。一方、市民活動にも様々な方向性があり、広がりが出てきているので、市民間で摩擦を生む可能性も否定できません。
このような市民活動は21世紀の国際博覧会の有力なコンテンツであることは間違いありません。視点を変えることにより、問題が異なって見えたり、その本質に気づくことはよく経験することですが、その意味で我々は博覧会の場において様々な視点に立つ市民の参加を求めています。また、市民同士の対話は、視点を変えること、お互いの立場を認めること、そして、問題点を見つけ解決策を見出すことに有効です。愛・地球博における市民の様々なソリューションの展開が、共鳴を呼ぶ活動として、さらに大きな広がりをみせることに我々は期待しています。
さらに、その活動を2005年で終わらせるのではなく、継続的な問題解決にむけての自発的な活動へと結びつけ、地域に継承していきたいと願っています。時がたてば価値を失うのではなく、時とともに輝きを増す新しい価値の発見が市民参加に求められる結果なのです。
そのような市民参加の展開を博覧会の場に創出したいと思います。

94中葉:2004/08/13(金) 05:56
>>91 2004年7月22-23日に開催される第3回「日・ASEAN対話」「東アジア共同体へのロードマップ 」 http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/asean.htm に私も出席することとしています。

総括「東アジア共同体に向けた東アジア協力の深化」に関する討議時間に私が発言したテープ記録を以下にお目にかけます。コメントいただければ幸いです。

第1発言:朝から、経済、政治、文化交流と素晴らしいセッションが続いて、最後は神保さんとリムさんとが適切にまとめてくださいました。
私は、市民による国際交流についてコメントしたいと思います。愛知万博について廣野先生が言及されましたが、私も地元で万博の市民プロジェクトに参加しております。今日の第Ⅲセッションで議論された文化・交流を総合的かつ集中的にやろうとしているのです。

今、市民活動が世界的に広がる中で情報技術の活用が広がっていますが、交流をいかにして2方向にするか、そして交流の中から市民レベルでも新しい協力関係を作り実践に結び付けるにはどうすれば良いかなど、多くの問題があります。私が準備に参加している「地球市民フォーラム」では緒方貞子さんのご指導もいただくことになっており、先ほど話題となった「人間の安全保障」とどう取り組むかが重要な課題となっております。
その場合、緒方さんだけでなく、カーネギー平和財団のマシューズ理事長も以前から提唱していることですが、国家、国際機関、ビジネスに加え、NGOなどの役割分担と協力関係を再構築することが優先度の高い戦略テーマとなっております。
その意味でも、先ほどご提案のあった新しいシンクタンクが待望されるところですが、愛知万博には間に合いませんので、知恵も資金も力もないという哀れな状況の中で難題に取り組んでおります。よろしくお願いします。

第2発言:リムさんから、「なぜ日本語というのはそんなに人気がないのか、なぜ日本で訓練を受けて帰国した人が日本に対する良好なイメージを持たないのか」と問題を提起してくださいましたので、私の意見を申し上げます。

先ほどから、日本語に問題がある、日本語が悪いからだというご発言がありました。それは興味深い意見ですが、私は、ほんとうの原因は日本語でなく、日本語を使う日本人にあると考えております。
一般に日本人は、公式の場で発言する場合に、その場の雰囲気を壊さずその場の平和を維持することを優先的に考えますから、必要ならば自己の意見を抑え、たとえ自分の意見と反対であってもその場の雰囲気に同調する態度を示します。
その逆に、他人、特に実力者と異なる自己の意見を主張して彼らから嫌われたり、運良く自分の意見が通って責任を問われる立場に立つことを避けようとします。
このように、個性は意図的に曖昧にされていますから、個人として理解されるはずもないし、付き合っておもしろいわけがありません。これは10年、20年では変わらないと思います。

