[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
万博で新しい紛争解決の糸口、コミュニケーションの方策を探る
13
:
ヤスツ </b><font color=#800000>(CnaUXqoo)</font><b>
:2004/06/21(月) 00:56
中葉さんの年齢や趣向がわからないので参考意見として聞き流してください。
過去の小説、コミック、映画などでは「1960年代以前」の悪役はナチスドイツかその残党でした。
「1960〜1970年代」の悪役は「旧ソ連」でした。
「1970〜1980年代」の悪役は「過激派や中東のテロリスト」でした。映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではリビアのテロリストっていうのが出てきましたよね。
「1990年代」の悪役はズバリ、「フセインまたは中東のテロリスト」。映画「ホットショット2」ではモロにフセインがラスボスでした。
で、1990年代から2000年代に入ってきてからは、急速に「環境保護団体やNGOの類が、目標達成のためにテロリストになる」という描き方をする作品が増えてきはじめました。
コミック・アニメはその傾向が特に顕著ですね。
もちろん、「真の敵は軍産複合体か大国の陰謀」というところに落としてはいますが、「純粋すぎる環境保護団体が目的のために手段を選ばなくなることで、テロリストと何ら変わらないことを躊躇わずにするようになる」という描き方は、決して珍しいものではなくなりました。
よくあるのが「月面開発反対のため、宇宙でテロを行う」とか、そういう類の設定。これは、最近だとコミック「プラネテス」の中盤の敵がこんなタイプの環境テロリストでした。
まじめ、かつ善良な正義感から平和を見つけよう、という中葉さんが危惧しておられるテーマを煮詰めていった結果、やはり「技術の放棄」「開発の放棄」「資源開発の阻止」を強硬的にするしか人類を目覚めさせる方法はないのだ、という悲痛な選択肢を選び、自らの手を血に染める原理主義的な存在として、「環境テロリスト」が俄然注目を集めているようです。
一昔前なら「宗教的な殉教者」として描かれるところだったと思いますし、実際そうした「生命の尊さを共感し、地球を救え」的環境NGOの掛け声は宗教に通じるものがあると思います。
ただ、直接的に宗教(個人の意志をスローガンで統合していく)に反抗するのではなく、形を変えた宗教的なものの暴走に対する警告という形で、環境テロリストが悪役にされてつつあるのかな、とも思いました。
平和、環境保護が「欲を制限し、我慢すること」で成立するものだとすれば、その行為も気持ちも理解はできますが、欲を追求することで拡大してきた人間の営みは、「殻の中で分け合うこと」ではなく「殻の外に飛び立っていくこと」でしか維持していけないのではないか、という考えの作家が多いことから見ても、「我慢しましょう」という禁欲的スローガンの活動にはいささか共感を感じにくく思います。
ところで、どうしてそうした「運動に参加の意思がある○○○」と続くときに、最大単位を「市民、NGO、NPO」という単位で数えるのでしょうか?
「国民、民族」や「町民、村民」じゃだめなのでしょうか? 意図的に「国」という単位を無視しているか、無効化しようとする意識があるのでしょうか?
人類が仮に「世界政府」を持つことができるとしたら、段階的な「上部行政府の統合」だと思うんですが(欧州各国がEUになったように)。
欧州各国の人々は、「市民」としてEUに参加しているわけではなく、あくまでそれぞれの国民としてEUに参加するかどうかの意思確認をした上で参加しているわけですよね。
それと同様に、「世界共通の○○○」を求めることがあるとしたら、それは「市民や個人が個別に参加」ではなく、あくまで「国民として国に意志を委ねて」その上で、になるのでは?
そう考えると、「国という現在考えられるもっとも上層に近い枠組み」とそこへの所属を意図して軽視するのはなぜなのかが、以前から不思議でならなかったわけですが、もし中葉さんがこれに何らかの明確なご意見をお持ちでしたらお聞かせ頂ければと思います。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板