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:2014/02/26(水) 23:33:28
転々流々
.
転々流々
いままで私はずいぶんあちこちと転居してきた。それが趣味でもなければ、マニアッ
クな記録に挑戦した訳でもない。風の吹くまま気の向くまま、結果として人より多かっ
たまでである。それは長じてからはその原因が様々な仕事にやむなく就かざるを得なか
ったからではなく、単に住居を点々としただけで一度も職業を変えたことはない。まし
てや孟母三遷などといったよい環境と未来のためにといった高邁な目的があった訳でも
さらさらない。
樋口一葉は24年という短い人生の間に、15回もの引っ越しをしている。 平均すれば
2年に1回となるが、彼女の生活の困難さがそうさせたようだ。その15回の引っ越しの
内訳は千代田区、港区、文京区、台東区といった、ほとんど東京の中心部に近い範囲で
ある。私はその点もう少し広い範囲で暮らした。
葛飾北斎は卒寿(90歳)で昇天、改号すること30回、転居すること93回とされ、その
多さもまた有名である。1日に3回引っ越したこともあるという。これは、彼自身と、絵
を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからであ
る。料理は買ってきたり、もらったりして自分では作らなかった。居酒屋のとなりに住
んだときは、3食とも店からデリバリーさせていた。だから家に食器一つなく、器に移
し替えることもない。包装の竹皮や箱のまま食べては、ごみをそのまま放置した。土瓶
と茶碗2、3はもっていたが、自分で茶を入れない。一般に入れるべきとされた女性であ
る娘のお栄(葛飾応為)も入れない。 客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して
「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。といった具合で北斎は絵を描くこと
一筋で、相当の奇人・変人だったらしい。
私も学生時代は身の回りの荷物は少なく、数冊の本を小脇に抱え布団は簀巻きにして
紐をつけたすき掛けに背負い、山手線や私鉄沿線を走り回っていた。そのようにおそら
く北斎も家財道具もほとんど持たない身軽さで江戸の町を放浪していたのだろう。
私自身は今まで28回という転居をかなり多いと心の中で得意になっていたが、北斎に
は負ける。たとえ私が90歳まで、すなわち後20年生きるとして、どんなに努力してもせ
いぜい40回がいいところで、もし樋口一葉が長生きしたとしたら、彼女の50回にも超さ
れそうだし、とても北斎の93回には届きそうもない。私も1年間に5回の転居をしたこと
があるが、これもまた北斎の1日に3回引っ越しには脱帽するのである。世の中にはとて
つもない記録保持者がいるものだ。だからといって葛飾北斎の93を記録更新のためには、
私の2年半に一回の引っ越し係数でいけば2.5×94=235歳になるまで生きなければなら
ない。いくら長寿が尊ばれてもごめん被りたい。
そんな転居好きの私でも、間違えて或いはぼんやり考え事をしていて、前の住まいに
うっかり戻りそうだがそんなことは今まで一度もなかった。転居するということが私に
とって、過去を清算したいためなのかそれとも未来に夢を託すためなのか、はっきりと
意識したことはない。そのどちらも時によってあるだろうが、しかし一度そこを離れた
ら何が何でも前に向かって進むという心境になることは確かで、長きに渡ってそんな生
活をしていると、あまり過去には振り返らない性格に出来上がってしまったようだ。昔
住んだところを懐かしむ感情は全くないとは言えないが、そんな恋々といつまでも執着
することはない。長年のそんな習慣が帰属意識をも薄くするのだろうか。それともあま
りにもあちこち引っ越すものだから、故郷というものがどこなのか判然としないためな
のだろうか。
学校を卒業してすぐは長崎の会社に就職した。そこでは4年間で3回転居した。その後
首都圏に住まうようになった最初の住居は、横浜の保土ヶ谷区にあった会社の社宅であ
った。それからすぐに近くの戸塚のアパートへ引っ越した。そして六本木にあった会社
への通勤を楽にするために、一年もせずに大田区の田園調布本町へと移った。その3年
後会社を辞めて独立し、小岩に移った。そして江東区の東陽町へ。バブル崩壊で東京の
事務所や住宅を処分して郷里へ、半年後また上京文京区本郷へ転居現在に至る。暇に任
せてその軌跡を追うと、左巻きの螺旋となり今に江戸城に入城しかねない。
そうだ本籍は日本のどこでも登録できるらしいから、 東京都千代田区千代田1番1号
(皇居)(郵便番号は100-0001)に、斃る前に一度移してみたいと考えている。
註:樋口一葉および葛飾北斎における資料はWikipedia による
斜光16号
3
:
α編集部
:2014/02/27(木) 20:25:12
本音と建前の狭間で
.
本音と建前の狭間で
山路を登りながら、かう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
これは明治39年夏目漱石著の「草枕」の冒頭に出てくる有名な文章である。
人々はその昔より思ったことを率直に吐露すべきか、世間の習慣や常識や相手
の立場を考えて自分の意思を控えるべきか、という判断の狭間で随分割り切れ
ぬ思いを抱きながら世の中を渡らねばならなかったと見える。
書物や学説から得た知識や理屈で押し通し、相手を言い負かすとすれば角が
立つし、また情に共感すれば思わぬ方向へ押し流され抜き差しならない関係で
喘ぐことになる。理屈にあわず情にもほだされず自分の意地や虚勢を張り通す
と、途中で自分の非を認めたり正しい考えに方向を修正するという自由を自ら
の手で縛ってしまうことになる。兎に角人と人との関係は微妙で気を使うし窮
屈で難しいと嘆いているのである。そこに人々は立場立場によって本音を求め
たり、建前に分があったりすることに気付くのであるが・・・。
交通量の多い交差点では赤信号は守った方が安全で、建前という遵法の精神
を満足させるものであるが、人も車もめったに見かけないひなびた田舎道で何
かの故障で青に変わらない赤信号の交差点ではそう単純ではなかろう。馬鹿正
直に延々と待つか、交通法規を無視し周りを確認して渡るか。このことは心の
中で本音と建前の狭間で葛藤をよぎなくされることではあるが、そのような極
端な例や判
断に窮しない単純な問題では普通の生活の知恵で考えれば答えは自ずと決まる
し、頑なに建前を守るほど重要な問題でもない。しかし、抜き差しならない問
題では本音と建前の関係の判断基準が時代や場所や文化の違いでどのようにも
変化する故に却って厄介である。
では本音とは何か、建前とは何か。本音とは率直に表に現すことのできない
事情の中での、 「実は本当の自分の考えはこうなんだ、こうしたいのだ。」
という秘めたる思いで、赤提灯で焼酎を呷りながら同僚に愚痴る情景が似つか
わしく、むしろ常識や世間の慣例、規則などという建前に対立するものが多い
のではないかと思われ、「物事はそのような正論で解決できるほど単純ではな
いし、人の心をそのような一刀両断のやり方で割り切られるのはご免被りたい
」と反発したくなるのである。
法には「自然法」と「法定法」の二種類がある。それ自体が反社会的、反道
徳的である犯罪になるもの、強姦、強盗、放火、殺人など人の根源に関する犯
罪を対象とするものが「自然法」であり、その対をなすものとして最大多数の
最大幸福的な決まり、即ち多数の人々の利益を守るための秩序を目的とした規
則で、それ自体は反社会的、反道徳的という価値の基準の対象ではない「法定
法」である。
民法第210条の「袋地所有者の囲繞地通行権」である―或土地カ他ノ土地ニ
囲繞セラレテ公路ニ通セサルトキハ其土地所有者ハ公路ニ至ル為ニ囲繞地ヲ通
行スルコトヲ得―や第233条の「竹木の剪除載取権」―隣地ノ竹木根カ彊界
線ヲ踰ユルトキハ其竹木ノ所有者ヲシテ其枝ヲ剪除セシムルコトヲ得―や第2
34条の「境界線附近の建築制限」の―建物ヲ築造スルニハ彊界線ヨリ五十セ
ンチメートル以上ノ距離ヲ存スルコトヲ要ス、又第236条の「前二条に関す
る慣習」―前二条ノ規定ニ異ナリタル慣習アルトキハ其慣習ニ従フ―などは例
えその数値や定めが違ったものであっても一向にかまわず、それ自体が生命や
活き方に決定的な意味を含んでいるものではなく、ただ何らかの決まりがある
ほうが問題を解決しやすいからであろう。
そのように普通使われる建前という言葉のなかには、その「法定法」に規定さ
れる、交通法規、民法上の問題はいうまでも無いが、もっと軽微な公序良俗的
な判断分野、慣例や常識、掟、エチケットなどの社会生活上身の回りに発生す
る諸々の状況のなかで生じる過半数が納得する一般的な考え方を指すのではあ
るまいか。個人が本音か建前かの葛藤を覚えるのはこのような立場においてで
あろう。
これらの規範はほとんどが個人の良識に託された価値判断で、普通の場合は何
事もなく受け入れられるが、個人的に特殊な場合はその価値基準は実情に合わ
ず、その人に不満足な感覚を残してしまうのである。「規則は少ないがドイツ
人はよくそれを守り、沢山作るフランス人はそれを守らない」と国民性の違い
を面白く揶揄した小話でよく聞くが、ドイツ人は建前の世界が合っているのか、
フランス人は本音でしか物事を考えないのか。兎に角どちらにも徹し切れない
人々は後ろめたさの感情のなかで時々信号無視、花盗、無賃乗車など些細な違
反をするのだが、まともに罰せられたという話はあまり聞かないし、人格を全
面的に否定されるほどのこともない。しかし現代もなお人々は日々の生活にお
いて真っ向から本音を表明することに躊躇せざるをえないことが多すぎて、勢
い建前の世界の包囲のなかで己の真の意思を引っ込めざるをえなかった屈辱と
束縛とに苦悩するのである。またそれだけに建前の世界は安易に体制を守るた
めだけの論理となりやすく、庶民生活のなかで変化する価値基準に追いつけず
必ずしもその全部が庶民の利便を代表するものではない状態が生じることとな
り、なんとも窮屈で実情に合わない規制が多すぎると感じるのである。本音と
はその閉塞感を打ち破るための個人の密かな反撃と秘めたる藻掻きに似ていて、
建前との間で終わることのない戦いに悩まされることになる。
数年前の歳の暮れに我がマンションの目の前の公園に「巾60?高さ15?の
下水道の工事基地を造りシールド工事を始めるように決定しましたので協力く
ださい」と東京都の下水道局の課長以下施工業者共々藪から棒に挨拶に来た。
我々住民はあまりの予期せぬ出来事に判断に窮するなか、このような決定が住
民の知らないところでなされてよいものか、またその工事の内容や期間、当マ
ンションの住民に対する影響はどのようなものか等の調査や考察がなされてい
るかの疑問を提示した。日時を替えて説明会を開催するように要求してその日
は引き取ってもらった訳だが、この事件が住民の要望(本音)と行政の方針建
前)との熱き戦いの始まりで2年の長きに渡るとは誰も予想しなかった。
説明会に提示された工事の資料は、法律、手続き、「住民のための施設」と
いう錦の御旗などの建前も十分揃っていて何の支障を来すものではなかった。
しかしその内容は我々の生活環境に与える影響を無視した非常識な計画であっ
たのである。工事による騒音や粉塵、振動、通行等の沢山の問題点があったな
かで、誰が考えても受忍の限度を遥かに越えていたのは日影問題であった。当
マンションの南面バルコニーの5?先に 15?に及ぶ5階建てに等しい高さの
建物の工事基地を建設し、その期間は5年という乱暴な計画であった。この条
件でビルを建てると通常は日影規制に抵触し違法の建築物になるのだがと疑問
に思い、難解で悪名高い建築基準法を紐解いて見た。法85条4項に「特定行
政庁は、仮設興行場、博覧会建築物、仮設店舗その他これらに類する仮設建築
物について安全上、防火上及び衛生上支障がないと認められる場合においては、
年以内の期間(建築物の工事を施工するための工事期間中当該従前の建築に
替えて必要となる仮設店舗その他の仮設建築物については、特定行政庁が当該
工事の施工上必要と認める期間)を定めてその建築を許可することができる。
この場合においては、第21条第1項及び第2項、第12条から第72条まで、
第13条、第34条第3項、第35条の2並びに第35条の3の規定並びに第
3章(第6節を除く)の規定は、適用しない」と有った。建築の専門家でさえ
半日かけなければ解読できない代物で、まして一般の人が理解することにおい
ては絶望的な文章である。ここまで真面目に読んでくれた読者にはその努力に
敬意を惜しまないが、いかに我々が日ごろこの建前を代表する法律の悪文に悩
まされているか、お分かりであろう。早い話が「工事用の仮設建築物は基本的
な建築基準法の規制を免除し、たとえ民家が数年におよんで日が全く射さない
状況に陥ろうとかまわない」という緩和規定である。だから我々住民の希望な
ど正当性がなく、多くの人達の幸せのためなら少々の忍従は止むを得ないとい
う意図が見え隠れしていた。この役所対住民のぶつかり合いは正に建前と本音
のぶつかりあいで、なかなか同じ土俵の上で正面からお互いにハッシと受け止
めて立ち会う状況に至らなかった。住民の要求する資料や結論がスムーズに提
出されず、いたずらに建前論を説明することで時間を浪費したのである。これ
が民間のプロジェクトであれば年の歳月が十分の一で解決したであろう。国
民から絶え間無く供給される税をもとに成立つ公的事業と違い、採算を第一と
する民間の事業者としては短期間のうちに解決出来なければ会社の存亡に関わ
る事態になるであろう。それゆえ、問題が生じると正に本音と本音のぶつかり
合いで、迅速にかつ真剣に問題解決に取り組み、住民も休めないくらい事情説
明のための説得攻勢をかけられたと思う。役所との永きに渡る折衝の結果、幸
いにも我々の希望にそった結論を得、工事上の監視と住民の要望の調整を取り
持つ機関である「下水道対策委員会」なるものを設置し、最初の接触から工事
完成まで7年という長い役目となったのである。
そして草の根運動を通して得たものは 「住民運動には『女、子供』を含めた
種々雑多な能力を集めることが成功の秘訣である」と悟ったことである。差別
の謗りを免れないこの表現の「女、子供」の強さは、建前の社会で飼育された
男性達の、相手方による「建前論」に感服すれば簡単に説き伏せられるという
弱点を補うことに十分に力を発揮したことである。建前の前に危うく陥落しそ
うになった男共を尻目に、一度は納得しても次の日には「やっぱりその論理に
は納得できない。白紙に戻すことを要求する」となかなかの粘り腰で、容易に
白旗をあげることはなかったものである。論に強い者は論に弱く、情に強い者
は情に脆い。
さてそこで我が身の周りを眺めまわすと二通りの困った人達がいるのに最近
気付いた。一つは建前の世界に染まった人、もう一つは本音だけで勝負する人
である。公的社会活動のような場合には建前が正面に出てくることは止むを得
ないことではあるが、私的な付き合いのなかでも腹を割った話に参加すること
なく建前論しか表明できない人達がいる。彼らとの付き合いの難しさ、もどか
しさは議論がなかなか噛み合わず現実の解決すべき問題の議論が前に進まない
ことである。彼等は会社や役所での長い勤めにおいて、建前の論理のなかに埋
没する毎日で、知らず知らずのうちに本音の声が聞こえないように努力し又本
音を心の片隅に押し込める努力を余儀なくするうちに、建前のみの意見しか表
明できなくなってしまったものと思えるのである。常識や多数者の意見から逸
脱したり、間違いを指摘されることを恐れ、本音を表明できないのである。そ
のような人達は、どこそこのお菓子は有名であるとか、あそこの品物は権威が
あるとか、ここが日本一絶品の料理を食わせてくれるレストランだとかの肩書
きを信用し、豪も疑うことをしない人達であるような気がする。己の目や耳や
舌による感性を信じようとしないし、本当の味や美しさや良さなどを自分の判
断ですることを停止し、噂や看板や効能書を信じて自分の能力を開発し高めよ
うとしない。
一人の人間としての感情や思いやりや美しいものに対する感性を無くし、或
いは内に秘めたる人はいるかもしれないが周りの人との関係を面倒くさがり、
深くつきあうことを嫌い、関わることを避ける人がいる。
そういう人は意見を問われると建前論しか言わず、汗をかいて問題解決に努
力することは滅多になく、人々がうまい具合に解決の方法を見つけていざ纏め
ようとするときに必ず些細な建前や屁理屈を盾に壊しにかかるのである。そし
て纏まった意見に問題が生じると、自分の建前論の正しさを強調し、積極的に
物事を解決しょうとする意欲が見られない。そのような人はどのような結果に
なろうとも正論を吐いている限り決して傷つくことがなく、常に勝者側にいる
と思っているのである。そして本音で問題解決に奔走し汗を掻く人達のように
苦労多く下積みではあるが、仲間達に胸襟を開き、共感を分かち合い、響き合
う喜びを知ることはない。
しかしまた、本音で凝り固まった人も困り者である。独断と偏見をものとせ
ず声高で押し付けがましく、人の気持ちを考えずに自分の感じたままを吐露す
るのである。そのような人は組織のなかで実力と実績を認めざるを得ない人の
なかに多く、生きる自信と物事を推し進める迫力を身につけていて有能ではあ
るが、周りへの心遣いに欠け、視野は狭く、今の価値観と彼の習得した時代の
それが変化しているのも理解しない。そして大した価値もない理屈を振り回し、
事実誤認をものともせず白を黒と言い包め、無理やり自分の主張を押し通すの
である。
下腹は弛んで醜い体を曝しているにも係わらず、自分は堂々としていて威厳
があり皆が畏敬の念を抱いているだろうと思い込んで、出物腫れ物所嫌わずと
いった感覚で自己満足に甘んじている裸の王様よろしく、迷惑で煩わしく疎ま
しく生理的に嫌悪を感じる人達である。
そしてまた、私は己の意識の中でも本音と建前の葛藤があることに気付く。
電車やバスの中で子供を抱いた婦人や、初老の人達に席を譲る時抱く複雑な思
いは何なのか?心から譲りたいと思っているのか、そうすべきという義務感な
のか、建前だからそうしているのではないか。心から発する自然な感情なしに
する行為は偽善ではないかというもう一人の本音の自分に責めさいなまれ、そ
の行為に嫌悪を感じることがある。人種偏見や学歴や職種によって人を評価し
てはいけないと頭の中では思っていても、はたして最後の判断までそれを貫き
徹すことのできる自分かどうか、確たる自信はないのである。そのような既成
の思想や宗教や道徳の中にも偽善を嗅ぎ取る私は、自分のなかの本音と建前の
狭間で揺れ動き、かつ悩み苦しむ
己を見出す。
4号 1999年10月
4
:
α編集部
:2014/02/27(木) 21:05:05
都市と田舎の狭間で
.
都市と田舎の狭間で
お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。
プロローグ
三十年間暮らした首都圏を離れ、郷里の親元で暮らすこととなった。それはドフトエフス
キーの 「スチェパンチコブォ村とその住人」 にでてくるフォーマー・フォミッチを巡る
人々のごとく、価値観の微妙なずれによるさまざまなトラブルを発生させた。私はそこで
都会生活では考えたこともない悩ましい環境に陥ってしまった。
パンドラの箱その?
