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【議論】武士道
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:
武士道の起源
:2002/10/22(火) 03:15
しかし、この記事はあまりにも舌足らずで、あまりにも余計すぎる。
武士道なる用語や存在が一九〇〇年まで知られていなかったとす
れば、武士道神話が明治の天皇制を支えるためにわざわざ新たに
でっちあげられ、利用されるはずはない。明治後期には、こうした技
巧的な支えはもはや必要でなかった。新渡戸博士に関していえば、
かれの自由な信念と交友関係はあまりに有名で、博士の名で書か
れた『武士道』の刊行を、政府や超愛国者にそそのかされた策謀と
みることはできない。
さらに、明治時代およびそれ以後の時代における愛国主義的文献
が、手にあまるサムライの道徳的遺産である武士道よりも、むしろ
別の倫理的原則に訴えがちだったことも十分に証明できる。国粋
主義団体の綱領がサムライ道徳にしばしば言及するようになったの
は、ずっと後のことである。けれども、海外向けの場合をのぞけば、
さして目立つほどでもなかった。逆説的ではあるが、日本の国粋主義
者の間では珍しくない、外国風の思考様式にたいする一種の反動に
すぎない。
姉崎正治教授のように、宣伝傾向のない日本の学者たちは、武士道
の起源を鎌倉時代およびひきつづく北条執権と足利将軍下の「動乱
の時代」にもとめる。このときに新しい武士階級が勃興して権力を握り、
長い努力ののち、軍事的領地を統一的封建国家の行政的、経済的な
単位とした。政治の中心地は、鎌倉におかれ、のち京都の室町にうつ
された。この新興階級は典型的な日本方式で、保守的でありながら革
命的、忠誠心とうらはらに謀反心をもつ二面性をそなえていた。かれら
を統率したのは天皇の血をひくと称するいくつかの名門で、それまでに、
これらの名門は中央からほど遠い地方で、一種の荘園経済に基礎を
おく半自治的組織をつくって、一門一家の堂々たる実力を蓄えていた。
新興の武士階級の起源は、中国から移入された中央集権的君主制が
衰えたときにさかのぼる。当時、荘園(不輸不入の半私有地)が各地に
出現しだしていたが、不安と不信に満ちた時代のこととて、荘園財産を
すすんでまもってくれる勇猛果敢な男たちが必要であった。こうして農民
階級、かつての地方名家、いかなる社会にもつきものの不平不満の向
こうみずの分子が、新興の武士の補給源となっていった。
これらの雑多な連中を、首都の名門の地方における分家の支配下に
統合するのは、容易なことではなかった、鎌倉幕府が問題解決の精神
的基礎を中国から日本仏教に移入された、新しい禅宗にもとめたには
大きな功績とすべきであろう。禅の極到は落ち着き、簡素、死をも恐れ
ない固い決意、全人的統一の神秘的実現にあり、幕府の選択はぴった
りだった。
新しい精神をはじめて成文化したものは、「遺誡」(精神的遺産)および
「家訓」(家法)とよばれた。これらの道徳的指示は藩主から子孫にあた
えられ、藩主の一族や家臣たちはそれを恭しく取り扱った。武士の信仰
は仏教で生活、思想、行動のすべては、秩序正しく相互依存の関係に
あるとの確信に満ち満ちていた。けれども、武士階級は他方で神道の
神々と祖先の霊に祈りをかけ、その加護をもとめつづけていた。姉崎教
授によれば、遺誡・家訓では「君主に忠誠を尽くし、家の掟に従う」ことが
極度に強調され、「慈愛、正義、誠実、謙遜、勇気の諸徳もふくまれてい
た」ということである。さらにつづけて姉崎教授はのべる。
「藩主の後継者にたいしてあたえれる指示は、封建領地の管理、藩士の取り
扱い、兵糧の保管、平和時・戦時における論功行賞の行い方に関するもので
ある。要するに宗教的信念と処世訓、精神的修養、士気の維持、道徳的理想
実際的な助言が、武士の名誉というひとつの原則のなかに織りこまれる。武士
道の実際はこうしてはっきりと体系づけられ、これらの教えは以後数世紀にわた
り支配者階級を拘束する結果になった。これらの文章のあるものは藩や一族の
範囲をこえた影響をもち、ある意味での国民的な遺産となった」。
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