具体例について申し上げます。先ほど愛知万博が難しいという私の発言について、諦めずに頑張れとお励ましをいただき、ありがとうございました。
しかし、私は楽観的にはなれません。愛知万博のメインテーマは「自然の叡智」、事業コンセプトは「地球大交流」、方法論として「市民参加の重視」を唱えています。これらの内容は非の打ち所のない立派で魅力的なものですが、唯一の弱点は、責任者の個性と結びついたコミットメントがないことで、それは日本では衆知の事実です。
だから、日本での愛知万博の人気は非常に低調です。しかし、ここで奇妙なことが起こりそうです。愛知万博に中国が本音で参加する可能性が見えてきたのです。
例えば、愛知県神田知事が6月に訪中した時面会したBIEの呉建民議長は、「愛知万博の成功は2010年の上海万博の成功につながる。また、21世紀の紛争解決の糸口、新しいコミュニケーションの方策、マルチラテラリズムの観点からも日本の努力を期待し、BIEも愛知万博に協力を惜しまない」と語っています。
私は、愛知万博で市民が努力した結果は、たとえ日本が理解しなかったとしても、東アジアや世界のどこかで理解されたり活用されたりしていただければ満足します。

注:
アジアに売る万博(下)(6/12) 理念で結ぶ「海上と上海」
http://mytown.asahi.com/aichi/news01.asp?c=35&amp;kiji=477
を参照してください。

95中葉:2004/08/13(金) 06:28
>総括「東アジア共同体に向けた東アジア協力の深化」に関する討議時間に
>私が発言したテープ記録を以下にお目にかけます。
>コメントいただければ幸いです。

この会議のプログラム詳細が見つかったので、
後出しになりますが、参考のためお知らせしておきます。

http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/a-program.htm

96ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/08/14(土) 11:22
ご無沙汰しております。
愛知万博での事業について、門外漢がトンチンカンな意見を言ってもお邪魔と思いますので、発言は控えさせて頂きたいと思います。


……という態度が、「日本人が公式な場で意見を表明せず、場の雰囲気を優先し個を抑える」ということの実例になりますね(^^;)

敢えて「後ろ向き」な雑感を。

万博が「世界規模の文化交流」に根ざしているのだとすると、パビリオン参加者の意図は「自国文化の輸出(または見本展示)」にあり、その目指すところは「自国文化が世界に広まる」にあるのだろう、と推察します。
一方で、万博が開かれることの意義は何でしょうか。
主催者としては、「文化交流」などの意義をお感じになっておられるのだろうと思いますし、主催地提供国/地方にとっては、観光客の獲得(外資、観光客の散財など)、地方経済の活性化など、経済効果を狙ったものであろうと思います。
万博終了後に残る万博施設が、インフラを地域に残す場合もあれば(道や施設や)、「万博開催地」という新たな観光資源になるケースもありましょう。
万博参加者にとって見れば、「世界規模の縁日」という感が否めないわけですが(過去、大阪万博などの経験から)……

日本国内の万博参加者(訪問者)にとっての意義と、日本国外からの万博参加者(訪問者)にとっての意義は恐らく異なるのだろうと思います。
国外からのゲストの意識は、「自国文化の確認(これは日本国内にも言えますが)」「他国文化のつまみ食い」にあるのかもしれませんが……例えれば「わざわざニューヨークに観光に行って、アフリカの文化を見て「ああ、本物だ」と感じ入るだろうか?」というような疑問も残らないではないような……

また、万博一般参加者の多くは、そこに集まった世界各国の「一般参加者」と交流するわけではなく、世界各国の「パビリオン展示物」を見て回るだけなわけで、一般参加者同士の大規模な交流が促進されるという性格はあまり持ち合わせていないように思います。
世界から人を集めても、結局は、「それぞれの屋台に人が個別に群がる縁日」なわけで、祭りの参加者自身がそれぞれ独自に交流できるわけでもないわけで……。

冒頭に「万博は、パビリオン出展者にとっては自国文化を輸出するための見本市」「自国文化を確認して満足する場」「世界に自国文化が広まるのを確認できれば嬉しい」と書きました。
たぶん、大枠でオオハズレということはないと思います。
一方で、「他国文化に触れる訪問者=一般参加者」は、万博後はどうするんでしょう?
大部分は、「ニッポンに行って、トルコの指輪買ってきたヨー」で終わる(異文化は、日常に存在しない異物として終わる)のではないかと思うのですが。
つまりは、文化交流(もしくは、文化の交配)は、万博のとき限りの一過性で終わっているのではないですか?
もちろん、例外もありましょうから「確実に100%全てがそうだ」というつもりはありませんが。