大都会を離れたことを都落ちと考えるか、自ら都心の窮屈な生活から脱出したのだと考え
るかは個人の感じ方次第であろう。とは言え、若い頃は知的で洒落た都市の生活に憧れて
田舎から出て来た訳だから、どの時点ではっきりと「田舎に帰っても良いかな」という心
の変化を覚えたかは定かでない。兎に角バブル崩壊が大きな要因に間違いなさそうである。
その不況の結果とんでもない会社に就職してしまい、その労務のはちゃめちゃぶりに辟易
し、また新宿西口の朝の殺気だった出勤風景に嫌気がさしたのが決定的であった。オーナ
ーと呼ばれるヤクザまがいの風貌と前近代的な思考の輩に支配されることは長年自由業で
過ごした私には耐えがたいものであった。 しかし、私が「今の勤めは地獄のようなもの
だ」と嘆いても、友人達は「地獄の苦しみはそんなもんじゃない。その程度の環境はサラ
リーマンなら殆どの人が経験するもので、あんたは甘い。地獄とはもっと過酷でずっと先
にあるものだ」といって、一向に同情してくれなかった。
それにしても朝八時半から夜十一時までの拘束時間、休日も日曜だけなのに突然の召集命
令でどこにいようとも駆けつけなければならず、まさにやくざの世界であった。私的時間
まで拘束されるより飢えても自由が欲しいと思っていた丁度その時、脱税で一年十ヶ月程
の実刑を受けまもなく収監されるオーナーとの幹部会でのやりとりで、「歳ばかりとって
いて何もできないなら辞めてしまえ」という売り言葉に「じゃあ辞めましょう」の買い言
葉の結果、その日のうちに三ヶ月間勤めた会社を辞めてしまった。社員を殴る蹴るの暴力
が日常茶飯事の彼のその言葉は口癖だったし、いままでそれで辞めた社員はいなかったの
で、まさか私がそのような行動に出るとは夢にも思わなかったにちがいない。それでも二
百人近い社員を擁し、人権無視の労働で膨大な利益を確保した結果、近い将来上場を目指
す会社なのである。その会社の常識であれば、残務整理や、引継ぎに数ヶ月は引き止めら
れることは確実であるが、あまりにも酷い組織の正体が判明するにつれて、そうでなくと
も切れかかっていた私の側にとってきっぱり辞める口実を作ってもらったという有難いチ
ャンスに他ならなかった。途中で仕事を投げ出すのはいかがなものかという幹部の説得と
も叱責ともつかない話し合いはあったが、「辞めさせたのはそちらで、私は明日から路頭
に迷う覚悟でそういう行動をとったのだからその責は拒否できる」と主張した。
*
もうひとつ私に決断させたことは朝夕の出勤退社時のあの風景である。それまで私は幸い
なことにそのような殺人的混雑の出勤とは縁がなかった。どの首都圏の主な駅も同じ光景
ではあるが、特に新宿西口の地下通路の殺伐とした雰囲気は、慣れない人にとっては異様
で寒気を生じるほど殺気だっていた。例えば、うら若き女性といえども例外なく、目的地
に向かってあらゆる方向に一直線に通り抜ける人のその速さと強引さは、少しでも心に余
裕をと考える人、やさしく道を譲る生き方をしている人には耐えがたい情景である。最早
気合の勝負で、少しでも怯(ひる)んだほうが負けで道を譲るはめになるのだ。
その空間のすべての人々が自分の目的のために周りの人のことも切り捨てて行動できるに
到った経緯はなんであろうか。そして子供や老人のいないその時空間の異常さは、それが
都会の現実とはいえ、そのような環境にたいする慣れや割り切り方を私はとてもできない
と思った。その決断の結果、遂に次の日からまた私は浪々の身となってしまったのである。
そしてその時私は田舎の八十四歳になる一人暮らしの母と同居することを決断したのだっ
た。
*
私はそれまで都市生活者として、大都市の便利な交通システムを満喫し、全国のあらゆる
食品や品物を選択し、自分にあった職業に従事し、最先端の学問や文化を享受出来ること
に満足していた。たとえ午前様になっても公共の乗り物で安全に家にたどり着くことがで
きることに快適さを覚え、不思議なことに生産地よりも安く新鮮な一級の食材を求められ、
会社勤めをしないフリーターとよばれる若者達も食べるには困らない社会、世界の一流の
芸術に毎日接することのできる生活環境があった。しかし最近私の意識のなかに影のよう
に潜むものに気づいた。それは髪は白く、足は遅く、肩は痛く、物忘れに閉口する自分を
叱咤してこの都会生活を楽しむというメリットに疑問を抱くようになっていた。それまで
はたしかに些細なこととして敢えて無視してきたか、あるいは気づかなかった大都会のデ
メリットにたいする意識が密かに私の頭の隅に巣を作り始めていた。人口集中による交通
の渋滞、空気、水の汚染、騒音、土地の高騰、危険物の集積、大地震の予感、人々の心の
荒廃などである。 私は二度と郷里には戻らないと親に息巻いていた自分の考えを翻し、
希望をもって田舎暮らしをしてみようという心境が、例えやくざのような会社からの離脱
という契機があったとしても、知らないうちに出来上がっていたのだった。
*
パンドラの箱その?
そこは肥前風土記逸文にも記してあり、また和泉式部の生誕地といわれるある山の麓の町、
行政上では町ではあるがむしろ昔風に村落という方が理にかなっている。山と川に挟まれ、
堤防や道路の拡張で平地の水田はほとんどなくなってしまってはいるが、何十年も前から
変わらない家々が散らばって建つ、いわゆる里山とよばれる風景である。
同居する母の土地は山が四町、裏山の段々畑が千坪ほどである。その山のほとんどを生産
性のない雑木が占めるなか一部梅の木が二十本ばかりある。一方畑地は四十坪の家に隣接
して梅およびみかんが数十本、柿、すももその他の野菜が育てられている。私がその箱を
開けてしまったのはこのような環境のもとでである。
私はまず、都会の三LDKのマンションに収まっていた家財道具をこの家に押し込めなけ
ればならないという困難にぶつかってしまった。八帖と六帖の二間続きの座敷と二十帖の
LDK、六帖の母の寝室、そして六帖の私達の寝室と十六帖の土間。広い家とはいえ、そ
れらの品物を納める場所はそう多くは無いということが判った。私は親兄弟に指示される
まま、それらの家財道具の全部を一時別の家すなわち甥の広い家に預けることにした。
そして徐々に母の家を整理しながら運び込む目論見であったが、田舎の家の押入れや、納
屋に詰まっている品物がいかに不合理な代物であるかということが段々分かってきた。ま
ずお中元、お歳暮、冠婚葬祭の引き出物の氾濫に驚くとともに、いかに日本の社会経済が
虚礼の集積で成り立っていることかと思った。本人が夢みる、自分の好みに合ったものに
囲まれた趣味の生活が、溢れ返っている贈答品や引き出物でどのくらい損なわれているか
一度考え直して見る必要がある。私はだから人からものを貰うことが厭だし、また好みの
わからないまま人にものを贈ることも憚るのである。
そのような中、二ヶ月かけてやっとそれらの数十年に積もり積もった不要なものを焼却し
たりゴミとして処分した後出来た空間に家財道具をなんとか持ち込んだ。しかしこの「も
の」を処分するという行為は物の無い時代を生き抜き、人様から頂いた物を無下には出来
ないという母の生き方や好みに大いに反することであったとみえて、整理のための廃棄の
決断を促すときにはいつも「捨てろ」「捨てない」の鬩ぎあいを繰り返すのであった。
*
都会に住む人達が想像もつかないことが田舎にはある。着いたその日、白い子猫が庭先に
こちらを向いて座っていた。一点の斑毛もなく全身真っ白でいかにも優雅で愛らしかった。
しかし初めて見る人間に逃げようと後ろを向いたその瞬間、私はなんと形容してよいか戸
惑う姿を見てしまった。それは「因幡の白兎」よろしく腰から下の皮膚がべろりと剥げて
いるのだ。母にその経緯を聞くと、生死の瀬戸際だったので犬猫病院に二月ほど入院させ
て戻ってきたばかりだという。犬でも猫でも噛み付いてもそこまではダメージを与えない
のにと考えていると、獣医さんがいうには「たぶん狐か狸のような野生の動物に噛まれた
のでしょう」との説明であったとか。
新月の真夜中は墨を流したような闇夜で、寝室の裏山に面した窓から得体の知れない鳥な
のか動物なのかはたまたこの世のものでないものか、陰陰とした鳴き声が聞こえてくる。
今は簡易水洗便所でほっとするが、小さいころは床の穴の下は奈落に通じているかもしれ
ないほど暗く、散々お化けの話を聞かされた夜の便所へ行く恐怖は計り知れないものだっ
た。幸い今は改良されて奈落と魑魅魍魎の恐ろしさから開放されているが、猫の一件はま
さにこれからの私の田舎ライフを暗示するにふさわしい出来事であった。
*
梅ちぎりの作業をしていると毛虫や蜂や蚊に刺され、免疫のない私にはつらい環境である。
引越してきたばかりのある夜中、寝ている私の髪の上でもそもそとしたものがいた。思わ
ず手で払いそうになったのを制止したのは、夢心地のわが脳の正しき判断であった。飛び
起きて明かりを点けて枕を見ると二十?もある巨大なムカデで、その体の黒さはいかにも
毒の強さを表すものであった。噛まれたら手が二倍に腫れたという人を知っている。この
時首筋を這って行ったのだから、頚動脈でも食らわれたらこの物語も書けず、今ごろはベ
ッドの上で生死の狭間でさ迷っていたにちがいない。
また、昼間入り込んだ親指大の蜂に気づかず、夕方の暗がりのなか広縁のカーテンを勢
いよく閉めたその瞬間右手中指の第一関節の甲にナイフでスパリと斬られた感触を覚える
ほど痛い蜂の一刺しを食らった。幸いそんなに腫れるほどでもなかったが、一晩中その痛
さに悩まされたのである。ムカデといい蜂といい油断できない現実の自然を都会生活で誰
が予想したか。優雅な田舎の暮らしなどという軟弱な雑誌の特集をみていると、あれは田
舎に持ち込まれた都会の暮らしで、冗談もほどほどにしろ生死の瀬戸際の格闘があること
を知るべきだと反駁したくなるのである。編集者に蝿、蜘蛛、蜂、蚋(ぶよ)、毛虫、ムカ
デ、マムシのいる中での生活を一度体験させてみたい。 それでもなお「田舎暮らし」は
素晴らしいと絶賛すれば本物である。
*
私はちょうどその時、そうとは知らないまま運悪く一年中で一番忙しい時期に引っ越して
きたのであった。梅の採取の作業である。それで生計を立てている訳ではないが、亡くな
った父が趣味として丹精したもので、毎年お世話になった人に差し上げたり、一部青果市
場に出荷したりして楽しみに育てたものである。数十本ある中から出来具合を判定しその
日のうちに採取するわけだが、種類も多くちぎるに適した日もまちまちで、しかも成熟し
た果実は一日として延ばせないのでやたらに忙しい。成熟してくると産毛のある細長い形
から艶のある丸い実に変化する。それらを午前中に採取し、午後に選別して次の日の朝早
く市場に出すという一工程の作業がある。ジャンボ高田とか青軸とか白加賀とか南高梅、
小田原梅などいままで私の想像だにしなかった世界である。競走馬などその道でない人に
はなんだか変に聞こえる名前のように、最初は私にはどれがどれなのかさっぱりわからな
かった。加賀とか南高、小田原などの品種を聞くと生産地の名前なのかと思うが、これか
ら私も毎年従事することから逃れられないとすれば、その謂(いわ)れぐらい知る必要を
迫られるに違いない。
しかし、そのような収穫物を百?や二百?市場に出してもたいした収入にはならない。こ
れで生活費を賄うとすれば、今までの都市生活からは想像も出来ないくらいの労力を必要
とし、知識も体力も忍耐も足りない軟弱な私ではとても持ちこたえることは不可能だと悟
った。実際毎日そのような作業を続けている八十四歳の母のほうが私より持久力において
は優れているのである。男一人のここでは、母にそのような農作業にこき使われ、疲れで
ダウン寸前までいったことがある。なにせ毎日の重労働で筋肉痛が治るひまもないのだ。
本当の親子かどうか一度DNA鑑定をしてもらうべきではなかろうか、しかしもし親子で
なかったと判明したらこの三倍は酷使されるかもしれないリスクを覚悟しなければならな
いと思ったりした。
*
この時期はお金よりもむしろ梅の実が労働の代価となる。円という貨幣の呼称よりむしろ
一?梅(ばい)という単位の通貨が似つかわしく、お手伝いに来る近所の人にはその日の
労働のお礼として市場に出荷しないものの中から何キロという梅を持って帰ってもらう習
慣なのである。そして、私は一?の梅が行商のオバアサンの魚の干物と交換されたり、進
呈した何がしかのそれが苺やケーキや田舎饅頭に化けたりする物々交換の時代が未だに存
在しているのを見たのである。この時期は実の出来具合や自分の漬けた梅干しの自慢の話
題で沸き返っていて、この集落は興奮状態であり、いままでその喜びを知らない私達はた
だその迫力に見入るばかりである。
*
村舅(むらじゅと)という言葉をご存知であろうか。これは辞書には載っていない言葉で
はあるが、字面らや意味がぴったりの誰からともなく聞かされる造語である。私は都会で
は既に失われた人情や環境が、田舎ではまだ充分に残っていると期待していた。静かで、
空気は清く、素朴ないい人に囲まれて平和で、命が延びる生活ができると思い喜んでいた
のだが、いざそこで暮らしてみるとそう単純ではないことを思い知らされた。確かに田舎
の家は玄関のみならず、広縁や勝手口や土間からの出入りは自由であるが、どの部屋であ
ろうと近所のおばさんの侵入攻撃を受けるのである。おまけに食べ物の味付けに口を出す
し、プライバシーのなさと、声の大きさと、まだ残る因習に悩まされている。そこでの生
活習慣をまったく知らない私達が犯した村のルールを即座に指摘するのが村舅である。彼
らにとっては無知な私達を好意で修正してやるという思いがあろう。しかし私達にとって
それはたいした支障でもないと考えている者なので、私達は「余計なことを」と、片方は
「礼儀知らず、世間知らず」という思いの違いが生じてくるわけである。
財産をめぐる長子制度による兄弟の確執や、日々の行動を規制する迷信、しきたりといっ
た都会生活で忘れ去られていたものが、真夜中の裏山の藪の中だけでなく現実の日々暮ら
しの中に出没する魑魅魍魎の世界に私はついに足を踏み入れてしまった。田舎の人は素朴
で、人が良くて、大人しくシャイであると相場は決まっているはずなのに、声高に早口で
喋り、ちらりと皮肉を言い放って去り行き、したたかで繊細さに欠ける人達がいる。それ
も人に危害を加えたり、良心に付込んで財産を奪ったりするような悪ではなく、好意的に
考えて「裏返せば親しさの現れかもしれない」と思わぬでもないが、私達が大事に守って
きたテリトリーの中に平気で踏み込まれるという不快さがあるのである。
また、鶏の飼料の生臭い匂い、何かの食べ物の腐った匂い、家に染み付いた説明のつかな
い不快な匂いの数々。一日中うんうん唸っている冷蔵庫の音、数匹飼われている近所の犬
によるリズムも音程もめちゃくちゃな暁の大合唱、地鳴りのような耳の底に残る虫の鳴き
声。ヘビ、アブ、蚊、蚋(ぶよ)、蜂、ハエ、毛虫、ムカデ、ヤスデ、なめくじ、くも、
道路の向こうの偏狭で強欲で粗野な鼻つまみ老人、白の餌をぬすみに来るふてぶてしい黒
斑のオスの野良猫、そしてこのすべてを焼きつくような高温多湿の今日このごろ、そして
一番の問題は「金も力もなかりけり」の甲斐性なしの己の存在である。
エピローグ
あまりにも清潔に、あまりにも繊細に、あまりにも個人主義的な都市の暮らしが、この田
舎の荒削りのしぶとい生き方に翻弄されてその脆弱性を露呈したことを認めずにはいられ
ない。しかし私は自ら望んでここを選んだのだからそれらの攻撃にいかに対処するか、排
除するのかあるいは受け入れるのか、感覚を鈍化させて慣れてしまうのか、この田舎ライ
フを続けていくためはケリをつけなければならない大問題の狭間で私は苦悩しているので
ある。
5号 2000年7月
5
:
α編集部
:2014/02/27(木) 22:38:53
(無題)
.
続・都市と田舎の狭間で 前編
(お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。)
プロローグ
三十年間暮らした首都圏を離れ、郷里の親元で暮らすこととなったが、周りを親類・縁者で
取り囲まれた環境の中で、価値観の微妙なずれによるさまざまなカルチャー戦争に敗北した私
は住み始めて半年で再びそこを去ることを決意した。
パンドラの箱その?
