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【議論】武士道

1naribanana:2002/08/26(月) 11:22
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
          (山本常朝『葉隠』より)

2bianco:2002/08/26(月) 13:36
え。死んじゃうの?
今すぐ?

3naribanana:2002/08/26(月) 13:48
日本人の死生観ですな

4bianco:2002/08/26(月) 14:18
三島由紀夫の「葉隠入門」は読んだ?
彼の解釈だけど、おもしろいよ。受け入れられるか否かは別として。

5オトコ命:2002/08/26(月) 22:58
本は読んではいませんが、昔の生死観は理解に苦しみます★
死を美化してるところが・・・・・★

6酩酊犬:2002/08/27(火) 17:44
神道、仏道の影響の多い日本人にとって
死しても魂は生き続け、生まれ変わってまた
主君に使えるなどという独特の死生観がありました。
「生き恥をさらす」などという不名誉な言葉があるのですね。
逆に死ねば、不名誉は無かったことになる。

先の世界大戦で「神風特別攻撃隊」による一番の戦果は
物理的な被害ではなく、死を恐れない日本兵の精神が
理解できなかったからだそうです。

ハイテクの武器、物量よりも死を怖がらない
兵士が一番怖いのですね。

7酩酊犬:2002/08/27(火) 17:55
テキストミス。

物理的な被害ではなく、死を恐れない日本兵の精神が
米兵に理解不能で多大な恐怖感を与えたことだそうです。

8ぱかせ:2002/08/27(火) 19:16
わたしねー、かれこれ20年ぐらい前、当時の新潮文庫になってた三島由紀夫全部読んだの。
っていうのはウソで、「葉隠れ」は読みきれなかったの。
数ページ読んでは、そこら辺においといて、、、
その繰り返し。
子供を産んだあとも、その放置本を傍らにおいていたけど、やっぱり放置状態。
いま、どこにいったかわからない。

うーん、生きているうちに一度は全部目を通したいものじゃ。

>>7
harakiriもそういうインパクトなんだよね。

9ぱかせ:2002/08/27(火) 19:17
お、送り仮名一つついただけですごくまぬけ。

10bianco:2002/08/27(火) 20:43
>>>お、送り仮名一つついただけですごくまぬけ。

むしろカタカナにすると、かっこいいよ。

ハガクレ

11オトコ命:2002/08/27(火) 23:22
・・・・・・★

12ぱかせ:2002/08/29(木) 09:00
ハナタレ

13bianco:2002/08/29(木) 14:23
ハナテン

14bianco:2002/08/29(木) 14:35
>>13
質問を待つ。

15オトコ命:2002/08/29(木) 22:01
はいはいはーい!!!!
bianco先生!!!!質問です〜!!!!!
ハナテンって、動物のテンのことですか!?

16bianco:2002/08/29(木) 22:23
ちがいます。
大阪の地名です。
放出と書いて、ハナテンと読みます。

17オトコ命:2002/08/30(金) 22:54
ほうしゅつ、ではないんですか?

18ぱかせ:2002/08/31(土) 09:15
「武士道」ではないのですが、私の父方の祖母の話を一つ。
祖母は関東某地の出身で、祖母のお父さんが武家の出だったそうな。
それで、医学部に通う祖父と知り合い後に結婚。
祖父は昔の戸籍でいう「平民」。
夫婦喧嘩などの際、祖母は「平民の分際で私に意見するのですか」と言うのが常だったとか。
大正昭和の時代に。

そんな夫婦喧嘩、いやだなぁ。

19名無しさんは権之助坂がお好き:2002/08/31(土) 12:05
世が世なら て話ですね。

20オトコ命:2002/09/01(日) 13:31
すごい夫婦喧嘩ですね(^^;
なんか、普通と逆だから笑えます・・・・(すみません)

21名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/01(日) 18:29
いやっ オトコ命さん
逆ではありませんよ。普通なのですよ。(我が家では)
笑わないで下さい。

22ぱかせ:2002/09/01(日) 20:12
>>21
すごーく興味をもってしまった。

23オトコ命:2002/09/03(火) 23:23
>>21
おいどんも、かーなーり津々♪

24名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/04(水) 08:35
突然ですが>>21です。
私の家庭に興味をもってしまたようなので言いますと、
私は養子ではないのですが「マスオさん」なのですよ。
妻の両親とは同居はしておりませんが、いわゆる「スープの冷めない距離」に
実家がありまして(私の実家は本州の北の方、しかも貧乏農家)今、住んでいる
家も妻の実家にかなり援助していただき(私の両親はなにもしてない)
必然的に私は妻の両親に頭が上がらず、今では妻にもはむかえず、
ただジーと時が来るのを待っているのです。
妻の両親はまだまだ元気なんだよな〜
このままだと私の方が先に逝くかも…

25ぱかせ:2002/09/05(木) 09:11
狂言師、和泉元●の母親が、
「わたくしもあと20,30年で逝くと思われます」
と言ってました。
羽野なんたらでなくとも「オイオイ」と言いたい気分であります。

26名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/06(金) 18:15
このスレ ちょっと変

27ぱかせ:2002/09/10(火) 22:05
どうぞもとの「武士道」にもどしてください。
失礼しました。
→24,25がらみは「命日」スレにでも移行ということでいかがでしょう。
 チーン!