日本人はそうした世界規模のイベントがあると、「現地の特産物、現地の料理、現地の文化/習慣」で気に入ったものを、どんどん自国文化の中に融合させてしまうという気質があります。
ラーメンもカレーも冷麺も、元々日本食ではありません。サッカーの試合で顔にペインティングするのは日本の伝統じゃありません。ステーキに紅葉下ろしとポン酢というのはアメリカの文化じゃありません。
が、そのようにどんどん融合していって、それが「常態」「日常」になってしまう、というそういう気質があることは否めません。
万博のメリットが「異文化の見本市」「世界交流」だとします。
交流は一過性ではなく、継続して「混じり合っていく」のが望ましいのだとします。
だとすると、万博という場で「様々な異文化」がずらりと展示されたときに、そのメリットを最大限吸収/活用できるのは、「異文化に対する垣根が低い」「排他性/伝統への拘りが少ない」という条件が必要なのかもしれません。

私は門外漢ですから結論は出しませんが、万博というのは出展者/主催者とそれから影響を受ける人々との間にいろいろな「乖離」があって面白いものですね。


愛知万博の成否は上海万博の成否にも遠からず影響を与えうるでしょう。
中国としては先行して行われる国際博覧会について、少しでも情報を得ておきたい時期でしょうし。
万博もいろいろ。楽しみですね。

97緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/08/14(土) 19:33
おひさだねぇ(笑)

難しいこたぁわからんが、日本人のくだりについて言えば、そら

「日本になんかええもんがあるかどーか」
だけじゃぁないのかのぉ。

日本に、絶対欲しい何かがあれば、そらどんなに難解な民族性でも言語でも
「商売」としてつきあっていく奴ぁおるだろ。
<商売とわ、広い意味でね。商売につながる研究やっとる学者さんも含めて。

んで、今の中国にとって、もはや日本わ「宝の山」じゃぁないと思うよ。
だって、ここ10年ほどのうちに「日中友好」とか「産業の海外移転」とか
やっちゃって、タダに近い形で日本の持ってる技術わ、あげちゃったからねぇ(笑)

一度、「利益」ちうフィルタかけて見てごらんよ。
<利益って、金だけじゃぁないよ。

そーしたら、相手が「欲しがってる」ものが見えてくるし、それが「相手の求めるものの方向性」
であることが見えてくるから、自然とうまく行くと思うよぉ。

98中葉:2004/08/16(月) 12:47
ヤスツ (CnaUXqoo)さん、コメントありがとうございます。

>>96 愛知万博の成否は上海万博の成否にも遠からず影響を与えうるでしょう。中国としては先行して行われる国際博覧会について、少しでも情報を得ておきたい時期でしょうし。万博もいろいろ。楽しみですね。

確かに、万博もいろいろ。楽しみです。

一つの楽しみは中国・上海との関係改善です。

>>1 にも書きましたが、朝日新聞「アジアに売る万博(下)(6/12) 」
http://mytown.asahi.com/aichi/news01.asp?c=35&amp;kiji=477
は以下のように伝えています。

神田真秋愛知県知事 
2005年のきずなは2010年につながる。まず、どうぞ愛知万博へ。
10年には愛知県から大挙して上海に来ます。

姚明宝・上海市旅遊事業管理委員会主任 
愛知の成功の後は、上海万博への支援を。

 05年愛知万博(愛・地球博)の次は、10年上海万博。5月28日、
 愛知県、万博協会などが上海市のホテルで開いた観光説明会はエールの
 交換の場となった。直後の昼食レセプションの席でも、瀬戸会場の地名
 にちなんだ「海上(かいしょ)から上海へ」や「21世紀の万博はアジ
 ア」などの言葉が交わされた。

 知事が北京市に滞在中の5月31日、中国政府は愛知万博での中国館の
テーマを「自然と都市の調和、生活の中のアート」と発表した。中国国際
貿易促進委員会の万季飛会長は「『自然の叡智(えいち)』と極めて近い」。この展示と上海万博のテーマが、持続的発展が可能な社会を目指す愛知万博の理念を受け継ぐと強調した。