――小さい頃の思い出――
自らの決断で、都心の窮屈な生活から脱出し、田舎での静かな楽しい時間を期待して戻って
来たのだが、人生の半分以上を大都市の中で生きてきた私にとっては辛い体験をすることにな
ろうとは、思いもよらなかった。しかしもともとその田舎の生活は両親の里であり、本家の一
歳年上の従兄とは仲がよく、折にふれて町の方から泊まりに通ったものだから、どのような田
舎の暮らしかは承知していたつもりであった。私は小学生の頃私の住んでいる町の生活環境と
田舎のそれとはずいぶん違うものだと感じていた。その頃は何がどう違うのか言葉で表現する
能力もなかったのであるが、長じてその頃のこの郷里での生活を考えることが時々あった。親
と子の関係において、親しく子供に声をかけたり、子供が親に甘えたりといった、町ではよく
見かける家族の深い絆が感じられないのである。私の両親は子供に無関心では中ったが、ここ
では仕事の手伝いでうまく行かない子供の行動を叱責することのみが多かった。趣味や遊びに
ついても親は無関心で、ただ農作業の進み具合ばかりが気になるようだった。そのことはただ
本家だけの環境かというとそうではなく、この村のほとんどの家庭がそのように私には感じら
れたものだ。古い習慣や生き方や価値観をひきずっていて、夫婦や子や男や女といった人間関
係において町とそれと微妙に違うことが幼い私にも感じられた。
しかし、私はとって大きな川に東側を抉られるように迫る山の麓にある本家の暮らしは、町
中では味わえない違った体験のできる場所であった。まだ小さい体の従兄と私達二人は親の指
示のもと、朝食がすむと小屋から農耕用の牛を出し、手綱を引いて餌場に出掛けて行った。多
分小学校に通っていたので、この子達の作業は日曜か祭日の時だけだったかもしれない。私が
学校の休みに訪れると必ず従兄の仕事になっていたが、牛の使役がおこなわれる農繁期や雨の
日を除いた毎日の大人の仕事であったろう。それとも餌場からの連れ戻しの仕事は学校を終え
た従兄の夕方の日課だったかも知れない。
元来農耕用の雄牛はおとなしくするために去勢する慣わしであったが、ほんのまだ十歳に満
たない子供が五百?の重さを越える巨体の牛を連れて歩くのだから、今では考えられない情景
であった。目的地の餌場に行くまでのろのろ歩き、傍の草を食もうとするのを促しながら嫌が
るその背中に乗ってみたり、まつげの長い大きな目を覗きこんだりして数十分かけるのである。
川の土手の斜面に一本の杭を打ち紐を結んで、その周りの茅や酸模(すかんぽ)や虎杖(いた
どり)を食べて一日過ごさせるのだが、私達は次の農作業の手伝いを言い渡されているにも拘
わらず、川の側まで降りていって、次の日曜には手長海老(だくまえび)を釣ろうとか、上海
蟹に似た津蟹はもう取れるだろうかと相談しながら、未だ葉の中に隠れている茅萱(ちがや)
の柔らかい甘い穂を摘みチューインガムのように噛みながら、家に帰れば遅いと叱責されるこ
とを知りながらしばらくその辺で道草を食うのが常だった。
時には、今思うと国有林であったのであろう、官山と呼ばれている山頂ちかくまで作業のた
め登らされることがあった。どのような農作業であったか思い出せないが、小半時かかって登
りつめると芋畑か茶畑があった。官山と畑地は山道で分れていて、官山は頂上に向かって檜が
整然と植林されていた。開墾された下の畑地はその先が断崖になっていて、長い間干拓埋立用
の石を調達する石切り場になっていた。この頃はもうその作業に携わる威勢のいい男達や飯場
を受け持つ女性達の喧騒もなくなりただ切り立った岩の壁だけがその面影を残していた。私達
が就学する前は、石を切り崩す発破の音が響き渡り、舗装されていない村道にはトラックが土
煙をあげて走り回り、採石場から船着場までは石を積んだトロッコが駆け下り、川縁には大き
な石積み船が盛んに行き来して、辺りは荒荒しい活気がみなぎっていた。いつ閉鎖されたか私
の記憶に残っていないが、干拓工事が縮小されたか終了したのか、石切場も村いつの間にかも
めっきり静かになっていた。
山そのものはそんなに高くはなかったが、椎やブナなどの落葉樹、粗樫(あらかし)や椨(た
ぶ)の木など照葉樹に覆われた山の道は日光を遮り暗く、一?にも満たない通路は岩の間をよ
じ登っていくような沢道で、雨でも降れば一気に水が駆け下りる険しい場所もいたるところに
あった。低学年の二人がよくそのような人にもめったに出会わない山中を駆け巡って
いたことを今思うと、自分の子供達なら決してさせたりしないだろうと思うが、その頃の田舎
の子供達はそのようにして山の中で遊んでいたものである。どんぐりの中でもこれは食べられ
る実であるとかそうでないとか、この洞穴にはおおきな蝦蟇がいるとか、ここに木苺が実る場
所とか、いろいろと従兄に教わった。山鳥やウサギを捕るのだといい、作業場に行く途中細い
潅木の枝を曲げ、凧糸を三角に張って二本の棒に結びつけて動物が挟まるようにした構造の罠
をよく作ったものだ。鳥の羽根の数片の散乱は餌の米麦や青木や藪こうじの実を食みに来た形
跡であると認めるのだが、現実に獲物を見た経験は私にはない。ただ従兄の自慢話の中に罠に
かかった鳥やウサギを捕獲する情景を思い浮かべ、憧れとときめきを感じたのだった。その頃
山野で遊ぶ子供達の常備品は、物を切ったり結わえたりするための肥後守と呼んでいたホール
ディングナイフや凧糸、冬であれば鳥餅などであった。
父もまたこの山で育った。寡黙な父は厳格そうであったが、それは己に対してだけであり、
私達には何事も強制はしなかった。私は甘えん坊で、貧しかった家の手伝いなど思っても見ず、
ただ頼りきっていて自分のことしか考えなかったが、父の意に添わぬことをしても、父は激昂
して体罰を与えるということは一度もなかった。しかしそのようなごつくて堅物の姿からは考
えられない趣味を父は持っていた。それは、小さな鋳物工場を経営し終戦後のまだ生活も苦し
い時期であったが、もあの優雅で美しい姿の目白や鶯を飼うことであった。常時六羽くらいは
育てていた。夜は山から切り出した竹でせっせと籤(ひご)を削り出しては小鳥籠をいくつも
作っていた。そして時には私を連れて厳寒の山に小鳥を取りに出かけて行った。野生の目白の
取り方は幾通りかあって、目指す鳥によって方法は違ってくることを私は身をもって教えられ
た。まず目指す鳥とは何か、目白の愛好家の間では一定の時期を設けて美しい鳴き声を競う遊
びがあり、優秀な鳥とは―高音を張る―すなわち高く鋭く鳴き相手を威嚇し屈服させることの
出来る鳥のことである。即ち餌場の縄張りを独り占めに出来る強い個体であることである。一
般に子供や初心者は雌や雛や未だ独り立ちしていない雄達からなる弱くて群をなす目白を取る
ことから始める。それには適当な藪椿などの餌場の小枝に鳥餅を塗っておく。鳥餅は餅の木の
樹皮から作り、鶯色で目立たないものである。気温の低い冬場は硬いので、仕掛ける前にチュ
ーインガムのように口の中で噛み解し、柔らかく粘りが出るようにしてくのである。
父は、強い目白が独り占めしている甘い樹液の出る樫の木とか藪椿の大木がこの山のどこに
あるかを熟知していた。父が使う捕獲の方法は、縄張りを持つ強い目白に対して、手持ちの最
高に強い鳥を選んでわざと縄張りの木に掛け、戦いにきた野生の賢くて一筋縄ではいかないた
くましい鳥を捕獲しょうというもであった。それは囮籠といって、家で飼っている目白を囮と
して下の段に入れ、上部は落とし籠になっている。縄張りを守ろうとする野生の目白が、自分
のテリトリーを侵すものに戦いを挑んで上から攻撃しかけて来てその中に入り、入り口の扉が
閉まるという訳である。子供の頃庭で遊び半分に竹籠につっかい棒をつけて雀を獲った要領で
ある。しかしこれは運と偶然に支配されると言った捕獲方法で、群目白ならともかく個体数の
少ない強い鳥を得るには確率が悪く、父と私はちらちら降る雪の中一時間でも二時間でも藪に
隠れ潜んでいたこともあった。その豊かな餌場の縄張りを支配する鳥は用心深い知恵と勇気に
満ちた雄鳥で、捕獲するのは難しかった。そして父と私は薄暗くなってきた山を下り、手ぶら
で町へ戻る日も多かった。
従兄とは近くに住むようになった今時々は会って話をする機会もあるが、まったく違う道を
数十年歩いてきた私達に共通する話題は、天気のことやこれらの幼い頃の思い出ばかりで、ご
く限られたものになってしまった。
―離れの家―
郷里へ戻れば早速母屋の横に離れを作れるという望みがあり、これを私は喜んだ。なにせ人
様の家を設計する職業に就いていながら、自分のための家を創る夢を一生実現できないのでは
ないかと思われた。医者の不養生、紺屋の白袴の譬を地で行きはしないかと半分諦めていたか
らである。
生を受けて以来今まで三十回近く転居した私には、棲家という定着目的の器を創ることにお
いて、まことに不適当な職業を選んでしまったのかもしれないと思うこともあった。転居の意
味を「いたる処の良い点と不便な環境をつぶさに体験し、どの部分が不都合かどうすれば住み
よくなるかを研究してきた」と強弁することもできるだろう。
ともかく自分なりの理想の住居は常に頭の中にあり、研鑚も計画も怠らなかったものの、已
む無く他の人が造った西洋長屋に屈辱の三十五年間を過ごしてきたのが実情だった。そして遂
にそれを清算し小さいとは言え、自分の考えだけを尊重した自前の家を実現できる時がやって
来たのだ。
工事費の問題はあったにしろ、お手のものの設計は希望の光に満たされて楽しくかつ迅速に
進んだ。設計行為自体は一銭のカネもかからず、ここまでは実にスムーズにことが運んだもの
だ。
母屋から半間のところ、二十数羽の鶏とその小屋を裏の畑に移転し、百坪の花畑に向かって
八坪ばかりのワンルームをとの計画である。ラスコーリニコフやファルスタッフ、エルキュー
ル・ポアロ、アン・シャーリー、ジュリアン・ソレル、ペーター・カーメンチント、ジャック
・チボーらの住んでいる本棚と、アキュフェーズのアンプ、ダイアトーンHR2000のスピ
ーカーのオーディオセットとが、十分効果を発揮する居場所を確保することをめざして、リビ
ング兼寝室を計画した。見晴らしのきく景色の良い高台で、そして花に囲まれたテラスでお茶
を飲む幸せな時間を思い浮かべて・・・。
今まで私は自分の家に対して抱く思いが人と私のものとでは少し違うことを感じていた。建
物が出来終わった時「この家は最上のもので未来永劫変ることなく自分に満足を与えてくれる」
と人々は思っているが「完成した時がすべての出発点である」と私は考えているのだ。結婚が
その人達の最終点ではなく、お互いがそれまで背負ってきた習慣や考え方の違いの中で、未来
により良く生きるための絶え間ない工夫と努力が必要であるのと同じく、家も住む人が空間を
加えたり除いたりの繰り返しを十年、二十年しながら自分の好みに合わせ快適な家に仕立てあ
げるものではないであろうか。
そのように私は「住居とは条件の変化で時と共に変わるべき物」と考えているので、竣工時
の完成度の高さは私には馴染まないものと言える。それはその質の高さゆえ変化させる自由を
奪われてしまうことが問題であり、私の家は贅沢な建材や完成時点の立派さや見てくれのよさ
を排し、最小限の機能とフレキシブルなシンプルな空間があれば良いとしたい。実際家に対す
る用途はその人の人生の時々によって違うものであり、家の大きさや仕上げ材や色合いや好み
も自ずと変化する。親から離れ独り立ちした時は六帖一間でもやっていけるし、結婚して二人
になれば二LDK程度あればよい。そのうち子供も増え個室が要求され、親も同居するとなれ
ば勢い大きな家が必要になる。そして子供達も独立して行き、親もいなくなるとその用途は単
純なものに戻っていくのである。もちろんそれぞれの時期でも用途の膨張や収縮に対応できる
のであるから、初めから広い方が理に叶っているのだが、工事費の問題で財布と相談するが大
抵はうまくいかないものである。
そこで、我が離れ家はというと、安価に建てるため構造材として間伐材や民家の廃材を求め、
内壁・外壁の縦羽目板は製材のままの引き割り材とし、節や色むら有りでもかまわないことに
する、塗装は自ら暇に任せて完成後ぼちぼち急がず慌てず行い、坪二十万円くらいで建てる計
画をした。そして私の頭の中でこの計画も完璧に仕上がり、後は現実にこの夢を叶えるべく着
手さえすれば憧れの自分の家が手の届くところまで来ていると考えた。しかし、その計画の挫
折は意外に早くやってきて脆くも崩れ去って行ったのである。
「今年あなたが家を建てたら親が死んでしまう」という御宣託が占い師によってもたらされ
たのである。私自身はたとえ野垂れ死しようと、人の指図に自分の人生を左右されることを好
しとしない性格であるのでそのような誹謗に怯む訳はなかった。方角が悪く行動を制限される
場合、どうしても行わなければならないならその時の方便があって、方違(かたが)いといっ
て一度別の土地に行き目的地への悪い方角を避ければすむ。私はそのような迷信や占いは当然
歯牙にもかけなかった。しかし土地は私のものではなく、帰ってくる時「都会生活の私達が田
舎の住環境に馴染まないだろうから離れを作ってもよい」という話があったが、現実になると
「その金は誰が出すのだろうか」という言を聞くに至り、いよいよ私達がここにいる根拠や正
統性に問題があることが露呈してしまった。これは郷里に戻ると決断した経緯の中にすでに萌
芽していたにも関わらず私が軽視したものだった。
そんな訳で医者の不養生、紺屋の白袴、建築家の間借人生は当分続く見こみであり、ただ夢
の「離れ家」の図面のみが実現されることなく虚しく手元に残った。
―お中元戦争―
ある時、私には考えもつかない種類のお中元をもらった。正確にいえば私にではなく母に頂
いたものだが、常識的に贈り贈られるものとして砂糖、サラダオイル等の料理に使用する調味
料 梨、葡萄、リンゴ等の果物、ビール、ジュース等の飲み物と相場は決まっている。しかし
贈られて来たものはダンボール箱一杯の生乾きの煮干である。それもビニールの袋に入れるで
もなく剥き出しのなので家中にその生臭さが広がり、べとりと身に纏わりつく湿気に満たされ
た空気の不快さと相まって、冷凍庫に封じ込める作業を終わるまで気分が優れなかった。世の
中にはこの匂いをこよなく愛する猫みたいな人も居るのかも知れないが、私は相手がその品物
を贈ることに何らかの隠された意図を含んでいるのではないかと深読みもしたくなった。そし
て貰った方はあまりにも想像を越えた質と量の品物にどう自分の頭を納得させればよいか、ま
たどう処置すればよいのか戸惑ったことである。
贈り手が一年間でも使い切れないほどの大量の品物を贈る意図に、贈られた方がはたして率
直に感謝の気持ちを持つべきか。長い期間この生臭い匂いと収納場所に困り果てることは必定
で、むしろ嫌がらせかも知れない、そうではないとすればなんと無神経であることか。
母は、そのものが何であれ、例え毒入りチョコレートや危険なキノコであろうとも、「贈り
手の好意なのだと納得して感謝しなさい」という。しかし私は贈り手が贈る相手に対しての感
謝の気持ち―あるとすればの話だが―もっと相手のことも深く思いやって、その人の好みや食
べる量などを密かに探り当てるべきであり、さすがあの人は趣味の良い人だと思われるほど見
事に遣り通す器量が欲しい。ダシの沢山必要なラーメン屋を営んで居る訳でもあるまいし、有
り難いと感謝するより却って不快さの方がより強く返って逆効果であろう。最早どこの社会で
もお中元やお歳暮などの贈答は、「相手が好もうと困ろうと贈っておけば義理は果たした」と
いうただ単にシキタリとしての形式を整えた安心を得るだけものに成り下がった感がある。受
け取る方もまた意に添わないものだらけか、または消化出来ない量に戸惑う結果、盥回しや百
貨店に引き取らせるなど、機械的に処理する形骸化した悪弊となってしまった感がある。
そこで、なんとも悩ましい問題を提供されたお返しにブラックユーモアよろしく、そちらが
うならこちらも一つ想像もつかないお中元を考えてやろうという悪戯心を起したのである。そ
して、実現する訳にもいかないからせめて想像の世界の中においてだけでもその仇をしっかり
討ち、飲を下げたいと考えた。
さて、それには三つの条件が満たされる物でなくてはならないと規定した。例えば、大根を
トラック一杯、トイレットペーパーを山ほど、ユニクロのバーゲンTシャツをごまんと贈ると
か、少しはあってもいいが好みもサイズもまちまちで収納や処理に困る量であることは必定で
ある。
一つ目は量の問題、考えもつかないほどの量。
二つ目は想像だにしない物。
三つ目は金の掛からないもの。
この空想は当分暇つぶしの宿題にしておこう。
―イングリッシュガーデンー
離れ家の挫折に懲りずにまた暇にまかせて、百坪の花畑をイングリッシュガーデンに改造し
ようとして、あれやこれやと考え始めた。郷里に帰って数ヶ月、友人やら親類やら知人の紹介
で色々の会社や工務店、設計事務所を営業して歩いたが、好意的な返事は至るところで貰った
ものの、この地方の仕事量の少なさは驚くべきもので、如何ともし難いものだった。その中で
唯一の仕事が、ある首都圏の県営団地の基本計画コンペティションを、某設計事務所から成功
報酬でよければ頼むということだった。それは裏返せば当選しなければ報酬無しということで
あったが、それでもこの耐えがたい湿度とクソ暑さに脳みそをいたずらに腐るままに放置する
よりましだと考えた。毎朝田舎道を四十分、県庁所在地の事務所まで車で通う日々、百十五戸
敷地三千坪というかなりの団地計画も、の大きさの図面一枚に纏めるのには一カ月という期
間があり、時間は有り余るほどあった。
母が管理するその花畑は、花園というよりやはり畑感覚のものであった。これも個人個人の
好みの問題と言い切ってしまえばそれはそれで良いのだが、それでもいくつかの根本的な問題
があった。碁盤の目のように植えられたバラや菊やボタンは整然としていて、市場に出荷する
畑の花を思わせるのであった。種々の花がお互いに干渉し合わない配置の妙だとか、季節によ
って咲く花とそうでない緑の葉との関係、高木と低木、地被類とのバランスなどが考えられて
いないのだ。たしかに丹精して咲かせた花はテーブルやちょっとした空間に置かれた単体は素
晴らしいものであるが、ところ狭しと種々雑多な花の氾濫は決して印象には残らない。私は花
の種類と量や数がバランス好く計算された庭を求めて本を買い、資料を集めて動きだした。
花壇と歩道の境界はオーストラリア産の鉄道の中古の枕木を、そして歩道にはこの近くのず
いぶん前に使用されなくなった久間焼きの釜に使われていた耐火煉瓦を求めた。それは帰郷し
てまもなく見学に行った時目に付けていたものだったが、しかしそれはすでに町に寄付したも
のであるからということで、手に入れることは出来なかった。それならとそのような古色蒼然
とした風合を持つナチュラルレンガに決めた。そして家族が団欒できるスペースを中心にする
ことを意図し、精神的な求心力を創り出すため、シンボルツリーを中央に二組のベンチをその
周りに配置した。私はそのシンボルツリーを胡桃の大木でないといけないと決めていた。この
木には小さい頃からの憧れの生活を象徴していて、何十年もの間理屈ぬきの思いとなっていた。
胡桃の木は小学校に通う道沿いのとある病院の庭にあった。道路より一段高い石垣の端にあ
り、数十メートルの大木の姿は富と文化の象徴に見えた。秋になると私達子供は登下校の際、
時々胡桃が実っている空を見上げては、果実を落とすために石をなげたり、またすでに落下し
たものを探したりした。運良く手にすると宝物のように大事に家へ持ち帰ったものである。私
は、この山里の雪の降る夜、だるまストーブを囲みながら、自分の庭で採取した沢山の硬い殻
を割りながら食べている団欒を夢見ていた。
しかし、私の設計事務所としての仕事がうまく稼働しないこと。郷里に戻り父の意思を果し
母親の面倒を見るという目的に反し、都市での生き方がここでのそれと歯車が合わないこと。
それらの問題が自分も回りの人達も不幸にしているのではないかと言う思いに行き当たった。
私はこの状態が続けば徹底的に衝突することが予感され、いづれ何らかの決心をしなければな
らないだろうと思われた。
そしてまたイングリッシュガーデンの計画も実現の日を見ることなく虚しく図面だけが残っ
た。
6号 2001年8月
http://
6
:
α編集部
:2014/02/27(木) 23:48:59
続・都市と田舎の狭間で 後編
.