28名無しさんは権之助坂がお好き:2002/09/11(水) 23:38
今日の買い物
『武士道』新渡戸稲造 岩波文庫 200円
読んでないけど、ザーと見た印象。
適切な引用が多いみたい
頁は薄いわりに内容は濃いのかな

29名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/04(金) 13:50
昨日ブックオフで
『士(サムライ)の思想』笠谷和比古 日本経済新聞社
を100円で買った。

マダ読んでない

30naribanana:2002/10/04(金) 20:59
笠谷和比古 っていつもどこかで見かける人だ。
武士系の。
(ここ議論スレにする?)

この間東武スパリゾートの憩い室で、「人間交差点」という漫画を読む。
裏にはブックオフの100円のシール。
しかし それにひとり涙する我。

31名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/04(金) 22:45
笠谷和比古プロフィール
http://www.nichibun.ac.jp/research/staff1/kasaya_kazuhiko.html
講演も聴けるみたい
http://www.nichibun.ac.jp/event/library.html

100円のシールの話可笑しいかった。
東武スパリゾートは高い所だよね。
はがし忘れたのかな

32名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/07(月) 23:34
一年まえに『弘道館述義』買ったまま読んでいない。
naribananaさんの祖先は読まれていたのでしょうね。

33naribanana:2002/10/08(火) 22:35
>>31
このページ良い!!
とっても勉強になります。
でも、ズーとしゃべってるんだったら、動画じゃなくて、音声と静止画だけでもいいんだけどな。

>>32
う〜んどだろ。
でも、藤田東湖と同じ時期の水戸藩なのでとっても可能性は高いと思います。
お墓も同じだし。
この間、たまたまバイトで水戸に行ったことがあって、生まれて初めて単独でうちのお墓に行きました。
墓参り自体子供のとき以来だったし、いつもは親に連れられていたけれども、
一人で行くととても精神的なものを感じました。
自分のルーツを実際に感じ取れるというか。
特に、今後の将来について悩んでいた時期でもあったので、なんかこの秋の墓参りって、ナイスエキスだったかもしれない。
水戸歴史博物館もまた然り。

34ぱかせ:2002/10/16(水) 19:33
ふえ〜、うちもばーちゃん系が水戸藩らしいです。
桜田門外の変に名前を残すほどではないでしょうが。
いまだに町名としてばーちゃん系の苗字があるです。
それで、その苗字ばかりのすごーく広い墓場にぽつねんとみすぼらしい墓石があって、戒名が「楽飲居士」と刻まれているそうな。
私はその方の直径かもネギ。

ぜひ一度、お酒を供えにうかがいたいです。
naribananaさん、ごいっしょします?

35名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/18(金) 04:25
先祖の足跡を辿りながら
自分を再発見するっていいですね。


武士道は個の完成を目指す思想だけど
江戸期の少なからずの武士や庶民が個の完成、
つまり個人の自立が出来ていた。
水戸藩や薩摩藩には多くの人材がいたけど、
やはり個人の自立が完成していたように見える。

だからこそ、維新という国の個の完成、
つまり国の自立も成功したといえるのではないだろうかモシカ

36名無しさんは権之助坂がお好き:2002/10/20(日) 04:00
クルト・ジンガー(Kult Shinger)著 鯖田豊之訳
『三種の神器』(原題 Mirror,Sword,and Jewel)
という日本文化を論じた本を読んでいたら武士道がでていた。
面白かったので今日から武士道について論じた章を転載する。
転載が終わるのはしばらく後と思う。

37貴族の型:2002/10/20(日) 04:05
成熟した文明社会では、どこでも、理想の人物像が
存在するようである。「理想像」は個々の階級やカス
ト、職業や信条に関係なく、民族全体にもっとも特徴
的で、もっとも尊敬に値する品格やたしなみをそなえ
る。この理想の胚珠は文化の春や初夏にあたる局面
に生まれる。秋の段階の間に理想像は意識され、輪
郭のはっきりした存在になり、最後に因習化されて硬
直する。この型の理想像に属するのはイギリスの「ジェ
ントルマン」、イタリアの「コルテジャーノ」、フランスの
「ジャンティヨーム」、古代ギリシャの「カロカガトス」、
古代ローマの「ヴィル・ホネストゥス」、中国の「君子」、
だった。日本では「サムライ」がこれに相当する。

これらの概念はいずれも、規則正しくはいえないが、
文明が部族生活段階から出発して約千年ほどもたった
ころに出現する。出現の時期は、文明が、古代王国、
聖職政治、都市の分立の諸局面を通過して、非宗教
的な世俗領土国家の段階に突入しようとするところに
あたる。それまでに、先祖の共同体の乏しく単純な階
級構成から、支配者像、戦士像、僧侶像、農民像、
職人像がつぎつぎと分化してきた。いずれの人物にも
一定の職能と特権、しきたりと決まりが付属した。ただし、
あくまで、すべてのひとに共通する広汎な社会道徳と
制度宗教の枠内においてだった。