 知事は訪中の間に、昨年12月に就任したBIE(博覧会国際事務局)
の呉建民議長にも初めて面会した。議長は「大阪万博以降、低調傾向にあ
る万博運動を盛り返したい。21世紀の紛争解決の糸口、新しいコミュニ
ケーションの方策、マルチラテラリズム(多国間主義)の観点からも日本
の努力を期待し、BIEも愛知万博に協力を惜しまない」と語った。

 今回、万博協会と経済産業省は上海市側と、二つの万博で連携・協力す
る合意文書に調印した。上海世博事務協調局から協会が研修生を受け入れ
る一方、同市側は愛知万博の広報に取り組む。

 愛知県も4月、ジェトロ上海センター内に経済交流部を開設し職員も派
遣した。7月には現地の旅行会社などに呼びかけ、「愛知万博ツーリズム
委員会」(仮称)を立ち上げる。万博を目玉に旅行商品を企画する。

 知事は、トヨタ自動車がある愛知県と、長江デルタ地帯にある上海市を
「モノづくりが盛んな、同じ産業構造」と言う。

 「人の行き来や流通はますます増え、中部国際空港の利用も増える」。
万博を起爆剤にした交流が、閉幕後も双方の地元経済に寄与する。そんな
将来図を見据える。

99中葉:2004/08/16(月) 14:49
>>97
> 一度、「利益」ちうフィルタかけて見てごらんよ。
> <利益って、金だけじゃぁないよ。
>
> そーしたら、相手が「欲しがってる」ものが見えてくるし、それが「相手の求めるものの方向性」
> であることが見えてくるから、自然とうまく行くと思うよぉ。

同感です。

>>98 一つの楽しみは中国・上海との関係改善です。

この楽しみも利益次第ということですね。

今、村上龍メールメディア最新号「今後の、日本経済と、東アジア経済との
基本的な関係を、どう考えればいいのでしょうか。」
http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html
が掲載中です。なかなか説得力があります。

100中葉:2004/08/17(火) 08:03
昔、ある掲示板のスレで以下のように発言しましたが、、、

>457 :中葉 :04/01/19 05:30
> 私の狙いは
> 2005愛知万博(自然の叡智)、
> 2010上海万博(better city, better life)、
> 2012ニューヨーク万博(経済発展と貿易センタービル悲劇のメモリアル)(プリンストンの学生が誘致中)
> 2015イスタンブール万博(united cultures of the world)(申請中)
> の万博シリーズでミーム・マネジメントの連続集会を成功させること。

現在、来年の愛・地球博に向けて追い込みをはじめています。
前にある機会に発見したとてもユニークで難解な論文、
THE LEARNING ORGANISATION MEME: EMERGENCE OF A MANAGEMENT REPLICATOR
http://members.aol.com/ifprice/ppatperf.html
をなんとか読みこなし、今晩は研究会で紹介することになっております。

新しい実用的なミーム理論、ないし方法論が生まれつつあるのだと、しみじみ思います。

101中葉:2004/08/18(水) 16:16
>>5 ほれ、EIとかいう統合ソフトの売り出しのことじゃぁないの?(笑)

EIは一時期、私の専門でしたから言っておきますが、あれの本質は道具じゃないですよ。
哲学です。Enterprise Integration (Architecture)のことを言っているんですが。

EIAは、「新しい紛争解決の糸口、コミュニケーションの方策」の骨格になるので、ちと煩くて済みません。

102ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/08/18(水) 16:23
コミュニケーションの方策ですか……

基本は
「相手を悪く言わない」
「相手を悪く思っても、口に出さない」
「慎重かつ忍耐強く続ける」
「相手の主張を自分が代弁し、相手から同意を引き出す。同様の作業を相手にもさせる」
それこそ、幼稚園や小学校の道徳で「方便」として教わる程度のことなんだけど、相手に自分の言い分を呑ませたい、相手の理解力と自分の思惑(主張)の不一致にいらだつ、という気の短さ(不寛容というか、心の狭さというか、相手に対する優越感とか)が、そうしたコミュニケーションの努力をぶちこわしてしまうんでしょうなあ。