続・都市と田舎の狭間で 後編
(お断り・・・ここに登場する時代、場所、団体、人物等の構成する環境は架空のもので、
現実のものとして特定できるものでなく、また普遍的価値を含むものでもない。)
―朝帰りー
ある梅雨明けの早朝、事務所に出勤する時の出来事である。車で家から一分も走らないなだ
らかなカーブの舗装された道路上に、見事な直線で直角に過ぎる何か判断のつかない物が目に
入った。右手に民家と山を左手に水田を控えた場所での出来事である。そのまま踏みつけて走
り抜けようと思ったが、いつも何かを踏んだ時車輪から伝わる衝撃に気味悪さと後悔の念が苦
い味となって残るものだ。私は一瞬のうちにそのことを思い出し、間髪を入れず急ブレーキを
掛けた。その一本の「縄」かと思えた物体はもんどり打って二つに折れたように見えた。そし
てすぐさまうねりながら水田の方に向かって逃げて行った。その時はじめて蛇であることが判
り、踏まなくてよかったと安堵した。事態に驚き悲劇に終わらなくてよかったと、そうお互い
に思っているようで、なんだか友人になったような心の通いを感じた。
そういえば山側の部分は頭で太く水田側の部分は尾で細かったことを、いかにもその一瞬判
っていたような錯覚をしていたが、実は通り過ぎてから納得したものだった。そういうことは
よくあることで、蛇という頭の中の概念で細部を補って認識したのであろう。
涼しい朝方、水田で捕獲した獲物の蛙でも得て満腹し、冷えたアスファルトの心地よさにつ
いうとうととしたか、二?を越えると思しき見事な巨体であった。爬虫類は死ぬまで成長し続
けると聞くが、そこまでなるには相当の年月を、人間からの危害や鷲や鷹の襲撃、交通事故か
ら首尾よく逃れる知恵をもった尊敬に値する個体だと思った。そして私は民家の納屋に主とし
て棲みついている朝帰りの青大将であろうと勝手に想像し、何時の日か再び見えんことを期待
するのであった。
―囚われの身―
我が家には農薬を混ぜるコンクリート製の水槽が、裏山の始まる屋敷の北側に一基造り付け
てあった。柿の木の下にあるそれは、手前が水槽の底と地盤が同じ高さで、反対側の土地は水
槽の上の部分と同じ高さになっていて、ポンプや溶液の攪拌機の納められている小屋が隣接し
ているという、段々畑の一角にあった。横二?奥行一?深さ一?半で、中心に仕切りを持つ二
つの槽に分かれていて、まるで木製の角風呂を二つ合わせたようなものだった。それは、父が
亡くなってからはもう殆ど使用されず、一つの槽は空で、他の槽は排水口でも詰まっているの
か、底から三十?くらいまで雨水が溜っていて水は淀んでいた。
これらの工作物は、みかんや梅の木を消毒する際薬品と水をかき混ぜて薄める施設であった
が、役目を放棄されてからずいぶん日が経っていた。その理由はもっぱら働き手としての父が
居なくなったからなのか、それとも時代とともに消毒作業のやり方に変化があったのか、転居
して間もない私には、その理由を判断することができなかった。とにかく、この家に出入りす
る人達はみな水槽に関心を寄せることを既に止め、その中を覗くという行為をするのは、私み
たいに何にでも好奇心を示めす新参者だけであった。
ある時私は手持ち無沙汰のまま何の意図もなくひょいと右側の水の溜まった水槽を覗いて見
たのである。その水槽は下から五分の一ほどまで雨水で満たされていて、五十?ばかりの細い
棒切れが二つ三っつ浮いていた。そこには白い腹を上に向けた少し大きめの蛇の死体が一つあ
った。そして三十?に満たない生き絶え絶えの―私にはそう見えた―別の蛇が三匹それぞれの
木切れにしがみ付いていた。死体が母親なのか、ほかの三匹がその子供なのか私には判断がつ
かなかった。それ以上に、異常な光景と爬虫類独特の無気味さに圧倒されて、助け出そうかと
いう気持ちが一瞬頭をかすめたが、そのまま私はそこを立ち去り、母にそのことを告げた後は
敢えて思い出そうとはしなかった。
助けるか死に至らしめるままに放置するかを迷ったのは、それが毒蛇ではないかという懸念
があったからであった。マムシの形状や色合いを聞いたり本で調べたりしたことがあるが、実
際に見た経験がないから決定的にそれがその蛇であると言い切る自信はなかった。見るという
行為も漠然と印象だけを記憶することでは、後で書物でそれを調べ比較するにも大した手助け
にはならなかった。
その蛇は細長く黒い中に赤い斑点があった。確信はないが、とにかく後日調べた書物による
と、どうもヤマカガシらしかった。二、三日を経たある日、「まだ二匹が生きている」と母が
言ってきた。「助けようか」「毒蛇のマムシではないようだ」などと二人で思案した結果、助
け出すことに意見が一致した。田舎では、鼠など穀物を食い荒らす小動物を駆除するものとし
て、ヘビが必ずしも忌み嫌われるものではないし、なるべく不必要な殺生はしたくなかったた
めである。
しかし、その後調べた詳しい資料には「ヤマカガシは毒を持ち攻撃的である」と記してあっ
た。その水槽の際の湿った石垣に逃がしたのだから、そしてもともと水槽に一家で入り込むの
だから、ずいぶん以前から住み着いていたに違いないことも知り、助けられたことを覚えてい
てくれればよいがと、変に恩着せがましいことを思いながら、今後草取りをする時は用心しな
ければならないと考えた。
そして話はここで終わらず、数日後癖になってしまった覗きの結果、褐色のヘビが一匹木片
にしがみついているのが再び見えた。そして図鑑を片手にまた悩み始めたのである。今度のは
地が褐色で黒いひし形の模様が見られ、こんどこそどうもマムシではないかと思われた。しか
し前の判断の迷いと同じく、確信がもてない。母との協議で「マムシみたいだからしばらくそ
のままにしておこう」ということになり、一週間ほど経過した。
なぜそのような深くて脱出不可能な水槽に飛び込むのか、それもたまたま間違えてドジな一
匹が入ったとも思われず、数匹の蛇が何回も飛び込むことには何かの正当な理由があるのだろ
う。隣の蛇の入っていない水槽を覗くと土色をした三?ばかりの蛙が四、五匹常時侵入してい
る。このことから推量するに、彼らはその蛙を狙って飛び込むのではないか。そして一度は入
ったらよほどの大雨で水槽から水が溢れないかぎり脱出できないにもかかわらず、上から飛び
込む蛙を待ってさえいれば、労することなく生き長らえることは可能であり、水槽の外で必死
で捕食する努力するよりも楽であるかも知れないのだ。
私達がその水槽の中の生き物のことを忘れかけた頃、突然予想だにしない結末がやって来た。
訪問客と交わしたその話を誰かに伝えたらしく、村はずれの人が「マムシ酒にするから下さい」
といって捕獲し、貰い受けて行ったのである。私達は自ら難題を解決する手間が省けてほっと
安堵した訳だが、その一方直接害を与えられた訳でもないのだから逃がしてやってもよかった
のではないかと思い、可哀想なことをしたという思いも密かに残った。
―遊びー
野生の動物に背中から尻にかけてパクリと齧(かじ)られた生まれて数ヶ月の子猫が引っ越
してきた家にすでにいた。生命は取り止めてはいたものの、長い尻尾は食い千切られ肛門の括
約筋も傷つけられ、糞をうまく処理できない状態であった。獣医からも、背中の深い傷よりも
むしろ排便をうまく出来るようになるかが生死のわかれめだ、とのことであった。背中の傷を
除けば真っ白で優雅な姿と鳴きき声のその猫を私達は可愛がった。病院から貰ってきた消毒剤
を塗るのだが、皮の剥けた赤みの肉を見るたびにこの子猫が生き延びれるか危ぶまれた。そう
いうことがあったためか、白猫は新参者の私にはなかなか気を許す気配がなかった。それでも
日を経るにつれ、畑に行くときは遠巻きにしてついてくるし、梅をちぎる作業が始まり、私が
梅の木の高い実をとっていると納屋の屋根の同じ高さに駆け登ってきたりして、付かず離れず
遊ぶようになっていた。なかなか抱かれるのは嫌がったが、朝夕の餌をねだる時は、足に擦り
寄ってくるようになってきた。
部屋には上げず土間で寝起きさせていたのだが、筋肉の感覚をまだ取り戻せなくて糞を所か
まわず出してしまうので、母が怒って戸締りする夜は外に出すようになった。よく出窓に上が
って部屋に入りたそうにするので、母が寝室にこもった後時々私はこっそり部屋に入れた。望
みが叶った喜びに興奮したのだろうか、テーブルクロスや椅子の陰にかくれたり、走り回った
りして遊ぶのだった。
朝土間の戸を開けると何所からともなく飛びこんできて餌をねだり、また家の外に出ていっ
てしばらくは姿を見せない。昼間そこを覗くと椅子に寝そべっていたり、母が収穫した小豆や
胡麻の入っている竹籠の中に眠っていたりして、母から怒られ追い出されたりしていた。夜よ
く浴室の窓の外にある洗濯機の上で寝ているのを入浴する時見かけたが、そこにいない日はど
こで寝ているのだろうか。
休みの日曜などに家にいて観察してみると、餌を食べる以外はほとんど外で過ごしているよ
うで、西側の洗面室から格子窓ごしに白がみえた。蝶々やトンボや蛙をを狙って草むらの中に
身を伏せている姿で、それらの小さな生物が近づくと飛びあがって捕獲しようと試みていた。
日を経ているうちに、白の行動パッターンがだいたい分かるようになった。括約筋も少しづ
つ感覚が戻り、意志どおり糞を処理できるようになると、朝食を済ますと坂を下りていって屋
敷の前の隣の人の畑に糞をし、しばらくその畑を一巡りしながら遊んでいる。私達が事務所に
出勤する時はいつも花畑の入口の箒草の蔭で私を待っているし、帰って来た時もどこからとも
なく近寄って来てその箒草の所で出迎えてくれる。私達が郷里にいる間中この白猫は一日中前
の畑や西の草むらや屋敷の裏の段々畑で一心不乱によくひとりで遊んだ。それは待遇や身の不
遇を嘆きもせず見事に生きている姿だった。私達夫婦はしっくりいかない人間関係の中で、こ
の白猫からのみ慰めと安らぎを与えてもらったように思う。背中の赤剥けの皮膚もすっかり真
白い毛にふさふさと覆われ、秋まで持たないのではと思われた華奢な体も豊かに肥えて、近所
の飼い猫や野良猫の間でも際立った優雅さの「白猫」と成長した。そして母に「もう外もだん
だん冷え込んでくるからこの猫を夜だけは土間にいれてやってくれ」と頼んで私はこの故郷を
あとにした。
―ある友人への手紙―
拝啓 ついに二十一世紀の夜明けを迎えました。個人的には還暦と歴史的には百年のみなら
ず千年単位の新しい物事の始まりという実に記念すべき時の重なりは、私にとって幸運な星の
巡り合わせとしか言いようがなく、変化の多い近年の中でも今年は記憶すべき年になりそうで
す。小さい頃はこの世界を覗くことすら及ばないような遥かな遠い未来でしたが、現実になっ
てみて「よくぞここまで来たものだ」という感慨が沸いてきます。そしてもうそろそろこの十
年の不遇を逆転させてくれる幸運の女神に会えるような気もします。たとえそうでなくても、
若くしてこの世を去って逝った友人や、親類、親しかった人達のことを思うと、この歳まで生
き長らえて来た己の人生は満足すべきものであり、充分帳尻があっているなどと考えたりして、
自分なりに納得しています。
さて、貴君に出した最後の便りはいつの頃だったか、手帳を調べてみて昨年八月以来の随分
の無沙汰を決め込んでいた自分にあきれました。いくら環境に馴染まず落ち着かない悶々とし
た日々を過ごしていたからとは言え、許されざることと反省しています。それでも過ぎ去った
それらの長い月日の間中頭の奥の暗がりには足の裏に刺さった刺のように、たとえ見えなくて
も折に触れて気になる痛みを発し、良心の呵責を覚えさせていたことは事実です。
その便りの途絶えた間にも私の身の周りには色々の変化がありました。むしろ変化があった
からこそそのような雑事や煩悩に時を奪われて、便りを出すエネルギーが枯渇したと言えるで
しょう。
ご存知のとおり去年の五月上旬に郷里の母の里、杵島山の麓の町に戻りました。そして、私
の少年の頃育った土地、現在兄が経営する四十六室を持つ三階建学生マンションの一室に設計
事務所を構え、山里から三十?の道程を車で四十分駆けて妻と共にそこへ通いました。母の面
倒をけなげにみるといってくれたものの、彼女に今まで経験したことのない閉鎖的で因習のい
まだに残る荒々しい環境に一人残して来るのが可哀想であったからです。
そして私は毎日、友人や親戚の紹介や口利きのもとに建設関係や設計事務所、役所などに営
業に出かけ、例年になく記録的な猛暑の中六ケ月余り自分なりに頑張りました。努力がまだま
だ足りないとか才能がないとか、人から見ればその原因は本人より明かに解明できるかもしれ
ません。また他の人であれば成功を手中に収めることができる状況があったのかも知れません。
しかしその結果は一つも実らず、期待は敗れ去り、終に私は「この時、この地では身を立てる
ことは難しい」と判断せざるを得なかったのでした。時が悪いのか、場所が悪いのか、能力が
欠けているのか、多分三つとも当たっているのでしょう。
そのような状況を打開すべくいろいろの方法を思案している丁度その時、都会の知り合いから
仕事の依頼がありました。継続性のある受注が望めるかどうかを確認しに十月中旬出かけた結
果、経済上考えていたよりもひどい冷え込みのこの地方より大都市の方が活路を見出せると思
い、戻る決心をしました。そして半年前に盛大な送別会をしてもらって出てきたこの大都会へ
再びやって来た次第です。
そしていま考えるに、郷里に移り住むということに対して抱いていた、親兄弟そして私達の
それぞれの間の「思惑」に、微妙な違いが存在していたことが、徐々に明らかになりました。
第一は 兄夫婦がなぜ私達の帰郷を強く望んだか?
昨年の春突然電話があり、「亡くなった父がこの屋敷や山を住宅地として開発
することを望んでいる。また学生マンションも計画道路実施による建て替えもす
ぐに発生するから、都会で苦労するより見切りをつけて早く帰って来るように。
そしてそちらの住居を引き払うなら住まいに困るだろうから母と同居すればよ
い」とのことでした。
数年前から東京での仕事がうまく見つからない理由を常々報告していたからかも
知れないし、又親兄弟の情で少しでも面倒を見なければという義務観念上のこと
だったかもしれません。母、兄夫婦、そして彼等が日頃の色々な悩み事を相談し
ている女性の占い師が同席しての結論だったようです。
しかし、亡き父の声を聞き取る力を持っていると言われるその女性のような者を
信じる環境が私の周りに今でもあることに驚くとともに、根拠もない他人の意見
で自分の行動が左右されるような生きかたが私達に押し付けられることを私は恐
れました。書物や人の考えや生き方を学び悩み抜き、己の力で解明する努力こそ
がものごとの真実に近づく道であり、他力ではなく自力本願の生き方を目指す私
達とそれとは真っ向から対立するものでした。恨みや不満や不浄のごとき人間の
煩悩に倦み疲れた人達に取り入るり、さも本当の原因を見つけたと称して実はそ
れ等を捏造し、祓い清めることを生業とする人達に違いありません。元来自分で
物事を解決しようと努力する人にはこの手の商売は成り立たず、人の心の弱さに
付け入りその隙間でしか生れないものだと思います。そしてそのような不幸にな
る因果を見つけだす占師と、不浄を清める祈祷師が対になり、役割分担し心弱い
迷える子羊を救っているのです。その程度で心の重荷を下ろすことの出来る人達
もいることは事実であり、またそのような人が却って自然体に近く楽な生き方を
しているのではないかと思う時もありますが・・・。
今まで母が元気であるという一事で別居して済ませていた兄夫婦は、母のもとか
ら県庁所在地の店まで私達がしたように毎日通えない訳はなく、それにも拘わら
ず八十四歳という高齢者を一人山里に住まわせる、このことに多少の後ろめたさ
があったはずです。私達は自分達のことを決してそうとは考えないのですが、都
落ちした私達のために住まいを提供し母の面倒を見させ、山や畑や屋敷を管理さ
せることは兄夫婦にとっては願ってもない一石三鳥の効果を期待できたのではな
いか。私達を熱心に呼び寄せたその真意ははたしてなんであったか、私達には判
りません。
第二は 母が私達に望んだものはなにか?
未だ元気な母は毎日裏の千坪の畑に折々の作物を作り、二十羽の鶏を飼い、お
花や習字や踊りの稽古で忙しく、近所の訪問者も沢山でさびしい思いはしていま
せん。だから私達が同居することは、自分で作るのが面倒になった食事や苦手な
家の中の管理を代わってしてくれることは嬉しいのだが、一方愛想のない気難し
い息子達が近所の人達との楽しい付き合いに水をさすのではないかという不安と
不満を感じているようなのです。
また、親の面倒も見ず自分の意志で家を出て行き、突然帰ってきては田畑を守る
苦労をしている後継ぎから財産の分け前を要求するという、田舎ではよく耳にす
る話で、昔で言えば戯けも野「田分け者」といって蛇蠍のごとく嫌われたもので
す。長子制度の時代に育った高齢の母はそのような話を私達に当てはめているの
ではないかとも思えました。
第三は 私達が郷里に望んだものはなにか
私達が郷里に帰ろうと決心した理由はいくつかありました。
まずバブル崩壊に伴い収入が落ち込んだこと。子供の学費を作るため住んでいる
マンションを処分しなければならなかったこと。借家でそのまま頑張る手もなく
はなかったが、約二年毎に転居して来た私にとって、二十年の同じ場所の都会生
活にいささか飽きてきたこと。 『夢と現の狭間で』に書いたごとく、それまで
の二十六回の転居が示すようにその性癖は既に現れていました。
これは、途中の努力や忍耐を跳び越えて未知なる物や場所に憧憬を抱く分裂症的
私の性格であると言えます。そして計画通り郷里でうまくいくとは限らないと考
えたものの、現状からの脱出の期待と何か飛躍できそうな気分になったのです。
そこに地道な調査と検証があった訳ではなく、兄の示した宅地開発と学生マンシ
ョンの建て替えという仕事に託しました。その後裏山の宅地開発については母が
「そんな話は兄から聞いていないし売りもしない」といい、「離れ家」云々につ
いても承知していず、学生マンションの建替え計画に至っては、私達が帰って間
もない頃「補償金を貰っても建物を建てずに現金で持っていた方がよい」と兄は
言ったこと。縦今すぐ仕事があろうと無なかろうと一年くらいは無収入でも頑張
ってみようと思っていたのに、頼りにしていた事への目論見を一つ一つ潰された
という思いで、夢破れた訳です。
しかし、 去年春以来かくの如き冴えない結末であった当の本人は、周りの人達から見ると
「さぞ悲痛な面持ちで見るに耐えなく落ち込んでいる」と心配されるかもしれませんが、さほ
どのことはなくむしろ自我を押し込めたり、偽りの関係を強制される窮屈な環境から脱出でき
ることが嬉しいのです。たとえ貧しくても、意思と感性と行動が自由に発揮できる状況が私達
には必要でした。
三十数年という空白はたとえ親兄弟といえども簡単に感覚の違いや生き方を埋めるというこ
とは難しく、郷里だからすべてを受け入れてくれることはないことを実感しました。私達はあ
まりにも自己意識の強い都会生活に馴染んだせいか、親類縁者のもとの生活はかえって窮屈で
むしろ他人の中での暮らしが望ましいと悟りました。先の水槽の中の蛇達のように、ある種類
の不自由さを我慢し耐え忍べば安穏で平和な生活が保証されるかも知れません。だからこちら
の人達は郷里を捨てるほど激しく自由を渇望する私達のこの思いを決して理解できないだろう
と思いました。私達は、ことある毎に微妙な行き方の違いの中で、親子兄弟がこれ以上抜き差
しならない関係に陥り憎しみ合うようになる前に離れるべきだと考え、見事につらい傷を負い
ながらなにものにも捕らわれず自由に遊び楽しむ、あの「白猫」のように生きたいと思います。
そして河口湖のほとり富士山を望みながらデッキで朝食をとることを夢みて、いつの日か終
の棲家を実現するために建築家の間借人生を卒業すべく努力したいと思います。
敬具
エピローグ
私には「この家に反逆をする者としての卦が出ていると」数十年前件の占い師が家族に告げ
たことを思い出した。そのご宣託だけは見事に当ったようで、突然やって来て静かに暮らす田
舎の人達の中に別の価値観を持ち込もうと試みたのである。辻褄の合わないことに反論し、自
分の趣味や生きかたを押し付けたことは、長い時を経て培われたこの土地の慣習に対してとう
ろう蟷螂の斧を振りかざしたに過ぎないことを私は悟らざるをえなかった。
「お前が帰って来ることを望んでいる」というその言葉を信じ郷里に戻って来たのだが、亡き
父の声はついに私には聞こえてこなかった。そして当時死の床に間に合わなかった私は葬儀の
あと見つからなかった父の遺書を郷里に戻って時真剣に探したものだった。あれほど生前その
必要性を説いてきちんと〔けじめ〕をつけていた父が自らのものを残さなかったとはとうてい
考えられず、私には今でもそれに納得がいかないのである。遺産などという現実的な問題では
なく、父が私をどう捉えていたか、私に対する最期のメッセージは何であったかを私は聞きた
かったのである。もはや亡くなって五年経つがその当時はさほどでもなかったものの、「都市
と田舎の狭間」で揺れた今、出来るのであればもう一度父に会いたいという感情が切ないほど
強くなった。
6号 2001年8月
http://
7
:
α編集部
:2014/02/28(金) 01:22:02
α編集部
.