新しい型の理想の人物像が出現するのは、この記念
碑的な社会構造が分解溶解し始めたときである。この
時代には、宗教と政治、芸術と文学、科学と経済とが
「信仰」ぞ時代には否定されていた自立を獲得しつつ
あった。そのかわり、相争う勢力の渦巻きにまきこま
れて、人間生活の統一は危機に瀕し、ばらばらな衝動
や向上心の欲求に抵抗できないほど弱くなっていた。

かつては騎士、僧侶、職人は、ひとつの職能を果たしさ
えすれば、社会有機体のなかで独自性を発揮できた。
ひとつの仕事に全人格をもってあたることが、要請され、
個人のすべての活動と態度は仕事によって規制されて
いた。新しい情勢下では、職能はもはや社会的宇宙の
なかでの位置づけを決める統合力を失ってしまった。
職能の地盤沈下の実例は、ドイツの場合がもっともあき
らかである。ドイツには厳密な意味での国民は存在しな
かった。人民は、実際には高度に専門化した個人の集
団によって代表され、専門家集団は独自の仕事の遂行
によって義務を果たしたが、専門家個人は、規制となる
中心像、意味深い姿勢、自己充足的な生活方法をもた
なかった。プロシアの軍人や役人は、はじめこうした中心
人物像の代用と思われたようだが、かれらの職能には
限界があり、階級による制約をうけた。とうていドイツ一
国内においてさえ普遍的な人物像になることはできなかっ
た。

しかし、イギリスのジェントルマン、中国の君子、古代ロー
マのヴィル・ホネストゥス、その他の成熟文明における
理想的人物像はまったく別の物だった。この型の理想
像のすべては、もともと、貴族の観念や態度から生まれ
はしたが、それを規範的存在にまでおしあげたのは、
貴族出身だとか、特別の職業だとかの事実ではなく、
個人としての性格や態度のすばらしさに基づいての
ものだった。

これらの人格規範を騎士的起源を認めるのは、中国
の場合でさえさして困難ではないがうまく混合したとき
に生まれる。あるいはまた、はっきりと規定はできない
が、古い時代の倫理的宗教的教えが、世俗的でもっと
も身近な規準に昇華したと思われる。「中庸」「親切」
「相手の身になる」などの特性があまねくいきわたると
きにも、騎士的起源の規範は国民的理想像になりうる。

こうして基準を体現する男(女)たちにたいしてこそ、シラー
「通常の資質は何を行いうるかによって評価されるが、高
貴なる資質は生まれつきそなわったものである」との言葉
があてはまる。善を構成するのは、仕事の遂行でも道徳
律の実現でもない。善は「あるがままの姿」でしか存在しえ
ない。

38貴族の型:2002/10/20(日) 04:06
別のひとは、ギリシャ神話の半神半人や巨人を思い起こし
ながら、原始的な生の統一を高次元の世界に実現し、より
広汎な範囲にわたって完成に到達するかもしれない。詩人
や予言者、哲学者、聖人、偉大な支配者は、自己のなかに
新しい生命の法則を見出し、新しい価値の尺を確立して、
最初の追随者の魂や、さらには範囲を広げて、民族の魂に、
神と人間についての新しい概念を吹き込むかもしれない。
かれらは民族精神の横糸ともいえる。

これらにたいして、イギリスのジェントルマン、中国の君子、
古代ローマのヴィル・ホネストゥス、イタリアのコルテジャー
ノは、縦糸を構成する。かれらは創造者でも、先達でも、革
命家でもない。国民は、かれらを通じて、社会の枠内で存
在すべき、優れた規範的基準として、役立つにふさわしい
と考えるものを表現する。社会の枠内におけるかれらの役
割、かれらの創造力ある天才との関係、共同体内によって
異なるであろう。多芸な趣味をもつイタリアのコルテジャーノ
と無頓着なイギリスのジェントルマンは、別の世界の住人で
ある。ジェントルマンは何事にも控え目で、遠慮しがちであること
を美徳や好みとする。しかし、これらの個々の特質は、共通
の背景と対比したときに鮮やかに映し出される。

こうしたやり方を、日本の騎士であるサムライと、武士道と
呼ばれるその掟に適用すれば、主題が長いので曖昧だった
議論の雲をきっと吹き払うことができると思う。しかし、まず
は、西洋人が、サムライと武士道の存在に接した奇妙な
方法についてふれておくことも無駄ではあるまい。

39武士道の発見:2002/10/22(火) 03:09
外国と国交を回復してから半世紀たっても、日本は、依然として、
西洋人には閉ざされた、窺い知ることのできない国だった。なかば
伝説のヴェールをまとい、近づきがたく、、異国風の芸術、古風な
慣習、商業的利益に惹かれた少数の外国人をまねきよせるだけ
だった。日本が第一級の政治的存在と認められるようになったの
は、一九〇四(明治三七)年から一九〇五年にかけて帝政ロシア
と戦い、決定的な勝利をおさめてからである。日本が西欧諸国の
運命を左右する力があることがわかると、あちらこちらでこの国の
真価を見定めようとする知的な努力がなされるようになった。この
苦い経験と反発の感情から、西洋の哲学者たちは日本を現実的、
客観的に見つめ出した。日露戦争に派遣されたある従軍記者は
つぎのように書いている。
「わたくしたちは、いやおうなしに、すべての国民のあらゆる行動を、
支配し操縦する精神力の存在を認めざるをえなかった。ひとつの
階級でなく、上層から下層にいたるまでの全国民が、世界の歴史
と伝説のなかでももっとも有名なものに列する、価値ある行為に
駆り立てられた。この力はいったい何なのか、どこからきたもの
なのか、何を意味するのか、わたくしたちは知りたい。この力の
存在はわたくしたちを羨望させ、熱狂させ、ほとんど当惑させる」。