それでも(間を置きつつも)議論を止めない、という態度を続けておられる方々については、主観の相違や立場の相違があっても尊敬に値するなとは思います。
相手を怒らせるようにし向けることで、相手をコミュニケーションのテーブルから自発的に立たせ、コミュニケーションを自ら断ち切った相手に責任を転嫁して涼しい顔をする(まるで真珠湾攻撃を「させた」アメリカみたい(^^;))ような態度を諫めない限り、持続的なコミュニケーションは難しいんでしょうね。きっと。

でも、そんな聖人君子ばっかりじゃないんですよね。世の中って奴あ。

103中葉:2004/08/19(木) 05:25
東アジア共同体は、実現にむけて動いています。

大東亜戦争以来、或いは著作で言えば「復興亜細亜の諸問題」「最終戦争論・戦争史大観」以来です。
たまたま私が参加したのは、前にも書いたと思いますが、
「東アジア共同体へのロードマップ 」“A Roadmap towards East Asian Community”
http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/asean.htm

> なにより、実現すれば世界のパワーバランスが大きく変わるでしょう。

これを何より恐れているのはネオコン一派、日本にも左右を問わずベタベタする迎合派が多いからなあ。

東アジア共同体評議会設立総会概要メモ http://www.ceac.jp/j/whats-new/040525-2.html
の下端にあるwindows media か real media をクリックして
挨 拶 「東アジア共同体評議会の発足に当たって」 中曽根 康弘/東アジア共同体評議会会長
をお聞きください。

続いて、第2回NEAT会議 日時 2004年8月16日・17日
テーマ 「東アジア共同体に向かって」(Towards an East Asian Community )
http://www.ceac.jp/j/announcement/040816.html
はバンコクで終わったばかり。

本気の人は次のイベントに参加してください。20名までゲスト招待中。
「東アジア共同体の展望と日中関係」“Future Prospect of East Asian Community and Japan-China Relationship”
http://www.gfj.jp/j-gf/j_conver/china.htm

104中葉:2004/08/19(木) 05:33
>>102 でも、そんな聖人君子ばっかりじゃないんですよね。世の中って奴あ。

だからこそ21世紀はミーム・マネジメントの出番です。
愛・地球博では「世界ミーム博覧会」を準備中です。
私も、恥ずかしながら、実行委員会の一人。

今のところ、唯一の参考文献はIf Shaw他による
・The Learning Organisation Meme: Emergence of a Management Replicator of Parrots, Patterns and Performance http://members.aol.com/ifprice/ppatperf.html
・If's Research Page http://members.aol.com/ifprice/ifresch.html
・Shifting the Patterns Ray Shaw , If Price http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1852522534/qid=1092451359/sr=1-3/ref=sr_1_8_3/250-8729441-8369818#product-details

105ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>:2004/08/19(木) 10:34
>>104
他のスレでも話題になっているようですが、

・当事者の自発的同意を得られないが、同意を得られなくても「同じ行動」を取るように強制しなければならない場合、「強制」は正当化されるかどうか?
・強制をせず、意志の同意を得ず、なおかつ衝突を避ける方法はあるか?
・強制以外の方法で相手の意志を、全体の都合に合わせて曲げさせる方法はあるか?

やはりドラえもんの完成を待つしかなさそうです。

106緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/08/19(木) 21:51
>101
ごめん、ちと笑った(笑)

いあ、どこぞのマルチすれすれの業者の商品説明とそっくりの口調でねぇ。

「具体的に何」ちうもんが説明でけん商品って、いったい・・・

107緑装薬4 </b><font color=#800000>(aL5K3vps)</font><b>:2004/08/19(木) 21:55
>102
>相手を怒らせるようにし向けることで、相手をコミュニケーションのテーブルから自発的に立たせ、コミュニケーションを自ら断ち切った相手に責任を転嫁して
>涼しい顔をする

ええのぉ、それ(笑)
ま、結局「怒ったほうが負け」でわあるよね。

さんざ言葉で挑発して、相手に殴らせれば「100対0」で慰謝料がっぽり、ちう
リアルな社会そのまんまでして・・・


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