男と女の狭間で
この歳になって男と女の問題を考えるに、もはや遅きに失する感がり、また小さい頃
体験した祭につきものの恐ろしいお化け屋敷に踏みいる思いもある。このテーマを取り上
げるにいたった我が「細君」との闘争を返り見るに、いかに私が性差に無頓着なため人知
れず無駄な労力を払って来たのかが判明した。アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ夫妻の
共著「話を聞かない男、地図の読めない女」を読んで、男と女の間の会話が双曲線を画い
ていてかなり接近するもの、まるで犬語と猫語で会話していたごとく交点の望めないもの
であったのか・・・。
*
その本の題名は以前から知ってはいたものの、どうせ興味本位の軽い読み物だろうと考
えていて敢えて挑戦をしなかった。しかし私が「男と女の狭間で」というテーマの標題を
パソコンの二〇〇一年の日記に記録してから何も書かないまま四年も経っていた。今回還
暦もすでに過ぎ去り、昨日まで元気だった友人が突然逝ってしまう現実をみると、いつお
迎えが来ても驚かない年齢になったので総括の意味で思い切ってこの重いテーマをものに
しようと思った訳だ。そしてT女史に何か「ジェンダーに関する良いテキスト」があれば
紹介してよと相談したら、返ってきた答えがこの本だった。
*
たしかに、私が運転をするとき助手席の「細君」にナビゲーターを頼むのだが、今ど
こを走っているのかも判らないほど的確に地図を読めずに、ちっとも頼りなならない。そ
のうち急に曲がれといったり、通り過ぎてから指示したりの迷走で必ず旅の終わりはお互
いに気まずい思いを抱きながら家路につくのである。そして性懲りもなく二・三カ月を過
ぎると再び同じ役割でドライブに出掛けたものだ。
そのような時薄々感じてはいたものの、どちらが優れている劣っているという観点で
はなく、確かに男と女の性差はあるものだという事が判った。男と女の考え方や行動の違
いは男に有利な社会制度や親の育て方のせいではなく、遙か遠い昔の原始の時代から遺伝
子に組み込まれた脳の働きの差異によるものらしい。だから一方の性による考え方の基準
で他方の性の思いを理解することにおいては微妙な食い違いを生じ、長い歴史の中で様々
な行き違いや戸惑いや誤解のドラマが演じられてきた。
そう考えると、男に優れた分野の能力と女に優れた分野の能力がそれぞれあるというこ
とで、同じ土俵で競い合うこと自体が間違っているか、お互いの認識しているルールの違
いがあるかである。だからいくら違う土俵に乗っているもの同志が競い合っても、いくら
同じテーマで論じあってもすっきりした答えはお互いに得られないもどかしさがある。
*
昔「細君」が子供のことや貧乏生活などの不安をよくぶつけて来ていたが、いま思うと
男の私はそのような重い話にうんざりしながらそれに対する解決方法を真剣に考え込んで
いると、私の話はちっとも聞いていないなどと怒り出し、私は私で遂に「これでも一生懸
命まじめに努力をしているのに判らないか」などという科白を吐いて、最期は言い争にな
ってしまうのが落ちだった。男は問題提起されたときそれを解決することを本命と考必死
で回答を得ようとするが、女はただ話に乗ってくれて、「かわいそうだね」「苦しかった
ろう」などと優しく同情してくれればいいと思っているらしい。このようなことは冷静に
なったとき実際「細君」から「私も現状の把握はできているが、ただ滅入った気分を晴ら
したがっただけなのに、男は理屈で自分の立場を守ろうとばかりしている」などと、散々
私の対応のまずさを指摘されてきたのではあるが・・・。
テレビをみたり新聞を読んでいる最中に細君が世間話をしてくることがあった。男は一
つのことしかできないが、女性は料理をしながら電話をかけたり、子供をあやしたりする
ことができる。だから何かに熱中している男は他の話題には上の空で、細君は「私の話を
全く聞いてくれない、私を馬鹿にしているのでしょう」などと拗ねられる。いえいえ決し
てそうではありません、これは男の能力がないせいでありますと釈明するほかはないので
ある。
*
男と女の生物学的差異については多田富雄著「生命の意味論」によれば、女の染色体
はXX、男の染色体はXYであるが生物としての生命の基本型はどうも女であるらしく、
人間はもともと女になるべく設計されているという。染色体Xは生存のための必須の遺伝
子で、血液凝固・色覚・免疫細胞などを作るのに必要な遺伝子であり、染色体Yは最後に
男をつくるためだけの遺伝子らしく、遺伝子Xを二つも持っている女の方がもともと丈夫
で長持ちするようにできているのである。人間の胎児は受精七週間くらいまでは、まだ男
でも女でもない状態であり、基本型がきまってから「夏目漱石曰く『でも・しか』すなわ
ち男にでもなるか、男にしかなれない」などといった程度のもので、Y遺伝子のためにむ
りやり女の体を加工して男にさせられた結果だという。だからアダムの肋骨からイブが作
られたのではなくイブ(女)からアダム(男)が作られたということである。
*
さて、私は小さかったころ家の前に住んでいた踊りのお師匠さんのところへ母とよく
出入りしていて、踊りを習っていたようであった。ようであったというのももはや半世紀
前のことで、いまでは着物を着せられて踊っている断片的な場面しか思い出せない。どう
もそのころの私は性格がおとなしく体も華奢で、外で相撲や野球などのスポーツをして活
発に遊ぶより母親の周りで編み物や踊りといった女の子の興味をもつものに接していたよ
うで、人に与えていた印象は女の子ようなものだったのかも知れない。そう言われるのが
嫌で真剣に男の子らしくなろうと努力したのであるが、中学生になっても近所の随分年下
の女の子から「おばさんところのお兄ちゃんはベルのように優しかね」と云われたと母は
笑っていた。その「ベル」とは代々私の育った屋敷に住み着いた野良犬で、先代の犬が居
なくなると別の野良犬が入り込んできて「ベル」という名を引き続き与えられた、大抵は
茶色のおとなしい柴犬であった。
*
とにかく今までの長い間男の私と関わったおおくの違った能力を持つ女におおい惹か
れるのは、男の世界に飽き飽きしたのか、未知への野次馬的好奇心からくるものなのか、
怖いもの見たさの感はあるがその違う世界を一度覗いてみたいと思った。そしてできるこ
となら来世は女性に生まれ変わって、三四郎に出てくる美弥子の[unconscious hypocrisy]
を駆使して男共をおおいに誑(たぶら)かし手玉にとってきりきり舞いをさせてみたいと
思わぬでもない。そして最期に、両方の性を体験した結果どらが良いかを判断しもう一度
生まれ変わる許可を神様に願い出るというのは、いかにも虫がよすぎる話であろうか??
10号 2001年10月
8
:
α編集部
:2014/02/28(金) 02:06:42
目の再生工場からの帰還
.
目の再生工場からの帰還
◆経緯
昨年の秋頃から白内障がひどくなり、右目は殆ど霞みの中のように白濁して、物の形も見
えなくなった。辛うじて左目で行動していたが、車の運転も出来なくなり、大きなルーペ
を使っても本が読めない。今年の8月に主治医に右目の手術をお願いしたら、先生は糖尿
病による網膜症の悪化あるいは、その症状が変化していないかを判断しながら、やっと手
術することを決断してくれた。それには右目のひどい白内障の為に眼球奥の網膜症の判定
ができないという理由もあったからだ。この手術は結構患者数が多いのだろう、「急ぐよ
うでしたら外の病院でどうぞ」という主治医の言葉に、私は設備の整ったこの病院でお願
いしますと言って、やむなく長い時間を待つことに承知した。日取りは2ヶ月後の10月
後半ということになった。
◆入院期間及び経費
入院は10月26日朝の9時半。東大病院入院棟A7階732-1号室、このフロアー全部が
眼科らしい。 当初私は知り合いが手術してその日に家に帰ったことを聞いていたので、
精々1日の入院で手術したらすぐにでも帰れるものとばかり思い込んでいた。しかし主治
医と手術の手順や経過措置について話し合うなかで、4日ほど入院しなければならなかっ
た。手術後の経過を見ないと入院期間も決められないだろうなとなんとなく判っていたが、
その様なことが生じることを真剣に考えなかったものだから、2日の休みでという思惑で
決めた仕事の手配が気になった。
幸いなことに丁度うまく暇になったし、多少の打ち合わせには経過が良好であれば外出し
てもよいということになった。だから手術した日は一日中ベッドに大人しく寝ていた。
次の日は主治医の外出許可を得て。飯田氏と打ち合わせのために事務所に行く。帰りに家
から細君のノート型パソコンを借り出し、病室で仕事をした。
私は民間の医療保険には入っていないので、この費用は国民健康保険のみの費用である。
総医療費----保険:254,760、保険(食事):5,928、保険外負担:11,200
患者負担額--保険:76,430 、保険(食事):2,080、保険外負担:11,200
患者負担額合計---89,710円
◆同室の人(柴山さん)との交流
入院したその日は手術の為の準備として、さまざまな検査があった。それが一段落して病
室に戻ってから同じ部屋の人に挨拶をした。最初はこちらも余り見えないから、はっきり
その人の様子は判らなかったが、柴山さん(本当はどういう漢字を当てるのか判らない)
が「私は実は全盲なんです。10年ほど前から近くの病院で治療していたのですが、眼圧
が正常であったために医者が緑内障の詳しい検査をしなかったために、手遅れになってし
まい視力を失いました。いまは30センチ先の自分の手も見えません。全て霞のような世
界で、ただ光を感じるだけです。この病院で処置をしなかったら、真っ黒な闇の世界に行
くところでした。だから光を感じる機能だけでも残ってよかった」といわれた。
そしてそんな障害を持ちながら明るく話す屈託のなさに、なんといって慰めればいいかと
まどっている私は、救われたような気がした。私達は色々のことを沢山話した。目が不自
由になって引退するまでは、彼はNECに勤めていたが独立してコンピュータのソフト開
発の会社を作り、100名ほどの社員を抱えていたとのことである。
退院するときに「古賀さんと話すことができてよかった。新しいものに挑戦する意欲が湧
いてきました」という言葉を貰った。
◆手術
27日の朝8時の手術のために7時45分にナースステーションに行く。左手に化膿止め
の点滴をしながら、車椅子に乗せられて4階の手術室へと移動する。昨夜の主治医との相
談の時に、しっかりと右目の上に丸印をマジックで書いてあるにも拘わらず、いたるとこ
ろで名前と生年月日と手術するのはどちらの目かと10度ほど誰何される。どうも患者を
間違えたり、必要でない部分を処置したというケースがあったらしい。私が間違えて、或
いは意地悪に左と右とを逆に答えたらどうするだろうか、と冗談半分に思わぬでもない。
手術室は天井は高さ4メートル、巾4メートルの広い廊下が3・40メートルほどの長さで真っ直ぐに
続いている。両側には灰緑色のパーティションで仕切られた手術用のブースがいくつもあ
るようだ。まるで手術という生き物の生き死にに関係するような感情とは全く無縁の、機
械の組み立て工場のような感じがした。ああここでは目の再生を担った医者達にとっては、
私は一塊の物体にすぎないのだという感慨を持った。ある意味では、シリアスな場面では
感情や情緒に左右されてはいけないのだろう。むしろその方が冷静かつ的確な判断による
処置が出来るに違いないとも思った。
いよいよ手術室にはいると、一度に5人程の患者が平行して手術ができる広さで、床屋に
あるようなすべての部分を丸みをつけて柔らかそうな感じに作られた椅子があった。患者
にとってはこれから戦場に赴くようなシリアスな情況のなかで、はでなラベンダー色の椅
子は似つかわしくないような、浮いたものを私は感じた。それともラベンダーには鎮痛や
精神安定、防虫、殺菌などに効果があるとされるされていることのゆえなのか、それにし
てもちょっとキッチュではないだろうかと私は思った。
その陳腐な代物に私は有無を言わさず座らされて、左手には点滴と人差し指に心臓の脈拍
センサー、右手にはある一定の時間に自動的に腕を圧縮する血圧計をとりつけて、仰向け
に椅子が倒される。4・5人のスタッフは私が恐怖や不安を感じる間もないほど、主治医
の命令に沿って実に迅速に的確に持ち場の作業を進めていく。
私はされるがままにじっと上を向いて目を開けている。主治医は私の右目の廻りを洗浄液
やら麻酔液やら判らないが、とにかく乱暴と思えるくらいにかなり強く、大量の液体で流
し洗いをする。
その後寒冷紗のような目の粗い布を顔一面に被せ、右目のところだけは穴が開いているの
だろう、上瞼と下瞼を粘着テープで強く引っ張り、瞬き出来ないように押し開いた。目尻
が引っ張られて痛い。手術は何の痛みもなかったが、結局このテープの引っ張りが一番痛
かったと感じた。
そして間髪を入れずドリルのようなものが上から降りてきて、蒸留水みたいな液体をザー
ザー右目を狙って落ちてくる。主治医がスタッフに「もう少し遅く、タッタタ、タタッタ
くらいの速度にするように」と指示している。タッタタの感覚は私には1秒間隔に聞こえ
た。「数値を32に設定して」とか、よく耳元でサブの女医と話している内容が聞こえる。
そのうち、「少し目尻に圧迫感がありますけど心配ありません」という声とともに、右目
に視野のなかにモノクロームの図柄が見えてきた。
ジョルジュ・ブラックの抽象画で見たような、カトレアの縮れながら開いた花瓣に似た形
状の黒と灰色の模様が、円筒形の内壁にベッタリと現れ、奥の方へパースペクティブに細
りながら黒い穴に向かって、緩やかに回転ながら落ちていくのが見えた。主治医が「耳の
近くでジーという音がしますよ」と声を掛けた。歯の治療で虫歯を削るドリルの音に似て
いる。暫くすると目の前が一面真っ白くなり形状は何も見えない。上瞼にそって細い針金
の先でジジー、ジジーと何かを削りとる感じがした。
昨日手術について主治医と話し合ったときに聞いた目の構造とその処置についての説明を
思い出した。今回の手術は濁った水晶体を取りだして透明な新しいものに替えるというこ
とらしい。私は今まで水晶体はドロッとした粘性のある液体と思っていたが、どうもそん
なではないらしい。白内障はある種のタンパク質が綺麗に整列していなければならないの
だが、加齢によってその配列が乱れてきて光を乱反射させるから、まともな像を網膜に送
ることが出来ないということらしい。それを超音波で粉々に砕き、掻きだして除去すると
いう。
「痛くはありませんか」という主治医の声は、これから水晶体を砕きますよという意味だ
ろうか。患者を安心させるためにだろうか、よく声を掛けてくれる。私は体が反り返るほ
ど緊張はしていたが、猛烈な痛さや手術の失敗やその他の不祥事が起きるのではないかと
いう不安は不思議に最後までなかった。
それから再びその模様が今度は黒と白の反転して、穴に落ちていったり、真っ白な光に何
も見えない現象を繰り返す。「はい終わりました」という主治医の言葉を聞いた。どこで
新しい水晶体を入れ替えたのか私には判らなかった。準備から終るまで30分くらいだっ
たろうか、兎も角大した痛みも不安も抱かず、何事も起こらず無事終了したようだ。左目
の眼帯をとって、その視力回復を確かめるのは明日の朝の検診まで待たねばならない。
◆主治医のひととなり
主治医は考えられないほど忙しい人のように見える。家に毎日帰っているのだろうか。そ
れとも近くに住んでいるのだろうか。朝早くから執刀して、夕方の7時に検診に来た。そ
の間は一日中外来の患者を診察している。今日の眼帯をとるのも外来の患者を診る前に早
朝やって来て診察してくれた。「水晶体を押さえる部分の筋肉が弱くて、それを処置する
までに普通より時間が掛かりましたが、うまく納まっているようです」と知らせてくれた。
実は主治医のことについて以前、インターネットで調べたことがある。ラサールから東大
の医学部へ、学生時代は野球部に入り選手として六大学の試合に出ていたようだが、体躯
は小さい方でしかもかなりハードな勉強をしなければならない医学生であったろうから、
あまり打率はいいほうではなかったようだ。その情報についてはまだ本人に質だしたこと
はない。これからも親しく歓談することは多分なく、医師と患者の関係のまま当分続くだ
ろう。口数はすくないが、別の用事で待っている待合室で、たまたま邂逅しても必ず声を
掛けてくれる実に誠実な人だ。つっけんどんな言い方をする、常にプライドを身につけて
いるといった可愛くないサブの女医とは大違いだ。
このことは同室の柴山さんも「古賀さんあのお医者さんが主治医でよかったですね」と羨
ましげに言ってくれた。
◆開眼の結果は
さて眼帯を外した世界はどう見えたか。
一つ目は、こんなにもこの世の中のものが白黒がはっきりした明確な世界だったのか。先
ず自分の顔を見たとき、こんなに眉が濃かったのかと思った。
二つ目は、色彩の鮮やかなこと。赤や青が輝くような彩度を放つ。これまでは信号の赤・
青・黄がはっきり見えず、細君に判断してもらわなければ車の運転をするのに危なくて仕
方がなかった。細君は私の目がそれほど悪いとは考えていないようで、もっとも見える人
にはどのくらい見えないのかをいくら説明してもわからないのかもしれない。食べ物をよ
く落とすとか、落とした物をなかなか見つけられないとか、健常者の無理解というか、よ
くぶつぶつと文句をつけてくる。私も全盲の人がどのように眼前のものが見えるか、自分
の目が悪くなるまで理解できなかった。
ある段階はあるだろうが、白い杖をつきながらでも一人で歩ける人はたぶん物の形はみえ
ているのだろう。私のベッドの隣の芝山さんは、真っ白な世界でかすかな明かりの変化に
より眼前の物体は感じるが、それ以上の視覚は望めないということで、奥さんの肩に掴ま
って歩いていた。もっと悪化すると光も感じることができない闇の世界だそうである。右
目がよくなってみると、いままでかろうじて見えていた左目が無性に悪くなったような気
がした。だからどうもバランスの悪さは依然と同じようなものだ。しかし確実に本の文字
は読めるようになったので助かる。
最後に、手術前の夜主治医による目の部分説明のとき、外界の像はピンホール・カメラと
同じく人間の網膜に写る像も逆さまであることを確かめた。「そうだ」という回答だった。
その像を脳の或部分で情報の処理をして正常に認識するということである。しかし私はも
う一つ聞きたいことがあったが、そのときは思いもつかなかった。その網膜の像を正常に
補正する能力のない患者の例はあるのか、その場合その人はすべての外界が逆さに見えて
いるのかという疑問である。このように野次馬的好奇心のおかげで不安や恐怖心を感じる
ことなく再生工場から無事帰還したことである。右目が見えるようになって、それまでが
んばっていた左目が安心したのか急に白内障が進んで見えなくなった。だから今年の秋は
また左目の手術をしなければならないだろうと思っている。
15号 2010年9年10月
9
:
α編集部
:2014/02/28(金) 02:20:58
人は死して何を残すのか
.
人は死して何を残すのか
「豹死留皮、人死留名」すなわち、虎は死して皮を留め、人は死して名を残すと言った西
暦十世紀、梁の国の王彦章(おうげんしょう)の言葉があるが、はたして人は何のために
名を残そうとするのか。
生前身近に接する人達に、その人なりの会話や姿や匂いや癖などの印象を残すことはある。
しかしそれも受け手の死によってその影響は終わってしまうのである。その一方願望とし
て肉体は死んでも魂は存在し続けるという考えはあるが、神への信仰という次元の違う世
界に飛躍できない私には、俄に信じ難いことである。だからこのまま人間関係の悩みや、
生への不安、病の苦しみ、死の恐怖などに脅えながら、命の消え去るまで生きながらえる
であろうことは覚悟している。魂が未来永劫この世に存在出来ないとすれば、己がこの世
の中に確かに存在したという証を、何らかの方法で残す必要があると考えた。これは単な
る自己顕示欲による悪あがきで個人差の問題かもしれない。
シャーリー・マクレーンの著書「OUT ON A LIMB」には肉体は死んでも、それが分解され
て原子に戻りこの世に残る。決して無になることはない。悠久の年月の中でそれを植物や
動物が吸収して、再びこの世に生まれ変わると言う考えもまた理屈は通る。だから彼女は
輪廻転生を信じるとその本には書いてあるが、だからといって肉体を離れた魂がそのまま
永遠にこの世に存在するということとは違い、やはり人間は肉体の死とともに精神として
の心や魂も消滅するものと私は考える。
だからこの世を去る前にどのような方法を人間はとってきたか。先ず考えられるのは遺伝
子による方法であるが、これは子孫をつくらなければならない。しかし世代が遠くなるに
ついて、或いは他人には本人という記録は見分けられない。
ではカエサルやナポレオン一世、伊達政宗、二宮尊徳、クラーク、西郷隆盛などの銅像は
どうか。イーリアスやオデッセイ、カレワラ、古事記などの元となった口伝伝承はどうか。
これらの銅像は初めて見る人には誰だか判らないし、音声による伝達は身近な限られた時
間と人達の間しか聞くことは出来ない。だから文字としての碑文や記録がないところには、
長い年月の伝承には耐えられないだろう。
はじめに言葉があり in the beginning was word,
言葉は神とともにあり and the word was with God,
言葉は神である and the word was God
と新約聖書、ヨハネによる第一章第一節にあるように、人間だけしか理解出来ない言葉を
文字としての記録なしには、己の存在を長く人の魂に留めておくことはできないだろう。
まさに文字の記録は人々の情念と知恵へのエネルギー発生器なのだ。
動物は事象に対して本能に従って機械的に反応するだけであって、懐かしさや感動や親し
みなどの感情を長くかみしめることは出来ない。それに反して人はどんなに時代が隔てい
ても、どんな環境や条件の違いがあっても、その記録を読むことによって、感動を覚えた
り、懐かしく思ったり、身近に感じる感性と知性を持っている。
その現象は、肉体は死んでも魂は生き続けると思えることもあり、またそうあって欲しい
という願望もあるが、他の人間にその人を想起させるエネルギーはその人の魂そのもので
はない。ただ記録の受け手の側の感性にあるのである。
さて表題に「人は死して何を残すのか」などという我ながら恐ろしい命題を掲げたが、私
の今までの生き様は実に平凡で記録に残すような足跡は、思想的にも政治的にも文学的に
も、精巧な虫眼鏡で探してもまったく見当たらない。しかし私という生き物はこの世に一
回切り、しかも誰にも代わることの出来ない唯一の存在であることには間違いない。それ
故、あるかないか判らないあの世への存在を夢見るよりも、この世に確かになにがしとし
てこのような生き物が生きたという証が望まれるのである。
それをいま実現するために、実に自己満足的ではあるが、己の思想や感情を文字としてせ
っせと記録することしかないのである。たとえその記録が「折たく柴の記」のごとく薪ス
トーブを燃やす粗朶の焚きつけとなり消えてなくなろうとも・・・。
15号 2012年年4月
10
:
α編集部
:2014/02/28(金) 03:03:17
パラノイアとスキゾフレニアの狭間で
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パラノイアとスキゾフレニアの狭間で
???????? (偏 執 分 裂)
「狭間シリーズ」も十回近くまで続けるとなるとやはり根も種も尽きそうになる。
いきおい難しそうな表題をつけて人の目をくらませる魂胆だが、内容はそれほどあ
るわけでなく、専門用語や日頃使わないような曰くありげな言葉を羅列することで、
多少の有り難味が増すのではと期待するものである。
それはまるで京料理のようなもので、筍とか大根や豆腐といったそこいらの安い
食材を使い、 あたかも貴重なもののように「歴史の重み」でたっぷり味付けした
「能書」とともに味わう暇もないほど少量の小皿に盛った料理を提供し、「さすが
洗練されているぞ」「さすが絶品」とばかりに田舎者や金満家を感心させる手合い
に似ている。
たしかに同じ食材でもガード下の汚れた暖簾の屋台で床机に腰掛けて割箸でつつ
くよりも、贅を尽くした数寄屋造りの瀟洒な部屋で手入れの行き届いた見事な庭を
眺めながら食する料理は、舌だけではなくあらゆる感覚を刺激して数倍上等に思え
るのは私だけではあるまい。
*
さて、浅田彰の逃走論「スキゾ・キッズの冒険」によれば、パラノ型というのは
偏執(パラノイア)型の略で、過去のすべてを積分=統合化(インテグレート)して背負いこ
み、それにしがみついているようなものを言う。パラノ人間は《追いつき追いこせ》
競争の熱心なランナーであり、一歩でも先に進もう、少しでも多く蓄積しようと、
眼を血走らせて頑張り続け、より深く潜行する型である。
他方、スキゾ型というのは分裂(スキゾフレニア)型の略で、そのつど時点ゼロにおい
てしているようなのを言う。スキゾ人間は《追いつけ追いこせ》競争に追い込まれ
たとしても、すぐにキョロキョロあたりを見回して、とんでもない方向に走り去っ
てしまうだろう。
《パラノ》 《スキゾ》
インテグレーション ディファレンシエーション
蓄積 ギャンブル
定住 逃走
セントラル マージナル
メジャー マイナー
ドメスティック ワイルド
*
パラノ型のある種の人は蒐集を趣味としている場合が多い。それも生半可な集め
方ではなく、ほとんど考えられない分野まで、安価なものから目も飛び出るような
高価なものに至るまで種々雑多におよぶものだ。そのきっかけは知り合いの蒐集品
を見て思い立ったものや、偶然旅の中で触発されたものや、なんとなく集めている
うちに一つの方向を見い出し特化していく場合もあり、生い立ちや環境や教育など
の影響によって各々ちがってくるのである。そしてテレンス・スタンプ主演のcoll
ectorという映画の主人公のように、ついには美女の蒐集にまでに至り殺してしま
うという冥府魔道の世界をさまようような犯罪者も生まれないともかぎらないほど
その世界は暗い情熱を潜めていると感じるときがある。
*
私も多少そのような経験を持っている。切手集めは高校時代に友人の蒐集を見て
始めた。見返り美人、ビードロを吹く女、雁など学生の小遣いで求められるあまり
高価でないものばかりを集めたようである。あるときなど授業が終ってから二十?