この疑問にたいし、東西の文化に深い知識をもつ優れた文学者
新渡戸稲造博士が解答をあたえた。かれはサムライの出で、クェ
イカー教徒であり、のち国際連盟の重要な役員となった。数ある
著作や評論のうち、一八九九(明治三二)年に出版された最初の
著述のなかで、日本の武士の道徳的原理の掟たる「武士道」につ
いて、西洋人の注意を喚起した。新渡戸博士はこのなかで、武士
道を「日本の国を支配する道徳的な力」であるばかりでなく「日本
民族の道徳的本能の総合であり・・・・民族の血とともに、したがっ
て神道とともに育ってきた」とものべてる。この大袈裟なきめつけ方
はなかなか見事で、博士の説得力は非常に効を奏し、西洋の識者
はこぞってこの「武士道」を、かれらの礼賛する(あるいは軽蔑する)
日本人の生活や政治の共通の分母と信じるにいたった。

40武士道の発見:2002/10/22(火) 03:09
日英同盟の結ばれていた間、武士道の称賛すべき面が西洋人の
心に深く印象づけられたようである。しかし、第一次世界大戦後、
日本が極東で覇権を確立しようとする意図があきらかになり始め
ると、「武士道」を口にすることに気おくれを感じるようになり、嘲笑
を買うこともまれではなくなった。新渡戸博士のサムライ日本の美
徳の説明は、夢物語としてすてられてしまった。にもかかわらず、か
れの武士道論は、日本国民のあらゆる才能と欲望を説明するものと
して存在した。以後、日本人の行動や発見のすべてー天皇崇拝、領
土拡張政策、神道、「大和魂」その他一切をふくむーに武士道のラベ
ルがはられた。そのなかには、新渡戸博士が激しく忌み嫌い、敢然と
して反対した事柄さえ存在していた。

新渡戸博士は熱心な平和主義者、不屈の自由主義者で、かれが、陸
軍将校の国粋主義者たちと争ったことは広く知られている。ある種の
日本の国粋主義的な著作物や団体が、新渡戸の武士道を多少利用
したのはたしかである。この事実はフランスの社会思想家で、ドレフュー
ズを弁護した、ジョルジュ・ソレル(一八四七−一九二二)の『暴力論』
の運命を連想させる。ソレルの『暴力論』は、かれのつもりでは、プロ
レタリアート解放には武力が不可欠という点であった。しかし、かれの、
『暴力論』は、結果的には、プロレタリアートの祖国ソビエト連邦の公然
の敵であった、イタリアやドイツにおいて利用された。新渡戸博士は、
超愛国主義者たちの大袈裟な主張にたいしては何ら責任はない。かれ
の唯一の欠点は、正確な定義と歴史的感覚を必要とする問題を、奔放
な熱狂的態度のままで扱ったことだった。

41武士道の起源:2002/10/22(火) 03:15
せまい意味での辞書編集の場合をのぞけば、二〇世紀初頭以前に、
「武士道」なる用語はなかったというのは誤りである。「武士(もののふ)
の道」に関する権威ある書物は、徳川幕府が成立して数代をへた、今
から二百年まえの元禄時代に出現した。山鹿素行はきわめて影響力
の強い兵学学派の始祖だったが、赤穂の浪人の「四十七士」が生命を
投げ出して主君の仇を討ったとき、かれらの精神を鼓舞したのは、素
行の教えだったといわれている。また明治維新の指導者たちに感化を
あたえた吉田松陰は、素行の精神を受け継いでいた。山鹿素行は講
義録たる『士道』という著述を遺した。「士」は封建制下の家臣、「道」は
「踏むべき道」の意味で、規範、義務、または法(のり)〔中国の道と同義
で、ギリシャ神話のゼウスとその妻テミス(掟)の間に生まれた女神ディケ
(正義)のことを考えればよい〕を表す。

同じ著者による小論文に『武教小学』がありー題名は「サムライ」の「教え」
の「簡潔な」「学問」を意味する。「士道」「武教」「武道」(山鹿素行の弟子
大道寺友山の『武士道初心集』は権威あるまじめな著書である)と表現は
違っても武士道精神に変わりはない。

イギリスのジョージ・サムスン卿(一八八三ー一九六五)は武士道を
「実りのない議論に終わる難解な問題」といった。しかし、わたくしは、
あえて、他の道徳・政治思想史の主要問題以上にむづかしくはない
と考えたい。混乱が起こるのは用語が不注意に使用されたり、説明
や論議が感情に流れるからである。真相と書かれた言葉、歴史的事
実と宣伝家のつくりごとをはっきり識別すれば、武士道論はけっして
実りのないものでも、不可能なものでもない。

ところが、不幸なことに、ヨーロッパにおける日本学の創始者である
ホール・チェンバレン教授(一八五〇−一九三五)は、かれの注意
深い著作にはありえないような、軽率な記事を書いて、のちの研究者
たちを誤らせたように思われる。かれの著書『新しい宗教の発明』の
初版は一九二七(昭和二)年以降は『日本辞典』の付録になったが
(最後の版はかれの編ではない)、そこでかれはつぎのようにのべ
る。
「武士道は制度としても掟としてもいちども存在しなかった。武士道
に関する話は主として外国人向けのまったくのつくりごとだった。・・・
武士道という言葉は、一九〇〇年以前には、日本の辞書にも外国の
辞書にもでてこない・・・ケムプフェル、シーボルト、アーネスト・サトウ
などは、みなすばらしい日本通だったが、かれらのおびただしい著作
には、一度でさえ武士道に言及することはない。かれらが武士道に
ふれない理由はあれこれせんさくするまでもない。武士道は十年ほど
まえにはまだ知られていなかった」。

42武士道の起源:2002/10/22(火) 03:15
しかし、この記事はあまりにも舌足らずで、あまりにも余計すぎる。
武士道なる用語や存在が一九〇〇年まで知られていなかったとす
れば、武士道神話が明治の天皇制を支えるためにわざわざ新たに
でっちあげられ、利用されるはずはない。明治後期には、こうした技
巧的な支えはもはや必要でなかった。新渡戸博士に関していえば、
かれの自由な信念と交友関係はあまりに有名で、博士の名で書か
れた『武士道』の刊行を、政府や超愛国者にそそのかされた策謀と
みることはできない。

さらに、明治時代およびそれ以後の時代における愛国主義的文献
が、手にあまるサムライの道徳的遺産である武士道よりも、むしろ
別の倫理的原則に訴えがちだったことも十分に証明できる。国粋
主義団体の綱領がサムライ道徳にしばしば言及するようになったの
は、ずっと後のことである。けれども、海外向けの場合をのぞけば、
さして目立つほどでもなかった。逆説的ではあるが、日本の国粋主義
者の間では珍しくない、外国風の思考様式にたいする一種の反動に
すぎない。

姉崎正治教授のように、宣伝傾向のない日本の学者たちは、武士道
の起源を鎌倉時代およびひきつづく北条執権と足利将軍下の「動乱
の時代」にもとめる。このときに新しい武士階級が勃興して権力を握り、
長い努力ののち、軍事的領地を統一的封建国家の行政的、経済的な
単位とした。政治の中心地は、鎌倉におかれ、のち京都の室町にうつ
された。この新興階級は典型的な日本方式で、保守的でありながら革
命的、忠誠心とうらはらに謀反心をもつ二面性をそなえていた。かれら
を統率したのは天皇の血をひくと称するいくつかの名門で、それまでに、
これらの名門は中央からほど遠い地方で、一種の荘園経済に基礎を
おく半自治的組織をつくって、一門一家の堂々たる実力を蓄えていた。

新興の武士階級の起源は、中国から移入された中央集権的君主制が
衰えたときにさかのぼる。当時、荘園(不輸不入の半私有地)が各地に
出現しだしていたが、不安と不信に満ちた時代のこととて、荘園財産を
すすんでまもってくれる勇猛果敢な男たちが必要であった。こうして農民
階級、かつての地方名家、いかなる社会にもつきものの不平不満の向
こうみずの分子が、新興の武士の補給源となっていった。

これらの雑多な連中を、首都の名門の地方における分家の支配下に
統合するのは、容易なことではなかった、鎌倉幕府が問題解決の精神
的基礎を中国から日本仏教に移入された、新しい禅宗にもとめたには
大きな功績とすべきであろう。禅の極到は落ち着き、簡素、死をも恐れ
ない固い決意、全人的統一の神秘的実現にあり、幕府の選択はぴった
りだった。

新しい精神をはじめて成文化したものは、「遺誡」(精神的遺産)および
「家訓」(家法)とよばれた。これらの道徳的指示は藩主から子孫にあた
えられ、藩主の一族や家臣たちはそれを恭しく取り扱った。武士の信仰
は仏教で生活、思想、行動のすべては、秩序正しく相互依存の関係に
あるとの確信に満ち満ちていた。けれども、武士階級は他方で神道の
神々と祖先の霊に祈りをかけ、その加護をもとめつづけていた。姉崎教
授によれば、遺誡・家訓では「君主に忠誠を尽くし、家の掟に従う」ことが
極度に強調され、「慈愛、正義、誠実、謙遜、勇気の諸徳もふくまれてい
た」ということである。さらにつづけて姉崎教授はのべる。

「藩主の後継者にたいしてあたえれる指示は、封建領地の管理、藩士の取り
扱い、兵糧の保管、平和時・戦時における論功行賞の行い方に関するもので
ある。要するに宗教的信念と処世訓、精神的修養、士気の維持、道徳的理想
実際的な助言が、武士の名誉というひとつの原則のなかに織りこまれる。武士
道の実際はこうしてはっきりと体系づけられ、これらの教えは以後数世紀にわた
り支配者階級を拘束する結果になった。これらの文章のあるものは藩や一族の
範囲をこえた影響をもち、ある意味での国民的な遺産となった」。