ばかり離れた町の郵便局まで自転車を走らせ二シートを求めたこともあった。その
蒐集は数冊に至ったが、学生のころ家が特定郵便局をしているという後輩に夏休み
郷里に帰ったときに切手友の会やらで金に代えてもらった覚えがある。そしてその
二万数千円の金は専門書に化けたようだが、その本はどれであったか今では定かで
はない。
*
ナイフはこれも夫婦で最初のアメリカを一月ばかり貧乏旅行した時に、ナッツベリ
ーファームで買ってから集めるようになった。カスタムナイフやアンティークナイ
フそしてホールディングナイフ、シースナイフといった色々の分類方法でたくさん
の種類があり、特にカスタムナイフ(注文生産品)は有名なラブレスという作家の
もので数十万円もする業物もある。その鋭い刃を見ていると自らの身を傷つける危
うさと、自然の中での生活には欠かせない道具としての必要性とが併せ持つ不思議
な魅力が私を捉えたのである。今はそれも過去のことで蒐集の名残としてブレード
とドライバーとはさみを収納したスイス製のアーミー(ポケット)ナイフをキーホ
ールダーに付けていつも持っている。遠出しているときに遭遇するであろう大震災
に対して、蛙や蛇や鼠といった日頃食しないものまで採取しながら、何が何でも家
族のもとへ生き延びて帰ることが出来るためのサバイバル用に備えているのだ。
*
パイプは二十代のころ六本木にある会社に勤めている時に集め始めた。二グラム
の煙草の葉をパイプにつめてどれくらい長くふかし続けるかという競技の大会に興
味がわき、近くのパイプの店にしげしげと足を運んだことがある。
両切りの煙草は二十歳のときから嗜んだが、しゃれた紺色の「ピースの缶」(ピ
ーカン)を手元に置きながら麻雀をするということを洒落ていると思い込んだ学生
時代があった。そのほか懐に余裕のあるときは、かの楕円形のドイツの「ゲルベゾ
ルテ」とかイギリスの「ウエストミンスター」などといった外国製の最上級ものを
粋がって求めていたこともあり、日ごろは真っ赤な箱の「光」やモダーンなデザイ
ンの「スリーA」で、金のないときは二口三口吸うとすぐ燃え尽きるほどスカスカ
の「ゴールデンバット」を吸っていた。その謂われが何なのか判らないながら、半
分しか葉が入ってなくてあとの半分はフィルターのような吸い口のある「朝日」と
いう銘柄で「女郎煙草」と呼んでいたものを冷やかしに吸ったこともある。そして
このころに現在主流となっている「セブンスター」が初めて販売された。
しかし喫煙も子供が誕生したのも理由の一つに違いないが、ある風邪気味の日、
喉がいがらっぽく煙草があまりにもまずかったので、その日からきっぱり止めた。
それ以来二十年以上になる。そして例に洩れずその禁断症状は精神的、肉体的の二
つになって現れた。
一つは設計図の中に認められた。線と線の交わりがうまく描けないのである。綺
麗な図面は線の太さの強弱も要素だが、垂直と水平の線がきちんと結ばれているか
で決まるといってよい。仕上がった図面をみてことごとく線の交点が見当たらず、
間の抜けた作品に戸惑ってしまった。手先の感覚に問題があるのか根気が続かない
のか理由はわからないが、その一月間の図面は完成度の低いまるで学生時代の代物
であった。
もう一つの症状は、仕事の一区切りにおもむろに煙草に火をつけその紫煙に身を
ゆだねる行為は、休息として一般に認められた時間を意味するのだが、それをやめ
てからはその漫然とした時間の至福感が得られず、すぐ次の仕事や目的を必死で探
している己の姿勢に認められた。これには愕然とさせられたことである。そして仕
事と仕事の間に生ずるこの休息の時間を何で埋めたらよいのかがなかなか見つから
ない、それは苦しい禁断症状の期間であった。授業をなまけて数学の問題がさっぱ
り解らなくなったという試験前に焦っている夢と、 煙草をしこたま吹かしていて
「俺は禁煙したはずなのに」という罪の意識に嘖まれる夢をいまでもよく見る。
よほどその強いなまなましい印象が強迫観念なって年を経てもなおしつこく残って
いるのであろう。
*
スプーン集めは二十年数年前、親子三人で初めてヨーロッパ旅行した先で記念に
買って来たときから始まった。模様をプレスした窪みとデルフト焼きの陶器の柄を
しつらえた小さな銀製の可愛らしいティスプーンであった。しかし次の旅行の時は
珍しいものを探せる機会でありながらすっかり情熱も冷め忘れてしまっていた。
*
地図の蒐集はやはり旅行の思い出を確かめるために買い始めたものである。悪い
癖で旅する国の地理や文化について下調べをほとんどしないで出かけてしまう。そ
してそこではあまり写真や記録をとらないで、見ること・触ること・経験する事で
場所の中に身を委ねてしまうのである。だから帰ってきてから旅行のルートや都市
や山の位置についての復習が始まる。そのよすがとしてユングフラウやモンブラン
やマッターホルンなどの山岳を対象とした細密な等高線上に稜線やガレ場や谷がは
っきりと解るように彩色された美しい地図とか、ニューヨークなどの大都市の立体
的に表現した鳥瞰の地図などを集めた。
*
そのほか飲んだワインのラベルを集めてスクラップブックに貼り付けてはその産
地を調べてみたり、音楽のLPやCDを集めたりした。せっかく集めたLPもプレ
イヤーが壊れたりCDに変わったり重複したりして前の方式のものの処分に困った
りした。捨てたり人にあげたりするのも、なんだか親しんだものを手放すことに躊
躇された。そしてもうひとつ蒐集そのものの価値についての素朴な疑問もあるから
だ。音楽を鑑賞するとき何を評価するのかは人によって違うということがある。作
曲そのものの深さや美しさを鑑賞する、名演奏を鑑賞する、音質を愛でる、などが
考えられ、人それぞれの好みがある。
一番いいのは名曲で名演奏家の実演が理想だろう。しかしなかには昔聞いたSP
やLPのアナログ音がデジタルの音より柔らかくて奥深いという人がいる。物理的
にはデジタルの方が演奏に忠実で、アナログはいくら忠実に再現しようとしても針
の雑音が入るものである。懐かしの音・いい音として刷り込まれているのかそれを
好む人がある。他の蒐集にたいしても、果たしてその蒐集家は本当にその品物を理
解しているのか蒐集する行為に酔いしれているのか解らなくなる。その行為はその
品物の価値から本質がはずれているのじゃないかと疑問を抱く。マニヤ達の経済行
為の手段と見えてくるのである。中途で蒐集の興味と情熱が萎えるのは暗にその辺
の思いが私の中に生じるからであろう。
*
このように私もパラノ型の人間として蒐集に目を向けた過去があるのだが、暇や
金の問題でその蒐集が途中で放棄されいつまでも完結しない状態である。しかし私
は最近どうも自分はパラノ型よりもむしろスキゾ型の人間ではないかと思うように
なった。
まず小さいころより学校や世間の決まり事に束縛されることにひどく苦痛を覚え
その場を逃げ出したくなったり、奇声を発したりあらぬ事をしゃべりまくり、その
雰囲気の気まずさを壊したくなる衝動にかられてきた。毎朝「遅いよ!」と促され
て決まった時間に学校に行き五、六時間もその施設の中に拘束され、やれ宿題だ、
やれ試験だと指図されることが堪らなく嫌いで、時々頭が痛いだとか腹痛を訴えて
は学校を休むことも度々あった。そのころは確かに登校の時間になると本当にそん
な気になったものであるが昼過ぎになると「治ったようだ」と言ってもそもそと起
き出し遊びに出かけるのが常套手段であった。今とは想像もつかぬほど痩せた華奢
な体をしていたのが幸いして両親もそのような登校拒否に対して厳しく咎めること
もなかった。高校三年のときなど遅刻の多さで同じクラスの友人についで二番目に
なった。低血圧で朝起きが苦手とはいえ四十回の遅刻の記録で、担任から注意もな
くよくぞ卒業できたものだと思う。その遅刻が一番多かった友人は八年前すでにこ
の世を去っている。
いつも無意識に現実の束縛や期待や義理から逃れることを願い、或いは違う世界
に思いを馳せて逃走をはかる自分があった。三十回近くの転居も、社会的必然性の
結果と考えていたのだが、実は己のスキゾフレニーの性癖がなせるわざで逃走があ
ったのではないかという思いに至った。途中まで熱心に傾倒するが、先が見えると
たちまち詰まらなくなり興味が失せ外へ向かうのだ。それともそのような物に熱中
し深く填り込むという行為の中に己が囚われて行く、その閉塞感への恐怖かも知れ
ない。
*
そして先の表によれば、私は確実にディファレンシエーション(差異)でギャン
ブル(運まかせ)で逃走でマージナル(辺境)でマイナー(少数派)でありスキゾ
フレニー型だと確信した。
8号 2003年?
11
:
α編集部
:2014/02/28(金) 03:25:03
迷い猫
.
迷い猫
この山荘を建てBlackberry Cottageと称して今年で七年程になる。かといって名称のご
とくブラックベリーがたわわに実るという訳ではなく、看板に彫られた白い文字がむなし
くみえる今までであった。しかしやっと去年漆黒の実が五つ実った。今年は雑草を刈り肥
料を施して、名に恥じないように実らせようと思う。
ここには様々な野生動物が出没する。そのなかで貂を時々みかけるが、「狐七化け、狸
八化け、貂九化け」といい、テンはキツネやタヌキを上回る変化能力を持つという伝承が
ある。レオナルド・ダ・ビンチ「白貂を抱く貴婦人」や鳥山石燕の妖怪画集「画図百鬼夜
行」やエル・グレコ「白貂の毛皮をまとう貴婦人」など、結構人の興味の対象になってい
る動物である。しかしこの白貂(しろてん)は実はオコジョの冬の毛の色だ。貂は冬でも
鬱金色(うこんいろ)をしていて行動もなかなかの愛嬌ものだ。
一週間程前に迷い猫が我が山荘・Blackberry Cottageの台所の窓を見上げていた。そ
れはちょうど数年前に貂が覗いていた様子のことを思い出させた。昨年の春、そっくりの
白猫が数回わが山荘を訪れたことがあったが、その猫は遂にここには居着かなかった。近
所の人に聞くと親猫は車にひかれて死んだという。そう言えば山の下の集落で親子が大き
な金網製ゴミ集積ボックスの中で餌を漁っている姿をよく見かけていたが、今の迷い猫は
あの子猫だろうか、よく似ていると思った。
??????????????????????????????????????*
猫は狐や貂のように人を化かすという悪戯はしない。鍋島騒動は、肥前佐賀藩で起こっ
た御家騒動で、鍋島化け猫騒動として有名である。しかしこの話は猫の化けることを主と
するよりも戦国時代の下克上の政争を扱ったもので、主君の怨念を猫が晴らそうとする物
語だ。普通の猫は犬と同様に人の身近に暮らしていて、それだけ人と猫はお互いの性質を
よく知っていて親しいから、化けるという物語を作る必要もないのだろう。
Wikipediaによると、有名なメス猫のタウザーはスコットランドのウイスキー蒸留所、
グレンタレット蒸留所で飼われていたネコの名称である。世界一ネズミを捕った猫として
ギネスブックに登録されたことで有名な猫だ。
タウザーは、スコットランド最古の蒸留所と主張するグレンタレット蒸留所のウイスキー
キャットとして活躍していた。「ウイスキーキャット」とは、主にネズミや鳥などの害獣
からウイスキーの原料である大麦を守る為に蒸留所で飼われる猫の総称である。この習慣
は他の蒸留所でも一般的な事であったが、タウザーはその生涯で28,899匹のネズミを捕獲
し、ギネスブックに記録された事によって一躍脚光を浴びることとなった。
この「28,899匹」という記録の集計は、タウザー自身による自己申告によって成った。
勿論、口頭で申告した訳ではなく、タウザーはネズミを捕獲すると蒸留所のスタッフに見
せに来るという習性があった。ある時期からスタッフがその数を書き留めるようになり、
やがてそれは膨大な数となり、記録を始めた時点から数えて28,899匹となったのである。
尚、タウザーの死後、グレンタレット蒸留所にはタウザーの銅像が建てられその偉業を称
えている。
??????????????????????????????????????*
その迷い猫は毛並みは全体的に白っぽいが、野良猫生活で薄汚れたのだろう、真っ白と
は言い難い。額と足と尾に微かな灰色の虎模様が入っているので、猫図鑑で調べて見たが
どうも混血らしく判然としない。それでもトンキニーズという種類に雰囲気がよく似てい
る。まだ人に馴れていないので、捕まえて詳しく調べることができない。だから年齢も子
供なのか大人なのか、雄か雌かの性別さえも判らない。しかし目の色はすこぶる美しい。
逆光でみるとスターサファイヤのように深く水を湛える湖の色をし、明るいところで見る
とアクアマリンのような魅惑的で上品でエキゾチックな異国の薫りが漂う。
細君は「モロ」という名前を勝手につけて、私には決して見せない優しさで声を掛け
たり、餌をやっている。その名前のいわれを問いただすと、ミラノ公ルドヴィコ・イル・
モーロから取った名前「moro」であるという。
私に相談することもなく、またそのよりどころも説明することもなかったが、しつこく聞
くと今読んでいるマキャヴェッリに関する本に出てくる人物ミラノ公の名前を頂戴したと
いう。ミラノ公と言えばルドヴィーコ・マリーア・スフォルツァは15世紀から16世紀にミ
ラノを統治していたスフォルツァ家の当主で、フランチェスコ・スフォルツァの四男で、
通称イル・モーロ(Il Moro)である。イル・モーロの異名は「ムーア人」のように色黒だ
ったことからついたと言われている。シェイクスピアの四大悲劇の一つ「オセロ」のよう
な人物だったのか。しかしモーロはフランスと戦って捕まり、最期は獄死したという。ま
た、レオナルド=ダ=ヴィンチが仕えた主人でもあり、ミラノ公の愛妾チェチリア・ガッレ
ラーニをモデルに描いた「白貂を抱く女性」が有名である。
??????????????????????????????????????*
この「moro」はBlackberry Cottageにて餌にありつき、スーパーからもらってきた
「JA全農・ぐんまのほうれん草」のダンボールー箱を改造した家に落ち着くまでは、真
冬の零下十度の環境に耐え抜き、右の後足を毛皮ごとそっくり赤い肉が見えるほど野生動
物にかじられても生き伸びてきたのだから、結構タフにちがいない。
最初は三度三度の餌だけ食べに来ていて、他の時間は別の場所に寝泊まりしていたようで
あるが、一月経つとここに居着くようになり、テラスにでると足元にすり寄り、私が散歩
に出掛けると後から見え隠れしながら付いてくるようになった。
しかし餌をやったり寝床を提供したりしているが、「ウイスキーキャット」タウザーの
ように野生のままに放置し、家の中では飼わない主義である。また都会のペットのように
着物を着せたり、抱いたりはしないつもりだ。だからこの山荘が居心地が良ければ居着く
だろうし、自由な野良の生活が望ましければ、また山の下の民家が恋しければいつの日か
自らここを出て行くだろう。私はこれまでの己が転居魔であったことを思い浮かべ、この
迷い猫の「moro」の好きなようにさせようと思っている。
18号 2013年4月
12
:
α編集部
:2014/02/28(金) 05:05:36
モダンとポストもモダンの狭間で
.