43武士道の起源:2002/10/22(火) 03:15

諸藩の家法は、諸藩を支配する徳川家のものをふくめて、これらの初期の精神
的遺産を直接受け継いだ。それらの家法は、法典や法令の名に値しないといえ
るのは、これらの用語の使用を不当に厳しくして、旧約聖書の「申命記」(モーゼ
の律法)、「ユスティニアヌス法典」、「ナポレオン法典」のような、精密な規則に
限定したときにかぎられる。

ところが、サムライ法典の内容はある程度流動的で柔軟だった。そのために激変
と大動乱の時代にも通用し、生きつづけることができた。家法が日本人の性格、
日本人の思想と社会の形成に決定的な影響をあたえた事実を否定することは、
懐疑主義が昂じて何も理解できなくなることに等しい。ホール・チェンバレンやサ
ムソムが、武士道にたいする大袈裟な賛美を、そのまま信じようとはしなかった
のは悪くないが、日本人に本来、優れた道徳的品性があるはずがないと疑って
かかり、サムライの倫理はたんなる伝説で、明治時代に政治的目的から故意にでっ
ちあげられたと断定するところまでつきすすんだ。武士道は、さまざまな思想、
さまざまな類型にまとめたもので、はじめは藩主や支配者、のちには軍事的
専門家や愛国主義の指導者によって権威づけられた。これを一片のでっちあ
げとして排斥するまえに、わたくしたちは、ドイツやイタリアの全体主義のにせ
神話を模倣した最近の日本の風潮から、サムライの純正な倫理を切りはなさ
なければならない。

44宗教的背景:2002/10/23(水) 02:52
大日本帝国の膨張を剣によって実現し、「太陽の子たち」の
子孫と家臣によって外国を征服しようとする要求は、武士道
信条からはおよそ遠い。サムライの倫理は、もともと仏教的
感情と儒教的感情によってつくられた「静」の世界に属する。

キリスト教の騎士は武勇を試すために「冒険」をもとめた。
婦人や貧しい人びとを助けて奇怪な悪党ども、巨人、邪悪な化け物
たちと戦おうとした。教会のためにつくし、キリスト教の福音を
広めようとした。「シャルルマーニュ(カール大帝)の十二勇
士」や「アーサー王の円卓の騎士団」から「十字軍士」や、「メキシコ・
ペルーの征服者(スペイン人)」にいたるまで、一本の線に
つらぬかれている。かれらはすべて征服されていない地域に
惹かれ、あらゆる冒険をともなう使命感にもえたった。ヨー
ロッパの騎士たちがつぎつぎと未知の暗黒界に突入し、デュー
ラーが「キリスト教兵士」で描いた、「死神」と「魔神」に満ちた
恐ろしい森を馬で駆けぬける衝動は、およそサムライには
無縁だった。

45宗教的背景:2002/10/23(水) 02:52
禅の瞑想は本当のサムライに内省の道を教えた。サムライ
は死の恐怖もなければ、後生を願うこともない世界に入って
いこうとした。生と死の境目は幻想にすぎないと達観した。
この内なる世界においては、善と悪が子どもじみた単純さで
区別されることはなく、ことさらに褒められる行為をしなくて
よい。あたかも運命の絶壁に大波のうねりが激突するがごと
く、熱狂心や闘争欲にかられることは、サムライの望むところ
ではない。むしろ、生命の波がいくら打ちよせても砕けちる、
岩のような存在でなければならない。悟りに達したものは、
寺院、仏典、仏像、教義書のことはどこかへおき忘れてしま
う。サムライは霊魂が「絶対」と一体になる素朴な状態に回帰
し、計り知れない深淵から湧きあがる新しい決意を自己のもの
とする。

仏教倫理は少なくとも西洋人の眼には規範的・創造的では
なく。否定的・諦観的にみえる。禅宗の主眼は、解脱を妨げる
ものから解放されることで、いかなる形にせよ、「煩悩」のと
りこにならないことである。また、「我」と「汝」、「善」と「悪」、
「個人」と「全体」、「生」と「死」の差別を取りのぞくのが狙いで、
神の映像ごときをもちだし人生を規制したりはしない。サムライ
の倫理はいかにして死に、いかにして落胆、不安、動揺を超越
し、あらゆる世俗の利害抗争から解放されるかの教えに集約
される。道徳には関係ない(かならずしも反道徳的でない)この
神秘主義の絶頂から、けわしい近道が虚無主義(ニヒリズム)
または静寂主義(クワイエテイズム)の世界に通じる。しかし、
鈍感で放縦な人びとの間に、ときとして好ましくないことが発生
しても、禅の黙想の責任にするのは正しくない。同じ危険は
いかなる宗教の前途にも存在し、教養を理解しない批評家の
注目をひきやすい。

46宗教的背景:2002/10/23(水) 02:53
わたくしは平均的サムライのすべてが最高の悟りに達したと
主張するつもりはない。しかし、サムライの思想を吸引する
精神的磁場における磁極は、外界での活動にはなく、外的
なものの否定、積極的な犠牲と完全な自己放棄ないある。
徳川時代前半に書かれた武士道論には、なるほど、武術
鍛錬を怠らず、戦争はめったに起こらないと考えるな、との
さまざまな訓戒がふくまれているが、これにはもっともな理由
がある。というのは当時、武士は一種の役人となり、鎖国制
度、完全な平和、政治的沈滞になれて、増大するはなやかな
都会的娯楽の誘惑にさらされていたからである。