モダンとポストモダンの狭間で
私が建築設計の職業を選んだのは自分の将来に確信があった訳では決してない。小・中
学時代から運動よりも絵や工作が好きだったので、何かの時に先生からその職業を示唆さ
れたような覚えがあった。しかし、機械を扱う家業だったせいか、いずれは学校を卒業し
て「親元で働くのかな」と何となく考えていたとみえて、最初の選択は機械工学科を受験
したものだ。ところが今ではロボットや車などの最新テクノロジーを駆使して「価値ある
ものを創る」というわくわくするような喜びも理解出来るのだが、その時は無機質の機械
相手より人間の喜怒哀楽にちかい面白そうな職業と思われたのか、浪人した一年間で誰に
も相談することもなくころりとその志望学科を建築にかえてしまったのである。その後道
楽に近いこの仕事を毎日退屈せず続けている訳だが、いまだもってそのころのいい加減さ
は続いていて、モダンとポストモダンといったパラダイムの狭間で、あっち岸にぶつかり
こっち岸を目指したりと、絶え間なく迷い漂っている。
*
さて、古代から近代にいたる建築の変化を解き明かしたS・ギーディオン著の「時間・
空間・建築」という有名な建築入門書から始まって、モダン・ポストモダンにいたる建築
のコンセプトの変遷、さらにそれに基づくさまざまな表現手段が現れ時代時代を風靡した
ことを学んだ。例えば瘤のように表面に凸凹をつける「瘤派」とか、壁の配置や構成で変
化を付ける「壁派」とか、なかには、ある意味では人の金を拝借して設計者の道楽だけを
満足させ、住む人の自由気ままな生活を阻むほど完成度の高い、まるで名人芸の手工芸品
なみの建築とか、その反面夏目漱石のいう「露悪趣味」的表現の「壊れたような、或いは
未完成の出来の悪い形態や色彩」などで自己表現した建物で「これから後は住む人が完成
してください」と云わんばかりのものなど実に多彩である。不思議なことだが、日本画的
で繊細な芸術品風は関東に、油絵的情念とエネルギーを感じさせる建物は関西に多いよう
に私には思われるのだが、その表現手法はその地域で育まれた文化の違いであろうか。
*
そもそもモダニズムとは産業革命による高品質の大量生産を限りなく目指すもので、そ
の際、H・グリーノウの「美は機能の約束である」とか、L・H・サリヴァンの「形態は
機能に従う」という言葉が、この思想のが基となり近代建築運動において支配的な思潮と
なったのだが、機械文明を信奉するあまりA・ロースのいう無装飾主義に陥てしまった。
そしてポストモダンはその反省のもとに、ルイス・マンフォードのいうモダニズムの
巨大技術の反人間的性格、環境破壊や生活の質の悪化の問題を含む機能重視の大量生産の
産物である無機質的・没個性的な表現に反対し、もっと人間的なものをとりもどそうとし
て、機能とはあまり関係がない装飾や空間をとりもどすことで、大量生産による均質化と
は相反する差異化をめざしたものである。
しかし美や機能にすぐれている建物ものがどんなものかはモダンであれポストモダンで
あれ手法の問題だけではそう単純に割り切って語れない。そしてまた昨今のポストモダニ
ズム建築の過剰な装飾や意味のない空間が疑問視され始めると、徐々にではあるが再び機
能主義時代のシンプルで幾何学的な作品が再考される動きが出始めているのである。
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*
私は長い間、建築や都市の構成や美といった問題にかかわってきたのだが、近年身の回
りを見渡して見るにつけ住まいや都市景観、そしてその中での住み方にたいする個人個人
の意識のレベルが西洋との間になお格差があることを痛感する。
衣・食・住が豊かに暮らすための生活の基本であるのは間違いない。 しかし今の日本
では衣・食においては世界の中でも中流以上と考えてもよいと思うが、住にいたっては、
広さや質や美意識において非常に劣っていると考える。
だからそれらの問題への関心と美意識の向上が望まれるのだが、 残念ながら今の私は
「百年河清を待つ」心境である。
*
住まいについて
辞書によれば住まいの定義は人が住んだり、仕事をしたり、また、動物や物をおさめた
りするために、木材、金属、石材などでつくったもの、建造物、建築物とあり、英語では
a(family) house, a residence, a homeとある。
日本の建築基準法による建築物の定義では、壁または柱、及び屋根で構成された構造物
とあるり、仕事をしたり動物や物をおさめたり工場や事務所や倉庫などのあらゆる構造物
を含んでいるので、住居という用語はあるが住まいという特別の定義はない。それ故住ま
いとは「人が生活する建物」とするのが妥当であろうから、寺院やアリーナや国会議事堂
は建物でもあっても住まいとは言わないのである。
むしろ英語の定義の方がより象徴的にその機能を率直に表しているようである。人が外
での生産的な仕事を終えた後、住まいに帰り、団欒し、身体を休め、次の日の労働に備え
るためのエネルギーを蓄える場所と私は解釈する。すなわち外は生産の場所、家は消費の
場所となる。
そう思うと、物品販売やサービス業などの土地の立地条件で売り上げが決まるのであれ
ば、生産にかかわる土地の値段は高価でもよいが、消費の場である住まいのための土地が
一坪数百万円もするという現状、そして多くの人たちが競ってそれに大金を投じるという
世相が信じられないことである。
*
建築の芸術性について
そもそも芸術とはなにか?
辞書には「鑑賞の対象となるものを人為的に創造する技術」とあるが、いつもながらこ
の手の注釈は抽象的すぎてなにをさすやら判然としない。もっとも飯の種にもならない心
の奥深くの衝動にかかわるものだから哲学的な領分の難しい定義が必要なのであろう。
とにかく隔靴掻痒(かっかそうよう)の感があるが、早い話が絵や文学や演劇のことを指
すのである。
そして、いろいろの分類方法があるが、あらゆる芸術をあるファクターで分類すると次
の3の種類に分けられる。
1.【時間芸術】
その形式や作品が、純粋に時間的に運動・推移し、人間の感覚にうったえる芸術の総
称。すなわち、音楽、文芸など。
2.【空間芸術】
芸術の分野のうち、平面的あるいは立体的な空間の広がりによって秩序づけられて、
人間の感覚に訴えるもの。二次元的なものに絵画、平面装飾、三次元的なものに建築、
彫刻が含まれる。
3.【総合芸術】
建築・音楽・文学・絵画・彫刻などの分野を異にした諸芸術の要素が、協調・調和し
た形式で表出される芸術。
なるほど建築は芸術の栄誉を与えられているが、はたして現在の我々の「ウサギ小屋」
には芸術性がみとめられるのかどうか疑わしく、むしろキッチュで猥雑で芸術という言葉
をあてはめて揶揄するのが落ちであろう。もっとも小説や絵や演劇がすべて芸術性が高い
ものばかりとはかぎらず、近年は酷い作品で大衆の興味次第では世を風靡するものが多く
なった。名もない、金もかけない、小さなものでも考え方や住まい方実に心豊かになる住
まいもあるというのに。
*
戦前と戦後の違い
すべて昔がよかったと老人じみた懐古趣味に凝り固まっているわけではないが、谷崎潤
一郎の「陰翳礼賛」にあるように、住まいにおいては奥ゆかしさや快適さや健康的な環境
は、やはり昔のほうがまさっているとわたしは考える。これは日本の風土のなかで永い年
月を経て作り出された住まいの形であるからであろう。
戦後といっても終戦直後の十年くらいはまだ戦前の窮乏を引きずっていて以前とたいし
た違いはないのだが、昭和三十年を過ぎたころから高度成長期に入り住まいを構成する材
料や工法そして住まいにたいする考え方も一変した。いわゆるモダニズム全盛期である。
それより以前の住まいは木、竹、葦、土、藁、紙、瓦などの天然素材が主で自然のサイ
クルに組み込まれていて最期は無害な土にかえって行き、次の世代の植物の栄養となって
再びよみがえるのである。
それに反し、現代の住まいは、コンクリートと鉄と塩化ビニールやプラスチックなどの
化学製品が主で、不要になって捨てられても分解されて自然に戻るということはない。
化学製品は鮮やかで美しいものと感じられるが、創られた最初が最高の輝きを表し、時
を経るにしたがって衰えて行くのは、天然素材の使い馴染むほど味が出てくるのと対象的
である。それ以上に問題なのは、シックハウス症候群などの原因になるトルエン、キシレ
ン、ベンゼン、ホルムアルデヒドなどが含まれる防腐剤、塗料溶剤、接着剤、木材保存剤、
防蟻剤などが多く使われていることである。
しかし、自然の素材で出来た住まいがすべて優れているとばかりはいえない。耐久性に
欠けていていたり、怠ることなく常に手を入れて管理しなければならないものが多く、火
事に弱いことなどがあり、それぞれの工法、材料には一長一短があるのだが、人に優しい
そのような天然素材で創ることが現在は残念ながら庶民の手の届かない高価な、金持ちの
道楽でしか建てられなくなった感がある。
しかし最近は、高度成長期のモダニズム的大量生産、大量消費の時代は曲がり角に来て
いて、今までのように欲望をかき立てて新しい物を追いかけるのではなく、以前のように
もっと身近な物をじっくり大切に慈しむ時代にもどりつつあるような気がする。
*
景観について
現代でも犬の糞の臭いを除けばヨーロッパの町並の美しさに感嘆するのは私ばかりでは
ないと思う。
例えばパリなどの大都市やローテンブルク・ハイデルベルクなどといった都市国家のな
ごりの小さな街にいたるまで、特別緑が多いといえるものではないが、なんとなく整然と
していて心地よく、現代の日本の町並みよりすっきりしているように感じられるのはなに
ゆえか?緑や公園や広い道路がなくても、たとえ古くなって色がくすぶっていても美しく
感じるのはなぜか?
緑や公園の数にいたっては日本もそれらの都市に決して劣っているわけではない。むし
ろ塀で囲われた坪庭などの緑を勘定にいれるとすればむしろ日本のほうが多いのではない
かと思われる。しかしそれにもかかわらず現代の日本の都市や街はまったく美しく感ぜら
れないのは私だけだろうか。
じつは日本の町々も戦前まではしっとりとした情緒を感じさせる町並みを保っていたの
である。また今でも京都や金沢などを代表する、昔ながらの伝統を守っている都市におい
てはその景観をかろうじて残しているところもあるが、日本のほとんどの町がそのよさを
すでに失いつつあるのが惜しいことである。
都市の美しい景観を構成するおおよそ次の要素が考えられる。
1.色彩:壁や屋根を構成する材料の質感と色彩
2.形態:建物や道路やランドスケープの構成する形及び空間
3.文化:そこを利用する人たちの住まい方
1. 色彩について
歴史のある町の建物を構成する建材は石やれんがや土カベ、瓦、スレートなどであるが、
その都市その地方によって特徴のあるものが使われている。そしてそれぞれの街々の建物
はほとんどそれらの同じ材料で出来上がっている。たとえばシエナやブレシヤやその他の
イタリアの都市のようにサンド色の石の壁と赤い瓦で葺かれた屋根が町の景観を構成する
色となっている。また一方フランスの都市コルマールやドイツのクヴュトリンブルグは木
造の梁と柱と漆喰壁で構成されていて、それぞれの街の個性あるイメージつくっている。
またそれらの建材は、現代の必要以上に精緻に規格化された建材のもつ冷たさや、表面
的で表情のなさに反し、焼き過ぎレンガや石や瓦の色の違いによるグラデーションによる
変化や、規格の不統一による型の面白さに深みと趣を感じるのである。
かたや、現代の日本の色とテクスチャーの氾濫による猥雑さはどうであろうか。屋根や
壁の色や材料は好き勝手に、袖看板、広告塔はあくまでもけばけばしく、自由の国である
から何を表現してもよいとばかりに我がもの顔にのさばり、あらゆる欲望を肥大化させる
都市としてのエネルギーはあるけれど、成熟した大人の文化を享受するにはまだ未熟であ
る。
最近、石原慎太郎都知事の音頭で「都市景観」について考えることを提案された。これ
はほど良くセーブされた色彩によって彩られた都市の洗練された景観を求めたもので、歴
史ある世界のすばらしい景観をもつ都市の美しさを念頭に置いたものであるとみる。
なお、我が国においても江戸時代の街並みは銀色の屋根と白い漆喰や板壁などのモノト
ーンの色で成り立ち、緑の大木に囲まれていて、生ゴミや紙くずや木片や糞尿にいたるま
で、ものの見事にリサイクルのシステムを完成した、塵ひとつない清潔で美しい街であっ
たことを忘れてはならない。
2. 形態について
建物の形を決めるものには構造的な要因とその建物の所在する自然の要因が大きく作用
するものである。
石造りの家は構造的に横に広い開口部は不利であるから、いきおい巾を狭くした窓で構
成されていて外部からみると壁面のしめる面積が広く重厚な外観となる。しかし防寒にす
ぐれているが、外部の明かりを奥深く取り入れるには十分とはいえない。
木造の家は梁と柱からなり、構造体から壁面は解放されていてどこにでも窓や出入り口
を設けることが出来る。日本の木造建築のように四方を開口とすることも可能で、瀟洒で
優雅な外観となる。しかしその一方冬の寒さや火事にたいして弱点をもっている。
雪の多い地方は傾斜のきつい屋根となり、そうでない地方では緩やかな屋根となる。
このように一地方の自然とそこで産する建材がほとんどの建物の形態を決めてきた。
和辻哲郎の著書「風土」の論のように、文明はそれを取り巻く自然に左右されて決まる
と論じられてきたが、現代では自然の厳しさも技術的な面で克服出来るようになった。
人も住めないアリゾナの不毛の土地に、水や電気を作り出し冷暖房から昼夜を問わず真
昼のごとき照明で一大歓楽街を築いたラスベガスはその顕著な例である。これは世界中に
それぞれ独自の文明をもつ国々をポリティカル・パワーで圧倒するアメリカの傲慢な行為
と同じに見える。しかしそのようなに力ずくで自然を屈服させても、一度事故やエネルギ
ーの枯渇に至るとすれば、自然の驚異に晒されて人間の住めない都市に変貌する危険を常
に孕んでいる。
このように立地する場所の自然に影響されることなく建築の工法や設備が可能になった
おかげで、都市の景観があらゆる工法、あらゆるテクスチャー、あらゆる色彩の氾濫を招
き、まるでパンドラの箱をひっくり返したみたいな様相を呈する結果となった。特に我が
国の大都市の周辺はそれが顕著であり、落ち着いたまとまりのある景観がなくなってしま
い、馬籠宿や奈良井宿や白川郷といった地方地方の特色をもった町並の存はもはや風前の
灯火である。
3.住まい方について
都市の景観の美しいさまは今まで述べてきたように、統一された色と形状が重要な要素
だが、それだけでは十分ではない。ヨーロッパ及び日本のある一部の美しい街に共通する
ものは、実に単純なことである。それは公共の空間に私物を置かない、平気でそういうと
ころ物を捨てないことである。
醜悪で猥雑な街を観察して見れば、紙屑、ゴミ袋、食堂や飲み屋の置き看板、放置自転
車、トロ箱の植栽などが我がもの顔に置かれていて、美観を損なうとともに通行の妨げに
なること甚だしい。それは災害時の消防車や救急車の運行の妨げになり人命にかかわるこ
とにつながらないともかぎらない。
ヨーロッパの都市国家の狭い城壁の中ではたくさんの市民が居住しなければならず、高
層の住居と狭い道で成り立っていた。それゆ道路や広場を私物でふさぐことは犯罪行為に
等しかったに違いない。 または公共の空間にある私物はもはや私物でなく落とし物とみ
なされ、発見者の物として持ち去らされる運命であったかもしれない。
いまでは考えられないが江戸の町並みはゴミ一つなく実に清潔で整然としていた。だか
ら日本人がそうゆう美意識がはじめから持ち合わせ無かったということではなく、大量生
産・大量消費による効率や経済に重きをおくモダニズムの考え方が主流になってから失わ
れたものと考えられる。とにかくこの私物を公共の空間に放置しない住まい方を会得しな
ければ、百年たっても美しい町並みは戻ってこない。
「公共の空間の私物放置厳禁」とか「捨てた物とみなし拾ったひとのものとする・たと
え車や高価な品物でも」とかの法律を作れば解決するやもしれない。
リフォームについて
最近のテレビで盛んに住宅のリフォームをとりあげている。エステの使用前・使用後の
手法を模し、みすぼらしい・狭い・使い勝手の悪い・収納場所が無い家が改造によって、
いかにすばらしい居住空間に生まれ変わったかを得意げにうたいあげるである。
しかしこれも、冷静に見るといくつかの問題点があるようである。それは狙い通りの目
論見が果たして成功したのか、その物が本当の価値の評価に耐えられるか、報道で提示さ
れたすべてが真実を伝えているか、クライアントがその後はたして快適に暮らしていて何
の問題も感じていないのかという疑問が残り、どうしても一方的な高い評価がマスコミの
視聴率獲得競争のやらせぎりぎりの報道と見えてくる。
たとえば、工事費が果たして報告されているその金額で本当に出来るのか?実は設備工
事は別途であるとか、照明器具は計算外とか、植栽や特殊基礎や諸々の諸経費を勘定に入
れないで安さを強調していないか。
たとえば、使い勝手が非常によくなったとか見栄えが格段にシャレタ雰囲気を作り出し
ているなどと自画自賛しているが、はたしてその出来映えが真実であるか?調度品や庭園
やでゴージャスサを演出したり、本当にクライアントの生活に馴染んでいるのか。小賢し
い・見てくれだけの・小手先だけと思われる仕掛けや造作は、ただ設計者の自己満足にす
ぎないような気がする。
たとえば、改造するに用いたコンセプトがはたして快適な住空間に必要な要素か?光が
さんさんと降り注ぐ部屋がはたして常に理想的なものか。真夏の紫外線や光と翳の強烈な
コントラストによる健康上・精神上の悪影響は考えられないか。大きな吹き抜けの空間を
多用しているのを見かけるが、はたして冬場の暖房に充分答えられるのか?などの疑問が
わいたのだが、裏に隠された計算違いや失敗こそが実は私たち知りたい有益な情報なので
はあるのだが。
収納について
家財が多すぎて、或いは収納場所が少なくて部屋が片づかないと嘆いている人がたくさ
んいると聞く。だから家を建て替えるときにまず収納する部屋や天井裏や床下といった空
間をすべてそのために確保しようと特別に必死で努力する人がいる。本来は高価な土地や
家の空間であるのだから住人の快適さが先にあるべきことなのに、人間の空間を物に奪わ
れている現状である。ところが、いかに自分は工夫を凝らしそれを解決したかを誇るとい
った本末転倒の思いこみをしている人がいる。
では、家の中がすっきりと片づくということはどういうことかをまず考えてみると。
1. すぐに必要とされない物が部屋の中に見当たらないこと。
2. 足下周りに物が置いてなく動くに支障を来さないこと。
3. 絵や陶器などの飾りが多すぎないこと。
4. 家具などの高さや色や質感が程よくまとまり統一感があること。
しかし、収納場所の問題は住居の条件により自ずと制約があり、それ以上増やすことが
出来ない場合が多い。そうであれば、それを解決する次の一手は溜まりにたまった物を減
らす算段をするしかない。その家を埋め尽くし、人の住空間を圧迫する物とはなにか。
1.戦前の貧しい時代では考えられなかったのだが、高度成長を経て物の使い捨て時代が
到来してから不急不要の物まで手当たり次第購入するようになった。
2.不要になった物を抱え込み新しい物を購入しても使わない物をいつかは必要になるだ
ろうと考え処分出来ないこと。
そこで不要不急の物はなるべく買わないこと。収納している物で半年も目にしないもの
は再び使用することはまれだから思い切って処分すること。要するに考え方を一変し「シ
ンプルライフ」を目指すことである。
この年になるとあまりたくさんの食べ物も必要としないし、数多くの種類の身を飾る衣
装や宝石などその他、欲望を肥大化させるものからきっぱりオサラバし「量より質の時代」
なのだと考え直してはいかが……。
*
巨大建築について
最近の六本木ヒルズ・汐留・新宿・品川の高層ビルのごとき「ヒューマン」スケールを
遙かに超えた巨大建築群が人々にもたらす物ははたして良いことばかりか?実は高層の居
住空間が人間に与える負の部分がまだ研究され尽くされてはいないのである。例えば災害
時電気、エレベーターが止まり、水道が供給されない高層階の非難問題、生活の問題、老
人・子供がはたして階段を水や食料を階段を登り高層階まで毎日行き来出来るかどうか想
像してみて欲しい。また高層で生活する子供や老人のコミュニケーションの減退など精神
的な影響も無視出来ない。さらに、9.11の日系の建築家ミノル・ヤマサキの設計したア
メリカ国際貿易センタービルがあのような崩壊の仕方を誰が想像しただろうか。設計者自
身でさえそのような倒壊を想定しなかったであろう。そのようにまだ解析されていない構
造上のファクターがあるにも拘わらず、想定出来ない危険にかんしては安全率という係数
を加味して強度を増して処理しているに過ぎないのが現状である。
そのように我々の行動のスケールを超えた巨大建築・構造物はバベルの塔の故事のごと
く「人間の驕り」の産物と私には思えて、いつの日か人為的・自然的に猛烈な反逆に会い
そうな気がする。
*
と、まあ売れない建築士のたわごとを書き並べてみるに「田作(ごまめ)の歯ぎしり」
「引かれ者の小唄」の誹りを免れず、とても「モダンとポストモダンの狭間で」という大
層な命題は私には大きすぎ、ただただ夜空に煌めく偉大な星を仰ぎ見るような思いであり
ました。
そして最後に、モダンであれポストモダンであれ、手法は違えど、これからの世の中は
すべてにおいて「ヒューマン」に根ざしたパラダイムが基本になることと私は考えている。
9号 2004年
13
:
α編集部
:2014/02/28(金) 05:32:24
AとBの狭間で
.