しかしながら、ここでもまた、強調されるのは、個人的な快楽や
利得、怠惰や放恣にたいする欲望をおさえ、いつでも任務を
自覚する精神だった。サムライが楽しんでもよいどの活動
様式も、茶の湯、「謡」の稽古、弓術、切腹様式の練習と、
すべてが僧侶の衣の色が僧侶の精神を反映するような関係
である。本能的な欲望をおさえ、いかなる逆境でもどっしりと
落ち着き、勝利に驕らず悲しみに負けないことがサムライの
行儀作法の主要目標だった。「能」はこのような禁欲的生活
をどんな論集や逸話よりもはるかに正しくつたえる。「能」は、
いまのべていることを、空理空論に走らず、いたずらに陶酔
もせずに、サムライの生きてきた生活の姿に即して表現するい。
正確さや活気の程度はさまざまにしても、偉大な威厳と簡素な
美しさをそなえた、まぎれもなく真実の生活が舞台で展開され
る。

47理想と現実:2002/10/24(木) 02:38
礼式や作法は、どこでもたんなる形式主義に退化しやすい。勇気は喧嘩騒
ぎに、忠義はへつらいに、沈着は無感覚になる。後世の作者はサムライを
賞揚するあまり、しばしば好戦的な勇猛心と一方的な忠誠心を、あたかも
サムライ倫理の支柱と考えた。

しかし、勇気はありふれたことで武士道によって鼓吹されたのではない。
平安朝末期以来、武士たちは新しい封建領主の旗印のもとに集まったが、
武士たちにわざわざ勇敢な行動を教えこむ必要はなかった。かれらは喜ん
で戦場におもむき、恵まれてもいない人生をすてさることを少しも恐れな
かった。臨終の床の藩主や幕府の要職にあたる法令担当者が、たくましく
も粗野な家臣たちの心に注入せざるをえないと感じたのは、家臣の義務の
精神的な側面についてだった。武士の生活万般にわたる規律、誠実に生き
ればこそ、武士の他の階級にたいする支配権が合法化される、との「正しき
生活」の映像が注入の対象だった。サムライはより多くの権利ではなく、よ
ち多くの義務の持ち主でなければならなかった。

これらの義務は一方的ではなかった。十五世紀末、南九州のある主君と
家臣の間に取り交わされた典型的な誓約は、家臣が主君にたいして、「誠
心誠意、ふた心なしに」仕えると誓うと主君は忠誠の約束を承認し、「予は
汝の重大事を予の重大事とみなす。われらはもちつもたれつでいく。にもか
かわらず、不幸にして誹謗・中傷があれば、われらは親しく率直に話し合おう」
と答えた。主君の製詞は、もしそれを破れば中世でもっとも恐れられていた
神々、伊勢の太陽女神、八幡神(弓矢の神)、熊野や諏訪の神々などからい
かなる制裁をうけてもよいとの趣意で書かれた。こうした神々によって保障さ
れた主君の義務は、当時にあたっては、たんなる形式扱いにされるはずは
なかった。

48理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
にもかかわらず、権力、富、地位が平等でないもの同士のいかなる関係とも
同じく、主君と家臣の権利の厳密なバランスが、実際には、かならずしも維持
できないと考えるのが合理的である。家父長的構造論があらゆる社会的思想
を支配してきた東洋では、家臣の義務が親孝行の義務に同化されるのはほと
んど避けられなかった。この考えは中国古典思想のなかで生まれ、山鹿素行
や大道寺友山のような日本人の武士道論のなかにも生きつづけた。主君が
父親に類した権威をもてばもつほど、主君の権威はますます絶対的なもの
になった。東洋的観念では、息子は父親にたいして何の権利ももたなかった
からである。
しかし、日本では、中国や中世ヨーロッパと同じく、家臣が主君の行動を不正
で、適当でないと判断した場合は、いつでも主君に諫言(勧告)する権利を
もっていた。サムライが良心の声に反して主君の気儘に盲従したときには、
その家臣は「佞臣」(媚びへつらう幇間)、あるいは「寵臣」(卑屈なる追従に
よりて主君の愛を盗む嬖臣―― 新渡戸)とよばれた。あらゆる諫言も効を
奏さない場合には、家臣は自殺(切腹)の形で抗議しなければならなかった。

戦国時代には、不忠なサムライが主君をかえた例は日本の記録に頻繁に
みられる。だからといって、規範どおりの忠誠行為よりも不忠のほうが多かっ
た、考えるのはかたよった見方である。節操の問題は、不思議かもしれな
いが、統計的処理には適しない。わたくしたちは、大多数のサムライ ――   
このことについては、どの国のどの階級についても同じだが ―― が法典や
論集で定められた規準以下だったどうかを知る方法をもたない。成文化した
訓戒の存在自体が、サムライの身につけるべき徳目は、自発的に生まれは
しなかったことを物語る。徳川じだいにの武士道の最高権威大道寺友山は、
多くのサムライの品性が高尚でなかったと明言する。武士道を日本民族に
内在する先天的な素質だったと考えるのは、安易な人間生物論にまどわさ
れた、後世の著作家の誤解にすぎない。一九世紀末葉になるまで日本人
にとってすら、武士道論の実践の困難なことを否定する試みは存在しなかっ
た。といって、武士道の実践は不可能と考えられもしなかった。高級な武士
道の教えは紙上の産物で、意志の強弱にかかわらず、現実の人間におけ
る活力になりえなかったとするのは、根拠のない仮定である。