AとBの狭間で
私はこの歳になるまで数々の迷い道に入り込み、戸惑い、やむなく決断し、今に繋がる
判断をして来た。それが果たして正しかったかどうかは判らない。その道と別の道を同時
に体験出来るわけでもないので他の道の方がより正しかったかどうかも判らない。元来私
は先のことを緻密に計画を立て、着実に目的に向かって努力するという生き方でなく、む
しろ自分の好みに合った方を直感的に選んで来たようでもある。そしてある部分において
は別の道の方がいい結果になったことを認めるざるをえないこともあった。
そのような時々の分岐点に立ちつくしAとBの狭間で揺れ動き想い迷う姿をパイロット
版から第6号までシリーズとして書いてきた。それはすべて私の彷徨う人生の分かれ道の
座標点そのものであった。
????パイロット版(創刊0号)―「趣味と道楽の狭間で」
創刊号――――――――――「晴(は)れと褻(け)の狭間で」
第2号――――――――――「夢(ゆめ)と現(うつつ)の狭間で」
第3号――――――――――「光(ひかり)と翳(かげ)の狭間で」
第4号――――――――――「本音(ほんね)と建前(たてまえ)の狭間で」
第5号――――――――――「都市と田舎の狭間で」
第6号――――――――――「続【都市と田舎の狭間で】」
*
思うに、AとBの道の分かれ道に立ちつくし、行く先のことを思いめぐらし、Aを進む
とどのような展開をするのか、あるいはBの方向が正しいかも知れないと疑い迷うのには
一定の条件がある。その分岐点に立った時、歴然とAよりBの方が価値があり、その置か
れた状況に合目的であると判断できる時は選ぶ方向を迷うことはない。難しいのはむしろ
その想定が等価の場合悩みも多く、決断も鈍く逡巡するのである。それが優劣付けがたく、
どちらも捨て去るには忍びないと思えるときほどAかBかを迷うのだ。捨てた方がどうも
正しかったり、魅力があったり、将来性が豊かなように感じられて後日臍を噛むのである。
そこには義理、人情、正義、虚栄、妬み、猜疑といった複雑な人間関係も絡んで来る。ど
うかしてでも両方を得られないかと算段するのだが、現実はAかBを選ぶか両方とも諦め
るかの三者択一の道しかないことが多いのである。
?? *
小さい田舎町、蒸気機関車の力強い息吹の身近に聞こえる国鉄の駅前に住んでいた頃、
私の家の隣に専売公社の営業所とその官舎があった。たいした企業もなく農業と零細の商
業で成り立つ町で暮らす私のような土着の者からすると、何年か一度、知らない街から転
勤してくるその公社の家族はまぶしいくらい洗練されていて、朝から夕方まで近所の製材
所の原木の間や、小川の中で泥まみれになって魚取りに惚ける私達とは違って、想像もつ
かない高度な文明の異邦からやって来た家族見えた。時には下半身麻痺で両足を前に突き
だし両手で器用に膝行する同い年の不幸な子供などもいたが、そのような人達ともすぐ仲
良くなりよく家庭のもとに遊びに行っていた。
ある時そのような転勤の家族が移り変わる中で、美しい姉妹の一家が住み着いた。もし
恋人として選ぶとすればA子とB子のどちらをはたして自分は選ぶべきであろうかと自問
したのはその頃である。A子は小柄で小太りの丸顔で利発そうな大きな目を輝かせ積極的
に行動的する溌剌とした魅力的な子であった。そしてB子はすらりとした容姿で、いかに
も貴族的で気位の高そうな静かな娘であった。A子がアン・シャーリーのような娘とすれ
ばB子はアリサのようであったと形容しようか、私はこれほど見事に違った魅力を持ち合
わせた姉妹を以前にもその後も邂逅したことがない。未だ目も眩むような恋に陥る前の少
年期で、少なくともどちらかに偏る程成熟した歳でなかったからかもしれない。もう少し
成長して、隣の家族ともずっと長くつき合っていたらAかBの娘の間で苦悩するという罠
に填っていたにちがいない。そしてまもなく繋がりをもつ手段も考える知恵もないまま、
その美しい姉妹は別の街に去って行き、私にとっては遙かな昔の記憶の残照のみとなって
しまった。
*
若い頃自らの意志で下したAかBかの決断が思わぬ苦悩をもたらすこともある。その中
には若さゆえの義理や侠気といった思いこみによる自己犠牲、又一方での情熱による利己
的選択もあろう。
夏目漱石の「こころ」に出てくる先生や「それから」の大介のように、ある若い時点で
選んだ道のために後の人生に大いなる悩みを残したように、私にとってもあらゆる転機で
選んだ道もまた同じようなもので悔恨の情を含んでいないとは言い切れない。しかしたと
え先生が若い頃奥さんを諦めるというもう一つの道を、大介が初めから友人を裏切って美
千代と一緒になることを選んだととしても、やはりどこかに疚しさや後悔の念が潜んでい
て別の悩みを持ち続けたであろうと私は思う。「三四郎」「それから」「門」は三部作とい
われているが、それぞれの主人公のもつ悩みは同じ線の延長上にあり、「門」の宗助は大
介と美千代が一緒になり、なおも悩み葛藤するその後の姿を描いているといわれている。
「こころ」の先生と「それから」の大介は立場が逆になっていることを見ても、AもBも
どちらもこれが正しかった道だとは誰も結論付けることは出来ないのではないか。どちら
を選んでも何かに悩み苦しむということは、まじめに生きる人の逃れられない性かもしれ
ない。
*
私の軌跡は中心を外れて脇道に迷う込んだり一転して戻ってきたりするサインカーブや
螺旋階段のように振れながらも確実に前に進むように、大きな視点からみればそれはそれ
なりに一本の道の回りを逸脱することなく進む、己の嗜好や意志を示しているのではない
か。別の道を歩くということは決して私が歩けない次元のちがったもので、結局行き着く
ところは己のイメージした到達点にほかならないのではと思う。それが人から見て世間的
な人の評価に耐えうるものかどうかはわからないとしても。
そして私はハムレットのように逡巡し悩み惑い、優柔不断で恋人のオフィリアを不幸に
するよりも、麻を絶つごとく一刀両断に物事を判断し決断できる人が羨ましい。果敢に行
動して決して結果を恐れず、振り返らない、自信に満ちた人はそのようなことが私に出来
ないだけに羨ましいと思う。
しかしまたその反面、私自身がそのように脇目も振らず、小さな価値は切り捨てて雄々
しく決断し討ち進むとすれば、小さい価値でも積もりつもって出来上がった何かを取り返
しのつかない大切な物を失ってしったと感じ、淋しい想いに駆られるにちがいない。
*
この宇宙は相対性原理と量子力学との間の矛盾も最近「超ひも論」という新しい有力な
理論により統一されるようとしている。宇宙的規模のマクロの世界では一般相対性理論や
特殊相対性理論で解決したかにみえたこの世界も、クオークや電子やニュートリノという
ミクロの世界ではその理論だけでは解けないことが判った。量子の世界では電子やクオー
クの動きを理論上で的確にとらえることができず、その推論は確率でしか表せないという
ことで、不確定性原理といわれている。この予測のできない働きをもたらす「揺らぎ」が
ビッグバンの直後この宇宙を形成したといわれている。
また「1/fの揺らぎ理論」というものがある。音楽においても名曲とそうでない曲は
この1/fの揺らぎがあるかないかによると説く学者もいるのである。次の音が100%
予測出来てもいけない、全く予測出来なくてもいけない、程良い意外性の音が聞き手に満
足を与えるという。モーツアルトやブラームやベートウ゛ェンの名曲はこの1/fの揺ら
ぎを持っているということである。
*
そして、そのような精緻にたけた科学の世界でさえ右に行くか左にするか確率論の中で
しか判らないのであるから、ましてやもっとも不可解な生き物である人間の理性や感情が
絶対に正しい判断をすること望むことは不可能であるという他はない。私のAとBの狭間
での揺らぎは当然の帰結であり、これからもハムレットの「to be or not
to be」の心境で狭間で立ちつくす己の姿を随分見るであろう。
7号 2002年
14
:
α編集部
:2014/02/28(金) 20:01:10
光と影の狭間で
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光と翳の狭間で
最近、谷崎潤一郎著の「陰翳礼賛」についてよく耳にしたり、記事に接するようになっ
た。これはどういう現象であろうか。かつて私何が建築学科学生だった頃、専門書以外の
分野の中からその記述を見つけて、思わず日本建築の持つ特性を的確に言い表していると
感心したものである。
昭和八年に書かれた著書の中に、純日本風の家屋とガスストーブや電灯や扇風機などの
科学文明の恩沢とがしっくりと調和することがない。
また、建具等趣味から云えばガラスを嵌(は)めたくないけれど、そうかと云って、徹
底的に紙ばかりを使うとすれば、採光や戸締まりの点で差し支えが起きる。よんどころな
く内側を紙貼りにして、外側をガラス張りにする。そうするためには表と裏と桟(さん)
を二重にする必要がある。さてそんなにまでしてみても、外から見ればただのガラス戸で
あり、内から見れば紙のうしろにガラスがあるので、やはり本当の紙障子のようなふっく
らとした柔らかみがなく、イヤ味なものになりがちである…。と既に六十年も前に、古来
の住まいと日進月歩する新しい建材や調度品と調和をさせることの難しさを嘆いているの
である。
また、西洋と違って、我々の国の建築は庇(ひさし)が作り出す深い広い蔭の中へ全体
の構造を取り込んでしまっている。宮殿でも庶民の住宅でも、外から見て最も目立つもの
は、その庇の下にただよう濃い闇である。日本家屋の屋根の庇が長いのは気候風土や、建
築材料や、その他いろいろの関係があるのであろう…。と云っている。
現代ではずいぶん数少なくなった数寄屋作りの家も、戦前の頃までは庇の深い和風の家
が多く、障子越しの柔らかい光を室内に採り入れた住まいであった。
その外と内を結ぶ、外でもない内でもないあいまいな翳の空間が、戦後アメリカの文化
の影響と新しい建材や工法の出現で、なくなりつつあるのが残念である。
和室が洋間にとって変わられて障子がガラスの窓になり、あくまでも明るく、あくまで
も快適にと目指すことで、外と内の中間の薄暗い空間が作り出す柔らかい光と翳の微妙な
趣をなくしてしまった。
また、伝統的な家屋は古来その土地の材料を使い、その土地の気候に合った工法を編み
出し、時代を経ながら作りあげられたものであった。ところが、文明の発達で自然の過酷
な条件さえも技術の力で克復出来るようにになり、ラスベガスのように人も住めない砂漠
の中に電気や水を施し灼熱の乾燥した自然を、冷暖房による快適な空間と交通による便利
さを整えたことにより、近代的な享楽の都市を造ってしまった。
近代建築はまた限りなく明るさと機能と効率を追求し、高層のビルは軽量化による材料
の省力化、工期短縮を求め、あくまでも透明で明るく軽快に、科学の最先端を表現するた
めガラスや鉄やアルミの素材をふんだんに使用した。
その反面あまりの科学信奉による危うさが心配されるのである。オフィスビルばかりで
なく豪華な住宅においてもその傾向があらわれ、ある富豪の住居においては、大きな居間
の南面を開閉できないガラスのはめ殺し窓とし、明るさを最大限に採り入れる設計であっ
た。しかし、真夏の昼下がり、凍てつく冬の夜、電気や機械の故障で冷暖房がストップし
た場合はまさに焦熱地獄や極寒の地と化し、余所へ逃げ出さねばならぬであろう。
そのような思想のもとに自然を征服し屈服させて成り立っている物のいくつかは、エネ
ルギー資源の枯渇やランニングコストの高騰で稼働できず、無用の長物に陥る運命が待っ
ているかも知れず、再びその風土にあった工法と材料による住まいが息を吹き返すかもし
れない。
光と翳における微妙な関係の中で、女性が美しく、奥ゆかしく、いわくありげで魅力的
に見える場の条件として、「夜目、遠目、傘の内」と昔から俗にいわれている。「夜目」
とは夜の幽かな光をとおしてみえる姿で、周りの闇のなかに浮かぶ女性の見えない部分を、
観察者の頭の中の美人の理想像で補って見るからであろうし、またそうであれかしと無意
識のうちに望んでいるからであろう。「遠目」や「傘の内」もまた然り、ぼんやりとした
姿、隠れた部分を想像させる間(ま)、全体の見えないもどかしさなどの相乗効果の結果
であろう。
物事があまりにも見え過ぎてもいけないし、見えな過ぎてもいけない。即ち些細な欠点
や必要ないものまで見えることは、その本質にとって大した失点でなくても価値を損ない
興を殺ぐということではあるまいか。
老人になったら耳が遠くなったり、目が近くなったりすることは自然の理で、そのこと
は大きな観点からすれば、余計な物を見たり聞いたりすることを意識的或いは無意識に避
けることで、世間の煩わしさから逃れる術を会得しているのではなかろうか。またそれは、
心の平安を保つ極意なのかもしれない。
「陰翳礼賛」の著者は翳の文化は日本独特のものであると云っているようだが、必ずし
も日本人だけがその微妙な感覚をもっているとはいえないのではないだろうか。
ノートルダム寺院の中は、はるか上部の小さな薔薇窓による幽かな光だけで、ほとんど
顔も見えないほど暗いのである。これは東大寺の大仏殿やその他の大伽藍と同じく、救い
を求める人々の精神的な環境と空間を創り出していて、洋の東西に関係なく、形や表現は
違えど「光と翳」の文化は存在すると思われる。
アメリカ文化の代表的なものとして、ファースト・フードやコンビニエンス・ストアの派
手な看板と無機質で明るい店舗を思いうかべるが、必ずしもそれだけでもないと云える。
郊外の住宅地では、家の中心を占める六畳ほどと思える広い玄関ポーチで、ほとんど物
も見えないくらいの夕闇が迫っている中で、電灯も点けずじっと椅子に腰掛けて時を過ご
す老人をよく見かけたものである。
また高級レストランにおいても、テーブルの蝋燭だけの微光のなかで、手探りで食事を
する、それこそ「夜目」、「遠目」、「傘の内」の効果を充分に心得た演出を楽しむ人た
ちがいることは確かである。
またTVのニュースのスタジオに目を移すと、照明過度の、バックもガラクタと思える
ほど小間物や花をいっぱいのうすっぺらなセットの中で、これまた陰影なしのキャスター
の姿を曝す日本のTVと、それに対する、バックを単純で暗く押さえた控えめなセットと
落ち着いた光と翳のバランスのよいアメリカのニュースショーとの対比は興味深いもので
ある。
天井燈のみで部屋に陰翳をつくらない日本の住まいと、点灯するのにいちいちそこまで
いかねばならないという不便さはあるが、フロアースタンドやテーブルランプで光と翳の
バランスを考えた西洋の部屋もまた然りである。これらの事実を比べてみると、現代では
日本の住まいがもっていた陰翳がむしろ西洋の生活の中にあり、我々の国ではもはや疎か
にされているのではなかろうかという思いに至るのである。
光と翳は一体のもので、光のあるところ影が在り、物の距離や大きさや深さや形状を認
識するにも光の部分と影の部分がなければそれも不可能である。この世は光だけでも、ま
た闇ばかりでも成り立たない。
「物の一番明るい隣が最も暗い場所である」と昔美術のデッサンの時間に教わった記憶
があるが、人の心もまたそのようなものであろう。幸せを感じているかと思えば次の瞬間、
不安に怯えている。光と翳であやなす心の襞をうきだたせ、見えない襞の奥に人生の苦し
みや悲しみ喜びの記憶が潜んでいる。全てが見えなくていい、人には見えぬぼんやりとし
た翳りの部分があったほうがいい。
情報の洪水に溺れそうな今、私は光と翳の狭間で「陰翳礼賛」の心が再び戻ってくる日
を予感する。
3号 1998年
15
:
α編集部
:2014/03/01(土) 09:10:12
高柳増男君の死を悼む
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高柳増男君の死を悼む
一昨年「喉の癌」を患って以来入退院を繰り返していた高柳君が今年五月初旬に亡くな
った。私も週に数回ほど見舞いに行ったが、彼は声が出なくなってからは私達が冗談やら、
茶化しやらを勝手にぶつけるのを大人しく、フンフンと聞くばかりになっていた。しかし
息を引取る数日前までは意識も目の輝きもいつもと変らず、本当にシリアスな状態なのか
と疑いたい程精神的には安定した状態で、彼は病気を治して仕事に戻ることを本気で考え
ていた。それでも苦痛などを私達に一度も訴えることがなかったけれど、肉体的にはダメ
ージが蓄積していたのだろう、私達にとっては突然といいたいほどの容態の急変があり、
長時間苦しむことも無く、あっという間にあの世に行ってしまった。
思えば彼との出会いは四十五年前、高校一年生から始まった。真冬、彼の家の納屋の二
階の部屋に泊めさせられて寒さに凍えたり、朝には家の前を流れる川で顔を洗ったりした
ことが数度あった。そして時々は私の家に一週間ほど居着き、そこから高校へ通いもして
いた。だから、彼の身体的障害などはすっかり忘れさり、友情などといった美辞麗句に収
まらない付き合いで、時には思わずそのことをからかったりして彼の自尊心を傷つけるこ
とも度々あったと今私は反省している。
彼の両手の指と足の指をなくした経緯を本人から聞いたのはいつだったか思い出せな
い。それはまだ戦時中のこと、縁側に寝せられている赤ん坊の彼の足先で敵機の落とした
焼夷弾が炸裂し彼の足指を吹っ飛ばしていった。そしてまたまた不幸なことに、数年後成
長した彼は家の畑のなかから不発の焼夷弾を見つけ、遊んでいるうちに暴発してこんどは
手の指を粉みじんに打ち砕いたという。
振り返ってみるとアメリカ軍の本土空爆は終戦間際のものだと思っていたが、 すでに
昭和17年4月19日に中京・阪神地区に大規模な焼夷弾による空爆が始まっていた。そ
して終戦間際の昭和二十年になると制空権を奪われた日本全土の地方都市もその例に漏れ
ずいたるところで焼夷弾の雨が降っていた。
佐賀県への空爆は昭和20年4月18日鳥栖が最初で、それから終戦まで10回続いた。
第1回 4月18日 午前10:00〜 鳥栖
第2回 7月16日 白昼
第3回 7月21日
第4回 7月28日 白昼
第5回 8月1日 午後1:00〜
第6回 8月5日 午後11:30〜6日午前1:00 東川副、諸富、川副、久保田
第7回 8月9日
第8回 8月11日 午前中 鳥栖
第9回 8月12日
第10回 8月14日
昭和20年8月5日第6回の最大規模の空爆被害状況は
死者 38名 被災者 2000人 被災住戸 500戸
被災地 東川副 諸富 川副 久保田 等 (佐賀県警察史の資料による)
??また、焼夷弾の構造および着弾におけるその作動状況は次の通りである。
E46収束焼夷弾は、B29より投下され数秒経つと鉄バンドが解かれ、M69焼夷弾が
空中にばらまかれる。すると麻布製のリボン(約1メートル)が飛び出しM69が正確に
落下するよう揺れを防止する。
屋根を突き破ったり着地すると5秒以内にまずTNT爆薬が炸裂、その中のマグネシュ
ームによりナパームに着火する。その燃焼する力で鋼鉄製の筒を吹っ飛ばし30メートル
四方に燃焼したナパームをまき散らす。
上記の資料によるり高柳増男氏が被災した状況を考察すると
1. 高柳氏の被災したと思われるものは昼間の空爆で4月18日鳥栖、8月5日の深夜、
8月11日鳥栖を除いた日のどれかと思われる。
2. 彼の年齢と事件の起きた状況が違うという指摘がなされたが、「おくるみにくるま
った」という友人の記憶による思いこみをしたことによるもので、乳児ではなくじ
つは三歳になる前の高柳氏が縁側で寝せられていたものと推察される。
3. 高柳氏がどうしてナパームの火による被災でなく外傷を受けたかは、ナパームに着
火せず単に鋼鉄製の筒を吹っ飛ばしただけの不発弾だったと考えることもできる。
4. この件に関して(焼夷弾による被災)はT氏およびK氏も聞いたと証言している。
だが、ここで新たな証言をI氏よりもたらされたことが問題となる。被災説を信ずる私
たちには想像すらできなかったもので、それは出生にまつわる物語であったとI氏は言う。
??このことは「被災説」と「出生説」の両方とも彼が自らが告白したということが事実
であるとすれば、どちらかが真実でどちらかが虚偽であるか、或るいは両方とも彼の創作
によるものとも考えられる可能性が生じてくる。いま思い起こすとそのように彼は謎の多
い男であり、真実はなんであるか語らずに逝ってしまい、真相は闇の中である。
しかし、兎も角彼はその障害にたいして心無い言葉や世間の目に臆することなく果敢に
立ち向かい、私達仲間のうちで一番の音痴だった彼が音楽業界で活躍したのは以外であり、
あまりに身近な付き合いだった故、彼の素晴らしい業績に鈍感だったことを葬儀の時に私
は感じたのだった。
棺に納めた彼の思い出の品の中に45年前のハイキング仲間の写真があった。私の家を根
城にして屯(たむろ)していた「梁山泊」の仲間からまた一人旅立ってしまった。その写
真のメンバーのうち既に三人が欠けている。次に逝くのは俺だともう既に手を挙げている
御仁もいて補充も期待できるようだから、そのときまで「願わくばあの世で先に逝った徳
重雅啓君と石田信彦君とメンバー不足ではあるが、三人で君の好きな麻雀でも興じていて
くれ」と祈っている。
8号 2003年7月14日
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