いつの時代でも、またどんな集団においても、高度の倫理体系の諸要求に
十分に応じたのは、一部の道徳的エリートだけだった、かれらは一般民衆
が達しえない道徳規準をつくりあげたが、一般大衆といえども、その道徳規
準の正しさを否定することはできなかった。

49理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
しかし、キリスト教徒が、根拠のない要求ではないにしても、逆説的なイエス
の「山上の垂訓」の従って生活するよりも、サムライが武士道の規範を実践
する方がはるかに容易である。ものごとに寛容で本分をまもり、なにごとに
も慎重で、父祖や権威に服従し、質素、謹直、勤勉で、死や悲運に沈着で
あることは、すべて、だれにでもできることではないかもしれない。けれども、
敵を愛し、左の頬を打たれたなら、右の頬をさしださなければならないキリ
スト教道徳に比べれば、ふつうのひとにとっての心理的負担ははるかに少
ない。

日本社会のなかで、サムライ精神の浸透する範囲をたえず広げるのが、
徳川時代の歴史的使命だった。そのことによって、サムライ精神は多少
活力と正確さを弱めはしたが、必ずしも品位は低下しなかった。この運動
は、本来は貴族用に作られた理想が完全に一般化された、歴史上数少な
い例のひとつである。主婦、学生、店員、高級売春婦でさえ、程度の差は
あっても、封建家臣の主君にたいする態度を手本にするようになった。

「四十七人の浪人」の英雄的な仇討ちが、都市の一般庶民に熱狂的な
感動をよび起こしたことは、十八世紀初期にはサムライ精神がすでに階
級道徳でなくなったことを物語る。町の商人や職人たちは、サムライが
国民道徳の中心的な存在として生きたり、死んでいくことの価値を承認し
た。こうした庶民の間のサムライ精神にたいする共感は、五世代後にす
べての階級を最終的にひとつの近代的国民にまとめるにあったって、
「古学」や原始「神道」の復興にけっして負けない効果を発揮したにちがい
ない。

西洋では、シェークスピアの史劇やセルバンテスの『ドン・キホーテ』で、
封建時代の精神に別れをつげたが、日本では、逆に、封建時代の精神
が、適当にうすめられながら、当時の大都市江戸、のちの東京の米商
人や運送業者の心のなかに広がっていた。街路や商店にたむろする
流儀で、人生をおくることに誇りにした。

50理想と現実:2002/10/24(木) 02:39
しかし、極度の緊張を必要とする道徳観念のこうした全面的俗化は、
危険がともなうのをどうしようもない。大都会の市民やその妻妾が武士
道に惹きつけられたのは、主として感傷のせいだったり、しばしば珍し
く、はなやかで、好奇心をそそるものをもとめたからであった。こうした
要求に答えてつくられたもののひとつが、徳川時代のドラマ「歌舞伎」
である。歌舞伎の舞台では、溢れるような感動、度肝を抜く所作、強烈
な色彩、ほとんどグロテスクに近いせりふが展開される。これらはすべ
て本当のサムライ精神には異質な存在である。サムライの規範に合致
するのは、厳しく、穏やかで、感情をおさえた、簡素な「能」の表現だけ
であった。ところが、今や、サムライの生活が、一般庶民のまえに極端
な形で提示されることになった。扱われるテーマは、犯罪と狂気の一歩
手前で、芝居好きな人びとの感受性と人間性を緊張させた。平土間の
観客はしばしば涙を流し、天井桟敷は興奮して、喝采の金切り声を夢
中であげる始末だった。

さまざな理由から能を鑑賞できない外国人は、「歌舞伎」やかつて西洋
人向きに書かれた、読みやすく粗雑な挿絵入りの物語に夢中になりが
ちであった。そのうえ大衆芸術家たる浮世絵師の木版画である超現実
的な役者絵により、かれらの感動はさらにましたであろう。こうした外国
人はこれらの変形されたサムライ物語を武士道の本質と見誤った。サ
ムライというものは、グロテスクな行動をする半野蛮人で、いつでも「主
君」のためにわが子を殺し、駿馬を買うために妻を女郎屋に売りとばし、
わざわざ死の苦痛を長びかせる方法で自殺すると考える、ヨーロッパ
人の根強い観念は、あきらかにここからくる。

これらは、日本文学のすばらしいテーマではあるが、「武士道」の典型と
みなしてはならない。ちょうど癩病患者の皿でものを食べたり、柱のてっ
ぺんで幾日もすごすのは、一部の修道士のことで、ふつうのキリスト教
徒の生活でないのと同じである。これらはすべて「言語道断な例」で、う
まく説明がつかない、限界状況に属する事柄とみるほかはない。


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